人の生涯

Table of Contents

第一章 人の生涯

第一節 人生の諸問題

一 人生とは何か

1 今日まで迷路のようだった人生の諸問題

 今日までの哲学は、歴史を通じて、人生の諸問題を解決するために苦心してきました。真なる人間の価値、人間はどのようにしたら完成することができ、どのようにしたら人間自体の位置から勝利して、宇宙万象に誇れる勝利の完成格と成りえるかという問題を中心として、数多くの哲人たちが現れては悩みつつ、ありとあらゆる主張をし尽くしてきました。そのようにして、今日に至っては、人間を通じての思想体系に立脚した主義、主張のすべては、すでに実験済みとなり、落第してしまいました。皆脱落してしまったのです。(一四一・一二五)

 なぜ人間はこうして浮世を渡りつつ死を忌み嫌いながら、なぜ生きなければならないのか? 根源はどのようになっているのか? 皆さん、疑問が多いことでしょう。その疑問のすべては、人間の手による哲学書を通しては解決できません。哲学というものは、今日まで神様を探していく道を開発してきました。宗教というものがそうです。宗教とは何か? 神様を知って、神様とともに生きることから始まるのが、宗教生活です。(一八六・一二)

 よく世間では「ああ! 人生とは何だろう、人生とは?」と言う声を聞きます。このように私たち人間は、人生観の確立、国家観の確立、世界観の確立、更には宇宙観の確立、神観の確立が問題となります。これがどうなっているかということです。系統的段階をどこに置くのか、その次元的な系統をどのように連結させるかということが、最も深刻な問題です。(七五・三二四)

 統一教会の信徒は、世間一般の人々とは違います。私たちはみ旨を中心として、死後の世界、すなわち未来に対する確信を持っており、そのことを細胞で直接体感しています。

 今まで、この世界に生まれては去って行った数多くの人間たちや、み旨を抱いて歴史上に現れては去って行った数多くの聖人賢哲は、人間がどこから来て、どこへ行くのかという問題に取り組んで、一生の間全力を尽くして努力しましたが、その解決点を探し出せないまま去っていきました。(三三・七)

2 動機と目的が分からない人生

 人々はよく、人間は生まれては去っていくものだといいます。昔から今に至るまで、どんなに偉大な聖賢君子も、この世に生まれそして去っていきました。こうした歴史の動き、こうした天倫の動きが、今この瞬間の私にも連続されているということを皆さんは考えてみなければなりません。生まれては去って行かなければならない私たち自身です。どういう因縁と関係によるのかは分かりませんが、この地に生まれ、万象あるいは、ある理念的形態の中で、繰り返していくことが事実だということをよく知っています。

 それでは私たち人間は何のために生まれ、何を目的として行くのでしょうか? このことを、数多くの哲人、あるいは数多くの宗教人たちが、心血を注いで解決しようとしましたが、解決できないまま、それに因る悲しみとともに、今日までの人類歴史は動いて来ました。そして今も動き続けているのです。

 こういう緊張の瞬間にある私たちです。行きたくなくとも、行かざるをえない人生行路を歩んでいる私たちである、ということは否定できないでしょう。父母の血統を通して生まれてみると、思いもよらなかった世界で生きているのです。また、生きてみると、年老いて死んでいく運命に置かれるようになります。どんなに偉大な人であっても、花のような青春時代が過ぎてしまうのをどうすることもできないのです。自分が老いてゆく姿を防ごうとしても防ぐことができないという、もの悲しい事実を、私たちは知っています。

 考えれば考えるほどやるせなく、考えれば考えるほどカラカラになり、考えれば考えるほど四方をめちゃくちゃにしたい衝動にかられるのを、皆さんは生涯の路程において、何度も感じたことでしょう。

 私はどうしてこの世に生まれ、私は何のために生きるべきであり、どこへ行くべきか? 皆さんがこの世に誕生したことを、ひとりでに生まれたものと考えてはいけません。誕生はしたものの、どんな動機から生まれ、何のために生まれたのか、私を誕生させた動機と目的を知らない私たちです。この世に生まれて来たものの、自分が生まれようとして生まれたわけではなく、生きてはいるものの、自分が生きようとして生きているわけではなく、死ぬにしても、自分が死のうとして死ぬわけではありません。

 それなのに、そんな自分をして何を誇ろうというのですか? 自分自身が生まれたくて生まれることもできず、自分自身の何かを持って生きることもできず、死の道を避けることもできない自分をして何を誇ろうというのか、それは侘しいだけです。生まれたから、生きていかねばならない運命なのであり、また、生きては死んで行く運命なのです。

 それでは、このように生きて、そして死んで行く目的は何なのでしょう? 皆さんはこの問題をもう一度考えてみなければなりません。動機が私によるものではないのだから、目的も私のみのものではないに違いありません。生きるにおいて幸福な位置を嫌がる者がどこにおり、豪華絢爛たる位置で生きたくない者が、どこにいるでしょうか? しかしながら、思いどおりにできないのが、私自身です。にもかかわらず、自分自身を誇りたく、思いどおりに生きたく、好きなだけ生き続けたいと願う私自身でもあります。

 自分を原因として生まれた自分ではないのに、より大きな何かを求め、もっと豊かに生きることを望み、より大きな目的の価値を要求しようとするのは、自分によるものなのか、そうでなければ、何らかの相対的な目的によるものなのかということを、皆さん自身、はっきり知らなければなりません。手を挙げて、自分によるものだといえる人は、いないことでしょう。父母の血肉を受けて生まれるとき、自分から生まれたくて生まれましたか? 父母が私を生みはしましたが、私という存在は父母が思いどおりにすることのできない生命体であり、思いどおりに、引っ張っていけない生命体であり、思いどおりに殺すこともできなければ、生かすこともできない生命体なのです。

 そのような権限は、だれが持っているのか? その権限の所有者を解き明かすようになれば、自分を中心として喜びにひたることができることでしょう。ところで今日の人間たちは、この基準を越えられずにあえいでいます。このような存在が私たちであることを知らなければなりません。

 それゆえに私たちは、心の内でより大きな何かを追求しているのです。また、一生を通して死亡の権限を押し退け、実際に、より偉大な驚くべき生命の世界と因縁を結びたいと思うのです。更に進んでは、何らかの情的な愛の心情が存在し、人間の情的世界を越えて、永遠不変な情的世界に触れようとします。解明したり証明することはできなくとも、そのような感覚に常に私が引かれているのです。良心が清ければ清い人であるほど、その何かが、この矛盾した世界に逆らうように促しているのを感じることでしょう。(七・一七八)

 私たちは、結局は死へと向かいつつあります。それなのに、目的も無く行くとしたら、それはこの上なく悲惨なことです。皆さん、砂漠地帯を行くときは、いくらまっすぐ行こうとしても大きく曲がってしまいます。ある人はこんなに曲がって…、大きく曲がるということです。なぜそうなるかというと、このように歩きはしても両足の歩幅が同じではありません。それで、小さな差であっても長い間歩いてみれば、すでに曲がっているのです。左足の歩幅が少しでも大きければ、そのように曲がって行くのです。

 皆さん、海や湖でボ・トをこいでごらんなさい。ボ・トをこいでみると、必ず三角形に…。私がここからあそこまで行くというときには、必ず三点を合わせなければなりません。この場からあそこまで行こうとすれば、必ずこれと合わせなければならないのです。ところが、艪をこいでみると、くねくね進みます。

 このように見るとき、「私」という存在が、今生きていて、歩んではいても、これがどこに行くのか安心はできないということです。ですから、出発点と目的点を真っ直ぐに見ながら、この三点を調整して合わせていく操作をして行かなければならないわけです。そうすれば、直線に近い距離で通過することでしょう。これは理論的に妥当なことです。(八九・一六四)

3 失われた自分を取り戻さなければ

 心は自然の道理に符合しています。善の方向に限り無く向かって動こうとします。それは、磁石が南北を示すのと同じです。自然の道理には、方向を失い、善から遠ざかるということはありえません。そういう現象は無いのです。人間の心もまた、何らかの目的に向かって動こうとします。生命に向かって動く心、心情を通じて動く心、真理を分別する心、全体と和合したい心、ある全体的理念に秀でて生きたい心、この心を拠り所として、天が逃避の方向を指示できるということを、はっきり知るべきです。

 皆さんは自分自身を取り戻さなければなりません。今日ここに参加した皆さんは、自分自身がどのような立場にあって、どんな姿をしているのか、心の基準をしっかり定めて分析してみるべきです。心はしきりに催促するのに、どういうわけかカラカラになり、何かしら恐怖に威圧されるのを感じるようになります。それゆえに、私がこんな所にいてはいけないということが、自然な現象としても感じられてきますが、それだけでなく、目に入ってくるすべての物象を通しても作用してくるのです。ですから、皆さんはこうしたことを通しても、自分自身がどんな姿でどんな立場に置かれているかということを知らなければなりません。

 もし、偶然に皆さんの霊眼が開けるようになれば、数千年前に生まれて去っていった数多くの道人たちが、万人を前にして声高に叫んでいるのを見ることでしょう。今日、皆さんの横では、多くの霊人たちが全速力で走っています。そうしながら「おい、一緒に行こう、怨讐が来る」と言って悟らせようとしているのに、皆さんの耳は、そのような声を聞くこともできず、目は見ることもできず、体は感覚することもできないという哀れな姿です。これ以上嘆かわしいことはありません。これは、自分一身だけで嘆くことではありません。こうしたことは、存在の価値を全体的な理念世界と連結させようとする天倫の前にあって、受入れ難い罪となるのです。(七・一八二)

4 神様が存在するのならば、指導方法が現れるべき

 この地上に生きている人のうち、善なる人だといえる人は一人もいません。この世に生まれてみると、善なる種子ではなく悪なる種子だったのです。生まれたみたら、再創造の理念の前に立ちえ、何らかの価値をたたえることのできる存在ではなかったのです。自分の姿が、不肖な姿、不備な姿、不完全な姿、不足な姿であることを否定できないことでしょう。このような人間の姿を、キリスト教では、堕落した姿として規定しています。

 人間の本心は、堕落世界で楽しく暮らそうとは思いません。そうして人間は六千年間この道を避けに避けて来ましたが、未だに完全に避けたという基準を立てられずにいるという事実を知らなければなりません。

 今日私たちが、悪を避け、善を指向しながら、何らかの目的に向かって進んで行くことが、いわゆる人生行路だといえます。今日も、明日も、死んでさえも、悪を除去して善にしがみつこうという目的のもとで、悪の環境を避けて行く路程が人生行路であるということです。

 それゆえ、皆さんの心は恐怖におののいています。心の本郷をめざして動くときは、そうではありませんが、悪に偏った場に立つようになるときには、あたかも何者かが、私を促えているような恐ろしさを感じるのです。これは、私たちが、罪悪史、あるいは死の権限といった暗黒の勢力から本心を避けて行くためであるという事実を、私たちは、はっきり記憶しなければなりません。私たちは逃避の路程にあります。神様がいらっしゃるというからには、この逃避者たちをどのようになさることか? 悪から逃避して行かなければならない世界人類をどのように指導なさることか? 神様が存在するならば、その指導方法が現れるべきです。(七・一八〇)

二 人間は原因的存在ではない

 この地上に生きる人々はだれしも、福を受けることを願っています。何か分からないけれど、ある絶対的な力に寄与して、祝福された道を行きたいし、それを所有したいのです。それは個人においてもそうであり、団体においても同様で、私であるならば私、世界であるならば世界においても同じことなのです。

 人間は本来、原因的存在ではありません。人間からすべてのものが出発したのではないのです。(一八八・二五〇)

 私たちはだれか? 神様とは、だれか? 創造主である。創造主とは、だれか? 宗教世界における概念では神様は父であり、私たちはその子女である、とこう見ます。では、父はどんな父であり、どのようになった父なのでしょう? これが漠然としているのです。借りて来た父ですか、隣近所の父ですか、それとも養父ですか? どんな親なのですか? そうでなければ妻の実家の親ですか、嫁ぎ先の親ですか? 父という言葉はたくさんあります。根本を解決できなくては、環境が拡大された世界において、いくら解決しようとしても、解決されないのです。いくら千年万年経っても解決されないのです。

 ならば、人間と神様の問題となります、これが。人間と神様。本当に神様は私たちの父なのか、と問うとき、皆さんは神様が父であると感じますか? 私というものが存在する前に、私よりもっと確実なのが父母の一身です。父母が私より先に存在しているがゆえに、私がいるということを前提とするときには、私がいるということを主張する前に父母がいるということを主張しなければなりません。それが正しい定義です。父母をそっちのけにして、自分の存在を主張するのは、愚かなことです。

 なぜか? 私たち人間は第一の原因的存在ではありません。第二の結果的存在なのです。それゆえ、私がいるという前に父母がいるというべきです。このように見てみると、根本までつきつめれば、宇宙の根本たる神様という問題を根本的に、いちばん最初に解決しておかなければならないのではないか、ということです。母親の母親のそのまた上の、先祖のそのまた先祖の、と上がって行けば、神様になるでしょう? こういう理論を追求するならば、私を主張する前に、神様を決定しなければなりません。ですから、神様がどのような方で、私の父であり、その父がどのような父であるということを、統一教会は簡単に教えてくれるのです。(一八八・一九〇)

 本然の出発点をしっかり定めなさい。しっかりと定めろということです。人間は結果的存在であるがゆえ、原因の起点にまで持って行って合わせるべきです。原因の起点に合わせても、その起点が盲目的起点となってはいけません。神様が人格を持っているがゆえに、人格を持った人間においても、知情意のすべての良心的作用の内容を備えています。それゆえ、その動機も、原因的内容以上の動機でなければなりません。また同時に絶対的であるべきです。一度出発したものが間違えば、永遠に是正することができません。(一七二・三二)

三 最短距離は一つ

 羅針盤なしで航海する船の前途を考えてみましょう。船はエンジンが回ってスクリュ・が作動すれば前進しますが、船を動かす航海士は、ただ舵だけとっていくだけでいいですか? そうすればどうなりますか? それは私たちが人生を生きるにおいても同じことです。あたかもスクリュ・が回るように、ただ朝起きてご飯を食べて、会社と家を行ったり来たりしながら、どうにかこうにか方向も定められずに生きていればいいのですか? そうして目的地の港に到着してはどうなるのでしょう? その目的地にどうやって降りるのでしょうか? それ以上の危機一発はありません。

 先生は、あるとき道を歩いていて、年取ったおじいさんと話をしたことがありました。そのときおじいさんに、「どこへ行かれますか?」と尋ねたら、「行くってどこへ行くんだ。息子の家に行くのさ。」とおっしゃいました。「そうですか、行かれら何をなさるのですか?」と、また尋ねると、「ご飯とおかずを出してくれたら食べて、ひょっとして鶏を捕まえてくれたら、それもおいしく食べるだろう。」とおっしゃるのでした。そこで「では食べ終わって何をなさいますか?」と尋ねたところ、「その後は別に何もないさ。」と、こんなふうな答えでした。私たちの人生をこのように送ってもいいのでしょうか?

 店の帳簿を整理するときにも、収入がいくらで支出がいくらであるかを正確に決算します。このように帳簿を整理するにおいても、収支決算を徹底してやるのに、皆さんの人生はどうですか? 一生の間暮らした内容を収支決算してみましたか? 赤字ですか、黒字ですか? 赤字ならば、地を打って痛哭すべきです。人間は、臨終の場において、楽しく歌いながら死ねるようでなければなりません。ところが死を前にして、生きようと、じたばたするのは、赤字人生である証拠です。私たちは絶対性を中心として、心情の世界において黒字人生を生きるべきです。

 しかし、今だにそうなっていないために、これを解決してくれる宗教が現れなければなりません。その宗教は、漸進的ではなく爆発的であり、瞬間的にきっぱりと治してしまいえる原動力を持った宗教でなければなりません。このことを理解できますか? そういう宗教が現れたら、どんなにいいでしょうか?

 今日まで、キリスト教の歴史は約二千年になり、仏教の歴史は二千年を越えています。しかし、二千年間生き続けた人間はいません。いないために、漸次的に歴史的な宗教を立てながら来たのです。ですから、私たちの願いは本郷の国を創ろうということであり、その国へ入るための橋を作ろうということなのです。

 江原道の麟蹄に行ってみると、見かけは五分もかからないほど近い距離なのに、実際歩いて見ると二十里(日本での二里=約!.84kmにあたる)以上にもなる道がたくさんあります。「車に乗っても越えられないような道を、私はなぜ歩くといったのか?」と言いつつ歩いてみると、足が痛くてたまらなくなります。皆さんも、生きていけばそういう機会があることでしょう。ではそのときに皆さんは回り道を行くことを願いますか、直行する道を行くことを願いますか? ここにヘリコプタ・が必要であり、ロケットのようなものが必要なのです。何か変わらなければなりません。非常対策を取ることのできる心を持たなければいけません。こうした観点から見るとき、この地球上には、そういう宗教が現れなければなりません。(一九・二八九)

 皆さんは何をしに朝っぱらからここに来ましたか? 何をしにここに来て座っているのですか? お腹がすいたからここに来て座っているのですか? 暑いからこの冷たい場所に来て座っているのですか?(違います)。それでは寒くて、ここに来て座っているのですか?(違います)。何のために来て座っているのですか? どちらが真の方向なのか分からず、高く行くべきか、下りて行くべきか、こっちに行くべきか、あっちへ行くべきかが分からないのですね。教会も多いし、宗教らしきものが本当にたくさんあります。真のよなものがたくさんあります。本物はたった一つなのに、偽物がざらにあるのです。

 私たち人間というものをよくよく見ると、ひたすら、あちこち歩き回っているうちに、目もまひし、耳も麻痺し、臭いを嗅ぐ鼻もまひし、味を見る口もまひし、この二本の手もまひし、すべてまひしたのです。私の目が、私の耳が、すべての感覚器管が一致して、すべての神経線まで全体を総合して、自分をひとつに導くことのできる道はどこか? 陶酔して喜びを感じつつ生きることのできる道があるとするなら、それはどの道か? それが自分個人の人生、自分一人の道として自分が満足できるのみならず、自分に従う家庭が満足し、自分が属している氏族が満足し、自分が属する国が満足し、自分が属する世界が満足し、自分が属する天地が満足して、神様までも満足することのできる、そんな光の道は、どこにあるのか?

 そういう道があってこそ人類が幸福な世界に行けるのであり、人類が皆ひとつとなる所に行くことができるのです。それは階級を超越してひとつの目的地に導くことのできる光でなければなりません。そういう光を目標とする、そういう光に向かう方向はどんな道なのかということです。それは必要でしょう?(はい)。それでその光とは、一体何なのかということです。何の光か?(真理です)。(九五・一八一)

 世界の頂上に上がる最短距離は一つしかありません。二つではありません。一つです。それを通らずしては、一つの世界に到着することができないのです。人工衛星を打ち上げることなど、何でもありません。堕落した人類に向かって、福地の人工衛星を打ち上げて、その定着地を撃破させようとすれば、タ・ゲットを撃破する場合、勝手に行ってできますか? コンピュ・タ・に入力すれば、千年万年後にも、同じ動作で軌道に従うため撃破できるのです。それは二つの道ではありません。(一三五・二八二)

四 なぜ生きるのか

1 何のために生きるのか

 私はだれのために生き、何のために生きるのかということが問題です。このことを考えるとき、私自身を問題として、私は今、何のために生きているのかと反省してみなければなりません。皆さん自身は、今まで何のために生きてきましたか? 地のためにいきましたか? 天のために生きましたか? 地上において、創造主のみ旨を成すために完全に生きたと自信を持って言える人は、今日までの歴史路程において見つけることはできません。

 これはどういうわけでしょうか? 宗教的に見ても、あらゆる方面から見ても、人間が堕落したためです。堕落したために、人間は、善に生きることのできる本然の理念の園を離れ、全体のために生きうる環境から離れるようになりました。心ではそのように生きたいのに、体がそうできないことが、この地上に生きている堕落人間が置かれている状態であることを知らなければなりません。

 こうした立場に置かれつつ、私たちは生きています。本来人間は、固着的な理念の世界で生きるべき人間ですが、そのような位置から落ちることによって、尊貴であるべき人間が形容しがたい悲惨な場所で、もがき苦しむようになったのです。

 しかし皆さんは、より豊かに暮らしたいという感情を持っていることでしょう。もう少し豊かに暮らしたいし、もう少し大きく、もう少し広く、もう少し高く、もう少し無限の価値を感じつつ生きたいという気持ちがあることを、否定する人は一人もいないでしょう。

 このように生きたいと願いつつも、実際にそのように生きることのできる生活の内容、生涯的な理念といった、そういう目的に向かって進んでいくための内容がありません。生きているとはいいますが、皆さんは堂々と自信を持って、「天よ、地よ、神様よ、協助してください。」と言えますか? そのような皆さんになれずにいます。

 自分自身は創造本然の生の内容を知らず、天の多くの霊人たちと、地の被造万物と、創造主である神様の前に自信を持って堂々と発言することのできる存在になれずにいるのですが、天の多くの霊人たちは、今この時間も皆さんのために、地もまた皆さんのために、神様も皆さんのために働いていらっしゃるのです。にもかかわらず、人間は、そのような天があり、地があり、あるいは神様が、いるのかいないのかさえも分からないまま、その世界を慕いつつ、彷徨の歴史路程を苦しみさすらってきたということを私たちは知っています。

 更には、ここに来た学生たちは今日を出発として、自分が何のために生きるのかということを、一度考えてみるべき時が来ました。もし神様が、「おまえは何のために生きるつもりか?」と言うとき、皆さんは何と答えますか? そして更に一歩進んで、皆さんの人生はだれのためにあるのか、と尋ねたならば、自分のためにあるのだということはできません。国はだれのためにあるのでしょうか? その国自体のためだけに存在するのではない、ということを知らなければなりません。なぜか? 大宇宙の目的圏内に入っている国家であり、民族であり、世界であるからです。ゆえに、いかなるものであれ、存在するものはすべて、それ自体のためだけに存在するようになってはいない、ということだけは、間違いありません。(八・四二)

2 だれのために生きるのか

 皆さん個人は、だれのために生きているのでしょうか?「だれのために生きる? 自分のために生きるさ。」と言えば、それは落第です。自分のために生きるという人の前に、家庭がありえますか? 望みの家庭はありません。国がありえますか? 国は与えられません。そこに世界がありえますか? 世界はありえません。世界が現れるべき場所がありません。ありますか、ありませんか? 政治の公約は、「この個人主義の悪党よ、退け。」と制止するのです。個人を第一とするところに、家庭が入り込めますか? そこに理想の国が入り込めますか? 錐の先みたいな狭いところに入ることができるのかというのです。いくら入り込もうとしても入り込めないのです。(五七・六六)


3 愛のために生きる

 人生はどのように生きるべきでしょうか? 人は、どこから、何のために生まれて、どのように生きるべきなのでしょうか? 簡単なのです。愛(神様を中心とした)のために、愛によって生まれたので、愛の道を探し、愛の目的地に行くのです。こうすれば宇宙の循環法則上において、永遠に回ることができます。愛は永遠的概念なので、愛を探してこの中心に来るのです。それは愛においてのみ成立することです。(一二五・六五)

 ですから皆さんは、それを知らなければなりません。すべてのものが移動する目的、存在する目的は、愛であるということです。愛を探して動き、愛を探して存在するというこの鉄則を、皆さんは常にわきまえていなければなりません。鳥たちが互いに引かれて、さえずりながら飛び交うのも愛ゆえであり、磁石のプラス・マイナスが互いにくっつくのも愛でひとつになるためなのです。人が皆、だれかに出会うというのも、ひとつになるためです。

 それでは、ひとつになる目的はどこにあるのでしょうか? お金、自分の欲、自分の息子娘のため…。そこに目的があってはいけないのです。神様の愛がなければ、すべてのものは成立することができません。これを知らなければなりません。

 また、一生の間生きるのは何のためか? 自分のために生きるのですか? 神様の愛のために生きるのです。その目的のために、動き、生きているのです。それはどれほど、素晴らしいでしょうか。どれほど素晴らしいかということです。そんなふうに生きる人は、絶対に滅びません。苦しいことや、涙の出ること、あるいは悲惨なことがあるとしても、それは神様の愛のためであるので、悲惨でもなく、悲痛なことでもなく、悲しいことでもないのです。この原則が分かりますか?(はい)。

 存在の目的がそういう内容として追究されているということを知り、それさえ中心として活用すれば、世界のすべてのことを活用することができるのです。それが創造の原則です。そういう心を持った人たちがこれ位いたならば、その人々はアメリカを動かすでしょうか、動かせないでしょうか?(動かします)。ただし時間が問題なのです、時間が。そうすれば、アメリカは動くようになっています。動くようなっているのです。(六七・一五九)

 私たちは何のために生きるのか? 絶対的な真の愛、真の愛のために生きよう! それゆえ、自分の財布の中にあるハンカチも真の愛のためにある、自分が仕事をするのも、汗を流すのも愛のため、真の愛のためするのです。私が話すのも、真の愛のためであり、食べるのも真の愛のためであり、遊ぶのも真の愛のためであり、すべてがそうなのです。(一〇七・二〇五)

第二節 人間の誕生

一 私たちに対する祈祷

 この時間ここに集まった子女たちの心の内を、お父様、うかがってくださいませ。お父様、私たちはだれとともに生まれ、だれとともに生きていき、だれとともに死ぬのでしょうか? お父様とともに生まれることのできない人間であり、お父様とともに生きることのできない人間であり、お父様とともに死ぬことのできない人間でありました。しかし、そんな私たちに、お父様とともに生きることのできる道を教えてくださった、その恩恵に、私たちは千万回感謝を捧げても足りません。お父様の前にこの身のすべてを生きた供え物として捧げても不足であるという事実を発見し、お父様の前に差し出すには、あまりに汚れた私たちの姿であることを、もう一度確認しました。

 それゆえ私たちは、お父様にお捧げするにはあまりに恥ずかしいこの身を覆いつつ、この姿をいかに隠すかを心配して気をもみつつ現れなければならない人間個体、個体であります。それにもかかわらず、私たちは、お父様の前にあまりにも高慢でありました。お父様の前にあまりにも傲慢でありました。そうでありながらも、私はお父様の息子であり娘であるので、この姿を受入れてくださいと直接通告しえる、大胆な姿を持って現れた私たちでありました。(二七・二〇九)

二 人間は自分の意志で生まれた存在ではない

 本来私たち人間は、自分の意志によって生まれたのではありません。また、父母ならば父母自身が、このような子供を生もうという計画のもとに生まれたのでもありません。このように私たちは、父母の要求によって生まれたのではないということです。

 神の摂理を中心として、私たちが存在するようになった根源を掘り進めてみれば、人間は摂理の起源と一致し、その起源を中心に流れてきた歴史と関係する重大な責任を担ったひとつの生命体として、地上に送られたと見る以外にありません。

 では、人間が神様の摂理的なみ旨と、歴史的経倫に関係を持って生まれたということを考えてみるとき、人間というのは現実に置かれているそれ自体にとどまってはいません。皆さんがいわゆる二〇代の青年ならば、二〇代の青年のままとどまってはいないということです。私たちは、こうした歴史を断定することができ、このような摂理を代身しうる実体であることに間違い無いという事実を感じるべきです。それゆえ、歴史過程にある自分自身、その中に生きている私たち個体がいくら小さいといっても、ひとつの個体として終わるのではないのです。(三四・一五五)

 人間は生まれるとき、自分が生まれたいという意識があって生まれたのではありません。意識がある前に、神様の力によって生まれたのです。ですから発展も、それ自体の意識基盤から始まるものではありません。自分自身を忘却する場、意識以前の作用による結果が確かなものとなるその場から、やり甲斐と価値に満ちた、自分自体の形成が始まるのです。言い換えれば、自分の意識に先立って、神様が先ず存在しうる動機の基盤が因縁づけられることによって、よりよい自分自体が形成されるということです。(三六・一〇三)

 人間自体、自分が生まれたこと、自分を主張できる起源はどこにあるのでしょうか? 人間自体を主張できる起源が民主主義ですか? 民主主義は流れて行くのです。この大宇宙の原則の前に、人間を主張できる起源をどこに見いだすべきでしょうか? 私たち人間は、結果的な存在として生まれたのに、結果的存在でありながら原因を知らずして自分を主張する人、そういう人たちは気がおかしいのであり、みんな狂人なのです、狂人。(八三・一九一)

 皆さんはどのみち生まれたからには生きなければならず、生きては死んでいかなければなりません。初めから、生まれることを宣布して生まれたわけではなく、生きるにおいても生きると宣布して生きるのではありません。人間が、何か価値あるものを持って生まれたのならば、そういう生活をしてからあの世へ行くべきです。またそういう生涯を送らなければなりません。

 厳粛な場から自分が来たので、厳粛な場で自分が生き、厳粛な場に逝くべきです。それは、だれかが指図したからそうなのではありません。自然な因縁から出発して、自然な因縁の道を行くべきなのです。ところが、不自然に生まれて、不自然な場で生き、不自然な所に行くようになります。このように生きて良いのでしょうか? いけません。(一二・一〇)

三 本来神様の愛によって生まれた人間

 生まれたのはなぜなのかという問題、神様はなぜ人間を創り、天地万物を創られたのかという問題、その結論は簡単です。神様も、愛する対象が必要であるため、愛の対象として人間を創造されたのです。分かりましたか? 皆さんは今、「とるに足らない私のような存在は、いてもいなくても関係ない。」と考えていますね? そのように考えてはいけません。

 神様の愛が対象となる場合には、父母の前に子供が優れているからといって愛するのではありません。子供であればこそ、優れていようが愚かであろうが愛するのです。病身の子を持つ親の心情が、子供以上につらいのと同様に、天地の中心であられる神様の愛の心情は、皆さんが優れている、いないということを超越しているのです。本性の愛の基盤を備えているかいないかが重要です。それゆえ、自分はなぜ創造され、宇宙はなぜ創造されたのかということを知らなければなりません。愛の理想を完成させるために創られたという事実を知るべきです。(一三〇・四四)

 神様の息子という言葉は、何を中心としていう言葉ですか? 息子というものは何でしょうか? 息子とは何ですか? 息子とは? どういうものが息子でしょうか? 息子というのは、神様の愛の中で見いだすべきです。愛の中から始まり、神様のすべての属性に似て、すべての性禀全体に似た、そういう存在をいうのです。それゆえ、息子となるためには、どんなことをすべきでしょうか?

 生まれるにおいて、何によって生まれたかといえば、神様の愛によって生まれたのです。愛に根を置いて生まれた、神様の息子なのです。そうでしょう? 理致的に見るとき、なにがしの息子といえば、そのなにがしの息子とは何でしょうか? その息子というのは一体何かということです。父の愛の中で生まれたということです。父母とは、愛の中で自分を生んでくださった方です。(一四四・二三二)

 神様はなぜ天地万物を創られ、神様は自分をなぜ創られたのでしょうか? 何のために創られたか? 愛のためです。自分はなぜ生まれたのでしょうか? 神様の愛ゆえに生まれたのです。神様の愛の中で生まれ、神様の愛の中で生きるために生まれたということです。「神様とともに自分の家庭で愛することのできる人だ、神様とともに自分の社会で愛することのできる人だ、神様とともに自分の国家で愛することのできる人だ、神様とともに自分の世界で愛することのできる人だ。」と言える人になるために、神様の愛の中で生きるべきなのです。(九七・二六六)

四 堕落により過って生まれた人間

 人間は生まれるとき過って生まれました。本来人間は、神様によって創造され、誕生しました。人間は、神様によって創造されはしましたが、サタンによって過った生まれ方をしたのです。この世でどんなに優れた人であっても、神様によって創造された人間ではあるものの、血統においては、神の怨讐であるサタンの血を受けて生まれました。今日、一般の宗教は、こうした事実を知りません。それゆえ神様は、六千年の間、摂理して来られたのです。善悪の果(果実のような)を取って食べたことが罪となって、神様が六千年もの間、摂理して来られるでしょうか?

 人間は、本来神様によって創られ、神様と因縁づけられているにもかかわらず、サタンの不倫なる愛によって、過って生まれました。それゆえ、サタンの愛によって生まれたなかったという、サタンが侵犯できない立場を経て、再び生まれなければならないのです。ですから、キリスト教の教理の骨子は、「復活」です。復活の宗教であるのです。復活は、すなわち新生の道理です。人間は過って生まれたために、もう一度生まれなければいけないということなのです。

 今日まで、完成された人間は現れませんでした。それはすべてがアダムの堕落によって過って生まれたためです。この世でどんなに優秀で立派な人物であっても、過って生まれたのです。少し善であり、少し悪であるという差がありますが、それは微々たるものです。神様がご覧になられるときには、微かな差だというものです。

 すべての人間は過って生まれたのです。ですから逆さまに復帰しなければなりません。このように逆さまに復帰しなければならないので、アダムから四千年の後に、堕落しなかったアダムを代身する立場で、イエス様が来られました。すなわち、サタンの讒訴圏を抜け出した立場、神様のみが主管できる立場で来られたのです。そうした立場を用意するために、神様はアダム家庭から役事をしてこられました。(一九・一九〇)

五 生まれた理由

 私という存在は、父母から何を受けて生まれたのか? 生命の連結体として生まれた、とこのように見ることができます。そうじゃないですか? 父と母がひとつになる場において、父母の生命力の価値を持って生まれたのです。その生命力とは何によるものか? 愛によるものです。その生命力と愛とは、何のために? 宇宙の目的を完成させるためです。このようになっています。目的を完成するために生まれたのです。男性なら男性、女性なら女性としてのある目的、大宇宙の目的へ協助する者としての自らを完成するために、このような生命力を中心とした結合によって生まれたのです。(一一〇・七二)

 なぜ生まれたか、人間は? 自分が、何か社長にでもなるために生まれたとするなら、それはあまりに悲惨なことです。「文なにがしはなぜ生まれたのか?」と、人がたずねるとき、「統一教会の先生になって大口をたたくために生まれた!」と、こう答えるのは、私は嫌いです。なぜこんなにやかましく大騒ぎするのですか? 世界をみんなぼろ布のようにしておいて、なんでこんなに騒ぐのでしょう。そんなに大騒ぎするのは他でもありません。神様の真の愛を探すためなのです。(一二一・一〇一)

 私たちが生まれたのはどうしてでしょうか? 何のために生まれたのでしょうか?「愛のためです。」愛とは何の愛ですか?「神様の愛です。」うむ、神様の愛、神様の愛なのです。ここで「ドン!」と音をたてれば、神様の頭に「ピン!」と通じる愛なのです。皆さんが池に向かって何かを「ポン!」と投げれば、池の縁に波紋が広がるように、この宇宙の中に愛を「ポン!」と投げれば、全宇宙に波紋が生じるのです。何の話か分かりますか? そんな業をしているのです。皆さんが砂粒を投げるのか、それとも大きな波紋を起こすのか、が問題なのです。(一〇三・二五四)

六 生まれた目的

 皆さん、人間は何のために生まれたのかという根本的なことが、今日まで歴史を通じて問題となってきました。なぜ生まれたのか? ある人は自分の国のために生まれたと考える人、ある人は自分の父母のために生まれたと考える人、人によって様々です。今日、信仰を持つ人は、「神様のために生まれた。」と、このように考えています。(八三・一五四)

 皆さんは何のために生まれたのか、これが問題です。これについて考えて見ましょう。自分のために生まれましたか?(いいえ)。自分が動機となって生まれましたか?(いいえ)。また、その目的というのは、自分のためでしょうか? 相対なしに目的を達成…。相対的な問題なのです。自分のための目的ではなく、互いのための目的です。それなのに我を通そうとするのです。動機と目的、主体と相対的な関係を一致させるにおいては、自分を出すことができますが、そうでない場合は、自分を出したらそれは怨讐です。怨讐だ、ということです。(六六・二六四)

 神様の愛の中では、世界と通じる愛は家庭と通じ、国と通じる愛は家庭と通じ、社会と通じる愛は家庭と通じ、家庭と通じる愛は自分と通じるのです。すべてが逆さまです。また、天も自分の行く目的と通じ、また、国も自分の行く目的と通じ、すべてに通じるのです。分かりましたか?(はい)。ですから、皆さんはどんな人になるべきか?「私は神様の愛を通じて、家庭で合格者となり、国で合格者となり、世界で合格者となり、天の国に行って合格者となり、神様の心情を中心として合格者となろう。それこそが人類がこの地上に生まれた本分であり、人間が生まれた目的だ。」こうあるべきです。それ以上はありません。それしかないのです。私が今生きているのは、神様の愛を中心として、神様の心情を中心として生きるのだということです。(九五・六〇)

 では、人間が生まれた目的はどこにあるのでしょうか? 世界のために生きるところにあります。それゆえ私たちは、死んでもこの道を行かなければなりません。世界に代わって神様に侍リ、神様の前に世界を奉献すべき祭司長として、「あなたが探している世界をお受けください。」と言うべき使命が、今日地上に生きている人間たちにあるのです。このように、とてつもない使命を担って素晴らしく生きるべき勇士たちであるにもかかわらず、皆、お金のとりことなって首をくくるような、取るに足らぬ小心者となってしまったのです。(三二・二六五)

第三節 人生と時

一 人生とは短いもの

 人間の命は限られています。一生生きても百年に満たない命を持った人間です。(一七二・二八)

 さあ、皆さん、ご覧なさい。皆さんが約八十歳まで生きたとしましょう。そのうち、夜寝る時間を除けば四十年になってしまいます。半分に減ってしまうのです。寝ることも生きることでしょうか? 寝ることは、死ぬことと同じです。そうではないですか? 寝るのは、命が死んでいることです。それゆえ、二十四時間のうちで生きようと必死になっている時間は、半分に過ぎません。更にそこから、ご飯を食べる時間を一時間ずつ引いてしまえばどうなりますか? ご飯を食べるのに一時間はかかると見なければなりません。

 さあ、またそのうちで友人のお祝いの日、近所のお年寄りの還暦祝い、だれかが死んだ日、その葬式をする日、ありとあらゆる日を皆除いてしまえば、人生において生きたといえる日は半分にもなるでしょうか? この間計算してみたら、生きたといえるのは七年と出ました、七年。その七年のうちで本当に生きたといえるのは何日になるかというのです。何日とは何事かということです。(四九・三三六)

 神様と私たちについて見るとき、私たちは、いくら苦労したところで、たかが人生八十年、百年未満です。ですから、三万六千日です。皆さんが百歳まで生きたとしても三万六千日にしかなりません。三万六千日は、あっという間です。それを忍耐できないというのでしょうか? 忍耐できないのかというのです。神様は何万年、何億年を生き続けてこられました。人間界がどんなにそうであったとしても、神様は、神様であるがゆえに泰然自若でいなければならないのです。その中には数えきれないほどの事情がごった返していますが、泰然としていなければならないのです。(一二四・五九)

 人生というのは短いものです。一生は本当に短いです。物心がついて、世の中の事情を知り、ああだこうだとやっているうちに、四十を越えれば五十となり、十年なんてあっという間です。十年経てばあっという間に六十になり、六十になればすぐに七十となり、私もじっと考えてみると、人生は一場の夢、という言葉が実感されます。(一三九・一五三)

 生きるということは、人生というものは、何度もあるものではありません。一度だけしかないのです。一度ぷつりと(手を打たれる)なくなる日には、それっきり終わってしまうのです。(一三九・一五三)

 私たちの一生というものは、あっという間です。そうでしょう? この短い一生が、永遠の尺度を左右するのです。これが延長されれば無限に延長されるでしょう? 反面に、これを折ればここから新しい天地が広がっていくのです。秤と同じように、上がったり下がったりするようになるのです。そのようになっています。(四六・一五五)

 一生は、いつ終わるかわかりません。いつ、いつするのか? 自分はいつするのか、というのが問題です。今すぐ、今日、今日、今日これを皆満たしておいても、それだけではだめなのです。今やるとしても、ひっきりなしに流れて行くのです。今やるとしても、どんどん過ぎ去って行くのです。来年にでも、いつ自分が死ぬかは分からないのです。(一〇四・二九〇)

二 一生において最も重要な時

 私たちの人生を見れば、結婚前までは蘇生時代、結婚してからは長成時代、それから家庭を率いる完成時代となっています。根本がそのようになっているのです。(一二五・一六〇)

一日を中心として見るとき、朝は春の季節にあたり、昼は夏の季節にあたり、夕方は秋に、夜は冬に、それぞれ該当します。同様に、人間にも少年期があって、青年期があって壮年期があって、老年期があります。人間において、春の季節は思春期です。夏は三十代であり、秋は四十代ぐらいです。それ以降は冬の季節に入るようになり、冬至のときに該当すれば死を迎えるのです。すべての道理がそうなっています。春夏秋冬がそうであり、一日がそうであるということです。(三三・四〇)

 個人を中心として見れば、個人には、青年時代があり、壮年時代があり、老年時代があります。では、人間として生まれた自分自身について見るとき、人生においていちばん貴い時はいつか? そういう時期があるはずです。若い青春時代が、自分の人生において運命を決定しえる時となる人もあれば、壮年期が人生全体の問題解決の時となる人もあるでしょうし、あるいは老年期にそういう時を迎える人もいることでしょう。

 すべての人には、そのような全盛期が必ずあるはずです。また、青春時代なら青春時代における、そのような中心的な全盛期があり、壮年期なら壮年期、あるいは老年期には老年期においてもそのような全盛期があるはずです。その全盛期が何なのかを知って、時期を整理して見てみると、その時期がひとつの始点に置かれるようになることを、私たちは考えることができます。

 例えば、高い山があれば、そこにはいちばん高い頂きがあるはずです。全体の山脈がつながって、すべてが一点に至る所がありますが、そこが最高の頂上であることを、私たちは知っています。また、山の分水嶺について見るときにも、この分水嶺が、ひとつの山のようになって、内外に境界を成すようになります。これと同様に、私たちの一生においても、そうした一点、また一線と同じときがあります。こうしたことについて考えるとき、人間の一生においてそういう時は果たしていつなのか? 私たち人間はそれを知りません。(三六・二一七)

 私たちが生まれた後、希望に満ちたときとはいつか? 幼い子供のときが希望にあふれており、その次には青少年のときがそうであり、二十代、三十代は血気旺盛で、花に例えれば満開のときであるその時期が、香気を放って花咲くような青春時代が、いちばん華やかな時代です。四十代を過ぎて五十代、六十代になれば、皆 しおれていくのです。四十代、五十代には、しおれていきます。下がっていきます。そこに何の希望があるというのでしょうか。死が近づいてくるというのに?(一三七・二一七)

 人の一生において最も重要なときがいつかといえば、生まれるとき、結婚するとき、そして死ぬときです。では、生まれるときは、どのように生まれるべきでしょうか? 正しく生まれるべきです。統一教会でいうには、心情の因縁を中心として生まれるべきです。その次には、結婚するときです。結婚とは、生きるためにすることです。すなわち、四位基台を成すためにするのです。このような宇宙の公法を地球上に立ててこそ、神様の摂理が成就され、人間の願いが成就されるのです。このような宇宙の法度が指向する内容を備え、その形態を備えるためのものが、家庭です。(二四・二三〇)

三 人生と時

 この地上に存在する、あらゆる存在物のうち、無駄なものはひとつもありません。目的なく存在するものはない、ということです。すべての存在物は、それぞれある目的を持っており、その目的が成されるときまで、過程的、即ち時間的距離を経て進んでいくのです。その期間は、一日に及ぶ場合もあるし、一年、十年、あるいは一生をかけて進んでいく場合もあります。例として、国家について考えてみると、国家は、数世紀、数千年の歴史にわたりひとつの目的である善に向かって走っているといえます。このように、あらゆる存在は、それ自体が存在するための目的の基台に向かって走っています。

 私たち人間について考えてみると、少年時代があり、青年時代があり、壮年時代、老年時代があります。少年時代は青年時代と違い、青年時代は壮年時代と違い、壮年時代は老年時代と違います。また、その時代、時代を生きていく自分自身にふさわしい責任と使命があるものです。従って、少年時代になすべき使命を全うできなければ、青年時代を力いっぱい迎えることができず、青年時代の使命を全うしなければ、壮年時代を力いっぱい迎えられません。また、壮年時代の使命を全うできなければ、老年時代を力いっぱい迎えられないのです。

 このように、人間の一生においても、その時その時に与えられる使命を全うできるかできないかによって、自分の後世、すなわち将来迫りくる目的基準をなすにおいて、自分たちが責任を果たすか果たさないかという問題が左右されるということが分かるのです。(二四・二一一)

 よく世間では、「いくら英雄といっても時を迎えなければ 志を遂げられない。」という話を往々にして聞きます。時が準備された土台の上に人材が現れれば、その人材と時が合わさり、一つの新しい歴史が創り出されるという事実を、私たちは歴史を通してよく知っています。それゆえ、いつにおいても、時というものが問題となるわけです。

 朝が来れば、起きて朝ご飯を食べ、仕事にとりかかります。そして昼になれば昼ご飯を食べなければなりません。昼食をすませて午後の仕事にとりかかります。また、夕方になれば、夕飯を食べて夜を迎えます。このように、私たちの生活というものは、規則的な時というものを中心として、新しく移り変わる環境を迎えつつ進行しています。

 私たち個人について見ても、少年時代があるかと思えば青年時代があり、青年時代が過ぎれば壮年時代、壮年時代が過ぎれば老年時代がやってくるのです。こうした過程を経て、ひとつの人生を終えるようになるのです。一生というものは常に一定ではありません。少年時代でも青年時代でも壮年時代でも老年時代でも、時を間違って迎えるならば、かえって生まれなかった方が良いところだったという結果をもたらしてしまいます。

 しかし、少年時代でも青年時代でも壮年時代でも老年時代でも、もし一生を、時を正しく迎えて有意義に生きるならば、その人の一生は、最も価値あるものとして残りうるのです。ですから、時を間違って迎えれば、そこから失敗の動機が出発するのであり、時を正しく迎えれば、そこから成功が出発するという事実は、私たちの日常生活において、よく分かるのです。(五七・二八七)

四 先祖の功績と運

 統一教会員を見てみると、ある人は、伝道に出かければ、それこそ外に出たとたんに、これといった何もないのに人々が弁当を持って従ってくるのです。人がぞろぞろくっついてきます。その人はというと、小学校しか出ておらず、人格をみても二束三文の値打ちしかありません。しかしながら、その人が涙を流せば、町中が涙を流し、その人が明け方に起きるなら、全体が明け方に起床してしまうというわけです。それは、この世で人並みに暮らせずに、犠牲的に生きた多くの先祖たちが天の福を受けられるという因縁に従って、その時点に生まれてその線を越えることのできる位置に立ったためです。天の運勢、天の昼の運勢を迎えることのできる位置に立ったためです。それゆえ、その人はどこへ行っても被害を受けることはありません。

 しかし、その反対の人もいます。顔立ちも整っているのに、どこに配置されても非常に苦労する人がいます。それは、昔先祖が豊かに暮らしたためです。蕩減の道に踏み込めば、逆さまの立場にならざるをえません。それを抜け出して上がっていくには、ある期間が必要なのです。

 それゆえ、この期間には邪気と困難がつきものです。それを克服できずに風呂敷を包んで行く人は、それ以上は絶対上がれません。統一教会員の中に外に出て伝道するのが大変だという人は、いくら統一教会を信じたといっても、運命の因縁を超越して勝利の場へと上がることができません。皆さんはそれを知らなければなりません。それゆえ、歴史も公平であるし、人類の運命の道も公平だと見るのです。

 ある人は、自分一代で「ああ良い、ああ良い!」と、このように生きる人がいます。それはわずかです。このように見れば、「ああ、私は幸福な人だ。」と考えるのです。角度で見れば、こう、こう、このようになっています。ここを過ぎればこのくらい幸福です。

 またある人においては反対になります。反対に入るのです。ですからどれ程不幸でしょうか?「幸福は、ああ…。」後にはもっと高くなります。これは歴史的因縁を蕩減するのです。

 このように見るとき、こういうサイン・カ・ブ(sinecurve)というものは、一人の個人がそうであり、一つの家庭がそうなのです。また、一つの氏族がそうであり、一つの民族もそうなのです。このカ・ブが大きくなるだけであって、民族においても同じなのです。世界を見れば、世界もそうだということです。このうち、一つが下がっていく運勢だとすれば、もう一つは上がっていく運勢なのです。サイン、カ・ブ、これは審判台です。堕落したために、人類は堕落世界で六千年間基盤を築いてから、やっと天国世界へ入っていくのです。

 知恵深い人とは、どんな人でしょうか? なにはともあれ拍子を合わせる人です。宗教はそのようにしてきました。数千年の運勢を迎え入れよう! 数千年苦労してきましたが、一時にたずねてくる数千年の運勢を迎えようということなのです。ここから出発してこの期間に千年の運勢を迎え入れるのです。(五九・一四三)

五 運命と宿命

 運命という言葉について考えてみると、その「命」という字は「いのち」の「命」です。そして「運ぶ」の「運」です。命を運んでいくということです。またこうも考えられます。ある全体的な一つの標準となりうる命題を掲げて、そこに行くという意味にもなります。運命という道は、行かざるをえない道だということです。

 韓国では俗に、もって生まれた星回りといいます。カエルは陸地で生きるより、水中で生きるのが良いのです。それは、生まれながらにそうであるため、そのように生きなければならず、死ぬときもそこでそのように死ななければなりません。それを離れては行く道がなく、生きる道がないのです。そのようになっています。

 セミの卵がセミになるためには、これを何といいましたっけ? クムベンイ(セミの幼虫)といいましたか? クムベンイがセミになるのかよくわかりませんが、とにかくその幼虫時代があります。幼虫時代には、水たまりに住んだり、あるいは地面のくぼみの中に住んだとしても、彼らが行くべき道はそれではありません。それを通して大空を飛ぶことのできる道へと行くべきなのです。

 空を飛ぶためには、いくら地面に穴を掘ってもぐったり、水中を泳ぎ回ったとしても、その過程で何かを準備しなければならないのですが、それは何か? 空を飛ぶことのできる翼を準備しなければならないのです。それが必要条件であり、絶対条件だというわけです。なくてはならない条件なのです。幼虫時代から成虫時代に移るためには、幼虫時代において、空を飛ぶための万全の体制が準備されなければなりません。そのために、反対の要素となる殻を脱いで準備することのできる一時期を必ず経なければなりません。脱皮しなければならないのです。

 水中で暮らすときには平べったくなければならず、水面に浮いて泳ぐのにも都合がいいでしょうが、空中を飛ぶようになれば、そのままではいけないのです。それに合うように、すべてが備えられなければなりません。魚として生まれた運命ならば、それは水から離れられないのです。(一二〇・二三六)

 一体人間が幸福になったり、不幸になったり、あるいは運が良いとか悪いとかいう、その起源は、どこから始まるのか? 人間自体が運を打開していきながら、造っていきながら、自身の幸福の基盤を広げていくことができるのか? もちろん努力するところにあっては、何らかの相対的基盤を築けるかもしれませんが、自らのこうした努力によって、自分の運勢を国家のような団体の運勢と直結させたり、更には世界の運勢や天運にまで直結させることができるだろうか? それは不可能なのです。そうした観点から見るとき、運勢というものは、間違い無く存在しているのです。(七八・二六三)

 一つの峠を越えていけば、新しく出発することができるのです。宇宙は回っているのです。歴史は反復しながら、過去の形態を同時的に形成しつつ展開してきたという原則を考えてみるとき、その原則のひとときが来るということです。そのひとときに「カン」といってぴたりと入るようになれば、三六五日を合わせることができ、このようになる場合には天運を伴って、個人の運勢において運の良い一生がもたらされることでしょう。

 では、その運の良い一生はどこに行くべきでしょうか? 国家の運勢と個人の運勢は違います。大韓民国の運勢は今…。そうではありませんか? ベトナムやラオスやクメ・ルのような国を見れば、民主世界の圏内にありながらも何故にそのように悲惨であり、運悪くも共産党にすべて食われてしまったではないか? それで運が良いといえますか? 運が悪いのです。それゆえ皆さん個人の運勢は、このような拍子に合わせて…。(七八・二七五)

 自分が一〇〇の運勢を持って生まれたのに、一二〇の人生を生きるならば、そういう人の後孫は滅びるのです。人の運勢はゴムひもと同じでぴんと張っています。ですが八〇の人生を生きるならば、二〇の余裕を残すことになり、その運勢を後孫の前に相続してあげられるのです。(七八・三三三)

 運命を変えることはできますが、宿命を変えることはできません。大韓民国人として生まれた事実を変えることができますか? 自分の父親の子として生まれた事実を変えることができますか? その国の主権がどんなに強く、慣習がどんなに厳しいとしても、父親と子供の関係を変更することはできません。そのように復帰の道は宿命的なのです。どちらにしても、ある一日に清算してしまわなければなりません。(一七二・五五)

第四節 人間の行くべき道

一 一寸先は闇の人生

 生活とは、一日一日のことであり、生涯とは一生についていう言葉です。人間の生活というものは、皆さんの生きる生活とは百年圏内に、一世代というものは百年圏内に入っています。そうではないですか? 百歳以上生きる人は少ないでしょう? 承道ハルモニは何歳でしたっけ?(九四歳です)。九四歳に亡くなりましたね? 知っていますか?(はい)。おそらく、承道ハルモニも百歳を越えて生きたいと思ったことでしょう。しかし、それは思いどおりにならないのです。

 人生というのは分からないじゃないですか? 皆さんは、どのように行くべきかわかりますか? 一寸先は闇、というのが一般的にいわれていることです。人生において、生涯の路程を知って生きる人はいません。

 例えて言えば、真っ暗な夜に知らない道をとぼとぼ歩いていく姿が人生だということができます。そのように表現できます。そうではありませんか、明日が分からずに行くのですから? 明日という日が光明ではなく、真っ暗な闇だとすれば、その暗黒の前途を歩いていく歩みというものは、私たちが朝目覚めてすべてを見ることができる今日においては、想像すらできないものです。人生を歩んでいくこと自体が、暗い深夜に足を運んでいくようなものではないかということです。

 それだから生涯の路程というものは、どれほどもどかしいでしょうか? それを深刻に考えるなら、しっかりふさがれた鉄樽の中のように、窒息しそうな環境の中で歩む立場と同じであり、またそんな中で樽を押していくような生活をしているのが人間像ではないかというのです。一つの峠を越えれば、また一つの峠が現れ、二つの峠を越えてみれば三つの峠があり、三つの峠を越えてみれば四つの峠が現れ、それで終わりかと思ったら、更に大きな峠が次に待ち構えていた、ということです。(一七五・一九五)

 出発において間違えば、思いがけない所に行ってしまうものです。それゆえ、船は大海を航海するにしても、出発した港から羅針盤を中心として、行くべき目的地に向かっての方向線を引いておいてから航海します。

 それでは、人間が出発した港はどこでしょうか? 分からずにいます。羅針盤を持って彼岸の世界に到達できるように、目的地まで導く方向線はどこにあるのか? ありません。くねくねと好きなように行ったり来たりしています。こう考えるとき、人間は、いくら頑張ってみたところで、人間として終わるということなのです。(一七二・二八)

二 私たちはどこへ行くべきか

 今、私たちは、知ろうが知るまいが、ある所に向かって進んでいます。私が動いている時間にも進んでいるのであり、休んでいる時間にも進んでいるのです。単に私だけでなく、この民族、あるいはこの世界、更には天と地までも、ある所に向かって今も進んでいるのです。これは否定できない事実です。

 この一生を経た後に、私はどんなところに行くのでしょうか? これは、人間が解決すべき重要な問題です。宗教もこの問題を解決するために、哲学もこの問題を解決するために動員されています。ですから、皆さん自身もこうした運勢にとりまかれて引っぱられていっていることを否定はできないのです。

 では、どちらにしても行かねばならない私自身であるからには、この身はどこに行こうとしているのか? この心はどこに行こうとしているのか? また、この生命はどこに向かって傾いており、自分の心情はどこに向かっており、自分の願い、あるいは希望と理念はどこに行こうとしているのか? この問題を解決できないとしても、私たちは結局は行くべき運命に置かれているのです。私たちが人生を終えて死ぬ日には、体は土に埋められて終わります。では、体が埋められるその日に、この心も、この生命も、この心情も、この理念も、あるいは願いまでも、共に埋められてしまうのか? 消えて去ってしまうか?ここに、はっきりした内容と、解決点と、目的観を立てておかない限り、これは不幸な人とならざるをえないのです。

 ですから、行く歩みをつかまえておいて、動く心と傾こうとする心情をふさいでおいて、「おまえはどこに行くのか?」こう尋ねてみて、これを解決するために闘ってきた人々が聖賢、賢哲であり、あるいは多くの道主たちであったということを私たちは知るようになります。彼らはそれを解決するために現れましたが、今日まで「私の体はこういう所に行き、私の心と心情、生命と理念は、こういう所に向かって走れリ。ゆえに天下すべての万民、あるいは天地に存在するあらゆる存在物はここに行け。」と、自信を持って命令した人はいなかったのです。(八・一九四)

 では、私たちは何を中心として生まれ、何を中心として、あるいは又、何を目的として行くべきなのか? これは、神様を抜きにしては絶対だめなのです。神様を抜きにしては、動機のない因縁となるのです。動機を持てない人は、どんな仕事を成就しようとしても結果を収めることができず、価値を認められません。ある建物を建てるときには、設計者が設計した設計図に従って建築をします。設計の原本も無しに建てられた建築物は、設計者が目的とした建物とはなりえません。(二一・一〇〇)

 では、私たちはどこに行くべきなのか? 死線を越えても行くべきところはどこなのか?神様を探して、その神様に侍って、心嬉しく喜べる日、私の心情世界において、「これ以上の望みはありません。」といえるひとときを迎えなければなりません。そのために私たちは、困難に耐え、無念さに耐え、悔しさに耐えながら、この世界を越えていかなければならないのです。こうした世界を越えていく自分になれない限り、世界とともに消えていくことでしょう。(八・二〇二)

 さあ、こうして人はどこへ行くのか? 天国へ。こうなっています。天使はどこへ行くのか? 天国へ。お父さんお母さんはどこへ行くのか? 天国へ。それだけでなく、飼っていた小犬はどこへ? 地獄へ行くのではありません。

 昔、北朝鮮から避難するとき、かなり富裕なお金持ちの家で、相当高価な犬だと何やら自慢していたその犬を、避難するというから、しっかり門に縛りつけておいて、「おい、元気でな。私だけ行って来るからな。」と、言うのです。統一教会員たちは、そうであってはいけません。今は犬も天国に、すべての万物も天国に、主人が行くところにどこへでもついていくことができるのです。(七八・三三六)

 人はどこへ行くのか? 霊界に向かっていくのです。霊界は、海と同じようなものです。どちらにしても行かなければなりません。そこには、海にも流れがあるのと同様に、造化無双の変化があります。海には主流の流れを中心として、淡水には無い造化の展開が見られます。海に多くの魚類が存在するように、霊界には、多くの新しい天地家庭が存在します。同じことです。あの世に行ってみれば、同じなのです。(一四一・三〇六)

三 一生は霊界のための準備期間

 私たちはこの世に住んでいますが、この世だけがあるのではなく、霊界があるということを知っています。この世と霊界は、別々ではなく、一つの世界として連結されるべきだということも知っています。

 では、私たちが行くべきところ、私たちが行って住むべきところはどこなのか? もちろん私たちは、肉身生活をしながらこの地上に存在していますが、永遠の世界に向かって進んでいるのです。一般の人たちは、この世に生まれたら、一生の間に、十代を過ぎ、二十代を過ぎ、三十代を過ぎ、中年を過ぎて、壮年、老年時代を経ていきます。青春時代を過ぎ、壮年時代に入れば、だんだん峠を越えて、その次には老年時代に入っていきます。こうして、日が沈むように一生を終えるのです。

 しかし、霊界があるという事実を知っている人々は、一生というものは瞬間にすぎず、死んだ後に迎えるべき世界は永遠であるということを知っています。ゆえに、一生というのは永遠の世界に向けて準備するための期間だといえます。この世はそのようではありませんか?

 学生を例にとってみると、学生は、一つの学期、あるいは一学年においてその学校が制定したすべての学課の単位を取らなければならないという単位の基準があります。その基準を百点としてみるとき、それにどれ位到達したかという比率に従って、学校から認められるかどうかが決まるのです。

 しかし、決められた単位に至らないパ・センテ・ジが大きければ大きいほど、学校が立てた価値基準から遠ざかっていくのです。このようになるのです。そのために、ある標準を中心にしてすべてを測定するようになっているのです。

 私たちが一生の間、肉身世界で生きるのは、あたかも学校でひとつの単位を取るための準備期間のようなものです。一生を懸けた単位を準備する、いわゆる人生という過程において、やりたくなくてもやらざるをえない責任部署に該当する実績を追究しているということです。言い換えれば、責任を追究する何らかの基準の前に、どの位一致したかという、基準値を中心として、皆さんは毎日の生涯路程を歩んでいるのです。

 一般の人々はそれを考えないのです。生まれたんだから、ひたすら親に侍って家庭に生きよう、こうして生まれたからこうして生きよう、一般の人々が生きるように自分もそう生きていこう、そのように考えて生きています。そのように生きるすべての生活の中心は何かといえば、肉身生活の日常生活を中心として必要な物、すなわち、どうやって食べて暮らすかということなのです。ですから、衣食住に最も重点を置いているわけです。一般の人々はそうじゃないですか? 

 しかし、統一教会の食口たちは、霊界が間違いなく存在するということを知っています。信じているのではなく、知っているのです。なぜ? どうして? どうやって? 多くの体験を通して、否定するに否定しえない歴史的事実、あるいは現実的事実が、私たちの周辺に…。今日統一教会がこれほどの世界的な基盤を形成するときまで、その背後、前後をひもといてみると、その過程において、多くの体験を経てきました。それゆえに、霊界が無いとはいうことのできない立場にいるのが、正に統一教会の食口たちなのです。(一四〇・一二一)

第二章「私」と真なる人の道

第一節 私

一 「私」はだれか

1 自覚すべき「私」

 「私」とは何でしょうか? 心が行ったり来たりすれば、体も行ったり来たりして、「私」という人間はじっとしているでしょうか? 行ったり来たりするとき、良い所を行き来するならいいのですが、悪い所にも行き来します。それを知らなければなりません。

 私が自覚するとき、その自覚とは何でしょうか? 「私は絶対中心である。天地が揺れ動き、天下がひっくり返っても、私が立っている姿は起き上がりこぼしの如く、座っても立ってもその位置は不動である。心の位置の確立! 神様が追い出そうとしても、私の本然の位置は神様が願う位置であるから、神様は追い出すことができない。」このようでなければなりません。何ものをも制御し、防御し、それ自体の姿の主体性に被害を受けずにいられる。そうした位置に立っていなければなりません。心の位置の確立! これが絶対必要です。

 心の位置を確立するにおいて、どのように確立するのでしょうか? 南へ行くべきなのに、北に向かって確立すれば、大変なことになります。方向を定めて確立しなければなりません。そうした方向の設定を必要とした自体の位置で、自らの完全なる定着地を備えるべきです。不動の位置で私が作用し始めたら、その不動の位置に従って自分の体が動き始め、姿勢が変わり始めるのです。「私」というものの、原則的で本来的な、自分の概念に一致しうる自分を発見する現象が起こり始めます。これは深刻な問題です。(一二七・九八)

 本来の「私」というものは、理想圏に立つことのできる「私」というものは、どんな存在か? 周辺から生活にある脅威を受け、生活苦にあえぎつつ、死ぬか生きるかと呻吟する「私」ではありません。本来神様の愛の圏内で一体となっていたら、堕落の無かったその理想世界は、わずかな期間で物我の世界、神様の家庭の理想形を成して、その家庭から愛を中心とした氏族編成、民族編成、国家編成が成されるようになるのです。(一四五・三一二)

2 自分の価値

 世界でこの上なく貴いものは何でしょうか? 金銀宝物でもなく、この世の名誉や権力でもありません。天地の間で最も貴いものは何かというとき、それは自分自身、まさに自分自身なのです。

 ところが自分自身が貴いということを何をもって保障するのかと問うとき、答えることができないのです。人々は、自ら身につけるべき内容を備えられずとも、心では満天下の前に自分自身を最高の価値ある存在として認めさせたいと願います。それが人間の本性です。今日、民族のため、あるいは世界のために生きる観念を越えて、最も貴い私自身を他の人がどれだけ貴く思うかということを問題としなければ、新しい決意と新しい出発をすることができないということを憂慮せざるをえません。

 私たち自身は、どれほど価値ある内容を持った存在でしょうか? 皆さんはそれを考えてみましたか? 私がこの宇宙において一つしかない宝、真なる宝となったなら、その宝は、神様も慕うのであり、生まれては亡くなられたイエス様も慕うのであり、今日までこの世に現れた多くの聖徒たち、歴代にいくら身を立て、歴史において伝統的思想を残した者がいたとしても、彼もやはりその宝を慕うでしょう。過去においてのみならず、現世に生きる万民も慕うでしょう。その価値に憧憬するでしょう。今だけに限らず、未来においてもそうなるでしょう。ところで、今までは、そのような宝が自分自身だということが分からなかったのです。

 では、現在の時点で、もう一度自分自身を振り返ってみるとき、果たして私自身は貴い存在か? 自分がどれほど貴い存在かというとき、皆さんはどれほど貴いですか? 一人の男性なら男性についてみるとき、その前後左右には、妻がいて、子供がいて、父母がいて、親戚がいます。親戚を連結させて民族と国家に、国家を連結させて世界の中に同参するようになった自分の存在というものは、どれほど貴い存在でしょうか?(一七・一三)

 皆さんの血には、縦的な神様の血が入っているべきであり、横的な真の父母の血が入っているべきです。それが一つとなり、愛で同化された中で生まれたのが皆さんの生命です。それゆえ、皆さんの生命は、統一的な心情圏内にあるのです。統一の核の根を中心として、生命の起源を共に相続して生まれたのが「私」だということです。(一八一・三〇四)

二 自分は歴史的結実体

1 自分の起源は神様

 人は、だれも皆、同様に四肢五体と目鼻立ちを持っています。しかし、その体が持っている内容においてはさまざまです。では、このようなさまざまな内容を持った数多くの人間の中で、「私」という人間は、どこに基準を置いて見るべきでしょうか? アダム・エバ以降の我々の先祖たちは、だれも基準とはなりえません。私たちが、複雑なこの世の中で関係しているすべてのことから、少しの間離れて、一人静かに自らを省みてみるとき、自分という人間は絶対的な存在ではなく、相対的な存在だということが分かるようになります。それで、手、目、鼻、口、腕、足などのすべてが、相対的な目的のために動くのです。これらが一つの目的に向かって合わさるときには、相対的な何らかの対象体を必要とします。このようにして動くようになれば、そこに良いとか悪いとかいう何かが存在するようになるのです。自分という自体は、この天地のどこに由来するのか? 人間はその根源を知りません。未知の存在から自分は生まれたのでしょうか?

 それでは、自分はなぜ生まれたのでしょうか? 何かの目的があって生まれたことだけは間違いありません。しかし、自分自身は、ある相対の主体となり、または相対となるということだけでは足りません。ここに必要な条件的内容があるとすれば、それはどんなことか? これは重大なる問題です。今日の自分が存在するためには、何が必要なのか? 自分の周囲には、前後、左右、上下があります。

 では、自分の周囲に存在するものの中で、自分が存在するようになった動機、主体は何か? それは神様です。これを神とかGodとか、神様とかいって呼んできたのです。

 今日までの目的観は、人間主体の観だけでなく、神と人間の関係による観がありました。人間には、「私」という現在の実体を中心として、未来に成すべき目的としての実体があるのです。(一二・一四四)

2 自分の根源は愛

 「私」である! この「私」という概念。自分はなぜ最も貴いのか? これが問題です。皆さんは分からないでしょう。どうして自分が貴いのか? あらゆる測定は、ただ人間のみを中心として測定するのではありません。自分が生きている日常生活、あるいは人類が今まで歴史を経て生きてきた、数多くの先祖から、今まで経てきた先祖から及んで体として存在する「私」、その「私」というものは、どこまでも第二存在として取り扱いたくないのです。いつまでも一番なのです。

 自分も知らず、自分は貴いものと認め、自分という絶対的な位置であらゆることを測定できる基準として立てようとするのです。自分の意志、自分が願うこと、自分が好むこと、すべてをそのように考えるようになった原因はどこからかということが問題です。それはどこから始まったのかというと、神様から始まったのです。

 神様は体と心の中心となる愛を基盤として、自分を立てたという事実を知るべきです。その「私」は、愛を中心として立っているために、自分は愛を中心として生きなければなりません。出発がそうだから、そのように伸び進んで、宗教を求めなければならないということです。

 「私」というものがなぜ貴いのか、ということです。数万数千代の祖先を経てきましたが、本来の神様が考えていた自分という概念は、その伝統的基準と一致するようになるときに、その権威の位置を常に意識するために、自分というものを絶対視せざるをえないということなのです。その自分、立っている自分を支えている基盤の根源は何かといえば、それは愛というものです。(一三七・三一一)

3 三大父母による自分

 「私」というものはいったいどこから生まれましたか? 皆さんを小宇宙といったでしょう、小宇宙? 自分はこの地球星の縮小体です。宇宙の縮小体なのです。皆さんの体には、地球に存在するすべての元素が皆入っているでしょう? それゆえ、宇宙が加担しているのです。それを知るべきです。第一に、宇宙が加担しています。では、だれが自分を作ったのでしょうか? 宇宙が作ったのです。宇宙が作りました。宇宙が人間を形成してくれたのです。そうでしょう?(はい)。この宇宙が「おい、私のものを全部返してもらおう。」と主張するようになれば、すべて奪われるのです。結局自分は何かといえば、宇宙の元素を借りて形成されたのです。そのことを知るべきです。借りたのです、借りました。それは何を意味するか? 宇宙が自分を生んでくれたということです。自分を作ってくれたということです。

 ですから、自分に父母があるならば、自分を生んでくれた父母はだれか? 宇宙が第一の父母です。これを皆さんは知るべきです。何の話か分かりますか?(はい)。一〇〇パーセント受け継いだ自分、宇宙から受け継いだ自分の父母は、自分の体の第一の父母は宇宙ということです。それゆえ、自分という存在はこの宇宙の元素を総合した実体だというのです。気分が良いでしょう?(はい)。

 さあ、自分の第一の父母はだれですか?(自然です)。それゆえ、万物を第一の父母を愛するように愛すべきです。その次に第二の父母はだれか? 自分を生んでくれた実の父母です。(一〇五・一〇六)

 人間には、三大父母があります。父親と母親、それからこの宇宙のあらゆる万物も父母です。ここから血肉の供給を受けなければなりません。しかし、これだけでは不充分です。これは生命の根であり、その実は神様に帰らなければなりません。神様に帰るべきなのです。そのように出発したものが回って、何周もぐるぐると回り、これぐらいの実になれば、ぽとりと落ちるのです。実とはそういうものです。

 実というのは、愛の根源、生命の根源から出発して、その次には、一年草の長草なら長草の草が生えうる限りの枝から受難の津液を吸収して実となってこそ、ぽとりと落ちるのです。落ちるときは、夏に落ちるのではなく、秋のような時代を迎えて落ちるのです。循環軌道があるのです。

 皆さんの父母はだれか? 万物が父母です。万物が父母なのです。元素を供給するこの大地、大地は父母ではありませんか? それが父母です。大地が第一の父母です、第一の父母。その次に皆さんのお父さん、お母さんは、第二の父母です。皆さんを生んでくれた父母です。その次に第三の父母は何か? 霊を宿らせてくれた神様が第三の父母なのです。自分の直系の父母がいるからには、傍系の父母がいるべきです。世界のすべての父母たちは、傍系の父母です。分かりますか?(一〇六・八四)

4 自分の背景は先祖

 一体人間は、だれに似てこのような姿なのか? 父親に似たのです。では、父親はだれに似たのでか? 祖父母に似てそうなのです。こうしてどんどんさかのぼっていけば、人間始祖まで行きつくのです。人間始祖がそうであるため、私たちもそうだということです。では、人間始祖はだれに似てそうなったのでしょうか? これが問題になります。それは主人が存在して人間をそのように作ったためにそうだということです。

 作品は、それを作る作家がそのように作ろうと思う、作品に対する構想があるためにそのように作られるものでしょう? そうではないですか? 恐らく、これを否定する人はいないでしょう。それゆえ人はだれに似るようになっていますか? お父さん、お母さんに似るようになっています。もし父母に似なかったとすれば、何代か前の祖先の性禀が隠されていたものが遺伝法則に従って、父母の性禀に合わさって一人の人間として生まれたのであって、何の原因もなく無関係な立場から生まれるはずはないのです。

 皆さんは、自分独りによって、自分になっていくと思うでしょうが、すでに皆さんの先祖の方々が、数多くこの世に生まれては去っていきました。その数千代に及ぶ先祖たちを悪くいってはいけないので、社長様と呼びましょう。その数多くの社長を総合した、総社長として残ったのが皆さんという個体なのです。皆さん、こんな話を聞いて気分が良いでしょう? こんなに素敵なのが人間なのです。

 ですから、皆さんは、何かというと、数千数万代の先祖たちの、様々な姿、資格、価値を収集して博物館に展示した、その展示品のようなものです。このような姿が、今日の皆さんの姿なのです。私たちの先祖がこの世界の前に「我々の後孫はこのようだ。」と言って展示品として立てたのが私たちなのです。そんなふうに考えてみたことがありますか? この世にただ一つしか無い、この天地間に男性と女性は多いけれども、個人自体について見るとき、自分の先祖の姿を全体的に総合して実を結んで生まれた人間なのです。(四一・一三九)

5 自分は歴史的結実体

 「私」というものは何か? 一体私とは何か? 「私」の観念、平面上に現れた人間、私なにがしを中心として見るとき、「私」というものは何か? こうした問題について見るとき、自分は金だれがしであり、ある大学に現在在学中の学生だという、その自分ではありません。この宇宙の根源から過程を経て、現在に至る全体を総合したひとつの表示体なのです。ひとつの宇宙博物館の要素を縮小して、宇宙の宝物を展示したひとつの博物館のような価値を持った存在が、自分なのです。(一四五・一七六)

 現在、皆さん自身は何か? 歴史的結実体です。そうでしょう? 結実体は結実体ですが、皆さんは歴史的氏族を中心とした結実体であるのです。皆さんは善なる先祖たちがいて、その先祖たちの功績によって先生に出会ったのです。皆さん自身が先生に会いたくて会ったのではなく、皆さんが優れていて会ったのではありません。(四六・一五二)

第二節 心と体の関係

一 本然の心と体

1 本然の心と体の関係

 私たち人間は、心と体を持っています。この心というものは、神様と離れていてはいけません。これが一つにならなければなりません。では、この体はどこにあるべきかといえば、神様のみ旨と一つになっていなければなりません。皆さんの体を中心としてみれば、体には五官というものがあります。その五官がどこにあるべきかといえば、神様のみ旨とともにあるべきなのです。体がそういう感覚のみならず、どこに向かって動いて行くべきか? それは神様のみ旨の方向と一致すべきです。(六九・二七四)

 心と体について考えてみると、心は大きいですが、体は小さいのです。このように、心と体は常に相対的関係を結んでいます。それでこそ、互いに刺激を与え合うことができます。それで、自分が喜びや悲しみを感じるのです。それゆえ、相対的関係を結ばなければならないようになっています。(二七・六〇)

2 人間の本然の心とは

イ)心の主体と宗教

 私たちには心がありますか、ありませんか? 見ましたか、見ませんでしたか? 見られなくても心はありますが、この心の主体はだれであり、心の主人に会ってみたのかというのです。喜ぶには、一人きりで喜べますか? 絶対不可能です。一人きりで座りながらニヤニヤしていたら、狂ったといわれるのです。心と体は互いに闘います。互いに闘うのは、体が心を嫌い、心も体を嫌っているということです。ところで、互いに嫌いあっているということは、それでも互いに好きあう別のものがあるために、嫌いだというわけです。嫌いなものがあるところを見ると、好きなものがあるということです。

 では、その好きなものとは何か? 心の対象は何か? 心は目に見えないので、その対象も見えません。聖人たちはそれを追求してきました。(四一・七三)

 神様の息子、娘になるのには、体をもってしてなれますか? なれません。神様は無形の神であるので、その相対となるためには、有形ではだめなのです。神様は無形の主体としての絶対者であり、中心存在です。そのようなお方の相対的な位置に立つためには、有形体ではいけません。無形の相対的な内容をもった存在でなければいけません。絶対的であり、無限であり、途方もなく大きい神様であるがゆえ、その対象的な位置に立とうとすれば、途方もなく大きくもなれ、途方もなく高くもなれる無形の姿を備えていなければなりません。人間において、それは何かというと、体ではなく心なのです。(四一・六七)

 人間において、偉大でとてつもないこの心が、喜ぶことのできる主体者に出会い、彼とともに永遠に幸福を讃美しうる位置に入ってみれば、どれほど素晴らしいでしょうか? そうした位置は、それこそ貴い位置なのです。それゆえ釈迦牟尼のようなお方は、天上天下唯我独尊といったのです。全天地間に自分だけが貴い存在だといえる境地にまで到達したということです。神様も知ってみれば、自分と同じだというのです。

 ですから、心は目に見えない神を好みます。心は相対することのできる対象に出会うまでは喜ぶことができません。今まで人間は体が喜ぶことのできる相対に出会おうと、享楽などにふけりながら、一度しかない花のような青春時代を何もせずに送って良いものかと、体本位の血気旺盛な青春時代を誇っていますが、そういうものは長続きせず、終わってしまうのです。私たちが一生を最後まで生きてみれば、その行く末を見ることができます。

 享楽の道はどんなに行っても虚しいのです。ですが、心が願う世界の喜びというものは、すべてやってみることができるかといえば、それはやってみる機会もないし、やってみる能力もないのです。では、それは存在しないのか? 存在するのです。こういうことを知ったために、知恵深い人たち、真なる人の道を行こうとする人たちは、そうした目に見えない心の相対を求めてさまようのです。この宇宙を創造した神が存在するとすれば、それは天宙の中心であり、絶対的な方です。私たちは「神は私の心と相対なさる。」」このように主張せざるをえません。

 それゆえ、主張するその内容を個人的なこととしてのみならず、世界性を帯びたこととして体系化させ、過去、現在、未来を超越して、人類の新しい希望として登場することのできる、一つの思想的なものとしようとすること、即ち、神を中心とした新しい思想的な体制を整えてみようというのが、人類の心の願いです。その心が願う世界は、現在の社会組織のような形態の世界ではありません。

 心が喜びうる、内的な世界のような組織的な形態を整える仕事を、歴史を経てきながらやってきたこと、言い換えれば、良心を持った人間たちが願う背景、背後の基盤を、歴史を通じて残してきたのが何であるかといえば、宗教なのです。その宗教は、ある一つの民族に帰結されるものではなく、世界に包含されるものです。宗教は一つの民族国家で発生しはしましたが、その民族の宗教としてのみならず、民族を越え、世界に連結される宗教形態として発展するのを、私たちは見ることになります。(四一・七一)

ロ)本然の心の動き

 昔の聖賢たちが教えてくれたことは、心を中心として天を敬う敬天思想とともに、万民を愛せということです。天を愛し、地を愛し、人を愛せと教えたのです。

 では、皆さんの心は天に接することのできる百パーセントの要素を持っているでしょうか? 世界人類に接することのできる、百パーセントの要素を持っているでしょうか? 持っていますか?

 本心自体を分析してみれば、天を愛し、地を愛し、人を愛することのできる本然の心があります。この本心は、どんなに消そうと努力しても、自動的に生じるのです。こうした本心があるために、歴史的に理想世界、すなわち本郷の国、本郷の世界を追求してくることができたのです。それゆえ、本心作用は自分によって始まるのです。「だれだれ」と言えば、その人の看板だけを見ます。しかし、その人をはっきり知ろうとするなら、その人の心を見なければなりません。(一九・二八五)

 皆さん、統一教会に通うようになればそうなのです。昔は朝に目を覚ましてご飯を食べると、学校に行くのがお決まりだったのに、教会に入ってきてからは、学校に行くのも仕方なく…。そして行くときも教会に寄って行きたいのです。ここにいる学生たち、そういう気持ちになりませんか? そういう気持ちのない人は統一教会員ではありません。

 また、家に帰ってじっとしていると、家にはお父さん、お母さんもいらっしゃるし、食べ物もたくさんあるし、部屋も良いし、何不自由なくすべてがそろっているにもかかわらず、どこか、心がカラカラになり、教会に行きたいのです。見かけは良くない所ですが、それでも教会に来れば気分が良いのです。家に帰りたくないのです。そんな何かが感じられるのです。そう感じられますか、感じられませんか? そのように感じられないなら、統一教会員ではありません。皆、かかしだというのです。

 ではそういうことを体が感じますか、心が感じますか? 体にしてみれば自分の家の方が居心地が良いのです。家では食べるのも良いものを食べますが、ここにはカクトゥギ(大根のキムチ)しかありません。キムチがあっても取るに足らないもので、それも無くて塩につけて食べたり、チョンガクキムチ(小ダイコンのキムチ)一つで茶碗一杯のご飯を食べながらも、ご飯がおいしいと、きれいにこそげ取って食べるのです。それはおかしいというのです。どうしてなのでしょうか? 体が喜ぶからでしょうか、心が喜ぶからでしょうか? 見えない心が喜んでそうなるのです。何のために? 心が主人に出会って、心の本郷をたずね、心の国をたずね、心の世界をたずねることができる道に入ってきたためです。江原道の山奥に入り、穴を掘って畑仕事をしていた人が、自分の故郷に行くというとき、山奥の家を出るその気持ちが良いでしょうか、悪いでしょうか? 気分が良いのです。今出発する場所は山奥ですが、故郷に行くと考えれば気分が良いのです。

 なぜ良いかというと、行こうとする目的地が正しいということを心が知っているので、心のアンテナを中心として電波を授け受けするようになれば、無理なく、ぶつかり合わずにどんどん回って行くのです。それゆえ、力が湧いてくるのです。それと同様の原理なのです。(四一・七四)

ハ)心の大きさ

 皆さんの心は狭いですか、広いですか? 心がどんな姿なのか、皆さん自身はよく分かりませんが、心とは無限に大きいものです。では、その心はどれくらい良いのか? 世界の三〇億の人類一人一人に何百億ウォンずつ与えても、また与えたいのが心なのです。そうですか、そうじゃないですか? 心はこのように素晴らしいのです。それゆえ、人間は無限な愛、無限な希望の花を咲かせることができるのです。それはどうしてでしょうか? 無限に神の性禀に似たからです。(二七・六〇)

 それでは皆さんの心はどれくらい大きいでしょうか? これは測定することができません。大きいといえば無限に大きいのです。測定できないくらい大きいのです。それはなぜそんなに大きいのでしょうか? また小さいといえば、途方もなく小さいのです。針の先も入り込めないほど小さいのが人間の心だというのです。大きく広げれば無限に広げることができ、狭めれば無限に狭めることができるのです。そういう本質、本姓を持っているのです。それはなぜ、心はなぜそのようになっているのか? それは神様が臨在することのできる神の宿になっているからです。(一四五・三一三)

 心の対象に出会ったならば、その喜びはどれほど大きいでしょうか? その喜びは一日、二日で終わるでしょうか? どれほど大きいか見てごらんなさい。心は神様に侍るだけでは喜びません。神様の内深くに秘められている愛までも、しっかりつかまえてこそ「へへ」と喜ぶのです。お母さんが自分に愛をくれるときも、気まぐれな愛を望みはしません。お母さんが持つただ一つの真実の愛を、自分にすっかりくれてこそ「へへ」と喜ぶのです。(四一・七三)

ニ)心の基・情・知・意

 私たちの心の基を分析してみると、知・情・意から成っています。その中でもどこにとどまるでしょうか? 知・情・意のどれが根本であるかというとき、意でもなく、知でもなく、情なのです。皆さんは自分にとっていちばん大切なものがあるならば、それをどこにしまっておきたいですか? 自分しか知らない場所にしまっておきたいのです。そこは、だれも触れることができず、関与できない、すなわち自分だけが絶対的に管理することのできる場所です。それはどこでしょうか? 心の奥底なのです。心の奥底に埋めておくのです。ここならば安心だといえる場所にしまっておくのです。すなわち、人々が普通貴重品をしまっておく、たんすのような場所にしまうようになっています。こうした点から見るとき、真なるものがとどまりうるところは、自分自身の心の奥底なのです。

 情は、独りでは成り立ちません。それは相対的なものです。相対的観念でなくては成り立ちません。どんなに仲むつまじい夫婦がいたとしても、子供が無くては寂しいし、つまらないのです。若いときはどうか分かりませんが、年をとるごとに夫婦だけではどこに行くにしても物寂しく退屈なのです。その前に息子がいて、息子が父母を案内して行くのが、より調和するのです。子供がいない人々には希望がありません。子供が希望なのです。その子供がなければ、希望もないのです。真なるものとは、それ自体永遠なる希望として広がっていくものです。瞬間的な希望ではない、永遠の希望として広がっていきます。また、心情的なことも、永遠の希望とともに永遠に共存するのです。このように情を中心として見るとき、どんなに優れた女や男であっても、独りでは相対的関係を成しえないのです。(二四・三一九)

二 堕落による心と体

1 心と体の闘い

 皆さんの体と心が互いに闘うのは、堕落したためです。それは本来、神様が闘うように創ったのではなく、神様の前に背反しうる要素を持った、サタンの血統を受け継いで生まれたためです。もともと神様と人間の前に、心はプラスなのに、堕落したために、体がプラスになろうとします。それゆえ、二つのプラスが対立してぶつかり合っているのです。(一九・一九四)

 堕落によって、体と心が分かれてしまいました。体と心が分かれると同時に、体が行く道と心が行く道も分かれてしまいました。これが問題なのです。これをどのように一つにするか? 一つにするには、何によって一つにするか? これを一つにするためには、堕落した動機を知らなければなりません。堕落した動機を知って、堕落しなかったとき行くべきだった本来の道を知るべきなのです。(一四〇・一三)


2 心の願いと体の願い

 皆さんの心と体は分かれているでしょう? 心と体が闘うでしょう? 歴史以来今まで、数多くの聖人賢哲たちや、数多くの人々が生まれては去って行きましたが、心と体の闘いを解決した人、統一したという人は、一人もいませんでした。パウロのような人もこう言ったではないですか?「私の中に二つの法があり、善と悪が闘っている。」と。いつでも人間は、善の法に従って行くのを願わず、悪の法に従って行くのです。それで「ああ、私はなんというみじめな人間なのだろう。」と言ったのです。パウロのような人でさえそう言ったというのです。「だれがこの罪の法から解放してくれるのか? 主イエス・キリストの内にある神の愛によってのみ可能である。」と、言ったのです。(一八七・四一)

 それゆえ、昔から数多くの聖人賢哲たちがこの地上に生まれ、苦労して探そうとした内容は、一貫して、体の人を克服して、心の人が追究する、人間の行くべき完全なる真の道を探すことでした。その問題を解くために、生涯をささげて研究し、命を懸けて闘ってきましたが、未だにその問題を、科学や数学のように何らかの公式を作って、こう問えばこういう答えが出てくるという具合に、明確に解くことができないまま、歴史は流れてきているのです。そうした歴史の中で、今日皆さんがこの場に来て、統一教会の文先生に出会い、こういうみ言を聞いているのです。

 では、皆さんの前に横たわった問題、すなわち人生の行く道は何でしょうか? これが問題です。二つのわかれ道の間で、右往左往している人間たちの行く道はどれかというのです。昔の人々は、人心は朝夕に変わり、山河は今も昔も変わらないといいましたが、人の心はそんなに変わるものではありません。人間が変わるのであって、人の心が変わるのではないという意味です。人間が変わるので、心も仕方なく従っていくため、心が変わるように思われるだけです。心は常に善の側に立っているのに、変化する人間に従って行動してみると、心も悪く変化するもののように見えるのです。それゆえ人の心が変わるといったのは、間違っていったのです。

 人は、心が望む道と体が望む道とのわかれ道に立っているのです。ところで、この世の中は、心が望む所に向かって行く道を保障してくれ、心が願う志のために生きることのできるような環境を整えている所ではなく、体が望む所に向かって行くように誘引しうる与件が万全の準備を整えているような所です。それゆえ、私たちが生きているこの世の中は、善なる世の中ではなく、悪なる世の中であることに間違いありません。どんな世の中ですって?(悪なる世の中です)。

 悪の蛇が皆さんのお尻にいかりを差し込み、道をふさいでいるのです。それがだれかは分かりませんが、このように皆さんの行く道をふさいでいる怨讐がいるとするなら、許すことができますか? 許すことができないのです。体が望むままに行ってみたら、途方もない罠にはまって、人生の行くべき道など夢にも考えられない、人生とは関係ない禽獣のような悲惨な運命に逢着するようになるのです。これが今日の人生行路なのです。それゆえ、私たちは何としても悪の侵犯を受けずに、心が行くところに従って注意して用心しながら、警戒線を踏み越えて行かねばならない過程に置かれているのです。

 それで、人倫道徳だとか何らかの宗教とかいうものは出てきましたが、それらが人間をしてこうした道を完璧に正しく行かせるために、絶対に必要な要件として要求していることについては提示できずにいるのです。(三八・三一〇)

三 肉身復帰

1 堕落した結果の肉身と霊人体

イ)肉身

肉身はサタンが活動する基盤。

肉身は悪の基地であり悪の根。

体はサタンの国の王宮。

血と肉は怨讐サタンの要素。

体は生活を調節し、一生を同伴。

(五二・三〇四、三八・二七一、四七・二七一、一〇・九六、三五・九一)

ロ)霊人体

心霊は神様に属するものを指向。

良心は天国の哨所(歩哨が立つ所)。

怨讐の血が体にあって、心の基準がサタンに押さえこまれている。

心は生涯を調節し、永遠を同伴。

(五二・三〇四、四七・二七一、一〇・九四、三五・九一)

2 堕落した肉身の性向

 肉的な面はいつも霊の道に喜んで従おうとはしません。心と体が闘うときには、いつでも体の方が先に心に対して闘いを挑んでくるのです。体は私たちをして肉的欲求を追求させるように刺激して、自分のために生きろといいます。また、体はしきりに上がっていこうとし、おごり高ぶろうとします。食べさせてやればとめどもなく食べようとし、休ませてやればとめどもなく休もうとします。また、体はゴツゴツしたものを嫌い、ぽっちゃりして、つるつるして、ふわふわしたものを好みます。また、頭を垂れるのを嫌がり、犠牲奉仕を嫌います。(五二・三〇四、五二・三〇五、一八・三一四、六五・七三、三八・二七一、一八・六八)

3 心と体の力の比率

 今までは、堕落した人間の心と体が闘ってきましたが、その比率は互いに似たり寄ったりでした。その比率が一〇対八ぐらいでした。体が対している環境は、世界全体と接していますが、心が行くべき道は一つの道しかありません。堕落した世界に対する人間の体は、時々刻々環境に占領されてしまいましたが、心は一つの道に従ってきたのです。それゆえ、現実世界は現れる結果を取り締まってきたのです。

 悪いことをしようとするとき、心に恐怖が訪れます。そうして、それを行うようになれば、今まで積んできたものが崩れます。これを見るとき、心は肉身の行動を最初から、序盤から干渉しますが、終盤に至っては肉身に支配されるのです。それゆえ、外的な比率で見れば、一〇対八ぐらいですが、環境のために心が体にいつも押されてきているのです。(一八・六六)

 今日この善悪の世界は、個人に蒔かれたものが、だんだん拡大して、世界に実を結ぶために、結局自分一人を展開したものです。今日、このような社会環境の中で、私たちは生きています。私たちはこのような囲いの圏内で生きていくのです。これが人生です。

 ここでの自分の範囲が、どれほど大きいかが問題です。ある人は、このように行き、ある人は、これと反対に行くこともあるでしょう。皆さんはまた、自身の先祖がたどってきた道を行くのです。それが悪の側に行くのは、体に従うことであり、善の側に行くのは、心に従うことです。

 では、ここで個人が出発するにおいて、一〇〇を基準にするとき、心を中心とした善が五〇を越え、六〇ほどに該当するようになれば、その氏族を通して世界は支配されるでしょう。宗教は今まで、何をしてきたのか? この世の中で、征服すべきことがたった一つあるけれど、それは家庭を征服するのではなく、民族を征服するのではなく、世界を征服するのではありません。すなわち、自分を征服するのです。それで、宗教は自分を征服するために生まれてきました。皆さんは、これを知るべきなのです。いつも自分自身は善悪の境界線にいるのです。

 では、皆さんがここから出発するにおいて、どのように行くべきか? 各自が指向する量が一〇〇とするとき、そこで体と心が五〇対五〇ではいけません。そのような人は中間霊界にとどまるようになります。緩衝地帯にとどまるのです。分かりますか? もし、体が六〇ならば、間違いなく地獄に行きます。地獄はどんな所か? 陰になる所です。天国はどんな所か? 輝く所です。そう分かればいいのです。そのような人は、必ず陰になる所に行くのです。ここは下がれば下がるほど、暗くなります。(三七・一二一)

4 肉身復帰

イ)肉身復帰のための姿勢

 体がしようとする通りにしては、絶対だめで、悪い所には行くなというのです。人情と人道は、サタンが悪を中心として出発させやすいため、これを否定すべきです。

皆さんは、修理工場に入るべきです。修理工場に入れば、早く分解作業をしなければなりません。ばらさなければならないのです。分解作業をするには、昔に持っていた思想、権力、観念、職位など、すべてを否定しなければなりません。気分が悪くてもしかたがありません。そうしなければ、修理ができません。体を縛れ、犠牲になれ、穏やかで謙遜になれ、ごうまんになるな、ということです。食欲、情欲、物欲を全部放棄しろということです。断食と苦難と苦痛の道を行くべきです。

 私たちは、熱心に祈祷すべきであり、神様のみ旨のために、熱心に活動すべきです。一片丹心ですべての精誠を尽くすようになれば、当然に心の力が湧いてくるのです。今日、人々は、修養だ、道徳だといいますが、それをもってしてはだめです。宗教が私たちの肉身的な欲求を押さえて、勝利するのに寄与しています。

 それゆえ、私が一生の間、悟りの道に立ち、標語を立てたのが何かというと、「宇宙主管を願う前に、自己主管を完成せよ。」ということでした。宇宙主管完成より、もっと難しいのが自己主管完成です。これがどれほど難しいことか?(三八・二七一、三九・三五五、七〇・六八、二三・一六六、五二・三〇五、三九・二八五、一〇・六六、五二・三〇五、一〇一・三七)

ロ)肉身主管の方法

 さあ! この体をどのようにたたきつぶすか? これを煮たり焼いたり、何とかしてひとつ作らなければならないのですが、その方法が何かということです。簡単に言えば、二つの方法しか無いのです。

 最初の方法は何ですって? 体を強制的に征服することです。すなわち、この体を木っ端みじんにして占領する方法です。強制的に肉身の欲求を絶ち、欲情を除去させる方法です。それで、断食祈祷をしろというのです。断食祈祷をしながら、精誠を尽くせば、体の気がサッと抜けて、動けなくなります。そうなれば、心が体を支配することができるため、喜ぶのです。その次には、犠牲奉仕することです。自分を殺せということです。これは、全部肉身が嫌がる行動です。それゆえ、真なる宗教は、肉身とのすべての関係を否定するところから出発するのです。そのような結論が出てきます。分かりますか?

 皆さん、すべての宗教の教典を見てください。よく食べて、豊かに暮らせという内容がある教典がありますか? そのような教典は、一つもありません。宗教は、死につつも人のために福を祈ってやれ、というのです。これは体ではできません。そのようなことが肉体をたたきつぶすことなのです。

 その次に、体を主管するもう一つの方案は何か? 心と体は、似ているので闘うのです。結局お互いが似ているため、問題になるのです。それで、二番目の方案は、心に力を吹き込むのです。分かりますか? 心に力を吹き込まなければならないのです。この二つの方法以外にはありません。

 そうするには、すべての精誠を尽くすべきです。精誠を積み上げれば心の門が開きます。その心の門が開きさえすれば、とても強い力が出てくるため、体のようなものは問題にもならないのです。皆さんは、まだそれが分からないでしょう。心と体が似ているのに、心の力が体の三倍にだけなっても、体は問題になりません。体をそのまま置いても問題にならないのです。従って、心に力を圧縮させて、体を一時に引いて行こことができなければなりません。それゆえ、悟りの世界では、精誠を尽くすのです。

 皆さん、道に通ずるという言葉を聞いたでしょう。道に通じれば、心から強力な力が出てきます。今まで、心はふいごのように、一度も体と対等に闘えず、いつも負けてきました。それは、心の力が弱いためです。ところで、この心に注射を打って、力を約二~三倍ほど伸ばせばどのようになるでしょうか? そうすれば体を引いていくことぐらいは、問題ではありません。熱心に引っ張っていけるのです。自動車のチューブに空気を強く吹き込めば、大きく膨らむように、心にも力を強く入れれば、どのようになるでしょうか? 力が強くなるでしょう? そうなれば、体がしようとすることを考えただけでも、とても気分が悪いのです。道に通じた人は、心に強力な力が来ることによって、そのまま置いても、体は心がしようという通りにするのです。

 ところで、心の力の源泉は愛です。ですから、心が授け受けして生じる爆発的な力を神様が連結さえすれば、それは何倍、何百倍、何千倍にも統一しうるのであり、世界万民が待ちこがれていた希望を成就することができるのであり、永遠に共に生きることができるのと同時に、天国も自分のものにすることができるのです。その秘訣が、すなわち愛です。愛は、統一に向かって上がっていく昇降機であり、統一を成しうる絶対的な秘訣なのです。

 このようにして、心に愛の力を再び復帰しなければなりません。それゆえ、宗教に酔えば喜びが訪れるのです。皆さん、狂った人は独りで笑うでしょう? 狂った人も笑うのに、神様の愛に狂えば、どれほど笑うかというのです。笑っても、笑っても絶えず笑いが出て、口が巻き込まれていくでしょう。目をつぶっても気分が良く、目を開けても気分が良く、千年、万年生きても気分が良いのです。

 そのような人がいたらどうか? 皆さんにそのような愛の力が生じたら、どうなるか? いっぺんに細胞全体に電気が通じるように、一度にその愛に帰結して、その懐に抱かれて、そこで踊りでも踊るようになるでしょう。その踊りは、自分一人で踊るようですが、世界がそこに拍子を合わせるようになっています。それで、そのような力を補強するために、皆さんが精誠を尽くすべきなのです。そうして、本郷、すなわち堕落の限界線以上に上がって、完全にマイナスになれば、ここに完全なプラスが来るようになるのです。来るなといっても、自動的に来るのです。

 このような二通りの方法以外には、体を調整する方法はありません。それで、神様は体の支配を完成するために、このような作戦を繰り広げておられることを確実に知るべきです。(七〇・六七、一八・三二八、六五・七三、三八・二七一、一八・三二七、三五・六〇)

 体と心の闘いを停止させてこそ、初めて天国ができるため、体を思いのままに引っ張れる人を作ろうというのです。心と体の比率が五対五なので、おあいこなため、闘いが起こるのです。体を制裁するために、心を一〇倍ほどポンプで高圧に圧縮して、強く吹き込んで体と心の比率が五対五〇くらいにしろということです。そうすれば、体は心の前にびくともできないのです。あたかも、大人の体に子供がぶら下がっても引いて行かれるのと同じです。これはレスリング・チャンピオンの前に立つ小学校の生徒と全く同じで…。

 また、カエルに電気が通じると、カエルが四肢を開くように、その力さえ得れば、じっとしていても、細胞がはじけるような力が生じるのです。

 少なくとも、「三年間体と心が一つになりうる。」と言えば、神様は必ず皆さんの前に現れ、働かれるのです。分かるように現れ、みんなびくともできないように導くのです。私たちの霊魂が、神様が働かれうる土台になるようにすべきです。(二三・一六六、三九・二〇〇、四七・二七、六五・七四、六九・二八〇、三八・三〇四)

5 肉身を主管すれば神様が臨在

 皆さんの肉身が、サタンに従わない習性を持つようになれば、皆さんは完全に新しい存在であることが分かるようになり、新しい人になって、天に向かうようになるでしょう。天は働かれるようになり、私たちは、私たちの心霊から巨大な力がわき上がるのを感じるようになりますが、それを何というか? 宇宙力というか? 全体を糾合させ主管できる自制力が生まれるのです。そのような力が生じれば、力から見るときには、相手がありません。

 このときには、神様が私たちの中に働かれ、私たちの中におられようとするのです。そうなれば、私たちが神様とともに生きていることを実感します。この境地に至らずしては、神様の息子・娘といえません。このようになれば、もし皆さんが悪いにおいをかげば、頭が痛くなってきます。また、どこかに行こうとすれば、足が非常に重くなります。すでに体が先に分かるのです。この体は、すなわち聖殿です。本来人間は、地だけ主管するのではなく、霊界まで主管するようになっています。原理での「心と体が一つになれば、神様が臨在される。」という言葉がそれで成立するのです。(五二・三〇五、五二・三〇六、三五・五九、一〇・九七、六九・二八〇)

 私たちは、過った自分であることをもう一度悟り、体と心が一つになり、一つの目的に帰結しうる絶対者の息子・娘になり、相対になり、永遠無窮に幸福な世界で、いつまでも暮らすことができる皆さんになることを願う次第です。これが人生の行くべき真なる道です。(三九・三五七)

第三節 真なる人の行くべき道

一 人格者の道

1 「人格者」とは

 人格者はどんな人か? ご飯だけよく食べて、ご飯のために生きる人が人格者ですか、芸術や文学や詩に造詣があり、豊富な鑑賞をしながら、山に対してささやき、野に対してささやき、流れる水に対してたたえることのできる、このような人が人格者ですか? どちらが価値的な人間に近いかというならば、ご飯を食べる人は物に近いのです、物。何の物? 動物に近いのです、動物に。動物に近く、その次に自然を楽しみ、抒情の心情が豊富な人々は何かというと、神仙に、神仙に近いのです。人の中には二種類があって、一つは動物的な人間で、一つは理想的な人間です。(八五・一四三)

 どんな人を人格者というか? ある社会制度の中で、中心的な位置に立つことができる人を人格者といいます。例えば、ある町内で尊敬される人格者がいたとすると、彼はその町の内外に住んでいる人々に、生活的に精神的に中心的な作用ができる人です。それでこそ彼は、尊敬の対象になりうるのです。

 それは、国家においても同じです。国家もやはり国家の代表者、すなわち、一人の人格者を中心に国家が形成されています。その人格者を中心に、国民が相対的関係を結ぶことによって、実体的な組織が形成されるのです。このように考えるとき、範囲が広い世界にもやはり中心的な人格者がいるべきなのです。

 人格者といっても、外的に、すなわち、肉体的に見れば普通の人と別に差がありません。しかしながら、内的に見れば、思想的な面であるとか、精神的な面が普通の人とは違います。

 このように見るとき、人格者を決定しうるのは、人の外的な面ではなく、精神的な面であるということが分かります。それゆえ、人間の精神的分野を中心として人格を論じるべきなのです。

 この精神的な分野を広げる者になるためには、心の世界を知らなければなりません。心は無限大に接しうる能動性を持っています。このような点から見るときに、人が持っている欲望は体から生じるのではなく、心から生じるということが分かります。心は絶えず作用しながら、無限な欲望をかきたてています。

 また、私たちの人格を中心にして見ても、人格というものは、ある社会や国家や世界の限界圏に限定されているのではありません。さらに進んで、過去、現在、未来までも越えうる、絶対的な最高の基準を見つめながら進んでいるという事実が分かります。このように、絶対的な位置まで進もうとする内心の作用を見るとき、心の世界は無限と通じているという事実が分かります。(二五・一二五)

 ある人を人格者であるというときには、その人の外貌や学閥、経歴または地位を見ていうのではありません。どれほど、原理的な立場で生きているかということを見るのです。それゆえ、何か外的に華麗で多様なものを強調するのではありません。心が天に仕えるにおいて変わらない人、そのような心を持って、神様のみ旨に合わせて生活していける人が人格者なのです。(一九・二八五)

 人格には、縦的な人格、良心的な人格、その次には横的な人格、肉体的な人格があります。この人格を連合して、縦的な人格は、水平線に対して垂直に立つべきであり、また、肉的な人格は、垂直に対して九〇度の横的な人格に立つべきです。

 それでこそ、すべての角度がいつも九〇度になり、球形になるのです。そうなって、その中心ポイントさえカーンと打てば、そこに関係する千万の線を引いても、その中心を通して線を引くために、ここに作用する力は、球全体に作用するのです。そこだけカーンと打てば、その全体が響くのです。全体が分かるのです。(一七六・一三八)

 このように見るときに、人に人格にも骨がありますか、ありませんか? 見ましたか、人格の骨?「人格」というと人の形態、備えた人の形をいうのに、その中は見える人、私のように見える人がいますが、私をこのように見えるようにしうる根本を見るなら、見えない中に隠れている骨のような形成体があります。その形成体によって、見える形体がこのうに存在するようになるということを知るべきです。(一七七・三一五)

2 人格の中心・心情

 今私たちに最も必要なことは何か? 愛の後光です。網の元綱のようなものが神様の愛です。その神様の愛が、自分にいかりを下ろさなければなりません。

 人格の中心を何に置くのか? 真理に置くのではなく、心情に置くのです。その位置はどんな位置か? その位置は、一生の間春をたたえる位置です。(三三・六八)

 みなさんは、死んでも神様の愛を追求していくべきです。皆さんが人生の道を行くにおいて、今まで追求してきた神様の人格の中心は何か? 真理ではありません。その中心は心情です。その中心の極を超越できる位置に入るべきです。その位置に入れば、自分の死の苦痛が考えられないのです。死が訪れる瞬間といっても、その死の苦痛を忘れ、父の愛の懐に抱かれて眠ることができるのです。そうすることのできる人になるべきです。そのように最後を終える人がいるなら、彼はこの地に生まれては去った人として、だれよりも最高の贈り物を抱いていく人です。(三三・八四)

 人格とは何か? 人格は、言葉だけでなく、心情と関連したものが人格の表象であり、これが永遠の基準になるのです。それで、今日私たちは、心情の神様を主張し始めたのです。これは、最後の神様の人格の基準です。神様は愛であるというために、愛の本質である心情の起源を中心として、そこからわき出る人格を中心として…。その人格の下に、天理の大道を明らかにしていこうという主張をするにおいては、今日統一教会の文なにがしに、だれもついていけないのです。(八四・一二三)

 悟りの世界で人格完成という標準は、どこから出てくるか? 愛から出てくるのです。神様の無限で絶対的な愛を中心として、人格完成ができるのです。(三三・七九)

3 人格完成の方法

 (先生が、心と体が一つになる人格形成をすべきだといわれたんですが、そうするには、何がいちばん問題になるのか、一度おっしゃってください)。死ぬんだ! 死になさい! 死んだままでいなさい。足の裏でしきりに踏まれなさい。高いところに上がっては、心と体が一つになる道はありません、私の知るところでは。天下に高い心を持って、上がるようになれば、一つになる道がありません。踏まれるべきです。先生も高くなるかと、神様が四〇年間足で踏んでしまったのです。何の話か分かりますか?(よく分かります)。三千里半島を渡り歩いたあの昔の何か、金サッカッ・李朝末期の放浪詩人。掛け言葉を使い、時の権力を風刺した。・のように悪口を言われ、踏まれて、冷遇されながら、通わなければならないのです。そうでありながらも、それをすべて消化でき、それをすべて喜んで消化できる自分自身を発見すべきです。

 今、普通世の中で考えるとき、すべて心と体が一つになるには、良い位置で楽によく食べ、豊かに暮らせばいいというのです。そういう者たちは、地獄に行くべきです。地獄に行かなければなりません。それゆえ、イエス様は死のうとする者は生きるといいました。反対なのです、これが。逆説的な論理を通して、生きようとする者は死ぬというのです。お前の家族が怨讐だといいました。だれよりも、私をもっと愛せといいました。それは、全部いちばん反対の位置に入れということです。(一四四・二五七)

4 人格者の生活様相

 今日、多くの人々は、絶対的な中心を持っていないために、心が朝夕で変わります。そういう人々を人格者といえません。人格者とは、一生を通じて約束したことを守る人であり、義の水準が高い人です。何かが決定した後には、こうだああだと弁明があってはいけません。皆さんは、自分が約束したことに対しては、宇宙の法則が変わったとしても絶対に変わらないという、人格者になるべきです。(二三・一〇〇)

 人格者は、だれかと約束したことがあれば、それを履行し実践します。これは自分が主張して約束したことであるために、自分はこれに従わないという人がいれば、彼は人格者ではありません。法は公的な基準を中心として、約束したものです。それゆえ、その法の約束圏内にいるすべての人々は、その法を守らなければなりません。約束した人がその法を守れないときには、共同的な法度により、制裁を受けるべきなのです。これが法を遵守すべき人々の責任です。

 だれが主張したにせよ、立てられた約束は実践しなければなりません。実践しなければ、落伍者になります。約束というものは、約束した基準、すなわち、線なら線、点なら点を中心として、すべてが一致しなければなりません。(三一・一三)

 宇宙の本源的な神様の愛、世界主義的な愛、その神様の愛が、堕落以後今日まで生きてきた人間個々人に注がれ折衷したら、永遠な一日を中心として、上がっても愛であり、落ちても愛であり、転んでも愛であるといえる境地があるのではないでしょうか?

 それなら、その境地では、人格の貴さがどこにあるのか? その人は、言葉がうまいから良かったり、その人の目が鳩の目のようで良いとかいうのを超越するのです。どこを見ても、誤りがないのです。彼と関係のあるすべては、香水の香りがするのです。そうであるべきではありませんか? 神様が創造されたものは、全部神様の形状から見るとき、神様の分身であり、神様と因縁のないものはないという、そのような心情を持って見れば、みんな友達なのです。(三三・八九)

二 聖人の道

1 統一教会は「聖人になろう」を主張

 統一教会は何をしようというのか? 偉人をつくろうというのではありません。聖人をつくろうというのです。偉人の前には怨讐がいますが、聖人の前には怨讐がいません。偉人は自分の民族だけ愛した人ですが、聖人は人類を愛した人です。それで、偉人が神様の前に立つとき「お前はお前の民族は愛したが、私が愛する、私が訪ねる世界人類を愛せなかったのではないか」と言えば、進んでいけませんが、聖人の道理に従っていった人は、神様の前に直行できるのです。統一教会は、何をしようというんですって? 偉人をつくろうというのですか、聖人をつくろうというのですか?(聖人です)。(三八・二六三)

2 聖人の主張と教え

イ)聖人はどんな方か

 聖人は一体何か? 聖人が何か分からなくても、聖人はいます。聖人は何か? 聖人は聖人でしょう。「聖」という字は、「耳」の字と、「口」の字に「王」の字が合わさったものです。耳と口が王になるのが聖人です。(一四七・二八二)

 聖人はどんな人か? 聖人はどんな人かというのです。聖人というものは、すべての世界万民のために生き、夜も昼も永遠に及んで生きようとする人であり、人だけでなく、自然とか、宇宙の全部のために与えて生きようとする人です。そのような人が聖人です。ここに異議がありますか? ここで定義を下しても否定できません。(一三三・一八)

 聖人の基準は、何で決定するのか? もっと大きいことのため、すなわち、世界のために、天地のために、神様のために、すべての万象のために、自分のすべてをずたずたに破ってでも、分け与えたがるところで決定されます。(二〇・一八二)

ロ)聖人は宗教と神を主張

 聖人とは、国家的でなく、世界的です。また、世界的ですが、人間だけを中心として世界的であるだけでなく、神様を中心として世界的であるのです。神様を背負って入っていけない人は、聖人になれません。(三八・二六二)

 今まで歴史が流れてきながら発展した、世界文化の思想的精神的起源が、どこから始まるのかというと、聖人の道理から始まってきたのです。それは必ず、宗教という背景を中心として発展してきました。(三九・二五七)

 世界的な人物になるためには、どうすべきか? 人倫道徳だけを中心としてはいけません。人だけを中心としてはいけないのです。人だけを中心としては、国を越えられないのです。国を越えられる、そのような内容は、天にあるのです。天宙思想を持たずしては、国を超越できないのです。皆さんは、これを知るべきです。それゆえ、聖人の名簿に入った人は、全部宗教の教主であるのです。(三八・二六〇)

 聖人たちは、何を紹介したかというと、人間だけ紹介したのではなく、神を紹介しました。聖人の身分に同参した人々を見れば、神をあがめ尊びましたか、しませんでしたか?神を除いて聖人になった人がいますか?また、聖人たちは、人類の道理だけを教えてくれたのではなく、天倫の道理を兼ねて教えてくれたのです。(三三・二九一、三九・三一六)

ハ)聖人の教え

 聖人は何を教えるのか? 必ず神様を教えます。(三四・一九六)

 聖人たちが何を教えるかというと、全部天を主として教えました。その目的は、人間の道理を教えるのではなく、天を中心として、天意にについて教えたということです。すなわち、天のみ旨を中心として、人間が行くべき道を教えました。天意に従って人が生きなければならないということを教えてくれた方々の教えが、世界的な教えになったのです。万国の人々が、あがめ奉り、あがめ尊ぶ全世界的、天宙史的な人になることによって、聖人になったのです。(三九・二五七)

 聖人は、何を教えるべきかというと、真なる生命、真なる人格を教えるべきです。その次には、真なる愛を教えるべきです。愛だけでなく、真なる人格の神までも教えるべきなのです。(一〇三・一五)

3 聖人の教えに対する今日の観点

 皆さんは、宗教はみんな好きですか? 聖人が好きですか、嫌いですか?(好きです)。聖人は好きですが、聖人が築いた基盤は嫌います。聖人は宗主なので、どのような基盤を築いて聖人になったのかというと、宗教の基盤を築いてなりました。そうでしょう? ところで、今まで一般の人々は、宗教のみ言が聖人の教えだといいながら、宗教は嫌います。それは矛盾なのです。

 今日、大学街のいわゆる、エリートと自負する人々、偉そうに横柄にふるまう連中、なっていない連中が多いけれど、気分が悪いですが攻撃するのです。攻撃を受けて気分が悪くても、聞いてみなさい。歴史を見れば、今日憲法のようなものも、全部聖人の道理を中心としてつくられたのです。大韓民国憲法も同じです。聖人の教えをを縮めて、人倫道徳観に立脚して、憲法を設定したのです。その骨子をどこから取ったのかというと、聖人たちの教えから取ったのです。世界の思潮は、歴史の主流思想に接近してきているのです。

 このように、聖人の教えの圏内にいるのに、人々は宗教を嫌います。この頃に至ってはですね、牧師、お坊さんというと喜びますか? 好きですか、嫌いですか?(嫌いです)。では、統一教会の文先生は嫌いですか、好きですか?(好きです)。今、嫌いだといっておいて、それは何ですか? 嫌いですか、好きですか? 好きなのか、どうなのか、見てみれば分かるのです。好きだとすぐにいえないのです。「人心は朝夕に変わり、山色は古今も同じ(人心朝夕変、山色古今同)」という言葉もあるように、人の心は朝夕で変わるといったので、今皆さんがいくら好きだといっても、私は信じたくありません。

 このようなことを見るとき、とても変でおかしい現実ではないかというのです。聖人の道理を好きだといいながら、聖人の築いたその本来の局面は嫌だとは、事故の起こった人間というのです。(五〇・一〇八)

4 聖人と偉人の差異

 聖人はどんな方か? 聖人と偉人がどのように違うか? 皆さんは聖人になりますか、偉人になりますか?(聖人になります)。学生たち、聖人になりますか、偉人になりますか?(聖人になります)。女学生は?(聖人になります)。聖人になるべきです。心がもろく、か弱い女ですが、聖人になるべきです。(三九・二五五)

 皆さんが世の中を見ると、偉人がたくさんいるでしょう? 世の中に偉人は多いのです。大韓民国にも偉人がいます。だれですか? 李舜臣将軍のような人です。彼は大韓民国の人々に国民思想を鼓吹させ、民族の意気を指向させる一つの中心存在として、国民が追慕し崇拝する偉人ですが、大韓民国内でだけです。日本人にはどうなりますか?(怨讐です)。日本人たちは、李舜臣の奴が死んでよかったというでしょう。言ったでしょうか、言わなかったでしょうか? 偉人は一つの国境を越えられません。一か国を中心としては偉人は存在しえますが、聖人はいないのです。

 では、聖人と偉人の差異は何か? 国家のために、生命を捧げた人は、愛国者の名前とともに偉人の名前も得ることができますが、聖人にはなれません。聖人はどんな人か? 聖人は国境を超越した人です。これを知るべきです。聖人は民族のために生きた人ではありません。自分の氏族のために生きた人ではありません。国境を越え、世界人類のために生きた人です。自分が死ぬのは万民のためであり、数多くの人々のすべての人種と国境を超越し、超国家的であり、超宗派的であり、超人種的な立場で死ぬといいながら、全世界の人類と世界的な立場で因縁を結んで決死の道を行った人々が聖人です。皆さんはこれを知るべきです。(三八・三五〇)

5 四大聖人

 人間始祖が堕落することによって、地を失い、人間自身を失い、神様を失いました。それゆえ、最後に残ったものは何か? 神様を捜す闘いです。世界四大聖人たちは、神様を捜すことをしたのです。

 四大聖人といえば、だれだれをいいますか?(釈迦、孝子、イエス、ソクラテスです)。その次にはだれですか?(マホメットです)。ソクラテスを数える人もいるし、マホメットを数える人もいるでしょう?(ソクラテスが入れば、五大聖人になります)。五大聖人ではなく、四大聖人というなら、マホメットが入るか、ソクラテスが入るかというのが問題です。皆さん、ソクラテスは神を教えましたか?(教えませんでした)。

 生死の問題、生命の問題に入っては、知識が価値を付与できないのです。知識には、生死の問題と生命の問題を左右しうる能力がないのです。ですから、知識を中心として真を主張する人は、聖人の側に入れなかったのです。

 孝子は漠然と「偽善者は天報之以福。偽不善者は天報之以禍だ」と言いました。「天」いうのが漠然としているのです。具体的な内容がありません。天を教えてくれましたが、あまりにもあいまいに教えました。それゆえ、儒教は宗教なのか違うのか、中間の立場に置かれいるのです。そうではないですか? なぜならば、積極的でないからです。

 その次に、釈迦はあまりにも冗漫です。仏教も天を教えはしましたが、確実に知らないので、その内容が難しすぎて、霊的です。神様と法を混同しています。法でありながら神様であり、神様でありながら法であるというのです。ですが、そうなっていないのです。仏教は道理の宗教なのです。訪ねていくと後では神様を否定する立場に入るのです。また、あまりに原始的であり、冗漫であるために、私たち人間と何らの関係も結べません。

 回教は総合的な宗教です。キリスト教の旧約聖書を扱いながらも、コーラン教典を持って出てくるのです。ここには、聖書の内容もあります。従って、この宗教は天使長格の宗教です。宗教的な術語で、天使長格の宗教というのです。それゆえ、この回教は、共産党と野合するのです。従って、この宗教はこれから変わっていく世界に、火をつけうる預言的な宗教になるでしょう。もちろん、簡単な内容がありますが、それは全部旧約を中心として出てきたものです。他人のものを中心として出てきたものは、認められないのです。

 そうであるなら、イエス様はどんなものを持って出てきたか? 皆さんは私がイエス様を信じるキリスト教を信奉するといって、イエス様を好むというかも知れません。しかし、私は本来からイエス様を信じ、イエス様が好きな人ではありません。天地の道理がそうであるべきなので、そのような内容を持った道主がだれか、そのような聖人がだれかというのを分析してみるようになったのです。

 キリスト教が世界的な内容を持った宗教ならば、神様はその宗教を通じて世界を支配できる終わりの日の使命を果たさせるでしょう。これは、名実共にキリスト教文化圏が、今日の民主世界を支配している事実を見ても分かるのです。

 では、イエス様は何を中心として教えたか? イエス様は、具体的に教えました。他のことは具体的に言ったとはいえませんが、これだけは具体的に言いました。神様に対して、だれよりも先に「神様は私の父だ」と言いました。この言葉はよく言いました。人情を中心として、天情と天倫に到達できる、新しいみ言であるのです。歴史以来このように言った人は、イエス様が初めてです。

 その次にイエス様は、「私は新郎であり、あなた方は新婦だ」と言いました。相対が全部新婦になるのです。事実、人間の世の中において、新郎新婦以上近いものはありません。また、イエス様は、「私はあなた方と兄弟だ」と言いました。これ以上近い関係がありますか? 皆さんはこれを知るべきです。それは、何を言うかというと、神を中心とした、神義による家庭と人義による家庭について言ったのです。情緒的な内容を中心として見るとき、すべてのものを総合して結論を下すものであるといえます。このような内容は、キリスト教でだけ言ってきました。

6 聖人中の聖人

 もう一言言って、先に進みましょうか? 聖人中の聖人はだれだろうか? これをもう一言言って、先に進みます。天道には、天倫と天情があります。そして人倫と人情があります。このような人情と人倫、天情と天倫は、人間を中心として統一、すなわち一つになるべきなのです。それでこそ、神が喜ぶのであり、また、神が喜べば人間が喜びうるのです。すなわち、神が幸福であってこそ、人間が幸福になれるということです。それは、なぜそうなのかというと、父親が幸福であってこそ、息子娘が幸福になるのと同じであるためです。そうでしょう? 父母が喜んでこそ、その家の中が安らかなのと同じで、神が幸福であってこそ、人間も幸福であるのです。しかし、いまだ神が喜べる日が来ないので、今日の人類世界にも喜びが訪れないのです。

 では、聖人中の聖人はだれか? 神と人間は人情と天情、人倫と天倫が一つになりうるところで、父子の関係を結ぶべきです。聖人中の聖人は、人として、このような、心情的であり情緒的な内面を備えた教えを残していった人です。そのような人が、聖人中でも最高の聖人になるのです。皆さん、そうではないですか? これは間違いのない理論であり、また、その理論の結果でもあったのです。(三九・四一)

 聖人中の聖人は、どんな人かということです。神様のために生きた人は聖人です。それゆえ、釈迦やマホメットやイエスは聖人ですが、全部神様を認めました。神を主として生きた人たちです。その次には、どうやって生きたか? 神様を愛するように、人類のため生きたのです、人類のために。神様のために生きていこうという人は聖人です、聖人。それは合っていますか?(合っています)。

 イエスが十字架を背負いながら、なぜ怨讐のために祈ったかということです。神様が彼らを愛されるので、神様を愛し、神様の愛するその怨讐まで愛さなければならないので、イエスはそのような愛を実践するため、死の場でも神様以上に彼らを愛し、天国の懐に帰ったのです。それで最高の聖人なのです、最高の聖人。(九五・一九〇)

7 聖人・当代には冷遇される

 聖人はその時代にどのようにしたのかといえば、人間たちが行くべき真なる道を教えました。聖人は、その時代の民のため、未来に訪れる世界を教えましたが、無知な民は理解できなかったのです。なぜか? あまりにも差があったためです。しかし、その時代の主権者たちは、聖人を捕まえて殺し、迫害し、追い出したのです。

 そうだといって、その聖人は、国を売り、国を滅ぼしたのではありません。その国を混乱の中から救い出し、未来の希望の国にしたり、どの国よりも高貴な国にするために考えたにもかかわらず、人々は彼が分からず、支持することができず、追い出すことをしたのです。しかしながら、聖人は、万民が行くべき道に対する道理を備えたため、世界の人々は、その道理をだんだん受け入れ、世界的な文化圏を形成してきたのです。(三九・二五六)

 聖人はどのような人か? 国家的な人物ではなく、世界的な人物です。聖人といってその国で迫害を受けなかった人はいません。インドの釈迦は、国の王子として生まれましたが、人生は苦海といい、真理の道を探すため、王子の位置も捨てたのです。このようにして、仏教がインドから出てきましたが、インドには仏教人が多くありません。聖人といって、その国から待遇を受けた聖人はいません。聖人を待遇する国がなかったのです。いつも迫害しました。(三九・二五五)

 歴史時代の聖人たちは、その時代には冷遇を受けましたが、歴史が過ぎた後に蕩減して、言い換えれば、損害賠償を請求し、その時代の実績基盤が高くなるため、すべての聖人たちは歴史が過ぎた後に待遇を受けるのです。善悪の戦法において、悪は打って失い、善は打たれて取り返してくるのです。(一四〇・二六三)

8 聖人はあがめ奉る対象

 どうして、偉人や聖人の後孫は追慕すべきなのか? 彼らの心の中には、精魂込めた歴史的な事情が絡み合っており、善の事情と曲折がその中に絡んでいるためです。善の目的を達成するためには、彼らのそのような基盤を通して精誠を尽くすべきです。そうしなければ、目的に向かう道と関係を結べません。たとえ堕落の後孫であっても、人心は天心に通じるので、数多くの人々が聖人を追慕し、聖人が歩んだ道を追求するのです。それゆえそれは、本然の価値を追求することであり、自然的なことです。(一七・二六八)

 歴史に残る人々は、どのような人か? 個人を中心として、死んでいった人が、その時代の人間たちの前に追慕の対象になり、歴史過程に残りうるかというと、そうではないのです。個人よりも家庭のために死んでいった人は、数多くの個人の追慕の対象になりうるのです。家庭よりも宗教を中心として、民族のために死んでいった人たちは、すべて家庭があがめ奉る対象になるでしょう。さらに進んで、宗教の名前を持って、世界のために死んでいった人は、その宗教を追求する民族の前にあがめ奉る対象になるでしょう。(二七・一七三)

 すべての聖人たちは、その時代の歴史路程の中で、歓迎される人はいませんでした。死んだ後に百年千年歴史が過ぎた後に、墓の骨もみんな腐って、灰になった以後に、歴史上の追慕の対象として残るのです。それが今まで聖人たちの道であったのです。(一二七・三三)

三 聖子の道

1 聖子の意味

 私たちの歴史上には、聖人がいます。その聖人とは、一体何か? 聖人という方々を歴史上で探してみると、彼らは全部宗教の宗主になっています。

 さらに進んで、聖人の上の人を統一教会でいうには、聖子といっています。キリスト教でいう、聖子があります。その聖子とは、一体何か? 聖人というけれど。聖人自体も神様について確実に知りません。神様が人格神であり、私たちの生活の理想の表象になるという、具体的な内容がよく分からないのです。

 その次に、聖子という方は、どんな方かということです。万有の存在であり、万有のエホバの、そのすべての主権者の総大将の位置で、神様の中心存在として…。彼がおられるところには、国法があるのと同時に、彼が率いる王宮の宮法があるのです、宮法。そうではないですか?

 聖子は、その宮法を中心として、遂行できるすべてのことを皆履行すべきなのはもちろんですが、その王宮法において、王に侍って暮らす生活において、そこに違背する生活を通しては、王子になりえないのです。彼は、王宮の法を中心として切り抜ける位置で、王とともに永遠に共に暮らしたがる人です。王はその息子がいなければならず、息子もその父である王がいなければならない、永遠に共に暮らそうといえる立場に立つ人がいたら、それを見て私たちは、聖子というのです。(一四八・二五九)

 聖子というのが何か分かりますか? 聖子は聖人とは違います。「聖人」といえば四大聖人がいます。しかし、聖子はだれもがなれるのではありません。聖子は、天国の王宮法まで守ることのできる人です。神様は天国の王宮に住む王です。その王の息子になるには、王宮法を知らなければなりません。その国の法だけではありません。では皆さん、何を知りたいですか? 皆さんの心は、何を知りたいですか? 天子になる道を知りたいですか、聖子になる道を知りたいですか、忠臣になる道を知りたいですか、孝行者になる道を知りたいですか?(天子になる道です)。欲が深いね。(笑い)天子の天の字を取って、地の千字ではありませんよ。

 では、イエス様の独り子という言葉は何か? 神様の法の中で、最も貴い法は愛の法ですが、その愛の法の治理において神様が愛せざるをえない代表の位置に立ったために、独り子なのです。たった独りの息子だという言葉です。

 人間世界の国の法だけでなく、天の宮殿法まで守れる人を聖子といいます。それで「子」の字を使うのです。「者」の字ではありません。分かりますか?(はい)。それゆえ、孝行者と直通できる道が忠臣の道であり、忠臣の道と直通できるのが聖人の道であり、聖人の道と直通できる道が聖子の道です。それは太く、周りが大きいのですが、その核の流れは垂直線です。ただ一つしかないのです。それは垂直です、垂直。(一七五・二一四)

2「聖子」という言葉・この上なく幸福な言葉

 聖人といえば高潔な人であると見るのです。神様の前に立てる人です。聖人の中でも、聖子がいるべきなのです。神様の前において、神様の国の人になりうる人がいるべきであり、進んで神様の国において、神様を中心とした息子娘がいるべきです。聖人以上の人が聖子です。聖書にも聖子という言葉はありますが、聖女という言葉はないでしょう?

 なぜそうなのか? このようなすべての歴史的背景は、霊界を知らずしては、神様の摂理を知らずしては、分からないのです。世界でいくら知識が多く、大変精通しており、自分を主張する人がいるとしても、天下の一騎当千という知識の大王がいるとしても、神様の摂理を知らずしては、自分の目的地へ到達できないのです。それを知るべきです。

 愛の道をついていくにおいて、聖人になった後に占めるべきものは何か? 神様の愛の前に…。聖人は神様の人です。高潔な人。神様の前に対することができる人ですが、神様の前に対することのできる群が多くなった後には、聖子・聖女がいなければなりません。そのようになります。聖子・聖女が出てくるべきです。

 その聖子という言葉、神様を中心として、自分が神様の息子・娘だといえる言葉、この言葉は、堕落した人間世界の歴史において、この上なく幸福な言葉です。福音といえるのです。(一三六・二〇六)

 それゆえ、孝行者、その次には? 中心、その次には? 聖人。聖人の次には何ですか? 聖人だといって、聖子になれないのです。神様の息子になれないのです。聖子になるべきです、聖子に。いくらお上を愛し、民を愛したとしても、聖子になるためには、天国の王宮法を知らなければなりません。王宮法の治理を受け、拍子を合わせられるもう一つの法を知るべきなのです。(一四七・二八二)

3 皆さんも聖子になりなさい

 聖人は世界的です。愛国者は国家的限界を超えられませんが、聖人は世界的です。世界をどれほど愛したか? この世界が良くなるべきであり、世界が善であるべきであり、世界がすべての面で良くなるべきである、このような愛の心を持って、悪いことがあればそれに自分が責任を持って、全部解決し、良くしていくべきだという愛の心を持って、すべての生活で犠牲を払い、そのように生きていった人たちが聖人ではないか。

 さあ、このように見るときに、ある孝行者がいて、愛国者がいて、聖人がいたとするなら、彼らは全部世界を中心として考えたということです。この地上を中心として考えたのです。では、この宇宙の中心である神様を中心とすれば、天と地を愛で抱こうとし、このすべての宇宙の存在が、神様の愛を受けるに適当な存在になるのを願うのではないか。

 そのような立場で、自分は神様を愛するため、霊界のことを心配し、歴史を超越するのです。時空を超越し、霊界のことを心配し、地上を心配し、神様を心配できる人、愛で心配できる人がいたら、神様が願う人はそのようなたぐいの人ではないか。そのような人に、私たち統一教会は、聖子という名前を付けます。

 では、皆さんは、何になりたいか? 孝行者になりますか、愛国者になりますか、聖人になりますか?(聖人です)。これは、賢い人、愚かな人、五色人種全部、聖人になるというでしょう。そう、聖子になり聖女になりたい人、一度手を挙げてみなさい。それは易しいことですか、難しいことですか?(難しいことです)。(一六一・一三三)

 家庭で、父母のため愛する人を、何といいますか?(孝行者です)。国のために愛する人は?(愛国者です)。では、世界を愛する人は?(聖人です)。先生が教えることは何ですか? 神様と世界と宇宙を愛する、聖子になれということです。皆さんは、どれになるのですか? 聖子になるのですか、孝行息子娘になるのですか?(聖子です)。では、神様のような愛を心に持つべきです。(一二九・九九)

 聖子・聖女になるにはですね、聖子・聖女になるには、私たちが何を先ず知るべきか? 聖子になるにおいて、その主題がだれになるべきか? その祈祷の主題は神様なのです。ですから、神様のために祈れということです。神様のために祈るべきなのです。神様が願う通りすべきであって、自分が願うとおりにしてはいけません。神様が望む通りにすべきであって、自分が願う通りにするのではありません。神様が主題になるということを知るべきです。主題が神様であり、その次に目的は何ですか? 目的は神様の考えです。神様が考える通りにすべきです。それが神様のみ旨というものです。神様のみ旨に従って、神様が考える通りにすべきです。それが目的です。分かりますか? 主題があるべきであり、目的があるべきです。これは重要なことです。(一六一・一四一)

四 孝行者になる道

1 孝行者とは何か

 孝行者とは何か、孝行者? 父母様がいちばん好きなことを中心として、いつも考えながら、そのことを行動になして、相対役をするという人、そのような位置に立った人を孝行者というのです。同じ結論です。そのような息子においては…。

 また、五官があれば、目で見て何かを感じるとき、父母様がもっと好むものを、言葉を聞くときにも「ああ、このような言葉が好きですか、どうですか?」というのを感じるときもそうであり、すべての五官の鑑定が、父母様を中心として愛と化しうる心情圏を恋しがる人が孝行者ではないかというのです。悪いことがあってはならず、良いことだけがあるのを願い、もっと良いことで発展し、もっと素晴らしいことを願うのです。(一六一・一三二)

2 孝行を重要視する理由

 世の中では、孝行者を重要視します、孝行者。これは、蘇生です。分かりますか? 孝行者とは何か? お父さんお母さん、おじいさんおばあさんまで、仕えることができてこそ孝行者です。これを知るべきです。三代を経るべきです。その次に、忠臣とは何か? 忠臣も同じです。忠臣は、息子の位置において、王を中心にして、父母に侍り、神様を中心にして、おじいさん、おばあさんに侍るのです。神様をおじいさんとして侍るのです。(九六・三一)

 孝行息子娘になれという言葉は、良い言葉です。今日、世代の差があるといいますが、お母さんの世代と若い世代と差があるということをいいますが、とんでもないことです。お母さんの世代と若い世代と、愛にも差がありますか?

 皆さん、家庭で「孝行せよ」といいますが、なぜ孝行せよというのか、ということです。それは、父母を中心として、父母が行くべき愛の道に同参者になれというのです。その父母の真なる愛に道には、天倫が従うのです。父母だけが行くのではなく。見えはしませんが、縦的な天倫がここに因縁づけられていくため、父母と一つになれというのは、天倫の歴史、見えない縦的な歴史と、横的な歴史の両面の心情圏を受け継いで行けというのです。これが父母の前に孝行しろということです。これが分からなかったのです。この頃は「父母の前に孝行するのが何だ?」と言うのです。アメリカでは、そう考えています。「父母たちが私たちを産むとき、私たちを考えて産みましたか?」と言うのです。

 それは、この原則を知らないのです。すべての歴史は、縦的な基準に立ってこそ、横的な基準に立つようになります。皆さんがビルディングを建てても、まず全部垂直線を合わせてこそ立つのです。その次に、水平線を合わせなければ、いくら高層の建物でも倒れるのです。同様に、私たち人間が、世の中に立っているということ自体が、既に縦的基準を合わせたということなのです。(一三六・二〇三)

3 孝行者はどのようにしてなるか

イ)父母の心の方向と一致すべきである

 孝行息子娘になる秘訣はどこにあるか? 内的な基準と外的な実体基準が符合しなければなりません。(一二・一七四)

 孝行者が貴いのは何かというと、変わることのない愛で、幼いときも、成長するときも、老年時代も、変わらない愛を持って父母を敬うためです。そのような人を孝行者というのです。(一六八・一六三)

 孝行者になるには、どうすべきかというと、いつも父母の心の方向と一致すべきなのです。孝行者の道を行く人は、父母とかけ離れた行動をする人ではありません。父母が東に行けば、東に行くべきであり、父母が西に行けば、西に行くべきなのです。行ってから、行く目的を提示してから、一度に後ろへ振り返れといったら、振り返るべきなのです。そこには異議があってはいけないのです。十回行って、十回振り返ったとしても、また振り返ってついて行くべきなのです。

 「ああ、父母がどうして? 十回行って、十回振り返り、十回こうだああだという。ああ! お父さん、お母さん、私はもう気持ちに合いません」と言って変わっては、最後まで孝行者の道理を守れないのです。父母が狂ったことをしたら、子供も狂ったことをすべきなのです。父母の命令ならば、狂ったことでもすべきなのです。狂ったことをするそれ自体はだめですが、父母が知らずにするのなら分かりませんが、知ってやっているのです。

 では、なぜ父母が狂ったことをするのかということです。孝行者の中で最高の孝行者を選出するためには、その道しかないためです。百人の孝行者がいるならば、その百名の中で最高になりうる孝行者にするため、その父母は狂ったことをするでしょう。百回行って振り返り、百回気まぐれになるでしょう。千回気まぐれになるでしょう。しかしながら、その気まぐれを事実と思い、命を捧げてその父母の命令の前に絶対順応することによって、彼は孝行者の王になりうるのです。孝行者の中で孝行者を治める王になりうるというのです。そうではないですか?

 そうなるときは、そのような狂ったことを、天職と思ってできなければならないでしょう。「ああ! これは私の常識に合わないから、それは分からない」と言えば、ここから孝行者の道理は行き詰まってしまうのです。孝行者の道は切れてしまうのです。それゆえ、最高のある一つの峠を貫いて越えうる世界的な孝行の道があるのではないか。そうであるのです。

 では、神様はどんな方か? 神様は人類の父母にもなる方であり、神様は人類の王の中の王にもなる方であり、すべての中心にもなる方です。その神様の息子になるためには…。個人的な一対一の立場で、一つの家庭を中心として見るならば、孝行者ですが、その孝行者は世界的な孝行者になるべきなのです。そうではないですか?(六二・三二)

ロ)父母の心情と事情が体恤されるべき

 私たちは、孝行者の道を行くべきです。孝行者の道を行くべきなのです。神様が世界情勢を前にして深刻ならば、その深刻さ以上夜を徹しながら、あるいは自分の一身を忘却しながらすべてを忘れて、体恤的な境地で心配する心を持って、神様のためになる息子娘になるという身もだえをする人がいるか? 問題はここに帰結するのです。(六二・三五)

 孝行者とは何? 孝行者は父母の悲しみに代わって責任を持つため、困難な場を訪ね、責任を果たすことによって、父母に喜びを捧げうる人です。父母が十くらい仕事をするのに、子供は十五くらい努力したら、父母は五に該当する喜びを感じるようになるでしょう。そのような分野をそのように補充して、父母のために捧げうるかを考えながら努力する人が、孝行者なのです。(二四・二六一)

 皆さん、町内でもそうではないですか? 国ならば国で孝行者だといって孝行賞をあげるとしたら、博士学位を持ったために孝行者になれますか? それが条件に入りますか? たくさん習って、ある学校を出たといって、孝行者になるという条件に入るのかということです。入らないのです。どれほど自分の心と体を投じて、父母を愛したかということが問題です。夜昼いつでも変わらない心を持って、その父母を絶対視し、国の代わりに、神様の代わりに、その父母を絶対視する人たちが孝行息子娘というのです。(一四七・二三二)

ハ)父母の困難に耐えるべき

 孝行者の道、孝行者になるべき道、その孝行者が行くべき道は…。父母が願うことが十種類あるなら、その十種類の中で、いちばん重要なことに責任を持って解決する子供が、孝行者ではないか。息子が十人いるなら、十人の中でだれがいちばん孝行者か? 父母の十種類のことの中で、いちばん難しいことについて「これは私が責任を持つ。私がこの問題に責任を持って解決して、父母を愛する」と言って立ち上がる息子は、どんな息子よりもその父母の前に記憶される息子ではないか。そのような息子であるほど孝行者の位置に近くなるのではないか。

 このように見るとき、易しい場で易しいことをして、孝行の道理をするという人よりは、この上なく難しい場で孝行の道理を果たそうとする責任者、そのような位置に立った人、そのような位置に立った息子娘が、孝行者が行く道に入った人ではないか。それは間違いないのです。(六二・二三)

 父母が悲しむ内容を深く知っている子供であるほど、その父母の悲しみが解消するのをひたすら願い、自分が仕事をする環境を越えて、その心配な事実が解消するのを願うのが、子供の願いではないか。自分に悲しみがあるとしても、自分の悲しみよりも、父母の悲しみをもっと早く解消するのを願う心を持った人がいたら、それは孝行者といえるのです。しかし、父母にも心配事があり、自分にも心配事があるのに「父母が私の心配事を考えるべきだ」と言い、父母の心配事よりも、自分の心配事をもっと考える人ならば、その人は父母と一つになっていない人です。

 孝行の原則を中心として見るとき、父母の立場を忘却する人は父母と急を要する場で、一つの因縁を結べないのです。自分を主張して、自分の悲しみを知ってくれと要求したり、父母の悲しみはそっちのけにして、自分の悲しみだけに責任を持ってくれという息子がいたなら、彼は孝行者にはなれず、不孝者のなるのです。これは私たちが日常生活の周辺で、あるいは家庭生活でいつでも体験することです。

 また、孝行者としての価値は何か? 自分の困難もあるでしょうが、父母の困難をもっと心配しながら、自分の困難を問題視せず、自分の困難の上に、父母の困難を加えて心配する位置に立っても、これを当然のこととして消化して受けとめうる位置から孝行の道は始まるのではないか。子供が父母の困難を等閑視し遠ざけるとき、ここに決裂が起こるのです。孝行の道でなく、不孝の道が生じるのです。兄弟の困難を自分の困難よりもっと重要視しないとき、兄弟間の関係は、疎遠になるのです。このように見るのです。(六二・一八七)

ニ)「孝行者」という言葉は悲惨を随伴

 真なる孝行者が行く道は、平坦な道ではありません。孝だ忠だというその言葉は、悲惨な言葉です。孝行者になるためには、自分を考える心を持ってはいけません。

 孝行者になろうとするには、どのような位置に立つべきか? 死の道、いちばん受難の道に責任を持てる位置に立つべきです。(六二・三七)

 孝行者の手本は、どこで設定されるか? より悲惨な位置で…。より悲惨な位置とは、死ぬ位置です。死ぬ位置でも、いちばん悲惨に死ぬ位置で手本が設定されるのです。合っていますか、間違っていますか?

 さあ、孝行者がいるとしましょう。孝行者は過去から現在まで、時代時代ごとにいるでしょう。その中で、一等孝行者を選ぶとすれば、どんな人を一等孝行者の標本に選ぶだろうか? 年取って孝行して死ぬのより、若くて年取った人以上に孝行をしたら、もっと貴いのです。孝行者もさまざまです。貧しい人、富裕な人、力仕事をする人、乞食の人、あらゆる階級がありますが、孝行者はみんないます。

 真なる孝行者になるには…。生きている人は、真なる孝行者になれないのです。生命をまだ残している人は、孝行者のたぐいに入れません。なぜそうなのか? 孝行するために数多くの人が死んだのに、死んでいない人が孝行者の表彰を受けたら、孝行するために死んだ人たちに讒訴されるのです。そうではないですか? そうでしょう? それゆえ、真なる孝行者は、死んだ後にこそ現れるのです。

 死んだ人の中でも、孝行するため、道を歩いていて死んだ人もいるでしょう。お父さんお母さんが病気になったため、薬を買いに行って死んだ孝行者もいるでしょう。薬を買いに行くには、自分のお金を持って買いに行く人もいるだろうし、お金を借りて買いに行く人もいるでしょう。難しければ、難しいほど、その価値が大きくなるのです。そうでしょう?

 では、自分のお金を持って薬を買いに行って死んだ人と、お金を借りるために三ヶ月、十日と苦労してお金を借りて、薬を買いに行って死んだ人がいたら、どちらの人が孝行者の手本になる位置に上がるでしょうか?(後者です)。後者でしょう。それはみんな分かるんだね。それがみんな分かるため、復帰が可能なのです。その内容が、複雑で難しくて悲惨なほど、ものすごいほど、悪いのではなく良いものとして登場できるようになるのです。

 薬を買いに行って死んだのと、薬を買って煎じて死んだのと、どちらがましですか? 薬を煎じて捧げて死んだのは、劣りますか、ましですか? ましなのです。このように見るときに、難しい内容を持てば持つほど、孝行者の順序において、その等級が高くなることは言うまでもないのです。ここに異議はないでしょう?(四九・二八〇)

 家庭において、孝行者は孝行者自体で見ると悲惨なのです。なぜ悲惨なのか? 食べるものがあっても、勝手に食べられないのです。おいしい食べ物があれば、それをつかんで涙を流さなければならないのです。「うちのお父さんとお母さんが七〇、八〇になったのに、二人がこの地に生きられるなら、どれほど生きられるだろうか、召し上がれば、どれほど召し上がれるだろうか、お膳を何回受けられるだろうか、亡くなられる日が、私の何分の一しか残っていないのだなあ!」このような心を持って、長く生きられない父母を、自分の生涯を傾けて、精誠を尽くして奉養すべきです。

 孝行者は、食べるものも食べられず、喉が詰まって泣く人なのです。食べ物を食べて、独りですすり泣けば、狂った人だというでしょう。ある意味では、狂った人のようなのです。「おいしい食べ物があれば、食べればいいのに、どれほど食べたいものだったろうか? それなのにああしている! あいつ」と言うでしょう。それはどれほど悲惨なことですか? その泣き叫ぶざまをだれが好みますか? しかしながら、孝行者は生活を自分勝手にできないのです。

 良い景色、良い山野を眺めれば、うちのお父さんとともに…。良い季節がやってきて、その季節を鑑賞できる場に立てば、自分一人ではなく、お父さんと一緒に見たらいいと…。それが恋しさとして表象され、涙で明らかになるその場は悲惨な場です。涙を流す場、それ自体を見るならば、苦しい場です。しかしながら、その場が不孝な場かというと、幸福が宿る場なのです。そうではないですか? それゆえ、涙を流す生活は、悪い生活ではないのです。

 食べるものがあって、着るものがあっても、国と公的なことを心配しながら、食べられずに、着られずに苦労する群があるなら、見た目には悲惨ですが、そこは永遠な慰労の涙に囲まれているのです。永遠に褒めたたえる唱詠と歌に囲まれているのです。それだけでなく、永遠な希望の天国が贈り物として、準備されるのです。ところで。それがなぜかわいそうですか? かわいそうなようですが、悲惨なようですが、勝利の権限を得た栄光の位置に立てる位置が、その位置であるのです。(五一・三二六)

第三章 望ましい青年期

第一節 成和青年

一 青年期とは

 皆さんのおじいさん、おばあさんを六〇代から八〇代と考えると、四〇代から六〇代は中年、二〇代から四〇代までを青年とするのです。(九六・二三八)

 人間において、いちばん重要なときはいつか? 少年時代ではありません。青年時代を越えて壮年時代に入る、すなわち、二〇歳から四〇歳に至る期間が、いちばん大切なときなのです。人は二〇歳から三〇歳まで人としての本分の土台を磨き、そこに自分が隠居できる、確固たる基盤を磨いておかなければなりません。また、未来には、はっきりとした目的を中心としていける基盤を、環境的に備えなければなりません。そのようにできない人は、三〇歳を越えて四〇歳に向かうとき、無意味な人間、平凡な人間として生きるしかないのです。(二二・三一四)

 神様は、今お忙しいのです。では、なぜ神様がそのようにお忙しいのか? 人間が地上にとどまれる時間が、それほど長くないためです。今皆さんは、近い将来に三〇代圏内を越えて、四〇代を見つめるでしょう。

 人の一生を考えるとき、活動能力を最高に発揮できるときはいつであるかというと、二〇代から四〇代、または五〇代までです。この二、三〇年の間が全盛期なのです。しかし、四〇歳を越えるとその基準から降りていくのです。皆さんの中で、四〇歳を越えた人は、自分の肉身を中心として、静かに考えてみなさい。柳光烈、今四三歳か?(はい)。昔と少し違うと思わないか?(疲れます)。疲れるだろう?

 昔は、いくら疲れても、数時間だけ寝れば疲れがとれたのに、年を取るにつれて、疲れが取れる時間がだんだん長くなります。昔は一〇時間ずつ働いた人も、年を重ねていくうちに、働ける時間が短縮されるのです。約三年単位で、一時間ずつ減っていくのが分かります。そのように考えると、三〇年後には一〇時間も短縮されるのです。三年に一時間ずつなら、一〇年で約三時間、三〇年なら約一〇時間も短くなります。ですから、もし若い頃一〇時間働いていた人ならば、二〇年だけ過ぎると働けなくなります。このようにしてほんど七〇歳になれば、そのときにはそれ以上働けないのです。その歳で働くというのは、ようやく管理ぐらいができるのであって、開拓とか、新しい建設的なことはできないのです。

 このような観点から、皆さんがみ旨のために働けるときが、どれほどになるかという問題を考えてみるとき、皆さんは無限に悲しみを感じなければならないのです。(三三・一八五)

 私たちが春を迎え、すべての自然において花が咲き、新しい葉が生えるのを眺めるとき、この春は、必ず冬を越した後に来るということを考えます。今、この春が過ぎれば、夏が来るということを、私たちは知っているのです。ですから今日、この春というのは、夏につなげることのできる準備の日であるということを、私たちは知るようになるのです。

 私たちは、季節を見てもそのように考えることができますが、私たち人間に置き換えてみても、同じように考えることができます。若い青年を見れば、その青年から春のようなものを感じとることができます。その青年が、青年時代を終えれば、壮年時代が来ることを私たちは知っています。また、老年時代を経て一生の道を歩むということも、私たちは知っています。一つの時代の中で、私たちの一生を考えてみるとき、今生きているこの時代があるならば、次の時代があるということが分かるようになるのです。(六六・八五)

二 成和青年の道

1 成和青年が行くべき道

 先生は夜になると、早く朝が来るのを待ちこがれ、朝になれば、夕方が来ないことを願い、夕方になれば、夜が来ないことを願いながら、開拓者の道、先駆者の道、巡礼者の行脚を嫌がらずに、今日の統一教会を開拓しました。ここには風雲寒雪が織り込まれているということを知るべきです。悲しみの障壁が、何度も先生の行く道を妨げましたが、その度にそれを飛び越えました。その多くの悲しみの与件も、先生の行く道を妨げることはできませんでした。それが今日私たちの人生の源泉となり、天の側の力となったのです。

 そうして、反対されればされるほど、私たちは視線を世界へ向けてきました。この民族は知らずにいるけれど、私たちの民族はこれから世界が歓迎する民族になるのであり、今日の大韓民国三千万の倍達民族は知らずにいるけれど、私たちの待ちこがれるその時は、名実共に来てしまうのです。ですから、私たちは歩調をそろえて、世界に行進すべきです。どこに行くにしても、私たちを妨げられない自由の天国舞台を成すために、力を注ぎ、精誠を尽くして闘い抜くべきです。倒れたとしても、それを格好良く倒れるのを男の生き甲斐と思い、誇りを持ってこの道を行かなければならないのが、統一青年男女の行く道であるということを知るべきです。(二・一六五)

 若い人たちが進むべき道はどこか? 今、社会ではどのような人として進むべきなのか? 真の人となって行くべきです。「今まで、大韓民国の三千万民族が行けなかったその道を、私がうまく行くことができる」と言える人になるべきです。そのような人がいれば、希望の日が訪れるのです。そのようにして、国家を完全に凌駕することのできる人となって、天情の漂う天地村をつくり、そこで天意の勝利の条件を立てうる基盤さえ持てば、世界のすべての国家は、それに対して関心を持とうとせずとも、持たざるをえないのです。(二五・九〇)

 この道は、行くまいとしても、行かざるをえない運命の道であるために、避けられません。これを収拾し、短縮して、皆さんが少しでも楽に、傷つかずに、父の前に訪ねていける道を方々探ってから、皆さんに行けというのです。その道を先生が先頭で、指導者の立場で進んでいるので、皆さんは後からついてくればいいのです。(二〇・三二三)

 いくら若くても、今日のために生きる若者はだめになるのです。落ち葉になり消えていくときが来るのです。幹になれないのです。しかし、未来のために生きる人は、幹になり根になるのです。今日のために生きる人は、葉っぱにしかなれないのです。葉と同じなのです。何のことか分かりますか? 未来のために生きれば、枝となり、幹になり、根になれますが、今日のために生きれば、葉にしかなれないということを知るべきです。どれを選ぶのですか? 葉になりますか、枝になりますか、根になりますか?(根です)。根になろうとするなら、何をすべきですか? その道は希望の道ですが、その根になろうとするには、何をすべきですか?

 人を評価するとき、その人が将来どんな人になるかを考えて評価すべきであり、今を考えて評価してはいけません。その人が今どんな思想を持っているか? これが重要なのです。(一一七・三二七)

2 先生の青年時代の経験

 世界を収拾することは、そんなに簡単なことではありません。訓練しています。特に若者を訓練しています、自分自身が望んで訓練を。その訓練の場所は、素晴らしい所ではありません。難しい場所、汗を流す所、血まみれになる境地…。その世界的な使命を果たすには、いかなる決心をするか? その決心の途上にぶつかった場合には、それ以上の難しいことがいくらでもあります。そのときに、後退してはいけません。そこに向かって、東西南北、四方八方、上下前後、すべてに対する難しい基準を突破すべきです。

 先生は、何でもしてきました。乞食にもなりました。乞食のすることもしたのです。鉱山の坑道で、炭坑の穴を掘るチャンピオンにもなりました。山に行けば、知らない草がありません。どんなものが食べられるか、すべて知っています。だれかに追われて、山に行って隠れているときは、飢えて死んではいけません。食べて生き残らなければなりません。生きてこそ、み旨を成す希望を持って進めるのです。そうでしょう? また、できない運動はありません。

 それゆえ、若さを失ってはなりません。青年時代は二度とやってこないのです。貴いのです。その期間に、一人の人間としての青春を送るべきなのか、十人百人の青春の代表者として立つべきなのか? 一人、百人、千人の代表者として立つには、百人の青年がなすことのできないことも、かたずけることのできる度胸と気迫と勇気を持たなくてはいけません。何のことか分かりましたか?

 そのような背景で、訓練を重視して準備をしておかなかったなら、先生もすでに過ぎ去ってしまった歴史の流れの中で、それこそ秋の落葉のようになってしまったことでしょう。それは、一握りのわずかな肥料にもなれずに、流れていってしまうのです。

 若者には、できないことはありません。成せば成ります。成さねば成りません。人に不可能なことがありますか? なせば成るのです、どんなことでも。どんなことでも?(成さなければ)。成さなければ?(成りません)。人がやらないからです。

 青春は美しいものでしょう。先生は学生時代、においのする男でした。そのにおいとは、香水をつけたそんなにおいではありません。汗のにおい、腐ったにおい、そして髪の毛も垂らして…。学校に行っても、言葉はありませんでした。自分が成すべきことを成さずして、何を言いますか? 時間がありません。そうだったのです。(一八七・一三七)

3 建築物の土台となれ

 家を建てるなら、だれが何と言っても、まず材木がなければならず、その次には、土台を築くべきです。それゆえ、先生が材木の立場に立っているので、今は土台を築くべきなのです。土台を築くには、どこから築くべきか? 地下から築くべきです。高層ビルを建てるなら、まず地面を深く掘って、頑丈に基礎工事をすべきなのです。「ああ、苦労する必要なしに、広い砂地に建てよう」このように考えていては、家は建てられません。基礎工事をすべきです。私たちは、いまだに基礎工事を終えることができずにいます。終わったと思わないでください。今も基礎を築いているのです。

 コンクリートで基礎を固めるためには、何が必要ですか? セメントより砂利と砂をまず準備しておくべきです。セメント一山を準備すれば、その何倍にもなる砂利と砂が必要となるからです。では、砂利と砂はどこにあるか? 河原にあります。河原はだれも住まない所です。また、石は山にあります。草原にあるのではありません。それ自体は、今、もの悲しい立場に放置されたものです。その次には、水が必要です。

 では、統一教会で砂利にあたる人、砂にあたる人はだれか? このようになるのです。皆さん、恨めしいでしょう?「ああ、先生のみ言を聞いたら、砂利になり、砂になるのは私たちだね」と言って、気を悪くするかもしれません。しかしながら、気を悪くしても、しかたがありません。これが原則なのに、どうしますか? 皆さんに砂と砂利なんかを譲ってあげようというのです。賛成しますか、しませんか?(します)。

 では、砂と砂利にセメントと水を混ぜるとどうなるか? ひとつの固まりになります。皆さんが昼夜を問わず、父母と子供を忘れたままこの仕事をするとき、皆さんの子供たちは、皆さんと一つの固まりになるべきです。そうして、これを基礎として増えていくのです。それが増えるときは、石の固まりでも増え、砂の固まりでも増え、セメントの固まりでも増えます。それが三千万よりもっと大きくなるときには、世界に騒々しい問題になるのです。

 それゆえ、皆さんは、セメントになり、砂利になり、砂になり、水になるべきです。皆さんの血と汗と涙を水にして、皆さんの体は砂にして、皆さんの骨は砂利にすべきなのです。それで、自分自身の基礎を固めるべきです。そのようにして固められた基盤は、創造的なものであるため、千年の歴史が過ぎても崩れることがなく、万年の歴史が過ぎても崩れることがなく、また、いかなる団体が千年万年努力しても、崩すことはできないのです。(二八・二一九)

 大きな木になろうとするなら、その立つ場所が広くなければならないのではありません。大きな木になろうとするなら、根が深くなければなりません。根の深い木になって、大きな木になり…。(一八一・一一)

 天の動力者は、統一教会の若い青年男女の中で、何人になるか? 正しい時を持ち、正しい実績を持ち、正しい心情を持ち、正しい考え方を持った青年男女は何人になるか?(六三・二四八)

4 三〇歳前に苦労せよ

 理論的な面で、統一教会の教会員は三〇歳前まで苦労させるという天理、哲学の道理を立てざるをえないため、先生は三〇歳まで、このやろう、苦労させようとするのです。分かりました?(はい)。

 なぜ、三〇歳まで苦労させようとするか? 三数から調和します、三数から。一つ二つ、二つでは調和になりません。二点は直線にしかなりません。二点を連結すれば、直線になるでしょう? いちばんの最短距離が直線ですが、三点から調和します。二の位置、これは平行基準の垂直を中心として二点、これはこれを中心としていくらこのようになったとしても、これは変わらず、そっと置いておいてもこのように立つのです。これと同様に、三点で調和するようになっているのです。

 ですから、三〇歳まで苦労すべきか、すべきでないか?(すべきです)。そう、人間は還暦が六〇です。六一に帰ってくるのです。暗い中を三〇年を歩んだら、六〇歳から先は陽の光が照る最後でありうるのです。これが歴史観ですが、東洋史観が合っているのです。そうですか、違いますか?(そうです)。三〇歳まで苦労だけしてみなさい。一生の間、六〇でなく死ぬときまででも、生活に対する恐怖はないのです、先生のように。(一八二・七二)

 では、一生を考えてみるとき、「青春時代は遊ぶもの、年取って苦労しよう」その言葉はどうですか?(いやです)。なぜ「いやです」ですか? どれを取りますか? 若いとき腰が曲がるくらいのことをするのが、幸福の道を行くのだ、そんな結論ですか?(はい)。重荷を背負って行けということです。行かなければ、たたいてでも行かせるのがいいですか、ただ「弱いのに休め、近所の子供たちは、みんな遊んでいるのに、おまえもそうしなければ。お前のような若い人たちは、そうすべきだ」そう言うのがいいですか?(送るのがいいです)。そのような論法が事実なら、どんな団体であれ同じです、どんな団体でも。団体の若いやつらを全部夜明けから起こして、骨が溶けるくらいに働かせるべきか、ただ、楽に踊って歌って、キリギリスの姿になるようにすべきか?(仕事をさせるべきです)。

 では、世界でいちばんいい団体はどんな団体ですか? 若いとき、ただ骨が溶けるほど、身動きできなくなるまでこき使ってですね、働かせてですね、このようにできる団体が、世界一だということです。では、ムーニーはどういう団体に属していますか? 世界でいちばん若者が多い団体は統一教会です。統一教会は、若者たちをいちばん苦労させながら、「今は死ぬほど苦労しますが、未来には幸福が来る」このように考えます。これは素晴らしい団体ですか、不孝な団体ですか?(素晴らしい団体です)。(一〇五・一七八)

5 三〇歳前には多方面の訓練をせよ

 皆さんの一生の間に、経済問題はついて回るのです。これがサタンです。これがいつもついて回りますが、引っぱり出すべきです。経済問題が、逆に引っ張っているのです。先生は、追い出しても、島国であろうと、どこででも生きるのです。皆さんはみんな死んでも、私は生きるということです。きのこはどんなものが食べられ、薬草が何で、毒草が何であるかみんな知っているのです。そして、糸と針金さえ一つあれば、釣り針を作っていくらでも魚を釣ることができます。どこででも生き残ることができます。いつでも自立できる知恵があるのです。統一教会では、三〇前にこれを公式的に訓練すべきだというのが先生の哲学です。

 経済訓練をして、その次には愛の訓練をすべきです、七年間。それで、私たちが復帰路程を行くのに、伝道とファンダレージングを重要視します。歴史的に見るとき、ファンダレージングは、旧約時代を通過するための方法なのです。それを知るべきです。旧約時代は、物質で祭事を捧げたのです。蕩減復帰をしていこうとするので、蕩減復帰するには物質で祭事を捧げて勝利していくべきなのです。それをパスしてこそ、その次に新約時代に入って伝道するのです。

 人に迫害を受けて、鍛錬されなさいということです。先生が初めて会った人も、パッと見て、この人はああだこうだと評価してみると、みんな合っているのです。どのようにしたらそうなりますか? 人に迫害もたくさん受けて、多くの人に関わりながら研究をしたのです。それが必要なのです。「お前、ムーニー人間の世の中で、世渡りするにおいて、人を外向的な面で料理できるか?」と言えば、「イエス」と言うべきなのです。

 その次は、霊界、霊界に対するすべての試練と、霊的世界の攻撃を防御できる能力を持つべきなのです。(一一七・二四、九六・一一五)

 普通に見れば、若い人たちの生活は、激変するのです。青春時代には刺激的なもの、絶え間なく変化するものを好むのです。それを好むのはいいのですが、その変化する環境を吸収して、消化できる能力があって好むのはいいけれど、その能力がないのにそれだけ好んでは、自分と関係のない生活をしてしまう結果になります。青春時代には、そのような冒険生と危険性の多い時代であるため、そのようなものをわきまえていける、学びの道が必要なのです。

 学びの道、先祖たちの行った道であるとか、すべての人たちが成したことを習い、経験を積むのが必要なのです。そして、皆さんが今後に行く、皆さんの未来を知らずにいるとしたら、これを克服する訓練で、内在的な人格を造成する期間も、この若い時代でなくてはならないのです。だから、この青年時代は、一生がいくら激変しても、いくら悩まされることが多くても、それを全部調整して見事に越え、格好良く克服し抜くことができる訓練が、絶対に必要だということを、私たちはここで知るべきなのです。

 自分の心に合う訓練は必要であり、自分の嫌いな訓練は嫌だという人は、これから発展しうる人格を成しえない人になってしますのです。では、どんな姿勢を持つべきか? ぶつかってくる事件や問題に対しては、関心を持つべきなのです。修練を受けて、訓練を受けるとき、ぶつかってくるすべての試練の過程には、関心を持つべきなのです。その問題を考えても、それだけ見るのではなく、関心を持って前後左右を探り見る人になるべきです。(六七・八六)

 若い人たちは、色々な方向に訓練させるべきです。東にも行けるし、西にも行けるし、南にも行けるし、北にも行ける、このように訓練されていれば、「あ! 私とは違うんだな、あの人はあんなことを言う」と関心を持つのです。

 若い思春期時代、青春時代、すなわち、三〇歳以前には、成功して落ち着くためには、早い道、良い道を探します。しかしながら、今歩んでいる道が、早い道だと考えられないのです。東に行けば、東に行く道が、自分が成功できる、定着できる道だと考えられないのです。それよりもっと早い道が、西にもありえるし、南にもありえるし、北にもありえるので、四方について知るべきです。

 自分は上がるのを願っているのに、環境により迫害を受けて降りていくところが、悪いことだけではありません。降りていく道に、自分が一生に必要な定着地を早く見つけることができると考えるのです。ですから、これから三〇歳前の若い時代においては、先覚者になりたいとか、歴史の指導者になりたかったら、三〇歳までにすべての面に手を着けて学ぶべきです。できないと思ってはいけません。三〇歳を越えるとだめです。遅いのです。三〇歳から実践段階です、三〇歳から四五歳までの一五年間は。先生もそのように計画を練ったのです。四五歳まで一五年間、実戦舞台に挑戦するのです。挑戦して四五歳まで、統一教会の歴史を一段落させるのです、一五年間に。

 それゆえ、四五歳に世界一周をするのです。六〇歳まで世界で成熟期を迎えるために、闘うのです。すべてこのようなプログラムに基づいて前進しているのです。ですから、統一教会の教会員は、三〇歳までは苦労させようとしているのです。先生は、経験を通して知っているのです。そうでなければ、自分の地域の人間にもならないのです。その町内の人になるのであって、その国を管掌し、指導できる人にはなれないのです。

 世界を考えているなら、三〇歳前に多方面の受難を受け、多方面の訓練をすべきなのです。「ああ、これも面白い。ああ、これも面白い。私とも関係が結べる」こう考えるべきです。「ああ、私はできないから、私とは関係ない」と言う人は、そのうち滅びてしまうのです。行く先で、自分が定着できる道を探し出せなければ、そこですべてを放棄してしまうのです。

 しかし、多方面に訓練されている人は、この道がだめだったら、あの道にも行けるし、歩みながらサッと回っていけるのです。訪ねていけるのです、経験が多ければですね。それゆえ、経験のある人と、経験のない人を見るとき、同じ実力、同じ年でもだれが指導者になるか、中心者になるかという問題において、経験をだれが多く積んだかによるのです。それは理論的です。(一四四・二九三)

 皆さん、硬い鉄を置いて、どれがもっと強いかというとき、ぶつけてみれば分かるのです。どれが強いかが分かるのです。そこでは大きな音がして、侵犯、侵害する問題が起こるでしょう。強いものが勝つのです。一面強いものは、壊れるものもあるのです。壊れやすいのです。ですから、硬いだけではだめです。硬いものをもって、強いといいますが、強いというのは、硬くもありますが、丈夫だという観念もあるということを知るべきです。弾力がなければなりません。

 そのような鋼鉄になるべきです。皆さん、そのような人になることを望みませんか?(望みます)。そうであるべきです。統一教会の集団は、丈夫で強くあるべきです。自動車のスプリングを見てもそうです。いわば、硬いながらも弾力がなければならないのです。余裕もあり、能動的でもあり、推進力もなければならないのです。

 世界に知られた日本刀、正宗という有名な刀があります。それを作るとき、一度だけ火で焼いて、たたいて作るのではないのです。高熱で焼くと絶えずかすが出るのです。それをたたいて、絶えず落としてしまうのです。一度は高い熱に、一度は高くない熱に焼く作業をしながら、たたいて焼いて、またたたいて、また焼くのです。そうしながら、ただするのではなく、精神を投入するのです。明け方に精神を投入しながらたたくのです。「この刀は、いかなる敵も、いかなるものも打てば切れる」という、作る人の精神を投入するのです。そのように作った刀を、彼と同じ思想を持って使う場合には、何でも切れるのです。そういうものだと思いますか?(はい)。

 皆さんが 拳道(テッコンドウ)や空手をする人たちが、紙に棒を掛けて、バシッとたたくと、紙はそのままで、棒が折れるのを見たことがあるでしょう。先に習った人は、折っても残る所に立つのです。紙が切れるのには、時間がかかります。紙が切れる前に折ってしまうのです。ですから、作用する前にすでに終えてしまうのです。これは理論的です。論理的です。そのような人になりたくない人はいないでしょう? そうするには、皆さんも時間を投入して、訓練をたくさんすべきです。

 みなさんが、ボクシングやレスリングの世界チャンピオンを見るとき、その人がトレーニング(訓練)をどれほどしたかという、その訓練の時間と量をもって、その人がこれからどれほど続くか、どれほど実力を持つかが分かるのです。皆さんが空手のようなものをするときも、このようにして、ここだけ打ってもだめなのです。水平になるようにして、打たなければならないのです。同じ力が加えられれば、同じ力を受けるため、強く作用するということを考えるべきです。

 ピアノを弾くのも…。五本の指がたたく力、この指とこの指のたたく力は違いますが、それをどうやって同じようにたたくかというのが基本になるのです。そうしながら、たくさんの練習をすべきなのです。これはもっと強くなければならず、これは弱ければならないということを考え合わせて、それが全部科学的に自動的に動かなければならないのです。自分が練習して、訓練した基準がどんなものかを確実に知らずしては、名ピアニストになれないのです。

 皆さんは言葉を話しますが、その言葉を話すにおいて、ある基準を持っていないのです。「私は何を基準にしてこのように話す。この言葉はここで出発した言葉だ」という観念を持っているか? ただ、聞いて話し、ただそうなのです。そのような人たちは、平面的な人間にしかなれないのです。(六七・二一三)

三 成和大学生

1 成和は大きな名前

 今日の若い人たちは、これを知りませんでした。犠牲になる人は、必ず中心者になるのです。家庭において、孝行者はより犠牲になる人です。それゆえ、家庭の中心になるのです。国の愛国者は、より犠牲になるために、国の中心者になるのです。聖人の中でも、より犠牲になる聖人が、聖人の中の中心になるのです。これが真理であるために、この真理の道に厳粛に従い、すべての分野に和することができる人を作るべきだとして、「成和」であるのです。成和青年が何か分かりますか? 天と和し、人間と和し、万物と和することができる、そのような青年であるのです。このような青年が行く所には、新しい希望が芽生えるのです。新しい神様の希望が宿るのであり、神様の愛の力が加わるのです。このような、驚くべき事実を知って、どうぞ…。(一一三・三二六)

 成和という文字に、大学生を付ければ、それは「大」の字でしょう? どうして「大」の字ですか? これは、天と地のために祝福するための中心であるためであることを考えるべきです。皆さんは、原理研究会の学生として、革新をするための主体的な存在です。それゆえ皆さんは、大学生として、大学を蕩減すべきです。大学は今のような状態ではだめです。これでは祝福を受けらません。言うだけ言えば、みんなできるのですか? 祝福も時が合わなければなりません。

 では、学というのは何ですか? 知識のことでしょう? 何をするために習うのか? この頃の大学生は、とても露骨です。女の子たちに、なんのために大学に通うのかと聞くと「いい所にお嫁に行くためです」あるいは、「大臣の家の跡継ぎの嫁になりたい」と言います。そうではありません。このような風潮は、みんななくすべきです。勉強はだれのためにするのか? だれとも何ら関係がないのです。結局、自分自身のためにするのです。学校で一等になるのも、自分のためにするのであり、お嫁に行くのも自分のためにするのにもかかわらず、気分が悪いときなら「男のくせに」と、夫をにらみつけて、絶対にけんかに負けまいとします。夫が一言言えば、唇をブルブル震わせながら「私の知らないことがどこにあるのよ? 男だからといってみんな分かるの? 私は、力の弱い女として生まれたけれど、男に負けないくらい、うまくできるわ」と、言いながらどなり散らします。これではいけません。これは、自分自身のためであることにしかなりません。

 勉強するのも、真の男性に会い、真の母親になるためにするのだ、というべきです。母親になるためには、まず国のために勉強すべきであり、夫を真の夫として侍る、真の妻になるべきです。このような自分になれなければ、真の夫に侍ることもできず、真の息子を持つこともできないのです。女は、真の妻になり、一つの家庭を主婦として、夫と百年偕老(夫婦が年を取るまで仲良く連れ添うこと)すべきです。

 いい所にお嫁に行くために勉強するなら、大学出身者は、夫婦がみんな百年偕老すべきでしょう? しかし、百年偕老する人が多いですか、離婚する人が多いですか? 調べるまでもないことです。字を一字も知らない者たちが、もっと長生きするのです。このような意味で、成和というのは、大きな名前です。(二五・一〇九)

2 成和大学生が持つべき基準

 今、大学街が滅んでいく理由は、アダム・エバが十代、すなわち青少年期に堕落したように、堕落しているためです。今はそのときの収穫期、すなわち秋のような時です。それで、世界的に堕落しているのです。先生はそれをみんな復帰しようとするのです。天理法度に従って、収拾しようというのです。分かりますか?(はい)。それゆえ、男はむやみに女の手を握ってはいけません。(二五・二〇二)

 皆さんは、大学街の若者として、押し流されたり、始末に負えないごみのような連中にはならないでください。じっと座っても、環境が無視できない群れになるべきです。(二五・一六九)

 一時期は、十時を過ぎれば、青少年は家に帰れ、とラジオで放送したでしょう? 大学生ならば、大学生として、その国の未来の中枢を担って率いていく人物になるためには、それに対する基準がなければなりません。それを中心として、行ったり来たりすべきなのです。皆さんが、原理原則を中心として、逃れれば悪の側ですか、善の側ですか? 蕩減路程で習ったでしょう? これは、悪の包みです。ここには、サタンが来るのです。先生は「サタンは買って(韓国語:サソ)乗る(韓国語:タダの連体形タン)からサタンだ」と思います。このような実感のこもった言葉が必要です。ところで、だれが買うのか? 自分たちが買うのです。皆さんが買った者たちなのに、頭を引っ張って上がっていくとは何ですか?(二五・二七〇)

 今、成和大学生たちは、学校を卒業すれば行く道がはっきり決まっています。ですから、違うことを考えてはいけないのです。皆さんが、目、鼻、手などの体と、心を全部いいかげんにしてはいけません。一生を懸けてこの国を救うのに先陣に立ち、この世界にたいまつを掲げて立ち上がるべきです。ここから新しい歴史が始まるのです。(二五・二〇七)

 知識層の若い学生男女が一つとなり、この民族の前に立つべきです。そのようになれば、この民族は瞬く間に復帰されるでしょう。

 大学に通う皆さんも、すべて将来祝福を受けるべきです。原理的見解により、皆さんが行くべき指標がはっきりしました。この道を皆さんは、昔の先生の兄や弟の立場で、行くべきなのです。分かりましたか? イエス様が青春時代に民族と祖国に対し抱いていた、胸の痛む恨を解くべきです。皆さんは、イエス様が一人寂しく追われ追われて、荷物を包んだ、そのもの悲しい事情を踏み越えるべきです。そうして、サタンとの闘いの場で、陣を構え、君臨できなければなりません。これが蕩減解怨成就の規則なのです。

 反対すれば、反対する人たちが滅びるのであって、反対される皆さんは滅びません。先生だけ信じていけば、皆さんは押し出されません。三年だけ克服してください。(二五・二一四)

3 卒業後、就職よりみ旨の道が重要

 皆さん、「私」という存在を考えてみましょう。私なら私、皆さんなら皆さん自体を静かに考えてみましょう。「私」という存在が生まれましたが、この「私」という存在自体は、どこから来たのか? 曲折が多いことでしょう。考えてみてください。静かに座って考えてみるのです。「私」という存在がどこから来たか? 二〇代、すなわち、青年期にある自分は、過去から今までどのように歩んできたのか? 幼稚園から、国民学校から、中・高等学校を経て、大学まで来ましたが、今自分は、ここからどこへ行こうとしているのか? 現時点から見るとき、どこから来て、どこへ行くという過程があります。この過程は、人生において、どの道経なければならない過程です。(一五六・二五六)

 今日、世の中の人たちは、何を見つめているのか? 大学を卒業した大卒者、彼らは月給をたくさんくれる会社や銀行に就職しようとします。最終的に見つめているのがそれです。それで、食いぶちの土台を築いた次に、素敵な女に会って、息子娘を産んで暮らせばいいじゃないか、といいます。そのように暮らして、何になりますか? 世界人類とか、何とかということは、眼中にもありません。(二五・二六三)

 皆さん、大学を卒業したら、何をしますか? いくら稼ぐ月給取りになりますか? それは、鼻をかむほどにもならない、つまらないことです。そう、月給取りになって、その金に心を奪われ、僕の野郎になるのですか? 月給取りになろうという人、手を挙げてみなさい。ならば、ならないという人は、手を挙げてみなさい。これは何ですか? こうでもなく、ああでもないなら、何をするのですか? 月給取りにならないなら、何をするのですか? 月給取りになるまいとするなら、主人になるべきではないですか? 主人にならなければなりません。(二五・一六七)

 近頃の若いやつは、よく見ると「就職、就職。何万ウォン就職。ああ、み旨が何だ、就職だ」と言うけれど…。彼らは、相手になる存在にもなれません。何、自分の就職のためにみ旨の道を行けないとかいう人は、そんな人は人の側にも入れないのです。それ、入れると思いますか? さあ皆さん、考えてみなさい。人の側に入れますか、入れませんか?(入れません)。それ、何、名前を付けるなら、何と言うか…。気分が悪いですか、いいですか? 気分が悪くてもしょうがないでしょう。「これは気分が悪い」と言うでしょうが、気分が悪くなければなりません。(六二・二〇五)

 皆さんは、すべて青年です。今大部分の世の中の青年たちは、特に大学生たちは、自分自身を中心として、自分の国でどのように出世するか、または、自分の幸福な人生をどのように成すか、という問題を抱えて腐心しています。しかし、統一教会の若者たちは、そうであってはなりません。自分自身だけの幸福を考えるよりは、もっと次元の高い倫理観に立脚し、民族のため、世界のため考えるべきです。そのように、次元が高く、広い視野の幸福観を実践できなければなりません。皆さんは、このような中心的な使命意識を持つべきであることを、原理を通じてよく知っていることと思います。(二五・七九)

四 知識と学問に対する姿勢

1 知識と生命

 知識と生命の価値を考えるとき、これら互いにが対等でありえますか? 皆さんは、学士、博士になるため、生命を犠牲にしますか? 生命を学士、博士と替えますか、替えませんか?(替えません)。ならば、農村に住む人でも生命の価値を知っている人と、いくら、学士、博士でも、生命の価値を知らずに生きる人を比べるとき、どちらが価値のある人ですか?(生命の価値を知っている人です)。それゆえ、生命と知識は比較にならないのです。(四一・一七六)

 聖人は、何をもってタッチ(touch)したのか? 聖人がタッチしたその内容は、知識ではありません。より価値のある生命、より甲斐のある生命を中心として、その生命が国家的でなく、世界的な宇宙を主管できる超環境的な生命の価値を描きながら、それを実践し、その周囲環境の中でその生命が覆され、世界的な国家を望みながら死んでいったとすれば、彼は聖人であるのです。

 それゆえ、ソクラテスは聖人の側に入れません。今日の思潮は何が動かすのか? 哲学が動かします。しかし、哲学は生命と関係があるのではありません。皆さんはそれを知るべきです。哲学は、生命を左右できる根元的な立場にはなれないのです。生命の対象的な立場に立つことのできる知識の根源にはなりますが、生命の内容自体を決定できないのです。それゆえ、哲学は生命を救えないという結論が出てくるのです。

 聖人たちは、哲学者ではありません。聖人たちを分析してみるとき、彼らは何をもって生きたのか? 何らかの戦法をもって生きたのではありません。もちろん、知識を教えてくれるべきではあったでしょう。人生の道理の一面を教えてくれはしましたが、それは何を中心として教えてくれたのか? 世の中を占領するための戦略的なことを教えてくれたのか? 彼らが教えた内容は違います。全部違うのです。

 知識は知れば知るほど占領していくのです。今日の西洋哲学というものは、占領的な哲学です。知れば知るほど占領していくのです。多く知れば知るほど、自分を越えて、その版図を世界化させようとするのです。何を中心として? 世界を中心に、自分を中心に?

 世界のための道に従って進むとはいいますが、だれを中心とするかといえば、どこまでも自分自体を中心とするのです。自分が中心だというのです。哲学は人生の生命問題を根本的に解決できないため、対象的な価値には属するかもしれませんが、根本的な決定要因にはなれないのです。聖人たちはそのようなことを知っていたため、何を追求したか? 知識を探求するにはするが、平面的なものだけではなく、一般的なことだけではなく、両面的な面で探求しようとしました。それゆえ、聖人の道理は必ず何が中心となっているか? 自分が中心になっていません。分かりますか? ところで、哲学は、何が中心になっているか?「学」ではありますが、その「学」を主張する人を中心としているのです。これが問題です。聖人は主張はしますが、主張するその人が中心ではないのです。これが違います。

 哲学というのは、主張する人がいつでも問題になるのです。マルクス主義であれば、マルクス主義を主張した人が、主導的な役割をするのです。その思想圏内に全部融合させるために、世界に発展させて出てくるのです。その中心がだれかといえば、人間であるのです。人間を中心とした環境的な内容を結束させるにおいて、内在的な作用をするのが今日の哲学思潮であるのです。(四〇・三三〇)

 人間は何より貴い生命を宿しています。しかし、この生命を動かし、この生命に衝撃を与える力の対象体として生きない限り、私たちはその力の相対的世界であるこの世界で、安息できません。それで人間は、自分の生命以上の絶対的な生命体と因縁を結ぼうとするのです。これは必然的なことなのです。このみ旨は、人間のものではないでしょうし、このみ旨の責任者も、人間ではないでしょう。それでこのようなみ旨を立てて、摂理してこられた方に絶対者であるとか、神様であるとかいう名詞を付与せざるをえないのです。

 歴史的な終末時期であるこの時を生きていく人は、知識が多ければ多いほど、悩みが大きいことを皆さんは知っています。その悩みが自身の生命力を支配し、生命が安息できる福地を開拓できないようにすることもまた、だれもがよく知っています。このような時において、必然的に要求されることは、絶対者による生命の安息所です。これをだれそれなく要求しているものであり、民族を越えて、東西の文化を越え、すべての人が必要としていることを私たちは知るべきです。

 このような見地から、私たちは、絶対者と因縁を結べるその何かを慕っているという事実が分かります。多くの知識を持ち、人格修養をした人であるほど、意識を通して認識する感覚が、鋭敏であれば鋭敏な者であるほど、自分が知っている専門分野だけでは、生命の安息所が開拓できないことをよく知っています。(九・三〇六)

 皆さんは、何の大学に行き、博士になって、何になって、と騒ぎますが、鉢巻をして、ご飯もよく食べられず、遊ぶこともできずにですね、休みもせず、夜を明かしながら勉強して博士の学位を取ったのです。そして、ノーベル賞受賞者になったといって、世の中で立派な人だといいますが、彼自身をよく見ると、悲惨なことが多いのです。同じなのです、同じ。いくらノーベル賞受賞者になり、知識があるとしても、それは狭い専門分野です、狭い専門分野。この広い世の中で、小さな穴を開けて、その分野について知って、この囲いの中でこうしているのです。世の中を見て、全体を見るとき、自分は極めて小さなものです。何かを知って誇りますが、極めて小さいことを知ったのです。

 さあ、それを考えるとき、知るということ、知識が人間に幸福をもたらし、安逸をもたらすか? そうではないのです、知識は。勉強すれば、勉強するほど、分からないことがもっと多いということが分かるのです。もっと多くのことを知るようになるのです。

 このようにして、学校に入って、有名な教授になってみなさい。毎日のようにチョークでもつかんで、何かを書いて、何かを任されて…。こうして一生を過ごすと考えてみなさい。チョークの粉を吸いながら、大声を上げても、その分野で声を大にするのであって、世界に何の影響を及ぼすとか、いっぺんに世界がどうにかなるとか、そのようなことは一つも分からないのです。一つのみ旨だとか何とか、考える余地がないのです。知らない人より、もっと知らないのです。より深く入っているから…。

 さあ、そのようなことを考えてみるとき、知識があるといっても、一生の間ただ本の虫として…。自分に対して自信を持つのでなく、ただいいもの、だれかがその分野で一言言えば、それをかき集めてまた比較、研究し…。それはたまらないのです。ですから、自分が主張したのが希薄なのです。自信がないのです。また、有名な学者になれたら、それが何ですか? そこに自分の生命を投入して、自分の全体を投入するには、あまりにも惜しいのです。(九八・八四)

 私たちが、あの人は優れている、というとき、知識をもって優れたといいますか? 性格が優れているべきでしょう。本当に優れており、良い人と名前がつくためには、その人の本性と生命の形が天性的に優れていなければならないのです。知識などあってもなくても、心が優れているべきです。(三九・三一五)

 皆さんが、金持ちになって、偉大な学者になろうとするのは、そのセンターに行って全部尊敬されるためであって、あの遠い国へ行って尊敬されるためではないではないですか?(一二八・一九八)

2 知識と心情

 知識が多くて何がどうだという、そのようなことを先生は考えません。心情が問題です。知識で主管するようになっていますか? 権力で、権威意識をもって「私が長である」と言ってはなりません。心情をもって主管するのです。心情はこの宇宙の中心であるがため、自分が心情的因縁を結べば、先生と一つになろうというようになれば、先生と同参することのできる権限が生まれ、同意圏が立つのです。それが九〇度に立てばこそ効果が生まれるため、そこから外れてはいけません。角度が合わなければ、いくらやっても無駄なのです。(一七一・二〇)

 歴史は私たち人間をして、知識を通じ、外的な幸福の基礎を築くようにしたり、宗教と倫理と道徳を立てて、社会的秩序の基準を持つようにしたけれど、人間だけが意志疎通できる心情的秩序は立てられなかったのです。それを知るべきです。心情的な秩序は立てられなかったのです。神様がいるというからには、その神様は、何をすべきなのでしょうか? 外的環境は整ったので、人間の前に外的に許された祝福の基準は、復帰されたので、今世界的に心情的因縁を持った形態が現れなければなりません。それで、心情的因縁を中心とした世界を備えるために来られる方が再臨主である、ということを知るべきです。

 そのため、今まで世界は知識革命をしてきたし、社会組織革命をしてきました。この上に良心の基準を越えた心情の革命まで起こそうとしています。心情革命を完結させようというならば、私たちが堕落によって失った神様と、堕落していない真の御父母に侍り、真の息子・娘になるべきです。神様、真の父母、真の息子・娘、この三者が失ってしまった一つの基準を中心として出会うことができてこそ、心情革命が完結するのです。そのようにできる時が、終わりの日なのです。皆さん、これをはっきりと知るべきです、はっきりと。(九・六〇)

3 神様は知識を勧告しなかった

 堕落とは何でしょう? 神様との心情的因縁を裏切ったことです。神様が願われる良心の基準を完成できず裏切ったのが堕落なのです。神様の理念を立てられずに裏切ったのが堕落ということです。焦点は、神様の心情基準を失ってしまったことです。

 それで、天は人間を探し求めてこられます。来られるときには「お前たちの体を愛せ。学問や知識を愛せ」とは言われませんでした。「神様の愛を求めて立ち上がれ」と言われました。これが今まで神様が悟りの道を立ててこられた基準です。(一〇・九八)

 神様が立てられたイエス様が、み旨を成すことができずに行かれたその日から、すべての王、メシアの再臨を約束されました。そのような主人公が来られるには、何を持って来られるのか? 人間の望み、歴史の望み、時代の望み、すべての天宙の望みである、心情の福地を持って訪ねてこられるのです。それで、天は私たちに勧告されました。知識を持てと勧告されませんでした。権勢を振るえと勧告されませんでした。死んでも、生きても新婦の志操を持って身を整えろと勧告されました。(九・五六)

 神様に必要なことは何か? 神様にはお金も必要でないし、その次に知識も必要ありません。神様に何の知識が必要ですか? 自分が神様の前に行って「私は知識が多く、博物学者です」と言うとき、神様は何と言われるでしょうか? 「立派であるな」と言われるでしょうか、「意地汚い」と言われるでしょうか? 誇れる内容は、何もないのです。神様は真理の王です。知識の王です。また、「私はある国で大統領をしてきました」と言えば「このやろう!」と言われるのです。神様の前に、自分の権力を中心として、大統領の権限を知ってくれといっても、それは神様がいつも持っているのです。神様に必要なのは何か? お金でもなく、知識でもなく、権力でもなく、必要なのは愛であるのです。(一八七・四四)

 知識、知識がそうではないですか? 学説が全部変わっていけば、絶えずそこに飛びついていくではないですか? それに従っていくのです。一方向性です。回らないのです。知識、力、その次には,お金、経済…。経済というのは消耗するのです。経済というのは、お金というものは、必ず使うようになっているのです。お金がなぜ必要なのかといえば、私たちがそれを消耗させるためです。それを中心として、万物の代わりとなりうる消耗材料を必要とするのです。

 消耗したものは、どこへ行くか? 消耗して、それが回るのではありません。それも一方向性です。回らないのです。しかし、これらの力の中で、回りうる一つの力は何か? 愛の力は回るのです。その愛は一人で回ることはできないのです。(一八〇・一四四)

4 専門家になるには

 学問なら学問を中心として考えるとき、ある分野の権威ある地位に進むためには、その分野について、専門的な過程を履修しなければなりません。事業もやはり、その分野で専門的な過程を経なければ、大きな成功を収めることはできないのです。国家も同様に、一つの政策を遂行するためには、その分野の専門要員たちが知識を統合しなければなりません。そうしなければ、その国家の政策遂行は不可能であるということを、私たちは知っています。

 このような観点から見るとき、神様が復帰摂理という問題を解くにおいても、ここに必ず神様が願われる専門家が必要であるということは、言うまでもないことです。私たち統一教会を中心として考えるときにも、私たちが行く道には、必ず専門家がいなければなりません。

 では、私たちが専門家になるためには、まずどんな精神を持つべきか? 自分が目的とする分野に、全身全霊を傾けなければなりません。自分のすべての生命力を投入して、すべての精誠を注ぎ込むべきなのです。聖書にも「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛せよ」と言いました。すなわち、愛するにおいては、全身全霊を尽くして愛さなければなりません。心情が一致せずには、愛の専門家になれないということです。(二九・八〇)

 以前にある大学に通う学生を通して、学者たちは自分の専攻分野の資料を収集するために回っていたのですが、世界的な資料、もう少し有益な資料がどこかにあるといえば、それを求めるために、自分の威信がどうなるか考えもせず、ありったけの力を尽くして、必死に走り回る、という話しを聞きました。自分の専門分野のためには、自分の持っている財産を全部はたいてでも、その資料を求めようとするのが、学者たちの心というものです。生命を懸けて自分の専門分野について研究する立場にある人であるほど、惜しいものはないのです。(一二・一九九)

 専門家になるためには、その内容を深く掘り下げなければならないのです。そのようなことを正しく教えるためには、それが必要なのです。しなくてもいいのですが、習わなくてもいいのですが、深いところまで行こうとするには、それを訪ね入って知るべきです。それでこそ指導者になりうるのです。(六七・二三一)

 世の中には、有名なバスケットボールの選手、サッカーの選手、フットボールの選手がいますが、その選手たちは、そのままそのようにその国のチャンピオンになるのですか? そのチャンピオンは、何かといえば、専門家です。最高の専門家なのです。では、専門家がただ座って「私は専門家になる」と言って、なりますか? 同じことを十回、百回、千回。万回…。その数をたくさんすればするほど専門家になるのです。(八一・一三五)

5 絶対価値を中心として収拾すべき

 世の中の人たちの中には、専門家の人格、部分品の人格がたくさんあります。そうして、博士だといって自慢していたのが、この頃では厳しくなって大したことはありません。博士で世界の問題が解決できないのです。

 それゆえ、先生は、絶対価値を中心として、アイカス(ICUS国際科学統一会議)を指導する場があるではないですか? 博士たちを招いて回りながら指導するのです。ノーベル賞受賞者、ヨーロッパでどうの、アメリカでどうのという、優秀な者たちを引き連れて回る機関車が先生ではないですか? いくら声を大にしても、部分品工場の専門委員にしかなれません。専門委員だとか、マネージャーだとかいって…。

 ですから、部分品工場でなく、組立工場に行くべきです。では、統一教会は、何をするところか? 部分品工場になって部分品を作る所ですか、組立工場になって完成品を作る所ですか?(完成品を作る所です)。完成品を作る所でしょう。それゆえ、統一教会の工程は、通過していくのがたやすいですか、難しいですか?(難しいです)。どれだけ複雑ですか? 統一教会は、やらないことがないでしょう?

 アメリカ人たちが、私の悪口を言うとき、レバレンド・ムーンは産業経営者だとか、福音伝道師だとか、ビジネスマンだとか、宗教指導者だとか、科学者だとか、ああだこうだとありとあらゆることをみんないいます。このやろう! そうじゃありません。私が何の工場主か? 全体を組み立てて、完成品を作る工場主がレバレンド・ムーンです。気分が悪いでしょう?(気分がいいです)。

 では、その原本はどこにありますか? 組み立てるその原本が、どこにありますか? 青写真というものです。原製作図がどこにありますか? それはレバレンド・ムーンによる原本か、神様による原本か? それが問題です。レバレンド・ムーンによる原本なら、それは偽物です。いくらうまくできていても、人間によるものは偽物です。しかし、神様によるものならば、本物でありうるのです。本物は、まだできていません。本物でありえます。

 本物であるかないかは、食べてみれば分かります。食べてみれば、千年前の本心が口をパッと開けて「もっとくれ。どんどん入れてくれ」と言うのです。行くなといっても「私は食べたい」と言いながら、絶えず引かれていくのです。統一教会は、そのような威厳があります。これが問題です。一度味を知ったら、首が取れても、足が逃げていっても、首はそこに永遠についていようとします。そう、この老いぼれたち、来る度に私が毎回のように悪口を言っても、悪口を言われた跡がありません。たたいてあざになっても、痛いといわずに、いいといいます。いいといいます。だから、それはあやしいのです。何がそうさせるのですか? 手段方法で? 文先生は才能が多いから? 言葉がうまいから? 言葉がうまいのは、飴売りが私よりもっとうまいのです。それは何ですか? 一度味を見たら、舌がくっついて、はまりこんだらやめられないのです。(一七二・三五)

 皆さん、思想戦に負けますか? 負けますか、負けませんか?(負けません)。すでに実験は済みました。全世界の学者の中で、これからは、レバレンド・ムーンのゴッディズムの時代であると提唱する学者たちが多くなるのです。今から、アカデミーは、統一思想から統一教会の原理を知らない人は、議長団から除去するようにしました。一九八八年まで、頂上に昇ったすべての学者世界に、私が今絶対価値を中心として論駁する、このような巡回要員の立場にはならないでしょう。私たちの要員たちを配置して、しんらつに批判するでしょう。「社会科学から自然科学、哲学、宗教分野で、全部しんらつに批判してたたき直せ」と言いました。今年からそのような指示をしました。今や私が手を着けるべき時なのです。それで、学界の巨星たちは、思想的な方向を正してやるべきです。分かりますか? 思想戦には負けてはならぬチャンピオン、先頭に立った人が先生だということを忘れてはなりません。分かりますか?(一三八・六〇)

 見なさい。今までレバレンド・ムーンの言うことを聞いた人たちは、立派な…。ここにも博士のかけらたちが来ているでしょう。かけらといって申し訳ありませんが、かけらが何、物理学のかけらとか、哲学のかけらでしょう。かけらというのは、一部分をいうのです。何だ、優秀だからと、統一教会に来ては、出ていって「ははあ、文なにがしがあんなふうにしたら滅びるさ。まあ、獄中生活をして、統一教会がなくなるさ。あんなふうにして、だれがついていくか?」と言うのです。しかしながら、みんなついてこなくても、私はついていくのです。私はついていきます。そうして、結局見たら、この頃になって、私が彼らよりも栄えた位置に立っており、彼らは全部片隅に立っていたというのです。(一三二・二三三)

6 若者が知るべきこと

 私たちを知らない人が、私たちに会えば「おまえはだれか?」と尋ねます。先生も皆さんに同じ言葉で尋ねたいです。神様も同じ質問をなさるでしょう。神様が喜ばれる答えは「私は青年です」と言うことです。個人においてもいちばんいい時は、青年の時です。(一一・一一七)

 数多くの宗教は、何千年、あるいは何百年間現れては、この時代的な思潮の前に押されていく傾向を見せています。キリスト教も今まで、数千年間現れてきましたが、未来のひとときを賭けて、もう一度越えるべき運命に置かれています。ここにもし骨髄からにじみ出た、神様の競技コースがあるとすると、そのコースは歴史的なコースであり、時代的なコースであり、未来的なコースであるため、私たちはここに対する知識がなければなりません。それゆえ、このときにある新しい真理があるとするならば、その真理はこの時代的なものであってはなりません。皆さん、青年たちは、はっきりと知るべきです。時代性だけを身につけては絶対にいけません。何主義、何思想があったとしても、一時代のひとときに合うものなら、その主義と思想は過ぎ去ってしまうのです。連綿とした歴史の背景を持ち、この時代の思潮を通じ越えられる理念、新しい主義が必要なのです。(七・一三九)

 今日、この時代は、どのような時代なのか? 善と悪が交差する時代であり、善に合流していく時代です。このような時代に処している私たちは、どのようになるのか? 善悪が交差し、合流した後には、どのような世界になるのか? この世界が流れていけば、どのような世界がやって来るのか? 気がかりな問題です。今日、志を持った青年男女がいるとするならば、足を止めて、天があることを知るべきであり、地にある万物の願いを知るべきであり、その願いの爆発地が交差点に止まっているこの世界でなく、正に自分たちであることを悟べきです。(六・一一二)

 若い人たちは善悪の基準を確実に知らなくてはいけません、これを確実に知るべきです。(七〇・七三)

 若者たち、皆さんは善悪の岐路に立っているため、一歩でも間違えて行けば、それは千尋万尋の死の底に歩み入るのです。苦しくても一歩一歩踏みしめて上がるようになるときには、光る明日の願いの山の峰を越えて、希望の原野を臨むことのできる、勝利の王者になりうるのです。一歩に注意すべきなのです。一つの視線を注意すべきなのです。皆さんは、勉強するにおいて、一ページの本を読むときには、この一ページを自分が全部納得することによって、一つの単語をキャッチ(catch:つかむ)して、よく理解しておくことによって、これからの国の悲運の歴史をより分けられるようになる基盤が、この一つの単語にあることを感じる、そのような立場で勉強する人になるべきです。そうすれば、その勉強は、国のための勉強になるのです。

 私が一ページの本を見ても、神様の摂理のみ旨が見いだすことができると考え、そのような深刻な立場でその一ページの本を通読した人は、神様が必要とするもののために準備していく人に間違いないので、神様はそのような人を選んで使われるのです。しかし、適当にあやふやに、ただこうでも良く、ああでも良く、何にでも調子を合わせて無節操に踊るそのような人は、その国の主人にはなれないのです。席もわきまえず、女たちとくっついて踊り、男たちと踊ったりするけれど、それではいけません。道が違うのです。統一教会の行く道は、道が違うということを知るべきです。

 私たちは、善の道を行かなければならないために、生死の分岐路、善悪の分岐路、あるいは、興亡盛衰の分岐路が皆さんの前にありますが、そこにいかりの綱を掛けるようにしてはくれなかったのです。では、それをだれが支えていくべきか? 自分が引いて行くべきなのです。「こいつ、いかりの綱め」と言いつつ、自分が引いていくべきです。「善のいかりよ、昇っていこう、昇っていこう。個人を越え、家庭を越え、氏族を越え、民族を越え、天まで昇っていこう」そう言うべきです。こうして昇っていくのです。分かりますか?

 このような原則に従って、特に若者たちは、善悪の基準がこうであるということを確実に知って、明日の勝利者となって、栄えある祖国光復を越え、世界天国が開門する幸福の一日を迎えるべきです。そうして、勝利の王者として、王女として、神様の愛を受けるだけでなく、万国に代わってこの方を手本にしろといえるように褒めたたえられる皆さんになるべきです。(五九・二一四)

 統一教会の青年たち、私たちは故郷の地を奪還しなければなりません。統一教会を信じるのは、本郷の父母を奪還するためであり、本郷の家庭と氏族と民族と国と世界を奪還するためです。分かるでしょう? そうするためには、失ったものを復帰していかなければなりません。(二一・一五九)

五 成和青年の姿勢

1 内的自我の確立

 皆さんにいちばん重要なことは何かというと、神様と父母様と自分が、いつも一致すべきだということです。もし、離脱するならば、度々事故が起こるのです。ここから離脱したときには、み旨のためにするといったとしても、そのことによって、自分でも知らずに逆賊になるのです。初めから逆賊になろうと考えた人はいないでしょう。よくやるといったのが、結局はそのようになるのです。

 それゆえ、ここにいる皆さんは、三者の一致点を探し求めるべきです。責任を完遂するにおいては、これがいちばん重要で起点であるという事実を皆さんは知るべきです。神様と父母様と内的に一致できる基盤は心情です。(二四・一三二)

 内的な教会生活において、神様から公認を受けうる立場に立てない人は、外的な社会生活において、神様に代わって生活することはできません。(二二・三六)

 皆さんは、自分の進んでいる方向が違ったとしても、その目的基準に対する徹頭徹尾の思想だけは持っているべきです。そのような心さえ持っているなら、だれも侵犯できないのです。(三四・二四)

 統一教会の先生が指導する方法は何か? 神様のために今まで何をしてきたか? それはすなわち「歴史の主流に接しろ」ということです。(二一・一〇九)

2 決心した以上押し通せ

 原理を知る人は一生を生きる中で、二一歳のときは三×七=二一であるため、「この一年だけは、三六五日私が計画した通り、間違いなくやる」と決心します。そうして、正月一日「天地神明よ! このなにがしという男を見てくださいませ。二一歳を迎えたこの年の三六五日だけは、私が計画した通りに致します」と宣誓し、誓って出発したとしましょう。それで、その日の朝には、深刻に目をむき、へそに力を入れて大騒ぎしますが、一日を暮らしてみると、そのような気分はどこかへ行ってしまうのです。失ってしまうのが当たり前なのです。目をむいて下っ腹に力を入れて決心したら、それ以上の力を入れて目をむく深刻な立場に立たなければ、決心したことを成せないのが、私たちの生活の周辺の現象です。そうですか、違いますか?(そうです)。決心した以上押し通すべきです。

 発動機が回るのにおいて、もっと早く、もっと力強く回すには、だんだんだんだん力が強くならなければならないのであって、少なくなってはいけません。そうでしょう? それでこそ、発動機が正常に回るのです。これと同じ道理です。そうではないですか?

 ですから、毎日、朝や昼や夜に、あるいは、一週間、二週間、三週間、四週間、あるいは、ひと月、ふた月、半年、一年、三六〇日を進むほど、出発したときに固く決心したそれ以上の気迫を持たなければなりません。その気迫が弱くなって、目的を達成できますか? 最初より少しでも弱くなって、その目的を達成できますか、できませんか?(できません)。できないのです。三六五日、このような決意をして、最初の日に決意したそれ以上の決意をプラスさせて、それ以上の迫力を加える自分になってこそ、三六五日を過ごした後「やあ! 二一歳になる今年は、本当に素晴らしく幸福な、記念すべき年だった」そう言えるのであって、決心を少しでも低くする場合には、どのようになりますか? 上がりますか、落ちますか?(落ちます)。落ちるようになっているのです。一つの目はこうなって、もう一つの目はこうなって落ちます。

 一年間、暮らすにおいては、皆さんが目をむいて誓っても、それに合わせるか、合わせられないか分からないのが、堕落した人間の人生なのです。そうではないですか、そうですか? そうであるでしょうか、違うでしょうか?(そうです)。(五七・一四一)

3 外的姿勢

 私たち青年男女は、今日の現実の教会に対して、教派主義に対して、まず半期を翻して立ち上がるべきであり、平信徒の団結を叫ぶべきです。時代の思潮は、これを要求しているということを皆さんは知るべきです。昔には、ある主権者や帝王、あるいは君主たちが、神様に代わって成り済ましていました。そうだといって、その人たちは、神様ですか? その人たちだけ神様に成り済ますべきですか? 違います。そうではありません。万民が神様の血肉を受けた息子・娘である故に、だれもが天の息子・娘であるのです。(六・三一一)

 今日、この民族を抱えようという青年がいますか? 民族が進んでいく道を開拓し、ある目的地に接近させてやろうとする使命を持ち、それに対する責任を感じる人がいますか? そのような人がいるとすれば、彼はこの民族のあえぐ実情を見て、イエス様が天に対して訴えながら流された涙が、その民族を助け、今日まで、歴史的因縁をつないできたという事実を知り、イエス様のようにこの民族のために、天に対して訴えるべきでしょう。

 今日、歴史的な思潮もそうですが、これからの民族の展望もそうです。天理的な一時を望んでいる人類であることを否定できないからには、そのような過程であえいでいる私たちであるということを知るべきでしょう。それゆえ、自分が進む人生行路で、自信を持つことができなければなりません。これがなくてはならないのです。(七・三二)

 さあ、統一教会の青年たちよ、統一教会は何をするのですか?「神様と人類が一つになってみよう」と言う連中なのです。その連中に間違いないのです。事実でしょう?「神様、私たちの所に来てくださいませ」と言うのですか、「私たちが神様の前に行きます」と言いますか? どちらですか?(私たちが神様の前に行くといいます)。そこに一般の既成教会と統一教会が違う点があるということを知るべきなのです。(八七・一三)

 この国の悲惨な姿を見て、山に登ったり、岩をたたきながら「岩よ、お前がこの民族の悲惨な姿を見るのを願ったのか」と、慟哭する青年がいるか? いないなら、この国は決して悲惨の中から抜け出すことはできないでしょう。(一四・一五五)

 統一教会の青年は、何でもするという心がなければなりません。(一一・一〇)

 皆さんが優れている、劣っているとか、ある事実をよく知っている、知らないが問題ではありません。自分がどこから習い、どこで知って、どこで動じ静じ熱意を尽くすか、というのが問題です。これがこれから、皆さんの全体を左右するのです。(二五・九五)

 年を多く取った人より、若者、若い青年たち、情熱と気迫にあふれる若者たちが必要です。(一四・一七〇)

 何でも大きいことをするためには、基礎がしっかりしていなければなりません。今日、若者たちが取るべき態度は、どんなものか? 皆さんは機関車になるのか、客車になるのか? もちろん、機関車になるべきです。ところで、私たちは今、客車のいちばん後ろにくっついて、車輪を逆に回しながら引っ張られている実情です。

 力がなければ、空いた車でも回して、この峠を越えなければなりません。私たちは、機関車を引いていかなければならないのです。

 私たちは力のある統一の群れになるべきです。動かなければならないという衝動が、百パーセント体にしみ込んでいなければなりません。どこまでも、力にぶつかろうとする動的な衝動が皆さんに必要なのです。

 何よりも、若者たちが知るべきことは、自分がどこからどこへ向かっているかという問題です。今日を生きていく自分は、どのような姿勢が必要なのかを知るべきです。(一四・一〇四)

 統一教会の若者として、完全な生活方法は何か? 一線に立ち、激しい嵐が吹きつけても、それを貫いていくのであり、また、すべての十字架の途上においても、歯を食いしばって前進するのです。このように、神様が願う道を行くことが正道なのです。そのような境遇で、悲しみを感じたことのない人は、説明では通じません。そのような境遇で、涙を流しながら「お父様!」と言うとき、歴史的な十字架を背負ったお父様の苦労が分かるようになり、また、お父様の前に真の孝行者になれなかったことが、神様の恨であるということが分かるようになります。神様が「よし、このような境遇で、真の孝行者になりうる息子・娘に会うのが私の願いだったが、おお! なにがしよ、ありがたい」と言うとき、そこから初めて孝行息子・娘、忠臣、烈女の位置が決定されるのです。(一五・三一九)

六 青年に施された祈祷

 お父様、青年時代を美しく装わせてくださいませ。そうして、あなたに因縁を持ったこの者たちの行く道を守ってくださり、その環境の基盤を中心として育つことができるようにしてくださいませ。この者たちを真の芽になるようにしてくださり、この民族とこの国とこの世界の前において、すべての人類が眺めることができ、すべての人類を抱くことのできる、新たな命の木となるようにしてくださり、新しい花を咲かせ、実を結び、万国にまいても余りうる私たちとなりますよう、導きくださることを切にお願い申しあげます。(三三・三四六)

 若い時代の一つに生命は、必ず時代とともに流れていきます。だれもがそのように流れていくように、私たちもそのままそのように流れていってしまう人になってはいけません。流れていく歴史に逆行し、流れていく社会環境に逆行してでも、お父様の心情を奉り、お父様の心に喜びの心情を積み重ねる肥料となって、敷石にならなければなりません。そうすることのできる自分たちになることを切にお願い申しあげます。

 各所に広がっていた成和の若者たちが、ここに集まりました。あなたは、この者たちと因縁を結びたい切なる心がおありでしょうか? あなたは、いつも私たちとともに天情の因縁の中で脈が共に通じ、そこに共に臨めることを待ち望まれる心が、大きなものであることを知っております。しかし、私たちは、その限界の基準を越え、あなたの心情に涙することのできる息子・娘になるには、あまりにも足りないのでございます。

 お父様が願われるものが、どれほど大きいかを考えるとき、私たちは、果たしてお父様のみ前に適当であるかを振り返らなければなりません。取るに足らない、不肖な姿をえり分けられないお父様のみ前に、限りなく涙を流せる心を持つようにしてくださり、みすぼらしく哀れな姿でございますが、お父様の理念を永遠に私たちの胸に抱くことができる、そのような姿になるようにしてくださいませ。(二五・一三〇)

 人生は、流れていく歳月とともに、瞬く間に過ぎていくことを悟るようにしてくださり、旅人の人生行路も訪ね来るということを、私たちが忘れ去ることのないように、お導きくださいませ。

 朝、太陽が東から昇るときは、すべての万物が歓喜し、その光が充満していますが、何時間かの内に、夕陽のはかない影とともに、その光が姿を隠すのを知るようになるのでございます。

 同じように、今日、この青春時代のすべての貴いものを誇るのもいいのですけれど、それよりも、夕陽を迎える前に、この青春時代に、何かこの地の上に残していくと身もだえすることのできる、志のある若者たちになるようにお導きくださいますよう、切にお願い申しあげます。

 若い胸に世界的な実力を備えなければならない時は来たのであり、新しい道義に燃え、義侠心と意欲に燃えうる勇猛な心を中心として、闘って勝利の結晶を準備すべき時が来たのでございます。このような時に、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙にまでお父様に侍ることのできる王国の起源をつくらなければならない、とてつもない使命が残っていることを知っております。

 そのような使命の道を行くために生まれた体であり、必ず闘って勝利し、お父様のみ前に栄光を返すために生まれた体であることを自覚しながら、今日もその目的のため行くようにお導きくださいませ。

 今日、自分自身をこの地が呼んでいるので、その声を聞くことができる人たちになるよう、お導きくださり、韓国の未来像と、世界の未来像が私たちを呼んでいることが分かるようにお導きくださいませ。歩みゆくその歩み歩み毎にお父様が勧告してくださり、お父様が同行される事実が分かるようにしてくださり、全体の結果をあなたとともに感じつつ、明日の希望に満ちあふれた胸を抱き、開拓者の使命と開拓者の喜びをたたえいくことのできる若者になるようにしてくださいませ。また、そのような姿をあなたが待ち望んでおられることが分かるよう、お導きくださることを切にお願い申し上げます。(二四・九一)

第二節 青年とタイミング

一 今という時

 今という時は、六千年の人類歴史の結実時代なのです。ですから、葉はすべて落ちるのです。(八二・一四二)

 いちばん重要な時期、私たちが緊迫することを名付けて言うならば「最非常時期」であると言えるのです。このような言葉にも置き換えることができるのです、エマージェンシー・タイム(emergencytime:非常時期)。(一二三・七五)

 さあ、今の時は、どういう時か? 最後の時です。それほどに、すべてが混沌状態にあり、自分を収拾できない断末魔的な時代に臨んでいます。ここに神様がいたら、神様が対処できることは、これをどのようにもう一度救ってあげるかということです。このような問題を中心として考えるときに、その思想概念、自己を中心とした思想を、どのように全体を中心とした概念に戻すのかということです。これは、生死の問題を決定しうる重要な要因であるという結論を下しうるのです。何のことか分かりましたか?(一二六・一一二)

 見なさい、今は紅海を渡る時です。その時と同じです。皆さんもそうです。自分勝手にやれば、滅びるのです。今は、ヨルダン川を渡り、紅海を渡る時です。分かりますか? 紅海を渡るときは、すべて自分勝手にやれば滅びるのです。(一三五・二〇二)

 今の時は、そのような世界を成すべき時なので、モーセが身仕度をし、ヤコブが身仕度をし、アブラハムが身仕度をし、イエスが身仕度をしたように、私たちも身仕度をして、立ち上がるべきでしょう。何のために? 自分の国のためではなく、世界のために、ひいては天のために身仕度をすべきでしょう。(一一・二九)

二 タイミング

1 時がある

 時は来ます。時を待つ私たちも忙しいですが、時を訪ねて来られる神様は、もっと忙しいということを知るべきでしょう。(一一・二九)

 人というのは、時があるのです。時を過って逃せば、歴史に恨みを残しうる、このような起源が、自分も知らない内に過ぎ去っていくという事実を知るべきでしょう。(七八・九四)

 この地上のある人が、いくら持てる知識が多く、手腕に長け、すべての仕事を自分の意のままにできる、背後の条件を完備しているとしても、時を合わせられず、環境を持てなければ、志を成し遂げることはできません。(九・二五四)

 それゆえ、俗に、いくら英雄であっても、時代にうまく合って生まれなければ、英雄として成功できない、というのです。そのように、時というものは、非常に重要なのです。時をうまく合わせられなければ、すべてが無駄になるのです。(五八・二三八)

 時の貴さを知るべきです。春に種をまくべきなのに、秋にまくなら、冬の間苦痛を受けなければならないのです。(一八・一八五)

2 時と召命

 人はだれに限らず、何かに選ばれるようになれば、その選ばれた位置で、真の勝利者になろうとし、もっと輝ける価値を追求しようとします。これが人の欲望です。しかしながら、この欲望が私たちの望みを刺激しうるとしても、これを実践するということは、それほど易しいことではありません。人は、努力さえすればだれでも成功するものと思っていますが、成功するということは、それほど易しいことではありません。

 神様のみ旨の前において、召命を受けるという事実も難しいことですが。召命を受けて、十分に果たすということは、もっと難しいということを、私たちは知るべきです。

 私たち人間は、一日を始める朝が来れば、この朝を皆同じく迎えます。昼が来れば、この昼も皆同じく迎え、夜なら夜も皆同じく迎えます。しかしながら、個々人の心霊を中心として見れば、そうではないのです。一日を迎えるにおいて、時間上では朝方を迎える人が、心霊上では昼を迎えるとか、昼を迎える人が、心霊上では夕方を迎えるように、食い違う人がいるのです。

 言い換えれば、み旨に従う際に、すべてが平坦なものではなく、反対の立場に立ってついていく人がいるのです。このような人たちは、どんなことでも自分の願う通りになりません。み旨の道を歩んでも、必ず相反する役事が起こるのです。

 そのような人は、どのような人かといえば、自分がもし秋なら秋、冬なら冬のようなときに出発したのに、その出発したときがいつなのか、確実に知らない人たちです。分からないのです。冬が過ぎて、立春がやって来るのに、この立春がいつ頃自分の生活圏内に訪ね来るのかを知ることがとても難しいのです。このように、今日、私たち堕落した人間たちは、そのような時を合わせられないので、しばしば食い違ってしまうのです。それゆえ、いちばん重要なことは何かというと、その時を私たちがどのようにとらえて、合わせていくのかということです。

 このようなことを、信仰生活で悟るようになるとき、皆さんが注意すべきことは、その時をこのようにうまく調節して、合わせるかという問題です。これは、極めて重要な問題であるのです。これを合わせ損なうと、一日が食い違い、一年が食い違い、十年、あるいは数十年が食い違い、やることすべてに成果が現れず、相反する結果ばかり現れる生涯の路程を経ていくしかないのです。このような問題を考えてみるとき、み旨に従っていく私たちは、このような時を合わせていくためには、更に深い信仰生活、言い換えれば、深い祈祷生活が必要だということを知るべきです。(四〇・六六)

3 歴史の中でのタイミング

 私たちが「時」ということを考えてみるとき、「時」には、天の運勢の時、個人の運勢の時、国の運勢の時など、色々考えられます。ところで、その「時」というのは、個人なら個人、家庭なら家庭、民族なら民族、国家なら国家、世界なら世界に予告をして訪れるのではありません。その時は、いつも訪れますが、続けて出ていくため、すなわち、きのうの続きが今日であり、今日の続きが明日であるため、私たちは、その時の確実な分岐点を認識し難いのです。

 その時が、朝になるのか、昼になるのか、夕方になるのか、あるいは、夜になるのか、知り難いのです。一時点を過ぎるその時に、自分自ら相対的基準と生活的基盤を合わせるということは、極めて難しいことであるのです。

 今まで経てきた歴史過程には、摂理の時がたくさんありました。個人のための時、家庭のための時、民族のための時、国家のための時など、一つの民族や国家を中心として、そのような時もありましたが、数多くの国家の前後左右を中心として見るときも、そのような時がたくさんありました。しかし、民族なら民族、国家なら国家が、その背後や前後関係において、過ぎていく必要適切な時に合わせて、果たしてその時がその民族が迎えられる時であり、その時の時点が、今日天の運勢が訪ね来る時であることを知って、その時を迎えたことがあったかというと、なかったのです。

 予言者たちは、大部分ある一時について預言をします。そして、預言したその時は、必ず来るのです。しかし、その来ることの中心は、何ヶ月、何日間ではなく、一日のある瞬間、まさに一時の焦点を中心として過ぎていくのです。それゆえ、そのような分水嶺のような一時点を越えるのに、そこに正確に歩調を合わせるということは、非常に難しいことです。

 それゆえ、今まで予言者たちが預言したことは、大部分なされましたが、そこに対して直接的な時代に、その時を知って、そこに備えて、相対的な立場で迎えてなされた事実は実に少ないということを、私たちは知るべきでしょう。その時を過ごしてしまって初めて「ああ、その時春が来たのだなあ。わが国に良い運勢が来たなあ。だれかが預言したその時が過ぎ去ったなあ」と言いながら、過ぎ去った時を回想するのです。このように、預言したその時を過ごしてしまって、その時をまた回想するのが、いつも私たち人間が生活してきた方式であり、今までつづってきた人類歴史だったのです。

 このような観点で見れば、皆さん自身の一生においても、重要な時があります。一生において、必ずなくてはならない重要な時点が、ある一時を中心としてやって来るのです。ある一日を中心として、その時が必ずやって来て、峠を越えていくでしょう。(四〇・一四二)

 人類歴史の時代において、イエスの受難の道に同参することのできる、たった数時間、たった数秒という時間は、二つとなく貴いものであり、神様を迎えることのできる、神様の公認を受けることのできる貴重な時間であるにもかかわらず、ペテロ、ヤコブ、ヨハネがこの時を逃すことによって、千秋の恨みを残してしまったのです。これは一個人の恨みではなく、万民の恨みに連結されて、神様がこの地の上に与えようとされた、全体の福をひっくり返しうる最低の境遇になったという事実を考えるとき、そのとき代表的な立場に置かれていた使徒たちの責任が、どれほど重大だったかを皆さんは知るべきです。(四〇・一五四)

4 時を迎える方法

 一日を見ると、一日は朝と、昼と、夕方と、夜に分かれています。これは同じように見えますが、刻一刻違って移っていくのです。朝から昼までのその中間過程では、朝なのか、昼なのか、分からないときがあるのです。また、昼から夕方にさしかかるときも、そのときが昼なのか、夕方なのか、見分けのつかない中間のときがあるのです。また、夜もそうなのです。分かれる岐路があるのです。

 その変わっていくときというものは、私たちが、まかり間違えば分からないのです。そうではないですか? いつ変わっているのか、分からないのです。春夏秋冬を考えてみても、春から夏に変わる日々が、チクタクという瞬間を通してそれが変わっていくのに「ああ、もう春が過ぎて夏だ」というのが分からないのです。それは、だれもが分かりやすい問題なのに、だれもが分かりにくいのです。また、夏から秋、秋から冬に変わっていくのも、私たちは分からないのです。

 それと同じように、私たち人の一生を考えてみても、人の一生は少年時代から青年時代、壮年時代、老年時代を経るのです。ところで、これが越えていくときは、少年時代が終わって青年時代に越えていくのに、これをだれかが記憶して「おい、もう少年時代が終わって、青年時代に入るぞ」と言う人はいません。皆さんが競争のトラックで、スタートラインに立って走るように、そのような深刻な場でそれを感じてみた人は、一人もいないのです。

 私たちの一生も、そのように越えていく時に合わせにくいのです。その時というものを正確に合わせて、「それがこの時間だ」と言い「よーい、ドン」という瞬間をもって、「私はこの時から、少年時代から新しい青年時代を迎える」と言い、喜んで新しい時代を迎える人はまれなのです。(五八・二三九)

 ところで、日々を送りながら、ただその日もその日であり、今年も昨年と同じであり、摂理の時が発展するというけれど、そこでそこだと満足する人は、落ち葉になるのです。このような人は、生命の因縁を持てないために、秋になる前に落ちやすい落ち葉のようになりうるということを、皆さんは知るべきです。

 それゆえ、私たちは、時に対してもっと考えるべきです。朝ならご飯を食べる時があります。ご飯を食べる時間だといっても、ご飯を食べ始めた時、ご飯を食べている真っ最中の時、ご飯を食べるのが終わる時があります。そのような時を、毎日毎日持つというのは、大変なのです。このように、天の時も私たちの生活過程を通して過ぎていくのに、私たちはそれをいつも見逃しているのです。

 それゆえ、精誠を尽くすにおいては、むやみに捧げてはいけないのです。その時がどの時であるかを知って、その時に合わせて、目標を定めておいて捧げるべきなのです。そのようにして、世界のどんな人よりももっと捧げるべきです。地球上に数十億の人類が住んでいますが、その時、その瞬間、その焦点を中心として、だれよりも精誠を尽くさなければなりません。そのように、すべてを集中して精誠を尽くすことによって、その精誠の度数が数十億の人類の前に一番になるとき、神様は彼とともに関係を結び越えていかざるをえないのです。これが神様の摂理路程であることを、皆さんは知るべきです。

 今日、統一教会の教会員の中に、統一教会に通うことにして、統一教会自体内で内的にひっくり返して、神様が見つめ、世界が見つめ、霊界が総動員して見つめるその時に、真に自分自身の歩調を合わせられるようにしてくれと、精誠を尽くし、また、「神様、今までこの時を願ってこられた、あなたのそのみ旨を、私たちの教団とともに、今日この地の上に、なしてくださいませ」と言い、神様の前に訴える人がいるならば、その人は福を受けることになるでしょう。その時の摂理圏内に参加することができる、特別な恵沢を受けることになるでしょう。

 何も持たない人であっても、正確にその時を中心として、自ら準備して、自ら精誠を尽くすなら、その時の使命を背負い、責任を果たす、その中心存在とともに相対的な立場に立つようになるために、他の人たちは知らなくても、神様は認められるのです。そのようなことを一次、二次、三次と回数を重ねる人がいるなら、その人はその時の恵沢を受けるので、神様がその一代の基盤として、認めてくださるということを皆さんは知るべきでしょう。

 私たち統一教会の教会員たちは、福の綱というか、天の運勢の綱というか、そういう綱を持っているので、この綱を中心存在と自分が、互いに引っ張り合い、この綱がたるまず、ピンと張る位置に立つならば、その位置がどれほど素晴らしい場所であるかということを考えるべきです。

 それゆえ、統一教会の教会員なら、統一教会の行く道とともに、自分の生命を懸けて忠誠を尽くしながら、一日一日、時間時間を、その時の拍子と度数に合わせるために、精誠を尽くすべきです。そうしてこそ、その人は、統一教会の運勢とともに発展するのです。

 統一教会に従う人たちも、行く途中で疲れて倒れるかもしれませんが、その中でも世界の運勢とともに関係を結び、その時に合わせるために、精誠を尽くした人がいるならば、他の人はたった一日でみんな倒れてしまっても、その人だけは残るでしょう。

 摂理の途上においても時があるのです。ですから、その時を知ろうというのです。その時を知って、精誠を尽くそうというのです。精誠を尽くすには、時に合わせて精誠を尽くすべきです。むやみに精誠を尽くしてはいけません。精誠を尽くすときは、その時が、どの時であるかを知って、その時に合わせて、すべての精誠を尽くして、その時間を通じて神様と因縁を結ぶべきです。

 このような問題を考えるとき、今日私たちがこのような時に対する的確度を知って、その時に合わせて神様の前に相対的な立場に立ったということは、極めて貴い事実であるということを考えるべきです。(四〇・一五二)

 時を逃さず、時を失わず、仕事を奪われるな、ということです。それを失わない方法は、今先生の言う二通りしかないのです。疎ましい人にならず、人を愛する人になり…。その二つだけすれば、それを絶対失わないのです。それだけパスすればいいのです。それしかないのです。私が調べてみたら、それしかないのです。(九四・一四三0

三 この時の途方もない価値

 個人的に願いが成就されるときは、どんな時か? この時に初めて可能なのです。分かりますか? 皆さんの一家が、一族が、あるいは国民がいくら多くても、個人的に事を成すことができるときは、この時でなければ歴史上で他の時はないのです。統一教会が教えた道理が事実ならば、この時しかないのです。何のことか分かりますか? 前にも後にもない時です。

 例えば、太平洋の中に投げた一粒の砂を、一度まっしぐらに入ってそれを指でつまみ取るよりも、もっと大変なことが皆さんの目前に展開されるのと同じです。天と地にある針の先を互いに合わせるのに、一度、二度合わせてみずに、一度でピタッと合わせ、その先が合うようにすることが起こっているけれど、それが容易なことかというのです。なんのことか分かりますか? これは前にもなく、後にもないことです。ここで結ばれた心情というものは、新しい理想時代の歴史の起源になるのです。新しい文化世界創造の創造の源泉となるのです。

 それゆえ、これからは、幸福が他のところにあるのではありません。未来にはないのです。父母を迎え、兄弟とともに国を探し、世界を探せる時が最大の幸福点です。分かりますか? そのときが幸福の極致です。父母を失い、親族を失い、氏族を失っては、いくら成功したとしても、それは真の幸福にはならないのです。

 自分が愛する父母とともに、愛する妻とともに、愛する子とともに、愛する民とともに、愛する人類とともに、愛する天とともに生きるのが最高の幸福ではないか。そのようになってこそ幸福の極致なのです。そのようなときは、この時しかないのです。先生が行った後には永遠にないのです。何のことか分かりますか?

 それゆえ、それは歴史的な起源とともに、永遠にその社会の起源になりうるし、人類の生活のモットーになりうるし、生涯の基準になりうるのです。その起源がここから出発するのです。

 ここからいつまでも輝いていたものは、人類歴史に人格的な表象として登場するのであり、ここの功臣は、人類歴史を支配しうる功臣の表象として現れるのです。このように考えるのです。これは、夢のような話しなのです。事実でない、夢のような話しでしょう? 数多くの水蒸気が合わさって雲になり浮かびますが、その雲の中の一つの水蒸気のような、一つに水素分子のような分子が、自分とともにピッタリと合うのです。

 人類歴史の時代において、人間が感じる感情を調和させてこそ生きられる、最高の希望の峰がここから決定されるのです。ですから、考えてみなさい。大学が問題ですか? 世の中の何ものも問題ではないのです。希望の峰が決定しうる瞬間はここからです。前にもなく、後にもない、輝かしい文化の起源がここから始まるのです。ここで功臣となり、孝行息子、孝行娘になるならば、青史にとこしえに輝くでしょう。(五一・二五八)

 みなさんは、途方もないといえば、途方もない時代に生まれ、一度しかない因縁の中で呼ばれ、前にもなく、後にもない一度しかない歴史の流れの双曲線が、私たちの時代に自分一代の生涯の路程を中心として、交差するその頂上に呼ばれたという事実を知るべきです。

 六千年の人類歴史において、堕落の歴史がいくら悲しく、いくら曲折が多かったとしても、今日この絡み合った人類万民を占領できなかったため、この理念の中で歴史的な復活が残るのであり、神様の恨みと、神様の悲しみが、ここで晴らされうるのです。これこそが、万国の万事を解決しうる起源になるという事実を考えるとき、皆さんはこのような時期に生まれたのを、何よりも誇りに思うべきでしょう。

 皆さんは、自分の顔は何でもなく、自分の姿は何でもないのですが、皆さんの先祖たちが善の功績と基盤をどれだけ立てたのか分かりませんが、皆さんは千秋万代に輝く先祖たちの功績の因縁に従って、天が訪ね、助けてくれる、歴史上にたった一度しかない、皆さんの先祖たちが受けたかった恩賜を、全体に代わって代表的に受ける自分たちであることを認識すべきです。(四三・三三五)

 統一教会の文先生に会った人たちは、人類歴史、人間世界の歴史路程に、初めて愛の春の光を呼吸できる時代圏を迎えました。(一四〇・三〇六)

 人類の父母が一度現れるのが、歴史の願いであり、国家の願いであり、思想の願いであり、摂理の願いであるために、その父母が現れるときは、後にも先にもないときであり、歴史上に一度しかない、何と言うか、てっぺんなのです。狭いならば、どれだけ狭いでしょうか? 永遠な世界を考えてみれば、人間の人生というものは息を一度するのと同じことです。そうでしょう?

 皆さんは、運が良くてそうなのか、福があってそうなのかは分かりませんが、どのようにして、この時代に生を受け、この一時に会い、統一教会に入ってきたのでしょうか? 統一教会にどうやって入ってきましたか? 皆さんをこの場に引き入れるまでには、数多くの先祖たちが精誠を尽くしに尽くしました。数多くの人たちが滅び、善が踏まれる立場で死んでいきましたが、その千の人、万の人の因縁を経て、回り回ってその因縁が天につながり、陽が昇る高い山のような立場に立ったために、そこで陽の光を眺めて集まったのが皆さんなのです。

 この時は、人類歴史において、愛という因縁が出てくるとすれば、それは初めて出てきた時なのです。それゆえ、生命の価値を付与できる時があるならば、この時から始まるのです。国と世界の主権を、より価値ある内容に肯定させることのできる時も、この時しかないのです。この時は、歴史の起源であり、希望の焦点であり、万福の出発であり、永遠な生命の発源地なのです。そうすることのできる時です。(五一・三三五)

四 現在と一日

1 現在が重要である

 今日私が立っている位置は、一つの時代ではありません。三つの時代をつないでいます。過去の時代を代表した位置であり、未来をつなぐ位置です。今日というこの位置は、過去を代表し、現在にはこの世界が入っています。現在は人類の中心になるのです。現実というものは、過去の世界人類全体を代表する場であり、この世界を代表した中心点なのです。(六八・二二五)

 私たちが一日一日生活するにおいて、この瞬間を考えてみても、その瞬間は現在としてだけつながってはいないのです。現在、現在というとき、この現在を切ってみると、必ず過去が現在の先端までつながっているのが分かります。今私が話しているこの瞬間、ここには必ず過去がつながるのです。また、この瞬間には未来、今私が考えている未来がつながっているのです。

 このように考えれば、真の現在の起点はどこか? このとき、私たちは、一つの線で表示できるものと、線で表示できない観念的な境地までの現在を考えざるをえません。このような現在、なければなく、あればあるような現在の一つの点が、現在の一つの線が今日私たちの日常生活の方向を左右しているということは、恐ろしくとも、驚く事実であらざるをえないのです。

 一日を考えてみると、そこには昨日があり、明日があるのです。一月を中心として見ると、先月があり、来月が来るでしょう。一年を中心として見ると、去年があり、来年が来るのです。青年時代を考えてみると、少年時代があり、未来の壮年時代あるのです。このように現時代を中心として見ると、過去の時代があるのと同時に、未来の時代がつながっているという事実を、私たちは否定できないのです。

 今日というこの日、現在の位置というものは、過ぎ去る過程にあるとも見られると同時に、これから思いもよらない未来を迎える瞬間点にあるとも、私たちは考えられるのです。過去と現在と未来というものは、一つの点で動いているのです。それゆえ、その現在は、過去を否定する現在になりえず、未来を否定する現在になりえないのです。(六八・二〇四)

2 その日一日が重要である

 世界人類が勝手にするのではなく、人類もある方向を…。皆さんが一日の生活をするには、このような方向です。このような方向をつないで…。そうではないですか? 生活は、このような方向で…。

 それゆえ、皆さんは朝起きれば「今日はこのようにしなければならない。方向をうまく合わせて、線を引いて行かなければならない。一日の線を引いて、行かなければならない」と言うべきです。そうすべきではないですか? あるいは、一月の生活をするとき、必ず「このようにしなければ」と言って、線を引いておいて暮らすべきです。その線が徹底して、間違いなく、完全な線であるほど、その瞬間瞬間をつなぐ一日の中で、一つの瞬間瞬間を完全に引いていかずには、完全な一日と一月を残せないのではないか。完全な一月を残せないなら、そこから完全な一年が無駄になるのであり、完全な一年が無駄になる場合には、永遠な理念も無駄に帰結してしまうのです。(一六八・二一二)

 それゆえ、信仰者はいつもその境地を眺めていくべきです。朝に立ち上がるとき、自分の心と一日の目標はどこに向かうのか、ということを考えて、立ち上がるべきです。そうして出発する朝よりは、夕方帰ってくるとき、あるいは一日を過ごしてから床につくとき「私は今日は良かった。今日はみんな行った。み旨の前の私の面目を立てられた。今日こそ、この一月に代わりえて、この一年に代わって誇りえる」と言える位置に立つべきです。熾烈な闘争無くしては、そのような位置に立てないのです。(二七・九八)過去が貴重か、未来が貴重か? 過去が貴重ではなく、未来が貴重ではなく、今日が貴重なのです?(四五・二四)

3 瞬間を守れ

 問題は今日です。一瞬間の問題なのです。ですから、一瞬間を延長して、拡大して、一日一日を自分の側に立て直しておきましょう。その一日一日を積み重ねて、一月を自分の側に立てましょう。その一月を積み重ねながら、一日一日を自分が勝利したという基準で送るべきでしょう。

 ですから、瞬間を守れ、今を守れというのです。神様は遠くにいらっしゃるのではありません。今喜ばれる神様を受け入れられない人は、永遠に喜ばれる神様を受け入れることはできません。今勝利の神様を迎えられない人には、勝利は永遠に遠いものです。

 今が問題です。今を無視する人は、永遠な勝利の神様の世界を無視する人です。今、この瞬間というものは、永遠を判決する地点なのです。そのような毎日の瞬間が継続している人生行路に、私たちは立っているのです。それを悟るとき、切実に生きるようになります。一挙手一投足が、実に生命を懸けたものになるのです。(六五・二四七)

 今皆さんは、若い時期にいます。そのように守られた青春の基台の上に、この青年時代をどのように送るのか? このとき、もし勝利の基台を成し置くようになれば、それは何十倍の孝の道、忠の道となるでしょう。今を守ってください! 今という時を守れないことによって、自分個々人が負債を負う人になってはいけません。すべて行うことに対して、嫌だとか、苦しいとか考えては、神様に面目が立ちません。神様は、本当にかわいそうな方です。

 一瞬でも神様の勝利の基台を、世界復帰の基台を立てて差し上げなければならないのが、私たちの立場なのです。皆さんはそのような道を行くべきです。そのような道を行くようになるとき、神様は必ず皆さんに同情してくださるでしょう。ですから、瞬間を守ってください。今を守ってください。

 特に一生涯の中で、輝く歴史を創造する青年時代において、今日を価値ある一日として守ってください。今日一日を忠孝として守らなければなりません。それは、生涯の絶頂を越えるような決定的な瞬間であるかもしれません。

 それゆえ、眠るときにも、起きるときにも、そのような意識を持つべきです。皆さん、統一教会において、今の時間を守ってください。靴を履く時間にも、遊ぶ時間にも、休む時間にも、床につく時間にも、その一瞬を守ってください。この瞬間がどれほど貴いですか? どれほど貴い瞬間ですか?(六五・二四七)

第三節 望ましい青年の生き方

一 出世よりみ旨が重要

 現時代に生きている数多くの人たちも、出世することを願いながら、自分自ら世界的な欲望の圏を見つめて進んでいます。今まで人々は、そのようなことのために闘ってきたし、今現在もそのようなことのために動いています。私たち個人を考えてみても、そのような立場に処しているということは否定できません。

 この時代を考えてみても、私たち個体は、出世を願い、勝利を願っていますが、それも世界的になるのを願うのです。(三〇・七三)

 皆さんが出世をするにおいて「その町で有名になるのか、国で有名になるのか?」と尋ねてみるまでもなく「国で有名にならなければ」と言うのです。また「国で有名になるのか、世界的に有名になるのか?」と言えば、世界的に有名になるのを願うのです。(四〇・三一七)

 本当に一度出世したい人は、手を挙げてみなさい。ここに、出世しようと入ってきたのか? そんな奴らは取り除くべきなのです。頭でっかちになれば、みんなその立場になるのです。純粋性がないのです。(一四五・一一)

 私たちは、どのようにすべきか? ここに信仰者として対社会生活の問題が出てくるのです。出世を重要に思うのではなく、究極的な志を持とうという思考方式を持つのが重要なのです。

 これからの世界は、若者たちに懸かっています。統一教会に入ってきた人たちが、すべてよく知っているようですが、先生が尋ねてみると、知らないことがたくさんあります。ある人は「際立ってそうする必要があるのか?」と言いますが、そうではないのです。(二七・五四)

二 成功の道

1 成功に対する理解

 人間はだれもが成功しようと決心をします。この世の中で、大きな目的を中心として、成功を夢みない人はいないでしょう。そうして個々人が目的を成すために、夢を持って進みますが、その目的を成し遂げた人は、極めて少ないのです。(四三・二〇)

 一生において成功の頂上に上がる人もいれば、成功できない道を行く人もいます。山でいえば、峰はだんだんと高くなるのに、ある人は「ああ、私の頂上はここだ! ここもやっと越えた」と言えば、分水嶺から一歩だけ行けば、全部越えるのにもかかわらず、横になってしまう人がいます。倒れるにしても、体の何百分の一でも中央を越えて、向こう側に倒れれてこそ、向こう側の管理を受けるのであって、何百分の一でもその境界線から越えられなければこちら側の国の管理を受けるようになるのです。

 サタン世界と天の世界も同じです。ある人は、このような基準を中心として「ああ、成功だ!」と言って喜ぶ人がいるでしょう。ある人は、このような基準で生きたであろうし、ある人は、あのような基準で生きたでしょう。ある山脈を中心として「どの峰が高いか?」と言うときに、低いところを指して「ここが高い」と言う人がいますか? 高い山を中心として見るとき、いちばん登ってみたい山がここだという人がいますか? 彼は狂った人です。人のうちにも入れないのです。(六三・三三)

 皆さんの生涯路程の中で、自分が成功したとして、休む人は滅びるのです。その成功は、自分だけを中心としたものであってはいけないのです。

 今日、統一教会は、個人が成功したとして終わるのではなく、大韓民国の成功のため進んでいくべきです。そして、そこで止まらず、また世界の成功のため走っていけば、走っていったそこまで、私たちは発展し、残るのです。(二六・一三二)

2 先生の成功の秘訣

 若い人たちは、皆出世したいし、成功したいでしょう、偉大に? そう簡単ではないのです。韓国の格言にあるように、念を入れて作った塔は崩れないのです。これは一理あります。どこかへ行って、帰ってくるとき、いいことをせずには、絶対に帰ってこないというのが、先生の哲学です。どこかへ行って、帰ってくるときは、いい実績を残さずしては、帰ってこなかったのです。家でもそう考えたのです。(一四四・三〇一)

 宗教的であれ、経済的であれ、成功するためには、まず損してみなければ、その目的がなされないのです。事業家が苦労もしないで、やくざのように遊んで成功できますか? 苦労すべきです。心の苦労、体の苦労、内外すべての試練と苦痛を克服するため、一身のすべてを投入すべきです。それでこそ成功できます。そして、損をしたという結果を立てておいてこそ、困難を克服することができ、その困難を克服しただけ成功となって帰ってくるのです。(二六・四七)

 人が成功する秘訣は何か? ある目標に対してどこにでも行きたいという、一体の感情に通ずる者になるべきです。そのような人たちは、成功を早くしますか、遅くしますか? 成功を早くするでしょう? 早く出会うのです。もし出会えなければ、夢ででも出会うのです。(六三・六〇)

 先生は追い込まれる環境の中でも、このように成功した秘訣は何か? 私の生涯においてその秘訣は何か? 先生は、アメリカならアメリカという国が反対するとき、私がそのような位置で、神様と同じ位置で、アメリカを対等な位置に立てて、神様の名で前進したのです。神様の名で! その壁を打ち抜くには、力ではだめです。お金でもだめです。権謀術数をもってしてもだめであり、いかなる人間の知恵をもってしてもだめです。(一六六・一六三)

 成功しようとするなら、全体のために生きよ。(一五・二八九)

 継続していく人は、成功するようになっています。(一八六・九三)

3 勝利の秘訣

 今日私たちが計画したすべてが失敗して、敗者になるならどうしますか? 大きな願いを持つ人においては、その人のの行く道は失敗できません。ただ前進に比例して、勝利があるだけです。このような覚悟の下で進むべきなのです。そうすれば必ずや勝利するようになります。進撃するためには、死ぬか生きるか、二つに一つを選ばなければなりません。

 皆さんは、必ず勝利すべきです。そのためにはどうすべきか? 人が一度勝つなら、自分は二度勝ち、人が一時間寝るなら、自分は三〇分だけ寝て、人が一食食べるなら、自分はその半分だけ食べる、という信念を持って闘うべきです。勝利の秘訣は、他の所にあるのではありません。どれくらい時間を多く割き、努力をたくさんして、資本を多く投入したかに懸かっています。

 あたかも、入学試験を前にした受験生のような、時間との闘い、精神との闘い、努力との闘いが重要なのです。落第した人たちは、人よりもっと寝たり、もっと食べたり、とにかく人より一つでももっと楽に過ごした人たちなのです。(一九・一四三)

 皆さんは、忍耐がどれほど貴いかということを知るべきです。忍耐が。忍耐がどれほど貴いか? さあ、忍耐は再出発の動機であり、最創造の動機にもなりえます。

 思えば、神様も今耐えておられます。耐えるのです。アダム・エバが死の場へ進むとき耐えたし、イエスが十字架に掛けられ、トントンと釘を打ちつけられるときも耐えたのです。知っても知らぬ振りをし、そうであるにもかかわらず、そうでない振りをして対したので、あきれるのです。皆さんもそうではないですか。ある人が自分に対して、全部知っていても、知らない振りをして対したら、どれほどあきれますか? その人だけを見るなら、自分が闘って、どこか足の下でも入るのに、行くところがないために屈服するのです。それゆえ、たくさん耐えることは、たくさんのものを所有できる動機になるというけつろんは、妥当な結論です。分かりましたか?

 さあ、あなたがたの家庭もそうなのです。家庭でも兄弟たちが騒いでも、耐えて、耐えて、このように行けば、父母でもだれでも、みんなその前で祝福してくれるのです、「あの子は、見ていろ!」と言って。

 それゆえ、ここで一つの規定をして先に行きましょう。自分のためには、耐えることが良く、人のためには口を開くのがいいのです。さあ、ある人が難しい所にいれば、自分が難しいことを口を開いて慰めてあげ、その人が陥れられたら、知っていても知らない振りをして、ただ口を開いて擁護してあげるのです。それゆえ、自分がここで勝利できる秘訣、勝利できる一つの必要な土台を、あるいは動機を探すなら、耐えることがどれほど貴重かということが、皆さんは分かるでしょう、今や。東洋には、そのような格言があります。「耐える者が勝者である」という格言があるのです。理解できますか、何のことか?(七六・二二〇)

 皆さん、綱引きをするときだれが勝ちますか? 勝利する人はだれか? いきなり力を入れる人が勝利しますか、粘り強い人が勝利しますか?(粘り強い人です)。虎が力を出すように、いきなり「ワッ」と一度に飛びかかって、後で「フフーン」という力をもってしてはだめなのです。粘り強さがなければなりません。「ブーン」とこうして、辛抱しなければなりません。辛抱してやめたらだめなのです。終わりまで辛抱しなければなりません。それゆえ、聖書には、終わりまで耐える人は地獄に行く?(天国に行く)。それは何ですか? 終わりまで耐える人は負ける?(勝つ)。同じです。天国に行くのは勝つことであり、地獄に行くのは負けることなのです。終わりまで耐える人が、闘って勝ちます。(六四・五七)

 勝者になるためには、思想、すなわち、自信が必要であり、勇気が必要であり、その次に三番目としては、闘争が必要なのです。(一八・一二)

4 成功の前には試練がある

 人が大きく成功しようとするには、それに比例する試練が伴うようになっています。(二七・一八一)

 私たち個人の運命も同じです。その人が当代に成功するかしないか、あるいは、輝く栄光の時代を迎えるか、悲しくもはかない生涯を残すかという問題は、彼が生涯の路程を生きていく過程を見れば分かります。彼が生まれながらにして生きていく過程が、どれほど歴史的な方向と天運の方向に一致しうる事情があるか、あるいは、そのような事情と主義を持って、自分の生命を越え、未来を追求する心情で、自分に降り懸かる事件にいつも正面からぶつかった内容を持つかというのが、その人の現在の人格と、未来に残りうる人格を左右し、その人があがめ奉られうる中心になるかならないか、という問題を左右するのです。

 だれでも、結果の時点では、成功というものを歓迎するかも知れませんが、過ぎた過去、成功に至るまでの過程というものは、だれも歓迎しないというものです。成功を収められるまでの過ぎ去った日を思えば、身震いがしてやめたい、恨み多い、歴史的な日々の連続であったことでしょう。自分の父母や、自分の兄弟姉妹、友達、あるいは子供や夫婦に至るまで、全部同じであるのです。(二七・二七三)

 人が所信を持って、自分の目的を成就させるためには、必ず闘争の過程を経なければなりません。願いが大きければ大きいほど、その願いを成すには、相克的な要素が立ちふさがっているのです。このような要素は、自分に吸収されるのではなく反発し、自分をもてなすのではなく追い出そうとするのです。大きな目的に向かっていくときには、その目的に比例する受難の道があることを、私たちは知っています。(四三・二〇)

 一息に成功すれば、一息に滅びるのです。皆さんもこれを知るべきです。何らの基盤もなく、一息に成功すれば、盗賊にあっても防げず、台風が来ても何もかも失う。ようになるのです。それゆえ、一息に成功してはいけないのです。

 私たちは、大きな抱負と大きな理念を持つべきです。その抱負と理念を支えられる自分になるためには、一度に成してはいけないのです。欲ではすべてのことを一日にみんななしたいのですが、そうしてはならないのです。皆さんの中には、反対する人を見て「ああ! あの怨讐め、神様側でない人は一つもなくしてしまい、私たちだけで環境を改善すればいいのに…、神様はいらっしゃらないのか?」このように考える人もいるかも知れませんが、そうではありません。

 地が固まるには、雨が降らなければなりません。だからといって、続けて雨ばかり降ればどうなりますか? 続けて雨ばかり降っては、何もなりません。陽が出なければなりません。だからといって、陽だけ出てもいけません。風も吹き、寒くもあり、暑くもあり、凍ったり溶けたりしながら、長い期間が過ぎなければなりません。長く過ぎれば、過ぎるほど、もっとしっかりと固まるのです。そのようにしっかりと固まった地を掘るには、それ以上の力を加えなければ、掘ることができないのです。そうでしょう?(一九・三五)

 私たちが一生の間生きていくには、多くの峠があります。一日を生活するにも、峠があるのであり、若い青春時代なら、青春時代にも峠があるのです。また、家庭を持って、家庭を率いていくにも峠があり、社会生活をするにも、やはり峠があります。すなわち、個人から社会、そして国家が行く道の前には、その運命を決定しうる峠があるのです。世界を考えてみて、やはり同じです。

 このような観点から見るとき、万事は一つの頂上という峠を中心として、因縁づけていくということを知るべきです。私たちはよく、だれが成功し、また、だれは失敗したということをいいます。では、成功したという人は、どんな人か? 自分の目的とした峠を越えた人です。失敗したという人はどんな人か? その峠を越えられなかった人です。私たちの日常生活を考えてみても、生涯の路程で、自分が目的としたところを成就すれば、人生に成功した人であり、それを成就できなければ、失敗した人なのです。(三一・七)

5 成功できない主な原因

 人は成功できる道を知らないのか? みんな知っているのです。それゆえ、ここに問題が生じるのです。みんな知っているのに、なぜできないのか? なぜできないのかというのです。成功する方法はみんな知っているのです。知っています。知りませんか?(知っています)。けれど、なぜできないのかというのです。それは、自分自身を操縦できないためです。そのような結果に止まるのが人間像であるということを、私たちは知るべきです。(九七・一三)

 人間が自分自らすべてのことを計画し、自分自らの資質だけを持って、目的を成就しようとすれば、必ず失敗をもたらすようになるのです。それは、今まで進行した歴史過程を見ても分かります。人間自身を中心としてつづってきた歴史は、いつも失敗したのです。(四二・二九八)

三 偉大になる道

1 人はだれでも立派になることを望む

 私たち個々人を見ると、お前はどんな人になりたいかと尋ねると、だれもが立派な人になると答えます。立派な人になるなら、どの程度立派な人になるのか? 大韓民国なら大韓民国の国民の中で、いちばん上の大統領になるのか? 大韓民国だけを考えれば、どこのだれでも大韓民国で一番になりたがります。しかし、大韓民国で一番になったとして、それで終わるのではありません。その次のは、世界で一番になりたがります。世界で一番になった後には、どうするだろうか? 世界よりもっと高いものがあり、もっと高い方がいらしたなら、その位置に行くことを願い、その方と手をつなぎたいのです。(四一・三二三)

2 歴史的人物になるには

イ)高い志を持って、深いことをすべき

 大きな人とはどんな人か? 大きな人は何ですか? 高い思想を持ち、深いことができる人が大きな人です。分かりますか? 高い志を持って、深いことを、人ができないことをする人が、大きな人なのです。彼はなぜ大きな人なのか? 彼は垂直的な立場を上り降りしながら働く人であるためです。(一七五・二三四)

ロ)決心を持続できなければ

 皆さんを見ると、凡人が行く普通の人生の道があるだろうし、聖人とか、あるいは偉人が行く特殊な人生の道があるでしょう。皆さんの考えは、どんな人になるのかといえば、「ああ、私は偉大な指導者になる」とみんな言いますが、それがそのようにいっぺんになるのではないのです。偉大な指導者になるためには、その過程で多くのことを消化し、多くのことを犠牲にして進まなければなりません。犠牲を払って、その犠牲になったものを、そのまま犠牲として捨てるのではなく、犠牲になった価値を収拾できる人になってこそ、彼は偉大な人になりうるのです。

 では、偉大な人物というとき、その人たちは、どのような基準を中心として闘っていった人たちか? 端的に話すなら、その人たちは命を投げ出して立ち向かった人たちです。命を一度懸けて済みますか? 継続的に投げ出す過程を経るべきなのです。(六七・八八)

 世界の歴史上に現れた、英雄であるとか、聖人たちは、とても幼い頃に決意したその覚悟を、死ぬときまで胸に留めて、その目的の中で生きていきます。簡単なのです。先生もそのように生きています。それゆえ、寝るときもそれに向かっていきます。起きるときも、目を開けても、だれかと交際しても、その材料を求められるようにつきあいます。そのようにしていけば、自然と生活環境が自分の将来の舞台のための基準になります。みんなそうしていますか?

 現代の若者たちは、もしこの花からいい香りがするとすると、これがいいともいい、また、東にいい香りがするというと、そちらに香りを求めていきもしますが、そのようにしてはいけません。右だと考えたなら、その一つの所に力強く進み、それを克服して、それが自分に消化され吸収されるか、自分がその側に吸収されるかという問題を定めるべきです。そのように前進しなければなりません。(一五・一二九)

 歴史的に見るとき、偉業をなした大部分の人物たちは、決して学者・博士たちではなく、彼らとは関係のない闘志のある人物たちでした。人が見ても、無謀に見えることをした人たちが歴史的な人物になりました。すなわち、歴史は闘士たちがつづってきたのです。(一八・一二)

ハ)受難の道を自ら求めよ

 人が人生を歩むには、平坦ではありません。その上、独りで生きるのではなく、男女が共に生きるのです。男女はみんな違います。極と極なのです。異質的な、二重背反的な性格を持った男と女が、一つになって生きるには、二人とも良くはなれないのです。一人は上がり、一人は下がり、こうしながら、その中央線を中心として合わせていくのです。

 ですから、若い頃には、そのような訓練をすべきです。偉大な人になりたければ、偉大な受難の道を自ら求めていくのです。一〇〇里の道、苦労するために夜通し一〇〇里でも歩いてみろというのです。人のために一日奉仕してあげるために、夜通し一〇〇里の道を、疲れた体を引きずっていき、朝に行ってご飯を食べて、農地なら農地、仕事場へ行って、その人のために犠牲になるその精神が…。楽に寝てしまってはいけないのです。(一一四・二九九)

 ある人が、特別な道を行こうとするとき、その特別な内容を決定づけうる材料や要件は、普通の人々が好きなものではありません。その道は歩み難い山道であり、越えるべき障壁が横たわっており、望まない事情が前に立ちふさがる、そのような道です。しかし、ふさがったといって、回り道をしてはいけません。なぜならば、そのようにして目的とする所に到達できるならだれでも行けるため、千人が千人みんなその道を行くでしょう。そのように道は、だれでも行ける道であるために、特別な人だけが行く道ではないのです。

 特別な人は、回り道しないで、その道を突き進んでいくべきです。直行し、最短距離を突き進むべきなのです。問題がそうなっています。そうするためには、何倍もの試練を克服しなければなりません。そこには、普通の人たちが想像できない事実が介在するのです。ですから、これを打開して、克服できる自分にならなくては、その道を行くことはできないのです。(二七・八)

ニ)第三の力を補強せよ

 偉大な人がいて、彼がある大きな目的に向かって走っていくとするならば、その目的が大きければ大きいほど、偉大ならば偉大なほど、そこには国家を内包し、世界を内包した事件が宿っているでしょう。その事件というのは、その偉大な人物が行く途上に、歓迎の条件ではなく、相入れない反対の条件として登場するでしょう。その現れる反対の要因が大きければ大きいほど、落ちていく要因にもなりうるのであり、失敗の要因にもなりうるのです。

 それゆえ、そのような事件が現れるとき、事件を任された人は、その事件より大きな決意と強力な内容が結集した力の核心体として立ち向かうべきです。そうして、難しい環境とぶつからなくては、その事件を解決できないのです。ですから、そのような環境に処して決意すべき人の立場は、極めて深刻であらざるをえないのです。こうして、そのような問題を克復するためには、目的を果たして、より強い信念を持つべきです。外的に近づく試練の条件を凌駕できる、内的な衝動をどのように発現させるかということが、その問題を解決する重要な鍵であらざるをえません。

 人間たちは、人生の路程で、このような問題にぶつかる度に、それを克服しようとしますが、いつも失敗してしまいます。これが私たち人間生活の常例だったのです。では、これをご存じの神様は、私たちに何を要求されるのか? 再び決意と誓いをして進むのを願われるのです。私たちにもこれから必ず試練の峠が近づいてくるでしょうから、私たちは、その試練の峠に備えるために、再び決意すべきでしょう。外的な環境にぶつかって勝利し、一つの偉大な目標を達成するためには、近づいてくる試練より、強い力と刺激を導入すべきなのです。これが何より重要な問題です。これは神様だけが心配される問題ではなく、私たち自身も解決しなければならない重要な問題なのです。

 このような立場でぶつかるようになるとき、人々はより強い力を必要とします。より強い刺激的な要因を必要とするため、第三の力を要求するようになります。偉大な人物なら人物であるほど、第三の力を必要とすることが不可避なのです。(三一・一五〇)

3 偉大なことは知らずのうちになす

 先生は宣伝を嫌う人です。今までどこへ行っても、自分がしたことを誇る人ではありません。どのようにしてでも隠そうとするのです。偉業というものは表だってするものではありません。人に知られず、三分の二をなしておき、残りの三分の一が終わるときに偉業としてなすようにするのです。

 それゆえ、歴史に偉大なことが現れるまで、・どんな思想でもどんなことでも同じです・すでにその背後の三分の二が、人知れずなされて出てくるのです。それが現れ、大衆に知られるときには、そのなしておいた実績、その基盤が公認されうる事実として現れるのです。(一四一・一二一)

第四章 模範的生活

第一節 生活の再発見

一 どのように生活すべきか

 私たち人間生活においても、一生を生きようとするにはプログラムを組まなければならないのです。ただ、無秩序、無目的に生きてはいけないのです。皆さんは知りませんが、今日、復帰摂理は、ただそのまま無目的になされるのではありません。

 今日先生が四〇年間歩んできたは、皆さんはだれもついてはこれませんでしたが、すべて計画的なのです。プログラムに合わせて…。家を建てるとき、設計図があるのと同じように、ブループリント(blueprint:設計図)があり、そのブループリントにピッタリ合っても、自分だけ「できた」と言ってはいけないのです。天と地が見るとき…。鑑別というものがあります。(一四一・一八〇)

 人が生きて死んだ後には、必ず生きている間に、豊かに暮らしたか、貧しく暮らしたか、という二つのうちで一つに帰結するのです。その人が、豊かに暮らしていったか、貧しく暮らしていったか、というその二つのうち、ある一方に決定を下しておいてから行くのです。豊かに暮らしていったというならば、その人は善なる人ということであり、貧しく暮らしていったというときは、悪なる人ということです。

 では、豊かに暮らしたといえるためには、どのようにすべきか? 豊かに暮らしたという基準は何であり、貧しく暮らしたという基準は何か? 私たちは、生涯を懸けて豊かに暮らすか、貧しく暮らすかを決定する生活をしています。しかし、人間であればだれでもみんな、豊かに暮らすことを願うのです。貧しく暮らすことを願う人はいないのです。

 今、世の中をじっと見てみると、外部的な要因を見て、その人は本当に豊かに暮らす、というときがたくさんあります。普通、豊かに暮らす人だといえば、外的に満ち足りるほどに、家を持ち、お金を持っており、夫と息子・娘とともに自分がしようとすることをするのに、支障を受けないほどの環境を備えて暮らす人をいいます。一般的にそうなのです。

 しかし、環境的にいくら豊かに暮らすという言葉を聞きながら生活するとしても、自ら「私が果たして真なる生活をし、私が果たして善なる生活をしているのか」と心に尋ねるとき、自信を持って「私は真なる暮らしをしている」と言える人は、それほど多くないのです。老若男女を問わず、どこのだれもが等しく、真なる暮らしを願っているのに、真なる暮らしをしている人は多くない、という事実を皆さんは知るべきです。

 このように真なる暮らしを願っていますが、真なる暮らしができないようになっている環境で暮らしている存在が、すなわち私たち人間であるのです。大多数の人間は、暮らしてみて、後悔の結末にぶつかるようになり、一生を無駄に生きたと嘆息するようになるのです。このようなことが、今日私たち人間たちの生活様式であるのです。(四三・二四二)

 今日、統一の若者たち、皆さんは、自称して「私たちは歴史的な人物だ。歴史的な結実だ」と言います。果たしてそうか? 問題です。果たしてそうか? 甲という人を見て「お前は何をするか?」と言えば、「私は生きる」と答えるでしょう。「どのように生きてきたか?」と言えば、「このようにして生きてきた」と言うでしょう。個人を見て大多数の人が「お前はどのように過ごしてきたか?」と言えば、「ご飯を食べて生きてきた」と言うでしょう。「お前はどのように暮らすか? 豊かに暮らすか、貧しく暮らすか?」と言うとき、大多数の人は、家があり、小さな畑があり、抱えるところの生活環境があり、支障を感じず暮らすという見地から答えます。

 暮らすには暮らしているのです。今日大多数の人間たちは、どのように暮らすか? 暮らすには暮らしますが、生活を通じた生活は営むことはできます。しかし、暮らすのには、そうしてだけ暮らすのではありません。分かりますか? それよりも一段階高めて暮らす人は、どのように暮らす人か? ご飯を食べるには、同じように食べて暮らすのですが、考えながら暮らす人がいるのです。ご飯だけ食べて、酒だけ飲んで暮らす人がおり、考えを抱いて暮らす人がいるのです。分かりますか?(一五一・七〇)

 生活において敗れる人は、信仰の道においても敗北者になりやすいのです。

 生活環境において、サタンと神様が、自分について互いに奪い合う闘いをしているのです。(一八三・二九八)

 サタンを神様とどこで分別するのか? 霊界で分別するのではありません。どこでするのでしょう? 生活。自分一人において、それは良心・肉心です。近くて内的な内容は神様側、肉心的なものはサタン側です。

 手と手を合わせてみれば、その手の形は同じです。しかし、一つの手は右であり、もう一つの手は左です。このように考えてみれば、同じもののようですが、互いに違います。従って、右左を分別して、どちらが前に行くのであり、どちらがついていくのか、という問題を私たちは、はっきりと知るべきなのです。(二四・二一五)

 近頃になって、原理は原理なりに回ってですね、皆さんは皆さんなりに回り、また、教会は教会なりに回っているのです。私はそう感じるのです。原理を習ったら、習った通りその原理の上に自分が立つべきなのに、原理の上に皆さんと教会が立っていないで、全部別々です、これは。これでは大変なことになってしまいます、これでは。一〇年勉強南無阿弥陀仏という言葉があるでしょう? このままでは、すべてが無駄に終わってしまうでしょう。(一〇九・三〇八)

二 私たちが持つべき生活意識

 先生が今まで皆さんに強調したのは何か? 過去に漠然と暮らしてきた生活を、今から具体的に暮らすべきです。(一八・一七八)

 個人の生活はどのようにすべきかということを、確実に究明すべきであり、また、家庭の生活はどのようにすべきか、ということも確実に究明すべきです。(二四・二九)

 最後に残るものは何か? 人間が構想していた哲学でもなく、いかなる人生観でもありません。神様プラス人間、神人、神人の生き方、神人の生活観です。人生観も同じく、神人人生観、神人世界観、それが統一された…。それが、神様に対して漠然と人が分かる程度の位置ではなく、人が永遠に離れようとしても離れられない位置です。なぜ? 神様と人間は、本来離れられない位置から離れたために、その離れられなかった位置以上の位置に到達すべきです。そのような位置で神人がひとつになった生活的な舞台、世界的な舞台を要求して立ち上がるべきです。(六五・一二七)

 皆さんは現在どこに処していますか? 統一教会を中心としてどこですか? 統一教会の教会員は夜も昼も、いつどこに行っても、先生とともに歩調を合わせなければなりません。今まで先生は、この頭でもって生きてきたのではありません。神様とともに、神様が行く方向に歩調を合わせながら、すべての生命を皆投入しながら生きてきたのです。

 今は、三合(神様、先生、皆さん)が一致すべきです。歩調を合わせるべきなのです。生死の決定的内容が懸かっているため、三者が一致する点で一つになるべきなのです。言い換えれば、その点に生命の復活圏があるのです。その点が、父と先生が一つになり、先生と皆さんが一つになり一致しうる連結点です。そこで一心統一がなされるのです。それゆえ、皆さんはみ旨と一致した生活をしなければなりません。(三一・三二一)

 皆さんには三者の心情が一致(父のみ旨と、皆さんの志と、皆さんがこれから復帰する霊の子の志、時が一致し、人が一致し、方向が一致する位置)する中で、一日なら一日の生活をどのようにしていくか、また、一月なら一月の生活をどのようにしていくか、一年なら一年をどのようにその基準で収拾していくか、というのが問題です。(二四・一三三、二八・八〇)

 皆さんは、自分を点検してみるべきなのです。動機と一致し、目的と一致し、主体と一致しているか? 自分が動機と目的が一致できず、主体の前に対象的な位置に立てない自分を発見したときは、動機と目的に一致し、主体と一致すべきだということをいつも考えるべきなのです。主体対象関係確定、方向性確定、その次に目的性がはっきりしなければならないのです。皆さんは、それを考えながら動きましたか、今まで?(六六・二五七、一〇八・八三)

 神様が願う生活はどんなものか? 自分を中心とした生活ではありません。自分を中心とした生活ではないのです。それゆえ、私たち統一教会の信徒たちは、部屋に地球儀や世界地図をきっちりと掛けておいていつでも考えろというのです。「神様が今日どこに行くのか? 私が心をこのように持っているけれど、天地を創造したその神様は、私だけを見つめているか? どこに行くのか?」それを考えるべきです。(一五五・二四八)

 単調な生活が習慣化し、それが人間の人生だと考える人は、世の中に属す人に過ぎないのです。その俗な生活環境を開拓して、その俗な環境に、より高次的な価値の内容を付与する生活ができなければなりません。それでこそ、悪い世の中で善の立場を決定づけることができるのです。外的な生活を支配する生活ができない人は、信仰者といえません。天の人といえないのです。

 それゆえ、人は修養が必要です。活動することだけではいけません。活動してから、静かに座って、上下を抱き、左右を抱き、合わせることのできる生活をすべきなのです。そうしておけば、間違いなく人は本質的基準を中心として、必ず縦的側の位置にとどまるのです。(一八五・一八二)

三 体質化されるべき生活方式

1 神様を中心とした生活

 すべての宗教では、見ることをみだりに見ず、聞くことをみだりに聞かず、話すことや接することをみだりにするなといいます。ですから、見ることも、聞くことも、話すことも、感じることも、愛することも、全部神様を中心とするのであって、自分中心にしてはいけないということです。(六六・二三一)

 私たちが話して、聞いて、見て、感じて、また、感情的に体感する一切も、神様を中心として因縁づけられたものであらざるをえないのです。(五三・二三九)

 一日二四時間の生活圏内で、自分が見て聞いてしたすべてのことは、何のために見て聞いたのか? 神様のためにです。神様のために、見て聞くべきなのです。また、感じることも神様のため感じるべきです。私たちは地上で生活していますが、天上世界の生活と連結させて生活すべきです。(三五・二八四)

 ご飯を食べるときも「お父様、先にお召し上がり下さい」と言うべきです。(一一・二一八)

 良い食べ物を食べたり、良い服を着るときは、ただ食べて着てはいけません。最も良いものは、先に神様にお返しするべきです。道を歩くときも、右側にはお父様、左側にはお母さまを迎えて行くべきです。(二四・一八一)

 「ああ、私はお腹がすいた。ああ、腹が減った。飯、飯、飯!」こう言いますが、それはだれのために食べようというのですか?(神様です)。そうですか? 神様のために食べるというのですか、自分のために食べるというのですか?(神様です)。それを考えるべきです。それはどうして神様のため食べるのですか? 神様の完全な聖殿を自分がつくるべきなのです。神様の聖殿を完全に…。それで「中にいる神様がご飯を食べようという」このように考えろというのです。「中にいる神様がご飯を食べようという、お腹がすいたから」このように考えろというのです。分かりますか? そのようにご飯を食べれば、そのご飯は聖なるご飯なのです。ご飯がご飯様になるのです、ご飯様に。

 その次に、便所に行くときはどう考えるべきですか、便所に行くときは? 便所に行くときはどうですか? 自分のために行きますか、全体のために行きますか? 同じです、同じ。この聖殿に支障があるだろうから、神様曰く「便所に行けという」このように考えろということです。

 息をするのは、息をするのはどうですか? 同じなのです。また、聞くことは? 自分独りで聞くのだと考えるなというのです。見ることも、触ることも、全部…。自分独りですると思うなということです。人に対するとしても、サタン世界に対するとしても、神様の人間が対すると考えろということです。言葉を話すにも、神様が話すと…。

 本来そのように完全に一つになった後には、自分中心に生き、自分中心に考え、自分中心に愛するのが原則なのです。それを知るべきです。それを確実に知るべきなのです。そのときは、自分を中心として考え、自分を中心として愛しても、それは神様を中心とした考えになり、神様を中心としとして愛することになるのです。それが原則というものです、原則。(九二・一六六)

 主体と対象の因縁が間違いなく分かったからには、全面的にすべのものが主体のためのものになるべきなのです。見ることもそうであり、聞くこともそうであり、また、食べることもそうです。ご飯を食べるときも「ああおいしい。ああおいしい」このように食べるのは、自分のために食べるのですが、主体のために食べれば「本当にありがたいものだ」と言うのです。「このような環境に私を連れてきて置いてくれたために、今日このような席でご飯を食べるんだなあ」と言うなら、独りで食べるのではないのです。それは主体のために食べるのです。寝るのもそうなのです。「ああ、私が寝るから、このようにこういう場所で眠るのだ」と言うのではないのです。「ああ、天が導いて、滅びる運命で終わりを見ても恨みのない私が、今日このようになったのは、その滅びうる運命を妨げるために、天が幾度となく苦労された功があるためだ。本当にありがたい」と言うべきなのです。

 それゆえ、主体のための対象の位置は、不平がありえないのです。不平がありえますか? 不平は盲動です。破綻です。それゆえ、信仰の道は不平を許さないのです。何を許しませんか? 不平を許さないのです。それゆえ、感謝だけあるべきなのです。皆さん、それを知るべきです。

 天はいつでも主体としていらっしゃるため、主体とともに相関した運命を持って、それに離脱する生活の礼法、生活の形態はありえないのです。ですから、報告をしなさい。どこかに独りで行っても、独りでいるのではありません。どこかにすっと行って座っても、前後に天が来て共に座るのを感じるのです。そうして、何か鑑賞するようになれば、心でそれを感じるのです。お父様はこのすべての景色を眺めて、どのように感じるのか? ソウル市を眺められるとき、どのように感じるのか? その歴史、その世界がそうならば、そこに必ず関係を結んで入ってくるのです。このような問題等々を中心として、いつも皆さんは天が主体である、ということを忘れてはならない、ということを確実に知るべきです。そうでなければ、体恤的信仰圏内に入れないのです。

 天理というのは、順序を正しく守るところに成立するのです。それゆえ、主体と対象関係で、天は絶対的な主体だという立場に立つべきです。その主体を無視する人は、対象になれません。私は絶対的な主体の前に、絶対的な対象になろうとするので、絶対的に一つです。それゆえ、見て聞いて感じるすべてのことは、家庭に入って愛することまでも、全部対象と主体の立場に立って、天のためにするのです。一切がそうなのです。そのような家庭は滅びません。

 主体と対象がよく授け、よく受ければ、何が起きるのですか? 起きるには起きるのですが、よく授け、よく受けたか、間違って受けたかという比例に従って結果が現れるのです。(五八・三一〇)

2 真の父母を中心とした生活

 皆さんは今、真の父母とともに生きるべきです。それゆえ、真の父母はおじいさんの立場であり、自分のお父さんお母さんの立場であり、自分たちは長子の立場であるのです。これが違うのです。三代にわたり共に暮らすという結論です。神様が自分とともにあり、真の父母が自分とともにあり、自分の父母が共にあるのを感じて暮らすべきです。神様がいない、死んだと考えられない時代に入ってきたのです。(一三一・九七)

 心情的因縁を通じて、堕落したために、堕落の門を開けて取り除くには、それよりも高次的な心情的力を持たずしてはできないのです。それが原理なのです。それゆえ、皆さんが先生に会いたくて涙を流し、大騒ぎすれば、先生はサッと現れて教えてくれるということが起きます。

 皆さんが、道を歩いていて、何か良い生地があれば、あるいは良いものがあれば、それをつかんで「ああ、胸が痛くて離れられないなあ。これを先生に持っていって差し上げたい。私がいかなる犠牲を払っても、持っていって差し上げたいなあ」という心がわき出て、全身がぐったりとするのを感じ、神様がかわいそうなことを感じながら、涙ぐむ境地に入れば、すでに先生が、それが洋服ならそれよりもっと良い洋服を着て、良いネクタイを締めて「ハハ」と笑いながら現れ「なぜ泣くのか?」と言う場面が展開されるのです。「私には、良いものがみんなあるのに、なぜそうなのか」と言うことが、現実的に起きるのです。

 それゆえ、統一教会の文鮮明という人は不思議な人なのです。皆さんが知らない不思議な人です。不思議な背景を持っています。アメリカであるとか、世界各国の人たちが、先生が行く約束をしたら、懐かしさが高潮して、自分でも知らず、寝て起きては「先生、いつ来られますか?」と言うのです。そのように、身にしみる境地に入ると、両目が開いてしまいます。それで「会いたい。会いたい」と言えば、先生が「ああ、そうか」と言って、エデンの園にも連れていって、見学させてあげたりするというのです。そのとき、その人たちは、それが霊的であるということが分かりません。実際にそのようなことが起こるように感じるのです。その道でなければ、そのような世界が開きません。

 それゆえ、皆さんは、目が崩れ、鼻がふさがるほど泣きながら慕わなければなりません。人は泣きすぎると、ここがとても痛くなります。それほど身にしみて慕うべきです。「お父様」と言って呼ぶには、死刑場に引かれていく息子の立場で、父親を呼ぶ人もいるであろうし、他の遠い国に発つ息子の立場で、悲しげに父を呼ぶ人もいるのではないか。それゆえ、天のお父様を呼ぶときは、そのような基準以上にならなければならないのです。

 天のお父様に会うために、神様と因縁を結ぶために、どれほど精誠を尽くしたかということが自分の財産です。(五〇・二八八)

 一切を父母とともに関係づけ、父母とともに決定し、父母とともに相談し、父母とともに解決しなければ…。(四四・一七五)

3 善を中心とした生活

 初めの出発から、中心と方向を一致させていく人は、終わりと初めを連結させることができるために、最後の勝利は、主体のものであると同時に、初めから終わりまで行った人に帰ってくるのです。このようなことを知って、皆さんは中心を持って生き、中心を持って生活しろというのです。(五七・二七七)

 歌を聴くときも、善悪があります。見て聞いて、ご飯を食べたり、寝ても覚めても、すべてのことには善悪があるのです。(二六・一三一)

 寝ても覚めても、食べても、休んでも、見ても、何をするにも、全部み旨を中心としてすべきです。(七三・六一)

 現在の立場は、いつも善悪の分岐点に立っていることを忘れるなというのです。それゆえ、言葉も善なる言葉を話すべきであり、この目で見るものも善なるものを見るべきです。女たちはよくよそ見をするでしょう? それゆえ、こいつの目をコントロールすべきです。目を制御して、五官をみんな制御すべきです。自分が歩む一歩一歩がすべてどこへ行くべきか? 友達に会ったり、人に対するにおいては、それでも自分に会って、彼が一歩でも善の面に帰れるように、公的な言葉が言えなければなりません。このようなことを生活圏内で操って、そうしながら自分はあの世界の人類のために、愛の旗を掲げて行くのです。勉強もそれでして、仕事もそれでしろというのです。そうすれば自然に回るのです。(一〇九・三〇七)

4 一つの目的に一致した生活

 個人が地上に来て、成功するかできないか、また、生活を通して目的としたことを成就させうる一日一日を残すか残さないかという問題はどこにあるのか? その目的を中心にして、その目的に対する確実な観点を立てて、そこに的中しうる方向、一致しうる方向をどのように備えていくのかが何よりも重要な問題なのです。

 いくら一つの目的を持って出発したといっても、その方向が食い違えば、その目的とは関係がなくなるのです。それゆえ,目的を持って進むときには、いつも方向の一致という問題を私たちは注視しなければならないのです。

 この方向の一致ということを中心として考えてみると、その目的と自分は直線上に立つべきなのです。目的と自分とはいつでも相対的関係であるために、私たちは直線の上でその目的と相対する位置に立たなければならないのです。私たちは生活の中においても、右足を動かし、左足を動かすとき、その目的と直線で一致する位置を取らずには、必ず食い違うようになっているのです。たった一歩でも踏み損なえば、食い違いが起こるのです。右に偏ってもだめであり、左に偏ってもだめです。

 それゆえ、中庸の姿勢を取って、その目的と引かれる直線上で、一致化させうる自分を発見するところから、目的の結果は達成できるのであって、その直線を無視して、その直線と一致できない時間的な基台の上に立つようになると、目的を達成しうるその道から、すでに脱線して進んでいるということを、私たちは知るべきです。

 私たちが話しをする、あるいは見て感じる、すなわち、五官を通じて感じとることにおいても、自分独りで感じてはならないのです。自分独りで感じるという、そのような立場に立ってはいけません。その目的と一致する方向を持ったところで感じるとき、その場所は共同の目的に向かって、共同的立場で、共同的な方向を取る所であるため、神様が決して共にあらざるをえないのです。これが食い違えば、神様は共にいられないのです。

 なぜそうなのか? 方向を間違えると、苦労したことがすべて水の泡になってしまうためです。そこに協力すれば協力するほど利益になるのではなく、必ず互いに消耗するのです。無駄なことになるために、そのような所に立つときは、神様が協力できず、共にいることもできないのは当然なことであらざるをえません。

 私たちが朝起きた後、感じるすべての感覚や動作が一つの目的を中心として、いつでも直線上に帰一できなければなりません。その点を失ったときには、み旨と自分は関係を結ぶことができないということを、私たちは否定できないのです。(五七・二三二)

第二節 人倫道徳と礼

一 宇宙には規範がある

 新しい宗教のための新しい本体論は、従来のすべての絶対者が各々別個の神ではなく、同一の神であることを明かすべきです。それと同時に、その神の属性の一部を把握することが各宗教の神観であったということと、その神の全貌を正しく把握して、すべての宗教は一つの神から始まった兄弟の宗教だということを明かすことができなければなりません。それだけではなく、その本体論は、神の属性とともに、創造の動機と、創造の目的と法則を明かして、その目的と法則がこの宇宙の万物の運動までも支配しているということ、人間が守るべき規範も結局この宇宙の法則、すなわち天道と一致するということを解明すべきなのです。

 宇宙の月・日・星の創造の法則、すなわち天道によって縦的な秩序の体系をなしているように、家庭においても祖父母、父母、子女からなる縦的秩序と、兄弟姉妹からな横的秩序の体系が立てられると同時に、相対する価値観、すなわち規範の成立を明かすべきなのです。(一二二・三〇四)

 皆さんが農村に行って仕事をするときも、一人で行っては仕事ができないようになっています。夫婦が一緒に、その日にする仕事を神様の前に報告してから仕事を始めて、終わって帰ってきても、神様に報告してから、ご飯を食べるようになっています。このようなことをすべて規範化させている神様を標準とする生活が、どれほど厳格かということを知るべきです。女にも女としての守るべき家庭生活の規範があり、男にも男としての守るべき規範があるのです。(三一・二七六)

 世の中では父母が亡くなって三年の喪には、毎日朝夕霊前に食事を供えるし、どこかへ行くときや、帰ってきたときには、霊前に座って報告し挨拶する礼法があるでしょう。皆さんは、それ以上にしなければなりません。皆さんが今していることは、み旨から見て天の格式にピッタリと合った生活だろうか? 違います。とんでもないのです。(三一・二七五)

二 人間が貴いのは人倫道徳があるゆえに

 言葉の中に天倫という言葉がありますが、皆さんは天倫という言葉を知っていますか? 天倫というのは、宗教的な術語です。人理道徳という言葉は聞いたことはあっても、天倫道徳という言葉は聞いたことがないでしょう。それでは、人倫道徳の起源はどこにあるのでしょう? 大韓民国の憲法ですか? その起源を掘り下げていくと、良心にその根拠があります。

 今日の法は、ローマ法を基礎として作られており、ローマ法が現在の世界文化の下地となっていると言えますが、人倫道徳はどこまでも良心にその根拠があります。法よりも、良心なのです。

 では良心の基礎は何か? 善なのです。善を標準としているのです。善から外れて過ちを犯したときは、良心がその過ちを是正していくのです。そして、純粋な良心と一致する、普遍的な社会体制を形成しようとするので、法令も必要です。ですから、結局人倫はどこに根拠をおいているのか? 天倫に根拠をおいているのです。(三三・四四)

 人間が貴いのは、人倫道徳があるためです。人倫というのは、人と人の関係をいうのです。一人をめぐって人倫とはいいません。人倫というのは、二人以上いてこそ成立するのです。男と女が結婚した家庭から、社会の倫理という言葉が成立するのです。倫理とは何か? 人間関係の道理であり、法則なのです。(一三六・二〇八)

 皆さん、人倫道徳というでしょう。人倫が何を通して形成されるのかというと、情を通して形成されます。そうではありませんか? 母や父、家族関係とか、道徳観念とか、社会制度とか、秩序とかいうのは、すべて情緒的な面です。先に情を感じたそのことが長く続いたとか、次元が高いというなら、そこに頭を下げるべきなのです。皆さんはそれを知るべきです。人倫形成の動機は何からなのか? 情からなのです。親が子供を愛するところから人倫が始まります。そうでしょう? 子供が親を愛するところから、真の人間関係は成立するのです。(六四・一二四)

三 三綱五倫と礼

 人は、自分の価値と存在を知るべきです。縦的な基準だけでは自分の価値は分かりません。横的基準だけでも…。言葉だけでは、その人は分からないじゃないですか。行動が伴わないと…。言行心事でしょう。言葉と行動が同じであるべきであり、心と行動が同じであるべきです。それは何かというと、縦的関係をいうのです。

 そう、儒教思想というものはみんなそうでしょう。元亨利貞は、天道之常であり…。天道之常とは何ですか? 前に立つべきものが前に立ち、後ろに立つべきものが後ろの立つのが天道之常です。天道が動く状態であり、道理だというのです。どういう道理ですか? 仁義礼智は人性之綱というけれど、仁と義を行うことは、人が行くべき道だというのです。義と礼を備えることは、人が行くべき根本の道なのです。

 道を行くにも、東洋思想は、目上の人が先に立たなければなりません。なぜか? 先に生まれたから。このように、環境に合わせようとしてそうするのです。後の人は後に立ち、高いところは高いところ、低いところは低いところ、前のものは前に、後ろのものは後ろに、上のものは上に、前後を整えなければならないのです。そのような観というものは、変わるものではありません。それは永遠に不変なのです。

 また韓国の決まりでは、目上の人から何かを受け取るときには、両手でもらうようになっています。それは水平なればこそ、愛を受けることができるという意味です。受けるには、水平を通して九〇度で受けなければならないのです。その道理を象徴しているのです。人心は天心というでしょう? 私たちのすべての規則は、良心の道理に従って、相対的に作り出されてきたものであるので、水平になるべきなのです。

 それは何ですか? この二つが合わさらなければなりません。天を省いてもだめであるし、仁義礼智を除いてもいけません。それらを連結させることができなかったのです。ですから、天は漠然とした天になり、仁義礼智は曖昧だったのです。これをどのように連結させるかというのが分かりません。分からないので、この二つの世界形態は歴史において、その実体的基準を形成することができずに、流れてしまったのです。皆さんはそれを知るべきです。

 私たちの原理を中心としたものが、二性性相として生まれ、どのように関係を結び、社会のどのような形態を中心として実体圏を残しているかということです。再創造の実体圏です。私たち人間が望んでいる理想とは何なのか? 知識でもなく、権力でもなく、お金でもありません。愛の実績を望んでいるのです。師弟之愛、父子之愛、忠臣之愛、すべてが愛ではありませんか? 天も息子が必要なのです。天子之愛は、独りでは成り立たないようになっているのです。(一八五・二七一、一六八・二五二、一七一・二三七)

 今日まで人倫道徳は、親が子供を愛し、子供は親に孝行し、夫婦でも区別すべきである、というものでした。これは三綱五倫の礎として、今まで伝わってきましたが、これがまた変わってきています。このように、既存の習慣や規範などが変わっていく兆しが、社会環境に浸透してくる日が終わりの日なのです。世界的な指導者、あるいはメシアがこの地に現れたというけれど、その方はこの問題を収拾しなければなりません。(一一・一九)

四 東方礼儀之国

 韓国は四千年の歴史を持っています。韓国は、東方何というかな?(東方礼儀之国です)。礼儀というものは、良いものですか、悪いものですか?(良いものです)。えーい、いいぞといいますか、えーい、気分が悪いといいますか? 気分の悪い国だということです。「礼儀之」というときに、「之」というのは助詞であり、「の」という意味です。ですから、礼儀之国というのは、気分の悪い国ということです。そうですか? 気分の良い国ですか、気分の悪い国ですか?

 東方礼儀之国というとき、皆さんの考えでは「東方礼男」ですか、「東方礼女」ですか? 韓国を東方礼儀之国というとき、男を指していいますか、女を指していいますか?(女です)。女を指していっているようですね。(はい)。東方礼儀之国というのは、女を指していった言葉です。ですから、韓国の歴史過程においても、夫に真心を尽くそうとした婦人たちは、思うように暮らせなかった女性たちだったのです。(四四・一〇四)

第三節 成約時代と侍る生活

一 成約時代とは、すなわち侍義時代

1 成約時代とは何か

 神様は六千年歴史の中で、三段階を経て救いの摂理をされてきたのです。そうして、僕の時代である旧約時代と、養子の時代である新約時代を経て、成約時代を迎えたのです。成約時代には子女が現れて、父母の席を準備して父母に侍らなければなりません。今まで神様はこのような復帰摂理をしてこられたのです。(一六・一七八)

 成約時代とは何か? 地上において家庭を中心とし、父母の愛を中心として理想世界に行く、サタンが讒訴することのできない、新しい世界へと前進する過程が成約時代です。成約時代とは、原理的に見れば、責任分担を完成した父母圏をいうのです。約束がなにかというと、責任分担です。責任分担の約束を完成できなかったのが堕落です。旧約というのは昔の約束です。新約というのは新しい約束であり、今の成約は約束を果たす時なのです。果たすものは、世界万民が責任分担を完遂することです。責任分担を完遂することです。(一三一・九八)

 完成時代、成約時代とは何か? 父母様の愛を中心として、アベルが一つとなり、アベルと兄弟が一つとなって、カインを屈服させるのです。カインが屈服しなかったのは、父母がいなかったためです。ですから、このような惨事が起こってしまったのです。アベルを憎んだのも、父母がいなかったため憎んだのですが、父母を中心としてアベルと一つになれば、カインは順応するのです。(一三一・七五)

 歴史を見てみると、旧約時代は神の人を探す時代であり、新約時代は成約時代に父母に侍るための犠牲の時代であり、今の成約時代は、真の父母を中心として神様に侍るための、神様を解放するための犠牲の時代です。ですから、今日の統一教会は、白の十字架を見せるのです。父母様が十字架を背負っていくのです。人間が長生期完成級で堕落したために、三段階のうち一つの段階を残した完成級という圏内で、先生が二〇年間の道をもう一度上がっていかなければならないのです。(一三六・三〇七)

 私は旧約時代のすべての供え物の復活体を持っており、新約時代のイエスの体の復活体を持っており、成約時代のレバレンド・ムーンの心情の復活体となったといって行くときは、天地すべてが私にぞろぞろと列を作ってついて回り、すべてが注目するのです。ああ、私を好いているのはいいことだ、私は幸福だ、悪口を言いたければ言い、言いたくなければ言うな、どこへでも行く、そういうのです。難しい道も行くだろうし、迫害の道も行く、私の幸福のために行くのです。そうして、勝利者になれば、どんなにいいでしょう。(一〇七・二一六)

2 成約時代とは愛の時代である

 今日私たちは、神様を自分たちの希望の主人公として見つめており、信仰の主人公として見つめています。また、私たちの愛の主人公として見つめています。この希望と信仰と愛の主人公でいらっしゃる神様は、人間をして歴史路程で希望に代わった旧約時代、信仰に代わった新約時代を経るようにされたので、これからは愛に代わった成約時代を経ていかなければならないでしょう。

 それでは、今はそのような成約時代、すなわち再臨時代において、永遠不変な一つの中心要素として残りうるものは何か? それは神の愛なのです。それは全体の中心要素であると同時に、全体の理想の要素にもなるのです。(一・九〇)

 成約時代は愛の時代です。ですから結婚もできるのです。今までは宗教に対して愛の時代を許さなかったので…。次元の高い宗教は、結婚を許さなかったということを知るべきです。(九六・一一七)

3 侍ることで救いを受ける時代

 堕落した時代は、サタンが支配する時代です。それは考えだけではなく事実なのです。今日の環境的な事実を霊的に見れば、そうなっているということなのです。なぜ信じなければならないのか? アダムが堕落したのは、信じられなかったためでした。信じることができず、行うことができず、行うことができなかったために、天に侍ることができなかったのです。これが三大条件です。それゆえ、行儀の時代である旧約時代、信義の時代である新約時代、侍義の時代である成約時代、というのはアダム自身が行けなかった道なのです。アダム自身が堕落することによって、サタンの支配圏内に入ってしまったため、アダムが本来いるべきであるその位置を歴史的に探し求めて行くべきことは、避けられません。ですから、蕩減条件を私たちが再現させて、勝利的条件を立てなくては、本来のアダムの位置に帰ることはできません。

 信仰の義とか、行いの義とか、侍る義を追求するのはなぜか? 義でなければ善悪を分別することができないのです。悪なる世界と、善なる世界が分かれないのです。そのライチャスネス・スタンダード・ポイント(Righteousnessstandardpoint:善の中心点)とは何かということです。それが何かというと、いつも神様なのです。神様が信じるように、神様が行うように、神様が侍るように、いつも神様が中心になるべきです。

 なぜそうなるべきなのか? サタンは、神様のような義なる者に対しては、讒訴することができないのです。神様が信じ、神様が行い、神様が生活する侍りの環境に処していれば、サタンが干渉することはできません。いつでも、サタン圏内においてもそのような環境が広がれば、その環境に神様も共にいる義の基準が広がれば、サタンはそこから後退するのです。

 だからといって、行う旧約時代が過ぎ、信じる新約時代も過ぎ、侍る成約時代だけがあるのではありません。旧約時代にも信仰が必要であったし、新約時代にも行いが必要であったし、侍る時代にも信仰が必要であり、行いが必要であり、すべてが必要です。それは蘇生の上に長成があり、長成の上に完成があるのと同じことです。それは離そうとしても離せないものです。

 今、特別に侍義というのは、生活化天国時代をいうためです。それで侍義時代を持ってきたのです。復帰歴史というのは何かというと、神様の創造理想を再現するものなのです。(一六一・二一八)

 主がこの地に来られる目的は何か? 地上に天国を成すためなのです。天国はどのような所か? 侍るための準備に合格した者と、侍る生活に合格した者が行く所ですから、侍るための準備と侍る生活を、万宇宙で永遠に誇ることのできる世界が天国です。(八・三〇七)

 今日、私たちは、侍って救いを受けるということをいっています。それならば、皆さんは実際に親に侍らなければなりません。どんな悲しみと苦痛が後について回っても、神様が記憶することのできる条件を作るべきです。小さい条件ですが、神様が喜びうる条件を作るべきです。(一三・三一〇)

二 侍る生活とは

1 侍る心構え

 皆さん、侍義時代とは何ですか?(侍る生活をする時代です)。

 皆さん、示威時代ですか、侍義時代ですか? しかし最近は、示威する人が多いですね。だからといって、侍義なのか示威なのか、いたずらにこんがらかったりしないで下さい。

 皆さんは侍義時代、すなわち、侍りの生活において、正確な中心をおいていかなければなりません。神様に侍るのにも礼法があります。その礼法に背いたときには、神様はとても怒る方です。(一七・二八七)

 私たちが神様に侍るとき、いちばん最初にすべきことは、我慢し耐えることです。だれのために我慢し耐えるのですか? 全体のために我慢し耐えるべきです。全体の目的のために、中心的な思想でもって、それがなされるときまで忍耐するのです。そこには不平不満が同居することはできません。そのようにすることによって、天国と天の土台が広がっていくのです。(四四・一八)

 皆さんがお父様に侍ることができるとき、そのような時間が来たらどのようにしますか? どのように孝行するのですか? そして、どのような姿でお父様に侍るのか、考えるべきです。お父様とどの川辺で会えるのか! どのようなところで会えるのだろうか!

 皆さんが山奥に入っていって生活するようになると、統一教会の食口が訪ねて来てくれたらと切実に願うようになり、また、食口の中にだれか具合の悪い人がいるのではないか、と心配するようになります。そして、自分といちばん近い食口に会えたらよい、あるいは先生を迎えたら、地区長を迎えたら、地域長を迎えたらいい、という恋しさがなければなりません。

 毎日のように恋しくなれない人は、侍ることができません。皆さんはこれを知るべきです。だれを恋しがろうとも、いつも恋しさで胸が痛んでいなければなりません。夜十二時になると「さあ、寝よう。」と言う人は、神様に心配をかけている人です。天国は、夜も昼もありません。心情の因縁でもって出てくるときは、夜が問題ではないのです。(一七・二九三)

 人間において、神様を愛することは、いちばんの戒めですが、死ぬほど愛すべきですか、一時的に愛すべきですか?(死ぬほど愛すべきです)。では、皆さんは死ぬほど神様を愛しますか、死ぬほど愛しませんか?(愛します)。どれ、死ぬほど愛するという人、手を挙げてみなさい。雷に当たって死んでも愛すべきです。神様を死ぬほど愛さなければならないということです。では、死ぬほど愛さなければならないのならば、死ぬまではできないことはないのです。

 皆さん、白頭山の頂上に登っていって、そこにある磐石を耕して、畑を掘り起こして、ジャガイモを植え、そのジャガイモで神様を奉養することができますか? しますか、しませんか?(します)。それをしなければなりません。そのときは牛がいなくて、愛する妻を牛のように使って畑を耕したら、雷に打たれますか、打たれませんか? 妻を牛とみなして畑を掘り起こすとき、神様が「おい! やめなさい!」と言うならやりますか? 自分の心を尽くして、自分の志を尽くして、自分の精誠を尽くしなさい、といったからやりますか?(やります)。(三七・二五)

2 侍りの生活態度

 皆さんは侍義の生活をしなければなりません。朝、寝床から起きて、最初の一言を天の前に捧げて、家を出るときも、初めの一歩を右足を出し、天の前に捧げなければなりません。普段の習慣がこのようになれば、皆さんの生活は侍義生活をすることができるのです。このような観点から、皆さんは原則的な基準から、生活態度をとるべきです。(一七・二九六)

 皆さんが考える、神様に対する侍りの生活は、どのようにすべきか? 侍る生活はどのようにすべきかということです。神様と私を一体と考えて、真の父母と一体と考え、生活すべてが…。ここに私が住むとしたら、「このすべてのものは、神様のものであると同時に真の父母のものであり、真の父母のものは真の父母の国のものであり、真の父母の国のものになれば私のものだ」このような観念を持つべきです。この宇宙も真の父母のものであり、この家も真の父母のものであり、すべての国も真の父母のものであるために、私は真の父母の息子であるから、すべてのものは私のものだ、という結論が出てくるのです。

 私たちは神様に侍り、父母に侍りに行くのです。話してもそうだし、行動もそうだし、寝ても覚めても侍る生活をすべきです。このようなコンセプト(Consept:概念)だけ持てば、二十四時間サタンが侵入しうるものは、一つもありません。(一六一・二三一)

 皆さんは神様に侍る者として、皆さんが嬉しいとき、神様をどれだけ嬉しくしてさしあげられましたか? 皆さんがお腹が空いたとき、ご飯を食べながら感じるありがたさ以上に、神様に侍ってさしあげなければなりません。

 皆さんが良い物を食べるときや着るとき、そして悲しいときや難しいときも、いつも神様に侍るべきです。それで神様の心に記憶されうる事情を残しておくべきです。(一七・二九一)

三 天国というものは、心情で侍った者が行く所

 天国という所は、心情を通さなくては行けない、ということを皆さんは知っているでしょう。天国は、全体を主管することのできる本然の国であり、本性の国なのです。その国は、ある事情を持っていては所有することはできません。深くしみ込むような心情の因縁を備えてこそ所有することのできる国なのです。ですから、キリスト教は、究極的に事情を通す教会ではなく、心情を通す教会なのです。事情の因縁を越えて、心情をたたえうる基盤を築くことに、地に対して摂理される天の目的があるのです。

 堕落とは何ですか? 神の事情を論じられないのではなく、心情を論じられないのが堕落です。堕落した人間を捜してこられた神様は、失った息子娘に対することのできる心情は持っているけれど、その心情を分かち合うことのできる人がいなかったので、その人々を捜し求める役事をされますが、それが救いの歴史であり、その人々を捜し求めるために送られた者が救世主だ、ということを、皆さんははっきり知るべきでしょう。

 私たちは、天国を望む前に、神様の心情を望むべきであり、また、神様の心情を望む前に、私自身がどのように生きて行くべきか、ということを考えるべきです。皆さん自身が、まず侍る心情を持たなければなりません。高く貴いものに対しては、頭を垂れて恋しく思うのが人間の本性です。人間は堕落したといっても、高く貴い天の心情に対し侍りたいと思うのが、私たち創造された人間の本然の心情です。そういうようにして、心情の通ずる侍りの生活をしたことのない者は、天国と何らの因縁もないということを、皆さんははっきりと知るべきです。

 さて、侍るためには、侍ることのできる準備が必要です。その準備の過程を経た後には、侍る生活が必要です。侍るための準備の過程を経て、侍る生活を経た後に行く所が天国です。心情で侍った者が行く所が天国です。侍ることのできる準備と、侍る生活を褒めたたえ、高く表す世界が天国です。これを皆さんは、はっきり知るべきです。私たちは、このような目的の世界に向かっていく過程を経るべき運命に置かれているのです。(八・二九〇)

 天国はどのような所か? 準備したものを持って自慢する所であり、侍る生活をしたことを自慢する所です。では、その天国はどのような者が行く所なのか? 主を信じ、幸せを受けるために、幸せを先立たせていく者が行く所なのか? 違います。天国は侍るために、心情的に準備する生活をした者たちが行く所です。準備する期間に死んだとしても、侍りの生活を残して、喜んでいける者が行く所なのです。(八・三〇四)

四 侍る生活の事例

1 生活の事例

 先生がどこかに行くというときは、皆さんは千里の道も遠いといわずによく歩いて回ったでしょう。三ヶ月前に家でよもぎ餅を作って、その餅が汚くならないようにと、ほどきもせず、本部まで背負ってきて、先生に差し上げるんだといって、見てみろというようにほどいてみると、餅が酸っぱくなりかけて、青カビが生えていたこともあるでしょう。そのように餅に青カビが生えて、ウジがわいてもいいのです。その餅は食べることはできなくても、億千万にも該当するのです。そうであるほど、情がわいてくるのです。

 また、釜山の影島に住むある老人がいました。そこからチャガルチ市場に行こうと思ったら、船に乗らなければなりません。そこでその老人が、チャガルチ市場に行くために船に乗っていく途中、大きな船を見て、「ああ、あの船に先生をお迎えして、世界を遊覧できたらどれほどいいだろう。」と思いながら、これからはそうなるだろうと考えたというのです。そして、生き生きとした魚を見ては、その魚のしっぽをつかんで泣いてもみたというのです。そのような心が必要だというのです。

 そういう環境においてもそうできるというのは、真の愛を持っているからなのです。真の愛を持っているために、気質的にそのような老人は愚かに見える傾向があります。道理に合わない鉤のような性格を持っているのです。

 愛というものは、愚鈍で間抜けなものです。何の成り行きも分からないのです。そうじゃないですか? 本当に愛するのならば、横でだれが見ても見なくても、関係ないというのです。だれかが見ていることを意識した愛は、限界圏内の愛なのです。だれが見ていようといまいと、意識しないでいられるそのような境地の愛が、どんなにバカ正直で間抜けかということです。

 あるときには、山奥で掘ったトラジ(桔梗の根)を先生の前に持ってきて、涙を流すのです。そのようなものが霊界に行って、その老人を解放することのできる良い材料となるのです。(三三・一一三)

 許浩彬の集団で侍るのに、どれだけの精誠を尽くしたか? 皆さんは夢にも想像できないことをしました。天に侍る礼法を果たすために、どれだけの精誠を尽くしたか? 天の王子として、この歴史の父母として来られるその方、六千年の恨を抱いてこられるその方、堕落した我々後世によって歴史的に残ったその方の恨を、精誠を尽くしたその土台の上で解いてさしあげなければなりません。一代で解いてさしあげるべきこのような使命を神様が教えてくださり、侍ることのすべてを教えてくださいました。ですから、その集団を信じる人の家には、いつでも主が訪ねて来られれば、朝食、昼食、夕食をもてなしてさしあげられる準備をして待っていたのです。そこで尽くした誠は、一言では言い表せないものです。

 また、敬礼をどれくらいしたのか? 三千回は普通で、七千回までしたというのです、七千回。分かりますか? 敬礼を七千回しようと思ったら、一〇時間はかかるでしょう、七千回しようと思ったら。それなのに、朝から、あるいは夜明けから始めて、ご飯も食べずに七千回の敬礼をしながら侍る生活をしてきた集団が、この行くべき道をつかむことができずに、壊れていってしまったのです。

 天の準備された伝統的な歴史でしたが、みんな流れていきました。しかし、それは天の深い事情であるので、これからは天法を中心として、私たち後世でこのような精誠とともに神様に侍っていかなければなりません。このような歴史的事実が葬り去られてしまったということを、皆さんは知らなければなりません。

 先生自身がそのような誠を尽くして、復帰の道を来たために、皆さんがこの復帰の道を準備するためにおいては、それよりも一〇倍、一〇〇倍の代価を払うべきなのです。このような観点から見るときに、みなさんの血肉、細胞と骨髄が、いつも侍る感情を忘れてはいけないのです。また、このような位置でいつも神様に侍りつつ行かなければならないのです。これが統一教会の信徒たちがしなければならない生活だということを知るべきです。(二三・三〇一)

2 お写真を持ち歩きなさい

 この写真はだれの写真ですか?(笑い)ん?(ファーザーです)。だれがファーザーですか?(笑い)悪名高い人でしょう。これは何ですか?(IDカード)。何のIDカードですか?(勝共連合のIDカード)。これを韓国で作って、七〇〇万の勝共要員はみんな持っているのですか? なぜ、これを作れといったかというと、この写真を持っていれば霊界の先祖たちが、たくさん協助することができるからです。今、時は神様が主管できる時代に入ってきたのです。神様が主管できる時代に変わっていく時なのです。分かりましたか?(はい)。

 この写真がこのような効果をもたらすために、今回も…。それではこういう写真はどうですか? 霊界はこれを好みますか、これを好みますか?(大きい方です)。見なさい。霊界はこれが好きなはずなのに、日本人やアメリカ人はこれを好むのです。このように違うのです。この二つのうち、これにするという人と、これにするという人では、それだけ差が大きいのです。イスラエル民族がエジプトから出てくるとき、扉の横の柱に血を塗って災いを逃れたのと同じで、写真を持っていれば、そのようなことができるかもしれないのです。霊界は先生の写真をいくらポケットにいれておいても、分かるのです。こんなに小さいものを持っていたら、柱に血を塗っておかなかったり、途中で塗るのをやめてしまったのと同じことです。どういうのにすれば良いですか?(大きい方です)。(笑い)

 日本の人たちはこの大きなカードを見るたびに戸惑っています。「一体、文鮮明という人はどんな人なんだろう?」と言うのです。けれども、日本の食口たちは経験したでしょう。先生の微笑みは、モナリザの微笑みと同じくらい神秘的なところがあるということを経験したでしょう。(笑い)あるときはこうで、またあるときはああで。しかし、ほとんど確信しているのです。数十万種類の姿に見えても、この神秘的な姿が霊界で皆さんを協助できるようにしてくれるという経験を大部分しているだろうと思うのです。どうですか? そうですか?(はい)。霊界の霊人たちは、皆先生のことを良く知っていますが、この写真を見れば霊界が喜ぶでしょうか、喜ばないでしょうか?(喜びます)。これについて回ります、ついて回るのです。皆さんの先祖たちが、これを媒介体として連結されうるのです。そのような良い材料を知っているというのです。

 この写真を持って歩くときには事故も起こらないし、何の故障も起こらないのですが、これを置いていくとそのようなことがすぐさま起こりうるのです。そうすることによって、写真がどれほど貴いかということを皆さんが悟るような出来事が頻繁に起こってくるのです。これを愛して枕元に置いて寝れば、夢見が悪くないのです。そういうことが起こりうるというのです。それ、信じられますか?(はい)。ドクター・ジョセフは「神は神秘的な方法で役事される方である!」と、言うけれど、(笑い)そう、先生は神秘的な人なのです。そうなのです。だれも私を理解することはできません。どんなに研究してみても分からないのです。ですから、レバレンド・ムーンは何ですって?(神秘的な人です)。神秘的な人! ですから神様が先生について回るのです。それがまさしく神秘的だということになるのです。

 私たちは先生が霊界との仲介者だということを習いました。一人暮しの女性が自分の夫に会いたくなるときには、先生の顔を見ればその会いたい気持ちがなくなることもあります。(笑い)。ああ、生きている男に対してもそうなのです。生きている男も、会いたいと思うとき先生の写真を見れば、そのような考えは浮かんでこないのです。だからといって夫と遠くなるのではなく、近くなるのです。男も同じです。

 さあ、ですからこれを持つようにするのがいいですか、持たないようにするのがいいですか?(持つようにするのがいいです)。だからそれは好きなようにしなさい、好きなように。それで私は世の中にはないIDカードを作るようになったのです。世の中にはないでしょう? アメリカの大統領、アメリカの国民は、アメリカ大統領の写真のあるIDカードを持っていますか? 歴史以来このようなIDカードについては初めて聞くし、初めて見るものなのです。イエス様はこれを見たでしょうか?(見ませんでした)。これは歴史上初めてなのです。(一三二・一九〇)

 今やレバレンド・ムーンの名声は国境を越えました。至る所にいる為政者たちの中には、自分の書斎にレバレンド・ムーンの写真を掛けて崇めている人が多いということを私は知っています。尹博士も私の写真を掛けているの? 毎日何してるの? 挨拶してるかな? 毎日キスするの? 情熱的でなければなりません。キスすべきでしょう。そうしたからといって失礼だというわけではありません。自分のお母さん、お父さんにはキスできなかったのに、神様の愛に代わってキスしてあげることによって、お父さん、お母さん、霊界に行った人たちが、自分がキスした勢いで同参権、同位権を持ち、自分が行く所についていけるような因縁を残すためにこうするのだといえば、神様は「ノー」と言われないのです。「そうか、おまえの言葉が正しい」と言うのです。どうですか? 尹世元、そう思うでしょう? 「はい、そう思います」。。そう思いなさい。(一七一・二三九)

 今日から皆さんは先生の写真を持って歩くのがいいのです。そうすればどんな困難に遭ったとしても、皆さんが無事に耐えられるように保護してあげられるでしょう。旧約時代、モーセがイスラエル民族をエジプトのパロ王から脱出させ、カナンに導くために奇跡を行なったとき、長子が禍を受け病気で死んでしまいましたが、羊の血を門の柱に塗った家は、その禍がすべて避けていったのです。霊界では私たち人間のすべての行動を見ることができるだけでなく、保護してくれることもあるのです。(一九八四・二・七、一三〇・二九〇)

第四節 対人、対言、対物関係

一 対人関係

1 人に対する方法

イ)こなすべき人間関係

 私たちの日常生活の中で、良い悪いという観念はだれもが持っています。私が「良い」ということも、色々な観点から違うように考えることができます。

 私たちの良心を中心として考えてみてもそうです。皆さんは、こういうことをよく感じるでしょう。特別な信仰生活をする人たちや、霊的な生活を追求する人たちは直ちに感じるのです。人に対するとき、その人とは初対面なのに、さっと会ってみると、その人が良い、あるいは悪いということが分かるのです。それはあることについて、より良心を中心として人に会うと、過程を経ずしてそれを感じるのです。会うのは初めてでも、良い悪いという結果が分かるのです。皆さんも信仰生活をしながら、このようなことを体恤するときが多いでしょう。霊的な体験をした人たちには、そのようなことがあるのです。

 このように、良い悪いを何よりも一番早く決定することができるのが対人関係なのです。人と人との間で、良い悪いというのが早く判断できるのです。人は必ず対内的関係と、対外的関係を持っています。ところで、対内的関係がどんな関係かといえば、人間との関係であり、対外的関係は、世間との関係なのです。このような関係を結んでいるのが人間たちなのです。(二七・四六)

 人について研究をすべきです。笑うときも、ある人は弱々しく「ウフフ」と笑うかと思えば、ある人は力強く笑います。笑うのも万物相なのです。笑うとき「イヒヒ」と笑う人がいて、「ウフフ」と笑う人もいて、「ホッホッ」と笑う人もいて、ありとあらゆる人がいます。上がって、下がって、すべって、転んで、吹き出して…。(四六・二八五)

 このようにすべての問題を見てみると、皆さんは信仰生活をするにあたって、自らついていきながら自分が立つ位置を整地すべきです。すべての人が検討の対象なのです。だれであろうと、自分に対して善でなければ悪なのです。自分にとってプラスでなければマイナスになり、マイナスでなければプラスになるという、そういう関係を持っているのです。何かの言葉をぱっと聞くと、その言葉がプラスになる言葉か、でなければマイナスになる言葉なのか? 何かの行動をするときにも、これがプラスになる行動なのか、マイナスになる行動なのかということを検討すべきです。言い換えれば、それが天のみ旨と信仰の道の前に役立つのか、役にも立たない悪いことなのか、という問題を検討すべきなのです。(四〇・八八)

ロ)人は三つの部類に分けられる

 堕落した世界を見ると、サタン世界にいる人がいます、サタン世界圏。初めての人にはよく分からないでしょうが、サタン世界圏にいる人がいるのです。その次には、サタン圏と天国圏の中間圏にいる人がいます。そしてサタン圏でも中間圏でもない、天国圏にいる人がいます。大体このように三つの部類に分けられます。

 私たち個人を中心として見ても、体と心があります。ここでは心は体のものではなく、霊のものでもありません。中間なのです。空間と同じです。ですから、肉的な人がいて、心的な人がいて、その次には霊的な人がいます。

 これと同じように人間にも、サタン世界側にいる人がいて、中間層にいる人がいて、天側にいる人がいます。

 人々を見てみると、人によって違いはあっても、ある人はさっと会っただけで何となく嬉しいのです。その人とは初めて会うのに、心が引かれていくのです。なぜそうなのか? それはその人が自分よりも心霊基準が高い人だからです。自分の先祖たちが築き上げた基準よりも高い基準にいる人には、なぜか自然に会えば嬉しくなるのです。なぜならば、その人と因縁が結ばれるようになると、それによって自分が損をするのではなく、得をするからなのです。

 人の善し悪しがどこで左右されるかというと、その人と関係を結んだ自分が、損をするか得をするかという問題によって決定されるのです。だれでも悪いことは嫌がり、良いことは喜びます。

 また人々の間には、良くも悪くもない人がいます。そんな人がいるのです。その次には、会うと何だか嫌な人がいます。このようになっているのです。会えば嬉しい人がいて、嬉しくも嫌でもない、ただそれだけの人がいて、なぜかひたすら嫌な人がいます。このように感じるのは、相手が電波のような波長を出して、何かを感じさせるからです。

 そのような観点から、皆さんはうまく分析しなければなりません。ある人をさっと見て良いと思うのは、それは原理的に見れば、すでにその人が主体になっていて、自分は対象的な立場で授け受けしているのです。皆さんが原理を中心として考えてみれば分かるだろうけれども、完全な相対基準を立てて、完全な相対基台を成し、完全に授受すれば、神様が臨在なさるのです。これが原理の教えなのです。(五〇・二五八)

ハ)先代の因縁圏にいる私たち

 それと同じように、皆さんがある人に会って嬉しいというのは、自分が望まない環境にいたとしても、何がなんだか分からないが、彼に与えずにはいられない、彼から受けずにはいられないという立場に立つようになったということです。言い換えれば、強い磁石と鉄があれば、鉄が磁石の影響を受けるのと同じことです。そうじゃありませんか? 影響を受ければ、必ず鉄自体が引っ張られていくのです。引っ張られていくというのです。このような作用があるので、皆さんの目には見えないけれど、その二人の間には何か分からないが行き来する因縁が結ばれているのです。ですから、授受するその因縁が大きければ大きいほど、神様はそこに臨在されるようになるのです。

 その授受力に該当するくらいの運動が起これば、必ず中心を描きながら運動が広がるようになります。授受するようになれば、運動が広がるのです。運動が広がれば、必ず中心を追求しながら運動するようになります。中心が早く決定されれば、それが長い間継続するけれども、中心の決定が遅れると、早く倒れてしまうのです。このようになっています。

 このように授け受けすれば、神様がそこに臨まれます。中心を決定されるのは、私たちが原理を習って分かっているので、ぱっと会った瞬間から気分の良い人がいます。何だか分からないけれど、気分が良いのです。そこには必ず因縁があるのです。皆さんはお互いに初めて出会って、朴氏とか、金氏とか、崔氏とか、趙氏とか、文氏とか、各姓氏に分かれていますが、皆さんの先祖同士は因縁があるのです。

 過去の私たちの先祖、おじいさんとかおばあさんを調べてみると、趙氏のおばあさんがいるかと思えば、金氏のおばあさんもいます。このようにお嫁に来たおばあさんすべてを調べてみると、数多くの姓氏が接近したり離れたり、また接近したり離れたりしているのです。崔氏のおばあさんが現れ、また金氏のおばあさんが現れ、このように先祖をざっと調べてさかのぼれば、一人のおじいさんから今のお父さんの代まで下ってくるには、多くの氏族たちがくっついたり離れたりしているのが分かります。一世代生きては死に、また一世代生きては死に、このようになっているのです。

 このように下ってくるのですが、比例で見れば、自分の宗族や氏族を中心として、ある特定の姓氏があるのです。自分のおばあさんたちの間に、どの姓氏を持ったおばあさんが多いのか? 朴氏が多いのか、崔氏が多いのか、趙氏が多いのか? 皆さんは知らなくても、因縁のある姓氏があります。そうじゃないですか? 因縁のある姓氏が多いのです。それに1、2、3、4、5…と等数をつけていくと、自分を中心として数十等の等差があるのです。

 ですから自分のこの体は、この時代のだれだれの息子娘として生まれたけれども、「私」というのはこの時代に平面的にだけ生まれたのではありません。皆さん自体には、多くの先祖たち、すなわち多くのおじいさん、おばあさんの血が混ざっているのです。約四百兆くらいになる皆さんの細胞は、皆さんの先祖の細胞と連結しているのです。

 ではそこにおいて、皆さんがどんな姓氏の素性を、どのようなおじいさん、おばあさんの素性を多く受けて生まれたのか、というのが問題になります。また、おじいさんを見るとき、おじいさんが趙氏であっても、純趙氏系統のおじいさんではありません。そのおじいさんのお母さんが朴氏なら、おじいさんにも朴氏の素性に似た部分があるのです。そうじゃありませんか? このようにジグザグに混ざって、全部総合された上で今日の「私」という人間が生まれてきたのです。このように見るのです。

 自分がある人を選んだのですが、朴氏だとすれば朴氏に初めて会ったのに、何だか嬉しい…。それがなぜそんなに嬉しいのかというと、自分の先祖たちの中に、朴氏のおばあさんたちが多かったからなのです。朴氏の血統の因縁をたくさん持つようになれば、自然と嬉しくなるのです。このような因縁が皆あるのです。

 またある人に出会ったとき、なぜか分からないのに嫌だというのは、先祖たちの間で怨讐になって、お互い相容れない事態が起こって被害を負わせたという、そのような因縁が相対的存在で現れたためです。それで反発が起きるのです。

 その次に、大して良くも悪くもない人がいます。このような人は中間的な立場の人です。そういう人は、私が努力すれば動かせる人なのです。私が努力し、精誠を尽くして主体的な役割をすれば、その人は引かれてくるのです。引かれて来てある基準を越えるようになると、同化して自分と同じ道を行けるようになるのです。

 自分と合わない人を中心として見てみると、そこには蕩減が起こってくるのです。皆さんこれを知っていますか? 自分と合わない人を伝道するには、ただではいきません。言い換えると、自分とその人が反対で、基準が合わない分だけ、自分が善の立場で代価を支払わなければならないのです。蕩減を肩代わりしてあげなければならないのです。

 ですから皆さんの目から見ると、平面世界に一緒に住んでいるように見えるけれども、霊的、あるいは天的に見た場合にはそうではないのです。例えていえば、山や山脈と同じことなのです。ある人はこう行ってからああ行って、またある人はああ行ってからこう行って、またこうして降りていく人がいるかと思えば、このように登っていく人もいるのです。これをこのようにピタッと線を引いておけば、中央線を引いておけば、このようになるのです。

 数多くの人間性を描いてみれば、皆さんは「あの人も私と同じだろう」というかもしれませんが、事実を調べてみれば同じではないのです。自分はこれが好きなのに、他の人は別なのが好きなのです。お互いに違うのです。感じ方も皆違います。このように、良い悪いという感覚は、すべて歴史的な背景と因縁によって現れるようになっているのです。(五〇・二五九)

ニ)良い人とは

 本当に善なる人とはどんな人でしょうか? 悪なる人がいれば、その人の悪なる点を根掘り葉掘り探し出して、悪が十あれば十だけ憎む人は、善なる人ではありません。その悪を忘れて、その中に宿っている善の価値を、悪以上に評価できる人であるべきです。そうしてこそ、悪なる人に善の立場で相対し、新しい立場で導いてあげ、幸福の条件を示してあげることができるのです。それによってその人は私をお手本にしてついてくることができ、私を中心として関係を結ぶようになるのです。

 相手が悪だからといって「悪」それ自体を呪い、悪が十あればそれ以上に悪く評価し、呪う立場に立っては、この地上に「善」自体がありえないということを、皆さんは知るべきです。ですから善なる人とはどんな人か? 悪なる人をも愛し、悲しい人に対しては、その悲しみをその人のものとして放っておくのではなくて、自分の悲しみのように感じることのできる人です。自分がその悲しい立場に入ってそれを蕩減してあげ、自分の喜びをその人に分けてあげられる立場に立つならば、そういう人はどんな環境においてもお手本になることができます。

 ではそういう人になるためにはどうすべきでしょうか? 平面的な習慣や観念を超越すべきです。言い換えれば、「私はあの人のために生まれてきたのだから、あの人のために祭物になろう」ですとか、「私は悪人を善人にするために生まれた」と考えなければなりません。生きるのも彼らのため、という観念を持って生活する人なら、環境に難しい問題があるとき、それをそのまま残しておくのではなく、自分の一生の事業と考えてすべての悪を除去し、善にするでしょう。

 善になるためには、悪を人ごとと思うのではなく、自分の痛みとして感じながら、夜を徹して彼らのために涙の祈祷をし、彼らの罪のために贖罪の祭祀を捧げる心を持って生きるべきです。そのような人は、悪なる人の本性の中心存在にならざるをえません。(三四・一三〇)

 ここで私たちは、良い人とはどのような人なのかを知らなくてはなりません。良い人とは、少年を好きで、青年も好きで、壮年も好きで、年取った人も好きでなければなりません。また、自然に対して人間が主体的な立場に立ったなら、そういう人は春も夏も秋も冬も好きなのであり、それが良い人なのです。(七二・一〇二)

2 望ましい人間関係

イ)愛の人間関係

 今日人々は、人に対して余りにも無関心です。横的な関係において、横的な因縁を中心として、お互いに尊重することがほとんどありません。老若男女にかかわらず、皆、人に対して面倒臭がっているのです。人が面倒臭くなると、悟りの道を行く人にはなれません。

 神様が復帰の摂理をなしていかれるのに、大韓民国が必要なのではありません。世界人類すべてを必要とされるのです。ですから、人に対する深い関心を持ってこられたのです。これは、今までの神様の摂理の中で一番重要な目標でした。私たちはその目標を果たすために集まった群れといいますが、すべての人に対して、神様と同じ位置で関心を持って対することを知るべきです。

 これは表面だけそうするのではありません。本心から湧き出る心を持つときに、先ほど話した因縁の中で最高の因縁が結実する位置に立つことができるのであり、関係を結ぶにおいても、最高の関係を結ぶことができるのです。こういうことを知って、これからは食口が困難に遭ったり、ある環境にぶつかって苦難を受けるとき、お互いに自分が受けているのと同じ心情で、同情心を持つべきです。

 だれよりも先立って人を愛するというからには、いくら秋が来て冬のような試練の峠が来たとしても、突破していける生命力を持つようになるのです。そのような生命力は、春に向かって力一杯あふれ、新しい世界の生命の母体になることを皆さんが感じるように望む次第です。(二五・二九一)

 私たちが五官を通して感じる感覚の一切を統合して、この生命、あるいは愛と、どの程度の関係を結んで生きるかということによって、人間としてどれくらいの価値を持っているかという問題が左右されるのです。ですから私たちは、生命力と加重された愛の心を持って対人関係を結び、社会生活をしてきたかという問題を考えざるをえないのです。

 万一そのような位置に立っていられないというならば、それは停止するのではなく後退するということを知らなければなりません。(三二・一九)

 人と人とが出会うということは、いってみれば、玉突きをするとき、玉同士がぶつかって、あっちに行ったりこっちに行ったりする、その面白味なのです。人と人との出会いも、それと同じような作用をするのです。それがぶつかれば引っ張り合って、一つになってから押し出す、そんな気分になるのです。皆さんがサッカーのボールを蹴っても、そのボールが上がったり下がったり、このように変化無双だからいいでしょう? 同じことです。愛の神様が中心であるならば、その愛を中心としたこの世界を標準にしようとするので…。一体宗教とは何でしょうか? 神様を探しに行こうということです。神様を探して何をしようというのでしょうか? 神様の愛の位置まで行こうというのです。それを確実に知るべきです。そうすべきではないでしょうか?

 本来人間が堕落しなかったなら、一気にこの位置に入ったのです。宗教は必要ないのです。愛について何の説明が必要でしょうか? 父母の愛とか、夫婦の愛とか、この世の愛もですよ。自然に分かるのです。自然に分かることなのです。空気のように、人と切り離せないのがその愛というものなのです。自然に分かるようになっているのです。

 皆さん、空気に方向性があって、それを探し回ろうとするなら、どのようにするべきですか? どこに行って探しますか? 愛が分かる人は、どこに行っても父母の愛を感じることができるし、どこに行っても愛する人の愛を感じることができるのです。(九一・八二)

ロ)対人関係の核心的要素

 「私は人生をこのように生きる」と、しっかり決めるべきです。さあ、私が好きな人、まず悪い人や良い人、幼い人や若い人や年老いた人、人という人すべてに、善なる人が悪なる人にも同じ心を持って対し尽くすということをしっかり決めてしまわなければなりません。

 ですから、自分がその人を良いか悪いか判断する前に、自分がその人のために何をしたかということを考えてみなさい。それはどれほどの違いでしょうか。水でいえば、あちらは高いほうの水で、自分は低いほうの水ならば、自分が落ちて下りていくことはできないのです。いつでも自分に接近してこようとするのです。ですから、真空状態になれば高気圧圏は自動的に来るのです。それが原則なのです。(一三一・三三)

 皆さんは他の人の前に出ることを躊躇しなければならないし、対人関係においても注意して相手の内外の事情を伺いながら話すべきなのです。(四二・三〇〇)

 神様と一致した人になって、万物世界、あるいはこの世界の前に、神様の愛に代わる者として、全体に対して情緒的な基準から横的関係を広げて結んでいくことが、宗教人のしなければならない生活だと思うのです。生活でこれが結ばれなければなりません。生活でこれを成すべきなのです。そうしようとするなら、皆さんはそのような神様の心情に代わって対人関係を結ばなければならないのです。個人であれば個人においての対人関係を結ぶようになります。(八二・二七五)すべての人々に対するとき、欲を持って対してはいけません。(三三・一四三)

3 私たちは信徒ではなく食口

イ)食口という言葉の成り立ち

 今日私たち統一教会の教会員が集まったのは何でしょうか? 私たちは食口と呼んでいます。そのようにいうでしょう? 食口が何ですか、食口? ご飯を食べる口という意味の食口ではありません。食口というのは何ですか? 兄弟の因縁を持つべきであるし、父母の心情を共にくわえながら生まれなければなりません。そうしてこそ食口になれます。

 同じ父母を持って、同じ兄弟の因縁を持たなければなりません。そうして一つの父母の生活と習慣と伝統を、そのまま相続しなければなりません。それから天の喜ぶ生活形態を持たなければなりません。そうしてこそ食口が成されていくのです。(一五五・二一一)

 皆さんには食口として何が必要でしようか? 自分の兄を兄として、弟を弟として、姉を姉として、上下前後関係を知って、自分の位置と環境をしっかり立てるべきなのです。そうして彼らがぶつかり、戦い行く試練は、食口の名詞を持つ者として、兄の受ける試練も自分の試練であり、父母が受ける試練も自分の試練であり、周囲の兄弟たちが受けるすべての試練も自分の試練であり、夫婦が受ける試練も自分の試練であると思うべきなのです。「彼の痛みは私の痛みである」という心情で、その環境にぶつかればぶつかるほど、そこからぶつかってくる反対の現象で、私の体に悲しみの条件が吹いてくれば吹いてくるほど、兄弟の苦痛が吹き飛ばされていき、私たちの前後関係の、父母ならば父母の苦痛が吹き飛ばされていくということを知らなくてはなりません。ですから私たちの行く道を塞いでいる怨讐に対して、戦うという信念が強ければ強いほど、その人は兄弟の中の兄弟になれるし、子女の中の子女として、行く同僚たちの中から保護を受け、守られるのです。これが天地の道理です。

 食口としての運命を同じくして行軍する私たちの行路においては、その範囲が広くなればなるほど…。あるときは個人的な闘争時代を経て、あるときは家庭的な闘争時代を経て、またあるときは宗族的な闘争時代を経て、今は民族的な闘争時代を経て、国家的な闘争時代に向かって、世界的な闘争の過程を眺めながら準備する時代に到達したのです。

 私たちが行くのは、自分一身が行くようであっても、その一身に終わらないのです。世界のすべての人類、あるいは多くの宗族たちが、私たちの生活と行軍命令に歩調を合わせるのに忙しい、そのような現象が起こるべきなのです。そのようにしてこそ食口なのです。

 食口という名分は、前には父母のためであり、左右には兄弟のためであり、希望の善の国、善の主管と善の人類、善の民と善の地球星を創るためなのです。このような厳粛な課題を前において、闘争の波風が起こるべきことを知らなければなりません。私が入るか、私が出るかという戦いで陣を張っていて、また出ている者たちはだれかというと、統一教会の信徒たちなのです。統一の食口たちなのです。(一五三・一八)

 今日私たちは手に手を取って集まりました。老若男女を問わず、見慣れない他人同士が集まったのです。私たちには血が通っています。私たちには天情が通じているのです。出発が神々しいのだから、結果も神々しくなければならないのではないでしょうか!(六七・三二五)

ロ)因縁があって出会った私たち

 皆さん同士のつながり、神様を中心として結ばれた皆さんの因縁は、何年間かでできた因縁ではありません。その背後には、堕落した悲運の歴史が連結しているのです。またそこには、人類に対する神様の希望があるのです。皆さんはこのような因縁によって、お互いに会いたくて、お互いに恋しい思いを持って集まったのです。皆さんはこのことを考えるべきです。(四九・二一六)

 私たちが持って生まれた因縁はどんな因縁でしょうか? 立体的な因縁だということを皆さんは知るべきです。それは今まで歴史上にあった何らかの思想を基調として現れたものではありません。神様の心情と創造理想を基調として、本性の人格を標準として始まった因縁なのです。これはすべての因縁の核心であるがゆえ、絶対視しなければならないのです。(四九・二〇六)

 私たちの因縁を考えてみなさい。ここでは私たち同士だけが因縁で結ばれているのではありません。数多くの霊人たちと、天使世界と神様までも…。神様と天使長の間にどれだけ多くの曲折がありますか。曲折が多いということはこぶがまたくっついた、ということです。形でいえば地球よりもこの世界、宇宙よりももっと大きなものがくっついているのです。それはとても大きいのです。あまりにも大きくて、行こうと思っても触れて「ムーニーが来るぞ、事故が起こるぞ」と大変なのです。それが行きながら打っていくのです。危険だ、危険だ、というのです。(九五・一二九)

 私たちはそれぞれ異なる因縁によって集まった人たちです。したがって兄弟ではない人々が集まりました。兄弟ではない人々が集まって、肉親の兄弟を支配しなければなりません。それが違うのです。兄弟でない人々が、肉親の兄弟を支配しなければならないのです。そうでなければ、皆さんの家は皆さんと何の因縁もなくなってしまいます。事実それは自分が直接できないことなのです。ですから私たちは、兄弟に対してもっと良くすべきなのです。(四九・二〇九)

ハ)食口同士の留意事項

 食口に対するときには、その人を傷つけないように注意して、また信仰生活の助けにならないような言葉を言ってはいけません。(一八・四三)ある食口は食口間で気が合わないといって、距離をおいて彼を批判したり裁いたりしますが、それではいけません。(一九・一三八)

 先生は食口を非難したり、計画的に食口を妨害するのを見ると我慢のできない人です。世界を愛したい心があるのなら、その愛をどこから始めるべきでしょうか? 私たちの間から始めるべきです。東西南北から選り分けられて、一つの因縁によって集まった私たち同士が、お互いに愛し合おうというのです。会わなければ生きられないのです。会わなくてはいけないのです。このような因縁で連結されているために、統一教会は、それでもこの悪なる世界とは違った何かを持っている、と自負しているのです。それを失ったら、私たちには何の価値もありません。(四九・六二)

 統一教会では、けんかがあってはいけません。ここは、互いに愛し合うために集まったのです。愛を受けようという所ではなく、愛を与えるために集まった所です。では愛する方法はどこから習うのでしょうか? 先生から習うのです。先生に会って、先生を愛したいという思いが生じなければなりません。ただお互いに会いたくて、与えたい愛を、兄弟たちにあげるべきです。そうすれば神様は、その何倍にもして返してくれようとなさるでしょう。父母は、兄弟が互いに愛し合うのが好きだからです。

 天国に行く道は、兄弟を神様のように愛するところから開かれます。皆さんは先生について来ようとするけれども、その心で兄弟について一緒に行こうと努力してみなさい。

 このように見るとき、天国に一番高く、速く、良く導いてくれるのは、神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論が出てきます。父母と夫婦の愛を凌駕した愛を持って努力するものは、最高の愛の主体者として相対者を選択するのです。

 皆さんが知るべきことは、天国に行くための訓練は死にもの狂いでしなければならないということです。自分たちがアベルの立場なら、カインを中心として天国に行く訓練をすべきです。これができない天国は井戸の中の天国であり、縦横に相通ずることのできる天国とはならないのです。

 今、時は世界的な時です。白、黒、黄色人種は三兄弟です。皆さんは、異色人種が集まって暮らしても幸福だろうかと考えるかも知れませんが、争うことはありません。天国は人種によって行く所ではなく、どれだけ多くの人を愛したかというその業績によって行く所なのです。

 マタイ福音書第五章に「平和をつくり出す人たちは…神の子と呼ばれるであろう」とあります。神の子に会えるといいけれど、サタンの息子に対せば対するほど、恐怖と不安が生まれてくるのです。このように見ると、兄弟は自分よりも貴い者です。兄弟のために生きる人は自動的に天国へ行くのです。どこででも歓迎されて、推薦されるということを知らなければなりません。兄弟にために生きる者は中心的存在になるということを、もう一度悟るべきです。

 父母の愛と夫婦の愛を再現する兄弟の愛を、どのようになすかというのが、すなわち地上天国をこの地に実現させる方法だということを知るべきです。結局、喜ぶために与え、喜ぶために迎える、これが天国に入る鍵です。自分よりも、兄弟がもっと重要なのだということを、心の中に深く刻まなければなりません。(六六・一二五)

4 万民を愛さなければならない理由

イ)人を愛さなければならない理由

 傲慢は怨讐です。傲慢と意地っ張りはサタンの本質であり、サタンの要素なのです。ですから私たちは、傲慢の代わりに謙遜、意地っ張りの代わりに和合しなければなりません。そうでしょう。和而有親です。和同する人、この人にも、あの人にも良くしてあげるような人にならなくてはいけません。そのようにするところから、すべてのことが通じるようになるのです。この人とあの人、二人が一つにならなければ、より大きなものは生まれてきません。和合しなければそのようになるのです。皆さんはそれを知るべきです。サタンの本質には、妬みと嫉妬のようなものもありますが、今はこれだけ覚えておいてください。傲慢と意地っ張りは、私たちには許されません。(三七・一三二)

 「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。これが第一の戒めです。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」。これが第二の戒めです。第一の戒めは神様を愛して、第二の戒めは何ですか? 人類を愛するのです。隣近所ではなく、人類を愛せよということなのです、人類。人類が兄弟であり、隣人なのです。

 神様は、人類を愛の対象圏として望んでいるために、愛する息子娘が神様よりも人類を愛するからといって「おい、こいつ、おまえは間違ってるぞ」とは言わないのです。(一三六・一四一)

 人間同士、なぜ愛さなければならないのでしょうか。愛さなければ、神様の愛が回っていくことができないからです。一点も回ることができないのです。縱的な愛の前には、主体と対象の相対的な愛がなければなりません。(三四・二四〇)

ロ)人をどの程度愛すべきか

 聖人の道理、聖人とは何でしょうか? ご飯をよく食べるのが聖人ですか? けんかが上手なのが聖人ですか? そうではありません。万民を自分の父母のように、自分の兄弟のように、自分の子供のように愛さなければなりません。自分の子供たちが病気のときには、父母は心を痛めずにはいられません。ですから聖人は、世界の万民が生きている頂上を見上げるとき、自分の痛みの代わりに…。

 ですから万民を愛するためには自分の立場を忘れて投入しようとする、このような愛の心を持つこと、それが聖人の道理です。それゆえ聖人の道理は、歴史を越え、時代を超え、国境を越えて、今日の全世界の道徳基準として受け継がれているのです。それが博愛精神です。分かりましたか?(一八六・七四)

 人をどれだけ愛したのか? 自分がいつ、ある人のために死んでもいいと考えてみたことがありますか? そしてどれだけ愛したか? どれだけたくさん愛したか? 問題は、人を愛する比率によって心情が変わってくる、ということです。(七三・七八)

 皆さんが永遠なる因縁を相続し、残りうる存在になるためには、神様の愛を中心とした信仰の道を行くべきです。そうすればその人はどこで実が結ばれでしょうか? 人、すなわち人類の前に実が結ばれるのです。

 ですから人を愛さなければならないのです。人を愛し、人を恋しがるということにおいては、どんな団体よりも強くなくてはいけません。これが人間の意志ではなく、神様のみ旨を中心とした集まりであるからには、必ず全世界に愛の実として残ることでしょう。実として残るのです。

 木々が茂って山を覆っているときには、どれが松の木で、どれが柾の木なのか見分けるのが大変です。けれども、秋になり、冬になると現れてきます。冬に葉が落ちて、枝と幹だけが見える中で、緑の木が見えれば、希望を感じます。それは新しい因縁が結ばれたことを象徴しているのです。

 これと同じように、どんなに克服するのが難しい環境、死亡の世界におかれたとしても、変わらぬ姿で人類を愛するとき、その人は天の代身者となるのです。

 人を愛するといっても、若い人だけを愛するのではいけません。愛するには、年取った人から幼い人まで、すべての人を皆愛すべきです。最近の青年たちを見てみると、年取った人の相手をしないようにしていますが、それではいけません。年取った人も愛すべきだし、若い人も愛すべきです。

 愛するにおいて、より愛し、尊敬し、敬わなくてはいけないのは、年取った人たちです。若い人は会っただけでもいいけれど、活動もままならず、力も不足で第三者の世話にならなければならない老人たちに愛を与え、同情してあげなければなりません。しかしそのような風潮は、この社会では見られません。(二五・二八九)

二 対言関係

1 言葉の重要性

 私たちの日常生活、また人生において一番重要なものは何かというと、言葉です、言葉。私たちは言葉で意思表示し、人に感動を与え、あるいは絶望を与え、興奮もさせます。言葉というものがどれだけ重要な働きをしているかということを、私たちはよく知らなければなりません。(九一・七三)

 人が話す言葉は、その人自身を表わします。その人の実践を代わりに証明するのが言葉です。「信じる」という字は面白いでしょう? 「人」という字に「言」という字ですね。(一五二・四七)

 私たちが話すといっても、そこには話す動機があるのです。話す相対がいなければなりません。話すのには必ず目的があるのです。(六六・二四二)

2 愛が込められた言葉

 愛を中心として話せば、いくら悪口を言っても、何を言っても、ひたすら栄えるのであり、発展するのであり、宇宙が喜ぶのです。(九一・九一)

3 言葉と行動

 考えが問題です。すべての人間の行動、言行のすべては、考えから始まります。正しい考えを持たなくてはいけません。話すにしても、その考えを通して話します。その考え、その伝統的な思想に自分を介在させることはできないのです。ここには、宇宙が介在しており、神様が介在しているのです。宇宙を代表し、人類を代表して話すのです。(一二六・二〇)

 皆さん、世間ではよく「あの人は言葉がうまい」と言うでしょう。言葉がうまい人がいるという事実を私たちは知っています。しかし、言葉だけうまいのではいけません。言葉がうまいのと同時に行動まで備えた人が、すべての生活における合格者である、このように見るのです。

 言葉が多いほうが良いのか、言葉よりも行動をするのが良いのかということが、私たちの生活において重要な問題です。これらの問題を中心として、私たちの人生において良い人なのか、悪い人なのかという価値が決定されます。

 話すには、何を中心として話さなければならないか? 行動するには、何を中心として行動しなければならないか? 言葉は言葉だけ、行動は行動だけではいけないのです。全部神様の息子娘の位置に立って、神様の息子として話し、行動すべきであり、神様の娘として話し、行動しなければなりません。(九一・七三)

 皆さんが話し行動するときには、すべてが天に属し、天に補充されうるように、今後行動すべきです。皆さんが友達どうしや兄弟、食口どうし話すときも、心が動くようでなければなりません。(九一・九六)

4 一言の言葉による被害

 信仰者の皆さん、真実なる人、真に生きようとする人たちは、一言の言葉を過ってはいけないのです。(四五・二四七)

 皆さんは言葉を一瞬のうちに使うけれども、その一言を過つと一年間は影響します。一瞬の間違いを、一年の間清算しなければならない羽目になるのです。(四三・一一一)

 皆さんは心にもない言葉を使ってはいけません。絶対に使ってはいけません。引っ掛かるのです。天法に引っ掛かるのです。(九一・九七)

5 話を聞く姿勢

 だれかがさっと話したとすれば、話した人と、神様と、私の間に三角関係が成立します。神様と私とその人の間の、この三角関係には必ず目的があります。それが四位基台です。神様と私とその人による三角関係は三点ですが、その三点が目的とするところを神様と私とその人がそれぞれ見た場合、一致するかということです。これが合わなければねじれていってしまうのです。ねじれていくのです。どんなに熱心に精誠を尽くしても、み旨に合わなければ気運がさっと抜けてしまうのです。

 このくらいのことは祈祷しなくても分かるような習慣を、皆さんは育てていくべきです。最初に受けた印象を中心として鑑定しなければなりません。そういうときにその人が言ったことを神様が聞かれて喜ばなければ、そこには必ず相容れない役事が起こります。初めて会う人なのに腹が立ち、考えもしない悪口が雷のように出てくるのです。皆さんはこの段階まで行かなければならないのですが、そこまで行くには調整しておく必要があります。

 ですから皆さんはいつも人に対して批判的な立場であってはいけません。ある人が自分に対してどんな感じを与えるか、つまり話さなくてもパッと会った瞬間どんな感じを与えるのか、その人が話す最初の語音とともに、自分の心がどのように動くかということを検討すべきです。言い換えれば、主体と対象との関係において、それが自分にとって合うのか合わないのか、その感覚の角度を調整して、私の位置はどんな位置なのか、神様が追求される線を描いて、そこにプラスになっているのか、マイナスになっているのかという問題を検討しなければならないのです。そして、それがプラスになっているというとき、そこに合わせて動くべきなのです。(四〇・八二)

 ある人の話す言葉の内容が問題ではなくて、その人の言葉を聞いている人の最初の印象、最初の感情、その感じがどうかというのが問題なのです。これを常に自ら考えるべきなのです。ですから、だれかが話すときには、その言葉の内容について考える前に、その言葉を聞くときの自分の心と体がどのような感じを持っているかという問題をいつも自問自答すべきなのです。このようなことが習慣になれば、どんなことがあってもそれに接してみれば、良いことなのか悪いことなのか、自分にとってマイナスになるのかプラスになるのかが分かるようになるのです。(四〇・六八)

 皆さんはもう、昔アダムとエバが、横から聞こえてきた言葉を分別することができずに堕落してしまったことを悟り、それを分別することのできる人格の完成者になるべきです。もしアダムとエバが天から与えられた本性によって、天使長の言葉を分別することができたなら、彼らは堕落しなかったことでしょう。(三・一六二)

三 対物関係

1 日常生活における対物関係

 私たちが日常生活において対していることがらは、大体どのように区分されるでしょうか? 第一に物に対すること、第二に人に対すること、第三に言葉に対すること。言い換えれば、物に対する対物関係、人に対する対人関係、そして対人関係において使う言葉との関係があります。言葉は間接的な目的、すなわち第三の目的のためにあるのです。

 ですから、物に対するとき、天法、また神様の前に引っ掛かるな! 人に対する関係においても引っ掛かるな! 物に対する対物関係、人に対する対人関係、そして話すことにおいて引っ掛かってはいけないのです。言葉は必ず行動を促します。これが私たちの日常における関係なのです。(四〇・二八九)

 私たちが対するすべての万物は教材です。このような霊的世界の直接的な感応でなく、間接的な感応を起こすことのできる関係を私たちが結べる対象は、神様の創造物です。この創造物は神様の性相に似ているため、間接的ではあっても、性相的な要素を内包しています。それゆえ、その中には私たちが関係を結びえる善の要素、内的な性禀があるために、その性禀によって動かし連結させるような生活を広げていく人がいれば、その人にはどんなことでも支障になることはなく、マイナスになることはないでしょう。(四〇・二九二)

2 万物の真の主人

 万物も「私はだれだれのものだけれど、あの家の第一先祖は私をこのように愛し、第二先祖はそれにプラスして私をもっと愛し、第三先祖はそれにもっとプラスして私を愛した」と、言えることを望んでいます。それを望むでしょうか、望まないでしょうか?(望みます)。真の主人になろうと思ったら、万物を神様の代わりに管理してあげ、愛してあげ、また自分だけそうするのではなく、自分の後孫までも更に愛することができるように教育していくべきです。そのような人が真の主人です。

 皆さんの「価値」について考えてみましょう。自分が価値ある存在であるがゆえ、自分が持っている物は自分の対象としての価値を持つようになります。これが創造の原則です。主体の前に対象として現れるときは、お互いに授け受けながら一つになるのです。そうですね? 対象も主体と同等な価値圏を与えられるのです。これが原理の教えです。ですから自分に属した物を粗末にする人は、長続きできません。自分に属した物を愛するべきです。紙一枚から家財道具一切に至るまで、自分に属した物はすべて貴重に思わなければなりません。節約すべきだということは言うまでもないことです。

 どんなに小さな物も、私がつまみ上げれば、それは私の対象としての価値を持つようになるので貴いのです。ですから有名な人が使ったすべての物は、その国の貴重な骨董品として残るのです。それがどんなにぼろぼろになっていても、その国の宝物、財産として残るのです。そうですか、そうではありませんか? その物品が国全体に代わる価値を持つ中心的存在の相対としての価値を持ったために、全国民がそれを崇拝するようになり、その伝統的思想と一致するその物品が、全国民の情緒的面における道になるのです。そういう物が集まって世界になったのです。分かりましたか? 真の主人は神様の代役者であるので、真の万物、真の物質の主人になるべきなのです。(四六・二七三)

 では、統一教会を中心として見るときに、先生は教会の所有物の主人であり、皆さんは教会の人として、これから主人の息子になる立場にいる人であるなら、その主人の代を継ぐためには、先生を中心として属している物を、先生が愛したその上に、皆さんの特性的な個性の愛までプラスして愛しなさい、ということです。先生以上にもっと愛すべきなのです。(四六・二七二)

3 対物関係における基本姿勢

 では、対物関係においてどのように天の物とさせるのでしょうか? つまり物に対して堕落した自分として対するのではなく、神様が主体となって対したという立場をいかにして立てるか? 対人関係においても自分自体として対するのでなく、いかにして神様とともに対するか? また話すとしても自分個人の言葉で話すのではなく、いかにして天の言葉を話すか? これが問題です。その話したことを言葉としてだけ残すのではなく、必ず行動が伴わなければならないのです。これが私たちの生活圏内で関係している内容なのです。私たちが物に対するところから職場生活が起こり、人に対するところから人倫関係が起こります。言い換えると、道徳関係が広がるのです。そして対話関係においては、行動問題が起こるのです。これが私たちが生活圏内で関係している与件なのです。

 ですから物に対するにおいて、原則的な礼法から外れてはいけない! 人に対するにおいても礼法から外れるな! 話し、行動するにおいても礼法から外れるな、ということなのです。物に対しても、人に対しても…。もちろん人を中心として対物関係が成立するけれども、このような立場で関係を結んでいるということを知るべきです。

 それでは信仰者として、物に対するときどのようにすべきでしょうか? どこまでも公的に対さなければなりません。公的に対するけれど、その物に十くらいの価値があるとすれば、十の価値だけで見るのではなく、それがどうしたら千くらいの価値に見えるか、いかにしてより価値のある物として見るかという問題について考えるとき、それ自体の価値は微々たるものであっても、そこに神様が介在しているのだと考えれば、その価値を千の比重まで高めることができるのです。自分が愛するこの物の中に、神様が関係しているというとき、その価値は無限な比重を持つようになるのです。

 そのような心で物に対するようになれば、物が本当に慕わしく思えるのです。皆さんの生活圏内や心の世界の中で、そのような感応が来るようになるのです。そのような心で仕事をすれば、その結果は必ず自分一人で見つめていたときよりも、もっと立体的な価値の内容を感じるようになります。

 一つの事物に対していたのが、結果的に自分に環境的なより大きい価値を感じさせるという事実は何かというと、それでもって自分がより高い意味での霊的価値を占めうる位置に立ったということです。これを皆さん自身が感じなければいけません。そうすれば仕事をしてから感謝することができます。その仕事がどんなに大変だとしても、自分がしている苦労よりも何百倍、何千倍の価値ある結果が表れるという、天的な価値を感じながら行なう人がいるならば、その仕事がどんなに難しくても、それがむしろ感謝の対象になるのです。

 ですから物を扱うとき、何の気もなしに扱ってはいけません。その物が自分にとってプラスになるか、あるいはマイナスになるかを考えなければなりません。つまり、自分にとって福となるか、あるいは禍となるかということです。したがって、現在十の位置で自分が物に対すると、十一の価値になるか、九の価値になるか、すなわちマイナスをもたらすのか、プラスをもたらすのかということを考えて、ここでマイナスになる位置を避けて、プラスになりうる立場をどのように立てるかということを考え努力しなければなりません。

 このように皆さんが探し求めていくならば、どんなことに対しても心は既に知っているのです。ある事物に対するとき、それが自分にとってプラスになるのかマイナスになるのか、いっぺんに分かるのです。仕事をするにおいても、私の心と志が、主体と対象が授け受けすることによって一体になって初めて三点となり、本来の動機、すなわち神様の創造原理に一致する四位基台圏が広がるのです。そうじゃないですか?

 そして物が自分と主体対象の結果にぴったり合う価値を発揮するときに、神様の創造目的の結果が収められるので、それは神様の対象物として善の結果をもたらすのです。

 このような善の結果を自分の周囲にたくさん置いておけばおくほど、自分自体において、再創造過程における位置がだんだん広がっていき、高くなっていくのです。このような立場に立てば立つほど、そういう生活をすれば、どんな物を扱ったとしても既にそこから波長が来るのです。円満な心、邪心を離れて共鳴しうる音叉のような心で、深刻に物に対するようになれば、それが良いとか悪いとかいう感情がわき出ます。それが自分にプラスになるのか、あるいはマイナスになるのか…。このようにいつも打診すべきなのです。

 もし波長が来なければ、公的な立場に立って邪心を捨て、心を丸いダイヤルのようにした上で、仕事なら仕事、物なら物にさっと対したとき、最初の印象や初めてわく感情を通して、これは間違いなくプラスになるという感じを持ってその仕事をしてみるのです。仕事をするにおいても、無意味な立場で行なうのではなく、神様が創造するのと同じような心で、真実なる立場でやってみなさい。やってみると、良い悪いという結果が必ず出てきます。

 そして自分が鑑定したことが何パーセント的中したのかということを、生活の中で点検してみなければなりません。生活の中でプラスになったと感じた初めての感情が何パーセント的中したのかということをいつも注意すべきです。そのような生活態度をだんだんと習慣化させると、十の中で五つ、六つと的中度がだんだん高くなっていくのが分かります。これを育てるべきなのです。的中度が高くなっていくのです。その反面悪いと感じること、良くないと感じることをしたら、良くない結果が出たというときには、それは意志が共になかったためです。

 このように私たちの周囲にあるすべての事物に対するときには、無意味に対するのではなく、必ず原理原則を中心として対さなければなりません。四位基台の形態の内容を中心として、自分の体恤的な感情をどのように啓発するかという問題が、この上なく重要だということを皆さんは知らなければなりません。ですから、皆さんが職場生活で物を扱うにおいてもそうです。その会社の一員として、会社の物は公的な物であるにもかかわらず、粗末に扱うならば、その会社にとってマイナスの人になるのです。それは国の物であり、神様の物だと考えれば、紙一枚たりともそのように粗末にすることはできません。

 このような粗末にしない心を持ってその代価を追求し、些細なことから大きなことに至るまで、全体を心情的な体恤の徳を広げるための条件物として探すために努力し、生活的な感情を連結させるために努力すれば、生活圏内において必ず神が共にいらっしゃる、ということを忘れようとしても忘れられません。対すれば対するほど、自分が対することにおいて、神様が共にしたということを実感的に感じることができるのです。そのように生活する人は、疲れようとしても疲れることができないのです。

 自分一人考えもなく歩き回って損をして、その損が現在の立場より重大になるときには、そこで打撃を受けて落ちていってしまうのです。ですからこの体恤信仰を啓発するためには、皆さんは常に物を粗末に扱うなということです。深刻に扱わなければなりません。これを間違えると、信仰の道全体が引っ掛かって越えうる条件も、そこで成立するのです。(四〇・二八一)

4 先生の万物を愛する境地

 皆さんの万物に対する観…。ここアメリカに来てみると、あまりに物質が多くて物質を愛する気持ちがありません。それを感じました。私たちは、それが神の愛を受けるべき対象物だということを考えながら接することを知らなくてはなりません。物質は、真の父母の愛を受け、真の子女の愛を受けるべき対象物なのです。

 例を挙げるならば、皆さんが乗り回す車は皆さんの服と同じなのです。服と同じように皆さんの体と一つになっているのです。ここニューヨークのような所で外出すると不愉快なのは、車を掃除して乗っている人が少ないということです。皆ぺちゃんこになった車にひたすらそのまま乗っています。これではいけません。女たちが朝に化粧をし、男たちもひげをそってきれいにして、鏡を見て素敵に着こなして車に乗るのに、車もそうあるべきではないですか? 車も相対的な価値の基準程度にしてあげて乗るべきなのです。これから私たち統一教会の輩は、車に乗っていって、万一どこかにぶつかってへこんだら、それにしがみついて泣くことのできる心を持たなくてはいけません。このように考えるべきです。このように愛すべきだということです。そのように車を愛すことができず、物を愛すことができないから、離婚もよくするのです。息子娘も愛さず、離婚も多く…。それは皆直結しているのです。

 先生はりんご一つにしがみついて、どれだけ感謝したか分かりますか? そういうことがあったのです。共産圏内の監獄にいるときのことです。一年に二回、五月一日と正月一日に果物をくれます。りんご一個、りんごを配給してくれるのですが、自分が好きなのを選ぶのではなく、順番に分けてくれるのです。分けてくれるとき、虫が喰っていようと、何であろうと、ただ分けてくれるのをもらわなければならないのです。そのりんごを分けてもらうと、普通の人はもらった途端、ぱりぱりとひたすら一分もかからずに食べてしまいます。

 しかし先生は「この色つやはなんてきれいなんだろう。この色つやを食べよう!」、こう考えたのです。「色つやを食べて、その次に味を見よう」そのように考えたのです。そうしてみると、口を開けて食べる気にはなれないのです。食べずにおいて見れば、目の足しになるし、香りもかげるし…。食べたいと思う自分になれないことを感じてみたのです。

 だからといって、それを持って歩くわけにはいきませんでした。それで食べるには食べるのだけれど、食べるときは神様の前に祈祷しながら、独り言で「りんごを食べるにあたって、私が世界で最初にこのような考えを持って食べる」と、自負心を持って食べたときがありました。このようなことを考えるとき、そのりんご一個でもそうなのに…。

 アメリカ人の皆さん、車を愛していますか? 愛してみましたか? 愛しますか? さあ、今から愛しますか? そうすれば車は故障しないのです。車を愛して一つになって行くならば、どんなにスピードを出しても、ぶつかる車が来ても逃げていくのです。そうなのです。そのように信じなさい。原理的に完全に一つになったものは、サタンが侵入できないようになっているのです。神様がそれを保護してくださり、サタンは来られないようになっているのです。原理がそうでしょう? 

 皆さんがサッと服を着て、鏡に顔をパッと一回うつしてみてから出かけるのと同じように、車に乗るときも、車をさあっと見ながら、ガソリンは入っているか、水はあるか、その次にはギアを入れてみて、音を出しながらどこか故障していないか、昨日と今日で変わったことはないか、と全部音を聞いてみてから乗らなければなりません。このようにして行くときには、どこに行くにしても、少なくとも一〇〇メートルくらい行ってからブレーキを踏んでみて、故障していないか確認してから行くのです。自分の身だしなみをきちんとするように…。そのようにして行けば、事故が起ころうとしても起こらないのです。音を聞いてみてですね。音を聞くのも重要なのです。

 今日ここを皆さんが装飾しましたが、これをやりながら「ああ、きれいにしなければ」、そう思ったことでしょう。そのようにするときに上手にするのもいいけれど、これを片付けるときにも「ああ、これを片付けたらいいだろうなあ」と、思いながら片付けるべきです。そうすべきなのです。また、自分が服を着替えるときには「ああ、ごめんなさい」と、そう言うべきなのです。

 皆さんが原理を中心として、物質に対するそのような心情的関連性をなしておかなければ、神様の一体理想をなすことができないのだということをはっきり知るべきです。それを知るようになれば、自動的にそうなるのです。「物を大切にしなさい」こう言わなくても大切にするようになるのです。だれかが見ているからするとか、見ていないからしないというのではないのです。それはそうなるようになっているのです。(六七・一五五)

四 仕事(使命)に対する法

1 仕事に対する基本姿勢

 一日の生活を通して対すべき仕事に、何気なく対してはいけません。それはすべて天が実際生活を中心として、天国をなすための一つの材料として自分に接近させてくれるのです。それだけに、それを良い結果として消化することのできる主体的な自我をどのように発見するか、ということに努力しなければなりません。

 それを発見するためには、皆さんの勘、最初の感じを常に父の前に相談して、共鳴体とならなければなりません。心をさあっと開いて、昼でも夜でも、いつでも天と対することのできるそのような基準になれば、必ず霊波が来るのです。(四〇・二九六)

 仕事をするときも心と体が一つになり、一体になって取り組むことができなければ、これは悪です。心と体が本当につかみあえば、それが四位基台なのです。仕事も同じなのです。四位基台が目的なのです。私の心と体が一つになり、その仕事と一体にならなければ、四位基台の目的がなされないので、その仕事は何の役にも立ちません。監督がいるからといって、だれかが見ているからといって仕事をするのですか? 天国と地獄は空中に広がるのではありません。皆さんの生活圏で心と体が一つとなり、三対象目的圏を中心として創造原理の法度によって広がっていくのです。(四〇・三〇〇)

 仕事をするときもそうすべきです。例えば、女たちが縫い物をするときに、そこには自分の夫のための縫い物とか、愛する人のための縫い物とかもあるだろうし、あるいは望まない人のための縫い物もあるだろうけれども、皆同じく誠を尽くさなければなりません。あるいは針内職する人も同じです。お金をもらうために、利益を得るためにただ適当にやって種類だけ増やして仕事をすれば、必ず詰まってしまいます。その仕事も自分の仕事のように、自分の愛する人の服のように精誠を尽くした心でするならば、その服を着た人は服を扱うとき「これは善の品物なんだな」と言うのです。もしも体恤信仰をする人がいれば、精誠を尽くしたのか尽くさなかったのか、すぐに鑑定してしまうのです。すべての事物をそのように観察しなければなりません。(四〇・二八五)

 私たちは何かの仕事をしながらも感謝し、その仕事をしながら求道の世界を発展させようとする神様の心があるということを感じるべきです。そのような生活を幅広くすればするほど、自然に大きくなるのです。どんなことをしても「ああ、私は嫌だ」、これは怨讐です。「私にはこれはできない」という考えは捨てろ、というのです。(七三・七八)

 皆さんは夫婦同士愛し合っていますか? 祝福を受けた夫婦同士愛し合っていますか? そのような人たちが仕事をしに出かければ、自分の仕事場は第二の妻と同じなのです。外的な女性の服と同じなのです。

 ですから職場に行くときには「ああ、職場に早く行きたいな」、こうでなければなりません。早く行っては「ああ、仕事を終わらせて、また早く家に帰ったらいい」、こうでなければなりません。家に帰れば職場に行きたくて、職場に行けばまた家に帰りたくて、このように行ったり来たりしてみなさい。そのような人は絶対に滅びません。間違いなく栄えるようになっています。そうかそうでないか、見てみなさい。

 先生は今までこのような心情でもって水沢里の工場を行ったり来たりしたのです。神様が祝福してくだされば栄えるようになっているのです。自然にそうなるのです。夜でも仕事場に行ってみたくならなければいけません。また行くと家に帰りたくて…。

 ここにいる輩たちは水沢里の工場に行ってみただろうけれども、先生は水沢里の工場に一日に三回も行ったことがありました。そうすると人々は「ああ、先生はどうなっているのか分からないよ。昨日も来られたし、ついさっきも来られたのに、また何しに来られたんだ?」と、言うのです。このような心情を積み上げていけば、その心情に該当する相対的な物質を祝福してくれるのが原則なのです。(六七・一五七)

2 先生の仕事に対する姿勢

 先生はどんな仕事をするときにも疲れません。皆さんはどうですか? 一年くらい経つと疲れますか? どのくらい経つと疲れますか? 十年経つと疲れますか? 二十年経つと疲れますか? 何年くらい経つと疲れてしまいますか?(絶対に疲れません)。絶対? 本当ですか?(はい)。私は皆さんを信じられません。少しでも何かあると、どうのこうのと…。

 それを面白いと思わなくてはいけません。「私はこのために生まれたのだから、これが運命なのだ、運命! これを食べなければ生きられない」と、考えればいいのです。これが面白い仕事のなのだと、ここに面白さを発見して、ここに幸せを発見して、ここで浮かれるということを発見すればいいのです。

 先生は皆さんが生まれる前からこの仕事を始めたのです。ここにいる皆さんを見ると、だいたい三十代くらいだけれど…。私はたくさんの仕事をしてきたのです。そのときよりも、することがもっと多いと思っています。することがもっと多いのです。ですから、今日を自慢したい人ではありません。自慢することがあれば、明日の戦いのためにどのように投入するかを考えます。行く道が忙しいのです。先生を見ると疲れた感じですか? まだ疲れていないのです。行けば行くほどもっと刺激的で、もっと力がわくし、もっと素晴らしくなっているのです。そういうことを感じようとするのであって、疲れたの何だのと…。

 ですから、何であろうと生命を、首を懸けてやるのです。そのようにすると、成功するものなのです。やってみると、望まなくても成功するようになっているのです。神様がより愛する人には、「あいつはいつ死ぬか分からないから、早く成功させてあげないといけない」と、神様も同情するのです。もしもそうしてあげられずに死んで霊界に来れば、神様が悪いと思うじゃないですか? 父母はそうなのです。愛する子供が望むもの、必要なことをしてあげないと父母の恨みになります。同じなのです。

 神様はお父さんであり、自分は息子なのに、死ぬようなこと、とんでもないことをするというのです。やっても駄目なことなのに、命を懸けて「私はお母さん、お父さんのためにこれをする」と、自分が死ぬことも知らずにいるとすれば、父母はあらん限りの力を尽くして助けてあげたくないですか? 同じなのです。父母が子供よりも先に行って、このすべての責任を取ってあげるようになっているのです。そうするのではありませんか。自分のためにそうするのではいけませんが、父母のためにするのだから、父母は夜寝ることもできずにそれをしてあげるようになっているのです。神様のためという、父母のためという、その条件があるがゆえに…。父母は愛に弱いのです。子供に対する愛は…。父母は子供の前では強くなれるということを知るべきです。愛する心には…。

 ですから先生は何かを始めたとすると、ご飯を食べるのも忘れ、寝るのも忘れてそこに酔ってしまうのです。どのようにして陶酔してしまうのか、そればかりを考えて昼夜を忘れて仕事をしたりするのです。そうしてみると神様も…。万一先生が死んだらどうするのですか? 神様にも計算がすべてあるのです。ここに協力してくれるようになっているのです。(六六・三一八)

第五節 模範生活の実際

一 生活の模範

 生活するうえで、模範的でなければならないのです。

1 主食

 主食の問題について、最近見てみると料理を作るのも、ただたくさん作って捨ててしまう、これではいけません。分量に見合うだけの食べ物を作らなくてはいけません。二人いれば二人分に合うように作って、それを残さずに食べるだけきちんと準備しろということです。浪費するものが多いということです。

 また、いつでも食べているということです。できるだけ食事のときだけ食べて、それ以外は食べてはいけません。水などは仕方なく飲むのでしょう。私たちはそうしなくてはいけません。そうしてどうにかして節約して、外国を助け、隣人を助ける運動を生活化させなければならないということです。それが必要なのです。

2 副食

 主食の次は副食です。ここは主食が何ですか? 副食といえば何ですか? 韓国ではおかずになるのだけれど、ここは副食が何ですか? デザートも副食に入るし、果物も全部入るでしょう。全部入るのです。浪費になるものは使わないでおこうということです。このアメリカの人たちは、副食のようなものを買っておいて、いつでも冷蔵庫に入れて、パッと開いて…。だめなのです。間違いなくそれはいけません。食べるべきときに食べるのです、食べるべきときに。食べるべきとき以外に食べる習慣を捨てなければなりません。健康にも悪いのです。健康にも悪いです。

 そして私たち統一教会の教会員は、リンゴや何かを食べるとき、持って歩きながら道で食べるのを私は望みません。皆さん、獣たちも歩き回りながら食べたりはしません。一つの場所で食べてから行くでしょう。歩きながら食べる獣がどこにいますか? ましてや万物の霊長である人間が…。鷲が飛びながら食べますか? 鳥が飛びながら食べますか? これがアメリカ社会に来てみると、西欧社会に来てみると、人が多い所でも食べていたということです。東洋世界ではそうではありません。それではいけないのです。食べるべきときに食べるのです。さっと食べて、その次にはお腹が空いても食べないのです。このような訓練をするのが健康にも良く、長寿の秘訣なのです。

 朝においしく食べてお腹が空いたとき、お昼にもおいしく食べて、夜にもおいしく食べるべきなのであって、皆さんは、ひたすら二十四時間食べているから、おいしく食べるときがいつありますか? 何がそんなにおいしいのか、ということです。習慣的にそうなのです。それが良くないのです。それは健康にとても悪いのです。このようなことを私が教えてあげなければいけないのです。どういうことか分かりますか? 

 先生もですね、副食とか果物のようなものを持ってきても食べません。わざと食べないのです。皆しわしわなとき下げて、また持ってきておくのです。それでも見はするけれど食べません。私がそうしているのです。バナナは真っ黒になるから仕方なく下げるのです。そういうのを見るときは、ファンダレージングのメンバーたちのことを考えて、あのアフリカ人が飢えて死んでいくのを考えるのです。なのにどうしてこれをつまみ食いするか、ということです。そんなことを考えるのです。そのような生活が必要なのです。

 ご飯を食べるべきときに食べて、お腹がいっぱいで果物を食べたくなければ、持ってきたとしても食べてはいけません。次に食べればいいのです、次に。そして喉が渇いたとき、水も喉が渇いたとき飲むのです。ここの人たちはいつも人参茶だなんだといって、あれば入ってきてひたすら飲んでいるのです。すべてのものは水、水、水で補給して、絶えず飲んで小便をすると、また水を使うのです。ですからどれだけの国家的損害ですか? このようにして便所に行って、一日に何十回も水を流してしまうのです。これは国家的にどれほど損ですか。大変なことです。

 このようなことをいって気の毒だけれども、先生はできれば小便をしても水を流さないようにしています。二回三回してから水を流そうとしているということです。このように考えているのです。気の毒ですけれども。アフリカとか、あの可哀想な人たちを考えれば、アメリカ国民は一人でも節約して、一日に一ドルづつでも集めれば、二億四千ドルになります。大変なことです。何のことか分かりますか?

 それで私がお母様に小言を言われるときがあります。小便をしてなぜ水を流さないかというのです。一回して、もう一回して、二回してから流すのです。だからといって便所が悪くなるわけでもありません、小便器が。

 さあ、これを一日に三回だけでもするようになれば、何リットルになるか考えてみなさい。何倍かになると大変なのです。そのように考えるのです。おしっこをして水を流さなかったからといって、それを悪口言うのではなく、このように建設的に考えるべきです。朝にして夕方水を流しても大丈夫じゃないかと考えるのです。そのかわり、洗うのを何日かに一度もっと洗えばいいじゃないですか。このようになれば、アメリカの資源がどんなに節約できるでしょうか。貧しい国よりも、世界でも豊かな国がこのようなことを奨励すべき問題ではないかということです。

 だから先生は、毎日のようにお風呂に入ることに賛成しません。健康にも良くありません。三日に一回ということを原則とするのです。汗を流してどうしようもなくするのです。毎日お風呂に入ることがどんなに水をたくさん消耗するかということです。そうだからいいのか?

 良くはありません。健康にも悪いのです。「うっ! 先生は野蛮人だ」と、言うだろうけれど、野蛮人といっても良いのです。エデンの園の神様も、アダムもエバも野蛮人でした。昔に今みたいな便所がありましたか? 紙がありましたか? 何もなかったのです。ですからそのようなことは感謝して、すべてにそうでなければいけません。このようにしてでもこの世界を…。

 この考えが良いのです。このように考えることによって、皆さんが世界をいつでも考えることのできる人になるので、このような生活的なことを中心として、このような思想的な観念を持つことが絶対必要だということを知るべきです。分かりましたか? どうですか? 先生の言ったことが間違っていますか? それは受け入れられるほどのものですか? 受け入れられないほどのものですか? それが嫌ならやめなさい。嫌ならやめなさい。

 すべての面で模範でなければなりません。模範になるべきです。良く食べ、豊かな暮らしをするのは、絶対に模範ではありません。これを節制して必要適切に、避けられない必要適切な消耗をすることが模範的生活だということを知るべきです。

 先生は聖日には仕方なく、公式のときにはこのような正装をするけれども、できる限り服を着るときネクタイを締めずに過ごすのです。家にいるときにはできる限り上着を着ないで、セーターのようなものを簡単に着ようとしているのです。西欧社会でネクタイの値段がいくらするかを考えてみなさい。これ、ピンまで全部合わせるとどれほど…。

 さあ、それをしないで、ノー・タイ(Notie)で世界を考えながら一生を過ごした人と、ネクタイをして世界を考えることができずに生きた人が霊界に行くときは、だれが神様の前に近づくだろうか考えてみなさい。(ネクタイをしない人です)。分かることは分かるんだね。それが必要なのです。

 それで今先生は、古い靴を隠してしまったのを私がもう一度出して、はたいてまたはいてこのように…。だからといってレバレンド・ムーンは悪い、という人がいますか?

 統一教員が「ああ、それ先生が間違っている」というと、そいつらの統一教会は滅びるのです。どうですか? そう、先生の言うことは良いことですか、悪いことですか? 世界を考えつつ生きることが貴いことなのです。

 ですから主食副食は、ご飯を食べるとき、食事をするときにですね、しっかりとそのときだけ食べるのです。だからといって、いつも命令するのではありません。どうしてもそれが食べたいときには、食べることが罪だとはいいません。食べても良いけれど、できるだけそのようにするのが健康にも良く、また習慣になればとても楽なのです。

 皆さん、見てみなさい。断食をしてみると時間がどれほど長いか知れないでしょう? なぜそうなのかというと、三度の食事を食べるのに、たくさんの時間を取られていたということです。また精神的にですね、りんご一つ食べようと冷蔵庫を開けてのぞいてみたり、コーラを飲もうと行ったり来たりするその精神的消耗がどんなに多いでしょう。食事のときだけに食べる習慣が必要なのです。そうすれば病気にもならないで健康になるのです。

 男がそうなら女がそのように指導してあげて、健全な面に引っ張ってくるのです。女がそうなら男が指導して、健全な生活規範を立てるのが良いだろうということです。

3 飲料水

 その次は飲料水です、飲料水。世界で飲料水の種類が一番多い所がアメリカです。一日に何ビン飲むかというときに、それも決めておかなくてはいけません。できるだけ決めておかなくてはいけません。これからは飲料水を飲むときに、先生のみ言葉を一回聞いた人はですね、「一回世界を新しく考えて飲みなさい」。このように考えなくてはいけません。先生は水が一番好きです。水の味を知っているのです。水がとても良いのです。さあ、このようなことすべてできるだけ節約すべきです。

 ここ私のうちでも、そうでなくても問題が起こったのです。ただ全部飲料水を置いておくと、いつのまに持っていってしまうのか、これは朝でもそうだし、昼は除いてですね、いつもそうしているのです。それではいけません。暇だったら一日中ただ飲んで、また小便をしに一日中便所を行ったり来たりして、なぜそうなのかということです。なぜそうなのか? 考えるべき問題です。考えるべき問題だということです。考えなければいけない問題なのです。

 どのように考えますか? 考えるべき問題です。考えなくてもいい問題ですか? お金が流れていくと、絶えず考えなさい。そのように考える必要があるのです。このようなことを皆さんが考えるべきなのです。そうして世界を考えながら、後代を考えながら、未来を考えながら生きる人たちは、絶対に国が記憶し、世の中が自然と記憶し、天が記憶する人たちであって、すべて忘れられてしまう人たちではないということを知るべきです。

 そのような観点から見るときに、このようなことを知って、これを考えていこうという先生の指示は、正しい指示だということを知るべきです。ですから水が悪いのなら、水の代わりに良い飲料水を一つ選んで、それを飲めばいいのです。それは水の代わりに飲むのですね。

4 環境改善

 皆さんが住んでいる環境を改善しなければいけません、環境を。家の中と外を…。この頃だれかが、あれは何だ、イースト・ガーデン・ケイハウス(K・House)、橋の近くにある家に行ってみると、そこに入ってみたら、全部豚小屋みたいにして住んでいというのです。この野郎! 私が一回行って見なければと思うのです。

 きれいに整頓して、服を掛けるのもみんな原理的に掛けなければいけません。男の服は右側、女の服は左側。分かりましたか? 服を置くとしても、男の服は上に置いて、女の服は下に置いて、それが原理的です。全部にそのような訓練が必要なのです。皆さんはこういうことを初めて聞くでしょう? このようにしなくてはいけません。それでムーニーは違うのです。男の服をみんな下の引き出しに入れて、女の服だけを上に入れるようになったら、それは何ですか、それは? 原理に違反するのです。

 さあ、服を脱ぐときも、ズボンを先に脱いで上着を上に置くのであって、上着を先に置くのではありません。全部そのような訓練をしなければいけません。このような原理的な生活で、環境を整理することを知るべきです。男の靴は右側、女の靴は左側、また二間しかない家に住むときもですね、男の靴は上に、女の靴は下に、それを全部原理的に整理することを知らなければなりません。分かりましたか? 

 女性たちは服を着るとき、どんなものから先に着ますか? 上着を先に着ますか、下から先に着ますか?(上着からです)。女性は下から着るのが原則です。原理は下から着るのです。男性ももちろんそうですがね。けれども、男性は時々上着から着てもいいと思います。それが原理ですか、原理的ではありませんか?(原理的です)。そうなのです。皆さんはそういうことを全部知って、生活から整理しなければなりません。原理が生活哲学だということを知るべきです。

 ですからアメリカの食卓、西洋の食卓を先生はこのような観点からさっとみるのです。これ何、全部合いません、合わない。だからそういうことを考えて原理的な基準を中心として、主体と対象という概念を中心としていつも考えながら、皆さんがすべての宇宙の秩序に歩調を合わせることのできる生活様式を採らなくてはいけません。

 さあ、このように種類が二つあるときですね、どれを右側に置きますか? 二つある物を置くときは、主体、高い物を右側に置いて、安い物を左に置かなくてはいけなくて、その次に大小の物を置くときには、大きい物を右側に置いて、小さい物を左に置かなくてはいけません。それが原理です。それが訓練されるべきなのです。

 これをみるとき、センターには大きいものを置くべきであり、周囲に小さいものをいくつか置いて相対を…。それで美術がこのような基準ですべてのバランスを取らなくてはいけないのというのです。そのようになっているのです、すべての物が。ですから、木もセンター一つを高くすることによって、それが大きいもの、それ以外のたくさんの物がバランスを取るのです。すべての物がそのようになっているのです。そういうものを全部、自然法とともに適用することのできる思考方式を持つべきです。

 さあ、女たちは服を着るときにですね、濃い色を上に着て薄い色を下に着るでしょう。さあ、赤いのを上に着ませんか? それがすべての自然の道理なのです。そういうとき、この足はどうなりますか? 足はそこにまた相対的な関係を考えるのです。下に薄い色が来れば、足はもう少し濃くして、全部ハーモナイズ(Harmonize:調和する)するように考えなければなりません。だから芸術も発達するのです、芸術も。

5 住居生活問題

イ)電気

 電気です、電気。電気問題です。夜寝ていても、明かりをつけて寝ているというのです。そうではいけません。明かり無しでは寝られなくなってしまったら、全部真っ暗にしてでは寝られなくなってしまったら、仕方ありません。習慣が病的なものなら寝てはいけません。そのような人は夜寝ないで、昼に寝なさい、昼に。人は夜寝るようになっているのであって、昼に寝るというのはみんな病気です。

 住宅があれば、住んでいる家では電気管理を上手にしなければいけません。だから先生が出かけるときはですね、電気をさあっと見て、明るくついていれば行って消してから出かけるのです。そのような習慣を身に付けるのです、そういう習慣を。ここまで降りてきていても、思いついたら行って消してから降りてくるのです。そういうものが必要なのです。特に外出するときは絶対に必要です。絶対に必要なのです。そう、それが必要じゃないですか? アメリカの二億四千万がそうだったら、どれほどの消耗かということです。

ロ)水道

 アメリカの人たちはですね、顔を洗うとき水道を出しておいて、歯を磨いて顔を洗ってトイレを使って手を洗うときまでそのまま出しっぱなしの人が多いのです。ひげそりをするときも、サッと使って止めるのです。全部にそのような習慣が身に付かなければいけません。皆さんはどうですか? 皆さんがどれだけ浪費をしているかということです。生きるのに、どれだけ無駄な浪費をして生きているかを考えろというのです。

 私は最近ですね、便所に行っても水を使わないことをわざわざ訓練しているのです。使わないで出てくるのです。アフリカでは、洗う水がありますか? ウォッシング・ウォーター(Washingwater)があるのかというのです。アメリカで洗う水、ウォッシング・ウォーターを一年間使わずに、アフリカの人たちを助けてあげるならどれほど良いことでしょう。アメリカ人が洗わなかったからといって、それは神様の知ったことではありません。どうですか。私の手から糞の臭い匂いがして、糞がついていたとしてもそのようにしろというのです。私たち統一教会の教会員たちは、一日に便所に十回行きますか? 二時間に一回行くと、一二回も行くことになるね。水をどれくらい使っているだろう? バケツに一杯使うとしたらね。ではアメリカ人たちが一日だけ使わないとしたら二億四千万バケツなのです。二億四千万バケツです。それをお金にしたらいくらですか? 五〇セントとしてもいくらですか? 一〇セントずつ、一〇セントずつとしてもいくらかな?

 いくらですか? 一日に一〇分の一だね。一〇分の一だから二千四〇〇万ドルが出てきますね。じゃあ、一日に二千四〇〇ドルで一年だといくらですか? 一年だと? 一〇〇日ならいくらですか? 二〇億でしょう。六〇億に相当するお金を、世界のために助けてあげることができるのです。一年に六〇億というお金を世界に分けてあげたら…。この膨大な消耗を考えてみなさい。(一一七・一四九)

ハ)電話

 その次には何ですか? 電話です、電話。電話が来ると一日中ひっついて、一時間でも二時間でも…。ある日私がベルベディアに行ったとき、一月の電話料金が四八〇〇ドルでした。だから「だれが電話したんだ。すぐに処置しなくてはいけない」と叱ったら、それが一八〇〇ドルに下がりました。このように消耗が大きかったのです。無駄な電話はする必要がありません。どうですか? どのように考えますか? 毎日妻と夫が座って「アイ・ラブ・ユー、アイ・ラブ・ユー、今日はどう?」こうやって毎日しているでしょう? 朝にして、夕方にして、毎朝毎夕方…。それは必要ありません。「アイ・ラブ・ユー」は一カ月に一回でも十分です。一カ月の間、朝夕に「アイ・ラブ・ユー」といって変わっていくよりもよいというのです。いたずらに、アイ・ラブ・ユー、アイ・ラブ・ユー、即座的にそういっても意味がありません。一カ月の間に「アイ・ラブ・ユー」と一回言ったらどれほど深刻ですか。涙をポロポロこぼすほうがずっといいのです。

 どういうことが必要ですか? ご飯を食べながら、ただ「アイ・ラブ・ユー」という偽りの愛が必要ですか? 真実の愛が必要ですか?(真実なる愛です)。電話をかけないときには、一日に百回言ってもかまいません。大丈夫です。電話をかけて無駄な話をするのからそうなのです。それは考える必要があります。

ニ)家具

 ああ、この家具を見るとですね、管理さえ上手にすれば一年一二カ月でも何年おいてもきれいなのに、一カ月もしないうちに、一年もしないうちに、机もごつんごつんと使うと故障してしまいます。そういうものをみんな貴重に思わなくてはいけません。貴重なら愛することを知るべきです。家具のようなものでも一生の間管理してもきれいなのです。そうすべきではありませんか? こういう考えを持たなくてはいけません。家具を愛さなくてはいけないのです。

 家具もですね、一番初めに作られた状態から、傷をつけられたら気分がいいですか?

 皆さんもみんな年を取るのがいいですか? さあ、皆さんは年を取るのがいいですか? 老けてしわしわになるのがいいですか? しわしわになったらいいですか?

 ですから先生は、できるだけ一つの所に置いたら、そこに置いたまま使うのです。それがピシッとバランスを取っているため、移動するのが嫌なのです。女たちはこのようなものを好みません。扱ったり、持ち上げたり、割りもします。女たちは、全部ハーモナイズにしておいて、それを見ながら芸術品として鑑賞することを考えないのです。そういうことを考えないのです。全部おもちゃだと思うのです。そういう装置を一つの美術品と見ずに、おもちゃと見ます。おもちゃだと考えるでしょう? それは間違っています。どういうことか分かりましたか? どういうものが貴いものですか? そのような考えが必要なのです。それが必要なのです。

ホ)備品

 写真とか、何だ、アクセサリーのようなものですね。色々なおもちゃ全部…。女たちも良く見てみると、頭まですべてが備品です。このネックレスも備品だしね。これ全部備品です。写真のようなものも備品だし、全部…。それも必要なのです。動物のようなものも強い動物と弱い動物がいると、強い動物は上にいて弱い動物は下にいるでしょう? みんなそのように考えて、そのような構造に合わせることを知るべきです。さあ、高い物だけがそうなのではありません。自分の品物を見て自分がどんなタイプだとか、どういうタイプを作るのかということを全部サッと見たうえで、そのまま合わせなければいけません。その次にはすべての物を管理しなくてはいけません。

ヘ)美化

 美化を考えなければなりません。パッと座ってみたときにすべての物が一つになったと考えられて、すべての物が調和をなしてですね、「一つの芸術的な部屋だ」このように考え、「そのような中に私が住んでいる」。これが必要なのです。

6 衣類

 その次には着ることです、着ること。これが問題です。これが問題なのです。美しく着るのがいいですか、美しくないのがいいですか?(美しく着るのがいいです)。格好良く着るのがいいですか?

 さあ皆さん、「衣類」というときに、男のスーツのボタンが落ちてはいけません。落ちてはいけないのです、全部。曲がっていてはいけないのです。ある人は四つついていて、ある人は三つついていて、というのではいけません。絶対にいけません。そのときはボタンを一つ切ってでも、三つに合わせなくてはいけません。女たちはそれを知らないといけません。夫が服を着るときに、管理することを知らなければなりません。

 最近はですね、このアメリカでジーンズをはくけれども、全部このようにはかなくてはいけないのに、このように…。

 だれがそんなことをしたかというと、商売人たちが品物を売るために大きくしたり小さくしたり、長くしたり短くしたり、広くしたり狭くしたりするのです。それを知るべきです。流行ですね。商売人がすることを知らなくてはいけません。商売するそこにだまされるのです。流行というものにだまされて生きているのです。私たちムーニーは、ファッションを好むものではありません。中道を行くのです。世間の人たちは上がったり下がったりするけれども、私たちはそのまま行くから平均的に損をしないのです。他の人たちが煮たり焼いたりするのなら、私たちは少しだけして、ただだれかがカットをしたら髪を少しだけ手入れしたりするのが必要なのです。

 流行はだいたい三年すれば、また戻ってきます。何年か過ぎればそれがまた戻ってくるのです。ですから仕事もなくただ遊ぶ人は、そのように時間を過ごすけれども、私たちはいつそういうことができるかということです。ですから先生は服なんかを買うときには、できるだけセールシーズンに買うのです。サッと見て。アメリカの生活はですね、アメリカでは、お金のない人でも生活できるし、お金のある人でも生活できるし、お金のない人でも素晴らしく生活できる道がセール市場を利用することです。

 セールシーズンを利用すれば、いつでも流行の服を着ることができるということです。分かりましたか? 一年分だけ準備しておけば、夏が来れば春の服をセールで売るから、そのときは季節が過ぎてしまっていても、次に一年過ぎればいつでも春の服を着ることができます。安くですね。いつでも流行の服を着ているのです。何のことか分かりましたか? それはとても節約になります、節約。二年分を買っておいても、その季節の値段の三分の一で二年分を買っておくことができます。このようになるのです。一年分、普通の人の一年分で持って二年分を準備しても余るのです。

 私はこの前スーツをお母様と一緒に行って、セールで買ったのだけれども、六五〇ドルの物を一七〇ドルで買ってきました。イタリア製なのです。それを着ていくと、だれが見ても安物には見えません。分かりましたか? 二年分だけ持っていれば、どんなシーズンにも必要な服はすべて揃えて着れるし、一年の間に流行の季節に乗って買うその値段でもって、二年分準備しても余るのです。

 先生はこのニューヨーク地域の家具の商店、衣類の商店、品物の商店全部を良く知っています。私は物を安く買います。私は安く買う所を良く知っています。ですから「レバレンド・ムーンは安物ばかり買い歩く」と言うけれども、安くても格好良いものを買うのです、恰好良いの。

 あるときはお母様のコートを買ったのだけれども、それが四〇〇ドルから五〇〇ドルに近いものだったのが、セールで七〇何ドルでした。その服の襟が良いのです。その襟がとても良くてそれを買ってあげたのだけれども、初めはまあ悪く見えたのが、ずっと着てみるとだんだん良くなっていくのです。そういうものを選ぶべきです。四季の間いつでも嫌にならない物を、着るほどに良くなっていく物を選ぶべきなのです。そうして着始めると、いつでもそれを着て歩きます。とても楽で、何にでも合うからいつでも…。そのようなものが必要です。ネクタイのようなもの一つをとってみても春夏秋冬、一年中締められるネクタイを選ぶべきです。そうしなければなりません。それが必要なのです。

 私は服一つでも惜しむ人です。私はリンカーン・リムジンに乗って歩きながら、マクドナルドのハンバーガー屋さんを探す人です。なぜ? 私ゆえに死の道を走っている世界の若者たちがいるために。私が借りを作ってはいけないのです。借りを作ると滅びるのです。借りると滅びるのです。借りを作って責任者が巻き込まれないわけがないし、借りを作ってその国の主権者が巻き込まれないはずがないのです。このようなことを知っているので、借りを作らないために、必死の努力をしている人なのです。

 ですから、衛生国家の地下で活動している信徒たちが監獄につながれながらも、先生の言葉を聞いて死を誓い自決してでもその位置を死守するのです。このようなことを知っている私がどうやって…。私は食堂にもあまり入らない人です。

イ)服の着方、着用法

 さあ、服を着るときにはですね、相対的です。上着をですね、アメリカ式はどうやって着るのかといえば、アメリカの人はこうしてこうやって着ます。(動作をしながら語られる)それは大丈夫です。東洋式はどうするのかというと、韓国式はどうするのかというと、こう上から着ます。このように着るのです。(動作をしながら語られる)これが違うのです。西洋と韓国はこのように違うのです。

 皆さん、男たちがこのように着るのを見たことがないでしょう? このようにしてですね、こうして…。(動作をしながら語られる)アメリカの人たちは、下ろしてから上げて着るのです。これが違います。それはどのようにしてもかまいません。服を着るときに、皆さんは手の指を全部このようにしてこう着たら、ズボンはどうやってはきますか? ズボンをはくときは、右の方を最初に入れるのが相対的に合う、このように見るのです。上に着ようとするときは好きなように着てもいいのです。二つともこのようにして上から着ればです。相対的だから、これが上にあればどのように着てもいいのです。それがすべて原理的な生活です。(動作をしながら語られる)

 人が歩くとき、手がこのように相対的でしょう。そうじゃないですか? この手をまず離せば足をこのようにして、上からまず離すと…。(動作しながら語られる)どんなに忙しくても、いっぺんに二つの足両方とも離すことができますか? そういうときはいっぺんにいかないのです。そうやって整理しておくべきです、整理。整理をしておくべきなのです。習慣が結局…。

 皆さん、昔はですね、伝道する人が毎日のように靴下を履き替えることができますか? ただ、さっと脱いでさっさと始末しておくのです。そうしていると、この右足がこのように左足に行ってしまったら、気持ちが悪いのです。もう一度履くときに右足がこれで、左足がこれでという習慣を…。このようにしてさっとすれば、こうやって置くとか、こう置けばこのような状態なのです。そうすればどちらなのか分かります。履くときに右足に右の靴下を履けば習慣になるのです。そうなれば寝て起きて、それを拾って履けば良いのです、この習慣がピシッとすればですね。それが必要なのです。

 そして皆さんが外に出るときも、必ず右足から外出するのです。帰ってくるときは左側から来なければなりません。決めましょう。決めるのです。このようなことが必要なのです。これから全部原理的にそういう規範を作らなければなりません、規範。皆さんはそのように見ることを知らなければなりません。すべての物が一組になっていて、どのように調和しているのかを考えるべきです、上下のすべての物を。そうじゃないですか?

 この鳥たちも一組になっているけれど、すべての物が合わなければならないのです。だから皆さんが服を着るのも、服を着る礼法に合わせて着る習慣を身に着けなくてはいけません。だからといって皆さんにこうしろというわけではありません。皆さんが丸くなって、原理的な観ですべての物を処理できなければなりません。

ロ)服の形

 この西欧社会の服の形です。仕事をするときと、客としていくときと、遊ぶときと、違うのです。ですから社会の基準を中心としてそれを合わせなければ、失礼になって落伍者になるのです。

 さあ、ですから服の形をちゃんと整えなくてはいけません。ここの腕を出している女たちも自分で考えなくてはいけません。腕が細い女が腕を出すと、とても見苦しいのです。そういうときにはこのくらいだけ出しなさい、このくらいだけ。そうしないと後ろから見たとき見苦しいのです。そういうことを考えるべきです。また、あまりに太っている人は、長く見えるように着なければなりません。それは太った人も同じです。太った人もこれを皆隠しなさい。それを考えるべきです。その形が必要なのです。太っていて気持ち悪い顔をして…。

 形が必要なのです、形。太った人は形をどういうようにしなくてはいけないかというと、色の濃いものを着るべきなのです。薄いのを着るともっと太って見えます。そういうことを考えられなければなりません。形が必要だというのです。この太った人たちは、あの女性みたいにお腹がこのように出ていると、歩くにも大変です。そういうときにはどのようにカバーするかを考えるべきです。お腹が出ていたら、上が下より大きくてはいけません。ですからそういうことも考えて、できるだけ色の濃い服を着るべきなのです。

 またできるだけ、太った人は絶対に頭を大きくしてはいけません。頭を小さくして、靴を履くときもできるだけ小さく狭い物を、小さく見える物を履けというのです。これが頭も大きく、靴もこんなだったら熊みたいですよ、熊。事実ですよ。だけど、一つでもちょっと小さいという何かがあれば、他の人が見ても「ああ、それでも足は小さい」と、同情でもするのです。

 そういう人はですね、太った人はネックレスをするにしても大きくしてはいけません。できるだけ小さくて細いのをしなくてはいけません。イヤリングをするときも小さいのをするのです。大きいのはいけません。それを全部考えるべきです。こういうことは私が小言を言わなかったけれども…。ワシントン・タイムズをレイアウト(構成)するとき、全部私がしてあげました。それはすべて道理にかなっているのです。分かりましたか?

 そして太った女は歩くとき、こうやって歩いては愚鈍に見えます。だからできるだけ正しく歩かなくてはいけません、正しく。そうでないと愚鈍に見えます、愚鈍に。できるだけ足を小さく踏み出すのです。太った人はそうすべきです。それが必要なのです。形が必要であり、その次には何か?

ハ)端正

 端正でなければなりません。女たちがボタンのある服を着たときにはですね、一つ、二つ、三つとこうしてここまで下りてきてはいけません。開けるときにですね。必ずここまで。そうなのです。男たちもそうです。男たちもですね、大体ここまで普通ボタンが三つついています。三つついているのをそのまま開けておくと、評価は完全落第です。一つをちゃんとしめておいて、二つだけ開けておくと「ああ、あの人はこうだから二つだけにしたんだな」と言います。それはすでに見る人は、端正にするためにそうしたのだと見ますが、三つとも全部開けておくとそれは落第です。後々には整頓ができずに、すべての物がばらばらになってしまうのです。

 そしてあのシャツのようなものも、ここまで三つ全部開けておくとそれまでなのです。絶対落第なのです。それが必要なのです。また、女たちはきれいな服を着て座るときには、必ず整頓してちゃんと座るべきです。そういうものを端正にしなければなりません。端正にすべきなのです。

ニ)色の調和

 調和です。色が必要なのです、色。特に女たちは、色をうまく合わせなければなりません。女たちは調和が必要です。絶対必要なのです。

ホ)ネクタイ

 今朝は私はこれを締めたけれども、普通のときはネクタイを締めません。ネクタイを締めるのが嫌なのです。なぜ? 人類が死んでいくこのような実情を知っている私が、統一教会の教会員たちを指導する真ん中に立っている私が、そういうことはできないのです。さあ、皆さんはこのようなことを知るべきです。このようは話が、皆さんは分からなくてはいけません。実質的な問題です。一銭一銭集めていって、千年塔を積み上げて、後孫たちがそれを伝統として大切に受け継いで、自分の先祖たちの名前を誇らしげに詠むことができなければなりません。その姿が皆さんの将来に、希望の園の花になるという事実を忘れてはいけません。

 ここでは、ネクタイはいくらしますか? 一ついくらしますか? みんなそれを世界のために使えば…。

 私が南米にある国とアフリカにある国に行くときは、そのままで行くことはできないのです。準備をしてから行くのです。そうすれば通じるのです。

 男においてのネクタイ! ネクタイの締め方は色々あります。それは良いのだけれど、これがこのように広がってしまってはいけないのです、広がってしまっては。だから先生はいつもここにピンを差すのです、ピンを。それを固定しておくといつでも固定されるのです。一日中でもピシッと固定されます。ワイシャツに差すピンがあるのです。ピンで固定しておくと、ネクタイが行ったり来たりしないのです。

 ミスター・朴のネクタイピンが上がりすぎています。このくらい下げなければいけません。この線とこの線の間に来るようにしなければいけません。しかし、ここまで下げてしまうとどうですか? ここから見ても、人が見てもここにすれば自然に見えます。これが大体三分の一くらいです。これがあまり短くてもいけません。端がここまで来なくてはいけません。皆さんもこのようにすべきなのです。ネクタイの締め方が色々あるでしょう。見た目にも端正なのが…。自分たちが端正な品を持たなくてはならないのです。

 そして男が歩くときは、きちんと歩かなくてはいけません。先生は普通の人よりここが少し高いのです。これは刑務所生活をしたからそうなのです、刑務所生活。いつでも右手を上げるからこのようになったのです、これが。習慣になったのです。だからいつでもこれを考えなければなりません。どこかに行くときは、自分がきちんとコントロールしなければならないのです。この人(通訳者に向かって)もそうなのです。下半身が下がってしまっているけど。下がってしまわないで…。自分の欠点を知るべきなのです、全部。

 男がそうするのは、宇宙を代表して運動するのと同じことです。さらには、自分の奥さんを探しに行くときにはどうやって行っても良いけれども、自分の父母やあるいは地位の高い人を訪ねるときは、全部それを整えなければなりません。

ヘ)靴

 その次には男でも女でも、靴が必要です、靴が。靴が必要なのです。どんな靴が良く合うかということです。服によって全部合わせて履くのです。大体靴は脱いで入るんですね。ここでは履いたままだけれども。東洋では靴を脱いで入ります。ですからその人をなんで評価するか。この靴を見て評価するのです。足がどれくらい大きいか、ということです。体があれくらい大きいから普通のサイズよりこのくらい大きいだろう、普通のサイズより大きいとき、これは泥棒の足、そのように評価するのです。

 靴をサッと裏返してみて、どのくらい長く履いたのかを見て、この人はどんな行動をするのか、どんな歩き方をするのか、という性禀まで知ることができるのです。ある人はこのように歩いて、このようにすり減っている、というのを見てみんな分かるのです。これを見ては「この人は教育を受けなかった人だ」と、すぐに評価するのです。だから靴がすり減ったとしても、両方同じようにすり減らなくてはいけません。

 ですから歩き方を、靴を見て色々なことを評価するのです。そう、東洋の人はサッと見るだけで、どのように靴を履いたかすぐに見て取るのです、どのように履いていたかを。足に対する関心が多いのです、足。足がどのような形をしているのか、結婚するとき、手と足をまず見ます。顔、手、足を見るのです。ここ西洋ではみんな胸を出しているから分かるけれども、韓国はみんな隠していて分かりません。お尻も分からないし。ですから手と足を見て評価するのです。表われている目、鼻、耳、口、手、足を見て、その次に話しながら笑う表情を見てみんな判断するのです。

 ですから中国などで、足を小さくするのはそういう意味からです。そうじゃないですか? だから足が小さければ貴族と考えるのです。このように小さくなければなりません。手が小くて足が小さければ高貴な人、高貴な人とそういうのです。先生のような人は足が小さくないですか? 足が小さいのです。体が大きいのに反比例して足がとても小さいのです。手も小さいのです。そのかわり分厚いのです。そういうのを見て、もうすぐに判断することができるのです。皆さんそれは知らないでしょう。

 ですから、女はこういうのが理想的で、男はこういうのが理想的だ、というのを平均的に見るときに、そのようなタイプをさっとつかむことができるのです。東洋思想は子供を産めなければいけないのです。すでに子供を良く産めるだろうというのは、すぐに分かるのです。

 さあ、こういうことを見るときに、靴はきちんと履かなくてはいけません。しかも女たちも西洋のハイヒールのようなものを見て「あれはなぜハイヒールを履いているのだろう?」と言うとき、きちんと歩こうとしているのだろう、と考えるのです。女たちも歩くときはきちんと歩かなくてはいけません。放心していて、ちょっとでもこうなったら大変です。いつでも、一歩でも気をつけなければいけません。だからハイヒールを履いている女は浮気ができないと見るのだけれど、これはおかしいと私は思います。反対です、反対。さあ、靴をきれいに履けるようにしなければいけません。靴を愛さなくてはいけません。

ト)整理整頓

 いつでもそれと分かるように置いておかなくてはいけません。仁進がですね、みんな見てみると本当に感心します。整頓がきちんとしているのです。ベットまできちんとしているから、そこに上がって寝たくないので他の所へ行って寝るのです、他の所へ行って。私はそれを見て「やあ、女はそういう何かがないといけない」と思うのです。皆さんもそうでしょう。自分が手入れした物を、美しく尊敬できなくてはいけません。皆さんもそうなのです。あるときに行ってみると、自分の妹の部屋で寝ていたり、そうしているのです。

 そういうのは昔お父様がそうでした。机をきれいに片付けておくのです。一カ月過ぎてもだれかが触るとすぐに分かるのです。最近はお母様と住みながらそのような習慣を少し広げたけれども。そのような整備が必要です。いつでもそれを考えるべきです。ですから女の部屋、特別に自分でこのようにして入ってみても…。それではいけないのです。

 この頃はこの外国の女たちがどのようにして住んでいるのかというと…。このようなことをすべて教育しなければなりません。分かりましたか、この責任者たち? そう、私は「あの日本が祝福を受けるのか?」と言うけれど、環境をきれいにして整理するのが上手だったからです。悪い霊人は悪いことをさせて、良い霊人たちは整備をきれいにして神聖にしろというのです。ですから、良い霊人たちがたくさん来て助けてくれるから、日本があのように早く発展したのではないか、と見るのです。

7 保管

 どれだけ長く保管するか、ということです。それが必要なのです。

8 体の端正と品行

イ)頭

 男も女のように頭をきちんとしなければいけません、頭。化粧をするのもそうだし、頭も自分が見て分け目を左にするのか、右にするのかを知るべきです。西洋もそうだし、東洋もそうだし、みんなこのように分けます。西洋風ですが、だいたい左側を分けます。左の分け目がいいのです。右側を大きくするのがいいのです。これをさらに女たちが良く考えなければなりません。

ロ)顔

 顔はあるがままですが、その表情をどうするか? これは全部皆さんが習慣的に調整すべきです。

 もし、歯並びが悪くて内側に引っ込んでる人なら、このように「ク」と言うときに、できるだけ笑うなというのです。そのようなことを全部考えるべきです。それはなぜか? 女がそうならば毒蛇、毒蛇の歯のように見えるのです。ですからそういう女たちは絶対に口を開けて笑ってはいけません。口を開けて噛まれたら大変です。毒がきついのです。女がそうだと、とても毒々しいのです。ですからそれが分かったときにはできるだけ口を開けないで笑いなさい。

 また、歯がこのように出ている人はたくさん話すのです。たくさん話すのです。いつでも唇が開いていてたくさん話すから、いつでも開いたり閉じたりしているのです。ワワワ、というときにはできるだけ口を閉じる訓練をすべきです。それが必要なのです。自分の体の管理ができなければなりません。みんな、うまくしなければなりません。

 笑うなら笑うで、ある人はこのように笑います。またある人は笑うときにですね、口をすぼめて笑う人がいて、すぼめて開いてから笑う人がいます。いろんな種類です。ある人はこうやって笑って、色々と…。じっくり見てみなさい。これはみんな違うのです。自分の顔を見て、品のある笑い方を研究しなさいというのです。

 女は「ハハハ」と笑ってはいけません。女は花です、花。花が咲くときには音もなく咲くのであって、「パッ」と咲きますか? そよそよと咲くでしょう? そういう女が美しいのであって、「ハハハ」ではありません。ここ西洋の人たちは「ホホホ」と言うけれども、なぜそうなのですか? 男ならまだしも、女だとみっともないのです。絶対に、みっともないのです。それは本当にみっともないのです。いくら西洋の女といっても私たちムーニーはそうしないでください。

 さあ、そういう訓練をすれば、パッと見ればそれがどういう種類の人なのか、教養がある人なのかない人なのかすぐに分かるのです。そういう観点から見ると、お母様はそういう人です。お母様に対して、先生はそういう小言をたくさん言いました。皆さんのような西洋の女だったら「ヒュー、何をいっているんだ。男だから何なのさ。私は私のしたいようにする」と言ったでしょう。お母様がそうしていたら、今東洋の代表的象徴にはなれなかったのです。そう、先生は面白いでしょう。先生はとっても面白い人です。

ハ)手の爪と足の爪

 私が西洋に来て一番恐いのが、女が前に行くことです。爪を見るだけで危なっかしいのです。先生の爪はいつもこのように短いでしょう。これが必要なのです。ちょっと伸びても手の爪足の爪、全部切ってしまうのです。手足の爪を切るのが趣味なのです、趣味。手の爪を伸ばしている女は、働かないという女です。そうでしょう? ああ、それでタイプを打つときどのように打つのでしょう? 私はそれを見るとき道端にいる女だと考えるのです。お金をあげれば爪でもって「ヒュッ」と金をくれ、と…。私はそのように考えます。

 それはなぜ? 仕事をする女にとって、どうしてそれが必要なのですか? またそれを伸ばすのに、どれほど時間がかかるかということです。私たちにはそのようなものは必要ありません。一回もやったことがなくて恨みになってしまうというなら、一、二回やってみても良いけれど、私はそれを望みません。愛する妻が手を伸ばしても、どうやってそれをつかむのかというのです。どういうことか分かりましたか? ですから手足の爪を切ることが重要なのです。また、女が靴下を脱ぐときに、足の爪がこのように長く伸びていてはいけないのです。この西洋の女たちが伸ばしたら、足の爪が痛くてだめですね。ハイヒールを履くとき痛いでしょう。

ニ)歩く姿勢

 先ほども話したように、端正に歩くべきです。それが必要なのです。立って歩く姿勢の均整が取れていなくてはいけないのです。立って歩くときバランスが取れているかということを常に考えなければなりません。安全に歩かなくてはいけません。ある人を見るとこのように歩いて、あのように歩いて…。立っているときバランスが取れていないといけません。サッと立ったときバランスが取れていないといけないのです。そのようなことが必要なのです。

 女がですね、腰が曲がってしまっては良くありません。男もそうですけれどね。ベッドで生活する女たちを見るとですね、胸がこのようになっているけれど、これはいけません。だから頭から正しく立てなくてはなりません。座るときも常に正しく座る練習をすべきです、男たちがです。また女も、座るときはお尻を打ち込むようにして座らなくてはいけません。そうすれば自然に慣れてくるのです。これができなくなればみんな腰が曲がってしまうのです。歩く姿勢が重要なのです、歩く姿勢。これが重要なのです。

ホ)座る姿勢

 女がどこかに行って座るとき…。ここでは椅子に座るでしょう。東洋では女は絶対によりかかって座れません。男はそれが許されるのです。なぜならば、女はお尻が大きくて、座ると自然に楽になるのです。男はお尻が小さくて、胃が大きいから、このように…。ですから座るとき、特に女がよりかかって座ると赤ちゃんに支障があるのです。妊娠すると大変なのです。

ヘ)言葉

 東洋では、女の声が塀を越えていったら、その家は滅びるといいます。男がわんわんいうと自然に塀を越えていくようになっています。女は声が小さいのです。妻は小さいのです。本来そうなっているのです。ですから塀を越えてしまうと原則と食い違ってしまうので、その女と一緒に住んでいると滅びるということです。またすでに女が話している声を聞けば、すぐに分かるのです。あの人はどのように生きるだろう、つらく生きるだろう、幸福に生きるだろう、愛を受けて生きるだろう、それが分かるのです。ですから女の声は重要なのです。そういうことを考えてもみなかったでしょう?

ト)寝ること

 ここ西洋では、寝るマナーはどうなっていますか? うつ伏せで寝ますか?(横を向いて寝ます)。寝ること、寝るときどのように寝るかという問題を考えなくてはいけません。ぐっすり眠らなくてはいけません。眠りは安らかであるべきです。

 いびきをかくのもですね、体格の大きい男がいびきをかくのであって、女がいびきをかいてはいけません。女はすやすやと小さくしなければいけません。女がいびきをかくと困るのです。そのようなとき、首を下げるほど音がもっと大きくなるのです。そうじゃないですか? ですからできるだけ、枕をこのように当てるのです。それが必要なのです。

 女がですね、夫が寝ている所に入るとき、入ってくるなりこのようにしてはいけません。横にさっと入らなければなりません。横に入ってですね、皆さんの夫が先に寝ているのに、女がワッと入っていったら大変だというのです。そうっと横に…。それが必要なのです。

チ)健康

 健康が第一です、健康が。どんなに具合の悪いところがあっても、風邪をひいても、健康な気持ちで…。自分の表情を見ても他の人が何も気付かないようにすることが大切です。健康な表情。何のことか分かりますか。少し風邪を引いただけで具合の悪そうな表情をして、ちょっと悪いぐらいでそういう表情をするなというのです。健康な表情で…。特に女たちがそうであれば、そういう女とともに暮らす男はおおいに慰められるのです。男が心配そうにしても、なぜそういうのですか、といいながら反対に慰めてあげることのできる健康な表情が常に必要なのです。

二 教会生活

1 祈祷の生活

 祈祷の生活が必要です。祈祷生活が必要だというのです。私たちの信仰生活は副業ではないのです。本業だということを知らなくてはいけません。

2 集会

 集会に参加することは絶対に必要です。なぜならば、水でいえば水平を、常にバランスをとるためです。水平を保つことは絶対に重要なのです。ですから、集会には絶対参加しなければいけません。

3 常に学びなさい

 常に学ばなくてはなりません。霊的に学ばなくてはいけないし、その次には教育と知識が絶対に必要なのです。知らない、というのはいけません。特に信仰生活をしている人は、霊的な知識と肉的な知識がどれだけ詰まっているかということを、いつも鑑定すべきです。ここでは霊的な知識が常に先立たねばならないということを知るべきです。

 また、信仰生活をすると、夢による啓示や、暗示、啓示が与えられるのです。これを知るべきです。これがいかにして自分と関係を結び、これらの夢や幻想がどのような影響を与えたのか、すべて統計的に選び、自分が見た統計に合うものによって、全部習得していかなければなりません。それは人によって違うのです。

4 伝道

 伝道です。伝道は必ずすべきです。子供を産んで育てない人は、円満になることができません。伝道をたくさんして、多くの人を扱ってみると、円満になれるのです。そして伝道すると、霊界がたくさん協助してくれるのです。そして、ある人に対して自分が精誠を尽くせば、その人の性禀が一〇〇パーセント分かるのです。

 そういう人を数十名ずっと育ててみれば、人は似たり寄ったりだから、どんな人でもすぐに分かるのです。人を完全に知ることができるようになるのです。何のことか分かりましたか? さっと見るだけで分かるのです。あの人は自分が伝道しようとしている人だけれども、どのくらい時間が必要なのかということを鑑定できるのです。ですからイエス様のような御方も、独特な十二弟子を選んだのです。伝道を十二名以上してみると、ぼんやりと分かってきます。育ててみるとです。それは絶対必要です。絶対に必要なのです。

5 奉仕

 為に生きる人、愛して為に生きるのです。

6 蕩減の道を行くべきである

 蕩減の道を行くべきなのです。すべて特別に定めた祈祷とか、いつも一年に数回ずつ、自分自身の蕩減路程を行くべき期間をおいて、特別祈祷をしなければなりません。特別祈祷、それをしてみなければなりません。それをやってみると、皆さんにどんなことが起こるのでしょうか? 信仰者がそうすることによって、悲しいことや困難なことが来るのが自然に蕩減されてしまうのです。ですから共同生活をするとき、自分が先に他の人の責任分担を背負ってすることが、どれだけ貴いか分かりません。

7 和睦

 その次にはいつも和睦しなければなりません。教会に行っても、気になることがあればいくらでも自分が責任をもつべきです。教会のすべてのこと、教会生活において様々な食口たちに困難があれば、自分が責任をもってここを和やかにしなければいけない、それが絶対に必要です。聖書にもあるでしょう? 和やかにする者が神の息子になる、とあるでしょう? サタンはその反対です。サタンはその反対なのです。

8 体験生活

 体験が必要です。体験が必要なのです。神秘的な体験、霊的な体験が必要なのです。どうですか、皆さん。祈祷の中で先生を見て、幻想の中で先生を見て、夢の中で先生を見る現象が何度も起こらなければいけません。それも短いのではなく、ずうっと霊的世界に入っていって、楽園にも行ってみる現象が起こるのです。そのような体験が必要なのです。

 そのためには常に縱的な考え方をしなければなりません。縱的な考え方をすべきなのです、常に。皆さんがそのように考えれば、これから何かをしようとするとき、すでに良くないということがサッと分かるのです。何の話しか分かりましたか? それを選り分けて行かなければならないのです。そのような体験が必要です。

9 霊界と現実

 それは何かというと、霊界においてなされることは、現実に現れるのです。これを常に体験しなければなりません。自分の一生においてもそうですし、社会においてもそうですし、そのすべてを感知しなければなりません。信仰生活が深くなれば、その範囲がどんどん広く感じられるのです。ですから時に神様が悲しまれる境地に入るようになると、自分でも知らないうちにその悲しみが自然に体恤されるようになるのです、現実において。ですから現実は共鳴体ということです。

三 対社会生活

 私たちは対社会生活をしなければなりません。

1 時間

 私たちは時間圏内に生きています。時間観念を徹底しなければいけません。時間生活、約束を守るとか、会社の時間を守るとか、学校の時間を守るとか、このようなことをすべて徹底しなければならないのです。

2 尊敬と交流

 会う人すべてを尊敬でき、その次には交流できなければなりません。交流すべきです。何かしら良い交流をすべきなのです。いつもそういう観念が必要なのです。「他の人から尊敬されなくては」、それは実に良くありません。二人の間で先に尊敬した人が支配するのです。

3 外交と発展

 これは自分が出世するためには必ず必要です。そうしようと思うなら、名節や誕生日などのすべてをきちんと合わせなければいけません。会社の責任を持った人は皆、外交的な舞台に拡大できなければなりません。外交とは何かというと、あの人の側にあるものを、自分に順応できるようにすることです。そこには言葉と正常的な表示が伴うのです。

4 職業と姿勢

 仕事をする者の責任として、態度が悪い人は絶対にいけません。職業とは第二の自分です。職業を持って働くということは、第二の自分を作ることなので、態度の良し悪しによってその日の生産のすべて、働いた実績すべてが左右されることを知るべきです。絶対に良い態度が必要です。

 その職業で生きている人のように考えれば、自分の態度が良くないと職業に対して失礼であり、借りを作るのだと考えるべきです。職業は神聖なものだ、このように思いなさい。自分の第二の生命であり、それ自体が自分の延長を表わすのです。

5 主従関係

 どの時代もこの社会には主従関係があります。さあ、そこにだれが影響を与えるのかが問題でしょう。社長が社員に影響を与える立場なら、良い社長になるのであり、社員が社長に影響を与えるなら、良い社員になるのです。それを知るべきです。主従関係を円満にしていかなければなりません。不平は必要ないのです。

6 職場と私

 すでに私たちの職場が会社なら、会社と自分の利点が介在するのです。会社に借りを創る者が多いのです。絶対に会社に借りを作る人になってはいけないのです。損害を与えるだけなら、それは除去されるのです。除去されるようになっているのです。その次には国家と連結させて、国家の利益も考えなくてはならないということです。

7 話すこと、行い

 これらすべてにおいて端正であるべきです。言行心事、話して、行なって、考えて、事をなすにおいて端正であるべきなのです。模範になるべきなのです。なぜ? そうすることによって、このすべての環境に適応できるようになるということを知らなければなりません。

 さあ、私たちはどちらにしても、自分一人で生きていくのにこのような過程を経なければならず、自分自身の生活と、教会生活と、社会生活を貴重に思うべきなのでこのような内容を伝えるのです。なぜならば、これからは昔と違うからです。時代が変わったのです。そのようなことすべてを整える時が来たのです。分かりましたか?

 では、今日指示したすべてのことを参考にしながら、これからは実績をどのように表わすかということに主力を注ぐべきです。今までは蕩減実績としてたくさん消耗してしまいましたが、これからは皆さんの利益となる実績を残せる時代に入っていくことを知るべきです。今までは、サタンがしきりに崩していましたが、これからは皆さんの所有権が拡大するときであるからには、このような考えを持ってあらん限りの精誠を尽くして努力しなければなりません。

 さあ、そして昔はムーニーに関心がなかった人たちも、関心を持つようになってくるので、皆さんに対してあらゆる人の注目が集まります。ですからこのような全体的な内容を整えて模範にならなければなりません。それによって皆さん全体が神様の前に真の誇りを受けられるようになるのです。そうなるように先生が指示するのです。(一三一・二八五)

人の生涯 終り  2004.02.01 裏道


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