1. はじめに
人類の真の父母であられる文鮮明先生は、神様から人類救援の天命を受け、神様の真の愛の理想を完成されるため、天道を明らかにした多くのみ言を語られました。
神様のみ旨を中心とした全体摂理内容を明らかにされた真の御父母様は、み言を通して神様の心情を初めて教えられ、神様と人間が父子関係であるという事実を明確に説明されました。また、人類が実践すべき真の愛の実践原理を究明されました。
この本に選定された七十二の題目のみ言は、様々な人々に天道を教え、また生きていらっしゃる神様を理解させるだけでなく、人生の根本道理を悟らせる生命のメッセージです。
真のお父様自ら命名された『訓教経』という題目からよく分かるように、これは人類を訓導し、教育する根本の教えとなる貴いみ言です。
人類に必要なものは、本然の心情の深いところから生命力を誘発させ、根本的な人格変化を起こす神様から来るみ言です。
私たちすべてがこの『訓教経』を一生懸命訓読し、新しい生と愛の人格を培っていかなければなりません。それと同時に私たちは、大小様々な集会において、要約整理された真のお父様のみ言を選択して、聴衆に簡単に伝えることができるようになりました。
このみ言を通して、本然の心情人格体として完成していき、また、このみ言による講演などを通じて、この世のすべての人々が真の御父母様の尊さを悟るだろうと確信しながら序文に代えさせていただきます。
一九九九年四月十六日 第四十回「真の父母の日」に
2. 日本語版発刊によせて
一九九七年十月十三日に真の御父母様によって制定された「訓読会」も、真の御父母様御自身よる「訓読大会」、「訓読ツアー」から、「世界平和超宗教超国家連合」の「国際訓読セミナー」へと拡大、発展し、世界的な伝統として定着しつつあります。
私たちにとって、み言は生命の源泉です。原理は、人間は神霊と真理によって神様へと復帰されていくと語っています。私たちは、今真の御父母様により多くのみ言、すなわち真理を与えられています。これを、目、耳、口を使って訓読することによって、真理のみならず、自分の声に感動を受け、様々な霊的な恩恵を受ける神霊の役事が起こります。この感動体験こそ、私たちの心霊を高め、希望に満たしてくれる源泉になるのです。
「訓読会」はこの感動の輪を広げていくものであり、これを数人、あるいは数十人、あるいは数百人で行い、参加した人が受けた恵みを集めれば、より高く、より公的な神の願いも明確になってくることでしょう
熱心に訓読し、感動するみ言を心に蓄積し、それを実践することによりみ言を人格化すれば、そのみ言が自然と私たちの周辺に広がっていくことでしょう。そのような「訓読会」の伝統と恵みを与えてくださった天と真の御父母様に、心から感謝するものです。
本書は、膨大な「文鮮明先生のみ言選集」三百巻の中から、特に重要だと思われる七十二のみ言を集めたもので、集会などに用いやすいように、適度な長さに要約されています。
このたび、本書が日本語に翻訳され出版されるようになり感謝に堪えません。そして、この恵みに、より多くの人が浴することができるよう願ってやみません。
二〇〇〇年十一月
3. 強く雄々しくあって、失った福地を回復しよう
一九五七年六月二十三日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二巻』
きょう、皆さんと共に考えたいみ言の題目は、「強く雄々しくあって、失った福地を回復しよう」です。
◆人間堕落の結果と復帰摂理の目的
神様の創造された園は、それ自体が福地であり、人間が永遠に楽しむことができる美の園であると同時に、永遠の幸福を享受できる園でした。ところが、人間が神様の定めた天倫の法度を破ったために、人間は怨恨が残されたままになり、彼らの当然住むべきだった福地は、「希望の福地」と化してしまいました。
神様が被造世界を創造なさったとするならば、そこには創造理想があったでしょうし、その理想が現実に実現したとするならば、創造主はもちろん、すべての被造物までも喜びの園で楽しさを謳歌できたでしょうし、また人間も自分たちの喜びを感謝できたはずです。
ところが、人間が堕落したために、この喜びのすべてが人間とは何らの関係もなくなってしまいました。そればかりでなく、神様と人間の前に美の象徴であった万物までも、今日まで怨恨の思いに満ちたまま、長い歴史路程を経ても、神様に感謝と栄光を帰すことができずにいるのです。
神様には万物を創造なさった目的があり、その目的を成就すべき責任があるのですから、神様はそのみ旨を必ず成就しなければなりません。そうでなければ、神様の創造理想や復帰摂理歴史の目的も、喜びの世界を紹介するみ旨として現れることができないのです。この地に生きる万民も、生きる価値を感じることができず、全宇宙も存在価値を感じることができないのです。
ですから神様は、創造目的を必ずや成就するために、長い歴史路程を経ながら、人間をしてこの目的を帰一せしめようと摂理してこられました。これが、六千年の果てしなく長い摂理歴史だったのです。
アダムとエバが堕落するや否や、神様はアダムとエバを造ったことを後悔して嘆かれました。このように神様の嘆きは、あなた方の先祖によって始まったという事実を痛切に感じなければなりません。
神様が嘆いていらっしゃるので、神様によって創造された全被造物も喜ぼうとしても喜ぶことができません。創造の中心が悲しんでいらっしゃるために、すべての被造物も悲しまずにはいられないのです。
それでは、み旨を起こして、万民を通してそのみ旨が成就されることを願う神様が摂理する、その目的とは何でしょうか。独り悲しみ、嘆いていらっしゃる御自身の、その悲しみと嘆きを取り除いてくれる人を探すことです。これが復帰摂理の帰一点なのです。
神様の嘆きを解怨してさしあげることのできる一人の人物、言い換えれば、六千年の果てしなく長い歳月の間神様を嘆かせてきた、人間始祖から始まる人類の罪悪歴史を食い止め、それを清算して神様の嘆きを取り除くことのできる、その一人の人物を探してきたのです。このように歴史を代表した本然の一人の人物を探し出すことが、復帰摂理の目的であるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。
皆さんが神様の前に立つとき、贖罪の恵みにあずかりたい心をもつことも必要です。あるいは、家庭と民族と世界の問題をめぐって贖罪の恵みを求めることも必要でしょう。しかし私たちは、自分の悲しみと嘆きを「解怨してください」とすがって哀願する段階を越え、神様の胸中に深くしみ込んだ、創造ののちに人間の過ちによって抱かされた怨恨を、解いてさしあげたいという訴えが必要であることを知らなければなりません。
私たちをして希望の園、福地を欽慕せしめ、その園に入って、被造物の代表として父に栄光を帰すことのできる人物とは、どのような人物でしょうか。その人物は、人間が神様に対して犯したすべての犯罪を蕩減するために、悔い改めの祭物になろうと勇み立つことのできる人物であるはずです。
さらには、その人物は、今まで人間の犯したすべての歴史的犯罪を蕩減しようとして苦労した歴史的な聖徒たちの罪にまで責任をもち、「お父様、語ることのできなかった、あなたの希望と嘆きのすべてを私にお任せください。私がお父様の望みをかなえ、あなたの嘆きを解怨いたします」と言うことのできる人物であるはずです。
神様はこのように、本来、神様の喜びと理想と栄光の実体であった人類始祖、そのアダムの代身者たる存在が地上に現れるのを望んでいらっしゃることを知らなければなりません。
私たちは、罪悪の歴史から抜け出さなければならない運命に置かれています。それゆえ、あらゆる罪悪と嘆きの要素を清算し、神様に向かって「これをもってして、あなたの抱いてこられたすべての怨恨を解いてください。きょう、これ以降は、お喜びくださいませ」と言うことのできる息子、娘、歴史上になかった「生きた祭物」となり得る息子、娘の現れることを望みながら、神様は今まで復帰摂理歴史を導いてこられたのです。
◆中心人物を立てた目的と彼らの過ち
神様の復帰摂理歴史を回顧してみるとき、神様はアダムが堕落して以来、千六百年という長い歳月を経て、ノア一人を立てられました。神様はこのノアを立てることによって、ノアとその家庭を救おうとされ、さらにはノアをして人類を代表する祭司長の立場に立てようとなさったのです。これが、神様のみ旨でした。
しかし、ノアの家庭は失敗してしまいました。しかし、もしもノアが、千六百年間自分を立てるために苦労された神様の御苦労を知り、神様の悲しみを感じていたとするなら、そしてノア家庭の八人家族がそのような神様の御心情を感じていたとするなら、彼らにはハムの失敗による怨恨は残らなかったことでしょう。
個人の嘆きと苦痛から解放されるだけで救いが完成されると思っている人々がいますが、そうではないのです。私たちは個人の罪を悔い改めると同時に、宇宙的な罪悪史を清算しなければなりません。そして、サタンによって神様の胸の奥に打ち込まれた嘆きのくぎを抜き取ったあとで、「お父様、御安心ください。今日まで復帰摂理を導いてこられた神様、あなたの怨恨をお解きくださいませ。ハレルヤ! アーメン」と言うことができなければなりません。神様はこのような勝利者が地上に現れることを、モーセ以降今日まで願っていらっしゃるのです。
ノアの家族は、洪水審判で贖罪されたので感謝の生活をしなければならなかったのですが、習慣的な生活を繰り返しました。ですから、天倫に対して立ち上がった私たちも同様に、こういう過ちを犯しやすいのですが、私たちは自らの習慣的生活を繰り返す人になってはいけません。
自分と家族を救ってくださった神様に、いつも新たに接するノアとなり、全人類がそのような心をもつようになる日を願いながら、父の心情を直視して立ち上がったノアになっていたなら、また神様の前に絶対的信仰を立てるノアの家庭になっていたなら、第二の堕落を成立させるような過ちは犯さなかったことでしょう。
神様はノア家庭が失敗して以来、四百年ぶりにアブラハムを選ばれましたが、アブラハムもまた過ちを犯しました。そのため、イサクを通した祭物の条件を経てヤコブの代になり、ようやく祝福を成し遂げることのできるヤコブの二十一年路程が始まるようになったのです。
皆さん! 二十一年間も人知れず悲しい心情を抱いたまま、ハランの地で羊を追いながら作男暮らしをしていたヤコブの事情を推測してみてください。神様がヤコブを召命した目的は、アブラハムに祝福なさったみ旨をヤコブを通して成就させることでしたが、さらには、神様と人間の間に立ちふさがった嘆きと怨恨を、解怨させるためでした。このことを、選ばれた人間たちは知らなかったのです。
ハランで二十一年路程を終えて帰ってくることにより、ヤコブは一代復帰の基準を立て、その基準で神様の内的心情を解怨できる勝利の土台を整えました。しかし、アブラハムが失敗した条件によって、ヤコブの後孫たちは四百年間エジプトで苦役に遭うようになったのです。
◆モーセとイエス様の使命とユダヤ民族の不信
私たちは、神様が摂理のみ旨を立てられ、二千年の間ありとあらゆる苦労を通過しながら探し出した一人の人物がヤコブであった、ということを知らなければなりません。ヤコブ以降四百年の歴史路程を経て、神様は、ヤコブの立てた一代復帰の基準の上に民族復帰の中心人物としてモーセを立てられました。このようにして、長い歳月の間摂理してこられた神様の全体摂理の結実体として、モーセが探し出されたのです。そのため、モーセが責任を完遂すれば人間はもちろん、神様の中にたまった怨恨まで解かれるようになるのです。モーセは、こうした条件的立場で民族の代表に立てられたのです。
モーセは、神様が全歴史を摂理されて得た結実体であり、民族にとって換えることのできない存在でした。このように選ばれたモーセは、歴史的な怨恨を蕩減すべき責任が自分にあるということを感じて、神様のすべての悲しみを解かなければならず、民族的な悲しみにも責任を負わなければならない立場にありました。
それゆえ彼は、パロ宮中生活の四十年、ミデヤン荒野四十年、合計八十年の間精誠を尽くしながら、先祖から受け継いできたイスラエル選民権を失わずに志操を立ててきました。
モーセは、パロを相手にして闘ったその当時も、天の願いであるみ旨のみに対することのできる志操をもっていました。また、モーセは民族にとって換えられないほどの資格を備え、サタン側と対決できる資格を備えましたが、彼の代身者となり得るイスラエル民族になれなかったために、神様がパロをかたくなにされたことは、あなた方もよく知っているはずです。
それでは、モーセに接するイスラエル民族は、どのような心情をもつべきだったのでしょうか。彼らは、神様が数千年間苦労し、また先祖たちが数千年間努力し、何もかも与え、何もかも犠牲にして探し出され、立てられた一人の中心人物がモーセであるということが分からなければならなかったのです。イスラエル民族は、神様がすべてを犠牲にし、その代価として探し出されたのがモーセであるということが分かりませんでした。それゆえ荒野で、六十万の民衆が倒れるようになったのです。
もしイスラエル民族が、国家と世界を代表して立てられたモーセ個人の価値を民族全体の価値として、あるいは人類全体と同等の価値として感じ、彼と一つになっていたなら、その民族は荒野で倒れはしなかったでしょう。
モーセ以後、数千年の歴史を経ながら預言者たちがこの地上に送られた目的、また世界を代表してイエス・キリストがこの地上に来られた目的とは何かといえば、神様の御苦労と嘆きを代わりに負うことであり、人間と万物の嘆きを代わりに負うことであったのです。ところで、どこの誰が、イエス様が万民を代表して現れた条件的な方であることを知っていたでしょうか。イエス様が、四千年間嘆いてこられた神様に代わって、サタンに対して勝利の条件を立てる方だということを誰も知らなかったのです。
それでは、今日あなた方が求めるべきこととは何でしょうか。神様の嘆きと人間の嘆き、そして万物の嘆きを解怨してあげられる、その一人のお方を求めなければなりません。そうして皆さんがその方と一体の関係を結ばなければならないのです。もしそういう者になれなければ、皆さんから希望も、神様の栄光も見いだすことはできません。
このような使命をもって来られた方がイエス様だったのに、神様が四千年の間苦労して選んでおいたイスラエル民族、ユダヤ教団は、どうしたのでしょうか。神様の名前を呼びながら、「神様のためだ」と言う彼らが、来られたメシヤ、天と地にたまった嘆きを解怨する一つの中心を不信して、その方の前に罪悪の反旗を翻した事実を皆さんは知らなければなりません。
イエス様が来られるまでの悲しい歴史と、この悲しい歴史を解怨しなければならない天倫の内容を知っていた民だとするなら、イエス様を十字架にかけはしなかったのです。また、イエス様が十字架にかけられるようになったときに、右側の強盗がイエス様を神様の息子として証すのではなく、そばで仕えていた聖徒たちがイエス様を証して助けなければならなかったのです。ところが、当時そのような責任を果たした弟子がいなかったために、今日私たちがそのような責任を果たさなければならないのです。
今日まで神様は、人間の嘆きを解怨し得る一人の方をこの地に送るために苦労され、人間はそういう方が現れることを望んできました。これが、神様の摂理歴史であると同時に人類歴史なのです。
今日こういう使命的な摂理観から見るとき、モーセは、エジプトからイスラエル民族を率いてカナンの地に入っていき、カナン七族を滅ぼさなければならない運命に置かれていました。また、イエス様はモーセが立てたその民族復帰の基台の上に世界復帰の目的を完遂するために来られた、ということを知ることができます。
今日、砂漠や荒野のようなこの地、パロ宮中のようなこのサタン世界にも、そういうイエス様のみ旨が現れているのです。しかし、イスラエル民族がモーセを指導者として完全に立てることができなかったために、モーセと共に神様の権能をもってヨルダン川を渡り、カナン七族を滅ぼして天国を建設しなければならないにもかかわらず、それができずに荒野にとどまるようになりました。それと同じように、今日、天国を建設する使命を十分に果たせない人は、カナンの地に入っていくことができず、荒野にとどまるようになるという事実を、キリスト教徒たちは知らずにいます。
それでは、荒野路程にあったイスラエルの六十万の民衆が、モーセと一つになれなかった怨恨の条件とは何だったのでしょうか。それは、イスラエル民族の中に、怨讐の懐で暮らしていたエジプトでの生活を懐かしがる群れが現れて、モーセの行く道を遮り、天倫の道を遮ったことだったのです。
初め、モーセを先頭にしてイスラエル六十万の大衆がアマレクと戦う時には、モーセが手を挙げればイスラエル民族が勝ち、モーセが手を下ろせばイスラエル民族が敗れるようになり、モーセと人々は一体の関係を成しましたが、あとで変わってしまったのです。
◆モーセとイエス様が直面した苦難と試験
歴史的に考察してみれば、神様のみ旨を掲げて歩んでいく人は、まず見えないサタンとの闘いがあり、次に見えるサタンとの闘いがあります。その次には物質の困窮を通じた闘いがあるのです。そのためにイエス様にも、パンで試練を受ける個人的な試練があり、次に聖殿を中心とした環境的な試練があり、また山頂に立てられ世界をめぐっての象徴的な試練があったのです。このようなことが、闘いがなければならない原則のもとで現れるようになりました。
それでは、神様のみ旨を掲げて歩んでいたモーセは、いかなる心をもっていたのでしょうか。彼も神様のみ旨を掲げるために怨讐と闘うことができる心、そして荒野に出ては、アマレク族と戦うことができる心、飢えと闘うことができる心、死を覚悟して堂々と出ていく勇気がありました。
モーセは、パロ宮中生活四十年、ミデヤン荒野四十年、合計八十年間をサタンと闘い、自分自身と闘い、飢えと闘いました。そういう闘いに勝利したとき、神様はモーセを召命されたのです。
このような道を行った者はモーセだけではありません。イエス様もそのような道を行かれたのです。そのため、イエス様御自身においても、サタンとの対決を象徴するサタンの試練がありました。まず自分自身を克服するために、自分自身を一つの供え物にして飢えと闘った四十日の断食期間がありました。その次には物質の条件を越えるために、「石をパンにかえよ」という試練がありました。
なぜイエス様がこういう過程を経なければならないかというと、人間が堕落したことにより神様を失い、息子、娘の威信を失い、万物を失ったために、これらを再び捜し出すための条件が必要だったからです。
そのため、今日聖徒たちが歩む路程にも、個人や民族、国家、世界を問わず、悪の世界を代表するサタンからの試練があります。また、神様の息子、娘の栄光ではなく、十字架の路程が残っています。その次には万物を失ったために、飢えの苦難を経なければならないのです。
エジプトにあったイスラエル民族は、モーセのような心であったので団結してサタン的な試練を撃退しましたが、彼らがイスラエル民族を代表する立場で荒野に出てアマレク族と戦う際には、飢えにも直面するようになりモーセを恨むようになりました。
彼らがモーセを恨むようになったその原因とは、どこにあったのでしょうか。何ゆえに恨むようになったのでしょうか。彼らが荒野で生まれ、そこにとどまりながら神様のみ旨に対していたなら、モーセを恨まなかったでしょう。しかし四百年間エジプトで生活してきたその習慣、彼らの生活的な環境が荒野で引っ掛かるようになったのです。今日皆さんは、これを肝に銘じなければならないのです。
別の言い方をすれば、モーセを信じて出発したイスラエル民族であったのに、彼らは出発する前の生活環境に対する未練を捨てることができず、滅びるようになったのです。また、それがモーセの進む道を破壊してしまい、モーセとイスラエル民族を分離してしまったのです。
ですから、今日世界カナン復帰の全体的な理念を掲げて歩む第二選民、すなわち世界的なイスラエルを代表する全世界のキリスト教徒たちは、第一イスラエル民族が経た苦役時代のような時代に直面したとしても、神様の選民らしく志操を立てなければなりません。同時に彼らは、民族に代わって一人で現れた指導者の立場をくみ取ることができずに、四十年荒野時代において飢えに直面し、すべてを恨み不信して滅びたイスラエル民族の二の舞いを演じてはならないのです。
イエス様の前途を台無しにしたのは誰だったのでしょうか。それは、神様のみ旨に代わり、歴史性の代わりに、全体の価値の代わりに選ばれた民族でした。彼らは、神様のみ旨を成し遂げるための生活をしなければならず、そこに信仰の基準を立てなければならなかったのに、そのようにできませんでした。すなわち、モーセのみ旨を担うべきイスラエル民族が、彼を荒野で倒れさせたのと同じように、イエス様のみ旨を担うべきイスラエル民族が、イエス様を信じず、十字架にかけて殺してしまったのです。
ですから、モーセのみ旨をヨシュアとカレブが引き継いで、二世たちを連れてカナンに入っていったように、今や第二のヨシュアとカレブがイエス様のみ旨を引き継いで、第二の使徒たちを連れて世界的なカナンの福地に入り、地上天国を建設しなければなりません。これが、イエス様の望みであり、再臨理想なのです。
そのため、今日み旨のために召命され選ばれた私たちは、このような歴史的な事実に対する摂理的な意義を知って、民族的な犯罪を再び犯してはならないのです。イスラエル民族が歩んだ犯罪の行路を、再び歩んでいく皆さんになってはならないというのです。
◆再び来られる主とキリスト教徒の使命
それでは、私たちはどのようにしなければならないのでしょうか。終わりの日に来られる主は、六千年間神様を嘆かせた条件を取り除き、数多くの聖徒たちの信仰の目的を達成するために来られるということを知らなければなりません。そして、イスラエル民族が最初にモーセを迎えたときに、自分たちの所有するものをすべて捨てて出発したように、荒野に出ても自分たちのすべてのものを忘れて、モーセだけを信じて従っていたなら、彼らとモーセは分かれるようにはならなかったのです。
今日、理想の園を望みながら再臨のその日を迎えるために準備している私たちが、まずもって備えるべきものがあるとすれば、それは何でしょうか。それは、来られる主は、六千年の間神様が苦労し、先祖たちが苦労したその結実として探し出される方である、ということを肝に銘じることです。
その方がもし、この地に来られたならば、私たちはどのようにしなければならないのでしょうか。喜んで世の中のすべてをその方に捧げ、その方だけを歴史を代表する存在として、罪悪の歴史を終結させ得る存在として、神様の代身として、侍ることのできる心を備えなければなりません。
世界のキリスト教徒たちがそういう心をもたないならば、神様が数千年間苦労して立てられたモーセが荒野で倒れることによって怨恨が残るようになったのと、同じ結果になるというのです。したがって私たちは、再び来られる主のために苦労することができる者にならなければなりません。
このような立場に置かれている今日の私たちは、カナン福地を望みながら歩んでいたモーセが死んだのちに、彼の後継者として立てられたヨシュアとカレブの使命を、歴史的な立場で引き継いでいるということを肝に銘じなければなりません。すなわち、イスラエル六十万の大衆を率いてカナンの地に入っていくことによって、数千年間この地にこびりついた神様の怨恨を解いてさしあげ得る祭物的な条件をもって立ち上がった、ヨシュアのような人にならなければならないのです。
今日、私たちがヨシュアとカレブと同じような決心と覚悟をもたなければ、荒野で流浪しているイスラエル民族を収拾してカナン福地に入っていくことはできず、聖殿理想を完成することはできないのです。皆さんはこれから、神様の愛と怨恨を知ったことによって、祈る目的が変わらなければなりません。
また、神様がモーセと不信するイスラエル六十万の民衆を荒野で一掃し、ヨシュアとカレブを立て二世たちを連れて再びカナンに向かわせた、その心情を知る者とならなければなりません。
皆さんは今いかなる段階に到達しているかというと、先祖たちが苦難を受けて歩んできた六千年の歴史を踏み台として、審判の旗を高らかに掲げるべき立場に到達し、また、イスラエル民族に向かって「ヨルダン川を渡っていこう」と号令をかけたヨシュアとカレブの使命を代行しなければならない位置に来ているのです。
◆強く雄々しくあれ
それでは、私たちがそういう責任と使命を引き受けようとするならば、神様は私たちに何を強調されるでしょうか。神様が荒野でモーセの使命を引き継いだヨシュアに、「強く雄々しくあれ」と言われたのと同じように、私たちにも「強く雄々しくあれ」と強調なさるはずです。これから私たちは、世界的カナン福地を見つめ、そこに入っていくことを願いながら荒野にいるという事実を知り、ヨシュアとカレブのような心と体にならなければなりません。
すると今日、世界的なキリスト教徒たちはどのように生きなければならないでしょうか。ヨシュアとカレブのような存在が現れて、この地上のキリスト教を導いていくことを天の前に訴えなければならないのです。中心を失い混沌と混乱を起こしているこの荒野時代で、これを収拾していく方向を提示できるヨシュアとカレブのような存在が現れなければならない時になったのです。このことを今日、キリスト教徒たちははっきりと悟らなければなりません。ここでは、自らの教派が問題ではありません。私たちはそのことを知らなければなりません。
ヨハネの黙示録第十一章では、二本のオリーブの木に対する預言をしています。これは何を意味しているのでしょうか。世界的なカナン復帰の路程を出発するのに先立ち、ヨシュアとカレブのような存在が現れることを予告しているのです。モーセの代わりに現れたヨシュアとカレブがユダヤ民族を導いてカナンの地に入っていったのと同じように、今日にもイエス・キリストの福音をもったヨシュアとカレブのような人たちが現れて、神様の民を率いて世界的なカナン福地、新しい希望のカナン福地に向かうようになるでしょう。
またヨシュアとカレブに従ってカナンに入っていった群れが、カナン七族を滅ぼしたように、皆さんにはサタンを滅ぼさなければならない責任があるのです。そういう天の勇士になり、そのような路程を歩むべき責任が、皆さんにあることを肝に銘じなければなりません。
そして、新しいみ言を主張するヨシュアとカレブがこの地のどこに現れようとも、人々の心の扉を開いて、み言を聞かせ、天のために生きられるようにする私たちにならなければなりません。
ヨシュアとカレブの行く道は、冒険の道でした。彼らが歩いた道は、難しい開拓の道であり、闘いの道でした。行く先々で開拓者の使命を果たさなければならない、厳しい道でした。時には個人的に、あるいは環境的にぶつかってくる試練と闘わなければならない路程が、彼らにはあったのです。
モーセがイスラエル民族を率いてカナン福地に向かって出発しようとする時、パロ王がモーセを殺そうとし、イスラエル民族の中にもモーセを不信して反対する人が多かったのと同じように、ヨシュアとカレブの時にもそのようなことがありました。このようなことをよく御存じの神様は、ヨシュアとカレブに「強く雄々しくあれ」と語られたのです。「強く雄々しくあれ」、このみ言は何を意味しているのでしょうか。それは、「人間的なすべての条件を乗り越えなさい」という意味です。
それで、イエス様も三大試練を通して、人間的なすべての条件を乗り越えて勝利されました。したがって、二千年が過ぎた今日の皆さんも、人間的なすべての条件を乗り越えていく途上において、強く雄々しくなければなりません。
ヨシュアは個人の闘いの路程から最後の瞬間まで、勝利の路程を歩まなければならないモーセの代わりの立場に立てられたために、神様は彼に「強く雄々しくあれ」というみ言とともに「対する個人を怨讐と思い、対する民族を怨讐と思い、対する土地を怨讐の土地だと思え」という忠告のみ言を語られたのです。
今日、ヨシュアのような立場に立つ私たちであろうとするなら、私たちにも行く先々で個人的な怨讐があることでしょう。環境も私たちを打ってくるでしょう。民族も、国家も私たちを打つでしょう。しかし、選ばれた私たちが団結し、死ぬ覚悟で最後まで闘う第二のヨシュアとなり、死ぬ覚悟でイエス・キリストに従い、世界のキリスト教に責任を負うことができる聖徒たちになるならば、私たちは目の前に展開するいかなる闘いの道も乗り越えることができます。それゆえに神様は、私たちが強く雄々しくあることを願っていらっしゃるのです。
それでは、私たちは自分自身においてどのようにしなければならないでしょうか。まず強く雄々しくなければならない立場にある私たちは、自分自身を正しく見つめることができなければなりません。自分に間違った点があれば、自ら批判することができなければなりません。また、三十年あるいは四十年の生涯を経た自分であるとだけ考えてはいけないし、現在生きている自分ということだけを考えていてもいけません。
◆人間の存在意義と使命
それでは、私たちはどのような存在でしょうか。私たちは、今日の私が存在するようになるまでに神様が六千年の間、世界的な闘いを経て苦労されたことを知らなければなりません。このような神様の苦労により、探し出された自分なのです。したがって皆さんは、育ててくださった神様の恵みを忘れてはなりません。また、皆さんは神様の苦労を代わりに負った祭物であるということを、自ら感じることができなければなりません。
そして、皆さんが存在するようになるまでには、皆さんを探し立てるために苦難の道、険しく厳しい闘いの道を経てこられ、語ることのできない神様の怨恨と嘆きがあったということと、数千、数万の先祖たちの血の犠牲があったという事実を知らなければなりません。それだけでなく、私たちを救うために苦労された神様の愛の心情を感じることのできる息子、娘にならなければなりません。
今後は、神様に祈祷するならば、「六千年前の父の御心情と六千年後の今日の父の御心情の分かる私たちにならせてください。そしてお父様の代わりをすることができる私たちとならしめてください」と祈祷することができなければなりません。また死のうが生きようが祭物になるという心の誓いがなければならないし、「既に祭物として捧げた私たちですので、お父様、あなたのみ意のままになさってください」と祈祷することができなければなりません。
数千年の歴史を経てきながら、私たちの先祖たちは血の祭壇を築いてきました。イエス様も十字架の祭物として亡くなられ、イエス様以後二千年間、キリスト教徒たちも血の祭壇を築いてきました。したがって今私たちは、そういう祭壇の基台の上にある自分たちであることを悟らなければなりません。
そのような立場で父を呼び、父の声を聞くことができ、神様に代わって人類を救うために父の前に訴えることができなければなりません。また六千年歴史を摂理してこられた神様の切ない心と怨恨を知って、神様を慰労してさしあげる子女にならなければなりません。このようなすべてのことは、皆さん自身が判断しなければならない問題です。
こういう立場にある私たちは、これからどのようにしなければならないでしょうか。神様の救援摂理歴史を終結するために、数多くの先祖たちが立ててきた伝統を敬わなければならないし、神様が働かれる条件を破滅させようとする怨讐サタンがいるということを感じて、サタンを退けるために塵ほどの細胞の一分子までも動員させるという責任を感じる息子、娘にならなければなりません。
このような立場で私たちが神様を呼ぶならば、神様は昔モーセだけに接した神様ではありません。イスラエルだけに接した神様でもありません。今日私たちとも共にいらっしゃる神様であるということを悟るようになるでしょう。その神様は、天地万物を創造された神様であり、歴史過程において先祖たちに接した神様であり、今日私に接してくださるべき神様なのです。
特に神様は、イエス・キリストがゲッセマネの園で最後の勇断を下し、一つの祭物として自らを捧げようとしたときには、共にいてあげざるを得なかったのです。そして万民を愛されたイエス様の犠牲精神が、後世の人間たちに一つの伝統として引き継がれることにより、キリスト教の復興が起こりました。
それでは今日、四千年歴史を代表したイエス様が残した真理のみ言を信じている聖徒たちは、これから先、どのようしなければならないでしょうか。サタンの鉄条網の中に捕らわれている人類を救うことができる、天の勇士としての姿を備えた息子、娘とならなければなりません。また、神様のみ旨を正しく悟り、昔イスラエル民族が神様のみ旨を悟ることができず、荒野でサタンの餌食になった二の舞いを踏む人になってはなりません。
皆さんは、モーセが神様の前に再び立つ時まで荒野で四十年の間精誠を尽くした、その志操を信仰の根としなければならないし、イスラエルを代表して八十日間神様に取りすがり訴えた、その粘り強く強靭なモーセの性稟を見習わなければなりません。また、第二イスラエル選民圏を代表し、世界カナン復帰の理想を成就しなければならない再臨の宗族であるということを知らなければなりません。
こういうことを考えて、「お父様! 六千年の摂理過程に現れた全体の闘いが私の身に現れるとしても、私は乗り越えていきます」と誓っていくことができなければなりません。それだけでなく、六千年の間に天のみ旨を立てるため死の峠を越えてきた先知先烈たちの代わりとなり、この地を支配しているサタンの群れに向かって、「私は爆弾だ。お前たちの胸を爆発させてやるぞ!」と叫ぶことができる者にならなければなりません。
このような観点から私たちは、神様がヨシュアに「強く雄々しくあれ」と語られたみ言を私たちの教訓としなければなりません。イスラエル民族がそのみ言の意味を悟ることができなかっために、カナンの地に入ってからも十二支派を中心として再蕩減の歴史を経なければならなかったのです。そのために、今日の私たちがそういうヨシュア的な責任を果たすことができないならば、天国理念を建設するためにこの地にやって来られる主も、皆さんと共に受難の道を行くしかありません。
◆神様の福地に対する希望
皆さんが強く雄々しい心で六千年の摂理歴史に代わって死ぬ覚悟で、怨讐たちと一大決戦をして勝利するようになれば、どのようになるでしょうか。その時初めて、天地が和合する一日を迎えるようになり、数千年間先祖たちが天に対して血の訴えをしたその怨恨が解かれるようになるのです。また創造主の喜びが現れて、永遠不変の神様の愛の圏内で数千万の聖徒たちが楽しみ、地上にいる万民たちが楽しむようになるというのです。それだけでなく、神様も皆さんをサタンの前に立てて自慢し、皆さんの先祖たちも皆さんを立てて自慢し、皆さんも兄弟になってお互いに自慢できるようになるのです。
したがって、神様に「彼はあなたの息子ですから彼を愛してください」と言うことができる一人の存在が、皆さんの中から現れなければなりません。真の真理によって、そのような一人の存在がこの地上に現れないならば、人間の喜びも成り立たないのです。これを皆さんは肝に銘じなければなりません。
今日私たちがその日のために、六千年の怨恨の罪悪史を清算して「天よ、私を見てお喜びください。私を見て怨恨を解いてください。私を見て、六千年の嘆きを忘れ、創世以後、初めて笑うことのできる一日をお迎えください」、また「霊界に行っている先祖たちよ、天が喜ばれるので私たちと共に和動してください」と言うことができる存在になってこそ、許された世界的なカナン福地を回復することができるのです。そうして、堕落による六千年の怨恨をサタン圏内に受け渡し、人類に神様の愛を紹介できる私たちにならなければなりません。
そういう者になってこそ、世界的なカナン福地でイエス・キリストの代わりをすることができ、七十門徒を代表し、神様が探そうとする息子、娘になり、神様が喜ぶことのできる息子、娘になり、神様が喜ぶことのできる家庭になり、神様が信じることのできる民族になり、神様が信じることのできる国家へと回復できるのです。ここから永遠な幸福の園、理想の福地が建設されるのです。これを皆さんは、はっきりと分からなければなりません。
今日この時代は、六千年摂理歴史を終結しなければならない時なので、最後の勇断を下し、み旨に向けて前進しなければなりません。後ろを振り返る人になってはいけません。ソドムとゴモラが滅亡する時、ロトの妻は昔の故郷での家庭生活が懐かしく、隣に住んでいた友人たちが懐かしく、そこの環境と習慣が懐かしくて後ろを振り返ったために、途中で塩の柱になってしまったのです。
エジプトを離れてモーセに従ったイスラエル民族も、荒野に出て苦労をするや否や、昔のエジプトを懐かしがり、カナン福地に入ることができずに途中で倒れてしまいました。彼らが荒野に出て、泊まる所も食べる物もなくなると、「エジプトにいたならもちも食べ、時々肉も食べていただろうに」と言いながらモーセを恨んで、彼に不平と不満を吐露したのです。その時イスラエル民族の中で、そのように過去を思い返しながら不平を言っていた者とは誰だったのかというと、エジプトにいる時に富裕であった者であり、人を支配していた人たちでした。
ですから今日、皆さんはそういうイスラエル民族の前轍を踏んではなりません。これを教訓として、皆さんはこの瞬間に何を見つめなければならないでしょうか。皆さんが住んでいる家ですか。皆さんがつき合っている友達ですか。皆さんの家と友達は、皆さんが見つめなければならないものではありません。皆さんがとどまるべき家があるとするならば、それは荒れ地にある家であり、皆さんの友達がいるとするならば、それは荒れ野で流浪している兄弟なのです。
ですから、皆さんは天のみ旨に向けて行くにおいて個人から家庭、社会、民族、国家に至るまですべてを聖別し、この世的な部分はみんな捨て、天のものとしてすべて置き換えていかなければなりません。すなわち、私の世俗的な部分を捨てて天の私を取り戻さなければならないし、家庭の世俗的な部分を捨てて天の家庭を取り戻さなければならないし、宗族の世俗的な部分を捨てて天の宗族を取り戻さなければなりません。民族の世俗的な部分を捨てて天の民族を取り戻さなければならないし、国家の世俗的な部分を捨てて天の国家を取り戻さなければならないのです。そういうものを取り戻すために皆さんは強く雄々しい心で、力を尽くし思いを尽くして前進しなければなりません。
そういう者ならば、個人を取り戻す際に個人が倒れても感謝でき、民族、国家を取り戻す際に民族、国家が倒れても感謝できる志操をもった天の息子、娘になれるでしょう。
今日私たちは、このような覚悟で個人に対して闘うことができ、家庭、国家、世界に対して闘うことができ、この地上のサタンに対して「退け!」と言うことのできる勇猛心を備えていかなければなりません。
天に向かった志操をもち、生涯路程の終わりまで進んでいく者がいるならば、彼は死んでも復活してその福地に現れて栄光を享受するでしょうし、もし死ななければ第二イスラエルとして許された福地の園に住むことができるでしょう。これをきょう、皆さんが肝に銘じるように願います。
4. 真のお父様の真の息子、娘になろう
一九五七年九月十五日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三巻』
きょう、皆さんにお話ししようとするみ言の題目は「真のお父様の真の息子、娘になろう」です。
◆人間に対する神様の望み
万物を創造された神様は、堕落したこの世界をお捨てになることができず、今までサタンとすさまじい闘いを展開されながら、独り責任を負ってこられました。
このような神様が望まれる最高の目的とは何であり、何を願っていらっしゃるのでしょうか。また、今まで数多くの悲しみの歴史過程を経てこられながらも、人類をお捨てになれず、抱いてこられた内容とは何でしょうか。それは神様が人間に対して、「お前は私の実の息子、娘だ」ということです。このような理想を実現するために、神様は今まで闘ってこられました。
神様の善の園で、神様の栄光の中で、神様の愛を中心としてすべての万物が和動する中で、万物の主人の資格を備えて、神様の前に「我が父よ! 栄光をお受けください」と言うべきアダムが堕落することによって、そのような価値を喪失しました。それで神様は創世以後、本然の息子、娘が現れて「父よ」と呼ぶその一声を聞きたいと思っていらっしゃることを、皆さんは知らなければなりません。
今日、私たちが呼んでいるその「父」は、罪悪の立場から呼ばれるそのような父ではありません。ですから、私たちは罪悪の世の中から抜け出し、善の理想の園に入らなければなりません。この理想の園とは、人間たちが神様の栄光を現すことができると同時に、喜びに陶酔して生きることのできる世界です。
言い換えれば、人間が動ずれば万物が動じ、人間が静ずれば万物が静じ、人間と万物が動じ静ずると同時に、創造主、神様も動じ静ずることのできる世界です。そればかりでなく、相対的な神様と人間の関係を超越して、一致することのできる理想の園なのです。
神様は人間たちがこのように御自身と一つになることを願われ、一つとなった中で素晴らしい愛を中心として喜びに酔うその一場面を描かれながら、そのような世界を創造してこられたのです。ところが人間たちが堕落することによって、これが自分たちの怨恨となると同時に、天倫の怨恨となり、堕落以後今日まで、この怨恨に怨恨を重ねる悲しみの歴史をたどってきたのです。
では神様が今日、この地に対されて、摂理される最大の希望とは何でしょうか。それは堕落の父母をもっている人類を再び神側に立て、「私はあなた方の永遠の父であり、あなた方は私の永遠の息子、娘だ」と呼ぶことです。そうすることのできる日を迎えることが、堕落した人間たちの歴史的な望みであり、天倫に対する天的な望みです。
今日自らを反省し、天倫の前に自分たちを立てて推し量ってみるとき、今まで神様の愛を中心として和動したことがなかったと感じることでしょう。また、お父様の前に真の息子、娘として「父よ!」と言えなければならず、天の主管を受ける生活をしなければならなかったのに、自らはそうできなかったと感じることでしょう。
今、私たちはある一時、ある時間を中心として、神様に対して「我が父よ!」と呼びながら自らを変え、お父様の心情を誘発させ、愛を中心として神様と新しく父子の関係を結ぶ立場にまで行かなければなりません。
◆神様の悲しみと嘆息の原因
このようなことを人間たちに体 恤させ、人間たちと父子の関係を結ぶために苦労していらっしゃるお父様であられることを、皆さんは心において、生活において感じなければなりません。私たちの最後の望みとして残っていること、すなわち神様の恩賜の中で私たちが召命を受けることも、何を基準としてなされるのでしょうか。
それは創造の理念である神様と人間の父子関係を回復するために、地上でどの程度実践したかにかかっています。私たちの生活圏で、どの程度実践したかによって、自分たちの価値を見いだすことができるのです。
また、神様がこの地に対して悲しんでいらっしゃるのは何ゆえでしょうか。神様が地上に対して嘆息されているのは何ゆえでしょうか。神様はサタンのゆえに悲しまれているのではありません。悪が憎いからといって悲しまれ、罪人が多いというだけで嘆息されているのではありません。
本当の神様の悲しみと嘆息は、神様がいまだに人間たちに対して「私の愛する息子、娘たちよ」ということが言えず、その息子、娘たちが「私の父よ」と呼ぶのを聞くことができないところにあるのです。歓迎され得る環境を備えられないことが、神様の本当の悲しみであることを、皆さんは知らなければなりません。
今日、私たちは神様に対して、「お父様」と呼んでいます。ところが、私たちの呼ぶ「お父様」の中には、真のお父様もいて、偽りのお父様もいるのです。なぜそうなったかといえば、人間が堕落したからです。
人間たちが呼ぶべき本然の真のお父様は、永遠なる生命の主人であり、理想の中心であり、人間のすべての幸福の中心であられます。ですから、私たちが、私たちの心に侵犯してくる悪を断ち切って、心おきなく「お父様」と呼ぶことができ、お父様のみ旨を行うようになれば、天国は別途に必要なものではないというのです。ところが、人間が堕落することによって、これを失ってしまったのです。ですから、堕落した人間は必然的に本然の真のお父様を求めていくべき運命の道に置かれているのです。
では今、皆さんがどのような価値的な内容をもってお父様と呼ぶのかということを考えてみなければなりません。そして自分が呼んでいるお父様とは、どのようなお方かということも知らなければなりません。
私たちが真のお父様と呼ぶそのお父様は、六千年の間、お休みになることもできずに闘ってこられたお父様であられ、摂理歴史を経てくる間、数限りない苦難の峠を耐えて越えられながら、今日の私一個体を復帰するために苦労されたお父様であられるのです。また地上に生きているいかなる人間も感じることのできない、最大のつらさと悲しみを感じていらっしゃるお父様であることを、皆さんは悟らなければなりません。皆さんがこれをどの程度に実感しているかが、何よりも重要だということを知らなければなりません。
真心を込めて「お父様」と呼ぶ人がいるなら、彼は神様のつらさと悲しみを感じることでしょう。また、神様の悲痛さがその人間に伝わることでしょう。ですから、神様と人間の間で心情が交流し、天倫の大理念を成就するために自分一身を越えるとき、初めて神様と私たちは生命を中心として永遠の因縁を結ぶことができるのです。皆さんはこのような境地を経験しなければなりません。
現在の皆さんは、神様と完全な関係を結べずにいるということを感じることでしょう。しかし神様と私たちとは心情的に、また事実的に永遠なる因縁が結ばれています。そして私たちは、その因縁を逃れようにも逃れることができません。皆さんはこのようなことを感じながら、真の息子、娘の立場で「お父様!」と言うことのできる一時を願い、進んでいかなければなりません。
人間たちが真の息子、娘の立場で「お父様」と呼ぶことが人類の望みであり、すべての万物の願いであり、神様の願いなのです。ですから、私たちはこの地上で神様の真の息子、娘として、復帰の運命を打開していかなければならないのですが、ここで私たちがただ一つ望むことがあるとするなら、真の愛を中心として神様と父子の因縁を回復することです。
皆さんは神様の切ない事情とつらさがこの地上に染みわたり、神様の悲しみがこの地上に満ちあふれるほどに残っていることを感じ、お父様の立場で復帰の祭壇を積まなければなりません。
では、神様の息子の立場を復帰すべき皆さんはどうすべきでしょうか。お父様を愛さなければならず、お父様の事情をお父様の代わりに心にかけながら、真心から心情が交流する中で「私のお父様」と呼べる時まで努力しなければなりません。
人々が呼ぶ「お父様」の中には「他人のお父様」もいて、「義理のお父様」もいて、「真のお父様」もいます。今日、信仰する人々は、神様に向かって「お父様」と呼んでいますが、そのお父様が「真のお父様」ではなく、「他人のお父様」や「義理のお父様」の立場である場合が多いというのです。このようなことは神様の願いではありません。
◆人間の存在位置と責任
人間に対する神様の願いは、すべての復帰の条件を越えて神様に対して「真のお父様」と呼ぶことのできる一日を実現することです。神様はこれを六千年間も願ってこられたのです。
ですから皆さんは、神様が地に対して苦労していらっしゃるということを知らなければならないし、地のためにこの上なく悲惨な峠を越えられ、闘ってこられたということを知らなければなりません。今、私たちはそのようなお父様に侍って生きなければならないし、また永遠なるお父様のみ前に、怨 讐の立場で、自分自身のためだけの生活をしていないかと、反省してみなければなりません。
六千年の天の苦労の末に見いだされた皆さん! 皆さんは真のお父様の息子、娘として、お父様の遺業を受け継ぎ、いつまででもサタンと闘うことのできる天の身代わりになろうという心をもたなければなりません。また、このために自らをお父様の前に差し出し、新しい使命を引き継ぎますと言うことができなければなりません。そして皆さんは、いつでもお父様の足取りが心の中に浮かばなければならず、お父様の苦痛と気掛かり全体に責任をもてないとしても、お父様に心で侍ることができなければなりません。
では、神様の怨恨とは何でしょうか。今日、キリスト教では、神様が栄光の中にいらっしゃると思っています。しかし、そうではないというのです。人間が信じず、人間が従わなければ、神様のみ旨は成されません。それで神様は今も、人間たちが責任を果たすことを、切ない気持ちで望んでいらっしゃるのです。
それゆえ、皆さんはこの地において天倫を立ててさしあげなければならず、栄光の天の国を成してさしあげなければならず、神様の永遠なる善の理想を、この宇宙に実現してさしあげなければなりません。神様お一人では、いくらみ旨を成そうとしても成らないのです。また、サタンも善の立場に立とうとしても立てないのです。人間が救ってあげない限り、永遠に悪の立場にとどまるほかありません。しかし、人間はそうではありません。神様の前に栄えある姿で立つこともでき、背を向けてサタン側に立って、天に敵対することもできるのです。
ですから、神様やサタンよりも、もっと人間は恐ろしい存在なのです。人間でなければ、神様のみ旨は成されません。また人がいなければ、サタンの計略も無駄になります。このようにみ旨の成就や罪の成立が、神様やサタンにあるのではなく、人にかかっているということを、皆さんは知らなければなりません。
神様は、このような人間をおいて、天倫のみ旨と善の理想世界に対する神様の理念を無条件に信じ成すべき人間が、どのように歩むかということを見守りながら、もどかしく思われたのです。ここに神様の悲しみと苦衷が染みわたっているということを、皆さんは知らなければなりません。
私たちが願うことがあるとするなら、ただ真の息子、娘の立場で神様をお父様と呼ぶことです。実際、そのような人がこの民族の中に一人でもいるとすれば、この民族には生きる道が開かれることでしょう。その人を中心として、宇宙的な役事が起こることでしょう。なぜなら、哀れな民族を代表し、宇宙を代表し、真のお父様と呼ぶことのできる存在がいるとすれば、神様のみ旨を率いていくことができるからです。今日、私たちはこれを知らなければなりません。また、知ると同時に、信じなければなりません。
これまで天使たちが、皆さんの行く道を心配した事情もあったはずです。しかしそれが問題ではありません。私たちの苦難と事情を案じられるお父様の前に、どのように出ていくかが、もっと問題なのです。自分のつらさや、自分の悲しみと苦痛、十字架が問題ではないというのです。最大の勝利の基台が成された場、人類の理念と天倫の理念が合致したその場に出るとき、それまでの難しかった事情を慰労され得る本当の自分になり得るかが問題です。
では今日、私たちはどのような立場にあるために、神様を真のお父様と呼ぶことができるのでしょうか。真のお父様と真の息子は血統的な因縁をもっています。どんなに引き離そうとしても別れることのできない因縁、自然に一つになり得る、血肉を通した因縁があります。このような立場で見るとき、神様と私たちとは血統的な因縁があるというのです。それで私たちは神様を、真のお父様と呼ぶことができるのです。
◆イエス様の降臨目的とみ言の価値
人間は堕落しました。人間が責任を完遂して永遠の善、天倫の愛を中心として神様の直系の子女になっていたなら、どこの誰が侵犯して堕落させることができたでしょうか。人間はこのような願いをもった実体だったということを、皆さんは知らなければなりません。
では今日皆さんは、どのような所にとどまっているのでしょうか。皆さんは、神様と天的な因縁をもっていながら、サタン圏内にとどまっているのです。神様が許された直系の子女の因縁をもっていながら、またサタンとも堕落の因縁をもっているというのです。
このような人間を救援するために、この地上に来られる方はどのようなお方でしょうか。このお方は人間を代表する立場にいらっしゃるだけでなく、神様と永遠に切れることのない因縁を結んで現れる主人公です。このような因縁と使命を帯びてこの地上に降臨されたお方が、正にイエス・キリストであられます。ですから、イエス様は福音を伝えられながら、「私は神様の息子である」と語られたのです。また、「神様と一体となった」と語られました。
これは驚くべきみ言です。普通の人々からは見いだすことのできないみ言です。ですから、神様と愛を中心とした血統的な因縁をもって現れたキリストであられたので、歴史にない中心として、新しい変遷の歴史を生むまいとしても生まざるを得ないというのです。
このような面において、イエス様の血と肉は、お父様(神様)の血と肉であり、すべてのものがお父様のものだったと言えるのです。このように神様とイエス様とは、切っても切れない因縁が結ばれていたのです。
ではなぜ、イエス様は来なければならなかったのでしょうか。堕落した人間たちは罪悪の血統を受けて生まれたので、お父様の血肉を身代わりして接ぎ木してくれる一人のお方を、神様はこの地上に送るほかなかったのです。このような摂理的な必然によって、イエス様はこの地上に来なければならなかったのです。
ところが、召命を受けたイエス様はこの地上に来られましたが、誰もイエス様を信じませんでした。そうしてイエス様は、結局、十字架を背負うようになりましたが、その前の日に弟子たちと最後の晩餐をされながら、「あなた方は私の血と肉を食べなければならない」と語られました。この言葉は、人間たちの心と体、血と肉は、神様が動じ静じるままに、共に動じ静じなければならないという意味です。すなわち、神様との一体理想を成さなければならず、血統的な因縁を結ばなければならないが、イエス様を媒体として、そのことを成しなさいというみ言です。このようなことが皆さんの生活圏内で成されないとすれば、サタンは否応なく皆さんを讒訴することでしょう。
人間は神様と一体となって、地上に来られたイエス様を信じ、友の立場でイエス様と対することができなければならないのですが、問題は皆さんにかかっています。
イエス様がもっていた血と肉と骨、体と心を、皆さんも全く同じようにもっています。これはイエス様と人間が一体となり得る根拠になるのです。ですからイエス様が神様と一体となられたように、皆さんの心と体も神様と一つになって、動じ静じなければならないのです。実際、そのようになるなら、それは誰かが奪おうとしても奪っていくことができないのです。
その次に、私たちは神様を真のお父様と呼ぶことのできる真の息子、娘にならなければなりません。そして神様が私たちに真の息子、娘だと語られ得るみ言と、私たちと共に生きていかれ得るというみ言をもたなければなりません。すなわち、神様と私たちは真の父子の因縁がなければならないという話です。血統的に神様の子女になると同時に、神様のみ言を保たなければならないというのです。
イエス様がこの悪なる世に来られ、叫ばれたみ言は、地の言葉ではありませんでした。イエス様のみ言は、今までになかった真の真理のみ言であり、地上にあったものとはあまりにも異なる新しい理念であり、革新的な事実を提示するみ言でした。
◆私たちが立てるべき生活理念
今、私たちは神様を真のお父様と呼ぶことのできる存在として、神様がもっていらっしゃるみ言を、私たちも語ることができなければなりません。神様のみ言が落ちる所ごとに善の実績が生まれ、復活の役事、再創造の役事が起こっています。ですから、私たちは悪を清算し、復活の役事を起こし、再創造の能力を行使できるみ言をもった人にならなければなりません。このようなみ言をもった人々が集まって暮らす所が天国です。
今日皆さんが使っている言葉が、皆さん自身から出ている言葉か、皆さんが侍っている主が使っている言葉かということを、皆さんは考えてみなければなりません。また皆さんは主のみ言を誇れる環境にあるかどうかを考えてみなければなりません。
イエス様のみ言は天にも通じ、地にも通じ、創造されたすべての存在に通じるのです。このようにお父様と呼ぶとき、お父様が聞かれる言葉、お父様のみ旨を代弁する言葉をもつ人間にならなければなりません。
今日この地上には、たくさんの種類の言葉があります。言葉らしい言葉もあり、言葉ではないような言葉もあり、み言もあり、ほかの言葉もあります。今人間が探し求めなければならない最後のみ言、天倫のみ言と因縁を結ぶ私たちも、すべての被造万物と一体となるみ言をもたなければなりません。でなければ万物を主管しようにも、主管することができないのです。
堕落は私たちが知らなければならないみ言を失ったことである、と言うことができるのです。それで私たちは、私たちがもつべきみ言が、どこにあるかを探さなければなりません。歴史過程を経てきて数多くの人類は、このみ言を復帰するために苦労してきました。人倫に通じると同時に、天倫を代弁することができるこのみ言を、私たちはもたなければなりません。この事実を、生活圏内において感じる皆さんにならなければなりません。
その次にお父様の生活を身代わりできる、真の息子、娘にならなければなりません。皆さんの生命は、現段階の環境において始まって終わるべき生命ではありません。今までの生命体は、歴史的な堕落の因縁を脱することができず、社会的な環境と因縁を脱することができないのですが、実際には宇宙の恩賜を代表し、過去の理念を代表し、未来の理念を立証させる立場にあるということを、皆さんは知らなければなりません。
皆さんは神様の代身として生活をしなければなりません。神様の代身として栄光と幸福と喜びを享受して生きる、自分でなければなりません。最愛のイエス・キリストを死に至らしめても求めた人間たちを代表して、長子の遺業を継承させようと切ない心情を抱いて探された、神様の心情を感じる皆さんになれば、地とサタンの前に神様の息子、娘として立証されるのです。
皆さんが神様の真の息子、娘として生きようとしても、この悪なる世の中は皆さんを全部引っ掛けて倒すのです。これは六千年の復帰歴史を見ても分かります。しかし、人間の心を通して、終末期である今に至るまで動いてきた復帰摂理歴史であるなら、皆さんは神様と同伴する生活理念を、最後に立てなければなりません。
このような過程に入る人間、すなわち今まで神様が探し求めてきた事実を知る人間がいるなら、彼は神様が成されようとするみ旨を知っているのです。そして過去に被造世界を創造された神様の心情、より深く入れば、草一株を作られた心情までも、感じることができるのです。このような心情に触れれば、神様が万物に対してもつ心情まで知ることができるのです。そして人間に対して抱いていらっしゃる心情までも、感じることができるのです。
このような心情を感じたのちには、どんな人間にならなければならないでしょうか。神様の代身として地上の人間たちを案じ、彼らのために泣くことができ、悲しみを抱く人間になり、また、人間たちが数多くの歴史過程を経て苦難にあえいできたことに同情できる人間にならなければなりません。
そして神様のみ旨、神様の摂理歴史に責任を負った数多くの先烈たちの人生のすべてを、地上において一瞬間でも感じ、同情することができる人間にならなければなりません。また、昔アダムとエバが堕落したときに感じた神様の悲しみを感じなければなりません。アダムとエバを失って悲しみ、天と地を失って悲しまれたお父様の心情を感じることができる人間にならなければなりません。
◆天情と人情が通じる道
歴史過程において摂理のみ旨を受け、イエス様の怨恨を晴らそうとする人間がいたならば、神様は彼を中心にしてさらに活発にみ旨を成されました。また、彼の悲しみを分け合う多くの人間が、彼と共に苦労してきました。
アダム以後、ノアは百二十年間、この地上に神様のみ旨を受けていきました。百二十年の間、神様の理念を地上に現す生活をしたのです。今日神様の心情を私たちに連結させ、神様の子女であることを実証させ、私たちを中心とする生活的な環境と因縁を結ぶ土台をつくるための生活であると同時に、神様と通じる理念を現す生活であったのです。
このような境地に入れば、皆さんはアダムの立場に対して理解することができ、神様に対して抱いてきた切ない心情をもつのです。また、ノアじいさんが百二十年の間、不信する世の中の人々に対して抱いた切ない心情、自分だけが知る心情を、無知な民の前に現すときに切なかった心情を感じるようになるのです。
皆さんはノアの心情から、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、イエス様、そして今日まで苦労した復帰摂理の中心人物たちの心情を知り、彼らのために慟哭して涙を流さなければなりません。皆さん自体が、歴史的な内容をもつ理念を否定することができず、天倫の歴史性に背反しないならば、生活を通してこのような歴史的な悲しみを感じなければなりません。
今日ここに集まった皆さんは、歴史的に来ては逝った数多くの先知先烈たちが、神様の生活的な理念を実践するために探し求めて体 恤したことを受け継がなければなりません。そして皆さんは死の場であっても、すべての苦難を引き受けるという覚悟をもって、すべての人々の心情に合わせて一つになり、歴史を代表してお父様の前に出て行く道を一致させなければなりません。
復帰の運命は、歴史的な悲しみの運命であることを知る以上、皆さんは悲しみの生活をしなければなりません。皆さんが神様と因縁を結ぶために、神様のみ旨の前に涙することが天情と人情に通じる道であることを知らなければなりません。それでは皆さんは、皆さん自身を立てて、「おお、神様よ! 私はどんな立場にいるのですか」と反問して、皆さん自身を反省してみなければなりません。
昔、先祖たちが歴史的な神様の摂理を成すための生活を体 恤した、その生活を経ていくとき、ノアの心情を知るようになり、あるいはアブラハム、イサク、ヤコブ、そしてモーセと、数多くの先知たちの心情を知るようになるのです。皆さんはこのように天に対して、万民を代表して流す涙の伝統を残さなければなりません。
このようなものをもっている人は、どんなに地獄に行こうとしても行くことができなくなるのです。ですから今日のキリスト信徒たちの中で、過去の歴史過程に来たが天倫のみ旨をみな完成できずに逝った人類を代表して、涙を流すことができる息子、娘にならなければなりません。このような息子、娘に、天倫のみ旨が任されるのです。また、現時代の人類の代表として、切ない心をもって涙を流す息子、娘になり、未来を案じ、万民を代表し、涙を流す息子、娘にならなければならないのです。
神様はこのような心情を通して、現在このような立場にあり、未来にもこのような事情におかれる息子、娘を探し求めていらっしゃるのです。神様と正反対の生活をしている群れに対して泣き、歴史に対して涙することができる人間が、今日の終末に、新しい再創造の歴史を提示する主人公になるのです。
神様の心情を抱えて涙し、新しい理念に連結して涙する夫婦がいるなら、この家庭は最高の家庭になるのです。また、神様を抱えて涙する民族があるなら、この民族は新しい理念の中心民族になるのです。この民族を通して、宇宙史的な神様の全体の愛と真理が紹介されるのです。
過去と現在と未来を代表してお父様を抱え「我がお父様! 悲しみを預けてください」と訴えることのできるある集団や団体、あるいは社会や国家があったなら、周囲にどんな強い文化があったとしてもその文化圏は、そのような国家や団体を踏み越えることができないのです。
◆神様の理念と人間の生活
私たちがみ旨のために行こうとするとき、何を目的として闘っていくのかといえば、より善なる歴史と、現実と未来を成すために闘わなければなりません。そうして神様の生活理念にひたるその日を復帰し、天上が喜ぶ生活的な環境を提示しなければなりません。このようになるとき、人間と万物を造られたお父様、歴史的なお父様、現在と未来を主管されるお父様が、皆さんに責任をもたれるのです。
その次に私たちは、何をもたなければならないのでしょうか。どんな理念をもたなければならないのでしょうか。神様の理念を通過しなければなりません。私たちは神様の理念の中に立たなければなりません。私たちは個人ですが、世界と宇宙的な立場で見れば、宇宙とも通じることができ、神様の全体の天倫の理念とも通じることができる場に行かなければなりません。このような理念にひたり、この理念に率いられて闘うとき、数千万の怨 讐に対して闘う場に、堂々と立つのです。
今日終わりの日において、皆さんが知らなければならないことは、私たちが今まで生きてきたこの地は、天倫の理念の代身となる地になっていないということです。しかし、私たちは悪によって出発したこの歴史を、悪として終結してしまうことはできないのです。そして悪の歴史を経てきた現時点において、私たちはそっくりそのままほっておくわけにはいかないのです。私たちは後代の人々のために、天倫を引き入れ、新しい理念を提示しなければなりません。
それではイエス様側の、善の歴史とはどのようなものでしょうか。これは歴史性を経過する神様の歴史であり、天倫のみ旨に対して歩む歴史です。このように現実に現れる一つの事件には、全体の歴史が宿っているのです。ですから、私たちはこれを通して過去の歴史を学び、現実を超越して未来の希望的なものを体 恤していく理念をもたなければなりません。
今日私たちがこの理念の中に立てば、この理念によってすべてのものと通じるようになるのです。それで私たちはこの理念によって現実生活をよく分析し、その価値を現実の生活理念と結びつけ、全体の理念と因縁を結ぶ一つの基準を得なければなりません。このような基準を得て生きなければ、神様の真の息子、娘になることはできません。
イエス・キリストが逝ったのち、今日に至るまで、神様の摂理は完全に実を結ばないままになっています。聖書を通して示されている理念を、人々は実践しないでいるのです。それで神様はすべてのものを得させるために、黙々と六千年間準備してこられたのです。惨めな世の中と哀れな人間たちを眺めて慟哭されながらも、地上の疑心を清算しなければならない立場にいらっしゃるゆえ、不信して背を向ける人々を批判されず、耐えてこられたのです。
神様はどうしてこの日まで耐えてこられたのでしょうか。神様はある一時、全体的な勝利の一基準を心から立てて闘っていらっしゃるので、今まで耐えているのです。しかし長い間、耐えてこられた神様の恨は、天倫的な理念と宇宙的な理念、人倫的な理念が一つになって現れるその日になれば、その場に現れるのです。この一時がいわゆる審判の時なのです。過程では愛されるのですが、終わりの日になると審判がなされるのです。神様はこのような因縁を残して、今まで役事してこられたのです。
ノアの審判のような時を望み見る終末において、私たちが知るべきことは、この理念を代表する自分になるということです。そして天的な理念に通じ、人倫を伝え、み言を伝え、天の宗教を伝え、天の生活を伝えて、一つの理念を伝える先知者の使命を自身がなさなければならないということです。これが宇宙的な理念を通して、神様の息子、娘たちがもたなければならない理念なのです。この理念をもって、私たちのすべてを反省すれば視野が広がるのです。
皆さんがこのような使命を負っていくとき感じる悲しみは、宇宙的な悲しみであり、歴史的な悲しみであり、希望的な悲しみであることを知らなければなりません。自分一人のために悲しんで、お父様を呼んではならないのです。地上で、数多くの責任を独りで背負って闘っていくと覚悟し、神様の苦しみを感じて神様の宗族としての威信を立て、また天的な理念を感じて天意にかなう生活をしなければなりません。
ですから皆さんは、血統を通して神様の息子、娘であることを証し、真理を通して神様の息子、娘であることを証し、生活を通して神様の息子、娘であることを証し、仕事を通して神様の息子、娘であることを証することのできる、一つの基準を探し立てなければなりません。この一つの基準を探し立てなければ、皆さんが教会に来て信仰生活をすることは、使い走りにすぎないのです。
◆真の息子、娘として備えるべき条件
いまだに神様に対して「お父様」と呼ぶ立場になっていない人間は、神様の愛のみ手が差し伸べられるよう、神様のみ名を呼ぶのです。このような救援の過程を経なければ、神様に対して万人を代表する真の息子、娘として、「お父様」と呼ぶことができないのです。
宗教的なことや血統的なことなど、地上の人倫的な生活がすべて天倫によって成されるよう、皆さんはこのような理念を通してすべてのことを批判できる心情的な価値を、皆さん自体内において立て、万民の前にその価値を誇れる一日をもたなければなりません。このようなことが起こるのを見たのちにこそ、神様が今まで闘ってこられた歴史を、終結させることができるのです。
今までの闘いは、神様とサタンとの闘いだったのですが、今は地を中心にした人間同士の闘いです。それを天の代身として率い、この闘いに責任を負う主人公が出なければなりません。
このような闘いの路程において、私たちは何を勝利の条件として立てるのでしょうか。私たちが本然の天に属しているか、地に属しているか、あるいは罪に属しているか、善に属しているかを知り、天的な血統の因縁をもったなら、実際に天的な勝利の生活をしなければなりません。これが重要な勝利の条件になるのです。
天的な生活、勝利の生活を通した人格をもつなら、自身のことを予告することができ、天的な人格をもつ人々と和することができるのです。サタンも、神様が信じて任せられる一人の存在を立てるなら、これを拒否できないのです。
神様を崇拝する者とは誰でしょうか。今日、終わりの日にある聖徒たちです。また、神様を安息させる者とは誰でしょうか。見るに堪えない私たちです。このように神様の解怨が、私たちの両肩に、体と心にかかっていることを、私たちは知らなければなりません。
人間歴史の中枢的な条件を前において、私たちは驚くべき天地の使命を任されているのです。皆さんの体は二つとないにもかかわらず、地上の問題に苦しむ立場にあってはいけません。今や自身のための安逸な生活理念が立てられない過程に来ているのです。
私たちが地上に天の法度を提示して勝利したのちには、安息することができるのです。今日皆さんは、このような過程に置かれているのです。このようなことがどこに起こるのでしょうか。今日、民族的な優越性を現す先進国家がありますが、彼らが誇るよりも誇らしいことは、どの民族が神様と近いかということです。
今日私たちが知るべきことは「私は神様の民族だ」、「私は天の民だ」、「私は天の子女だ」という資格をもって生きるなら、必ず闘いの路程を経なければならないということです。この世は悪なる世の中であり、悪の歴史をもつ社会ですから、世の中はこのような人々をそのまま歓迎しないのです。
それでここには水と火のように、一つになりにくいものを一つにする哀れみの情、すなわち自分の肉身を動かしている天的な内容をもち、真理をもち、その次には生活環境と人格をもち、そして理念を通した愛をもって、悪の世の中を貫いていかなければなりません。このような条件が、宇宙の終わりの日において、天倫を代表する宇宙の審判の条件となるのです。
それでは今日私たちは責任を果たし、直系的な使命を完遂する自分になっているでしょうか。神様の審判を代行することができる真理、生活理念を通した人格、神様の理念を通した愛をもって、万天宙に生命の力を主張することができる私たちであるかどうかを考えてみなければなりません。
このような人間がいたなら、彼が動じれば万物も動じ、彼が悲しめば万物も悲しむことを、感じるのです。このような実感をもって皆さんが、天の前に立っておそれる立場で「お父様、六千年の怨恨をこの一日に私を見て注いでください。六千年の間、敵対してきたサタンを、私を通して屈服させてください」と言わなければなりません。
◆人間が行くべき道
エデンの園で万物の前に人間を造られ、「万物を主管せよ」と言われた祝福のみ言が、いまだに成就の一日を見ないのです。私たちはこのみ言を成就しなければなりません。そのようになれば、すべてのものがお父様の栄光になるのです。ここから新しい理念を通した新しい愛、新しい生活を通した新しい人格、そして新しいみ言と真理を得て、新しい血統を通した子女として出発するのです。
皆さんが動いているのを見れば、現在は皆さん一人をおいて、希望の理念が皆さんを訪ね、歴史的な理念が皆さんを訪ねてきているのです。現実の理念が皆さんを訪ねてきているのみならず、皆さん一人を立て、天と地のために直系の息子、娘の栄光を証する一日を前にしているにもかかわらず、皆さんは事実を忘れたまま、処すべき立場を知らず、自分がとどまるべき環境、自身が闘いゆかなければならない希望的環境を、やり過ごしてしまっているのです。
私たちが行くべき道は、どのようにしても神様の全体的な理念を実現させて、神様が安息できる天的な栄光の土台を造成すると同時に、地上のすべての争いを終結させる道です。
そのために皆さんは、愛をもって闘わなければなりません。このような理念を得るために訪ねてきた皆さんは、宇宙を代表する愛をもたなければならないのです。また、実践的な生活理念と、実践力をもたなければなりません。このように愛と実践力をもっていくとき、今まで天に敵対してきたサタンが、自然に屈服してくるのです。
今日皆さんは、神様の所願をもった子女が現れることを願う、神様のみ旨を知らなければなりません。そして神様の悲壮な悲しみと、悔しさと憤りをいたく感じ、これを解怨してさしあげるために、ありったけの力を注がなければなりません。そうして希望の一つのみ旨に向かって前進する人間になり、カナンの福地に向かっていったイスラエル六十万の大衆を代表する、責任者たちにならなければなりません。
今日人間は平坦な生活環境、自由なる生活環境を成すことができないほどに争っているのですが、彼らは荒野に出て、不信するカナン七族と闘わなければなりません。皆さんも、このような闘いの路程を経なければならないのです。
今、天は皆さん一人をおいて、皆さんが歴史的な犯罪者であるか、信仰的な変節者であるか、日和見主義者であるか、あるいは歴史と現実と未来に責任を負う実体になるか、ということを考えていらっしゃるのです。このような条件をかけて、皆さんに対していらっしゃるということを、皆さんは知らなければなりません。
それでは今、どのようにすべきでしょうか。今日皆さんは、天の前に捧げる祭物にならなければなりません。祭物とは何でしょうか。裂かなければならないものです。歴史的に見れば裂かれるものもあり、裂かれないものもありますが、裂かれないものは祭物にはなりません。これからは国家的な祭物もあり、世界的な祭物もあるのです。
このような祭物の理念をもっていく人々は、自分個人のために生きてはならず、社会のために、国家のために、世界のために生きなければなりません。皆さんは祭物となる場において、敗北する人間になってはなりません。このような裂かれる場、闘いの場においても、「おお、ハレルヤ! 主の栄光、六千年の神様の怨恨を解怨することができる栄光の一日だ。アーメン」と言えなければなりません。
昔日のヨシュアとカレブの立場を代表して、大胆に出なければならず、選ばれた第一イスラエルのように荒野に出て信仰の基準を失うことなく、勝利する天の選民にならなければなりません。
こうしてこのみ旨の中で耐え、カナンの福地に入っていき、天倫に対して再び責任を果たすヨシュアとカレブの立場に立ち、勝利しなければなりません。そうして勝利した立場で、お父様に永遠
に侍る真の息子、娘にならなければなりません。
5. 神様の所有と私たちの所有
一九五八年十一月九日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第五巻』
きょうお話しする題目は「神様の所有と私たちの所有」です。
◆主人を失った被造物
私たち人間の堕落によって被造物は主人を失いました。万物もそうであり、私たち自身もそのような立場に置かれています。堕落することによって人間は神様に絶対的に所有されることができず、また、万物とこの世界を絶対的に所有することができずにいます。そして今日まで、絶対者であられる神様も、造った万物を自信をもって主管することができずにいらっしゃるというこの悲しい事実を私たちは知らなければなりません。
それゆえ、今までの歴史路程は、一人の主人の前に所有されるための路程であったというのです。時代を超え世紀を超えて、今日までその目的を成し遂げるために、波瀾と曲折の闘争歴史を経てきたという事実を私たちは念頭に置かなければなりません。
このすべての被造万物が存在するという事実が否定できないものであるからには、この被造物を主管する主人、何らかの絶対者がいなければなりません。そうして、その絶対者の主管のもとに誰にも讒訴されないような絶対的な安定点を求めない限り、この世界は闘争の歴史を免れることはできないのです。
神様が造られた万物を、御自身のものだと主張できない事実を今日の信者たちはよく知っています。神様は全精力を傾けて造られた万物を、み意のままに主管することができず、み意のままに活用することができない立場にあられます。それで本来の立場を回復するための神様の摂理歴史が存在するようになり、今まで信仰者というものはどの時代でも、悔しくも命を落とし、悔しくも迫害を受けながら神様のみ旨を求めてきたのです。
数多くの子女が天のために忠誠を尽くし、天のために生命を捧げ、その一つのみ旨を成し遂げてさしあげるために戦ってきました。しかしながら、天が善の理念を中心として、勝利の栄光を中心としてその子女を主管することができないというのも、また神様の悲しみです。そして真の信仰路程を行こうとする真の人々の悲しみです。
神様が御自身の実存的な所有の価値を全宇宙の前に誇ることができるその一日は、神様の摂理の総決算の日であり、すべての被造物の願いの焦点であり、イエス様と今まで生まれては死んでいった聖賢、賢哲が願う基準点なのです。
今日、皆さんが生きている生活環境を考えてみたとき、皆さんのもっている所有物や皆さん自身、皆さんの属する家庭、皆さんの属する社会、そして皆さんの属する国家と世界は誰のものだと声を大にして言うことができるでしょうか。それらが天の所有だということもできず、皆さんのものだということもできません。これが今まで堕落した人類にとって悲しみだったのです。
神様は救援摂理という標語を立てて、御自身に従おうとする人に対し、「この世のものをみなもって私のために生きなさい」と言うことはできなかったのです。このような神様の悲痛な事情を私たちは感じなければなりません。人を万物の主管者の立場に立てるべき神様でありながら、所有しているものをみなもって御自身に従いなさいと勧告することのできない神様の事情を、私たちは感じなければなりません。
それゆえ、修道の路程を行く人ならば、どの時代、どの民族、どの世界に属しているにせよ、自分の持っている所有物まですべて完全に切り捨てて従いなさいと言われる神様の悲しい心情を、身にしみて知るべきであり、身にしみて感じるべきであり、身にしみて体験しなければならないのです。それができない人は、神様の所有権が取り戻される時が来れば、神様と何らの関係ももたないことになるのです。
今日、宗教を信じる人は「救いを受けたい」と言います。「天の人になりたい」と言うのです。また天国の民になり、選ばれた第三イスラエルの名を名乗ろうとしています。そういう心をもつのは良いけれども、自分自身がそれをもつための基準と資格をもっているかどうかが問題なのです。
この地には数多くの立派な人が生まれては死んでいきました。しかしながら、天が万物を主管することのできない立場に置かれているがゆえに、この地を完全に主管し、自分のものとして決定づけることのできる勇者が現れることはありませんでした。
それではこのような歴史路程はいつまで続くのでしょうか。この地は永遠に私のものだと主張できる一人の主人公が決定されるその日まで、歴史は曲折の路程を経ていくことでしょう。
今日まで人間は文化、あるいは政治権力であるとか宗教、そのすべてを自らの所有であるかのように誇ってきました。しかし、時代の変化によって、ある民族が誇った文化は、その中心が他の所に移され、ある主義主張を中心としてきた政治権力もみな変わり、宗教までも変わってきたのです。歴史路程を考察してみると、このような事実がよく分かります。すなわち、そのいかなる動きも決定的な所有権をもつ立場に立つことができなかったという事実を、私たちは歴史路程を振り返って知ることができます。
◆人間が守るべき道理の基準
神様が完全に主管することができない時に自分勝手に行動したのが堕落の発端でした。神様が完全に主管することのできる時を迎えた上で人間始祖が行動したとすれば、堕落することはありませんでした。
神様は創世以来、今日まで主管的な権限を行使することができませんでした。それゆえ、歴史的に数多くの人が民族を動かそうとし、国家を動かそうとし、世界を動かそうとしながらも、その時代の総責任をもつ位置にとどまることはできなかったのです。
個人のみならず氏族、部族、民族、国家、そしてさらには天地までも神様が主管する時が来なければなりません。天と地、霊界があるとすれば、その霊界まで神様が主管するようになる必然的な動きが歴史的終末時代に現れなければ、神様が主管する全体の理念は成就されないのです。
それゆえ天は、人間に対し、自分のもっている物をすべて捨て、自分の生命を捨て、自分のもっている理念を捨て、この地の喜びである情までも捨てろと要求していらっしゃるのです。これが人間に向かって主張される神様の道理の基準です。
それでは神様は、なぜこのように要求され、条件を私たちに出されたのでしょうか。それは絶対者の所有の権限が現れる時が必ず来るので、その時に私たちを神様の前に立つための十分な資格をもった者とするためでした。ですから、これが今まで神様に従って善のみ旨を求めていく人が守るべき必須条件になってきたのです。
キリスト教の歴史を振り返ってみても、神様は、人に喜びを与える前に苦痛を受けるようにされ、何かを誇らせる前に迫害を受けるようにされ、自ら楽しい環境を避けて休まず祈祷しなさいと言われました。神様がこのような修道の基準を人間に示されたのは、ある一時を契機に人間が神様の完全な所有となるようにするためでした。
聖書のみ言を見れば、「(あなた方はすべてを捨てて)まず神の国と神の義とを求めなさい」(マタイ六・三三)とあります。それでは、神の国と言うことができるその国、神の義だと主張できるその義はどこにあるのでしょうか。また、神の人だと主張できる人はどこにいるのでしょうか。
神様が所有できるのは善の国です。その国は、宗教を超越し、一国家という観念を超越し、人間の差別を超越し、主管を超越し、どのような文化や思想も超越する善の国なのです。
ゆえに天国とは、東西を問わず、善なる人が自分たちの理想的な国だと主張した国であり、自分が住みたい所だと主張した所です。そして天国は自分のものを安心して主張することができ、所有の観念を立てることができる所です。
今日キリスト教ならばキリスト教、ある教派ならば教派が自己中心的な所有観念に染まっているとするならば、打たれる時が必ず来ます。ある一つの国家の主義だけを中心として全体を引き寄せて糾合しようというような主義があったとすれば、それを打つ時が必ず来るのです。
神様はサタンまでも容認なさいます。それでは、神様がサタンを打つことができずに容認される理由とは何でしょうか。そして、サタンの懇請を聞き入れ、サタンの讒訴条件を聞き入れてやる理由はいったい何でしょうか。それは、たとえサタンが神様のみ旨に反対し、従わないにせよ、神様を嫌ってはいないからです。サタンは神様のみ旨に従わなかったけれども、心の底では神様を尊敬し、神様を好んでいるからです。
サタンが神様に向かって「神様! 私の手中にあるこの世界をあなたに捧げます。ですからアダムの代わりに私をその位置に立ててください。そうしてさえくださるならば、私も人間以上に神様に侍ります」と懇請しているのです。サタンは、神様が自分をそういう立場にさえ立ててくださるならば、人間が侍る以上に神様に侍るというのです。神様はこういう困難な立場にいらっしゃるのです。
◆神の所有とサタンの所有
それでは天が多くの先知先烈を送り、イエス様を送って、なさろうとしたことは何だったのでしょうか。サタンが知る以上に神様の事情を知り、サタン以上に神様のために生きる人を立てて、サタンに対する所有権を行使しようとされたのです。これを完成するのが再臨歴史の目的です。
それではサタンがサタンとなった動機はどこにあり、天倫を破綻させた動機はどこにあるのでしょうか。アダム・エバよりも神様の愛を多く受けようというところにありました。神様がアダム・エバを愛する以上にアダム・エバを愛そうとし、アダム・エバが神様を愛する以上に神様を愛そうとしたならば、サタンは堕落しなかったはずです。ここで条件が引っ掛かったのです。自分のためよりも人のために生きることができず、善に仕えることができないのが悪です。今日、堕落した人間はこの条件に引っ掛かっています。
それでは、神様が所有できる国とはどのような国で、また神様に所有される人とはどのような人なのでしょうか。また、神様に所有される万物とはどのようなもので、その帰結点は何なのでしょうか。自分を中心とするものは、いかなるものであっても神様が所有なさることはできません。神様を中心とする立場に立った存在は、神様に吸収される存在であり、神様が所有なさることのできるものです。逆にサタン世界の法は、自分のために生きろという法です。それでサタン世界の人々は家庭、社会、国家、世界、天地のあらゆる存在が、すべて自分個人のためだけに存在すべきだという考えをもっています。これが善なる神様の法度と異なる点です。
それでは善なる人とはどのような人でしょうか。自分が所有しているすべてのもの、観念までも他人のものとし、あるいは全体のものと感じて全体のために使うことのできる人です。
そうして人間世界でどのような堕落の現象が起きたかというと、万物と世界と神様までも自分を中心とした生活の中に引き込もうとする現象が起きました。これが正にサタンの役事によって生じた堕落の現象です。
それでは善の役事とは何でしょうか。私個人に革命を起こし、神様のために、世界のために、人のために新しい方向の路程を開拓していく役事です。これは正に宗教の目的でもあります。
それゆえキリスト教の歴史を振り返ってみると、時代や世紀を問わず神様の使命を担い、神様のみ旨に従った人の中には、自分のために生きた人間は一人もいませんでした。
今日まで、サタン世界で自分を中心として「自分のために生きよ」と言った英雄豪傑はみな消えていきました。そういう人は歴史が過ぎれば、みな批判されるのです。
◆イエス様が主張された主義
イエス様がこの地に来られた目的は何だったのでしょうか。神様が所有できる国、神様が所有できる人、神様が所有できる万物を回復するためでした。またイエス様が主張した主義とはどのような主義だったのでしょうか。イエス様の主義は「自己を犠牲にし、民族と世界と宇宙のために奉仕しよう」という主義でした。宇宙のために多く奉仕し、多く犠牲になった人はその宇宙の主人公となるのです。
今日、悪の世界でもそのような人々をたくさん見かけます。無言で忠誠を誓い、無言で奉仕する群れは、いかなる国家、いかなる社会、いかなる所へ行っても主人になれるのです。
神様が個人と家庭、社会、国家、世界、天宙を所有なさるための権限を取り戻してさしあげるべき責任が、今の私たちにあるということを感じなければなりません。この所有権は神様御自身が立てるのではなく、人間が立てて解決しなければなりません。このような重大な義務が残っているがゆえに、歴史的な摂理を代表してきた多くの聖賢や賢哲たちは、この義務を完遂するために命を落としてまでも行くしかなかったのです。
イエス様は、三十年余りの生涯をヨセフの家で働きながら、「私は神様の息子である」と主張できませんでした。「私は天の全権大使のごとき存在だ」と主張することができなかったのです。なぜならば神様もまた、長い歴史の中で、そのような主張を一度たりともなされなかったことをイエス様は知っていらっしゃったからです。それで、ゲッセマネの園で十字架を前に最後の祈祷をする場でも、自分の願いを中心として「父よ! 我が願いをかなえ給え」という祈祷はなさらずに、「父よ、私の思いではなく、み意のままになさってください」と祈祷されました。
イエス様は、救世主として地に対する使命感と責任感が大きければ大きいほど、強ければ強いほど、自身の存在意識と所有観念も強いはずです。しかし、御自身は自分のためだけに生きてはならないということをあまりにもよく御存じでした。
また、イエス様はあくまでも自分は神様のものであり、神様に所有されるべき自分であることを知っていらっしゃったがゆえに、神様の心情を体恤すると同時に神様のみ旨を求めていくことができたのです。それで神様の心情を自らの心情とし、神様のみ旨を自らのものとすることができる立場に立つようになりました。それゆえ、被造万物と、天のみ旨と心情に従うべき人間の前に、救い主としての資格を備えることができたのです。
◆天国の民としての資格
それでは、天国の民とはどのような人でしょうか。自分が率先して万民の前に奉仕の旗を掲げて立ち上がる群れです。今日私たちが一つの民族を救うためには、自分の所有物をすべて、その民族のために分けてあげなければなりません。それでも足りないならば、自分の生命をも捧げることのできる人にならなければなりません。このような人が天国の民になることができるのです。このような民を集めて、天国理念を成就しなければならない神様の事情があるのです。
イエス様が、一つの所有的な価値をこの土地から決定されようとした事実を知っているならば、自分を中心において考えてみなければなりません。イエス様は、「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな」(マタイ六・三一)と言われました。これは、その時代の人々には矛盾する警告のみ言でした。
それでは、どうしてこのようなみ言を語られたのでしょうか。それは六千年間、飲まず、食わず、着ずにでも回復すべき天的な所有の理念が残っていたからなのです。
神様は、たとえ飢えて哀れな民族があったとしても、その民族以上に哀れな立場にあられ、たとえ悔しい立場に置かれた民族があったとしても、その民族以上に悔しい立場にいらっしゃいます。
それにもかかわらず神様は、私たちが自分で自分のことを案じるよりも、もっと私たちのことを心配していらっしゃるのです。ところが、知るべき人がこれを知らずに、自分個人を中心として思い煩っているのを見て、イエス様はこのように語られたのです。
したがって今日、イエス様のこのみ言どおり、神の国とその義とを求めようとする人であるとするならば、その人は自分が飢えていることに関し、「この地で私のように飢えに苦しむ善なる群れがどれほど多いことでしょうか」と、憂えつつ天の前に訴えるべきなのです。善なる立場に立っていない者が飢えに苦しむのは当然であって、善の立場にある人が飢えてはならないというのです。そのように善なる人々のことを案じなければなりません。私たちはこのような運命を背負っているのです。
ゆえにイエス様は、人が着るに着られず、食べるに食べられない立場にあっても、神様が所有できる国と民をつくるために苦労してくれることを願って、このように語られたのです。
それでは神様がいらっしゃるとすれば、どのような人を御自身の子女として選ばれるでしょうか。自らの飢えと困難を乗り越えて、手を挙げて人々を祝福してあげることのできる人を選ばれることでしょうし、自らの悔しさと悲しみを乗り越えて、神様の悔しさと悲しみを思いやって泣く人を探し求められることでしょう。
そうしてイエス様は自分自身の死が間近に迫っている十字架上でも、怨讐を見つめて「天よ! 永存なさる天よ! 彼らの前に永遠の罰を下し給え」と言うことはできず、むしろ手を挙げて彼らの幸福を祈られました。そのようなイエス様の心情が天国の民の心情であり、神様の心情なのです。
このような原則に基づいて、今日の私たちの信仰生活と、神様を信じているというキリスト教徒について考えると、天国に残ることのできる民がどれほどいるでしょうか。さらには、神様が所有し、永遠に主張できる民族はどこにあり、神様の国だと主張できる地はどこにあり、そういう人はどこにいるのかというのです。
皆さんの誰もが天国へ行くことを願っています。それどころか今日、「天国は私のものだ」と自信ありげに主張する人を時々見かけます。そのような人を見ると、どうして所有的な面に関して、神様以上にそれほど堂々と言うことができるのかと思うことがあります。神様御自身も、イエス様も、いまだ天国は私のものだと主張できる立場に立っていらっしゃらないのに、どうしてそう言えるのでしょうか。イエス様は今でも天に向かって祈祷する立場にいらっしゃいます。また、神様もいまだに苦労していらっしゃいます。
霊界にいる数千億の霊人が地上に協助はしても、解放された立場、栄光の場で楽しく暮らすことができないのは、なぜなのでしょうか。どうしてこのような立場に立たなければならないのでしょうか。それは神様が創世以来、天国をつくっておきながらも、御自身のものだと主張できない立場にいらっしゃるからです。神様がこのような立場にいらっしゃるにもかかわらず、今日この地上の聖徒の中には、天倫の原則に反する立場に立って、先ほどのような主張をする人がいるのです。
◆聖徒が苦労の道を行かなければならない理由
神様は六千年間、この地に神の国と民を求めてこられました。そのために苦労された六千年間の歴史的な借金が積まれています。したがって私という個人が満足と喜びを得たからといって、天国を所有していると言うことはできません。
自分が天の息子、娘ならば、神様に代わって思い案じ、神様に代わって保護すべき責任のある地が残っていて、世界が残っています。これらが神様の所有となっていない限り、自負することのできない自分であるということを感じなければなりません。
ゆえに、イエス様は天の王子として、主導的に行使する心的な基準を備えてこの地に来られましたが、それを一度も行使できなかったのです。弟子の足を洗ってあげるかと思えば、行く所行く所で病にかかった人を治してあげました。イエス様の生涯路程で、自分のために暮らした日は一日たりともありませんでした。
その生涯を振り返ってみると、ひたすら「ため」に生きる生活でした。「ため」にさまよい、「ため」に涙を流し、「ため」に非難を受け、「ため」に裂かれ、「ため」に命を落とす悲しい生活でした。
いつの日か、神様をこの悲しみの鎖から解放してさしあげなければなりません。そして、神様が、全天地は私のものであると主張し、手を挙げて、万民に向かい、「共に楽しもう!」と言うことができるその日が来るまでは、自分の立場を主張できないのです。このような曲折があったがゆえに、キリスト教では愛を強調し、犠牲と奉仕を強調し、迫害を受け、さげすまれる生活を強調したのです。
それでは、私たちが神様に所有されるためには、どうすればよいのでしょうか。神様のために涙をたくさん流さなければなりません。神様の悲しみを自分の悲しみとし、神様に代わってその苦労を担った分、神様の所有となり、神様の代わりにサタンの讒訴を受けた分、神様の所有となるのです。したがって皆さんが行い、忠誠を尽くした分だけ、神様に所有されるのです。
心地良い立場で所有されるのではなく、人々がみな嫌って避ける悲しみや苦痛を抱いて忠誠を尽くすときに所有されるのです。この道こそキリスト教徒が進むべき原則の道です。
韓国のキリスト教に火がついたのは、草創期のキリスト教徒が正にこのような路程を歩んだからです。もし、「私たちは天国の民なのに、どうして死ななければならないのか」と拒む群れが現れたとするならば、神様の摂理とみ旨は韓国に伝播されなかったはずです。
またイエス・キリスト自身が「私は神様の息子なのに、なぜ死ななければならないのか、なぜ非難され、さげすまれなければならないのか」と否定したならば、今日までの救いの路程は人類歴史上に現れなかったに違いありません。
すべての国家で、国民を指導する方法として、愛国者を例に取りながら忠誠心を教えるのはなぜでしょうか。それは、自らの家庭を捨て、自分自身の欲望と名誉を捨てて、国の義を代表しているためです。愛国者とは、その国が受ける苦痛と悲しみを代表して受け、自分がまず悲しみ、その国の主人に代わって、すべての責任を負って立とうとした人なのです。これが天の法を守る姿勢なのです。
今日、混乱したこの世では多くの人が自分の主張を立て、自分の権威を示そうとしています。真のクリスチャンを探し出すのも容易ではありません。神様の真の息子、神様が所有できる真の民に出会うのは一層困難です。
今、私たちは友を迎え、一つの天国の民となり、一つの教団をつくって一つの氏族を編成しなければなりません。
ところが神様から所有の決定を受けた聖徒はこの地のどこにいるでしょうか。その教団はどこにあり、その民族はどこにいるのでしょうか。私たちは、自らもてる限りの力を注ぎ、疲れ果てるまで叫び、倒れるその瞬間まで足を動かして、それを取り戻す時が来たということを知らなければならないのです。
◆民族と世界を救わなければならない人々
今日皆さんは、自分の身なりを整える前にこの民族を良くしようという心、自分のことを考える前に、この地の万民のことを考えようという心に満ちていなければなりません。さらには、一握りの草をも抱いて泣いてやることができる心が、知らず知らずのうちに心の中で爆発するようでなければならないのです。このような心情をもたなければ、完全な神様の息子、娘になることはできません。
このような人は神様の涙の結実であり、神様の苦痛の結実であり、また、神様の血の祭壇に上る祭物なのです。それにもかかわらず、このようなことを考えもせずに、自己を主張する人が多くいます。
この民族の行く道を開拓する者は誰でしょうか。心からこの民族のために、地を打ち、胸を打って号泣する民が現れなければなりません。そしてこの分裂した教団を誰が正すのでしょうか。教団を抱こうという燃え上がる熱情をもった人々が、偽善者と対決するために地を打ち、訴えて、血を流す血闘戦を覚悟して立つことができなければなりません。
今日では、西洋の物質文明がよく発達しています。大陸エジプトに出発して、アッシリア文明、バビロニア文明を通し、ギリシャ文明、ローマ文明を経て、今まで西欧文明を形成してきたのです。
宗教史上、イエス様の当時、既に三千年以上の文明を誇っていたエジプトは、何を中心としてそのような文明を築いてきたのでしょうか。
エジプトの人々は太陽神を崇拝し、オシリス(Osiris)という神を信じていました。このような信仰と思想で、彼らは精神を武装し、団結した力を発揮して、そのような文明を築いたのです。彼らはこれを政策的な理念として礼式を強化し、その理想的な標準に向けて民族を率いて、エジプト文明を誕生せしめたのです。
そうして国を建て、支配し得る基準をもつようになったのです。この時彼らは、異邦の国に良い点があれば、その良い点を吸収すべきでした。ところがそのような道を行かなかったのです。当時、自国のいかなるものでも犠牲にして、それと引き換えに受け入れたならば、この国は滅びなかったことでしょう。
ところで、この国家は滅びましたが、その文明は歴史に沿って発展してきました。オリエント地方ではアッシリア文明とバビロニア文明が発祥しましたが、パレスチナ地方ではユダヤ教を中心としてヘブライズムが形成され、神様を中心とした文明が発展しました。
◆宗教を中心とした歴史の発展過程に込められた教訓
ギリシャ地方では外的な神様の理念を中心としたギリシャ文明が発展しながら、芸術を崇拝する様々な思潮と内的に調和をなしました。これが知識の王国ギリシャを経て、ギリシャ人がつくり出した独特な宗教的理念になったのです。
そうして世界的な文明圏を形成したのですが、混乱した思想圏の時代を経る過程でキリスト教思想と融合し、その後ローマに渡り、キリスト教文明を築き上げました。
中世のキリスト教は、その宗教理念を中心として、その理念のもとにいる人たちを、上下を問わず吸収し融合すべきでした。ところが、この目的を達成できずに世俗的に堕落してしまったので、神様もこれを打つことになりました。
もしローマ教皇庁が腐敗することなく、その存在は世界と人類のためにあるという使命感をもって、自分が良いという以前に他人が良くあるように、すなわち、自分よりも人のために生きる思想を唱えたならば、教皇庁は衰退しなかったことでしょう。
ところが、ローマ教皇庁はそれができなかったため、これをそのまま残しておくことができず、神様は外的には文芸復興(ルネサンス)を起こし、内的には宗教改革を起こして、旧教を打たれました。そしてそののちに、ピューリタンを中心としてアメリカ大陸へ渡り、そこでキリスト教理念を中心とした国家を建設するようになったのです。すなわち、ローマの政治理念、キリスト教の宗教理念、ギリシャの知性主義が融合し、今日すべての民主主義を支配する汎米主義が形成されたのです。
それでは文芸復興運動とは何でしょうか。それはヘレニズムの復古運動、すなわちギリシャ精神に基づいて人間本性を回復し、自我意識を強調する運動でした。同じように、今日民主主義圏内にあるキリスト教はすべて、初代キリスト教精神に帰らなければなりません。外に現れたみ言だけを信じるのではなく、そのみ言に内包された思想を求めて、それを中心として再武装する運動が起こらなければなりません。もしそれができなければ、現在のキリスト教は、中世の旧教と同じ立場に立つことになってしまうのです。
なぜそうなのでしょうか。それは神様のみ言が必要なのではなく、神様の人が必要であり、神様の民族、神様の国が必要だからです。み言はそのためにあるのです。
◆神様が所有を願われるもの
今や、「み言絶対時代」は過ぎ、「実体絶対時代」を築く時が来なければなりません。み言通過時代を経て実体通過時代という歴史的終末時代が来るというのです。この時代は審判の時代です。
歴史は今日の私たちに警鐘を鳴らしています。過ぎし日の先知先烈(預言者と義人)の歩みは、私たちの生活に働きかけ、その精神は私たちの思潮を背後から調整しています。ここから離脱する人は、天法によって大手術を受ける時が必ず来るのです。
それでは、神様がその地を取り戻し、地の人を取り戻して、天のものとされたのちにはどうなるのでしょうか。神様の生命を自分のものとして誇ることのできる日を迎えなければなりません。神様の理念と、愛の全宇宙と、人類の前に誇ることのできる日を迎えなければなりません。
それでは今日、皆さんの中に神様の生命を誇る人はいますか。また、栄光の天国をつくるために生命まで捧げようとした人はいますか。そして神様の真の息子、娘になろうと、この地に天国をつくろうと立ち上がった人はいますか。
多くの人が復帰過程において、サタンの讒訴圏で天国を味わったかもしれませんが、サタンを除去した中で、本当に永遠の平和な祖国である天国の味を体恤した人はいません。真の天国を味わい、神様の愛を感じた人は、「サタンと戦わなければ」という刺激を受けるのです。そして真の天国の味を感じ、神様の愛を一度受ければ、二度と神様から離れることはありません。このように神様の愛を体恤した人がこの地上に現れなければなりません。
それでは神様に所有される限界線はどこでしょうか。それは一握りの草から、一坪の土地から、一人の人から、最末端から出発して天国まで、さらには、神様の心情世界までです。
その所有の形態が相対的であったり、観念的な形態であってはなりません。主体的で主観的な形態でなければなりません。そういう世界が建設されて初めて、神様が安息することができるのです。
神様が好まれることを人間も好まざるを得ません。それで神様は、第七日を安息の日と決め、休むように言われたのです。ところが六千年歴史を経た今日まで、安息の日を誇りつつ休むことのできなかった神様であられることを、皆さんは知らなければなりません。
イエス様も福音のみ言を強調し、安息の重要性を強調しながら二千年、摂理歴史の曲折の中で戦いの歴史を抱いてきましたが、勝利の栄光の一日を迎えて父の前に誇り、万民と共に安息しようとされたことはありませんでした。このように神様とイエス様が安息できない立場にいらっしゃるので、私たちも安息することができないのです。
それゆえ、安息の日の前には戦争が起こり、安息の日の前には苦痛があり、安息の日の前には死があるのです。これを覚悟して越えて初めて、私たちは安息を味わうことができるのです。イエス様が十字架ののちに安息の一面を感じたのも、そのような道をたどったのちのことでした。
それでは、今、私たちは何を所有すべきなのでしょうか。安息の園、幸福の園、善の園、愛の園、理想の園を所有しなければなりません。しかしこれを所有する前に、私たちはまずサタンに打たれ、天にも打たれなければならないのです。イエス様も、サタンと天に打たれました。ユダヤ教のパリサイ人がイエス様を追い立てたのと同時に、ローマ人たちも追い立てました。その次には、イエス様が十字架で亡くなる時、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・四六)と切実に祈祷されたことを考えると、神様からも捨てられたのです。
ゆえに天国を所有する人、天国に所有される人は、神様を求めていく路程で、神様のために最も哀れな立場に置かれる人です。また、世界人類の中で神様を所有することのできる民族とは、最も哀れな民族です。そのような民族であればあるほど神様に近いのです。
◆神様が所有できる人と民族の責任
終わりの日には大患難が来るといわれています。この時には自己を中心として所有しようという思いが強い者、自己を中心として楽に生きようと行動する者は、強く打たれることでしょう。これが大患難です。しかし人間にこれを経させて覚醒し、大審判を通過させようという神様であられることを思うと、私たちは神様に感謝しなければなりません。
もしこれがないとすれば、真のために生き、真のために死のうとする人は哀れです。したがって死の墓で残る群れが、安息の園の主人公になるのです。
このように考えると、聖書六十六巻すべてを捨てたとしても、イエス様が死に臨んで証したその真理にすがって実践した人は、イエス様の所有となり、神様の所有となるのです。
皆さんが正義に燃える心、新しい理念の園を建設しようとする切実な心をもっているとするならば、皆さんの一挙手一投足は神様が所有されているみ旨を成し遂げるためのものでなければならないし、神様が所有されている権限を成就するためのものでなければなりません。したがって今、皆さんは自分を越え、世界を代表して戦わなければなりません。皆さんの手と足、皆さんの体がそのように動かなければなりません。
今、この時代は神様の再創造理念を成就すべき天宙時代です。このような時に、新しい安息の園をつくる天の勇士となるためには、まず、サタンが干渉できる要素をすべて出してしまわなければなりません。そして天国にあるすべてのものを神様の前に集め、神様を慰労してさしあげなければなりません。そのためには、天のために歩まれたイエス様や、六千年の間み旨のために行った人が歩んだ道以上の困難な道が皆さんの前に横たわっていたとしても、勇ましく歩んでいくことのできる心情をもたなければならないのです。
神様の世界と神様の理想を所有する前に、神様の苦痛と悲しみを所有し、神様が行かれた逆境までも所有しなければなりません。そのような人は天国と地獄を主管することができます。
イエス様はどうして地獄を主管することができたのでしょうか。もし、善なる面でだけ神様のみ旨に責任をもち、神様のために亡くなったとすれば、天国は主管できても地獄を主管することはできません。イエス様は悪なる環境の中でも自らの節義と気概を守り、天的な基準を立てたがゆえに、地獄までも主管できる基準に立ったのです。
今、皆さんは地獄の苦難の上に立ち、サタンに対し、勇んで勝利できる資格をもたなければなりません。そのためには、皆さんは神様の善を証し、神様の義を案じ、神様の全体的なみ旨を堂々と現すことができなければなりません。
そうして初めて天の祝福を受けることができるのであり、その時に天の前に出ていくことができるのです。それゆえ、私たちは最後の審判の舞台まで、最後の決定点まで走っていかなければなりません。今、皆さんは民族と世界に向かって走り、乗り越えていかなければならないのです。ところがそれを越えていくには、個人や民族、世界がすべて打ってくる過程を勝利しなければなりません。
そこで変わらぬ理念をもち、感謝して越えていく群れがあったとすれば、彼らは天の民となり、新しい家庭、新しい社会、新しい国家を形成し、天国を築くことができるでしょう。
それゆえ自分のことを案じて泣く人は、哀れな人です。宗教家が断食をするのも、自分を中心としてあえぐような立場から離れるためなのです。それでわざわざ断食や試練をするのです。そのような場を避けてはなりません。それを感謝して越えなければならないのです。
神様は、サタンをも神様の仕事をしたという基準に立たせるために、六千年間耐えてこられました。皆さんが、悪を中心として動いてきた人をみな、善で屈服させる日が大審判の日なのです。そういう立場に立って神様に誇ることができる人は、大審判を越え、神様の所有となることでしょう。
◆最初に神様のものとなるべき人間
イエス様は「わたしが父におり、父がわたしにおられる」(ヨハネ一四・一一)と語られましたが、これは有り難いみ言です。皆さんもそのように感じなければならないのです。そうなれば皆さんは、失ったとばかり思っていた全宇宙が、より素晴らしい姿で、神様と共に皆さんの前にあるということが分かるはずです。
「わたしがあなたにおり、あなたがたはわたしにおる」というみ言は空言ではありません。それでこそ、神様のものであるとともに、私のものとなり、神様であると同時に私となるのです。それゆえ神様は私を探し求めていらっしゃるのです。神様は人間のために万物を造られたわけですが、人間に与えた万物を再び神様に返すための焦点の対象として人を立てたがゆえに、人間がいなければ神様はどうしようもありません。
それゆえ世の中には循環運動をするという理致があります。力の作用が直線方向にだけ及んでいくとすれば、消耗するばかりです。神様が被造世界を創造された原則的な目的は、直線に進む力を戻すためです。したがって世の中の理致は、回るという理致であると同時に動くという理致です。
皆さんが化学で物質を研究し分析するときには、運動や作用といった様々な現象を観察しますが、その理致から外れた存在はありません。そのすべては三六〇度回っているのです。宇宙も回り、社会も回り、私の心も回っています。
全宇宙の中心である神様の心情を中心として回ることができる人は、神様が回るときにはその人も回ることでしょう。神様が回る限り、この宇宙も回るのです。神様が回れば私たちが回り、万物が回ります。
そのような立場に立って初めて、神様の心情が私たちの心情と化することを感じ、神様の心情を体恤できるのです。それでパウロも、自分が体の中にあるのか、体の外にあるのか分からない境地を強く感じただけでなく、三層天であるとか、無形実存体の存在を感じることができたのです。そこから信仰の威力が発生するのです。
イエス様もこのような境地から主張する、その一時を待ち望んで今まで耐えてこられたのです。キリスト教信者も、そういう一時を待ち望んで今まで耐えてきました。
皆さんは来たるべきその一時を迎えるにふさわしい心的基準ができているでしょうか。そのためには、皆さん自身がまず神様のものにならなければなりません。私の主観も神様のものであり、私の生命も神様のものでなければなりません。さらには、家庭や社会をはじめ、私たちがもっているすべてが神様のものとならなければならないのです。
ところが、神様が御自身のものとされるとしても、サタンが主管して汚したものは取ることはできません。サタンの要素があってはならないのです。神様は罪悪の要素を除去してから、御自身のものとされるのです。人類歴史はこのように神様の悲しみに満ちた復帰歴史なのです。
それゆえ祭物を捧げる時は、刀で二つに裂かなければならないのです。皆さんにもそういう時が来ることでしょう。それゆえ終わりの日には裂かれる役事が行われることでしょう。韓国が南北に分かれているのもこの理致から来るのです。
皆さんがこういうことを知って、自分の生命を父に捧げようとしても、神様は何らかの条件なしには受けることができません。そのまま受けると、サタンの讒訴に引っ掛かるので、むちを取って打ってから受け取られるのです。そうしてこそサタンが讒訴できないのです。
神様が選ばれたノアもそうであり、アブラハムもそうであり、モーセやイエス様もそうだったのです。したがって今日の私たちも、そのような道を歩んでいかなければならないのです。もしその道を避けて戻ろうという人がいるとするならば、その人は正常な門に入る群れとなることはできません。
◆神様の心と事情を知るべき私たち
窃盗や強盗とは、他人のものを自分のものとして行使し、利用しようとする者です。皆さんはそういう人になってはなりません。このようなことをよく知って、復帰の峠を越えなければならないのです。
このように考えると、「私の生命をお父様に捧げます」といくら祈ったとしても、「そうか、お前の生命を本当に待っていた」と言って受け取ることはできない、父の悲痛な事情を知らなければなりません。そういう事情を知る前に、私たちのすべてを父の前に捧げたとしても、父は受け取ることができないのです。
このような事情を人間に語り、また解くべきであられたイエス様が、それができずに亡くなられたために、再臨という悲痛な事実が残されたのです。
それでは今日、終わりの日に置かれた私たちはどうすればよいのでしょうか。「そういう父の悲痛な事情、曲折の心を私たちに知らしめ給え」と切に願うべきです。そしてさらには、自分のすべてを捧げてまでも蕩減の道を行かなければなりません。これが終わりの日の聖徒が行くべき道です。そのような所を探し求めて先に越え、勝利すべき、世界的な運命の道に置かれた私たちなのです。
聖書では終わりの日には七年の大患難が来ると預言されています。今後試練と試験を嫌って避ける者は、天国へ行くのは難しいでしょう。しかしこのような時を喜んで、「どうか来たらしめ給え。たとえ私の生命が途絶えることがあったとしても、七年の大患難を越えさせ給え」と言うことができる息子、娘が現れることを神様には願っていらっしゃるのです。
そうなれば六千年歴史をはじめとして、天国と神様の心情まで所有する者になることができるのです。そうして私たちが話して要求すれば、いつでも神様が応じてくださるような所有的な存在、すなわち神様に代わる絶対価値的存在として立つことができるのです。
そうなって初めて、父は私たちのことを誇り、私たちは苦労された父の前に謹んで敬拝を捧げ、慰めてさしあげることのできる日が来るのです。
7. 懐かしきエデン
一九五九年六月二十八日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第六巻』
この時間にお話ししようとするみ言の題目は「懐かしきエデン」です。
◆本然の世界を懐かしがる人間
堕落がなかった本然のエデンの園を考えるときに、誰でも思い浮かべるのは何かというと神様です。神様が思い浮かぶと同時に、神様が六日間の創造を済ませ、祝福なさったアダムとエバが思い浮かびます。また、神様を中心として、罪のない本然の私たちの先祖がいたということが思い浮かぶと同時に、罪悪の侵犯を受けない万物が思い浮かびます。
万物があるのは人間のためであり、人間がいるのは神様のためであったということを考えてみるときに、天を中心とした人間になれず、本然の人間を中心として和動できる万物になれなかったという事実は、エデンを思う人間にとってとても大きい悲しみであり、わびしさであり、あるいは悔しさとして残り、今日の私たちの心と体を捕らえています。
本然の世界と本然の園で生きていた私たちの先祖と、その先祖を率いていた善だけを中心として動いていらっしゃった神様について深刻に考えるときに、その方と今日の私たちはあまりにも遠い距離に置かれていることを自認せざるを得ません。そして、ある最高の善であられるその方と絆を結ぼうという切なる心情があればあるほど、自分がその最高の善、すなわち神様と遠い距離にあるという悩みを抱えざるを得ないのです。
このような悩みを解決しようという真の人がいるならば、その人は、神様を中心として生きるアダムとエバと共に和動できた万物や、善だけを中心に善だけをたたえることができた本然の世界、それらを壊してしまった堕落の痕跡に対して、より憤慨し、強い敵愾心を抱くまいとしても抱かずにはいられません。
善を指向して真の本然の世界を描いている一方、これが自分と絆を結び、時間性を超えて永遠の天的な心情と絆を結ぶべき仕事が残っているために、私たちの心は我知らず、随時その天的な心情と因縁を結ぶ道に沿って動いています。ところが、その動く心情をつなげ得る外的環境を整えることができず、そうすることができる内的な事情を備えられないことは、私たち人間の嘆きなのです。
このように見るとき、自分一個体は堕落したアダムとエバを恨まざるを得ず、今日生きているこの現実の環境を恨めしく思わずにはいられない立場で、私たちは生きています。このような環境に自分がそのまま巻き込まれて、心と体が幸福を感じることができますか。それは到底不可能です。私たちには、このような環境を打開し、越えるべき、必然的な曲折の路程を経なければならない何かが、何かは知らないけれど残っているからです。
私たちは、今まで方向もよく知らないながら、何かを探してさまよってきたという事実を、もう一度思い出さなければなりません。今や、時が来ました。そして、私が真の良心を備え、良心の主体である天と永遠の絆を結び、永遠の幸福の基準を求めようとする切なる心がにじみ出ればにじみ出るほど、今日この地に対しては悔しさを抱かなければならず、私たちが生きているこの世界に対しては敵愾心をもたなければならないのです。この敵愾心を抑えきれない現実であるがゆえに、ここに及ぼされる苦痛以上の大きな苦痛はないということと、ここで解決すべき問題以上に大きな問題はないということを、私たちは再び感じなければなりません。
天があるというなら、こういう苦痛の中にある私たちを愛されるだろうし、このようにかわいそうな立場にある私たち人間を訪ねてくださるはずです。このように絆を尊重して、求めてくださる関係があってこそ、私たちは天があると認めることができるのです。
ゆえに、こういうかわいそうな立場に置かれている人間に対して神様は、人間が堕落したその日から今までの悲しい心を抑えながら、堕落した人類の足跡に沿って歩みつつ苦労していらっしゃいます。
◆エデンは天の心情が動いて暮らす所
今日、私たちは自分を誇る前に、堕落の宗族であることを自認しなければなりません。自分の何かを表すより先に、堕落性に染まった罪悪歴史を表して、罪悪の本性を告白しなければならないのです。こういう立場に置かれているにもかかわらず、そのような場をこちらに避け、あちらに避けなどしています。このようなことがたくさん現れるのを見るようになるとき、天は必ず歴史的に染まった罪状を清算しなければならず、血統的に結ばれて降りてくる罪悪の怨恨を解かなければなりません。
この罪悪の怨恨を解くことが天の願いであり、私たちの願いですが、そのすべてを表す日がないならば解怨の一日がないはずであり、解放の一日がないはずです。解怨と解放の一日がないならば、神様が摂理なさるみ旨が成就される一日はあり得ません。また、その成就の一日がないならば、人間に対して摂理してこられた神様の栄光の一日がないはずであり、摂理を後押ししてきている人間も、栄光の一日を迎えることはあり得ないのです。
それゆえに、これから私たちは心と体で、あるいは心霊で、自然のあらゆる神性を感じることができなければならず、人間の本性で天の心情の感触を感じなければならず、本性稟を通じて体に体恤されて入ってくるいかなる天心や天情をも感じることができなければならないのです。もしそういう人がいるならば、その人はこの地上に誰よりも幸福な人であらざるを得ません。
堕落前の人類の先祖は、神様の心情と通じることができる心をもち、神様が造られたあらゆる万物を収拾しなければなりませんでした。そして万物を天の前に栄光の条件、喜びの象徴的な対象、美の対象、刺激を起こすことができる一つの外的な対象として立て、その万物から来る刺激を通じて内的な刺激を起こし、天性の心情に対して栄光の実体であることを誇らなければならなかったのです。しかし、そうできなかったので、それが何よりもの悲しみとなったのです。
本然のエデンは、天の心情で動いて暮らすことができ、善と和することができ、天のその理念とともに生活でき、見聞きして感じるすべてが善の象徴であり、善を刺激させないものがない所です。私たち自らが、そこで天の心情と和し、善なる立場に立って父を父と呼ぶことができる栄光の時間をもつことができるならば、それは私たちにおいて最大の幸福です。また、天がそういう人間と絆を結ぶことができるならば、それ以上の絆を要求しないはずです。
神様の創造過程をたどってみれば、神様には真の神様の形状に代わり得る、真の善の父母になるべき私たち人類の先祖のアダムとエバを造るために、五日間あらゆる万物を造っておかれました。この主人公を造っておいて、神様はいかなる心情で見つめていらっしゃったのでしょうか。これをもう一度回想しながら、父を心から呼ぶことができるこの時間になるように願います。
私たちは、私たちの視線に刺激を与える森羅万象に毎日のように接しています。しかし私たちは、いつも同じ心情、あるいは同じ感情で森羅万象に接しているかどうかは分かりません。もし人間が堕落しなかったならば、善を中心とした本然の自然になったことでしょう。そうであったならば、私たちの先祖はこの自然を見てどのように感じ、また私たちを造られた神様はどのように感じたのかを、もう一度考えなければなりません。
◆私たちが探すべき心情
野原にある小さな草一握りでも、そこには神様の手がかかっていないものはないということを私たちは考えなければなりません。育っていく木の一株を見ても、そこには神様の無限な内的心情の絆を通じた事情を経由しています。
草木だけでなく、野原で跳ねているいかなる獣や昆虫、あるいはいかなる鳥類も、何げなく造られているものは何もありません。それらはすべて、徹頭徹尾神様の内的な心情を通じて、実体の手を経て造られたということを、私たちはもう一度感じなければなりません。
造られた万物を神様が愛されるとするならば、私たちはどのように考えるべきでしょうか。神様が万物を造っておいて、すべて「善であれ」と言われましたが、その中でも一番愛するものは何でしたか。草なら草の中でも、神様が一番愛する草が何であるかを考えるべきです。私たちが時間を惜しまず考えることができる、そのような立場にとどまることができるならば、私たちは人を造る前に万物と通じることができた神様の恵みと接することができるのです。
そして、一握りの草をつかんでもうれしがりながら、これが一日の願いの対象になるという事実を知って、喜びの心情をもたなければならず、神様が手をかけてできた草だということを体 恤しなければなりません。そのような人がいるならば、彼は堕落した人間であっても、初めに天地を創造なさった神様の心情世界では、神様の友人の立場に入っていくことができるのです。
私たちは、神様がお好きなものが草ならば草の中でどのような草が一番お好きか、花ならば花の中でどのような花を愛されるのか、造られた木の中ではどのような木をより一層愛されるかを考えなければなりません。鳥はもちろんのこと、飛ぶ昆虫などの下等動物から高等動物に至るまで、すべて神様の心情を通じた存在ですが、その中でもどれを天の父が一番愛されるのかを考えなければなりません。
天の心情を敬い慕い、天の理念を待ち焦がれ、天の復帰の園を見つめる真の心をもったという人の中には、神様をたたえながら栄光の立場、楽しむことができる立場で喜びを体得するために努力する人は多いかもしれませんが、小さな草木から昆虫に至るまで、さらには全体に及んでいる天の父の内的心情の絆を想起しながら喜ぶことができる人は少ないのです。御自身の精力をすべて傾けて、ある昆虫を造ったというとき、その方が傾けた以上の精力をもって愛そうという人が現れ、心の底からその昆虫を愛してくれるならば、その昆虫を造った方にとってそれ以上の満足はないでしょう。
では、二千年前、イエス様は神様の前に民を探し立ててさしあげる前に、何を探そうとなさったのでしょうか。彼の心情は何を探してさまよいましたか。民を抱き締めて、彼らが天の嘆きの圏内にとどまっていると気をもまれたイエス様であり、彼らのために夜を明かして涙を流しながら祈祷してくださったイエス様であったことに間違いありません。
もしイエス様が、人間始祖の堕落によって本然の心情的因縁を蹂躙された万物が嘆息圏内に置かれていることを眺めて、泣いて夜を明かしながら悲しまれた方でなかったとすれば、彼は全宇宙を統治でき、救うことができる救い主になれなかったでしょう。
人から万物の要素を除けば、その生命を維持することができません。それゆえ、自分自身が貴い限り、自らの本質を成す要素を供給してくれる万物に対して、人間は喜悦の媒介体にならなければならないのです。こういう心情を全面に出していく人ならば、彼はどこへ行こうとも自然の正道を備えることができ、いかなる環境に置かれようとも正道の立場、万物と通じる立場に立って、神様の前に栄光を返してさしあげられるというのです。
自然を見つめられたイエス様は、多くの草の中でも神様はどのような花を一番愛されるだろうか、さらにある木なら木、山河なら山河を見て、どのようなものを一番愛されるだろうか、このように考えられたことでしょう。そのようなイエス様の愛の心情を、皆さんがもう一度回想してくださることを願います。
では、私たちは今までの生涯路程においてどれほどの責任的な感情をもち、神様が情を傾けて造られたこの万物、あるいは山河に接したでしょうか。一塊の土をつかんで、「土を造られた神様の心情がどうだろうか」と考えてみたことがありますか。ないとするなら、皆さんは創造理想を立てられた神様の心情とは関係のない者になります。
◆自然を離れては考えられない人類文化
今日この被造世界の原理と法則、公理と公式を解明するために努力する分野が科学です。そして、自然に深く隠れている情緒的な分野を表したのが文学です。自然に現れていたり隠されている美しさを、ある形態で構想して表現したのが芸術です。そして、自然の根本理致を釈明しようという分野が哲学です。こういう段階の上にあるのが宗教です。
では、真の宗教と宗教家が解明することがあるならば、それは何でしょうか。それは自然の中に深く流れている情的な内容を釈明することです。そういう責任を宗教が担わなければならないと見るのです。
人類の文化は自然を離れては考えることができません。人間がどんなに堂々とその威勢を誇り、権勢を享受したとしても、自然を無視するならば、そのすべては成立しません。
これとともに、私たちの生活を価値あるものにしてくれるのが自然です、私たちの生涯において必ず必要なものが自然です。それゆえ、自然万象に流れている心情を感じることができる人になれないなら、真の幸福を享受することができず、天と絆を結び得る栄光の立場に進んでいくことができないのです。
これから私たちは、一つの草を見つめても神様の立場で見つめることができなければならないし、花を見つめても神様の心情に代わった立場、神様の心情と通じることができる立場で見つめなければなりません。昆虫や鳥、あるいはある動物を見つめるときにも、神様の心情と絆が結ばれるような内的な感情を体得できなければならないのです。
そのような人がいるならば、彼がある公式と正義で、すなわち科学的な論理でそれを解明することができなくても、あるいは文学的にその情緒を表現することができなくても、あるいは芸術的にその美を表現することができなくても、情操的に愛を体恤する力がなくても、彼は偉大な科学者であり、偉大な文学家であり、偉大な芸術家であり、偉大な哲学者であり、偉大な宗教家であることに間違いありません。
◆天が探し立てようとする本然の人間の姿
今までの科学的な論理と公式と法則をもって宇宙を見つめて感じるその段階を越えて、そこで我知らず秘密に通じている心情的な感応がない人は、それ以上発展がありません。文学もそうであり、芸術もそうであり、哲学もそうであり、宗教も同じです。
本当に世界的に偉大な学者がいるとするなら、その学者の心情の奥深くには、自然の心情と和することができる感性があり、自分が研究するその分野以上に随時つながる感性があるので、思いもしない暗示や幻像、あるいは夢のお告げのような現象があるのです。そしてそれは、自分の専攻分野に夢中になっている状態でのみ起こる現象です。
情が豊かな人であればあるほど大きい仕事をしたということは、歴史を見ても否定できません。また、そのような感情と和して一握りの草に向かっても「神様!」と呼ぶことができる宗教家がいるならば、彼は正に偉大な宗教家です。
今日仏教では、仏像に仕えて幸福を祈っていますが、主体と対象が外的には天と地の差があるとしても、心情の世界においては差がありません。そこに感じられる感情を通じてすべてを天と共に知り、信じて接するならば、天はその心をお捨てにはならず成し遂げてくださるので、ここから所願成就という言葉が生まれます。
このように考えるとき、今まで私たちが生きてきた過去の生活と、今日私たちが生きている現実の生活はあまりにも無感覚的であり、あまりにも無情緒的であり、あまりにも没落した宇宙観をもっています。私たちはこれを悲しまなければなりません。もしこれを悲しむことができる人になるならば、彼は新時代の人物として召命されるでしょうし、新しい時代の使命を受け持つことができるのです。
私たちは今日の自分の周囲の環境を見つめ、顔をしかめて嘆いたり、社会の矛盾を見つめて落胆せず、育っている一握りの草を見つめてその楽しみによって、自らの悲しい感情を忘れてしまうことができる人にならなければなりません。もしそのような人がいるなら、彼は新時代に残る人になれるのです。ある理想的で心情的な世界を指向する人がいるなら、彼は必ず神様とある絆を結ぼうとする人に違いありません。
育っている一握りの草を見つめ、どうしようもない心情を感じてごらんなさい。そこには無限な生命があり、神様がいらっしゃいます。そびえ立つ一つの山の頂を眺めるときに、きのう見た感情と、きょう見た感情は違います。春夏秋冬の四季の変化に従って、自分の心情に感じられる感情の違いを歌うことができるなら、どれほど高尚なことでしょうか。その人はすべての自然と和動できる人です。堕落しない本来の人は、そのような人であるに違いありません。
流れる水辺を、広い原野を流れる小川を、そびえ立っている山脈を、浮び上がる太陽の朝の日ざしを、東から照らす月の光を、このすべての万象に向かって、ある時期を区別せず心から歌うことができ、心から楽しむことができる人がいるとするなら、彼は神様が万物を造りながら夢見て理想とされた、造られたその万物を任せようとなさった、神様が立てようとされた真の本然の人間の姿です。神様はそのような人間を望まれました。
◆人間と共に自然を歌ってみることができない神様
では、本然のエデンの園で、神様はアダムとエバと共に自然を歌い、自然に対する感情を表現する一つの時間をもたれたかといえば、そうではありませんでした。神様は「私の息子よ、あの山を眺めてみなさい、あの山は私がこのようにして造った」、あるいは「あの草木を見つめてみなさい、あれは私がこのようにして造った。これらのすべてはお前の幸福のために造ったのだ」とおっしゃりたいに違いないのです。
しかし、神様は実際にそのように言うことはできませんでした。なぜできなかったのでしょうか。アダムがまだ十分に成長していなかったからです。しかし、神様はアダムを見つめながら言いたかった切実な内的心情がありました。アダムが情的に未熟であったために、アダムに対して言うことができなかった神様の事情を、私たちは知らなければなりません。
もしアダムが、神様がそのようにできる立場にいたとすれば、神様が彼の手をつかんで、「アダムよ、私が見たいあの園の花を見つめてみなさい、私が眺めたい山河を共に眺めよう」と言うことができたのです。私たちの先祖でもそういう生活をしていたなら、今日の人類はこのような塗炭の苦しみの死亡圏内でさまよわなかったことでしょう。
今日私たちは、本然のエデンを懐かしがらなければなりません。そこは神様の無限の愛がある世界であり、一度始まればそのまま永遠に愛の感情に和することができる世界であり、一度歌えば永遠無窮に歌に酔うことのできる世界です。また、一度走れば神様と共に永遠に走りたい心がにじみ出る世界、一度動いて一度責任を負えば、これは永遠の価値の責任になると考えて努力できる世界だというのです。皆さんは、このような世界が恋しくて泣くことができる人にならなければなりません。そういう心情をもった人間を探せなかったことが神様の悲しみです。地に対して摂理なさる神様は、必ずそういう人を探し立てざるを得ないのです。
私たちが歌う歌にも山河あるいは自然が入っているのは、これらすべてのもののために祈り、私たちの感情を高めるためです。もし本然の世界でアダムとエバが、神様が行きたい心情と同じ心情で行くことができたとすれば、どれほど良かったでしょうか。これから私たちはそのような心情をもたなければなりません。そのような心が豊かな者、そのような心情を体恤した者が、正に新しい理想天国時代の民として参加するようになるはずです。
復帰の怨恨を解き、歴史の悲しみを踏み締めて栄光の神様の手をつかもうとするならば、神様はどのような人をつかむのでしょうか。神様は「この万物を私の代わりに楽しみなさい。この万物を私の代わりに感じなさい。この万物を私の代わりに愛しなさい」と言うことができる、そういう人をつかみたいと思っていらっしゃることでしょう。
ある一時、神秘的な雰囲気、あるいは恩恵の雰囲気で、自然の花一握りを見つめて心から懐かしがったことがありますか。また、先祖の誰かに会うのと同じ切実な心で接したことがありますか。あるいは山河を眺めるとき、懐に入る刺激に自分も知らない賛美を天の前に捧げたことがありますか。それがないならば、皆さんは万物の主人になる資格がありません。人間が懐かしがるエデンの園がどんなに良いとしても、万物とそれを眺める人間が心情を通じて天を動かすことができる所でないならば、懐かしがる所になり得ないというのです。
私たちは今まで、人間のためにだけ祈りました。けれども今は、人間のためだけでなく、天のために祈らなければなりません。イエス様のために祈祷しなければならないのです。イエス様はこの地へ来られて、私たちのために夜を明かしながら祈られたのに、私たちは今までそうしてあげたことがありませんでした。次に、今日まで苦労された神様のために祈らなければならず、さらには万民のために祈らなければならないのです。そのような感情の中に生きる人が神様と一番近い人です。
道を歩いていて疲れて休む場でそのような感情があるなら、天が必ず共におられることでしょう。そのようになれば、一株の老いたけやきの根をつかんでも、そこで天の心情を歌うことができて、陰になった大きい岩に寄りかかっても、そこを安息のねぐらとして天の情緒を歌うことができるのではないかというのです。
◆万物に対して喜びと悲しみ、両面を感じなければならない堕落人間
神様が自ら造られた善なる万物の中でも、神様が一番愛されるものがあると同様に、皆さんも花ならば花の中で一番愛する花があるでしょう。そういう感情がないなら、その人は心情世界での不合格者です。「花の中で何の花、木の中で何の木を一番愛し、草の中でも何の草を一番好む」と言うことができなければなりません。それでこそ自然を恋しがる心が生じるのです。
私の生命が躍動すると同時に、その生命を抱いてあげることができ、自然を引き込むことができる心情の因縁をもっている人は志のある人であり、むやみに生きられない人です。
今日、私たちが見つめるこの自然はいかなる自然であり、自分が踏んでいるこの地はいかなる地でしょうか。悲しいことに、喜ぼうとして悲しむべき地になりました。万物を見つめるとき、心に良いと感じられる反面、悲しい事情が残っている嘆息圏にある万物であることを感じなければなりません。景色の良い名勝地があり、そこを眺めて良いと感じても、無限に悲しい感情を感じて父とつなげることができる人になるべきなのが、今日の堕落した人間の立場です。
これから私たちは一握りの草をつかんで喜びを感じる代わりに、悲しんで泣くことができる自分になり、喜びを元に戻して一本の木をつかんで泣くことができる自分となり、山河あるいは万象を眺めても、深いため息をつくことができる姿にならなければなりません。それはエデンが恋しくなる心をもっているからです。そういう心情に浸っていらっしゃった方が神様であり、そういう心情の因縁をまだ抜け出すことのできない人間であるということを知らなければなりません。
そのような心情をもった人ならば、自然を眺めてもエデンを懐かしがることができます。「懐かしきエデン」と言うならば、自然も恋しくならなければなりませんが、またその中ですべての被造万物を主管することができる本然の人間も恋しがらなければなりません。
◆神様と万物が恋しがる真の人
イエス様は怨讐に対して幸福を祈りました。両手と両足にくぎを打ち込んで、頭にとげの冠を被せた彼らに対して幸福を祈りました。槍で横腹を刺す無知な怨讐に対して幸福を祈りました。なぜそうしたのでしょうか。それはイエス様が、最大の精力を傾け、心中に切ない事情をたどられた御苦労の結果として神様が造られた人間だという事実を、よく御存じであったからです。
イエス様はこの地へ来られて三十余年の生涯を経ながら、瞑想あるいは心の中で神様と完全な関係を結んでいました。それゆえ彼は本然の真の人でした。彼は万物が恋しがる人であると同時に、神様が恋しがることができる人でした。
今日、人間も自分が作る物に対して、きょう完成せずに途中で終われば、あすその残りを続けて、完全に仕上げをしようとするのです。神様もやはり同じです。神様が人を造っておいてどれほど喜ばれたのか、その心情世界に入って体恤した人がいて、その人が踊るならば何十年でも踊りたいというのです。
今日信仰者が言っているように、そのように簡単な法則の価値を通じて現れるような人間は必要がありません。人間は法則で測ることのできない無限の伸縮性をもった絶対的な原則を通じて造られたので、その価値を測れないのです。そのような人を見てみると、神様は御自身の全体の属性を感じることができ、全宇宙の感情が流れているのを感じることができました。それを見つめるようになるとき、神様は限りなくうれしかったというのです。
神様が見つめて喜び、恋しがられ、そして万物も主人になってくれることを待ち焦がれながら願った対象が、アダムとエバでした。このように神様が恋しがり、万物が恋しがったアダムとエバはどのようになりましたか。堕落によって落ちてしまったのです。それによって恋しさが恨みと化し、幸福と願いが嘆きと絶望と化し、生命が死亡と化し、愛が号泣と化したという事実は本当に悲しいことです。
このような恨めしい先祖に仕えているという事実に、言うに言えないほど嘆かなければならない立場に置かれているにもかかわらず、私たちの中には嘆かわしい事実がどこから出発して今日の私たちと関係を結んでいるかを知らない人がたくさんいます。これをけ飛ばし、嘆かわしい心情を掃き捨て、人間本然の心情を探し、歓喜の声を高める群れはこの地上にいないのだろうかと、天は探していらっしゃるのです。
天が恋しがることができ、万物が恋しがることができる価値的な人が今日こういう姿になったので、審判を受けなければなりません。これから私たちが審判を避けようとするならば、「父を恋しがる心情の合格者になるよう願います。エデンにアダムとエバを造り楽しんでいらっしゃった心、行ってみたくて、会ってみたいその心、その心情に合格することによって審判を避けて歌うことができる一つの勝利者になれるよう願います」と祈らなければなりません。天はそういう私たちになることを望んでいます。
天倫を恋しがることができる私自身になると同時に、人が恋しくなる自分にならなければなりません。神様が神様の心情を体恤できるようにするために一男一女を造ったことが、どれほど有り難い恩賜かを考えなければなりません。
地上に男性がいて女性がいますが、彼らは神様の全体的な性稟と性相の代わりに立てられた存在です。したがって、一人の女性を愛することができる男性にならなければならず、一人の男性を愛することができる女性にならなければなりません。神様の心情を通じて、アダムが願った基準の心情とエバが願った基準の心情をもった者として、自由を享受して天を抱擁できる夫婦が地上にあるならば、彼らにすべての宇宙を渡して安息するのが天のみ旨であることを、今日人間は知らずにいます。
人間は、こういう心情の法度を蹂躙したので、今日心情の世界で無限の恋しさにさまようようになったのです。ある趣味をもって、芸術を通じ、学問を通じ、または地上のある愛の対象を通じて恋しさを埋めようとしましたが、埋める道がなくてさまよう姿が堕落した人類の実像です。これが歴史的な悲哀であり、悲劇です。
そういう恋しさが皆さんの心にわき上がるとするなら、本然の園を恋しがった万物と共に、その本然の園を恋しがることができ、本然の心情を通じて神様の心を率いていた本然の人の形態を備えて、天を恋しがることができる人にならなければなりません。そのような人になれば神様は両手を挙げて「そうか。私の息子よ、私の娘よ」と言いながら捕まえざるを得ないというのです。
◆宗教の使命は宇宙万象を管轄し得る人格者を培養すること
私たちが自らの価値を高め、天の前に進むことを願ったとしても、主のみ言を聞いて、恋しがった本然の園に生きる本然の人の価値を体恤することにより、天が恋しくなる心情に応じ、天を恋しがることができる心をもたなければなりません。そういう人が現れるならば、天がどれほど喜びますか。
恋しさというのは愛を除いては成り立ちません。その愛は人間的な愛ではなく、永遠の安息と永遠の生命の源泉である神様の愛でなければなりません。それゆえ、他の宗教よりもキリスト教は、愛の宗教としてその使命を果たそうとするのです。宗教の目的は、心情世界の法度を活用して、生活的な感情と接している宇宙万象のすべての位置を管轄できる権限をもった人格者を培養することです。
神様は六千年間、私たち人間を恋しがる心情の基準を立てて摂理してきました。歴史は千態万状に広がってきましたが、神様はアルファでありオメガである立場で、始終一貫恋しい心情を失うことがなかったのです。人間が神様のそういう心情と差があるなら、その人間は敗北者であり、歴史路程の落伍者です。天が「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」(黙示録二二・一三)と言われたのは有り難いみ言でした。それだけでなく、さらには堕落した人間に対して、神様は懐かしい心に悲しい感情が加わって、恋しがっているというのです。
取るに足らないこの一つの体をつかんで、本然の心情に傷を負ったこの堕落した人間をつかんで、恋しがる心を天は忘れなかったのです。このように、堕落した人間に対する悲しみの痕跡を胸に抱き、悲しい感情の中で恋しがっている天がいらっしゃることを感じる人がいるならば、そのような人は間違いなく天国に行くはずです。「父よ! 私が自分の手をつかんで恋しくて泣くことができる人になりたいです」と祈ることを神様は願っていらっしゃいます。神様が本当の愛でつかむことができる手というなら、自分がその手をつかんで泣くことができる人にならなければなりません。
堕落しないで、神様を恋しがった本然のそのアダムの手をつかんで泣くことができる人にならなければなりません。さらに、アダムとエバをつかんで泣くことができる人にならなければなりません。そのような人になれば、堕落の歴史をさかのぼるはずです。
私たちは本然の人を恋しがり、その価値を誇るべき歴史的な責任があり、誇るべきその価値を神様の前に高めるべき責任があります。それゆえ、自分も知らないうちに自分の価値を高めようとし、自分も知らないうちに自分自身を恋しさの対象に立てようとするのです。これが人の常の情です。
なぜかと言えば、そのような理念を人間は本来もっていたからです。しかし、自分の価値を立てようとして、下手をすると堕落した世界の価値を容認するようになり、自分を恋しさの対象に立てようとして誤ると、堕落の根拠になりやすいのです。
それゆえ、堕落した人類は全体が不正です。すべて捨てなければならないのです。なぜなら、アダムとエバが、すべてをもつことができない立場で堕落したからです。アダムとエバは、そのような理念をもつことができず、そのような心情問題の何ものももつことができなかったのです。自分自ら万物を主管することができる堂々とした権勢をもった立場に立つことができなかったことが堕落です。それでアダムは、万物を主管することができる立場に立つことができませんでした。
このように、本然の人を恋しがって彼を探していかなければならない歴史的な条件にかかわっているがゆえに、人間はすべてを捨てて泣くことから出発すべき存在なのです。それゆえ、泣くことを誘発させる宗教がどこにあるのかを探してみると、キリスト教以外にはありません。キリスト教で「悔い改めよ、天国は近づいた」と言いましたが、これは痛哭しなさいというみ言です。自分自身を見て痛哭し、自分の家庭について痛哭し、自分の愛するすべての人、自分の民族、自分の国、自分が生きているこの地上の全体を見て痛哭しなさいというのです。ここには恋しさの因縁を新しく結ぶための天のみ旨が残っているがゆえに、そうであるというのです。
◆宗教を通じてのみ解くことができる人生問題
私たちは万物を恋しがることができ、人を恋しがることができなければなりません。皆さんは人を恋しがりましたか。純粋な天の心情と結ばれ、無限に与えても忘れてしまいながら喜ぶことができる、そのような心情を体恤しましたか。こういう心情を誘発させるために、天は「宗教」、あるいは「救い主」や「新郎新婦」という標語を掲げて摂理してこられたのです。私たちはその方のためには、自己のすべてを差し上げることができなければなりません。
神様は、心情と恋しさの事情がつながり、差し上げる万物を受けるようになる日を待ち焦がれていらっしゃいます。心情と恋しさにひたり、差し上げる家庭を受けようとなさいます。恋しさにひたり、この国、この民、この世界を捧げることを願っていらっしゃった方が神様であられます。
今や、天の前に恋しい心情にひたり「一銭しかないこの小銭でもお受け取りください」と言うことができなければなりません。その時、その一銭は宇宙の代わりをすることができます。いくら貧しい家庭でも「不足ですが、この家庭をお受け取りください」と言うとき、その家庭は天国の偉業を受けることができます。荒野でさまよっていたかわいそうなイスラエル民族ですが、その民族が天に向けた恋しい心情に「この民族をお受け取りください」と言うとき、天はその民族に地上天国の主導的な権限を与えようとされたのです。
国も同様です、世界も同じです。今日、この地の人類の前に与えなければならないある理想主義、または理念があるとしても、それが天を恋しくし、天を心情的に思慕させることができるそのような主義でなくては、人生の根本問題を解決することはできず、天倫の根本問題を解決することはできないのです。
心情的な問題を探して天を恋しがることができ、本然の園を恋しがることができる一時をもつことができなかったのが堕落だったので、そのような関係に結ばれた世界を、私の一身をかけて成し遂げなければならないのが復帰の使命です。
そのような使命を果たすという心情にひたり、父の心を慰労することができる一つの姿として、その心情的で恋しい園の理念圏内で運行なさり、万物を求め、あるいは人間を求めて動く天に対し、「父」と呼ぶことができる一人の人がいるというなら、その人は天が「知らない」とは言えません。そのような心情をもって、本然の園を探してさまよった人がいるなら、彼は神様が「知らない」とは言えず、全人類が「知らない」とは言えず、すべての被造万物が「知らない」とは言えない本然の真の人です。
それゆえ懐かしきエデンで、そこに育っている万物と、そこに生きている人間、そこに尋ねてくださった神様が別々に事情が通じるのではなく、一人の人を中心として上には天、下には万物が和合して応じることができる、一つの楽しいねぐらを成し遂げなければならないのです。そこにいる人は、天が愛することができる人であり、人間のためになり得る人であり、万物が尊重できる真の主人に違いないのです。
その仕事が終結しなければ、復帰摂理、すなわち天が立てられた全体のみ旨は、終わりを告げて勝利の栄光を見ることができず、私たちもやはり、堕落の悲しみを解怨して願いを成就することができないのです。それが成されないとするなら、勝利の一日を迎えた世界を、この地上に建設することはできないのです。
8. 本郷を尋ねいく人生の道
一九五八年七月五日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第七巻』
きょう皆さんと共に考えてみようと思うみ言の題目は「本郷を尋ねいく人生の道」です。
◆本郷を尋ねいく途上にある人類
今この世界の人類は平和を待ち焦がれています。さらには、自由を享受する個人になって、自由の社会、自由の国、自由の世界で生きることを誰彼を問わず願っています。
私の心に平和がなく、自由がなくては真の幸福はあり得ません。真の人生の道を歩もうとする人がいるならば、彼は真の平和の中で、真の自由を謳歌して真の幸福を享受することを願うでしょう。
では、皆さんは自分自身と、真の人生の道を歩もうとするこのような理念的な条件とを考えてみるとき、どのような立場にいますか。ここで、相 衝(注:相いれないこと)的なのか、そうでなければ相応的なのかをはっきりと明らかにすべき時が、終わりの日になるのではないかと考えます。
今日、優れた人もそうでない人も異口同音に、「この世界は平和な世界になっていない」と言っています。自由を唱え叫んでいるけれども、心情からわき出して生きられる自由な環境になっていません。それゆえに、私たち人間は理念的に待ち焦がれている幸福な自我になっていないという事実を否定できません。
このような私と私たちであり、このような社会、このような世界であり、このように歩んできた歴史路程であり、現実であるということを私たちはあまりにもよく知っています。
それで、私たち自体は、私が喜ぶことのできる本郷の世界で暮らせずにいるのであり、幸福を謳歌できる本郷の園で暮らせず、私の思いのままに動き主管できる本然の世界で暮らしていないというのです。
ですから、幸福を待ち焦がれなければならず、平和と自由を待ち焦がれなければならない私たちの心的な動きが自分を促し、環境を促しているという事実を、皆さんは生活圏内でよく感じるはずです。
このように内的に見ても外的に見ても、私たち人類が願う本郷の世界が築かれず、人類がその世界で生きるようになっていないために、今日私たち人類は、本郷を尋ねいく道で、あえぎ苦しんでいるのです。このような境遇にある人類であるということを、私たちははっきりと知らなければなりません。ゆえに、優れた人も本郷を探すためにあえぎ苦しんでおり、そうでない人もやはり同様だというのです。
人間の姿をした存在は、誰彼を問わず、本郷への道を探してさまよう歴史的な思潮圏内を抜け出すことができずにいるという事実を、皆さんはこの時間はっきり感じなければなりません。
◆本郷へ行く道をどこで見つけるのか
今までこの地上に聖賢あるいは賢人や哲人が現れ、人生の行く道を教えてくれました。「このように行きなさい」、あるいは「このような主義を中心として生きなさい」と言いながら、ある方向性を示してくれたりもしました。ところが、ここには哲学が指向する方向性もあるでしょうし、ある主権者が唱えた理念を通した道もあるでしょうし、あるいは社会的な倫理観を通して行く道もあるでしょう。さらには、外的な世界を引き出して、ここに永遠の理念を連結しようとする宗教的な方向性もあるでしょう。大きく見ればそうでしょうし、小さくは「個人を中心とするとこのように行くべきであるし、家庭はこのように行くべきであるし、対人関係ではこのようにすべきだ」という方向性もあります。
このようなすべては、全体的で宇宙的な理念が指向する幸福の一つの時に備えて動く、位置になければなりません。そういう位置に立てないでいるならば、そのすべては、天倫を解き明かし天のみ旨を完全に立てるその日には、必ず天倫に引っ掛かる立場になるというのです。
そうすると、宗教の行く道、倫理を中心として行く道、あるいは哲学が指向する真理の道で、幸福の世界を紹介できる平和と自由を、どのように探さなければならないでしょうか。人の心情は、誰もみな同じです。数千年前にもっていた心情も、億千万年後に現れる心情も同じです。心情の世界には発展がないのです。
同じ基盤で動く心情を引き出して、幸福の園を築くことのできる世界、幸福を感じることのできる社会的な基準、幸福感を味わうことのできる宗教的な儀式、このようなことがこの地上にはないのでしょうか。もしないと断定するならば、神様はどこへ行っていらっしゃるのでしょうか。そのようになれば、その神様は人類と共にいることができないという結論になるでしょう。
人類を胸に抱いて摂理し、倫理と道徳を立てて善を指向するようにする天倫があるというなら、天は必ず私たちと関係し、因縁を結んだすべてを解き明かしてくれることはもちろんであり、さらに男女を問わず、これを心情的に肯定できる一日が来るはずです。
そのような場で和し動じながら、「この幸福が私たちの幸福であり、この平和が私たちの平和であり、この自由が私たちの自由だ」と声高らかに言える一時が現れなければならないのです。そうでないとするなら、神様はもちろん、どのような偉大な思想家でも私たちとは何らの関係もないという事実を、皆さんは知らなければならないでしょう。
私たちが人を分析してみようとするとき、内外から分析できるでしょう。社会の実情を推し量ってみるときにも、表に現れる社会の組織があり、表に現れない計画された組織があるのです。このように、すべてが内外に展開していくというのです。
人もやはり同じです。人間は外的な事情をもって生きると同時に、内的な事情をもって生きるために、お互い内外の事情に通じ、同じ立場で心と心が通じて幸福を謳歌することのできる環境にならなければならないでしょう。また、その環境を探してさまようことが、正に私たちの人生行路なのです。
今日まで歴史過程で数多くの聖賢や、賢哲が生まれては亡くなりましたが、自らの人生行路をたたえながら勝利的な一つの標語を立てて、「万民よ! このように行きなさい」と訴えた人は一人もいませんでした。また「私を頼って、私の心情と私の愛とともに君はこのように生きなさい」と言った人もいなかったというのです。イエス様も愛を説きましたが、愛を中心とした幸福観、愛を中心とした平和観、愛を中心とした自由理念に対しては、解き明かせずに亡くなりました。「私について来なさい、私を信じなさい、私を見つめて来なさい」とは言われましたが、自らの心情を打ち明けて「私の心情と共に動き、天情を中心としてたたえながら暮らそう」とは言えませんでした。
それゆえ、時代的に数多くの先覚者が歴史上にやって来たとしても、心情を中心とした幸福を享受することのできる内容を紹介できなかったのであり、天の心情と通じる自由と平和の世界観を中心として、世界を和動させることのできる喜びの内容を紹介できなかったというのです。
では、人類が待ち焦がれている所はどこでしょうか。前に語ったのと同様に、本郷の世界です。そこに行ったのちには永遠に帰ってきたくない世界、何度見ても嫌でない世界、一度感じた感触が永遠に忘れられない世界、笑いがあるとするならば永遠に笑うことのできる世界、その世界で一人の主人を探し出したなら、その主人を永遠に逃すことができないという世界、そのような一つの所がなければなりません。
◆本郷を慕わなければならない私たちの現実
そこは、心情をもっている人間個々人が暮らせる所であり、人類歴史の終末時代に紹介されるべき私たちの本郷です。そうできないならば、今日この世界は、収拾しようとしても収拾できないというのです。そのすべてを紹介できるある理念や主義を、論理的な見地で立てざるを得ない時が迫ってくるという事実を皆さんは知らなければなりません。それゆえ、私たちは永遠に暮らせる本郷の世界、本郷の地、本郷の兄弟、本郷の家族、本郷の親戚、本郷の園が恋しいというのです。
それでは、今日皆さんの中に、「私はそのような本郷を探しました」と大言壮語できる人がいますか。私たちは必然的に、その本郷を尋ねていかなければならない運命に置かれている存在です。イエス様もこの地に救い主として来られ、「私についてきなさい」と言われ、その道を提示したのですが、「私と共に暮らそう」と言える本郷の園を築いて暮らしていくことはできませんでした。神様も人類を率いてこられましたが、今日この席で「私と共に暮らそう」と語ることができずに、「私たちが願う本郷の園に行って暮らそう」と語りながら、このような摂理をしていらっしゃるのです。
神様がそうであり、神様の息子であるイエス様がそうだったように、地上に生きている今日の皆さん自体も、同じ運命に置かれているというのです。
本郷を望みながら歩んでいる皆さん、その日を迎えて喜んでみた人がいますか。その日を迎えて、「私は幸せだ」とたたえた人がいますか。そのような人は、まだいません。神様は、そのような日を楽しまれたでしょうか。神様もそのようにできていません。では、その日を迎えさせてくれる主義があったでしょうか。それもありませんでした。天も楽しむことができなかったというのです。天地の内容がそのようになっています。
天地の運勢を離脱して生きられない良心をもった人は、共通的な目標と理念のもとで、方向を探していく過程の心情を体恤するようになっています。ゆえに、皆さんも行けば行くほど幸福を願う心は切実になりますが、幸福それ自体は、皆さんから遠く離れて動いているということを知らなければなりません。
皆さんが自由と平和と幸福を心から切実に待ち焦がれて身もだえし、その目的地にたどり着いたようであるにもかかわらず、実際にはそれは、つかもうとしてもつかむことのできない遠い所で、はるかな内容として皆さんの心の世界を照らしているというのです。
ここで私たちは、いずれにしても行くべき過程的な現象を踏まえて上がっていき、幸福の本郷をたたえることのできる個体にならなければなりません。その次に、全宇宙に対し、「私と共に和動し、私と共に歌い、私と共に幸福になろう」と言える、その一日を迎えなければなりません。それが歴史の目的であり、宗教があるとするならば、その宗教の目的となります。また創造主がいるならば、その創造主もやはりそういう目標のもとで、人間を追い立てているというのです。そういう摂理圏内を抜け出すことのできない人間であるがゆえに、どのような個人であるとしても、やはり同じ方向に進まざるを得ないのです。
優秀な人でもそうでない人でも、みな同じ人生の道を行っているこの場で、皆さん、自分を自慢しないでください。環境が良いと自慢しないでください。自分の勢力が堂々としていると自慢しないでください。それをもって人生の行く道を解決することはできないし、本郷の世界を解決することはできません。なぜそうなのでしょうか。今日、人類が目指す方向性は人間がつくり出したものであるために、それによって解決されるようにはなっていないのです。
天がこういう立場で摂理をしてこられましたが、道理的な面や真理的な面でだけ私たちに方向を教えてくれたのであり、心情的な面を中心として私たちの行く方向を教えてはくれませんでした。心情的な面で、実生活で実感できる幸福と、生活しながら皮膚で感じることのできる平和と自由を教えてはくれなかったというのです。それゆえ神様の摂理は、人間をしてこのようなものをはるかな願いの一焦点として見つめるようにしたのです。
このような運命から抜け出すことができない私たちであるがゆえに、私たちは優秀だろうがそうでなかろうが、悲しかろうがうれしかろうが、一日の生活での自由があるかどうか分からず、一年の生活で感情の自由があるかどうか分からず、また一生において生活的な感情の自由があるかどうか分からないのです。しかし、自分を中心として流れている歴史的な心情と生活と理念と観においては同じです。天はそのように見るはずであり、またそのように見なければならないのです。
◆イエス様がこの地で成し遂げられなかったこと
そのために、この人を見ても哀れであり、あの人を見ても哀れなのです。この哀れな人類の前に立ちはだかり、哀れな自分であることを教えてくれる人が必要な時が来ました。あなた自身の哀れさを嘆きなさい。哀れな自分を見て泣かなければなりません。天と地を抱き抱えて泣かなければなりません。私が行く足跡の宗団はどのようになるのか、変遷する環境の結果がいかなる内容を内包して目的地に到達するのか、こういう問題を解き明かしてくれ、「あなた自身を憂いなさい」と言うことのできる一人の指導者が出てこなければならない時になったというのです。
今まで歴史時代に、ある革命的な新しい文化を創造する過程において、時代を経て世紀を経ながら、新しい理念、新しい目標、新しい幸福、新しい自由、新しいというその何かを携えて進んできた多くの人々は、その時代の前に立ちはだかり、哀れな自我を解き明かすために苦労してきました。しかし彼らは、その当代に影響を及ぼした使命者であり、特定の時期や時代に必要な使命者にすぎませんでした。
今日この時代は、世界的な主の時代です。したがって、これからこの世界人類の前に立ちはだかって、「世界人類の手本になるべき君たちであるからには、君たちが行くべき所が分からず、その場にとどまっていることを悲しみなさい」と言うことのできる何かが、必ず出てこなければならないというのです。
イエス様は二千年前に来られ、「自分は神様の息子だ」と言いました。この時、神様の選んだ選民だと自慢していたユダヤ民族は、四千年という途方もなく長い歴史路程で数多くの先知者の恩徳を奉じてきながらも、待ち焦がれていたそのメシヤが現れたことが分からなかったのです。イエス様を十字架に送って初めて、彼がメシヤだったという事実を悟り、悲しい立場に置かれるようになったのです。
では、イエス様を救い主だと言いますが、彼は当時の人類の前にいかなる救い主にならなければならなかったのでしょうか。「君たちの悲しみを私が背負おう」という自信のある救い主にならなければならなかったのです。それでイエス様は、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ一一・二八)と語りました。有り難い感謝のみ言です。その一言は、人類のための偉大な先覚者のみ言でした。
切ない心情をもって、みすぼらしい姿で自分自身を解き明かすために努力している青年男女があり、その一言のみ言を聞いたならば、手をさっと挙げて(降参して)その前に出て行くでしょう。そうして「二千年前に来られ、語って行かれたイエス様、ありがとうございます。イエス様を通してみ言を下さった神様、ありがとうございます」と言うようになるでしょうし、この精神と思潮を通して流れ出たみ言に対して、有り難く考えるでしょう。
今私たちには、この世界に責任をもつことができ、この民族に責任をもつことができ、心情問題に責任をもってその心情の荷物を解いてあげることのできる、一人の主人公が必要だというのです。このような内容があるので、イエス様は、「再び来る」というみ言を残していかれたのです。
イエス様がこの地へ来られて成し遂げられなかったこととは、何でしょうか。イエス様は人類のすべての十字架の荷を引き受けてくださるために来られましたが、人類の心情的な荷に責任をもつことができなかったのです。そうして今日、全世界の人類は心情的な荷をイエス様の前に再び任せるためにその日を待ち焦がれて、「主よ、どうか来てください」と祈りながら主を待っています。
それゆえ、歴史的な悲惨な環境に処した私自身、私たちが生きているこの世界、または流れいく歴史の前に立ちはだかり、「お前の悲しい事情を知りなさい、お前の哀れさを知りなさい、お前の切なさを知りなさい、お前はこうこうしなさい」と言える、ある何かが出てこなければならない時が来たということを知らなければなりません。
私たちは計り知れない人生行路を歩んでいるので、時折どのようになるか分からない恐怖の内在した世界圏内で生きています。では、私たちの行く道の目的地とはどこでしょうか。その行く道はこうこうだと、解き明かすことのできない生涯路程を歩んでいます。むやみに引っ張られて進んでいます。しかし、時折岩にぶつかるとか、絶壁から落ちるとかということを知って越えていかなければなりません。皆さんがそういう立場に立つようになれば、どのような気持ちがするでしょうか。
皆さんの中には四十年、あるいは七十、八十年の生涯路程を歩んだ人がいるでしょう。ところで、私は幸福を見つけて幸せだと自慢する人はいるかもしれませんが、こういう人生の道を突破した人はいないでしょう。ゆえに、皆がかわいそうな人々なのです。
◆私たちが探すべき方
したがって、これから私たちは、自らのこの哀れな事情を連結して、世界と通じることのできる哀れな事情をもった方を探さなければなりません。また自分に何か孤独さがあるというならば、その孤独さが世界に連結されるだけでなく、何だか分からないけれども息詰まり、切ない思いが私の心にしみているならば、この大変疲れた心情がこの世界とともに連結され得る時に入っています。
こういう時にそのすべてを解き明かしてくれる方、すなわち私の不幸と私の哀れさと私の孤独と私の恨みに責任をもつことのできる方を探さなければなりません。さらには、私が待ち焦がれている以上の世界を紹介してくれ、幸福と平和と自由の世界で永遠に感じたかった心情を充足させてくれる方を探さなければなりません。その心情が永遠性と関連して、存在世界のどのようなものとも堂々と幸福をつくりだすことのできる、そのような動機の主体としての一人の方に出会う人は、人生行路において成功者なのです。
悲しい世の中でそのような一時を感じさせ、体験できるイエス様でなくてはならず、神様でなくてはならないというのです。今日皆さんは知っているという考えをもって歩んでいる足跡を収め、いずれにしても経なければならない、その一時を越えることのできる秘法を教えてくれる方を探し出さなければなりません。
そのためには、自分が処した事情をたどり、自分がもっている願いの基準を越えた事情を通じて心情を収拾できると同時に、内容的な面でそのような問題を解決してくれることのできる神様であってこそ、安心して信じることができるというのです。
また、そういう心情の理念を備えて歩んでいってこそ、大変つらい人生行路で悲しみにぶつかったとしても、そのような心情の世界で感じた感情で防ぐことができるというのです。どんなに打って殴ってもより強くなり、天を裏切ることのないその何か、心情の因縁で感じるその何かがあるならば、これは地獄のどん底に追い込まれても占領されることがないでしょう。そういう所が必ずなければならないというのです。神様が人間に対して摂理される方向はその一箇所、本然の園です。
それで、歴史を支配してきた神様の摂理は数多くの曲折の路程を経て、その一つの基準を立てるようになり、これについていくべき人間もやはり数多くの苦痛の過程を経て初めて、その一つの基準の前に立つことができるようになるのです。それが、存在世界においてすべての存在物が指向しなければならない一つの起点になっているということを私たちは知らなければなりません。このような路程を行くべき私たちは、哀れな人々です。
◆私たちが願う本郷
本郷といえば、皆さんは何を連想しますか。本郷には自分が愛する父母いて、愛する村があり、愛する家があり、愛する兄弟がいます。私たちが故郷を離れて遠く外国にいるようになれば、その本郷の範囲は広くなり、祖国、すなわち国まで本郷に入っていくようになります。また、宇宙的あるいは天宙的見地から見れば、この世界が私の本郷になります。このように眺める範囲が大きければ大きいほど、その本郷の範囲も比例して大きくなるということを、皆さんは生活の中でよく感じるでしょう。
それでは、私たちが願う本郷とはどのような所でしょうか。皆さんがどこどこが私の本郷だという、そのような所ではありません。心の本郷、そこは心が楽しむことのできる私の心情の安息所であり、心情世界の安息の場です。
私たちは、神様が人間を尋ねてこられることに対して、「救援摂理をしてこられる」と言っています。天が私を尋ねてくださり人類を尋ねてくださるならば、私は神様に「事情的な条件よりも心情的な条件として私を尋ねてくださいませ」と言わなければなりません。それはなぜでしょうか。事情は千態万状であるけれども、心情はただ一つの条件しかないためです。これが真の信仰観を尋ねいく人の姿です。
イエス様は、「天国は私の心の中にある」と言われました。自らの真の本郷は生活にあるのではなく、心にあるのです。天国は心と因縁を結ぶことのできる歴史的な背景があるために、私たちが心からその本郷を慕うのです。心から感じる感情とともに、切ろうとしても切ることのできない因縁で絡み合っているために、その本郷が恋しくなるのです。したがって、私たちの人生行路において本然の心と因縁を結ぶことのできる本郷の生活をしなければならないし、本郷の園を感じなければならないのです。
では、今日私たちが生きている所ではなく、歴史が願っている真の幸福の園であり、真の平和と自由を紹介できるその本郷には誰がいるのでしょうか。考えてみてください。そこには高く大きく尊厳な神様がいらっしゃるでしょう。また、私たちが待ち焦がれていた主がそこにいらっしゃるはずです。その次には、聖霊がそこにいるはずであり、歴代の摂理史にやって来た数多くの功臣がそこにいるはずです。また、世界のどこの誰とも比べられない忠臣がそこにいるはずであり、世界のどこの誰とも比べられない孝子、孝女、烈女がそこにいるはずです。ところで、皆さんが心の因縁を広めて理念的なことを感じることができないならば、皆さんはその世界と因縁を結ぶことはできないというのです。
それで、堕落の人生の道を歩んでいる哀れな人間に、数多くの聖賢たちは三綱五倫などを教え、モーセは十戒を紹介し、さらに数多くの道人もそのようなことを開拓するために苦労してきたというのです。人類が本郷への道を行くところにおいて、心田(注:心の畑・精神)を啓発できる使命をもっていない道、そのような宗教、そのような倫理、そのような理念は、この宇宙上から退くようになるでしょう。「退かない」と言っても神様が拒まれます。
皆さんは本郷を慕い、その本郷を探しています。私たち人間が一つの実体を備え、はるかな彼岸の本郷を見つめて行っているとするなら、皆さんはその路程のどこかの地点にいるはずです。地獄から天国の終わりまでのその道は、どのような道でしょうか。本郷を尋ねていく路程であることを皆さんは知らなければなりません。
皆さんの中に年を取って識見が老成していく人がいるならば、自分自身を見つめてみるとき、「私は本郷の園とどれだけの距離にあるか」ということが心配の中の心配であり、憂いの中の憂いであるはずです。
では、本郷はどのような所でしょうか。そこを尋ねてきた者に対し歓喜の腕を広げて迎えてくれる、そのような所をいいます。そこが恋しいのです。
皆さんが本郷を尋ねていく路程では悔しい事情、悲痛な思い、あるいは悔しくて我慢できない立場に立つこともあるでしょう。しかし、本郷を探すために立ち上がった体(自分)なので、そういう事情は必ずなければならないと思う人ならば、その道で背を向けることはできないでしょう。そして先祖たちが立てた歴史的なすべての偉勲を無視できないはずであり、私たちの人生の道を開拓するために努力している道主の功績を無視できないでしょう。
私たちは行かなければなりません。年を取って気力が衰える前に、人生の行路を開拓しなければならない私たちです。ここに変わらない凛々しい姿を備えることのできる心情と、心の中心をもった人がいますか。これがきょう、皆さん自体が問答しなければならないことの中心ではないかと考えます。イエス様もこれを指摘して「天国は私の心にある」と言われました。
◆本郷を尋ねいく者がもたなければならない態度
本郷、そこには恋しい父母がいて、恋しい兄弟がいて、恋しい山河があります。私たちが本郷を恋しがり尋ねいくならば、喜ばない存在物は一つもない所です。そこを尋ねいく自分の姿を見つめてみると「今日の私の生活は物悲しいなあ」、「今日の私の生活行路は悲惨だなあ」ということを感じるはずです。しかし、本郷を尋ねいく路程であるので、ここに悔しくて胸がふさがることがあり、腹立たしいことがあり、涙を流して生死を決定しなければならない瞬間があるとしても、本郷を思うその心を忘れて倒れてはなりません。これが、私たちの人生の道であることを忘れてはなりません。
すべての聖賢が本郷を尋ねいく道で、心と理念の世界についてさまよいました。彼らはその世界を探し出すために人間的な事情もみな忘れてしまい、人間の世の中で情的に因縁を結んだすべての環境までもみな切ってしまいました。
私はこう考えてみました。「かわいそうなお父様がお笑いになれる、その時を見たいです」。「私が思慕しすがりつきたかったその心情を知り、私を胸に抱いて泣いてくださるお父様に会いたいです」。そのような時、その心はどうでしょうか。
人生の道を行くのに、どこの誰よりも悲惨な環境で傷を負い、悔しく、腹立たしい思いをする人、それが自分のためでなくお父様のためであり、本郷を探すためにそういう道を歩んでいく人がいるというなら、天はその人を抱き抱えて号泣するでしょう。
◆酔って生きるようになっているのが人間の本質
私たちは本郷を探してさまよっています。いずれにせよ行かなければならない運命の路程、行かなければならない過程にとどまっている人々です。どんなに自分自身が賢いと大言壮語する人がいても「万民よ! すべての天宙よ! 私の言葉に呼応しなさい」と、堂々と言える人がいないことを私たちは知っています。
それなら、今日この人生行路で本郷を尋ねいく足取りを、どこに向けなければならないでしょうか。真の愛の父母がいらっしゃり、真の愛の情的な安息の場のある所です。そこが、私たちがとどまる所であり、私たちが安息する所です。また、そこが幸福と希望のあふれる平和の世界であり、自由の園なのです。皆さんがそこを思慕する心が強くなれば強くなるほど、地に対してきれいに生きなければならないと思うはずです。過去の歴史的な人物は、みなそのように生きた人々でした。
今日の世の中でも、失った父母を捜すためには千里の道も遠くないと言って走っていき、愛する人に会うためには万里の道もいとわず尋ねいく人がいるのに、本郷の園を尋ねいく皆さんがそれくらいもできないのであれば、反省しなければなりません。
皆さんがある一時、ある一時間、生涯のどこか一期間でも、本郷の道を探してさまよったことがありますか。このような所で、無責任な皆さんになってはなりません。そのような道で責任を負うことができ、その道に責任をもった生活の一部分を残すことができてこそ、本郷の歴史を再創造し、本郷の摂理のみ旨を立てて進む天倫の前に面目を立てられるのではありませんか。そのように歩んだ先祖が歴史的な人物になることができ、そのように歩んだ道人が宗教を形成できたのです。ですから今日、私たちも本郷の父母を恋しがり、本郷の山河を恋しがり、本郷の家庭を恋しがり、本郷の世界を恋しがらなければなりません。そういう時が来たというのです。
今日共産主義者たちは、唯物史観を中心として世界的な本郷を夢見ていますが、それでは駄目です。
外的な事情の通じる世界ではなく、内的な心情の通じる世界で会った人は、その人が黒人でも白人でも黄色人でも、永遠に別れたくないのです。そのような心情世界で人に会って、そのような位置の人を見つけたなら、食べることを超越し、着ることを超越して酔って生きられるのです。
ある理想主義があるとすればその主義を通して、ある思想があるとすればその思想を通して、どの程度酔って動くことのできる人をつくったのかを見て、その主義や思想を評価し判断するのです。
人間の本質は酔って生きるようになっているのです。今日、世界的なある大学者がいるとするなら、「私がこのように勉強してこういう学者になる」という人は、そのようになることができません。我知らず酔って熱心にしていれば、世界的な大家になるというのです。酔った感情を通さずしては、今日の既成の内容以上の、どんな法則や公式も発見できません。
◆真の指導者
人間が探し、恋しがり、会ってみたいものとは何でしょうか。心情で感じることのできる世界、そういう幸福、そういう平和、そういう自由を紹介してくれる指導者だというのです。今日人生の道を歩んでいる私たちに、そういう心情をもって、そういう方向性を教えてくれる指導者がいるならば、彼は真の指導者であるはずです。皆さんにお話ししたいことは、そういう心情をもって人生の道を行く人が地上にいなければならないということです。
私たちの理念と現実は、相反した面を指向して進んでいます。心と体はいつも戦いの対象になり、闘争しています。なぜなら、人間は堕落したためです。これを私たちは否定できません。
ですから、世界的な理想世界を探している人がいるというとき、彼は地上に形成されている心の世界で落ち着くことができないのです。歴史を経てくる路程において、彼は安らかな生活をしてみることができないのです。どのような偉人を見ても、みな同じです。
また皆さんの中に、「私は学んだものがなく、無知でつまらない人間」だと言う人がいるかもしれませんが、人生行路においては誰もが同じです。優秀だとか、そうでないとかはありません。
なぜそうなのでしょうか。心情を基盤として動くものは、みな同じなのです。大統領が息子を愛する心も、一労働者が息子を愛する心も、みな同じです。むしろ末端にいる人が、妻子を愛する心がより強いということを知らなければなりません。彼らは、自分は足らないという思いがより強いのです。その息子や妻に対して父母の使命を果たせないので申し訳なく、夫の使命を果たせないので申し訳ないという心をもっています。しかし、我こそはと思う人は、「私のすべきことはみなしているのに」と言います。
心情的に見る時、どちらがより高いでしょうか。むしろ末端にいる人々が、より高くあり得る立場にいるのです。ですから、私たちには人生行路において自慢するものはありません。そのような面で皆さんはその因縁とともに、本然の心情とともに酔って、「ありがとうございます」と言わなければなりません。
◆天の側に近い人
本郷を尋ねいく人生行路において自信をもっている者がいますか。自信をもって心情的に酔って歩める者がいますか。いないというのです。これが審判であり、神様がいるならば、審判の日にこういう人を呼び出すのではないかと思います。
人生行路で自信をもって酔って歩んだ人は、歴史が擁護してくれます。イエス様も自信をもって神様のみ旨に酔って暮らし、十字架を背負っていきました。民族的にもその民族の運命と行くべき方向を知り、自分がその責任を全うすることに酔って、死の道をも辞さず越えていった人々を「忠臣であり烈士だ」と言いました。歴史の流れがこういう動きを通じて流れるということを否定することができないように、天情を尋ねいく路程もやはり同様だというのです。
このような本郷を恋しがる心を誰が遮ることができるでしょうか。私の心から恋しい心情がわき出るのを誰が遮ることができるでしょうか。どんなに知識が豊富で備えたものが多く、気勢が堂々としているとしても、心から心へ新しい何かを指向するこの心を拒否できないというのです。
そうでない人は理想的な感情を内包できません。そのようなことを切実に待ち焦がれ、そのような感情に酔って話してこそ今日、ある主義、ある思想でも率いることができるのであって、そうでない人は駄目だというのです。
では、人類の前に指導者がいるとすれば、彼はどのような人物でしょうか。人生行路において自信をもった人であるはずです。その自信は人間の前でだけでなく、神様や被造万物の前でも、自信をもって自分を立て、神様の心情に酔って歩む人であるはずです。
そのような心情に酔った人がいるならば、誰でも彼の前に行って寄りかかって休みたがるでしょう。そのような内容を備えた人格者がいるならば、誰でも崇拝したいと思うでしょう。なぜなら、本然の心情の発露はそのような道を通るべき運命にあることを感知するので、その道が必ず行くべき路程であることを知り、心はいつもそれを指向して動かざるを得ないためです。
同じ人生行路で惨めな姿を現している私たちの哀れな事情を知り、私たちの同族が人生行路で倒れるのを見て号泣する人は、天の側に近い人です。兄弟が人生行路で落伍者になるのを見て、「お前はいつ来るのか」と気をもむ人がいるというなら、彼は心情の指導者なのです。今日信徒はそういう指導者を、羊はそういう牧者を要求しているというのです。
それゆえイエス様は、人間に向かって泣きました。「私のところにきなさい」と言われながら涙を流されました。エルサレムに対して嘆きながら、「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人々を石で打ち殺す者よ。ちょうどめんどりが翼の下にひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのにおまえたちは応じようとしなかった」(ルカ一三・三四)と言われながら、自分の悲しい心情を吐露なさいました。
◆人生路程の成功者
今日、この世界を抱こうとする人がいますか。世界が進む道を開拓し、ある目的地に近づけてあげようとする使命をもって、それに対する責任を感じる人がいますか。そのような人がいるならば、彼は、この世界のあえぎ苦しんでいる実状を見つめ、イエス様が天に対して訴え流した涙がその民族を支え、今日まで歴史的な因縁を連結してきたという事実を知り、イエス様がされたように、この民族のために天に対して訴えなければならないでしょう。
今日、歴史的な思潮もそうですが、今後の民族の展望もそうです。天理的な一つの時を望んでいる人類であることを否定できないというならば、そのような過程であえぎ苦しんでいる私たちであることを知らなければなりません。したがって、自分が歩む人生行路で自信をもてなければならないのです。
その自信とともに、願いの本郷を恋しがる心情に満ちて力いっぱい走る人がいるならば、彼は「山よ遮れ、海よふさがれ、怨讐よ現れよ、私の行く道を誰が遮るか!」と言うでしょう。迫害の風が吹いてきても一時であり、試練の矢が飛んできても一時であり、死の恐怖が出し抜けに襲撃してきても一時であると思い、その一時を越えるために走る人、より大きい一時を探すために自らの小さな生涯の一時を忘れて走っていくことのできる人がいるならば、彼は人生路程における成功者です。
先ほど話したことと同様に、皆さんの歩む姿を見てお父様が泣くことができなければなりません。そして、皆さんはイエス様が十字架上で亡くなるとき、なぜ神様が顔を背けられたのかということを知らなければなりません。好きで背けたのではありません。死の道を尋ねてきながらも本郷のみ旨を考えるイエス様の心情、本郷の父母を心配して孝誠を尽くすことができないのではないかと恐れるその心情に対する瞬間は、骨髄が溶け出す瞬間だったので顔を背けられたということを知らなければなりません。
イエス様は彼の心情の帰一点が天地に通じることができる基準に立ったがゆえに、死線を押し分けて復活したというのです。皆さんもそのような心情が起こらなくては、死亡の世界を退け、勝利の凱歌を歌うことができないし、勝利の王子になり得ないということを知らなければなりません。
今日、そのような方に侍らなければならないと考えるなら、私たちはもがき苦しまなければなりません。そういう感情、そういう心情に連なって酔うことのできる一片の生活内容をもつことができなかったとするなら、私たちはもがき苦しまなければならないというのです。歴史路程の数多くの先祖たちもあえぎ苦しみ、歴史を支配してきた神様もあえぎ苦しんでこられたからには、私たちがどうして動かないでいられるでしょうか。
そのような道を開拓するためにイエス様は、「求めよ、そうすれば、与えられであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう」(マタイ七・七)と語られました。安らかな場ですべてを取りそろえることができるのが天の摂理ならば、そのようなみ言はなかったでしょう。
つらく苦しい人生の道を行ってみると、自分はその目標が正しい道だと思って歩んだのに、反対に歩んだというのです。これが天の悲しみです。父母が願う方向はこのようなものなのに、放蕩息子の姿になって反対方向へ行って蹂躙される姿を眺めなければならない父母の心情を知らなければなりません。そういう息子の姿を見ている父母がいるならば、その父母は号泣するはずです。
◆人間を正しい道に戻すための神様の御苦労
今日歴史の流れの中で人間が進んでいる方向は、天が指向する方向でなく、その反対方向です。それで、天はこのような人間を取り戻すために、これらが行く道を遮ったことは一、二度ではありませんでした。神様は、ノアを立て家庭的な基準を立てて家庭の正しい理念を探し出そうとされました。そうして、天は人類を犠牲にする恨があるとしても、誤ったすべてを遮り、天が指向する方向にノア家庭を導こうとされました。しかしハムの失敗で、その家庭を探し出すことはできませんでした。
アブラハムはどうでしたか。本郷を探すために導き出したノアも哀れでしたが、故国の山河カルデヤのウルを離れて、祝福の地であるカナンを探すためにさまよったアブラハムも哀れだったというのです。アブラハムだけでなくヤコブ、モーセも同様でした。本然の民族を回復するために、モーセをエジプトから荒野に追い出した神様の心情はどうだったでしょうか。モーセの生活よりももっと深刻、切実であり、もっと悔しく、もっと号泣の涙にしみた中でイスラエル民族をエジプトから追い出した、神様の心情を誰も知りませんでした。どこの誰が、そのような神様の心情を知っていたでしょうか。
そして民族を指導したモーセが神様の心情に酔って変わらないで進んでいたなら、磐石を二度打つことはなかったでしょう。ところが、モーセが天の心情と通じることができなかったために、彼の一身がむしろ民族の行く道を遮ったという口惜しく、恨めしい事実を私たちは知らなければなりません。
本然の家庭を探し出すために天が追い出したノアもそうであったし、祝福の地を立てるために追い出したアブラハムもそうだったというのです。
本郷の地を慕い望んでいたヤコブはどうでしたか。エジプトで死が近づいた時、自らの骨を故郷に埋めてくれと遺言しました。故郷の地がどれほど恋しくてそう言ったのでしょうか。自分が死ぬようになっても、怨讐の地にはその死体の水までも残しておきたくない心情だったのです。このような選民としての誇り、選民としての感情を大切にしたヤコブだということを知らなければなりません。
再びモーセを見てみましょう。本然の民族を探し出すためにモーセを追い出した神様は、彼によって民族を率いて、どれほど一緒に生きたかったでしょうか。しかし、そのみ旨をモーセは成し遂げることができませんでした。
神様のみ旨はすべての人類が本郷の家庭を探し出し、山河を探し出し、その地に民族を立て、国家を立てて世界を回復しようというのです。その立てられた人々がみ旨を奉ずることができず失敗してきたとしても、そのみ旨はみ旨なりに、より大きな範囲を備える条件的な因縁を結んで出てきたのが摂理歴史でした。そうして本然の民族を探し出そうとした神様のみ旨は延長しても、天はこれを収拾して本然の国家を立てるためにメシヤを送りました。ところがそのメシヤがどのようになりましたか。
イエス様は、民族を中心として神様が主導することのできる国家の形態を整え、天的な主権をこの地上に立ててさしあげようとしました。その心がどれほど切実だったでしょうか。ところが民族の責任者として来られたイエス様に、イスラエル民族はどのように対しましたか。彼を中心として一つの本然の国家を建設し、サタンに向かって行軍する天軍にならなければならず、天の精兵になるべきイスラエル民族はどうでしたか。
イエス様の死は生き別れです。私はそのように考えます。私たちの信仰の先祖たちは優秀だと、自慢できることが何もないというのです。イエス様を殺したことは、選民の道理ではありません。イエス様が行くべき道はそのような道ではありません。生き別れの道ではないというのです。
◆ユダヤ民族がイエス様と心情的な統合を成していたなら
この地上には、イエス様の非業の死の恨が残っています。それで、神様はイエス様の死を通して、今日まで人間に心情的な理念で対してこられたのです。ユダヤ民族が世界で勝利できたとすれば、一時を望み見る心情的なもののゆえです。このようなユダヤ民族が、天的な目標を望み見て進む人々を動かし、心情的な統合を成し遂げていたなら、そこからこの地上に一つの宇宙観的な内容を備え、人間の心情に衝撃を与えることのできる主義が出てきたでしょう。そして、そのようになればユダヤ民族を通した一つの世界は、必ず築かれたことでしょう。
ところが、イエス様を中心として築こうとしたその本郷の国は、どこに行ったのでしょうか。アブラハムが祝福を受けて天の前に祭祀を行ったその地、その聖殿はどこに行ったのでしょうか。神様が直接主管できたアダムや、選んだノアと箱舟の中にいた彼の家族は、どこへ行ったのでしょうか。私たちが暮らすべき、天の安息所になることのできるその本郷の世界は、ありません。ゆえに聖書にも、孤児のようで未亡人のような私たちだとあります。
皆さんは、人生行路において進む姿がもの寂しくても、宇宙をたたえることができる感情が天と共に、万物万象と共に、その流れる心情が天情と共にできる人格者になるべきだというのです。もし、私がそのような人に出会ったなら、いかなる環境の中でも至誠を尽くし、彼に侍ったことでしょう。
私たち人間は、悲しみの歴史を繰り返し、自ら縛り殴って、自滅する立場を繰り返してきました。ノアの時にもそうであり、アブラハム、モーセ、イエス様の時もそうでした。では今日、歴史の終末時代において人間の運命を解決し、人間が自らの使命を完遂して生命の道を開拓していかなければならないことを警告しているこの時に、神様はいかなる所に人類を追い込むでしょうか。イエス様の時代には、本郷の国を探し出すために人類を追い込みましたが、これからは、神様が願う本郷の世界のために追い込んでいるということを、私たちは知らなければなりません。
探し出すべき本郷の世界、その世界を立てて支配するために万王(注:宇宙にあるすべてのものの王)の王が来ると言いました。彼こそ、私たちが待ち焦がれている主です。人生行路で倒れる恨があっても、本郷の国を探すために引かれ死ぬ者がいるならば、その国が建てられる時、彼は忠臣であり、功臣として残るのであり、天が立てるに違いありません。
それで、過去にパウロも自らのすべての社会的な権威を捨て、孤独な身で惨めな死の道にまで行ったのです。彼は一時が来ることを確信していたのでそうすることができ、神様もそのような一時が来ることを確実に御存じであるので、今日こういう摂理をしていらっしゃるというのです。こういう道を行かなければならない人生であることを知り、皆さんは自信をもってこの道を行かなければなりません。
◆本然の理想の園
私たちが行くべき所がノアが探した本郷の家庭であり、アブラハムが探した本郷の地であり、モーセが探した本郷の民族であり、イエス様が探した本郷の国です。神様とイエス様がなしていることも本郷の世界であるからには、皆さんはその世界と皆さんの感情が動く因縁を結んでいますか。そうでないとするなら、皆さんには人類歴史の落伍者の印を受ける日が来るでしょう。
私たちは、本郷の世界を恋しがっています。善悪の出発が、一つの起点を通してなされたというのです。善悪が神様を中心として始まったので、その解決も神様を中心としてなさなければならないというのが鉄則です。失ったものを見つけようとするならば、失った所に行って捜さねばならないのと同じです。
本然の園は、理想の園です。有無相通ずる世界であり、兄弟の感情が全宇宙のどこでも通じることのできる世界でした。今日のように民族的な感情あるいは国家の、ある主権的な違いで議論できる理想と主義の世界ではありません。民族の差別、あるいは国家の主権等そういうすべてを超えて議論する世界、人間の経済的な事情とか文化とか条件の違いで議論するのではなく、心情をもって議論する世界でした。
ある家庭にお兄さんがいて弟がいるのですが、そのお兄さんは大統領であり、弟は労働者だとすれば、お兄さんが弟に「お前は労働者だからうちに入って労働でもしなさい」とは言えないでしょう。真のお兄さんだというなら、その弟が自分のようでないことを哀れみながら、高めてあげたい心情が起こるのが真のお兄さんの心なのです。
神様がこのような家庭的な理念、本郷の家を恋しがっていらっしゃるがゆえに、全人類もそういう本郷の家を恋しがっているということを知らなければなりません。
では、これが私たちが必ず行くべき運命の歴史的な解明点であり、人間的な解明点であり、摂理的な解明点であるというなら、その観点と基準は私とどのような差があるのでしょうか。その差が大きいならば、私たちは大声で痛哭しなければならないでしょう。
したがって「神様! 哀れな私を許してください。私は何も知りませんでした。歴史の流れを知らず、歴史が指向する摂理の方向と目的を知らず、人生行路が絡み合っていることを知りませんでした。あるいは預言者や烈士、歴代先祖たちの苦衷と歴史的なその内的心情を知りませんでした。また私たちが信じているイエス様が行かれた道も知りませんでした。神様が来られた道も知りませんでした。知らなかった罪を許してください!」と祈らなければならないのです。「知っているという立場でも許されないのに、知らなかったのでより一層許してください」と言わなければなりません。
それで宗教では「驕慢(傲慢)は怨讐だ」と言いました。「驕慢になるな。私を前に出すな、私が怨讐だ」と言いました。なぜでしょうか。私はそのように負債を負った者だからです。こういう心情で静かに目を開き自分を再び見つめてみると、ひどいものを感じるようになります。そのような歴史的な心情をもって天とともに何か感じる感情に接するとき、ひどいものを感じます。歴史的な悲哀、悲運のカーテンでふさがれているのを見つめるとき、体が身震いするというのです。
そのような峠を耐えてこられたお父様であり、そのような峠にぶつかり死にそうになりながらもその国、その世界が恋しくて、その世界の自由と幸福と平和を探し出すために戦ってきた預言者や烈士だったのです。
そうでありながらも、行かなければならないこの道を開拓しなければならないという確固たる信念と度胸をもたなければなりません。イエス様もイスカリオテのユダの一党の前に現れる時、凛々しい姿で進んだので、その姿に彼らは頭を下げたのです。「来るなら来い」という一面を見せてくださったのです。
どんなに難しいことも心情では往来できます。ある悪党がいて、父母と息子の間の愛を遮ろうとしても遮ぎることのできる者がいますか。いません。ある意識的な霊感によって感じるのでなく、自動的な、自然的な感情で感じることができる場があるとするなら、ここにはサタンがどんなに侵犯しようとしても侵犯できません。妨害すればサタンが大変なことになるのです。サタンが溶けてしまうのです。人生行路でそういう感情を感じる人が、天国へ行くというのです。
◆イエス様が語り尽くせなかったみ言
私たちは、本郷を尋ねいく人生行路にあります。イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と言われました。しかし、ここに一つ付け加えるべきみ言は「私は愛である」というみ言です。このみ言をイエス様は漏らしました。
したがってここに「私は愛であり、真理であり、道であり、命であるから、私によらないでは神様に会うことができない」と言うことのできる自信をもった人、天の心情と通じることのできる人が出てきたとするなら、彼に対して「お前はこの地で天に背いた者だ」と言って、審判台に上げることはできないでしょう。神様はそういう息子、娘が地上にたくさん現れることを待ち焦がれていらっしゃいます。イエス様を高く見るのもそのためです。
私たちには、私の体を任せることのできる所、私の心を任せることのできる所、私の心情を任せることのできる所がなければなりません。本然のエデンの園でアダムが万物の主人公だというなら、万物は彼に対し、どのように考えるでしょうか。すべての万物はアダムに対して、「どうか私の主人になってください」と言うようになっているのです。
神様はどんな方であるために、私たち人間が「神様、神様!」と言うのでしょうか。神様はすべてのものが「私の主人になってください」と言える立場にいらっしゃる方だからです。そうでなくては理想的な主管を受けることができません。
今日、人類は「私のすべてをあなたに差し上げようと思いますので、神様! 主人になってください」と言えなければなりません。そのようにできる歴史、そのようにできる摂理、そのようにできる内容の人格を立てる者にならなければなりません。さらに、皆さんがそのような方に地上で会ったとするなら「私の体を、私の心を、私の心情をあなたが主管してください。私の主人になってください」と言ってこそ、万物もその人を待ち焦がれていた主人として応対しようという気持ちが起こるでしょう。皆さんは、そういう存在にならなければならないのです。
◆いたくて、暮らしたくて、行きたい所
今日皆さんが真理を通して体がそのようになり、心がそのようになり、心情がそのようになれば、この真理が世界を支配する時が来るのです。そのようになれば、この真理は世界を支配しても余りあるのです。
これから皆さんがいたい所、暮らしたい所、行きたい所があるならば、そのような所が本然の場なのです。そこにいる食口たちは兄弟です。会っていなければ、会いたくならなければならず、傷を負っていれば、その傷を胸に抱いて泣いてあげることのできる気持ちがわき出さなければなりません。皆さんはそうでなくてはなりません。誰かが傷を受ければ、胸がふさがり泣いてあげることのできる人にならなければなりません。
私たちの本郷の家は、いかなる所でしょうか。お父様が私を胸に抱いて泣いてくれる所です。主も共に泣くことのできる場です。心情の因縁を一部分も取り外さないで、同伴者の立場、友人の立場で、あるいは新郎の立場で対応してくださろうとする天のみ言、有り難くもったいないみ言です。
「不肖な者をして主が泣いてくださるとは、お父様がそうされるとは、おそれ多いです。それによって私の人生行路で傷ついたすべてを忘れても余りあります」。このように考えようとしても考えられず、大きなお父様の愛をたたえる感情が先立たなければなりません。そうしてこそ、天国に行くことができるというのです。
初めて他郷に来た人は、時折故郷が恋しくなるはずです。その心が純粋で本然の心情であれば、自分が様々な苦労をして故郷に戻り、お母さんと兄弟の手をつかんで涙しながら、自分の過ごしてきた事情を時がたつのも忘れて、夜を明かしながら打ち明けることのできるその場、その村、その山河をしのぶことができるのです。
復帰の恨が解けていない私たちに、人生行路を歩む過程において「おお、主よ! お父様!」と言う瞬間、すべての天地万物が喜ぶ中で「そのとおりです、ハレルヤ!」と歓呼できる瞬間があったのかというのです。皆さんにはそのような瞬間がなければなりません。それがないとするなら、天が悲しい立場に、哀れな立場に置かれざるを得ないということを皆さんは知らなければなりません。
皆さん、幸福な者とは胸に抱いて泣いてあげる人をたくさんもった人です。子供が良いというのはなぜでしょうか。父母が大変なとき、父母が涙を流すとき、共に泣いてくれるがために良いというのです。また父母が喜ぶ時、共に喜ぶというのです。それゆえ悲しみも共にし、喜びも共にすることのできる人がいる者は幸せだというのです。
私たちの進む道の理念に責任を負った指導者、あるいは教団的な責任者がいるとするなら、彼は羊たちのために泣いてあげることができ、号泣して哀れみの心をもつことができなければなりません。そうして羊たちが自分たちのすべての事情をその指導者の前に打ち明け、それによって喜怒哀楽の感情が豊富になるとき、その人々は、真の牧者に会った幸福な人々だというのです。そういう天であるので良いというのです。
したがって、今日私たちが人生行路で、大変疲れた体でも勝利的な一つの内容をもって現れるようになるとき、歴史的なすべての聖賢や賢哲、そして天が歓喜して迎えてくれることのできる一日が来るということを知って、その日を栄光の中で迎えることができなければなりません。
そうしてその日を感謝し、その日に自分のすべての過ちを忘れてしまうことができ、その日に待ち焦がれた願いをみな成し遂げることができることを望みながら、進まなければなりません。そのように進む人が、今日修道の道を行く人々です。
9, 神様の競走場に立った人間
一九五九年八月九日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第七巻』
コリント人への第一の手紙第九章二十四節に「競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい」とあります。このみ言を中心として、「神様の競走場に立った人間」という題目で少しの間お話しします。
◆人間は復帰摂理の競走場に立ったランナー
数多くの歴代の預言者も、現在生きている人間も、何かは知りませんが、ある目標に向かって人生行路を走っていることだけは事実です。漠然とでも、ある目標を前に置いて生活する形態もいろいろな形に展開してきたのであり、また民族や歴史の形態もいろいろな形に展開してきています。
このようなすべてのものは、何ら因縁のない結果として現れたのではありません。必ずある因縁のもとで現実に符合し、ある目的に向かって動いてきているというのです。もしそのような因縁とそのような目的を中心として動かなければ、神様もどのような存在をも立てることができないのです。
もし神様がいらっしゃるならば、神様は堕落した人類とも縁を結ぼうとするのです。それゆえ、ある目的に向かっていく私たちは、その因縁圏内に生きているという事実を否定することはできません。
人間は堕落することによって、神様と善の因縁を結ぶことができず、サタンと悪の因縁を結びました。神様はそういう悪の因縁をもっている私たち人間を捨てようとなさったのではなく、探そうとなさいました。再び探すために、神様と私たちが人類の歴史路程にしがみついて、ひっくり返してきているのです。
歴史の方向は、そういう目的を果たす一時に向かい動いていっています。それゆえ、私たちは生活を通じて自らの良心基準を中心として、その目的地に向かって走っている一選手です。この地上に生まれて死んだ人は、誰でも神様の復帰摂理の競走場に立った人間でした。
では、誰彼を問わず、こういう選手の立場に立った自分であることを認めるならば、私たちはどのようにしなければならないでしょうか。天が御苦労して立てられた自分自身であることを知り、こういう競技場に立って走るべきだということを理解するならば、天は私たち人間にある訓練をさせ、この競技場で走らせるはずです。では、自分はいかなる試練と路程をたどってその目的地まで走っていくのでしょうか。これは、誰彼なく共通に解決しなければならない重要な問題です。
過去に生まれて死んだ預言者や烈士の中には、その競技のプログラムの一部分を受け持って、ある標準を立てていった人もいました。言い換えれば、このような預言者や烈士たちは、最後の幕が降りるその瞬間までは、競技全体、すなわち天の全体摂理をみな経ていったのではなく、ある一部分を受け持って終結し、また進んでいくのです。
神様は、このような復帰の競技場をつくっておいたので、ここに入った私たちは、自らの命を懸けて生涯路程を経て走っている自分自身、走らなければならない自分自身であるという事実を知らなければなりません。
今日この地を眺めれば思想も多く、宗教世界を眺めれば宗派も多く、教派もたくさんあります。民族の違いによりその民族による主義、あるいはその民族のために出てきた宗教など、いろいろな形に展開しています。そのような主義、そのような宗教は、神様の摂理のプログラム圏内の全体の内容を備えた主義と宗教になるべきであったにもかかわらず、そのようになれませんでした。
それらはすべて、ある一つの民族に該当する主義、ある一つの民族に該当する宗教、またはある一時代に該当する主義、ある一時代に該当する宗教形態でした。すなわち、神様の競技場の一部分にすぎない、ある一部分の使命を担当した主義と宗教だったのです。
◆競技の形態と賞金を与える日
私たちが競技場に行ってみれば、百メートルの競技もあり、二百メートル、あるいは五千メートル、一万メートル競技もあり、最後にはマラソン競技まであります。では、私たちは復帰摂理をなさる神様の競技場に立った体ですが、いかなる競技に責任をもってこの宇宙史の前に立つことができるでしょうか。これが問題です。各自の価値と人格の差があったとしても、ある分野を定めて、その競技種目において責任を全うすることによって天の願う基準を立てることを、天が期待していらっしゃるのは間違いありません。
したがって、私たちはそういう競技場に立った体ですから、命を尽くして走っていかなければなりません。そして、生涯路程を行く間、自分はいかなる競技で何になって天の前に立つべきかを知らなければなりません。
神様が六千年間摂理をしてきましたが、全体的に眺めると、まだ神様のすべての競技種目が終わっていません。今でも走っています。きょうも走り、あすも走らなければなりません。
この競技が終われば、神様は全世界の人類、さらには過去に生まれて死んだ数多くの人間と今後の競技が終わるまでの数多くの人間に、競技の分野によって賞を与えるでしょう。賞を与える一日、それは何の日ですか。キリスト教の名を借りるならば「審判の日」です。審判の日は、今日の時代的な名を借りるならば「終わりの日」ということができます。
では、私たちにおいて、一つの競技種目で賞をもらうことができる勝利的な基準を立てたかどうかが問題です。これは私たち自らが反省しなければならない問題です。走るにはいろいろあります。競技場に入っていき、正常なコースを走らなければならないにもかかわらず、競技場外で自分勝手に走る人も多いでしょうし、また競技場に入って正常なコースを走りはするものの、備えた力量が不足して途中で倒れる人もいるでしょうし、終わりまで走るには走ったけれど、賞をもらえない人もいるでしょう。賞をもらう人は制限されています。
神様は六千年間摂理してこられましたが、まだ競技者に自ら賞を与えてはいない立場にいらっしゃいます。それで、神様が世界人類の前に現れ、今まで走ってきた数多くの競技者に、その競技種目によって賞金を与えることができるその一日を、霊界の霊人たちも願っており、地上の私たちも願っています。この日が、終わりの日です。
◆競技者がもつべき姿勢
このように走っていかなければならない私たち自身です。どうせ行かなければならないからには、どうやって行くべきでしょうか。競技場に立つ者としての準備が必要です。何の準備ですか。内的準備と外的準備が必要です。内的には、自分がある目標に向かって走っていくという信念がなければなりません。ある命令のもとに、あるコースを走らなければならないとき、自分自身は、そのコースに存在し得る障害物に対処していくことができるという信念がなければならず、またその信念を中心として実際に正しい目標に向かって走ることができる内的な準備が必要なのです。
いわば、心身を鍛練することです。一つの目標に向かって走るにおいて、最後の目的地まで到達するまで倒れず、誰にも負けないという信念、最後の勝利者として立つための信念が必要なのです。また、最後の目的地まで走っていくにおいて、自分の体がある障害物にぶつかっても、これを押して走っていくことができるという信念をもたなければなりません。
ところが、今日地上に数多くの人々が生きていますが、競技場の選手の立場に立って、ある目的地に向かって走る態勢を整えた者はいくらもいません。
人間は、ある分野に所属して生きるようになっています。自分がとどまることができる位置と境遇をもっていない人は、かわいそうな人です。そのある目的に向かって、あるコースを走っていくという観が立っていない人はねかわいそうな人です。私たちは、ほとんどがそうです。
したがって、私はこのような目標のもとで、こういう覚悟で、心と体を鍛練して競技に臨むという、数多くの怨讐と戦って勝たなければならないという、自らの内的な準備と外的な準備をする時がなければなりません。ここに集まった人々すべては、自分自身がそのような準備の時をもてない者がいるならば、自分自身を見直さなければなりません。
そうであるなら、私たちはいかなる内的な準備をしなければならないのでしょうか。それは、自分個人のための準備をしてはなりません。国家を代表するあるマラソン選手がいるとしましょう。彼が走る時、最後の優勝をし、その栄光を自分自身のために走ることよりも世界の前に、自分を生んでくれた民族と国家の威信を立てなければならないという信念で走るならば、彼はどんな困難にも勝っていくことのできる余裕ができるでしょう。しかし、自分個人の栄光と、自分個人の目標だけのために走るならば、苦しさにぶつかるとき、そこで簡単にあきらめてしまうでしょう。
私たちが信念をもつにおいて、それが自分のための信念になってはなりません。民族を中心とした信念、世界のための信念、さらに天と地のための信念をもたなければなりません。この天地間にある被造万物全体の勝敗が、自分にかかっているという信念をもって走るならば、倒れることがあっても、再び立ち上がって走ることができる余裕が生まれます。しかし、自分を中心として進んでいては、今までの困難以上の困難にぶつかる時は倒れてしまいます。自分を中心として願った希望以上の困難に巻き込まれるときには、折れてしまうのです。
それゆえ私たちは、心身を鍛練するとともに、天と地に対して使命的な一つの目標のもとで走っているという信念が必要です。それで、人間は漠然とでも神様のために、善のために生きています。善とは、制限された環境を抜け出すことです。善は限定された制限線を超えて存在するのです。それゆえ、人間は漠然とでもそのような標準のもとで生きています。
◆競技場で勝利者となるには
私たちは漠然としていてはいけません。自分はある競技種目で、どの等数に必ず入らなければならないという信念をもたなければなりません。こういう信念をもって、出発線に立って走ることができる者にならなければなりません。
過去に生まれて死んだ聖賢たちは、私たち人間の前に、ある事業分野を教えてくれたのではありません。何かの事業で成功しようとするなら、どのようにすべきかを教えてくれたのではありません。私たちの人生の行くべき道、心の行くべき道、精神の行くべき道、私たちの生命が動く道を指示し教えてくれました。
私たちの思想が動くことができる道、私たちの生命が動くことができる道、この道は、自分個人の道だけではありません。この道は、千秋万代をかけて、あるいは歴史をかけて、どの時代でも公式的であり、共通的な道です。私たちは、そういう道で戦って勝利できる天の民を恋しがらなければなりません。
その目的が果たされるとき、それが自分を中心としたものでなければ、私によって天地が共に喜ぶようになるのです。民族を代表して立ち上がったランナーが優勝するときは、民族全部が優勝したことになります。たとえその競技種目が小さくとも、その価値の栄光は全体に及びます。
したがって、これからこういう内的な信念をもつことができる、価値的な標準のもとで、その価値的な目標を成し遂げるために、自分自らの価値的な信念を鍛えることができる一日が必要であるということです。ところが、今日まで私たちはそのようなことを感じることも、考えたこともありませんでした。
私たちは、いずれにしても走っているのですから、敗者になろうが勝者になろうが、そうするのです。勝者になるためには、秘訣がなければなりません。内的には、勝つという信念と、目標に向かう不変の心情をもたなければならず、外的には、競技をするのに簡便にすることです。競技場に行く人は、できれば簡単で、単純でなければなりません。自分の心の方向に、自分の体がいつでも動いてくれる準備ができていなければなりません。ですから、鍛練が必要なのです。
しかしながら、競技場は自分の目標に向かって、自分が自由に走ることができるようにはなっていません。走るこの競技場には、数多くの障害物が置かれています。その数々の峠の障害物は、私たちの先祖たちが敗北して倒れた場面です。自分自身を誇り、自らの決心を誇って立ち上がる多くの人々が、その障害物に引っ掛かって倒れました。私たちの行く手には、私たちの先祖たちが障害物に引っ掛かって倒れた、数々の峠が置かれています。したがって、できれば心情が動くとき、その体がついて動くことができるように、簡単にしなければなりません。こうすることができるように、自ら体を鍛練しなければならないのです。
鍛練は安らかな立場ではできません。鍛練は、激しく打たれる立場でできるのです。このような内的準備の修練を繰り返すためには、内的に打たれても、これを打ちのめしていくことができる自分の体が必要です。内的決心は変わることができず、この体もまた耐え難い試練にぶつかったとしても、そこで敗れてはなりません。それゆえ、修道の道を行く人に対して、天は「すべて捨てて従いなさい」と言いました。イエス様も網を繕っているペテロを呼ぶとき、「すべて捨てて私に従いなさい」と言われました。
修道の道を尋ね求めるために、山中で修道するのも、すべて一理あります。したがって、私たちは内的な覚悟のもとにそこに対応する外的な覚悟、清算条件を具備しておいて、どんなことにぶつかっても行くという自信、どん底に落ちても心身をもちこたえることができる自信をもたなければなりません。そうでなくては、走ることもできず、競技場に立つこともできません。
私たちは、このような競技場で一つの種目を選び、走らなければならない一競技者であるので、目標を成し遂げるために、変わらない信念をもって鍛練しなければなりません。私たちは信仰者の態度、走る者の態度、修道の道を行く者の態度をもたなければならないのです。寝ても覚めてもその目標を征服するための決意に燃える心がなければなりません。
人々の中には、漠然とイエス様を信じれば天国に行くと考える人がいます。天国とは、どのようになっているのでしょうか。そこは、ある種目を通過したグループで構成されています。漠然と、自分はイエス様を信じて天国に行くと考えてはなりません。もちろん、天が協助してくれる分野もありますが、私たち自らが備えるべき分野があります。
皆さんは、競技者として内的準備と外的準備を整えなければなりません。その次に、競技者として走らなければならないコースについて知らなければなりません。どこに行けば何があって、またどこには何があるということを、またそれから、昔も数多くの人々がこのコースを走ったけれど、失敗したコースであるということを、走ったからといってみな優勝したのではなく、走っている途中で放棄したコースであるということを知らなければならないのです。
◆競技者が知るべきこと
修道の道がそうです。歴史が生じてから、修道の道を行った人でも、その道の名誉を担って神様の前に立った人だとしても、神様は「君が最後の勝利者だ」と言って賞を与えることはできなかったのです。今も走っている過程にあります。私たちが走る目標は、神様が主管する全体の競走の目標である宇宙性とつながります。
それゆえ、どんなに種目が小さくても、宇宙的につながり得るその時まで持続しなければなりません。ここに百メートル競技種目で一時優勝した者がいるとしても、それで彼を「優勝者だ」と言うことはできません。優勝したその価値と栄光を、終わりの日まで保っていかなければなりません。
競技場に立っている私たちは、この走るコースの数多くの峠で、数多くの人々が倒れた事情も知らなければなりません。ある時はどのように倒れ、どのように争って、どのように敗れていったかを知らなければなりません。今まで人間は、漠然と目的地に向かって走りましたが、今日この時代の私たちは、漠然とした目標のもとで走ってはいけません。走るには、そのコースに対するあらゆる内容をはっきり知らなければならないのです。
神様の摂理のコースを走るためには、復帰のコースを経なければなりません。天を訪ねる路程でランナーとして立ち上がった私たちは、どのようにしなければならないでしょうか。出発は、どこからするのでしょうか。アダム家庭から出発しなければなりません。人間が出発した基点は、アダム家庭からです。そこから走ってきました。そこから神様と人類が同伴して六千年間走り、今日この時間まで来ました。しかし、まだその競技は終わっていません。今も走っているのです。
では、どのようにしなければなりませんか。先祖から走ってきたすべての伝統的な精神をもたなければなりません。どこに所属しているのかを知らなければなりません。何の競技をして、どこに所属し、どのようなことをするのかを知らなければなりません。私は何の競技種目に参加しているかということを知らなければならず、過去に誰がどんな記録を出したのかということも知らなければならず、誰がどのように失敗したのかということも知らなければなりません。このすべての悪条件と善の条件を知り、その悪条件に引っ掛かり得るすべてに備えなければならないのです。
私たちの人生行路には、数多くの怨讐が障害物を置いて妨げています。見える障害物でなく、見えない障害物を置いています。それは歴史上の数多くの預言者が倒れた峠です。このように、数多くの峠があるので、これに対する知識がなければなりません。それゆえ、今日私たちは歴史を知らなければならないのです。
過去を知り、現在を知って、未来を知らなければなりません。これがランナーが知らなければならない常識です。あるコースに進んでいる途中で、主催者側がある目標のもとで計画したそのコースを変更するかもしれません。それゆえ、過去の預言者たちが走ってきた歴史的なコースを知り、またそのコースで戦ってきた経路、そして戦っている現実の事情と、今後戦うべき計画をすべて知らなければなりません。それでこそ最後の勝利者になるのです。
ところが、今日信仰者の生活をじっと見てみると、神様がどのように役事してこられたかを知らずにいます。神様が今この瞬間、いかなる種目で、いかなる計画のもとでどのように動いていらっしゃるのかを知らずにいます。このような姿をした人々を「ランナー」と言えますか。神様は六千年間役事してこられながら、この競技種目を運営する方向があります。主眼があります。私たち人類の始祖から人類の終末時代まで、一貫した目標のもとで、一貫性をもって動くということです。
◆神様の摂理に代わり得る宗教
こういう見地から、自分がいかなる人生行路を走るランナーになったかということを感じて、勝利者になることを願うならば、歴史性を帯びた宗教を探さなければなりません。また、時代性を帯びた宗教を探さなければならず、未来性を帯びた宗教を探さなければなりません。そのような宗教であってこそ、人間が最後まで信じても落胆することがないものなのです。
過去に数多くの宗教人がいましたが、彼らの寿命は何世紀にしかなりませんでした。このような事実を考えてみると、神様は人間の知らない中で摂理してこられました。人間が堕落したその日から始まって、私たちが行ったのち、未来まで摂理なさることは明らかですが、そのような摂理をする神様のプログラムに代わり得る宗教があるならば、その宗教はどんな宗教でなければならないでしょうか。歴史的な面で貢献する宗教であり、人類歴史の起源の因縁をもってきた宗教でなければなりません。そして、善悪の起源を論断する宗教でなければならず、人生行路のあらゆる歴史性を包容して、未来の最後の目的地で勝敗を決定づけることができる宗教でなければならないのです。
私たちが神様の前に賞を受けるなら、今日この時代によくやったといって賞を受けることはできません。霊界には数多くのランナーがいます。神様の摂理路程で千態万状の事情をもって競技場を走った数多くの人々がいます。
その多くの人々を全部集めておいて、彼らを代表して賞を受けなければならない存在ならば、彼は、昔の先祖たちが行けなかった所にすべて行ったという勝利の条件を備えなければならず、また今日の人間の前でも勝利的な条件を備えなければなりません。
また、未来の人間も「正しい」と言える基準を備えた者であってこそ、神様が表彰できます。それゆえ私たちは神様を信じます。私たちは人生の行路を走っているのです。最後の一日の目的地に向かって走っているのです。
では、私たちが信じている神様は、いかなる方でしょうか。その神様は、歴史的な神様です。さらに、時代的な神様であり、未来的な神様です。その神様が立てられた目標も、歴史的な目標であり、時代的な目標であり、未来的な目標です。
私たちが信じている神様がそうであり、私たち人間が願う望みの基準もそうであるなら、神様も歴史的な神様、時代的な神様、未来的な神様であると知って信じなければなりません。それでこそ神様が賞を与えるとき、悲しんで与えるのではなく、喜んで与えるのです。その賞を与える方の心情が分かる最後の瞬間が来なければなりません。
数多くの宗教は、何千年あるいは何百年間続いて、この時代の思潮の前に押し出される傾向を見せています。キリスト教も今まで数千年間続いてきましたが、未来の一時を歩んで再び越えなければならない運命に置かれています。ここにもし、骨髄からわき出た神様のある競技コースがあるならば、そのコースは歴史的なコースであり、時代的なコースであり、未来的なコースであるので、私たちはこれに対する知識がなければなりません。
それゆえ、この時にある新しい真理があるならば、その真理はこの時代的なものであってはいけません。時代性を帯びているだけでは絶対にいけないのです。何かの主義、何かの思想があるといっても、一時代の一時に合うだけのものならば、その主義と思想は過ぎ去ってしまいます。連綿とした歴史の背景をもって、この時代の思潮に通じて越えていくことができる理念、新しい主義が必要なのです。
◆神様と共に楽しみ、勝利できるランナー
神様は歴史的な神様であり、時代的な神様であり、未来的な神様であられます。そして、私たちもやはり歴史的であり、時代的であり、未来的な条件を備えたランナーとして、それに対する知識をもたなければなりません。そうでなければ、未来のある思潮に巻き込まれていくでしょう。
それに対する知識を備えて、さらには歴史的な神様の心情も知らなければなりません。食口というものは、事情が絡んでいます。事情は相対的関係です。歴史的な父の心情、時代的な父の心情、未来的な父の心情がこうなので、その心情を中心として行う父の競技に対する、あらゆる知識を備えて心情の分野まで合わせて入っていかなければなりません。そうして、優勝して最後に満足することができ、神様に対面して永遠に喜びを享受することができる者になることを天は願うのです。
宗教は真理のみでできたものではありません。道は真理だけではありません。主義と思想は真理を中心として進みますが、宗教は真理以外に心情が内包されているのです。主義と思想には心情がありません。しかし、宗教は親と子が無言で愛するように、何かが絡んでいます。論理的な条件を越えて動く内容が備わっています。しかし、主義はそうではありません。主義は心情的な結合ではなく、組織的な結合なのです。
今日、私たちが目標に向かって走る競走者の態度として備えるべきものは、歴史的なそのコースに対する知識がなければならず、時代的な実情をよく把握しなければなりません。それから、未来的な内容、その計画をある程度まで知ってこそ、走っていくことができます。これが私たちランナーがもつべき常識です。
このように、天に向けて私の命を懸けて進むにおいて、天の歴史的な心情、時代的な心情、未来的な心情まで備えた者がいるならば、神様が今までこのコースを立てて築いてくるためにどれほど御苦労なさったのかということを感じる人がいるならば、彼はいかなる困難にぶつかっても無難に貫いていくはずです。
次に、その目標に向かって走っていくにおいて、戦いの心情を失ってはなりません。あらゆる準備を整え、知識のあるどのような怨讐に対して戦っても、勝ってみせるという心情をもたなければなりません。戦いに敗れてはなりません。実践分野は戦いです。この地上のすべてと戦って勝利し、一番最後に、「賞を与える神様が自分をけ飛ばしても、自分は屈しない」と言うことのできる勇敢な者にならなければならないのです。
◆試練の多い修道の道
修道の道を行くには、必ず試練がたくさんあります。この競走の場面で走るには、自分自身が大変なことはもちろんですが、想像もできない無数の試練があります。肉眼に見えない数多くの悪霊が私たちを試験する過程があり、そのコースが過ぎれば天使が試験します。また、そのコースが過ぎれば、道人と道師が試験します。
もしイエス様を信じていくなら、イエス様が試験します。初めは導いてくれますが、一番最後には試験するのです。神様も自分を率いてくれては、最後に賞を与える時になって試験します。なぜそうなのかといえば、人間が神様を裏切ったからです。
人間に賞を与えるために自然環境を造っておきましたが、人間が神様を裏切ったので、それを再び回復するためには、必ず試練の過程を通じなければなりません。試験なく与えようとしたけれど、試験を受ける条件に置かれているので、必ず試験を経なければなりません。イエス様も十字架上で「わが神、わが神、どうしてしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・四六)と祈られたように、天は捨てられるのです。
このような戦いの勇者として自分が走るにおいても、走るそこには心の戦いと体の戦いが起こるようになります。決心をもっただけはできません。六千年コースを経てきたその峠ごとに、神様とサタンが戦ってきた内的な苦しい心中が、走る者の心の中につたわってきます。神様とサタンが戦ったことが、自分にぶつかってきます。それで、そのような内的な苦しい心中と、外的な苦しい心中が今の自分に現れるようになるのです。
自分自身はただ走るのではなく、内的な戦いと外的な戦いをしなければならないと同時に、天の試験に勝たなければなりません。人生行路で勝利するには、その戦いで勝利しなければなりません。その理由は、歴史が六千年を経過しましたが、このコースでまだゴールインした人がいなかったからです。「私は行く」と言ったけれど、決勝点まで行った人がいなかったからです。
◆イエス様が再び来られる理由
イエス様は今天国に行っていると信じていますが、楽園にいます。イエス様は「楽園にいる」と言いました。楽園は天国に入る待合室です。イエス様が再び来られるのは、楽園の門を破って、天国の門を開放するためです。この地上ですべきことをすべてできなかったので、再び走って最後の決勝点にゴールインしなければならないのです。
したがって、今日私たちが走っている競技の種目は、信仰という名をかけた最後のコースです。競技でいえば、マラソン競技のようなものです。マラソンは競技の中で、一番輝く種目であり、競技の王座を占めることができる種目です。
では、こういう競技の種目に入った私たちは、どのように走らなければならないでしょうか。自分の決心だけで走ってはいけません。ここには、いろいろな戦いが加重されています。心の戦いと体の戦い、怨讐との戦いがあります。それで、命懸けで世の中が引っ張っています。真の信仰生活をするにおいて、命懸けで、世の中が引っ張っていて、命懸けで主義、思想が引っ張っています。
その目標はどこですか。漠然としています。行くべきその道には、無数の怨讐が見えない所で矢を射ています。それだけでなく、信じていたイエス様も、神様までも最後になって「君は誰か」と言って、「知らない」と言われます。必ずそのようなことがあります。
では、私たちが戦いの勇者としていかなる決心をしなければなりませんか。私が走るこの道の目標は間違いないという決断を下したときには、死を覚悟しても行くという決心をしなければなりません。それでこそ、そのコースで勝つことができます。滅びるにも最高に滅びるという決心、死ぬにもこの世で一番哀れに死んで、苦労するのも一番苦労するという決心をしなければなりません。神様が苦労なさったことより、もう一つ苦労するという覚悟をしなければならないのです。
◆神様が誇ることができる息子、娘になるには
今走っている私たちの現実を見つめてみましょう。私たちはある目標のもとで今走っています。走る生活は戦いであり、戦いでは体を引っ張ります。今まで信じてきた信仰観念が引っ張っています。ここに数多くの試験があります。それが終われば、最後は神様がけ飛ばします。「君が私の息子、娘か。自信があるか」と問い返すでしょう。「君は何に優勝したか」と言われれば、「はい、これこれに優勝しました」と言って、実績を見せなければなりません。世の中の先生も、自分の弟子に自分のある何かを任せるためには、いろいろな面で試験します。
したがって、私たちは最後に残る人生のコースを走るランナーとして、戦いの勇者であることを知らなければなりません。そして、天の精兵であることを知るべきであり、またその精兵としての覚悟をしなければなりません。体を打っても「打つなら打て」、いかなる理念と思想が打っても「よし」、いかなる迫害が来ても「よし」、国家、世界、天、これらすべてが動員してけ飛ばしても「よし」、神様まで乗り出して反対しても「反対するならしてください」と言えなければならないのです。
このように天地が動員して反対しても、そこで勝利した者がいるなら、彼は神様が永遠に誇ることができる息子、娘になるでしょう。神様が「もうお前にはまいった。復帰摂理路程を出発して人間を探し出してから、お前のような人には初めて会った」と言える人がいるなら、その人にすべて降参するのです。それは生死をかけた戦いでも、どんな戦いでもそうです。
終わりの日に、このような最後の修道の道を走っているランナーがいるとするなら、そして最後の優勝を願って走るランナーがいるとするなら、その人は覚悟しなければなりません。自分たちが信じている教祖が救い主でないこともあります。最後には実力戦をしなければなりません。なぜなら、救いの摂理が終結していないからです。歴史的な神様の競技場で、すべての競技が終わらない限り、そしてすべての競技が終わって神様が賞を与えない限り、戦いは続きます。
◆神様が立てたかった摂理的な代表者
二千年前にイエス様がこの競技の場面で勝利し、四千年歴史の代わりをしたメシヤの使命を果たしましたが、キリスト教徒はそのメシヤの勝利のバトンを受けて、今までの二千年歴史を生きた歴史として神様の前に立てることができませんでした。イエス様が生まれて亡くなってから今まで、キリスト教の形態は整いましたが、心情問題であるとか、それ以外の戦いで勝利する基準を立てることができませんでした。その日から今日まで、「勝利した」と言える一つの基準が出てこなかったのです。
イエス様も反対してみて、神様も反対してみて、「うん、お前はいい」と言って、イエス様と神様が手を挙げて祝福できる人にならなければなりません。そうするには、いかなる障害物でも克服しなければなりません。
では、神様は救いの摂理をしてくるにおいて、どのような摂理的な代表者を立てたかったのでしょうか。サタンはもちろんですが、神様も何も言うことのできない、認めざるを得ない勝利の息子、娘を立てて、サタン世界や天の世界に誇りたいのが神様の心情です。人間の心がそうであるならば、神様の心もそうだというのです。
したがって、今日修道の道を行く私たちを、最後には神様が試験します。「この道を行くな」と言うでしょう。「それでも、私は行きます。私は走ってから死にます」と言うことのできる人が出てこなければなりません。そのような人がいないときには、聖書以上の内容をもったみ言は出てきません。イエス様が生まれて逝かれた、それ以上の内容のみ言は出てきません。イエス様以降、神様が語りたかったみ言は出てこないのです。
私たちがこのコースを走るには、イエス様の時以上の十字架でも来い、神様が六千年の摂理路程で受けてきたその苦労と悲しみの苦痛も来い、今日この地上の人類すべてが動員されて一度に矢を射る場までも来い、神様の摂理も人間を中心として、サタンの反対も人間を中心としてするから、全世界の人類を動員して来い、最低の地獄にも行き、最高の天国にもに行く、という信念を備えなければならないのです。
そうして、心から肯定もしてみて、反対もしてみて、また実証もしてみて、間違いないと決心がつけば走らなければなりません。走るにおいて、誰も止めることができないようでなければなりません。どのようなものが来ても、退けていかなければなりません。それでこそ、六千年間の恨みで妨げられた峠を無難に越えることができるのです。
ここに先生がいるとするなら、その先生のところに来て「やってみましょう」と言うことのできる、気迫をもった勇者を天は待ち焦がれています。それでこそみ旨が成されます。もし、そういう知識を備え、そのような決心をもって、そのような戦いの覚悟をして立ち上がる息子、娘がいるならば、天は彼を無視できません。「お父様、こうではないですか。お父様の心情はこうではないですか。お父様の歴史的な願い、時代的な願い、未来的な願いはこうではないですか。そして現段階で、これではいけないから、これを無視してしまってこのようにしなければならないのではないでしょうか」と言いながら、未来的な願いの条件を備えて出てくれば、イエス様が反対しても、誰が反対しても、神様は「そうか。お前の話は正しい」と、認めるようになっているというのです。
◆勝利した者が受ける賞
過去に生まれて死んでいった数多くの聖賢たち、あるいは私たちが信じている救い主は、その時の世界と未来世界を開拓するために立てられたのです。ですから、イエス様が語ろうとなさった未来のことをもって、イエス様の前に現れて抗議すれば、イエス様は有り難く思います。誰かが摂理を中心として、この時代以降の未来の摂理的な内容をもって「神様! これを早くすべきではないでしょうか。これよりもこれをすべきではないでしょうか」と言いながら、現在のことを無視して、未来のことをもって立ち上がったとしても、天は彼を打つことはできません。かえって褒めるのです。
私たちは、そのような戦いの覚悟をもって行かなければなりません。そうして、天が認める日には、いかなる賞をもらうのでしょうか。今日、世の中である競技種目の勝利者になると、主催者がそれに該当する賞を与えますが、神様の六千年の競技の場面で最後に勝利した人々に、神様は何を与えるでしょうか。どのような競技でも、優勝して賞をもらう時は、うれしいものです。しかし、それは一時的なものではないでしょうか。過ぎてしまえば、その競技とは何ら関係がなく、また別の人が優勝して賞をもらうようになります。しかし、神様の競技場で最後の決勝点にゴールインする人は一人です。後にも先にもありません。終わろうとするなら、永遠に終わるのであって、また別の何かは存在しません。
終わるその競技で賞をもらった喜びは、きょうだけではありません。永遠です。それ以上の良い内容が展開するかどうかは分からなくても、それ以下に落ちることはありません。勝利した彼らに、天は何の栄光を下さるでしょうか。神様の息子、娘という栄光を下さるはずであり、神様が立てられた天と地のすべての権勢を彼らの前に任せるのです。天の王宮があるなら、彼らはそこで暮らすことのできる天の王族として承諾されることでしょう。永遠無窮な賞を与えるのです。
そのように勝利した息子、娘がいるとするなら、神様は六千年間準備した天国全部を動員して、歓迎のお祭りをすることでしょう。その祭りは一日で終わるのではなく、永遠に続くことでしょう。その世界が正に天国、パラダイスです。したがって、これから私たちは、そういう理念のもとで走るランナーの一人にならなければなりません。
◆勝利し得る秘訣
今日、たくさんの宗教があります。儒教、仏教、イスラム教などいろいろな宗派があります。競技場の中には、走る道もたくさんあります。しかし、天は場所を指定します。「この競技場の競技種目はこれだ」という条件になっています。ある教派、ある宗派、誰かの命令のもとで動く人間になっているのは恨めしいことです。人間が堕落したからそうなのです。
私たちは、どの道、神様の競技場に参加しなければなりません。それで、ある一種目でも走らなければなりません。ところが民族が違います。天が願う競技は、民族別の競技ではありません。世界的な競技です。いわばオリンピック大会と同じです。その競技場は、各民族の代表者が選ばれて集まる所です。この競技場に来て走らなければなりません。今日、神様の復帰摂理も同じです。それゆえ、天は世界的なマラソン大会の優勝者を探すために摂理してこられます。そして多くの競技の中でも、王座を占めることができるマラソンのような立場にあるのが、宗教です。
しかし、宗教だからといって、すべて良いのではありません。系統立てられていてこそ、良い宗教です。それで、それに対する常識をもたなければなりません。もし、それに対する知識がないとするなら、いくら準備したとしても勝利する人にすることができません。教えることができません。盲目的に走るだけでは優勝できないのです。
ですから、心身の準備と知識を備えて、最後の戦場で天と地がすべて動員して反対しても、屈しないでそれを貫いて超えることができる信念をもって闘い、押し進めることができる人にならなければなりません。そのような人になってこそ、人生行路の最後のコースで勝利できるグループに参加できるということを心に銘記してくださるようお願いします。
10. 天の心情を誰が知っていたか
一九六〇年一月十七日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第八巻』
きょう、皆さんに語るみ言は、「天の心情を誰が知っていたか」です。
万物を創造する以前に、既に神様には創造しようという心情がありました。その心情は創造理想であり、それを実現するために神様は創造の計画を立て、万物を創造され始めました。
神様の願いは、神様の心情が通じる創造理想の世界、創造理想の人間、創造理想の万物でした。ところが、そのような理想の世界、理想の人間、理想の万物となっていないことが、神様の恨です。
◆堕落した人間を見つめられる神様の心情
永遠に神様の心情を中心として、創造理念とともに動かなければならない被造物は、善の起源を見いだすことができないまま今日まで、天と人間、天と万物というように各々掛け離れて動いてきま
した。
本来は、神様の手によって創造されたという因縁をもち、神様の心情の対象として絶つに絶てない因縁をもっている万物と人間ですが、今日では、神様がその手を私たちの体にも万物にもとどめることができず、神様の心情もまた、万物にも私たち一身にもとどまることができません。このような嘆かわしいことが、堕落の結果なのです。
堕落した人間を見るようになったその日から、神様は堕落した世界を見ざるを得なくなり、堕落した人間と接するようになったその日から、神様が待ち焦がれた創造理想世界は、心の中に深くしまっておかなければならなくなりました。理想があるにもかかわらず、その理想を実現することができず、万物に接する時には、いつもその理想を成したい心の動きはあったとしても、その理想の心を表現することができなかった天だったのです。神様が創造された万物でしたが、神様のものではなく、神様が愛すべき子女ではあったのですが、神様が愛することのできる子女にはなれませんでした。
それゆえ、この地を見つめられる天は、喜びの天ではありませんでした。悲しみの中の悲しみを感じる天であり、苦痛の中の苦痛を感じる天であったというのです。
神様は、本来人間に御自身の直系の子女であるという名分をもたせようとして創造された因縁をあきらめることができずに、再び探し出す歴史、救いの歴史、再創造歴史を始められました。失った者を再び捜すための歴史路程において、神様は多くの悲しみを味わってこられましたが、その悲しい心に同情してくれる者は一人もいませんでした。このような中にあって、天は悲しい心情を抱いて、堕落した人類のあとについてこられました。前に立つことができず、あとについてこられたのです。死刑囚の父母が、死刑執行所に行く息子のあとについていくのと同様に、神様は、死亡の道へと引きずられる人類、宇宙的な死刑囚のような人類のあとについてこられたのです。
神様は、自分の思いどおりに主管し、愛したとしても余りあるような人類を、引き裂いた祭物としてサタンの手に差し出し、サタンの前で人類が蹂躙されるたびに、限りない苦痛を感じました。個人をそのような立場に出すときは、個人的な十字架の苦痛を感じざるを得ず、家庭や民族、あるいは国家をそのような立場に差し出すときは、それに相応する十字架の苦痛を感じざるを得なかった天でした。
◆人間に対して抱いている神様の心情と願い
では、どうして神様がこのような事情に置かれるようになったのでしょうか。それは人間が堕落したからです。神様はいかなるお方でしょうか。そのお方は、人類の真の祖先です。自分とは絶つに絶てず、自分の本質全体と因縁づけられている父であられます。その父が、このような事情に置かれているという事実を、人類は知らずにいるのです。
天は、人類がこのような立場を破壊してしまい、再び父と呼んでくれるその日が来ることを願いに願ってこられたのです。天のみ旨を知り、天を探すために、天が動く方向に沿って修道の道を開拓してきた人々も、その日を待ち焦がれてきました。
したがって、その日は父が待ち焦がれる一日であり、息子、娘も待ち焦がれる一日です。その日は、失った息子が死亡の鎖を切り、解放された姿で再び帰ってきて、父と呼ぶことのできる日です。本然の園で創造された、その本然の真の息子、娘として、本然の心情で思い焦がれた父を呼ぶことのできる日です。その一日は、人類が願い、神様が願う日なのです。
このような心で天は、歴史路程を導いてこられました。罪人の中の罪人となった人間に接するときも、そのような心は消えず、死んでいく息子、娘に接する場でも、その心は消えることはありませんでした。また、そのようなことを嘆かれ、善の方向を探してさまよってきた数多くの修道者たちのいる場所からも、神様は離れることはありませんでした。一人の罪人から、善に向かい義に燃えて泣き叫ぶその一人の生命に至るまで、その環境、時代を問わず、天は同じ心情をもって接してこられたのが実際のところなのです。
そのように善なる神様であり、そのように私たちを愛される神様であるがゆえに、人間が罪の中に捕らわれていても、「私の息子よ、娘よ」と叫ばれる感情は消え去りませんでした。そのような感情がなくならなかったために、彼らに接するときには、天は限りない苦痛を感じざるを得なかったのです。悪なる息子、娘を見つめながら苦痛を感じていらっしゃる神様は、善を探していこうとする息子、娘がいるとしたら、彼らに御自分の苦痛を解いてくれと要求せざるを得ない立場なのです。これが天の心情です。そのような理由で、善を指向して修道の道を行った数多くの人々が、罪人にしがみついて倒れていったという事実を、私たちは歴史路程を通じて知っています。
では、どうして天はそういう作戦を指示してこられるのでしょうか。天は、死んでいく息子、娘であったとしても、自分の子女であるという感情を忘れてしまうことができないがゆえに、より善なる息子、娘を動員して彼らを救い、助けたいと思っていらっしゃるからです。これが父の心です。それゆえ天は、六千年という長い歳月を罪人のために、悪なる群れを救うために、善なる息子、娘たちを死の淵に追い詰めることをいとわれなかったのです。
私たちが信じる神様は、私たちの父なのです。私たちの父は、いかなる方でしょうか。神様は親であるので、死亡のくびきに捕らわれている息子、娘たちを見るとき、彼らを助けたいと思われる方なのです。それで父に従う息子、娘たちを犠牲にすることをいとわれず、歴史を導いてこられました。その心が、摂理歴史を率いてきた本心です。
ところで、アダム以降、今日まで六千年の歴史が過ぎましたが、罪悪に染まっている人類が、一時でもこのような父を呼び求めたり、父と感じて感謝したことがあるのでしょうか。一度としてなかったのです。
どうして天は、アダム家庭に対するとき限りなく悲しい心情で対し、アベルに対する心とカインに対する心に、なぜ差をつけられたのでしょうか。本心からわき出るその心情においては、皆が息子、娘の立場でしたが、差別する心情をもって接しなければならないのが天の事情でした。そのように悲しい立場にいらっしゃる天ですが、「アベルの祭物は受けて、自分の祭物は受けなかった」と言って、カインがアベルを打ち殺したことは、神様を打ったことよりも、もっと悔しい事実でした。
こうして人類の歴史は、神様の心情と因縁を結ぶことができないまま始まりました。神様の真の心情の前に反旗を翻して、裏切りと恨みと不満を吐露し始めたことが、カインの歴史なのです。そうして、神様の心情に対した歴史は途絶え、裏切りの歴史が代々にわたって引き継がれた世界が、今日のこの天地だというのです。
裏切りによって堕落の心情を造成してきたカインの歴史を、私たちは限りなく嘆かずにはいられません。神様と父子の因縁を結び、神様の心情の歴史が展開しなければならないのにそのようにできず、裏切りの心情、反逆の心情が代々続いてきたがゆえに、人類の歴史路程において神様の心情の歴史が現れなかったのです。神様が愛することのできる息子、娘が地上に現れなかったのです。
私たちは恨まなくてはなりません。自分の体の中で脈打つ心臓の鼓動を聞くとき、私たちは恨まなければならないのです。その脈拍は、どこから出発してきたのでしょうか。カインの心臓からです。カインの心臓の音が、今私たちの体の中で鳴り響いています。さらにはカインの血と因縁をもち、善とは相反する立場に置かれて、サタンの血が走り巡っている自分であるというのです。
◆神様が嘆かれる原因と人間の責任
天が嘆かれる原因はどこにあるのでしょうか。心情の起源を共にして、天と共に生活して万物を主管しなければならない人間であり、直系の子女の立場にあるべき人間であるにもかかわらず、そのようにできない立場に立ったというのです。その反面、サタンと同行してサタンを中心として生活し、サタンを中心とした世界を主管しています。この世界は悪を中心とし、悪の事情に通じ、悪の心情と結託して成された世界であって、善を中心として善の事情に通じ、善の心情と結託して成された世界ではないのです。
それゆえ、善を指向して良心が澄んだきれいな人であるならば誰でも、この世が嫌だと感じるのです。この世が、自分の心と相反するからです。世の中がこうなので、天は見えない所で歴史路程を通じて「道」を立て、人類を引っ張ってきました。その中で、代表的なものがキリスト教です。
私たち人類が感じて、見て、感覚を覚えることの一切は、神様によるのではありません。自分が好むのは誰によるのでしょうか。サタンによるのです。
人類は、どのようにならなければならないのでしょうか。その場で好んで喜ぶすべてのことは、サタンの舞台でなされたことであることを知って、その楽しい場面、うれしい場面を退けて進まなければなりません。そのような運命に置かれているために宗教は、「サタンの舞台から離れなさい」と言うのです。「私が生きているこの家庭から離れ、私が生きているこの社会から離れ、私が生きているこの世界から離れなさい」と言うのです。離れて、どこへ行くのでしょうか。サタンと因縁を結んでいるこの世界ではなく、神様と因縁を結んで動く世界に行くのです。そこが正に、人間が願う本然の世界です。
私たちは、今まで自分勝手に生きてきました。今までは、これが善くてあれが悪いと言いながら善し悪しを分けて生きてきましたが、私たちが善しとするそのすべては、天を起源とするものではありませんでした。
それは、かえって神様を悲しませる材料となりました。これを怨讐視して退けて進む者となるまでは、本然の世界へ戻ることができません。この世にこのような息子、娘を立てようとされる天と、金城鉄壁のようにそれを防いでいるサタンとの戦いが、歴史路程なのです。
私たちが横になって寝るその家庭は、自分がとどまる家庭ではなく、私たちが活動しているこの社会は、自分が願う社会ではなく、二つの目で見つめているこの地球は私たちが理想とする地球ではありません。この被造世界が私のものとはなっていないというのです。「私のものでありながら、怨讐のものとなっているのだな。本来は私のものだったのに、怨讐に奪われてしまったのだなあ」と、痛嘆して泣き叫ぶ群れが地球上にあふれ出てこなければなりません。
このような群れが出てくる前には、歴史の恨が解かれる道がないのであり、歴史の恨を解く前には、願いと愛と理想を成し遂げ得る神様の愛の心情と因縁を結ぶことはできないのです。それゆえ、世界を大審判するというのです。悔しい気持ちを解いたのちに、心情の世界を成し遂げるというのです。それが地上天国です。
◆ノアを中心として摂理された神様の心情
カインだけが神様を裏切ったのではありません。天は、カイン以降、千六百年ぶりにノアを立て、苦労することをいとわれませんでした。天と向かい合ってきたノアも、天のみ旨を貴び、苦労することをいといませんでした。ところが、神様はノアのことを分かっていましたが、ノアは神様の真の心情を知りませんでした。神様はアベルとカインのことを分かっていましたが、アベルとカインが神様の心情を知らなかったように、ノアも神様の心情を知りませんでした。また、その当時の人々も、神様のために成そうとするノアの心情を知りませんでした。
神様はノアをよく知っていらっしゃり、「ノアが神様の心情に代わって神様の恨を解いたならば、その時に喜びの息子としてもてなそう」とのみ意を抱いて、ノアを見つめていた神様でした。恵みがあるとすればこれ以上の恵みはなく、祝福があるとすればこれ以上の祝福はなく、栄光があるとすればこれ以上の栄光はありません。天はこのような心情でノアを見つめていましたが、それに従うノアは、そのような神様の心情を知らなかったのです。
それゆえ、知らないながらもついてきたノアが、どれほど哀れで、分かってくれない立場でもノアをつかんでこられた神様も、またどれほど哀れかというのです。知らないながらも、神様のみ旨のために生きようと苦労したノアでした。天は、そのようなノアが御自身の心情を分かってくれることを願ってきましたが、ノアは、その事情を知りませんでした。知らないノアの心情も不安でしたが、神様の心情はもっと不安だったというのです。ノアも神様を知りませんでしたが、ノアと一緒にいるノアの家族もノアのことが分かりませんでした。神様がこのように何も知らない息子、娘たちをつかんでいかれようとするその苦しい心情は、語るに語れないほど大きなものでした。
ノアが百二十年間苦労したのちに、神様は洪水審判をされましたが、そのあとに残ったのがノアの八人の家族でした。そこで天は、何を期待されていたのでしょうか。堕落しない天の家族として、神様を父として侍り喜ぶことを期待されていましたが、ノア自身はそれをはっきりと知りませんでした。自分は本然のアダムの資格を復帰しなければならない立場であり、アダム家庭によって生じた恨を蕩減復帰しなければならない立場として呼ばれた自分の八人の家族である、ということを知らなかったのです。ノアが知らないと同時に、ノアの息子、娘たちも知りませんでした。
悔しく悲しいこととは何でしょうか。他人が理解してくれないことは耐えられるものですが、死ぬときは共に死に、喜ぶなら共に喜び、悲しければ共に悲しむべき家族が分かってくれなかったというのです。これが天の悲しみでした。このことゆえに、天の歴史は延長されてきたのです。世の中の人が分かってくれなくて延長したのではありません。理解すべき群れが理解することができなかったために、天の歴史は悲しみが加えられて流れてきたのです。
ノアの前にハムがそうであり、モーセの前に民族がそうであり、イエス様の前に使徒たちがそうだったのです。歴史はこのように流れてきました。分かってくれることを願いながら呼び集め、育てて食べさせてきたその群れが分かってくれなかったので、天のみ旨は壊れ、裂かれながら進んできたのです。
◆アブラハム家庭を通じた神様の摂理と教訓
神様がアブラハムを呼ばれ、「カルデヤのウルを離れるように」と言われたとき、アブラハムは天の呼びかけにこたえて、そこを出発しました。故郷を捨てて出発したのです。どうしてでしょうか。そこは、アブラハムが暮らすべき世の中ではなかったからです。この世は恨まれるべき世の中であり、呪われるべき世の中です。いくら愛する父母と親戚が住んでいる地であったとしても、その地は天の人が住む地ではないので、神様はアブラハムを孤独な荒野に追い出されました。「カルデヤのウルを離れなさい」と命令されたのです。
アブラハムは、今日私たちが聞いている内容を知らない立場で、この罪悪の世の中をけ飛ばして無条件に出発しました。神様に祭物を捧げるときも、内容も知らずに祭物を捧げました。「イサクを殺しなさい」と言われたときも、その命令の意味も知らずに無条件に従ったのです。このように知らない立場で天のみ旨を奉ってきたのが、私たちの先祖たちの歴史なのです。責任を負った人々は、知らないながらも天を敬い、重要視してきました。これを知っている家庭は、多くはありませんでした。
アブラハムからイサクを過ぎてヤコブ時代に来て、ヤコブが十二人の息子を連れてラバンの家からカナンに戻ってきた目的とは何でしょうか。その一代に天の家庭の基盤をつくるためでした。天の祝福を恋しがり、自分の兄をだますことまでしたヤコブでしたが、彼の息子、娘たちはこのような父を分かってあげることができませんでした。彼らは、ヤコブが愛するヨセフとベニヤミンをねたみ、嫉妬しました。それが起源となり、動機となり、条件となって、イスラエル十二支派のうち、十支派の側と二支派の側に分かれるようになったのです。
このように、歴史路程で天を敬う責任者は天のみ旨が貴いことを知り、み旨に従ってきましたが、その責任者を理解してあげるべき家族が理解できないことにより、天の歴史を台無しにしてしまったのです。
アダムとエバとその子女を復帰するための神様のみ旨をアダムの息子が裏切るとは、また、ノアを通じて成し遂げようとしていたみ旨を彼の息子ハムが裏切るとは、そして、ヤコブを通じて成し遂げようとしていたみ旨をヤコブの息子が裏切るとは、思いもしなかったというのです。ですから、サタン世界にいる者たちが裏切り、理解できないのは当然であるといえます。しかし、天に従う指導者のもとに、あるいは父母のもとにいる子女たちが従うことができなかったので、築いてきた先祖の功績が蹂躙されてきたのです。
怨讐は、どこにいるでしょうか。家の門の外にいるのではありません。それでイエス様は、「あなた方の家族が怨讐である」と言われました。そのみ言は、「信じることができない者、裏切る者、天と関係ないところで行動する者が怨讐である」という意味です。
神様は、知らずに従うノア、アブラハム、ヤコブと同じ先祖たちを率いてこられました。天は何も知らない者たちを立てて、切なる事情を分かってくれることを願われました。どうしてこのような先祖たちを指導者として立てられたのでしょうか。知らないながら従っていたとしても、天はみ旨の前に裏切るときには彼らを打ちました。許すすべがありませんでした。
◆モーセとイスラエル民族を中心とした摂理
ヤコブ時代を過ぎ、モーセ時代でも同様でした。モーセを立てておいて、彼を将来イスラエルの指導者として立てようとなさった天の心情を、モーセ自身も知らなかったのです。怨讐のパロ宮中に送り豪華絢爛な環境の中で育つようにした、その理由を知らなかったというのです。
しかし、民族の精神を失わなかったモーセは、自分の前に豪華絢爛な栄光が幾重にも重なれば重なるほど、そこが自分の生きる世界ではないという信念が積み重なっていきました。アブラハムもそのような信念のもとで天の前に立ち、ノアもそうであり、ヤコブもそうでした。モーセもそのような立場であったというのです。どんなに豪華絢爛なパロ宮中であったとしても、怨讐の宮中だという思いが、鉄石のように堅かったのです。
四十年の生涯をパロ宮中で過ごしたモーセは、一日たりとも幸福な日はありませんでした。自らの民族が悲嘆の中にあることを見つめながら、たとえ死に追われ、恐怖が増し加わったとしても、民族を救いたいと思って同情するあまり、民族のために死のうという心情が先んじたので、イスラエル民族の中に飛び込んでいったのです。
このようなモーセの志操を、誰が知っていましたか。イスラエル民族を愛する心をもったモーセであることを、その当時のイスラエル民族の中では誰も知らなかったのです。もしその時、イスラエル民族がそのような堅い志をもって天を擁護し、選民を救おうという心情をもっているモーセと一つになっていたなら、天の摂理は延長することはなかったでしょう。
しかし、モーセがイスラエル民族の前に現れ、新しい信念のみ言、新しい趣旨を語っているとき、裏切りにふけっていたイスラエル民族でした。この群れが互いに戦うのを見つめるとき、モーセの義侠心は燃えたのです。「互いに団結して、怨讐と戦うべき立場であるのに、同族間でお互いに戦うとは」と。それを見た彼の心情は無念だったのです。民族愛に燃えているただ中にあって、怨 讐の国のエジプト人と同族のイスラエル人が戦うのを見たモーセは、エジプト人をその場で殴り殺しました。
その時、イスラエル民族全体がモーセ側となり、一つとなって団結したとするなら、神様の摂理はその時始まっていたでしょう。四十年の延長はなかったでしょう。民族を同伴して行くべきモーセは、民族の裏切りによりミデヤン荒野四十年という延長の道を歩まなければなりませんでした。パロ宮中での苦難に遭いながらもイスラエル民族を奪い荒野に率いていくモーセと、彼に従っていくイスラエル民族は、みなかわいそうな人々でした。
今は主権や価値、社会的背景がいかなるものであるかを知ることが目的ではなく、環境や社会をどのように築いていくかということも目的ではありません。神様の願われることを知ることが目的です。
では、神様が願われる所、神様が願われる地がどこにありますか。イスラエル民族が団結して「神様が願われる所とはどこですか」と尋ね、モーセのあとに従って死を恐れずカナンの地に走っていったとすれば、彼らは荒野で倒れることはなかったでしょう。神様のみ旨を知らず、導かれるままについてくるモーセを見つめる天は、一瞬たりとも休むこともなく、たとえモーセが寝入っている瞬間であっても、気をもみながら民族を見つめたのです。
どのようになるか分からない立場にモーセを追い込んで導びいてきた天の心情も耐え難いものでしたが、耐え難い立場にいるモーセをイスラエル民族が分かってくれない、そのことがもっと悔しいことでした。それゆえその民族は、審判を受けるしかなかったというのです。審判はこのような場面で行われるのです。こうして、モーセはみ旨を成すことができず、彼の後継者がカナン復帰のみ旨を成し遂げたのです。
◆イエス様を中心とした神様の摂理と福音の中心内容
モーセもそうでしたが、イエス様の時代を回想してみると、イエス様は何ゆえにこの地に来られたのでしょうか。
四千年の歴史路程に生きて逝った信仰の先祖たちは、何も知らない中で神様を信じてきて、何も知らない中で天を願いとしてついてきましたが、イエス様はかわいそうなイスラエル選民の前に天の心情を通告するために、追い込まれながらも率いてこられた方なのです。この四千年間、天は悔しくもうらめしい心情を抱きながら、何も知らないイスラエル民族の前にメシヤが来ると、その準備をさせてこられました。
彼(メシヤ)が来る日になれば天の心情を知ることができると、神様の内的心情を予告させたので、イスラエル民族は知らないうちにメシヤを願うようになっていました。ところが、そのような民族がメシヤを否定しました。もし、メシヤを願わなかったイスラエル民族であったなら、審判を受けることはなかったでしょう。
天はイスラエル民族に、何も知らない彼らを導びかれた苦衷をさらけ出して、「私は誰であり、お前たちは誰である」という事情を分かち合いたかったのです。その事情を分かち合うために四千年ぶりに天が送られたメシヤが、イエス様だったというのです。イエス様によって歴史が明らかにされ、イエス様によって心情が明らかにされ、イエス様によって新しい世界が展開されていたなら、どうなったでしょうか。もしその時、イスラエル民族がイエス様の前に帰依して、イエス様が死ねば共に死に、生きるならば共に生きることのできる団結した民族となっていたとするなら、この世界は原子爆弾による恐怖であえぐ世の中にはならなかったでしょう。
イエス様はこの地に、何をもって来られましたか。新しい宣布をするために、み言をもって来られました。新しい宣布の内容は「私はあなた方の父である」ということです。さらには「あなた方は私の民だ」ということです。イエス様は、このような宣布の内容をもって来られました。さらには「良い」という名詞をすべて許すために来られました。罪人であった人間が神様の民になることができ、罪人であった人間が神様の息子、娘となることができ、罪人であった人間が神様の新婦になることができ、罪人であった人間が神様を身代わりすることができるということ以上に良い知らせはないでしょう。イエス様がもってこられた福音の中心内容は、このことだったのです。
イエス様は、四千年間、恨を抱き悲しんでこられた神様のやるせないその心情を宣布するために来られたのです。しかし、イエス様は追い込まれました。草の生えているベツサイダの野原に五千人の群れを集めて、食べる物がなく神様の前に哀願の祈りを捧げるイエス様となりました。準備した聖殿は数多くありましたが、そこが安息の場となることはなく、身の置き所のなかったイエス様でした。
公演が催される宮殿の祭壇で、神様を呼びながら議論しなければならなかったイエス様が、オリーブ山の裏手の谷間で訴える境遇になるとは、これはどういうことでしょうか。四千年間準備したエルサレム聖殿は、誰のためのものだったのでしょうか。神様の事情を通告し、心情の因縁を宣布する、その主人公を迎えるために準備したエルサレム聖殿でした。
しかしそれは、イエス様の前でなくなってしまいました。安らかな場で天のあらゆる事情を宣布しなければならないイエス様が、ゲッセマネの園だとは何という話でしょうか。そこまでは良いとしましょう。その後には、十字架の道、ゴルゴタの道まで行かれたのです。
彼は、「信じる者がいないか」と思って、ユダヤの民を探しました。信じる者を探し、信じてくれる者を探し、分かってくれる者を探しましたが、信じる者も探し出せず、信じてくれる者も探し出せず、分かってくれる者も探し出すことはできませんでした。さらには、愛する者を探しましたが、それもまた探し出すことができず、イエス様はやむを得ず十字架を背負って、この地で追放されるわびしい立場となったのです。
無念な天の心情を宣布するために来られたイエス様、天が約束なさった天的な恵みを与えるために来られたイエス様、選んだイスラエル、苦労したイスラエル、無念だったイスラエルのあらゆる願いを成就させ、世界を前にして誇ることのできる祭司長国家を成すために来られたイエス様を追い出したがゆえに、イスラエル民族は惨めな道を歩んだのです。
◆イエス様がこの地に来られた目的
では、来られたイエス様はいかなる方でしょうか。彼は、無形の父に代わる実体の父でした。彼は、私たちの父です。死んでも私たちの父、生きていても私たちの父です。生涯を捧げて侍るべき父であり、永生の国でも侍るべき父なのです。
ところが、その父は息子、娘に会って一度として「息子よ」と呼んでみることもできず、一度として「娘よ」と呼んだこともないまま、息子から追われ、娘から追われて、のちには槍で刺され死んでいきました。悲痛なことの中で、これ以上悲痛なことがどこにあるでしょうか。
それゆえ、イエス様はこの地に来られ「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない」(ヨハネ一六・一二)と語られました。これは、父として子女に話すべき言葉を語ることができなかったということであり、新郎として新婦に話すことができなかったということであり、王の王として語りたいことを語ることができなかったという意味なのです。その当時の、ローマの法に引っ掛からない程度の話しかできなかったのです。それは、イエス様が本当に話したかったことではありませんでした。
怨讐の地でイエス様が自分の心情をすべてさらけ出していたなら、すぐに許されなくなっていたでしょう。そのような状況でした。サタンが主管するこの世界においては、反動分子であり、反逆者となっていたでしょう。それゆえ、天は極めて小さいけれども、そういう事情を事前に伝えることのできる一つの国家形態を備えて、そのような言葉を語らなければならないイエス様を送られたのです。
祭司長と律法学者、イスラエル民族全部が一つに団結して、イエス様がどのようなみ言を語られても、一言も漏らさずに実践したとするなら、イエス様のみ言を中心とした理想世界が始まったことでしょう。しかし、イエス様はそういう環境に立つことができませんでした。祭司長と律法学者は、行く所、行く所でイエス様の怨讐となりました。そのような局面であったがゆえにイエス様は、「私が誰であり、あなた方は誰である」という話もできずに逝かれるしかなかったのです。それゆえ、どれほど不幸なことであったかというのです。
天は四千年間苦労された神様の事情を知らせるために、事情を語りながら手に手を取って「お父様!」、「私の息子、娘よ!」と言うことができる一日を見るためにイエス様を送られましたが、送ったことが恨となったまま、キリスト教二千年の歴史をつづってきました。
今日、堕落した人間たちの中において善を見つめ良心が指向する方向に従っていこうとする人々は、「神様がいらっしゃるならば、神様、あなたの事情を知ることができますように」と求めなければなりません。先祖たちが孤独な道を行き、死の道を行き、血を流す道をいとわず行ったのはどうしてでしょうか。神様の事情が恋しかったからなのです。
神様の事情を知ったならば、次には何をすべきでしょうか。神様の心情を知らなければならないのです。父子の心情を知らなければならないのです。それを知ってこそ、神様が私の父であり、私は父の息子、娘となることができます。天地が崩れるというようなことがあったとしても、これだけは変わらないのです。これが解決されてこそ初めて、願われたその基準が立てられるのです。その瞬間に天地は、逆転していたのが正常に回転することができるようになるというのです。そのようになり得る時が、終わりの日です。
このように、何も知らない人類と先祖たちを指導してこられたことが、神様の悲しみです。神様は、そのことが分かる人が出てくることを待っていらっしゃったのです。そうしてイエス様が、それを知り、それを知らせるために来られました。来られて新しい宣布をなさらなければなりませんでした。何を宣布されるのでしょうか。天国建設の青写真を宣布なさったことでしょう。人間が失ったエデンの園をサタンが所有しているので、そのサタンを打ちのめし新しい本然の園を建設することができる、という内容を宣布なさったことでしょう。その宣布文が聖書には出ていません。みな消してしまいました。それゆえ二千年の歴史路程は、彷徨の歴史であったのです。
◆再び来られる主の使命と信仰の目的
この世界を率いていく主人とは誰でしょうか。この世界の主人は、神様のひとり子であられる王の中の王です。その方が主管し得る世界であるがゆえに、死亡世界にとどまっている数多くの人類は「来たり給え、メシヤよ」と言っているのです。
その方が再び来て、何をされるのでしょうか。アダム以降六千年間積み重ねられてきた神様の悔しい心と、恨めしい心を一つ一つ明らかにし、先祖の恨を明らかにし、従い尊ぶべき人物たちが裏切ったことを明らかにし、曲折を残した過去の傷の歴史路程を再び反復することがないようになさるはずです。それをするために、またそれを宣布するために来られる方が、主であられるのです。
その方はサタンを糾明し、審判台に上げ、人類を糾明して審判できる原則を立て、その次に天国の法度を宣布なさるはずです。私が探す息子、娘はこのような息子、娘、私が探すその息子、娘が生きる家庭はこのような家庭、私が建設する社会はこのような社会、私が成し遂げるべき国はこのような国だと宣布して、その統治権内に世界を引き込み、天地が一つに和することができる基盤をつくっておいて数年後に、神の国を宣布なさるはずです。
私たちが信じている聖書のみ言、六千年の摂理を支えてきた聖書のみ言があるとしても、これは怨讐の国で語られたみ言であるがゆえに、安心して語られたみ言は一つもないのです。天国で通じる理想的な言葉はサタンが讒訴するので、躊躇する立場で語られた言葉なのです。「讒訴するお前の権限とは何であり、お前が讒訴する理由とは何なのか」と言いながら、サタンを踏みつぶすのです。それで、勝利的な基盤の上で語られた言葉は一言もないのです。
キリスト教信徒は、そのような聖書を信じています。聖書を見て学ぶ目的は、聖書の一節を暗記するところにあるのではありません。イエス様の行跡を知ることが目的ではありません。善かれ悪しかれ、イエス様が来て逝かれた理由は知らなくても、聖書の中に隠されていること、聖書を通じて表そうとすることが何かを知らなければならないのです。神様を「私の父だ」と言えば、神様も「お前は私の娘だ、私の息子だ」と言える心情の立場に立って、怨讐も、いかなる者もこれに口出しできないという覚悟と信念で、天を父として侍って生きる人がいるなら、彼は聖書の完成者です。そのようになれば、聖書の一節をも知らないとしてもいいのです。
そのような心情にまで至るには、私たちは知らなければなりません。私たちの父はこのような理念をもって人間を創造され、堕落した人間ゆえにこのように御苦労され、イエス様をこの地に送られながら今まで二千年間このような歴史的な心情をもってこられた、ということを知らなければなりません。そのような神様であることを知り、その神様は時代的な私を中心として何を成し遂げるために心情を傾けているのか、ということを知らなければなりません。
歴史を抱きながら進んでこられる間、父は私たちの先祖に手伝いをさせるとき、僕として手伝いをさせたのであって、息子として手伝いをさせたことはありませんでした。僕として戦わせ、民として恨みを晴らすようにはしましたが、息子として立てて恨みを晴らすことはできませんでした。それで、息子を立てて恨みを晴らす日が審判の日なのです。
これから私たちは、神様の事情を知らなければなりません。その事情を知って何をしなければならないでしょうか。神様の心情を知らなければなりません。神様の心情を知って、「私の父である」と言わなければなりません。
六千年間、人類が探してきたのは、聖書に流れている神様の事情を知り、神様の心情を知るためでした。民族や国家は言うまでもなく、個々人に対して父母の心情をもって接し、傷ついて蹂躙され、排斥され、刺されながら来られた神様が、私の父であることを知るためです。
イエス様は祈祷されました。ゴルゴタに上がる前に、既に倒れることを御存じであり、ゲッセマネの園で夜を明かして祈祷されました。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈られました。これは「あなたが私を送られたのは、父の基準を立てるためであり、私がこの地に生まれたのは、息子の基準を立てるためです。父を証すべき立場でありながら、このように途中で倒れるわけにはいきません」という心だったのです。これがイエス様の心情であることを知らなければなりません。
天地が崩れることがあったとしても、父が送ってくださったイエス様であり、息子の基準を立てなければならないイエス様であったがゆえに、天に向かって、父に向かって、そのみ旨に背を向けるようなことはできなかったのです。
◆神様が探される息子、娘
イエス様は息子として来られ、息子として逝かれました。息子として逝き、そして息子として復活されました。では、私たちは神様の息子として、あるいは娘として生まれ、神様の息子として、あるいは娘として生きてきたでしょうか。ですから私たちは、悔い改めなければなりません。ある家の息子として生まれたとすれば、死んでもその家の息子であり、生きていてもその家の息子です。ある家の娘として生まれたとすれば、死んでもその家の娘であり、生きていてもその家の娘です。その因縁は誰も否定することはできません。
神様は探していらっしゃいます。天上の法度を立てて、叫んでいらっしゃいます。生まれるときから、「私の息子」と言うことのできる群れを探していらっしゃるのです。生きている間も、「私の息子である」と言うことのできる息子を探していらっしゃいます。息子だけではありません。生まれるときから「私の娘である」と言える娘、生きている間も「私の娘である」と言える娘、死ぬときにも「私の息子、娘である」と言える息子、娘を探していらっしゃるというのです。
イエス様は息子として生まれ、息子として逝かれました。しかし、娘として生まれ、娘として逝く者は誰もいませんでした。それゆえ、新婦を探してさまようのです。息子として生まれ死んでいったイエス様の前に立つ新婦を探せなかったので、娘として生まれ、娘として死ぬことのできる新婦を探して「ああ、私の息子、娘よ」と言われ、本然の園でアダムとエバを創造され、手を挙げて祝福なさったその喜びの心情を、神様は再び探そうとなさるのです。恨の心情を蕩減してなくしてしまい、善の心情をつなげて相続させることのできる息子、娘がいなければなりません。この息子、娘は、サタン世界の恐ろしい雰囲気の中にいてはいけません。またサタンが讒訴してはならない息子、娘なのです。
天地のどこに行っても自由に活動できる息子、娘をもつことが神様の願いであり、神様が摂理なさる目的なのです。そのために全世界のキリスト教徒を立て、その一日を準備させ、その一日を予告させてこられたのです。
◆キリスト教徒に対する神様の願い
全世界のキリスト教徒は、イスラエルのこのような背反の歴史を知らなければなりません。イエス様を怨讐として追い出したがゆえに、そのような哀れな歴史を歩んできたことを知らなければなりません。そのような歴史が民族を超え、今日世界的な次元で登場しましたが、それがキリスト教徒なのです。
では、このキリスト教徒はどのようにすべきでしょうか。兄弟間で戦えば滅びてしまいます。それゆえ、教派と教派が戦うのを眺めながら彼らを棒で打ち、無知な羊の群れを死に率いていく群れと戦うことができる、天に代わって戦うことができる勇者が現れることを神様は願っているのです。
イスラエルをもてあそんで天に背反したすべての祭司長と律法学者、パリサイ派たちがその職責をみな免れ、イスラエル民族をイエス様の前に屈服させたとき、神様はみ旨を成すことができるというのです。
歴史がこのように血にまみれ、悲しみでつづられて流れてきたということを知っている私たちは、団結しなければなりません。東西を問わず、国家、民族を問わず、皆が団結しなければなりません。これが、み旨を抱いた人々が肝に銘じるべき一つの標語です。団結するには、生活の統一、行動の統一、理念の統一、心情の統一がなされなければなりません。黒人が問題ではなく、白人が問題ではありません。イエス様の血筋がうごめいている人、心情にあふれて父を呼び求めたい人は、みな団結しなければなりません。このような運動を、全世界のキリスト教徒の前に宣布すべき時期が近づいてきているのです。
天は、このようにしてくれることを願われるはずです。全世界のキリスト教徒が、滅びたイスラエルの代わりに、第二イスラエルとして世界に登場し、怨讐たちと戦うことを願っていらっしゃいます。その日が、イエス様の再臨の日であり、その戦いに責任をもって来られる方が、再臨のイエス様です。
人間が知らない中で導いてこられた神様は、六千年間独りで御苦労され、今日全世界をキリスト教圏としながら、今度は人間が分かることのできるような環境をつくっておかれたのです。それを見つめるときに、私たちはおそれ多い心をもたなければなりません。無知な民であり、何とも言い難い恨めしいこの群れのために、天はこのように御苦労されたのです。ですから私たちは、おそれ多い心で見るすべを知らなければなりません。
今や残ったこととは何でしょうか。先祖たちも知らなかった神様の心情を、私たちが知ってさしあげることです。選民権を誇って四千年の摂理の曲折にしがみついてきたイスラエル民族と、二千年間イエス様を信じてきたキリスト教徒、あるいはこの時代の全世界のキリスト教徒たちが知らないことを、分かってあげることです。
天は探していらっしゃいます。父の心を知り、天地が変わったとしても決して変わることのない心情を持ち合わせた、父と息子、娘の因縁を結ぶことのできる人を探していらっしゃいます。全世界のキリスト教徒がみな知らないとしても、分かってくれる息子、娘が一人でも出てくるならば、問題は収拾されるのです。先祖たちも、神様の心情を知りませんでした。歴史をたどってみると、ノアもそうであり、アブラハムもそうであり、ヤコブとモーセもそうでした。皆が何も知らない中で環境を切り開いては逝ってしまったので、それを知らせるために、イエス様は「再び来る」と言われました。それゆえ、また来られなければならないのです。
神様は、私たちの父です。ですから私たちは、心と体がサタン世界に絡み合っているところから解脱し、神様の前に立つことができる息子、娘の威信を備えなければなりません。もう一歩進んで天は要求していらっしゃいます。生まれながらにして息子となり得る息子、生まれながらにして娘となり得る娘を願っていらっしゃいます。その息子、娘が、私たちを通じて出てくることを願っていらっしゃるのです。ですから、生まれながらにして息子となり得る息子を、生まれながらにして娘となり得る娘を天の前に捧げる責任があります。このような責任に耐えられる者は、歴史的な解怨を成就することができる者であり、神様の直系の子女という名分を受けるに不足のない者なのです。
◆神様の息子と娘の威信を立てなければならない私たちの責任
これから私たちは、歴史が血に染まった歴史であることを知らなければなりません。涙が数千万回流されてきたみ言であることを知らなければなりません。私が立っているこの地を探すために、この人類を探すためにそうであったのです。この人類の背中には先祖の血のあとが残っています。この人類の額あるいは服のすそには、先祖の血の涙がにじんでいます。これを見ることができる人とならなければなりません。
先祖たちは涙を流しながら死んで当然ですが、生まれながらにして神様の息子であり、生きながらも神様の息子であり、死んでから復活したとしても神様の息子であったその息子の涙と血のあとが、私たちの体に染まっているのです。教えたいと願ったイエス様の心情を、この時代に生きる私たちが知ることのできる権限を与えられたとしたなら、その栄光を何で報いますか。
神様は、知らせるために六千年間も苦労なさり、イエス様を送られ、先祖を犠牲とされましたが、無意味で無価値で無感覚な全人類を集めておいて知らせるその一言の言葉は、数千万の善なる人々が首をしめられ、血を流した祭壇のみ言であるというのです。
その一言のみ言には、死刑場で消えていく数千数万の善なる人々に、知らせてあげることのできなかった神様の曲折が葬られているのです。皆さんが創造原理から復帰原理まで全体のみ言を受けるようになるとき、そのみ言の一言一言には、血の涙が絡まっているというのです。それを探すために苦労した人は差し置いてでも、歴代の先祖たちの血の涙とため息が、切々と入り乱れていたのです。
それを探すために、いかなる道も甘受してきた人がいるとすれば、彼が歩んだ路程には一言のみ言を探し出すためにも血の涙を流す事情が込められており、呪いと恨みがあふれる歩みをいとわず歩んできたのです。
その一言のみ言のもとには血涙が漂っており、死のうめき声が自分を催促していることを感じる者であってこそ、歴史的な神様の心情を知ることができ、歴史的な神様の事情を知ることができ、神様が願って探してこられた息子の面目を保つことができるのです。そうなるならば六千年後に生まれた息子だといっても、心情を中心としては六千年前の自分でもあり、心情を中心としては四千年前の自分でもあり、心情を中心としては二千年前のイエス様と同じであり得るということなのです。
私たちはこのみ言を通過しなければなりません。み言を通過するにおいては、血の筋が伸びて流れ、涙の道が遮られています。それをいとわずに行かなければなりません。そのみ言を通過し、実体に侍らなければならないので、傷を負って十字架にかけられ、死の境地にある実体を迎えることができる悲壮な覚悟をもたなければなりません。このみ言をもって立ち上がったときに、天の裏切り者であるとして、良くない烙印を押されたとしても、あるいは裏切られ、露のように消えてしまうようなことがあるとしても、「私は血のにじんだそのみ言とともに死んでいく」と言うことができる気概のある人々とならなければなりません。
み言を失ったことが堕落なので、み言を捜さなければなりません。み言を見つけたのちには、何をすべきでしょうか。み言を見つけたのちには実体を復帰しなければならないのです。実体に侍るには、事情が通じなければなりません。事情を通じさせようとするとき、どのようにすべきでしょうか。心情がつながらなければなりません。
今までの救いの摂理歴史は、み言を通過する歴史でした。それゆえ、人類は真理のみ言を探してさまよってきました。真理を見つけたのちには、実体を通過しなければなりません。この実体を通過できない恨が残っているがゆえに、この地に実体の主人公である一人の方が来られるのを願うのです。これが再臨思想というものです。
実体通過の恩賜を受けたのちには、新婦の装いをして、新郎新婦の因縁を結び、心情の門を通過していってこそ、神様の相続者になることができます。み言をもってしては相続を受けることはできません。肉身だけもってしては相続を受けられないのです。実体がみ言の化身となって、神様の心情を通過したという合格証をもらってこそ、天上天下の大主宰であられる神様の息子、娘となることができるのです。
◆神様の心情を知る者となろう
み言が勢いよく伸びている所に生命が躍動します。み言が自分の体をかすめて過ぎるときに、歓喜と解放感が押し寄せてきます。しかし、それだけで満足してはいけません。そのみ言の背後には、血涙のあとがあることを知り、悲しい声を聞くことができなければなりません。それを知り、またそのように行くことがあったとしても感謝して、おそれ多い心が先立つ者であってこそ、神様の前に立つことのできる息子、娘になるのです。
六千年間、人間はあまりにも神様の心情を知りませんでした。しかし、天が喜ぶことができる一時があるとしたら、それはいかなる時でしょうか。心情で天を紹介することのできる時です。善なる人を通じて死亡世界の人間を生かそうとなさる神様の心情を知り、その心情を解怨するために神様の代わりに生かしてあげる責任を負って戦い、神様の心情を宣布する人がいるというならば、天はすべてを惜しまず、その人の前に残してくださるのです。
これから私たちは誇りましょう。残しましょう。私たちの名誉を残すためのものではなく、私たちの家門を誇るためのものでもなく、私たちの何かを立てるためのものでもありません。ただ一つ、私たちが誇ることとは何でしょうか。神様の心情です。その次に誇ることは、神様は私たちの父であり、自分は神様の息子、娘であるということです。個人がそうであり、家庭がそうであり、民族がそうであり、世界がそうであり、天上天下がそうであるとき、神様の願いは成就されるはずであり、神様の恨も解かれるであろうし、神様の天地創造の理念は完成されるはずです。
このような責任が私たち各自にあるということを知り、今まで神様の心情を知らなかったとしても、生きている間に知らなければなりません。生まれながらにして、あるいは生きている中で、神様の愛の心情を知って、真なる息子、娘として不平不満なく、無言で消え去ることができる私たちとなれば、皆さんには天国が問題ではありません。天上の王国で、天の貴族になるに違いありません。
11.神様の祝福の最大の願いとは何か
一九六〇年四月二十四日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第九巻』
堕落以前、私たちの先祖は、万物の主人公としての資格を与えられました。神様から「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、……すべての生き物とを治めよ」(創世記一・二八)という祝福を受けたのです。
◆人類歴史は神様の救いの歴史
そういう祝福が昔、私たちの先祖に与えられたのに、今日までこの地には、神様のその祝福どおりにすべての天地を主管した者がいなかったのです。もしその祝福が成されたとするなら、この世界は嘆息の世界にならなかったでしょうし、苦痛の世界にならなかったでしょうし、人類は恨みの世界でさまよわなかったことでしょう。
ところがその祝福が成されなかったがゆえに、今日まで人間は悲惨な歴史路程をさまよってきました。どのような歴史をさぐってみても、そこには悲しみと苦痛の事情がつづられているということを私たちはあまりにもよく知っています。このように人類歴史は、神様の祝福を成し遂げてきた過程ではなかったのです。
これを見るとき、人は幸せな立場を失って、幸せでない立場に落ちたというのです。あなた方も、幸せな立場でなく、幸せでない立場に処しているのです。私たちは、幸福な立場で生きているのでなく、不幸な立場で生きているというのです。平和の世界で生きているのでなく、その反対の世界で生きているということを否定する道がありません。
皆さんの存在意識において、生涯の価値を尊重視すればするほど、何と縁を結ぼうとするのでしょうか。喜びの要素、幸福と自由の要素、無限の解放の要素と縁を結ぼうとします。これは、皆さんが実生活において、良心生活において、誰でも体験できる、拒否できない事実の中の事実です。
歴史的な聖賢たちと多くの道主たちも、これを開拓するために闘ってきましたが、このような真の理想の要素とともに楽しむことができる、絶対的な基準を探すことができなかったのです。まだこういう基準を探し立てていない私たちは、悲哀と嘆息の生活を続けるしかないのです。
このようなことが天地万物を造られた神様の創造目的ではなく、また人間を立たせておいて、あらゆる被造万物を主管して暮らすよう祝福してくださった目的ではないことを、皆さんが感じなければならないのです。目的としない世界が成されたので、なるべき世界になれず、人類歴史は、その本然の世界を再び回復しようという救いの歴史となりました。
人間に「救い」という名詞が必要であるのは、人間が正常な状態にいないということを意味します。なぜなら、本然の状態にいない者を再び本然の状態に戻すことが救いであるからです。
人間は、神様が願う目標のもとで漠然とですが、ある目的の世界を願ってきました。ですから、神様が願う目標と私たち人間が願う目標が私たちの心情基準で完結され、喜んで唱詠を差し上げることができる一場面がこの天地間で行われるならば、その時から人類の幸福の世界が始まるはずです。
その時とはいつでしょうか。そのような場所とはどこでしょうか。そのような世界がいつでも成されるでしょうか。人間はそのような時と所に向けて随時、自分たちも知らない闘いを続けてきました。私たちは、そのような先祖たちの悲しい子孫です。
反面、天は失った人を再創造し、失った世界を回復する役事をしてこられました。エデンの園でいとおしく懐に抱き、願いをもって心情を傾け、きょうかあすかと見つめてこられた私たちの真なる先祖、罪を知らなかった彼らと共に夢を抱き、彼らと共に創造理念を成し遂げる日を思い焦がれた神様の心情、その心情は今日、人間世界で行く所なく、消えてしまいました。
神様の心情と理念と世界観は、私たちが夢にも推し量ってみることのできない驚くべき心情であり、驚くべき理念です。また驚くべき世界観であるにもかかわらず、私たちはそういう理念的な心情の世界とは何ら縁がないような立場、その世界は永遠に行ってしまったような立場に置かれたまま、さまよう人間になったのです。
ゆえに神様は、堕落する前のアダムとエバを立て祝福なさったその祝福を再び回復するために、今日まで人類歴史を抱き締めて、ひっくり返していらっしゃるというのです。
◆目的世界に向かって歴史を引っ張っていかれる神様
人類歴史は、人間だけで動かしてきた歴史ではありません。私たち人間が、ある目標をもって、ある計画のもとに引っ張ってきた歴史ではないのです。時期と時期、時代と時代、世紀と世紀を経てきながら多くの革命もありましたが、その革命理念により何十年あるいは何百年で成された世界は、みな消えてしまいました。それは人類歴史が、人間の見た夢によって成される歴史ではなく、人間のいかなる創造的な計画のもとでも成される歴史ではないためです。
人類歴史は、大天倫の目標と計画のもとで、一つの理念的な目的地に向かって進んでいく歴史です。このように人類歴史には、苦難の歴史過程をたどり、自然な形態の世界を展開させようとする天のプログラムが含まれているのです。歴史にこういうプログラムがないとするなら、神様は存在しないはずです。
私たちは、堕落しないアダムとエバを祝福なさった神様の祝福の恵みを懐かしく思うことができなければなりません。神様が堕落しないアダムとエバを立てて手を取って祝福なさったとするなら、祝福なさった神様のその手は、どこへ行ったのでしょうか! 祝福なさったその祝福の権限は、どこへ行ったのでしょうか! 祝福とは楽しくて幸せな因縁の条件であるはずですが、その条件を中心として見つめてこられた世界理念は、どこへ行ったのでしょうか! みなどこかへ行ってしまったというのです。
ですから天は、人間中心のこの世界を収拾して、遠くの見解の世界を近い見解の世界へ、遠くの感覚の世界を直接的な感覚の世界へ引き込むのです。外的な世界を内的な心情の世界と結びつけて、「私」という一つの存在価値と全体価値の絆を謳歌することができる世界へ連結させるために、その目的のもとで歴史は回り、曲がりくねりながらこの世界を成してきたことを知らなければならないのです。
ふっと見てみると、目的なく流れる歴史のようですが、過ぎてみればある目的意識のもとで一つ一つのことが処理されてきたことが分かります。このようなことを見るときに、全歴史は私たちが知ることのできないある目的意識、絶対的な計画によって動く歴史であることが分かります。
私たちは、創造主の大理念を中心としたプログラムによって、開拓者の使命をもっています。しかし私たちの先知先烈、聖賢、賢哲が先にこの使命を継承して分担してきました。このように、そういう大目的世界を成し遂げるために人類が動員されただけでなく、天も動員されてきたのです。
それでは、神様の最大の願いとは何でしょうか。神様が喜んで心情全体を掲げて祝福することができる、その願いとは何でしょうか。これが問題になるのです。神様の祝福の最大の願いとは何でしょうか。きょう皆さんと共に考えてみようと思う問題は、正にこれです。
◆神様の救いの摂理における一人の人の価値
朝、目覚めて自然を眺めれば、その自然がわけもなく私の本性と因縁を結び、新しい理想の感情を芽生えさせます。しかし人間の世の中は、見れば見るほど絶望と悲しみの感情をかきたてます。
本来堕落しない本然の人間が住む世の中ならば、人間の価値は、そのように眺めることによって悲しみを感じさせるはずはないのです。一握りの草や花一輪、木一株のような程度の価値で造られた人間ではありません。被造万物の何を与えても換えられない高貴な人間であり、何とも比較できない価値ある姿として、天上に代わって出るべき人間でした。
ところが、大天宙の前に立つことのできる位置をなくし、価値をなくしたその日から、人間は間違いなく悲しみを増やす祭物となり、苦痛の橋渡しをする礎になったという事実を、この時間に私たちは知らなければなりません。
では私たちは、いかなる姿で創造の大理念をもっている創造主の前に出るのでしょうか。対人関係において、皆さんが悲しみと苦痛を象徴する姿で現れるなら、皆さんは全体の理念を立てようとする天の前に、悲しみと苦痛の対象であらざるを得ないのです。しかし、皆さんが喜びと楽しみの象徴で現れることができるならば、ここから願いの世界が連結されるのです。
ですから、自らがいかなる位置にいるのか自ら判断して、その位置を決定し、私がとどまる所ごとに人々が私を好み、私が動く所ごとに人々が私に従い、私によって何かが残り、全体の前に誇ることができる内容をもたなければなりません。そうできなければ、人間世界でも天上の理念世界でも、容認されない罪人になるのです。
問題は自分自身にあります。国が悪いと恨むことではなく、社会が腐敗したと恨むことではありません。それらは第二次的な問題です。問題は「私」にあるというのです。
天が救いの摂理をするときには、個人を離れて家庭の摂理をすることはできません。ですから、アブラハム個人を中心としてアブラハムの家庭を救おうとしたし、ヤコブという個人を中心としてヤコブ家庭を救おうとしたし、モーセという個人を中心としてイスラエル民族を救おうとしたし、イエス様という個人を立てて世界を救おうとしたのです。それで世界を救うためのイエス様、民族を救うためのモーセ、家庭を救うためのヤコブとアブラハム、彼らは皆さんのためにそのような道を行ったということを知らなければならないのです。
今日人々は、異口同音に終わりの日だと話していますが、この時はいかなる時でしょうか。全世界を管轄なさる神様と対面する時が近いのです。全世界の統治権をもってこられる王の王である主の前に、近づくことができる時なのです。
では、その時を迎える人は、どのような人でなければならないでしょうか。昔のアブラハム、ヤコブ、モーセ、イエス様に代わることができ、さらには世界を代表することができる人でなければなりません。それで世界が必要とするその一人、イエス様が必要とするその一人、神様が必要とするその一人、社会が必要とするその一人、家庭が必要とするその一人、私たち個体が必要とするその一人の姿を立てることができる時、その時から世界は収拾されていくはずです。
◆失望の立場で探すようになる道義の道
今日私たちは国の中で生きていますが、国でない国で生きています。社会の中で生きていますが、社会でない社会で生きています。家庭の中で生きていますが、家庭でない家庭で生きています。イエス様はおっしゃいました。「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである」(マタイ一〇・三四)と。創造主の理念のもとでは容認されない否定的な地になったので、ここに革命を起こすためにイエス様がいらっしゃったというのです。
では、私たちの出発の起源はどこでしょうか。私たちはどこから出発したのでしょうか。私たちは神様の愛の懐から出発したのではなく、神様が悲しみの涙をぽたぽた落とす立場から出発したのです。そのような人間なので、苦痛を受けてやるせない立場に立ち、殺しに遭い、号泣して絶望する立場に立つようになったのです。
道義の道は、苦痛を当然として行く道であり、失望の道を正当化させて行く道であり、絶望の立場で希望をもって進んでいく道です。なぜですか。人間は反逆者であるために、反逆の種を蒔いたすべてを蕩減しなければならないのです。報いを受けなければならない人間であるので、蕩減を受けなければならないのです。
では、今後世界を支配できる民族は、いかなる民族でしょうか。悲しみを甘んじて受ける民族、苦痛を甘んじて受ける民族、悔しさを当然として受ける民族、そうしながらも天をつかむ民族が世界を支配するのです。
ゆえに昔からずっと善の道に従ってきた人々は、心では喜びと幸福の世界を望みましたが、実際の生活では苦痛の道を歩みました。「苦痛よ来い。お前に私の願いを取られるものか! 悲しみよ来い。お前が私の喜楽を抑えられるものか! 死よ来い。勝利の一日、栄光の一日を願う理念の世界観を奪われるものか!」という覚悟のもとで歩んできた道が、聖賢、賢哲たちの道であり、キリスト教の歴史なのです。怨讐から受ける手の苦痛、怨讐から受ける足の苦痛、怨讐から受ける横腹の苦痛をイエス様は当然として受けられました。歴史は、このようなイエス様と同じ群れを通して収拾されてくるのです。
◆落伍者を立てて摂理される神様
天は、どうして人間をそういう環境に立てて役事なさるしかないのでしょうか。それは、世界が既にサタン圏内に入っているためです。この世界を支配しているのはサタンです。それで天は、先頭に立って人類を指導することができませんでした。今日まで後ろから役事してこられたのです。
終わりの日になれば、悪はふさがってしまうのが原則です。この歴史は、世界的な舞台に向かって出発したので、その終わりも世界的な舞台で成されます。悪は転がることで始まったので、終わりの日まで転がってきているのです。六千年間そのように転がってきました。しかし、悪は必ず途絶えるようになっています。悪の軌道は正常な軌道ではないために、ある時、必ず脱線するのです。その時が終わりの日です。終わりの日には切れるのです。
これを知っている天は、この悪の世界を正面から防止しようとしはなかったのです。このように転がってくる悪の世界のもとで、落伍者を収拾してこられたのです。これが天の歴史です。悲しいことです。全天地をサタンにみな奪われた天は、生き生きとして凛々しい者たちを収拾するのではなく、悪に向かって駆け足をしている死亡世界の権勢の後ろで、絶望して落ちる落伍者を収拾してこられるのです。これがまた、宗教の使命です。
ですからこの世で落伍したり、大きな絶望に打ちひしがれたり、失敗をしたり、その何かに衝撃を受けて頼ることができなくなったとき、大多数の人々は道義の道を訪ねます。悲しいことがあるというなら、これ以上悲しいことはありません。
人間が堕落しなければ天はその直系の子女を通して、この世界を自由に主管することができたのです。ところが人間が堕落して、サタンがこの世界を主管するようになったその日から、天は落伍者をつかんで頼む立場になったのです。それゆえに天を信じる人々は、愚かな人々だと非難を受けています。
しかし、無知で無力で何も分別できないこの者たちが、天を信じて礎石になってきています。洞穴に石を詰め入れて、また入れて、埋めて、また埋めて、その洞穴が平坦になるまで、この地の数多くの落伍者が道義の世界で祭物になってきたのです。
天は世の中の落伍者を収拾して、この地のどのような者にも負けない個人を立てるために、無限に努力されました。このようにして立てた人が、アブラハムであり、ヤコブであり、モーセであり、イエス様なのです。ヤコブは家庭を、モーセは民族を、イエス様は世界を収拾するための代表者だったのです。個人を立てて家庭を収拾し、社会と国家、世界を収拾しなければならないために、その代表者として遣わされた方がイエス・キリストです。
イエス様が来られて逝ったその日から今日まで、キリスト教はイエス様が再び来られるという再臨思想を抱いてきました。では、今後この地に再び来られる主は、いかなる使命をもって来られるでしょうか。世界を収拾する代表者の使命をもって来られるはずです。それで天は、愚かな人から橋渡しをし、肩と肩を連結させて、体と体を連結させて、この天地のどこの誰にも負けない一つの理念的な代表者を前面に立てるために役事してこられたのです。
過去には、おばあさんたちがたくさん動員され、真心を尽くしました。また婦人たちが、多くの真心を尽くしました。他の見方をすれば、今日までの宗教は婦人たちの宗教でした。男性たちの宗教ではなかったのです。か弱い女性たちが悲しみに満ちた心情で真心を尽くして積み上げた土台の上に、今日のような世界的な宗教の形態を備えるようになりました。このようにして、これがだんだん社会全体に伝播され、世界を動かすことができる民主陣営を建設するようになったのです。
◆天の真の忠臣、孝子、烈女
では、終わりの日とはいかなる時でしょうか。この世界を収拾しなければならない時です。したがってこの世界を収拾できる祝福を受けた代表者、祝福を受けた群れが出てこなければならないのです。イエス様はこの地に来られて「私は息子であり、神様のひとり子」と言われ、「私は新郎であり、あなた方は新婦」と言われました。しかしこのみ言どおり「あなたは天地を代表した私の新婦だ」と認められた人は、この地に一人もいなかったのです。
今日全世界に散らばっている数多くのキリスト教信者は、みな自称新婦だと豪語していますが、天が「あなたは間違いなく天地を代表した新婦だ」と公認した人がいないというのです。さらには神様を「お父様」と呼んではいますが、神様から「あなたは本当に私の愛する息子、娘だ」という祝福を受けた人は、一人もいなかったのです。
私たちは、イエス・キリストを「王の王」だと言っています。「主の主」あるいは「絶体的な主体者」だと言っています。しかしその方の前に、「忠臣である」と祝福を受けた人がいないのです。天の忠臣が出てこなかったし、天の孝子が出てこなかったし、天の烈女が出てこなかったのです。
ある絶対的な信仰をもった人がいて、天が彼を「天地を統治できる立場に立てて祝福をしてあげたい」と言うなら、彼は最高の立場に出るようになるのです。そうするには、彼はその国の「最高の忠臣」という名前をもつべきであり、その国の「最高の孝子」という名前をもつべきであり、また信仰者を新婦だといったので、その国の「最高の烈女」という称号をもたなければならないのです。
しかし、神様が六千年の間復帰摂理をしてこられましたが、「あなたは天地が造られたその日から今日までの歴史で二人とない私の忠臣だ」と祝福してあげた人がいなかったのです。「創世以後今日までの歴史で、あなたは私の前に真なる孝子だ」と言って祝福してあげる人がいなかったし、「烈女だ」と言って祝福してあげる人がいなかったのです。
なぜでしょうか。天が前面に押し出すことができる国家があってこそ忠臣があり、天が前面に押し出すことができる真の新郎がいてこそ新婦がいるのです。この地の国家は、天が立てることができる主権をもった国になることができず、この地の家庭は、天が永遠に愛して守ることができる真の父母をもった家庭になることができず、この地の人々は、天が永遠に信じることができる真の新郎、新婦になることができなかったというのです。
ゆえに、創造主は創世以後今日まで、この地上に住む人間の中で「あなたは私の愛する息子、娘だ」、「あなたは天上天下を代表した孝子だ」と言って前面に立てた人がいないのです。「あなたは私の前に忠臣だ」と立てた人がなく、「烈女だ」と立てた人がないというのです。
神様は、大天宙を造って祝福したアダムが堕落したので、その日から限りない悲しみを抱いてこられました。神様が親しく主管しなければならないすべての天地は、怨讐が主管する世界になり、この地の家庭は、怨讐を敬う怨讐の息子、娘で成された家庭になりました。怨讐の孝子、忠臣はいても、天の孝子、忠臣はいません。怨讐の世界で、怨讐のみ旨を敬う烈女はいても、天のみ旨を敬う烈女は一人もいないというのです。
このような世の中をひっくり返さなければならないので、イエス様はこの地に来られて叫んだのです。イエス様は祈祷なさいました。「あなたが求める忠臣となさしめ、あなたが願われる真の孝行者となさしめ、あなたが恋しがる真の新婦となさしめてください!」と。これが、世界を収拾するために来られた、天の王子であられるイエス様の願いであったのです。
堕落した私たちは、懐かしがります。何を懐かしがるのでしょうか。天が認める忠臣になることのできる国を懐かしがります。真の父母に侍って孝行者になることのできる世界を懐かしがるのです。真の新郎と新婦になって天の懐に抱かれる本然の世界を懐かしがるのです。これが、人間の願う最大の目標です。
◆イエス様が再臨しなければならない理由
私たちがこの地でどんなに燃え上がる情熱に徹して、忠誠をすべて尽くしたとしても、天はそれをそのまま受け入れることはできないのです。どんなに手厚く自分の父母に孝行をしたとしても、天はそれをそのまま受け入れることはできないのです。その忠誠と孝行は、ある条件にはなるけれど、天がすべて受け入れることのできる忠誠と孝行にはならないのです。地にどんなに烈女が多くいて、彼らがどのような条件を立てたか知りませんが、天が完全に祝福できる天の烈女にはなれないのです。悲しいことです。
イエス様も、天国の完全な忠臣にはなれなかったのです。なぜなれなかったのでしょうか。天国の真の忠臣ならば、世界的にサタンと戦って勝利しなければならないのです。怨 讐を完全に屈服させて完全にはね除け、悲しみの主人に喜びの場で侍らなければならないです。そうしてこそ、天の完全な忠臣になるのです。
しかし、イエス様は闘って倒れました。忠臣の節義と志操を立てようとした大宇宙の目的を、みな成し遂げることができずに、残して逝きました。それゆえに、再び来なければなりません。この地を、神様を真の父母として侍って孝行する自由天地にしなければならなかったのに、その仕事をみなできなかったので、真の孝行者になれなかったのです。
ですから、再び来なければなりません。み言では成しましたが、実体では成し遂げることができずに逝きました。「私は新郎だ」と叫びはしましたが、実体を備えた真の新郎となることができなかったので、再び来なければならないのです。このようにイエス様は、祝福は受けましたが、実体的な権限は行使することができずに逝ったというのです。これがキリスト教の悲しみです。
◆孝子、孝女の基盤で準備される忠臣の道
神様が手を取ってアダムとエバを祝福なさる時に、神様は彼らの父として、心から何を願われたのでしょうか。「おお! お前たちは私が造った大天宙を抱いて、私を王として侍り、忠臣になりなさい」と言われたはずです。したがって、アダムとエバはこの天地間に忠臣の志操を立てて、それを億千万年、伝統に残さなければならなかったのです。
アダムとエバが、神様を真の父として侍り真の孝子、孝女になっていたなら、彼らが神様の前に立てた「忠孝の節義」は伝統になったであろうし、この地の歴史は、神様とアダムとエバの連結された心情を中心としてつながってきたでしょう。そうすれば悪が主管できません。神様の心情世界を悪が主管することができるならば、復帰歴史、救援歴史が成就することは絶対不可能です。
アダムとエバが神様を真の父母として侍り、孝子、孝女として神様と心情の因縁を結んだなら、今日この地は絶対にこのようにならなかったでしょう。アダムとエバが「忠臣の節義」を失い、孝子、孝女の志操をなくしたゆえに、人間は「新郎新婦」という名詞を掲げてそれを復帰してきたのです。
もともと新郎になろうとすれば、まず忠臣の節義を立てて、国を愛する忠臣になり、父母を愛する孝子にならなければならないのです。そののちに、一人の男性として新郎になるのです。ところが堕落したので復帰しなければならないのです。
今日キリスト教信者は、「新郎新婦」という名詞に陶酔しています。しかし、これだけではいけません。新郎新婦になろうとする目的とは何でしょうか。神様を真の父母として侍ることです。新郎新婦の愛だけではいけません。神様の愛を受けなければならないのです。家庭的な神様でなく、大天宙を主管する万軍の主、その神様の愛を受けなければならないのです。人間はそれを必要とします。
私たちの家庭でもそうです。父母との情の因縁を基盤として、一つの夫婦の愛を基盤として、主権者に認められることが人間の生活倫理です。国なくして家庭があり得ず、家庭なくして夫婦があり得ないのです。
今日、全世界人類は「新郎新婦」という名詞にとどまっています。しかし、私たちはここで一歩進んで「天よ! 主は新郎として来られるといいますが、新郎よりは私を再び生んでくださる真の父母を送ってくださいませ」と祈祷できなければなりません。私たちは新郎新婦の愛で終わることなく、「私は孝子、孝女としてお父様に侍ります」と言える基準を立てなければなりません。その次に、神様を万軍の主として、王の王として侍ることができる忠臣の舞台をつくらなければならないのです。
救いとは何ですか。救いの目的は、新郎新婦として会うことではありません。新郎新婦として会い、神様の前に孝子、孝女にならなければならないのです。これが救いの目的です。さらには孝子、孝女になったのちに、忠臣になることができます。親不孝する者は忠臣になることができません。孝子、孝女になったのちに、神様の前に、または国王の前に忠臣になることができるというのです。
それで、今日キリスト教の思想のように新郎新婦だけで終わるのではなく、新郎新婦が会ったのちに二人が共に神様の前に忠誠を尽くさなければならないのです。そして「孝子、孝女として認められるようにしてください」と、主をつかんで祈祷しなければならないのです。
この地の嘆きとは何でしょうか。天が忠臣だと認めることができる天的な主権の国になれないことです。天が公認できる堕落の血統を脱いだ本然のアダムとエバ、すなわち真の父母を失ったことです。心情的に私たちを守ってくれる真の父母を失ったので、サタンが私たちを蹂躙しているのです。ですから私たちは孤児だというのです。
◆地上天国を成し遂げるための小羊の婚宴
いくら立派な新郎新婦になったといっても、彼らが真の父母から孝子、孝女という祝福を受けてこそ、初めて永遠の新郎新婦になるのです。今までイエス様を信じてあの世に行っている数多くの聖徒がいますが、イエス様を新郎として侍った聖徒はいません。それはまず、孝子、孝女として真の父母との因縁を結ばなければならず、そのあとで初めて新郎新婦になるからです。原則がそうです。それでどんなに新郎新婦の縁を結んだとしても、真の父母との縁を結ぶことができなければ保留です。霊界の天使のようだというのです。
ですから、今後この地上に来られる主は、いかなる使命を完結するために来なければならないのでしょうか。言うまでもなく、新郎の資格を完結するために来なければならないのです。しかし何よりも真の父母の内容を完結しなければなりません。そうして、天地の前に真の父母だと認められなければならず、神様の前に真の孝子、孝女だと認められなければなりません。そういう孝子、孝女として登場する代表的なお祝いが、正に小羊の婚宴です。
天地が生じたのちに、初めて人間が神様の前に孝子、孝女になり新郎新婦として登場する日、神様が「地上の逆境の中でも天の心情を訪ね、天の父母を訪ねるためどれほど苦労したか」と言って、無形の神様の代わりに実体を備えた真の父母として、祝福してくださるお祝いが小羊の婚宴です。真の新婦の約束と理念を備えた基準と、真の孝子、孝女の基準の上に立てて、式を挙げることを小羊の婚宴というのです。この祝福を受けたその日から、真の父母になるのです。無形の神様の代身として、有型の実体を用いた人類の真の父母になるのです。
人間は本来堕落しなければ善なる世界で成長し、神様の愛の祝福を受けて神様の心情に通じることができる子女になることができました。ところが堕落によりその絆が切れました。それで逆に、新婦の過程を経て子女にならなければならないのです。そうして神様が「あなたは私の心情を代表することができる孝子、孝女だ」と言える、心情の因縁を結ばなければならないのです。
心情が通じないと孝子、孝女になることはできません。神様の心情がどうなのかを知り、神様がいかなる路程をあえいでこられたのかを知らなければならないのです。そうして創造理念の前に立つことができる、本然のアダムとエバの形態を備えなければなりません。小羊の婚宴は、その形態を備える式です。小羊の婚宴は人間世界に対する神様の最大の願いである新郎新婦の約束過程を経て、神様の前に真の孝子、孝女の祝福を受けて真の孝子、孝女になり、この地の全人類の代表者として立ち、孝子、孝女の先祖になるお祝いです。
神様の心情を代表することができる真の孝子、孝女として、人類の真の父母として登場するその儀式が小羊の婚宴だというのです。このお祝いが行われたならば、家庭的な基準が立ちます。新しい家庭の基準が立ったあとには、天の主権を中心とした国家と世界の基準を立てなければなりません。そうしてこそ、初めて天の前に忠臣の道義を立てていくことができます。その次からは侍る生活です。宗教ではありません。侍る生活です。王様に仕えるように神様に仕えるのです。その時が地上天国時代なのです。
◆天の忠臣、孝子、烈女になる基準
では、神様の心情はどこに傾いているでしょうか。聖書六十六巻の一番根本的なこととは何でしょうか。心情です。その心情がとどまることができる中心とは何でしょうか。天地が生じたのち、初めて現れる新婦、天の烈女の立場です。烈女の貞操を備えるのは、初めの段階です。
皆さん、六千年間数多くの人々が生まれ、死にました。その中には夫のために真心を尽くした人もいるでしょうし、新郎のためにあらゆる精誠を尽くした人もいたでしょう。しかし、彼らは天の烈女の立場には立つことができなかったのです。みなサタン世界の烈女でした。善と悪がぶつかり闘う、ある一時代の善なる立場を代表した烈女の基準は立てたかもしれませんが、全体理念世界で、神様の心情と完全に通じることができる立場で、天の烈女として来て逝った人は一人もいなかったのです。
イエス様はこの地に世界的な烈女を選出するという約束を残していきましたが、それが「私は新郎であり、あなたは新婦である」というみ言です。世界的な烈女を探して立てようとなさるというのです。
今日地上では、新郎のために自らの命を捧げれば烈女といいます。命を捧げることも、ここに結びついています。孝子も父母のために命を捧げた人のことをいい、忠臣も国のために命を捧げた人のことをいいます。しかし天の基準は、永遠の命を懸けて忠誠を尽くし、孝行することです。永遠なる命を懸けて、それをすべて父のものとし、新郎のものとし、父母のものとして差し上げることができる立場でのみ、天的な烈女の基準が成立します。私の生命が動いて感じるすべてを、みな傾けなければならないのです。
ですから聖書にも、心を尽くし、精神を尽くし、思い尽くしなさいとあります。ではすべての基準とは何でしょうか。世界のどのような忠臣よりも、どのような孝子、孝女よりも、どのような烈女よりも、もっと優れていなければなりません。そうでなければ神様の威信が立たないというのです。今までサタン世界にも忠臣、烈女が多かったのに、そのサタン世界の忠臣、烈女の基準と同じ基準を立てた人を、天が忠臣、烈女として立てれば、神様の威信が立たないというのです。ましてサタン世界の忠臣、烈女より足らない人を天の忠臣、烈女に立てられますか。そうすることはできないというのです。
ゆえにイエス様も、誰よりも私を愛さなければならないと言われました。歴史的な誰よりも、昔のどのような先祖よりも、その時代のどのような立派な人よりも、誰よりも私を愛しなさいとおっしゃったのです。この「誰」というのは、自分が生きている時代的な環境の中の人だけをいうのではありません。
過去、現在、未来のすべての人のことをいうのです。ですから「誰よりも私を愛しなさい」という言葉は、過去、現在、未来の誰よりも愛しなさいということです。そのような立場で精誠をすべて傾ける新婦が、今日全世界のキリスト教信者の中から出てこなければなりません。
祈祷をしても、昔のどの誰よりも多くしなければならず、真心を込めても、どの誰よりもたくさん込めなければならないのです。精誠をたくさん尽くした烈女、六千年間の烈女の展覧会があるとするなら、そこにいるすべての烈女が頭を下げることができる権威をもたなければなりません。霊界にいる烈女からも「あなたが精誠を尽くす新婦の貞操を千秋にわたり称賛します」という話を聞かなければならないのです。そのような公認を受けなければなりません。そのような新婦でこそ、天がサタン世界の前に立てて自慢することができるというのです。
◆神様の心情と父母の心情と夫婦の心情
では、心を尽くし、思いを尽くし、精神をすべて尽くすという、その限界とはどこでしょうか。今まで来ては逝った数多くの烈女が、文句なく高められる忠誠のこもった新婦にならなければならないのです。それが標準です。もし新郎であるイエス様の前に、そのような真の新婦が現れたならば、この世界は既に天のみ旨がすべて成され、今日まで引きずってこなかったでしょう。
もし、そういう方が出てくるとするなら、世の中にどんなに悪が栄えてもかまわないというのです。それは神様の心情を通して入る善の強度が、その悪の強度より何倍も強いためです。どんなに悪い世の中でも、そのような心情の基盤に流れてくる善を指向する力は、サタン世界の悪とは比較にならないからなのです。
今日まで人間世界には、神様の心情とともに無限な善の指向力を爆発させることができる源泉が生じなかったために、新郎であるイエス様はこの地上に来ることができなかったのです。もしそういう新婦がこの地上に現れれば、イエス様は天の玉座を捨てて、地上に飛び降りてこられることでしょう。ですからイエス様は二千年間、霊界で祈祷していらっしゃるのです。
そのような心情を通した力、すなわち悪に対して恐怖の心でなく、心情を通してしみ出る善を中心とした強烈な力、強い天的な力が今日人類世界に一面でも入るとするなら、世界はその前に征服されるのです。そうしてこそ悪を分立し、消化することができるのです。悪を消化することができる善、悪を避けないで正面から対抗し、のみ込んでしまうことができる善、心情的に爆発してしみ出る天的な善の歴史が開かれなければなりません。このような歴史を展開することができる時期が、人間が願ってきた再臨以後の時期です。
夫婦の心情は相対的なものです。父母の心情を幹に例えるならば、夫婦の心情は葉と同じで、忠臣の心情は根と同じです。これらがすべて一つの生命圏で動いてこそ、一つの完成体を備えることができるのです。
したがって、復帰路程を経ていくこの時に、私たちが新郎であるイエス様を慕うとき、相対的な心情だけで慕ってはいけません。幹を経て、根まで連結しなければならないのです。ですから人も、個人的な相手を備えたのちに、家庭を成し遂げて、世界と連結しなければならないのです。
全体的に見れば、根のようなものが神様の心情であり、その神様に向けて精誠を傾けて忠誠を尽くすことや、父母に対し忠誠を尽くすことは幹を成すことだといえます。こうしてこそ完全に連結されるのです。相対的な心情は葉と同じです。恩恵を受けるのは一時です。恩恵を受けたと喜んで、「どうした、こうした」と言っていては、いくらも行かずに落ちてしまいます。幹になることができません。
もし、この地上に新郎新婦の心情をもって、真の父母の前に真の息子、娘の心情を連結させた者がいたとするなら、今日この地上はこのようにならなかったでしょう。その世界では、一度恩恵を受ければそれまでです。その心情に一度接すれば、どんなに離そうとしても離すことができないのです。それでパウロも主に出会ったのちに、イエス・キリストの中にいらっしゃる神様の愛を語りました。「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か」(ローマ八・三五)とあります。
ですから、終わりの日であるこの時においては、私たち自身が問題です。ここで先生が問題でなく、皆さん自身が問題だというのです。生死の意識をなくして、死に生きることを問題視せず、力いっぱい走ることができる徹した心情があるかどうかが問題です。世の中でも愛する人のためにそういう道を行くのに、まして天道を行く人にそういう心がなくてはなりません。そのような心に徹しているかということが問題なのです。
キリスト教徒たちも「ああ、主よ!」と言っている時に主が現れたとすれば、首が折れ、足が折れたとしてもそれに気を留めず、主に向かって走っていこうとしています。ところで、皆さんにもこういう徹した心情がありますか。これが問題だというのです。その基準をたどる前には、真の孝子になれず、真の孝女になれず、真の忠臣になることができないのです。
心情が通じる所に臨まれる神様
先生はこのように考えてみました。孝子、孝女という言葉があり、忠誠を尽くした男子を忠臣という言葉はあるのに、忠誠を尽くした女性のことは何と言うのでしょうか。忠誠を尽くした女性を指す適当な言葉がありません。孝子、孝女という言葉があるならば、今後「忠男」という言葉と「忠女」という言葉がなければならないと思います。また、なぜ烈女だけあって「烈男」はないかというのです。天は忠臣となる女性も願っています。ここで孝子、孝女が中心です。この孝子、孝女が天に向かう初めの足場です。新郎新婦は二番目の段階です。東洋に三綱五倫(注:儒教で、人として常に踏み行い、重んずべき道のこと。「三綱」は君臣・父子・夫婦の間の道徳。「五倫」は仁・義・礼・智・信の五つの道義)があるのですが、これは復帰摂理のみ旨に一番近い距離にあります。
では今後神様が祝福なさり、神様が愛することができる国とはどのような国でしょうか。烈女だけが住む国ではありません。烈男も住む国なのです。烈女にだけなりなさいという国がどこにありますか。烈男にもならなければならないのです。今後は、男性の貞操を尊重する時が来ます。男性も貞操を守らなくてはなりません。
大創造の原則は、このように混乱するようになってはいません。男性をプラス(+)とすれば、そのプラス(+)は絶対的なのです。絶対的なので、「烈男」という名詞がないことは良いことです。しかしそうではありません。イエス様は絶対的な烈男として、二千年間神様の前に貞操を守り続けてきました。ですから、二千年間貞操を守り続けてきたその心情の前に立つことができる烈女の心情も、やはり同じでなければなりません。
今日この地上には、神様が祝福してあげることができる烈女も、烈男もいません。ですからイエス様が再び来なければならないのです。天が祝福してあげることができる孝子、孝女がいません。これは小羊の婚宴が終わって、初めて現れることができるためです。また、神様が祝福してあげることができる忠臣、忠女がいません。イエス様が主権を握る世界にならなければならないのです。これが今まで神様が願われた最高の願いです。
こういう願いどおりになって、神様が真の孝子、孝女、真の忠臣、烈女を立てて、彼らの前に六千年間心情的に絡まっているすべての恨みと、すべての思いをみな解くその時が、神様のみ旨を完結することができる時です。その時から審判が行われるのです。しかし天の公認を受けた忠臣でなくては、その前でサタンが審判を受けようとしないのです。天の公認を受けた孝子、孝女でなくてはサタンを審判することができず、天の公認を受けた烈男、烈女でなくてはサタンを審判できないのです。
皆さん、聖書にはキリストと共に王の本分を成すという言葉があります。しかし「キリストと共に」という言葉には六千年の曲折があります。神様は、この歴史とともに来られました。イエス様も二千年間この歴史とともに来られました。その心情には血の曲折がしみています。これを理解できず心情が通じない新婦は、天の前に立つことはできないのです。
ですから今日、私たちは決起し、出ていかなければなりません。先生が、人々が「違う」と言う道を行くようになった目的とはどこにありますか。すべての精誠を尽くし、神様の恨みを解いてあげるところにあります。それで先生は、「この地上に天の忠臣がいないので忠臣になるようにしてください。孝子がいないので孝子になるようにしてください。烈男がいないので烈男となるようにしてください」と祈祷しています。
では、孝子になり、忠臣になり、烈女になろうとするなら、どうしなければならないでしょうか。神様の心情を知らなければなりません。心情を知る前にはなることができません。イエス様は、終わりの日について話されました。その日とその時は天使も知らず、息子も知らないと語られました。それは、主が再び来られるその時に分かることだというのです。私たちはそれを知って超えなければならないのです。
私たちは、神様の心情を裏切って堕落した人間の子孫です。皆さん、私たちの先祖が何に背きましたか。「取って食べるな」という善悪の実一つを取って食べたのではありません。神様の心情を裏切ったのです。問題はそこにあります。どのような心情に背いたのでしょうか。創造理想の心情、希望の心情を裏切ったのです。
皆さん、恩恵を受ける目的とは何ですか。恩恵の中に入っていけば入っていくほど、神様の心情を体恤するのです。聖書を学ばなくても、心情で解くことができる立場に入るようになるというのです。
孝子、孝女や烈女、忠臣と呼ばれる人々は、適当にしてそうなった人はいなかったのです。そのような人は一人もいません。生命が途絶える恨みがあっても、父母のための心情を変えないという人が、孝子、孝女になることができました。天の前にも同じです。
ゆえに今日、私たちは決起して出るべきです。先生が願うことは、この地上の怨讐の前で犠牲になって死んでも、天の忠臣の節義を残すことです。孝子の節義を残したいのです。烈女の節義を残したいのです。もしこの基準に立って「神様! あなたは私の父であり、あなたは私の主人であり、あなたは私の新郎であられます」と心情的に出る者がいるとするなら、これを審判する者がなく、これを主管する者がいないというのです。
皆さん、お父さん、お母さんに対して何かほかの説明が必要ですか。私たちには説明よりももっと先立つ心情、どのような説明も拒むことができる心情がなければなりません。そういう心情のもつれが、天と因縁を結ばなければなりません。来られる主に会う時、そういう心の作用、制止しようとしても制止できず、爆発してわき出るという思いを心に感じることができなければ、絶対に審判の峠を越えることができません。
神様が人間の堕落以後六千年間、この歴史を引っ張ってこられた最後の目的とは何でしょうか。天地をかけて祝福することができる息子と娘を探すことであり、忠臣を探すことであり、烈女を探すことです。この歴史は、息子と娘を探すことであり、忠臣を探すことであり、烈女を探すことです。この歴史は、地上のある地域を中心として成されるはずです。その場で、心情を通して天の代わりに宣布する言葉に天上が動くのです。その言葉が真の良心をもった人々の心に伝われば、彼らの心が激動するはずであり、その動きがこの地上に起きる日には、サタン世界は崩壊するのです。
今日、こういう目標のもとで世界に向かって、天地に向かって前進しなければなりません。私たちは天のお父様の心情を知って、個人を通じて、家庭を通じて、社会を通じて、世界を通じて、天宙へ行くことができる内容を備えなければなりません。
私たち人間の目標は、新郎新婦の門を開いて孝子、孝女になろうということです。孝子、孝女の門を開いて忠臣になろうというのです。ですから私たちは闘わなければなりません。神様が受け入れられない怨 讐が地上を蹂躙しているので、私たちが地上を征服しなければならないのです。
かといって、刀や銃を持って戦おうというのではありません。真理で闘おうというのです。私たちが真理をもって行く所ごとに、心情を渇望する人はやって来るのです。天のために忠臣になりたく、天のために孝子、孝女になりたく、天のために烈女になりたい心をもった者は、増えるようになるのです。血族を超越し、東洋西洋を超越して、間違いなくそのようになるはずです。
◆忠臣の道理
今日私たちは、多くのみ言を知っているといいますが、こちらの端からあちらの端まで通して連結させることができるのはみ言ではなく、心情です。「私はアルパでありオメガである」というみ言はどういう意味ですか。聖書がアルファとオメガになっていますか。創世記からヨハネの黙示録まで六十六巻の一ページ一ページが全部違うのに、アルファとオメガになれるかというのです。それは心情を掲げていう言葉です。心情は変わることがありません。そのまま永存します。これが、私たちの生命の根本です。
私たちは、この心情を抱いて、新郎新婦の立場を経て、孝子、孝女の立場、忠臣、忠女の立場まで進まなければなりません。そういう立場に入っていくようになれば、天上天下どこに行ってもその人は飢えて死ぬことはありません。先生は今まで一文無しで生きてきましたが、飢えたことがありません。追われて獄中に入っている時にも、神様がどんな人を使ってでも御飯を持ってきてくれたのです。
皆さん、すべての力を注いで、血の汗を流して祈祷したあと「ああ、お父様。きょう私は恵みの祈祷をしました」という心をもってはいけません。最善を尽くしても「私はこれぐらいでいいだろう」と言ってはいけません。そうすれば、だんだん恩恵がなくなるのです。ですからいつも罪人になった自分自身を考えて、歴史的な犯罪性を感じる立場に立たなければならないのです。自分が優秀だと意地を張る人は、善の心情をもって来る人、真の心情をもって来る人の前に頭を上げることができないのです。
神様もそうだというのです。もてる精誠をみな込めて、忠誠の心情をもって来る人の前には、神様も頭を下げるというのです。真の孝子の前には、父母も頭を下げるのです。真の新婦の前には、新郎も頭を下げるのです。
皆さん、「私が信じてこうなったのだ」と言って意地を張ってはいけません。先生も自慢しません。しかしサタン世界に対しては堂々とした自信があります。私たちは希望で築いた祭壇の前に、祭事をしても足らなさを知る姿勢をもたなければならないのです。そのような姿勢が、天の民が取る姿勢です。精誠をすべて尽くしても、「ああ、これはこのようにすれば良かった」という悔いと、悟りのない人は押し出されます。深い神様の心情の世界には入っていけないというのです。神様の心情の門を開けて、天上天下のあらゆる財宝を動かすことはできないのです。神様はそういう悔いと、悟りのある息子と娘が、この地上に現れることを期待していらっしゃいます。
六千年間訪ねてこられた神様の最高の目的とは何でしょうか。天主権の国を建てたのち、その民に対し忠臣の道理を教えてあげることが神様の願いです。しかし、天国ではこういう人が忠臣であるからこのように行け、と教えてくれる何ものもありません。こうしてこのようにすれば、間違いなく天の忠臣になると教えてくれないというのです。天が立てようとする国はこのようなので、怨讐をこのように屈服させなければならない、と教えてはくれません。
今日私たちは、忠臣の教訓を受けましたか。受けられませんでした。天の家庭はこうであるので、神様を代表する真の父母に侍る真の孝子、孝女になろうとするならこのようにしなければならないという、孝子、孝女の教訓を受けましたか。受けることができませんでした。さらには「君はこのようにすれば、私の愛する新婦だと天地の前に宣布できる」という新郎新婦の教訓を受けましたか。受けることができませんでした。聖書でも、こういうことを教えてくれなかったのです。
行かなければならない道がこのような道なので、生死を意に介さずこういう道を行かなければならないのです。これが堕落した人間の運命です。ですから、私たちは喜々としてきょうを楽しむことができません。そのようなことができる人生ではありません。私たちがうれしがってきょうの時間を送ってしまえば、私たちの子孫がげんこつを振って地を打ち、審判台を恐れて嘆くのです。それが心配ならば、一時の安らかな立場を避けて、「天上の心情がどこにあるのか」と言って、それを知るためにあえがなければならないのです。
◆心から神様の祝福を受ける道
心情を通じてこそ行くことができる所が、天国です。イエス様も楽園に行っています。楽園は、天国への列車を待つ待合室です。地上で心情問題を完結することができずに逝ったので、再び来てその責任を完結しなければならないのです。そうしてこそ、楽園の門を撤廃できるのです。それで天国の門を開けてこそ、サタン世界が屈服します。
地上で心の天国を完成できない者は、天上の天国を成し遂げることができません。地上で心情的な永遠なる安息の福地を探すことができない人は、天上の永遠なる福地を探すことができないのです。皆さんは、そのような心情的な安息の福地を探すことができませんでした。
その福地を探すことができないまま、孤児のようにあえいでいます。それで神様の心情を掲げて見るとき、皆さんの心情には位置がありません。位置がないので価値もないのです。価値のない存在の前に、世界がどのように縁を結びますか。
ですから真の烈男、烈女として、真の孝子、孝女、真の忠男、忠女として、天の心情を代表して生涯の理念を楽しむことができる群れが出て、彼らがこの地に善の息子、娘を繁殖しなければならないのです。エデンの園でアダムとエバを祝福してあげたのは、サタン世界で罪悪の子女を繁殖しなさいということでしたか。違います。忠臣の節義、孝子、孝女の節義、烈女の節義をもった息子、娘を繁殖しなさいということでした。そのように生まれる第二の忠臣と孝子、孝女を神様は恋しがります。そのような息子と娘が出てこなければ、この地は永遠にサタンのものになります。
こうすることができる息子と娘がこの地上に現れてこそ、天地がひっくり返るのです。そのような所がこの地上に生じるなら、そこは今後世界の中心地になるはずであり、そのような民族が現れるならその民族は今後世界を支配するはずです。
これから私たちは、涙を流さなければなりません。その心情を体恤できないなら、涙を流さなければならないのです。その心情を体 恤できないなら、夜を明かして祈祷しなければなりません。断食をしながらでも祈祷しなければならないのです。そのような心情をもった者だけが、最後の勝利を収めるでしょうし、最後の審判で残るのです。そのような皆さんになるならば、神様は皆さんを通して安息の場を築くでしょうし、世界は皆さんによって動くでしょう。
天の忠臣になろうとするなら、天の恨みを晴らさなければなりません。孝子になろうとするなら、父母の怨讐がいてはならないので、怨讐をなくさなければなりません。烈女も同じです。この恨みを晴らす日まで、永遠なる命を懸けて覚悟していき、闘わなければ、皆さんは堕落の恨めしい峠を越えることができないのです。この峠を越えて初めて、神様がすべての悲しい心情を解いて、皆さんに「六千年間待ち焦がれた忠臣よ、孝子よ、烈女よ」と言いながら、両手を挙げて祝福してくださるでしょうし、三位神は安息することができるのです。このように心情基準が解決される前には安息することができないというのです。
こういうことを知って、今日この地上にいる皆さん自体が、どれほど貴い立場にいるのかを感じることを願います。
12. 幸福な群れ
一九六〇年五月一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第九巻』
きょうは「幸福な群れ」という題目をもってお話しします。
◆不幸な人間
今日、数多くの人間は幸福になることを望んでいます。きょう皆さんがここを訪ねたのも、今生きている以上の幸福のためです。言い換えれば、日常の生活的な幸福を超えて、心情の世界と因縁を結ぶために訪ねてきたのです。きょうよりはあす、あすよりはあさって、今年よりは来年、一つの生涯を越えて永遠に幸福であることを待ち焦がれるのが、私たち人間の欲求です。
神様がいらっしゃるとするなら、その神様は、被造物がどうすることを願われたでしょうか。神様のいらっしゃる所に、その造られたものも共にあることを願われ、神様が喜べば、その造られたものも共に喜ぶことを願われ、神様が幸福ならば、その造られたものもやはり共に幸福であることを願われました。このような立場で、あらゆる被造物を造られたのです。
私たちは、どのような因縁があってなのか分かりませんが、この地上に生まれました。このような私たちを、宗教の名詞を借りれば、「造られた私たち」と簡単に言うことができます。このように私たちが被造物であるならば、これを創造なさった絶対者がいなければならないのですが、その方を称して「神様」と言うのです。
ところが、その神様と神様に創造された私たち人間はいったいどのような関係があるために、今日の人間がこのようになっているのでしょうか。神様が不完全に私たちを造ったのか、そうでなければ造った神様が不完全なのか、このように考えてみることもできます。
神様は至高至善な方だといいます。「至高至善」という言葉を話そうと思えば、そこに私たちの生涯の理想的なあらゆる要素が内包されていなければなりません。それだけでなく、人間の心から流れ出る、知情意の感情が満たされるような内容が備えられていなければなりません。
そうしてこそ、神様が私たちの絶対的な主体者であり、絶対目的の中心にいることができ、さらには実体として存在できるというのです。ところがここに、人間が至高至善の存在、最高の絶対の基準にいらっしゃる存在と因縁を結ぶことができないある条件が介在するようになったですが、その条件を「悪」と言い、その条件が生じたことを「堕落」と言います。
神様が造られた天地万物の中に、目的なく存在するものはありません。どんなに小さな細菌でも、ある目的のためにその生を営むようになっているというのです。私たちも父母の血肉を受けて生まれたその時から、自分は知らないとしても、大天倫の目的を成し遂げるための一つの材料として存在してきたという事実を、私たちは認識しなければなりません。
ある目的のための材料と、ある目的の実体と一つになり得る時が来るならば、その時に初めて材料として一〇〇パーセントの価値を発揮するはずであり、その時に初めて材料として自らの要求条件と、自らの目的とするところを充足させることができるのです。これと同様に、人間にもそのような時が来てこそ初めて「幸せだ」と言うことができるのです。
ところが今日、私たちは心情をかきわけて生活の一部分を細かく分析してみると、「幸福」という名詞はあっても、自分自身が幸せだと自ら自慢するその何ものも持ち合わせていないだけでなく、他人が幸福だと思える、その何ものももつことができずにいます。
神様が大宇宙の目的を立てて被造万物を造られたというのに、造られた人間に、その目的を達成したのちにも悲しみと苦痛が介在するならば、それは間違ったことです。ですから、創造目的が成し遂げられたのちに、たとえ悲しいことや苦痛なことがあったとしても、それは悲しみや苦痛ということはできません。むしろ喜びを刺激することのできる材料になり、生命を形成できる一つの要素にはなっても、生命を支配して幸福を蹂 躙する要素にはなり得ないというのです。
そのような立場に処した人がこの地上に一人もいないことを考えてみるとき、「地上に生きている人々は全部不幸だ」と結論づけることができます。このような位置に立てられた自分たちであることを考えるとき、私たちは何かをもっているようだけれども、実は何ももっていません。自分を自慢してはいるけれども、自分を自慢する何ものももっていないというのです。私の生命があるといっても、その生命が大宇宙の理念の前に材料になり得ていないというのです。私が備えた人格と理念と誇るその何かをもっているとしても、それらが大宇宙の理念とは何ら関係がないために、私たちは不幸にならざるを得ないというのです。
◆人間が失ったもの
私たちは、すべてを失ってしまいました。天地間に自分自身を立てることのできない無価値な存在です。幸福を探して進んでいく最後の願いとは何でしょうか。失ったものを再び探すことです。私の心に、善のようなものがあるとしても、最高の善はありません。愛のようなものがあるとしても、最高の愛はありません。真のようなものがあるとしても、最高の真はありません。
もし私たちが最高の真をもっているならば、どのような環境にとどまっても、私たちを歓迎して喜ぶというのです。ところがそうなっていないことを考えてみるとき、私が善良であり得る要素をもっているとしても、善意の本体にはなっておらず、私が幸福であり得る要素をもってはいるとしても、本当に幸福な私ではないというのです。私たちは、永遠の最小の幸福を中心として見るとき、すべてを失ってしまったのです。
創造主、すなわち神様がいらっしゃるということを当然知っていなければならない被造物が、神様を知らずにいます。創造主の知情意を与えられて生まれた人間ならば、その創造主と情が通じ、み旨が通じ、心が通じなければなりません。ところが私たちは、何を中心として因縁を結んでいるのでしょうか。もしこの体が幸福の主体である神様と因縁があるならば、この体は満足すべきであるのに、満足できずにいます。心も満足できていません。心情も満足できていません。
こういう立場から見るとき、人間は中身をみな失って、うわべだけであえいでいるのです。これをどのように満たすかという問題を解決するために努力してきた人々が、修道の道を行く人々であり、聖賢や賢人、哲人たちでした。
では、人間は何を失ったのでしょうか。最初に神様を失いました。神様を失ったことが、私たちが失ったことの中で最も大きい事件です。この天地を創造なさった主人がいるのに、人間がその主人を失ったとするなら、その時から人間はその主人の前に逆賊になるのです。人間は、心情深く因縁を結ぶことのできる本然の主人に侍るべきなのに、その方を失いました。失うことによって侍ることができなければ、天倫の前に許されない逆賊になるのです。
皆さんの心、細胞、感情のどこかに、神様がいらっしゃることを知っていますか。知らないのです。観念的には認識できるかもしれませんが、心情的に神様を認識して、「神様が私たちの中に内在される」と言うことのできる内容を備えた立場に、皆さんが立ち得ていないというのです。
この地上に悲しいことがあるというならば、その悲しいことの中でも何が一番悲しいことでしょうか。神様を失ったことです。また、何が一番苦しいことでしょうか。神様に会ってみたくても会えないことです。むちで打たれて手荒にあしらわれることが、一番悲しくて苦しいことではありません。見てみたいし会ってみたい、その方に自由に会えないことが悲しみであり、苦しみなのです。悲しみもそれであり、苦痛もそれであり、悔しさもそれです。会うことのできる因縁の中にあるのに、会えないこと以上に恨めしいことはありません。
今まで人間が悲しみと苦難の歴史路程を歩んできたというけれども、それは人間に悲しみを与え苦痛を与えて悔しさを味わわせるためのものではありません。それらは本体を失い、主人を失った人間が、神様の悲しみと、苦痛と、悔しさを相続させようとするためのものです。それでは、苦痛と悲しみの由来はどこにあるのでしょうか。歴史的な由来でなく、原理的な由来はどこにあるのでしょうか。それは、神様を失ったところに原因があります。
ゆえに、自分はよく知らないけれども、私の心の深い所には、人間と万物を創造なさった神様の創造のみ手が因縁づけられているのです。その因縁が私の肉体を超え、環境を超えて、全体的な目標に向かって私たちを収拾してきています。ですから、過去には人々が散らばって分裂したけれども、今はだんだんと心が喜ぶことのできる一つの場所を指向しているのです。それで、この世界も一つの理念世界へと収拾されているのです。
その一つの理念世界が来る時には、心が落ち着くようになります。心が落ち着くと同時に、「無限にうれしい」と叫ぶ心の声が私たちの中で爆発してきて、天下に響き渡るようになります。そのようになる日には、どんなに鉄の窓の中に捕らわれの身になって苦痛の立場にあるとしても、「私は幸せだ」という叫び声が炸裂してくるようになるでしょう。こういうことが歴史路程に現れなければならないのです。
それであらゆる宗教は、「苦痛を有り難く受けなさい」と言います。そのようにしながら心の世界を持ち出し、すべてを心の世界に屈服させてきたのです。ゆえにすべてを収拾し、本然の心の世界に向かって正面から突進しなければならない時が、終わりの日なのです。天を中心として二人が合わさって、一つにならなければならない時が、終わりの日だというのです。
私たちは、幸福な人になることを願っています。私たちが幸福な人になろうとするなら、まず何をしなければならないでしょうか。失ったものを探し出さなければなりません。まず一番に、神様を探さなければなりません。失った神様を探し出すことのできる場所があるならば、私たちはすべてを犠牲にしても、そこに向けて力いっぱい走っていかなければなりません。
人間が堕落することによって、神様を失ったと同時に、また何を失いましたか。神様の願いを失いました。では神様の願いとは何でしょうか。神様は天地万物を造られたのち、そこに万物の主宰としてアダムとエバを立たせておいて、「生育し、繁盛し、これらすべての万物を主管しなさい」と祝福されたのですが、人間がこの祝福を成就することが神様の願いでした。
人間がこの祝福を成就する日には、神様はアダムとエバの父親になり、アダムとエバは彼の息子と娘になるのです。「神様の息子、娘」、これは架空の名詞ではありません。
◆アダムとエバに対する神様のみ意
神様は幼いアダムとエバを造り、彼らが成長し、すべての天地万物を主管することを願われました。言葉で主管することを願われたのではなく、御自身の心情を中心とした愛で主管することを願われました。ですから神様は、アダムがエバを自らの「骨の中の骨であり、肉の中の肉だ」と言って、愛の心情をもってエバに対することを願われました。また神様は、エバがアダムを兄としてのみ認め、分別をわきまえない妹としてあがめることを願われず、彼は新郎の中の新郎であり、お父様の代身としての「体の中の体だ」と言って、アダムに心情的に侍ることを願われたのです。
そういう望みの時を願われた神様は、アダムとエバがそのような願いの立場で、「アダムは私の永遠なる夫であり、エバは私の永遠なる新婦です。これがお父様の願いであることを知りました」と言える、真の神様の愛を成し遂げた父、母として、この大自然を主管するよう造られたのです。
万物も、そのように主管を受けることを願っています。ローマ人への手紙第八章に、人が堕落することによって天の嘆きが生じ、人間の嘆きが生じ、万物の嘆きが生じたとあります。すべての万物は、真の神様の愛に通じ得る真の父母になったアダムとエバの手により主管されることを願うように造られたのに、アダムとエバがそのような立場に立てずに離れてしまいました。これが堕落です。ゆえに、今日この天地に数多くの人が生きていますが、骨髄が溶けゆくほど懇切な心情で神様に対して「お父様!」と呼ぶ人がいるかといえば、いないというのです。
堕落前のアダムとエバ以上の立場に立ち、「神様! あなたの心情はこうではないですか。神様の願われた心情はこうこうでしょう」という立場で、神様に対して「お父様」と呼んだ人が、この地上にいなかったというのです。
アダムとエバが神様の願いの祝福を成し遂げて、神様の前に出て「お父様! 私のお父様!」と言える真なる人類の先祖になることを願われたのです。しかし、神様は、そのような真の人類の先祖に出会うことができずにいます。その子孫においても神様は、そのような人に出会っていないのです。
今日信じる人々が呼ぶお父様は、心情を通して骨髄が溶けゆく立場で呼ぶお父様ではなく、名前だけのお父様なのです。そのような懇切な立場で、お父様を呼ぶ人がいなかったというのです。ゆえに、神様はそのような人を尋ねてきました。人間に御自身の位置を明らかにすると同時に、御自身の価値と人間との関係を明らかにしてきました。そうして人間が御自身と父子の関係を結んでいるということを、堕落した人間の前に通告するために闘ってこられたのが六千年の歴史だというのです。
キリスト教では「義の王冠」であるとか「何々の王冠」であるとか言いますが、先生はそれを願っていません。先生が願うことは堕落する前のアダムとエバの立場で、心情的に切に待ち焦がれる神様の願いを成就してさしあげた立場で、「私のお父様!」と呼ぶことです。そういう立場が、人間の願う最高の立場だというのです。そのような心情の立場は、歴史路程を探してみても、聖書の六十六巻をどんなに探してみてもありません。聖書は堕落以後の記録であるゆえに、そうなのです。
それでは、堕落以前にあった心情の園、神様と共に楽しんで喜ぶことのできる因縁の世界は、どこへ行ったのでしょうか。これを失ったというのです。アダムとエバが神様から「汝は我の永遠なる息子、娘である」という認定を受けて愛される立場、天使長までもアダムとエバの前に屈服し、万象が彼らの命令に順応して天下を堂々と主管することができる立場で、堕落したのではありません。天使長に引きずられる立場で堕落しました。主人の息子として、息子の位置と息子の権限をそろえられない立場で堕落してしまったのです。
サタンは、堕落した天使長です。今日この地上に生きている数多くの人類は、サタンの掌中にあるので、どこに行こうがそのあとにはサタンが付いて回り、いつもサタンに試されなければならない立場に置かれています。ゆえに、こういう世の中を塗りつぶしてしまって、サタンを支配して命令できる、さらには天使長にまでも命令できる本然の息子、娘を神様は探していらっしゃるというのです。これが神様の中心のみ意です。ところが、こういうみ意も知らないのに、今日「信じれば救われる」と言います。救いとは、そのように簡単なものではないのです。
◆霊肉の父を失った人間
神様を失ったのは、全宇宙の大主宰を失ったことです。それだけでなく、私たちの父を失ったことです。この父は、私たちが肉身をもって生きる百余年の短い期間だけ呼ぶ、そのような父ではありません。永遠無窮に呼ぶ父です。永遠に、神様が喜べば共に喜び、悲しめば共に悲しまなければなりません。それが地上で判定づけられるのです。
ですから、地上で神様が喜ぶことのできる修道の道、信仰の道を守り続けた人の行く所が、天国です。そして、神様が悲しむ立場で生きた人の行く所が、地獄です。ところで、私たちは神様が悲しむ立場で生きています。このような曲折が、堕落することによって生じました。
私たちは、すべてを失った人生であることを知らなければなりません。大主宰であられる神様、すなわち私たちの永遠なる父を失ったのです。そして生涯の父を失いました。私たちには父が二人います。天の父と、私たちを生んでくれた父の、二人の父がいるというのです。この二人の父は違います。何が違うかといえば、私を創造した父は永遠の父であり、私を生んでくれた父は生涯の父、地上の父なのです。
堕落していないアダムとエバは、人類の真の祖先であり、真の父、真の母です。肉身をもった人類の真の父母です。ところが、そのアダムとエバが堕落したがゆえに、人類がサタンの子孫になったのです。
もしアダムとエバが堕落せず、神様の祝福を受けることのできる立場になり、神様が臨在できる家(体)になったとすれば、今日の人間は父をもった者になるのです。そうなったならば、イエス様を信じなくても、みな天国に行くことができます。宗教も必要ありません。なぜ必要がないのですか。本然の父と心情的な因縁により生まれた息子、娘は、地上の何ものも奪うことはできないからです。
神様の心情とともに一体になった真の父母を通して生まれた息子、娘、心情から「お父様!」と呼び、走っていくことのできるその息子、娘に対しては、サタンの愛はもちろん、その何をもっても奪っていくことはできません。忠臣の心、孝子、孝女の心、烈女の心は、その何をもっても変えることはできません。このような立場に入っていってこそ、天倫の前に全面に押し出すことのできる人となるのです。
アダムとエバが堕落せずに本然の神様の心情に通じ、神様が喜ぶ中で善男、善女として成礼式(婚姻式)を挙げ、人類の真の父母になったとすれば、万物はアダムとエバと和動しながら楽しみ、その家庭に必要な存在になろうとしたでしょう。このように、アダムとエバが幸福を謳歌することができ、神様を永遠なる父として侍ることのできる人類の真の父母になり、人類の標本的な真の夫婦になり、神様の前には真の子女になっていたならば、誰も彼らを奪っていくことはできないのです。なぜなら、主人は一人であるからです。心情の主人も一人であり、愛の主人も一人です。そのような方が、神様なのです。
私たちは神様を失ったと同時に、父を失い、真の父母を失いました。先生はある時、「天の父よ、私の肉身はなぜ必要なのですか。なぜ私の父は私に対して救い主になれないのですか。私を生んでくれた父母であるのに、どうして救い主になれないのですか」と祈ったことがあります。
そのような真の父母をもった人間がこの地上にいるならば、彼はイエス様を信じないし、救いを受けなくても幸福でしょう。本来は、そうでなければならないのです。ところが、堕落したために救い主が必要なのです。そのような世の中ならば、その世の中は幸福な世の中であり、天国だというのです。知ってみると、こういう歴史的な曲折がその昔、私たちの先祖から始まったというのです。
そのために、今日の人類はあえぎ苦しんでいます。今日の人類は神様を失い、神様との父子の因縁を失ったと同時に、自分には真の肉身を備えた父もなく、母もないのです。
◆重生しなければならない人間
イエス様は、後のアダムとして来られた方です。コリント人への第一の手紙第十五章四十五節を見ると、イエス様を「後のアダム」と言っています。そうすると、後のエバがいなければならないのですが、後のエバとは誰ですか。キリスト教では聖霊を象徴的にそう言ってきたのですが、聖霊が正に母神として、後のエバということなのです。人類の母であるエバが堕落したために、後のエバとして母である聖霊を送られたのです。穴が開けば、開いたその穴を埋めなければならず、失ったものがあれば、失った所に行って捜さなければならないように、エバによってこの地上の人間がすべて死亡世界に入っていったために、聖霊が来て再び産みの苦労をするのです。
聖書を見れば、女性はお産することで救いを得ると言いました(テモテⅠ二・一五)。これは今日、地上に生きている夫人たちに向けてした話ではありません。エバに向かって言った言葉なのです。エバが堕落せずに人類の真の祖先になったならば、この地上に善なる息子、娘を産んだであろうに、堕落してサタンの息子を産んだために、エバが再びお産しなければ人間は救いを得ることができないというのです。ゆえに、聖霊がこの使命を担い、今日全人類を抱き抱えて、全力を尽くしてお産の苦労をしていっています。そのお産がみな終わってこそエバが救われ、聖霊の使命が終わるのです。
復活というのは再び生きることです。私たちは死んだので、再び生きなければならないのです。では重生とは何でしょうか。再び生まれることです。イエス様は、人類の父であり、新郎であり、聖霊は、人類の母であり、新婦です。人間が新婦の因縁を受けて、新郎となるイエス様を思慕してイエス様なくして生きられず、聖霊なくして生きられないというようになるとき、イエス様と聖霊が霊的な面で対面することで、永遠な生命の種が再び人間に注入されるようになれば、それが重生になるのです。
父母の愛を通さないで息子、娘を産むことは、天地の道理の中にはありません。そのような役事をするために、神様はイエス様を送りました。アダムが父としての責任を果たせなかったために、その使命を遂行するため実体をもって、父として来られた方がイエス様です。ゆえに、イエス様は救い主であると同時に、人間の父です。実体の真の父です。人間が失ったその真の父を再び立ててのみ、天地の道理の原則的な軌道に乗って入っていくことができます。天は絶対的な原理原則を中心として法度を立て、その法度に通じることのできる基準を備えて初めて、すべての役事をしていくのです。
私たちは地上に生きてはいますが、真の父母を失ってしまいました。聖書にも、孤児や未亡人のようなお前たちである、とあります。父母もいて、新郎もいるのに、なぜそう言ったのでしょうか。神様の創造理念から見るとき、真の父母と因縁を結ぶことができずに失ったから、孤児だというのです。また、真の新郎であるイエス様と因縁を結ぶことができなかったために、未亡人だというのです。
このような問題を収拾しようとするなら、その原因から収拾しなければなりません。すべての宗教の根源を明らかにしようとするならば、最も頂上のアダムとエバから出発しなければなりません。これから宗教問題を解決できない神学は、滅びます。その神学は、天の逆賊をつくることもできます。どんなに準備して備えたにしても、天の前に審判を受けるというのです。
創世記第一章にある、アダムとエバの曲折から解かなければなりません。堕落前のアダムとエバに対された神様の心情と、堕落する時のアダムとエバに対された神様の心情、堕落以後の神様の心情がどれほど切なかったかという心情の関門を、皆さんは通過しなければならないのです。
ある病気になれば、その病気の根源から治さなければなりません。そうしなければ病気を治すことはできません。その根源を正しておけば、すべては自然に収拾されるのです。この国もそうです。根源となる中心存在が間違うと、みな滅びます。どんなに民が立派でも、彼が間違えばみな滅びます。そのような垣根の中にあるものは、みな滅びるのです。ですから、中心が問題です。
◆人間が探し出すべき真の父母
イエス様が聖書の中心になったのは、アダムとエバが堕落したためです。もし堕落しなかったならば、イエス様が中心でなく、アダムが中心になったでしょう。堕落したために、救い主とか、祈祷とか、宗教とかいうものが必要になったのです。本来は、神様がいるのかいないのか、無神論か有神論かという論議は必要ないのです。神様がどんなに不十分だとしても、御自身の被造物に対して「やー!」と言えば、その被造物が「はい!」と言えるように造ったはずです。そうできないならば神様ではありません。
これから、宗教を超えなければならない時期が来ます。世界を超えなければならない時期が来ます。さらには、歴史観、社会観、自分中心の心情観を超えなければならない時が来るというのです。私の息子、娘だけが息子、娘ではなく、私の家庭だけが家庭ではなく、私の国だけが国ではありません。
今、時は既に世界的な理念時代に移ってきています。この時は、私の生活感情と人生観を超えて、私がもっている生活観を超えて天宙観をもって神様に対さなければならない時です。どんなに孝子だとしても、父母が率いる家庭や環境をうまく収拾できずに、けんかばかりしながら「お父様」と言えば、その父母が喜ぶでしょうか。
同様に、神様が摂理されるすべてを収拾できる忠誠の立場に入っていって、心情的な基準を通過したのち、「お父様!」と言ってこそ、神様が「うむ」と言われるというのです。この地上において、人間としていかなる愛、いかなる理念、そのいかなる何をもって神様の前に進み出て、「お父様」と呼んでも、神様は「うん!」と言えないのです。
ゆえに、この世は審判されなければなりません。終わりの日が迫りくるこの時、真の幸福を願って進むこの時に、私たちはきょうのことに向けて進むのではなく、あすのことに向けて進まなければなりません。きょうのことを否定することができると同時に、あすのことに対する価値観が、徹頭徹尾自分の心の中に深く根づいた人がいるとするならば、彼は希望の人です。歴史とともにこの地が滅びる時、神様はその人を取り出して命令なさるでしょう。
今この時は、正に生死を判定しようという時です。たとえ私が死ぬとしても、探すべきものは探し、もつべきものはもたなければなりません。そのようになるならば、死んでも恨はないでしょう。今日私たちは、探すべきものを探すことができず、もつべきものをもつことができず、自慢すべきことをもつことができずにいるので、不幸な人々です。
私たちがとどまっている今日の環境から幸福の基台を夢見るようになるならば、「私を助けてください」と言う時が来ます。荷物をまとめて生死を懸けた闘いが始まります。
天は私たちに向かって叫んでいます。しかし天は歴史の真ん中に立って、「汝は我に来たれ」とは言いません。「ある一つの国家や民族圏内に入れ」とも言いません。「一人の人のところに行け」と言うのです。その人物は、太初に神様が人間を造ったその因縁と関係を知っている、心情の主人公です。「その人のところに行け」と言われるのです。
今日数多くの道義がありますが、心情を通過できる一つの道義が、歴史路程に現れなかったのです。そういう道義が、必ず現れなければならないのです。もしそれが現れないならば、神様はいないということです。人間が守るべき社会的な倫理と道徳を教えてくれる道義もあり、無限の霊界を教えてくれる道義もありますが、倫理道徳と無形世界に対する教えを統合して、一つの心情の骨子の上に載せる宗教がなければなりません。そのような宗教を探してみたところ、キリスト教だったというのです。
キリスト教は心情の宗教です。人間は堕落することによって神様を失い、神様が私たちの父であるということも分からなくなりました。実体を備えた真の父母を失ったのですが、キリスト教はその真の父母を紹介することのできる宗教です。
皆さんは、夫婦を成してつましく生きていますが、神様の永遠なる天国に一緒に行くことのできる、そのような夫婦ではありません。信仰をもつ人々は、世の中の夫婦は主が来られる時に、みな分かれてしまうと話しています。これは聖書にもあり、霊的な世界に対する体験をした人はみな知っています。この地でどんなにおもしろく生きた夫婦だとしても、夫の行く所が別にあり、夫人の行く所が別にあります。本来はそうではありません。人間が堕落したためにそうなったのです。
神様は人間に対し、祝福された真の夫婦として地上から永遠な世界まで、永遠に御自身に侍ってくれることを願っていらっしゃったのに、神様が公認できる真の父母がこの地上に現れず、神様に侍ることのできる公認を受けた夫婦がこの地上にいなかったというのです。神様が一男一女を造り、「そのように生きよ」と言われたでしょうか。
今日の道義の基準は、独身生活です。なぜ独身生活かというと、まだ原則的な基準に到達した主人公が現れておらず、真の父母としての権威を行使できていないためです。神様の理念による真の父母がまだ立っていないために、その子孫たちが家庭を成して生きることができないのです。そのため、高次的な宗教であるほど独身生活を強調します。
◆人間はまず真の子女にならねば
人類の先祖は愛する息子の立場には立ったけれども、天地万物を遺業として相続することのできる息子の立場に立てなかったのです。そのため、神様は御自身の代わりに全宇宙を主管することのできる永遠の一つの真の主人公を立て、彼を中心として愛の因縁を結ぼうとされました。一男一女が成熟し、万物と和動する笑いがあふれ出てくるとき、その心情の基台の上において、神様は彼らと因縁を結ぼうとされたというのです。ところが、そのような因縁を成すことができなかったために、今日まで恨めしい歴史が続いてきたのです。
人類歴史は、失ったものを再び捜して進んでいく復帰歴史です。そうして、私たちは神様の息子と娘という名詞を経て成長し、また成長して真の父母にならなければなりません。そうするには、霊の父だけでなく肉の父と因縁を結んで、神様は永遠なる私の父だということができなければなりません。
イエス様は、新郎であると同時に、真の父です。私たちは神様も失い、真の父母も失い、真の夫婦も失い、真の子女にもなれませんでした。ゆえに、イエス様を「神様だ」とも言い、「真の父母だ」とも言い、「新郎だ」とも言い、「子女だ」とも言いました。それは、歴史的に失った心情的なすべてのものを全部一つの目標に包んでしまい、一度にハンダづけしようとしたからです。それが復帰摂理です。
神様を失った人間、真の父母を失った人間、真の夫婦の因縁を失った人間、真の子女の因縁を失った人間、この人間が願うことは、まず子女になることです。そうなるには、再び産んでもらわなければなりません。再び産んでもらえなかった者は、全部継子です。私たちは重生の体験をしなければなりません。「私はイエス様と聖霊を失っては生きられない、私の体の血と肉が彼の一部分なのだ」という立場に立たなければなりません。
それで、真の子女の因縁を結んで養育を受け、聖霊の感動とともに聖霊の助けを受けて、聖霊が新郎であるイエス様に対して思慕するのと同じ感情で、和すことができなければなりません。そういう心で、今後主の来られるその時を仰ぎ見ながら、処女のような体で装い進まなければなりません。
皆さん、この世で何が一番貴いでしょうか。何が宝物ですか。二人の者が支配できる位置にいることは喜ばしいことではありません。幸福だとはいえません。二人の者が所有しているその位置に、「幸福」という名詞はありません。天地の間で一番貴い方は、神様です。幸福な人とは、どんな人でしょうか。先ほど話したように、一番貴いものをもっている人でしょう。
では、この天地間で一番貴いものとは何でしょうか。あらゆる存在物が、自らの生命を与えてでも欲しいものです。そのように貴いものを、皆さんはもったことがありますか。皆さん、金銀財宝が貴いのですか。自らの生命を与えてでも欲しい方がいるのですが、その方が神様です。
皆さんがそのような価値の神様を知るようになれば、神様の息子、娘となることは問題ありません。天上天下にどんな貴いものがあるといっても、それはみな造られた相対的な存在であり、神様だけは主体的な存在です。ところが、その神様を私のものとすることができるというこの事実、それがどれほど感激的なことでしょうか! 神様が私のものになるというのです。皆さんは、その方を「私のものだ」と言うことのできる息子になり、娘になり、兄弟になれるというのです。これが救いです。
神様はイエス様に対して、「ひとり子だ」と言いました。今までこの地上に数多くの人間が生まれ死んでいったけれども、汝だけは私の息子であると言われました。こういう事実を考えてみるとき、イエス様は最大の成功者でした。神様から「ひとり子」という、「息子」という名分を受けたのです。心情をかき分けて入っていくと、彼は真の孝子でした。彼は、神様が過去から今日までどのようにしてこられた父であるかを知り、今日の自分に対していかなる心情をもっていらっしゃる父であるかを知っていました。また、その父が、自分を立てていかなる祝福をしてくださろうとするのかも知っていました。ゆえに、彼は神様を「私の父」と言ったのです。
それゆえに、イエス様は救い主です。天の父、真の父母、真の夫婦、真の子女を探してくれる救い主です。今まで私たちはイエス様を、生命だけ救ってくれる救い主だと思っていました。これを根本的に壊してしまわなければなりません。私たちが信じているイエス様は、失った神様を探してこられた方であり、失った真の父母として来られた方であり、真の夫婦の新郎として来られた方であり、神様の前に真の孝子として来られた方なのです。
そのイエス様を本当に愛する人は、神様を愛する者であり、真の父母を愛する者であり、真の夫婦になることのできる者であり、真の子女になることができる者です。それでイエス様は私たちを、「友人だ」とまで言われました。
◆神様が尋ねてこられる世界
今後、全天下に散らばっている数多くの人々が、「メシヤよ、どうか来てください」と言って泣き叫ぶ時が来るでしょう。願い頼る主権も、信じている宗教も、いかなる学問も哲学も信じられないという時が来るでしょう。なぜなら、心情で始まった人間であり、心情を経て心情に終結する人間であるためにそうなるのです。
人間の起源は言ではありません。心情を起源とした人間なので、心情の因縁を経て心情に終結しなければなりません。そうなることによって初めて、万物から「オー! ハレルヤ」と褒めたたえてもらえるのです。そのように褒めたたえてもらえる価値を一〇〇パーセント具備しようと思えば、心情の因縁を抜け出してはなりません。
歴史は処理の歴史です。ある国家、ある主権を手本に立てて行く途中で、その国家や主権が落ちれば処理し、それよりもっと手本になり、より良い新しい国家を立てていきます。そのように国家や主権は処理できるけれども、心情は処理できません。生活と事情は処理できるけれども、心情は処理できません。この心情問題を処理できる一人の主人公が人類の歴史路程上に現れない限り、この世界に平和の時は来ないのです。幸福の世界にはなりません。そのため、神様は心情の世界を探してこられるのです。
このような天的な心情の世界が来る日には、人間的なすべての倫理道徳は終末を告げるようになります。古いものが壊れてこそ新しいものが出てくるからです。それで、この世界は何とも言えないほど混乱するようになります。倫理道徳観が壊れてしまいます。父母が息子を、息子が父母を殺し、夫婦が互いに刃物を振り回します。
このように壊すことで天地が終結するならば、前もってそのような場を訪ねて、死ぬ人も出てくるのです。そのような人々のために先生は、「お父様、自殺する穴を探して入っていこうとしている人を送ってくださいませ」と祈ります。
そのような人々は、歴史的な終末を予感した人です。「どんなに肉身は良いといっても、心は楽しくないな。どんなに行動は楽しくても、心は安らかに休むことができないんだなあ!」と、このように思う人は、心情の世界が来るということをあらかじめ知って、環境を収拾していく先覚者です。
安息の基台は心ではないという立場ではなく、事情と都合を一時休息させる立場ではありません。心情が永遠無窮に離れたくない立場です。「非難を受けても良く、むちで打たれても良く、何かが私の生涯を奪っていっても良い」と言える立場です。これを知ったイエス様は、十字架を前に置いて「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎさらせてください。しかしわたしの思いのままにではなく、父のみこころのままになさってください」(マタイ二六・三九)と言われました。ここでの願いは、心情の願いです。「心情のみ意のままにしてください」という意味です。
◆天国に行くことのできる人
今日、全世界の人類は探しています。慕っています。ある時、必ず解決しなければならない問題を前にして、あえぎ苦しんでいます。その問題は御飯をよく食べることではなく、主権をうまく立て、光り輝く文化を創造して喜ぶことでもありません。それは東洋と西洋の問題や、皮膚の色の問題ではありません。父母が息子を愛する心をもつのは原則です。しかし、それ以上の心をもつようにする、そのような理念が出て、この地上に起こり得るとするならば、平和と幸福の世界、天国は自然に来るでしょう。
「何をするな、何を捨てなさい」とだけ言われ、平和と幸福をもたらすことのできない神様ならば、そのような神様を信じることができますか。しかし神様は最大の贈り物を準備したために、私たちがどんなに良いということも、受けようと思うものがあっても、「みな忘れてただ一つのものだけを待ち望みなさい」と言われるのです。
そのような何かがあるために「何をするな、捨てなさい」と言われたのです。ですから有り難いのです。知ってみると、有り難いというのです。長い歴史路程で使徒が苦労してきましたが、苦労して何かを得れば、また失い泣かなければならないことを御存じなので、「みな捨てて、一つの時だけを望みながら耐えて待ちなさい」と言われたのです。これがキリスト教の精神です。
私たちは、これからこの門の外に出れば、家庭を訪ねていくでしょう。ところが皆さんは、「私のお母さん、永遠にあなたの懐を離れたくありません。死んでも永遠にお母さんと一緒にいたいです。天国が他の所にあるのではなく、お母さんと暮らせる所が天国です」と言える、父母をもつことができませんでした。また夫婦が地獄にいるとしても、夫のいる所にその妻がいたいと、夫を見つめて喜ぶことができるならば、そこが天国です。
天国は、飢えて座っていても良く、ほおを殴られても良い所です。君と私との因縁は誰も切り離すことのできない所です。君が行けば私が行って、私が来れば君が来る所、そのような因縁でお互いが共にいたい所です。天国に行くことのできる人は、そのような内容と材料をもった人々です。
神様は公義の神様です。公義とは手続きが正しいことを意味します。一箇所にだけ通じるのでなく、四方に通じるというのです。神様と主を置いて私も喜ぶと同時に、全天下が喜ばなければなりません。「君も良き神様の息子、私も良き神様の息子だ」と言うときには、許せないことがありません。
神様の名を掲げておけば、怨讐がみな溶けてしまいます。神様の名を掲げておけば、兄弟でない人が兄弟以上に団結でき、家族でない人が家族以上に団結できます。この地上でそういう感じのもてない者、そういう内的な体恤のできない者は、新しい国の幸福な時代に入っていくことができません。
◆本当に幸福な人
私たちは、無限に幸福な人になることを願っています。他人の知らない多くの学問を体得することが幸福ではなく、地上の宝物をたくさんもつことが幸福ではないのです。ある権勢をもつことが幸福ではありません。そのようなものをもっていても、天倫の認定を受けられない立場に立てば滅びるのです。
一番貴いものとは何でしょうか。全宇宙の大主宰であり、主人公であられる神様の心情的な息子、娘になることです。それ以上にもう願うものはありません。神様を父とした息子がいるとするならば、この天地が彼のものになります。人間の胸中深くそのような因縁が残っているので、神様が汝の一番願うことは何かと尋ねれば、「この世を自由に主管して、この世界を自分の土地のように遊覧することが願いだ」と言います。それが大多数の人々の心です。それが本来の心です。堕落して失ってしまったので、それを捜し出すために、もがき苦しんでいるだけなのです。
皆さんは神様の真の息子、娘となってください。そうすればその父のものは、息子、娘である皆さんのものになります。そうではありませんか? そういう偉大な贈り物、そういう心情的な贈り物を下さろうと、天は六千年間苦労することを意に介されなかったのです。
そのような天の父を、皆さんは何度裏切りましたか。「やー、誰それ」と血を吐きながら泣き叫ばれていたその父を、どれほど裏切りましたか。「私は知らない」と言って背を向けたその人が哀れにならなければならないのであって、神様が哀れになってもかまわないというのですか。かわいそうな神様です。かわいそうな私のお父様です。
そのようなお父様が、私の心のお父様です。恨めしく悔しいというのです。御自身の心情のすべての痛みと悲しみを忘れ、私を抱き締めて号泣できるお父様に会いたく、「よし、私の息子、娘よ」と言いながら、長いため息とともに希望の笑みを浮かべるお父様に会ってみたいという孝子、孝女がこの地にいますか。いないというのです。
私たちは、ここに何をしに来ましたか。救いを受けるためですか。違います。血の曲折がここから繰り広げられたので、私たちはその場を通過して、本然の心情と因縁を結んだ息子、娘にならなければなりません。また、堕落によってゆがんだ恨の心情を解くために、六千年間苦労されたお父様の心情を抱き締め、今までの歴史路程を逆に取り除いてしまい、父のアルファとオメガの心情を相続できる息子、娘にならなければなりません。この地上にそのような息子、娘が現れなければならないというのです。
幸福な人とは、神様が願い望まれる一番貴いことを、私のものにできる者だということを、私たちは今知りました。その貴いこととは、神様を父として、神様のひとり子を父として、神様のひとり娘を母とすることができることです。そのひとり子は父であると同時に、時代的に見れば新郎格に当たります。また、神様の代わりに罪悪の人間を救わなければならない立場に立っていると見れば、息子格に当たります。その方は、歴史上のあらゆる存在が願っていた方であり、摂理的な全体目的を成し遂げる願いの中心です。
その方を探し出すために神様は六千年間悲痛な歴史を歩んでこられ、今まで生まれては死んでいった数多くの私たちの先祖と聖徒たちも全部、そのひと方を探し出すために努力しました。そのような貴い方、一人しかいない方に皆さんが侍ることができるならば、どれほど幸せですか。その貴い方が皆さんのものになるならば、どれほど幸福なことでしょうか。それ以上幸福なことはないはずです。そのようなことが成し遂げられるならば、お金が問題ではなく、体が問題ではなく、世界の土地が問題ではありません。
人は貴いものをもったならば、もっているだけではいけません。下さった方と共に喜ばなければなりません。そうしてこそ、下さった方も喜ぶことができるのです。その方が、「もっとあればもっとあげたい」と言うぐらい喜ばなければなりません。そのような心があふれる者は、幸福者です。
その喜びは、瞬間的な喜びではありません。そのようなことを探してさまよう人、そのような良心をもった人には、与えてもまた与えたいのです。自慢してもまた自慢したいのです。「やー! 本当に良いな、やー! 本当に貴いな」と言う人には、世の中で本当に貴いというものまで失うとしても、すべてあげたいのです。こういう心があふれた、その貴いものを受けるようになるとき、「やー、これから苦痛も問題ないな。この喜びを誰が奪っていけるものか」と言って喜ぶならば、その喜びは個人だけの喜びではありません。万民のものです。自慢したく、与えたく、受けるのを見るとき、自分がもっているときより、もっと喜ぶことのできる心があふれる人は、幸福な人です。
そのような原則があるにもかかわらず、大部分の人間は、貴いものがあれば「私のものだ」と言います。「これは私の物だから誰も触れることはできない」と言う人は、天倫に対する裏切り者です。天地の運勢は、そのような方向に行く者を打つようになります。
◆新しい時代の主人公
歴史路程を綿密に観察してみると、旧約時代は物質を祭物として差し上げた時代であり、新約時代は体と心を祭物として差し上げる時代です。イエス様は神様の体を代表した方であり、心を代表した方であるために神様の理想相対です。
今まで私たちは、聖霊が恵みをくれると思っていました。聖霊は体の祭物を捧げる方です。この体の祭物が完結すれば、新郎となるイエス様が心の祭物を兼ねて捧げるようになるのです。父と母が合わさった位置から心情問題が出てきます。過去には物質を祭物として捧げました。今日のキリスト教は、聖霊とイエス様を中心として、体と心を祭物として捧げる宗教です。ゆえに、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マルコ一二・三〇)と言いました。このように、み旨の成就は相対的です。
それから、今後はどのようになるかといえば、物質の祭物時代、体と心の祭物時代が過ぎ、最後には心情の祭物時代が来ます。神様が恋しくて生きていられないという時代です。神様が恋しくて生きていられないという心で、彼が死ぬ場に行けば、私もその場に行くことのできる心情がなければなりません。心情の祭物時代を必ず通過しなければなりません。それは人間が堕落したためです。心情の因縁に背いて心と体を失い、世の中のすべてのものを失ったので、それをみな一人で背負って蕩減復帰していかなければならないのです。
そのような歴史路程を経てきているので、私たちが失った最後の幸福の要素を探すところにおいては、その方と心情の一体を成し遂げて一つにならなければなりません。心情が一つになれば歴史的な距離、時代的な距離、平面的な距離は問題ではありません。どこに行っても、常にその心の中に入っているのです。
そのようになれば、私を中心として万物と相対的な関係を結び、万物と情を通じることによって、私たちは天と関係をもつようになります。天と心、心と体、体と万物、すなわち三対象をそろえるようになります。このようになって初めて、地上でサタンを支配し、天理の原則を通過した勝利の息子、娘として立つことができます。そのような者こそ、神様の分身なのです。男性ならば真の父の分身であり、女性ならば真の母の分身です。このような因縁は、億千万のサタンが来ても切ることができません。
いかなる苦痛があっても、神様と一体的な関係、父子の因縁を結ばなければなりません。そのような確実で実証的な内容、体験的な事実を備えた者だけが終わりの日、新しい時代の主人公になるでしょう。こういう人は、必ず公義の審判過程を超えることができるでしょうし、愛を中心とした平和の世界で、幸福な生活を営むことができるでしょう。
13. 神様の愛と共に生きる者になろう
一九六〇年五月八日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第九巻』
きょうは「神様の愛と共に生きる者になろう」という題目で皆さんにお話しします。
◆神様の愛を求めてきた人類歴史
今までのキリスト教の歴史を見れば、数多くの人々が天を求めて進んでいく道で死んでいきました。その歴史は、殉教の血で染まった歴史であることを私たちは知っています。一つの生命が倒れるたびに泣き叫んで訪ねてくださった方が、完全な愛をもたれた神様でした。
人間が堕落したその日から悲しみの歴史は始まりました。それでその歴史を通過する人間は、悲しみと苦痛と闘わねばならず、もっている力をすべて出しても駄目なときは、自らの血を注ぎながら闘っていかなければなりませんでした。
ですから、今まで神様の息子、娘も悲しみと苦痛に対して抵抗してきましたが、それで終わらないのでついには血を流し、生命を捧げてまでも抵抗してきたのです。
では、そのようにした目的はどこにありますか。神様の愛を所有するところにあります。神様の愛の花を咲かせるために彼らが倒れていったことを、私たちは知らなければなりません。イエス様がゴルゴタで血を流して三十余年の生涯を終えたことも、神様の愛を残し、神様の愛を蒔くためであったことを、私たちは忘れてはならないのです。
このように蒔かれた神様の愛が広がり、この地全体が愛を中心とした勝利の基台になるべきであったのに、そのようになれなかったので嘆くのです。そういう地にならない限り、再び聖子が死に遭い、聖徒が涙を流し、血を流さなければならないということを私たちは知らなければなりません。
本来、神様が天地万物をある遊び道具や趣味で造られたのではなく、ある目的も方向もなく、ある理念的な内容もなく、ただ造られたのでもありません。これは皆さんが常識的に考えてもよく分かるでしょう。壮大な目的と大宇宙の理念をおいて造られました。それで極めて小さな物からものすごく大きい宇宙に達するまですべての存在物には、神様の心情に通じた理念が宿っています。
では、このような理念をおいて造られた目的とは何でしょうか。神様の愛を中心とした理念の世界、すなわち愛と共に通じ、愛と共に楽しみ、愛と共に生きられる世界を目的とされたはずです。
◆大宇宙の運行の原則
私たちが眠りから覚めて目を開ければ、目の前に広がった万象を見ることができます。私たちはその万象を通して何か知らない間接的な印象を受け、その反応する感覚で生活での感覚を高めていっています。
私たちの周辺にある極めて小さな物でも、必ず私たちと因縁があり、関係しています。私たちが無視しても、そのごく小さい物はその日その日に天倫の理念によって、存在の価値を現して人間と共に因縁を結んでいるのです。こういう事実を、私たちは知らずに生きてきました。
極めて小さな存在物から万物を主管することができる万物の霊長という人間に至るまで、その存在目的を中心として見れば、みな神様の大宇宙の理念に通じ得る愛の理念圏内に入っているのです。
それで、小さい物は大宇宙の目的を達成するのに、大きい分野を受け持っているものに吸収されて動くのです。このようにして宇宙は動くようになっています。小さな物は大きい物に吸収され、その材料になり、一つの要素になリ、大理念を中心として一つの目的に向かうようになります。歴史はこのように進展してくるのであり、存在世界は天倫という原則の軌道によって、一つの目的のために動いているというのです。
それは万物のみではありません。それから相対的にだけ推し量るのではなく、主観的に自分自身を中心として見るとき、皆さん自身はどのようになっていますか。皆さん自身も同じです。皆さんが生活するのに一〇〇パーセント活用しない身体の極めて小さな部分があるとしても、それも生の目的のために、離そうとしても離せない共同理念圏内で動いているというのです。私たちの指一つも、大宇宙のその何かを象徴的に表していると見ることができるのです。極めて小さな細胞一つも、やはり大宇宙の理念のもとで、使命的な一片をもって動いている、という事実を私たちは知らなければなりません。
存在世界を法則的に推し量って公式化し、こうやって知識の一部を成し遂げたのが科学です。けれども、科学が全部ではありません。私たちが自分の皮膚を触れば、体温があり、触感もありますが、そのほかに感じられる他の何かがあるということを知らなければなりません。宇宙の理念は、私たちの生活を収拾していきながら、私たちが反対方向へ行こうとするときには、「宇宙の目的と一致する方向へ行け」と言います。こういう忠告を受けて生きる自分ですから、間違いないということをもう一度考えなければなりません。
ですから、大きい物でも、小さな物でも、どんな物であっても、それらは全部天地を創造なさった神様の大理念圏内にあります。また神様は、それらを愛を中心として造りました。
そのようにして造られた大宇宙は、神様が最高の喜楽を感じ得る平和の世界にならなければなりません。その目的が成されて神様が、「私は幸せだ」と言うことができなければなりません。そのような目的を終結させるために、この大宇宙圏内に神様の理念があると同時に、愛が宿っているということを皆さんは知らなければなりません。
ところが私たち人間は、今嘆いて、悲しんで、苦痛だと、死ぬとか生きるとかと大騒ぎです。それは、私たち人間が堕落したゆえです。自分がどのような価値をもっているのか、自分がどのような位置に置かれているのかを知らず、自分が行くべき方向と行くべき目的地を知らないためです。
どのような苦痛と悲しみ、そしていかなる困難にぶつかっても、大宇宙の理念圏内にある自分自身の位置がそれぐらいの困難に揺れてはならないということを知っている者は、その苦痛の峠を越えていくでしょう。また、これぐらいの苦痛に耐えられない私ではなく、これぐらいの死の峠の前に屈服する私の生命ではないと感じる者がいるとするなら、彼は人生行路において成功した人でしょう。「いかなる迫害と死の峠が差し迫っても、私の行く方向を変えることはできない。私の価値は地上のその何とも変えることができないのである」と言う者がいるなら、彼は地上にいても天の人です。地で死んでも、天の人だというのです。
◆宇宙の運行の目的――神様の愛
神様が造られた万物の中心が神様の愛であるというなら、その神様の愛を中心として誇ることができる価値をもった人、そのような位置で愛を永遠に主張して生きる人がいるというなら、その人は人生行路において最高の成功者でしょう。
そこに向かって人間は動き出しています。一人の方を中心として、この地上にそのように安定しない限り世界は収拾されません。そういう理念と、そういう価値と、そういう位置と、そういう方向をもった人がいるというなら、死亡の権限も彼を支配できず、いかなる主義や思想がどんなに膨脹しても、その主義や思想が彼をのみ込んでしまうことはできません。
そうするために天は宗教を立てられ、修道や良心や善を立てて訪ねてこられました。では、このように六千年間神様が苦労された基台の上に立てられたキリスト教が、今日そのような立場に立っているでしょうか。イエス様を信じる人々がそのような立場に立っているでしょうか。そうではありません。この仕事を終結させなければ神様の事業が成就されないのですが、皆さんはこの神様の事業を成就させるために、ある一部分でも引き受けようとしたことがありましたか。全体摂理のみ旨を完結させるのに、一つの小さい分野でも責任を負おうとしましたか。皆さん自身に問い返してみてください。
では堕落人間が、どのようにしてこの大宇宙の理念圏内に沈んでいる神様の愛の世界を探して入っていくのでしょうか。これが問題です。
その方法は簡単です。ある詩人が自然を見て、詩を一編書いたとき、読者がその一編の詩の中で詩人が眺めた自然環境を描くことができ、その詩人の感情までも共感できるならば、彼を偉大な詩人だというでしょう。また、ある画家が描いた絵画の一点からその作家の性格と、心情と、感情の世界と、彼の理念を推し量り得るなら、その作品は立派な作品になるでしょう。平面的に見えるある現象が問題ではなく、その形状の中に隠されていて、複雑な宇宙観が含まれている内的なものがあらゆる価値の起源なのです。
したがって、私たちは天下万象を何げなく眺めてはいけません。神様の大創造の理念世界の存在物は、すべて一つの愛を目的として動くために、極めて微小な存在といっても、そこには神様の全精力が宿っているのです。神様がこの被造世界を六日間で造られましたが、その一つ一つの存在物、例えば一日目や二日目に造られた存在物にも、六日以後に起こる大宇宙の創造理念が連結しているのです。このように考えるとき、神様の心情を根にして造られていないものは一つもないというのです。
◆神様の創造の動機
今日私たちは、昔の有名な人々が残した遺物を貴重に思います。彼らがもって暮らした骨董品を貴重に思います。しかし、今皆さんの目の前に砂粒が落ちているとすると、その砂粒一つにも神様の心情が関係していることを知らなければなりません。それはどんな貴い人や立派な人より、より高い創造主のみ手を経て生じた心情の結実体です。このような価値的な存在物であることを知り、砂粒一つにでも宇宙のように貴く思う者がいるなら、彼は間違いなく神様の息子になれるでしょう。
すべての万物が、そのように因縁があるというのです。そして因縁というのは、極めて小さな所から結ばれるのです。皆さんの個体も、約百兆個にもなる細胞で神様と因縁をもっている生命体です。
神様の愛を中心とした創造理念世界、すなわち大宇宙のあらゆる存在物は、どの一つも神様の心情の外で生まれたものがありません。こういうことを感じる人は偉大な人です。一つの木の葉が揺れるのを見て、天宙的な心情を感じてそれを表現できる人がいるなら、彼は宇宙的な人でしょう。
今日私たちは、こういうことに対してあまりにも無視し、無関心でした。私たちの周囲に、私たちも知らずに起こっている天下万象が、神様の愛と共に存在する物であるという事実を知りませんでした。
神霊的な境地に入ってみれば、小さな砂一粒にも宇宙の理致が入っていて、一つの原子にも無窮無尽な宇宙の調和が入っていることが分かります。存在するものをことごとくよく知ることはできませんが、ある複合的な力を通して現れた結果ということを否定できません。分子を経て原子、原子を経て素粒子のようなものが無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的を備えて存在するのです。ですから、存在するものすべては神様の愛のみ手を経て出てきたものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在しているという事実を、皆さんは徹頭徹尾知らなければなりません。
修道者はどのような人でしょうか。一握りの草をつかんでも、「神様!」と言える心情で自らの価値と同等にその価値を認識できる人が、最高の修道者なのです。そのようにその価値をたたえる人が、最高の芸術家なのです。各種各様に存在する天地万象を見て、神様の各種各様の愛と心情の妙味を発見し、それらと友達になって一緒に楽しめる感情をもった人がいるなら、彼は全宇宙を代表できる人でしょう。そのような人が万物の霊長です。ところが、食べることしか知らない人が、万物の霊長になれますか。なれません。
神様が被造世界を造るとき、そこには喜びがありました。造られたあと御覧になって、良しとされました。喜びがあったというのです。喜びは、ある目的を成し遂げたとき感じるのです。造られた万物に神様の目的意識が内在しているので、創造された万物を見て、神様は喜びを感じられたのです。
◆神様の摂理の目的
では、復帰の世界はいかなる世界でしょうか。一言で話すならば、森羅万象の各個体を見ながらも神様を称賛できる心情的な因縁を、立体的に備えた人々が生きる世界です。天が見られる人格の価値はそこにあります。それで昔、聖フランシスが鳥を見て説教したという話もうそではありません。夢のような話ですが、夢でなく事実です。
今日人間は恨めしい復帰の峠を越えて、新しい天地の主人公になりたがるのです。私たちはより一層そうなりたがる人たちです。そういう人になろうとするなら、私たちに属する一切は私たちのものでないという事実を、まず悟らなければなりません。
自分の意識があってはなりません。私の所有観念があってもなりません。私が主体的な立場で、どんな相手の物を取ろうとしてもなりません。私は反応する個性体、つまりある主体の材料になる相対体にはなれるけれど、一つの主体として相対体をもとうとしてはなりません。見える万物も、私のものではありません。私に属する一切も、私のものではありません。「私」と主張する私も、私のものではありません。
ですから神様を探し求めようとするなら、私を否定しなければなりません。一言で話せばそうです。私を否定しなさいというのです。堕落の存在意識が残っていて、堕落の所有観念が残っているそのままでは、神様と関係を結ぶことができないからです。一切を否定しなければなりません。私は私のものではありません。
では、私は誰のものでしょうか。私は国のものであり、世界のものであり、天宙のものです。さらには、私は神様のものです。人間は必ずこういう関係を完結しなければなりません。人間は造られたときからそのような因縁をもっていましたが、堕落することによってその関係の通路がふさがりました。ふさがったこれを再び開放するためには、私を否定しなければならないのです。その道を開放させるためのものが、六千年間苦労された神様の歴史です。氏族から部族、民族、国家を経て、今日、世界を引っ張ってこられる目的がここにあるのです。
今後世界を支配できる民族は、民族を越えて世界をつかむ民族です。今日世界を指導しようという国があるなら、自分たちの個体的な国家理念をもって動いてはなりません。一国家の次元を超えてこそ、世界を指導することができるのです。
神様は堕落した人間に対して、「すべてを否定しなさい」と言われます。これは人間を大宇宙の理念圏内に追い込むためです。それゆえに修道の道では一切否定です。一切自分を中心としたことは受け入れないのです。これは先生の話ではなく、聖書がそのようになっています。世の中の理念と主義を否定して、家庭的な環境を否定して、個体を否定しろというのです。さらには、心を否定して、心情まで否定しろと教えます。
なぜそうするのでしょうか。神様は堕落しないものだけを愛することができるからです。堕落の要素と因縁を結んだものは、一切受け入れられないのです。私たちを堕落しない本来の世界へ移すために「否定しなさい」と言われたのです。
人間が堕落しなかったなら、全天下が私たちのものであり、神様も私たちのものになったのです。ところが、堕落することによって、所有できる資格を失ったから、私たちがもっているすべてを捨てなければなりません。「見える世界も私たちの世界ではなく、造られたあらゆる万物も私たちのものではありません。これらすべてのものは神様のものです」と神様に返さなければなりません。そのような立場で再び神様と因縁を結んで生まれ変わったのち、あらゆる万物を主管する位置に立てようというのが救いの目的です。
こういう路程を経ていくべき私たちにおいて、最も重要なこととは何でしょうか。心情です。私の心情基準をどこに立てるかということが問題です。私が見聞きして喜ぶ一切は私のものではなく、サタン圏に属しているのです。これらすべてのものを引っ張って天の圏内に移すために、堕落した人間を今日まで率いてきたのです。これが歴史の目的であり、天の摂理の目的であり、創造の目的です。
◆本然の世界と本然の人間
皆さん、心の扉を開いて、もう一度堕落しない本然の世界を回想してみましょう。本来、神様とアダムとエバは親子の関係でした。ところが、アダムとエバはそれを知らずに堕落しました。それで、人間は神様が誰なのかを知らないのです。
神様には、アダムとエバを万物の主人公に立てて願われた目標がありました。彼らに神様の愛の感情がしみ込み、万物を造られた神様の創造の感情がしみ込むのを願われました。皆さん、思春期に入れば、万物に対するときに神秘感を感じるでしょう。そのように情熱が最高潮に燃え上がるとき詩を書けば、驚くべき詩を書くことができます。
それと同じように、神様は大宇宙の心情をもった人間として完成することを目標に設定して人間を造られました。そして、人間がその目標どおりに成熟することを非常に待ち焦がれました。時を待たれたのです。彼らが成熟すればするほど男性が女性に、女性が男性に対する時、それぞれがお互いを大宇宙全体の実体として感覚することを願われたのです。彼らの感情世界に神様も入っていき、万物も入っていくことができる程度まで、人間が成熟することを願われたのです。
アダムとエバがもし、そういう立場に入った夫婦として神様と心情的に和合し、全宇宙と心情的に和合しながら、神様から「お前たちを造ることによって、すべての願いと目的が完結した」というみ言を聞くことができたとすれば、今日この天地はこういう姿にならなかったのです。私たちが神秘的な境地、修道の道を探し求めて入っていけば、そのような感情がしみ込むことを感じることができます。
毎日呼吸する空気の中にも、打つ脈拍にも、天宙の感情があふれ出るのを感じながら、自らの手を見ても笑うことができ、無限な感情を感じることができる人は、素晴らしい人です。このように、素晴らしい人にならなければなりません。
もしアダムとエバが堕落せず、そのような境地に行ったとするなら、万物と天と共にどれほど美しく暮らしたでしょうか。アダムとエバが堕落する時に、そんな事実を知っていたでしょうか。知りませんでした。ですから、彼らの子孫として生まれた私たちも、それを分かるすべがないというのです。ですから神様が、「祈祷しなさい、修道の道を行きなさい、すべてを否定して出ていきなさい、出ていって上がってきなさい」と言われるのです。どこまで上がらなければならないのでしょうか。アダムとエバが堕落する以前の地点までです。これが、神様が人間世界に要求する道の標準です。
皆さんは、本然の世界と、本然の人間と、心情を慕わなければなりません。では、皆さんの心がそうですか。「神様!」と呼ぶ瞬間、神様と和して愛することができ、説明を聞かなくても、その存在価値を一〇〇パーセント認め得る世界が心情の世界であり、愛の世界です。説明を必要とする世界は理知の世界です。今日この世界は新しい理知を論じ、哲学を立てて出てきますが、心情をもった人間は絶対に支配できません。
最後には、ある理知で解明できる心情ではなく、ある理知で解明できない無限な愛の心情世界、そのような絶対的なものを探し求めなければなりません。ある論理で解明できるものならば、人間も創造できます。私たちは神様を解明できません。神様の愛も解明できません。しかし、神様は生きていらっしゃるのです。
皆さんが、皆さんの生命を解明できますか。皆さんの良心を解明できますか。天的な無限な宇宙の感情と和することのできる境地に入ったとするなら、そのような人間になったとすれば、今日人間はこのように生きはしなかったのです。今日のような二十世紀の文明の科学世界は、とうの昔にすべて
成されたというのです。何千年前に既にすべて成されたというのです。現在二十世紀の文明は、四百年かかって成し遂げた文明です。文芸復興以後の文明なのです。
今日私たちは、嘆きあえいで、死ぬとか生きるとか大騒ぎです。そうして、結局人間の進む道は修道の道です。世の中に信じるものがなく、頼るものがなくて行く道が、修道の道です。修道の道を行く人々は、ある意味で人生行路の落伍者です。社会生活で落伍して捨てられた群れです。けれども、捨てられた群れによって歴史は、今まで収拾されてきました。現代文明もまた、排斥された群れによって発展してきたのです。
◆神様の息子、娘の資格基準
これは、なぜそうなのでしょうか。ここには、ある理由が内在しているのです。皆さん、自分の価値を知って自分を中心とした家庭と、社会と、国家、世界、天宙の価値を知る人がいるならば、神様を「お父様」と言えないでしょうか。
しかし、現在のような立場に立つ神様を「お父様」と言えません。父母が、愛する息子、娘にあげるハンカチを作るとしたなら、どのように作りますか。心情のこもった愛する心で、真心を込めて作るでしょう。
こうして作られた、自らの愛に代わり、自らの心情に代わったハンカチが愛する息子、娘の手に渡されるとき、「私の愛と心情も渡されるだろう」という思いで、真心を込めて作ってあげたにもかかわらず、その息子、娘が、大したことがないように受け取ったとしましょう。その時、父母の心はどうでしょうか。
天地万物を造られた神様も同じです。父母が、愛する子女に作ってあげたハンカチ程度の問題ではありません。永遠不滅の価値をもった実存体として、その時だけではなく、子孫万代にまで永遠に「神様の心情の絆」と言える存在物として、この万物を造られました。
それで、神様は花を見て何の要素からできているのかといって、成分を分析する人より、花を見て笑って楽しむ人を、より貴く御覧になります。科学は分析することですが、芸術は何かについて見て感じた感情を表現することです。ですから、芸術は科学より先んじるのです。
皆さんが山や野原に行って一握りの草を見たとき、「あ、これは何の草だが、何の種から芽生えて、何の元素が符合してこのようになった」と言うのと、「やあ、美しいな」と感嘆して心情に対するのとどちらが貴いでしょうか。心情をもって対するときは、一対一で対するのではありません。全体に対することになります。分析的に対することと比べることはできないのです。
それで、神様の愛と共に生きる人が神様の息子であり、娘です。天を主管することができ、地を主管することができる全天宙の主人公です。このように、驚くべきものが人間です。もし、そのような息子、娘がいれば、神様が、そのように立派になったと呪うでしょうか。それ以上に喜ばれるものはないでしょう。
もし、皆さんの手で作ったものが皆さんに対して、「お父様」あるいは「御主人様」と呼び、笑って、うれしがって、喜ぶならば、皆さんはそれを見て「やあー、こいつ! 罰当たりめ」と言うでしょうか。そうではないでしょう。それ以上に良いものはないでしょう。
こういう立場に置かれた人間なので、万物の霊長です。では、人間が万物の霊長に決定され得る本質的な内容とは何でしょうか。愛です。人間は、この愛の感情と無限世界まで因縁をもつことのできる中心位置にあるために、万物の霊長になり得るというのです。
◆侍る生活の必要性
神様の愛と共に生きるといったので、これから皆さんの生活目標はどのようにすべきでしょうか。愛の心情をもって侍る生活をしなければなりません。そのような心でハンカチ一枚に対して敬礼しても、それは偶像崇拝ではありません。愛の心情をもって頭を下げるのに、何を支配できるのでしょうか。自らの栄光を超越して、心情で敬拝すれば、サタンが一層「そうするな」と言うでしょう。天宙の心情に通じて行く所には、偶像がないのです。
仏教徒を、石で作った仏様を供養すると非難しますが、天の前に心情のみ通じれば、天も打つことができないのです。そのような立場に立てば、仏教を信じる人も天国に行きます。どんなに「偶像崇拝をした」と言っても天国に行くというのです。逆に、天上の法度を慕う徹した心がなければ、地獄へ行くのです。
今日私たちが、五官を通して見聞きし対する一切は、神様の愛に根拠をおいていることを知らなければなりません。そのような心情世界に入れば、時計一つを見て「神様!」と言っても罪になりま
せん。
皆さんは祈祷をするために山中に入って早朝祈祷をし、徹夜祈祷をすることよりも、一握りの草を見ても、それを造られたお父様のみ手、造るとき喜ばれたお父様の心情、それが恋しくて涙する人にならなければなりません。そのような人がいるとすれば、彼は天宙の大いなる主宰であられる神様の息子、娘に間違いありません。神様の前に満点を受けることができる資格者でしょう。
皆さん、神様が天地万物を造られるとき、どのような心情で造られたのか考えてみましたか。岩を見て「岩よ、お前は神様の心情といかなる内的な因縁をもってこの天地に生まれたのか」と言ってみましたか。「神様の心情を万物を通して知るようにするために、神様は天地万物を創造なさったのに、お前を見てもこのように無感覚なので、こういう私を呪いなさい」と言わなければならないのです。
ところが、人々は感覚が鋭敏な人を見て「理想主義だ」とか、「気が変だ」とかと言います。六感をもって感じる人を見て、「狂った」と言います。狂っても、目的のために狂えばいいのです。皆さん、踊ることは狂うことではないですか。踊るのを見るのは「良い」と言います。狂うことなら、それ以上狂うことがどこにありますか。しかし、喜べる環境を中心として狂うなら、良いというのです。「おかしい」と非難を受けて追われてもいいというのです。神様の愛を歌うことができ、神様の愛を現すことができるなら、どうあってもいいというのです。
これから皆さんは、私たちが失った本然の基準を取り戻し、新しい理念の天国に入って生きようとするなら、どのような人になるべきなのかということを知りました。
造られたあらゆる万物は、神様と愛の因縁を結んでいるということを知って、それをお父様の影のように感じられなければなりません。あらゆる万物は、お父様の心情の影のようなものです。お父様がもっている精力をすべて傾けて造ってくださり、お父様のみ手を経て造られたものであるので、父の代身者のように、貴く価値あるように思って愛してくれることを万物は願っています。ところが、堕落以後今日まで、誰もそのように対してくれなかったのです。ですから、嘆かずにいられますか。ですから、聖書に万物が嘆くと書かれています。
これから、私たちは知らなければなりません。神様の愛が宿っている自然を眺めて、「世の中の王、あるいはどんな有名な人がもっている立派な物と比べられようか。骨董品と比べようもない。どんな有名な夫人が着ている豪華な服と比べられようか」という心をもたなければなりません。そうできなければ、私たちは自然世界の前に自分も知らない罪を犯していることになるのです。
一つの生命体を見る時、「人間が作ったいかなる物と比べられようか。どんなに立派な人だといっても、神様より立派でしょうか」と言って、神様の心情を傾けて造られた万物をつかんで、何よりも貴く思う者がいるならば、これは間違いなく天の息子、娘であるのです。こういう人には、祈祷が必要ありません。神様と共に生きる人です。天が人間を、そういう立場まで追い立てるのです。
◆体 恤する立場
人間は、自分が愛する人のものは、何でも好んでかわいがります。それなのに、最も愛すべき神様が造られた万物を、かわいがるすべを知りません。こういう人々が、神様の息子、娘になることができますか。
嘆く万物の恨を解怨してあげるべき責任を負った皆さんは、木の一株、一握りの草にも、六千年前それらを造る時の神様の心情と、創造のみ手を体恤しなければなりません。
ですから皆さんは、道を歩いていて一握りの草を見ても、涙を流すことができなければなりません。木の一株をつかんでも泣くことができなければなりません。「主人を失ったので、どれほど寂しいでしょうか」と言いながらです。一度そうしてみてください。先生は、岩をつかんでも泣き、風が吹くのを見ても泣いてみました。
なぜそうすべきなのか、今はみ言を聞いたから理解できるでしょう。「神様が造られた価値ある万物が、神様と永遠な因縁を結ばれた貴い万物が、今日、いかなる王宮での国宝や宝物のように貴く思う物ぐらいの取り扱いも受けることができない悲しさを、私は分かってあげなければ。私だけは察してあげなければ」と言ってきました。「この地に生きる人類がすべて分かってくれなくても、私は分かってあげよう」という心を皆さんがもったなら、この民族は、今後世界を支配できる新しい民族になるでしょう。これは観念ではなく、事実です。
どこの誰が万物を置いて、代々に伝わる自分の家門の宝物より、世の中で最も貴い宝石というダイヤモンドより、貴く思ってつかんで離さないようにしますか。そのような人が、どこにいますか。神様は、神様が造られたものを心情的に察して、それをつかんで涙を流す人を見て「うんうん」と言われます。霊妙な境地に入っていけばいくほど、そのような感情が豊富になるのです。物事の深い道理に通じるということは、そんな立場でなされるのです。心情を通じて見れば、すべては一つです。
これから皆さんは、神様の息子、娘となると同時に、神様が喜び得る主人公にならなければなりません。男性でも、女性でも、家庭に入ってからは、その家庭を動かすことのできる主人にならなければなりません。また、その家庭は、社会を動かすことのできる主人にならなければならず、その社会は、国家を動かすことのできる主人にならなければならず、その国家は、世界を動かすことのできる主人にならなければなりません。
先生は、天のお父様のみ手を経て造られた純粋なこの一握りの草を、何よりも価値あるように感じることができる世界になることを願っています。いかなる香りよりも、空気の味がもっといいというのです。人が空気の味を知って、日の光の味を知り、水の味を知っていれば病気になることはありません。こういう心情で生きれば、誰でも健康体になるはずです。
万物は神様の心情からわき出たものであり、心情と共に永遠の存在の価値をたたえることができるように造られたものです。ですから、御飯一さじを食べるときも、「ありがとうございます。おそれ多いことです。堕落の子孫の前でこれは何事ですか」と言ってみてください。「何がおいしい、何がまずい。服もいいのを着れた、着れなかった。何が良い、悪い。地位が高い、低い」などと言ってはなりません。
◆神様の同伴者になる道
天の心情圏内に入っている人は、「下さい」と言われれば無限に与えることができ、遊ぼうとするなら無限に遊んであげることができ、「行こう」と言えば無限に行ってあげられる人です。怨讐が左のほおを殴れば右のほおを出し、「上着をくれと言うなら、下着まで与えなさい」と言われたイエス様のみ言は、そのような見地で理解すべきなのです。皆さんのような立場で言った話ではありません。「失ったようだけれど私は金持ちだ、ないようだが私は金持ちだ」という宇宙観的な心情を皆さんがもたなければなりません。
こういうことを知ったから、これから天的な理念世界を成し遂げるために努力しなければなりません。そして、各自の生活環境で天と因縁を結ぶべき立場にある私たちの生活目標は、「神様の愛と共に生きよう、神様の心情に伴って生きる者になろう」というものでなければなりません。皆さんがこういう生活真理を知っていれば、最高の詩人になります。それで人々は、複雑な都市生活よりも、海辺や山に行くことを好むのです。ですから、人間はいい景色を訪ねて、そこを懐かしがるのです。
もし、そのような男性と女性が神様の祝福を受けて結婚をすれば、どんな息子、娘が生まれてきますか。そのような心情の息子、娘が生まれてくるというのです。
神様は、私たちの先祖アダムとエバを造られて何を願われたのでしょうか。彼らがお互いを思慕して心情的な因縁を結んで万物を代表したアダムとエバ、神様を代表したアダムとエバ、天上天下の代わりをしたアダムとエバとして、成長することを願われました。アダムとエバが宇宙全体以上の価値を完成した姿で喜んで神様の前に立てば、神様は彼らを祝福して結婚させようとなさいました。
ところが、そうできなかったので、今日までも修道の道を行く人は独身生活をしなければならなかったのです。天理の原則を立てることができないがゆえに、修道の世界は一人で行かなければなりませんでした。今日まで相対的な関係は怨讐でした。イエス様も家庭を成すことができず、「私は新郎であり、あなたは新婦である」というみ言のみを残していかれました。
今や新婦になって、神様を身代わりしていらっしゃるイエス様を新郎に迎えるべき皆さんは、新婦がもつべき内的な心情的価値をどのように備え、どこから心情の問題を収拾するのでしょうか。祈祷だけすればいいですか。いけません。生活から神様の苦労された痕跡をたどって訪ねていく、神様の心情の同伴者にならなければなりません。
そのようになろうとする人がいるなら、神様は、今まであった歴史的な苦痛に遭うように一度強く打ちます。全世界にいるサタンが、押し寄せる立場に出すというのです。しかし、そのサタンに対して、「お前が、創造の目的を身代わりできる心情の因縁を立てた私を支配するのか」と対抗できれば、サタンは退きます。
イエス様は天国に行かれても、サタンと闘っていらっしゃいます。そして、「再び来るためにサタンと闘わなければならない」と言われました。なぜそうであるのか知っていますか。地上で、万物と人間を一つの懐で愛し得る基準を立てることができずに逝かれたためです。それで、サタンが侵犯できたのです。
ですから、今後新しい時代の人々は、農作業をしても、一握りの草を自分の妻や息子、娘のように貴く思わなければなりません。そうなれば、天地は生命の要素で充満するようになり、心情が向かう所に生命が従うようになり、愛が動く所には自然に生命が伸びていくようになるのです。
そのように農作業をする人がいるならば、肥料を与えないでも農作業がうまくいく時が来るでしょう。くわで掘られた土くれから手に握れる穀物の一つの葉を見てまでも、涙ぐみ、友人のように接してかわいがり、大きくなりなさいという心で農作業する人がいますか。今後、新しい国、新しい時代の人々は、そのようにならなければなりません。
そのようになれば、天宙にあるすべて生命の動きが旺盛になるために、そこには人間の力で造られた物は必要がなくなります。そのような時が来るでしょう。皆さん、野牧(韓国京畿道)にある一人の食口がいます。彼は草取りをするたびに賛美歌を歌うのですが、三度の草取りのうち、一度しか草取りをしません。ところが、秋に行ってみると、草がうず高くあるのに、他の人が三度草取りした以上の収穫があるそうです。その地方では、とても興味ある話の種です。一つの国に衰運が寄ってくれば、その国の万物から衰運が入ってきます。一軒の家に衰運が来るか、来ないかということは、その家の息子、娘を見れば分かります。心情が幼く、その心情の度合いがだんだん少なくなる家は、いくらも続きません。何代も続かないだろうという感じがします。
◆私たちが探し求めるべき心情
では、今後恵みを受けられる民族は、どのような民族でしょうか。心情の因縁を、生活の感情とする民族です。その民族は世界を支配するでしょう。先生は、これ一つ見て願いをかけます。大宇宙の理念と関係を結んで涙する日には、この民族は、世界を支配する民族になるでしょう。理致がそうだというのです。ですから皆さん、これからはよく知らなければなりません。一握りの草でも心情的に対し、友人とみなすことができる雅量がなければなりません。
今日この地上に生きている人々が、たとえ罪悪の子孫でも、昔堕落する前、本然の神様のみ手を通して造られた当時は、神様の心情を身代わりできる息子、娘でした。ところが、堕落によりこういう姿になったので、いまいましく恨めしいのです。こういう心情をつかんで泣く人は、必ず歴史的な人物になるでしょう。イエス様も、そのような心情をもっていらっしゃいました。その当代は追い込まれ、追われて殺されたとしても、世界に残るのは心情の基台なのですから、そのような人々は必ず歴史的な人物になったのです。
こういうことを考えるとき、私たちは万物が哀れで、万民が哀れで、天が哀れだということを感じなければなりません。「万物よ! 六千年の長い長い年月の間、主人を失ってどれほど悲しんだことか。人間よ! 本然の生のための安息の基台を失って、どれほど悲しんだことか。天よ! 心情の因縁を中心として万物を主管するように造られた息子、娘を失ってどれほど悲しまれたか。哀れな天よ! 哀れな万物よ! 哀れな万民よ!」という心情で訴えるようになるとき、サタンは退くようになります。
イエス様がいかなる心情でサタンを屈服させたのか、御存じですか。神様は哀れで、万民も哀れで、万物も哀れだという心情です。「息子、娘を失った神様がどれほど哀れであられたか、主人を失った万物がどれほど哀れだろうか!」という爆発する心情があったから、サタンが退いたのです。サタンは、何か話を聞いて退くのではありません。
イエス様は三番目の試験で、「ひれ伏して私を拝みなさい」と言うサタンに対して、「主なるあなたの神を拝しなさい」と言われました。これがどういう意味か分かりますか。これは言葉ではなく、心情です。「お前は天倫の心情を裏切った裏切り者だ。しかし、私はこういう心情基準に立って神様に敬礼する。心情をすべて尽くして捧げるこの敬礼を受けられる方は、神様一人だけである。お前もそうではないか」という意味です。そのような心情の前には、サタン世界が崩れるのです。それを知らないために、このようになったのです。
私たちは探し求めなければなりません。歩みを変えて、この大宇宙圏内に隠されている愛の心情を探し求めなければなりません。この心情が落ち着く日には、万物も安息するのであり、天も安息するでしょう。そういう心情をどこから探し求めますか。皆さんの日常生活から探し求めなければならないのです。
◆天国を訪ねていく道
皆さん、いい所に見物に行ってきた人が、死にそうな顔をして家に帰ってきますか。にこにこ笑って帰ってくるでしょう。皆さんがそのような心情をもって生活するなら、どんなに疲れることをするにしても疲れないでしょう。「歴史的に多くの人々は、このようなことをもって悲しんだが、よし、私はこのようなことをどれほど慕ったか」と言いながら、仕事をすれば一つも嫌気がしません。ですから、「音楽家は音楽的に生きて芸術的に死ぬ」という言葉もあるではないですか。人間はそのようになっているというのです。
今日ここに集まった皆さんは、神様の愛と共に、神様の心情と共に生きる人にならなければなりません。皆さん、私はこうです。粗末な服を着ても、立派な人々が集まった所によく行きます。服が問題ではありません。食べて、着て、生きることが問題ではありません。外的な形はどんなによく整えたとしても、中が腐った者は、対等な取り扱いを受けることができません。ですからイエス様は、「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ」(マタイ二三・一三)と言って、叱責したのです。
天の心情を動かすことのできる内容を備えた人は、どこへ行っても、水辺に行っても、山に行っても何ら問題がありません。どこに行こうが友達がいます。私はそのような生活を少ししてみましたが、冷たい岩の上に横になって眠ることになったとしても、「よし」と言わなければなりません。
「労働に行ってかますを担いだ」と言って、「昔はどうだったのに、きょうはこのようになった」と言って気落ちをしてはなりません。「このような私の心情は誰も奪えない」という心情をもたなければなりません。そのような人にならなければならないのです。そのような人は地上の悪という要素、悲しいという要素、いかなるサタンの要素をもっても触ることができません。そんな人は、間違いなく天国の民になります。
今日、私たちはそのような心情を探し求めて、さまよう開拓の先鋒者にならなければなりません。ところが、今私たちが生きている世界は、どのような世界ですか。堕落した世界です。それで反対の歴史が起こります。堕落圏内にある限り、私たちは、この心情を中心としていかなる困難が近づいても、それを越えて勝利したという基準を立てなければならないのです。
そのような者でこそ、民族の前に立つことができ、世界の前に立つことができ、また天宙の前に立つことができるのです。これが鉄則です。そういう基準を超えるまでは駄目です。赤く紅を塗り、てかてかさせて歩き回ってもいけません。いい物を食べて、美しいものを着てもいけません。
自分は食べられなくても、食べたい人を探し求めたい心、自分は着れないながらも着れない人をかわいそうに思う心、自分は家がないながらも高楼巨閣に住む人を見て涙を流し得る心をもってこそ、勝利したという基準を超えることができます。
天国に行こうとする人々よ!
地獄を征服したのちに、天国に行けるということを知りなさい! 原則がそうです。地獄に行く道は世俗的な満足を訪ねる道であり、天国に行く道は世の中が好まない所を訪ねる道です。簡単です。地獄行きを願うならば、この世の幸福な立場を訪ねてください。天国行きを願うなら、この世の不幸な立場を探し求めてください。
心情の因縁を通した救いの道
今日私たちは、堕落した世界に生きていることをもう一度はっきり感じなければなりません。「神様、私がなぜ堕落したアダムとエバの息子、娘に生まれましたか。どうして私が堕落の子孫として生まれましたか。もし、神様が私を人間の先祖として造られたとしたなら、私はアダムのように堕落しなかったでしょうし、エバのように堕落しなかったでしょう。ですから、神様、堕落する前のアダムとエバの心情を私に許すことができないでしょうか。アダムとエバに、希望の心情で願われた内容があるというなら、その心情の内容を私に現してくださることができないでしょうか」という祈祷をしなければなりません。地上で、堕落の子孫の中から、このような祈祷をする人が出なければなりません。聖書にもそのまま下さるとは言っていません。門をたたけば開けてもらえ、求めれば与えられるであろうと言いました。イエス様はそのような祈祷をされたのです。
イエス様は来られて、まず地を主管する万王の王になろうとされたのではありません。悲しい者の王になろうとされ、泣く者の王になって苦痛を受けて死んでいく者の王になろうとなさり、地上でサタン世界を征服するための開拓の道に出られたのです。今日の信徒たちはイエス様を見て、神様のひとり子であり、私たちの新郎だと話しますが、それはすべて結果的な名詞です。
イエス様の新婦になろうという人々は、イエス様の心情を見習わなければなりません。イエス様は心情の勝利者になられた方であり、心情をもって悲しい者の王になるために泣かれた方であり、苦痛を受ける者の王になるために苦痛を受けられた方でした。イエス様は心情をもって死ぬ者の王になるために亡くなったがゆえに、彼を信じれば救いを得るというのです。しかし、心情的な因縁を結ばなければ、救いと何ら関係がありません。天地の理致がそのようになっています。
この大宇宙に心情世界を再び立てようというのが救援歴史なのですから、その救援歴史の路程で、私たちは一片丹心、私がある程度その材料になることができるかどうかということのみ考えなければならないのです。
この万物を材料として、人類を材料として、霊界の億千万の聖徒を材料とすべきなのに、私が動けば万物がある程度動いて、人類がある程度動いて、天上の億千万の聖徒がある程度まで動いて、私が地上で叫ぶことが、この宇宙にどの範囲まで心情の反応を呼び起こすかによって、天上で私の価値が決定されるのです。イエス様が死ぬ瞬間の悲しみは、天に反映されて全宇宙に反映されました。ゆえにイエス様は、心情の救い主なのです。
こういう境地で皆さんは万物に対し、「面目がないな。本然の人間の先祖と共に神様の心情を歌いながら、永遠にその懐に抱かれて生きるのをどれほど待ち焦がれたか。待ち焦がれた一次的な願いは壊れてしまい、恨めしい堕落の子孫を迎えて、今まで嘆息圏内で再び第二の人間の先祖を迎えるための歴史路程を経てくるのに、どれほど苦労したか」という心をもたなければなりません。
喜びの世界にあるべきなのが、人間によって悲しい世界、嘆息圏内にあるようになった万物を眺めて、その中に無窮無尽な悲しみが内在しているということを感じる者でこそ、神様の心情の同伴者になることができます。どうしてでしょうか。神様がそうだからです。
人に誇ることが何かありますか。ありません。したがって、イエス様は高慢になるな、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二三・三九)、「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(同一六・二四)と言われました。どうしてこのような話をされたのでしょうか。今までのあらゆる曲折を、一度に蕩減しなければならないためです。そのために逆説的な話をされたのです。
◆神様を慰労してあげることのできる息子、娘
「救い」という言葉は悲しい名詞です。私にとって「救い主」という言葉は、どのような意味をもっていますか。救い主がいなかった、エデンの園のアダムとエバはどこへ行ったのですか。本然のアダムとエバも救い主が必要だったのですか。イエス様に救い主が必要だったかというのです。堕落したがゆえに救い主が必要になったのです。堕落しなかったなら、祈祷とか、宗教とか、道徳であるとか、修養であるとか、何の世界観であるとかいうのは、みな必要ありませんでした。堕落しなかったなら、アダム主義が世界主義であり、神主義なのです。
堕落してすべて壊したのを繕って、また繕って、天の前面に押し出そうというのが復帰路程です。それでもずうずうしく「私はこれくらいしたらよいだろう」と威張る人は、犯罪者の中の犯罪者です。天の前に裏切り者として許されない立場にありながらも、自慢をして回るのですか。心情の世界に入っていけば入っていくほど、何も言えないほど息が詰まります。涙しか出てくるものがありません。
愛する夫が死ねば、その夫人は果てしなく泣くでしょう。泣くその瞬間は、昔、幼い時のことから、すべてのことが思い出されるのです。愛の感情を通してこみ上げてくる悲しさは、幼い時にお母さんにののしられたことまで思い出します。したがって、夫や愛する人が死んでたくさん泣いたことがある女性が、まず悔い改めの立場で出ていくのです。夫を失い、愛した人を失って号泣するその場は、天の側に近い立場です。
そのように、神様も愛する息子、娘を失ってから、堕落した人間をつかんで六千年間号泣してこられたということを知らなければなりません。「お前たちは堕落したが、私は栄光を受ける」という神様ではありません。そのような神様なら私たちと関係がありません。私が知っている神様は、そのような神様ではありません。一人しかない息子、一人しかない娘を失って六千年間さまよって訪ねてこられた歩みが、今までの神様の救いの摂理歴史です。
この息子、娘を探すまでは、天地に万物がぎっしりといっぱいになったとしても、神様は誇ることができません。なぜでしょうか。万物は息子、娘のために造ったものだからです。したがって、私たち人間は、神様が私たちのために造ってくださった万物を収拾しなければならないし、私たちと共に生きるべき世界人類を引っ張っていかなければならないし、私たちを指導される天に侍らなければなりません。
皆さんがこういう神様であることを知っていれば、涙を流さざるを得ないのです。アダムとエバが堕落する瞬間に、胸を痛められた神様の心情を考えれば、何十年号泣しても終わらないでしょう。皆さんは祈祷するとき、そのようなことを感じなければなりません。
お父様の心情はこうだったのに、アダムとエバがその心情を分からずに堕落する時、心を痛められたその心情を感じなければなりません。彼らを救うために千六百年ぶりにノアを立てて百二十年間苦労するようにされましたが、彼の息子ハムが堕落した立場に立つのを眺めなければならなかった、その神様の心情を感じなければならないのです。
アダムからノア、アブラハム、モーセ、イエス様の時代を経て、今までのお父様の心情を知り、体恤する立場に入っていけば、皆さんは自分がつまらない者であることを感じるでしょう。自分の存在の価値を度外視せざるを得ないのです。これから「私は百回死んでも当然で、千回滅びても当然です」という心をもたなければなりません。そうすれば天は「あなたに代わって滅びる立場に入ってあげ、死ぬ立場に入ってあげよう」と言うのです。皆さんは、こういうお父様に似なければなりません。
イエス様はそのような立場で「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言われたのです。そのような場はお父様と息子が体面を考えず、すがって涙する場です。訪ねてこられたお父様と探し求めていった息子が対面して、お互いを心配しながら抱き合って泣く場です。
皆さん、神様と近い立場とはどのような立場なのか知っていますか。悔い改めの立場です。しかし知ってみると、「何の罪を犯したので許してください」と言う必要がないのです。お父様の心情を知らなかったことを悔い改めれば、すべて許されます。
息子が両親のお金をみな使って放蕩することより大きな罪は、自分を愛するお父様の心情を傷つけることです。それ以上大きな罪がないのです。それゆえ、「お父様、これしきのことがあってもなく、なくてもあるものでしょう。しかし、お父様の心情を傷つけたこの罪がどうして許されるでしょうか」と涙する息子がいるならば、お父様は「よし、よし」と言って許してくれるというのです。堕落した父母がそうであるように、神様もそうされます。
人々は教会に行って、「私が何の罪を犯したので、悔い改めますから許してください」と祈祷します。しかし、そのようなことよりも「天倫の原則を破壊し、天と人間の因縁を蹂躙し、人間と万物の因縁を破壊した心情問題で犯した罪を受け入れてください」と祈祷しなければなりません。そのように悔い改めることによって受け入れられ、勝利してお父様に認められるとするなら、万事解決されることでしょう。天は、そのような悔い改めをする人を訪ねてこられます。
◆心情の世界を求めるべき私たち
心情に通じた人は、世の中のあらゆる物が自分のものになるのです。それでお父様の心情に通じた人は、世の中のいかなる物を持ってきて、持っていってもお父様には罪になりません。天国世界では隣の家に行って、何も言わずに食べたい物をちょっと食べたとしても、それが罪になりません。なぜなら、心情的に連結されているからです。
心情を蹂躙した罪以上に大きな罪がないということを知らなければなりません。これから私たちは神様の愛の心情を推し量りながら、私たちは神様の心情を蹂躙した罪人であり、万物の心情を拒否した罪人であり、心情の世界を成し遂げることができなくした妨害者であったことを知らなければなりません。このようなことを皆さんが知り、心掛け、悔い改める人になるようお願いします。
これから皆さんは、悲しみの立場を抜け出し、「神様、これからは悲しむのをやめ、泣くのをやめてください」と言うことができなければなりません。悲しい立場にいらっしゃった神様を、喜びの立場に変えなければなりません。そういう立場でお互いに笑い、喜んで生きる所が地上天国であり、そのような息子、娘が生きる所が私たちの故郷であり、堕落しないアダムとエバが生きた本然の世界です。
そのような世界に入っていこうとするなら、天宙の理念と心情の因縁を探し求めなければならず、神様の創造理想の心情と、堕落直後の心情と、復帰の心情と、願いの心情を知って、神様と共に生きるために努力しなければなりません。
その神様の心情と共に闘って、その心情と共に悔い改めて、その心情と共に死ぬ者がいるというなら、彼は死んでも生きた者であり、失っても得た人です。のちには、この世界全部が神様の懐に抱かれて、神様のものになるということを皆さんが認めてくださるようお願いします。
14. すべての存在の目的意識と一つの世界
一九六〇年六月十九日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第九巻』
きょう考えようとするみ言の題目は、「すべての存在の目的意識と一つの世界」です。
◆末世に置かれた人間が願うもの
私たち個々人は、多くの存在物の中の一つとして存在しています。ところで、私たちがこのように存在するようになったのは、ある動機があるからです。その動機は、どのような面から見ようが、自分以上の絶対的なもので、力の源泉でなければならないことを否定できないはずです。
小さな一握りの草にも、その背後にはそれ以上の力があり、生物体として存在させる絶対的な源泉があるというのです。さらには私たち人間、すなわち自分一個体を見ても、生理的な現象があり、感情と心情の作用があります。
このようなことを見るとき、そういう現象を存在させる作用を起こして心情を誘発させる動機は、必ず私たちの背後にあると推論できます。
万物の霊長である人間は、自らの存在価値も知らずに、自分をただ高く評価しようとだけします。いくら地上に知識をたくさん備えた人があるとしても、外的なことだけでは生命以上の価値を論ずることはできないのです。いくら政治、経済、文化、宗教、または他のいかなる面においても最高だと天下に誇ることができる存在だとしても、「母体から生まれながらに受けた生命以上の何かをもった」とは言えないのです。
このような見地から見るとき、今日この世界が、果たして真実の世界であり、理想世界かという問題が台頭します。人間は、何よりも貴い生命をもっています。しかし私たちは、この生命を動かし、この生命に衝撃を与える力の対象体として生きない限り、その力の相対的世界であるこの世界で安息することはできません。
それゆえ人間は、私の生命以上の絶対的な生命体と因縁を結ぼうとするのです。これは必然的なことです。それで、このようなみ旨を立てておいて摂理してくる方に、「絶対者」とか「神様」とかという名前を付与せざるを得ないのです。
歴史的な終末時代のこの時を生きていく人は、知識が多ければ多いほど悩みが大きいのです。その悩みが自分の生命力を支配し、生命が安息できる福地を開拓できなくすることも、またよく知っています。このような時において、私たちに必然的に要求されるのは、絶対者による生命の安息所です。これは、民族を超え、東西の文化を超えて、すべての人が必要としているものです。
このような境地で、私たちは絶対者と因縁を結ぶことのできる何かを懐かしがっているという事実が分かります。多くの知識を備えて人格修養をした人であればあるほど、意識を通して認識する感覚が鋭敏な人であればあるほど、自分が知っている専門分野だけでは生命の安息所を開拓することができないことをよく知っています。
ですから、誇るものが何もない人間であるということを知らなければなりません。悩みで出発して悩みで終結するようになった人生路程なので、誇るものが何もないのです。それゆえ、このような問題を解決してくれる人が現れなければ、この世界は滅びることでしょう。これを解決することができるある主義が地上に出てこない限り、人類は後退も前進もできない絶望状態に置かれるようになるという事実を、私たちは切実に感じなければならないのです。
人間はこのような事実を知りませんでしたが、昔から今日まで人間を通じて一つの生命の門を全天地間に開放するために苦労してこられた方がいらっしゃいます。その方が正に絶対者であられる神様なのです。また、このような神様の実存を認め、その解決方法を探してくるのが正に宗教なのです。
ところが、今までの宗教は観念的なものにしがみついてさまよってきました。ですから、この観念的な宗教の形態をどのように生命的な宗教の形態に転換させるべきかということが問題になります。宗教指導者たちは、この問題に対して最大の情熱を傾けるべきでしょう。この問題は、天上に絶対者がいるならば、その方から直接解答を得るべき重大な問題なのです。
◆目的意識によって造られたすべての存在物
創造主がいらっしゃり、その方によって造られた被造物ならば、その被造物には必ずある目的を達成しようとする目的意識や目的性があるのです。一つの微生物もそれを作った主人公がいるというなら、その微生物にも必ず主人公から与えられた目的意識ないし目的性があるのです。それ自体がもっている目的意識や目的性よりも、それを作られた絶対者が賦与してくれた目的意識や目的性が先に存在しているというのです。
それゆえ、すべての存在物は絶対者のある目的意識により造られたということを、私たちは否定できないのです。それで人は、学んだことが多く、見識が広くなればなるほど目的意識がより強くなるのです。もっている権限が大きくなればなるほど、目的意識も大きくなるのです。ある主権者がいるとき、彼がその主権を中心として目的とするところの価値を大きく感じれば感じるほど、より新しくて広い範囲のことを成し遂げたくなるのです。それゆえ私たち人間は、個人から家庭を超えて、社会、国家、世界に至るまで、皆がこういう問題ゆえに悩んでいます。
では、六千年という歴史路程を経ながら人間が願ってきた世界が、このような世界へ終結されるのでしょうか。そうであるなら、あまりにもむなしいのです。これを超えて、完全無欠な世界はないのだろうか、宗教を超越して東西の差を超えて、さらには天地が一つの生命体に接ぎ木をして動くことができる目的意識が実現された世界はないのだろうかと、学のある人ならば誰でも考えるはずです。
私たちが生きながら感じる感覚の一切は、私たちがある目的の世界へ向かっていくように追い立てているのです。その目的の世界を自分がすべて知ることはできませんが、五官を通じて感じられる感覚は、より大きい目的の世界へ向かって進むように自分を追い立てているということが分かります。
では、神様は何を基準に私たちを追い立てるのでしょうか。人間は、理念と意識を通して認識された観念を立てて生活しています。ここで神様は、全体の目的意識から感じて入る感覚と生命を基盤に追い立てるのです。
では、意識とは何でしょうか。意識とは易しく言えば、実際に私たちが体験できる一切の経験や現象です。心理学者たちは、「意識には経験が内包されていて、表象が内包されていて、感情が内包されている」と言います。これは人間の五官を通して体験されるというのです。私たちは、このような意識を通して絶対目的を追求するのです。
しかし、この絶対的な目的意識で生命を支配することはできません。哲学や心理学では、この問題を解くことはできないのです。すべての学問は、この問題に逢着しているのです。
私たち人間の体は、たとえ小さくても、この心は、時間と空間を超えて無限な世界へ伸びていきます。ところで、この心が生活の中で世界的なある目的意識とつながるべきであって、そうでなければ脱線してしまいます。悪の穴に落ち込んでいき、絶望状態に陥ってしまうことでしょう。
人間には環境を収拾できる良心があります。また、その良心を収拾してくれる倫理と道徳があります。この倫理と道徳がより高い理念とつながり、人間はその理念を基盤として、より高いことを追求しているのです。にもかかわらず、今日人類は生命的な問題には手をつけられずにいます。
◆目的の世界に向かって再び進まなければならない人間
神様がいらっしゃるならば、その神様はすべての存在の目的と価値を立てておかなければならないでしょう。そうするには、一つの存在を立て、生命的基準を完結し、目的意識をもったあらゆる存在が神様の生命と関係を結んで、解放の歌を歌うことができるその日が来なければならないのです。その日が来ない限り、人類には真の解放があり得ず、真の自由の生活があり得ないのです。
それゆえ、宗教は生命を主張してきています。私たちが目的意識を分析してみれば、二種類の方向があることが分かるのです。第一は、体が食べて生きるための生活的な方向であり、第二は、それを超えて良心を基盤として動く生命的な方向です。今日、どの哲学家もこの両者の境界線を超えることができずにいます。
宗教人たちは生命的な方向に、世の中の人々は生活的な方向に重点を置いて、目的意識に向かって進んでいるのです。このように、互いに他の方向を取ってきたのが今までの現象です。
では、これをいつ糾合させるのでしょうか。神様は、道義の道を歩んでくる人、心霊がせいてあらゆる精誠を尽くして天についてくる忠誠の息子、娘を、よく食べて豊かに暮らす方向に導きませんでした。
堕落したその日から、人間が再び目的の世界に向かって前進しなければならないのを御存じである神様です。この世界を内的な意識を基盤として再び立てるためには、無限の闘争と無限の苦衷をたどらなければならないのを御存じです。それで結局は生命を基盤にした世界を立てなければならないと、人間に対する愛の心情をもたれた神様であられるので、人間によってこの世界を否定させ、この世界の進むべき道を開拓させざるを得ないのです。また、そのような方向に導かずにいられないというのです。
このような観点から、神様は人類を収拾するために宗教を立ててこられたのです。
それゆえ、宗教についていく人々は、外的な一切を否定してきたのです。「外的で環境的なあらゆる因縁と事情が絡まっているすべてを捨て、進んで心情問題まで超えて、天涯孤独の生命の目的地に向かって走っていきなさい」と忠告してきたのが、今までの宗教の足跡です。
それゆえ人間たちの目的意識は、一つの世界、一つの帰結点を探していくので、神様もそのように摂理されているに違いないのです。神様は人間をして、その目的とする実体の価値を成し遂げて天下の前に誇ることのできる一つの存在として立てようと願っていらっしゃるのです。人間の行くべき道が正にこの道なので、神様が「この道を行きなさい」と言われることが、どれほど有り難いかを私たちは知らなければならないのです。
これは漠然とした目的意識ではありません。漠然とでも周囲の環境で十字架の苦痛が加えられ、いかなる迫害があるとしても、心に感じられる意識観念を中心として精進できなければならないのです。もし、人間がこのような生命的な内容をみな備え、福地の内容を備え、生命に衝撃を与える理念をもったとするなら、それ以上願うことはないのです。その目的に向かって進んでいく人間というものを、私たちは知らなければなりません。
では、存在するあらゆる被造物が到達しなければならない帰一点とはどこですか。意識とか観念を超えて自由に感じることができる新しい世界です。絶対者がいるならば、絶対者の創造理念があるのであり、創造理念があるならば、その理念が追求する目的の世界があるのです。創造主ならば、目的とするその世界の土台となり得る価値をもたなければなりません。そういう価値を探してこられた天であるに違いないのです。したがって、皆さんもまた、食べるのもその目的ゆえに食べ、生きるのもその目的ゆえに生きなければならないのです。
その目的意識と生活的な観念が、価値的な因縁を結んで天の前に責任を果たすところにおいて、良心は私たちに衝撃を与えています。こういう位置にある人間だということを、はっきりと知らなければなりません。その目的意識は人類を動かし、天倫を動かし、歴史を収拾して、観念を変えていきながら理念的な宗族を選択し、その目的地に向かって進んでいます。
◆失った目的の世界
では、神様はどのような立場にいらっしゃるのでしょうか。神様は目的意識を通して、見て、聞いて、話して、感じられます。そして、私たちに知情意があるように、神様にも知情意があります。
では、知情意の本体であられる神様は、いかなる目的意識をもっていらっしゃるのでしょうか。創造のあとからではなく、創造の前から目的意識をもって創造されたに違いありません。もしそうでないなら、歴史を収拾することはできないでしょう。なぜなら、人間の認識では感じることのできない力が歴史の背後にあるからです。
もし神様にそのような因縁がないなら、歴史と人類すべてが目的とする世界へ導くことができないのです。それゆえ神様は、人間が堕落しましたが、堕落しない人間に賦与すべき世界的な目的意識を骨身にしみるように感じていらっしゃるのです。目的意識を超えて成される世界は自由の世界であり、無限な幸福の世界であり、平和の世界です。それだけでなく、神様は目的意識を超えて心情の世界まで考えていらっしゃるのです。
神様は人間を立てて、万物を主管しなさいと祝福してくださいました。万物だけでなく、天と地にあるあらゆる存在物を人間が主管するように造られました。ところが、このような創造目的を達成することができなかったのです。神様はアダムに、神様が意図する目的を成し遂げることができる創造理想世界の主義を教えたかったのです。しかし、それを教えることはできませんでした。
神様はすべてを知っていらっしゃいますが、地は知らずにいます。それでも今まで、この地はそのような神様を数えきれないほど裏切りました。ですから、この地は審判を受けなければならないのです。世界の文化史を少し知っているからといって自らの主義、観念を前面に押し出して、社会で賢い人として振る舞えると自慢する人であっても、彼に「神様がアダムに願われたこととは何ですか」、また「アダムを通して神様はいかなる価値を立てようとされたのでしょうか」と問えば、「知らない」と言うはずです。
人類は、原初的な目的と理念を失いました。創造理念の目的とともに、神様と人間が生きるべき一つの世界を失いました。人類は夢にもうつつにも、その世界を懐かしがらなければならないのです。それで私たちの生命は、今日も休まずその世界に向かっていこうとしますが、この生命の力が足りません。
それゆえ、善を表すために、人類の代表として来たあらゆる修道者、あるいは数多くの聖徒と聖賢が悪なる地をその世界へ引っ張っていこうとしましたが、全部死んでいきました。彼らは、神様を生命の源泉と目的意識として体 恤し、体験したがゆえに、死の峠も超えることができたのです。そうして、この人類の前に橋渡しをしてきたのです。
◆心情に通じた天地神人の一体
世界は、天地神人で構成されていますが、これらはそれぞれ違います。天と地、神と人が別々に分かれています。天地は天と地に、神人は神と人間にそれぞれ離れています。ですから、これを収拾しなければならないのです。
私たちは地を離れては生きられません。さらには、良心とより高い天倫を離れて生きることはできないのです。良心は天に代わり、体は地に代わるからです。天地を和合できる一つの価値をもった存在、絶対者がいるというなら、その絶対者と心情的な因縁を結ぶことのできる代表的存在として立てられたのが人間です。ですから、地を代表した体と、天を代表した心と、神様を代表した心情が糾合する日には、あらゆる問題が解決されることでしょう。
もし人間の体と心が、神様と人間を心情的に一体となるようにすることができるならば、世界統一だけでなく、天地統一もなされるはずです。
では、いったい神様はこの天地と人間がいかなる関係を結ぶようにするために天地万象を造られたのでしょうか。人間はこれに対する結論を下さなければなりません。もし、この問題に対して、「天地神人は一体であり、心情的に統一しなければならない」という最後の結論を下すことができる勝利の勇者がいるならば、彼の体は神様の体であり、彼の心は神様の心なのです。そのような意味で、イエス様は「私は神様と一体だ」と言われたのです。
神様は、心情を基盤としてあらゆる存在物を造ったので、神様の心情を離れた万物は一つも存在しないのです。それゆえ、イエス様は神様との心情の帰一点を探してその場を築いておくために、この地上に来て「私は神様の息子であり、ひとり子だ」と言われました。真にメシヤらしいみ言です。
歴史上に数多くの偉人、あるいは預言者が生まれては死にましたが、誰もそのような話はできませんでした。誰も、自分を「新郎」と言い、人間を「新婦」と言い、「子女である」と言うことはできなかったのです。ここに意味があるのです。
では、ある主義や思想を中心とした社会制度による家庭ではなく、神様の心情に通じ得る家庭がありますか。そのような子女がどこにいて、民がどこにいて、そのような人類がどこにいますか。また、目的意識を通して永遠なる幸福を謳歌し、命を懸けて楽しむことができる人はどこにいますか。いないというのです。ですから、救いを受けなければならないのです。私たちはそのような存在です。
神様が目的を立てて人間に生命を下さったとするなら、その生命をそのままにしておこうとされるのではありません。生命の内容をより深く掘り下げるならば、心情が出てきます。心情は生命であり愛なのです。それゆえ、生命と愛を主張するのです。
神様が今日まで願われたのは、御自身が生命の主体であり愛の主体として、御自身の目的意識のもとで、真の生命体となった人間と共に愛の理想世界を成し遂げることです。そのような世界がまだ成されていないのです。
◆目的の世界に到達するには
今までの歴史は、絶対的な生命基準の前にすべてを帰結させるためのものでした。絶対的な創造目的と目的意識を通して、神様と一つにならなければならないのです。一つになるためには、理念的に接しなければならず、ひいては生命的に接しなければなりません。生命的に接したのちに、初めて神様の愛とつながるのです。それゆえ、イエス様は「私は生命だ」と言われたのです。
イエス様は愛を残して逝きました。信仰と希望と愛、この三つは常にありますが、その中で最も大いなるものは愛だと言われました。それは、目的の世界にたどり着くには、神様の愛が必要だということなのです。
神様の愛を一度でも受けたことがあるなら、その人は神様から離れることができません。人間も、互いに愛した人は死んでも忘れられないのに、まして目的意識の世界を超えることのできる神様の愛を体恤した人が、この地の何に降服しますか。イエス様が怨 讐を祝福することができた理由がここにあります。
では、私たちの心の扉を開いて見つめてみましょう。感情と感触は目的を追求しています。自分のあらゆる動きが、その目的の世界に向かって前進しています。自分個人がそうであり、家庭、社会、世界がそうです。かといって、この世界がそのままその目的の世界へ超えていくでしょうか。そうすることはできないのです。ですから、天地開闢がなければなりません。聖書を見れば、また地上にあるいかなる宗教の経典を見ても、最後には天地開闢が結論として現れています。
◆永遠なる認識と体恤
人々は、目で見るすべてを好みます。高い玉座に座っている皇帝や乞食を問わず、人ならばみな生命的なものを好むのです。その認識の水準が高い低いによって好む程度が違うだけであって、好むそれ自体は誰でも同じです。このように、見るのも一つに帰一され、聞くのも一つに帰一されるために出てきたのが芸術と文化です。
立派な画家の絵を見るとき、その絵を通して何が見えなければなりませんか。世界が見えなければなりません。それでこそ世界的な画家になることができます。聞くことも同じです。一度聞いて飽きる音楽は名曲ではありません。腹が立ったとき、悲しいとき、苦痛を受けるとき、うれしいとき、皆が好むことができてこそ名曲です。すなわち、時間と時代を超越しなければならないのです。五官を通して入るあらゆる感覚は、人ならばみな同じです。その本質を分析して価値を決定するのは同様なのです。
神様が、五官を通してすべてを感覚するように人間を創造されたのであれば、人間が感覚を通して感じた幸福が一時的なものに終わるようになるとすれば、その神様は理想的な創造主ではありません。時間的な創造主であり、限界的な創造主となるのです。
現実的には難しいとしても、抽象的な観念で考えてみるとき、神様が創造なさった天地万物ならば、未開人や文明人を問わず、人ならば誰でも一度見ても永遠に体恤できる内容がなければなりません。
これは聞くことでも感じることでも同じです。それでこそ理想的な神様であり、「絶対者だ」と言うことができるのです。
そのような立場で考えてみるとき、人間には五官を通して入る意識と認識を超えて、直観的な良心を通して入るものがあります。カントもそのように言いました。もし、人間がその世界を捕捉してその世界の門を開け、そこで直感的な何か、霊感的な何かを体恤したならば、一度見たことは夢でも忘れないのです。ですから、今日神秘主義者たちは、自分が見た霊的な世界の一片を主張するところに、死ぬか生きるか知らずに生命を捧げていくのです。
音楽も、一度聞けばその感情が永遠でなければなりません。一度陥れば最後であるように酔わなければなりません。最高の理想主義というものは、人間をそのように酔わせるのです。時間を超越し、生活環境を超えて、世界的な感情の世界までも超えなければならないのです。これが理想主義者たちが通り過ぎなければならない路程です。
天地神人を合成した存在としてすべてを鑑定し体恤し、鑑別できるように人間を造ったとするならば、神様はすてきな創造主です。そこで道に通じるという言葉が可能です。
神様は天と人間と地を、目的意識を通して一つの世界へ集結させるのです。それを、私たちの意識や観念を支配できる生命的な内容をもってなさいます。では、この生命的な内容をどのように内的な意識観念と接触させるかということが問題ですが、ここに必要なのが愛です。
この地上で数多くの人々が愛を叫んでは逝きましたが、目的意識を超えて神様の愛を体恤した者はいません。これを体恤して、一番近い道で人間にその愛を自覚できるように衝撃を与えようとなさった方が、新郎として来られたイエス様です。天を代表したイエス様は、神様を所有した人だったのです。天地を支配なさる神様がイエス様に入られたので、イエス様は世界を支配し、世界をひっくり返すことができる実存体だったのです。
イエス様の理念、これはすなわち神様の理念であり、人間の理念です。これは、国は一つの存在から帰結されるべきだということです。それゆえ、神様は生命的な基準、すなわち愛を立てて今日まで人類に対してこられたのです。
◆失った世界を探さなければならない人間
では、今日私たちはいかなる立場にあり、どのようにしなければならないのでしょうか。私たちは目的の世界を見つめて進んでいます。それは、神様がその目的の世界へ私たち人間を追い詰めるからです。目的意識を通した生命と愛の因縁を備えた神様の息子と娘が登場するならば、目的の世界は成されるのです。
では、その次にはどのような世界が来るのでしょうか。天地と神人が一致した世界が来るはずです。すべてが神様の心情からわき出て、その心情の帰一点を通して因縁を立てていき、収拾する世界が来るのです。創造主は父であり、人間は息子と娘という父子の因縁を結ぶ世界が来るはずです。
天地が生じたたその日から、神様はそのような世界を願われましたが、人間の堕落によってそのような世界は成されなかったのです。神様とイエス様が愛の因縁を結び、イエス様と聖霊が愛の因縁を結んでサタン世界を滅ぼさなければなりませんでしたが、今日までそういう勝利的な基準が立てられなかったのです。
イエス様と聖霊がなさったのは、私たちを生かすことでした。生命を復活させることです。復活の目的を達成してこそ、愛の目的を達成することができるからです。このように見るとき、六千年前、神様はアダムとエバを造られ、そういう世界を成し遂げる日を恋しがり、待ち焦がれたのです。今日大部分の人々は、神様が人間を創造なさる時、馬に乗って回るほど成長した人として造ったと思っています。しかし、そうではありません。自然の法度により創造なさったのです。
人類の先祖、アダムとエバから生まれたカインとアべルは、神様の愛を中心として生まれた息子、娘ではありません。アダムとエバは、神様のむちに追い込まれてエデンの園から追い出された私たちの先祖です。本来、アダムとエバは神様から「愛するアダム、愛するエバ、私がお前たちを造ったのは、全宇宙の創造目的の世界、愛の園を建設するためだから、お前たちは平和の王であり、幸福の王だ」という祝福を受けなければならなかったのです。
この地上の他のいかなる存在も王にはなれません。私たちの先祖だけが王になるべきだったのです。アダムが千秋万代、永遠無窮に地上の王であり、天上の王として立つことができたのです。天地が生まれた以後に、神と人の因縁が生まれた以後に、初めて「王」の名前を付けることができた方とは誰かといえば、正に私たちの先祖アダムなのです。
その王は、すなわち永遠の生命と永遠の愛をもった方です。神様は、アダムとエバに万物を主管することができる権限を賦与してくださいました。その目的は、アダムを神様の心情と生命と永遠に同伴できる皇太子として立てるためでした。エバを王妃につかせるためだったのです。もし、アダムとエバが永遠の生命と愛を基盤にした人間の先祖になっていたなら、私たちはすべての存在世界の前に王子として誕生していたでしょう。
ですから、私たちは先祖のアダムとエバを恨まなければなりません。六千年間積まれてきた神様の無念さは、言葉で言い表すことができません。ここに、過去の先祖の天倫に背反した事実を今日の生活で大きく感じて激怒する者がいるならば、天はその人を祝福されるはずです。
それゆえ、失ったものを再び捜さなければなりません。人間と天地の創造以後、天の王子が来なかったので、その王子につかせようというのが再臨思想です。信じれば天国に行くことができるというのは漠然とした信仰です。そのように、どんぶり勘定式に信仰する時は過ぎました。
神様はこのような目的意識を通して世の中を収拾してこられ、人間をその目的の世界へ追いやるために今まで役事してこられました。ここには多くの犠牲がありました。人間を打って役事してこられたからです。ある民族を立てては撃ちます。そのように撃って役事なさらなければならないのです。
行かなければならない路程は直線ですが、進んでいる道は曲がりくねっています。ですから、打って個人を動かし、家庭を動かし、社会を動かし、国家を動かし、世界を動かしてくるのです。
◆世界統一、天宙統一を成し遂げるべき再臨主
このような立場で私たちは、世の中の何ものも自分の意識観念を除去できないという基準をもちながら、天を基盤として自らの価値を神様の目的意識と結びつける天的な人にならなければなりません。そうするには、個人や家庭、あるいは社会や国家や世界にどのように天的な心情を結びつけるかということが問題です。
それで神様は、人間が寝ている間にもそのような内容で人間に衝撃を与えます。解決すべき心情的で生命的な内容をもって人間を訪ねてこられます。盲目的な信仰をする人々は、はっと驚くはずです。
私たちは、意識世界を超えた創造目的の世界を願わなければなりません。一握りの草を見ても、そこで無窮無尽の平和の感情を感じることができ、その存在価値を称賛できるよう願わなければなりません。見るもの、感じるものがすべてそうであり、人間がたとえ小さな存在でも「一つの個体が動くごとに天地が動き、神様の心情が動き、永遠の生命が動くので驚きました」という被造万物からの称賛を受け得るその立場まで行かなければなりません。人間が行くべき所は、そのような所です。
このような感情を爆発させて、万人に接触させてあげるというとき、世界と天宙が統一されるのです。言葉だけでそうなのではなく、再臨のイエス様は実際にこのような内容をもって来られます。それでこそ主として迎えることができます。
このような目的意識は自分を追及しています。心の世界は自由と解放を要求しますが、環境はそうでないので、「これはいったいどうしたことですか」と訴えるのです。良心の深い所では、自由と解放、統一と帰一、無限な幸福を謳歌することができることを待ち焦がれていますが、生きている生活環境はどうですか。恐怖と威嚇が自分を束縛しています。数千年間もこのように束縛されながらも、今日まで来たことを感謝しなければなりません。
今や神様の時が近づいたので、この束縛を解き、一つの目的意識を通して全宇宙と引き換えることのできない生命的な存在、神様もやむを得ず心情的な因縁を結んで、彼が地獄へ行けば地獄にまでついて行くことのできる存在が現れなければなりません。そういう心情的な帰一点を備えた方がこの地上に現れなければ、天と地は滅びるというのです。
◆堕落した世界を超えて永遠の生命の世界へ
これから世界は、心情主義世界になるはずです。その世界が成される時が、この地上に平和の王権をもって天の王子が登場する時期です。この時が正に再臨の時期です。神様が立てられた生命、心情の王子が登場するその時、彼に侍り従い、彼と父子の因縁を結び、家族の因縁を結び、民の因縁を結んで世界を再び建設しなければなりません。これが目的の世界である地上天国の理念です。
それゆえ、私たちはその国のために祈祷しなければなりません。どこへ行っても目的意識が強くなければなりません。神様に対して「あなたは時間と空間を超越したお父様であられます」と言える衝撃を受けなければなりません。天はそれを要求なさいます。
げんこつを握れば、天地を動かすことができる生命の源泉が連結した力が必要です。私たちは目的の世界を探していっています。生活的なものと永遠の生命的なもののためです。この地上で自らの目的がすべて果たされれば、何が問題になりますか。生死の問題です。世界を統一することができ、世界を自由自在に動かすことができる権限をもったしても、そこには永生に関する問題が台頭します。
神様が歴史を超越し、時間と空間を超越なさる方ならば、私たちも超越的な生命をもつのです。神様と因縁づけられたある何かを地上に立ててこそ、神様が私たちにとって愛の神様となるのです。ですから、人々は無限な生命を懐かしがり、良心的に生きようとするのです。
しかし、永遠の生命と因縁を結ぶことができず、良心の革命もできず、生命の革命もできませんでした。息子が死ぬのを見て喜ぶ父母はいません。それゆえ、自分は堕落したこの世界で堕落の血統を受け継ぎ、堕落の血が流れて死の立場に置かれても、子供たちは喜んで走り、その場を超えてくれるよう願う父母がいるならば、彼は必ず天国に行くはずです。
イエス様がそういう方です。それゆえ、神様は干渉できません。イエス様が来られたのは私たちのためです。イエス様が来られた目的も「私」のためです、神様が天地万物を造られたのも「私」のためです。あらゆる環境を収拾して、時間性を超えて幸福であり得る人間になるならば、天地が生まれた以後に初めて神様が認めることができる息子、娘になるのです。
それゆえ、あらゆる存在物は、必ずこの堕落の世界を超えなければなりません。恐怖が襲ってきて環境が乱れているこの世界を、心の基盤をつかんで収拾し、自由に解放していかなければならないのです。
それゆえイエス様は、「誰よりも私を愛しなさい」と言われました。その話は、イエス様御自身を愛しなさいというのでなく、神様を愛しなさいということです。神様を愛そうという人間に橋渡しをしてあげる仲保者として来られたイエス様だったので、そのようにおっしゃることができたのです。ですから、これから私たちは、自分がある専門分野で世界的に誇るだけの何かをしたとしても、大声を張り上げてはいけません。
◆授け受けするところで繰り広げられる愛の世界
私たちが神様のみ旨に従い、最後に勝利者となって天の前に立つ日、この世界は永遠の生命と共に愛の心情だけが存在する安息の世界になるはずです。今日まで、世界は恐怖を伴ったこの世界の認識と観念上でさまよってきました。しかし、神様が立てようとした世界が成される日には、永遠の生命と愛の因縁を歌うことができるのです。ですから、永遠の生命をもって接しなければならないというのです。そういう世界では、民族と国家が問題になりません。兄弟でない兄弟、父母でない父母、すなわちあらゆる民が一つの生命体として連結し、神様の愛と共に生きることができるのです。
調和というのは、授け受けするところで繰り広げられるのです。言い換えれば、相対的関係で調和の妙味は繰り広げられるのです。それゆえ、天の生命と地の生命、天の愛と地の愛が互いに授け受けしなければならないのです。それは今までの歴史上に現れない、創世以後初めて存在するようになる開 闢の歴史です。神様の愛の世界が成されるのです。
その世界は、いかなる世界でしょうか。一度見れば永遠で、一度聞けば永遠の世界です。五官を通して一度感じるようになれば、全体が一つになるそういう感じが充満した世界です。また、内在された感情が自動的に爆発し、身を処して生活分野まで動くことのできる永遠で根本的な世界です。ですから、私たち人間はそういう世界を成し遂げられる内容を備えなければなりません。そのような世界を創造してこそ、神様も素晴らしい神様になるのです。
このような世界になるべきなので、神様は両面の世界を創造なさったのです。それですべてが相対的です。目もプラス・マイナスになっています。心は天と一つになり、体は地と一つになり、神様の真理を所有し、神様の人格に似て、さらには神様の愛を通じて体恤できる世界になるべきだというのです。
私たちが願う希望の世界がそのような世界です。そこは、いったん行きさえすれば永遠に離れたくない所です。一度聞けば、すべての細胞が動きます。一度感じれば、その感じは永遠に残ります。それでパウロは、コリント人への第二の手紙で「この人が――それが、体のままであったか、体を離れてであったか、わたしは知らない」(一二・三)と言いました。しかし、それも一部分にすぎません。
私たち人間はこの世界を収拾し、そういう希望の世界を成し遂げていかなければなりません。私たちが神様の内在的な心情世界と実質的な外形世界を一つに感じ、万物に号令するようになるとき、初めて神様が喜ばれるのです。
神様のみ手を経た万物がそのような主人に会えなかったので、ローマ人への手紙でパウロは「万物も嘆息する」と言いました。天の世界の内容を体恤し、実体世界の事情と環境を収拾して、その内在的な無限な世界と一度因縁を結べば、その因縁は誰も切ることができません。世の中の愛でも切ることができないのに、その世界の因縁はより一層切れ難いというのです。生死が問題ではありません。
そういう世界と連絡できる民が出てこなければなりません。そういう民が出てきてこそ宇宙史的な価値を超え、宇宙史的な目的観念を超越した実体として認められるようになるのです。そのときに、初めて天国に行くのです。天国に行って、心情で「天のお父様!」と言えば全部が一つです。
◆末世に置かれた私たちが解決すべき問題
それゆえに、すべての存在はこのような目的意識の観念を中心として、堕落した立場から再創造という過程を経ていくのです。堕落した人間は、割れた焼き物にも劣るというのです。割れたのでたたいて、再び作らなければなりません。「温柔謙遜であれ」と言いながら、みな捨てて死ぬようにして、再びこねて作るのです。これが再創造です。何をもって作りますか。心情をもって作ります。そうして、神様が永遠に臨在なさることができる心情の世界をつくり、この宇宙が心情をたたえ、心情の前に全部傾くようにつくらなければならないのです。
このような歴史について見るとき、私たちが終末的なこの世界を超えて新しい世界に向かって進む過程的な立場にあるとするなら、私たちは人を批判してはなりません。批判しようとするなら、真理を中心として人格的に批判しなければなりません。自分の心を動かして、心情を爆発させることができるものを探さなければなりません。ですから、心情が貴いというのです。
民はその国の統治者の前に、一つの心で帰一されなければなりません。心ばかりでなく、心情が帰一されてこそ孝子、烈女、忠臣になるのです。すなわち、心情が一致してこそ「忠」の字が入り、「孝」の字が入るのです。ですから、これから各分派を超え、民族観念を超え、今までの事情や人情的なすべての観念を超えることができる一大変革が、天上と地上で行われなければなりません。
一人の主人公を中心として、そのような世界が立てられるとき、天と地、人間と神様が共に幸福の歌を歌うことができます。神様が踊ります。それで神様は、この目的意識的な感情を収拾したのち、宗教的な因縁を通じて一つの新しい思潮を準備してこられたのです。
これからは心情的な基盤を動かし、人間を難局に陥らせ、これ以上生きる道をなくさせて神様に向けて泣き叫ぶようにしておいて、その解決点を用意してくださるというのです。そのような時が必ず来るだろうと思います。
ですから、現実の時間的な感情を、天的な感情や意識にどのようにつなげるかということが問題です。これが末世に置かれた私たちが解決すべき重要な問題なのです。これは、千辛万苦の努力を尽くしてでも解決しなければなりません。
信じる信徒は全世界的に動員されて、教派を超越し、民族を超越し、国家を超越して、これを探してさまよう群れにならなければなりません。そういう動きが起こってこそ、そのような人が出てきてこそ、この世界は早く収拾できるのです。
15. 真の父と子女
一九六〇年九月十八日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十巻』
きょう、皆さんに語ろうと思うみ言の題名は「真の父と子女」です。
◆この地に真を立てるための神様の救援摂理
地上に存在するすべてのものは、真から始まらないものはありません。神様が真であられるために、神様のみ手を経て創造されたすべてのものは真なのです。存在するすべてのものが真であるので、この宇宙が存在する目的もまた真なのです。
真の存在世界を創造された真の主人であられる創造主の前に、すべての被造物は真なるものとして永遠に存在しなければならなかったのです。ところが創造主は真の方として残っているのに、創造されたすべての被造物は真の価値を喪失したというのです。これは歴史的にも、また環境的にも否定できない事実です。真から始まったので、永遠にその真の価値を謳歌する天地とならなければならないのです。このような天地になっていたなら、今日私たちの人生のどの一面を取り上げてみても、真と因縁を結ばないことがないでしょう。ところが私たちの人生がそうではないので、これほど悲しく、ゆううつなことはありません。
真なる主体の前に、真の価値を中心として時間を超越し、永遠に自分の存在価値を誇ることのできる世界、また全体と個体の価値に差のない世界になったならば、今日のすべての存在物は幸福にならざるを得ないでしょう。
極めて真なる方、極めて真なる主人がいらっしゃる、そのような世の中が私たちの願いとしてのみ残っているので、再びそのような世の中を探し求め、極めて真なるその方の前に戻らなければならないというのが、私たちの人生行路なのです。
それでは、真とはどのようなものでしょうか。真とは、始まったその日から終わりがあり得ないものです。真とは、それが存在する限り、永遠に時間性と空間性を超越し、その価値が光り輝くものです。ところが今日私たちは、そのような価値をもった真に出会ったこともなく、感じたこともありません。
もしも創造主がいらっしゃるならば、人間の生活環境において、真の価値とともに、永遠に楽しむことのできる真の善なる世界を再び取り戻すために役事なさるはずです。これが救援摂理であり、救世主を送り、万民を救おうとされる神様のみ旨なのです。
真とは、存在自体が真であると同時に、そこから現れるすべての現象や作用までも真なのです。私たち人間には存在意識があります。この存在意識までも真なるものであるとすれば、私たちは嘆くことはできないのです。
それでは何によって嘆きが生じたのでしょうか。私たちの心は最高の目的と価値を願っているのに、生活環境においてそれが満たされないので、悲しみと苦痛が生じるのです。このような苦痛を越えることのできる真の基準、いかなる苦痛も押し出すことができる真の基準を完全に立てたところから私たちの人生が出発したとすれば、苦痛という二文字は何ら威力を発揮するものではなかったのです。真の天理原則の価値を厳格に立てた存在の前では、苦痛はいかなる威力も表すことができないというのです。今日私たちは真を探していますが、真と共に生活できていないのは、人間が堕落したからなのです。
今日、私たちは社会環境においてどのような真を探しているでしょうか。体の真を探しています。ひいては心の世界の真を探しています。私たちの体と心がより大きな宇宙的な理念と通じることのできる因縁をもっているので、私たちの体と心は真の因縁を探しています。真の環境と真の宇宙を探しているというのです。
私自身が真なる存在になる前には、真なるものを鑑定することはできません。相手がどんなに真の価値をもって現れたとしても、私自身が真であり得る小さな本質でももっていない限り、それを推し量ることはできないというのです。それゆえ、私たちは真を探し出すために自分の良心に基準を立て、人倫と道徳の方向へと一致させようとしています。これが歴史的な現実なのです。
私の心が真を推し量ることのできる真の立場に立ち、私の体が生活環境において真を中心として生きるとき、そこから真は私と因縁を結び、私を通して環境と因縁を結び、環境を経てこの地と天上までもが縁を結ぶことができるというのです。
◆万物と実体を通じて真を探していく道
私たちは、自らを振り返ってみるとき、心と体が真でないことを認めるはずです。それでは、私たちに必要なこととは何でしょうか。心と体が真であると証明できる、その何かが必要なのです。それは、私自体で解決されることではありません。相対的な真の基準が現れない限り、私の体の真を解明できず、私の心の真を解明できません。
それゆえ、堕落した私たち人間は自体内で真を解明するのではなく、ある真なる絶対者がいるとすれば、その絶対者の原則的な基準を通して真を解明し、真の人間の位置を明らかにしなければなりません。
今まで人間は、歴史路程をたどって時代時代を過ぎてから真の私、真の国、真の世界、真の天地を探してきました。それでは「真の私」という基準をどこから探し出すのでしょうか。哲学からですか。科学からですか。宗教からですか。いいえ違います。心の根本に通じることができる因縁を経ることなくして、真の因縁を証すことができないというのです。
神様がいらっしゃり、真なる存在になり得ない立場に陥った人間を、真の理念の世界へ導くための救援摂理をなさるといいますが、その神様は私たちの前に、真の姿で現れなくてはなりません。そのような神様が、私たちにとって必要なのです。そのような神様が私たちの前に現れてこそ、生活感情を通じて、私たちの心と体が神様と因縁を結ぶことができるのです。それゆえ神様は、堕落世界にいる私たち人間を、真の姿をもって探し出してくださいました。
今日までの歴史路程、あるいは信仰路程において、先知先烈たちはいかなる立場で生まれ、また死んでいったのでしょうか。それは「真の私」を探していく路程の中で、天の真なる心と体の立場で生まれ、また生きた人々なのです。このような真の心と体をもった方が、生活的に、心的に、心情的に私たち人間を探し出してくれなければ、今日の私たちは、真の因縁を探す道理がないのです。
旧約時代には、神様は真なる万物を通して人間を探してくださいました。聖別された真の物を祭物として、私たち人間を探してくださったのです。それでは、真の物とはどのようなものでしょうか。その物は、堕落世界の物ですが、神様が干渉することができる聖なる物なのです。それを通して、神様は人間と関係を結んでこられたのです。
そこには、万物がみな動員されました。神様は、善なる側として聖別された動物、植物、鉱物等あらゆる物を通して、すなわち祭物という条件を通して、人間と因縁を結ぼうとなさいました。そのような時代に生きていた人々は、真の祭物と一つとならなければならなかったのです。そのような時代が旧約時代なのです。真の価値の因縁を探していかなければならない、堕落の運命を背負った人間たちには、夢にも考えられなかった時に、神様は、人間たちが真の物を通じて真の価値との因縁を結ぶことができるように苦労してこられたのです。
本来、人間は万物を主管しなければなりません。万物、すなわち物質を通して神様と因縁を結ぶ立場に立っては駄目なのです。それゆえ物質を通して因縁を結ぶことができる旧約時代を過ぎ、実体として因縁を結ぶことができる時を迎えて、一人の方を立てなければなりません。これがメシヤ思想です。
このメシヤは、堕落した人間、死んで当然な人類の前に、堕落していない真の父母の因縁をもって現れる方です。その方は、漠然とした救い主ではありません。
◆永遠不変なる最高の善
地上の堕落した人間たちは、真の父母との血統的な因縁を結ぶことができませんでした。このように真の父母の子女として生まれることのできなかった人間、真の父母を失った人間にとって最も貴い贈り物とは何でしょうか。父母をなくした孤児のようにかわいそうな人間にとって、父母を送ってあげること以上に貴い贈り物はないのです。そういう贈り物を待ち焦がれているのがキリスト教です。
救い主を立てて、何をしようというのでしょうか。私たちは堕落した人間であるため、真の父母をなくした一族なのです。真の父母を失ってしまったので、真の子女になることができませんでした。創造当時、最大の善の理念で立てようとされた真の父母と真の子女がみな失われてしまいましたが、神様は、歴史的な苦労の路程、数多くの逆境と苦痛の路程をたどってでも再び真の父母の因縁を立ててくださるというのです。同時に、真の子女の因縁を立て、真の夫婦、真の兄弟、真の国家、真の世界、真の人類、真の天宙の因縁を立ててくださるというのです。
神様は、最初から堕落した人間の心の中に入って役事をされるのではなく、遠い彼方、相対的な立場で堕落した人間に万物を連結させ、真の息子と連結させたのちに、人間の胸中に入って心情の父になろうとなさるのです。これが救援摂理の最後の終着点です。
今日、この地において神様はどこの誰でも探し求めていらっしゃるのに、自分は優秀で、立派だと自認している人物は、神様が天地の大理念によって立てようとされる絶対的な真の原則とは関係を結べないままでいます。
神様は、父母を失ったかわいそうな孤児のようで、夫を失った未亡人のような堕落したこの人類を救うために、どのような因縁をもって現れましたか。事情の因縁ではなく心情の因縁をもって現れました。願いとしての因縁ではなく、生活的な心情の因縁をもって現れたというのです。神様は堕落していない絶対的な価値をもった方を立てたのち、彼を通じて万物と人間の心と体、そして心情までも関係を結ぼうとされるのです。そのような存在が現れない限り、人間の完全なる救いは成立されません。
信仰の目的とは何かというと、善なる心と体と心情を中心として世界的な舞台、ひいては善の価値を謳歌することのできる天宙的な舞台へと進むことです。人々が歴史的な偉人と先烈を敬うのは、彼らを見習って彼らと因縁を結ぼうというところからきています。すなわち、生活の中において、心と体が彼らの理念と因縁を結ぼうというのです。因縁を結ぶだけではなく、彼らと一つになって共に生きようというのです。これが、今まで様々な道や主義に従ってきた人々の姿です。
今日、私たち自身は、いかなる立場に置かれているでしょう。神様は私たちの知らない間に、私たちが万物と因縁を結ぶことができるようしてくださり、神様の息子と因縁を結ぶことができるようにしてくださいました。それにもかかわらず、神様が立ててくださった絶対的な基準が自分の生活と心を巻き込んでいるという事実を知らずにいるのです。ですから私たちは、悔い改めなければなりません。
歴史は個人から出発して世界にまで広がっているのですが、どこで終結するのでしょうか。絶対者、すなわち最高の善の本体が存在するとすれば、人類がその絶対者と永遠不変なる因縁を結ぶ時まで神様は働き続けるでしょう。最高の善は永遠不変なものです。それ以上の発展はありません。
今日、この世界では生活感情がお互いに異なる民族同士が、だんだんその生活感情を共有するようになってきました。また異なる理念をもつ数多くの民族が、道や理念を共にする方向に進んでいます。根本は一つなのです。このように、絶対的な一つの価値に向かって歴史は総進撃しています。
◆真の父と真の子女
「真の父と真の子女」と言いましたが、ここで真の父とはいかなる方であり、また真の子女とはいかなる存在であるのかを考えてみなくてはなりません。真の父とは、真の息子、娘を探し出すために、歴史路程において限りなく苦労をされた方なのです。数千年の歴史路程において善のために殉教したいかなる人よりも、もっと大きな苦痛に遭われた方です。この方は、時代的な主人公ではなく歴史的な主人公であるために、歴史的な悲しみを抱いてこられました。歴史的な苦痛と悔しさを抱いて歩んでこられたというのです。
神様は、この地上の苦痛と重苦しさを解決するために一人の救世主を送り、人間と天的なあらゆる因縁を結ぼうとされました。ところが、このような使命をもってこの地上に来られたその方は、人間たちによって十字架上で亡くなりました。亡くなられたイエス様が、私たちが永遠に因縁を結ぶべき真の父として来られた方だったのです。
イエス様は十字架にかけられて亡くなったとはいえ、堕落した世の中の人類を再び尋ねてこられる時、「私があなた方のために十字架を担ったのだ」という心で尋ねてこられるのではありません。かわいそうな私たち人間を愛する心で、再び尋ねてこられるのです。
真の父はいかなる方でしょうか。億千万年かかっても解くことのできない十字架の恨みに満ちているのに、私たちのために苦労をなさる方です。悔しい立場にあったとしても、そのようなそぶりを見せることなく、かえって不幸な人類のために涙を流し、人類に先立って苦痛の道を行こうとされる方なのです。このような方が、私たちの父なのです。
それゆえ終末に審判されるとしても、この地上の人間のためにむちで打たれ、迫害を受け、また悔しい思いをさせられ、殺されたという歴史的な恨みを抱いて審判なさる神様ではありません。過去に苦労した内容をもって審判なさるのではなく、その苦痛よりももっと大きな愛の心情をもって人間に対し、悔しさと悲しみを感じる心よりも、もっと大きい愛の心情をもって審判なさる神様であるということを知らなければなりません。
私たちの真の父は、子女となった人間たちに千回、万回殴られてもそれを記憶されない方なのです。そのような心情の主人公であられるので、六千年の罪悪歴史の種族として生まれた私たちを許すことができるのです。私たちの父は、このような方なのです。
それでは、真の道理の道を行く人とは、いかなる人でしょうか。真の父に侍ることのできる人が、真の道人です。天国は「罪」という名詞を記憶することのできない所です。それゆえ、罪のある人は天国に行くことはできません。
今日の世の中は、兄弟間、夫婦間、父子間にあっても相手のためにほんのわずかなことをしただけでも、それを永遠に覚えていようとしています。私たちは、そのような垣根を取り崩してしまわなければなりません。
この現実世界で天国の門を開放し、天的な父に侍るための子女の名分をそろえようとする者がいるとすれば、千回、万回殴られたとしたとしても愛が満ちあふれる父の心を見習わなければなりません。神様との因縁を考えて、自らのあらゆる困難を踏み越えることができる人とならなければなりません。このような人々の行く所が、善の世界なのです。
堕落した世界とは、たった一つ人に何かしてあげたとしても、その人に十を要求するような所です。そのようにしていれば滅んでしまうのです。人を一回手助けし、人のために血一滴を流してやったことをだしに、その人を億千万年脅しながら利用しようとする輩が生きる所が、悪の世界です。その点において善の世界と差があるのです。
私たちの父は、六千年という長い歴史路程において語ることのできない紆余 曲 折を経てこられましたが、それを記憶することなく私たちを訪ねてくださっているのです。私たちがぼろをまとい、食うに事欠き震えている時、数知れず天を裏切った種族であるという事実を記憶することなく、本来の人間に与えた因縁だけを記憶されながら、足を止めて涙を流してくださる方が私たちの父だというのです。
皆さん、この世の中でも愛する息子が父母のひざ元を離れて、あらゆる凶悪な犯罪を犯し回っているとしても、その息子を思う父母の心は、もっと切ないものなのです。真の愛をもった父母ならば、その息子に手を上げる前に、彼にすがりついて号泣するはずです。そのような父母ならば、必ずその息子を悔い改めさせることができるのです。そのような心情で息子に対する父母は、どんなに無知でおろかで木石のような息子であったとしても、必ず善なる息子となるよう導くことができるのです。それは正に、神様がそのようにされるからなのです。
神様にそのような心があるために、この地がいかに悪なる世の中であったとしても、この世で善なる息子、娘を探し出すことができるのです。数億、数千万に及ぶ罪があったとしても、愛する心が先に立ち、罪を記憶なさらない方を父として侍ったならば、私たちはどれほど幸福でしょうか。堕落した人間として、そのような父に一度でも会うことができるならば、もう思い残すことはないでしょう。
◆真の父母と対面する道
イスラエルの歴史を見てください。イスラエル民族は、神様があらゆるかたちで勧告をしても聞き入れることはありませんでした。あまりにも聞き入れなかったので、その一族を打ちながら勧告しましたが、彼らは悟ることができませんでした。神様がむちを下すのは殺すためではなく、生かすためなのです。神様はこのように役事しながら、今日まで六千年という長い歳月を経てこられたのです。
今この時代は、万物と因縁を結び、環境と因縁を結ばなければならない終末なのです。キリスト教では主のことを「新郎」と言い、聖徒を「新婦」と言います。新婦になろうとする人は主の心情を知らなくてはなりません。人々は終わりの日に来られる主を待ち焦がれてはいますが、主は二千年の歴史路程を経ながら一日一日を終わりの日のように感じてこられました。歴史はそのような時に至るのですが、現在がそのような時であるというのです。
皆が終わりの日に主の前に新婦として立ち、栄光を受けることを願っています。しかしそれが容易にはなされません。イエス様はこの地上で新婦に出会う望みを、新婦に対する懇切なる心的な基準を一瞬たりとも失ったことがありません。これが新郎の心なのです。皆さんの中に「私は数十年間イエス様を信じてきた」と言う人もいるでしょうが、その数十年間、イエス様をどれぐらい慕い求め、来られるイエス様に侍るために、どれくらいの準備をしましたか。
終わりの日が来るとすれば、その終わりの日には必ず永遠なる最高の善を中心として価値を立てなければなりません。その価値は天宙的な価値として現れなければなりません。そのような価値として現れる時は、真の父と真の子女が出会う時なのです。そのような時が、必ず来るはずです。
真の父と真の息子、娘とは、じっとしていてそうなるものではなく、探し求めなければなりません。神様は、世の中を一つの世界へと帰結させるために、必ずそのような役事をしなければなりません。このような目的の世界を成し遂げようという核心が神様であるならば、この神様と天地全体が一つとなり、「永遠」という名詞のもとに、同一な価値として生活感情を通じ合うことができる世界をつくっておかなければならないのです。
あなた方がこのような目的の世界を探していこうとするならば、どのように行かなければならないでしょうか。神様が私たちをみ言によって呼んでくださっていますから、私たちはそのみ言どおりに行かなければなりません。真の父母と真の子女が対面することのできる道は、真のみ言によって可能なのです。そのみ言は、父のみ言です。父のみ言を知らなくては子女となることはできません。父のみ言は絶対的であり、真のみ言であるからには、全く同じみ言を千年、万年聞いても嫌気がさすようなことはありません。終わりがないのです。
私たちは、そのようなみ言を探していかなければなりません。そのみ言は、ある論理的な条件にちょうど合うものだとしても、それで終わるようなものではありません。大原則でありながら、聞いて聞いてまた聞いて、永遠に聞いても生命となることができるみ言なのです。そのようなみ言を探さなければなりません。
愛する父母のみ言は永遠であるため、時間と空間を超越します。それゆえ神様のみ言は、歴史と時代を超越し、主義と思想を超越します。したがって、どこの誰のみ言よりも貴いのです。このみ言は夜聞いても昼聞いても、また夜見ても昼見ても、皆さんの心の中に無限に流れ込んでいくのです。そのようなみ言を探さなくてはなりません。
今日キリスト教では、「そのみ言が聖書である」と言っています。ところが聖書は比喩と象徴から成っています。なぜなら、私たちが生きているこの地には、怨 讐であるサタンがいるためです。
人間は堕落して、すべて台無しになってしまいました。神様がいるのかいないのかさえも分かりません。「神様は存在しない」と叫んでいる人が、どれほど多いことでしょう。神様は、父を父として知らず、子でありながら子であることを知らない堕落した人間に対し、父として心情を通わせることのできるみ言を一言も語ることができなかったのです。語られたとしても目くばせしたり、世の中のことをもじって語られたのです。
◆父母を感動させることができる子女
真の父のみ言であるならば、永遠に通じることができる内容でなければならないし、私たちの生活環境を越えることができなければなりません。悪なる生活環境は、真のみ言をのみ込んでしまうことはできないのです。父の真のみ言であるならば、悪なる世の中の何ものによってもそのみ言を制裁することができないのです。み言をもって悪なる環境を何度も何度も越えていくことのできる心を誘発させなければならないのに、そのようにできないために、今日全世界のキリスト教が混乱状態に陥っているのです。
それでは、愛の心をもってこられる父が、愛する息子、娘たちに対し、真のみ言を語ることのできる場所とはどこでしょうか。どこかにそのような所が、必ずあるはずです。そこを探さなければなりません。万一、そういう場所を探し出してみ言を聞くのであれば、千回聞いても新しく感じるのです。その内容は、真の善なる価値として永遠に通じる内容だといえるでしょう。皆さんがそのようなみ言を探し出すことができなければ、真の子女となることはできません。
イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と語られました。先生が考えるには、そこに愛という名詞を一つ付け足して「私は道であり、真理であり、命であり、愛であるので……」と言うのがいいと思います。「わたしによらないでは父のみもとに行くことはできない」と語られたので、問題はそのみ言を語られた本体です。語られるその方自体が必要であるというのです。その方とは誰でしょうか。正に真の父なのです。その真の父の前に真の子女としての立場で立とうとするならば、真のみ言を探し求めていかなければならないのです。
皆さんは、真の父母を探し求めていくにおいて、真の父母のみ言、永遠の価値と因縁を結んでくれる真のみ言の価値を感じてみましたか。感じてみたことがなかったとすれば、真の価値について語られる父が来られたとしても分からないのです。このような真のみ言の価値をはっきりと知るためには、心からの祈祷をしなければなりません。
この地上の人間は、真の父のみ言を探し求めていかなければなりません。真の父のみ言、真のみ言を探していかなければならないのです。そのみ言は、イエス様の心情を揺り動かすことのできるみ言であり、また六千年間摂理してこられた神様の心情を揺り動かすことのできるみ言です。そのみ言がこの地上に出てくるようになれば、六千年の紆余曲 折の歴史を明らかにしてくれるでしょうし、神様の残念で、悔しくて、恨めしい心情を明らかにしてくれるはずです。ですから、神様の心情が動かざるを得ないのです。
息子が父母を感動させようとするなら、自分の要求と願いをもってしては感動させることはできません。父母が息子のためにどれほど手を掛けて苦労したかを知って、父母の苦痛が私の苦痛であり、父母の苦労が私の苦労であると感じながら、父母の歴史を語らなければならないのです。そのような息子、娘になってこそ父母を感動させることができるのです。このような息子に対し、父母は胸が張り裂けるような心情になるのです。「ああ、私の息子よ」となるのです。神様も同じなのです。
これから私たちは、神様の胸深く埋まっている恨みを、隅々まで解いてさしあげなければなりません。父が私たちを探し出すために苦労されたことを、一つ残らず知らなければなりません。そうして「私を探し出すためにこのように苦労された父よ!」と語りかけたならば、その一言に応答して神様は「ああ! 愛する私の息子よ!」と語られることでしょう。神様は、そのような神様でいらっしゃいます。
聖書を読んでは泣き、十字架を抱き締めては涙する者は多いけれども、父の心を抱き締めて泣く者はいないのです。しかし私たちは、十字架を抱き締めて泣くのではなく、十字架までも超えながら、耐えて愛さなければならなかった父の心を抱き締めて泣かなければならないというのです。そのような人は天国に行きます。十字架が救ってくれるのではありません。十字架に打ち勝つことのできるイエス様の愛の力が救いをもたらすことを知らなければなりません。
◆父母の心情を酌み取ることのできる子女
今日、私たちは聖書をどのように読まなければならないのでしょうか。心情的に読まなければならないのです。私たちが深い恵みに満たされて祈祷するとき、天の心情を知ることができます。ですから悔しく、耐え難い心情に満ちて「お父様! あなたの心の中にしみ込んでいる恨みとは何なのですか。聖書の歴史をつづってこられたあなたの恨みとは何なのですか」と祈祷しながら、号泣しなければなりません。
神様には恨みがあります。堕落による恨みがあるというのです。語ることのできない紆余曲折と、恨みの内容があるというのです。人類を救うために苦闘しながら訪ねてこられた神様は、悲しい身の上なのです。
神様が、玉座に座って天地万物に号令しながらすべてのものが思いどおりになるならば、六千年もの間、罪悪の人類を引っ張ってこられたはずがありません。最も気の毒で哀れな方なのです。主人であるにもかかわらず、主人の立場に立つことができませんでした。また父であるにもかかわらず、父としても振る舞うことができませんでした。これほど悔しくて残念なことはないのです。神様が創造されたものであるのに、神様の思いどおりにすることができず、神様の息子、娘であるのに、「私の息子、娘である」と言うことができませんでした。この壁を取り壊すために摂理してこられたのが、六千年の歴史なのです。
私たちを尋ねてこられる神様は、六千年もの間、恨みを抱いてこられたのです。その父が息子、娘の前に現れる時の姿は、傷だらけで、何とも言えないほどみすぼらしい姿なのです。神様はこのような姿で、この地上の堕落した人間たちの前に何百回、何千回も来られては戻っていかれました。しかし、人間たちはそのことを知らなかったのです。今日、この時間にも私たちの前にそのような姿で、またそのような心情をもって尋ねてこられたとしても、私たちはそのようなことは夢にも考えられないほどの人間になってしまっているので、神様にとってそれが、どれほど悔しくて胸がふさがるようなことかというのです。
ここで私たちに要求されるものは、神様を感動させて、神様を動かすことのできるみ言なのです。そのみ言は理想主義や理想論ではありません。豪華絢爛な環境をつくり上げ、そこで踊って生きるような世界をつくろうというのではありません。そのみ言は、まず神様の紆余曲 折を経てきた心情を表して「私のためにこのように苦労された父よ!」と叫ぶとき、父が「ああ、私の息子よ!
今まで歴史路程おいて数多くの人がいたけれど、誰も私の心情を分かってくれる者はいなかったのに、お前は分かってくれるんだなあ」と語られるというのです。神様は、こういう息子を探していらっしゃるのです。
豪華な席で、数多くの大衆から栄光を受ける人を探しているのではありません。みすぼらしくて、哀れで汚らしい所にいたとしても、神様の六千年もの長い間の恨みを分かってくれる息子を探していらっしゃるのです。神様は歴史的な方です。ですから、歴史的な神様の心情を知る者が神様の息子なのです。
天国は、いかなる人が行く所でしょうか。歴史的な神様の心情を知っている息子、娘たちが行く所です。ここでの歴史は、紆余曲折を経てきた歴史のことです。この紆余曲折は楽であったり、幸福なものではなく、それとは相反するものなのです。ところで地上にいる人々は、「ただイエス様を信じて天国に行こう」と言っていますが、それは非常に道理に合わないことなのです。
◆探さなければならない新しいみ言
それでは、イエス様を信じて何をしなければならないでしょうか。神様を慰労してさしあげなければなりません。「神様は、私の歴史的な父でいらっしゃいます。時代的な父でいらっしゃいます。また永遠なる父でいらっしゃいます」と言うことができなければなりません。それが神様が願われることなので、この地上にいる息子、娘がそのように話せば神様は、「おやっ! お前は私と共に歴史路程にはいなかったが、私の歴史的な心情を知っているので私の息子、娘だ。お前はこの時代的な摂理のみ旨の前に立ってはいなかったけれども、この時代的な摂理のみ旨の前に立つことのできる私の息子、娘であり、未来の摂理のみ旨の前にも立つことのできる私の息子、娘だ」と言われるというのです。
暗い谷間、深い谷間に行っても神様に会うことができます。十字架の中の最高の十字架にかかったとしても神様に会うことができます。善を探してさまようとき、涙の谷間の果てまで追いやられたとしても、そこに神様がいらっしゃるというのです。神様は十字架の王であり、悔しさと残念さの王なのです。この地のあらゆる悪とは反対の立場にいらっしゃる方であり、追われる者の主人公なのです。
イエス様は、死の峠を越えて天国を建設しようとされました。死の峠を越えて天国を建設してこそ、死亡世界までも主管することができます。死亡世界をのみ込んでしまって天国を建設する道、この道が最も早い道です。
なぜならば、堕落したこの地には、いまだ神様の喜びと幸福の門が開かれていないからです。門が閉まっているために、神様と私たちの間には悲しみと苦痛と、憶測と矛盾があります。それで行く道を振り返り、神様が受けてこられたその曲折を尋ねていくことが、神様と出会う最も早い信仰の道だというのです。
イエス様が大衆から反対を受け、追われながら訪ねていかれたオリブ山の麓は、涙を流す場であり、号泣する場であり、胸を打つ場でした。またその場は、苦痛の中にしみ込んだイエス様の涙が、神様の涙に、イエス様の悔しさが、神様の悔しさに転換される場だったのです。
今日、私たちは真のみ言を探しています。その真のみ言に接し、神様が歴史的な事情をみなさらけ出して、神様が認める位置まで入っていかなければならないのです。そうしなければ後悔します。
歴史的な神様であり、時代的な神様であり、未来的な神様であることを知って、歴史的な神様を感動させ、時代的な神様を感動させ、未来的な神様を感動させることができなければなりません。過去、現在、未来に通じる紆余曲 折の歴史に責任を負われた父の代わりになることはできなくとも、父の悲しい心情を知り、慰労してあげることができる息子、娘とならなければならないのです。
そのため、皆さんが聖書を読むときには、最も悲しいことを読み取らなければなりません。天国についての内容や黙示録のようなものは除いたとしても、最も悲しいことを読み取らなければならないのです。皆さん、ある人と親しい友達になろうとするとき、その人の最も悲しい事情に通じ、それを理解してあげることが必要となるでしょう。それと同じなのです。私たちが、神様の息子、娘の位置を探していくのも同じです。そのような内容のみ言を、皆さんが探していかなければならないのです。
そのようなみ言がこの地上に現れて、皆さんがそのみ言を聞くようになる時には、腹の中から限りない悲しみが炸裂して出てくるはずです。自分も知らないうちに腹の奥底から号泣するようになるのです。十日、百日、千日泣いても限りなく泣きたくなるようなみ言がこの地上に現れてこそ、神様の心の奥底を探し出すことができるというのです。そのようなみ言を探さなければなりません。
表面だけ豪華絢爛な言葉よりも、心を覆し、骨が溶け入っていくような感じを与えられるみ言を探さなければなりません。みんな「そのとおりだ」と思うことのできるみ言を探さなければならないのです。「このみ言だ。兄弟よ、来い!」と言えば、その兄弟も「このみ言だ!」と言うことのできるみ言、みんなが「そうだ」と言うことのできるみ言を探さなければならないのです。血族を超え、同族を超え、民族を超えて、世界のあらゆる真の心をもった者、真の体をもった者すべてが、共鳴することのできる爆発的な力をもったみ言を探さなければなりません。
◆数え切れないほど反復しても飽きることのない世界
神様が泣いていらっしゃるのに、天地が泣かないでいられますか。神様が大声で痛哭していらっしゃるのに、天地が号泣しないでいられるかというのです。ですから早く、神様の歴史的な悲しみの曲折の恨みを解いてさしあげることのできるみ言が出てこなければならないのです。その次には、実体が現れなければなりません。今まで、私たち聖徒たちはみ言を探してさまよってきました。何のためにですか。主、その実体に出会うためです。
それでは、真の牧師と偽りの牧師を何で分けることができますか。真のものと偽りのものとを何で分別するのでしょうか。実は私たちは、真の牧師をすぐに見分けることができます。初めて会ったのにどこかで会ったことがあるようなのです。第一印象がそうだというのです。生命を訪ねていく路程においてみ旨があって、必要とする因縁がある人は初めて会った人であったとしても、以前に会ったことがあるような気持ちがするのです。初めて会ったけれども、自分の兄よりも、自分の周囲のその誰よりも近く感じられるというのです。そのような本心の作用を平面的に起こすことができる素質をもった者でこそ、本当の牧師なのです。そうでない人は、ある一時に現れ、皆さんを利用するだけ利用する者なのです。
私たちが終わりの日に主に出会えば、その主の一方の目だけを見つめていても永遠に飽きることはないでしょう。主の目一つにも、天国を見た以上に喜ぶことのできる内容があるのです。千年、万年、顔を突き合わせていても飽きることがないというのです。それでイエス様は「私は道であり、真理であり、命である」と語ったのです。その方を探し訪ねる道を千年かけて歩いても、また何億万回行ったり来たりしたとしても嫌になることはないというのです。牧師がそのような内容の動きと雰囲気を漂わすことがなければ、偽りの牧師です。それはどうしてでしょうか。天国では、すべてが永遠であるからです。眺めるときの感情までが永遠であるというのです。
天国は立体的な世界です。例えば、ハンカチを見るときには平面しか見えません。その裏面は見えないのです。しかし、霊的にその裏面を見れば限りがないのです。平和な感情で見るとすれば、平和の対象として現れます。平和な感触を伝えてくれるのです。
完全なプラスがあれば、完全なマイナスは自動的に生じてくるのです。物理的現象がそうなのです。完全な存在の前に、その相手は自然に存在するようになるのです。
皆さんが天宙に通じることができる平和の心情をもって天地を眺めたならば、すべてが花となるのです。天地が花です。その美しさは、到底形容できない美しさなのです。皆さんがそのような心情で人々を眺めたとすれば、人間以上に美しい存在はないのです。霊界に行けば、初めて出会った人でも、抱き締めてキスをするほどなのです。それ以上です。
私たちが必要として生命的な因縁を持ち合わせたもの、理想的だとか理念的な要素を兼ね備えたものは、同じ模様が繰り返されても嫌ではないのです。ある仕事をするとき、反復するからといって嫌になってしまうようであれば、それは真のものではありません。善なる世界の人は、一つの仕事を千年、万年繰り返したとしても、良くて良くて、また良いというのです。
今後、私たちが主の実体を迎える日には、万事が解決されるのです。その方に接すれば、心の苦痛をすべて忘れてしまうことができるのです。それで主を探し訪ねていくのです。生活感情を通じて、また理想的な感情を通じたとしても、嫌な部分がない内容をそろえた方が、真の主人公なのです。善の価値とは絶対的であり、絶対的であるとは無限であるということなのです。
それゆえあなた方は、神様を信じる路程において、主のみ言一言によって世の中のあらゆる苦痛がみな消えていくことを感じなければなりません。言葉だけでなく、実際にそのようにならなければなりません。そうして私の目、私の感情、私の生活、私のあらゆる存在価値が永遠で絶対的な実体と関係を結ぶ、その日から幸福は訪れてくるのです。皆さんは、まだ実体と永遠なる関係を結ぶことができていません。
◆代価を要求することなく、父のために汗を流す孝行の道
神様が天地万物を創造されたのちに、人間を創造される時、まず実体を造られたのです。体を先に創造なさったように、まず実体と因縁を結ばなければならないのです。その方が死ねば死に、その方が行くように行かなければならないのです。その方は洋の東西を問わず、すべての人々に必要なのです。黒人だとか白人であることが問題ではなく、また老若男女が問題となるのでもありません。すべてに必要なのです。そのような方が現れるとするならば、世界は一つとなるのです。神様が全知全能な方であるならば、そのような調和を成していかなければなりません。私たちは、そのような実体と出会わなければなりません。
そのような実体と出会った次には、何をしなければならないでしょうか。その方のためにすべてを与え、また与えても、それでも足りず、私の血をみな引き抜いてさしあげたとしても足りないと感じ、愛の豊かさを感じなければなりません。心情の量の無限さを感じなければなりません。その方のために犠牲となり、私のすべての血と肉をみな捧げたとしても、もっと捧げたいと思わなければなりません。神様は、そのような方です。私たちの父は、そのような方なのです。
この世の中でも、そうではないですか。自分の父のために汗を流して疲れる仕事をしたからと、父にその代価を要求することはありません。その代価を要求するとしたら、それは親不孝者だというのです。皆さんは限りなく苦労をし、自分のすべてをみな捧げたとしても足りなくて、「もっと捧げたい」というような身にしみ入る心情を持ち合わせなければなりません。
そのようになったとき、皆さんは神様の息子、娘になることができるのです。神様の息子、娘の標準がそれなのです。
イエス様は、そのような位置にいらっしゃいました。イエス様は、無限な愛の境地では自分の体が死にかけているとしてもそれは死ぬことではなく、死を超えて神様の心情と因縁を結ぶことであるということを御存じでした。この地の苦痛と罪によって拘束され壊れてしまう人は、神様の心情世界を征服することはできません。いかなる苦痛やいかなる恐ろしさも、また悪を代表するものであったとしても、神様の心情から流れ出る愛の感触を防ぐ道はないのです。それゆえイエス様は、「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と語られたのです。この言葉は、心情的な言葉なのです。
神様は、このような内容をそろえた人をつくられなければなりません。なぜならば、神様がそのような方だからです。神様が一度語られたなら、天地が永遠に喜ぶというのです。霊界の内容を知ってみると、そうなのです。神様の声が一度響けば、すべての存在物は極めて厳粛になります。これを言葉で表現することはできません。その一言は、この世では考えられない、永遠に貴いみ言であると感じられるのです。神様の実存を認識するようになれば、そのように考えられるのです。
神様も、人間に対してそうだというのです。人間のための道があるならば、一時間に千回、万回倒れるようなことがあったとしても、神様は語られるのです。そのような心が先んじる世界、そのような作用で因縁づけられた世界が、父がいらっしゃる世界なのです。
したがって、皆さんがこの地上でそのような世界に入っていくことができる天のみ言を聞くならば、食べること、着ること、眠ることのすべての欲を超越でき、自分自身までも超越することができるのです。天の使命をもった人がいるならば、寝ても覚めてもその方に自分のすべてを捧げたとしても、足りないという気持ちでいっぱいになるでしょう。そのような時に、天国の息子、娘になることができます。そういう息子、娘がいるならば、その人は、天上天下のすべての万物の相続を受けるのに不足な点はないでしょう。
私たちの信仰の標準は、それなのです。なぜそうなのかを考えてみてください。神様が、人間をいかなる姿に創造しようされたでしょうか。神様の中に入れて、また入れても足りず、永遠に愛したとしても足りないという姿にしようという心で、創造されたというのです。お母さんたちは、自分が産んだ赤ん坊がかわいくて仕方ないでしょう。抱いても抱いても、また抱いたとしても永遠にずっと抱いても嫌にならない気持ちを起こす本体が、神様なのです。それゆえに、その方の息子、娘になろうとするならば、そのような資格をもたなければならないのです。
父のみ言を千年もの間繰り返して聞いたとしても、魚が水を飲むように、ただひたすらおいしいのです。同じみ言であったとしても、悲しい時に聞けば慰労となり、うれしい時に聞けば、祝賀のみ言となるのです。皆さんの心の状態、生活感情が違うことによって、そこに該当する見事な対象の価値として作用するのです。
普遍的に見るとき、真理のみ言は同じ内容を百二十回以上聞いても嫌になることはありません。これを皆さんは体験しなくてはなりません。百回以上聞いたとしても、また聞いてみたい真理のみ言のある教会に行けば、皆さんは天国に行くことができます。また百回会い、千回会ったとしても、また会いたいと思える教会の指導者に会ったならば、そこから離れないようにしてください。そのような指導者に会えば、間違いなく天国に行くことができます。
◆神様の息子一人を登場させるための六千年の歴史
そのような因縁を経てこそ初めて、堕落の恨みを脱ぎ去った神様の息子、娘となります。そして、堕落の恨みのない神様の心情が、私たちから作用するのです。そのような因縁をたどることができなければ、神様が堕落の感情を忘れてしまうことはできないのです。
皆さんが神様の胸中を探し、神様に刺激を与えることのできる人となる時、ついに父が歴史的な恨みを忘れ去り、創造理想世界の本然の心情基準を立てることができるようになるのです。
私たちがそのような基準まで進まなければ、真の父が父としての立場に立ち得ないのです。真の父の心と事情、願いと心情を通してお父様と呼ぶ息子、娘に会えない限り、神様は永遠に真の父とはなれないというのです。
そういう息子、娘がこの地上に多く現れることはなくても、男性一人、女性一人は現れなくてはなりません。今後そのような方が来られるとしたなら、その方が人類の真の父母となるのです。私たちは父母をなくしたので、このような心情をもった父母に出会わなければなりません。
今まで六千年の歴史は、神様が息子一人を登場させるための歴史でした。失ったアダム一人を探し出すための歴史でした。本来アダムとエバが堕落しなかったなら、人類の真の父母となって神様の心情に通じ、神様の事情に通じて、神様の願いと目的をすべて達成したでしょうが、堕落することですべてが駄目になってしまったのです。
それゆえ、これを再び探し出すためには、再創造の歴史をたどらなければならないのです。つまり、アダムを再創造し、失った人類の真の父の立場に再び立てて、神様が彼の頭に手を載せて「お前は私が創造理念で造り出したアダムであり、私の事情と心情が分かる息子だ」と語り、祝福してくださらなければならないのです。このような責任を担って、この地上へいらっしゃる方が再臨主なのです。それゆえ六千年の歴史は、神様が探し出そうとする完成した人類の先祖一人を造るための歴史であるというのです。
聖書にはアダムを創造したのちに、アダムのあばら骨を抜き、エバを創造したとあります。しかし、実際にあばら骨を抜いたのではなく、骨格をまねたということなのです。皆さんが本を読んで、「その本の要点を抜き出した」と言うでしょう。そのように、エバもアダムの骨格をまねて造ったのです。
ですから、アダムが出てくる日には、エバはおのずと出てくるようになっています。完全なプラスが出てくれば、完全なマイナスはおのずと出てくるというのです。イエス様は、神様の心情に通じた実体として全宇宙の前に誇ることのできる、真のアダムの立場に立つことはできませんでした。そのようなことができる社会的環境がそろわなかったために、イエス様は亡くなったのです。
◆神様の息子、娘になる道
しかし今日、この時代は民主主義時代です。神様が民主主義を立てるのに、六千年もの年月がかかりました。この時代には、どのような話をしても、どのような宗教を信じてもかまいません。ですから、このような時代にイエス様が来られるならば迫害は受けたとしても、必ず、失った真の息子と真の娘を探し立てるはずです。なくしたものを、反対に探し出すことができるというのです。
神様は今まで、歴史を二つの形態で繰り広げてこられました。一つはプラスであり、もう一つはマイナスですが、これが一つとならなければなりません。アルファとオメガが、一つに終結されなくてはなりません。真の父母から出発しなければならない歴史であるのに、人間が真の父母をなくして、偽りの父母の息子となってしまいました。そのため、真の父母を復帰して、神様の前に今再び進み出せるようになるとき、平和の園が開放されるというのです。
それゆえ、このような心情的な因縁をもたない限り、神様の息子、娘となることはできません。お金や世の中の地位、権力、私の息子、娘、これらのものはみ旨をなす条件にはなりません。何の条件にもなりません。条件になるとすれば、それらを探していけばよいでしょう。しかし、そのようにしても神様の息子、娘となることはできません。
今後、この民族、この世界の前に、新しい理念をもって出てくる教会が現れるとするなら、全世界が反対して追い出したとしても広まっていくのです。打たれるその場から生成され、繁殖し、打たれるその場で根を下ろし、打たれるその場で希望をもって、打たれるその場で生きた姿となっていく所があるのですが、そこを訪ねていきなさいというのです。
もし皆さんがそのような所を探し出したなら、皆さんは歴史的な心情、時代的な心情、未来的な心情を激動させ、自らのすべてを捧げて、無限に伸びていき、最大の限界を超えることができる境地に立たなければなりません。そういう境地で父を呼ばなければならないのです。「お父様」というその一言で
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16. 神様の一線に立つ私たち
一九六〇年十二月十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十一巻』
この時間、皆さんと共に考えようと思うみ言の題目は「神様の一線に立つ私たち」です。
この天地に中心がなくてはならないということを、私たちは切実に感じています。個人において見ても、誰でも自分の人格が、人にあれこれ言われることのない、絶対的な思想や主義を中心として維持されることを願っています。
家庭においても、同じことがいえます。ある団体を見ても、やはり中心と一つになり、中心が動けば共に動きながら、闘争の路程を経て一つの目的に向かって進んでいます。さらには国家も同じなのです。いかなる力によっても動かされることのない、磐石のような中心をもった国家だとすれば、誰もその国家をのみ込んでしまうことはできないのです。
◆絶対的な中心と関係を結ぶことができずにいる被造世界
この世界に生きているすべての人々は、共に良心を持ち合わせています。歴史的に見ても、人間はこの良心を中心として善に従っていく生活をしてきました。また、新しい歴史を探すために努力してきました。
それにもかかわらず、私たちは、人間が悪の関係から抜け出すことができず、善を追求しながらも苦痛を受けている実情を見ることができます。これを見る時、世界を動かすある不変なる中心があって、その中心が人間を絶対的に一つの基準に連結しようとしていることが分かります。
小さな私という個人から、広くて大きなこの世界に至るまで、その中心に連結される形態と現象は各々違ったとしても、原則的な方向は一致していなければなりません。一致した立場に私たち自身が置かれていなければならないし、また、この世界が置かれていなければならないというのです。
それゆえ、この地に生きている世界人類と宇宙は、変わることのない一つの不変なる中心と不変なる基盤を備えてその位置をつかむことで、問題の解決点を見つけることができるのです。世界がこのようであるならば、天地を創造された絶対者も同様なのです。被造世界は、「絶対者の理念が反映された世界である」と言えるからです。
したがって、この被造世界は創造したその主体と渾然一体となって、不変の中心と一つとなり永遠なる位置を定め、天が良ければ良しとし、天が動けば動くことができなければなりません。被造世界が、そういう一つの絶対的な不変なる中心を探す日には、私たちの良心が位置を定め安息の基盤を探して、考えもしない中であっても結果的な目的を成し遂げるようになり、楽しむことができます。
今日、この世界、さらには天と地、天宙に存在するあらゆる個体が、不変の中心をもってその位置を定めて生活路程においてその価値を表しているでしょうか。そのようにはできていないのです。極めて、小さな分子を見ても、中心と相対的な関係を結んで存在しています。このような絶対的な原則は、誰も否定することはできません。絶対者が主体として被造物を創造したとするなら、その主体である絶対者と相手となる被造物は、離そうとしても離すことのできない不変の関係になければならないのです。それは必然的な事実です。
最初から天地がそのようであったならば、今日私たち人間は、苦痛な環境とは何らの関係もなかったであろうし、不安と恐怖という単語さえも私たちとは関係がなかったのです。また、悲惨な歴史や惨めな戦争、闘争史も存在しなかったはずです。
そうであったならば、目的とする価値も結実され、その価値と共に楽しむことのできる環境に入っていったでしょう。また私たちには、限りなく平和で自由な理想世界が広がっていたはずです。しかし、そうではない現実に置かれている私たちであり、家庭であり、社会であり、国家であり、世界なのです。
◆人間が置かれている実状と絶対者
摂理のみ旨を成し遂げていく中において、涙の峠を避けられないこの悔しい事情があるのは、どうしてでしょうか。それは人間が、絶対者が指向する一つの位置をとらえることができず、変わらない位置で変わらない関係を結ぶことができなかったためなのです。そのために、このような結果となったとしか断定することができないのです。
どんなに天下に名声を得、号令できる者がいたとしても、ひっくり返すときには、彼も倒れる運命に置かれているというのです。それゆえに、歴史路程において民族を指導した中心人物、あるいは愛国者、天を中心としてこの世界人類の前に善に接近することのできる真理を表明する多くの聖賢、賢哲がいましたが、彼らも歴史的な批判の対象となり、また歴史の祭物となって消えていったのです。
私たちがもっている現在の主義や思想、私たちがもっている観念、また私たちが立てている生活の目標等は、どのようなものでしょうか。それらもやはり、変わることのない徹頭徹尾原則的な中心が現れるまでは、一つの過程的なものにすぎません。過程的なものは一つに合わさることはありません。
完全無欠な中心が立てられるときには、自分のそろえたものを天下に自慢すればするほど、かえって恥ずかしいということを知らなければなりません。天下を動かすことのできる成功者だとしても、何かが自らの心を揺さぶっているということを感じざるを得ないのです。それは、ある絶対的な一つの完全な存在、変えようにも変えることのできない明確な一つの核心存在がこの世界に侵入して、この時間も動いているためです。良心をもった善なる人々は、それに向かって前進しています。
私たちは中心を失った人間です。これを宗教的な用語で言うと、「堕落の報応」だと言うことができます。恨めしく、悔しい堕落の報応です。これは創造以後、堕落の歴史路程をたどってきた私たちの先祖も願わないことであり、現在の人間も願わないことです。また、未来においても願わないことなのです。このような嘆かわしい汚点と、嘆かわしい堕落の報応として、人類は四方に追いやられ、あちこちに倒れ、敷かれながら死の道を歩んできました。このような中に生まれた人間であるために、苦痛を感じるのです。
天が願わないのに堕落してしまいました。これをどうすればいいでしょうか。もしこれを解決できる神様がいらっしゃらないとしたら、極めて悲しいことです。今日私たちは、左右二大陣営に分かれて対決していますが、いまだこの歴史的な苦痛を解決できずにいます。
私たちは一つの新しい世界を生み出さなければならない立場に置かれているのですが、人間が構想し計画したものをもってしては、理念に染まり、思想に染まり、主義に染まっている私たちの心を元に戻すことはできません。私たちは、自ら自分の体のあらゆる細胞と神経を動員して、全力で新しい園、新しい理念世界に向かって走っていくようにすることはできません。このことは、人間ではない絶対者、天宙の中心価値を決定することのできる一人の方を通さずには、解決できないのです。
有り難いことには、それは、この世のどのような主義でもなく、どのような団体でもなく、どのような指導者でもないのです。こういう惨めな環境を解決できる方法をもった絶対者が、いらっしゃるのです。中心を失い、本郷を失って、何らの価値も見いだすことのできない破滅した人類を、救い出すことのできる神様がいらっしゃるという事実以上に、有り難いことはありません。ゆえに、主義や思想を越えて、自分の人格と価値を越えて、神様を尊重しなければなりません。良心がある限り、これを否認することはできないでしょう。
◆私は誰のために存在するのか
歴史は、ひっくり返ってきました。左が右になり、右が左になり、前が後になり、後が前になり、上が下になり、下が上になりながら、四方八方にひっくり返ってきたのです。一日の生活もそのような生活であり、一生もまた同様だというのです。家庭生活や社会生活も、そのような環境でひっくり返っているのです。左が右になり、右が左になり、上が下になり、下が上になり、前後がひっくり返りながら変遷してきた歴史路程において、天は一つの解決点を探しています。
私たちは誰のために生きていて、誰のために働いているのか、ということが問題なのです。上が下になり、下が上になり、前後が替わり、左右が反対になるというような恨みがあったとしても、また右に立たなければならないのに悔しくも左になってしまうような恨みがあったとしても、天のために存在する人とならなければなりません。
何度も何度も倒れながら、この作戦をなしてこられた神様がいらっしゃる、という事実を人間は知りませんでした。それゆえ善を指向してきた人々、すなわち道に従ってきた善なる人々は、その時代時代ごとに残酷な目に遭ってきました。彼らは、位置が変わるたびに肥料となり、時代が変わるたびに肥料となりました。時代の変遷に従い、悔しくも、多くの血と汗と涙を流したのです。彼らは、当時においては滅びた者であり、かわいそうな者であり、恨まれて当然な者として、民族の怨 讐として消えていくかのように見えました。
けれども彼らの目標、彼らの中心、彼らの生活感情は、ただひたすら一つの理念を探し出し、摂理の中心に向かっているものであり、ひいては神様に向かったものでした。このようなことを徹頭徹尾担ってきた人々が、歴史をひっくり返したのです。滅びるかのように思われた者が歴史を目覚めさせ、失敗したかのように見えた者が歴史を収拾したことは、歴史路程が立証する事実なのです。
今日、私たち自身はどこにいるのでしょうか。どんなに中心を定めることのできない混乱した環境に面したとしても、いかなる死の立場に陥ったとしても、自分自身が誰のために存在するのかということを知っていなければなりません。これを教えてあげたいと思うのが、神様の心なのです。これを万民の前に教えるために神様は、宗教の歴史を通して、メシヤと救援思想などを前面に押し出してこられました。
それゆえ私たち自身は、誰のために存在しなければならないでしょうか。天のために存在しなければならないのです。死んでも天のために死に、生きるとしても天のために生きなければなりません。死んでも天のために死に、生きるとしても天のために生きなければなりません。そのような者は、死んでも死んだ者ではありません。
どうせ歴史はその世紀、時代時代を経てきながら前後が変わり、砕けてしまうのです。その時代にどんなに大きな成功を収めたとしても、それが天地の中心と接することもなく、神様の目的と通じないとするならば砕けるのです。また、その当時には砕けなかったとしても、時間的な差があるだけであって十年、百年、あるいは何世紀かのちには必ず砕けてしまうのです。このように、前後がひっくり返る歴史路程に置かれている私たちなのです。
このような歴史路程に処した私たちなので、どんなに家庭をつかんで、息子をつかんで愛したとしても、それもやはり一度は変わるのです。六千年歴史を経てきたので、この心情の中心はいつか必ず一回は変わらなければならないのです。今まで人類歴史路程において生活を通した事情は毎年変わり、世紀ごとに変わり、時代ごとに変わってきました。全部が一度は変わってきたのです。
終わりの日とは、いかなる時でしょうか。心情的な中心が、人間自身も知らない間に変わってしまう時が、終わりの日なのです。その時には、この世のものすべてが変わるはずです。
今日までの人倫道徳は、父母が息子を愛し、息子は父母に孝行し、夫婦の間には区別がなくてはなりませんでした。これは三綱五倫の礎石として今まで伝わってきましたが、これもやはり変わりつつあります。このように既存の慣習と規範などが自然に変わる気勢が社会環境や、生活環境に浸透してくるのが終末なのです。世界的な指導者、あるいはメシヤがこの地に現れるとするならば、その方はこの問題を収拾しなければなりません。ですからイエス様はこの地に来て、「誰よりも私を愛しなさい」と言われたのです。
異口同音に「終末だ」と言うこの時に、私たちは「自分は誰のために存在しているのか」を知らなければなりません。自分自身のために存在してはなりません。国のために、世界のために存在しなければなりません。ひいては、ある主義や思想を土台として、天と地のために存在しなければなりません。天と地のために存在しているのだ、という自負心をもって現れる群れとならなければならないのです。
今日、すべての宗教は「地」を「怨 讐だ」と言っています。しかし「地」に怨讐として対するのではなく、一つの目的を遂げるための対象物として対さなければなりません。そうして、天と地が私のものであり、私は天と地のために存在していると自負できなければなりません。
絶対者がいらっしゃるとするならば、その方が立てようとされる主義と思想、理念は、どのようなものでしょうか。天と地のために生きなさいということなのです。ひいては、「自分は神様と人類のために存在している」と言い、自らその価値を尊重し、自らその位置を評価し、自らその方向に向かって徹頭徹尾進んでいくと、自負して立ち上がる群れがこの地に出てこなければならないのです。これは天が願われ、今までの人類歴史が願ってきたことなのです。
◆神様の摂理が終結するためには
人類歴史が一つの目的世界に向かっていく過程で、数多くの民族がばらばらになり、変わってきました。一つの帰結点を探し立てようとなさる神様の摂理も、そのような路程をたどるのです。ここで最後まで残って歴史を収拾することのできる理念は、天のため、地のため、人類のためとなる理念です。
人類を通じ、神様を通じ、天地を通じることのできる心情基準をもった、自らの価値を天上天下に自慢することができ、謳歌することができる人々が現れなければなりません。ひいては、「地と天と神様は私たちのものであり、神様は私たちの父であり、私はその方の息子だ」と、自信をもって言うことのできる群れが現れなければなりません。
今まで家庭をもつことのできなかった神様であり、国をもつことのできなかった神様であり、また世界を動かしてみることのできなかった神様なのです。その神様がこのような個人を探し出したとするならば、神様は、その人を中心として社会の基本となる家庭の形態をそろえ、その家庭を中心として社会を形成し、その社会を中心として民族を形成し、国家を建てるでしょう。そして、新しい主権世界に向かって出発することができるでしょう。
神様は、この地にメシヤを送られ、彼を新郎とし、「人類は彼の新婦である」と言われました。これは、歴史路程において神様が探してこられた第一基準の父と息子、娘、すなわち真の父母と真の息子、娘の基準を立てて、新しい歴史のページを記録するための基点として立てたのです。
今は、気を引き締めなければならない時です。自分がもっているものを再び考えてみなければならない時です。さじをつかんでもう一度考え直し、目の前に見えるすべての万象に対して再批判して、自らの生活的なすべての条件を再び収拾しなければなりません。天心を通じて、どれが正しく、どれが間違っているのかを冷徹に判断して決定し、正しいものを選択して、間違ったものは切ってしまわなければなりません。
最後の時には、そのようなことが起きなければなりません。自分のためにではなく、神様のためにです。神様のためにするときには、自分自身が間違っていれば自分を切ってしまい、家庭が間違っていれば家庭を切ってしまい、民族と世界までも未練なく切って越えていくことができなければなりません。自分自らが誤ったすべてをあきらめ、変わることのない一つの中心と通じることのできる位置と方向をそろえ、生活の中で、目的の主体であられる神様の価値をたたえることができなければなりません。
そのような人がいるとすれば、彼は人生行路において大勝利者なのです。人間はそういう過程を経ていかなければなりません。多くの人々が滅び、多くの民族が滅亡するようになったとしても、神様の摂理のみ旨を終結させようとするならば、そのような核心的な過程を経ていかなくてはならないのです。
私たちは星回りが良かったからなのか、あるいは運が良かったからなのか、時代的な恩恵を受けて良い時代に生まれました。むちで打たれたとしても直接打たれ、賞を受けたとしても直接受けて、話を聞いても直接聞き、しかられるときも直接聞くことのできる時に生まれたのです。
この地上の人間は今まで、何を支配してきましたか。物質を支配し、体を支配するのに全力を尽くしてきました。その反面、宗教は物質と体を切り離し、良心を支配してきました。これが二つに分かれた歴史路程なのです。私たちは知りませんでしたが、歴史路程において神様は、良心的な歴史の因縁を広めて一つの中心理念をもった存在を立て、人間が彼と一つとなるようにするための目的をもってこられました。
今から二千年前、すなわち堕落以後四千年ぶりに、良心の方向を失った人間たちの前に、磁石のようにプラス的良心型で現れた人物が、イエス様なのです。彼は真の人、善なる人でした。
◆歴史の帰趨と修道の道
歴史はこれから、どのようになるのでしょうか。何を中心として帰結されるのでしょうか。物質と体を中心とした歴史的な観や、理念、主義や思想は、世界の基盤となることができません。世の中の因縁を切ってしまい、良心に従って善を指向して立ち上がった人々、すなわち修道の道を行く人々が世界の基盤になることができるのです。彼らの進む姿は哀れなものです。顔を見ても、境遇を見ても、かわいそうな人々なのです。その道でみ旨を成し遂げられなければ、倒れて滅びるのです。
私たちがイスラエル歴史を詳しく見ても、その道は行って、再び帰ってくることのできない道であることが分かるはずです。帰っていく日には死ぬようになります。イスラエル民族がエジプトを喜んで脱出し、荒野に向かって力強く走り出す時には語ることのできない希望と願いにあふれていましたが、その道は悲惨な道でした。ふろしき包みも持っていくことのできない道であり、楽に寝られるふとん一つも持っていくことのできない道でした。みな投げ打って出ていかなくてはならない道でした。その道は、食うに事欠く道であり、のどの渇く道であり、旅人の道であり、ぼろをまとう道であり、病んで倒れる死の道だったのです。
今日まで人類歴史の路程を経てくる間、修道を愛する数多くの人々は、そのような道を歩んでいきました。その道は、愛する息子、娘を捨てていかなければならない道、天的な因縁をもって死んでもその道で死ぬべき道、一生を懸けていかなければならない道です。骨と身をえぐるような苦痛に涙を流しながらも、愛する家族をさて置いて、独りで行かなければならない運命の道です。そうかといって、この道を行くにおいて明確な目的があるわけでもありません。漠然とした道です。修道の道を探してさまよう人は、実に哀れなのです。同時に、そのような道をたどる家庭も、民族も哀れなのです。
天を直接裏切ったイスラエル民族であり、天のなそうとしたことを台無しにしたイスラエル民族なのです。唯一神の理念をもって、どこに行ってもその中心だけは失わなかった彼らは、行く所行く所で虐殺され、虐待を受け、寂しく移り歩きました。天の歴史がそうなのです。その道は、二人で行くことはできません。ただ一人で行かなければならない道です。
このような歴史路程で、世の中は世の中なりに、天は天なりに行くのではありません。「個人を立て、家庭を立てた」と言い得る基準を立てておいて、その個人を再び引き出しては帰さなければなりません。
四千年間そのような道を行った人々、その全体の価値を代表して再び送られた一人の方が、正にメシヤなのです。このメシヤは私たちの先祖が流した血の結実体であり、犠牲の結実体であり、苦労の結実体であり、涙の結実体であり、汗の結実体です。また先祖たちの復活体であり、怨讐を打って先祖の恨みを解くべき中心存在であり、カナンの約束を受け継いだ方なのです。
◆神人平等の時代が来なければ
今日の世界は、体と物質のために闘う世界です。いくら経済学、科学、思想が発展したとしても、それが私たち人類に平和をもたらすことはできません。心の世界に入ってこの肉体と物質を再鑑別することのできる主義や天的な動きが、歴史的な終末時代に現れない限り、この世界は滅びるでしょう。
今や、天が間違いなく一つの中心を決定づけるべき最後の時代となりました。このような時代に生きている私たちは、この多くの問題をいかなる立場で解決し、清算すべきでしょうか。この問題が世界的に広がり二つの思潮として現れたのですが、一つは唯物史観であり、もう一つは唯心史観です。地や体と共に行くならば滅びてしまいます。それゆえ、神様と共に清算しなければならないのです。
ここにあって私たちが唱えるべきことは心ですが、この心の主体とは誰でしょうか。心の主体は神様です。しかし漠然とした神様ではありません。神様を中心とする時が来ました。数千年の歴史路程をたどってきましたが、神様を中心して進もうという主義や思想は出てきませんでした。どの民族、どの国家の理念や主義思想も、神様を中心にして主張することはありませんでした。今後は人権擁護時代を超え、男女平等権を主張する時代を超え、神権を擁護して、神様と私たち人間が平等であるというところまで進まなければなりません。
神様が神様としての本分を一度として発揮できなかったのは、神様と人間が平等な立場に入ることができなかったからです。神権が擁護されなければなりません。私たちを造られた主体とは何らの関係も結ぶことができず、接しようとしても接することのできない立場では、平等とか自由などはあり得ないのです。神様と平等なところに行かなければなりません。
その場に行くには涙なくしては行けず、深く悔い改めて胸を打たなくてはなりません。神様をまっすぐに見ることのできない立場を超えて、自由と平等を唱え「私のお父様」と呼び掛けるとき、神様が「おお」と答えられるようなところに行かなければなりません。
イエス様が復活したのち、マグダラのマリヤが抱きつこうとしたとき「触るな」と言われたのは、まだ時ではなかったからです。終わりの日とは、神様が愛の手を伸ばし「私の息子、娘よ」と言って万民を抱くためにいらっしゃる時なのです。ゆえに、神様と人間が共に自由を天地で謳歌できる時になれば、神様の復帰歴史も終わり、私たち人類の願いもすべてなされるようになるのです。
今まで人間は、その時のために神様が働いてこられたことを知らず、寝てばかりいました。自分の子女を愛して生きていながら、そのような人間を眺めながら涙を流される神様がいらっしゃることを知りませんでした。人間は平和な家庭、自由な家庭を謳歌しましたが、神様は涙を流してこられたのです。「お前たちは私の息子、娘であるけれども、怨 讐の家庭に入っていき平和を謳歌しているんだなあ、怨讐の祭物となって苦労しているんだな」と言って涙を流してこられたのです。
◆神様の願いと中心人物が歩んできた道
神様が、怨讐の前に見せたいと思われるものとは何でしょうか。お前は私の愛する息子であり、愛する娘であると言い得る、人間の姿です。歴史路程のいかなる人物以上に愛の心情を抱いて、父と息子の因縁で渾然一体となった人間の姿を、サタンの前に自慢してみたかったのです。
しかし、このような神様の願いは創世以後、今日まで果たされていません。全世界人類は、神様の息子、娘として自由と平和のあふれる幸福の園で、神様と共に神権擁護と神人平等を謳歌して楽しく生きるべきであるのに、今嘆きと絶望の中であえいでいます。願いの主体である神様を遮っている怨讐、良心の道を混乱させるその怨讐に捕らわれてあえいでいます。
言葉なく、真と善を探して黙々と生きてきた私たちの先祖は、生涯を通して神様の喜ばれる願いの一日を待ち焦がれてきましたが、今日まで、その一日を迎えることができずにいます。その日を築く方に会うことができず、侍ることもできないならば、人類はどのようになるでしょうか。このことを考えるとき、私たちは新たに覚醒しなければなりません。悔しくて恨めしい神様がいらっしゃり、わびしくてかわいそうな私たちの兄弟がいて、神様がなそうとされた一つの主権と理念を立てることができなかった恨みが残っているというのです。皆が旅人であり、裸ん坊でした。どこかに行って一晩も楽に寝ることすらできないような道を歩んできた人々が、神様を父と呼びながら歩んできた人々です。
ノアも悔しい思いをし、アブラハムも悔しい思いをしたのです。また事情は知りませんが、その曲折と事情の対象者に選ばれた者も、やはり悔しい路程を歩みました。神様のためだという一念で歩んでいたヤコブも、ハランに向かって出ていく時、石を枕にしながら涙を流す路程をたどりました。モーセも同じです。豪華絢爛な外的なすべてのものをそろえたパロ宮中の様々な条件も、彼の心を平和にはできず、幸福で満足なものにはできませんでした。彼が処した立場は、怨 讐の立場だったのです。
モーセは、天に向かう心が切実に込み上げてきて、ついには宮中を捨て出ていきました。天が許される時を待ち焦がれていたモーセは、世の中のことが理解でき、前後を分別できる年齢である四十歳になった年に、イスラエル民族を尋ねて宮中を退けて出ていったのです。一片丹心(注:偽りのない真心)、目的に向かう光り輝く忠節の心にかられ、苦役に苦しんでいるかわいそうなイスラエル民族を尋ねていったのです。そういうモーセの歩みは悲壮だったというのです。
モーセの四十年の生涯も恨めしいものでしたが、尋ねていったイスラエル民族から裏切られたことはもっと恨めしいことでした。そうして、怨讐の国エジプトに身を置くことができず、ミデヤン荒野に行ったモーセのわびしさを、私たちは考えなければならないのです。
しかし、環境が変わって自らの体が惨めで取るに足りないような状況になったとしても、彼の一片丹心は変わることがありませんでした。自分が行く道は、歴史的な祭物の道であり、道人たちが行き残した歴史的な路程であることを知ったモーセは、歴史的な道を行く民族の友となるために努力し、未来の数多くの人間が行かなければならない修道の路程を開拓する責任者の立場で、四十年間羊を追う生活をしました。草原地帯をカナンの地と見て、草を食べている羊の群れをイスラエル民族と思い、羊を抱き締めて泣いたモーセだったのです。
その地と羊の群れを抱き締めて「神様!」と叫びながら涙するモーセを見ていた神様は、モーセの心情の基盤が祝福することのできる基準となったので「お前の立っている場所は聖なる場所である。靴を脱ぎなさい」と言われ訪ねてこられたのです。モーセはかわいそうな立場にありましたが、切実な心に満ちて叫んだので神様と因縁を結ぶことができたのです。神様のために歩む道は、このように悔しく恨めしい道であるというのです。
◆悔しく恨めしい道を行かなければならない聖徒
イスラエル民族史を収拾し、神様の恨みを解くために四千年の結実体としてメシヤとして送られたイエス様の心は、一方ではうれしかったものの、この地に来た彼の立場は、悲しくて恨めしいものでした。それは、必然的な蕩減の路程を行かなければならなかったからです。
これを御存じの神様は残念で悔しいけれども、イエス様を十字架に送り、聖霊を一つの中心としてこの地に送られました。地は母の象徴であるので、昇天したイエス様の代わりに母の立場の神様が来なければなりません。それでこの地に来て祭壇を設けて涙を流し、人間と母子の因縁を結んできたのが今までのキリスト教の歴史です。
この時代において、天の恵みを受けるのはどのような人でしょうか。安楽に寝ている者ではありません。天がいまだ安らかに休んでいないという事実を知っているとするならば、私たちはここで安らかに休んでしまうことはできないのです。この世界の前に恨めしい道を行く群れは、この世界を支配することができるのです。私たちは恨めしい思いをもたなければなりません。誰のために恨めしい思いをもたなければならないのでしょうか。自分自身のためにではなく、神様のために恨めしい思いをもたならなければならないのです。
終わりの日は、その恨みを解く時なのです。神様は、愛したいと思う心情を分け与えることができず、探そうとする民を立てることができず、探そうとする家庭を探すことができずに恨めしく思っていらっしゃるのです。私たちは、このように恨めしく思われる神様を思い、あふれる心情で世界に向かい、のろしを揚げて進みゆくことのできる群れとならなければなりません。
歴史は、東西が一つの終結点に至るためにぶつかり合って流れています。ここで倒れないで、惨めなうず巻きの中心から飛び出し、「神様、あなたの悲しみと、苦痛と、恨みの路程に私を送ってください」と言うことのできる群れ、荒野で羊を飼っていたモーセのような節義と気概をもった群れが出てくることを神様は待っていらっしゃいます。
カルデヤのウルで神様に忠誠を尽くしたアブラハムのような群れ、ハランで二十一年間神様に対して準備したヤコブのような群れを、神様は待ち焦がれていらっしゃるのです。
世界の運命は、今や生死を決着づける時に至っています。私たちが住んでいるここは、私たちの故郷ではありません。必ず行かなければならない本郷があります。私たちの先祖、アダム・エバから怨 讐までも、「ハレルヤ!」と叫び得る本郷があるのです。その本郷へ行かなければならない道が残っているのです。これを残していく者は滅びます。
◆心情で装うべき私たち
時を待っている私たちは忙しいですが、時を探してこられる神様はもっと忙しいというのです。最後まで耐えられずに疲れて倒れてしまう人よりも、そのような立場を解決してあげることができずに忍耐しなければならない立場の神様の心のほうが、もっといらだたしいものなのです。
永遠無窮な平和の王宮を建設して生きるということは、決して容易なことではありません。今の時がそのような世界を成し遂げなければならない時なので、モーセが準備し、ヤコブが準備し、アブラハムが準備し、イエス様が準備したように、私たちも準備して出ていかなければなりません。私の国のためにではなく、世界のために、ひいては天のために準備しなければなりません。
新郎を迎えなければならない新婦たちは、内外のすべての装備をそろえて準備しなければなりません。準備するには物質を準備するのではなく、心情を準備しなければなりません。人類の心情と、神様の心情と、主の心情で装わなければならないのです。天の心情が私の動機になり、地の心情が私の結果になっているので、私はアルファとオメガ的な心情の結実体として装わなければならないのです。
そうして、神様が遠く見つめていた歴史を引っ張ってきて、近くで見つめられるようにできる人物が現れなければなりません。また、希望を探していた人類が、今までのいかなる主義や思想をもみな捨てて「あなたは世界を差し出しても換えることのできない方です」と言うことのできる人物がこの地上に現れない限り、世界は滅びてしまいます。これは空論ではありません。
今は、生死がひっくり返る最後の時です。神様の一線の途上に立って最後の決断を下す時であり、勝敗を決定づけるべき時なのです。すなわち、今私たちは神様の一線に立っているのです。それではその戦いは、どのような戦いでしょうか。物質的、外的な戦いではありません。心の闘い、心情の闘いなのです。
◆神様の一線と、その一線をつくった目的
百二十年間ノアは数多くの怨 讐の群れと、頼る所なく孤独な立場で闘いました。槍を持って戦うのではなく、心で闘いました。怨讐たちの槍が体を刺したのではなく、心を刺したのです。アダム以後千六百年間傷を受けてこられた神様に代わって、心に傷を負ったのです。そうして、彼が神様の同情することのできる立場に立ったがゆえに、神様は彼を訪ねてこられたのです。その後も、千六百年間苦労された神様の一線であるその箱舟の告知を、ノアはサタンに奪われることがなかったので、神様はそれを中心として天使を動員し、洪水審判をなさることができたのです。
こうして、かろうじて神様だけが扱うことのできる第一線としてノアの箱舟を立てましたが、そこに再びサタンの一線が生じました。千六百年間悔しくも攻撃され、サタンの矢を受けなければならなかった事実をすべて整理して、一つの勝利的な一線をそろえて平和の園を立てなければならないノアの家庭に、再びサタンの一線が生じたのです。これは恨めしいことです。
ハムの失敗は、個人的な失敗に終わるのではなく歴史的な失敗であり、ノアの悔しい思いは、個人的なものではなく天宙的なものでした。ところが、このような事実をハムは知りませんでした。一個人として選び立てられたノアも、自分がそのように大きく使われていて、そのように大きな価値のある存在であることを知りませんでした。地を審判し尽くし、数多くの民族を魚のえさにしても、ノアの八人の家族だけは生かしたという神様の限りない愛を彼らは知らなかったのです。ノアの八人の家族のいる所は、神様の愛の一線でした。
それゆえ、ハムの失敗がそのように大きい恨みをもたらしたのです。神様の愛の一線が侵されるや、神様は侵されたその場所にいることができなくなり、彼らをみなサタンに差し出し、四百年間その民族を抱えて悔しい思いをされたのです。
そして神様は、二千年ぶりにアブラハムを探して立てました。かろうじて立てた神様の一線に、神様の代わりに人間を立て、人間をしてサタンを屈服させようとされたのが神様のみ旨なのです。それで神様はアブラハムを立て、続いてイサク、ヤコブの三代を経て、ようやく人間に対する作戦を開始することのできる土台を立ててこられたのです。そうして、ついにヤコブの時に達し、地上に神様に代わって一つの家庭を動かすことのできる参謀を立てたのです。ヤコブ家庭が神様の一線になったというのです。
このように個人を経て、家庭を経て、民族に至り探し立てたモーセとはどういう人であり、またイスラエル民族とはどのような民族だったのでしょうか。モーセは神様の一線の参謀総長であり、モーセに従っていたイスラエル民族は、神様の一線を守らなければならない精兵だったのです。ところがイスラエル民族は、行軍のラッパを鳴らして戦えという神様の命令を聞きませんでした。また、懇切に叫び諭そうとする参謀総長であるモーセの言葉も聞き入れませんでした。そうして、悲しみの祭物として寂しく荒野に埋められてしまったのです。
民族を探し立てた神様は、サタンを民族に任せて、ただ見つめるだけで、御自身は戦うことを避けようとされました。ところが、民族が責任を全うすることができなかったために、神様が加担して再び歴史を引っ張ってこられたのです。サタンとの戦いの一線に神様が加担することなく、人間だけで集まってサタンの城に攻め込んで、一つの世界を築けるようにしようとされたのが神様のみ意だったのです。
そのため、イスラエル民族は、神様が共にいてくださるからといって神の権限をもってするのではなく、最もかわいそうな民族の立場に立たなければならなかったのです。民族を指導しようと思えば、その民族の最もかわいそうな立場に立たなければなりません。サタン世界を指導しようとするならば、サタン世界の果てに立たなければなりません。神様はモーセを民族の責任者として立て、彼が最もかわいそうな立場で神様の心情を表してくれることを期待されたのです。
千六百年の歴史を経て時を迎えた神様は、ついにノアを立てられました。次には家庭を立て、民族を立てたのちに、イスラエルの国を立てられました。そのようにされながら神様は、個人、家庭、民族、国家の一線を失わない位置にいらっしゃらなければなりませんでした。それゆえに神様は、加重された苦痛を受けてこられるのです。民族が責任を全うできない時、神様の前に家庭が責任をもち、個人が責任を全うできないことがプラスされるのです。
神様がイエス様をこの地上に送られたのは、地上の人間として神様の一線に責任をもち、霊的な戦いを実体的に繰り広げるためでした。ところが地上の人間がイエス様を殺すことにより、イエス様と聖霊が分かれて、これまで霊的戦いが続いてきました。またその上に、肉的戦いまで加重されてきました。それで「肉を打て」と言うのです。
◆最後の一線
それ以後二千年が過ぎて、終わりの日になりました。キリスト教信者を動員し、神様が動くことのできる新しい第二イスラエルを立て、新しい時代に向かって超えていかなければならない時になりました。イスラエル民族は、イエス様のみ言を通して天国を建設する天の側の選民になるべきだったのに、その時代を取り逃がしてしまいました。それで、国家、民族、家庭、個人の苦痛を、神様とイエス様と聖霊、すなわち三位神が背負っていらっしゃるのです。
皆さんは父の恵みを願うのですが、まずその前に、その父がいかなる父なのかを知るべきであるし、信じている主がいかなる主なのかを知るべきであるし、信じている聖霊がいかなる聖霊なのかを知るべきです。このようなことを知ったならば、自分の手に傷があるからといって「神様、これを治してください」と祈ることはできないのであり、むちで打たれて倒れたとしても神様に頼る祈りはしづらいのです。
世界的な終末時代に、神様は再び歴史的な運命とともに勝利の基準を立てるため、最後の天的な一線を探し立てなければなりません。
天は私たち個人に「誰それよ、お前は第二イスラエルの天民として、この地上の怨讐を占領し、勝利の地と勝利の民をもっているのか」と尋ねられるでしょう。今がそのような時です。私は偉い、お前は駄目だとけんかしている時ではありません。全世界の宗教人が動員され、イスラエルの隊列を探し出さなければならない時なのです。
私たち自体が善悪の一線です。それが縦的に個人から家庭、社会、国家、世界まで展開してきました。今は、皆さんがこのように縦的に下りてくるものを横的に展開し、ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセとヨシュアとカレブのような立場に立たなければならず、ひいてはイエス様のような立場に立たなければならない時なのです。
この終末の時期に世界的なイスラエルを建国なさろうという神様のみ旨があるというなら、この最後の時代に追われ、追い込まれる祭物的な国家が現れなければなりません。飢えによる泣き声が聞こえなければならない時が来ました。のどの渇きにため息をついて泣く声が聞こえなければならない時が来ました。とどまる所がない旅人の身分になった民族が出てこなければなりません。
◆神様の一線に立った勝利兵となれ
私たちは天国建設のための路程において、勝利の精兵として凱旋歌を歌い、神様の前に栄光を帰さなければなりません。私たちが行かなければ神様が自ら行かれなければならないので、私たちは行かなければならないのです。
自分の生命が惜しいといってこの道に背を向ける者がいるとするなら、彼は天上にいる殉教した数千万の天の食口たちの怨讐となるでしょう。彼らが腹いせをするとしたら怨讐に向かってするのではなく、ここから追い出す者に向かって腹いせをするでしょう。だから行かないではいられない道なのです。
「私は天の祭物として、父である神様の懐に抱かれて神様と共に赤い血を流し、神様の一線に立った精兵として同志たちの腕をつかみ、体を抱き締め涙を流しながら、死の道でも行く」と決意できる人がいたならば、彼は世界を支配するでしょう。神様を自分の父として侍り、天の前に忠心を尽くす人がいるとするならば、彼は新しい歴史の最初のページに記録される使徒になるのです。
私たちの赤い血は、私たちも知らないうちに寝ても覚めても行く道をせきたてています。人間は行くべき運命から抜け出せない存在であり、どうせ一度は生死の問題を解決しなければならない存在です。それゆえ、どこへ行くのかを決定しなければなりません。
歴史の恨みをもっている私たちが、残された最後の歴史を締めくくって新しい歴史を繰り広げなければなりません。天がとこしえに抱いて大事にしてこられた天の闘争歴史の偉業を私たちが受け継いで、今まで九十九回の戦いで失敗したとしても、残ったこの一回の戦いで勝利を収めなければなりません。今までの敗北の恨みを洗い流し、歴史的な勝利を誇っているサタンを引っ捕まえて降参させ、神様の前に栄光を帰さなければなりません。
私たちが接している環境は戦場です。私たちが食べている御飯一さじ分も、着ている服一着も、目に見える天下万象すべても、戦いの条件に引っ掛かっています。これらすべてのものが私たちの手を通して、戦いの嘆きから恨みを晴らすその日を待ち焦がれているというのです。
それゆえ、天の一線の精兵としての威信をかけて勝利兵となって、神様の祝福を受ける私たちとならなければなりません。
17. 侍りたいお父様
一九六一年二月十二日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十一巻』
この地上に生きている数多くの人々は、誰であっても誰かに仕えたいと願います。体は心を中心にして仕えたいと思い、体と心は父母や恩師、あるいは指導者、あるいは国家の主権者に仕えたいと願います。すなわち、人間は対象の立場で主体者に仕えたいと思うのです。このようなことは歴史の流れに従って次第に拡大され、今は神様に侍りたいと願うところまで至っています。
◆神様に侍るべき人間
人間が理念の世界を探し求めて絶対者に侍ることができない限り、悲しみは続きます。理念の世界には人間でない絶対者、神様がいらっしゃらなければなりません。しかし、私たちはまだ絶対者に侍ることができないでいます。体は、心一つにもろくに仕えることができないでいます。そして、私たちは父母にもろくに侍ることができず、国家の主権者にも侍ることができないでいます。さらに、私たち人間を造られた絶対者にさえ、心から敬い侍ることができずにいることを否認することができません。それゆえ私たちはむちゃくちゃで、哀れな者たちです。
本来、私たち人間は貴い存在として創造されました。このような存在が、心と体が一つになれず、父母と一つになれず、理念と一つとなれない人間になりました。このように無価値になったのは堕落の報いです。ですから、心と体が一つになることを願うのは、本来の天性です。
このように無価値な人間ですが、神様はそれでも捨てることなく収拾して因縁を結ぼうとされました。しかし、人間は絶対者がいらっしゃることさえも知らないでいます。今や私たちは、私たちを無限な価値に押し上げようとする絶対者がいらっしゃるという事実を知らなければなりません。
社会に出れば、その社会の絶対者に仕えなければならないように、理念世界では絶対者に仕えなければなりません。そうなる時、世界は一つになるのです。理念をたどり、最後には絶対者であられる神様、唯一無二の創造主であられる神様に侍ることができるなら、どれほど幸福なことでしょうか。私たちが最後に侍るべき方は、絶対者であられる創造主、神様です。その絶対者は私たちの父です。その父に侍るために、私たちは求めていっているのです。私たちはこの父と一つになるまで進まなければなりません。
私たち人間は、世の中のことをもっては満足を感じることができません。天地を溶かし出すことができる絶対者に侍る所でのみ、最高の幸福を得ることができ、最高の価値を与えられるのです。このために人間は、きょうもあすも進んでいくのです。宗教というものは、この絶対者と内的に因縁を結ぶようにするのです。外的な面ではなく、内的な面で摂理し、出てくるのが宗教です。外的な面は悪が支配し、内的な面は善が支配しています。この善を中心として、理念の世界を成し遂げなければなりません。善の理念は内的な反映によって成り立っているのです。内的な面を無限に追求して理念の世界を探し出し、最後には創造主を探し出して、永遠にその方に侍り、その方と共に楽しみながら生きようとすることが、宗教家の追求することです。
◆神様の隠れた摂理
今この世界は、外的なものと内的なものの相対的な二つの形態に分かれています。すなわち、外的な面を追求する共産主義と、内的な面を追求する民主主義に分かれています。ここで私たちは、何を追求しなければならないのでしょうか。無窮無尽な内的な面を追求しなければなりません。そうかといって、神様が民主主義を表面的に導いていらっしゃるかといえば、そうではありません。後ろから押していらっしゃいます。しかし、この民主主義も世界的な理念を中心として進まなければ滅びてしまいます。
今日の民主陣営が互いに団結して新しい内的な一つの形態を整えるまでは、天がしなければならない、その何かが残っているということを私たちは認めざるを得ないのです。私たちは現時代の思潮に浸り、それで喜んで満足してはなりません。表面に現れた文化的な恩恵や社会的な享楽の踏み台を通じて楽しんで生きるのではなく、そこから一歩進んで内的な面、すなわち私たちの心と接することができ、私たちの心と因縁を結ぶことができる宗教を研究して求めなければなりません。そのようにしなければならない時が、今後迫るということを皆さんは忘れてはなりません。ですから、最後にはこの地上を捨てることなく、この世界を抱くために役事する絶対者がいらっしゃるという事実を発見した者だけが、新時代の王子になるでしょう。
今日まで表面上に現れた宗派や教派の教理が、この生涯において全体の代わりをすることができず、創造主である神様との因縁を認めることができなければ、それとの因縁を切ってしまわなければなりません。神様がいらっしゃるならば必ず一つの目的、一つの理念を達成して、全人類が神様に侍ることができるところまで導く摂理をされなければならないのです。
そのように見るとき、神様の摂理は表面的に現れた教派ではなく、表面的に現れた現実のいかなる主義でもありません。神様はその裏面で新時代の新しい歴史を図り、隠れた摂理をしていらっしゃることを私たちは推理で察することができます。もし、この世界をこのままほっておけば滅びてしまいます。
では、神様が直接支配なさることがあるとするなら、それはどのようなものでしょうか。ここで私たちは人類愛を提唱しなければなりません。言葉だけではなく、自分自身が実感的に体験でき、写実的に感じることができる神様を求めなければなりません。私たちが「神様」と呼ぶ、その神様は観念的な存在ではなく、実証的な存在です。信仰の対象としての神様ではなく、生活の中心としての神様です。そういう絶対者と因縁を結んで生きる群れが、この終わりの日に現れないとするなら、この世界は正に最後の難局にぶつかると見ざるを得ないのです。
しかし、創造主である神様がいらっしゃる限り、決してこの世を滅びるようにそのまま捨てておかれはしないのです。したがって、滅びないようにするために、神様と私たち人間が共にする摂理の形態が、どこかに現れなければならないのです。では、まず皆さんがどのような姿にならなければならないのでしょうか。神様を創造主、すなわち主人として仕えることより、神様を心情的に父と呼ぶことができなければなりません。観念的でなく、神様は私の父であるということが、体と心にしみるように感じられなければなりません。このような体験をすることのできる摂理的な形態が、必ず現れなければなりません。
◆父子の絆を結んであげようという神様
今まで私たちは観念的に神様を呼んできました。宗教的な主体としてのみの神様を呼んできました。しかし、そうではありません。神様は生命の主体であると同時に生活の主体であり、生活の主体であると同時に理念の主体です。しかし、どんなにその理念の主体が広く、大きいとしても実質的にそれを生活感情で分析し、体験しなければなりません。もし、生活で体験するその理念の価値を、存在している何ものとも替えることができないと自慢することができる場に立った者がいるとするなら、彼は神様が探し求めている人に違いないはずです。
私たちが感謝すべきことがあるならば、それは神様を父と呼ぶことができ、父に侍ることができる因縁を結んでくださることです。これ以上価値あることはありません。神様は堕落した人間を収拾して最大の価値を賦与したいとされるのですが、それはこの人類に対して親しく息子とし、娘とするということです。こういう心情を抱き、訪ねてこられるということを皆さんは体験しなければなりません。言葉だけではなく、体験しなければならないのです。
私たちはこのように訪ねてこられる神様に、必ず侍るべき運命に置かれています。皆さんがいかなる指導者に仕えているとしても、その指導者は皆さんが永遠に仕える者ではありません。今日この地上にいかなる理念を主張する代表者がいるとしても、その代表者も永遠に仕える者ではありません。私たちが永遠に仕え、永遠に共に生きなければならない方とは誰でしょうか。それは正に永遠無窮に存在される神様です。皆さんはそういう立場に立たなければなりません。一から千万事に至るまで、神様に侍って生活できるところまで進まなければならないのです。
世の中では、ある主権者の息子、娘であると自慢しています。ある会社の社長の息子、娘であると自慢します。しかし、それは問題ではありません。それは、あとでなくなるのです。本当に自慢できるものがあるとするなら、それは善の理念を通して天地万物を造られた創造主である神様に対して、皆さんが父と呼ぶことができ、その創造主が皆さんに対して息子、娘と呼ぶことができるということです。それ以上の場がどこにありますか。
「神様は愛だ」と言われました。やはり神様は愛の神様です。なぜ愛の神様でしょうか。人間が求めている最高のことを人間の前に約束され、人間を導いてこられたからです。私たちは神様を言葉だけで「父」と呼んでいますが、その内容を知らずにいます。実はその内容を体得しなければなりません。私たちは今まで、天にいらっしゃる真の父、全宇宙を造られた創造主を「父」と呼んできました。しかし、その父を本物の父として侍ったかといえば、そうではなかったのです。名前で満足される神様ではないのです。実体の中心として父子の絆を慕われ、来られた神様であるということを私たちは知らなければなりません。救いは名前で得るのではありません。実体によって救いを得るのです。名前で因縁が結ばれるのではなく、実体と因縁が結ばれなければなりません。創造の名前に由来した因縁は、決定的なものにはなり得ないのです。
◆神様は私たちの真の父
それでは、皆さんは果たして絶対者に対して名前でなく、実体で神様と呼ぶことができる所に入っていますか。問題はここにあります。人間が堕落しなかったならば、神様はどのようになられたのでしょうか。人類が堕落という悲痛な運命に遭遇しなかったならば、どのようになったでしょうか。言うまでもなく幸福になったのです。その幸福は人間を中心としたものではなく、創造主を中心にしたものです。必ず創造主を中心にして幸福を主張し、善の理念を主張するということは間違いない事実です。そうなれば、皆さんの心にも体にも創造主が共にあるのです。皆さんの生活でも、皆さんの一生の路程でも同じことです。私たちの考えと感情、感覚までも創造主と共に因縁を結ばずにはあり得ないというのです。
このようになるべき人間が堕落することによって、生活も生涯路程もそのようにすることができずに、自分を中心として生きています。堕落したこの地上で主張する主義や、国家的な理念を中心として生きています。そこで忠誠を尽くし、孝行をする人は多いのですが、絶対者であられる神様を父として仕える真の孝子、孝女はこの地上にいないというのです。神様は全天宙を創造された創造主であると同時に、私たちの真の父であるということを、私たちは知らなければなりません。
その真の父は、私たちを訪ねてこられるのです。いかなる運命の曲折に処しても、その曲折を超えてその真の父の手をつかみ、歴史的な願いと自分の生涯の願いの心情を抱いて、「私のお父様」と、最後の一言を残すまで人間は行かなければなりません。死の道が横たわっているとしても、そこまで行かなければならないのです。終わりの日、人類の中でそういう道を走っていって創造主、絶対者、すなわち神様に対し「私の父」と呼ぶことができる群れが出てくるとき、そこから神様の新しい経綸は始まるのです。
神様は心情の主体であられます。それゆえ、神様も無限に悲しい感情をもち、無限にうれしい感情をもっていらっしゃいます。神様だからといって、うれしく良い感情だけをもっていらっしゃるのではありません。悲しみであれば、人間が到達できないほどに、深くて広い悲しみの心情をもっていらっしゃる方であるということを知らなければなりません。
人間は堕落することによって、神様に到底話すことのできない悲しみを贈り物としてしまいました。苦痛を贈り物としてしまいました。迫害を贈り物としてしまいました。死を贈り物としてしまいました。人間が最も嫌うすべてのものを、神様に任せてしまったのです。神様は今まで人間から、善の贈り物、喜びの贈り物、満足の贈り物、喜楽の贈り物を受けたことがありません。罪は人間が犯したのに、その罪を謝罪しなければならない方は神様であるというのです。恨めしい事実なのです。罪を犯したならば、その罪を犯した者が謝罪しなければならないのが原則ですが、罪は人間が犯して、罪を謝罪することは神様がしなければならないとは、これは何の縁ゆえなのでしょうか。父子の因縁があるためです。
◆神様が因縁を結ぼうとする目標
神様は天地万物を創造され、その万物を主管できる人類の先祖を立てたのち、そこに希望を置かれました。創造理念を中心として、アダムとエバを希望の実体として眺められました。アダムとエバが成長してから、神様は彼らを訪ねたかったのです。どこにでしょうか。彼らの心の中に訪ねて入っていこうとされたのです。心だけでなく、心情の深い所に落ち着こうとされたのです。神様が人間を創造された目的は、神様の心情を人間の心情の深い所に植えることです。その心情が植えられることを願ってこられましたが、途上で折られてしまいました。これが堕落です。
パウロは、「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」(コリントⅠ三・一六)と言いました。しかし神様は、今までそのようにしていらっしゃらなかったのです。なぜでしょうか。罪悪となったこの地、罪悪の侵犯を受けている環境だからです。神様が創造当時に立てた理念と心情を通じた生活を営むことのできない人間になったがゆえに、観念的には侍ってきたかもしれませんが、生活においては神様に侍って生きる人間になれなかったというのです。神様は、このようなすべてを清算して親しく人間の心情に落ち着き、人間と共に生きる一日を訪ねてこられるということを、皆さんは知らなければなりません。
神様が人間を訪ねてこられるとするなら、どの程度まで訪ねてこられるでしょうか。人間の心の深い所まで訪ねてこられます。それゆえ、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と言われたのです。私たちの心の小さな部分までも残しておいてはなりません。心をすべて尽くさなければなりません。神様は私たちの心の深い所まで訪ねてこようとされます。その次は、私たちの体を訪ねてこられます。私たちの体の細胞一つにまで訪ねてこられます。さらに、私たちの生活を訪ねてこられます。心と体すなわち、皆さん個人を訪ねるのはもちろんですが、私たちの生活の極めて細かい部分にまで訪ねてこられる神様であるということを、皆さんは知らなければなりません。これが神様が愛を中心として因縁を結ぼうとされる目標です。
皆さん、愛する人を愛すれば愛するほど、その人の深いところまで因縁を結ぼうとするのが原則です。一言でも自分と反対になったり、一つでも自らの願いと対立することがあれば受け入れません。そうではありませんか。それだけに、天地を動かすことのできる根本的な心情をもった神様が私たちを訪ねてこられるとき、私たちの心の底までも、ほこりと傷がない善の場で因縁を結ぼうとされ、私たちの体とも、そのような場で因縁を結ぼうとされ、私たちの生活とも、そのような場で因縁を結ぼうとされるというのです。
◆最後の解決点は神様を中心とすること
では、訪ねてこられる父に必ず侍るべき私たち自身は、果たして今いかなる場にいるのかを深く考えてみなければなりません。神様の前で、「私が持っているこれは良いと思いますが、神様もこれがよろしいですか」と言って「そうだ」と認定されれば、それは心配ありません。認められればそれを所有できますが、認められないときには所有できません。
神様は私たちの体を認めることができません。なぜなら、堕落の子孫であり、堕落の血統をもって生まれた私たちの体であるからです。また、神様は皆さんが今までもっている良心を、ある程度は受け入れることができますが、全体的には受け入れられません。皆さんの良心は環境の支配を受けています。神様が立てた本然の良心の基準は、今皆さんがもっている良心の基準ではないのです。神様の良心が基準です。また、体も皆さんの体が基準ではなく、神様の体が基準です。また、生活も皆さんの生活が基準ではなく、神様の生活が基準です。この生活を通した環境があり、環境を通した理念の世界があるのです。
人間は堕落したその日から、天と因縁を結ぶことができませんでした。私たち個人が天と絶対的な因縁を結ぶことができず、私たちの生活が天と絶対的な因縁を結ぶことができず、私たちが生きている社会、国家、世界が天と絶対的な因縁を結ぶことができなかったということを否定できません。これをそのまま抱き締めて神様の前に行ったとしても神様に認められることはなく、その方と因縁を結ぶことはできません。なぜでしょうか。天の原則がそのようになっているからです。
では、何を因縁の中心にするのでしょうか。あらゆる問題を解決することができ、処理できる中心の条件とは何でしょうか。それは私たちの良心でもなく、この地上にあるいかなる理念でもありません。それは正に神様です。神様は、神様の心情と、神様の心と、神様の体が一つになったその基準を通して、願う世界を達成されようとなさいます。絶対者がいるならば、必ずそれを中心にしてこの世界を収拾しなければなりません。今日、全世界に散在している人類が知らなければならない最後の解決点とは何でしょうか。いかなる主義でもありません。アメリカのような先進国でもありません。いかなる英雄でもありません。いかなる聖賢でもありません。最後の解決点は神様です。神様の愛、神様の生活、神様の心、神様の心情、神様の世界、神様の主権、問題はここにあるというのです。人間を通した世界ではありません。
◆復帰歴史は救いの歴史
この地上には、数多くの人が生きています。しかし、その中の一人をつかんで、神様が「君の心は私の心でもあり、君の心情は私の心情でもあり、君の体は私の体でもある」と言うことのできる人がいないというのです。ですから神様は、「君の心は私の心でもあり、君の心情は私の心情でもあり、君の体は私の体でもあり、君の理念は私の理念でもある」と言える代表者を、この人類の前に送らなければならないというのです。そうしてこそ、そのように言えるのではないでしょうか。それでこそ神様です。それでこそ人類に対して救いの摂理のみ旨を置かれた神様になるのであり、代表者を人類の前に送ってあげない限り、神様は信じられないのです。
その代表者として送られた方が、正にメシヤです。救い主です。どのような救い主でしょうか。私たちを死の場から引っ張り出して生かしてくれることはもちろんですが、神様に代わって私たちを神側に引き上げてくださる救い主、言い換えれば、人類全体の願いを達成させられる救い主です。
では、神様はいかなる救い主でしょうか。心の救い主であり、体の救い主であり、心情の救い主であり、生活の救い主であり、理念の救い主であり、天宙の救い主です。復帰歴史は救いの歴史です。神様は、そのために摂理してこられます。しかし、神様は物差しをもたない無形の神様であられるので、実体をもった私たち人間と関係を結ぶために、堕落して神様がいるのかいないのかも分からない人間の前に、実体的な代表者として送られた方がメシヤです。こうしてメシヤを中心とする個人、メシヤを中心とする家庭、メシヤを中心とする世界を選び出してくるのです。そういう形態が今日の民主主義です。
この地上にメシヤとして来られた方がイエス様だとするならば、その方は最高の中心である神様の愛の心情を人間に結ばなければならなかったのですが、それができずに亡くなりました。ですから、イエス様が全人類の前に約束されたのは、私は新郎であるからあなた方は新婦になって父のみもとに帰らなければならないということです。今日キリスト教信者は、主に会えば救われると思っていますが、それだけではいけません。主に会って、どのようにしなければならないでしょうか。父のみもとに帰らなければなりません。神様のみもとに帰らなければならないというのです。主を通さなければ、神様のみもとに進むことができないので、主が必要なのです。神様の前に行ったのちには、主も必要がありません。それでイエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と言われたのです。「イエス様御自身の前に来ることができない」と言われたのではなく、「父の前に来れない」と言われたのです。
今日の世界は、神様が訪ねてこられ、外的な世界形態は整いましたが、心情の世界は整っていません。この世界は、事情を通じることができる環境にはなっていますが、心情を通じることができる環境にはなっていないというのです。これから神様が訪ねてこられるなら、何をもって訪ねてこられるでしょうか。心情をもって訪ねてこられるのです。もし、この世界を代表することができ、全世界の人類を支配できる民族がいるとするならば、その民族はいかなる民族でしょうか。神様の心情を伝統として立てて出てくる民族でしょう。また、今後世界を支配できる文化は、いかなる文化でしょうか。人の心と、人の心情を通して出てくる文化が世界を支配するのではなく、神様の心情を通して出てくる文化が世界を支配するようになるのです。最後の問題は、そこにあります。心情が通じる世界、心情の世界を成し遂げられる最後の目的の世界を探し求めるまでは、皆さんがここで荷物を広げて、永遠な安息の生活はできないというのです。
◆心情をもって訪ねてこられる神様
それゆえ、私たちは心情を尽くして会いたい父、最善を尽くして会いたい父、み旨を尽くして会いたい父、その父を父として対し、その父と世界理想の価値を楽しむことができ、その父に直接対することのできる環境を探し出さなければなりません。その場が正に父に侍る場であることを、皆さんは知らなければなりません。
ですから、これから皆さんは、皆さん自身を一度反省してみなければなりません。皆さんの心はどこに傾いていて、皆さんの体はどこに傾いていて、皆さんの生活はどこに傾いていて、皆さんの理念はどこに傾いていて、皆さんが侍ろうとする神様は、今いかなる場にいらっしゃるのかをもう一度反省しなければならないのです。
これから神様は、皆さんの心と共になければならず、皆さんの体と共になければならず、皆さんの生活と共になければならず、皆さんの環境と皆さんが主張している理念と共になければならないのです。もし、そのように共にあるならば、皆さんの言葉は神様の言葉に代わるものであり、皆さんの行動は神様の行動に代わるものであり、皆さんの生活は神様の生活に代わるものですが、そう成し得ないとするならば、皆さんの心と、体と、生活は、神様と何ら関係がないということを知らなければなりません。
神様は極めて偉大な方であるため、最高の場にいらっしゃいます。それゆえ、皆さんの感情であれ、意識であれ、全体が父を通し、父を中心としなければなりません。
父に侍る者とはいかなる者でしょうか。父を通して生き、父を通して死に、父を通して行動する者です。しかし、堕落した人間は、自分を通して生きています。それゆえ、神様とは何ら関係がありません。神様に侍らなければならない終わりの日の聖徒は、父を通して生活しなければなりません。御飯を食べても、寝ても覚めてもいかなる行動も、すべては父を通じてしなければなりません。これは観念的にではなく、実際的にそうでなければならないのです。皆さんは、それを体 恤できる場に入らなければなりません。
◆神様の願い
では、父の願いとは何でしょうか。私という個体が、父の願いになっています。私という一個体が願いであると同時に、私を中心とする家庭が願いであり、家庭を中心とする社会が願いであり、社会を中心とする世界が願いであり、世界を中心とする天地が願いであるということを、皆さんが知らなければなりません。父の前に親孝行する人とはいかなる人でしょうか。細かいところまで父と共に相談する人です。大変なとき、悲しいときも、うれしいときも、父と共にする人が親孝行する人です。
今まで神様が、なぜ不幸だったのでしょうか。今まで神様が、なぜ嘆かれたのでしょうか。それは神様が苦労するとき、共に苦労してくれる息子、娘がいなかったからです。苦労を嫌がる神様ではありません。あなたが苦労するとき、共に苦労してくれる愛する息子、娘がいるとするならば、その苦労も感謝に感じる神様です。悲しみと苦痛を共にできる息子、娘がいるとするならば、彼らが耐え難く、乗り越えにくい悲しみと苦痛の中に置かれているとき、慰労してくださる父なのです。死亡がぶつかってくる苦痛の場に参与する者がいるとするならば、その死亡を超越できる、死亡の権威を黙殺できる権限をもたれた父だというのです。
神様の悲しみとは何かといえば、神様が苦痛を受けるとき共に苦痛を受け、神様が悲しいとき共に悲しむ人がいないことです。今まで数千年間人類を抱き締めてこられた神様は、一人で苦痛を受けられました。一人で悔しがられ、一人で悲しみに遭いました。神様が苦痛を受けるとき、その苦痛を共にした人がいなかったし、神様が悲しいとき、その悲しみを共にした人がいませんでした。それゆえ、神様は今まで苦痛が激しく、悲しみが激しかったのです。皆さんは、これを知らなければなりません。
今日この終わりの日、この時代がどんなに悪く、どんなに死亡の波が襲ったとしても、これらのすべてのものを防ぎ、神様を慰労してあげる人、言い換えれば、神様と共に苦痛の中でこれらを覆す人がいるというならば、彼は価値的な存在になるはずであり、神様の真の孝子、孝女になることでしょう。そのような息子、娘がいるならば、神様はそのような場で失望したり悲しむのではなく、願いを抱いてそのような立場に置かれている息子、娘を勧告して、慰労してくださるはずです。
したがって、皆さんはこれから本当に神様に侍らなければなりません。侍るにはどこから侍らなければならないでしょうか。喜びの立場で侍るのではなく、歴史的な悲しみを抱き締め、その心を思いやる場から侍らなければなりません。そのような真の息子、娘を探すことができずに、苦労する神様であるということを知って、私たちがそのような場で神様と共に悲しんで、「すべてに責任を負います」と立ち上がるとき、神様はそこで初めて希望の対象として、私たちに新しい喜びを与えてくださるのです。神様が受けられる苦痛の立場に同参して、神様の前に忠誠を尽くす者は、神様が責任を負って解決してくださるのです。
私たちは喜びの立場で神様に侍ることができません。この地上で最も悲しい場、最も苦痛の場、人々が最も嫌がる場に出て、神様の心を知り、神様の心情をつかんで、神様と共に苦痛を受ける場で神様に侍らなければなりません。そのような場で神様から慰労され、息子という認定を受けてこそ、永遠の理想世界が成されたそのとき、神様が皆さんを永遠無窮に息子として天地の前に誇り、皆さん自身は神様に侍って生きることができます。そういう場で神様の息子と認められない限り、皆さんはあの世に行っても一面しか通じることができません。天上に行っても、最も大変な場に行きます。いかなる問題があったとしても、神様と相談できないというのです。
神様は探していらっしゃいます。希望の中で、父に侍ることのできる息子、娘ではなく、悲しみと苦痛が波打つ場で父に侍ることができる息子、娘を。希望の中で神様に侍る息子、娘はたくさんいます。しかし、苦痛な場で神様に侍る息子、娘は非常に少ないのです。非常に少ないのです。神様に真に侍る者とはどのような者でしょうか。喜びと希望の中で侍る者ではなく、苦痛の中で侍る者です。神様の事情を察し、神様の心情を思いやることによって、神様がつかんで、「私の息子よ、私の娘よ。私がいるから耐え忍んで闘え」と慰労してくださる人です。苦痛な立場で神様に侍らない限り、神様を永遠なる私の父として侍ることができないことを、皆さんは知らなければなりません。
◆患難の時を用意された意味
神様は終わりの日になれば、人類の前に七年の大患難があるだろうと予告されました。この患難時期は六千年の歴史路程において、天の悲しい曲折が聖徒にぶつかる時です。人間の絆がみな壊れていき、信じられない環境にぶつかる時です。自分がどんなに良心的に正しく生きたとしても、その良心で自らの生涯を主張できない時です。み旨を抱き、考えのある者であればあるほど、眺めるあちこちに苦痛を感じる時です。そのような時が、終わりの日の七年大患難の時です。
その時は、希望が揺れる時であり、私たちが信じている信仰の中心が揺れる時であり、信じて従った指導者が揺れる時です。主義はもちろん、宗教、良心、父母の心情までもすべて揺れる時です。
では、神様はなぜそのような世の中をつくっておかなければならないのでしょうか。それは真の神様、歴史的に苦労した神様と同参したという価値を与えるためです。神様は六千年間数多くの惨状を見てきましたし、数多くの曲折を受けられたので、終わりの日においては良心とか、主義とか、信仰ということをもって中心を立てることのできない環境にぶつかるようにするのです。そのような患難の中でも「神様を愛する」と言う、そのような難しい場でも「神様と共に生きる」と言い得る真の息子、娘を探すために、そのような時が来るというのです。
それゆえ皆さんは、教会が揺れるのを見て悲しむことなく、ある主義が動揺するのを見て悲しむことなく、ある主権者が倒れるのを見て悲しむことなく、自らの父母が変わったと悲しむことなく、自らの兄弟が変わり果てたと悲しまないでください。頼り、信じていた世の中のすべてが動揺しても、皆さんの心は平然としていなければなりません。神様は動揺せず、この時間も私を訪ねてこられるということを知らなければなりません。神様が私たちに苦痛を与えるのは、神様との貴い一日、神様が経てきた苦痛の因縁を私たちに結んでくださるための、大きな約束であることを知らなければなりません。そのような場で天を抱き締め、「一緒に行きましょう。共に闘いましょう。共に行動しましょう」と叫んで立つ人を探すために、そのような世の中が必要だというのです。
ですから皆さん、進む道がふさがったと落胆しないでください。この国が乱れると気落ちしないでください。神様は死んではいません。この世界がどんなに乱れても、気落ちしないでください。神様は死んではいません。神様は必ず訪ねてこられます。すべてが動揺しても、天に対する一片丹心だけは動揺させないでください。天を頼って仰ぐ希望の心だけは変わらないでください。その心を変えようとするために、神様が皆さんをいかなる苦痛の場に追い込んだとしても、その場で父を呼ぶことができる心をもたなければなりません。いかなる場に落ちても、その場で天の心情のひもをつかんで上がろうと努力しなければなりません。地獄に落ちる苦痛を感じる恨があったとしても、父と共に参与する立場に立って父の苦痛を私が思いやって、その父は私の苦痛を察してくれることを信じて、そのような場でも行くという責任と義務を感じていくならば、皆さんは滅びないでしょう。
今日、数多くのキリスト教徒がいますが、そういう信者が果たして何名になるでしょうか。私たちは父に侍るのに、天上の宝座に座っていらっしゃる父に侍るのではなく、死亡の波打つ中で真の息子、娘を探すために御苦労される父に侍らなければなりません。その父を私の父と知り、その父の事情を私の事情として、その父の心情を私の心情として、その父の願いを私の願いとして訪ねてこられる父の前に雄々しく立って、「あなたの息子を探すことがあなたの願いであることを知って、その息子を探し、あなたの歴史的な曲折を解くことが、あなたの事情であることを知って、失った息子を抱き締めて愛したいのがあなたの心情であることを知りました。どのような塗炭の苦しみと患難と難しさの中にあったとしても、私があなたの願いの実体であり、事情の実体であり、心情の実体です」と自信をもって立たなければなりません。このような者であってこそ父の息子であり、またその父に侍ることができる者になるということを皆さんは知らなければなりません。
◆真の仕える姿勢
今日皆さんがこの場に訪ねてきたことは、栄光の中で空中に引き上げられて主に会うためではありません。天の宝座で数多くの天軍天使を率いて号令する、そのような父に会うためではありません。塗炭の苦しみの中で患難と闘い、苦痛と共に過ごされるその父に侍るためです。神様が公平な方なら誰を祝福するでしょうか。そういう者を祝福なさるというのです。
では、皆さんの心が父に真に侍りたいとするならば、どのようにしなければならないでしょうか。
皆さんが良く暮らしているからといって、良い環境で侍ることを望まれる神様ではありません。億万長者のような豪華な生活の中で侍ることを望まれるのではありません。では、どこから侍ることを望まれるのでしょうか。最も悲惨な場から侍ることを望まれるというのです。イエス様が十字架上で亡くなる直前、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ二七・四六)と言われましたが、死の場でも神様は会おうとされませんでした。死の場を超えて会おうとされました。なぜでしょうか。死亡線までサタンが侵犯したためです。イエス様はその死亡線上を超えなければなりませんでした。
今日私たちが父と対面しようとするなら、人間が避けていくそのような苦痛以上の場で天に侍らなければなりません。そのような場で私が慰労してもらおうとするのではなく、かえって父を慰労してあげなければならないのです。私の願いのために父を呼んではなりません。父が私の願いを聞いてくれることを願う前に、私が父の願いを成し遂げなければなりません。父に会ったなら、「お父様、このようにしてください」という場に立ってはならないのです。困難な場で父に対したとしても、「私はあなたの前にこのようにいたします」と言って、父の前に差し上げようとする心をもたなければなりません。イエス様も、亡くなる当時に「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というこのみ言を聖書に残したことが、恨めしいというのです。天上に行ってみると、最後に父に対面して超えていくその場で、「お父様、栄光をお受けください」、あるいは「父の願いのみ旨を成し遂げ、感謝いたします」の一言でも言わなければならなかったのです。こういう言葉が、より素晴らしくないでしょうか。
皆さんは、数千年間を一日のように耐えてこられたその父に侍らなければならない立場にあるため、皆さん一身の苦痛を苦痛だと考えてはなりません。苦痛だという考えさえ捨てなければなりません。皆さんが祈祷するとき、絶対に自分を中心として祈祷しないでください。「こういうことは私から避けるようにしてください」というような祈祷はしてはならないのです。「私が受けるこの苦痛が、あなたのみ旨の前にしかるべき苦痛とならしめてください」と祈祷しなければなりません。私がこういう境遇に置かれるようになったのは、すべて父のみ意があってのことであり、またみ旨の成就のために、という心をもたなければなりません。
皆さんの根本観念を引き抜いてしまわなければなりません。今まで神様を信じる人々が、神様を一度でも慰労してあげたでしょうか。「何をしてください」とだけ言いました。こういうどろぼう根性がどこにあるでしょうか。そのように祈祷しては、どんなに祈祷してもかないません。私が祈祷してみると、そうではありません。「あなたが要求することとは何でしょうか」と、祈祷はこのようにしなければなりません。ところが堕落した子孫、罪を犯した群れは恵みを下さいとだけ言います。「あなたが願うこととは何でしょうか。私の体を通して願うこととは何でしょうか。私の一身が患難を経てあなたのみ旨が成されるならば、患難を経るようにしてください。恵みと栄光はあなたが受けて、罰と苦痛は私に与えてください」と、このように祈祷しなければなりません。
◆神様に差し上げる最大の贈り物
統一教会の信徒は、光栄の場でのみ父に侍ってはなりません。先生自身がそのようにしています。最も悲しい場で訪ねてこられる時に侍ることができなければなりません。皆さんは、悲しい心を抱いて訪ねてこられるその父の心を抱き締めて、その心の対象者になり、父から「お前は私の息子であり、私の娘である」と言われる者にならなければなりません。根本的に違います。もし、神様が地獄の底から祝福をしてくださるなら、地獄の底までも訪ねていくという心をもたなければなりません。皆さんがそういう心をもって信仰の中心を立てていくならば、絶対に地獄に行きません。霊界に行ってみれば、「天国に行く」と叫んだ人々が思っていたようにはなっていません。世の中で何かを自慢した人々は、霊界に行っても自慢できると思っていますが、霊界はそのようになっていないというのです。
父に侍りたいし、その父に私たちは侍らなければなりません。皆さんはその父が訪ねてこられることを待ち焦がれて、会うことを待ち焦がれたことでしょう。では、皆さんはいかなる準備をして、会うことを待ち焦がれたでしょうか。豪華絢爛な良い場を準備して会おうとしますか。天はそういう場で会ってはくれません。天が探しているのは良い場ではありません。天は血を流し、涙を流す場で会うことを望まれるということを皆さんは知らなければなりません。私たちが会うその父は、笑顔の父ではなく、傷を負った父です。その父は傷を負ったとはいえ、息子が傷を負ったのを見て温情の顔で慰労され、その息子を迎えるために来られるというのです。ここからひっくり返されるのです。そういう息子、娘は最高の場に、そうでない息子、娘は最低の場に立つようになります。
皆さんは、父の前に差し上げなければならない贈り物がたくさんあります。たとえ持っているものがなく、持ったことがなくても神様に差し上げられる贈り物がありますが、それは世の中の人々が楽しむものではなく、血を流し、涙を流し、汗を流しながら、父の前に出る一つの姿を整えることです。それが苦痛の父、悲しみの父、悔しさの父への最大の贈り物です。
み旨に従ってくる皆さんに、神様が金銀財宝を要求するのではありません。むしろ、同じ事情に処した者の手を握り、体をつかんで、悲しむ息子を慰労する神様だというのです。そういう場で父と呼ぶことができる者であってこそ、天上天下どこへ行っても、彼に対して抵抗する者がいないのです。神様の右側に座ってもよろしいというのです。そうでない者を神様の宝座に座らせれば、天軍天使と千万の聖徒、地上のサタンまでも讒訴するのです。
それゆえ、真のキリスト教信者が行く道は、死の道です。真の信者が行く道は、苦痛の道です。真の信者が歩んだその道は、悔しい道であり、忍耐の道であり、悲惨な道でした。けれども決して悲惨なのではありません。悲惨な場で私たちと因縁を結ぶために訪ねてこられる天は、そういう場で私たちを冷遇することなく、むしろ厚くもてなして因縁を結ぶというのです。このような因縁は、天上に行って、永遠なる神の息子、娘として雄々しく立つことができる条件になる、ということを皆さんは知らなければなりません。
それゆえ、皆さんは涙の谷間でお父様を呼ぶとき、応答を受けられる息子、娘にならなければなりません。涙があふれる場で、「お父様!」と言うとき、「息子よ、私はここにいるので耐え忍びなさい」、血の汗を流す苦痛の場で、「お父様」と言うとき、「私が耐えたのだから、お前も耐え忍びなさい」、死が差し迫るその瞬間でも、「私がいるので安心しなさい」という言葉を聞くことができる皆さんにならなければなりません。そのような場でどれくらい父に侍ったか、どれくらい父と共に相談したか、どれくらい父と共に生きたかが問題になるのであって、栄光の場で父を呼んだとしても問題にならないというのです。なぜなら、まだ父が栄光の日を御覧になっていないからです。
今日までアメリカのような先進国家は、外的な使命をもって世界を主導してきましたが、今は下りていかなければなりません。お金の包みを担いて、かわいそうな民族を探して下りていかなければならないです。お金の包みだけでなく、心と心情ももって探して下りていかなければなりません。そうでなければ、他の民族がその使命を引き継ぎます。ですから援助せざるを得ないのです。ところで、お金だけ援助してあげればいいでしょうか。とんでもありません。世界のあらゆる国家を代表して、キリスト教理念を中心として立てられた国家である以上、アメリカはその理念の核心に心と心情をプラスして手助けしなければなりません。そうでなければ他の民族がその使命を奪っていくというのです。
◆統一教会員が行くべき道
歴史的な思潮がこのように流れてきたのですから、このようなみ旨を知り、立ち上がった私たちはどこに行くべきでしょうか。栄光の立場に行くのではなく、悲惨な立場へ行かなければなりません。まだ七年の大患難が来ていなければ、現実において七年の大患難のような場所を探していかなければなりません。大患難が訪れる所とはどこでしょうか。人々が最も嫌う場から訪れます。世の中のあらゆる人々が好む場ではなく、最も嫌う場から訪れるので、そういう場で勝利する皆さんになるならば問題ないのです。
歴史の思潮はこのような段階で動いてきています。共産主義が労働者、農民、かわいそうな者たちをつかんで事をしてきたがゆえに、急速な時日内に世界を揺るがすことができる段階まで来たというのです。けれども、それはあくまでも外的なものです。天情をもってそのような場に立ったのではなく、人情をもってそのような場に立ったのです。天情をもってその場に立つことができなかったので、今後世界を支配しようとするなら、天情をもってそのような場に立たなければなりません。そうなれば、この天地はひっくり返るでしょう。
それゆえに、統一教会の信徒が訪ねなければならない道とはどのような道でしょうか。いわゆる人間が叫んでいる、「平和の旗が翻える」と主張する、そのような場ではないのです。人間が最も嫌がる場、人間が最も避けていく場を訪ねなければなりません。どのような姿で訪ねるでしょうか。六千年間訪ねてこられた父の姿に代わって、訪ねなければなりません。私たちが涙を流すとき、共に涙を流されながら、涙を流す私たちを慰労しようとする父であることを知らなければなりません。
したがって、皆さんは涙を流すその心情を抱き締めて、皆さん自身がたとえ涙を流す場に置かれたとしても、涙を流すかわいそうな者を抱いて「泣かないでください。あなたの行く手には希望があるから泣かないでください」と慰労しながら、彼らに幸福を、彼らに希望を、彼らに事情を、彼らに心情を伝えてあげられる群れにならなければなりません。そうしてこそ、天の相続を受けることができます。天地の相続を受けることができるのです。それでこそ、天と地の権勢はもちろん、地獄の権勢までも支配できるのです。
ですから、私たちは行かなければなりません。歴史的な思潮が私たちの目前に迫っているのが事実なら、皆さんは行く先々に、心と、み旨と、精誠とをすべてもっていかなければなりません。心と、み旨と、精誠とをもって行く所では、いかなる問題もすべて解決できます。世の中の問題が解決できるというのです。その他のことは問題ないのです。皆さんは父の代わりに行くからには、そういう立場を訪ねたときに人々の心を知り、人々をつかむことができなければなりません。そうしてこそ神様の真の息子、娘になることができるのであって、そうでなければ皆さんは真の神様の子女になり得ないのです。
皆さんが行く苦痛の道は、戻っていく道です。少しの間です。希望をおいて目的に向かって進む道ではありません。希望の向こうから戻る道です。少しの間です。私たち統一信徒はこの民族に代わって、この民族が行けない道を行かなければなりません。行くには何を中心として行かなければならないのでしょうか。天情を中心として、神様の心情を中心として行かなければなりません。そうすれば、皆さんは世界を支配するでしょう。
皆さんが叫んでいる理念と、皆さんが置かれているその位置と、皆さんが誇っているその価値が大きいとしても、それらは天宙的な価値以上の価値と因縁を結ばなければなりません。その因縁はどこから結ばれるのでしょうか。極めて悲惨な場から、極めて難しい場から、極めて悲しい場から結ばれるのです。そういう場で父と因縁を結んで、悲しみを無視することができ、悲しみを消化することができ、悲しむ人々を慰労できる人が、真に父に侍る者なのです。
そういう心をもって行く人ならば、絶対に苦痛は長く続きません。絶対に滅びません。たとえ身は苦痛に当面しても、その場を超えれば無限な自由の世界が広がるのです。今はそのような場を超えるべき時代的な転換期に置かれているために、皆さんは必ずその場を超えなければなりません。
それゆえ、皆さんは父の心情を抱き締めて、父の事情と、願いの実体として苦痛の開拓者となり、悲しみの開拓者となり、困難の開拓者となって、その道についてくる人々を慰労できる皆さんにならなければなりません。そのようにすれば、皆さんは間違いなく天の息子、娘になるのであり、全世界を代表するのです。また、この民族がそのような民族になれば、数多くの民族を代表して天の祝福を受ける民族になるということを知って、そのような場で父に侍ることができる皆さんになるようにお願いします。
18. 人類の結実
一九六二年十月二十八日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第百五十一巻』
今日この地上の、堕落した人類始祖の子孫である私たちは、多くの刈り入れの日を迎えてきました。春に種を蒔けばそれが真夏を通して育ち、秋を迎えてその結実を自分のものとして刈り入れてきました。そして刈り入れたその結実を収め、再び植えることのできる日を待ってきました。
このように人間は刈り入れの喜びと、蒔く喜びを味わいましたが、神様はいまだ刈り入れの喜びを味わっていません。その蒔いた種から、望みの刈り入れの日を神様はもつことができなかったのです。
このことを考えてみるとき、刈り入れの結実に接するごとに、皆さんは過去に刈り入れたのと同じ立場で刈り入れてはならないというのです。私の手で刈り入れた一束の穀物、一粒の種は、この天地万物を創造された父の願いを私が代行するという立場に立って刈り入れ、蒔くことのできる皆さんにならなければなりません。そのような心情的な基準を整えられなければ、神様から喜ばれる人にはなれないのです。
◆本然の真の先祖をつくっておこうとするのが救援摂理
今日人間も、一つの種を蒔き、その種が育ち、一つの結実を収めるのと同様な歴史路程を経てきています。神様がエデンの園に私たち人類の始祖であるアダムとエバを創造し、種として蒔いておかれました。そのアダムとエバが育つ過程で花が咲き実を結ぶべきでしたが、その過程で折られてしまいました。それが堕落です。
それゆえに、神様が種を蒔いたけれども取り入れられない結実の因縁を抱いて、今日まで再び蒔くことができる望みの一日を日久 月 深(注:願いごと、恋しさなどが歳月の流れとともにますます強くなる様子)の思いで、忘れずに願ってきた日が審判の日です。
審判の日は、人類の収穫の日です。人類が今まで、蒔こうとしたものが、育っている途中で折られてしまったので、これを神様が生かす役事をなさろうというのです。すなわち、今まで神様は世界に散在している数多くの人類の代わりをすることのできる、二つの結実的存在を刈り入れるべき望みの一日を立てて歴史を導いてきました。その日が正にキリスト教でいう再臨の日です。
今日キリスト教徒は主を新郎と言い、自分たちは新婦であるということを知っています。主が来られるならば婚姻の祝宴が行われ、新郎新婦が現れて「小羊の婚宴」をすると思っています。その日がまさしく、神様が本来の創造理想を立て、種を植えて花が咲き、実を結ぶことのできる一つの因縁を立てようとした日です。
それが壊れたために神様は六千年の間、血と涙と汗を流してこられました。そうして終わり日に至り一日を立てて、ここにそういう本然の真の先祖となる夫婦をつくっておこうというのです。それが救援摂理歴史であり、復帰歴史であり、終わり日の審判歴史なのです。
◆大審判のとき
そこで、きょう皆さんに話そうとするのは、正に「人類の結実」という主題です。
今日この時はどのような時でしょうか。大きい波がぶつかり、ここに一つの波が突き入ることのできるのが終わりの日です。終わりの日とは、地上で起こる思潮の恐怖が問題ではなく、この思潮の恐怖をせきたてて超えることができる高気圧的な台風圏が来襲する時なのです。
というのは、この地上の人類は堕落した始祖の子孫であるゆえに、正しくない種になっているので、これを取り除かなければならないというのです。それゆえ、聖書を見れば、雑草や穀物という言葉が出てくるのです。神様の救援摂理から見るとき、本来は神様が穀物を植えたのに、サタンがこれを雑草にしてしまいました。そのため今日この地上に生きている人々は、雑草のような立場に落ちているのです。
それゆえ修道の道は、自己否定の道です。体を打つ道です。このように世の中を否定することから修道は出発するのです。ここで否定の度合いが強ければ強いほど高次的な宗教です。そうして、最高の心情世界まで否定して進むようになれば、最高の宗教になるのです。
ですから道人たちは、人生行路において逃走者でした。皆さんがそのような生活をしてみれば実感するはずです。道人たちは、寝ても覚めてもこの世をどのように突破しようかということが骨身にしみる心でいるのです。そういう道を開拓するのが修道の道であり、その道を行くようにと叫んできたのが神様の事情なのです。
◆サタンの鉄条網を除去するための行事が正に大審判
神様の事情とはどのようなものでしょうか。神様がその鉄の窓を切って入っていき、むちで追い出すようにはできません。人間がそのように鉄の窓を作ったので、人間はそれを越えて出てこなければなりません。その鉄条網を切って出てくる人がいなければならないのです。そのような人がいないため、今まで人類はあえいでいるのです。その鉄条網をみな撤去する日に、人間はよみがえるのです。その日が正に大審判の日です。
審判というのは、今日キリスト教でいうように、全部焼き殺してしまうことではありません。鉄条網を取り除いて、行きたい所に行きなさいというのです。豆粒ならば豆俵を探していかなければならないし、米粒ならば米俵を探していかなければならないし、粟粒ならば粟俵を探していかなければならないように、同じ者同士探していきなさいというのです。
それゆえ、今日の世界終末時代において、文化は同じ者同士が集まる文化です。思想が違えばその民族を離れて、思想の同じ同志を探していくのです。自らの専門分野が貴ければ貴いほど、自分が今まで育った環境的な基盤が貴いほどそれを退け、自分が専門にしているその分野を探していくのです。
ところが、今日この世界は鉄条網で遮られています。この国から他の国へ行こうとすると国境があるのです。それを誰が張り巡らしたのでしょうか。それは本来、神様がつくって置いたのではなく、人間がつくって置いた鉄条網です。この鉄条網を撤廃する運動を繰り広げなければならないのです。
それゆえ、個人と個人が対する日には戦いが起きるのです。個人闘争時代においては個人の鉄条網があるのです。その次に、家庭を中心とする闘争時代においては家庭の鉄条網があり、氏族、民族、国家にはそれぞれの鉄条網があるのです。
それで真を追求する人々や世界的な大学者たちは、世界的な専門分野、あるいは世界的な歴史を探しているのです。世界的な歴史を探すことにおいては、今日の人間を中心とするような歴史を探すのではありません。ここにより高く、より大きく、より無限の理念的な内容を基盤とした土台を準備することのできる、そのような歴史的な因縁を探しているのです。それを私たちは探し出さなければなりません。
そのような歴史的な背景を探して、その背景を中心として出てきたもう一つの根源地を明らかにして、「その歴史的な背景がなぜこのようになってきたのか、そうであるとすれば、この時代とどのような関係を結んできたのか」と、このように問い掛けながら、その時代に関係を結んであげるのです。そして、その時代からどのような時代へ行くべきか、という世界へ案内するのです。一つの人類歴史がそうならば、一つの文化もそうです。一つの政治、思想、すべてが同じです。一つの理念的な和合に向けて走りゆくのです。
このように考えてみるとき、外的に今起こっていることはなぜこのようになったのでしょうか。これは私一人の力で起こってきたのではありません。静かに考えてみると、私たちは知らないけれど、歴史にはある何かが、どうすることもできない背後の力があるというのです。こちらに行けば襲いかかってあちらに行くようにし、あちらに行けば襲いかかってこちらへ来るようにして、歴史を暴いてみると、それが一方向に向かってはっきりと進んでいるというのです。
◆心情を中心とした宗教になってこそ
では、いかなる歴史を中心として世界が収拾されるのでしょうか。これを推し量ってみるとき、その内容と及ぼされた因縁が広くて大きい歴史観をもった民族ならば世界を支配するはずだ、という結論が出てきます。こういうことを考えてみるとき、今日の歴史はアメリカを中心にしたものでもなく、ソ連の歴史を中心にしたものでもありません。今日の文化世界、この世界はどのような歴史でしょうか。キリスト教歴史を背景にした、文化歴史世界だという結論が出てくるのです。
今日、何らかの形態を整えて自分の民族国家を動かすことができる背景は、すべて宗教的な背景になっています。このように考えてみるとき、今日の人間歴史は人間個人の歴史を中心にしたものではなく、宗教的な思想を基盤とした、歴史的な収拾目的に向かって時代が因縁づけられていて、未来も因縁をもっていかなければならない運命の途上に処しているということを知らなければなりません。
では、世界はどのような世界になるのでしょうか。世界は一つの世界になるのです。また主義は一つの主義の世界になります。今日多くの哲学者がいますが、その時代にはそのようなものはみな壊れるのです。心情哲学、このように話すことができる哲学者が出てこなければなりません。また、宗教は心情宗教が出てこなければなりません。思想も心情思想、心情主義をもって出てこなければなりません。
では、その心情はどこから出てこなければならないでしょうか。根源をもってして根源になることができるのです。今日この地上に生まれた人々は人間先祖の子孫であり、六千年が過ぎましたが、心情は六千年前と同じです。また、神様と人間との心情も同じです。心情の根拠地は一つです。
それゆえ、今後教理的な教本をもって闘争する宗教時代は過ぎ去ります。宗教は、心情を中心にした宗教にならなければなりません。
◆メシヤとは、心情のよりどころを準備し得る人格者
イエス様はこの地に来て、「私はメシヤである」とおっしゃいました。最高に良い意味で話されました。あえいでいる人間の前に「すべての重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ一一・二八)とおっしゃいました。それは、どれほど素晴らしい言葉でしょうか。
また、「救い主である」とおっしゃったのですから、人類の中には「自分しかいない」ということではありませんか。その言葉は、数多くの人間が生きているけれども、自分だけしかいないという意味です。「私は人類の希望の本体であり、人類の生命の本体であり、人類の根源の根源体である」という意味です。それでイエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)とおっしゃったのです。
それ一つだけをもってしても、イエス様は救い主の資格があると先生は考えます。奇跡や不思議な事跡はさておいてもそうです。それだけ間違いないならば、彼はメシヤです。救い主です。彼は、堂々と人類に代わって一つの総結論を下すことができる度胸をもって、手を挙げて叫んだのです。
その次に「わたしは『神の子』(ルカ二二・七〇)であり、『神のひとり子』(ヨハネ三・一八)である」とおっしゃいました。ひとり子というのは、あなた方は息子ではないということです。それは対象的な否定ではなく、相対的な否定でもありません。絶対的な否定です。
また、その次に人間に対して御自身を「新郎」で象徴され(マタイ九・一五)、人間を「新郎」に仕える「おとめ」(新婦)として象徴しています(マタイ二五・一~一〇)。烈女になりなさいというのです。聖書を見れば、新郎であるイエス様は準備していません。「ただひたすら寝ないで休まないで祈祷して、精誠を尽くしなさい」と言ったのであって、新郎が来てそうしてくれるという言葉はないのです。すべて新婦が準備するようになっているのです。
また「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。……わたしはあなたがたを友と呼んだ」(ヨハネ一五・一五)。また、「わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」(ヨハネ一四・二〇)とおっしゃいました。
それを考えてみると、心情的な内容を中心としてイエス様がこの地に来られたとき、どのような使命をもってきたのか分かります。宇宙的な大家族の一つの基準をもってきたのです。メシヤがメシヤとしての使命を完結して、メシヤがメシヤとして人類の前に必要な存在になろうとするなら、この心情的な基盤の上にすべての条件を具備して、希望的な心情の土台を準備することができる内容の人格者でなければなりません。そうでなければメシヤになることはできないのです。
そのような見地から考えてみるとき、その方がメシヤにならざるを得ないのです。もしこういう人を「メシヤでない」と言うならば、先生はどのような恨みがあってもメシヤにしたいと考えています。
◆世の中で認められる人にならねば
キリスト教は他の宗教のように一つの垣根の中にあって、自分の一家や種族を中心として喜ぼうというのではありません。万民が私の息子、娘であるというのです。
その次には、イエス様は死にながらも「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・三四)とおっしゃったのです。これがメシヤです。もし、イエス様が罪を他人に負わせようとしたなら、偽りの預言者になったことでしょう。
それでは、それは何を通して話したのでしょうか。それは、世界的、歴史的な因縁を通してです。真理を宣布した自分の時代を超越し、男の一念を立てて天宙的な因縁を結ぶためでした。イエス様はそのための生活観を立ててきたのであり、生涯的な闘争路程を積み重ねてきました。その最後の結末の途上でイエス様が願う心も歴史的なものでした。
イスラエルは反逆者です。神様が数千年間苦労して血涙を流しながら準備してこられたイスラエルがイエス様を殺そうとするのを見たとき、イエス様はイスラエルの人々を呪ったのです。非難を浴びせたのです。「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたはわざわいである」(マタイ二三・二七)と言ったのです。
しかし、ローマの名においてイエス様を槍やむちで追いやった彼らをイエス様は許してあげました。キリスト教が異邦人の民族を通して世界的な土台を築いてきた因縁も、そこから始まったのです。
そのような歴史的な起源を暴いてみるとき、やはりイエス様が話したことは世界的な因縁をたどったみ言であり、今日それが名実共に世界的な宗教として登場するようになった原因もそういう内容に起因しているのです。キリスト教にはこういう内容が備わっているので、今日数多くの宗教の中で最高のものとして残る宗教になり得たのです。
皆さんにお金がたくさんあるとしても、心情を中心として対することのできる人ならば、お金は必要ないのです。「何千億のお金を今あげる」と言われて、自分が愛する人と換えることができますか。「天地をあげるから換えよう」と言われても、換えることができますか。それはできないのです。
イエス様は「一人の生命は宇宙以上に大きい」と言いましたが、今日このサタン世界は罪悪でいっぱいになっているというのです。イエス様が、「一人の生命は宇宙以上に大きい」という価値を設定した基準は、心情世界で切ろうとしても切ることのできない因縁に連結された一人の人間について言ったのです。すなわち、御自身について遠回しに言った言葉なのです。心情的なそのような因縁をもっている自分の父母を、天地をもらったとしても売ることができますか。自分の息子を天地をもらったとしても売ることができますか。
否定の道理において、家庭から世界舞台まで否定の闘争路程をたどり、否定したと認められ、否定したことを再び探し出したという決定を受けてこそ帰ってくることができるのです。今人間はそのような運命であえいでいるのです。
そのようなことを考えてみるとき、今後必ず残り得る宗教は心情的なものでなければなりません。また、今日の国家主権の理念もそうでなければなりません。世界のいかなる主義、思想もその基準に行って「これでよし、我が家が一番である」と言うことができます。旅人が旅行がどんなに良いといっても、家を離れれば大変疲れるというのです。自分の家ほど楽な所はありません。我が家が一番です。お母さん、お父さんと息子、娘がいて、妻がいて、みそ汁を作って麦御飯を食べても、それが一番だというのです。
そこで麦御飯を炊いて暮らしても、そこを静かにのぞいて見れば、食べるものはたとえ粗末なものだとしても、サタン世界の人々とは違うものがあるのです。また、違わなければならないのです。
今日労働者の家庭で豆一粒を中心として食事をするようなみすぼらしい生活をしていても、一国の大統領が「あなたをおいては生きられない」と言うようになるならば、その場がホワイトハウスよりも立派になるのです。天地を創造した神様も同じです。たとえ一杯の水を置いて御飯を食べる場でも、神様が「君なしでは生きられない」と言う場は、世界で最高に幸福な場なのです。
◆神様は最後に残る宗教の主人
道人の中には欲張りな人が多いのです。道人たちが祈祷するのを見れば、「神様、私の所に来てください」と、こう言うのです。それは悪くはありません。それを神様は好まれるのです。神様は、最高の投機心をもち、最高の冒険家です。人間がいかに投機事業家で、冒険家だといっても、神様にはかなわないのです。
そのような神様に「私の暮らし向きがこのようになりました。でも、父なる神様がいなければなりません」と言うとき、神様が「そうか!」と言えるようにしてさえおくならば、その人は最高の勝利者になることができるのです。
「お前が死の境地に処するときは私が保護し、お前が戦うところでは私が戦ってあげ、お前が生きるところで私も生きる。お前が泣けば私が泣き、お前がわびしいときは私もわびしいところに一緒に行く。私はお前が死んでも共に死に、生きるのも共に生きるのだ」と言える、「麦御飯やみそ汁を食べられなくとも、共に水を飲む」と言える、環境に生きるという人が一人でもいたなら、今日の世の中がこういう姿にはならなかったでしょう。
神様は恨が多い方です。憤りと号泣がしみた神様です。私たちが信じている神様は、今まで栄光の神様であると思っていたのに、その神様は恨の神様なのです。私たちが信じ、私たちを率いてこられた歴史的な神様は、悲しみの神様であり、苦痛の神様です。
「父よ!」と言うときには胸がしびれてきて、そのように考えるとき、腹痛が行く手を遮るのです。涙が目頭をぬらし前をふさぐ、こういうわびしい道を尋ねてこられた神様です。
この地球上には神様の足場が一箇所もありません。皆さんが息子、娘を生んで自分の家庭を中心として「いいな、きょうは寒いから火をもっとたこう!」というような場は、神様が共にある場になり得ません。我が家が、私の社会が、私の国家がそうであり、私が生きている世界が、天地がそうであるため、神様は最もかわいそうな神様であられるのです。
このようなことをそのままにしておいて、神様だけが永遠に分かれて生きるようにはなっていないのです。本来の創造原理がそのようにはなっていません。
神様は人間が飢えても共に飢え、寒くても共にあり、うれしくても共に喜ばなければならない内容をもって創造されました。人間がそのように生きるのを見るとき、神様の心情はどうでしょうか。
このように生きることは、人間も間違ったのですが、その原因は怨 讐にあります。ですから、審判は怨讐を一つ捕まえようというのです。人を捕まえようというのではありません。
私がどれほど怨讐の前に苦しめられたでしょうか。怨讐の前にどれほど血を奪われたでしょうか。怨讐の前にどれほど悔しい思いをしたでしょうか。どれくらい号泣したでしょうか。私の体には怨讐のむちの跡がどれほど残っているでしょうか。先生の背中には怨讐の槍の跡がどれほど残っているでしょうか。私の胸には怨讐の矢の跡がどれほど残っているでしょうか。心情の道理を立てなければならない神様は、最後に残る宗教の主人なのです。
天宙の理念的な基準が心霊の世界を立てておかなければならない、そのような因縁を中心に結ぶようになれば、その方は誰から探し出すのかといえば、かわいそうな者から探し出すのです。「あなたを探し出すために夜寝ることも考えず、手が裂けようと、脚が裂けようと、非難を受けようと、体がどこに行って打ち込まれて死のうと、私は知りません。死ぬとき、あなたの前に誓いながら私の人生の道理を尽くし、忠誠をすべて尽くして探し出すことができなかったなら、父であるということを遺言してから死にます」と言うことのできる群れを残すためなのです。
◆結実の地に向かって歩んでこられた神様
神様が最も悲しいお方です。皆さんはこれを知らなければなりません。最も悲しいお方です。あなた方が、死んでいく母親がかわいそうだと泣くことよりも、神様はもっと悲しいお方です。善を主張している途中で、あらゆる万民が公認するその場において民族の反逆者として追い込まれて、恨めしく死ぬ人よりも、もっと悔しいお方です。最も悔しく、かわいそうな、そのような名詞をもった主人公が神様です。それを実感するように教えなければならないのが宗教です。
お父様(神様)の服のすそは栄光に合わせて着たような、そのような服のすそではありません。血の汗に漬かったすそです。それは、あなたの息子、娘が手でつかもうとしてもつかむことのできない、血のにじむ指で作ったすそです。そのくつは、いばらの道をかき分けてきた数多くの闘争歴史で傷を負った、そのような歩みの込められたくつです。彼の肉身は、ある個人が死んで個人の恨を探して倒れるときに、代わりに打たれて出てくるのです。彼は一民族を立てて、多くの民族が倒れるようになるとき、また民族が裏切るようになるとき、代わりに打たれるために闘争される方です。これは恨めしい事実です。
私たちが信じて進む神様は、このようにかわいそうな神様です。ですから、人類解放を主唱しないで、神様を解放しようというのです。それが先生の思想です。
では、その神様をどのようにするのでしょうか。私たちが小さい城でも一つあって、そういう場に行って神様を安心させてあげなければなりません。そこで野生のじゃがいもを植えて食べる恨があっても、そこで水をくんでおいて暮らす恨があっても、その父にとりすがって限りなく泣いてみたい、そのような道を探し求めなければなりません。
そのためにさまよう人々が、真の修道の道を行く人々です。天地を創造された大主宰、主人公が大きく笑って踊りを踊らない限り、天下が喜べるはずがないのです。
ある主権者がいて、その主権者が物思いに沈んでいれば、その主権者の統治下にいるすべての群れは悲しいのです。それが世の中の道理です。神様が悲しんでいらっしゃるのに、人間が喜べるわけがないのです。ですから道人たちは「苦労しなさい、泣きなさい、号泣しなさい、死の場にあっても耐えなさい」と言うのです。
個人を生かすために個人的な闘争路程で、個人の死の峠を越えて、家庭を生かすために家庭的な闘争路程で家庭の死の峠を経てきたし、家庭から民族、国家、世界を経て人類、そして天宙の途上まで歩んでいかれる神様を見なさいというのです。神様を仰いでみなさいというのです。
その方は世界的な闘争の先鋒を行きながら、残忍なサタンの数億、数千万の矢を独りで受けてこられた方です。受けてはまた行って、疲れてはまた行くというのです。なぜですか。誰を探すためでしょうか。失った息子を探すためです。サタンも本来は神様の息子、娘です。母親が生むときは神様の息子として生んだのですが、怨 讐の世界へ行ってしまったのが堕落です。この怨讐の金網を切ってしまわなければなりません。そういう捕虜収容所のような所が、正に地上地獄です。
それゆえ、今まで善を主張してきた人、良心を立てて、真理を探究する人、そのような人々はどこの誰をも問わず、この世を変えてみようというのです。否定して進んでいくのです。否定の中に真実を尋ねてきて、今でもそのように進んでいます。
私たちが神様に侍ろうにも、私たちの父には世の中に畑一坪もありません。家一軒もありません。洋服を着ているのではありません。じゃり畑に倒れた穀物の話だとか、あるいばらの畑に落ちた種の比喩だとか、道端に倒れた比喩のようなものは、みな神様が経てきたのです。
道を造るためには、道端を守ることができる神様にならなければならず、じゃり畑を耕すためには、じゃり畑を守る神様にならなければならないのです。いばらの道において種を植えて育てようとするなら、いばらの畑を守る神様にならなければならないのです。そのような道端から、あるいはじゃり畑からいばらの畑を経ていかなければ沃土を探し出すことができないのです。これがみな心情世界です。天の曲折を語ったものなのです。
道で探しさまよう神様を知らなければならず、じゃり畑の中を探してさまよう神様を知らなければならず、百倍の収穫と沃土を探してさまよう神様であるということを知らなければならず、いばらの畑の中から沃土を探してこられる神様を知らなければならないのです。そうして一番最後の日になって、一つの沃土を準備して三十倍、六十倍、あるいは千倍のこういう収穫の土地、そのような結実の土地に向けて神様は歩んでこられたのです。
このような父を私たちが知り、その父に侍ることのできるようにするためのもの、侍ることのできる道理を教えてくれるためのものが宗教なのです。
◆直系の場を相続しようとするなら直系の父母が来なければならない
今後、あなた方の宗教が最後の心情の世界を連結させ得る宗教であるならば、神様が最もかわいそうな方であるということを細密に教えてくれる宗教です。神様が良くて立派だというのではありません。哀れで悔しい神様、憤怒と恨にあふれた神様です。これを細密に教えてくれる宗教が出てこなければなりません。それでこそ親孝行者になることができるのです。
皆さんの中に父母の事情を知らない者は、どんなにおいしいものを食べさせても親孝行者にはなれません。今、父親が泣き、母親にすがりついて号泣するという環境であるのに、「そんなことを言わないで肉を食べてください」と言えば、食べられるでしょうか。肉を食べてもらおうと思えば、まずその事情を母親、父親より深く理解する息子にならなければならないのです。
母親、父親よりその事情をよく理解している息子が父母を愛する心に徹して「お母さん、お父さん、それでどうしますか。お願いですから、私を立ててでもそうしてはいけません」と、このように言えば、「そうか、そうしよう」と言うことは可能ですが、その内情も何も知らずに「これを食べて、泣かないでください」と言っては駄目なのです。
あなた方が悲しい神様を知らないときには、解放してくれる神様を知らないし、審判する神様を知らないのです。歴史的な神様の心情に通じることができる人が出てきてこそ、歴史的な宗教の使命をみな果たすのです。時代的な神様の心情を教えられる、そのような宗教が出てきてこそ、時代的な宗教の使命をみな果たすでしょう。未来的な神様の心情を教えてくれ、そのような心情に通じることができるようにし、その心情に代わって神様を慰労することのできる宗教をつくってこそ、その宗教が終わりの日に残る宗教となるでしょう。
神様が人間を創造するときに、六日間で創造したすべての万物は、人間一人を探し立てるためのものでした。この全天下を主管するようにするための、その人間一人の自由舞台を造るために創造されたのです。今日、神様が造られたのは真の息子、娘、すなわち、人類の収穫の結実として刈り入れることのできる真の父母でした。人類の真の父母です。皆さん、真の父母を失いましたね。みな偽りの父母の息子です。この怨 讐の血を受けて生まれた息子です。
ここで神様の心情の実体、神様の事情に通じることのできる実体、神様の望みを成就できる実体、そのような実体が必要なのです。これは歴史的な神様と同伴できる心情の因縁をもった人であり、時代的な心情と神様の天の心情と同伴できる心情的な因縁をもった人であり、あるいは未来的な神様の心情と同伴できる因縁をもった、そういう方です。
したがって、すべての人間がみな孤児です。お母さん、お父さんはいるけれど、サタン世界のお母さん、お父さんです。血統的な因縁が違います。それゆえ私たちは、僕の息子です。しかし、実は僕の息子にもなれないのです。それで養子になるのです。
怨讐の僕としてしか取り扱われなかったものを、僕として取り扱い、僕の因縁を立てて、養子の因縁を立ててきたのが摂理歴史でした。それで、キリスト教が今養子になるというのです。「あなたがたは……奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしは『アバ、父よ』と呼ぶのである」という内容がローマ人への手紙第八章にあります。養子になるためにあえいでいるのが今のキリスト教徒たちです。養子になって、それでいいでしょうか。養子から直系の位置を相続しなければなりません。この直系の位置を相続しようとするなら、直系の父母が出てこなければなりません。
父母を失った堕落した人間が、反対に落ちたので、その反対に訪ねて上がっていかなければならないのです。僕から、養子から、その次には兄弟を立てて子女の位置に上がって、そして父母の位置まで上がらなければならないのです。
◆神様の願いは世界的な結実を収めること
今後、終わりの日に人類の刈り入れの結実として現れる方がメシヤです。そのメシヤは、人類の総結実の実体です。孤独な神様が六千年間涙を流し、探してこられた一つの実体です。神様がひどい傷を負いながら闘争し、探してこられた一つの実体なのです。彼を立てて自らの理想とする理念を実践するための希望の実体であり、彼を立てて生活するための生活の実体であり、彼を立てて永遠無窮に安息するための心情の実体なのです。
その方は神様の息子、娘であると同時に、神様が手放すことのできない方であると同時に、人類が失った真の父母です。来られる主によって、父母をなくした孤児のような人類が真の父母を探し出して、神様を中心とした本来の基本的な足場をこの地球上につくり、出発するようになればそれが新時代です。その時、初めて新しい天と新しい地が始まるのです。
今日この世界を見つめてみるときに、この世界はサタンの手中に置かれています。それゆえ、外的な形はありますが、人間を創造していない世界と同じです。六千年の文化世界を発展させて、外形的に一つの完全な神様の息子、娘が生まれれば、良く生活できる環境を磨いて入ってくるのであり、この内的な世界においては、アダムの子女を育ててくるのです。
カインとアベルの時も、ノアの時にも、人間はアダムの子孫でした。六千年ぶりにアダム一人を育てたのです。それが復帰歴史です。今日、地上に神様の創造理想で立てた真の父母となることのできる夫婦を、一人の子女を立てて置くことができなかったのです。
真の父母と神様を中心とする大家族理想主義社会が、地上天国です。今後、世界はそういう世界に向かって進んでいくのです。
今日、文化もそのような方向へ行っており、またすべてがそれによって審判を受けるのです。心情的な面において、今日の民主主義思想は、それをどれだけよく表現したでしょうか。その表現したすべては文化財ではないでしょうか。ここにおいて、歴史的な価値が決定されるのです。
今後こういう一つの心情世界が出てくれば、必ずこういう宇宙的な結実体として歴史的な結実の家庭が出てくるはずであり、このような歴史的な家庭の基準が出てくると同時に、氏族の基準が現れ、民族と一つの国家が出てくるのです。そのようになる日には、天下は息を吹き返すのです。
では、神様は何を願われるのでしょうか。一つの結実を立てて何をするのでしょうか。世界的な結実を収めるのです。百倍、千倍繁殖して何をするのでしょうか。この世界をすべて抱こうというのです。そのような父だというのです。皆さんがこのような見地から考えてみるとき、今日私たちが行く道において何をしようとしてここに集まってきたのかというのです。
燦爛と美しく花が咲き、結実する秋の季節が近づいてきました。近づいてきたので、皆さんは死んだ野生のオリーブの木をみな切ってしまい、秋になる前に接ぎ木して再び繁殖しようというのです。これが復帰です。
そのような力を起こすことができるのが最後の宗教です。イエス様も「誰よりも私を愛しなさい」と話しました。妻や息子、誰よりも私を愛しなさいとおっしゃいました。
全部否定しなさいというのです。そうかといって、永遠にではないのです。これを切って接ぎ木すれば、切ったその枝は残しておきます。しかし、根は別の枝を持ってきて接ぎ木をするのです。少しだけ耐えれば、その価値以上の木に接ぎ木をされるのです。神様は損をする商売はされないというのです。
◆私たちは神様が泣くことができる収穫の結実体
このような見地から見つめてみると、今後、私たちはこの歴史途上での一つの実体を探し出さなければなりません。私たちはどのような文化世界を望んでいかなければならないでしょうか。このような理念的な見地から神様の心情を紹介し、メシヤの心情を紹介し、キリスト教の間違いを、神様が摂理した歴史的な心情を通して紹介できなければならないのです。
このような文化的な歴史観をもってこの時代的な世界を収拾することが、天下世界に広がっているキリスト教の使命です。このような使命を果たさなければならないのが、キリスト教以外の数多くの宗教の使命でもあるのです。
では、これらを統一しようとするならばどのようにすべきでしょうか。心情的な問題においてすべての事情を分かってあげ、またあらゆる望みと一致できる一点を立てなければなりません。そのようにする前には統一することができません。
皆さんは自分自身は不足であっても、天のためにという希望と事情がなければなりません。ですから、そのような場に入っていけば入っていくほど、「父よ、もっと骨が折れるようにしてください!」と、深く入っていけば入っていくほど、もっと深くならなければならないのです。知ってみて私が泣く立場になってみると、泣いている私の立場よりも、もっと泣いた父が私を慰労する立場にあるというのです。
私よりもっと悔しくて、私よりももっと哀れで、私よりももっとわびしい神様ですが、皆さんはその神様の前に「神様、このふろしき包みをみな引き受け、私の罪を赦してください」と、そのように祈祷するでしょう。「福を私に下さり、難しいことはあなたが受け持ってください」と祈祷する、そのような不孝者がどこにいますか。親孝行しようという人が、そのように祈ることができますか。
親孝行者が「父よ、酒を飲もうが、どのようになろうが、死のうが知りません」と、それではいけません。私たちは父のために裸にならなければならないのです。裸になった体で、あざのできた神様を探し出して忠誠を尽くそうという、そのような心が、どの時代の信仰する人よりも切実でなければならないのです。そうなれば、神様が私たちに引かれてくるというのです。そうすれば、そのような民族に再臨主が来ることができます。
そのような忠誠心を一生の間、また何代まで引っ張っていくことができますか。忠誠心があれば、引っ張ってきなさいというのです。それゆえ、私たちはこういう世界に向かって探し、外的な世界を収拾して、サタン世界といえども環境的な生活舞台において、神様を中心とすべきです。民主陣営であるキリスト教の理念圏内で外的な整備をしていき、ここに心情的な内的な直系の息子、娘を立てて相続させるための日が、審判の日です。「何もない」と言って落胆するのはやめなさいというのです。
こうして父に会うようになるときには、どこで会うのでしょうか。「私はエルサレム聖殿で位置を占めて、大きく号令するとき父に会います」と、それは不孝者です。皆さんは父にどこで会わなければならないでしょうか。ゲッセマネの園の上に現れる父に会わなければならないのです。「十字架上のイエス様を見つめて泣かれたその父にすがりついて、十字架の途上において訪ねて涙を流す、その父にすがりついて号泣できる場で父に会うのだ」と言わなければなりません。そのような人が本物の親孝行者です。こういう人々が残るようになるのです。
その人をこの社会のどのような社会制度、どのような社会風習、どのような社会状況も巻き込んでいくことはできません。放浪する恨があったとしても、古い服を着たとしても、千万の飾りの付いた服を着た金持ちの家の息子がうらやましくはありません。どんなに飢えて座り、夜を明かして涙を流す立場だとしても、ある王宮で風流に、わびしい音楽を聞きながら詩を鑑賞することよりも、もっと貴い立場なのです。
その内的世界においては、新しい世界が相通ずるのです。朝、夜が明けるようになるときには、もっと大きく強いのです。皆さんが集まって何をするのでしょうか。先生が願うのは、皆さんが、神様が泣くことができる歴史的収穫の結実体になることなのです。
◆心情の世界で父と息子、娘の因縁を結ぼう
皆さんはどのような立場で孝行をして、どのような立場で忠誠を尽くすべきでしょうか。笑い、踊りを踊る場で孝行の名分、親孝行者の名を受けるという者は、間違った人間だというのです。泣く立場、寒くてわびしい立場からそうしなければ、完全に神様の津液を受ける者ではありません。完全に神様からの歴史的な津液を受けられない子女です。神様の歴史的な津液の結実を収めようとするこの収穫の秋、終わりの日において完全な収穫の結実体として登場できないというのです。
したがって、そのような素質をもって私たちが一つのつぼみになり、秋に生まれた一つの種を結ぶことのできる因縁となって、あらゆる津液を引き寄せなければなりません。私たちは六千年の根から引き寄せるのです。引っ張ることのできる磁力をもった者になって初めて、自ら一つの結実を完備するのです。
そのようになろうとするなら、台風が吹いてくるとき、幹ならば幹において台風が吹いてくるその幹の苦難をたどったのちに実を結ぶことのできる木になるのです。あるいは、ある日浸水という恨めしい事情にぶつかるようになるときに、一つの結実として現れた種も、やはり浸水の苦難を体験した枝にならなければならないのです。その苦難を避けては、その木において結実を見ることができません。復帰摂理の歴史路程にあっても同じです。
神様を根とし復帰摂理の幹を中心として、枝の前において一つの結実を収めるべき場面において結実できるそれ自体は、すべての要素を吸収して、怨 讐になる要素を即座に除去し、他人が引き寄せない本質的な要素を一〇〇パーセント吸収できる力量を内在している存在でなければなりません。そうしてこそ、完全な六千年の心情の結実体として現れることができるのです。これは天理の原則です。
そのようなわけで、あなた方は過ぎた日の歴史を知り、今日生きているこの時代を知って、迫りくる未来を知るようになれば、どのようにすべきでしょうか。神様が行かれる道を行き、神様が来られる道に侍ることのできる道を行こうというのですから、泣かなければならないのです。目を地につけて泣きなさいというのです。
イエス様もゲッセマネの園で涙を流し、汗を流しました。汗を流しながら祈るのです。血を流しながら闘うのです。その過程でサタンが除去されます。それが第一線です。これが現在、私たちが覚悟して踏み出した道なのです。このようになってこそ、皆さんが歴史的な摂理のみ旨の前に収められる一つの結実体になることができるでしょう。
そのような実体になれば、過ぎた日の歴史のすべての因縁が、その時を迎えるために議論してこそ因縁を結ぶようになるのです。枝が出てくるためには、その本枝に因縁を結んで、完全にすべての要素が接していなければなりません。
そういう群れが個人に代わって、家庭に代わって、氏族に代わって現れ、この地上である集いが起これば、その集いを通して世界はすべて屈服するのです。
心情世界にいるので、嫁に来る娘さんがどんな学識者であっても、優秀でその国の女性を代表する世の中の立派な名詞をみな取りそろえた女性だといっても、その嫁ぎ先の小 姑 が不具者であれば、立派な学識者もその不具な小姑に対して、「お姉さん」と言わなければならないのです。そうしなければならないでしょう?
この心情をもって「この程度のもの、これは何?」と言ってしまっては、家庭の法に引っ掛かるのです。氏族を無視することであり、一族の者を無視することになるので、家庭の法が容認できないのです。原則的に孝行をすべて尽くす嫁になろうとするなら、彼女がどんなにあばた面の人で、目が不自由だとしてもみんなが、「お姉さん」と言わなければなりません。それゆえ、心情世界において父と娘の因縁を結ぼうというのです。
◆神様の心情の世界
私たちは今、今後訪ねてくるそのような神様の心情ではなく、私たちのお父さん、お母さん、おじいさんが育った時のことをすべて知って、その時から始めなければならないのです。私がきょう嫁いできたのだけれども、昔の何代先祖のおじいさん、おばあさんが嫁に来るとき以上にもっと知っていれば、その嫁がその家を生かすのです。
キリスト教思想が伝統を主張していますが、その中でも嫁いできた嫁がすべてのことは分からないのです。先祖の因縁をすべて掘り起こし、それを知って先祖のために福を祈り、「私たちの先祖もこのように偉大だった」と言いながら、子女のために教えることができ、責任を負うことのできる意味ある父母になるならば、その嫁を選び、自分の後代の相続者にするというのです。それが天理の原則です。
お金がなくてもよい、博士になれなくてもよいのです。皆そのような面をもちなさいというのです。どんなに不具の嫁でも、そのような心情だけそろえて博士の嫁よりも立派になれば、心情の世界ではその不具の嫁が相続を受けるのです。
今日サタン世界では、自分より優秀ならば首を切るでしょう。怨 讐の世界ではそうです。心情の世界では息子が父母に似るのではなくて、父母が息子に似ようというです。皆さんが先生よりも、もっとみ旨に対して号泣し、み旨に対してただ感謝しなければならないのです。み旨に対して先生がそれを見て、「ああ、君は偉いなあ。共に泣いてあげたいし、共にいたいし、共についていきたい」と、このようであればよいだろうに、反対になっているのです。神様は自分よりももっと立派になることを望まれるのです。神様が一番欲張りです。一番能力と権能が多く、数多くの欲をもったその方が、自分より立派な息子、娘が出てくればよいというのです。
ですから、皆さんが一つの結実にならなければなりません。神様の代わりにエデンで父を称賛して、アダムとエバを立てておいて種を植え、そこで収めた種をまた持っていって天下にばらまき繁殖させようとした、その理念的な基準が成就されていないのです。
その種を収めて、息子、娘を率いて世界をすべて神様の息子、娘として征服できる仕事を先生がするというのです。私たちは、そういう結実体にならなければなりません。
19. 父とその国
一九六四年三月二十二日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十三巻』
きょう皆さんにお話ししようとする題目は「父とその国」です。
◆父子の関係を
人間がつくったこの世のあらゆる物には、必ず主人がいます。そして、その物にはそれを作った主人の目的があり、また作られたその物自体がもっている目的があります。
また、私たちは天地を造られた方がいらっしゃることを知っています。この天地を造られた主人を私たちは神様と呼んでいます。ところが、神様によって造られた万物が、神様と共にあることができず、堕落した世界になっています。堕落したその日から天地万物は主人を失ってしまったのです。そうして天地万物は失った主人を探し、再び因縁を結ばなければならない立場に立つようになりました。このように失った主人を探していく道が、復帰の道だということを私たちは知っています。
それでは、この天地万物を造られた主人は、どのような目的をもっていたのでしょうか。その主人は人間の父としていらっしゃるために、また人間を通して現れることのできる願いの中心体としていらっしゃることができるために天地万物を造られました。
このような天地万物は、その主人が愛することができるし、主人の愛を受けるべきだったのです。神様のもの、神の国のものにならなければなりませんでした。ところが、そのようにできずに天は天だけで、地は地だけで、人間は人間だけで分離してしまいました。これが堕落であることを私たちはよく知っています。
それゆえ、神様は分離したこれらを収拾してこられました。天を収拾し、地を収拾しながら、人間を中心に全体を収拾してこられました。これが神様の歩いてこられた復帰の道です。
元来、神様と私たち人間は永遠に忘れようにも忘れられず、離れようにも離れられない父子の絆を結んでいました。ところが、人間が堕落することにより、神様は私たちの父の立場に立つことができず、私たち人間も神様の子女の立場に立てなくなりました。
この世に最もかわいそうな人がいるとしたら、それはどのような人でしょうか。子供をもつ父母がその子供を「子供である」と言えない人、父母がいても「父母」と言えない立場にある人です。それ以上にかわいそうな人はいません。また縁と約束を通し、天下に誓って夫婦の因縁を結んだのに、夫と妻がお互いに愛することのできない立場にあるならば、それ以上かわいそうな人はいないでしょう。
◆父子の関係を回復すべき神様と人間
今日、神様と私たち人間は、どのような立場に置かれているでしょうか。神様は私たち人間の父で、人間は神様の子女ですが、そうでない立場に置かれているのです。元来、神様と人間の関係が父子の関係であるということが、キリスト教の核心思想です。のみならず、これは天地創造の原則的な内容でもあります。
したがって、人間は神様と父子の関係を結ぶことのできる位置まで訪ねていかなければならないのです。神様と人間との関係が切れてしまった天下になったことほど、悲惨で悲しい出来事がどこにあるでしょうか。ですから、神様が悲しまれるのはもちろんですが、神様を失った私たち人間も悲しむべき立場にいるのです。また、新郎として侍るべき天をなくした地の悲しみより大きい悲しみはないと、いうことを私たちは知らなければなりません。
それでは、天地を動員して探すべきものがあるとしたら、それは何でしょうか。失った父を探すことであり、失った子女を探すことであり、失った新郎新婦を探すことです。このようなことを探し出す道が復帰の道です。このような復帰の途上で神様は、「私が神である」と言える一日をもつことができたでしょうか。もつことができませんでした。神様が愛する息子、娘のためにこの世を造りましたが、「私の国」と言うことができなかったのです。また、神様を信じてきた数多くの民、あるいは数多くの聖徒たちが、「この天下は私のものである」と言ったことがあるでしょうか。なかったのです。このように、この天地は主人を失った天地になりました。
では、神様の代わりに誰がこの天地の主人になっていますか。神様の怨 讐であり、私たちの怨讐であるサタンが主人になっています。本来の主人を失った万物であり、本来の父母を失った人間になったのです。そのように主人を失い、父母を失った天宙であり、人類であるということを考えるとき、私たちがしなければならないこととは何でしょうか。失った父母を探し、到底受け入れられない父母の恨みを晴らすことです。これが私たち人間の義務として残っているということを肝に銘じなければなりません。
復帰の道は、何を探し求めるための道ですか。失った父を探し、その父を中心とする国を探すための道です。これを成し遂げるためには、僕の僕から僕、養子、実子の位置を経て勝利した息子、娘として神様の祝福を受けなければなりません。そうして神様を中心とした真の父母となって家庭を築き、氏族を成し、民族を成し、国家を形成しながら世界を築き上げていかなければならないのです。これが神様が願われる復帰の目的なのです。
いつ、神様が一人の人間を前にして、「私がお前の父に間違いなく、お前は私の息子に間違いない」と言ったことがありましたか。「私は天地を創造した主人ゆえ、私が動じれば共に動ずる天地であり、私が静ずれば共に静ずる天地である。お前は私の息子であるからお前も私の代わりにそのようにできる」というみ言を受けた息子、娘がいましたか。いなかったというのです。
神様がこの地上にイエス様を送って、「これは私の愛する息子である」と言われました。「ひとり子である」と言われました。しかし、愛する息子であり、ひとり子としてこの地上に送られましたが、神様が最後まで愛することができませんでした。創世以来初めて神様の愛するひとり子という名をもったメシヤを愛せなかったのです。これ以上の恨みがどこにありますか。
神様もそうですが、送られたイエス様はいかばかりだったでしょうか。「お父様、私を愛してください」と言ってみることもできなかったのです。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ二六・三九)と言いました。このみ言にはとても大きな意味が内包されています。当然父の愛を受けるべきなのにもかかわらず、自由に愛を受けることのできない何らかの条件と限界線があったのです。それゆえ、「私の父よ」、「私の息子よ」と言えなかったのです。
この地上でイエス様を信じる多くの聖徒は、自称神様の息子、娘だと話します。しかし、本当に神様の心情からわき出る、愛に燃える情熱の心をもった息子、娘がいますか。神様が、「そうだ。お前は私の息子だ」と言って胸をかき乱して抱くことのできる息子、娘がいますか。いないというのです。天地はそのまま残っていて、人間の形をした人は多いけれど、天地を主管することのできる人はいないのです。神様の愛を独り占めできる人がいないのです。
◆復帰の責任を担って摂理してこられた神様
天上に行かれたイエス様も祈祷しなければなりません。聖霊も産みの苦しみをしなければなりません。何ゆえにそうしなければならないのでしょうか。堕落によって生じた蕩減をしなければならない恨みが残っているためです。個人から家庭、氏族、民族、国家を経て世界と天地、霊界と肉界にこびりついている恨みを解怨しなければならないためです。この恨みを解怨しなくては天と地は因縁を結ぶことはできません。天は新郎であり、地は新婦です。神様は人類の父母であり、人類は神様の子女です。このような因縁を打ち立てなければならないのです。
では、いったいこのサタン、あるいは悪魔とは何でしょうか。永遠に離れようにも離れられない天と地、神様と人間の間の愛を盗んだ存在です。このサタンが降参するまでは、家庭の破綻を防止できません。
今日堕落した子孫は、本心が指向することに従って我知らず天に向かって進んでいます。倒れて転びながらも進んでいます。個人的に、民族的に、国家的に倒れてひっくり返る歴史路程をたどってきました。しかし、その中でも有り難いことは、神様を失ってこのように限りなく倒れる路程をたどってきましたが、今まで神様の名前が人間の胸中に残ってきたという事実です。神様の名前でも残っているということは幸福なことです。また、イエス様は霊界に行かれましたが、イエス様の名前が残っていることは幸福なことなのです。ところで、皆さんはイエス様の名により祈祷していますが、先生は昔からそのように祈祷しませんでした。イエス様の名前で祈祷しないのです。
歴史路程を歩んでくる間、数えきれないほど曲折も多かったのですが、今日に至り、後孫の前に天を「新郎」と言えて地を「新婦」と言える、そしてイエス様を「新郎」と言えて信徒を「新婦」と言える、神様を「父」と言えて人間を「子女」と言えるこのような名詞、このような教えが、複雑なこの世に伝播されて世界的な舞台を整えているという事実を知らなければなりません。皆さんは、今までキリスト教徒が伝道してすべてこのようになったと考えますか。もちろん、数多くのキリスト教徒が、祭物的な立場で自身を犠牲にしたことは事実ですが、それよりも彼らの背後にいらっしゃった神様が御自身の名前を残してくださり、御自身が願われる基準をこの地上の人間の前に残すために責任を担ってこられたからなのです。神様がこのような責任を時代ごとに人間たちに橋渡しをするために、涙しながら今まで摂理を展開してこられたのです。
今日キリスト教では、殉教の歴史を誇っています。時代や地域を問わずキリスト教が入っていった所では、必ず殉教の血を流したのです。このように血を流しながら、宣教の基盤を築いてきたということを私たちは知っています。しかし、私たちは個人、家庭、あるいは団体が悲惨に犠牲になったことだけを考えてはなりません。彼らの悲惨さよりも彼らを導いてこられた神様が、悲惨な道を歩んでこられたという事実を知らなければなりません。
それでは、神様のみ名をたたえることのできる人とは、どのような人でしょうか。神の国を所有できる人とは、どのような人でしょうか。神様の歴史的なあらゆる悲惨さをふろしきに包んでサタン世界に行って解いてくることのできる人、神の憤りと私たち人類のあらゆる憤りと恨みをサタン世界に行って浴びせかけて恨みを晴らすことのできる人が、神のみ名を称賛できる人であり、神の国を所有できる人です。その時が、正に大審判の日です。
◆神様が行くべき道と召命された人間が行くべき道
皆さん、聖書のみ言(マタイ二五・三五以下)を見れば、右側にいる群れに向かって「あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである」と語られ、右側の義人たちに対しては永生を、左側の悪人たちに対しては刑罰を下されたことを見ることができます。このようなみ言に対するとき、皆さんは単純に比喩と象徴で語られたみ言とだけ考えてはなりません。
イエス様はこの地上へ来られて、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」(マタイ八・二〇)とおっしゃいました。神様の息子がこのようになるとは、誰が考えたでしょうか。四千年間神様が準備して送ったメシヤが、地上でこういう身の上になるなどと誰が考えたでしょうか。メシヤを迎えたイエス様の弟子たちが、どうして十字架に逆さにかけられて虐殺されなければならなかったのでしょうか。神様は、そうさせるために四千年歴史を準備してこられたのでしょうか。
神様のために忠臣になり、孝子、孝女になり、烈女になろうとする群れはこのような道を行かなければならないのです。なぜでしょうか。忠臣の名前はあっても忠臣として行くべき道が残っていて、孝子、孝女の名はあっても孝子、孝女として行くべき道が残っていて、烈女の名はあっても烈女として行くべき道が残っているために、このような名を与えて死の道を行くようにするのです。このような道がふさがっているがゆえに、この道に追いやるのです。それゆえ忠臣、孝子、孝女、烈女になるためには、国王と父母と新郎に代わって、自分の体を死の道に投げることができなければならないのです。
人間は神様の前に召命されましたが、人間は人間として行く道があり、神様は神様として行く道があるのです。人間が行く道に十字架の道があるのと同じく、神様が行く道にも十字架の道があるというのです。人間は個人的な事情を中心として行きますが、神様は個人的な事情だけではありません。人間は家庭的な事情を中心として行きますが、神様は家庭的な事情だけではありません。また、人間は民族ならば民族だけを中心にして行きますが、神様は民族だけではないのです。神様には個人を超えて、家庭、家庭を超えて、氏族、氏族を超えて民族、民族を超えて国家、国家を超えて世界、世界を超えて天宙が残っているというのです。
それゆえ、十字架の道をかき分けて行くためには、人間の犠牲だけでは駄目なのです。個人的な十字架で勝利した者たちを合わせて、家庭的な形態をつくって神様が行かなければならない家庭的な十字架を蕩減しなければなりません。民族と民族を合わせて神様が行かなければならない国家的な条件を立てなければならないのです。したがって、神様の前に真の孝子、孝女になり、真の忠臣、烈女になろうとするなら、まず自分が行くべき道をすべて行ったのちに、神様が行く道を手助けしなければなりません。神様を背負って行くなり何なりして助けなければなりません。
復帰の道は人間だけが行くのでなく、神様も行っていらっしゃいます。人間は地上を通じて行っていますが、神様は地上だけではなく、天上世界の復帰の路程までも歩んでいらっしゃるのです。だから、神様のために行く人々は、祝福を受けてからは腹を据えなければなりません。
私という個人が千辛万苦の末に神様の召命を受けて祭物になったとしても、そこで終わるのではありません。それを基盤により大きい十字架に加担して、現在の位置よりもう一歩発展していくのが復帰の道です。個人より家庭的な基準を立てなければならない神様は、家庭的な犠牲者を立て、家庭よりは民族、民族よりも国家、国家より世界のための犠牲者を立ててこられたのです。
それゆえに、今日まで歴史を収拾してこられた神様の前に、数多くの犠牲者が必要でした。これと同じく今日キリスト教が世界を中心とした一つの基盤を築くためには、キリスト教としての犠牲的な使命を完結させると同時に、キリスト教を導かなければならない神様の十字架を代わりに蕩減しなければなりません。それで「世紀末的な大患難」という名詞が出てくるのです。
◆神様が私たちを祭物の位置に追い立てる理由
このような患難の途上に祭物として立てられる人は、その人自身に罪があって祭物になるのではありません。これは神様が現在の位置よりもっと大きい分野を開拓するために、祭物的な位置に追い立てるのです。これが蕩減復帰の原則です。
このように蕩減復帰してきたことを、今まで私たちの先祖は誰も知りませんでした。個人的な十字架の途上で勝利し、その基盤の上で民族的な十字架の道を行きますとサタンの前に宣布して出れば、民族的な十字架の路程を行くことができます。けれども、民族的な十字架が何かを知らなくてはできません。これを知らずには責任を負うことができません。今日キリスト教が世界的なキリスト教に発展するためには、キリスト教として担っている十字架を蕩減し、神様の十字架までも蕩減するために神様の前に責任を完遂するという条件を立てなければなりません。それにもかかわらず、今日のキリスト教はその責任と使命を果たせず、崩れていこうとしています。こういう時を迎えて、神様は世界的な使命を果たせる教団を立てられました。神様がこのような教団を立てられるとき、外的には国家主権を立てて、ゆがんでしまった事柄を収拾しようとされます。しかし、内的には世界的な舞台、あるいは天的な基盤を築くための内容を中心として、神様の代わりに蕩減してくる群れがなければなりません。このような群れがなければ、世の中を救援する道がふさがってしまうのです。それで、神様がこういう一時を用意し、そのような群れを準備してこられたことを知らなければなりません。
今日人間がこのような内容を知って協助してきましたか。個人的な十字架で勝利したなら、家庭的な十字架に責任を負おうとする人がいなければなりません。このように訴える人がいないために、いまだに神様が行かなければならない道が残っているのです。今日皆さんの中に家庭的迫害に遭っている人がいますか。そのような人がいるならば、それを悔しく、恨めしいと考えてはなりません。皆さんが家庭的な迫害に遭っている間、神様は氏族的、民族的な迫害を受けて、また十字架の道を開拓するために皆さん以上に苦労をしていらっしゃることを知らなければなりません。
神様がなぜそのような苦労をしていらっしゃるのでしょうか。それは家庭的な十字架路程で倒れたとしても、氏族的な基盤を築かなければならないためです。そうしてこそ、家庭的基盤が崩れても、再び収拾できる基盤を築くことができるのです。このように神様が時代的な恩恵圏をあらかじめつくっておくことにより、家庭的な時代と氏族的な時代を早く終結させることができるのです。神様はこのような役割をしてこられました。神様は、歴史路程で人間が受ける迫害と十字架の犠牲よりもっと大きい十字架の舞台で、独りで闘争してこられました。このような道が神様が訪ねてこられた道であり、神様が歩まれる道であることを皆さんは知らなければなりません。
◆神様の前に子女と新婦の資格を得ようとするなら
今日この時代を代表する指導者が出てきて、その民族を指導しようとするなら、まず氏族的な試練の途上で勝利しなければなりません。そうしてこそ、氏族を民族圏内に移すことができます。モーセがイスラエル民族を収拾するためには、民族圏内の試練ももちろん受けなければなりませんが、ミデヤン荒野での民族的な試練と国家的な試練を克服して勝利の基盤を築かなければならないのです。そのような基盤の上で民族を導いてきてこそ、讒訴を受けない指導者になるのです。
無知な人間を指導される神様は、私たち人間を滅びないようにするために、人間が受ける試練と患難よりもっと大きい試練と患難に遭っていらっしゃるのです。私たち人間が家庭的な恩恵圏内で、あるいは民族的な恩恵圏内で試練に耐えて我慢していくその時間に、神様は国家的で世界的な足場を立てるために汗を流していらっしゃることを私たちは知らなければなりません。
今まで神様に対してきた数多くの人々は、この内容を知らなかったので、自らの悲しみだけを神様の前に訴えました。自らの困難を訴えて、「お父様、私の涙をどうか受けてください」と言っていたのです。神様を信じ、神様の孝子、孝女、忠臣、烈女になろうとする者たちが、今までこのようにしてきたのです。私個人が受ける十字架は私が過ったからではなく、世界的な、家庭的な十字架の代わりをするのであるという心をもって、サタンを退け、「お父様! 家庭的な勝利の基盤を築いたので、民族的な十字架を私に下さい」と言える人にならなければなりません。ところが、皆さんはもっぱら恵みは私のものにしようとし、あらゆる困難は神様に任せようとします。これでは駄目なのです。
皆さん、神様は人間より一世界を先に行かれます。一世界を先に行かれる神様の歩みであるゆえ、私たちが家庭を立てるために歩んでいるとき、神様は民族的な基盤を準備されるのであり、私たちが民族的な試練を乗り越える過程にあるとき、神様は国家と世界的な基盤を広げるために、耐え難い十字架の道を行っていらっしゃることを私たちは忘れてはなりません。
今日私たちは、神様を支えてあげなければならない神様の息子、娘であり、新郎を支えてあげなければならない新婦ですが、果たしてそういう生活をしてきたでしょうか。もう一度反省してみなければなりません。父とその国、父は私たちの父であり、その国は私たちの国なのに、人間によって父がこのように悲惨になり、父の国がこのように誤ってしまったのです。「人間が自分で負うべき十字架を神様が負われ、人間が行かなければならない苦難の道を神様が行かれるとは!」と、こういう憤りの心を皆さんが体 恤するまでは、神様が本当に愛する息子、娘になれないのであり、新郎の前に新婦の資格を得られないのです。
皆さんの無知なる心情を眺める神様の心情は、いかばかりかと考えます。皆さんの事情を眺めて、私たちの行く道を開拓してくださるために、私たちより先に十字架を背負って行かれる神様がいらっしたことを考えなければなりません。神様のあとに従って「さあ、行きましょう」と激励して、神様の前にありったけの力をみな捧げ、受け持った責務を完遂しなければなりません。
今日私たちは孝子にならなければなりません。忠臣になり、烈女にならなければなりません。それではどのような場で孝子の名を受け、忠臣、烈女の名を受けることができるでしょうか。それはただ、十字架の道でのみ受けることができます。イエス様も十字架の途上で、生命と引き換える場で初めてその名を受けることができました。皆さんはこれをはっきりと知らなければなりません。このような道を行くことができないのに神様の息子、娘ですか。イエス様の新婦になれますか。あまりにも欲が深いのです。
◆十字架の道に進む時すべてが成される
孝子、孝女、忠臣、烈女の名前は平坦な場で受けることができるのではありません。なぜなら、信仰の道を開拓するために私たちの前で、神様とイエス様と聖霊が苦労していらっしゃるからです。私たちは骨身にしみる使命を担っていかなければならない聖徒たちです。この使命を完遂するために死んでいく聖徒を目をつぶって送らなければならない神様、苦痛に遭っているイエス様に「その苦痛に立ち向かえ」と言えない神様、このような神様の心が安らかでしょうか。
それゆえ、今日私たちが試練と迫害と患難にぶつかり死の境地に入っていけばいくほど、これに比例して神様の十字架も加重されていくということを私たちは知らなければなりません。したがって、神様の息子、娘になるためには、十字架の道を行かなければならないのです。
神様は飢えの道を行っていらっしゃます。このような神様のためにいつ精誠を尽くしてみましたか。良いものがあれば、全部持っていって自分の腹だけを満たしたでしょう。神様のために行く道は、食べるために行く道ではありません。遊ぶために行く道ではありません。楽をしようとして行く道では絶対にありません。真の主人に仕えることのできる真の僕になろうとすれば、滅びゆく身を捨てて「真の僕」という称号を受けなければなりません。
侍るべき父親がいるならば、困難な立場においてもその父親から、「お前は私の愛する息子、娘だ」と言われ、「孝子」ということのできる称号を受けなければならず、侍るべき国王がいるなら、その国王の前に困難な立場においても「忠臣」という称号を受けなければなりません。そうしてこそ、怨 讐であるサタンが占領し得ない存在になります。このような存在になれば、再び神様を失わないようになるのです。神様を裏切るなら失うでしょうが、このような存在になれば二度と失わないようになります。神様の前に孝子、孝女、忠臣、烈女になるのです。
それでは、神様はいかなる場で真の息子、娘を探しますか。その場所とは、十字架上です。結局は十字架の途上で召命されるのです。その父に従っていこうとするなら十字架の途上で因縁を結んで、「私の愛する息子、娘」という称号を受けなければなりません。では、それで万事がみな通じるのでしょうか。そうではありません。
個人的な十字架があるのと同時に、家庭的な十字架があります。それで、ヤコブはエサウの前で、個人的な十字架の峠を無難に越えたのちに、家庭的な十字架の道を探しに出たのです。家庭的な十字架の道で勝利したのちには、民族的な十字架の道を行かなければなりません。その次には、国家的な十字架の道を行かなければなりません。それで、モーセはエジプトの地から再びイスラエルの国を探すための十字架の道としてカナンの地へ行ったのです。ところが、この十字架の道でイスラエル民族が責任を果たせないことにより、のちに来られるイエス様が十字架で亡くなり得るという条件が成立したのです。
民族的、国家的な十字架の道で勝利した基盤を土台にして世界的な十字架の道を開拓しなければならないのが、この地上へ来られたメシヤの使命でした。ですから、ユダヤの国とイスラエル民族とユダヤ教徒が一つになって、来られるメシヤを信じなければならなかったにもかかわらず、彼らが使命を果たすことができなかったために、イエス様は民族的、国家的な基盤を失うようになったのです。
それゆえ、イエス様は国王の位置よりもモーセの位置よりも、ヤコブの位置よりも低い位置に落ちてしまったのです。四千年の苦難の中で準備しておいたイスラエル民族が国家的な基準で背くことにより、イエス様は家庭を離れ、氏族を離れ、民族を離れて荒野に行くようになったのです。
サタンに引っ張られて荒野に行かれたイエス様は、闘ってユダヤ民族と神様が築いてきた四千年の基盤を個人、家庭、氏族、民族、国家的な基準で再び探し出してきました。霊的な決戦を通じて勝利の基盤を造成してきたのです。復帰の道とは、こういう道です。
◆私たちが生きていく目的
皆さんは今までこの道を歩んできながら、悪の迫害の途上で倒れないで残った群れになりました。追い込まれた立場で死ななかったのです。なぜですか。神様が私たちを指導していらっしゃることを知っていたからです。指導される神様の歩みを止めることができますか。歩みを止めようとすればますます速くなります。個人的な十字架の道で疲れて倒れれば、家庭的な十字架の基準を越えられません。家庭的な十字架の道で倒れれば、氏族的、民族的、国家的な基準を越えることができないのです。
これから私たちはどのようにすべきですか。十字架の山上で神様が私たちの行く道を導かれるとき、その道に進んで勝利者になり、神様が救ってあげられる人にならなければなりません。個人の十字架をすべて行ったのち、「もうお前には勝利しか残っていない」と言う音声を聞く時まで行かなければなりません。今、皆さんはどのような段階にとどまっているのか、よく考えなければなりません。
このようなことを考えるとき、皆さんは今この場に座っていますが、神様には休む間がありません。今日宗教が問題ではなく、国家が問題ではありません。また先生が問題ではありません。今は歴史的なすべてのことが全部かかっているのです。
父とその国です。私が歩んできた目的は父を求めるためであり、私が生きる目的は父の国を回復させるためです。父が涙ぐんでいらっしゃるがゆえに、私は楽に生きることはできず、父が心配なさるがゆえに、私は楽に休むことはできず、父が十字架を背負っていらっしゃるがゆえに、私は安楽な立場にいることができないのです。
◆十字架を征服しなければならない私たち
皆さん、このみ旨を前にして考えてみるとき、現在私たちの実情は非常に緊迫しています。世界情勢を眺めれば眺めるほど緊迫しています。世界的な十字架の絶頂で神様に代わって責任を負うことのできる群れとは、いかなる群れでしょうか。このようなことを考えなければならない時が来ました。このような道は嫌だと、これを拒んで落ちていく人は、十字架を担っていかれるイエス様を裏切った群れのあとに従う者たちです。
今日皆さんは世界の数多くの民族を、私たちの手で救わなければならないという信念をもたなければなりません。この使命を他の民族に譲ることはできないという信念に満ちていなければなりません。また、皆さんはこの国、この民族を救うにも自分でなければならないという信念をもたなければなりません。困難な十字架は、私たちが先に負おうとしなければなりません。神様が飢えた立場で十字架を背負って行かれるので、私たちも十字架を背負って、食べる物も食べないで行くという覚悟と信念がなければなりません。そうしてこそ孝子です。
飢えた立場で十字架を負っていても、与えたく、差し上げたい心をもたなければなりません。「差し上げなければならないことを知っているけれど、私には涙しか差し上げる物がありません」と言わなければなりません。このようなことを私がしなければならないというのです。神様が飢え渇いた立場で行かなければならない十字架の道を私が担って、神様に安楽な道を差し上げることができなければなりません。
孤独な路程で疲れた歩みを止めて、安息することもできない旅人の身分になったとしても、神様の前では、「私は大丈夫です」と言えなければなりません。神様に自分の苦労を負わせるのではなく、自分を通じて神様の苦労を減らすことのできる立場に立たなければならないのです。
このような立場で、自分が負った十字架を自らの責任として、神様は私よりもっと大きい十字架を担っていかれるということを知って、与えることができ、「ため」に生きることができ、侍ることのできる人にならなければなりません。このような人が真の孝子、孝女です。
では、神様は誰のために摂理してこられるのでしょうか。家庭を超えて民族のためにです。それよりもっと大きいことのためにです。民族の立場で国家的な責任を担っていらっしゃる神様は、その民族圏内で一つの責任でも果たせる、極めて小さな一人さえも軽くは考えられません。皆さんは神様のような哀れむ心をもって、神様が受けられる十字架の苦痛を減らそうとする人にならなければなりません。神様はこのような人がするあらる行動を、神様御自身のためにすることとして受け取ってくださるのです。
今日信仰者は、「家庭的な十字架を背負って、民族的な十字架をも加えて負います」と言わなければなりません。それが信仰者の姿勢です。もし家庭的な祭壇で失敗しても、民族的な基準で「忠臣」の称号を残し、「孝子、孝女」の称号を残せばいいのです。このような点を考えると、信仰者が民族的な使命を果たさなければならない時代を迎えるようになったことが分かります。これから私たちが行くべき道は世界的な道であり、私たちが探し求めなければならない国は天地ですから、この天地を神様に探してさしあげる時まで残っている十字架の道が、大きいということを考えなければなりません。それゆえ、私たちが今受ける十字架は当然なのです。
皆さんがここで歩みを止めれば、皆さんは道だけ築いて、そのまま過ぎてしまう人になります。先生は蘇生時代、長成時代、完成時代、このように段階的に連結させていくつもりです。したがって、皆さんがもう一度肝に銘じなければならないことは、この時代においてしっかりと目を覚まして、残っている十字架の道を走っていくべきだということです。
十字架の途上で試練にぶつかるたびに、「ありがとうございます」と祈祷しなければなりません。十字架の道を行く時は、民族だけでなく、世界的な十字架をつかんでいかなければなりません。そうして十字架を征服しなければなりません。十字架を征服するまでは、サタン世界の患難の峠を越えることができません。イエス様も十字架を征服してから復活という新しい歴史を立てて、新約の福音の歴史を出発することができたのです。
これと同じで、今日の信仰者も十字架を征服しなければなりません。現世の十字架を征服しなければなりません。そうして、試練と迫害を受けても滅びない群れにならなければなりません。これが神様が指導してこられた方法です。このような復帰の道が残っているために、皆さんの立場が孤独で寂しいと思えるたびに、私と共に歩んでいらっしゃる神様の立場を考えなければならないのです。
◆皆さんは休んでも神様は御苦労される
洗礼ヨハネはイエス様を指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ一・二九)と言いました。そのとおりです。世の中の十字架を負って行かれる神の小羊は、個人から家庭、氏族、国家、世界を越えて天地、天宙にしみついたあらゆる十字架の峠を突破しなければなりません。霊界のゴルゴタを突破して、地上のゴルゴタを突破しなければなりません。そして、個人的な十字架の峠を越え、家庭的な十字架の峠を超え、民族、国家、世界的な峠を越えなければならないのです。
皆さんは最も難しいことを選んでしなければなりません。最も難しい峠に出会えば、「先生、私がします。私も一度やってみます」と言わなければなりません。神様の十字架まで付け加えて負っていこうと努力しなければならないのです。皆さんは今天的な使命を担っていかなければならないこの路程で、いかなる責任と使命を担って苦労の峠を越えていっていますか。神様を中心にすべてをしなければなりません。皆さんが今飢えているのは食べられないからではありません。水を飲むことができなくて、のどが渇いているのではありません。
私たちは、大きい十字架を担っていかなければならないのです。個人的な試練と家庭的な試練は、氏族的な基盤を築くための準備期間でした。今私たちの前に現れる迫害と試練がないといって、私たちの行く道は平坦だろうと考えてはなりません。今は範囲がより広くなりました。過去には座った場で十字架を背負いましたが、今は十字架を背負って歩いていかなければなりません。過去には十字架を背負って一箇所だけを眺めていきましたが、今は一箇所だけを見ていてはなりません。東西南北を見回して行かなければならないのです。過去にはその場で十字架の峠を上ればよかったのですが、今は四方をあまねく見回して観察していかなければなりません。範囲が広くなったのです。
先生は神様が行かれる道を仰がなければならず、皆さんは先生が行く道を仰がなければなりません。同じ立場に立たなければならないのです。お互いが掛け離れてはなりません。先生は皆さんよりももっと加重された道を歩いています。また、先生を指導される神様は、一段階上の道を歩いていらっしゃいます。皆さんが寝入っていても、神様は蘇生、長成、完成の三数の段階を経て関係を結んでこられました。
蘇生級をたどり、長成級で審判を受けるのと同じで次子が問題です。二番目が問題です。上下があり、前後があり、左右があるのも二番目があるからです。二番目ですべてを解決しなければなりません。それゆえ上下を正して、前後、左右を正さなければならない責任が二番目にあるのです。
最後の決戦を見つめながら新しい決戦を行う立場では、責任を負う人のみが生きて帰ることができます。一生行っても行ききれない道ゆえ、皆さんは寝ても覚めても夢の中でも起きていなければなりません。
皆さんは公的な責任を負うときは、どのような苦難にぶつかっても堂々としていなければなりません。皆さんは自分たちが行かなければならない環境の垣根を背負っていても、主が十字架を背負っていれば、主の盾にならなければならないのにもかかわらず、むしろ主に覆いかぶせています。公的な使命と、個人的にすべきことは別のものです。
◆父の国を成し遂げようという人になろう
先生はひもじく疲れて倒れることがあっても、どのようにすれば神様が案じられるその道を私が進んでいけるか、担うことのできる十字架の道があるならば、どのようにその道を行くべきかということを考えました。ところが、皆さんはこのような道を行く準備をせずにいます。今日皆さんは侍ることにより救われるということを知っていながらも、ただ眺めているだけです。
私たちは寝ても覚めても父のために、父の国のために行かなければなりません。千回、万回死ぬことがあったとしても、その恨みを解かなければならないのです。そういう勇気のある人ならば、自らの十字架を甘受し、神様の十字架を代わりに負うことができなければなりません。
したがって、今日私たちは父とその国のために仕事をしなければなりません。父が召命できる孝子、孝女にならなければなりません。男性は父の孝子になり、女性は父の孝女にならなければなりません。父の前に忠臣、烈女にならなければならないのです。このように私たちは神様のために、生まれつきの民にならなければならず、孝子、孝女、忠臣、烈女になるべきだということをはっきり知らなければなりません。これが私たちがしなければならない使命なのです。
信仰者が行く道は難しいのです。困難な十字架の途上でも「アバ、父よ、私の思いではなく、父のみ意のままになさってください」と言わなければなりません。血を流して倒れることが父のみ旨ですか。苦労することが父のみ旨ですか。父の恨みを晴らさなければならないために、そのようにするしかないというのです。そのようにしなければ恨みを晴らすことができないのです。
こういうことを知って今後来られる父に侍る息子、娘になり、忠臣、烈女にならなければなりません。そのようにできる一日を迎えるために私たちは歩んでいるのです。この道において敗者にならず、勝利者になるために覚悟する群れにならなければなりません。それから一度うんざりするほど仕事をしてみましょう。
父の前に孝子、孝女になって、その国の前に忠臣、烈女になるためには、父母と兄弟の十字架を代わりに負い、その民の十字架を代わりに負うことができなければなりません。兄弟のため、父母のために代わりに十字架を背負う者が孝子、孝女であり、その国民のために代わりに十字架を背負う者が忠臣、烈女です。父の愛を所有するとき孝子、孝女となり、国王の愛を占めるとき忠臣、烈女になるのです。
今日皆さんは、時代的な環境を超えるべき十字架の道をどれくらい開拓しましたか。個人的な十字架の道に行かないのですか。そのようなことでは神様のために生きられません。個人から家庭、氏族、民族、国家、世界の舞台に向かう途上で神様に十字架を背負わせる人になってはなりません。神様の十字架を代わりに担って立ち、神様の前に孝子、孝女であることを叫び、忠臣、烈女になることを訴え、私の血と肉は悪の血と肉とは混ざることのできない血と肉だと叫ばなければならないのです。それでこそ、その国が皆さんと関係を結ぶことができ、父が皆さんと直接関係を結ぶことができるのです。
こういうことをはっきり知って、十字架の途上で先発隊として責任を全うし、必ず生き残る群れにならなければなりません。
きょう家に帰って、皆さん自身がどの段階に立っているのか考えてみてください。皆さん、み旨が成し遂げれらることを願うでしょう。誰がこのみ旨を成し遂げるのですか。神様も一人ではできません。人間が地上で歩調を合わせなければなりません。
皆さん、行くべき道があるのでベルトをきつく締めなくてはなりません。油断してはなりません。早い足取りで走っていかなければならない道において落伍者にならず、約束した統一の場で父に侍り、父の国で勝利を成し遂げて生きる皆さんになることを願います。
20. 福地は呼んでいる
一九六六年三月十三日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十六巻』
きょう皆さんと共に考えようと思うみ言の題目は「福地は呼んでいる」です。
◆福地――神様と人間とが願う地
イエス様がこの地上に来られた本然の目的は、福地を探し出し、打ち立てるためでした。イエス様だけでなく、有史以来み旨を抱きこの地上に痕跡を残していった数多くの預言者や烈士、偉人たちも、みなこの福地を探し出すために生まれ、死んでいったことを皆さんは記憶しなければなりません。
文化や歴史はそういう聖人、賢哲たちの功績を基盤にして築かれたものであると私たちは理解しています。そして、今私たちはその文化圏内にある社会で生を営んでいます。それでは、今日の社会、国家、世界が目指している全体的な目標は何ですか。それも、やはり福地に向かっていくことなのです。
大きな人や小さな人、大きな国や小さな国、また、当代に権威を誇る先進国や、敗亡して悲惨な国運にある後進国など、すべてが到達しようと身もだえするその目的は、福地を探し出すことにあるということを皆さんは知らなければなりません。
多くの歴史の節目で、数多くの人類が福地を尋ねいくために身もだえしました。しかし、私たちはまだ全人類が共に願う福地を見つけたとか、あるいはそこに住んだことがあるという人に出会ったことがありません。そのような人に出会うどころか、福地を建設するためのスローガンを世界的に掲げて立ち上がった群れさえもありませんでした。また、この世に福地が建設され、そこで住むようになるということ、その日が来るということを誰も知らずにいるのです。
こういうことを考えてみるとき、果たしていかなる生活をすることが福地へ行く道なのでしょうか。私たちの生と死の問題と現実と未来の問題を、どのような因縁で福地と連結させるのかということが、私たちには何よりも重要な問題です。最初に神様がこの地と人間の先祖を造り、厳粛な願いと理念があったとすれば、それは何でしょうか。それは、やはり福地を築いて暮らすことだったはずです。
福地の理念は、創世前から神様が胸に抱いてこられた理念であり、創世当時に成そうとされた理念でした。また、堕落以後の歴史を通して摂理してこられた神様が、人間を再び探し出して立てるための理念でした。歴史の背後に神様がいらっしゃるという事実を考えてみるとき、この福地を成し遂げるために人間はどれくらい功労を積み、神様はどれくらい苦労されたのかということを知らなければなりません。
◆堕落により福地を失った人間
神様がアダムを造って願われたことは、地球星すべてが天と一つになって神様が住まざるを得ず、悪が存在しようにも存在できない永遠なる福地となることでした。ところが、アダムが福地の行路を開拓すべき過程で堕落することにより、悲しい一日をつくってしまいました。それ以後この世界は、本来目指していた本然の世界とは反対の所に落ちてしまったのです。
ではその福地を失った張本人は誰ですか。正に私たち人間の先祖であるアダムとエバだったのです。彼らが堕落したために、私たちが福地を失ったということを皆さんは知らなければなりません。
それでは、その福地を再び探し出すためにはどうすればよいでしょうか。これが、私たちがまず解決しなければならない重要な問題です。それを解決するためには、アダムが福地を失った動機が何だったのかを知らなければなりません。
彼はまず、神様のみ言を信じることができませんでした。また、神様のみ言の代行者になることができませんでした。さらに、神様の代わりに福地の主人公の立場で、全宇宙を抱くことのできる心情の主体になることができませんでした。これが堕落の結果であることを私たちは知っています。新しい法度を立てることのできる神様の真実のみ言を失い、その法度を守り、従い、行える人になることができず、その法度を中心として神様の代わりに全宇宙を主管できる真の愛の主人公になれなかったことが堕落だというのです。
◆福地を回復するための神様の摂理
人間の堕落によって福地の世界を失ったために、歴史的に数多くの人物が福地を開拓するために身もだえして死んでいきました。そして歴史は、今日まで血にまみれた闘争の歴史を展開してきたという事実を、私たちは否定することができません。
アダムは福地で神様と共に幸福を謳歌し、神様と共に天上天下のすべてのものを貴く感じ、神様に代わって被造世界を治めなければならない総責任者でした。しかし、アダムは世の中を創造された神様と一つになる場を設けることができませんでした。それが堕落なのです。神様はアダムが堕落したその日から、そのすべてを再び回復するために、今まで身もだえしてこられたことを私たちは知らなくてはなりません。
希望の心をもち、み旨を成就した幸福な立場でアダムを呼ぶべきであった神様が、み旨を成就できず悲しい立場でアダムを呼ぶようになったのです。神様が「アダムよ! アダムよ!」と呼んだその日は、アダムを喜んで迎えることのできる日ではありませんでした。その日は福地を失った日であり、自身の人格が壊れてしまう日であり、天地の運勢が逆になってしまった日なのです。
神様が悲痛な心情でその日を迎え叫ばれた一言が「アダムよ、お前はどこにいるのか」という言葉でした。その日から、神様は失った福地を再び探すために歩まれました。神様は福地という名前を未来に残して、その福地を築くための歴史的な路程をたどりながら今日まで役事してこられたのです。
アダムが堕落した悲しい日、神様はその恨を「アダムよ、お前はどこにいるのか」という一言で叫ばれたのです。それは福地を失った悲しみから始まった嘆きであり、叫びでした。自分の行動が天倫に背いたのだという事実を知り、告白するアダムに対する神様が悲しくなく、嘆かずにいられたわけがありません。私たちはもう一度神様の悲しみを感じなければなりません。
それゆえ、神様はアダム以後六千年間悲しみとともに、福地を回復するために切実な思いで走ってこられました。しかし、人間は神様が目的とされる福地を築くための叫びの前に一つになれず、共にその道を探して歩むことができなかったのです。これもまた、神様の悲しみと憤りになったということを私たちは知らなければなりません。
◆使命を忘れたアブラハム
復帰の道を歩んでこられながら、神様はアブラハムを召命されました。「アブラハムよ!」というそのみ声は、アブラハム一人だけを呼ぶものではありませんでした。それはその昔、アダムのとき骨身にしみついた恨の心を抱き、その時失った福地を再び探し出そうとする叫びであり、同時に新しい福地の主人を再び呼ばれるみ声であり、福地の家庭と福地の民族と福地の世界を築くためのみ声であったということを私たちは知らなくてはなりません。しかし責任を担ったアブラハム自身は、神様のそのみ声が福地を願う叫びであり、歴史の悲惨な姿を解怨成就してくれという叫びであったという事実を知りませんでした。
アブラハムが祭壇に祭物を捧げた瞬間は、福地の世界を成し遂げるための約束の瞬間であり、歴史的な恨が解かれるか否かを決定する瞬間でした。それにもかかわらず、アブラハムは神様が祭物を捧げなさいというみ言の真のみ意を悟ることができず、彼自身が担わなければならない天の使命がどれくらい貴重なのかを悟れないまま、自分の立場だけを中心として祭物を捧げたのです。そのため祭物を裂かずに捧げました。それがまた神様の悲しみを呼ぶ動機となり、後日、イエス様が十字架に架かる動機になったのです。
神様の召命を受けたアブラハムは、夜明けの福地を主管できる新しい預言者と先祖として現れなければなりませんでした。しかし、福地を叫び哀願される神様の前に現れたアブラハムは、そのようなことを十分に成し遂げるだけの姿勢と人格を備えていませんでした。それが歴史的な恨であったことを私たちはもう一度考えてみなければなりません。
アブラハムは歴史的な責任と、時代を審判できる公義の法度を立てるべき責任と、未来の願いの世界を築くべき責任が自分にあるということを忘れてしまったのです。アブラハムが「小さい」と言って裂かなかった祭物が、歴史路程を台無しにする起源になるとは、誰が考えたでしょうか。
アダムにより生じた恨がアブラハムを通して解恨される一日を願いながら、神様はアブラハムを探してこられました。しかし、また再び悲しい心でアブラハムを呼ばなければならない立場になったのです。それで神様はアブラハムの代わりに彼のひとり子イサクを祭物に捧げなさいと再び命じられました。このように恨みに満ちた天の父の事情を、誰が知っていたでしょうか。
◆エジプトで苦労するイスラエル民族に対する神様の願い
イスラエル民族は、ノアからアブラハムまでの曲折の路程を再び歩まなければなりませんでした。そのため、エジプト苦役四百年という恨み多い悲しみの道を歩んできたという事実を私たちは知っています。
神様が召命した者、すなわち時代に責任をもち、時代的な摂理に責任を負って歩まなければならない者の失敗は、個人の失敗で終わるのではありません。そこには歴史の全般的な問題と時代全体、そして未来のあらゆる問題が介在しているのです。ところが、このような事実をアブラハム自身も知らず、イスラエル民族も知りませんでした。開拓者の使命を担当した天の義勇軍として、天の精兵として、天の闘士として責任を全うしなければならないという事実を彼らは知らずにいたのです。
今から四千年前、エジプトは文化が非常に発達していました。そのようなエジプトに入っていき、イスラエル民族が四百年間、苦役生活をしました。このようなイスラエル民族に神様が何を望まれていたのかを、皆さんは知らなくてはなりません。神様は彼らがただ僕の生活をして、れんがを焼く労働者で終わることを願われたのではありません。
骨身にしみる恨が大きければ大きいほど、憤りが大きければ大きいほど、それに比例して怨 讐の都城を踏み潰すのだと新しく決意する彼らになることを、神様は願われたのです。このような神様の心情を忘却したイスラエル民族の生活だったことを、私たちは知らなければなりません。
イスラエル民族は、むちを振り上げて自分たちに命令するエジプトの役人がいたなら、「いつかは私たちがむちを手にして、お前たちを打つ日が来るだろう。今はお前たちの文化を世界に誇っているけれども、いつかはその文化を踏み越えることのできる新しい文化を私たちが創建する」という精気を養い、最大の内的基盤を備えなければならなかったのです。そうしていたならば、イスラエルの福地、カナンの福地が彼らを迎え、二度と歴史上に恨を残すことはなかったでしょう。
アブラハム個人が失敗したことをイスラエル民族全体が蕩減し、歴史的な怨讐の都城を踏んで上に立てるように、思想的に強い信念をもって進むべきだったというのです。イスラエル民族は、自然神を崇拝し太陽神を崇拝する宗教理念を中心として形成されたエジプトの文化を踏んで立ち上がり、ユダヤ教の理念を中心として新しい歴史と文化を創建できる精神的な基盤を失ってしまいました。そのために遊離孤客せざるを得ませんでした。彼らの願いはただエジプトの地を離れ、カナンの福地に帰ろうということで終わってしまったのです。
カナンの福地はイスラエル民族を呼んでいました。しかし、エジプトの苦役を嫌って逃げようとする群れを呼んでいたのではありません。エジプトの苦役に打ち勝ち、怨讐の文化圏を踏んで立ち上がることのできる民族を呼んでいました。
今日、私たちの民族も死亡の峠が迫ってくるとき、それを跳ね返して出ていくことのできる勇気に燃えていなければなりません。そうして、先祖から伝わる恨を抱いて新しいイスラエル創建のための勇者として勇ましく決断して進み、神様が命令なさるその場所に向かって進むことができなくてはなりません。そういう信念の裏づけが希薄な民族には、悽惨さと悲惨さと分裂と破壊があるのみです。それは歴史的な事実です。
神様がイスラエル民族に四百年間苦役生活をさせたのは、イスラエル民族をしてエジプト文化以上の文化を創建させるためであり、エジプト民族以上の権限をもたせるためでした。しかし、そういう神様の本然のみ旨を知らないイスラエル民族であったために、横道に外れざるを得なかったというのです。
◆新しい文化と選民圏を創建すべきイスラエル民族
この時代を経てイスラエル民族は、サウル王、ダビデ王、ソロモン王時代を迎えるようになりました。サウルは神様の前に立てられ、厳粛な命令を受けました。彼はイスラエル創建の代表者としての使命を担っていたために、自分個人の幸福だけのために生きてはなりませんでした。怨讐の世界に散らばっている異邦の国の権限が大きければ大きいほど、それを踏み越えることのできるより大きな権限を備えた民族に育て上げなければなりませんでした。そうして、当時のエジプト文化以上の文化を創建し、その伝統を立てなければなりませんでした。
彼はまた、散らばった民族を収拾し団結させ怨讐を打ちのめし、新しい理念を中心として新しい文化を築くことのできる選民圏を創建しなければなりませんでした。そういう使命を果たすためには、義憤心に燃え、歴史的な恨を蕩減するのだという決意にあふれて泣かなければなりませんでした。しかし、サウルとイスラエル民族の歩みは、神様が願われる本意から外れていました。それゆえ、彼らは恨の多い歴史を残す、悲しみの道に進むようになったのです。ダビデもやはり王位についたことで満足するのでなく、王位を基盤としてエジプトを踏み越えることのできる民族を創建し、民族文化を築かなければならなかったのです。
異邦の国を征服するときには、その国の文化までも跡形なく切り捨てるべきでした。そうしてエジプトを踏み越え、億千万世代に恨を抱かせた怨 讐の前で真理の刀を振り回すべきでした。そういう権限をもって進むべきだったのがサウルの責任であり、ダビデの責任であり、ソロモンの責任でしたが、彼らはその責任を果たすことができませんでした。神様を歴史にたたえられるようにした人物としてソロモンを誇りますが、ソロモンはその時代圏内でのソロモンであって、その時代を超えてたたえられるソロモンではなかったのです。
福地が呼ぶ人、福地の主人になれる人は、その時代で幸福を謳歌した人ではありません。その当時の歴史を踏み越えてその上に新しい文化を創建し、全人類にその世界に向かって進もうと堂々と命令できる、その新しい何かを見せてあげなければならないのです。このようにしなければならないのがソロモンの責任でした。
ソロモンは祭物を捧げる聖殿を建て、その聖殿の中でイスラエルの族長たちを集め、自らの王権を誇ることで終わりました。ソロモンの権威は、今まで諸方の数多くの民族たちが立てたあらゆる文化の痕跡を跡形なく滅ぼし、堕落した氏族の因縁を通して築かれたあらゆる文化を除去できる、新しい文化を創建しなければなりませんでした。しかしソロモンはそれをすっかり忘れてしまいました。それゆえ、ソロモンを通して成し遂げようとしていた神様のみ旨は、そういう願いを抱いて歩む群れに向けて再び移らざるを得なかったのです。
神様は数千年の歴史路程を経てきながら先知先烈を通し、あるいは預言者を通して勧告した内容がありました。それは、イスラエル民族が民族的な使命を担いなさいということでした。世界が素直にイスラエル民族の前に降伏すると思いますか。彼らには福地に向かっていかなければならない使命が与えられているため、その道に反対する者がいれば、それを打ってでも行きなさいということでした。
◆新しい文化と福地の世界
神様がイエス様をこの地上に送られたのは、何のためだったでしょうか。それは福地を探し出すための恨を解くためであり、福地で生きられなかった恨を解くためであり、福地を失うことにより神様の栄光をたたえられない恨を解怨成就するためでした。これがイエス様の使命でした。
聖書を見れば、イエス様がエルサレムの聖殿で群衆に追い込まれるなど、悔しい立場に入っていく場面が何度も出てきます。それを見て、今日キリスト教徒はあたかもゲッセマネの丘からゴルゴタ山頂までの苦難が当然のことのように信じており、十字架にかけられ亡くなるためにイエス様が来られたと信じています。しかしイエス様は福地を創建して怨讐の文化を取り除き、新しい文化世界を創建するために来られたのです。ところがユダヤ民族の不信により、そういうイエス様になることができませんでした。
それゆえ、その後キリスト教徒たちが四百年間ローマから迫害を受け、今日まで二千年間数多くの先祖たちと信仰の先祖が処刑されたのです。そうでありながらも、彼らは天が目指す一つの目標に向かって血と汗と涙で歩んできたということを皆さんは知らなければなりません。死の道でも「神様、福地がこの地上に築かれるようにしてください。福地の主人公が現れるようにしてください」と切実に絶叫したのです。
このような恨の泣き叫びをずっと連結し、天の祭壇が倒れるたびごとに再び基台を立てて収拾してきたキリスト教であることを知らなければなりません。このようにして、今日の二十世紀のキリスト教文化世界が形成されたのです。
それでは、これで歴史は終わるのでしょうか。そうではありません。まだキリスト教思想を中心とする民主主義も共産主義も、福地を築くことができないでいます。
それなら何をもって福地を築くのですか。新しい文化を創造しなければなりません。新しい福地の文化を中心として、新しい世界、新しい歴史を創建しようとするのが、神様の願いです。
◆み言の立て札になれ
今日の私たち統一教会が、そのような目的を中心として、成さなければならないみ旨を抱いているのです。そのような意味で、統一教会が必要なのです。
私たちは誰がいくら反対し迫害しても、「殴るなら殴りなさい。しかし私たちは滅びない」と言って進まなければなりません。統一教会は歴史的なすべての罪悪の峠、さらにはゴルゴタの山頂までも打ち破っていかなければなりません。いかなる思想も踏み越えることのできる、徹頭徹尾思想と真理に立脚し、その真理に代わる人格的な代弁者として善悪を分別し、神様の心情を中心とする真の人、真の子女、真の家庭、真の愛を創建しなければならない厳粛な使命を自覚して、責任を負いながらきたのが統一教会です。
それゆえ、追い込まれ追われても確固たる鉄則を立てなければなりません。先生が捕らわれの身になり鎖に縛られていてはなりません。たとえ縛られていても、いつかは自動的に切れる日が来るはずです。この時代が理解することができなければ、未来に成される日が来るでしょう。皆さんはそういう姿勢と信念をもってサタンの計略や願望、また目的を踏み越えることのできる立場に立たなければなりません。
そのような意味でイエス様は三大試練を受ける時「サタンよ、退け。天下のすべての栄光をくれると言っても、私が願うことがあるので、それしきのことで安息を夢見ると思うのか」と言って苦難の中でも、その理想を守り通したのです。そういう凛々しい余力があったために、イエス様は三大試練に勝利したのであり、十字架の山頂で勝利したのです。
イエス様はいくら困難な迫害の矢が激しく降り注ぎ、いくら暴悪なローマ兵の魔の手が自分の生命を縛りつけたとしても、それが問題ではありませんでした。そのようなものは一時的に通り過ぎるものにすぎないのです。イエス様にはそれを踏み越えることのできる信念があったために、世界の運勢を蕩減することができたのです。今日までその願いの一念が残っているので、再び来られるイエス様が創建しなければならない文化世界が残っているのです。
それならば、イエス様が願われた文化世界、すなわち福地とはどのような世界でしょうか。その世界はいまだ成されていません。その世界は今日まで私たちに代わってある個人や教会、主義や教団、国などを呼んできました。
アブラハムを呼ぶ時にも福地は顔を背けて呼ばなければならず、イスラエル民族に対する時にも、腕を広げ両手を挙げて「よしよし、慕わしい民族よ」と言って正面から歓迎することができず、目を背けて迎えなければなりませんでした。その角度が大きければ大きいほど歓迎することが難しかったということを、皆さんははっきり知らなければなりません。
最近、私たち統一教会の食口をじっと見てみると、現実的な環境に自らの基盤をつくってそこに安息しようとする姿が見られますが、そうであってはなりません。ここは一人だけの立場ではありません。この立場にはアブラハムも、イスラエル民族も、イエス様もつながっています。私たちは、昔アダムが神様に背いたことにより失った真理のみ言を再び探し出した、万世の何とも取り換えることのできない真理と理念を見つけた立場です。
したがって、私たちはこれから見物だけしていてはなりません。その理念に代わってみ言を守り、再武装してみ言の立て札にならなければなりません。そうして完結された一つの障壁を越えていくことにおいて、ぶつかる障壁をすべて破壊するという信念をもって歩まなければなりません。神様にはこのようなみ旨にかなう相手が必要なのです。
イスラエル民族はカナン復帰路程において、荒野での生活が苦しく困難になると、時が流れるにつれて再びエジプトの地を懐かしがりました。夢にも考えてはならないエジプトの地を懐かしがったのです。サタンの罠にかかったのです。このように、神様が願われる基準を超えられなかったイスラエル民族であるということを、皆さんは知らなければなりません。
◆統一文化圏を創建しなければならない私たち
二十世紀後半に差しかかった今日、私たちは新文化世界を創建しなければなりません。これから統一されます。間もなく万民が「統一教会が行く道についていかないと生きられない。統一教会が創建した文化圏内でなければ全人類は住む所がない」と言える立場まで行かなければならないのが統一勇士の目標です。
これが福地が願う方向であり、福地が呼ぶ人であり、福地が呼ぶ民族であり、福地が探す国家なのです。それでは、そういう福地の世界が成されるには、あとどれくらい行かなければならないのでしょうか。現二十世紀の試練の過程を経なければなりません。
振り返れば、ノアが自分の当代に祝福を受けることができなくても、神様のために苦難の道を行き、死の場に処しても億千万世に死なないで耐えていくと約束したとするならば、神様が審判なさったでしょうか。アブラハムも、イスラエル民族も同じです。彼らは神様が約束なさった願いが自分たち当代に成されると思っていました。歴史時代を過ぎて、神様の公義の審判が終わったのちに初めて福地が来るということを知らなかった彼らは、その時代圏内で福地を探していたというのです。
イスラエル民族は世の中の思想と理念を凌駕し、神様と一つになることのできる位置にまで進まなければなりませんでした。しかし、そのようにならなかったために付け込まれたのです。皆さんは決して、信じて天国に行くために来た群れになってはなりません。追われる者の歩みを自ら招きながら、死を覚悟し、天の前に誓って立ち上がった皆さんです。一日一日の生活の目的を中心として、一日一日の生活を営むためにここに来たのではありません。これを皆さんははっきり知らなければなりません。今私が置かれている場所を、安息の根拠地にすることができなくてはなりません。
先生は、今日統一教会が国内に築いた基盤だけでは満足できません。どのような文化や思想も先生には大したものではありません。この世のどのようなものも先生と連結するものが一つもない孤独な身なので、先生の手で安息の根拠地をつくり、先生の力でこの仕事を開拓するために、精誠をみな注いできました。その他の何ものにも神経を遣う余裕がありませんでした。
アダムは、自分を中心に考えていて堕落しました。アブラハムも自分の幸福を夢見ていて滅び、イスラエル民族も自分たちの民族的な幸福を夢見ていて滅びました。今日のキリスト教も、この世界でキリスト教だけを中心として夢見ていては滅びるのです。世界を踏み越えることができる新しい文化を創造し、その上で福地を探し出して出発していくことのできる、ある噴火口をつくっておかなければなりません。これが統一教会の目指すことです。今後、「統一」という名詞のそのごとくに、この世界が統一される日が来るでしょう。その日が終わりの日なのです。
◆私たちが行くべき最後のゴルゴタの道
皆さんがはっきり知らなければならないことは、皆さんのその立場が福地の叫びの前に背く立場ではなく、皆さんの歩みが福地の泣き叫びの前に背を向ける歩みではないのか、ということです。これを固く肝に銘じなければなりません。
皆さんが行くべき最後のゴルゴタの道とは、どこでしょうか。皆さんの職場でも家庭でもありません。皆さんは過ぎた歴史時代のその基準を中心として歩むべき運命にあるのです。しかし、皆さんは昔、祭祀を行った祭司長やイスラエルの一族と同じ立場で消え去ってはなりません。そのようになると、この世界を踏み越えることはできません。皆さんの視線を他の何に向けてもなりません。皆さんが生まれたのも、皆さんが生きていくのも、ただ最高のその一つの目的だけのためであることを知らなければなりません。
敗北し、ふらつく人を見ると「ふらふらするようなら早く滅びろ」、「もし私がそんな立場に立てば、寝ないで相手を打ち負かすための準備をするだろう」と言うでしょう。皆さんは自ら自覚し、自ら衝動を起こし、自分を刺激して進むことのできる人にならなければなりません。
皆さんは今どこにとどまっていますか。あなた方は統一教会にとどまろうとしてはなりません。そのような人は真の統一教会員ではありません。皆さんは、きょうはどこに行って何をするのかを考えなければなりません。
先生がいつか「太平洋に壁を造って遮ろう」と話しました。そのような話をしたのも、すべて一つの目的に対する一念から出てきた話であるということを皆さんは知らなければなりません。
統一教会についてきながら、今まで試練と曲折を経てきたのに、その末路が悲惨ならばどうなるでしょうか。自分自身と自分の子供を中心として嘆くそのような群れを見て、神様が嘆かれるのです。
神様は願っていらっしゃるのに、皆さんが自嘆する場にいるならば滅びなければなりません。もし滅びないならば、先生が殴ってでも滅びるようにするでしょう。このような覚悟と基準をもっていかなければならない人々が、統一の役軍であるということを知らなければなりません。
◆福地は呼んでいる
福地は呼んでいます。神様は六千年前からアダムが成せなかった福地を築く中心人物を探して立てましたが、まだ人間はその福地を築いていません。私たちの先祖もこういう復帰の道を歩んできたのに築くことができず、数多くの聖人、賢哲たちもこの目的に向かって苦闘してきましたが築き上げることができませんでした。
イエス様もこの地に来られ、この目標に向かって新しい文化世界を願いましたが、成し遂げることができませんでした。しかし、その世界はいずれにせよ成されなければなりません。万一成されないならば、堕落した世の中はこのまま続いていくようになり、神様が成そうとされる新しい世界は、結局この地上に築かれないでしょう。
それゆえ、私たちはその世界を成し遂げるのだという抱負を抱いて歩まなければなりません。このような私たちが、どこかで安らかに休むことができるでしょうか。私たちは死亡の峠を越え、また越えていかなければならないのです。越えていかなければならないその谷間は、ゴルゴタです。私たちはそこで戦って勝利したのち、再び一つの峠を越えなければなりません。ところで、再び越えようとするならば、新しいことを創造しながら越えていかなければなりません。勝利することが問題ではなく、再び収拾して神様の世界をどのように作り出すのかということが問題です。
そのために皆さんはまず、真理を探し出さなければなりません。堕落することにより真理を失い、霊的なすべてを失い、心情を失ってしまいました。
皆さんがもっている理念は、世界の何かが引っ張っていこうとしても引っ張っていくことのできない理念です。サタンがそそのかし、もてあそんでも、そこに引っ張られず、譲ることのできない理念です。それゆえ、イエス様もはっきりとサタンと悪に対しては、断固として立ち向かったのです。
◆福地は真理と人格と心情で成される
皆さんはそのような理念で武装した真理を探し出さなければなりません。真理を探し出すために歴史上の数多くの民族が死んでいき、数多くの烈士たちが犠牲になりました。皆さんは真理を探し出すために死を覚悟してみたことがありますか。皆さんは、どれだけ苦役の路程を自ら進んで歩んでみましたか。
真理の盾を持っていく道に世界的な十字架が遮っても、け飛ばして進んでいくことができなければなりません。世界的にもつれているすべての思想を片づけてしまい、社会的な腐敗を清算し、サタンが立てた悪の都城を全部屈服させることのできる実力を備えなければなりません。私たちには、そのような人物が必要です。そして、神様の真のみ言を中心とした真理をもってサタンと対決し、偽りのみ言を屈服させ、サタンの霊魂までも屈服させることのできる人格を備えなければなりません。サタンに引かれていった人間はそのような人格を備え、神様の心情を中心としてサタンを屈服させずしては、神様の前に行くことができないのです。
そして人格を備えたのちには心情を備えなければなりません。心情を備えた基盤の上に初めてアブラハムが安息でき、モーセが安息でき、数多くのイスラエル民族が安息できるのです。またイエス様と世界万民までも安息できる根拠地になるのです。
その心情が裏づけられた人は、万民に代わって霊的な父母の位置に上がることができ、そのように父母の位置に上がったとき父母の心情を備えるようになるのです。
◆福地を尋ねいくべき運命の道
愛する息子に対する父母は、たとえ息子に欠点があったとしても、その欠点をまず探し出したりはしません。自分の良い点だけが似るように願います。息子の悪い面を見てほおをたたいたとしても、同情し後悔するのが父母の心情なのです。それは、その時の悪なる事情を基準として殴ったのではないからです。自分に似た小さな部分でもあれば、それを悪い面よりもっと大きく見ようとする基準を中心として、理解しようとするのが息子に対する父母の心情です。
神様が今日まで罪多き人類を尋ねてこられるときには、神様の本性を基準として、人間に少しでも似た部分があれば、その部分を多くの悪性よりも大きく評価し、それにすがって訪ねてこられたのです。それが父母の心です。
皆さんは今日、民族的な使命と世界的な使命をもって、父母の心情へと進んでいかなければならない立場に立っています。皆さんが民族を見つめるとき、その民族は失った父母を探し出すために、泣き叫ぶ孤児のような立場に立っているということを知らなくてはなりません。一つの国を見るときにも、父母を失った国として、世界を見るときにも、父母を失った世界として見ることのできる心情をもたなければなりません。そうして皆さんは、天との因縁を再び結ぼうとする心で、新しい根拠地に向けて立ち上がることのできる基準を準備しなければなりません。イエス様も、それを実現するためにこの地に来られたのです。
それで私たち統一教会でも父母の心情で僕の体を用い、血と汗と涙で復帰の使命を完結しようというのです。統一教会が超えるべき試練がありますが、それは世界のどんな主義や思想も超えられない峠であり、民主世界やどんな体制も超えることのできない峠です。彼らが行けない道を私たちが行き、彼らができない仕事を私たちがしなければならないのです。
そのためには、今日皆さんがこの場でとどまっていてはなりません。皆さんが立っている場は安息の根拠地ではありません。福地へ行く過程です。私たちには個人的に、家庭的に、氏族的に、民族的に、国家的に、さらには世界的に行かなければならない運命が残っているのです。
私たちは一つの安息の根拠地を見つめて、この世界を超えに超えて、新しい文化世界を創建しなければなりません。そして、新しい歴史の伝統と基準を打ち立てなければなりません。そうでなければ、福地が呼ぶ個人になれないのであり、福地が呼ぶ家庭と氏族と教団になれないのであり、福地が呼ぶ民族と国家と世界にはなり得ないということを知らなくてはなりません。皆さんすべてが、この目的のために最善を尽くしてくださることを願います。
21. 幹と芽と泉
一九六六年十二月二十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第百五十六巻』
きょうは「幹と芽と泉」という題目で簡単にお話をしようと思います。
人の生活は日々変わっていきます。もちろん自分が目的とする標準は変わらないでしょうが、生活環境は変わります。このように次々に変わっていく環境がつながって、自分の追求する目的が達成されるのです。その標準になる範囲が大きければ大きいほど、すなわち目的が大きければ大きいほどその環境的な範囲も広くなるのです。
一つの国も発展するためには、その大きさに比例する環境的要素をもたなければなりません。また、どんなに多くの要素をもっていたとしても、それをどのように適材適所に動員し、適応させて、目的を達成するかということが問題になります。
◆新しい文化創造の要件
それでは皆さん、「私」という存在を一度考えてみましょう。この「私」という存在自体はどこからきたのでしょうか。そこには曲折が多いことでしょう。「私」という存在は、どこから来たのでしょうか。
二十代、すなわち青年期の人がいるとしましょう。そうすると、彼は過去から今までどのように歩んできたのでしょうか。幼稚園から、小、中、高等学校を経て、大学まで来たとすると、そこからどこへ行かなければなりませんか。現時点では、どこから来てどこへ行くという過程がありますが、そういう過程はいずれ人生においても通過しなければならないものです。
それでは、不幸な人と幸福な人との差はどこで生じるのでしょうか。どこから来たのかという自分の歴史的な因縁が正常な環境、正常な生活舞台につながっている人は幸福な人です。また、そういう背景をもった国家もやはり幸福な国家です。その歴史的な因縁が切れると、それだけ不幸になる条件が多くなるのです。
今日まで続いた歴史は、数多くの先祖たちの生活によってつくられてきたものです。この先祖たちの生活過程、その活路が一つの変わらぬ目的に向かって進み、また継続的に発展してきたとすると、先祖たちは不幸な立場にいたことにはなりません。しかしそうではなく、その因縁が次々に切れていく過程で生活したとするならば、彼らは発展できずにその場で回り、その場でぶつかり、その場で割れて、千差万別の悲哀の曲折をつくり出したのです。歴史の背後にはそのような曲折が隠れています。
皆さんも、各自が歩んできた歴史的な背景はそれぞれ違うことでしょう。また、これから行くべき未来の道も違ってくるはずです。ここで今日の「私」を考えてみるとき、この「私」から千秋万代の子孫が連結されるということを思えば、「私」という存在は宇宙に一つしかない存在だということが分かります。
それでは、このような「私」の未来はどうなり、どのように終結するのか、また、今後私につながる後孫の未来はどうなのかを考えるとき、「私」の行く道が明確な目的に向かって一貫した方向に進むとすれば、その後孫も幸福であるに違いないのです。
ところが、もし私がきょうはこうしながらも、あすはああするというようにしきりに変わって、上がったり下がったりし続けるならば、結局その後孫は悲惨になることでしょう。そうなれば皆さんは、今後の新しい理念世界に貢献できる後孫を残すことのできない先祖となってしまうのです。
この世界は長い歴史を通して一つの目的を追求してきました。存在するものはどのようなものでも目的なしに存在することはありません。すべては目的なしには存在できないのです。また、存在するには、必ず相対的な要件が必要なのです。相対が出会えば、それぞれの目的もあるでしょうが、その二つが合わさって、新しい目的を追求するようになります。誰かのことが好きだというのは、一人で好きなのではなく、相手と私が好きだということです。また、その心的作用は二人きりで好むのにとどまらず、全体にとって良いように作用するのです。
このように見ると、人間はより大きな目的を追求するものなのです。生まれつきそのような因縁の中にいたがゆえに、私たち人間はより大きな目的と関係を結ぶことを要求するのです。
また、存在するにも、ひっきりなしに変わり、覆るような場で存在しようとはしません。安定した場で生きようとするのです。安定し、かつ発展する場で生きようというのが、存在するものが要求する欲望なのです。
それゆえ、歴史的な過程で正しい伝統に基づいた基準を立て、目的に向かって行けば、希望が生じ、希望を抱けば発展するようになっているのです。発展すれば、そこから新しい文化を創造するようになるのです。このような観点から過去の歴史と今後来たるべき未来の歴史を考えると、変わらぬ自我を中心として自らの存在位置を決定し、目的に向かって一つの方向に走っていくことのできる民族や国家、世界になっていたとするならば、この世界は今日とは違っていたはずです。
◆世界を支配する主義
歴史的な分野、あるいは思想的な分野、さらには宗教的な分野から見ると、宗教指導者、すなわち、イエス様や釈迦や孔子のような方々が主張したことは何だったのでしょうか。彼らが追求したのは、その当時だけで終わるのではなく、「この主張は誰から出てきた」というその母体がいつまでも変わらない、いつも同じ立場で存在する方でした。すなわち、ある限界圏内にとどまる者ではなく、限界圏を超えて無限な空間世界まで主管することのできる絶対者を追求したのです。彼らが追求する対象、変わらぬ絶対的存在こそ、正に神様です。結局、神様という問題に帰結されるのです。
そのような神様を中心として、その神様が指向する目的を追求していくのが宗教です。変わらぬ神様であるがゆえに、未来の世界と因縁を結んだその神様の基準と目的も変わることはなく、その神様が追求する方向も変わることはないのです。このような意図のもとで宗教は、神様の理念を追求しているのです。このような理念を抱いて現実を舞台としてきた宗教は、歴史上のありとあらゆる波風を幾度となく越えて、今日の世界的な文化圏を創出したのです。
歴史上に多くの宗教があり、多くの思想があり、また多くの民族がありましたが、みな流れ去りました。それぞれの位置は違っても、指向する目的は、万民が願う統一的な基準であるに違いありません。朝日が昇り、太陽さえ現れれば、一晩中暗闇に閉ざされていたすべての草木はみな、そちらの方を向きます。草木の芽はすべて太陽の光に向かうのです。草むらに隠れて退屈な夜を明かした昆虫も、太陽が顔を出し、陽光がさすとみなそちらの方を向いて羽を広げ、その時から喜ばしい一日、新しい一日を迎える準備をします。人間にあっても同じです。
人類にも今後そのような陽光がさす日が来ることでしょう。それで、人は我知らずその方向に向かい、その何かを探し求めるのです。このように考えるとき、数多くの国家と数多くの民族がありますが、神様や、どの聖人、君子が見ても、「これこそ一番だ」と言えるものがあるというのです。言い換えれば、歴史的な願いがあるということです。
それゆえ、今日数多くの国家がそれぞれの歴史過程を経ますが、その過程では方向が違ったとしても、いつかは一つの目的点に帰結するようになっています。歴史にかなう一つの芽があったとすれば、そこに向かって自らの生命力と自らの生活力と自らの本質をすべてそこに投入しようとするのです。そういう因縁を抜け出すことはできないのです。歴史がこのように流れてきた事実から見て、今日この現実世界が一つの世界を追求するのも、避けられない現象だと言えます。
現在、多くの国家が一つの世界を指向しています。それでは、その国の中でどの国が中心となるのでしょうか。言い換えれば、誰が幹になるでしょうか。皆さん、木の芽になるためには最初に生まれた根と正常な因縁をもたなければなりません。その木の幹になり、芽になるためには、最初に芽を出すその瞬間から、すなわち、木が天地間に生命力を現すその瞬間から、正しい因縁をもたなければならないのです。そうしなければ幹になることも、芽になることもできないのです。
このように、この天地の大起源があるとするならば、それは発生するその瞬間から、理念的基盤と因縁を結び、形態は小さかったとしても、その本質は全体に適応できる内容を内包した基準をもっているはずです。
このような大起源の出発と因縁を結んで、歴史はそれとともに連綿と流れ、時代と環境の変遷をたどってきたのです。その生命力が途絶えない限り、歴史は発展して一つの統一形態に結実されるのです。そのような時に、その芽に連結されるのです。そうしなければ、芽になれないのです。
このような観点からこの世界の重要な思想を一括してみると、この世界を支配することのできる主義とはどのような主義なのでしょうか。このごろは何主義だとか何だとか言って、「神は死んだ」と言う時代です。神様とは関係ない時代に入ったのです。このような時代に神様の存在を認めて、神様と因縁を結ぶ過程をたどっていくのですが、その過程で成されたのがこの歴史世界です。
それならば、この世界の中で最初から連綿とつながり、最後まで残り得る思想体系、一つの目的が成就する時まで一貫した思想体系が現れなければなりません。どこの誰も触れることができない、完全で、かつ新しい世界観や宇宙観を内包した思想的な形態が現れなければならないのです。
このような内容をもって現れたのが宗教です。宗教は本質に近いために、どんなに覆っても時代と世紀を超越するのです。一つの時代は年限が限られています。一世紀は百年を基準としたものです。しかし、偉大な宗教であればあるほど、元の根を土台としてその時代と世紀を超越し、長い歳月を連綿と続いてくるのです。このような点で今日のキリスト教というのは、神様の天地創造当時から因縁を結んで今まできた宗教です。このようなことから、聖書は驚くべき因縁の背景をもっているということを、私たちは推し量ることができます。
それゆえ、世界はここで一つの実を結ばなければなりません。そうして、一つの木として育ってきた目的、すなわち、生の目的を完結しなければなりません。そうしてこそ、存在してきた自らの目的を完成できると同時に、存在せしめた創造主の目的も達成されるのです。人間について言うならば、人類が願う目的が完結すると同時に、人類を創造した創造主の目的も完結するのです。歴史の流れは必ずそのように流れていきます。
◆より大きいもののために生きるべき人間
このような環境の中で皆さんはどのような位置にいるのでしょうか。天の歴史がこのように芽に向かって流れてきたがゆえに、私たちはどこにいようが、その目的とするところを人類や世界といった、大きなところに置かなければなりません。分かりますか。「私」を中心とする人はいけません。私を中心とした家庭だというのではいけません。家庭のための私、氏族と民族のための私、国家と世界のための私であるという観点に立ってこそ、人生において甲斐ある現在の位置を認めることができるのです。
ところが、私のための家庭であり、私のための社会であり、私のための国家であり、私のための世界だと主張する人は、自我の方向さえも破綻させるのです。
皆さん、自分の良心にそっと打診してみてください。そして、その良心が何と言うのか聞いてみてください。道でかわいそうな人に出会ったとき、良心が何と言うか聞いてみなさいというのです。その人は私と何の関係があるでしょうか。夢で考えたこともないし、あるいは、数千年前、私たちの先祖も考えたこともなかった人に出会ったとします。そのかわいそうな人に会い、彼がおなかをすかせているのを見ると、良心は「財布にあるお金をあげなさい」と言います。財布には三百ウォンしかなくても、それをあげなさいというのです。
それで、そのかわいそうな人に百ウォンをあげて、財布には二百ウォンしかないのに、また道を行くと、それよりもっとかわいそうな人がいます。すると、良心はまた、「助けてあげなさい」と言います。それで、その人にまた百ウォンをあげてさらに行くと、それよりもっとかわいそうな人がいます。すると、良心はまた、「助けてあげなさい」と言います。それで、その人に残りのお金をあげて、一文無しで行くと、またかわいそうな人がいます。すると、良心は「せめてお前の服を脱いで彼に着せてあげなさい」と言います。良心とはそういうものなのです。
ある日、善いことを一度したからといって何やかや言っても、良心は鼻で笑います。「善いことをして成功し、善いことをして目的を達成したのだから、万歳でもして、凱歌でも歌って喜べばいいのであって、他に必要ない」とは言いません。じっとさせてはおきません。心は催促し続けるのです。「しなさい、しなさい、しなさい」と言います。善いことをし続けなさいと言います。善いことには終わりというものがないのです。それが心の世界です。
それでは、善いことをするのに、愛する友達にだけしなさいと言うでしょうか。そうではありません。家庭と環境を愛し、国のために生き、世界のために生きなさいと心は命令するのです。なぜそうするのでしょうか。授けて受ければ、因縁が結ばれるのです。天地の公法により、良く授け良く受ければ、その時与えたことは億万年たってもなくなりません。それで、人は慈善について説くのです。そういう因縁の道理を教えるのです。キリスト教では愛を説き、仏教では慈悲を説きます。
このように宗教で教えているのは、自分がまず犠牲になって奉仕しなさいということです。誰のためでしょうか。「私」のためではありません。より大きなことのためです。
イエス様はどうだったでしょうか。その当時は追い回されて、どこへ行っても排斥され、取り付く島がありませんでした。そのように追われに追われて、どうすることもできず十字架にかかって亡くなりました。ところが、イエス様は怨 讐に復 讐しようとはせず、彼らのために、そして世界人類のために祈りつつ亡くなっていかれました。そのような点で他の聖人とは少し違います。私が死ぬとしても世界のために死に、世界人類と縁を結び、世界の歴史と関係を結んで、永遠に責任を負うという信念をもって亡くなっていかれました。「私が注いだ血をこの時代の人々に与えよう」とされたのです。
そのように自分が流した血を千代、万代の歴史を超越し、距離を超越して、全人類に与えたのです。与えるにも神様が公認する場で与えました。神様の認める立場で与えたのです。そのような意味で「すべてが終った」(ヨハネ一九・三〇)と言ったのです。完全に与え、完全に認められたのです。完全に与え完全に受けたので、時代が要求する時再び来ることができるのです。
十字架にかかり命を引き取る立場にあっても世界のためを思い、世界の歴史的な因縁を握り締め、神様の心を泣かせる基準を立てていかれたゆえに、イエス様は死んでも新しい歴史を創造し、墓から復活することができたのです。
死を超えるその場で、生死を決めるその場で、命を懸けて投機するような立場で自分の貞操を失わず、心が要求する希望峰で世界を抱き神様にすがってその道を行ったがゆえに、イエス様は死んだとはいえども、その思想とみ旨は万民のものとして現れるほかになかったのです。また、単に万民のものとして終わるのではなく、再びイエス様のものとして返っていくために、歴史上の多くの人間がイエス様を自らの最高の希望として、新郎のごとく慕うようになった動機が成立したのです。
◆皆さんは幹となり芽となりなさい
それでは皆さんはどのような立場にあるのでしょうか。幹となり芽とならなければなりません。そのためには高いものを慕わなければなりません。高い幹になり、幹が幹として立つためには広い面をもたなければなりません。
堅い材木、長持ちする材木は、背は低くても根元が太いのです。私が済州島の漢拏山の山頂に登った時、ならの木に似た木があったのですが、高さが二尋くらいしかありませんでした。そこは冷たい風が吹きつけるので、どれほど寒いことでしょうか。それゆえ、大きくなればなるほど自分に不利だということをその木は知っていたのです。
木は人に劣らず、それを知っているのです。ですから、できるだけ背は伸びずに、横に広がろうとします。修業をするのですが、背が高くならないようにと修業を積むのです。横にばかり伸びようとします。それでも良いのです。しかし、芽はいつも他よりも高くなければなりません。
それゆえ、人も偉大な人になろうとするのです。皆さん、勉強をする理由は何でしょうか。「勉強をたくさんしよう」というのは範囲を広げようということです。なぜ大学に行こうとするのでしょうか。それもなぜ一流大学に行きたがるのでしょうか。その理由は、その国の優秀な人材はみなその大学の教授であり、優秀な人がほとんどそこに集まっているからです。その人々が行き来する所は、環境的に広いからです。一流大学には出世するための広い舞台が準備されており、全体に響き渡り、全体を反応させることのできる基盤があります。そして、その基盤を短い期間に自分の活動舞台にすることができるがゆえに、一流大学へ行こうとするのです。環境が自動的に自分に出世の与件を提示してくれるというわけです。
神様がいらっしゃるとすると、その神様とはどのような神様でしょうか。あちこちぐるりと回りながら世界中を流浪したい神様です。回りながら世界を流浪したがっていらっしゃるのです。何を見て分かりますか。太陽を見れば分かります。太陽は誰が造ったのでしょうか。神様が造られました。太陽は回りながら世界を流浪するでしょう。神様もそのような神様だというのです。
神様は宗教でいう父の役割だけをするのではありません。宗教の父にもなり、この世の父にもなり、戦場で戦う将軍にもなり、修道所へ行けば道主にもなり、競走をすればマラソンの大王にもなることができる神様は、素晴らしい神様なのです。
神様はいつでも幹の席にいらっしゃいます。そうして、幹を中心としながら横的に世界を処理されるのです。それはどういうことかというと、神様は歴史を経ながら幹を立てると同時に、横的なこの世界を動かしていかれるのです。皆さんも芽となり幹となることのできる個人、家庭、氏族、民族、国家、世界に出会うことを願わなければなりません。
このような観点から、人類が共に追求すべきメシヤ思想が出てこなければならないのです。ところがそのメシヤはある時突然現れて、一代でメシヤ思想を掲げることはできません。様々な歴史を経なければならないのです。メシヤの芽、すなわちメシヤの個人型が現れて、歴史をたどりつつ苦しみ、鍛錬されながらも倒れることなくあらゆる環境の矛盾を正し、困難を克服して生命力をもった一つの形態を備えて初めて、世界にまで影響を及ぼす宗教や思想を掲げることができるのです。
そこに飛躍はあり得ません。夏からすぐに春になることはありません。また夏からすぐに冬になることもないのです。秋が過ぎ、冬が過ぎて春になるのです。そこには飛躍というものはあり得ません。同じことです。
そうして歴史とともにまた流れていくのです。途中で離して、捨てて逃げるようなことはありません。根気よく抱いて、回りながら行くのです。そのような宗教的な形態がなければならないのです。
◆幹の行く道は全体を代表した道
それでは現在、私たち統一教会は何を統一しようというのでしょうか。一番上に行ってキリスト教を統一しようというのです。では、そのようなことを統一教会ができるでしょうか。黙っていてもできるようになっています。できるようにする内容さえもっていればいいのです。
神様が宇宙の中心だとすると、神様がいらっしゃるその位置は中心と中央がぴったりと合う、たった一つの所でなければなりません。それに対し、横が存在する所は多くあります。横は至る所に立つことができます。
しかし縦が立つ所は一つしかありません。絶対不可侵です。幹が一本あると、普通その横から枝が生えますが、何本出てくるかというと三、四本くらい生えてきます。考えてみてください。幹が一つ立つためには、それを支える横枝が三、四本なければならないのです。
これと同じように、現在世界には四大宗教がありますが、キリスト教、仏教、儒教、イスラム教がそれです。その中に幹があるのです。今後の世界は、その中で幹となる宗教によって歴史と文化の終末を迎えることでしょう。
それゆえ、今後この世界を統一する世界的な英雄になろうという人は、政治的な力や軍事力だけでは到底不可能でしょう。宗教を統一できる能動的な内容をもって、それを外的な世界に適用しなければならないのです。
幹の行く道は、全体を代表した道です。横から生える枝にも幹があります。枝からも芽が出るのです。それゆえ幹は、広がっていく枝全体の生活標本にならなければなりません。「あのようにさえ行けば間違いない」と言うことのできる基準を立てなければなりません。「いくら滅びた国でも彼らが共にあれば生き返る、どんなに思わしくない環境でも彼らが行くと良くなるはずだ」と言える能動力をもった人を幹だというのです。
また、幹が立つ所は東西南北、四方から吹く風を正面から受けなければなりません。そこには垣根もありません。四方の風を受けなければならないのです。それゆえ幹は春が来るのも先に知り、夏が来るのも先に知り、秋が来るのも真っ先に知るのです。冬が来ることも同様です。何でも先に知るのです。
それゆえ、困難な曲折もすべて一人で、そして真っ先にぶつからなければなりません。四方の横枝は一方向からの試練だけ受ければいいのです。東風が吹くと東の枝は大変ですが、西と南と北の枝にとっては、むしろ好ましく楽しいことです。そうでしょう。踊りを踊るのです。このように横枝は一方向からの風だけを受ける立場にありますが、幹はいつも四方からの風に苦しめられるのです。
歴史過程で神様を信じ奉る中で、幹のような試練を経てきた民族がイスラエル民族、ユダヤ民族です。それゆえ、今日世界的な経済版図の中心的立場に立つユダヤ民族が、今後一貫した思想さえもつようになれば、あっという間に世界を手中に収めることでしょう。
彼らはどこへ行くにも、神様を抱いて行きました。それゆえ、枯れ木のような立場にあっても、死にはしなかったのです。ところがどのような過ちを犯したかというと、イエス様を殺すという過ちを犯しました。彼らがイエス様を殺したがゆえに、つまり幹を折ってしまったがゆえに、その幹は今、キリスト教を通してつながってきているのです。けれども、それはまだユダヤ民族にはつながっていません。それゆえ、イエス様が再び来られる時までユダヤの国が回生することはないでしょう。ですからイエス様が再び来て幹を連結し、人々を接ぎ木して、再び世界を動かすことのできる時代が来なければならないし、また来るはずです。
では、統一教会は何をするのでしょうか。その幹の役割をしようというのです。それで第一イスラエル、第二イスラエル、第三イスラエルということを論ずるのです。そうして韓国を昔のユダヤの国のように、神様の愛を最も多く受けることのできる幹の立場に立てようというのです。このような思想を掲げてきた統一教会であるがゆえに、世界的な波風に苦しめられなければならないのです。
世界的な波風が一度に押し寄せたからといって、そこに巻き込まれ、折られ、引きちぎられてしまうようでは幹としての資格がありません。誰でも、「私がその世界的な責任と使命を果たそう」と言うならば、神様は世界の波風を寄せ集め、世界的な暴風もすべて呼び集めて、四方から風が一度に吹きつけるようにされることでしょう。
私たちは四方から吹いてくる四方風を受けなければなりません。横から吹いてくる横風だけでなく、上から下から容赦なく吹きつける直上風、直下風を受けなければならないのです。地も私たちを苦しめ、天も私たちを苦しめることでしょう。私たちはそのような中で自分の位置を確保しなければなりません。そうしてこそ、天下のいかなるサタンも讒訴できないのです。
そのようにして完全勝利をするのです。そうしてこそ、来たるべき新しい時代に芽の立場で生命の権限をもち、すべての生命を配下に率いて支配する、主導的な国家の主導的な理念をもった主導的な群れになることができるのであって、そうしなければなれないのです。これは天理の動きからして、否定できない事実です。
◆芽になるための要件
統一教会は芽にならなければなりません。そして皆さんは「前進的克服」をしなければなりません。「前進的克服」、これをしなくては芽になることができません。芽だからといって、「ああ春の園は本当にいいな。私が一番先に芽を出したし、本当にいいな。私は春さえあればいい」というのではいけません。芽は冬でも夏でも常に生命力をもって、先に行く立場で患難と試練を克服した位置に立たなければなりません。そのような立場で「前進的克服」をしなければならないのです。
このごろの若者の中には、社会が腐敗すると「ああ滅びる世の中だ」と言って自暴自棄になり失望する人は多いのですが、そこで失望せずに突き進んでいく若者は多くありません。ここで皆さんは新しい生命力をもってこの社会に向かい、一歩前進することができる克服の大王にならなければなりません。腹が減り、ひもじくても前進するのです。冷たい風や吹雪が吹きすさぶ中でも前進するのです。生きているものであれば大きくなるのが正常です。前進しなければなりません。前進できないのは、衰退するか死んでいく過程にあるということです。
また、人間はほとんどの者が、「私は今後何になりたい」と言います。その人は寝る時もそのような立場にいるべきであり、目覚める時もそのような立場にいるべきであり、起きて動く時もそのような立場にいなければなりません。
前に置かれた困難を克服して前進するためには、闘争をしなければなりません。すべての環境的な内容を吸収し、克服しなければならないのです。環境に押されるのではなく、主体性をもって環境上に立たなければなりません。芽になるには全体的な試練を克服しなければならないのです。そうしなければ芽になることができません。前進的な克服をしなければならないのです。
それでは、統一教会が幹になるためにはどうすればよいのでしょうか。試練の途上から行かなければなりません。世界的な試練の途上でその試練を克服し、打破してしまわなければなりません。先生は今までそのような立場でやってきました。三千里半島(韓国)がどんなに反対をしても、正義に立つものは勝利するようになっています。正義が完全な勝利を収めるためには、完全な反対を必要とするのです。
今に及んでは、「神様も死んだ」と言っています。終末です。これ以上の反対があるでしょうか。「神様が死んだ」と言うのです。最後まで来たわけです。ここで「神様は生きている」と言えば世界は統一されるのです。ここで神様が生き返ったとすれば、その神様を再び捕らえる人はいません。そう思いませんか。
このような観点から、統一教会が幹になるためには試練を克服しなければなりません。四方からの風に苦しめられることがあっても、その節義と気概が変わってはなりません。冬でも生命力を吸収し、その凍りついた土の中で育つことができないのなら、春になって育つための万全の準備をしなければなりません。冬だからといって前進できないわけではありません。前進はできるけれども、少し休む段階なので、春を迎えたならば一時に栄えるための準備をしなければならないのです。
今まで統一教会は本当にたくさんの試練を受けました。東南の風に、四方からの風に苦しめられました。今は前進的克服段階へと乗り越えて、発展しなければなりません。
この芽を見ていると、いつも孤独です。いつも孤独なのです。一人で真上ばかり見ているので孤独なほかありません。横の枝には友達がたくさんいます。上にも友達がいるし、下にも友達がいます。
ですからそれが良く見えて、とてもすてきに思われるのです。ですから「ああ、人というのはこのように生きるのか」と思うようになるのです。今日の世界人類はこのような立場にあります。今日人類は幹を失ったまま、枝だけで喜んでいるのです。
その反面、幹には友達がありません。友達がいないのです。友達をつくるには自分につながっている生命力を分けてやらなければなりません。そうしてこそ友達になるのです。幹はそうすべきです。偶然に因縁が結ばれて友達になるのではなく、私から因縁を結んで初めて友達になるのです。そうしなければ友達はできません。
◆幹になるために行く道は高貴な道
幹になるためには生命力をもたなければなりません。友達をつくるためには受けてから与えるのではありません。私から因縁を結んで友達をつくり、私が社会と国家的な基盤まで備えなければなりません。そのような立場に立たなければ、幹になれないのです。私たちは今その段階に真正面に向かって上がっているのです。この三つが幹になるための絶対的な要件です。
幹になり芽になろうという皆さん、このように考えたことはありますか。死んだようなこの園が新しく蘇生する春、一つの芽として生えいでて、私からつながるこの国の未来像を考え、私を基盤として国が育つことを考え、希望と願いをもって、あるいは希望の峰となって山野をすべて見渡そうという気概をもって生きなければならないのです。
幹はいつも固定されています。ですからそこには調和がありません。無味乾燥なのです。しかし、横枝には花が咲き、実を結びます。困難なことは芽が一身に引き受け、良いことはみな横枝のものなのです。
今日の世の中がそうなのです。今日世界的な思想や宗教の指導者といった立場にある人は、世の中の波風にもまれながら、孤独にその道を守っていくのです。横枝のような人は友達も多く、良い暮らしをしています。「私を見ろ」と言わんばかりに暮らしているのを見ると、その人が世界中の注目を集め、世界全体の関心事となるような基準ももっているかのように思われますが、内容はそうではありません。
統一教会に来てみると、見かけは貧弱です。けれども、その下の根を見てみると、そこには素晴らしい局面があります。これを知らなければなりません。守ってきた根には素晴らしい局面があるというのです。上から枝を眺めれば寂しいかもしれませんが、下に降りて根を見ると、そこにあるものはすべて自分のものなのです。
いくら横枝が喜び、またそのように見えても、その多くの枝は結局、幹一つのためにあるのです。ですから自分では孤独なようでも、上下を眺めれば、それ以上の幸福はないのです。こういうことを知って、皆さんは自分自身が幹であると自認する者とならなければなりません。
◆泉が行く道
次は泉について話してみましょう。皆さん、泉とは何ですか。水のわく泉!
統一教会はこの水のわく泉にならなければなりません。わき水にならなければならないのです。
わき水が出てくるのは普通の水が出るのとは違います。滝の水や他の水は下に落ちますが、わき水はわき上がるのです。滝の下に泉があれば、そこからだけ水がわき上がります。反対なのです。このようにわき水になるためにはわき出さなければなりません。泉の水も水に変わりはないけれども、流れる方向が普通の水とは違います。泉の水は上に向かってわくのです。それゆえ先生はこの泉にとても関心をもっているのです。
山の谷間に水がわき出る泉があれば、その山の動物はみな、夜明けにその泉のわき水を飲みに来るのです。良い山であればあるほど、そこには良いわき水があるのです。良い水があってこそ良い山といえるのです。
すると、その山を訪れる観光客は、その泉がどんなに高い所にあったとしても、たとえ頂上にあったとしても、その一つの泉を求めてその山の頂上まで行くのです。泉の水を飲んで初めて、その山に行って観光したという資格を認められるのです。誰もが立ち寄り、誰もが関心をもって好まざるを得ないのが泉です。また、泉が流れる方向は違うのです。
皆さんが行く道は、普通人と違わなければなりません。方向が違わなければならないのです。皆さんはわき水となって広がらなければなりません。わき水はいったんわき上がり、広がってから流れるときに、その方向を変えます。
すると、わき水はどこへ流れていくのでしょうか。わき水はどこへ流れていきたいと思うでしょうか。白砂の浜があればそちらへ流れていきたいし、磨きに磨かれた青石が敷かれ、千年の歳月を流れても少しも汚れないような所があれば、そちらへ流れていきたいのです。わき水はそう思うのです。自らの貞潔を大切に保ち、その貞潔を失うまいとする心を深くもっているのです。
それゆえ、自ら求めていく道が違わなければならないのです。そうあるべきではないでしょうか。ところが、そうでなければわき水といっても普通の水と変わらないのです。そのような水は、わき水として根源は良かったとしても、途中で変わってしまうのです。普通この世の人は水と同じで、心ではわき水を好みながらも、実際には嫌うという属性をもっています。
そうして汚い水と混ざり合って暮らすのです。皆さんもそのように生きてきたのではないですか。ここにもツイストを踊り、ダンスをしたお嬢さんや男性もいるでしょう。私たちが行くべき道は、そのような道ではありません。水というのは流れることが本質ではありません。そのようなものはわき水ではありません。そのような所の水は、多くのバクテリアが生息する水です。誰もが飲める水ではありません。
私たちはここで分析し、鑑別して、人の生命と因縁を結ぶ、わき水にならなければなりません。皆さんは十ならば十、百ならば百が一つとなって、生命となり、原動力となり、エネルギーと化することのできる、力そのものにならなければなりません。そうなるには純粋性を失ってはなりません。
わき水がわき水として姿を現すまで、そう簡単ではありません。考えてみてください。この地面を見ると地層があり、アーム層があり、その次に地下泉があります。わき水はその磐石を突き抜けて出てこなければなりません。困難な出産の過程を通過して初めて、わき水がわき水としての姿を現すことができるのです。磐石と磐石のすき間を突き抜け、遠く遠く突き進んでわき出たものであるがゆえに価値があるのです。わき水になるのは、そうたやすいものではありません。
それでは皆さんは、今どの谷間、どの峠にいるのでしょうか。皆さんはすべて、わき水になる道を探し求めていく過程にいるのです。ですから、その道を知る人がいて、道を開いてさえくれればどれほど良いでしょうか。
皆さんをしてわき水になるための基礎となる道をつくらせるために、神様は皆さんの前にわき水になるための道を開いてくださいました。そして、皆さんがわき水となり、広がって、世界中の人がわき水を飲めるようになることを願っていらっしゃるのです。皆さんを通してそのような自由の園をつくろうというのが神様のみ旨です。
私がなぜ皆さんにこういう話をしたかというと、皆さんの人生に何かを残してあげたいからです。木を見るたびに考え、水を飲むたびに考えなさいと、このような話をしたのです。そうして皆さんは、意気揚々と天下を行き来できるようにならなければならないのです。
22. 本郷を探して
一九六七年五月二十八日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十八巻』
故郷は、自分がいた所、離れれば懐かしい所、行きたい所、住みたい所です。
◆本郷を懐かしんできた人間
今日、この世の中には多くの人が住んでいますが、すべての人に、真の故郷、真の本郷があるかと尋ねてみれば、「ある」と答えられる人はいません。「ここは私たちの先祖のころから願った所であり、世界万民が懐かしがり、来たいし住みたい所であり、千秋万代の子孫がここを離れては生きられない」と言える所、そのような本郷がどこにあるのかというのです。
昔イエス様はユダヤの国に生まれましたが、本当の意味において、ユダヤの国はイエス様の本郷にはなれませんでした。ユダヤの国がイエス様の真の本郷になったとすれば、そこを永遠に懐かしがり、そこに住みたかったはずですが、イエス様はその地をあとにして四方八方へ放浪しなければなりませんでした。
では本郷に行って、何をするのでしょうか。本郷に行って、闘おうというのではありません。本郷に行って、客のようにしようというのではありません。愛を中心として生きようというのです。父母の愛、夫婦の愛、子女の愛、兄弟の愛、親戚たちの愛を中心として生きようというのです。
私たちは故郷を訪ねていき、その親戚たちが好む自然とともに、愛の原則を伝授しなければならない使命をもっています。人が強い愛の力をもとうとすれば、故郷と因縁をもたなければなりません。ですから、故郷は懐かしい所です。故郷を懐かしむことのできる圏内で生きている人は自信に満ちています。
もし、その故郷が万民が懐かしがることができ、喜びに満ちあふれる本郷であれば、私たちは他の所を探そうと努力しなくても、そこで家庭を中心として父母の愛と兄弟の愛を楽しみながら、その愛の中に浸って生きる生活をするでしょう。
今まで歴史が流れいく間、数多くの人々が生まれては死にました。その中には数多くの預言者もいて、また預言者を代表する聖賢もいました。ところで、その中に「万民が永遠にとどまることのできる本郷の地はここだ」と宣布した人がいたでしょうか。あらゆる聖賢が過ぎ去り、その聖賢が生まれた故郷も忘れられてしまいました。
さらにさかのぼり、人類始祖のアダムとエバに「あなた方には真の本郷があるか」と尋ねれば、彼らもやはり「本郷をもつことができなかった」と言うでしょう。本郷というのは、幸福を謳歌し、父母の愛に浸り、天地万物を主管しながら、天地が喜ぶ中で永遠に生きたい所なのです。
人類始祖が本郷を見ることはできなかったので、その子孫も分からないのです。それゆえに、人間世界は堕落した世界であり、悪の世界なのです。
◆本郷とはどのような所か
本然の地とはどのような所なのでしょうか。悪がとどまる所ではなく、悪から完全に切り離され、あふれる本然の愛を中心として永遠無窮に幸福を謳歌して生きる、永遠の統一世界なのです。ところがそのような所で生活した人がいたでしょうか。一人もいませんでした。歴史上で数多くの人々がそのような世界を追求しましたが、その世界はこの地上に立てられませんでした。その世界がどのような世界であるのかを話した人はたくさんいましたが、自ら実践してその世界を築いた人はいませんでした。
孔子も同じであり、イエス様も同じです。イエス様も本郷の地を創建するために来られましたが、本郷を創建できずに逝かれたのです。「天国はあなたの心の内にある」と語られましたが、イエス様も天国を直接見ることはできませんでした。したがって、すべての人は本郷を探すために行くのです。
では、その世界はどのような世界なのでしょうか。互いに憎み合いながら、人がうまくいけば腹痛く、人がうれしがれば死にそうだという、そのような世界ではありません。一人がうまくいくことは、全体を代表してうまくいくことであり、一人が喜ぶのは全体に代わって喜ぶことであるので、一人が喜ぶことは全体が喜ぶことであり、一人が喜べば全体がついて喜ぶ世界です。それが本郷です。
修道の道を行く人々、あるいは信仰生活をする人々が、環境の難しさを顧みず、迫害の矢を受けながらも探そうと内的に外的に決心して確かめていく目的は、より良い所を探していこうということです。
◆良心はなぜ絶えず命令するのか
世界の各民族ごとに文化背景が違い、社会制度が違い、生活習慣が違うので、本郷の世界を構想する方向もみな違います。古今東西の文化圏をつくり出してきた観点でも、同じ環境圏内に住む人々の指向する方向がそれぞれ違うので、その願う本郷、目的地もやはり違うのです。しかしながら、すべての人間がもっと良い所を探しているということには違いありません。
私たちが生活で体験せざるを得ないことは、一日二十四時間を過ごす中で、個人生活でも社会生活でも、生活においてぶつかるすべてのことに心がいちいち干渉するということです。そのようにしてはならない、そちらへ行ってはならない、こちらに行かなければならない、その人を寝かせてはいけない、その人を起こさなければならないというふうに、良心はいちいち干渉するのです。
その良心に「何のためにそのように干渉するのか」と尋ねれば、その良心の返答は簡単でしょう。「私がより良くなるために、より良い私がより良い環境で暮らせるように、昼も夜もなく命令するのだ」と答えるでしょう。
では、良心はどの程度良いことを願って命令するのでしょうか。自分が一銭もない貧しい旅人のような身の上にあるからといって、自分が直面している衣食住の問題を解決することだけで満足することはできないのです。たとえその場では満足だとしても、それが一週間は続かないのです。その場では喜び、「良かった」と言うかもしれませんが、自分の人生全体において見るとき、良心は決してそこで「休め」とは言わないのです。「それが内外に永遠に安息できる所だ」と言わず、行け、また行けと命令するのです。
◆欲の深い神様
宇宙の中で欲が最も深い方は誰でしょうか。神様です。園に行ってじっと見れば、小さな虫がいて、鳥たちがさえずり、土のにおいが漂いますが、自然に潜んでいる神秘が本当に美しいということを感じて「神様は欲が深くて、たくさん創造なさったんだなあ」と考えることができます。芝生のような所に行ってじっと眺めれば、小さい虫が行ったり来たりする通路があります。平べったい虫、真ん丸い虫、とがっている虫など、あらゆる虫が行ったり来たりします。
ところがそのようなことも知らずに、私たちが「ふかふかして良い」と言って芝生に腰を下ろせば、そこで行ったり来たりするお兄さん虫、お嬢さん虫が哀れにも「ああ! 死にそうだ」と言って、生かしてくれと叫ぶでしょう。
虫たちも人間と同じく、呼吸器官、消化器官などよく見えませんが、人間が備えている調和したすべての器官を備えています。その世界は単純だと考えるかもしれませんが、決して単純ではありません。今後、先生は世界的な研究者を立てて、そのような世界を探求させようと思います。
神様に欲がなければ、そのようなものをお造りにはならなかったのです。この世を造られた神様は、欲が無限に深いのです。そのような神様が、イエス様をこの地にお送りになったので、イエス様も欲が無限に深かったのです。それでイエス様はこの世界に無限に与えようとされました。神様は欲が深い方なので、胸に抱いていた欲をすべて満たす場合には「仲むつまじくしなさい」と言ってひとしきり楽しまれるでしょう。
宇宙の多くの惑星の中で太陽系を見れば、多くの惑星によって成されていますが、その多くの惑星は、自分勝手に動くのではありません。太陽を中心として、ある惑星は一年に何周、またある惑星は十年に何周、百年、千年に何周かずつぐるぐる回っているのに、互いにぶつからず、また、自分の位置を離れてどこかへ行ったりもしません。
そのようなことに比べれば、この地球に生きている人々の暮らしは、子供たちのままごと遊びのようなものです。ほこりほどにもならない極めて小さなものです。そのような地球にしがみついて生きている人々の姿を想像してみると、おもしろいのです。
◆大きな心をもった人間は貴い存在
全天下の万物にはそのような素質と欲がありません。宇宙万象の中で永遠に生きる人間だけがそのような欲をもっています。そのような人間の心を広げておけば、全宇宙まで詰め込んでもいっぱいにならないでしょう。そこに最も欲の深い神様までもそっと迎えて、楽に横たえてさしあげることのできる雅量をもっているのが人間の心なのです。人間にはこのような貴い心があるので、万物の霊長だというのです。もし人間にそのような心がなければ、人間は悲惨です。
人間はこのような心をもっているために貴い存在なのです。では、この心は何を命令するのでしょうか。悪の立場では、死ぬようなことがあっても「入るな」と命令します。悪は必ず滅びるようになっていて、善はいくら迫害を受けても滅びずに勝利するようになっています。
歴史上に現れたすべての聖人賢哲は、善なる立場で、世間的に見れば滅びる道を行きました。しかしながら、一時代を導いていく時代的運勢と世界的運勢は天運の行く道を防げることはできないので、天運圏内で働く人は、世界的な運勢や時代的な運勢を飛び越えることができるのです。世界を心のままに動かすことのできる世界的な運勢も、天地を創造した神様の目標圏内で動くのです。
◆人間の欲望の末
世界を見れば、台風が吹く所、津波が起きて大騒ぎする所、雨が降る所、雪が降る所など、ありとあらゆることが起きる所があるはずです。しかし、そのような現象は地球の大気圏内で起こる現象です。
ところが、このような小さな地球星を越えて巨大な宇宙を眺めれば、宇宙にはどのような現象が起こっているのでしょうか。私たちが想像もできないことが、絶対的で奥妙な調和の中で千態万状に起こっているはずです。
それゆえ、私たちの心はより良いことを願うのです。心が願うものはどれほどのものかといえば、神様を占領したとしても足りず、「もっとしろ、もっとしろ」と言うでしょう。神様まで占領しても安息しないというのです。
そうであるなら、心は何を探さなければならず、何を中心として初めて永遠の安定圏に浸って安息することができるのでしょうか。怨讐を征服しても安息することができず、イエス様を占領しても安息することができず、宇宙を創造なさった神様を占領しても安息することはできません。そうかといって、心が目的なく動くのではありません。
どのようなものでも目的なく作用するということはありません。ある分子が動くにも目的なしでは動きません。自分に損となる作用は絶対しないというのです。互いにプラスとなるように動くことが天地の法度なのです。
お一人でいらっしゃる神様、その神様の愛をそっくり占領して、自分のすべきことを差し置いて、歴史の恨を解いて安息するときには、神様も踊るでしょうし、世の中もすべて踊るでしょう。心はそのような一日を夢見るのです。
修道の道を行く究極的な目的も天国に行くことではなく、神様を知ることでもありません。神様の愛を占領することなのです。
この上なく良く、この上なく高い永遠の世界へ行こうとするのが人間の本能なのです。その本能は、神様に似てそのようになっているのです。天主の欲望があり、人間はその天主の息子、娘として造られたがゆえに、人間の本能はその基準に似たのです。
それゆえ、人間の心は永遠に神様と一つとなり、真の人の生活基準に接することを願い、真の心で生活できることを願うのです。そうして、真の心の中心が立つようになれば、真の愛に永遠に接ぎ木されようとするのが人間の欲望なのです。
◆神様と人間は父と子
今まで世界的に多くの宗教がありましたが、その宗教は何を教えなければならないのでしょうか。どのような宗教でも、まず第一に神様について教えなければなりません。神様について教えない宗教は宗教ではありません。神様について教えるにも、漠然と教える宗教は不確実な宗教です。
では、どのように教える宗教が真の宗教なのでしょうか。神様がいらっしゃるならばどのような方であり、神様の人格はどうか、また、神様の愛はどうかということについて教える宗教が真の宗教です。世界的な宗教の中でこのような内的な深い事情をもって現れた宗教があるならば、それはまさしくキリスト教です。
では、キリスト教では神様をどのように教えてきましたか。父だと教えてきたのです。それで「父なる神」と呼ぶのです。地上の人間たちは、その父と同格の立場に来られる主を新郎として迎えなければなりません。そして、その新郎に侍る新婦は、神様を信じる聖徒です。このように、キリスト教はすべての家庭の中心となる基準を宣布しておきました。
多くの宗教の教祖たちが探している所は、心が永遠にとどまることのできる所です。もし、彼らの宗教にも真理があるならば、その真理は神様を確実に教え、また神様と人間との関係を確実に教え得るものでなければなりません。また、教えるときにも、愛を中心として教えなければそれは流言飛語にすぎないのです。教える教理などの差によって、宗教の分裂が生じます。
数多くの宗教の中でキリスト教が中心であり、イエス様はこの地に来られて、「私は神様のひとり子である、人間の世の中に神様の息子として生まれた者は私しかいない」と宣布しました。父の息子として生まれたということは、父の骨髄を受け、父の血肉を受けて生まれたということです。それは、父なる神様の血が動じ、肉が絡み合い、骨がぶつかり合って生まれたということなのです。
親子の間柄は、子が悲しめば親はより一層悲しみ、子が喜べば親はより一層喜ぶ間柄です。そのような親子の因縁は、世の中のどのような公式や法度でも切ることができず、どのような権勢や名誉でも否定することができません。自分の父であるので、誰かが現れて刀を胸に突きつけて、お前の父ではないと答えろと脅迫したとしても、たとえその場を免れるために言葉では父を否定するかもしれませんが、内心では「私の父だ。私はその子供だ」と、より一層念を押すでしょう。このようなことは誰にも否定することはできません。宇宙を革新し、宇宙を革命し、宇宙を破綻させることのできる頭脳をもった者だとしても、これを否定することはできません。父子の因縁を否定することのできる根拠はどこにも存在しないのです。
このような観点から、イエス様がこの地上で神様を「父」と呼んだということは、万代を治めることのできる特権的な中心的使命をもって来られたという事実を、万有の前に闡明にすることだったのです。
◆キリスト教の目的
私たちが神様を探していく過程では、新郎新婦の立場でした。それゆえ、キリスト教は新婦の宗教なのです。他の宗教にはない、父の骨身に深く深くしっかりと込められている愛の因縁を人間の世の中に紹介すべき新郎新婦の宗教です。多くの宗教が真理として自由な、また観念的な理想を論じましたが、愛が直接的に生活の舞台に絡んで、愛によって覆す争いの歴史を経ていく宗教はキリスト教だけです。
イエス様が新婦を探していく過程では新郎ですが、婚宴が終わったのちには兄弟となります。男性には兄となり、女性には兄さんとなるのです。「お兄さん」「弟(妹)」と呼ぶときには、既に主従関係が成立しています。横的な立場で訪ねてきて、主従関係を確立するのです。
立体的な世界だけで妄想する宗教は、理想的な宗教ではありません。立体的な世界の内容をもって、横的、平面的な世界の実像を土台とする一つの宗教でなければ、理想的な宗教にはなれません。なぜなら、人は心と体から成っているので、心は立体的な世界と関係をもち、体は平面的な世界と関係をもち、二つの世界に理想的な根拠を備えなければならないからです。それが愛の世界です。それでイエス様に会ったのちには、兄弟関係として立つようになります。
新郎新婦の関係というのはいつも危険なものです。夫婦はいつでも離婚が成立する可能性があります。しかしながら、兄弟や兄妹関係は切ることができません。いくら切ろうとしても、血統がつながっているために切ることができない関係なのです。それゆえ、兄弟や兄妹関係がより良いのです。
今までキリスト教が探してきたものとは何でしょうか。それは神様を知ることであり、神様が送られた新郎に侍ることであり、その新郎を迎える新婦を準備することです。また、その子女を探すことであり、彼らと共に楽しむことができる宗族を準備することであり、その氏族とともに世界を復帰できる民族を編成し、彼らと共に一つの世界国家を編成することです。
数多くの宗教がもっとたくさん伝道をしようとする目的もそこにあります。修道を中心として世界の人を呼び集めようというのです。それで世界のあらゆる宗教は、伝道を通して選民をつくり、その次には世界を一つの故郷として、世界の人を親戚として神様の民にしようというのです。
万民はその生きていく環境が違うだけであって、人間という点では白人でも黒人でも同じです。ですから、何としてでも世界人類が一人の父によって生まれた一兄弟という心情がにじみ出るようにしなければなりません。そうでなければ世界の人々の統一は不可能であり、万代の糾合は不可能です。
世の中の青年男女をよく見ると、ある人を愛したとしても、その人よりもっと良い人が現れれば心が変わって、その人を愛するというのです。また内外の条件が備わった、天下のすべてが尊重できる相手が現れるようになれば、自分が今まで好きだった人よりもその人を好きになりたいのです。人の欲がそうなのです。おそらく、世の中の夫たちは自分の妻がイエス様を信じることも気にくわないでしょう。それは、自分の妻が夫よりもイエス様をもっと愛するからです。
新郎がもっと良いのか、息子、娘がもっと良いのかというとき、新郎よりは息子、娘がもっと良いのです。夫婦は別れることはできますが、息子、娘とは別れることができません。家系図で掘り起こしたとしても、血筋を受け継いだがゆえに別れることができないのです。新郎新婦は離婚して別れれば忘れることができますが、息子、娘は時間がたてばたつほどもっと慕わしく会いたくなります。このような事実は、子女のいる人ならば誰でもよく分かるはずです。サタン世界に生きる親たちも、それだけは否定できないはずです。
ですから、私たちは新郎の愛を踏み越えることによって父の愛、神様の愛を探していくのです。イエス様が地上に来られたのは、万民がイエス様の愛を通して神様の愛を受けるようになるためです。それゆえ、ローマ人への手紙第八章三十九節でパウロは、「高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」と言っています。イエス・キリストの中にある神様の愛を誰も切ることはできません。したがって、最後の目的は神様の愛を受けることです。
◆宇宙万象が作用する目的
主体と対象が互いに相対基準を成して、良く授け良く受ければ力が生じるようになります。力が生じるようになれば、互いに一つとなり、一つとなれば繁殖するようになります。主体一人では絶対に作用できません。誰かを好きになるのと同様に、互いの力が作用します。誰かを好きになるということは、その人と自分の心がぴったり合ったということです。好きになれば、理由なしに心が行ったり来たりします。その心がどれほど強いのかといえば、「この人でなければ私は死ぬ」というように死を超越して体を引っ張っていきます。それは世の中でいう運命というものが、そのように作用するからです。
善なる人は善なる人、悪なる人は悪なる人を好みます。世の中のすべてがそうなのです。例えば、運動競技をするときに、走るのが上手な人は走るのが上手な人だけで集まって競走をし、相撲では、上手な人だけが土俵に集まって相撲をします。これと同じように、私たちの心もそのままいい加減に動くのではありません。必ず主体と対象が互いにある作用をするのです。
そして、その作用は損をするためにするのではありません。商売をするのも損をするためにする人はいません。同じように、私たちの心も損をするために動くのではありません。あらゆる存在が損をしないで何か利益を残そうとするのは、すべて神様の摂理的な作用なのです。
どこの誰がどのようなことをしても、損をするためにしていることは一つもありません。子供たちの行動も、よく見ればそうなのです。また動物もそうです。
では、このように作用する根本目的は何でしょうか。補うためです。作用するということは、すべての利益を生むためであり、絶対に損をするのではありません。
すべては平等です。それで根本は平和と和睦、忠、和なのです。「平等は水平だ」と言えますが、水平はそのままでは成されません。上下関係、高低関係にあるものが、ある作用を経てこそ水平になります。高低があるので、必ず高い所で受け、低い所に補う作用を経てこそ水平になります。
では、人間について見るとき、水平になっているでしょうか。なってはいません。人間は低い所にいます。それゆえ、高い所から受けて、水平を成すのです。ですから、人間は高次的な理念を探し出さなければならず、高次的な精神の慰安所をもたなければなりません。
水平はそのままでできるものではありません。他の所から力の補給を受けなければなりません。自分自体の内で補給を受けられないので、補給をしてくれる所がなければならないのです。その補給をしてくれる所は高い所です。高いながらも悪い所でなく良い所です。そこは万民が理想とする所です。では、その理想とは何でしょうか。よく食べることでもなく、よく寝ることでもなく、真の愛なのです。
◆人間の理想は愛によってなされる
今まで人間は歴史過程で本然の心を中心として、本然の心が懐かしむ人を中心として、ただの一日も休んだことがありませんでした。それで「人生は苦海だ」と言うのです。
このようなことを知るときに、人間は一つの基準を探し出さなければなりません。それゆえに愛そうというのです。愛するには二人だけでいるのは良くありません。父と息子、娘だけいてはなりません。人が互いに愛そうとすれば、人も集まらなければならず、踊りと歌も必要です。「愛するという言葉だけを言えばいいのに、何の歌が必要なのだろうか」と言うかもしれませんが、感情を込めて愛を表現するためには、歌も必要なのです。また「静かに立っていれば良いのに、なぜ踊らなければならないか」と言うかもしれませんが、踊りも必要です。
人がいいものにうっとりして、愛する心で歌えばどうなるでしょう。一度歌ってみれば、ただ骨の中からとろとろし、細胞がかたかたとし、目がちらちらし、涙まで出てくる、動揺が起こるようになります。では、そのようなことがなぜ必要なのでしょうか。その場で天地の調和が起こるべきだからです。そのためには、神様と私、父と子、二人だけでいてはならず、付帯条件がたくさん必要です。
父がいれば母がいなければならず、男性がいれば女性がいなければなりません。もし女性だけの世の中ならば、女性たちは女性だけで何度も会うのを嫌がるでしょう。また、男性同士で暮らすようになれば、男性たちもやはりそのようになるでしょう。それゆえ、父がいれば母がいなければならず、父母がいれば子がいなければならず、その次には兄弟姉妹がいなければなりません。
では、「私」は誰のためにいなければならないのでしょうか。私は、正に私自身のためにいるのです。父と母も私のためにいるのです、兄弟姉妹も私のためにいるのです。皆がみな私のためにいるのです。
人間は欲が深いです。神様の愛をふろしき包みごと受けて、誰にも与えず一人でもとうとする人々ですが、「父のために生まれ、先生のために生まれた」と言えば気分が悪くなります。何千年間、私たちの先祖が生まれては逝きましたが、すべてが私一人のために生まれて逝ったのです。ですから、私がどれほど重要なのかというのです。それでイエス様は「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マルコ八・三六)と語られました。
◆本郷の地を探していこうとするなら
神様は誰のための神様なのでしょうか。「神様のための神様ではなく、私のための神様だ」と言いたいのが人間の欲です。
道義の条件を見いだそうと前後関係を議論して審問する世界は、不安な世界です。愛を中心として前後関係が完全に一つとなって授け受けすることのできる立場に立ち、自分の周囲を見回せば、私以外には誰もいないように見えますが、いつも主体がいるということを肝に銘じなければなりません。
それでは、全世界にいる数多くの人々は何を探していくのでしょうか。本郷の地を探していくのです。そのためには祭物を捧げなければなりません。昔、カインとアベルが神様の前に祭物を捧げたのも本郷を探すためでした。ノアが百二十年間箱舟を造ったのも本郷を探すためでした。本郷を探していく道に箱舟という条件物が必要だったのです。本郷を探していく道を短縮させることならば、何でもしなければならなかったのです。アブラハムも同じでした。人間が行くべき究極の目的地である本郷の地を探していくためには、自らの故郷の山河も祖国領土も捨てなければなりません。本郷は二つになり得ないので、自分が望む理想世界も捨てなければなりません。
万民が共に安息できる本郷の天地に向かっていくためには、自分のすべての個性も、自分のすべての夢も捨てなければなりません。自分の夢を中心として継代を立てていこうとすれば、本郷を探すことは不可能です。それゆえ、すべてを捨ててしまって一片丹心で本郷の地を探していかなけばなりません。より一層、真の場所を探していこうという、その一念で食べて、寝て、喜怒哀楽を感じる生活をしなければなりません。
そのためにアブラハムは、自分の故郷であるカルデヤのウルを捨て、モーセもやはり自分の民族の本郷の地カナンの福地を目指すために、万民がとどまることのできる本郷の土台を準備するために、豪華絢爛なパロの宮中と王子の座をすべて捨てて荒野生活をしました。そして、イスラエル民族が四十年間荒野でさまよったのも、彼らの故郷、本郷の地を探し出すためであり、今まで数千年間、国なき世界をさまよってきたのも、やはり希望の本郷の地を探し出すためでした。
世界に散在している数多くの民族が移動したり、革命を起こして歴史が変遷してきたのも、やはり本郷の地を探し出すためであり、本郷の世界に行くためでした。このように、その道は世界人類が行くべき共同運命の道であるので互いに区別することなく、みなその運命の道を行くようになるのです。その道には神様が共にいらっしゃいます。その神様を中心として修道の道に責任を負っていく指導者たちと修道の道に従っていく人々が、そのような責任を負わなければなりません。彼らには本郷の地を世界的に準備しなければならない使命があります。それゆえ、信仰者として世の中を導くことができない人々は、人間世界の人倫的な宗教人にしかなりません。
人は、心と体が一つになってこそ一つの人格を完成することができます。その人格は、体それ自体だけでは現れることができません。人格が現れるためには、心を通して体が反応しなければなりません。したがって、人格は心と体を通して平面的な環境での人間関係を中心として、社会性を通して現れるようになります。
宗教は内的な分野、すなわち観念の世界に対して教えていますが、それを実践できる社会的な実践場が必要です。今までの宗教は、霊的な面、すなわち来世だけを追求してきましたが、人は来世に行く以前に現実で生きています。現実世界を通して来世に入っていくようになっています。
ところが、今まで宗教は内的世界を通して外的世界、現実を描き出してきました。なぜそうなのかと言えば、外的世界ができていないからです。外的世界は、既にサタンによって占領されたので、逆に内的世界をまず準備して外的世界を追求してきたのです。
◆信仰者の責任
本郷の地を探し出すには、一人では行けません。必ず歴史的な因縁を経なければなりません。それゆえ、私たち人間は歴史的な因縁をもっていくのです。きょうがあるのは、あすを準備するためであり、きのうを輝かせるためです。したがって、過去の事実を否定する立場に立つのではなく、過去の事実を認める立場に立たなければなりません。
歴史路程で過去を真に認めることができるものは何でしょうか。これを探ってみると、真の道を探すようになり、真の道を探ってみると、真の宗教を探すようになっているのです。そして、真の宗教の基盤の上で本郷を紹介するためには、決して愛を除いてはいけません。こういう観点から見れば、キリスト教はとても重要な位置に立っています。
キリスト教の使命とは何でしょうか。信じている人を生命視して、互いに愛して生き、愛によって和し、愛を伝えることです。また、その愛はすべての生命の源泉です。では、キリスト教を信じる人々はどのような立場に立つべきでしょうか。愛の本郷を探していくところに影響を与える立場に立たなければなりません。
そのような立場に立って信仰生活をしなければなりません。こういうことを見れば、愛によってのみ和平がなされ、愛によってのみすべての人が平等になるのです。それには愛がなくてはなりません。
愛には、どのような愛があるのでしょうか。内的愛と外的愛、すなわち精神のための愛と物質のための愛があります。人も内的な人と外的な人に区分できます。これは五色人種の誰でもみな同じです。
それでは、私たちが愛するには、どの程度愛さなければならないのでしょうか。神様が万民を兄弟のように愛し、万民を子女のように愛するのと同じように、私たちもその父のような立場に立たなければなりません。
父母の心情をもつためには、父母の心情がどのようなものなのかを知らなければならず、父母の心情を探すためには、本郷の地へ行かなければなりません。他の所では見いだせません。今日この地に住む多くの人々は、結局本郷に行き、父母の心情を見いださなければならないのです。いくら修道を追求し、世の中のことに熟練し、精通していても、父母の心情に通じなければ子になることができません。
人は父母の愛によって生まれます。私たちは父母の愛を通して生まれるには生まれましたが、偽りの父母の愛を通して生まれました。これは、本郷の原則を中心とした正常的な父母の愛を通して生まれなかったということです。本郷の地に入り、安息したのち、父母の愛を中心として生まれなければなりませんでしたが、そうはできませんでした。それで、私たちは父母の愛を探すために本郷へ行かなければなりません。このように、父母の愛を探すために本郷を探していかなければならない人生だというのです。
◆復活し重生してこそ本郷の息子、娘になる
では、堕落によって愛はどこまで落ちてしまったのでしょうか。父母の愛から徐々に落ちていき、子女の愛、兄弟の愛、知人の愛、友人の愛を経て、僕の愛、僕の僕の愛にまで落ちていったのです。それゆえ、父母の愛を探して本郷の道を行くには、再び逆に探して上がらなければなりません。ですから、修道生活を通して神様を中心とし、僕の僕の位置まで入っていかなければならないのです。
僕には主人がいますが、僕の僕には主人がいません。私たちはそういう僕の僕の位置から僕の過程を経たのちに、養子の位置まで探して上がらなければならないのです。そのような養子の位置まで上がり、直系の子女から接ぎ木されなければなりません。
また、愛を中心として見るとき、僕の僕の愛から僕の愛、養子の愛、直系の子女の愛を経て、夫婦の愛、父母の愛にまで上がらなければなりません。そうして次に、父母の愛を通して子として復活しなければなりません。これがキリスト教でいう重生です。
父母の心情に通じるにはどのようにしなければならないでしょうか。人の生命は必ず父母の愛を経て生まれるので、父母の愛を受けたという基準があってこそ、父母の心情に通じることができます。ところが、真の愛の主人公は神様なので、神様を中心とした真の父母の心情、真の父母の愛の過程を経ずには重生することもできず、復活することもできません。
愛を中心として見れば、大慨、私たちは相対の愛だけを恋しがっています。しかし、それだけではいけません。それを越えて、父母の心情を中心として復活し重生されてこそ、ここに初めて本郷の地を占有することができるのです。単純に父母の愛を受けるだけではいけません。その父母の愛を中心として再び生まれてこそ、本郷の息子、娘になれるのです。
では、再び生まれるには誰がいなければならないのでしょうか。父母がいなければなりません。私たちの生命を救うには、お母さんの胎中で十カ月を経るのと同じ立場を経なければなりません。そうして、胎児がお母さんのあらゆる栄養素を受けて育つように、皆さんも育たなければならないのです。
単純に父母に会い、父母の愛を受けて再び生まれるのではありません。堕落した世界から捜し出された人々なので、父母が堕落したのと同じ峠を越えなければならないのです。そのようにしなければ、本郷の地に永遠に入っていくことはできません。ここで一度ひっくり返し、もう一度お母さんの胎中に入って出てくる重生の過程が起こらなければならないのです。そうして天真爛漫な子供のような立場から育たなければなりません。再び生まれるには、お母さんの胎中に入っていく立場に立つ前に、父の骨髄に入っていく立場に立たなければなりません。
いくら自分が本郷を探していく人であっても、完成級に至れば、相対と会わなければなりません。しかし、完成級まで行くにはまだ距離があるのです。堕落したがゆえに、蘇生級以下から出発するのであり、完成級から出発したのではありません。したがって、どんなによく信じ、信仰生活を良くする人であっても、蘇生級から上に上がっていかなければならないのです。
では、どのようにして完成級までつながるかということが問題です。世間一般の人生は、倒れてもまた立ち上がって行くことができますが、私たちが行く道は、一度倒れれば再び立ち上がって行くことはできません。いくらよく信じて、いくらうまくやると大口をたたく人でも、完成の峠を越えなければなりません。そうでなくては、本郷の地で落ち着いて暮らすことはできないのです。その本郷の地に入っていくには、父母の心情を基盤として生命体が復活しなければなりません。そのためには、父母の心情が中心になるべきであって、自分が中心となってはいけません。
どの道、私たちは、本郷の地を探していかなければならないのです。真の本郷を探すために、堕落した人間はどのようにすべきでしょうか。アダムとエバが堕落する前の立場にまで上がらなければなりません。しかし、まだ人間は堕落前の立場に完全に復帰できていないのです。
本来人間が堕落しなかったなら、三段階の成長過程を経て完成し、そこで生きていたのですが、堕落によってそのようにできなかったのです。
◆キリスト教の接ぎ木する真理は本当の真理
キリスト教では、「終わりの日になれば主が来られる」と言います。主が来られるならば、男性として来なければなりません。今まですべての人々が生まれるには生まれましたが、誤って生まれました。種が違ったのです。それゆえ、自分のすべてを否定して新しく接ぎ木されなければなりません。種類が似ているために、接ぎ木をすることができるのです。このようなことを見るとき、キリスト教の接ぎ木する真理が本当の真理なのです。
接ぎ木するには、今までのすべてをばっさり切り捨てて、新しい芽をもってきて接ぎ木しなければなりません。したがって、新しい思想と新しい生命力と新しい氏族を接ぎ木して、自らの生命全体をも維持する中心としなければならないのです。それゆえに、今までキリスト教は「ため」に与える宗教として、そのような役割をしなければならなかったのです。
では、人間個人はどのようにすべきなのでしょうか。新郎として来られる主は人間の父です。そして新婦は母です。天は男性を象徴し、地は女性を象徴するので、地上に女性が出てこなければなりません。
ですから、心情を中心として主の内に掘り下げて、生活感情も主と同じであり、死ぬのも生きるのも主と共にし、喜ぶことも主と共に喜ぶことのできる絆を結ばなければなりません。そうして、父、すなわち主の内にいる息子のような立場に立たなければなりません。それで、新郎として来られた主が新婦を迎えて夫婦となれば、その新婦、すなわちお母さんを通して再び生まれるのと同じ立場に立たなければならないのです。お母さんを通るその期間が正に、女性を象徴する地を中心として苦労する期間なのです。そのお母さんを通して、自分の復活と同時に先祖を復活させ、民族と国家までも復活させなければなりません。
このような兄弟が集まって親戚になり、このような親戚が集まって宗族になり、このような宗族が集まって民族、国家、世界になります。それによって、世界が神様の愛を中心として一つの根から生まれた世界の形態を備えます。それでこそ初めて、世界が神様を中心として一つの世界となるのであり、神様を主にした地、すなわち地上天国が実現するのです。ここが正に、私たちが永遠に暮らすことのできる本郷です。
◆すべてが自分のためにあるという自覚をすべし
今日「私」という存在は、何をするためにいるのでしょうか。この堕落した世界のあらゆる事情を踏み越えて、個人的な復活とともに家庭的な復活、民族的な復活、国家的な復活、世界的な復活を成し遂げた立場で、神様に自由に侍るために私たちは生まれたのです。それゆえ、真の父母が来られるのも自分のためであり、真の父母の愛がなされたのも、真の父母の愛を中心とした兄弟と親戚が生じたのも、すべて自分のためです。
それゆえ「私」という存在は宇宙的な自我であるので、万有の全体は自分一人の完成のために歴史とともに動員され、被造万物全体も自分一人の完成のために存在し、動いているのです。
自分一人を完成させ、自分一人のために与え、自分一人の志のためにすべてが存在しているという事実を考えるときに、人の本心がどれほど大きいのかということを知ることができます。この石も、この山にある草も木もすべて自分のために存在し、数多くの民族が互いの観念が違い、文化の背景が違ったとしても、すべてが自分の理想を完成するために動いているというのです。自分一人を中心として宇宙が回っていくというのです。そのような自分自身の価値を感じることができる場は、いつも神様に感謝できる場です。
すべての存在の始めから終わりまで、すべてが自分一人のために存在するのです。愛を中心として見るときにも、すべてがそのようにつながっています。自分が他人のために彼らを愛するのではなく、自分のために彼らを愛するのです。各自がそのような心をもって神様のために行ってこそ、神様を中心として全宇宙が一つになれるのです。また、この基準を越え、自分はどのような人なのか、自分は神様の息子、娘であるけれど、どのようにすることが神様のみ旨なのかを自分自身に尋ね、調べなければなりません。
そうして、これと同じ立場で、父母の心情で兄弟を愛し、親戚を愛し、宗族を愛し、民族を愛し、世界を愛するという心が実感的に感じられる場で祈祷をするようになれば、その祈祷は世界のための祈祷になるのです。
◆神様の王子と王女になって暮らす所が本郷
涙ぐましい真の愛の前に、世界が引っ張られてきました。このような愛を中心として世界が一体となる基準に入っていくことができる人は、完全な本郷の地を占有することができる人です。しかし、このような人になっていなければ、本郷の地に行くことができないだけでなく、本郷の地を探したとしても入っていくこともできません。それゆえ、神様の愛を中心として一体化した人は、その愛の圏内で永遠無窮に万宇宙を支配できる能動的な主体となり、天の王女となり、天の王子となるのです。
神様は復帰路程を通して人間を探してきていらっしゃいます。その神様は万人の主人であり、万有の主体であられます。合わせて万国の主体であられます。そのような神様の息子、娘、すなわち天国の王子は誰で、天国の王女は誰なのでしょうか。王子は主であり、王女は主の新婦です。私たちはその主と新婦を中心として、再び生まれるのです。そのようになれば、主と主の新婦は人類の先祖になり、父母になるのです。私たちがその方の愛を通して再び生まれれば、父母の立場を相続でき、第二の王子と王女の立場に立つようになります。
万民はすべて神様の息子、娘にならなければなりません。それゆえ、人間の欲望は神様を父として侍ろうということです。世界を征服し、宇宙を征服した人だといっても、神様の愛を懐かしむのです。これは愚か者でも優れた者でもみな同じです。このように、すべての人間の本心が神様の愛を懐かしむように作用するのは、そうし得る可能性が一〇〇パーセントあるからです。
これと同様に、人間の心が神様の愛を中心として本然の姿勢を備えようという欲望をもっているのは、本来それができる立場にあったからなのです。したがって、神様の愛を中心として私たちが天国の王子と王女の位置を占有することができるのです。また、天国のすべての所有と天国のすべての運命が私たちのものとなって、父のものが私のものになるのです。父の事情も自分の事情です。
そのようになれば、天下にないものはないため、そこにおいて初めて幸福であり得るのです。そこには自分が必要とするすべてのもの、すなわち愛があり、愛のほかにすべての付帯要件まで全部備えているのです。そこが初めて私たち人間が安息できる場であり、私たちの本郷なのです。
23. 万民の願いは統一世界
一九六七年八月十三日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十八巻』
これからお話しする話の題目は「万民の願いは統一世界」です。
◆千秋万代の願い「統一世界創建」
万民の願う統一世界というものは、過去の人はもちろん、現在の人、また未来の子孫に至るまで誰しもが憧憬する世界です。そういう世界を千秋万代に至るほどに憧憬しない人は、たった一人もいないでしょう。きょうは、そういう世界についてお話しします。
千秋万代の万民が願う統一世界を築くということは、大きな課題とならざるを得ません。そういう統一は過去においても、誰もが希望として願ってきたことです。それで数多くの王たちは、弱小民族を吸収し、一つの統一した王国をつくろうと自らの版図を拡張するのにあくせくしてきました。
彼らのすべてが、一つの統一した世界をつくろうという計画から出発しました。そのようにして現れたのが今までの歴史過程であったということを、私たちは知っています。そういう歴史を見ると、過去や現在の誰彼を問わず、みんな統一を願っているということが分かります。それは統一教会の信徒だけでなく、韓国人もアメリカ人も、そしてアフリカの黒人もやはり統一を願っているのです。このように誰しもが願っている統一を、どのように成し遂げるかということが問題です。
皆さん、世の中で一番近い関係とは何でしょうか。国が近いでしょうか。国も近いことは近いですが、一番近いものではありません。何が一番近いかというと、ある人は「夫婦の関係が一番近い」と言うでしょうし、またある人は「親子の関係が一番近い」と言うでしょう。もちろん夫婦の関係も近いですし、親子の関係も近いですが、そのような関係よりもっと近いのは、まさしく自分自身なのです。
最近の人々は、父母ゆえに切ない、兄弟ゆえに切ない、あるいは息子ゆえに切ないという話をよくします。その「切ない」という言葉も、結局は自分を中心として言っている言葉です。「うれしい」ということも同じです。もちろん相対的な与件によってこそ、そのような結果は出てくるのですが、結局それも自分の観念でもって「うれしい」と言うのです。したがって世の中で一番近いものも、一番切ないことも、一番うれしいものも、結局は自分自身によって決定されるのです。
◆宇宙統一を願う前に自己統一を完成しなければならない
今、世界の万民は統一を願っています。しかし、どんなに世界が統一されて、天宙が統一されたとしても、自分自身が統一された喜びを感じることができず、統一された自分を見いだせないならば、その統一は自分と何の関係もないのです。すなわち、外的な世界が統一されて幸福の夢の国に浸ることができるユートピア的な世界が展開されたとしても、その世界は自分とは何ら関係がないというのです。
こういう観点から世界の歴史を考察してみれば、今まで人々は、自分自身の統一よりは世界の統一にだけ力を注いできたということが分かります。けれども、どんなに世界を統一したとしても、自分自身が統一できていない限り、その統一は不幸な結果として現れるだろうし、結局は壊れてしまうでしょう。もし、神様も単にこの世界だけを中心として統一しようとするなら、「愛の神様だ」と言うことができないでしょう。
歴史の変遷に拘束されず、時代の存亡にも影響されない確固不動の統一の主体をもっていない限り、「完全に実現された統一世界だ」と言うことができないのです。そのような観点から見るなら、神様もそうですから、子女として造られた人間もやはりそうなのです。
今日この民族が新しい世界に対する統一基準を立てておくことができなければ、統一のための解決点を見いだすことができません。また、その構成された集まり自体が一つの統一的な実体として糾合できる形態を整えるまでは、どんなに努力したとしても無駄になるのです。一つの国がそうであるように、この世界も同じです。
それゆえ、宇宙統一を願う前に自己統一を完成しなければなりません。そして、宇宙主管を願う前に自己主管を完成しなければなりません。問題はそこにあります。結局「私」に問題があるというのです。皆さんが統一教会に入って、統一教会自体が統一されているか、されていないかということを考えるのではなく、まず皆さん自身を統一できるか、できないかということを考えなければなりません。それは決して簡単なことではありません。
皆さんは統一するにおいて、どのような統一を願っていますか。自分自身を統一するには、悪い方向に統一することと、良い方向に統一することの二種類の方向があります。悪い方向に統一するには研究も必要ないし、考えることも必要ないし、工夫もする必要がありません。その統一は早くできます。けれども、良い方向に統一するには、多くの研究と、考えと、工夫を必要とするだけでなく、非常に大変なことです。
ところが人の心は、絶対に一人でいることはできません。心は必ず体と共になければなりません。体がない所には心もあり得ないというのです。すると、体がなければ心はどこへ行きますか。仕方なく霊界へ行くしかないのです。したがって、心は体と完全に一つになることを願っているのです。そうしてこそ、心が存在できるわけです。
心がどこから出てきたのか分かりませんが、皆さん一人一人に心があるということは皆さん自身がよく知っています。では、心と体はお互いに友人になるでしょうか、けんか相手になるでしょうか。もし友人になれず、けんか相手になるならば、どちらが争いの主人公になるでしょうか。皆さんはこのようなことを確実に知らなければなりません。心と体が争うようになれば、いつでも体が心にまず争いを仕掛けるというのです。心はじっとしているのに、体は心をいたたまれないほど振り回すのです。男性の体でも、女性の体でも、その体のほうがまず心を困らせるのです。
それゆえ、私という一個体において、心と体の統一を成し遂げなければなりません。統一を成し遂げる秘訣とは何でしょうか。皆さんが「心よ、体よ、君たち一つになりなさい」と命令をしたとしても、心と体が統一されることはありません。それゆえ、私たちは統一できる方法を知らなければならないのです。
◆神様の目標は人間の完全な救い
では、神様は人間をなぜ救おうとされるのでしょうか。万民を全部分裂させて、この世を戦場にして救おうとされるのではありません。神様は、万民が統一され、お互いに好み、お互いが一つの目的のもとで和同して、お互いがお互いを必要とする世界を構想していらっしゃいます。このような世界をつくるために、神様は万民の救いを目的としていらっしゃるのです。
しかし、どんなに神様が平和を待ち焦がれていらっしゃったとしても、いつも問題ばかり起こすこの体をそのままにしておいて、統一するということは絶対に不可能です。万民が願っている理想世界、統一世界を成し遂げるためには、必ず体と心をまず統一させなければなりません。体と心が分離した状態のままでは統一できません。
人間の体と心、この二つのうち、一つはならず者です。皆さん、ならず者が好きですか。ならず者といえば誰もが気を悪くします。戦いのない平和主義を誰もが好みます。しかし、体の中にはならず者的要素があるのです。これが存在するようになった原因は堕落したためです。
私という個体をおいて見ると、善と悪の二つの目的を指向する要素が私の体の中にあります。善を指向する心があるかと思えば、それに反して悪を指向する体があります。これを解決することができなければ、数万年の歴史の中でいつも体は怨 讐の利用物となり、いつもその状態で残っているの
です。
ですから、人間の完全な救いを目標とする神様であられるとするならば、人間の腐った部分を取り除くことができなければなりません。それでこそ立派な神様なのです。皆さんはどのような神様を願いますか。「体よ、罪深い世の中でこれくらいでも残るためにどれほど苦労したことか。大きな功労を立てた」と背中をたたいてくれる神様を願いますか。そうでなければ、無慈悲にこの体を打つ神様を願いますか。どのような神様が良いでしょうか。
この体を一気に打ってしまいたいのが神様の心情です。私たち人間の体は、堕落世界と連絡できるアンテナになっています。また、この体は人間世界の罪の根源です。こういう話を聞いて気分を悪くする人は贖 罪しなければなりません。そのような贖罪の歴史が地上で展開されるようになれば、統一は自動的に成されるのです。したがって、統一はそれほど難しいことではありません。ただ体を打てばいいのです。
もし神様が、人間を二つの目的をもった者として造ったとするならば、その神様は論理的な神様ではありません。この地上に存在するものの中で、目的なく存在するものがないように、二つの目的をもっては生きることができないのです。同時に二つの目的をもっては存在することができず、滅びるようになります。皆さんの心が二種類の目的地をもって、一つの体が二箇所に同時に行くことはできないので、まず二つの目的がお互いけんかをしなければなりません。
人生の行路をなぜ「苦海」と言うのでしょうか。それは正に人間がこの二つの目的世界の岐路に立って、どちらか一箇所に決定して行かなければならない宿命的な存在になってしまったためです。このような悩みを打開するための戦いが残っているために、人生の行路は苦海となったのです。
◆高次的な宗教が行く道
人間に必要なことは、一つの目的を完結できる所へ行くことです。それだけが、本来人間が存在する目的と一致するものであり、人間を造られた神様の創造目的に一致するものです。しかし、人間は堕落したので、二つの目的に引きずられて生きているうちに、いつの間にか白髪になり、平和を保つことができず、幸福が宿ることができない人生になったのです。ですから人生は、苦海であるだけでなく、苦痛と悲哀、そして悲惨と嘆きだと感じるのです。このように堕落人間の歴史がつながってきたために、神様はこの地上の人間に対する処理方法を講じざるを得ないのです。
その処理方法として前面に押し出したのが、正に宗教です。他の方法では、絶対に解決することができません。金と権勢で解決できるものではありません。ですから神様は、これを解決し得る一つの方法として地上に宗教を立てざるを得なかったのです。
それでは、その宗教というものは万民に必要なものなのでしょうか。それとも、ある特殊な人にだけ必要なものなのでしょうか。どうですか。ある人が老いて死ぬ時になって教会を訪ねて、ただイエス様を信じれば天国に行くことができるようになるのでしょうか。神様は統一された神様として数千年をつないでこられたがゆえに、神様の善の要素と一致していない人は、統一された世界である天国に行くことができないのです。
どのような手段や方法を使っても、その世界に接近できないのが天理です。それゆえ、神様が人間世界の痛手を解決して、人間を救うための一つの方便として立てておいたものがあるのですが、それが正に宗教だというのです。
それでは、宗教はどのような人に必要なのでしょうか。宗教は特別な少数の人にだけ必要なものではなく、万民に必要なものです。また、現在の人にだけ必要なのではなく、過去の人にも必要だったのです。しかし、彼らはこのような内容を知らずに死んでいきました。また、未来の人々も知るべきであり、彼らも必要とするはずです。
宗教の教えは人の良心を育て、人の中にある悪い要素、すなわち悪を屈服させるものであることを確実に知らなければなりません。怨 讐は外にあるのではなく、正に私たちの中にあります。それが歴史的な怨讐なのです。
それでは、高次的な宗教とはどのようなものでしょうか。世の中と妥協する宗教は、取るに足りない宗教です。そのような宗教は、結局は滅びてしまいます。世の中と妥協することなく、世の中の峠道を全部清算できる道理を教えてくれる宗教であるほど、善に近く接する高次的な宗教です。
それで仏教やキリスト教では、心が願うままに体を打って主管しなさいと教えます。自らの肉身を否定し、生活を否定し、悪の世の中を否定していかなければなりません。外的な全体を否定して進め、というのが真の宗教の教えであるということを確実に知らなければなりません。
ですからキリスト教では、聖書で神様以外の何ものをもあがめてはならないと教えています。世の中の肉情に従う生活から抜け出し、独身生活をするように教えてもいます。このように人間世界に宗教というものが現れ、肉身を打って主管しなさいと教えているのです。
そのようなことを見ると、絶対的な善を立てることができる一人の主人が人類歴史の終末に現れなければならない、という結論が出てくるのです。したがって、歴史の終末には善の世界が来なければならないのです。それゆえ、すべての宗教には再臨思想があり、天国を憧憬する理想世界との接点をもたせるようになっているのです。なぜならば、宗教はすべて同じ目的を追求するからです。
それでは、神様が願う世界とはどのような世界なのでしょうか。心が肉身を完全に主管することによって善なる立場で生きることができる一人の個人が立てられ、そのような個人が集まって家庭、氏族、民族、国家、世界を成すならば、その世界が正に地上天国であり、神様が願われる世界です。それゆえ、神様がいらっしゃる限り、その世界は必ず実現されなければならないのです。歴史上のあらゆる戦争は、正にそのような世界を成すための過程的な現象として現れたものです。
人類歴史に宗教が必要だとするならば、その宗教がすべき最初の任務は肉身を征服することです。なぜならば、肉身によって歴史が滅び、肉身によって社会が滅び、肉身によってこの人類が滅びたからです。したがって、この肉身は怨 讐の母胎であり、罪悪の根本であるということを知らなければなりません。
このように体を打つことが今までの宗教の根本なので、イエス様は四十日断食を通して過酷にも体を打たれたのです。体は高まることを願い、前に出ることを好みますが、宗教は体に、「服従して従順になり、死んで祭物になるように」と教えます。全部反対に教えます。なぜそうなのでしょうか。それは、心を打つためのものではなく、肉身を打つことによって世界的な綱をつたっていくためのものです。
◆無限に大きい人間の心
皆さんは、心が善を指向するということを知っているでしょう。例えば、財布にお金が百ウォンあるのですが、かわいそうな人が通り過ぎれば心は、「おい。その金をかわいそうな人にあげなさい」と命令します。それからさらに「お前は下着を着ているのだから、その上着も脱いであげなさい」と言います。そのようにしたからといって、心がそれで終わるのではありません。
ある気立ての良い人が、その民族全体の前にそれぞれ、二千ウォンずつあげたとしましょう。そうしたからといって心が、「おい、それくらいしたなら、お前のすべきことはみな終わったから、もう休みなさい」と言うでしょうか。心がそう言うでしょうか。とんでもありません。「お前の国を救ったならば世界があるではないか。この人類があるではないか」と言うのです。さらには霊界に行ってまでも、そのようにしなさいと心は命令するのです。
皆さんは、心が何かということを確実に知らなければなりません。心はどれくらい大きいでしょうか。心は神様より大きいでしょうか、小さいでしょうか。心は、「世界をすべて私のものにしてしまったからもう楽に休みなさい」と言うでしょうか。考えてみると、地球よりも大きい太陽系があり、太陽系よりも大きい宇宙があり、この宇宙を造った神様がいます。ですから、心は何と言うでしょうか。「あの神様を占領しなさい」と命令するのです。このように心は、老若男女を問わずみなそうだというのです。先生の心も皆さんの心も、そのような面では同じだというのです。
この心の目的とすることが何かということを、皆さんは知らなければなりません。心も一つの結果ですが、心が活動できる動機がなくてはそのようなことは起こり得ません。
◆愛と授受作用
今日、科学者らはこの宇宙が物質からできているといいます。それでは、物質は何からできているのでしょうか。物質は力でできています。ここにおいて、力はそれ自体では生じ得ません。授受作用をしなければ、相対的な基準が造成されないために力が生じません。皆さんの体で作用し発生する力も、四肢五体で授受作用を通して出てくるのです。授け受けるのに比例して、力が生じるのです。
力が存在する前に授受作用がなければなりません。それでは、授受作用をするにはどうあるべきでしょうか。一人では絶対に授受作用をすることはできません。それを否定する道はありません。授受作用をするにおいて、絶対に必要なのが相対です。これは、あらゆる存在様相にとって絶対に必要な条件です。相対がなければ授け受けることができないのです。
それゆえ人が存在するためには、まず自身の体からやりとりする過程を経るのです。男性と女性も相対的条件を備えたうえで、互いに授け受けて初めて存在することができるのです。もしも男性が「女性は必要ない」と言い、女性が「男性は必要ない」と言うならば、百年もたたないうちにこの世界はみな滅びてしまうことでしょう。人が存在するためには、すなわち授け受けるためには相対を必要とするゆえに、今まで男性と女性が愛し合い、家庭を築いてきたのです。
愛とは、授け受ける作用を起こす力のことをいいます。それは、男性と女性が授け受ける作用の力なのです。それゆえ、愛という力の母体が生じるためには授受作用がなければならず、授受作用が存在するためには男性と女性が絶対的に必要なのです。すなわち、相対条件が必要だというのです。
この宇宙の最初の出発は、どのようになされたのでしょうか。それは唯物論者たちがいうように、矛盾による闘争から由来したのではなく、相対的な関係が成立するところから始まったのです。すなわち、相対的な関係を追求するところから宇宙が発生し始めたというのです。
例えば、今ある人が道を行くときに、相対的な目的がなければ、その歩みは無意味なものになってしまいます。行き来する作用も必ず相対的な条件を中心として起こるのです。相対がなければ、絶対に作用が起こらないのです。そして作用が行われなければ力も出てこないのです。
それゆえ、宇宙の根本もやはり相対的な条件を備えています。それでは、相対的な条件はマイナス、すなわち損をすることに作用をするでしょうか、利益となることに作用をするでしょうか。もし、どこかへ行く時に損をするために行く人がいれば、その人は正常な人ではありません。何かプラス、すなわち利益になる条件があるときに行く人が、正常な人です。ですから、相対と授受作用をするときに、損をするために動く人は絶対にいないというわけです。
物質の構成要素である元素等の作用を調べてみても、二つの元素が合わさるには、合わさる前よりも良い条件があってこそ化合するという事実を知ることができます。すなわち自分にとってプラスになる価値を発見しなければ作用することがないというわけです。
◆授受作用の動機
このような観点から見れば、矛盾対立して互いに作用するという弁証法は根本的に間違っているのです。道を行き来する人々が何げなく行き来しているようでも、自分たちにプラスになる条件があるために行ったり来たりするのです。一日にわずか百ウォンでもプラスするために行ったり来たりするのであって、損をするために動く人はいません。
万物の霊長である人間の感覚がこうであるので、万物もこの法度の公式から抜け出すことはできないのです。神様の天地創造も、プラスになる条件を発見するように、喜びと幸福の内容を散りばめたものなのです。損をするために存在する人が一人もいないように、力が生じるためにも相対的な条件を必要とするのであり、その相対的な条件は必ずプラスになるところだけに作用するのです。これは鉄則です。
私たちの心を静かに見れば心はどうしても欲張るのですが、それは損をする条件のためにそうするのでしょうか。でなければ利益となる条件を見いだす可能性があるからでしょうか。それは利益となる可能性が絶対的にあるために、何よりも強烈な心によって動くのです。ですから、心は神様を占領しても喜ばないというわけです。それゆえ、聖書には「私たちが神様の心に入っていくのではなく私たちの心に神様が入ってくる」とあります。
人間の心は、原則的にプラス作用によってのみ動くのです。それが鉄則だというのです。そうだとすれば人の良心は、どうしてして国を超え、世界を超え、天地を超えて創造主までも超えようと作用をするのでしょうか。これは滅びるためではなく、栄えるためなのです。
栄えるには、どうしなければならないでしょうか。神様を占領して喜ぶときに栄えるのです。神様に最も好まれるのは、人それ自体よりも、その人に隠れている愛です。人が一番好むのはほかならぬ父母の愛、夫婦の愛、子女の愛という愛なのです。
それゆえ、人の心は神様を占領しても満足しません。神様の中に隠されている愛まで占領しようとするのです。なぜならば、心が最も高く上がってとどまることができる究極的な安息所とは、すなわち神様の愛だからです。これを知らなければ人生の幸福を見いだすことができません。
◆神様の愛まで占領してこそ世界統一が可能
このようにおびただしい数の人の心を中心として幸福を追求するためには、神様の愛を占領しなければなりません。そうしないで世界を占領しても幸福ではなく、神様を占領しても幸福ではありません。神様の愛を占領して初めて、心がそこを永遠の安息所とするようになるのです。
愛さえ占領すれば、その人のすべてを占領したも同然です。たとえ学歴がなく、財産のないお嬢さんであったとしても、一つの国の総理や大統領になることができるような男性の愛を占めているならば、そのお嬢さんはその国でトップを行く女性になることができるのです。小学校しか出ていないお嬢さんでも、そのお嬢さんが大統領の夫人になれば、すべて人々はそのお嬢さんを小学校卒業生として待遇するのではなく、大統領夫人として待遇するのです。それはすなわち、そのお嬢さんが大統領の愛を占領したからです。
何が彼女を大統領と同伴的な価値をもち、その場に堂々と立つことができる権威と権限をもつようにしましたか。それは正に愛の力なのです。そのようにもし神様の愛を独占した人がいるなら、その人は堂々と神様の摂理に参与することができるのです。このように人間の心は、宇宙の根本であられる神様の愛を占領できる本質的な根拠地なのです。しかし、今まで数千年の歴史が流れてきましたが、神様の愛を占領した人は一人もいませんでした。
それで宗教は、神様の愛を占領する方法を教えています。それは宗教の教えを通じてのみ可能なのです。一番近い神様と人間との愛の内容をより徹底的に教えてくれる宗教であるほど、高次的な宗教であり、世界的な宗教なのです。こういう観点から宗教を比較してみると、キリスト教がそのような内容を最も多くもっています。
キリスト教では、神様を父だと教えています。また、イエス様は新郎であり、私たちは新婦だと教えます。このように神様の愛を中心として家庭を立てようとした宗教は、キリスト教しかありません。それゆえ、キリスト教は名実共に神様が立てた世界的な宗教だという結論が出てきます。
そのようなキリスト教を信じなければならないでしょうか、信じてはならないでしょうか。悪なる心を取って捨てる自信がない人々は、信じなくてもかまいません。父母の愛をはねつけた人間であるがゆえに、その愛を再び探さなければ、人としての資格がないのです。
宗教は、神様が存在されるということを明らかにし、神様の愛を占領する方法を教えます。それゆえ先生は、今統一教会を立ててこの仕事をしているのです。神様の愛さえ占領すれば世界の版図が変わるのです。近ごろ神様の愛をさておいて理想と幸福を議論する人々がいますが、そのような人々はすべて滅びる群れです。
全世界のあらゆる福の根源であり、あらゆる力の総括的な中心の母体であり、絶対的な統一の実体であられる神様の愛をもった人だけが、統一世界に加担することができ、統一世界の役軍になることができるという結論が自然と出てくるのです。
人間の心がそこまで至ったとすれば、どれほど素晴らしいでしょうか。ところが心は、どうして現実を否定するのでしょうか。否定せざるを得ないのです。それで統一教会では、現実を否定して体を打てと命令するのです。道を知っているからです。
多くの人々が夢に願う希望峰の標準としてあられる神様の愛を占領した人々によってのみ、世界統一が可能なのです。彼らを除いては、統一は不可能です。それで、神様の愛の土台を証し占領することができる方法をもって出たのが統一教会です。
◆心と体を統一させる方法
人の心と体を統一する方法は二種類しかありません。一つはこの体を打って占領する方法であり、もう一つは体を打たずに統一する方法です。ところで強制的に体を主管する方法は良くありません。それではどのようにすれば良いでしょうか。今まで心は、ふいごのように一度も体と対等に闘ったことはなく、いつも敗れてきました。それは心の力が弱いからです。
この心に注射を打って、力が二、三倍に増すならば、体を引っ張っていくくらいは問題ではないでしょう。一生懸命に引っ張りながらいかなければならないのです。自動車のチューブに空気を強く吹き込めば大きく膨らむように、心にも力を強く注入すればどうなるでしょうか。力が強くなるでしょう。そうしてから、この心と体が闘えば誰が勝ちますか。このように容赦なく体を打って占領する方法と、心に力を加えるという二種類の方法があるのです。
心の力の源泉は愛です。ですから、心が授け受けることによって生じる爆発的な力を神様に連結しさえすれば、それが何倍、何百倍、何千倍でも統一できるのであり、世界万民が待ち焦がれた願いを成就でき、永遠に共に暮らすことができると同時に、天国も私のものにすることができるのです。その秘訣が正に愛です。愛は統一に向かって上がるエレベータであり、統一を成し遂げるための絶対的な秘訣なのです。
母親と父親の間に愛がなければ一つになることができないのです。皆さんはなぜ愛を好みますか。好むまいとしても好まざるを得なくなっているからです。父母が互いに愛する力が自分のための力よりも強いほど、より理想的なのです。父母を完全に一つに結びつけるのが愛の綱です。鎖は時間がたてばさびついて切れますが、愛の綱は永遠なのです。そして、親と子の間は御飯やお金では結びつけることができません。唯一、親子の関係の愛によってのみ結びつけることができます。
兄弟が一つになることも、愛によってのみ可能なのです。それゆえ兄弟の間でも愛であり、一つの家庭を中心として親戚が一つになるにも愛であり、氏族、民族を一つにするのも愛であり、一つの国、あるいは世界を一つにするのも愛であり、神様と人間を一つにするのも唯一、愛しかないというのです。
人間が愛を最も好むのも、愛が全体を統一させて私のものとする主体だからです。人々は、愛がどれほど素晴らしいものなのかを完全に知るすべがありません。それで、先生が愛を持ち出したのです。神様は、悲しむために被造物を創造されたのでしょうか、それとも、喜ぶために創造されたのでしょうか。プラスとなるために創造されました。プラスになれば喜びが生じるのです。そうすれば、喜びの対象に愛が流れていくのです。
神様の愛は、統一の源泉になるのです。この愛をもって現れる時には、万国を消化することのできる力が生じるのであり、万国を抱いて永遠に引っ張っていっても、もっと引っ張ってあげたいという力が生じるのです。
愛は、このように父母が子供を愛するごとくに、愛すれば愛するほど喜びが増すのです。愛は一つになるものなのです。もしも神様の愛と一つとなった愛があったとすれば、その愛を誰も取り去ることはできないのです。ですから、どれほど素晴らしい愛でしょうか。
このような愛を失ったのが堕落です。それゆえ、統一教会が教えてくれる真理によって、まずは神様の愛を知るべきであり、その次には神様の愛を私のものとしなければなりません。さらには、その愛によって私を見て喜ばれる神様を知らなければなりません。これを知らなければ、愛があったとしても、それは私にとっては必要のない愛です。
私を好きなのか嫌いなのかを知らなければ、その愛は壊れやすいのです。特に女性には、夫の愛が最も重要です。「愛している」という言葉は何度聞いてもまた聞きたいのです。なぜそうなのかといえば、人間始祖が時ではない時に愛の種を蒔いたからです。
統一教会は、神様の愛を紹介し、その愛を所有して、自分がその愛の前で喜ぶことができる座へ行くための道を教えてくれる所です。「統一」というのは引きずられていくのではなく、引っ張っていくのであり、私によって統一することなのです。愛らしい人がいれば四方から押し寄せてきます。天下一品の美人がいれば、天下のあらゆる男性が関心をもって寄ってくるようになっています。それで、皆さんが統一教会に一度入れば、くっつくようになっているのです。
人間は、堕落することによって神様の愛を失いました。神様の愛がない状態で関係を結んだことが堕落であるがゆえに、今日私たちが世の中で結ぶ愛の因縁は、本性の人間が慕うことのできない愛です。その愛はすべて、地上で溶けてなくなる愛です。
それゆえ霊界に行けば、地上でどんなに仲の良かった夫婦も、赤の他人となってしまいます。間違いなく別れます。しかし、本来堕落せずに神様の愛で結ばれて出発した夫婦ならば、永遠に別れることはないのです。
◆天国に行くことができる人々
天国は、神様の愛を中心に完全に一体となった夫婦が入っていくところであり、その一体となった夫婦から生まれた子女、すなわち神様を中心として一体となった家庭、氏族、民族をすべて率いて入っていくところです。それゆえ、地上で家庭をもつことができなかったイエス様は、今まで天国に入ることができずに楽園にとどまっていらっしゃるのです。
神様の愛を中心として結ばれた夫婦でなくしては天国に入ることができません。天国は相対的な理念の世界です。それで、家庭がすべて入らなければならず、自分の氏族と国がすべて入らなければならないのです。そうしてこそ天国が建設されるのです。
今までは誰も天国に入ることができませんでした。みな天国へ行く待合室で待っているのです。神様の愛の門がまだ開いていないので、天国の門が開かないのです。
それで、この天国の門を開けるためにイエス様がいらっしゃったのですが、地上でその相対的な実体に会うことができませんでした。すなわち、イエス様の愛にプラスになることができる相対的な主体が現れなかったのです。それゆえ、イエス様は今まで二千年間、苦労の路程を歩まれながら天国の門が開くその日を待ちわびてこられたのです。再臨する日に万民の中から一人の新婦を選んで、神様の愛の門を開けて入ろうとされたのです。
統一教会員たちは、何の力がなければならないでしょうか。心をポンプでもって強くして、体を引っ張っていくことのできる力を養わなければなりません。そういう力を養って、既にこの世にいる人々を統一することが問題なのです。
神様の愛を中心としてのみ統一することができます。それゆえ統一教会の真理は、世界万民に神様の愛を知らしめ、その愛を、もつようにしてくれます。そして神様の愛の中で、自分がどのような位置にあるのかを知ることができる内容を教えてくれます。黒人や白人、黄色人を問わず、人ならば誰もがみな同じ心をもっています。それゆえ世界の万国は、統一されるべきだという結論が出てくるのです。
◆万民の願いである統一世界
人々は、統一教会の文先生といえば、高い席に座って号令でもかけているというくらいに考えています。けれども、統一教会に来たことのある人は、「雰囲気があまりにも自由で、上が下のようでもあり、下が上のようでもある時があるので、とまどいを感じる」と言います。このように私たち統一教会の雰囲気は、本当に自由な雰囲気です。正に解怨された所です。それゆえ、家庭でも解放であり、国においても解放です。
神様が先生をこの地に送られたのは、冠でもかぶせておいて、踊りでも踊ろうとしてそうなさったのでしょうか。先生が今まで闘って開拓し建設した世界を神様のみ旨に照らしてみれば、これは先生が真実な仕事をしているという間違いない証拠だということが分かります。ある人がどんなに「うそだ」と言っても、歴史的な生きた証拠が山ほどあるために否定できません。
神様の愛のためには夫が問題ではなく、家庭も問題ではありません。神の国とその義を求める理想に天下が泣く時が来ることでしょう。ですから、その時のために忠孝を千世、万世にたたえることができる自身として出ている人々が統一教会員です。それゆえ、統一教会員の価値はこの世的な成功や希望、幸福といったものとは比較できないということを皆さんは知らなければなりません。
統一は私の体と心から成さなければなりません。これを教えてくれるのが統一教会です。したがって統一教会に来れば、他人のごとく疎遠だった人も、兄弟よりも身近に接するようになるのです。また、肉身の父母ではない真の御父母様に侍り、異なる兄弟と、異なる国と、異なる民族をより強く糾合することのできる高次的な愛をもっています。ですから、このような所を「万民の願いの統一世界」と言わざるを得ないのです。統一教会に入れば、このような願いの要素を備えもつことができるのです。
◆天の勇士の使命
統一教会は理想的な神様の愛だけではなく、過去の歴史過程に現れた神様の悲しい心情を教えてくれます。歴史を知らない人が現実を知ることはできず、現実を知らない人が未来を知ることはできません。
神様を知るということにおいても同じです。過去の神様を知らずしては、今日の神様を知ることはできません。統一勇士の姿は、神様の愛の中に潜んでいる喜怒哀楽を探して現実に表現し、神様の愛をもって人類のところへ走っていこうとする姿でなければなりません。これが、唯一の統一の絶対条件だということを確実に知らなければなりません。
それゆえこの道を行くにおいて、ある時は世の中から迫害を受けることもあるでしょう。そして、私たちがこれを克服しなければならないことになるのです。これまでは、統一教会に通う人は非難と嘲 笑の対象になってきました。しかし、これからもう少しすれば、すべての誤った事実をマスコミを通じて宣布します。そういう時が必ず来るのです。その時に、先生にマイクを三日間だけ任せてみてください。
皆さんは、このようにとてつもない世界を創造するための天の勇士となり、天の伝令となって、勝利だけを目的として行かなければなりません。勝利が宿るその国に行ってとどまり、勝利が宿るその世界で父に会わなければなりません。
それゆえ、統一の勇士たちは戦いの行路がどんなに長く、その行軍がどんなに退屈なものだとしても、その道で失望してはならないということを知らなければなりません。先生は、「万民の願いは統一世界」の宿願を果たすために先頭に立って行っています。このような先生の所信は、皆さんを前に置いてしかりつけ、殴ってでもその世界に連れていこうというものです。行くまいとするならば、首をくくってでも引っ張っていこうというのです。
この道がどのような道であるのか今はよく分からないけれども、実際に知ってみると心配の多い道です。安らかに眠ることのできる日はなく、楽に座って食事をする時間がありません。全体のために犠牲にならなければならないからです。力を残しておいてはなりません。少しでも注ぐ気力が残っているならば、しなければなりません。
皆さんの中で先生のみ言を聞こうとする人が十人でもいたとするならば、その十人のために先生はみ言を語らなければならなかったのです。この道は単純な意識革命ではありません。統一教会は、今まで堕落した先祖から受け継いだ心情的な内容を、高次元の愛の世界へと竜巻のように引き上げようというのです。それゆえ、私たちが行く道には休む時間がありません。
統一教会の先生のすることは、「他の誰かに代われ」と言っても代わることができません。世界のどのような有名な博士だとしても、代わることができません。先生でなければ誰もすることができないのです。このような先生であるがゆえに、皆さんを働き手として使うという話をすることができるのです。
皆さんには、この民族を生かさなければならない使命があります。したがって皆さんは、父母の心情をもって、開拓者の使命を堅持して進まなければなりません。
皆さんはこれから、神様がいらっしゃることのできる愛の世界と、善の世界を神様の前に立てなければなりません。そのために、世の中の困難と悪を占領することのできる天の勇士として、責任を全うしてくれるようお願いします。
24. 本郷の国
一九六八年三月十日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第十九巻』
きょうは「本郷の国」という題名でお話しします。本郷の国とは、言い換えれば復帰しなければならない国のことです。
◆本郷の世界を願ってきた全人類
今私たちが生きているこの世界は、人間のあらゆる希望が満たされた幸福な世界ではありません。自他を問わず、そのように思っています。個人がそのような世界に生きており、家庭、民族、国家、世界がそのようであるということは言うまでもありません。
ところで、人間が願い、探し求めてきた世界は、このような世界でしょうか。そうでなければ、もっと高くて貴い希望の国でしょうか。また、私たちの本心が願う理想的な国はあるのでしょうか。
私たち人間は、自分が自ら生まれることはできないことをよく知っています。このような人間が今までの歴史を築き、今も築き続けています。このような人間なので、人間自体の能力では本心が望む希望の国を築くことはできないのです。
それゆえ、私たちは「本心が願っている国を私が築くんだ、どのようにしても私が築いてやる」と主体的な立場で考えるのではなく、そのような国が早く来るのをただ願っているだけなのです。それが全世界の人々の心であることを私たちはよく知っています。
このように、人間が主体的な立場でなく対象的な立場に立っていることを考えてみるとき、本郷の国、すなわち理想の国をこの地上に築くためには、人間の力だけでなく、背後のある絶対的な力がなければならないということが分かります。
なぜなら、この世は、キリスト教でいうように堕落した世の中だからです。この世は、堕落した世の中であるために悲しみの世の中であり、苦痛の世の中であり、悲しみと嘆きの世の中です。それでキリスト教では、この世を審判してしまい、私たちの本心が願う本郷、すなわち新しい理想世界へと向かっていかなければならないといっているのです。
キリスト教だけでなく、この地球上に散在している数多くの宗教も、そのような理想の国を欽慕する中心思想を立てて進んでいます。したがって、私たちは必ず、本郷の国と本郷の地を探し出さなければなりません。そして私たちは本郷の人とならなければなりません。これが全人類の願いだというのです。
◆なぜこの世界を清算しなければならないのか
今日この世界に数多くの人々が生きていますが、実際のところ本郷の人ではありません。数多くの国家がありますが、やはり本郷の国家ではありません。一つの理想世界を指向して進んでいるこの時代を考えてみても、今の世界は本郷の世界ではないということが分かります。
今日の世界がそのような立場にあるということを私たちが認めれば認めるほど、このような環境全体を歓迎しなければならないのか、あるいは排斥しなければならないのかということが問題となってきます。今の国と世界は、私たちを満足させるだけの本郷の条件を兼ね備えた国ではありません。「それでは、そのような世界ではないので、これをどうしたらいいのか」という問題にぶつかっているのです。
それゆえ、次元の高い宗教は現世と妥協することを否定してきました。言い換えれば、今の世界に目的を置いてはいけないというのです。また言い換えると、自分個人を中心として自分の意志によって生活するすべてのことを、完全に否定してきました。
このようなことを考えてみるとき、歴史上にどんなに立派な世界があったしても、その世界もやはり本郷の世界ではなかったのです。また、今後築かれる世界も、本郷の世界を待ち焦がている人にとっては容認できない環境と社会であり、国家と世界であるというのです。
それでは、これをどのように解決すべきなのでしょうか。歓迎することもできず、どうすればいいか決めることもできない状況に置かれているのが、この地上に生きている私たち人間なのです。それゆえ、誰もが堕落圏内に立っているのであり、またこれ以上ない悲しみと、苦痛と、悲嘆の立場に立っているという現状なのです。
その悲しみと苦痛が連続し、死亡と破壊をもたらし、結局は終末を迎えざるを得ないというのです。そうして時代を経てきながら、何かが、知らないうちに人の心を通して、この世が破壊される終わりの日を予告してくれました。
また、ある絶対者がいるとすれば、その絶対者が、絶対者の本意と和することのできる個人と家庭と国家と世界を願うことは間違いない事実です。そして絶対者も、この地上に終わりの日が来るという事実を予告せざるを得なかったということを知らなければなりません。それゆえ、世の中に終末が来るということを自他共に認めるようになったのです。
今日、この地上に生きている人々は、いつも自分の生活が幸福の起源となり、幸福に達することを願っています。しかし、この地上でどんなに幸福を追い求めたとしても、生まれる時に不幸な立場で生まれたために、その幸福はどこにも探し出すことができません。
結局のところ不幸な環境をたどり、不幸な終末を迎えなければならない人生なのです。本心が待ち焦がれている本郷の家庭、本郷の社会、本郷の国、本郷の世界を築くことのできる立場に置かれていない人間なのです。ですから、そのような人間が懐かしがり、願い、要求するすべてのものは、現在置かれている生活環境を土台としては絶対に実現できないという事実を、皆さんははっきり知らなければなりません。
それゆえ、どのようにしてでもこの生活環境を処理しなければなりません。どこの誰であっても、この地上にいるすべての人々は、必ずこの生活環境を打破して処理しなければなりません。もしこの世界を愛し、心配する人がいるならば、これを処理できる方法を研究しなければならないでしょう。そしてこれを処理するための、社会活動や世界的な活動をしなければなりません。
ところが、人間がどんなに生活環境を処理するとしても、一つの絶対的な基準を知ることなく処理したとするなら、それは完全な処理にはなり得ません。
言い換えれば、現在の人間が、生活環境を自分たちなりにどんなにうまく処理しようとしても、この生活環境が本郷の世界へと移ることができる人格の基台、家庭の基台、また社会の基台を成し得る基準に至ることはできないのです。したがって、人間の力だけではどうすることもできないというのです。
皆さんは、皆さんの心を自分の思いどおりにすることができません。「私は私のものだ」と自称する「私」になってこそ自主性があるのです。そして、その自主性をもってこそ私を主管し、私を審判することができるのです。それにもかかわらず、皆さんが自分自身を自分の思いどおりにできないというのはどうしたことでしょうか。
◆人間の力だけでは理想世界を築くことはできない
自分自身が動機となって出発したとすると、主体性をもった私は自動的にそれに対する結果を支配することができるでしょう。ところが、自分は生まれてきたけれども、それは私の心が動機となって生まれたのではないのです。
このように考えてみるとき、私たちの心は生まれた当時の、その場から出発したのではないということが分かります。私が主管して、私の思いどおりにできる基盤から私たちの本心が出発したのではなく、私と関係のないところから流れてきたことを知らなければなりません。すなわち、他の何かが動機となって流れてきたのです。したがって、私は主体の立場ではなく、対象の立場に立っているのです。このように私を左右し得るある生命の根源があったために、私自体がそこから流れてくることができたという事実を否定することはできません。
私たちはここで、自分が自分の思いどおりにできない環境の中で生活している存在であることを知らなければなりません。したがって、私自身がある方法を練って世の中のことを処理したとしても、本心の基準と完全に一致して処理しなかったとするならば、処理したその問題が、また再び否定の因縁にぶつかるようになるという事実を知らなければならないのです。
このように考えてみるとき、現在の人間がこの世界のあることを否定することができ、絶つことのできる一つの方法を練ったとしても、その方法が、永遠に私たちの胸の中に一致できる基準や新しい世界を保障する絶対的基準を成し得る基盤とはなり得ないというのです。それゆえ、人間の力だけでは新しい理想世界を築くことはできない、ということを私たちは知らなければなりません。
この世で滅びたい人がどこにいて、不幸になりたい人がどこにいるでしょうか。しかし、今までの歴史の主流を見ると、数多くの人々が神様の意図とは関係なく不幸な目に遭い、また滅びてきました。結局、数多くの運命の中で人間がうめいているのです。言い換えれば、悲惨な境地において人間が方向を模索したとしても、その方向はあいまいで暗中模索する立場に置かれているのです。それはあたかも霧の中の虚空を切り開いて進むのと同じです。それで、歴史上に大きな志を抱いて世界と人類の将来を案じた人々は多かったのですが、いまだ根本的な解決点を見つけ出すことができずに、この歴史は流れているのです。
◆成すべき本郷の理想世界
イエス様も、「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」(ルカ一二・四九)、また、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今それに堪えられない」(ヨハネ一六・一二)と語り、嘆かれました。このことを考えてみるとき、その背後に、実生活に表れる外的なものよりも、内的な裏面の深いその何かがあったという事実を知ることができます。
これが、悪なる世の中を断つことのできる動機であり、起源であるという事実を皆さんは深く考えなければなりません。
不幸になる条件があるとするならば、自分でそれをなくさなければなりません。そして、険しく難しいあらゆる環境が自分を包囲しているという事実を皆さんは知らなければなりません。このような環境に置かれている統一教会員は、「これを突破して進んでいくのだ」という思いがなければならないのです。
それでは、ここで要求されることとは何でしょうか。いかに人間が平和の国を成そうとしても、人間の世の中のその何をもってしても、世界的な平和の国を築くことはできません。もし可能であるとするならば、今よりも昔の多くの道人たちが精誠を込めたものを通して、既にその世界は成し遂げられていたでしょう。今日、人々は、発達した科学文明の中で実存主義と現実主義に立脚して、その理想を探求しようとあえいでいます。
このような時代とは違い、過去の道人たちは深山幽谷に入っていき、「心の欲求、心の本郷とはどこなのか」と求めながら内的な内容をもってあらゆる精誠を尽くしました。そうして、その人格基準を探し立て、その人格が喜ぶことのできる善の世界である、人類の地上天国を成し遂げようとしました。これを探し出すために、精誠を込めて祈祷した人々が多かったのです。
しかし彼らが、この地を整備して、この世界を解決し得る基準をいまだ探し立てていないのに、主が来られ、世の中を救うことができるのか、また皆さんは、自分の人生が願う本郷の国である理想世界を築くことができるのか、ということが問題なのです。
◆心と体の統一が必要
私たちの人生においては、他の何よりも、心と体が一つとなることができず分かれていることが問題です。心と体が一つになっているのかというとき、この体が怨 讐なのです。心はまっすぐに行くことを望んでいるのに、体は反対の方向に行くことを望んでいるのです。
皆さんが「その人の心がゆがんでしまった」と言うとき、心がゆがんでいるのを見て言ったのですか。人の心はその行動を見れば分かるのです。心がまっすぐだというのも、やはり行動を見て知るのです。心がまっすぐな人は、統一的な行動をします。それは、心がしようというとおりに体が動くからなのです。
そのようになろうと思えば、心と体が一つとなり得る、敬うことのできる理想の人格、理想の良心を中心として一体化した、理想の心がなければなりません。その一体化したところで咲くのが、正に愛です。心と体が一つになったところでは、神様が永遠に臨在できる愛が花咲くのです。
イエス様も愛を中心として、自分自身を差し出してしまうほどに人を愛する心を持ち合わせていました。どんな宗教でも、愛を中心とするとき、自分自身が犠牲になろうという心をもちました。皆さんはこのような心を、一瞬ではなく、永遠にもたなければなりません。
あたかも、太陽系がある原則に従って限りなく回っているように、私たちの心も一体を成して回っていかなければなりません。したがって、この自然の法則の力に一致することよりも、より高次元的な一体を成すことのできる人物を探し出さなければならないのです。
それでは、心と体が一つになって永遠に変わることのない一つの心と一つの体で和す人が、この世に現れるとしたらどうでしょうか。その人の中に存在する愛とは、どのような愛であり、またその人が考える人倫道徳とは、どのようなものでしょうか。また、その人の心の中から爆発し流れ出してくるその愛によって形成された家庭観、社会観、国家観、世界観、宇宙観とは、どのようなものでしょうか。皆さん、一度考えてみてください。
人間が本郷を探し出し、そこで心と体が一つになり人格を形成したならば、その人格は現実世界で形成された人格の圏内に支配されることなく、現実世界を超えてそのすべてを支配し得る人格の基準をもつようになるのです。しかし、そのような基準を立てていない人は、本然の家庭、氏族、民族を立てることはできません。
◆本心の基準と本郷
どんなに世の中において優秀な人であったとしても、心と体が和して一つになっていない限り、その家系は滅びて悲惨になるものです。すなわち、心と体を一つにできていない個人が集まり家庭を成したので、和合することが難しいのです。したがって、楽しく暮らし平穏に生きていくことができるように見えても、一つになり得ない家庭は、結局滅びていくのです。したがって、本然の基準を中心として、心と体が完全に一つにならなければなりません。
世界のどんな苦難よりも、どんな患難よりも、どんな戦争の被害よりも、私の心と体の闘いによって生じた被害がもっと大きいというのです。この闘いで心が敗れることにより、山のように悲しみの残骸が積み上げられているということを皆さんは知らなければなりません。このようなことを考えてみるとき、皆さんがどんなに大口をたたいても、それは敗残兵の立て札を持った姿だというのです。
しかし、本来は心と体が闘って心が勝利することによって、いつも体を主管するようになっています。ところが、そのようにできなかったために、心と体が、それぞれ他の方向を向いていくようになったのです。
ある人を「人格者である」と言うとき、その言葉はその人の外見や、学歴、経歴、または地位を見て言うのではありません。どれだけ原理的な立場で生きているのかが重要なのです。したがって、外的に華麗で多様なことだけを強調してはなりません。心が天に侍ることにおいて、変わらない心で神様のみ旨に合わせて生活していける姿勢を備えなければなりません。そのように生きる人が人格者です。
昔の聖賢たちが教えてくれたのは、心を中心として天を敬う敬天思想をもつとともに、万民を愛せよというものです。天を中心とし、地を愛し人間を愛せよと教えたのです。
それでは、皆さんの心は、天と接することのできる一〇〇パーセントの要素をもっていますか。世界人類と接することができる一〇〇パーセントの要素をもっていますか。また、地を愛することのできる一〇〇パーセントの要素をもっているのかというのです。
本心自体を分析してみると、天を愛し、地を愛し、人間を愛すことのできる本然の心があります。この本心は、どんなになくそうとしても自動的に生じるのです。このような本心があるために、歴史的に理想世界、すなわち本郷の世界を追い求めてくることができたのです。それゆえ、本心の作用が私によって始まるというのです。
◆心の宗教時代が来なければならない
今まで私たちが生きてきたこの世界は、どのような世界ですか。心の満足のための世界ではなく、体の満足のための世界なのです。しかし、体が好むことをもってしては、心の幸福を成すことはできません。すなわち、体を主とした外的な世界を中心としては、自ら幸福をもたらすことはできないのです。お金や権力、その何をもってしても駄目だというのです。
しかし、今私たちが生きているこの世の中は、心があるのかないのかを考えもしない物質主義の世の中になってしまいました。これは教育の現状を見ても分かります。全部が物質文明中心の教育に重点を置いています。また今では、心がないと否定し、そして神様までもいないと否定するところまで来ています。
それでは、人生において億千万の金を積んでも換えることができず、どのようなものとも換えることのできない絶対的な価値と絶対的な権威をもった心の位置がどこなのか知っていますか。そのような位置を中心として出発できる基準になっているかということが問題なのです。そういう個人による家庭、氏族、民族、国家、世界が新しくこの天地間にもう一度芽生えることなくしては、この世界を生かすことはできません。この世の中はどうせ一度は拒否され、除去されなければならない運命に置かれています。言い換えれば、一度はつくり直さなければならないのです。
それは心と体が一つになっていない皆さん自身を見るとき、一層はっきりと分かります。心と体は大東亜戦争より危急であり、核戦争よりももっと恐ろしい戦いをしているのです。それらの戦争は休戦ということもありますが、ここには休戦もなく終戦もありません。私たちの人生がこの地で始まったその日から終わる時まで、私たちの心の中では休戦もない戦争が続いているのです。このような人々が家庭を築き、氏族を築いて互いに戦ってきました。ひいては民族と民族が、国家と国家が戦ってきたのです。
このように、今までの人類歴史は戦争によってつながれた歴史でした。一日として戦争の終わる日はなかったのです。正にその戦いの根拠地がどこなのかといえば、それは心と体なのです。心と体が戦いの根拠地になることによって個人、家庭、氏族、国家が戦うようになったのです。そのため、終局的にはこの外的世界を清算しなければならないのです。
それでは、私一人を中心として統一できる絶対的な安息の地はどこなのでしょうか。イエス様もそれを探すためにこの地へ来られたのであり、神様もそれを探していらっしゃるのです。その基点を探し出してこそ、この世の中を救うことができるのです。イエス様と聖霊、数多くの宗教人たちもそれをどのように探し出すべきかを苦労し考えてきました。皆さんは、それが人類が探していくべき最高の基準であることを知らなければなりません。それゆえ、自分の意志によって統一できないことも認め、自分の意志によって平和の世界を建設できないことも認めなければなりません。
今の世の中は、他人も信じることができないし、自分自身も信じることができない世の中になりました。それでは誰を信じることができるでしょうか。宗教は「神様を信じなければならない」と漠然と教えています。しかし、神様を信じる前に、まず心を信じる心の宗教時代がなくてはならないのです。
そういうわけで、宗教がこの世界の環境を次第に否定する力をもたなければなりません。それで、ある一瞬に、一度に清算できる力をもっている、そのような宗教が出てこなければならないのです。
もし、何千年の間、凍りついた氷の塊の中に死なないでいて、生きて出てくる人がいたとすれば、その人は暖かい春をどれほど喜んで迎えるでしょうか。考えてみてください。今までの歴史上には数多くの峠がありましたが、人々はそのような人生の道を知らずにいます。それゆえ、この地に、そのような問題を解決できる何かが出てこなければなりません。だんだんと解決できる道よりも、急進的で爆発的に解決できる宗教が出てこなければなりません。
人々は、家計の帳簿を整理するとき、収入と支出がいくらなのか正確に決算します。このように帳簿を整理するにも収支決算を徹底的にするのに、皆さんの人生はどうですか。一生の間に、生きてきたことを収支決算してみましたか。そうしたならば、その結果は赤字でしたか、黒字でしたか。赤字ならば、地を打って号泣しなければなりません。人は死ぬ場において楽しく歌を歌いながら死ぬことができなければならないのですが、死を前にして生きようとしてあえぐのは、赤字の人生を生きてきたという証拠です。
私たちは絶対性を中心として、心情の世界において黒字の人生を送らなければなりません。ところが、いまだそのようになっていないために、これを解決してくれる宗教が出てこなればはなりません。その宗教は、漸進的でなく爆発的であり、瞬間的にさっと問題を引きはがしてしまうことのできる原動力をもった宗教でなければなりません。
◆人間がまず最初に探し出さなければならないもの�\―本然の愛
ここで皆さんは、根本となる人生の出発がどこから始まるのかを知らなければなりません。それは愛から始まるのです。その愛の動機から本然の愛の基準を復帰しようというのが、歴史時代の数多くの人々が願ってきた内容です。
自分が生涯生活しながら誤ったことをどんなに是正したとしても、本然の愛を中心としないで結婚し子供を生めば、またそのような子供を生むようになるのです。したがって、本然の愛の基準によって夫婦となり子供を生んでこそ、すべてを復帰することができるのです。
天の天倫の大道を広げ得る法度と、秩序の世界で運行するすべての軌道を主管することができるのが、万物の霊長である人間の価値です。そういう人間の本然の価値基準に立って、神様が喜ばれ人類の始祖も喜ぶ幸福の花が咲く春を迎えて、その歓喜の天地を一度に抱こうとする心をもたなければなりません。
それで、そのような本然の愛が起源となり中心となって、新しく生まれた本然の息子、娘たちは、その本性の心の願うままに体が動くのです。これが天にしみている(神様が人間に願う)内容なのです。それは、何かの制度で実現される内容ではありません。本然の愛から統一されていくのです。
それでは、人生においてまず最初に探し出すべきものとは何でしょうか。愛の本郷を探し出そうというのです。このような目的のために、宗教がこの世に出てきたのです。
本然の愛を中心として夫婦の心が一つになるとき、ここで神様の永遠な愛が始まり、永遠に万遍なく広がっていくのです。それは、彼らが取り除くことも分立することもできない力の模索圏内にあるためなのです。このように主体と対象が一つになって一致でき、天宙を支配することのできる原動力の根源となるその愛を中心として一つとなった夫婦を通して生まれた息子、娘がいたとすれば、その子供たちはどのようになるでしょうか。皆さんはこれを考えてみましたか。
イエス様は、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」と語られました。神様は父であり、イエス様は息子となるのです。さらには、神様の愛を中心とした本質的な家庭においてイエス様は兄であり、私たちは弟や妹として兄弟姉妹であるというのです。このように個人の基準と家庭の基準を立てていかなければなりません。そのようになったならば、これは宇宙的な祝福となるのです。
◆本然の愛でのみ統一が可能
今日、キリスト教がなぜ世界的な宗教となったのでしょうか。私たちの人生は、本心が追求する本郷の関門を通過しなければなりません。それゆえ、その道を教えてくれる内容をたずさえてきたキリスト教が、自動的に世界的な宗教となりました。
今日の人間の世の中は、本然の愛の包みを持ち合わせていません。人間始祖が神様のみ意どおりにうまく行っていたとすれば、神様の愛を中心として絶とうとしても絶つことのできない関係をもっていたことでしょう。
人間の幸福と不幸の起源は、どこにありますか。お金にあるのではありません。このごろは映画を見ても、歌を聞いても、愛についての内容をたくさん含んでいます。しかし、愛を表現する形態は整ったけれども、本来の愛の内容とは異なるものです。したがって、本郷の国を築くことのできる本然の愛の出発がなされていないというのです。本然の愛をもって出発した人がいるとすれば、その人の中にある愛を、どんなに億千万の大金を与えて買おうとしても買うことはできません。
聖書を見ると、「神はそのひとり子を賜わったったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・一六)というみ言があります。愛を知ってみてこそ、このみ言が理解できます。
私たちの人間世界に本郷に行くことのできる代表的な橋を架けてくれる設計者、技術者となるその一人の方がこの地上に来られたならば、全宇宙の人間たちはその方に取りすがらなければなりません。そのようになったならば、「統一するな」と言っても統一されるのです。
それでは、世界を何によって統一しますか。愛によってです。その愛は清算すべき堕落した世界の愛ではありません。その愛は堕落した人間が一生楽しんで共にしますが、永遠な世界とは全く関係のない愛なのです。皆さんが夫婦を成し、どんなに父母に侍り、千年、万年生きようと夢見て歌ったとしても、死ねばみな千里、万里離れ離れになってしまうのです。
どんなに人間が幸福にすがりついて千年、万年生きようとしても、何日か過ぎれば「ああ、私はどうしてこうなんだろう」と、このようになるのです。このような不幸の状態が横的に展開して、世界化したのが今日の世界です。このような世界は、滅びの道へと向かっていくのです。
◆本郷の国を中心に生活しなければ
けれども、先生は本郷の国を見ました。これは、考えただけでも胸がどきどきすることです。逆さに立ってもまっすぐに立っているようなその世界では、お互いにぶつかっても良いのです。一日も早くそのようにできる環境が、この世に築かれなければなりません。
このような新しい国が、この地球に現れなければなりません。そのような愛を宗教の教理に適用するようにし、そのような観念に立脚して新しい世界観をもつようにすることによって、世界を歌い、新しい氏族、新しい民族、新しい国家を自らの生活の舞台にするようにしなければなりません。それで、自分という個体を中心として新しい家庭を築き、世界を間違いなくみ旨の前に立てるのだという設計図をもって歩む男性、女性とならなければなりません。そのような人がいたとすれば、その人は幸福な人です。統一教会の信徒である皆さんは、全員がそのようにならなければなりません。
そのようにできるのは何かというとき、ここに宗教が必要だというのです。しかし、宗教が絶対的に必要だとしても、本郷の国に連結してくれる橋でしかありません。それゆえ、皆さんは統一教会で暮らすことよりも、本郷の国で暮らすことをもっと願うでしょう。それは、先生自身も同じです。
「本郷の国」、その国はある所に限定された国ではありません。夫婦が離れ離れになっていても愛することができ、取るに足りない人であってもどこに行っても歓迎される、そういう国が本郷の国です。
各国ごとに自分の民族の主体性と民族文化を誇っていますが、それは本郷の国に比べれば何の価値もないのです。国境を閉鎖して生きてきた民族が、両手を挙げて本郷の国を歓迎するその一時を中心として、国家に力を加えることのできる、そのような世界が来なくてはなりません。
したがって、統一教会が問題ではなく、本郷の国が問題なのです。それでは、統一教会の信徒たちは、信仰生活を中心にすべきか、あるいは本郷の国のための生活を中心とすべきかという問題が生じてきます。どんな生活をしなければなりませんか。皆さんは本郷の国のための生活をしなければなりません。
◆統一教会の理念の根本
太陽系も太陽のみで成り立っているのではありません。主体的立場にある太陽と相対的立場にある惑星が、膨大な宇宙圏内で太陽を中心として太陽系を構成しているのです。もし神様の法度圏内で損害が生じれば、お互い一つになるということはありません。皆さんも自分が損をする所ならば来ないでしょう。皆さんは心と体が一つになるという二重の利益を得るために、ここに来たのです。それと同様に、家庭を破壊してはなりません。一つでも犠牲にしてはならないというのです。
すべてのものは相対的に存在しています。相手が決まれば目的観は自動的に生じます。その目的は二つを合わせたものより、もっと大きな価値を帯びるのです。二つが一つになるのは、共同の目的を達成するためなのです。これが、統一教会の理念の根本を成しています。
個人の小さな目的と大きな目的があるとき、小さいものを捨ててより大きな目的を追求すれば、ここにはプラス要因が発生し、小さな目的にも利益になるし、より大きな目的もまた成し遂げることができるのです。
私たち人間には、生まれた時から成すべき目的があります。人は、全体のための目的と自分個人のための目的、すなわち二重目的をもつ存在なのです。ある国家の目的が、全世界の国家をすべて征服し経済的に略奪し奴隷化しようという、すなわち帝国主義的なものであるとすると、世界的な運勢圏でその国家は滅びるしかありません。
二重目的の世界が築かれなければならないという観点から見れば、本然の天道を立て、世界の目的を達成するためには、国家の目的は犠牲になるのが原則なので、宇宙の目的を達成するために国家や個人が滅びるのは問題ではありません。
個人の運がどんなに良いとしても、家庭の運のために犠牲にならなければなりません。言い換えれば、個人は家庭の前に吸収され、家庭は氏族の前に、氏族は民族の前に、民族は国家の前に吸収されなければなりません。その国家が個別的に世界の前に立てば、永遠に存続することはできませんが、世界のための国家と民族になれば、永遠に存続できるのです。しかし、世界の運が終われば、彼らの存在価値はなくなります。世界の運が終わるその場で、天宙の恨みを解かなければなりません。
個人復帰の目的は、私個人がうまくいくためではありません。キリスト教を信じている人々は「イエス様を信じて救われて天国に行こう」と叫んで回っています。しかし、天国はそのようにして行くのではありません。生命は隠密な所に立てられるのです。
神様が御覧になるとき、民族の内的心情を泣かせることができ、天宙の内情を見抜くことのできる人にならなければなりません。神様と通じることのできる愛情をもった孝子、孝女は、深い悲運が垂れ込めた場においても、その悲運の主人公になった王ならば王、父母ならば父母の心を解いてさしあげ、その背後のすべてを一人で防ぎ、解決しなければなりません。こういう忠孝の因縁をもった人が天国に行くのです。
◆大きな目的のためには、小さな目的が犠牲にならなければならない
神様の摂理歴史が遅れることによって、今日統一教会が現れました。漆黒のような夜が過ぎて朝になれば、光り輝く太陽が世の中すべてを照らすのです。私たちはその明るい光を携えて、本郷を訪ねていかなければなりません。死を克服できる生命の原動力を身につけなければなりません。
春の光が訪れれば、その春の光を方々で吸収できる生命の自主性、生命の吸収力をもたなければなりません。そうすれば、どんな春の季節より先に花を咲かせることのできる、春の季節の王子となるでしょう。これが、神様の願いでもあります。
もし国家に運勢が来たならば、自分の国だけのために用いてはいけません。すなわち、一つの国だけのための世界ではなく、世界のための国とならなければならないのです。言い換えれば、世界から歓迎される国家を建設しようというのです。
今日、国連が創設され、世界のための共同的な目標を中心として大きな目的を達成し、幸福な世界の環境をつくるために努力しています。これは人間の内心の本郷に対する懐かしさが、天と共にその何か知らない事情に合わせることができる基盤を通して、数多くの人々をつなげ統一するためのものなのです。
今日、統一教会は、民族の前に信仰生活をしっかり行っていると自慢してはなりません。それでは、統一教会員たちが行かなければならない所とはどこでしょうか。教会の居間ではありません。皆さんは統一教会で自分の人格をそろえて、家庭に入っていかなければなりません。統一教会を信じるのは家庭を救うためなのです。
その家庭が立つようになれば、家庭は氏族を救うために、氏族は民族を救うために、民族は国家を救うために、国家は世界を救うために犠牲になることができなければなりません。大きな目的のためには、小さな目的が吸収されなければならないのです。それで、氏族を必要とするのは民族を探し出すためであり、民族を必要とするのは国家を探し出すためであり、国家を必要とするのは世界を探し出すためであるということを知らなければなりません。
私たちは国家を復帰しなければなりません。ところで、これは一つの国だけを探し出そうというのではなく、世界を探し出し、ひいては天地すべてを復帰しようという意味です。そのようにして、神様と地上にいる人間が誰彼なしに、お互いにやりとりし得る自由の天国世界を築かなければなりません。お互いの心が通じ得る神様の愛の園まで上がっていかなければならないのです。
その神様の愛を探し出すためには、八段階の過程を越えていかなければなりません。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を犠牲にしてでも行かなければならないのです。神様の愛を蹂 躙し、すべて壊して出ていった人々が、これを再び否定して、神様の愛を本然の愛として敬っていく時が来なくてはなりません。そのような時が来なければ、この世は天国を訪ねていく路程を出発し得ないことを明確に知らなければなりません。
世界ができないことを統一教会でしなければならないのです。私たちは今まで、そのことをしてきました。私たちは追い込まれて追い出される立場であったとしても、神様の前に「私たちを救ってください」という祈祷はしませんでした。物乞いの立場でも、人のために奉仕しながら生きてきたのです。
私たちは個人の運勢によって生きる人間ではなく、家庭の運勢によって生きる人間ではなく、氏族の運勢によって生きる人間でもなく、国家の運勢によって生きる人間でもありません。天倫の運勢と共に生きる人間です。どんなに先進国の一等国民であったとしても、天倫の運勢に逆行する時には滅びるようになります。
この世には相応作用、相克作用があります。相応作用をなそうとすれば、お互いに一致しなければなりません。相手のためにすることが創造の原則です。それを「嫌だ」と言うのは、悪なることです。これを成してこそ永存できる起源が生じます。そこから宇宙の補償原則による存続の起源が生まれるため、全宇宙の前に人間として原理原則に合格し、生活に適用していかなければならないのです。それで「君も私のようになりなさい」と言うことができなければなりません。これが正に善なのです。これを確実になして相手を決定してこそ、霊肉が一つとなるのです。
統一教会は、神様の愛の運勢についていこうとするのです。統一教会は、神様の愛の運に倣って心情世界、創造理想世界について語っているのです。驚くほど素晴らしいことではないですか。「良い」という言葉の根源は何でしょうか。お母さんがいて良い、息子、娘がいて良い、このように話すのですが、その「良い」と言うことの根は何でしょうか。それは正に愛なのです。赤ん坊のお母さんは、赤ん坊が大便をしてひどくくさいにおいがしたとしても、汚いと思わずに片づけます。ここに、何があってそうするのですか。それが、正に愛なのです。
◆幸福な家庭は父母に侍り生活する家庭
それでは、人間の不幸はどこから出発するのでしょうか。愛の安息の地がなくなる時から始まるのです。幸福な家庭は、その家の垣根となる父母に侍りながら生活する家庭です。その家庭は、上には天を代表した父母に侍り、横には家庭を代表した他人同士が集まって生活するという因縁の愛を夫婦で結び、この夫婦が天倫の法度を貴び、その継代をつなぎながら生きる家庭です。
父母を中心として生まれた息子、娘が成長して大人になると、別れて出ていきます。結婚して妻をめとったり、また嫁に行くのです。彼らが夫婦となってから別れたとしたなら、それ以上不幸なことはありません。嫁に行ったり、妻をめとったあとで別れるのは、不幸なことです。家庭で、父親が遠方に行くというのに、母親が喜んで踊りを踊るでしょうか。
人間世界の因縁を結ぶところにあって、男性と女性は世界の平和のために進んでいかなければなりません。一人の力だけで平和が来るのではありません。男性と女性の力が合わさって、回らなければなりません。回るときには、中央に突進していかなければなりません。中央に向けて突進する力は、愛の力です。相手が現れると、愛そうとする心が生じるのです。
すべての運動する存在には、中心に連結し得る力があります。その中心だけ決定されれば、速く回れば回るほど、そこには天地の調和がもたらされるでしょう。地球はどれくらい速く回りますか。一日に少しどころか、一回りを軽く回ってしまいます。地球が宇宙の根源を決定し得るその基準を立てて回れば回るほど、春夏秋冬の調和が取れるのです。
女性が嫁に行けば父母と別れ、男性が妻をめとれば父母と別れるのですが、それは結局何をしようというのでしょうか。天地の位置を決定するためなのです。どんなに広々とした空間であっても、中心を中心として定着するのは、人がすることです。男性と女性がすることなのです。それで、夫婦がうまく生活すれば孝子、孝女が生まれるのです。
イエス様はこの地に来られ、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」と語られました。新婦を探し出さなければならないというのです。そのようにして結局、何をしようとしたのでしょうか。愛は男性と女性の二人に帰結するのです。宇宙史的な男性の代表者と女性の代表者は、胸を膨らませながら神様の愛を引き入れる、本然の因縁を備えていなければなりません。
それを天宙上に成し遂げてこそ、その世界から幸福の基盤が広がってくるのです。そのため、この地に新郎として来られたイエス様が新婦を探さなければならないのです。それは、新郎新婦の独自的な救援観の位置を決定したものです。言い換えると、四方的な本性に神様も引き入れ、人倫も引き入れて、過去、現在、未来の願いを引き入れ、ここに夫婦の理念を中心として統一の基準を立てようとしたのがイエス様の思想だったのです。
◆天情をはじめめとした信仰と実践を通じて人格を成そう
統一教会は合同結婚式をなぜ行うのでしょうか。すべてを超越して統一的圏内の先頭で、すべての人類を糾合できる群れがいなければならないからです。その群れが人類歴史に現れ得る世界になってこそ、この天地に幸福の世界を築くことができるのです。
そこから希望の個人と夫婦で成された家庭が氏族を成し、氏族から民族、民族から国家、国家から世界を成していくようになるのです。すなわち、この地球を変えていくことのできる国が生まれるのです。
その世界に行くためには、統一教会の運勢に沿っていかなければなりません。二十世紀の末期において霊界に通じる人の中で特に優れた一人の人物がいるとすれば、統一教会の文先生です。数多くの道人と数多くの霊通人もみな、統一教会の文先生の弟子だという立て札を首にかけ、証しています。
先生はこういうことをみな備えて、世界を引っ張り、天下を引っ張ることのできる基準を立てています。その基準を中心として全世界的に多くの誤解を受けました。しかし滅びるためにこのようなことをしているのではありません。天情を望み、地上で知情意の法を探し出し、天情をはじめとした信仰と実践をなし、人格の道理を収拾しようというのが「統一原理」なのです。この原理を実践するようになれば、誰でも人格者になれるのです。
◆農夫は春になれば種を蒔くことを知らねば
それでは、この途方もない事実を中心として何をしなければならないでしょうか。私たちは、本郷の国を築かなければなりません。
皆さんは本郷の国を願うはずです。人類が願う本郷の国を築くためには本郷の個人が必要となります。そのような個人と共に家庭が一致してこそ、氏族と国家と世界と天地、そして天の愛の法度が立てられるようになるのです。
その論理上では、どこの誰であってもそのようになれる公式的な方法をもって、今日世界各国で実を結ぶようになるのです。革命が起こるというのです。
私たちは最終的にこの地球を生かすのだという信念をもって、民族を収拾できる人にならなければなりません。このような人々が集まった個人、家庭、氏族、民族、国家が多くなるとき、本郷の世界が創建されるのは間違いない事実なのです。そのような世界に行ってみたいならば、皆さんは自分自身を振り返ってみて、現在の自分自身と自分の立場を維持しながら、新しい方法を探していかなければなりません。
私たちは本郷の国に行かなければなりません。おばあさんであれ、青年であれ、老若男女を問わず、天下の万民が望んでいる希望の国に行かなければなりません。自由の天国に行かなければなりません。
自分自身に属するものだけが貴いものだと思っていましたが、そうではないというのです。春の季節が訪れれば、農夫は種を蒔かなければなりません。貴い種もみを蒔かなければなりません。蒔くことを惜しむ人は、未来が分からない人です。そして適切な時期に種を蒔くことを知らない人は、農夫になる資格はありません。
私たちは種を蒔くにおいて、あふれんばかりの希望を抱いて、未来の結実に対して祝福することができなければなりません。そうして、現実のすべての伝統を超えて、新しい農地に種を蒔けるように守ってあげようというのです。国家の運命と世界の運命を、あの高い所に向けて出発させることができる準備をして、血と涙の苦労を気に留めないで、涙は人類のために、汗は地のために、血は天のために流す父母の心情をもって闘っていく、統一の精兵とならなければなりません。
皆さんすべてが難しい状況から出発したのですから、ぜひ目的とした結果が偉大なものとなる位置まで行かなければなりません。すなわち、神様が指向なさり、人類が望んでいる心情世界にまで訪ねて入っていかなければなりません。神様の愛を根拠とした本郷の地へと行かなければなりません。
あなた方は、このような本郷の国を創建する勇士にならなければなりません。新しい覚悟でみ旨の前に勇進できる精鋭部隊となってくれることを願いながら、み言を終えようと思います。
25. 天を慰労しよう
一九六八年四月二十八日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十巻』
今日、この地上に生きている人間は、みな慰労の中心を求めています。個人的な慰労の中心、家庭的な慰労の中心、そして国家的な慰労の中心、世界的な慰労の中心を求めています。さらには、天と地の全体を代表した天宙的な慰労の中心を求めています。
◆慰労の中心を必要とする人類
天地が存在する限り、このような慰労の中心となる方が、必ず現れなければなりません。そうして、その方は慰労の主体となられ、万民を慰労しなければなりません。個人を慰労し、家庭を慰労し、国家と世界を慰労して、希望の世界をつくらなければならないのです。神様はそのような方を送るために人類の前にメシヤ思想を立て、今まで摂理歴史を導いてこられました。このような事実から推し量るとき、皆さんは「神様はいない」と否定することはできません。
したがって慰労の中心として来られるその方が、単なる個人的な慰労の存在としてとどまるのではなく、その方を中心として、全体を代表した慰労の家庭が現れ、氏族が現れ、民族が現れ、国家が生まれなければならないのです。それが、この地上の歴史過程に現れた選民思想です。ヤコブが悪と対決して勝利した基台の上に、初めてイスラエルという一つの基盤を中心とした慰労の芽が芽生えたのです。その家庭から出発して慰労の氏族、慰労の民族、慰労の国家が立てられれば、そこに初めて世界的な慰労の基準が立てられるのです。こういう基準を立てるために、国家的基準の前に来られた方がメシヤです。
イエス様は、悲痛と孤独に満ちたこの世を、慰労の世界、平和の世界へと変えるために来られました。その時に準備されていた国が、イエス様と完全に一つになっていたならば、そこで初めて人間が心から待ちわびてきた平和の起源を求めることができ、すべての人間が慰労の主体に出会い、幸福な出発をするはずだったのです。ところが、その方が来られたのに迎えることができなかったので、これが今までの歴史過程における何よりも悲しい事実であった、ということを私たちは知らなければなりません。
ゆえに人間には、慰労の中心がなければならないのです。一つの国家、一つの氏族、一つの家庭、一つの存在。これらを国家と世界にまで連結する中心存在が現れなければなりません。そうならずしては、この地上に慰労の天国はできません。
◆神様の慰労の対象になれなかったアダムとエバ
神様の側から見て、人間が堕落しなかったならば、アダムとエバが成長すること自体が神様の前に慰労の対象となり、造られたすべての万物が神様にとって慰労の対象になるのです。アダムとエバが生活すること、彼らと関連したすべてが、神様にとって慰労の刺激的要素になるのです。
ところが、人間が堕落することにより、神様の慰労の対象になれなくなったことを皆さんは知らなければなりません。こう考えると、人間だけが慰労の対象を求めているのではなく、神様もやはり慰労の対象を探し求めているのです。
それでは、神様を慰労するためにはどうしなければならないのでしょうか。神様を慰労するためには、知るべきことがあります。それは人間始祖アダムとエバが、どのような存在であったかということです。
アダムとエバは、神様に代わってみ旨を成し遂げるために立てられた存在です。言い換えれば、神様のすべての喜びと幸福の要件に相対する存在として、すべての被造世界の中心に造られたのです。そういうアダムとエバを見つめる神様は、どれほど喜ばれたことでしょうか。そしてまた神様が、本然のみ旨を成し遂げるための理想を中心として、彼らと共に、御自身の事情を語り心情を交わしながら生きたかったかを、皆さんは考えてみなければなりません。
ところが、アダムとエバが堕落することによって神様は、彼らを真の人類の先祖として、人類の父母として、御自身の息子、娘として接することができなくなりました。アダムとエバは、神様の前にまたとない息子、娘であるにもかかわらず、神様が息子、娘として接することのできない立場に立つことになったのです。また神様は、アダムとエバが成長したのちには、夫婦として祝福し、慰労の対象にしようとしました。ところが彼らは、息子、娘としての慰労の対象になれなかったのはもちろん、新郎新婦としての慰労の対象にもなれませんでした。
神様の抱いた願いが大きいだけ、彼らに無限な価値を与えて望んでいらっしゃったのですが、彼らが堕落することにより、神様は子女としての慰労の心情を感じることができず、新郎新婦、すなわち夫婦としての慰労の心情も感じることができなかったのです。神様はアダムとエバが将来、希望の先祖として、全人類の前に唯一の王として、神様の前に忠孝の道理を立てる立場に立つことを願われました。しかしながら、神様の前に彼らが慰労の対象になれなかったという事実を、皆さんは知らなければなりません。
◆神様を慰労してさしあげるには
それでは、このような立場にいらっしゃる神様を慰労してさしあげるには、どうすればよいのでしょうか。堕落したアダムとエバ以下の基準では、神様の前に慰労の対象となることはできません。真の息子、娘として神様の前に立てなかったがゆえに、真の息子、娘となって初めて神様を慰労することができるのであり、真の新郎新婦になれなかったことが恨と悲しみになったがゆえに、真の新郎新婦になってこそ慰労の対象となることができるのです。
天と地をすべて主管できる一人の主人公として、万国あるいは万民を主管できる一人の王として責任を全うすべきアダムとエバが、責任を全うできなかったという立場に立っているがゆえに、それ以上の立場に立たなければ、いくら神様を慰労しようとしても、それは慰労にはならないのです。
それゆえ、このような慰労の責任を担って、この地上に誰かが来なければなりません。もしその全体的な責任を担う人がいないとすれば、他のいかなる個人でも現れなければなりません。
人類始祖が堕落し、再創造の原理過程を通過せずしては復帰されないため、まず男性が現れなければなりません。男性が現れなければ、女性が現れることができません。いくら神様の娘として、神様を慰労してさしあげたくても、男性がまず現れなければ、女性一人では娘の立場の責任を負うことはできません。それゆえ、今までの復帰摂理歴史において責任を担ってきた人物は、女性ではなく男性だったのです。
それでは男性がこの地上に来てすべきこととは何でしょうか。それは、アダムが神様を慰労してさしあげることができず、真の息子の立場で孝行ができなかった基準を蕩減復帰して、人類を神様に連結させることです。そのために、先祖たちが歴史的な責任を担ってきたという事実を皆さんは知らなければなりません。
この世界は、サタンが主管する悪なる世界であるために、そのような責任を負った人々が現れたならば、彼らを中心としてこの世を整理しなければなりません。それゆえアダム家庭からノア、アブラハム、モーセ、イエス様以後、今まで六千年間の長い歴史路程においても、天のみ旨を担ったのは女性ではなく、男性でした。このように責任を担った男性が尽くした精誠を総合して、その精誠の基盤の上に真の息子が現れなければならないのです。神様が「お前は私を喜ばせる息子だ」と称賛できる人が現れなければなりません。
このような一つの中心存在として、この地上に来られた方がイエス様でした。イエス様がヨルダン川のほとりで洗礼ヨハネから洗礼を受けて、水から上がるとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ三・一七)という神様の声がしました。これは、ようやく天と地が喜ぶことのできる一人の存在を探し求めたという意味です。これが、どれほど大きい神様の喜びだったのかを皆さんは知らなければなりません。
◆神様の慰労の中心
それではイエス様は、神様の前にいかなる慰労の対象となるべきなのでしょうか。サタンの侵犯を受けた悲しい歴史を整理し、これを越え本然の神様の熱い心情と和合した立場で、神様を慰労してさしあげることのできる息子の使命を果たさなければなりません。
したがって、神様がイエス様を御覧になって、お前は堕落した子孫であり復帰された二番目の息子だという印象をもたせてはならないのであり、探し出すのに苦労した息子だという印象を残してもならないのです。お前は私を喜ばせる者、私の愛する者であると言える息子でなければなりません。言い換えれば、この地上に最高の息子として慰労の主体となるべきであり、その価値においては堕落前のアダムとエバ以上の基準をもたなければならないのです。
神様はアダムをまず造られ、そのアダムを通してエバを造られたために、まず息子を迎えてこそ女性が登場できるのです。ところで、イエス様はこの地に来られて神様の前に息子として対象の立場に立ちましたが、神様の娘として対象の立場に立つことができる一人の存在を見いだすことができませんでした。したがってそのような存在を探し求めなければならなかったのですが、それが新婦理念なのです。
今まで六千年間、神様は世界を救うための勝利の外的な基盤は準備しましたが、世界を完全に救うことはできなかったのです。したがって神様は外郭的な基盤を築きながら、たとえ内的には堕落した世の中であったとしても、その中でアダムとエバが堕落せずにエデンの園で成すべきであった基準を立てなければなりませんでした。すなわち愛の対象、慰労の対象の基準を神様の本心の中に立てるべきだったのです。それを成さずには、この世界を、復帰することができません。それを成すための基盤を準備するために、神様はイスラエル民族を育ててこられたのです。
そうして、神様はヤコブを立てて、二十一年間ハランで苦労させ、故郷に帰ってくる途中、ヤボク川で天使と組み打ちをさせたのです。ここでの天使は、サタンの象徴でした。この闘いは、天使長によって天倫が行き違ったのを復帰するために、復帰の責任を担っていたヤコブが天使と闘って勝利できるか否かを決定する闘いでした。神様の心中にしみ込んだ恨を取り除くために、天使長の代わりの天使とヤコブが闘ったのです。一晩中闘って、「私の命が消えることがあっても勝利する」という心情で、天使に「私を祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」と言ったとき、「祝福してやらない」と天使が言ったならば、果たしてイスラエルという民族は現れたでしょうか。
ヤコブが故郷へ帰るときに、天使と闘って勝てば帰れますが、負ければ帰ることができないのですから、正に生死の決戦でした。ヤコブが二十年余り精誠を尽くして一つの志を立て、イスラエルの起源、言い換えれば、祝福を受けた血統を残すために闘うその瞬間は、すべてを懸けた生きるか死ぬかの決戦でした。
ヤコブが天使と闘ったその瞬間は、二十一年間に築き上げたすべてを合わせ、主管して余りある信念と心情がぶつかる瞬間でした。ヤコブが直面した試練はどれほど大変なものだったでしょうか。ラバンは十数回も欺き、「娘をやる」と言っては、あれこれと苦しめはしなかったでしょうか。ヤコブは、「お前に私の行く道を遮らせはしない、たとえお前が最高の力をもっていたとしても私を負かすことはできない」と、困難な環境をはね飛ばして勝利の基準を立ててきたのです。
このような起源からサタンを分立したのであり、勝利したという意味で、「イスラエル」という祝福を受けることになったのです。そうしてヤコブ自身、ヤコブの家庭から氏族になったので、その一族は勝利した一族とならなければなりません。祝福を受けた氏族が、みな没落してはならないのです。
◆神様がイスラエル民族を立てた目的
では、神様が祝福した目的はどこにあり、イスラエルを立てた目的は何だったのでしょうか。それは、神様の慰労の対象となる息子を送ったときに、その息子を中心として完全に一つにさせることでした。ヤコブがヤボク川で天使と闘ったのとは反対に、本郷の故国を創建する主人公を迎えて一つになれということでした。
主人公であられるイエス様が山に行けば山へついていき、海へ行けば海へ行く、そのようにイエス様と一つとなれる民族であったならば、イスラエルは苦難の道を行きはしなかったことでしょう。
神様がイスラエルを立てたのは、イスラエルという囲いをつくり、サタン圏の中から慰労の対象である息子を探し出すためであったのですが、彼らにはそれが分からなかったのです。神様が慰労の対象としてその息子を立てたとすると、神様はその息子に「お前は私の息子だ」と言って、何を贈り物に下さるでしょうか。愛の神様は、四千年の間準備した贈り物としてイスラエルを与えようとされたのです。
イエス様は、神様の慰労の対象であり、すべての人間の前では勝利した一人の慰労の中心者です。このようなイエス様は、神様の息子の中の息子であり、骨の中の骨であり、神様の心情に通じる慰労の対象であるので、その勝利した基盤の上に世界を与えたかったのです。それゆえ一つの国、すなわちイスラエルの国が必要だったのです。
四千年の間準備した国を中心として、やっと選ばれた民族であるイスラエルをイエス様が贈り物として受け取っていたならば、どのようになったことでしょうか。イスラエルは責任を果たさなければならないにもかかわらず、メシヤを抜きにして「自分たちだけ良ければいい」と思ったのです。そうなれば、みな滅びていくのです。
神様が「この者は孝子の中の孝子であり、歴史過程で誇るに足る者である」と言うことのできる一人の存在が、地上に必ず現れなければなりません。そう言える一人の息子が現れなければなりません。その息子一人をもつことによって、世界を忘れて喜ぶことができなければなりません。そうしてこそサタン世界を忘れることができるのです。その一人を探し出すことによって感じる喜びが、サタン世界でつづられたすべての事情を忘れてしまうことができるほど大きくなければなりません。
そうでなければ、エデンで堕落することによってもたらされた峠を越えることはできません。すなわち、神様の心に慰労の心情的基準を立てることができないのです。神様は、そのような一人の方を今まで探し求めてこられました。
それゆえ、イスラエル民族は「メシヤが来られる」と言い、今日のキリスト教徒は「主が来られる」と言っているのです。それではその方はどの地に生まれ、メシヤの使命を果たされるのでしょうか。
ここで皆さんは、来られるその方に出会うことよりも、その方を送るために神様が越えてこられた道をまず知らなければなりません。そうしてこそ、その方によって直接重生される人となるのです。言い換えれば、神様はこの地にメシヤ一人を送るために、アダム家庭から今日まで復帰の道をたどってこられたのです。のちの日に神様の絶対的な息子として、愛と慰労の実体的対象として探して立てるために、アダム家庭から今日まで六千年間歩んでこられたということを私たちは知らなければなりません。
◆神様にとって言葉にできないほどの悲しみとなったイエス様の犠牲
それでは、その息子が人間を再び生むための開拓役事をしなければならないのですが、その息子が現れるまで、すなわちイエス様が来られるまでの四千年間は、誰が摂理されたのでしょうか。神様が直接摂理されました。この息子を探し出すために、神様がどれほど悲痛であられたか考えてみてください。怨 讐の国でいう忠臣、孝子、烈女以上の神側の人をつくらなければなりませんでした。
しかも神様が生んで育てるのではなく、サタン世界から奪ってきて、神側のものとしなければならない神様の苦痛は、どれほど大きかったことでしょうか。サタンの息子を連れてきて、天の事情と心情を理解させ、神側の人とするのは容易なことではありません。四千年の期間も、神様にとってはつかの間でした。その息子が来るまで、すなわちベツレヘムでイエス様が誕生するまでは、神様がそれをしなければならなかったのです。
では神様は、堕落したこの地上に何千万回往来されたことでしょうか。ヤコブがハランに行くまで、アブラハムが祭物を捧げるまで、ノアの洪水審判まで、このようにどんどんさかのぼると、アダム家庭のカイン・アベルまで行きます。神様がそこに訪ねてこられ、「アベルよ、天倫の法度が逆になってしまったのでどうかカインを自然屈服させて、元に戻してくれ」と祈られたのです。
神様の切なるその願いは、今日堕落人間が神様を思慕し、神様の心情を知ろうと祈祷するのとは比較になりません。皆さん、何も知らない足りないアベルにすべてをかけて、見つめていらっしゃった神様の切実な姿を一度考えてみてください。
このように切なる希望をもってこられたその方が、サタンに追い出されるしかなかったのですから、全く言葉も出ません。サタンは、「よし」とばかりに踊り、神様は、涙をのんで、来た道を戻らなければならないことになったのです。その時から神様は、後戻りをする悲惨な日々が繰り返されたということを皆さんは知らなければなりません。また、願われた基盤の中心が得られなかったために、神様はこの世界史と多くの民族を巡って、一つの中心を探し求めて降りてこられたのです。
神様は千六百年を経て、アベルの代わりにノアを立てました。次にはアブラハムを立て、モーセを立て、洗礼ヨハネを立て、イエス様を立てました。しかし今までの結果は、完全に失敗した立場に立った神様でした。そういう侮辱と蔑視、怨 讐たちの嘲 弄と、非難と、あざ笑い、それだけではありません。血を流し死ぬことが常だったのですから、それを御覧になる神様の心情を考えてみてください。このように神様は、精誠を尽くして育てた神側の人々が、毎日のように倒れていく惨敗の悲しさを味わってこられました。神様のこのような事情を皆さんは知らなければなりません。
◆神様の恨を解いてさしあげる勝利の息子が再び来なければ
神様には、このような悔しさを抱いて恨を解くという責任を担う一人の人、一つの群れ、一つの民族、一つの国家が必要です。それができる一人の息子が現れ、神様の慰労の主体となると同時に、この恨みを晴らさなければなりません。息子と娘が堕落したために、息子と娘が慰労の対象として復帰されなければなりません。
イエス様は、御自身を新郎たる主であるとして、その新郎の前に新婦となり、神様の愛を受けることのできる真の対象としての女性実体を求めたのですが、み旨の半ばで恨を抱いたまま逝かれました。「わが父よ。もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈るイエス様のこの祈祷には、四千年歴史の恨が込められています。それだけではなく、イエス様がその道を行ったならば、歴史過程で数多くの人が、血の祭壇を越えることになるという事情を知るがゆえに、想像を絶する事情を抱いて訴えたのです。
皆さんはいくら神様に恵みを乞い、幸福の基盤を切に願って祈祷しても、神様が求めてこられた心情的な慰労の対象になれなければ、その祈祷はかなえられません。もしかなったとするならば、それが災いともなり得ます。考えてみてください。神様がイスラエルを祝福したのは、メシヤを迎えるための、囲いをつくるためでした。イスラエルが多くの国の中で栄光の国として選ばれたはずなのに、責任を果たせなかったために、祝福を受けたことがかえって災いとなったのです。
したがって神様は、この地上の男性を代表した慰労の主体を失ったので、その主体に取って代わることのできる心情の対象が、この地上に再び現れなければなりません。アダムは素直に神様の懐に抱かれることができましたが、苦痛と悲しみを抱かせた張本人であるがゆえ、彼は再び来て、神様が過去に傷ついた歴史的な悲しみのすべてを慰労してさしあげ、人間の堕落による恨を神様の心から取り除かなければなりません。そして勝利した息子として、慰労してさしあげる立場まで行かなければならないのです。
神様は、そのような息子としての立場でイエス様が来るまで、数千万回往来しながらその道を切り開いたという事実を知らなければなりません。神様は慰労の主体となり得る息子を立てるために、イスラエル民族を選民として選ばれ、万民を神様のもとへ導いてほしいという四千年間の願いを込めて、イエス様を送ったのです。
ところがイエス様が十字架を負い、頭にいばらの冠をかぶり、ゴルゴタに向かうときの神様の心はいかばかりであったことでしょうか。イエス様がそのように死ぬために来たとするならば、神様は何ゆえに四千年間も準備をされたのでしょうか。イエス様が十字架上で死んだのは、純然とイスラエルの民が責任を果たせなかったためです。これを知らずに、「イエス様は万民を救うために死んだ」と言うのですか。
◆神様を完全に慰労してさしあげるには
神様の有形の実体として立つべき存在が堕落してしまったので、それを回復するために摂理してきたのが今までの歴史でした。もし主が一人で来られ、慰労の主体となられたならば、次にはどうすべきでしょうか。
人類が堕落した動機はアダムにあったのですが、イエス様がアダムに代わって息子の立場に立ったとしても、サタン世界にはまだ多くの人々が残っているのです。したがってアダムが失敗したがゆえに、アダムに代わって責任を完結するために来られるその息子は、世界中のすべての人を救う立場に立たなければなりません。イエス様がただ一人、神様に仕えるというのではいけないのです。ところがイエス様も、神様を慰労する立場に立てなかったのですから、イエス様がこの地上で受けられた悲しみは、どれほど悔しいものだったことでしょうか。
当時、イエス様を中心としてイスラエル民族が一つに団結しなければなりませんでした。そうしてイエス様が海を渡るとすれば共に渡り、山に登るとすれば共に登るというように、ユダヤの国全体がイエス様に従っていたならば、そこから新しい歴史的な運動が繰り広げられたのです。その時のために神様は四千年間準備したのですが、準備した基盤は全部失われてしまいました。
イエス様は歴史に絡みついた恨を解くために泣きました。終わりの日にメシヤが来て、悔しさと怨恨を解いてほしいと天上世界に訴えたその願いをかなえるために、祈祷しなければなりませんでした。先祖たちが流した涙がぬぐわれなかったがゆえ、イエス様は「お父様、彼らの涙をぬぐい取ってください」と祈祷しなければならなかったのです。
ところが、イエス様が個人と民族に代わって祈祷し、悔い改めたにもかかわらず、喜びで迎えるべき民族がすべて反対しました。イエス様が体面も気にせず再び神様に「父よ、お許しください」と切に祈り、彼らの前に立つと、彼らはまた反対したのです。それで、許そうにも許す道が遮られました。そうして許しの代価として、イエス様が命を懸けて歩まれたのが十字架の道でした。イエス様の行かれた道が十字架の道だとは、とんでもないことです。
こんなことも知らずに、イエス様を信じて天国に行くというのですか。天国とはどんな所なのか分かっているのですか。そこは精誠の限りを尽くす所であり、忠誠の限りを尽くす所であり、すべての事情に限りを尽くす所です。それでは、そのような所にはどうやって行かなければならないのでしょうか。血と涙が交差するところから行かなければなりません。アダムが堕落して追い出されたのですが、血と涙を流しながら追い出されたのです。皆さんが追い出された家に帰ろうとするならば、アダム以上になっているべきではないでしょうか。
◆背後で落伍者を収拾し摂理してこられた神様
昔イエス様が亡くなった立場以上の立場をつくっておかなければ、また追い出されることになります。それゆえ神様は、「死亡圏を越えてでも早く行け」とキリスト教を追いやりました。多くの民族を立てるために、一つの民族が犠牲になるのも意に介すことなく追いやったのです。
神様は、終わりの日に帰ってくる息子の恥をぬぐい去り、威信を立てることのできる立場と環境をつくって、神様の息子としてふさわしい姿で現れるその日をひたすら待ちわびてこられました。背後で犠牲になるという悲惨な立場にあるにもかかわらず、キリスト教を追いやって今日のキリスト教へと発展させたのです。このような神様の摂理を、皆さんは知らなければなりません。
それゆえキリスト教の歴史は、殉教の歴史としてつづられてきたのです。悔しさと憤りに満ちた事実を踏まえ、天地間に立つことのできる群れをつくるために、天はそのように役事してきたのです。
今日私たちは「天を慰労しよう」と言っていますが、どのようにして慰労するのでしょうか。皆さんは、この地に慰労の中心存在が現れるまでの歴史的事情がどうであったかを知らなければなりません。一人の人を立てるために、神様は数千万回にわたって人類の背後で敗残兵、落伍兵を収拾して摂理してきたのです。このような神様の心情を皆さんは知らなければなりません。優秀だといわれる人々は、この世と共にのみ込まれていってしまいましたが、神様は、この世の中から落伍して死の道をさまよっていた人々を率いて摂理してきたのです。
そういう人こそ神様の心に通じる同じ事情をもった人々であるがゆえに、そのような人生の落伍者を収拾し、復帰摂理を導いてきた神様の立場は、想像を絶するものです。そればかりか若い人はみな嫌がるので、これまでの歴史上で神様の前に呼ばれた人は、みな五十代以上、六十代以上でした。今はこのように老年層をつかんで摂理しているとしても、今後は壮年層をつかんで摂理すべきなのですが、彼らをつかんで摂理をどう展開しようかと、神様は背後で苦心されてきたのです。そのような事情を抱いて歴史路程を歩んでこられた神様であられます。
老年時代を経て壮年時代へ、壮年時代を経て青年時代へ、青年時代を経て少年時代へ、少年時代を経て乳児時代へ、このようにして皆さんは再び生まれなければならないのです。そうしなければ天国へ行くことができません。
皆さんは純真無垢な子供のごとく、かわいがられなければなりません。ですからイエス様はニコデモに「新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ三・三)とおっしゃいました。新しく生まれなければ、すなわち新生しなければならないと言われたのです。ですから神様は、母親の腹中から救いの役事をしようとされるのです。どれほど途方もない内容でしょうか。
それゆえ年を取った人は、神様に仕えるために涙を流して努力しなければなりません。家庭をもった人は「他の家の息子、娘たちは神様に忠誠を尽くしているのに、どうして我が家にはそのような息子、娘がいないのだろうか!」と、山を見るにつけ川を見るにつけ、恥ずかしさを覚えなければなりません。そのような息子、娘がいないので、せめて自分だけでもあちこちを訪ね歩いて、神様の恨と千年の事情を解いてさしあげようと努力しなければなりません。
今からでも、神様の恨を解いてさしあげることのできる若者を育てなければなりません。霊界に行った数多くの霊人は、地上にいる自分の子孫が、蕩減の因縁をもって天倫の前に立つことを待ちわびています。皆さんは生きている間にその旨を知り、彼らが願う環境ができるように、たとえ責任を果たせなかったとしても、責任を果たすための因縁をつくり、責任をもとうという、せめてもの思いをもって身もだえしなければなりません。
◆慰労する人が立つべき立場
皆さんは、イエス様が十字架に向かって進まれた以上の深刻な心で、イエス様の路程を体 恤することのできる因縁をもたなければ、イエス様と共に楽園へ行くことができません。イエス様は、十字架を背負い怨 讐のために祈祷して初めて楽園に入りました。ところが、信じさえすればいいといって他人をだましていただけの人が、天国に行くことができるでしょうか。
神様を慰労することのできる男性が現れ、女性が現れなければなりません。そして皆さんは、そのような方に必ず会わなければなりません。息子が死んで落胆している人に、息子を三人失った人が涙を流して「あなたの事情がよく分かります」と言うならば、一粒の涙でも慰労になります。それと同じように、慰労しようとするなら、その人以上に悲しい心情をもっていなければなりません。
したがって、この地上に来られる主は、どのような人でなければならないでしょうか。神様が愛で創造した人間が堕落するのを見つめて悲しまれたその心情を体恤し、痛哭できる人でなければなりません。そうでなくては神様の前で、慰労の対象者となることはできないのです。
それゆえイエス様は、そのような事情を抱えて、十字架を負ってさえも彼らの罪を赦してほしいと祈祷したのです。また、そのようなイエス様の心情を知っていらっしゃったがゆえに、祈祷するその心に神様が共にあられたのです。ところで皆さんの信じる基準は、神様を慰労できる基準になっているでしょうか。また、皆さんの心と体の事情を見るときに、果たして「神様の求めている息子であり、娘である」と言うことができるでしょうか。
神様を慰労しなくては、天国に入ることはできません。では、どのようにして神様を慰労するのでしょうか。皆さんが食べたいものを食べ、着たいものを着て、したいことをすべてして、残り物で慰労しますか。とんでもないことです。それはサタンでも嫌がります。思えば思うほど不足な自分であり、千年の事情を自分の胸中に抱いて、この環境をいかにして抜け出そうかと苦闘するにも不足な自分であることを知らなければなりません。
◆家庭理想を完成すべきイエス様
神様の恨を誰が慰労してさしあげるのでしょうか。イエス様を中心として神様を慰労することのできる息子、娘が現れ、一組の夫婦が現れ、一人の忠臣が現れなければなりません。
神様の心情世界には、六千年の事情のもつれたものがあるので、神様が求め出した息子もやはり、そのような息子でなければなりません。それを知った私たちは、「そのような息子になれなかったとしても、そうなろうと苦闘しますので、この泣き叫ぶ声を聞いてください。身もだえるこの姿を御覧ください」と言うことができなければなりません。このような過程をたどることなしに、神様を慰労することは不可能です。
嘆きの歴史、嘆きの心情が解かれていない神様であるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。私たちは、神様の心情とその嘆きの事情を慰労することのできる息子、娘にならなければなりません。そのような息子、娘を懐に抱いたお父様の姿を、おそれ多くも誰が眺めることができるでしょうか。しかしそのような神様を見つめることこそ、人間が願う最高の望みであり、そのような一時を成し遂げることが私たちの目標なのです。
皆さんは、それができるという自信をもってその日を迎えなければなりません。また自分よりも優れた人がいたならば、立てようという思いをもたなければなりません。イスラエルはそのような思いで民族を成し、国を建て、来たるべきメシヤを全世界の中心として侍ることのできる基盤を用意すべきであったのですが、それができなかったために受難の道を行ったのです。
このような神様の事情を解いてさしあげるのが、来たるべき主の責任であるということを皆さんは知らなければなりません。来たるべき主は、その責任を果たすために来られなければならないのです。天と地の前に恨を残した慰労の実体であるアダムとエバが、失敗した人類の真の先祖としての基準を立てるべきでした。しかし、それが成されずして恨が残ったがゆえに、イエス様と聖霊が息子、娘となり、新郎新婦となり、善なる先祖となって恨を解くために、二千年の歴史過程で血と涙の開拓者の使命を負ってきたということを、皆さんは知らなければなりません。
イエス様は、息子、娘の使命を果たすと同時に、夫婦としての使命をも果たすことを望まれました。そして忠臣の立場を願われました。イエス様は、万国を屈服させ、万国をすべて従えて「神様の前にこれを捧げますのでお受け取りください」と言うことができなければなりませんでした。そうして神様に孝の道理を尽くし、忠臣の道理を尽くさなければなりませんでした。
メシヤが担うべき責任とは、家庭的メシヤの基準を築き、世界的な家庭の基準を築き、世界的な忠臣の道理を立てて、新しい天地に天国をつくり、天国の法度を打ち立てることです。これが主の使命です。
ところがまだこの地に、そのような基準を完結することができずにいます。真の父母として、天地を代表して和合した姿で真の新郎新婦の因縁を結び、神様の前に慰労の対象として立つことのできる存在がなかったということです。来たるべき主は、このような基準を立てなければなりません。そうして、その家庭が忠臣の家庭となり、万国がそのあとに従っていくことのできる国家的な忠臣の位置まで築き上げなければならないのです。
家庭から忠臣の道理を立てることのできる基盤を築き、それが万国の中心として立つようになるとき、メシヤの理想がかなえられるのです。このようにメシヤが地上で責任を全うし、この世界を神様の前に捧げたとき、メシヤの使命が終結するのです。
◆苦労の道を甘受しなさい
来たるべきメシヤは、かわいそうな方です。四千年間準備した基盤の上に来られたイエス様に対して、十字架とは何ということでしょうか。神様の息子が十字架を背負うことは、神様の願いでもなく、イエス様の願いでもないということが分かったならば、信じていく道に死の谷間があったとしても、自分がまず行って、その谷間を埋めようという思いをもたなければなりません。今日、統一教会員たちはそのような姿勢になっているでしょうか。神様は今まで損害だらけでした。そのような神様を慰労しましょう! この身を捧げてやってみようというのです。
ところで、堕落した人間の三大希望のうちの一つは何でしょうか。個性復帰完成。すなわち、私が完成しなければならないということです。完成するためには、神様に対する心情的な負債を清算しなければなりません。そのためには、十字架を負わなければならないのです。イスラエルは、犯した罪をぬぐうための祭物の過程を経て初めて許されるのであり、涙や血や汗といった代価を払うことなくして、絶対に贖 罪されることはありません。ですからイエス様も、「休まずに祈りなさい」と言われたのです。
それでは祈祷するとき、楽に手足を広げて寝そべって祈祷しますか。ひざまずき、頭を石にぶつけ、鼻柱が折れても祈祷しなければなりません。安楽な立場で祈るようであっては絶対にいけません。
ですから今も、過ぎた日を振り返ってみて、よく食べてよく遊んだことは、先生の記憶にはありません。どんなにおいしく食べても、食べて腹がいっぱいになれば負債になります。やむを得ず食べるには食べましたが、負債を負うという気持ちで食べたのです。
一番記憶に残っているのは、追われたあげく捕らえられ、拷問を受けて血を吐いたことです。それを思い出し「父よ!」と言えば、神様の心情が大きく揺れ動くのを感じることができますが、食べるだけ食べて楽に過ごした記憶は、必要のないものです。若い時の苦労は、金をやっても買うことができないのです。また、苦労の中でも耐えることができなければなりません。
◆神様を慰労するには同じ事情に置かれなければ
腹が減ってみなければ、腹が減った者の心情が分かりません。同じ立場を経験したことがなければ、その事情は分からないのです。皆さんがメシヤの事情とはどのようなものかを知りたいならば、メシヤと同じ立場に立ってみるべきです。聖霊ならば聖霊の立場に立ってみなければなりません。また、神様ならば神様の立場に立ってみなければ、その事情は分からないのです。それでは、どうすればそのような立場に立つことができるのでしょうか。その方法を教えてくれるのが統一教会の原理です。
皆さんは神様を慰労しなければなりません。神様を慰労もせず、人間が神様を裏切った負債を清算することなくして、どうして天国に行くことができるでしょうか。罪を清算せずに天国へ行こうというのなら、盗賊と同じです。
イエス様が追われ、追い詰められたように、皆さんも追われに追われてみなさいというのです。悪い人に利用されたり、国のために、民族のために、世界のために、公的な基準で追われてみなさいというのです。そのように追われても、悲しんではならないのです。復帰の道はこのように行くものなのだと感じられるはずです。私が涙を流すとき、神様も共に涙され、私が悲しむときは神様も共に悲しむというような生活をしてきたかどうかを考えて、そのような生活ができていなかったとすれば、悔い改めなければなりません。
皆さんが統一教会に来て原理を学んだ目的は、神様を慰労するためなのです。では神様をどのように慰労するというのでしょうか。皆さんは、この民族の生命に責任をもって、死を覚悟してでも行くことができなければなりません。夜も昼も、この民族のために祈らなければなりません。国を生かす仕事や善の道を開拓するにおいて、立ちはだかる者たちを払いのけるために、あらん限りの精誠を尽くさなければなりません。さらに統一教会員は、世界に責任をもたなければなりません。イエス様が責任を果たすことができなかったので、統一教会が責任を果たそうというのです。
そのような中で統一教会は、この民族がもっていない神様の因縁と心情を、また、世界人類が考えることもなかった天の因縁を、この地上に打ち立てなければなりません。そうなれば、皆さんの成すこと自体が神様を慰労することになるのです。
◆終わりの日にある三つの審判
神様のみ言によって造られた人間は、そのみ言の結実となることができませんでした。したがって皆さんは、「原理の法度によって完成した人間はこうあるべきだ」という基準を立てなければなりません。み言の結実としての実体となるには、サタンと闘って勝ち、神様と愛の関係を結ばなければなりません。
それゆえ終わり日には、真理の審判、心情の審判がなされるのです。皆さんが神様を慰労する、慰労の実体となるためには、その審判の条件をすべて備えていなければなりません。イエス様がこの地に来られて「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)と語られたのは何を意味するのでしょうか。正に真理のイエス様であり、生命のイエス様だということです。
今まで世界で、二十世紀の文化世界を創造し先進国であると誇っている国家には、哲学や思想において何一つ見習うものはありません。ですからそれらの国は、神様の真理による革命がなされるべき圏内にあるのです。
今日の社会を見るとき、神様の真理のみ言が日常生活と連結し、日常生活において皆さんが望んでいたその真理をもって生活しているでしょうか。皆さんは真理と和することのできる生活環境と、真理と和することのできない生活環境を分別できなければなりません。
神様が「おい、アダム!」と呼んだ時、いちじくの木の後ろで息を殺して「はい」とひそかに答えてはなりません。「アダム!」と呼んだ時、大きい声で「はい!」と答えるべきだったのです。アダムがそうしたなら、どれほど良かったでしょうか。ですから皆さんは、「はい、はい!」と力強く答えられなければなりません。
その次には、人格の審判です。人間の堕落によって、まずみ言が侵犯されました。サタンはエデンの園で、「やあ! 善悪の実を取って食べたらどれほど良いことか。取って食べると神様のように目が開け、神様のような立場に立つので、神様はねたんで取って食べるなと言っているのだ」と人間を誘惑しました。そうしてみ言が侵犯されました。
み言が侵犯されれば、体も侵犯されます。アダムとエバは果物を取って食べたのではなく、体が侵犯されたのであり、実体が侵犯されたのです。善に侵犯されたのではなく、悪に侵犯されました。悪が侵犯しようとするならば、逃げるべきでした。ところがサタンに侵犯され、体がサタンの手に渡りました。それゆえ、皆さんの心と体が指向するところが違います。したがって人格を完成させるには、心と体が一つにならなければならないのです。
◆慰労の対象となるには実績をもたねば
皆さんの心のままに体を動かせば、善なる人間となります。そうして悪は受け入れることができないと固く誓って、堂々と審判できる権限をもたねばなりません。アダムも、そのような立場に立つべきした。そもそも天使長は人間の僕なので、問題にはなりません。したがって皆さんは、僕であるサタンを支配しなければなりません。
私たち人間は、サタンすなわち堕落した天使長によって蹂 躙されたがゆえに、皆さんは蹂躙されたものを蹂躙されていない状態に復帰しなければなりません。たとえ皆さんがサタン世界の悪の巣窟に入れられたとしても、「私は悪の侵犯を受けない。私が悪を屈服させるのであって、悪が私の生命を奪い去ることはできない」と言えなければなりません。「虎にかまれても気を確かにもっていれば助かる」という言葉があるように、皆さんはサタンに侵犯された動機を覚えておいてしっかりとしなければなりません。
神様も打つことがでず、サタンも打つことができず、人間の行く道を永遠に保障せざるを得ない世界、審判の公法とは関係のない心情世界、人間はこのような心情世界をつくることができずに堕落しました。堕落によって三つのものを失いました。み言を失い、実体を失い、心情を失ったのです。
神様の愛の因縁で造られた息子としてのアダムが、神様を慰労する対象としての立場を失ったので、皆さんは世界的にこれを蕩減しなければなりません。その責任を負って来られる方がメシヤであるため、皆さんはメシヤに取って代わる立場に立たなければなりません。皆さんがメシヤと同じ立場で、同じ生活感情、同じ事情で一丸となることのできる人にならずしては、神様を慰労することができません。そういう実となってこそ、神様を慰労することができるのです。
ところで、神様を慰労しながらも、実績がなければなりません。私たちはみな、神様の前に心情的に負債を負いました。私たちが負うべき苦痛の十字架、私たちが受けるべきすべての苦痛な立場を、神様が私たちの代わりに受けてこられました。人間が行くべき道を築き上げ、蕩減の峠を越える方法を教え、準備してこられた神様に、皆さんはどうやって報いますか。
ですから私たちが最後に残すべきことは、神様の息子、娘として真の善なる先祖となり、この地に天国の法度を立てることのできる忠臣の道理を立てることなのです。そうしてその使命を果たして神様の前に進み出るとき、私たち人間は天を慰労する対象となることができるのです。
25. 私たちの誇り
一九六八年七月七日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十巻』
きょうは皆さんに「私たちの誇り」という題目でお話しします。
今日、この地上には数多くの民族と数多くの国家があります。どの民族を中心として見ても、民族自体を誇りたいのが、その民族の要求でしょう。またある国を治める主権者がいるならば、その国家の威勢を万国にとどろかす、誇らしい主権者になりたいのが願いでしょう。
一つの国家もそうですが、大きくは世界を見てもそうですし、小さくは皆さん個人もそうだというのです。自分自身を誇りたい思いで、自らの環境を動かし、国家や世界と因縁を結びたいのが人情の常です。
このように考えてみるとき、人間の本心がそうであり、人間の生活環境がそうであり、人類歴史の流れも、またそういう方向に流れるということを否認できないとするなら、このような事情の因縁と動機はどこから出発したのでしょうか。
もし神様がいらっしゃって天地や万物を創造なさったとするなら、神様御自身がそういう立場にあるために、神様によって因縁の結ばれたあらゆる存在は、自分自らを高めようとする心、自分自らを現そうとする心をもつしかないというのです。ですからこれは、創造主がそうであるため、という結論を下さざるを得ません。
◆万物を造られた目的
神様も御自身を誇りたいのです。はるか有史以前の時代に戻って、創造の世界を敬慕なさった創造主が、六日間で創造なさった創造物を見つめ、喜ばれたその時代を回想してみるとき、神様も造ったあらゆる万物を通して御自身を誇りたい心があったがゆえに、万物を創造なさったことは間違いありません。ですから造られたいかなる存在についても、そういう事情が絡んでいるというのです。
皆さんが眺めるこの被造世界、あるいはこの自然には、多様な被造物が存在しています。存在する万象は、どんな過程を経て創造されたのでしょうか。それは、創造主の真心が込められた心情の過程を通して造られたのです。どんなに微小な存在でも、神様の愛の心情を通じて、神様が願われ誇りたい心をもって造られたに違いありません。
このような点から見ると、小さくは極めて微小な存在から、大きくは私たちが推し量れない広大な宇宙に至るまで、存在するあらゆる万物は神様が誇りたかったし、誇れる存在として造られたことを、皆さんは知らなければなりません。
皆さんは今まで、この地上に残った被造万物を中心として生きてきました。つまり、好きでも嫌いでも万物を利用して、万物を用いてきたことは事実です。では、皆さんが日常生活で使用しているすべてのものが、神様が愛して誇るための目的のもとで造られたとするなら、果たしてそれを理解し、その価値のとおりに皆さんが接してあげたのかというのです。皆さんの本心に問い返してみてください。「そうです」と言える人が、果たしてどれくらいいるかということが問題です。
朝眠りから目覚め、起きて外を見つめると、光明なる朝の日ざしが皆さんを喜ばせてくれます。では、その太陽の光が意味することとは何でしょうか。つまり、自然が皆さんに要求していることとは何でしょうか。皆さんは、その光を神様の栄光であり、神様の驚くべき創造の恵みと称賛する思いで、接してあげたのかというのです。そうでない生活をしたとするなら、皆さんはそういう内容で造られた万物の前に恥ずかしい姿になるということを知らなければなりません。
◆神様の誇りとなるべき人間
世の中のあらゆる物は小さな物から大きい物に至るまで、神様の誇りの一面を表すために造られたに違いありません。神様が誇るために万物を造られたがゆえに、造られた万物をそのように認めて誇ることのできる相対的な存在がなければなりませんでした。
天使世界を造るようになった原因もここにあるのであり、人類始祖のアダムとエバ、いわゆる万物の主人公である人間を造った原因もここにあるというのです。
アダムとエバを造られる時、神様は御自身が誇ろうとなさる心をもって造った万物を、御自身の代わりに誇って喜べる姿を考えながら造ったという事実を、私たちは知らなければなりません。また、神様が中心存在として立てようとしていたアダムとエバが、全宇宙の前に中心存在として立つようになる日、神様はこのアダムとエバをどれほど誇りたいことでしょうか。被造万物全体を動員して誇りたい一日を願っていらっしゃったのです。
そのように貴く価値ある存在として造られたのが人間でした。神様は、人間がそのように神様の栄光を称賛する立場に立つことを喜ばれ、「万有の前に創造の偉業を称賛せよ」とじきじきに宣布できる一日を人間が探し求めてくれることを願っていたにもかかわらず、人間はそのような立場に立つことができなかったのです。これが恨であったのです。歴史過程において、ある一時期、この世界が、あるいは国家がそのような立場に立ち、個人がそのような立場に立ったことがありましたか。立ったことはなかったのです。
神様の誇りたいその内容とは何らの関係もない立場で、神様が悲しむ立場に立っているのが今日この地上に生きている人間であるなら、神様の創造本然の基準とかち合い、対立する立場にあるということを否定できません。
ところが、皆さんが今まで生きていくにおいて「あ! 私はこれこれの何をもっていて、これこれの社会的威信をもっていて、国家の前にもこれくらいなら愛国の人である」と、自らを誇ることに不足がないと考える人がいるかもしれません。しかし、その誇りは、誰を中心として誇るのでしょうか。まず始めに、神様を中心として誇らなければならないのです。
◆誇ることができなくなった人間
人間は、まず神様を中心として誇るべき存在です。そのように誇ることのできる立場を取って、「私は神様の代わりとなって、全宇宙の主人の資格を備えた」と、主人の行状を備えて立ち上がるべきでした。それが、人間が生まれた本来の目的です。それにもかかわらず、神様は、人間をそのような立場に立てて誇ることができる一日をもつことができなかったのです。
今日、皆さんが社会生活をするにおいて、自分自身だけを中心として誇るその基準は、どこから始まったのでしょうか。それは国家から始まったのでもなく、世界から始まったのでもありません。それは正に自分から始まったのです。このように神様を中心として誇るべき立場を離れて、自分を中心として誇る立場になったがゆえに、天倫に符合しない自らであることをまず知らなければなりません。
今日、堕落した子孫の私たちは、神様が誇ることのできる立場にあるのでしょうか。そうではないというのです。では、歴史をさかのぼって、人類始祖のアダムとエバはそのような立場に立ちましたか。彼らもやはりそうではなかったのです。人類始祖が、神様が創造なさった全体目的のとおりに全宇宙を総合した結実の存在として、全宇宙を抱いて神様が誇ることのできる実体として立てられていたなら、人類はこういう悲惨な歴史をつづってこなかったというのです。
人類始祖のアダムとエバは、堕落によって神様の前に誇れる姿で現れたのではなく、むしろ悲しみの姿で現れるようになり、顔を上げて誇ることのできる立場ではなく、頭を下げて恥ずかしさを感じざるを得ない立場になりました。そこから人類歴史が出発したという事実を、皆さんは知らなければなりません。
このような歴史の起源をもって歩んできた人間であったため、天倫の法度において考えてみるとき、そのような人間の誇りというものは絶対に許すことができないというのです。
ですから、修道の道を行く人は、「誇るな、驕 慢になるな、自らを主張するな」という言葉が出てくるのです。
◆神様が誇ることのできる人になろう
神様は、堕落した人間が誇ることを容認しませんでした。なぜなら、本来人間は神様の誇り得る存在として造られたために、そこに歩調を合わせて自らの権威を誇るべきでした。ところが人間は、そのような天の道に背いて、神様を悲しみの立場に追い込み自らの立場を誇ろうとしたのです。これが堕落の起源です。
このように蒔かれた罪悪の種がそのまま刈り取られてはならないために、神様は誇る人間を打ってしまうのです。こういう立場にあるのが今までの私たちの先祖であり、現世にとどまっている人類なのです。ですから誇るなというのです。
では、人類が望むべきこととは何でしょうか。自分個人を主張し、誇ることが望みではなく、家門や氏族を主張して誇ることが望みでもありません。ある国を建てて誇ることが、その国の民の望みではなく、世界を一つの平和の王国として誇ることが人類の望みでもありません。
この世界のすべてを投げ打って失っても、私たちがまずしなければならないことは、神様が本来望んでいたその場で、全宇宙に向けて誇り得る神様の位置を取り戻すことです。これが人類の希望の中の希望であるということを知らなければなりません。そういう神様に侍ることが、堕落した人間の最後の目的であることを私たちは知らなければなりません。
個人がそのような立場で神様の栄光をたたえて、家庭、氏族、民族、国家、世界が神様の栄光を誇ることができるのでしょうか。家庭、氏族、民族、国家、世界が一致した立場で、全世界の人類がすべて神様のその栄光を誇り得る一日を迎えることができなければ、「神様が人間を造った本来の基準、誇ることができるその基準を取り戻した」とは言えないのです。それで、神様はそういう一日を探し求めるために、今まで堕落した人間に対する救いの摂理をしてこられたのです。
◆神様一人で成し遂げることのできないみ旨
救いの摂理は、復帰摂理です。それでは復帰摂理とは何でしょうか。ある事件が起きる前の基準に再び回復することをいいます。では、創世前エデンの園であらゆる万物を造ったのち、それらを見つめながら喜んで誇ることのできた父の立場、言い換えれば、創造主の立場をどのように回復させるのでしょうか。
元来すべての万物は、人間を標準として造りました。すべての万物を人間に帰結させるために創造したというのです。このように創造した人間を最初の出発とともに、最後の誇りとして立てようとしていたのが神様の望みでした。ところが、そのような立場に人類始祖が立つことができず、人類歴史は悲しみで出発してしまったので、その過程で神様の前に恥ずかしく、悲しい事実が現れるようになったのです。これが人類歴史の悲惨さであり、嘆きの起源になったという事実を皆さんは知らなければなりません。
では、人間がもったこのような出発の起源を、どのようにして除去させるのでしょうか。これは神様だけではできないのです。こういう出発が人間によって始まったがゆえに、このことを成就させ、この過程から抜け出すためには、神様が中心になるのでなく、人が中心にならなければならないのです。
神様のみ旨は、神様お一人で成し遂げることはできません。神様が人間を造る前には、人間を創造し人間を中心としてみ旨を成し遂げられる希望圏がありましたが、創造後には、人間が堕落したがゆえに、人間を通して再び収拾しなければならないのです。神様の思いどおりにできないというのです。前後が逆になっていて、すべての上下関係がひっくり返っているので、これを回復するためには神様だけではできないのです。そこには必ず人間が介在しなければなりません。
この途方もない問題は、人間が犯した罪によってもたらされたものです。これを元どおりに回復するためには、この途方もない罪状を打開しなければなりません。そうして解放の根拠地を準備することなくしては、神様の本来願った誇りの世界、誇りの人類、誇りの被造世界を成し遂げることができないのです。これは創造原則から考えると、不回避的な事実であることを私たちは知っています。
ですから、このように堕落した立場に落ちた人間が、もう一度本然の神様を中心として誇り得る立場を求めていこうとするなら、どのようにすべきかということが問題です。このために私たちは、神様が愛して誇ろうとなさっていたその万物を、また造られたそのすべての万物を見つめていらっしゃった父の心を知らなければなりません。その万物を眺められた父の心が喜んだならば、その喜ぶ心を私たちが求めなければなりません。そうでなければ、私たちが失ったこの誇りの権限を、またその上に立てるべきすべての万物世界を、復帰できないというのです。
◆本然の愛と心情を回復しよう
すべての万物は愛の存在であり、喜びの存在として造られました。神様がその造られた万物を見て、「はなはだ良」い(創世記一・三一)と言われたように、皆さんも被造世界を見つめるとき、大変良いと感じ得る心を呼び起こさなければなりません。神様が万物を造られる当時の心情世界を分からなければならないというのです。
したがって、小さな一握りの草を見ても、そこに神様の精誠が込められているということを皆さんは知らなければなりません。すなわち、小さいものでも大きいものでもすべて、神様が宇宙的な価値を中心として誇りたくて造ったということを考えなければなりません。したがって、皆さんは人間本然の価値を追求していきながら、神様が造られたすべての万物に対して、その価値を評価することができる、神様の代わりとなる立場を求めていかなければならないのです。
私たちがこういう立場を求めていくためには、神秘境を探求せざるを得ません。人間は堕落したので分からないのですが、神様が万物に対して主人として喜びを表せば、その喜びを万物が分からないでしょうか。そのようなことはありません。神様が喜べば、万物も喜ぶことができるようになっているのです。
皆さんは堕落圏内にいるので、肉的五官を通して感知できる刺激以外には感じることができません。けれども、神様はすべての万物を造られた主人ですから、相対的立場にある本性の万物に対して喜びを表せば、その万物が喜びに気づくようになっているのです。すべて感じて気づくようになっているというのです。それで私たちは、そのような本然の愛、本然の心情を求めなければなりません。
人間の肉身は堕落しましたが、人間の心性には神様と関係している基準、出発の基準が残っているために、この出発の基準を立てて神様の共鳴体にならなければなりません。そうして共鳴できた心情を通して、神様が万物を造って喜ばれた基準を回復しなければならないのです。
ローマ人への手紙第八章を見ると、パウロは「万物が嘆いている」と言いました。パウロは漠然としたある観念をもって、そのような言葉を語ったのではありません。究極的な立場を探求して入っていくと、万物の嘆く声が、この世界のどんな声よりももっと大きく聞こえたのです。そのような内容があったのです。
◆堕落人間が求めていくべき究極の立場
このように、本来もっている本然の心性を通じて神様と一致する立場に入っていき、この宇宙万象の世界を見つめると、被造物はもちろん、今日この社会すべてが嘆いていることを感じることができます。したがって、神様が喜ばれた本来のその基準で万物と一致し、人間の価値を回復する立場が、皆さんが求めていかなければならない究極的な立場だということを知らなければなりません。
それで宗教人たちは、このような神秘的な境地を求めていくために、自らのすべての肉情を制圧し、現実的なすべての条件を放棄してまでも、深い心の世界をたどっていくために山中で修道するのです。このすべてが、そういう意義と基準を求めるための一つの方便にすぎないというのです。
ですから、皆さんの心が神様のもとに接近して入っていけば入っていくほど、自然に対しても、誰よりも近い立場に立つことができるのです。その自然は皆さんと関係のない立場にあるのではありません。自然は人間のために、すなわち皆さんのために存在するという事実を切実に感じなければなりません。神様が本来人間の完成のために万物を造ってくださったがゆえに、人間はそれを悟って万有の前に誇り得る姿で出現しなければなりません。そうでなければ、神様の前に誇ることができ、その目的の世界を相続できる資格者として立つことができません。修道の世界の究極的な目的が、正にここにあるのです。
神様は天地万物を創造なさるとき、誇れる存在物として創造されました。ですから、私たちは神様の心情を伴った立場に立ち、この被造世界に対して神様が創造なさった喜びを体得しなければなりません。そして万物について、「私のために造られた誇れる存在物である」と称賛できる心さえも体 恤しなければなりません。そうでなくては、本性の心の礎の上に連結できる、神様が求めて誇りたかった息子の絆を求めることができないのです。
皆さんは、こういう基準を求めていかなければなりません。今までそのような立場に立って誇ることのできる人が、この地上にいたでしょうか。個人もいなかったし、家庭、氏族、民族、国家、世界もありませんでした。今まで人類歴史で、そのようにできる人が一人もいなかったのです。
堕落人間として、神様が栄光のみ座で誇ることのできる価値を体得できずに倒れた子孫として、そのような理想のみ座に出られるのでしょうか。出られません。絶対に出ることができません。ですから、神様の誇る心情を通して万有の価値を称賛できる、その基準に立った人も現れることができないのです。それは、人間が堕落の子孫であるためです。
◆神様の誇りになり得ないイスラエル
神様は、全宇宙万象を代表して誇れる一人が必要でした。それで神様の心情に一致し、全被造世界に対する神様の相続権を授かることのできる真の理想の姿として、この地球上に一人の人間が現れなければならないのです。
堕落した人間は、先祖が誇る心情を体得できないまま蒔き、罪悪の実として刈り取られた存在であるため、真の理想のみ座に出ることができません。大豆を植えれば大豆が出て、小豆を植えれば小豆が出るのです。同様に人類始祖が罪の種を蒔いたがゆえに、堕落した存在としてしか刈り取ることができないのです。このような人生であるならば、神様の誇り得る座には到底出ることなどできません。
ですから、神様はこのような人間の前に、神様の心情世界を連結し得る仲保者として、一人の人物をこの地上に送らなければならないのです。神様はそのために、選民思想を中心としてイスラエル民族を選びました。
しかし、選ばれただけでは誇りの基準に立つことはできません。その民族は責任を全うしなければならないのです。しかし、イスラエル民族は責任を全うできず、選民として選ばれた価値を万世に誇り得る民族となることができませんでした。神様の摂理に合わせて民族を指導しなければならない責任者たちも、時代時代を経てきながらも、神様のみ旨の前にいつも相反する立場に立ちました。それで、イスラエル国家はこのような相反する歴史を経てきながら、イスラエルの建国理念を喪失してしまいました。
神様が四千年間準備なさることにより、ユダヤ民族が選民として選ばれましたが、その民族は神様の国家を立てて誇るべき責任を全うすることができませんでした。個人もそうであり、家庭、氏族、民族、国家もそうでした。
神様は、個人、家庭、氏族、民族の基準を立てて国家的な誇りの基準に連結させる救いの摂理のために、四千年間準備してきました。国家的な基準で万民の前に誇ることのできるイスラエル圏を収拾し、その上に神様のみ旨を立てるために、この地に主人として送られた方がメシヤです。ところが、国家的なメシヤとして登場すべきイエス様が、十字架で亡くなったのちは、どのようになったのでしょうか。イエス様は、個人的メシヤに成り下がりました。
もし、その時イエス様が死なずに、イエス様とイスラエル民族が神様の誇り得る建国理念を中心として一致したとすれば、そこから世界は救われたのです。しかし、国家的な救い主の権限をもつべきイエス様が国家から追い込まれ、追われることによって、民族的メシヤの立場に落ちるようになったのです。民族的にも追い出されたがゆえに、氏族的メシヤの立場に落ちて出るようになったのです。また、氏族的な救い主の立場でも追われたがゆえに、家庭的メシヤの立場に落ち、家庭的メシヤの立場でも追われたがゆえに、三弟子からも追われたのです。
ですから、この地上にメシヤとして立つことのできる踏み台が一つもなかったのです。したがって、神様がこの地を中心として誇ることのできる踏み台もなくなり、イスラエル民族を立てて誇ろうとした神様の願いもまた、成し遂げることができなくなったのです。
悲惨に追い込まれて追われたイエス様は、最後の決着をつけるために、ゲッセマネの丘で悲痛な祈祷をせざるを得ませんでした。こういうイエス様であるのに、十字架の血で私たちを救おうとなさるのでしょうか。とんでもありません。そういう悲惨な歴史があったということを、皆さんは考えなければなりません。
◆永遠なる誇りの圏内で生きるべき人間
私たちは誇らなければなりません。ところが、誇り得る要件をもつことができませんでした。神様が全天宙の前に人間を立て、誇りたかったその誇りは、最後の誇りです。人間がこのような誇りから出発すべきであったにもかかわらず、堕落することによって神様はその誇りを御覧になることができませんでした。
その誇りは、アルファでありオメガであり、始めであり終わりのようなものです。ところが、その誇りを永遠無窮に、永遠に途絶えない誇りの圏内で生きるべき人間はどこへ行ったのでしょうか。堕落の報いによってばらばらになり、すべて崩れていきました。
ですから私たちは、必ず行かなければなりません。これからは堕落した人間として、個人的な救い主の使命をなせる民族的な起源をもった個人にならなければなりません。ですから、歴史過程を通して先祖が家庭的メシヤの基準を立てるために、神様の前に祭物の立場を通して立ったその位置を、私が求めていかなければなりません。
そのようにしてイスラエルは滅びましたが、滅びる前までの、祝福されて生きていた基準を求め、その基台を私たちのものとして相続しなければなりません。それゆえ、統一教会も今まで新約、旧約を通じたイスラエルの歴史の基盤を中心として歩んできたのです。
皆さんは誇れる自らとならなければなりません。個人を万民の前に誇ることができなければなりません。神様がアダムとエバを造るとき、こういう本性の基準を通して、どんなに小さな価値までも賦与して誇ろうとされました。今皆さんにそのような価値がありますか。
そのようになれば、皆さんも万物と神秘的な話ができるでしょう。私たちが木や石とも話すことができるのです。昔、聖フランシスは鳥やおおかみにも説教をしたという寓話がありますが、本来人間はそのようなことができるのです。
本然の価値をもった人間は、存在する万有の生命線を動かし、万物が刺激を受ければその存在の前に、また苦労をして資格を備え通じることができるのです。
◆誇ることのできる立場
私たちは誇ろうとしても、誇ることのできるものは何もないのです。皆さんが誇ることのできる立場はどこにありますか。家庭を挙げて誇れるならば、その家庭の構成はどのようになっていて、氏族を挙げて世界、万象の前に誇れるならば、その氏族はどのような氏族でしょうか。また、そういう民族、国家、世界はどこにあるかというのです。これを神様は、心から願っていたというのです。
ですから、神様のその心に通じて、個人、家庭、氏族、民族、国家全体の価値を誇ることのできる権限をもって、この地上に再び来られる一人の方がいなければなりません。その方が、正にメシヤです。
メシヤは皆さんの今までの生き方を、ただそのままもって来られるのではありません。皆さんが良いという生き方をすべて無視するのです。修道の道はそのように行かなければならないのです。ですから、その道は気楽に歩んでいく道ではなく、死を覚悟して行かなければならない道なのです。
本来神様は人間を中心として誇りたいと思って、万物を造ってくださったのです。ですから、万物をまず愛することのできる立場に立たなければ、人間は誇ることのできる立場に立ち得ないのです。人間は、いまだに誇れるその境界線を越えることができません。神様は心から誇ろうとしましたが、誇れる実体の立場に人間が立ち得なかったのです。
◆誇れる特権の基準
ところで、堕落した人間は、全被造万物を治める権限をもった万物の霊長でしょうか。皆さんは万物の霊長ですか。
それでは、個人として誇れる特権の基準はどこにあり、家庭として万有の存在世界に神様が誇りたい特権の基準はどこにありますか。氏族の特権の基準はどこにありますか。また、民族の特権の基準や国家、世界の特権の基準はどこにありますか。また、宇宙を総合できる特権の基準はどこにありますか。
人間がこのようなことをすべて失ってしまったがゆえに、再び求めなければならないのです。かといって、堕落した人間社会で理想世界を求めるために、自由と平和を求めても無駄だというのです。複雑になるだけです。
ですから、罪悪と因縁のない立場で勝利し得る盾をもって、この地上に一人の人が来なければなりません。すなわち橋の役割、仲保者の役割のできる一人の人が必要です。皆さんは堕落した子孫として罪悪の鎖につながれています。皆さんがどんなに力が強いとしても、その鎖を切ることはできません。それで、切ることのできる人が来て、皆さんを解放してあげなければなりません。
皆さんは、どのように生まれたのか知っていますか。どこから来て、どこに向かっているのか知っていますか。刑務所に入っていた人も、出てくるときには、行き先を定めて出てきます。自分の家を慕い求めるというのです。皆さんには行く所がありますか。
神様の本性の基準を中心として見たならば、個人の価値は万有の前に誇れる立場として立てられなければならなかったのです。息子、娘もそのような立場に立てられなければならないし、家庭もそのような立場に立てられたのちに、家族同士で愛し合わなければなりません。ところが、皆さんはそのような立場で愛し合いましたか。
ですから、そのような個人、家庭、氏族、民族、国家をひっくるめて、大審判をしなければなりません。滅びる時となったのです。それらすべてが、神様が誇り得る立場に立てないがゆえに、大審判をするのです。
皆さん、考えてみてください。皆さんも誇りたいはずです。若い女の子たちも、良いものがあれば自慢したがります。しかし、そんなに自慢してどうするというのでしょうか。自分を中心として誇り、家庭を中心として誇ってみても意味がないのです。他人の目を中心として誇っていては意味がないというのです。
◆誇ってみたい神様
先生は、乞食が生きている所にも何度も行ってみました。乞食は昼に御飯を恵んでもらってきますが、そこにはいろいろな人がいます。お互いに食べ物を恵んでもらってきて、「何を恵んでもらったんだ?」と聞くと、「おれはお祝いしている家に行って、豚肉をもらってきた」と言いながら踊る人もいます。そのような環境では、それがまた自慢となるのです。数十人の人が御飯をもらいに行ってきて、一人でも少しばかり基準が上がれば、みんながそのことをもって騒ぎまくるのです。
皆さんも誇ってみたいでしょう。先生も誇ってみたいのですが、誇れば世界がびっくりして腰を抜かしてしまいますから、誇らないでじっとしているのです。統一教会がどうだとありとあらゆる悪口を言われても、じっとしていました。のどが痛くなり、おなかがすいたらそのうちやめるだろうと、世の中の人々はそんなふうに考えているのです。
皆さんも誇ってみたいし、先生も誇ってみたいのです。ところで、神様はどうでしょうか。神様も誇りたいというのです。それで誰を引っ張ってきて誇るのでしょうか。統一教会の信者を引っ張ってきて誇れるなら、どれほど良いでしょう。そうなったら、神様も喜ばれることでしょう。このように神様も誇りたいのですが、そこには誇るに値する人がいなければならないのです。
神様が誇りたい人とは、どのような人でしょうか。その人は天下に一人しかいない、神様と完全に心情と事情を通じることのできる立場に立った人だというのです。皆さんは、そのようにできる息子、娘になりましたか。このように、立派な息子の標準を立てておいた神様がいらっしゃるということを考えなければなりません。
神様も誇りたいのです。それで神様は歴史上の聖人、賢哲あるいは偉人を立て、人類を収拾させてから誇ろうとなさったのです。しかし、彼らの立てた条件で、一時代、一世界、一つの歴史の過程を通して誇りはしましたが、その人々が天地を通して誇ることのできる価値をもてなかったがゆえに、その場で何もかも倒れていったのです。
昔、ゲッセマネの園で悲惨に祈って、ゴルゴタの丘で死んでいったイエス様は、どれほどわびしく悲しい思いをされたことでしょうか。命懸けで信じると誓った十二弟子はどこに行き、愛していた三弟子はどこに行ったのでしょうか。イエス様が死ぬ前に、「先駆けて死にます」と誓った弟子たちはみんな逃げてしまい、女性たちだけが道端にひざまずいて泣いているのを御覧になったとき、イエス様の気持ちはどうだったのでしょうか。
その時、イエス様は心の底で「国を失い、世界を失ったお前たちが、今さら泣いてどうするというのか。失う前に努力すべきではないか……」と言われたでしょう。それで、イエス様は泣きながらついてくる女性たちに「わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい」(ルカ二三・二八)とおっしゃったのです。これは本当に驚くほど意味の深い言葉です。
◆神様が誇りたい人
皆さんは、世界人類がすべて二度も、三度も、四度も見物しようと行ったり来たりしたくなるほどに誇らなければなりません。それが三代にわたって続かなければなりません。そうでなければ、神様のものになることはできません。それでアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と、このように三代を経たのであり、ヤコブも七年ずつの三段階を経ました。またアダム時代、イエス時代、再臨主時代の三段階を経るのです。
今は誇る時となりました。誇ろうとするならば、何から誇らなければならないでしょうか。父母が誇らしいことをしたなら、その父母から誇らなければなりません。それから息子や娘が、その次はその孫が来て誇ることができれば、心は浮かれるのです。このように三代を経て誇らなければなりません。そうでなくては、神様のもとへ行くことはできません。
皆さんは、家庭を中心として氏族が、氏族を中心として民族が加担して誇れる基準になるまで行かなければなりません。皆さんは、家庭を中心として行くべき道が残っています。皆さんはその道を行き、神様が立ててくださった民族を経たそののちに、国家の国民になるのです。
神様の願いは何でしょうか。歴史的なすべての聖人、賢哲に、この時代に生きている人々に、その価値を誇ることのできる一人の人を求めるのです。ですから歴史を通じて誇り、この時代の五十億の人類の前に誇り、それだけでなく今後生まれてくる数多くの後世の前に千年、万年も、歩んだ道を誇ることのできる主人公になりなさいというのです。
過去、現在、未来を総合した立場で、神様を感謝の涙で泣かせることができ、イエス様を感謝の涙で泣かせることができ、聖霊を感謝の涙で泣かせることのできる人となって「お前でなかったら、どうなるところだったか」と言われるように、息子、娘としての使命を果たさなければなりません。そうしてこそ初めて神様の前に誇れる存在として立ち得、全宇宙の前に誇れる存在として立てる価値をもち得ることを、皆さんは知らなければなりません。
それでは、皆さんはそのような立場に立って神様に対して、「お父さん」と呼んでみたことがありますか。父がいらっしゃるのかいらっしゃらないのか、義理の父なのか実の父なのかも分からなかったというのです。今はそのような内容を知っている立場で父を呼び、ひとえにその父の胸に抱かれた事情を胸に秘め、歩んでいかなければなりません。そうして爆発する悔しさが恨めしさと交差する立場のその恨を解決するために、死の道も進んでいくという信念をもって、イエス様以上の立場に立たなければなりません。
皆さんは、これから神様の勝利の基盤を築かなければなりません。そうなるまでは恥ずかしくてうなだれ、ひざまずき号泣しなければなりません。自分たちは、神様が顔を上げろと命令されるまで顔を上げられない、罪悪の先祖の血を受けて生まれた子孫であることを知らなければなりません。
皆さんはそのような自分を収拾し、個人的勝利の基盤を打ち立てることによって、万有と人類の慕い求める自らとなり、家庭を立てて収拾し、家庭的勝利の基盤を立てることによって、神様に誇れる家庭にならなければなりません。そうしてこの罪悪の世界で、神様の願われる家庭の権威を備えた、愛せる家庭となることができなかった時には、私たちの家庭が召命されたことをかえって恥ずかしく思う立場に立たなければなりません。
神様が「お前の家庭でなければ駄目だ」と言って立ててくださることを望む前に、神様に召命されて立つことのできる立場で神様を呼び、悔い改めの涙を流し、自らの家庭を神様の懐に抱かせる使命を果たさなければならないのが、統一教会の家庭です。それにもかかわらず、そのような価値を知っている祝福家庭が、どれほどいるでしょうか。
また、私がいなければお前はあり得ず、お前がいなければ私は生きられないという、血肉を分けた絆の中で、一つの足跡の基盤を築かなければならないのが、統一教会の家庭です。それゆえ、互いに力を尽くし、「神様の栄光なる基盤を築いて輝かせよう」と言い、「そこに私が肥料となり、基盤となる」と言って、先を争って突き進むことのできる生活的基盤を誇らなければならないのが、統一の理念をもって歩む祝福家庭なのです。ところで、そうなれる家庭がどれくらいあるでしょうか。
◆私たちが誇らなければならない内容
皆さんは、私たちがもっている真理を世界万国に誇らなければなりません。この統一の理念を万世に誇らなければなりません。もし、皆さんがこの内容をもってしても勝利できずに誇れなくなれば、子孫がサタンと闘わなければなりません。そうして彼らが勝利して誇れるようになれば、「当代に栄光の価値を身につけながらも、天地に責任を果たせなかった」と讒訴する時代が来るというのです。
私たちのもっている栄光のみ言は、どこの誰ももっていない、一つしかない真理のみ言です。この真理を通じて、一つの人格基準を立てなければなりません。それは、サタンが好き勝手にもてあそんだ環境の基盤の上で侵犯された先知先烈の恨めしい人格基準でなく、サタンを屈服させて霊界のすべての聖賢を解怨成就させてあげられる人格基準です。
神様の六千年間積もった恨の心を解いて、解放の一日を慕い求める息子、娘を迎えることができ、神様がやきもきされたその心をすべて打ち明け、愛するその息子、娘を迎えることのできる、自由な天国の基盤が統一教会です。この地上で、歴史上どこの誰ももてなかった神様の心情に直行できる所が、この場です。このように、途方もなく恐ろしい立場に召命されて立てられた姿であると考えるとき、皆さんは必ずや責任を全うしなければなりません。
神様は、私たちを立てて誇りたいのです。つまり、統一の群れを立てて誇りたいのです。ですから、地上にある貴いといわれるすべてのものを捨て、一生をみ旨のために捧げ、この価値を千年、万年、とこしえに輝かせていくと誓って、この活動をしなければならないのが、統一教会の食口です。それにもかかわらず、そうなり得ていない食口たちは、悔い改めなければなりません。
ここで皆さんがもたなければならない姿勢と権威は、万国に誇れる息子、娘の姿勢と権威なのです。そのような息子、娘になろうと思えば、栄光の立場で孝子や孝女になるのではなく、いかなる困難な立場でも神様の代わりとなって、神様の受ける矢を私が代わりに引き受けるという立場に立たなければなりません。
死の立場でも神様の苦痛を私が代わりに受け、息子としての責任を全うし、孝行の絆をつくらなければなりません。そうして神様の信任を得なければなりません。これが統一の群れが行くべき道であるということを、皆さんは知らなければなりません。
そのようにつくられた基盤の上に、私たちは生命の種を植えました。そこに芽が出て、花が咲き、実を結ぶようになりましたが、その実は初めて得られた実であり、それによって民族的伝統、世界的伝統が、天の新しい因縁によって出発できる基盤になりました。このような勝利の基盤の上に、天国が出発するというのです。
ですから、外的に現れた私たちの姿はたとえみすぼらしくても、内面にある事情を見れば、骨髄が溶けて、心臓の鼓動が止まるくらい緊張した立場で叫ぶことのできる内容です。これが死んでいた死亡世界の人間を再び復活させる動機と源泉になるならば、こういう立場での孝と忠は、私たちだけがもつことのできる一時の良い贈り物なのであり、私たちだけがもつことのできる誇りの条件になるのです。
それを誇りの条件としてもつためのものが、今まで先生がこのために命を捧げて闘い、歩んできた道でした。そして、時が来たにもかかわらず、皆さんはのんびり食べたり、寝たりしながら勝手に生きていても良いのでしょうか。
この時に皆さんは、責任を果たせないことを恥ずかしく思い、万民の慕い求める光明な天国を前に、孝子としての節義でも立てようと身もだえしなければなりません。
◆天の精兵となって総進撃しよう
過去に去来した数多くの先知先烈は、その時代を中心として慟哭と訴えのできる優先権を授かった群れです。そのような歴史を、ここでまた再現させるのでしょうか。「いっそ知らなかったほうが幸せだったのに……」と嘆く群れとならないようにお願いしたいのです。
自由なる天国、新しい平和の王国を創建するための闘争の過程で、誰よりも途方もない血を流して戦った者がいるならば、彼は滅びないでしょう。彼の流した血は死亡の血ではなく、生命の源泉であるからです。そのようにして創建したそこに、私たちは行かなければならないし、とどまらなければならないのです。そこが、後世に残しておかなければならない基盤です。
皆さんは天の前に「天よ! あなたが創造理想を中心として誇りたかったすべての期待が、私を結実させました。人間を立てて永遠に、すべての世界に誇ろうとしていた、あなたの内的心情と一致を成しました」と祈祷するとき、神様が「よし、よし」とおっしゃることのできる立場で、神様が喜ばれる自由と平和の天国に行進するその日を、恋しく思わなければなりません。
そして、天使天軍と全宇宙のありとあらゆる存在物が、ついに万物の霊長が現れたと、中心が生じたから解怨成就されたと称賛するとき、その称賛を受けて、神様の愛の懐に抱かれ得る基盤を立てる息子、娘にならなければなりません。そうして神様は、万有の創造主であられながら、万世に価値を誇ることのできる、生命の源泉である神様の一つしかない愛を永遠無窮に自分のものとして身につけなければなりません。
それを中心に、世界がその中にあるのです。神様までもその中にいらっしゃるのです。それゆえ、このような絶対的な愛の権威を残すことのできるこの時代的な基点を喪失する皆さんとなっては、神様の統一の理念を通して立てようという誇りの基準が立たないことを知らなければなりません。皆さんはこのような目的のために、きょうもあすもこの道を行かなければなりません。
世界的な環境の中で、この道を行く私たちは孤独な孤児のようですが、決して孤児ではありません。私たちの背後には、歴史を通じて今日を準備した神様の億千万の精兵がいますが、彼らが正に霊界にいる数多くの霊人です。彼らはみな、地上を中心として活動できる所を用意しているというのです。
したがって、皆さんは援軍が世界に散在しているということを考え、勇者として敵陣に向けて総進撃する天の精兵にならなければなりません。ここで落伍者となり、小心者となってはいけません。
また、この関門を通って誇ってみたい神様のみ旨に従い、栄光の立場で神様の愛を相続し、永遠無窮に行進する人類の先祖になることをお願いします。
26. 私たちの誇り
一九六八年七月七日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十巻』
きょうは皆さんに「私たちの誇り」という題目でお話しします。
今日、この地上には数多くの民族と数多くの国家があります。どの民族を中心として見ても、民族自体を誇りたいのが、その民族の要求でしょう。またある国を治める主権者がいるならば、その国家の威勢を万国にとどろかす、誇らしい主権者になりたいのが願いでしょう。
一つの国家もそうですが、大きくは世界を見てもそうですし、小さくは皆さん個人もそうだというのです。自分自身を誇りたい思いで、自らの環境を動かし、国家や世界と因縁を結びたいのが人情の常です。
このように考えてみるとき、人間の本心がそうであり、人間の生活環境がそうであり、人類歴史の流れも、またそういう方向に流れるということを否認できないとするなら、このような事情の因縁と動機はどこから出発したのでしょうか。
もし神様がいらっしゃって天地や万物を創造なさったとするなら、神様御自身がそういう立場にあるために、神様によって因縁の結ばれたあらゆる存在は、自分自らを高めようとする心、自分自らを現そうとする心をもつしかないというのです。ですからこれは、創造主がそうであるため、という結論を下さざるを得ません。
◆万物を造られた目的
神様も御自身を誇りたいのです。はるか有史以前の時代に戻って、創造の世界を敬慕なさった創造主が、六日間で創造なさった創造物を見つめ、喜ばれたその時代を回想してみるとき、神様も造ったあらゆる万物を通して御自身を誇りたい心があったがゆえに、万物を創造なさったことは間違いありません。ですから造られたいかなる存在についても、そういう事情が絡んでいるというのです。
皆さんが眺めるこの被造世界、あるいはこの自然には、多様な被造物が存在しています。存在する万象は、どんな過程を経て創造されたのでしょうか。それは、創造主の真心が込められた心情の過程を通して造られたのです。どんなに微小な存在でも、神様の愛の心情を通じて、神様が願われ誇りたい心をもって造られたに違いありません。
このような点から見ると、小さくは極めて微小な存在から、大きくは私たちが推し量れない広大な宇宙に至るまで、存在するあらゆる万物は神様が誇りたかったし、誇れる存在として造られたことを、皆さんは知らなければなりません。
皆さんは今まで、この地上に残った被造万物を中心として生きてきました。つまり、好きでも嫌いでも万物を利用して、万物を用いてきたことは事実です。では、皆さんが日常生活で使用しているすべてのものが、神様が愛して誇るための目的のもとで造られたとするなら、果たしてそれを理解し、その価値のとおりに皆さんが接してあげたのかというのです。皆さんの本心に問い返してみてください。「そうです」と言える人が、果たしてどれくらいいるかということが問題です。
朝眠りから目覚め、起きて外を見つめると、光明なる朝の日ざしが皆さんを喜ばせてくれます。では、その太陽の光が意味することとは何でしょうか。つまり、自然が皆さんに要求していることとは何でしょうか。皆さんは、その光を神様の栄光であり、神様の驚くべき創造の恵みと称賛する思いで、接してあげたのかというのです。そうでない生活をしたとするなら、皆さんはそういう内容で造られた万物の前に恥ずかしい姿になるということを知らなければなりません。
◆神様の誇りとなるべき人間
世の中のあらゆる物は小さな物から大きい物に至るまで、神様の誇りの一面を表すために造られたに違いありません。神様が誇るために万物を造られたがゆえに、造られた万物をそのように認めて誇ることのできる相対的な存在がなければなりませんでした。
天使世界を造るようになった原因もここにあるのであり、人類始祖のアダムとエバ、いわゆる万物の主人公である人間を造った原因もここにあるというのです。
アダムとエバを造られる時、神様は御自身が誇ろうとなさる心をもって造った万物を、御自身の代わりに誇って喜べる姿を考えながら造ったという事実を、私たちは知らなければなりません。また、神様が中心存在として立てようとしていたアダムとエバが、全宇宙の前に中心存在として立つようになる日、神様はこのアダムとエバをどれほど誇りたいことでしょうか。被造万物全体を動員して誇りたい一日を願っていらっしゃったのです。
そのように貴く価値ある存在として造られたのが人間でした。神様は、人間がそのように神様の栄光を称賛する立場に立つことを喜ばれ、「万有の前に創造の偉業を称賛せよ」とじきじきに宣布できる一日を人間が探し求めてくれることを願っていたにもかかわらず、人間はそのような立場に立つことができなかったのです。これが恨であったのです。歴史過程において、ある一時期、この世界が、あるいは国家がそのような立場に立ち、個人がそのような立場に立ったことがありましたか。立ったことはなかったのです。
神様の誇りたいその内容とは何らの関係もない立場で、神様が悲しむ立場に立っているのが今日この地上に生きている人間であるなら、神様の創造本然の基準とかち合い、対立する立場にあるということを否定できません。
ところが、皆さんが今まで生きていくにおいて「あ! 私はこれこれの何をもっていて、これこれの社会的威信をもっていて、国家の前にもこれくらいなら愛国の人である」と、自らを誇ることに不足がないと考える人がいるかもしれません。しかし、その誇りは、誰を中心として誇るのでしょうか。まず始めに、神様を中心として誇らなければならないのです。
◆誇ることができなくなった人間
人間は、まず神様を中心として誇るべき存在です。そのように誇ることのできる立場を取って、「私は神様の代わりとなって、全宇宙の主人の資格を備えた」と、主人の行状を備えて立ち上がるべきでした。それが、人間が生まれた本来の目的です。それにもかかわらず、神様は、人間をそのような立場に立てて誇ることができる一日をもつことができなかったのです。
今日、皆さんが社会生活をするにおいて、自分自身だけを中心として誇るその基準は、どこから始まったのでしょうか。それは国家から始まったのでもなく、世界から始まったのでもありません。それは正に自分から始まったのです。このように神様を中心として誇るべき立場を離れて、自分を中心として誇る立場になったがゆえに、天倫に符合しない自らであることをまず知らなければなりません。
今日、堕落した子孫の私たちは、神様が誇ることのできる立場にあるのでしょうか。そうではないというのです。では、歴史をさかのぼって、人類始祖のアダムとエバはそのような立場に立ちましたか。彼らもやはりそうではなかったのです。人類始祖が、神様が創造なさった全体目的のとおりに全宇宙を総合した結実の存在として、全宇宙を抱いて神様が誇ることのできる実体として立てられていたなら、人類はこういう悲惨な歴史をつづってこなかったというのです。
人類始祖のアダムとエバは、堕落によって神様の前に誇れる姿で現れたのではなく、むしろ悲しみの姿で現れるようになり、顔を上げて誇ることのできる立場ではなく、頭を下げて恥ずかしさを感じざるを得ない立場になりました。そこから人類歴史が出発したという事実を、皆さんは知らなければなりません。
このような歴史の起源をもって歩んできた人間であったため、天倫の法度において考えてみるとき、そのような人間の誇りというものは絶対に許すことができないというのです。
ですから、修道の道を行く人は、「誇るな、驕 慢になるな、自らを主張するな」という言葉が出てくるのです。
◆神様が誇ることのできる人になろう
神様は、堕落した人間が誇ることを容認しませんでした。なぜなら、本来人間は神様の誇り得る存在として造られたために、そこに歩調を合わせて自らの権威を誇るべきでした。ところが人間は、そのような天の道に背いて、神様を悲しみの立場に追い込み自らの立場を誇ろうとしたのです。これが堕落の起源です。
このように蒔かれた罪悪の種がそのまま刈り取られてはならないために、神様は誇る人間を打ってしまうのです。こういう立場にあるのが今までの私たちの先祖であり、現世にとどまっている人類なのです。ですから誇るなというのです。
では、人類が望むべきこととは何でしょうか。自分個人を主張し、誇ることが望みではなく、家門や氏族を主張して誇ることが望みでもありません。ある国を建てて誇ることが、その国の民の望みではなく、世界を一つの平和の王国として誇ることが人類の望みでもありません。
この世界のすべてを投げ打って失っても、私たちがまずしなければならないことは、神様が本来望んでいたその場で、全宇宙に向けて誇り得る神様の位置を取り戻すことです。これが人類の希望の中の希望であるということを知らなければなりません。そういう神様に侍ることが、堕落した人間の最後の目的であることを私たちは知らなければなりません。
個人がそのような立場で神様の栄光をたたえて、家庭、氏族、民族、国家、世界が神様の栄光を誇ることができるのでしょうか。家庭、氏族、民族、国家、世界が一致した立場で、全世界の人類がすべて神様のその栄光を誇り得る一日を迎えることができなければ、「神様が人間を造った本来の基準、誇ることができるその基準を取り戻した」とは言えないのです。それで、神様はそういう一日を探し求めるために、今まで堕落した人間に対する救いの摂理をしてこられたのです。
◆神様一人で成し遂げることのできないみ旨
救いの摂理は、復帰摂理です。それでは復帰摂理とは何でしょうか。ある事件が起きる前の基準に再び回復することをいいます。では、創世前エデンの園であらゆる万物を造ったのち、それらを見つめながら喜んで誇ることのできた父の立場、言い換えれば、創造主の立場をどのように回復させるのでしょうか。
元来すべての万物は、人間を標準として造りました。すべての万物を人間に帰結させるために創造したというのです。このように創造した人間を最初の出発とともに、最後の誇りとして立てようとしていたのが神様の望みでした。ところが、そのような立場に人類始祖が立つことができず、人類歴史は悲しみで出発してしまったので、その過程で神様の前に恥ずかしく、悲しい事実が現れるようになったのです。これが人類歴史の悲惨さであり、嘆きの起源になったという事実を皆さんは知らなければなりません。
では、人間がもったこのような出発の起源を、どのようにして除去させるのでしょうか。これは神様だけではできないのです。こういう出発が人間によって始まったがゆえに、このことを成就させ、この過程から抜け出すためには、神様が中心になるのでなく、人が中心にならなければならないのです。
神様のみ旨は、神様お一人で成し遂げることはできません。神様が人間を造る前には、人間を創造し人間を中心としてみ旨を成し遂げられる希望圏がありましたが、創造後には、人間が堕落したがゆえに、人間を通して再び収拾しなければならないのです。神様の思いどおりにできないというのです。前後が逆になっていて、すべての上下関係がひっくり返っているので、これを回復するためには神様だけではできないのです。そこには必ず人間が介在しなければなりません。
この途方もない問題は、人間が犯した罪によってもたらされたものです。これを元どおりに回復するためには、この途方もない罪状を打開しなければなりません。そうして解放の根拠地を準備することなくしては、神様の本来願った誇りの世界、誇りの人類、誇りの被造世界を成し遂げることができないのです。これは創造原則から考えると、不回避的な事実であることを私たちは知っています。
ですから、このように堕落した立場に落ちた人間が、もう一度本然の神様を中心として誇り得る立場を求めていこうとするなら、どのようにすべきかということが問題です。このために私たちは、神様が愛して誇ろうとなさっていたその万物を、また造られたそのすべての万物を見つめていらっしゃった父の心を知らなければなりません。その万物を眺められた父の心が喜んだならば、その喜ぶ心を私たちが求めなければなりません。そうでなければ、私たちが失ったこの誇りの権限を、またその上に立てるべきすべての万物世界を、復帰できないというのです。
◆本然の愛と心情を回復しよう
すべての万物は愛の存在であり、喜びの存在として造られました。神様がその造られた万物を見て、「はなはだ良」い(創世記一・三一)と言われたように、皆さんも被造世界を見つめるとき、大変良いと感じ得る心を呼び起こさなければなりません。神様が万物を造られる当時の心情世界を分からなければならないというのです。
したがって、小さな一握りの草を見ても、そこに神様の精誠が込められているということを皆さんは知らなければなりません。すなわち、小さいものでも大きいものでもすべて、神様が宇宙的な価値を中心として誇りたくて造ったということを考えなければなりません。したがって、皆さんは人間本然の価値を追求していきながら、神様が造られたすべての万物に対して、その価値を評価することができる、神様の代わりとなる立場を求めていかなければならないのです。
私たちがこういう立場を求めていくためには、神秘境を探求せざるを得ません。人間は堕落したので分からないのですが、神様が万物に対して主人として喜びを表せば、その喜びを万物が分からないでしょうか。そのようなことはありません。神様が喜べば、万物も喜ぶことができるようになっているのです。
皆さんは堕落圏内にいるので、肉的五官を通して感知できる刺激以外には感じることができません。けれども、神様はすべての万物を造られた主人ですから、相対的立場にある本性の万物に対して喜びを表せば、その万物が喜びに気づくようになっているのです。すべて感じて気づくようになっているというのです。それで私たちは、そのような本然の愛、本然の心情を求めなければなりません。
人間の肉身は堕落しましたが、人間の心性には神様と関係している基準、出発の基準が残っているために、この出発の基準を立てて神様の共鳴体にならなければなりません。そうして共鳴できた心情を通して、神様が万物を造って喜ばれた基準を回復しなければならないのです。
ローマ人への手紙第八章を見ると、パウロは「万物が嘆いている」と言いました。パウロは漠然としたある観念をもって、そのような言葉を語ったのではありません。究極的な立場を探求して入っていくと、万物の嘆く声が、この世界のどんな声よりももっと大きく聞こえたのです。そのような内容があったのです。
◆堕落人間が求めていくべき究極の立場
このように、本来もっている本然の心性を通じて神様と一致する立場に入っていき、この宇宙万象の世界を見つめると、被造物はもちろん、今日この社会すべてが嘆いていることを感じることができます。したがって、神様が喜ばれた本来のその基準で万物と一致し、人間の価値を回復する立場が、皆さんが求めていかなければならない究極的な立場だということを知らなければなりません。
それで宗教人たちは、このような神秘的な境地を求めていくために、自らのすべての肉情を制圧し、現実的なすべての条件を放棄してまでも、深い心の世界をたどっていくために山中で修道するのです。このすべてが、そういう意義と基準を求めるための一つの方便にすぎないというのです。
ですから、皆さんの心が神様のもとに接近して入っていけば入っていくほど、自然に対しても、誰よりも近い立場に立つことができるのです。その自然は皆さんと関係のない立場にあるのではありません。自然は人間のために、すなわち皆さんのために存在するという事実を切実に感じなければなりません。神様が本来人間の完成のために万物を造ってくださったがゆえに、人間はそれを悟って万有の前に誇り得る姿で出現しなければなりません。そうでなければ、神様の前に誇ることができ、その目的の世界を相続できる資格者として立つことができません。修道の世界の究極的な目的が、正にここにあるのです。
神様は天地万物を創造なさるとき、誇れる存在物として創造されました。ですから、私たちは神様の心情を伴った立場に立ち、この被造世界に対して神様が創造なさった喜びを体得しなければなりません。そして万物について、「私のために造られた誇れる存在物である」と称賛できる心さえも体 恤しなければなりません。そうでなくては、本性の心の礎の上に連結できる、神様が求めて誇りたかった息子の絆を求めることができないのです。
皆さんは、こういう基準を求めていかなければなりません。今までそのような立場に立って誇ることのできる人が、この地上にいたでしょうか。個人もいなかったし、家庭、氏族、民族、国家、世界もありませんでした。今まで人類歴史で、そのようにできる人が一人もいなかったのです。
堕落人間として、神様が栄光のみ座で誇ることのできる価値を体得できずに倒れた子孫として、そのような理想のみ座に出られるのでしょうか。出られません。絶対に出ることができません。ですから、神様の誇る心情を通して万有の価値を称賛できる、その基準に立った人も現れることができないのです。それは、人間が堕落の子孫であるためです。
◆神様の誇りになり得ないイスラエル
神様は、全宇宙万象を代表して誇れる一人が必要でした。それで神様の心情に一致し、全被造世界に対する神様の相続権を授かることのできる真の理想の姿として、この地球上に一人の人間が現れなければならないのです。
堕落した人間は、先祖が誇る心情を体得できないまま蒔き、罪悪の実として刈り取られた存在であるため、真の理想のみ座に出ることができません。大豆を植えれば大豆が出て、小豆を植えれば小豆が出るのです。同様に人類始祖が罪の種を蒔いたがゆえに、堕落した存在としてしか刈り取ることができないのです。このような人生であるならば、神様の誇り得る座には到底出ることなどできません。
ですから、神様はこのような人間の前に、神様の心情世界を連結し得る仲保者として、一人の人物をこの地上に送らなければならないのです。神様はそのために、選民思想を中心としてイスラエル民族を選びました。
しかし、選ばれただけでは誇りの基準に立つことはできません。その民族は責任を全うしなければならないのです。しかし、イスラエル民族は責任を全うできず、選民として選ばれた価値を万世に誇り得る民族となることができませんでした。神様の摂理に合わせて民族を指導しなければならない責任者たちも、時代時代を経てきながらも、神様のみ旨の前にいつも相反する立場に立ちました。それで、イスラエル国家はこのような相反する歴史を経てきながら、イスラエルの建国理念を喪失してしまいました。
神様が四千年間準備なさることにより、ユダヤ民族が選民として選ばれましたが、その民族は神様の国家を立てて誇るべき責任を全うすることができませんでした。個人もそうであり、家庭、氏族、民族、国家もそうでした。
神様は、個人、家庭、氏族、民族の基準を立てて国家的な誇りの基準に連結させる救いの摂理のために、四千年間準備してきました。国家的な基準で万民の前に誇ることのできるイスラエル圏を収拾し、その上に神様のみ旨を立てるために、この地に主人として送られた方がメシヤです。ところが、国家的なメシヤとして登場すべきイエス様が、十字架で亡くなったのちは、どのようになったのでしょうか。イエス様は、個人的メシヤに成り下がりました。
もし、その時イエス様が死なずに、イエス様とイスラエル民族が神様の誇り得る建国理念を中心として一致したとすれば、そこから世界は救われたのです。しかし、国家的な救い主の権限をもつべきイエス様が国家から追い込まれ、追われることによって、民族的メシヤの立場に落ちるようになったのです。民族的にも追い出されたがゆえに、氏族的メシヤの立場に落ちて出るようになったのです。また、氏族的な救い主の立場でも追われたがゆえに、家庭的メシヤの立場に落ち、家庭的メシヤの立場でも追われたがゆえに、三弟子からも追われたのです。
ですから、この地上にメシヤとして立つことのできる踏み台が一つもなかったのです。したがって、神様がこの地を中心として誇ることのできる踏み台もなくなり、イスラエル民族を立てて誇ろうとした神様の願いもまた、成し遂げることができなくなったのです。
悲惨に追い込まれて追われたイエス様は、最後の決着をつけるために、ゲッセマネの丘で悲痛な祈祷をせざるを得ませんでした。こういうイエス様であるのに、十字架の血で私たちを救おうとなさるのでしょうか。とんでもありません。そういう悲惨な歴史があったということを、皆さんは考えなければなりません。
◆永遠なる誇りの圏内で生きるべき人間
私たちは誇らなければなりません。ところが、誇り得る要件をもつことができませんでした。神様が全天宙の前に人間を立て、誇りたかったその誇りは、最後の誇りです。人間がこのような誇りから出発すべきであったにもかかわらず、堕落することによって神様はその誇りを御覧になることができませんでした。
その誇りは、アルファでありオメガであり、始めであり終わりのようなものです。ところが、その誇りを永遠無窮に、永遠に途絶えない誇りの圏内で生きるべき人間はどこへ行ったのでしょうか。堕落の報いによってばらばらになり、すべて崩れていきました。
ですから私たちは、必ず行かなければなりません。これからは堕落した人間として、個人的な救い主の使命をなせる民族的な起源をもった個人にならなければなりません。ですから、歴史過程を通して先祖が家庭的メシヤの基準を立てるために、神様の前に祭物の立場を通して立ったその位置を、私が求めていかなければなりません。
そのようにしてイスラエルは滅びましたが、滅びる前までの、祝福されて生きていた基準を求め、その基台を私たちのものとして相続しなければなりません。それゆえ、統一教会も今まで新約、旧約を通じたイスラエルの歴史の基盤を中心として歩んできたのです。
皆さんは誇れる自らとならなければなりません。個人を万民の前に誇ることができなければなりません。神様がアダムとエバを造るとき、こういう本性の基準を通して、どんなに小さな価値までも賦与して誇ろうとされました。今皆さんにそのような価値がありますか。
そのようになれば、皆さんも万物と神秘的な話ができるでしょう。私たちが木や石とも話すことができるのです。昔、聖フランシスは鳥やおおかみにも説教をしたという寓話がありますが、本来人間はそのようなことができるのです。
本然の価値をもった人間は、存在する万有の生命線を動かし、万物が刺激を受ければその存在の前に、また苦労をして資格を備え通じることができるのです。
◆誇ることのできる立場
私たちは誇ろうとしても、誇ることのできるものは何もないのです。皆さんが誇ることのできる立場はどこにありますか。家庭を挙げて誇れるならば、その家庭の構成はどのようになっていて、氏族を挙げて世界、万象の前に誇れるならば、その氏族はどのような氏族でしょうか。また、そういう民族、国家、世界はどこにあるかというのです。これを神様は、心から願っていたというのです。
ですから、神様のその心に通じて、個人、家庭、氏族、民族、国家全体の価値を誇ることのできる権限をもって、この地上に再び来られる一人の方がいなければなりません。その方が、正にメシヤです。
メシヤは皆さんの今までの生き方を、ただそのままもって来られるのではありません。皆さんが良いという生き方をすべて無視するのです。修道の道はそのように行かなければならないのです。ですから、その道は気楽に歩んでいく道ではなく、死を覚悟して行かなければならない道なのです。
本来神様は人間を中心として誇りたいと思って、万物を造ってくださったのです。ですから、万物をまず愛することのできる立場に立たなければ、人間は誇ることのできる立場に立ち得ないのです。人間は、いまだに誇れるその境界線を越えることができません。神様は心から誇ろうとしましたが、誇れる実体の立場に人間が立ち得なかったのです。
◆誇れる特権の基準
ところで、堕落した人間は、全被造万物を治める権限をもった万物の霊長でしょうか。皆さんは万物の霊長ですか。
それでは、個人として誇れる特権の基準はどこにあり、家庭として万有の存在世界に神様が誇りたい特権の基準はどこにありますか。氏族の特権の基準はどこにありますか。また、民族の特権の基準や国家、世界の特権の基準はどこにありますか。また、宇宙を総合できる特権の基準はどこにありますか。
人間がこのようなことをすべて失ってしまったがゆえに、再び求めなければならないのです。かといって、堕落した人間社会で理想世界を求めるために、自由と平和を求めても無駄だというのです。複雑になるだけです。
ですから、罪悪と因縁のない立場で勝利し得る盾をもって、この地上に一人の人が来なければなりません。すなわち橋の役割、仲保者の役割のできる一人の人が必要です。皆さんは堕落した子孫として罪悪の鎖につながれています。皆さんがどんなに力が強いとしても、その鎖を切ることはできません。それで、切ることのできる人が来て、皆さんを解放してあげなければなりません。
皆さんは、どのように生まれたのか知っていますか。どこから来て、どこに向かっているのか知っていますか。刑務所に入っていた人も、出てくるときには、行き先を定めて出てきます。自分の家を慕い求めるというのです。皆さんには行く所がありますか。
神様の本性の基準を中心として見たならば、個人の価値は万有の前に誇れる立場として立てられなければならなかったのです。息子、娘もそのような立場に立てられなければならないし、家庭もそのような立場に立てられたのちに、家族同士で愛し合わなければなりません。ところが、皆さんはそのような立場で愛し合いましたか。
ですから、そのような個人、家庭、氏族、民族、国家をひっくるめて、大審判をしなければなりません。滅びる時となったのです。それらすべてが、神様が誇り得る立場に立てないがゆえに、大審判をするのです。
皆さん、考えてみてください。皆さんも誇りたいはずです。若い女の子たちも、良いものがあれば自慢したがります。しかし、そんなに自慢してどうするというのでしょうか。自分を中心として誇り、家庭を中心として誇ってみても意味がないのです。他人の目を中心として誇っていては意味がないというのです。
◆誇ってみたい神様
先生は、乞食が生きている所にも何度も行ってみました。乞食は昼に御飯を恵んでもらってきますが、そこにはいろいろな人がいます。お互いに食べ物を恵んでもらってきて、「何を恵んでもらったんだ?」と聞くと、「おれはお祝いしている家に行って、豚肉をもらってきた」と言いながら踊る人もいます。そのような環境では、それがまた自慢となるのです。数十人の人が御飯をもらいに行ってきて、一人でも少しばかり基準が上がれば、みんながそのことをもって騒ぎまくるのです。
皆さんも誇ってみたいでしょう。先生も誇ってみたいのですが、誇れば世界がびっくりして腰を抜かしてしまいますから、誇らないでじっとしているのです。統一教会がどうだとありとあらゆる悪口を言われても、じっとしていました。のどが痛くなり、おなかがすいたらそのうちやめるだろうと、世の中の人々はそんなふうに考えているのです。
皆さんも誇ってみたいし、先生も誇ってみたいのです。ところで、神様はどうでしょうか。神様も誇りたいというのです。それで誰を引っ張ってきて誇るのでしょうか。統一教会の信者を引っ張ってきて誇れるなら、どれほど良いでしょう。そうなったら、神様も喜ばれることでしょう。このように神様も誇りたいのですが、そこには誇るに値する人がいなければならないのです。
神様が誇りたい人とは、どのような人でしょうか。その人は天下に一人しかいない、神様と完全に心情と事情を通じることのできる立場に立った人だというのです。皆さんは、そのようにできる息子、娘になりましたか。このように、立派な息子の標準を立てておいた神様がいらっしゃるということを考えなければなりません。
神様も誇りたいのです。それで神様は歴史上の聖人、賢哲あるいは偉人を立て、人類を収拾させてから誇ろうとなさったのです。しかし、彼らの立てた条件で、一時代、一世界、一つの歴史の過程を通して誇りはしましたが、その人々が天地を通して誇ることのできる価値をもてなかったがゆえに、その場で何もかも倒れていったのです。
昔、ゲッセマネの園で悲惨に祈って、ゴルゴタの丘で死んでいったイエス様は、どれほどわびしく悲しい思いをされたことでしょうか。命懸けで信じると誓った十二弟子はどこに行き、愛していた三弟子はどこに行ったのでしょうか。イエス様が死ぬ前に、「先駆けて死にます」と誓った弟子たちはみんな逃げてしまい、女性たちだけが道端にひざまずいて泣いているのを御覧になったとき、イエス様の気持ちはどうだったのでしょうか。
その時、イエス様は心の底で「国を失い、世界を失ったお前たちが、今さら泣いてどうするというのか。失う前に努力すべきではないか……」と言われたでしょう。それで、イエス様は泣きながらついてくる女性たちに「わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい」(ルカ二三・二八)とおっしゃったのです。これは本当に驚くほど意味の深い言葉です。
◆神様が誇りたい人
皆さんは、世界人類がすべて二度も、三度も、四度も見物しようと行ったり来たりしたくなるほどに誇らなければなりません。それが三代にわたって続かなければなりません。そうでなければ、神様のものになることはできません。それでアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と、このように三代を経たのであり、ヤコブも七年ずつの三段階を経ました。またアダム時代、イエス時代、再臨主時代の三段階を経るのです。
今は誇る時となりました。誇ろうとするならば、何から誇らなければならないでしょうか。父母が誇らしいことをしたなら、その父母から誇らなければなりません。それから息子や娘が、その次はその孫が来て誇ることができれば、心は浮かれるのです。このように三代を経て誇らなければなりません。そうでなくては、神様のもとへ行くことはできません。
皆さんは、家庭を中心として氏族が、氏族を中心として民族が加担して誇れる基準になるまで行かなければなりません。皆さんは、家庭を中心として行くべき道が残っています。皆さんはその道を行き、神様が立ててくださった民族を経たそののちに、国家の国民になるのです。
神様の願いは何でしょうか。歴史的なすべての聖人、賢哲に、この時代に生きている人々に、その価値を誇ることのできる一人の人を求めるのです。ですから歴史を通じて誇り、この時代の五十億の人類の前に誇り、それだけでなく今後生まれてくる数多くの後世の前に千年、万年も、歩んだ道を誇ることのできる主人公になりなさいというのです。
過去、現在、未来を総合した立場で、神様を感謝の涙で泣かせることができ、イエス様を感謝の涙で泣かせることができ、聖霊を感謝の涙で泣かせることのできる人となって「お前でなかったら、どうなるところだったか」と言われるように、息子、娘としての使命を果たさなければなりません。そうしてこそ初めて神様の前に誇れる存在として立ち得、全宇宙の前に誇れる存在として立てる価値をもち得ることを、皆さんは知らなければなりません。
それでは、皆さんはそのような立場に立って神様に対して、「お父さん」と呼んでみたことがありますか。父がいらっしゃるのかいらっしゃらないのか、義理の父なのか実の父なのかも分からなかったというのです。今はそのような内容を知っている立場で父を呼び、ひとえにその父の胸に抱かれた事情を胸に秘め、歩んでいかなければなりません。そうして爆発する悔しさが恨めしさと交差する立場のその恨を解決するために、死の道も進んでいくという信念をもって、イエス様以上の立場に立たなければなりません。
皆さんは、これから神様の勝利の基盤を築かなければなりません。そうなるまでは恥ずかしくてうなだれ、ひざまずき号泣しなければなりません。自分たちは、神様が顔を上げろと命令されるまで顔を上げられない、罪悪の先祖の血を受けて生まれた子孫であることを知らなければなりません。
皆さんはそのような自分を収拾し、個人的勝利の基盤を打ち立てることによって、万有と人類の慕い求める自らとなり、家庭を立てて収拾し、家庭的勝利の基盤を立てることによって、神様に誇れる家庭にならなければなりません。そうしてこの罪悪の世界で、神様の願われる家庭の権威を備えた、愛せる家庭となることができなかった時には、私たちの家庭が召命されたことをかえって恥ずかしく思う立場に立たなければなりません。
神様が「お前の家庭でなければ駄目だ」と言って立ててくださることを望む前に、神様に召命されて立つことのできる立場で神様を呼び、悔い改めの涙を流し、自らの家庭を神様の懐に抱かせる使命を果たさなければならないのが、統一教会の家庭です。それにもかかわらず、そのような価値を知っている祝福家庭が、どれほどいるでしょうか。
また、私がいなければお前はあり得ず、お前がいなければ私は生きられないという、血肉を分けた絆の中で、一つの足跡の基盤を築かなければならないのが、統一教会の家庭です。それゆえ、互いに力を尽くし、「神様の栄光なる基盤を築いて輝かせよう」と言い、「そこに私が肥料となり、基盤となる」と言って、先を争って突き進むことのできる生活的基盤を誇らなければならないのが、統一の理念をもって歩む祝福家庭なのです。ところで、そうなれる家庭がどれくらいあるでしょうか。
◆私たちが誇らなければならない内容
皆さんは、私たちがもっている真理を世界万国に誇らなければなりません。この統一の理念を万世に誇らなければなりません。もし、皆さんがこの内容をもってしても勝利できずに誇れなくなれば、子孫がサタンと闘わなければなりません。そうして彼らが勝利して誇れるようになれば、「当代に栄光の価値を身につけながらも、天地に責任を果たせなかった」と讒訴する時代が来るというのです。
私たちのもっている栄光のみ言は、どこの誰ももっていない、一つしかない真理のみ言です。この真理を通じて、一つの人格基準を立てなければなりません。それは、サタンが好き勝手にもてあそんだ環境の基盤の上で侵犯された先知先烈の恨めしい人格基準でなく、サタンを屈服させて霊界のすべての聖賢を解怨成就させてあげられる人格基準です。
神様の六千年間積もった恨の心を解いて、解放の一日を慕い求める息子、娘を迎えることができ、神様がやきもきされたその心をすべて打ち明け、愛するその息子、娘を迎えることのできる、自由な天国の基盤が統一教会です。この地上で、歴史上どこの誰ももてなかった神様の心情に直行できる所が、この場です。このように、途方もなく恐ろしい立場に召命されて立てられた姿であると考えるとき、皆さんは必ずや責任を全うしなければなりません。
神様は、私たちを立てて誇りたいのです。つまり、統一の群れを立てて誇りたいのです。ですから、地上にある貴いといわれるすべてのものを捨て、一生をみ旨のために捧げ、この価値を千年、万年、とこしえに輝かせていくと誓って、この活動をしなければならないのが、統一教会の食口です。それにもかかわらず、そうなり得ていない食口たちは、悔い改めなければなりません。
ここで皆さんがもたなければならない姿勢と権威は、万国に誇れる息子、娘の姿勢と権威なのです。そのような息子、娘になろうと思えば、栄光の立場で孝子や孝女になるのではなく、いかなる困難な立場でも神様の代わりとなって、神様の受ける矢を私が代わりに引き受けるという立場に立たなければなりません。
死の立場でも神様の苦痛を私が代わりに受け、息子としての責任を全うし、孝行の絆をつくらなければなりません。そうして神様の信任を得なければなりません。これが統一の群れが行くべき道であるということを、皆さんは知らなければなりません。
そのようにつくられた基盤の上に、私たちは生命の種を植えました。そこに芽が出て、花が咲き、実を結ぶようになりましたが、その実は初めて得られた実であり、それによって民族的伝統、世界的伝統が、天の新しい因縁によって出発できる基盤になりました。このような勝利の基盤の上に、天国が出発するというのです。
ですから、外的に現れた私たちの姿はたとえみすぼらしくても、内面にある事情を見れば、骨髄が溶けて、心臓の鼓動が止まるくらい緊張した立場で叫ぶことのできる内容です。これが死んでいた死亡世界の人間を再び復活させる動機と源泉になるならば、こういう立場での孝と忠は、私たちだけがもつことのできる一時の良い贈り物なのであり、私たちだけがもつことのできる誇りの条件になるのです。
それを誇りの条件としてもつためのものが、今まで先生がこのために命を捧げて闘い、歩んできた道でした。そして、時が来たにもかかわらず、皆さんはのんびり食べたり、寝たりしながら勝手に生きていても良いのでしょうか。
この時に皆さんは、責任を果たせないことを恥ずかしく思い、万民の慕い求める光明な天国を前に、孝子としての節義でも立てようと身もだえしなければなりません。
◆天の精兵となって総進撃しよう
過去に去来した数多くの先知先烈は、その時代を中心として慟哭と訴えのできる優先権を授かった群れです。そのような歴史を、ここでまた再現させるのでしょうか。「いっそ知らなかったほうが幸せだったのに……」と嘆く群れとならないようにお願いしたいのです。
自由なる天国、新しい平和の王国を創建するための闘争の過程で、誰よりも途方もない血を流して戦った者がいるならば、彼は滅びないでしょう。彼の流した血は死亡の血ではなく、生命の源泉であるからです。そのようにして創建したそこに、私たちは行かなければならないし、とどまらなければならないのです。そこが、後世に残しておかなければならない基盤です。
皆さんは天の前に「天よ! あなたが創造理想を中心として誇りたかったすべての期待が、私を結実させました。人間を立てて永遠に、すべての世界に誇ろうとしていた、あなたの内的心情と一致を成しました」と祈祷するとき、神様が「よし、よし」とおっしゃることのできる立場で、神様が喜ばれる自由と平和の天国に行進するその日を、恋しく思わなければなりません。
そして、天使天軍と全宇宙のありとあらゆる存在物が、ついに万物の霊長が現れたと、中心が生じたから解怨成就されたと称賛するとき、その称賛を受けて、神様の愛の懐に抱かれ得る基盤を立てる息子、娘にならなければなりません。そうして神様は、万有の創造主であられながら、万世に価値を誇ることのできる、生命の源泉である神様の一つしかない愛を永遠無窮に自分のものとして身につけなければなりません。
それを中心に、世界がその中にあるのです。神様までもその中にいらっしゃるのです。それゆえ、このような絶対的な愛の権威を残すことのできるこの時代的な基点を喪失する皆さんとなっては、神様の統一の理念を通して立てようという誇りの基準が立たないことを知らなければなりません。皆さんはこのような目的のために、きょうもあすもこの道を行かなければなりません。
世界的な環境の中で、この道を行く私たちは孤独な孤児のようですが、決して孤児ではありません。私たちの背後には、歴史を通じて今日を準備した神様の億千万の精兵がいますが、彼らが正に霊界にいる数多くの霊人です。彼らはみな、地上を中心として活動できる所を用意しているというのです。
したがって、皆さんは援軍が世界に散在しているということを考え、勇者として敵陣に向けて総進撃する天の精兵にならなければなりません。ここで落伍者となり、小心者となってはいけません。
また、この関門を通って誇ってみたい神様のみ旨に従い、栄光の立場で神様の愛を相続し、永遠無窮に行進する人類の先祖になることをお願いします。
27. 父の代わりとなろう
一九六八年八月二十四日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十四巻』
一つの家庭の中心は父母です。その父母を中心として、その家庭の代を継ぎ、父母のみ旨を受け継ぐことのできる中心人物がいなくなれば、その家庭は希望のない家庭となります。一つの家庭がそうであるように、国を見るとき、その国の主権者を中心とした理念と思想があれば、その透徹した思想を継承し、責任を負うことのできる代身者がいなければなりません。
ところが、その代身者がいなくなる時は、その国の展望、すなわちその国の未来には希望がないといえます。この世界を中心として見ても、やはり同じです。
◆み旨を代わり得る中心人物がいない哀れな神様
このように見るとき、今日個人を中心とした家庭においても、あるいは私たちが属しているこの国においても、ここにはいつも代身者がいて、歴史とともにずっと流れてきたということが分かります。それが強固になり、完全に定着した家庭を中心とした国家があれば、その国家は世界的に強固な基盤の上に立たざるを得ません。
このような観点から神様の救援摂理歴史について見れば、神様の家庭がなければならないし、神様の氏族がなければならないし、神様の民族、国家、世界がなければならないはずです。しかし、神様が摂理的な内容を通して求めていらっしゃるそのような家庭、あるいは民族、国家、世界は今までありませんでした。
ここで神様を信じる人々が必ず家庭の中心にならなければならないし、また、民族、国家の中心にならなければないし、さらには世界の中心にならなければならないということは言うまでもありません。しかし、今までこの世界には、そのような中心になり得る天の主権を決定できませんでした。世界の中心どころか、国家の中心も今まで決定することができなかったのです。国家の中心を決定しなければならないことももちろんですが、まず神様が求められる完全な一つの家庭的な基準を決定しなければなりません。
しかし、神様が願われる家庭の中心を決定したのかということを冷静に考えてみると、大多数の人々は、そうできなかったと自ら感じるでしょう。また、社会の一員である私一個体が、神様が必要な者として願う一つの中心として完全に決定することのできる自体になったのかといえば、これもやはりそうなれなかったということが分かります。
私たち人間の心というものは、朝に夕に変わります。そのような自分を中心として永遠なる理念に通じることのできる家庭や、国家や、または世界を追求していくことは、神様のみ旨と神様が願う目的があるからです。それにもかかわらず、目的に対する私自体が一つの中心を決定できなかったという事実を悟るようになるとき、そのことを成就させなければならない神様が、どれほどかわいそうなお方であられるのかということを知らなければなりません。
一国の主権者が、その国家の主権を自分が責任を負わなければならないにもかかわらず、責任を負うことのできる基盤がなければ、彼は極めて不幸な人です。民はそれをよく感じることができないとしても、それに責任を負った張本人は、誰よりも哀れさを感じるでしょう。彼は、時間を超えてやってくる苦痛を受けざるを得ないでしょう。もちろん、国家的な苦痛も受けなければなりませんが、その環境で起こる苦痛も受けなければなりません。
そのように中心存在は、内外の苦痛をもって、命懸けで生死の岐路を探していかなければならない立場だということを、私たちは知ることができます。
もし、神様がいらっしゃるならば、その神様にも明確に目的があるはずです。その目的はある個人的な目的ではなく、全体的な目的に違いないはずです。神様が、このような全体的な目的を完全に成就させるべき使命をもっている方に違いないとするならば、その方が、どれほど悲惨な立場にいらっしゃるかということを知らなければなりません。その方が能力があり、全知全能な権限があるといっても、その能力を発揮できる基盤と環境が整わなかったために、その方の内的な苦痛と外的な苦しみがどれほど大きいだろうかということを私たちは推量し、知ることができます。
◆神様の願いと正しい信仰の姿勢
それでは、その方が今日この時間に要求することとは何でしょうか。その方は中心を決定することを要求なさいます。家庭ならば家庭を中心として、神様の本意に一致できる家庭の基準を決定することを要求なさるのです。あるいは、国家ならば国家を中心として、その方が要求する国家の目的に代わり得るその中心が決定されるのを要求なさるのです。今日全世界の舞台を中心として見るならば、神様は世界を収拾するための、ある目的を中心として眺めながら進んでいらっしゃいます。したがって、神様はその神様と一致できる一つの基準、一つの中心的な基盤を成し遂げるにおいて、相対的な立場にでもなれる世界を要求するに違いありません。
それでは、そのような立場の神様の前にあって、個人ならば個人、家庭ならば家庭、氏族ならば氏族、民族ならば民族、さらに国家と世界を中心として、果たして天の前に中心的な立場を決定づけ得る存在に、誰がならなければならないでしょうか。
今日、この世界には数多くの宗教があります。キリスト教、仏教、儒教、そのほかにも数多くの宗教があります。その宗教団体の中で、どの宗教が本物でしょうか。本物の宗教は、外郭的なそのような内容をもった宗教ではありません。内的なその心情を通して連結できる基準に立つ宗教でなければなりません。このような立場でキリスト教の教理を中心として見るとき、キリスト教は神様を父母として侍っています。それで、キリスト教はすべての人を「神様を中心とした子女」と言い、神様を信じている万民を「兄弟」と言います。
このようにキリスト教は、家庭を中心として世界へその理念を連結させていくことのできる内容をもっています。それでは、現在のキリスト教が果たして、天が願うあらゆる全体の内容を決定すべき全般的な責任を負うことのできる立場に立っているのでしょうか。立っていないというのです。ですから、今までそのような宗教が現れなかったという結論が出てきます。それなら、そのような宗教が現れてきつつあるのでしょうか。そうであれば、神様御自身は内心的に希望をもつことができるのです。しかし、今もそのような宗教が現れていないとするなら、神様は歴史上のすべての御苦労が大きかったのに比例して、大きな悲しみを感じざるを得ないというのです。
この時代に責任を負っていくべき立場に立っているからには、この時代に対して批判せざるを得ないということを知らなければなりません。
それでは、私たちはここに何をしに来たのでしょうか。ただ一つの目的は、今まで悲しく、かわいそうな立場にいらっしゃった神様の前に、内的な心情の同伴者になろうというのです。それもできないとするなら、外的な一つの踏み台にでもなろうというのです。川を渡っていくのに、踏み石になるか、橋になるかしなさいというのです。神様が目的を成就なさるために渡っていくのに使われる一つの分子にでもなりなさいというのです。このような存在になることができないので、神様は今でも悲しみの中にいらっしゃるのです。
その神様の前に、負債を負うために来たのか、負債を返すために来たのかといえば、今日ここに集まった皆さんは「負債を減らすために来た」という覚悟をしなければなりません。負債を減らすにおいては、私の個体に対する負債だけではなく、家庭に対する負債を清算し、民族と国家、世界を代表して負債を減らすことができなければなりません。私が行かなければ誰かが行かなければならない道であり、私が成し遂げなければ誰かが成し遂げなければならない道です。ですから、「自分自身が天の前に責任を完遂する」という信念を強固にしなければなりません。
◆父の代わりになろうとすれば
それでは、一つの家庭を中心として見るとき、父母のみ旨を継いでいく代身者になろうとするならば、どのようにしなければならないでしょうか。第一に、志を同じにしなければなりません。父母のすべてのみ旨を共にできる人が、父の代わりになれます。そのためにはその息子が、「お母さん、お父さんはこのようなみ旨を中心として、この家庭を立てるために行くんだな」と父母のみ旨を知り、その家庭を導いていかなければなりません。すなわち、家庭の未来を考えて、家庭が歩んでいくべき目的を中心として、その観念に一致しなければなりません。
ところが、ここで共にするだけでは、その父母の代わりにはなれません。そのみ旨を仰ぎ、そのみ旨を中心として実践しなければなりません。また、そのみ旨が永遠ならば、行動の目標も永遠でなければなりません。そのような基点をもたなければ、父の立場に代わって立つことはできません。したがって、父の代わりになろうとするならば、み旨が同じでなければならず、行動が同じでなければなりません。
どのような父母でも、家庭の責任を任せるために自分の代わりを立てるときは、自分よりもできない者を立てることを願いません。息子が父母より優れていることを願うのは、家庭の要求です。民族も同じです。それにもかかわらず、今までの主権者はそうではなかったというのです。
それならば、神様はどのような基盤を中心として摂理の歴史を進行なさるのでしょうか。神様は、摂理を出発できる一つの家庭を探し出すために、今まで歴史の背後を中心として摂理の基盤を築いてこられたのです。それで神様は、その家庭と一致できる国家、そしてその国家を代表できる責任者を探してこられました。そのような代表者を要求してこられました。国家ならば国家を中心として、神様が立てた目的とみ旨と一致させていける人を願うのです。神様が立てた責任者といっても、その責任者を踏み台としてより一層飛躍できる人を、神様は願われるはずです。
このような観点から、私たちは、家庭に責任を負うことのできる代表者になることはもちろんですが、さらに進んで国の代表者、世界の代表者にならなければなりません。そのためには、自分が世界的な基準をもたなければならないのです。
この世界的な基準をもとうとするならば、絶対的な基準に近づかなければなりません。しかし、まず家庭の中心を通らずには、民族の中心を経ていくことはできません。また、民族の中心を通らずには国家の中心を経ることはできないし、国家の中心を経なければ世界の中心として出ていく道理がありません。皆さんはこのような事実を知らなければなりません。
今日多くの人々は、自分を中心としてその国の主権者になりたがり、責任者になりたがるのです。さらに進んでは、世界の指導者になりたがるのです。しかし、そのようになろうとするならば、まず家庭、氏族の門を越えなければならず、民族、国家、世界の峠を越えなければならないのです。それでこそ世界的といえるのです。
人々は栄光を受けることは好みますが、迫害と試練と苦痛を受けることは大概嫌います。しかし、世界的な家庭の中心になるためには、世界的なあらゆる試練と苦痛を克服できなければなりません。すべてが倒れざるを得ない環境でも、自ら立ち上がり、すべてを克服して打開していかなければならないのです。世界的な家庭の中心になろうとするなら、そのようなことができなければなりません。
◆神様に心情的な重荷を背負わせていることを記憶しなさい
それでは、神様は世界的なこのような責任をなさるために、どのように摂理してこられたのでしょうか。神様は、人間が堕落したとはいえ、その報いを受けることを望むお方ではありません。神様は人間が報いを受けなければならないのに、人間に代わって堕落の煩いをはがしてくださろうというのです。人間が責任を負うことができないので、神様が責任を負うのです。
ところが、このすべての歴史を収拾して、世界に責任を負わなければならない神様は、個人に対するにもかかわらず、その争いの舞台は個人的なものではなく、世界史的なものなのです。したがって、その争いは世界史的な争いなのです。そのような争いを経ずには、世界史的な個人を探し出すことはできません。このように見るとき、私たちの個体は微小な存在であり、何ら価値もない存在なのかもしれませんが、神様の御苦労の功績と御苦労の路程を考えるとき、歴史的な結実体とならなければならないというのです。
人間は、堕落したために、神様が喜ばれる息子、娘の姿になることができず、悲しまれる姿になってしまいました。悲しくて、悲惨な孤児の立場に落ちたのです。
このような人間に、幸福の欲望をもたせ、その基準まで進めようとなさる神様の悲しみと苦しみはどれほど大きいでしょうか。喜ぶことのできる立場で生まれ、その道を行っても難しいのに、極めて悲痛な悲しい立場で生まれた人間に対し、最高の喜びの基盤を立てるために引いていかなければならない神様の心を、私たちは知らなければなりません。
皆さん一人のために神様が背負った心情的な負担は、何を捧げても返すことはできないのです。皆さんは、そのような負債を背負っているのです。神様はこのような負債に対して忘れてしまいたいし、関係したくないのですが、サタンはここに条件を出してくるのです。神様は忘れてしまいたいのにもかかわらず、サタンは「なにがしはこのような負債を負ったではないか」と言います。神様は悲しい立場にいらっしゃるにもかかわらず、サタンがそのように食ってかかるので、再度試練と苦痛を受けなければならない、より一層悲しい立場になってしまいました。
このような立場で神様は、神様の代わりを探していらっしゃるのです。ですから、どれほどかわいそうな神様でしょうか。こういう立場を世界的に早く越えたいし、そのような立場を抜け出したい心は限りないのですが、そうできない神様の事情を皆さんは知らなければなりません。神様には、人間の父母となった罪しかありません。
こういう悲惨な立場に立って、神様は代身者を探してこられました。アダム家庭でもそうであり、ノア家庭でもそうであり、アブラハム家庭でもそうでした。また、歴史的なイスラエル民族に対しても、一つの勝利の民族になることを願われました。けれども、勝利の民族どころか、勝利の個人も探せなかったので、神様の悲しみがどれほど大きかったでしょうか。四千年の歴史の御苦労の基盤の上に、そのようにできる一つの個人的な代表者、家庭的な代表者、国家的な代表者、世界的な代表者を探し求めて努力してきましたが、そうできませんでした。
それゆえ、この全体を代表することができ、世界の民族に代わることのできる一人の息子を送られたのです。それにもかかわらず、この方を殺したのです。それは苦労した父の心情の前に、歴史的なすべてを壊した結果になるのです。言い換えれば、罪悪になった世界が家庭の代表、国家の代表、世界の代表としてこられた方を打ったということになります。
それゆえ、個人的な罪の代価を受けなければならず、家庭的な罪の代価を受けなければならず、民族、国家的な罪の代価を受けなければならず、世界的な罪の代価を受けなければなりません。それで、摂理的な立場では選民というイスラエルの国が、歴史上悲惨な路程をたどりながら孤児になり、追われる身になったのです。
◆神様を慰労してさしあげるべき責任を負っている統一教会員
それでは、皆さんはここに何をしに来ましたか。皆さんはただ通り過ぎるために来た人ではありません。必ず何かを一つ決定して、使命的な分野で代身者として立つために、命を懸けて一番勝負をしようとして集まった群れだということを知らなければなりません。
天はそのような個人、家庭、氏族を探し求めているので、個人もそうならなければならないし、家庭もそうならなければならないし、家庭を通じることのできる氏族もそうならなければならないのです。この氏族は、また民族と国家の前に伝統的な思想を残してあげなければなりません。民族と国家だけではなく、この民族と国家を動かして世界に伝統を残さなければなりません。そのために、新しい国家の理念を立てなければならないのです。
皆さんは、それと距離が遠ければ遠いほど、心はより一層切実でなければなりません。その距離が遠ければ遠いほど、その距離を引き寄せ、中心基準をこの時点に立てなければならないのです。今日その基準が決定されなかったために、悲痛な事実が残されるようになったのです。したがって、今日の私たち統一信徒は、遠い距離でも、心情的な一致点をもって天を慰労してさしあげるべき責任があるということを知らなければなりません。
ここで問題になることは、使命的な責任を身代わりする前に、心情的な責任を身代わりできる人がいなければなりません。それゆえ、皆さんは相対的な立場に立たず、統一教会ならば統一教会を代表した主体的な立場に立たなければなりません。歴史が流れてきたその中心の立場で、一度上を見上げ、前を見下ろしてください。果たして皆さんが置かれた立場が、何を批判できる立場でしょうか。そうではありません。その場は永遠に批判を受ける立場です。責任を負うといったので、永遠に責任を負う立場だと考えなければなりません。そのような深刻な立場だというのです。
皆さんは、自ら行かなければなりません。誰かの荷物になってはなりません。死ぬ恨みがあっても、荷物になってはなりません。家庭でも荷物になってはなりません。家庭を復活させなければならないのです。そのようなことができる個人と家庭の形態が出てこなければ、民族と国家を代表できる責任者が出てきても、滅びるのです。
神様が能力がなくて、今まで六千年間苦労したのではありません。問題は、人が神様の前に実績を立て、相対的な立場で踏み台をつくることができなかったので、歴史はひっくり返されたということを私たちは知らなければなりません。ここで責任者が、どんなに責任を全うしたとしても、その責任の前に一致できる対象的な実体が決定され、強固化される前には、その代身者が哀れになるというのです。神様もそうできる対象がいないために、哀れな立場にいらっしゃるのです。
皆さんは、皆さん自身を中心として行くとき、統一教会の食口ならば食口の前に負債を負ってはなりません。絶対負債を負ってはいけません。自分の家庭ならば家庭の前に、「絶対負債を負わない」と言わなければなりません。そのような考えが徹底しなければなりません。氏族ならば各自の氏族がみ旨に対する立場で、人に負債を負わせる立場に立ってこそ、神様も安心できます。こういう氏族が出てこなければなりません。み旨を遠くへ置いて生活する、第三者の立場になってはいけません。
父母が願う息子、娘は、父母が涙するようになれば、その表情だけ見ても悲しむ子供です。その基準において、父母の心痛を自分の心痛として分かるようになるとき、父母が悲しむ立場にあれば、子供も悲しまずにはいられないのです。それが、親子の関係における心情的な絆です。ですから、神様が悲しまれるとき、神様の息子となった立場にある私たちが悲しまざるを得ないのです。そのような立場に立つことができなくては、絶対に父の代わりにはなれません。
◆深刻な生活としてみ旨の道を行きなさい
み旨に対していく皆さん自身と、先生が心情一致をしなければなりません。どんなにできが悪くても、父母と子供の間は直接通じなければならないのです。そのようにできなければ、父母でもなく、子供でもありません。孝子というのは、父母の前で得なことだけを、そよそよと吹く風のように軽く愛を受けようとする子供ではありません。
孝子とは、父母の悲しみに代わって責任を負うために難しい立場を訪ねていき、責任を全うすることによって父母に喜びを返すことのできる人です。父母が十ぐらいのことをするのに、子供が十五ぐらいの努力をしたなら、父母は五に該当する喜びを感じるようになるのです。そのような分野をどのように補い、父母のために捧げられるのかを考えながら努力する人が、孝子なのです。
教会においても皆さんは、教会に困難があるとき、その困難を自分の家庭の困難のように考えなければなりません。また国においても、国家の運命を左右できる責任者の立場に立たなければなりません。国が死ぬか生きるかという立場に置かれたとき、自分の息子、娘の生死が問題になる人は、その国の責任者になれません。皆さんはそれを知らなければなりません。
今までその限界線を越えることができずにうめき、そこで決定づけられない人は、責任者にはなれません。それゆえ、一つの家庭で代表者になろうとするなら、その家庭のあらゆる困難に責任を負わなければなりません。難しいことを分担しようとするのではなく、「全体に責任を負う」と言える人が、全体の責任を負うことができるのです。
今日、統一教会もやはりそのような歴史的な責任をどれほど果たせるかによって、世界の前に早く現れるか、遅く現れるかという問題が左右されます。このような観点から見るとき、皆さんがみ旨を知ったその日から、果たして自分自身がみ旨のための代身者としてどれほど忠誠を尽くし、どれほど苦労をしたかというのです。ですから、今日み旨のために本当に深刻な生活をし、み旨についていっているのかどうかを、もう一度省みなければなりません。
責任者は、言いたいことがあっても、みな言うことはできません。怒りたくても、むやみに怒ることはできないのです。もし怒ったとしても、それが国家的な悲しみや氏族と家庭の悲しみを抱いた立場でそうしたなら、罪ではありません。しかし、自分を中心として批判したり、怒ったりすれば、自ら引っ掛かっていくようになるのです。
責任者として自分が従えている人々を酷使ながら、自分は楽な立場にいるなら、その責任者は讒訴を受けやすいのです。このような観点から、今後、天が要求する代身者の立場を、皆さん自体が発見しなければなりません。そのようになれば、統一教会において、今後代身者はどうしなければならないかという標準が出てきます。また、家庭ならば、どのような家庭にならなければならないかという標準が出てくるのです。そして、氏族ならば氏族、民族ならば民族、国家ならば国家の代身者はどうしなければいけないかという標準が出てくるのです。
このような観点から見るとき、今までは神様の代身者は、世界にもいなかったし、国にもいなかったし、民族にも、氏族にも、家庭にもいませんでした。このような世界が今までずっと残されてきたので、これを再び収拾し糾合するために出てきたのが、統一教会です。
それでは、真の統一教会員はどうしなければならないでしょうか。統一教会が経てきたその道を、自分が行かなければならないという人が、真の統一教会員なのです。国を中心として見るときも、そのような人になってこそ、愛国者なのです。「統一教会が闘ってきた道を、私も歩まなければならない」と言わなければならないのです。
◆統一の道
また、私たちは教派を統一しなければなりません。教派を統一するにおいては、いいこと、誤っていることを分別し得る能力がなければなりません。やたらに統一を主張する前に、統一させることのできる内容をもっていなければならないのです。また、思想を統一しなければなりません。ところが、教派を統一できずには、思想を統一できません。そのような意味で、統一教会は、教派統一の世界史的な責任の旗を掲げて出てきたということを知らなければなりません。
教派を統一するにおいて、霊界が協助してくれます。このような事実は、統一教会に来る人なら知っているでしょう。霊界は、どれほど大きいでしょうか。今まで地上で生まれて死んだすべての人は、霊界に行っています。彼らみな、今後統一教会を協助するようになっています。協助しようとしているのに、信じないので、「心配だ」と言うのです。それで、今霊界では騒々しいのです。
霊界には、仏教を信じていた霊人もいて、儒教を信じていた霊人、イスラム教を信じていた霊人など、あらゆる宗教を信じていた霊人がみな集まっています。このような群れが、協助するようになっています。霊界に統一の運勢が起きているのです。そのようになれば地上にも、どんなに「嫌だ」と言っても、統一の運勢が来るようになるのです。
統一教会が教派を統一しようと主張しているのですが、その統一の方案は、自体の内にあるのではなく、別の所にあるのです。そこが、すなわち霊界です。
統一は必ず成し遂げなければなりません。キリスト教を統一しようというのです。そのようにするためには、私たちすべてが、父の代わりにならなければなりません。問題は、そこにあります。皆さんが家庭に入っていくようになれば、家庭の代身者にならなければなりません。それで、世界のどこの誰でも「私もあんな家庭をもたなければ」と言える、伝統的な家庭にならなければならないというのです。そうして、すべての人が仰ぐ世界最高の代表的な家庭にならなければならないのです。
統一教会は今まで、歴史時代において、新しい伝統を立てるために過ごしてきました。しかし今後は、国ならば国、あるいは世界を率いることのできる実績を積まなければなりません。では、世界を支えることのできる新しい伝統を、どこから立てるのでしょうか。思想的な面において、この世界を支えることのできる伝統を、統一教会が今まで成し遂げてきた歴史と共に立てなければならないのです。
◆父の代わりになれる伝統を立てなさい
では、統一教会の歴史を誰がつづっていくのでしょうか。もちろん、統一教会の先生が率先してつづっていくでしょうが、先生一人ですべてできるのではありません。神様がお一人ですべて成し遂げられましたか。神様もお一人では成せません。ですから、皆さんが必要なのです。それで、皆さんが統一教会の文先生を中心として一つになりなさいというのです。先生がそのようになれる内容を教えてあげているのですが、その内容は万民共通の真理です。その思想についていくようになれば、国を愛する愛国者も国を超えて世界を愛さざるを得ない、新しい歴史が編纂されるようになるのです。
自分自身の人生観を中心とした思想をもっているならば、「そのような思想を捨てても、このような思想をもつことが幸せだ」と言えなければなりません。そうしてこそ、そこから新しい目的の移動が起こります。このような目的の移動とともに個人的な代身者として責任をもっていた人が、家庭的な代身者の責任分野へ上がることができるのです。このような移動がなくては、代身者の領域を大きい舞台に変えることはできません。代身者の分野が広くなれば広くなるほど、そこには試練と苦痛が大きくなるということを知らなければなりません。これは、堕落した世界において絶対的なのです。
そのような蕩減の道は、十字架の道です。ですから、個人的な責任時代を過ぎて、家庭的な責任時代を踏んでいかなければなりません。皆さんが代身者になるためには、このような蕩減をして乗り越えなければなりません。家庭に責任をもち、教会の責任を負っていくのに、二重の十字架があるのです。個人的な責任を負うときは、教会に行ったり来たりすればいいのですが、教会の責任者になったときは、四方性を備えるという、責任者としての使命が加重されるのです。
これからこの世とぶつかっていき、押し進めていって、新しい歴史的な伝統を立てなければなりません。それゆえ統一教会は、現在の統一教会だけの伝統ではなく、未来の新しい伝統を立てるために今まで闘ってきたのです。
そのことをする時には、静かに、静かにしてはなりません。慟哭しなければならず、あらゆる忠誠をすべて捧げていかなければならないのです。それで、私たちが行く道は、おとなしく行けるようにはなっていません。
統一教会の原理のみ言を聞いて、教会に行こうと決心して出ると、試練が伴います。あるいは、「原理のみ言を聞きに行く」と約束しておけば、家に何かの事故が起こるとか、相当なあることが起こります。これは間違いない公式です。なぜそうなのかといえば、個人的な環境でより高く上がろうとすれば、サタンが頂で押さえてしまうからです。
私たちは、罪を清算しなければなりません。統一教会は、新しい歴史的な伝統を立てなければならないために、闘って勝利したという基準を立てなければなりません。そうでなくては、あすの勝利の基盤を成し遂げることができないのです。
サタンは、そのような使命が統一教会にあることを知っているので、必ず打つようになっています。しかし、天は黙って見ているだけなのです。堕落する時も、ただ黙って見ているだけだったでしょう。サタンが起源となって堕落したがゆえに、人間が直接サタンに勝って解決しなければなりません。ですから、統一教会のみ旨の道をついていくことは難しいのです。
では、統一教会は何をしなければなりませんか。あすを代表する者にならなければならないのです。あすを代表する者になるためには、きょうこの時間から伝統を立てていかなければなりません。世の中の是非を、判断できる伝統を立てなさいというのです。その伝統を立てるには、世の中のどの誰よりも、堂々と立てなさい。これが、天が要求する基準であることを知らなければなりません。
新しい伝統は、深刻な立場で立てなければなりません。統一教会は、このような使命をもっているのです。皆さんはどうか分かりませんが、先生は命を懸けて行っています。その道の前にどのような患難が迫っても、それは天道を行く妨害の与件になりません。それゆえ、皆さんもこのような先生についていかなければならないのです。今は皆さんが、先生の垣根になっていかなければならないのです。
◆伝統は主流に相続される
統一教会は、何をしようというのですか。この民族、あるいは宗教ならば宗教において、すべてに責任を負う代身者になろうというのです。その代わり、手段と方法によってしてはならないというのです。内的な核心においてはまじめな立場でやり、外的な面においては春夏秋冬の四季が回るように、そのような道理に従ってやりなさい。責任者の立場に立った人は、絶対に手段と方法によってしてはなりません。手段と方法を使えば使うほど、その教会の責任者は責任を果たせないようになっています。このような時に、その責任者以上に教会のために責任を負おうという人が出てきて、先生と作戦を展開するようになれば、引っ掛かりません。ここには、サタンも讒訴することができないのです。
このような原則を知っていたがゆえに、先生は今まで既成教会に対して、統一教会の誰も知らない祈祷をしてきたのです。そのような内容があって、手段と方法を使えばかまわないのです。そうせずに、手段と方法を使ってはなりません。そしてその手段と方法というのは、啓示によるものでなければなりません。啓示といっても、真実でないものは伝統として残ることはできません。伝統として残されないものは、歴史とともに審判を受けるようになるのです。
今日、キリスト教と世界の数多くの宗教の統一が成されず、うやむやになれば、それは私たち統一教会に責任があるのです。それで先生は、多くの人々より、何人にもならない彼らを中心として、第二の準備をするのです。
統一するために、統一教会の信徒は、どのような道でも行かなければなりません。世界のキリスト教を統一できる、未来に立てられる伝統の土台を、皆さんがつくらなければならないのです。皆さんは、世界の主人です。今皆さんに、神様が「行け」と言えば、行かなければなりません。そのようにできる人が、果たして何人いますか。
また、キリスト教が殉教の歴史をつづってきたので、皆さんはそれ以上の新しい伝統を打ち立て得る人にならなければなりません。先生は、キリスト教の歴史に劣らないことを今までしてきました。先生は三時代を経て、国家を中心として闘ってきました。皆さんの前に堂々と命令できる実績をもっているのです。それが現実の欲望のためだったなら、罰を受けなければなりません。しかし、未来の伝統のために強力に推し進めてきたので、その犠牲によって、未来において決して滅びないのです。その基盤の上で、このようなことが起これば起こるほど、未来の世界はより一層堅固になるのです。
このような境遇にある現時点において、統一教会に対する試練を、より一層強化させる天のみ旨があることを皆さんが知らなければなりません。それはなぜそうなのかといえば、皆さんを新しい歴史時代において、恵みを受け得る民族的な代表者の立場に立てるためです。それゆえ統一教会は、民族の前において代表者として、神様が願う民族的な責任を全うしなければならないのです。
統一教会は、教派を統一しなければなりません。このような混乱時代において、進んで宗教を統一しなければなりません。看板は素晴らしくても、内容がなければならないのです。看板を掲げる前に、まず内容を備えなければなりません。私たち統一教会では、その内容を伝播しなければなりません。先生が自慢しようとして、人々に「集まれ」と言いますか。先生が自分一人を誇ると思いますか。父母は何を誇らなければならないのでしょうか。子女を誇れない父母は滅びるのです。それでは、不具者になった息子、娘が来て、お父さん、お母さんを呼ぶとき、両親はその息子、娘を誇ることができるでしょうか。人に見られはしないかと、抱き抱えて生きるのです。神様が、今までそのような事情の中で過ごしてこられたのです。ですから神様は、どれほど御苦労されたことでしょうか。
そこに神様は、「あなたの息子、娘が立派に生まれたね」というサタンの嘲 弄を受けて、歴史路程を経てこられたということを知らなければなりません。サタンが蹂 躙してきたそれをしりの下に敷くようにばかにすることができ、覆いかぶせることのできる闘いが私たち統一の群れに差し迫る時は、どのようにするのでしょうか。それをうまく捕捉し、喜んで出ていって私の手で処置するという覚悟がなければなりません。そのような激戦に備えて、出ていかなければならない統一信徒であるのです。
皆さんは「主流」という言葉と、「非主流」という言葉を知っているでしょう。木に例えるならば、木には幹があって枝があります。皆さんが元の幹になろうとするならば、横枝にならなければなりませんか、茎にならなければなりませんか。茎は、根からいつも愛を受けることができます。しかし、茎が枝のように育つならば、どのようにしなければならないでしょうか。その木を切ってしまわなければなりません。
サタンは正に、この中心が育たないようにするために責め立て、天は、育つようにするためにサタンと闘ってきました。では、この闘いの判定はどこで行われるでしょうか。それは主流というバトンを引き継ぐとき、行われます。その闘いの決着をつけずには、進展があると見ることができないし、「発展をした」と言うことができないのです。それで、どんなにけんかをしても、勝利が決定しないと、その闘いでは「進展した」とは言えないのです。闘っても終わりがなかったなら、再び一八〇度に戻らなければなりません。中心は二つではありません。永遠に一つであるがゆえに、伝統はその主流に相続されます。
◆主流思想の根源地
主流思想がなければ、行く所が漠然としているというのです。このように見るとき、「統一原理」がここにぴったり合うということが分かります。東洋の儒教思想とかプラトンの思想、そしてキリスト教思想も、すべてそれを通じるようになっています。力の覇権主義ではなく、文化圏を中心として「統一思想」が起こるようになるのです。歴史がそのようになっています。
では、最初の伝統的な主流思想はどこから始まりましたか。それはお父さん、お母さんから始まったのです。国家や世界が願う理想世界は、家庭から始まるのです。この思想的な原則を横的に繰り広げておいたために、世界が広がるのです。すると、父母の主流思想はどこから始まりましたか。それは神様から始まりました。神様の愛から始まらなければならないのです。愛は夜でも良く、昼でも良く、寝ながらでも良く、夢でも良く、逃げ出しても良いものが愛です。これがすなわち幸福の鍵です。世界万民が過去にも、現在にも、未来にも好むことのできるもの、それが正に愛です。その愛に対しては、「革命」という言葉が出てくることができないのです。それでこそ、伝統的な主流思想になることができます。
神様は人間をなぜ造られましたか。顔を見るために造られたのではありません。愛の法度を立てるために人間を造られたのです。神様の愛は絶対的な善なのです。この愛の真のひもを中心として連結されたものが真の家庭であり、真の国家であり、真の世界です。
統一教会は、世界的に何の権勢の基盤をも築こうとはしません。統一教会は聖書六十六巻を解いて、家庭というものに結論をつけました。したがって人類が残される限り、統一教会の思想を受け入れざるを得ません。ある存在が掲げた思想よりも具体的な内容を備え、写実的な根拠の基盤のもとに、歴史的な実証を基盤として理想的な家庭の形態を立てて置いたがゆえに、この思想は世界を征服できるのです。神様の愛を中心として、この世界を征服するのです。それは間違いのない事実です。
今日、十代の青少年が問題になっていますが、なぜそのようになったのでしょうか。父母の愛の懐を離れたためです。家庭からひっくり返ったので、世の中は何も言うことがないというのです。では、今日のこの青少年問題を中心として、誰が秩序を正すのでしょうか。それは、統一教会がしなければなりません。
◆統一主義は、すなわち心情主義
統一教会が何をしようというのでしょうか。思想を統一しようというのです。統一教会の真理は、「左はこうで、右はああだ。あなたは男性で、私は女性だ」ということをはっきりと見分けられる内容をもっています。統一教会は天を代表した宗教として、この世界を代表した思想をもって、散り散りになった思想を正そうというのです。これが正に統一主義です。
この「主義」とは、杖の役割をするということです。橋を渡っていこうとすれば、杖が必要です。橋を渡るのに、二人が行けばその橋が崩れるとしたなら、お互いに先に渡ろうと争うはずです。話し合って渡っていこうというとき、誰が先に渡っていくのかをまた争うはずです。その橋を確実に渡っていけるように役事をするのが、正に統一教会なのです。
皆さんは「息子主義」という言葉を聞いたことがありますか。父母と息子が息子主義の立場に立って一つにならなければならないという、そのような言葉がありますか。その主義は家庭主義の圏内においては通じません。また、家庭主義というのは、家庭を合わせて国家形成をしようとするから必要なものです。国家主義の前には、この家庭主義が吸収されるのです。そして、国家主義は世界主義の前に吸収されるのであり、世界主義は天宙主義の前に吸収されるのであり、また天宙主義は心情主義の前に吸収されるのです。そのような観点から見るとき、今日統一教会の主義は心情主義なのです。
ここで「天宙主義」と言うとき、「天宙」の「宙」という字は何の「宙」の字ですか。家の宙の字です。では、なぜ天宙主義という言葉に、とりわけ家の宙の字を使うかというのです。これは家、家庭を意味するのです。それは天の家から出てきたからです。
ですから、統一教会の祝福を受けた家庭がこの基準から落ちて誤れば、自分の七十代以上の先祖までも引っ掛かっていくのです。このように途方もなく怖いものが祝福だということを、人々は知らずにいます。
天宙主義はどこから来るのかといえば、心情から来ます。統一教会は統一を好むでしょう。統一しようとするならば、三点を通過しなければなりません。それが四位基台というものですが、統一教会は金を払っても買えない、このような四位基台というものを発見しました。この四位基台が成されれば、目的が完成するのです。そのようになれば原因が現れて、結果が現れるのです。このように原因と結果が成されれば、四方はすべてこの四位基台の圏内にあるようになるのです。
それでは、罪とは何ですか。四位基台が成されないことが罪です。原理をすべてのものに当てはめて解いてみれば、身動きできないほどです。原理どおりに生きて、死ななければならないのです。ですから、先生も身動きできずに引っ掛かっています。引っ掛かって滅びるのではありません。引っ掛かって戻るようになれば、回れば回るほど発展していくのです。
塔を積むのに、だんだん高くなるほど、より大きく積むことはできません。上がるほどだんだん小さくならなければなりません。そうして見ると、一番上には一つだけ残ります。その一つの上に、それ以上積むことはできないのです。それで、もっと積んで上がろうとする人は滅びるのです。上がっていれば、必ず下りなければなりません。上がったり下りたりしなければならないのです。そうしようとするなら、中心を確実に握らなければなりません。
皆さんは、世界を中心とした四位基台の伝統を受け継ぐ夫婦にならなければなりません。そのような思想をもった夫婦ならば、この世界を収拾できる息子、娘を生むようになります。それゆえ、統一教会で祝福を受けた人が、先生の基準と一致できる立場で子供を生めば、その子供は伝統的な思想を受け、別の宗子(注:家を継ぐべき子)となって出てくるのです。
◆生きた神様に侍る道を行こう
宗教は縦的であり、思想は横的です。それで統一教会は、行動的な面において、この二種類を兼ね備えているのです。そうして、結局は宗教を通して神様の心情を感じ、生きた神様に侍ろうというのです。宗教だけではなく、思想でも生きた神様に侍ろうというのです。生活的な面で幸福を謳歌することのできる神様、そして真の父母の立場で子女を抱くことのできる神様にしてさしあげようというのが、統一教会の使命です。
このような思想を中心として伝統を受け継いで、私たちはこの地上で代身者の役割をしなければなりません。家庭について見るときも、そのようにしなければならないし、氏族について見るときも、そのようにしなければなりません。氏族が無知ならば、私たちがその代身者ですから、その氏族に教えてあげなければならず、国が無知であるならば、また教えてあげなければなりません。国が残される日まで、伝統が継承される日まで、この使命と責任を続けなければなりません。これが統一教会の使命です。それゆえ、統一教会を指導する先生もたじろがず、強力に押し進めて責任を全うしなければならないのです。
神様に命令されることを、当然行かなければならない道理と理解し、家法として理解し、未来の世界を創建できる伝統的な思想として理解し、厳しく責任を全うする、「統一思想」をもった皆さんにならなければなりません。夜も昼もどのような限界線を越えてでも、ありとあらゆる精誠を尽くす時、世界は「私たちの側になるな」と言っても、近い将来に私たちの側になるのです。このような立場に立った皆さんは、神様の代わりになって家庭、氏族、民族、国家、世界のすべてを愛さなければなりません。
皆さんが従事する分野に世界的な思想を投入して、制限された環境の中で、生涯を捧げて仕事をしなければなりません。それでこそ、「自分がする仕事は、世界史的な仕事だ」と言えるのです。ですから、ありとあらゆる精誠を注がなければなりません。血と汗を流して、全力を尽くさなければならないのです。
私が仕事をする所が、生涯最高の活動場所であり、生の核心を決定する場所だと考えなければなりません。そこで起き、そこで仕事をし、そこで死んでいくことを、最大の喜びだと知り、闘うことのできる皆さんになってこそ、「統一思想」をもった人として、神様の前に恥ずかしくない姿を備えたといえます。そのような立場で、皆さんは神様の代わりとなって責任を成し遂げなければなりません。また、そのような背後をもって新しい出発をしなければなりません。
28. 復帰の主流
一九六八年十一月十七日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十一巻』
「復帰」という言葉は「帰る」という意味です。帰るというのは、根拠地を離れたがために、再びその根拠地を探して入っていくことをいうのです。
◆宗教が願うもの
人類始祖が神様を中心として善の子女として出発していたならば、私たちに「復帰」という名詞と「救い」いう名詞は必要なかったはずです。ところが、このような名詞が必要となったのは、人類始祖が堕落したからです。それで、人類は復帰の運命の道を行くようになったのです。
今日、地球上に生きている数多くの人類は救いを受け、本来の姿勢を備えなければならない運命に置かれています。今後、この地球上にはいつの日か決定的な一つの基準を定めて、復帰の事情をすべて越え、「救いの目的を完結した」と言うことのできる何らかの一個体、一家庭、一氏族、一民族、一国家が現れてこなければなりません。神様と関係をもつ以上、そのようになるまで、天国はこの地上に現れることができないのです。
それゆえ堕落した人間たちは、それが何であるかは分かりませんが、理想の世界を追求しているのです。彼らは自分の行く手にその理想の世界が登場すると思っていますが、それは大変な錯覚です。既に出発する時から、理想世界をつくることができる源泉をもって出発したのではなく、落胆と絶望の悲運をもって出発したがゆえに、終末においても必ずそういう結果として収められるべき必然的な運命に立っているということを知らなければなりません。
今日、数多くの国家が一つの世界を指向していますが、彼らが願う一つの世界が果たしてこの歴史の中に現れるだろうかと考えてみるとき、そうはいかないというのです。なぜでしょうか。人間が出発を誤ったからです。誤った歴史を抱いていく人間の前には、真の基準を全世界的に備えた世界は到来できないということは、必然的な事実です。
それゆえ、新しい理想、新しい世界観、新しい人生観、新しい生命をもった新しい愛、このようなすべてのものは、人類が願う歴史過程そのままを、一段階清算しなければなりません。清算することができなければ、始めに戻って再び探す過程をたどらなければならないのです。これが、堕落した人類の子孫として生まれた人間の運命なのです。宗教は、このような両面の立場を取って現れたのです。
それゆえ終わりの日には、理想世界が到来する前に審判されるようになるのです。この審判を避けることができる人は、歴史的な事情と因縁をそのまま抱いていく人ではなく、それを無にする人です。世の中が流れるままに付いて回るのではなく、そのようなものをけ飛ばして後ろに回って道を避けていく人であってこそ、審判を避けることができるのです。
そうしなければ新しい理想的な出発をすることができないので、宗教はこのような内容を中心として「世の中を捨てなさい。世の中とのあらゆる縁を切りなさい。世の中に近づいてはいけません。世の中と和してはいけません。世の中と断絶しなさい。否定的な立場で新しい覚醒した心を育てなさい」と教えてきたのです。現在を押し進めることができ、未来を打開し、過去を収拾することができるというような覚醒した心が必要なので、宗教は世の中と妥協することを必要としません。
このような点をおいて見るとき、流れいく歴史過程において、そのまま理想世界を迎えることができない悲運に置かれている人間であるということを、私たちは感じなければなりません。こういう歴史的な圏内にある私たちの個体は、この運命にそのままついていってはいけません。これを清算するか、さかのぼるかしなければなりません。個人とか国家を問わず、皆がこういう運命の道を開拓すべきだということを私たちは知らなければなりません。
そういう道を開拓するにも、一気に国家的、世界的に開拓することができるでしょうか。絶対にそうはいかないのです。国家というものは、氏族基準を超えて成されるのであり、世界は国家の過程を経て形成されるのです。
では、この道を行くことができる根本的な起源はどこにあるのでしょうか。それは世界がある前に国家がなければならず、国家がある前に民族がなければならず、民族がある前には氏族がなければならず、氏族がある前に家庭がなければならず、家庭がある前には個人がなければならないのです。
今日、理想天国をしのぶ宗教家たちが救いを叫んでいますが、それは全部個人の救いの目的に結びついているのです。天国も個人天国、極楽も個人極楽を追求してきたのであって、家庭天国、氏族天国、国家天国、世界天国を追求したものではないのです。それでは天国や極楽に行くことはできません。
個人を救うという決定的な完全な基準を備えて、歴史時代に空前絶後の一つの基礎が決定され得る一日を立てなければなりません。そうしてこそ初めて、新しい人生として出発し、天国や極楽に行くことができるのです。
◆代表的な標本が現れるべし
今日、行くべき歴史の潮流の中に置かれている自分自身について見るとき、私たちの心の姿勢は、極めて偉大な理念を待ち焦がれています。今この世界は、一つの家庭圏を形成する理想世界に入ってきています。世界の感情が私たちの感情と通じることができ、世界の事情が私たちの呼吸と接することができる時代圏内に入ってきているのです。
しかし、このようにどんなに外的な基準と形態を備えたとしても、今この世界と共には理想世界へと越えていくことはできません。一つの歴史的な標本が出てこなければなりません。個人ならば個人として代表的な標本が出てこなければならず、家庭的に代表し得る標本、氏族的、民族的、さらには国家形態を中心として、一つの復帰された立場でその原則に立つことができる標本が出てこなければならないのです。その標本的な形態を備えなければ、理想世界へ越えていくことができません。すなわち、標本というものは根になるそれ自体だというのです。
歴史上には数多くの聖賢が生まれては逝きました。彼らは、どうして生まれて逝ったのでしょうか。彼らは、自分の意志によって歴史に何らかの願いを残して逝きましたか。それとも歴史の運命がそのようにさせたのですか。もし歴史の運命がそうさせたのならば、その先烈の運勢は必要ないものになってしまいます。また、彼らが自分の意志によって生まれて逝くとき、何らかの貢献をしたとしても、それも私たちには必要ありません。それは流れていってしまわなければならないのです。
◆終末時代の神様の予告
では、どのような因縁をもって生まれなければなりませんか。天上の因縁をもって生まれなければなりません。神様の復帰の事情を知り、それを必要とする原則に関係を結んだ存在として、天上の因縁をもって生まれた人であってこそ、今日歴史的な願いの世界へ発展する過程で貢献することができ、その一部分となることができるのです。そうでなければ蕩減を受けるようになります。
どんなに彼が歴史上に残した功労が大きくて、今日文化世界を形成するのに大変な貢献をしたとしても、その貢献自体は流れていってしまうのです。では、その動機と内容はどこに基づかなければならないのでしょうか。それは、自らの努力や時代の環境によってつくられた功労の実績を通してできるのではなく、天上の因縁をもたなければならないのです。
皆さんの心は誰を求めますか。真の人を求めています。聖賢の中でも、真の聖賢を求めるのです。では、何が最高の実体ですか。何が主流の核心ですか。言い換えれば、どのようなものが人間として第一基準に立脚すべきものですか。今日、学問や人倫道徳もそのような基準の次元を表してきているにもかかわらず、そういう決定的基準がこの地上にまだ確定されていません。したがって人間が願う目的も、今までこの地球上に実現させることができなかったのです。
道があり、宗教がありますが、それらもまだ、このような目的の一日を迎えることができずにいるのです。いまだに、願いの圏でさまよう氏族になり、民族と国家になり、世界になっています。いくら文化世界を創造して現代のような文明圏を形成したとしても、それは私たちが達成しようとする、最高の目的には何ら貢献できないのです。
このような立場にある人間世界であるため、神様はどのようにしなければならないのでしょうか。一人の標準を立てなければならないのです。このような決定的な基準を予告しなかったなら、神様はいらっしゃらないことになるのです。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・一六)というみ言も、みな空念仏にすぎません。
歴史の終末時代において、神様は予告せざるを得ない一つの基準がありますが、それは人間の中に最高の標準型が出てくるということです。信じる人も信じない人も、人はこの鉄則の法度の過程をたどらなければなりません。それがキリスト教でいう再臨思想です。
その標本が登場するようになるとき、この地球上に初めて個人的な幸福の要件が出現するようになるのです。家庭の出現はもちろんであり、社会と国家の形成も、その方によって新しく天国理念として出発するようになるのです。言い換えれば、復帰の内容を超越した、復帰の因縁から抜け出した立場で、神様と一体となり、神様のあらゆる事情と因縁を備えた人が現れて、初めて地上に天国を顕現することができる土台がつくられるというのです。
そういう個体が現れるようになるとき、その一個体は世界を総合した結実なのです。今日数多くの民族や国家は、この標本を模倣して、「民族思想」とか「民族の精気」とかと言っているのです。しかし、これもその一つの基準の前に、何パーセント貢献できる立場に立ったかというそのような問題を中心として、その国家が歴史にどれだけ残るかが決定されるのです。
神様は愛の神様だというのに、神様が人を造られるとき、ただ御覧になって「良し」として見物だけされるのであれば、愛の神様ではありません。一番近い所に人間を連れてきて愛してこそ、愛の神様であられるのです。人間を民の立場において「私は国王であるから絶対服従しなさい」とおっしゃいますか。そうではありません。国王と民の立場は、あまりにも遠いのです。
では、隣近所の目上の方の立場で愛されるでしょうか。それも違います。父と息子の立場で愛されるというのです。愛の中でも夫婦の愛、父母の愛、子女の愛、この三つの愛の一番核心となった立場で愛されるというのです。
◆愛の関係
人類の先祖は堕落したがゆえに、神様を中心として息子、娘になることができなかったのです。息子、娘になることができなかったので、真の子女になることができなかったのです。そうしてみると、自分勝手に掛け合って息子、娘を生むようになり、そこから氏族が生じ、民族が生じ、国家が生まれたのです。このようなことは、神様の愛を中心として成されなければならないのに、それができなかったからです。平和の世界、理想、幸福、希望の世界とかいうものは、神様の愛を除いてはあり得ないのです。
ある人が、このくらいであれば天上天下にうらやむものがないと幸福を謳歌するとしても、そのような外的なものでは「幸福である」とは言えないのです。幸福を探していく条件にはなりますが、幸福それ自体にはなり得ないというのです。では、何が決定されれば幸福を感じることができますか。愛する父母がいて、夫婦がいて、子女がいなければなりません。これは誰も否定することができません。ここで一つだけをもった人は、そこに該当する比例的な悲しみを感じるのであり、比例的な不満が胸中に残るしかないというのです。
神様もそうです。神様が人間を愛するときは、息子の立場、娘の立場で愛さなければならないというのです。これは鉄則です。皆さんは今、神様の息子、娘だと自認していますが、それなら神様に対して「父だ」という実感がありますか。いくら実感をしようとしても、実際に感じるのは難しいというのです。
神様は確かにいらっしゃるのに、いないようだというのです。親不孝の中で最も大きな親不孝は何ですか。父親が確かにいるのに、その父親について、「父親がいない」と言うことです。それは親不孝の中でも、許すことができない最も大きな親不孝です。
今日、世界では「神様は死んだ」と言う人がいます。神様が生きて私たちを見守っていらっしゃるのに、「死んだ」と言う人々は、審判を受ける日が近づいているということを知らなければなりません。そのような人々は審判を受けなければなりません。誰が審判するのでしょうか。先生が審判するのではなく、神様が審判なさるのです。
◆切ない心情の神様
今日、人類が追求する標本的な人間は、いかなる人間でなければなりませんか。神様が悲しみを感じるのは、愛の実体的相対をなくしたからなのです。愛の実体的相対である息子が死んだがゆえに悲しいのです。どんなに度胸のある革命的な一国の大統領であっても、息子が死ぬようになれば目から涙が落ちるようになっているのです。備わった分野と環境が広いほど、そこに比例する涙を流すようになります。
平民が流す涙は、その人だけのもので終わるのですが、中心的因縁を備えた人が流す涙は、事情とともに環境全体に影響を及ぼすものなのです。彼の統治下にある国民として、その方の悲しみに同伴しない人は反逆者だというのです。
では、神様はいかなる神様でしょうか。神様が本当に私たち人間と父子の関係に立っていらっしゃるならば、アダムとエバに「善悪の実を取って食べたら死ぬだろう」と言って、ただ見ていらっしゃるだけでしょうか。そのような神様は必要ないというのです。
アダムとエバが善悪の実を取って食べようとする時に神様が、「私が心配したようになったな。もう少しだけやってみなさい」と言ったでしょうか。違います。心臓が縮んで、あらゆる感覚が一箇所に吸い込まれていく、そのような立場であっただろうというのです。「それを取って食べてはならない」と血を流し震えて、形容し難いほどの悲しい切なさゆえに、何も考えられないような立場に立たざるを得ない神様であったのです。
そのような神様が、アダムとエバが善悪の実を取って食べている時、見物だけしていたかというのです。神様は、刀があればこの世を切ってしまいたい思いでしたが、そうできない立場にあるので、自らを嘆くしかなかったのです。
そのようなことをキリスト教徒は、「へびがひそひそ話して取って食べたのだ」と言います。原則がどのようになっているかも知らずにいます。ですから、神様がどれほど哀れで、悲惨で、切なかったでしょうか。歴史上の誰よりも哀れで、誰よりも切なく、誰よりも悲惨でした。アダムとエバが善悪の実を取って食べる瞬間、神様は心臓が爆発するような切ない心情をもたれたのでした。
堕落した人類始祖を見て、神様は喜ぶことができませんでした。例えば、おじいさんとおばあさんは言うまでもなく、近所の人々までも真心を込めて千辛万苦の果てに七代の一人息子を生んで、非常に愛して大事にしているその息子が、突然に死んだとすれば、その親の心はどうでしょうか。子女をもっている親はよく分かるはずです。
堕落した血筋を通じて結ばれた因縁も、みな動機があったがゆえに出発したのです。その動機の主体者は神様です。ですから、神様がどれほど重苦しかったでしょうか。皆さんが生んだ息子が強盗の一味になるか、逆賊になるか、奸臣になるのかは分かりません。
しかし、神様が造られたアダムとエバ、その息子、娘は、天下のいかなる歴史時代にも探すことができない代表者でした。その立場で私たちの人類始祖になっていたなら、神様の愛がどうだったかと尋ねるとき、それは説明する必要がないでしょう。説明に先んじるのが愛の力です。神様は、私たち人間を中心として「互いに愛そう」と言いました。その愛は、天地のどのようなものであっても、その事実を防げることができず、説明することもできず、解明することもできません。そのすべての内容を、そのようにしか表現することができないのです。
◆最高の愛をもった宗教であってこそ
このようなことを見るとき、神様は私たち人類の始祖として、アダムとエバを中心として一番の先祖の立場に立って人間を愛さなければなりません。では、そういう立場で愛された人がいたでしょうか。孔子、釈迦、イエス様も愛を受けることができませんでした。受けようとして失敗しました。それで再び来なければならないのです。イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ一四・六)とおっしゃいいました。そこでイエス様は、愛という話をされませんでした。それは、時が至らなかったからなのです。
宗教の中で最高の宗教は、愛を宣布する宗教です。そうでない宗教は、みな必要のない宗教です。人倫道徳だけを主張する宗教は、見せかけの宗教にすぎないということを知らなければなりません。このように考えるとき、キリスト教がどのようにして今日世界的な宗教になったのかというと、愛を教えると同時に、神様が人類の父であることを教えたからなのです。
イエス様はこの地に来て、「私は天宙を代表的する人だ。私は新郎だ。私は神様のひとり子だ」と自信をもって叫びました。このことだけでも、世界的な宗教にならざるを得ない理由になるのです。もし、このようなことを主張するキリスト教が世界的な宗教になれなかったとすれば、神様はいないという結論が出てくるようになります。
愛を議論するとき、どのような宗教の教理にもない心情の骨髄を掘り下げ、父母の愛と夫婦の愛、子女の愛を説いた宗教はキリスト教しかありません。神様がそういう地位をもっていないことが堕落による恨になったがゆえに、これを解怨するための基盤を備えるためにも、キリスト教が世界的な宗教として登場せざるを得なかったというのです。
それで、来られる主はこの宗教を敬って全世界を解放させるために、神様の息子、すなわち愛の主体として来なければならないのです。神様の前でアダムとエバが堕落せず、創造の法度に立脚して完全な愛を受けなければなりませんでしたが、そうすることができる一人の男性がこの地球上からいなくなったがゆえに、再び立てなければならないのです。それで失う前の立場、それ以上の立場まで上がって、神様の愛を受けなければなりません。
それでイエス様は「私はひとり子だ」と、粋なことを言ったのです。神様の息子の役割をする人は多いのですが、神様の愛は誰でも受けられるものではありません。「父」という言葉が使われる所は多いけれど、父と言うからといってみな父ではありません。本物の愛は、心情の骨髄に潜んでいる愛を全部注いで愛するのです。
その愛を全部もってくることができる立場、その立場が正に一人しかいない息子、「ひとり子」という言葉が出てくることができる立場です。神様の胸中に埋められていた本然の愛が、堕落することによって神様の恨みになってしまったものをみな打破してしまい、神様の愛を全部身にまとってこそ、天地間に初めて現れる神様の息子になるのです。
このようなことを見るとき、イエス様は愛を中心として万民を救うメシヤです。すなわち、愛の救世主です。人類が神様の息子としての権威をなくしたことを回復してくださる救い主です。また、子女の立場を復帰してくださる主人公です。救い主はこのような方として、男性として来られたのです。ところが、男性だけではいけないので、新婦を探さなければなりませんでした。しかし、イエス様は新婦を探す過程でみ旨と願いを成し遂げることができずに死んだので、再び来るという再臨の理想を残されたのです。
今までの六千年の歴史は、神様の愛に接ぎ木することができる男性を探す復帰歴史でした。男性として天の前に登場し、神様の愛の法度に治められる勝利的な標本、その基準を合わせておくための人々が聖人、烈士、偉人です。そこには、孔子、釈迦などの多くの人々が含まれます。大きな仕事をしようとすれば、その裏面に必要とする与件を備えるように、キリスト教が世界的基盤を築くところにおいても、数多くの宗教がみな必要だというのです。それゆえ、今までの歴史は標本的な一人の男性を探してきたのです。
皆さん、宇宙の星が回るのを考えてみてください。大きいものは大きいものなりに、小さいものは小さいものなりに、無数の星が休まずに正しく回っています。ところが、驚くべきことに、衝突せずに今まで安全に回っているのです。このような宇宙を造られた方が、正に私たちの父だというのです。これは驚くべき事実です。
◆標本的な男性
そのような方が父であられるので、私たちは喜んで自慢しなければなりません。喜んで千年、万年愛しても、その年月が短いのです。そういう神様を本当に知れば、死んでも感謝、生きても感謝、奉仕しても感謝、どのようになっても感謝するだけなのです。この大宇宙をすぐにでも主管することができる原動力である主体の権限を知るようになったので、万世に自慢し得るのです。
ここで先生を紹介しようとするのではありません。生まれて目を開けてみると、息子になったというのです。ところが、その父を捕まえて殺そうというのですか。この地球星をみな自分のものにしようという度胸もない人が、神様の息子になることができるでしょうか。できないというのです。
神様の息子になれば相続をさせてくれます。なぜなら、限りなく愛することができ、絶つことのできない特権的な因縁をもった実体と化したからです。その因縁は、お金によっても絶つことができず、原子爆弾によっても爆破することができません。誰がいくら威嚇し、いくら何と言っても「その方が私の父だ」という事実を否定することはできません。それで、今後標本的な男性が来ますが、彼はどのような人ですか。全宇宙を治めるために来る人です。
では、復帰の主流は、どこに流れていくでしょうか。神様の愛を中心として一人の男性と一人の女性が、神様の立ち合いのもとに結婚式をすれば良かったのです。しかし、神様の息子、娘を誰が結婚させましたか。サタンです。
そのようにして人間が堕落したので、完成した一人の男性が来なければならないというのです。人間の堕落は、誰が動機になったのでしょうか。女性です。それで、女性は今まで男性に蹂 躙される悲しい歴史を歩んできたのです。無念だったのです。それゆえ、統一教会では女性が率先しなければなりません。
ミス・コリアとかミス・アメリカとかいうそのような運動は、ミスターを迎えるための前 哨戦でしかありません。私たちは、そのような摂理的な内容を知っていますが、キリスト教徒は今、この摂理の内容がどこへ進んでいるのかを知ることもできません。いつもそのようにミスだけが出てくるのではありません。ミスターが出てくるのです。それを知らなければなりません。まず新婦が準備されてこそ新郎が来るのではないですか。世界的に立派な新婦が準備できたという時代になれば、ミスターが来るようになります。世界的なミスターとして、その方が来られるのです。
これが各宗教でいう再臨主や、弥勒仏や、真人などを中心とした再臨思想です。神様が一等のレッテルを付けて送るミスターが、世界的なミスターです。その方が来られれば、全世界の男性たちが跳び上がって回りながら称賛するでしょう。どれほど素晴らしいことですか。たとえ堕落の役職についてきたとしても、彼らはミスターを探したというのです。
こういう観点で、宗教は素晴らしいというのです。先生はそれを知りました。しかし、皮だけに一等のレッテルが付いてはいけません。中身に一等のレッテルが付かなければなりません。そのレッテルが外に見えれば分かりますが、中にあるときは、誰がどんな技で知ることができますか。表面が悪いからといって、中も悪いということは絶対にありません。
◆真のミスターが登場するとき�\―神様の笑いのふろしき包みがはじけるとき
もし先生が、皆さんに「全部出てきなさい」と言えば出てきて、「地の中に入っていこう」と言えば入っていき、「山に登ろう」と言えば登ることができますか。「私は女だからそのようなことができません」と、そう言っていいですか。
その方が青春の旗を掲げて天下にお出ましになるときは、天上世界と万国の存在という存在は全部歓迎しなければなりません。孔子もイエス様も、全部手を挙げて歓迎しなければなりません。そうして、神様の笑いのふろしき包みがはじけるべきではありませんか。
今まで六千年間、死んでいた息子、娘が息を吹き返すことを願いながら、復活を願いながら来ましたが、死んだ子供を眺める神様が、どうして笑うことができたでしょうか。その神様は、堕落しろと祭祀を行っても堕落することのない息子、娘を見てこそ、初めて笑いのふろしき包みがはじけるのです。そのようなミスターが登場すれば、神様は笑わざるを得ないのです。
神様は真理の大主人であられるので、その方の笑いのふろしき包みがはじけないと、この不運な世の中に救われる道がありません。人類の父母であられるその方の笑いのふろしき包みがはじけてこそ、息子が笑うことができるのです。先生の願う主体的な標本、すなわち標本的な男性は新郎です。ところが、新郎であられるミスターだけが来ていいですか。彼に似合う一人の女性がいなければなりません。キリスト教は新婦の宗教です。したがってキリスト教は、男性として来られる主の前に世界的な女性の標準を完成しなければなりません。
この地上に、一人の男性が出現するようになる時、一人の女性も出てこなければならないというのです。では、その男性と女性が出現して何をするのでしょうか。女性から堕落して男性に移されたので、その時に失ったものを神様の愛の中に入っていって、再び探さなければなりません。そうでなくては新しい出発ができません。その女性を探してこそ、初めて人間を救うことができる救い主になるのです。しかし、男性的な救い主だけでは完全な救いは成就しません。完全復帰になり得ないというのです。
◆父母としての救い主が現れてこそ
今後、世界で新しい歴史が進められ、天地が開 闢し得る事件が起こるとするならば、その事件とはどのような事件でしょうか。戦争で世界が統一される事件ではなく、天地の大運勢によって、神様の偉業を相続された男性の前に一人の女性が現れ、神様がその男性と女性に結婚式をしてくださる事件です。その日が天地が開 闢する日としての、キリスト教でいう「小羊の婚宴」です。
堕落によって人類は、偽りの父母の血統をもって生まれました。ですから救い主が出てこなければならないというのです。イエス様も完全な救い主になることができなかったので、新しい救い主が現れなければなりません。イエス様は聖霊としての救い主でした。しかし、それだけでは救いの目的を完全に達成することができません。神様のひとり子になるには、相対がいなければなりません。したがって、父母としての救い主が来なければなりません。堕落によって、人間たちが偽りの父母の血統を受けて生まれたので、真の父母が来なければならないというのです。
今までキリスト教では主の名前で祈祷しましたが、先生は真の父母の名前で祈祷します。そのようにすることには深い内容があります。
今後世界に天国が実現し、世界が天国に達することができる時になれば、一つの国家的な選民が重要になります。それでキリスト教徒は、その一つの国家を成し遂げるために来られる主を迎えることができるようにと、献身的に祈るのです。
◆韓国を第三イスラエル選民として
今までの歴史には、神様を中心とした選民思想があります。では「選ばれた民」、すなわち選民をつくって何をするのでしょうか。選民は天民にならなければなりません。ところが、今人類は悪民になっています。世界人類は悪民だというのです。ですから、その中で選民にする仕事をしようというのです。悪民を修理して選民にしようというのです。堕落した世界の悪民の中から選民思想が出てきたのです。
これを見るとき、歴史過程に選民思想をもって現れたユダヤ人、イスラエル民族は悲惨な民族のようでしたが、その民族は善なる民族です。その民族の胸中を聞いてみれば、六千年の歴史がよみがえり、人類歴史の根本がよみがえってきます。また、そこから神様が出てきて、歴史的なあらゆる聖賢が出てくるというのです。そのようなあらゆる伝統が、先生の原理に込められています。それは何ものも及ばない伝統的な思想をもったものなのです。それが選民思想です。
選民思想は、ある民族に限定された主義や、イスラエル民族だけのための思想ではありません。神様は唯一神であられるにもかかわらず、歴史を見るとき、ヘレニズムとか様々な思想が出てきて、神様を悲愁に染めたのです。
イスラエル民族が、その時イエス様を完全に知ったなら、彼らは今世界を支配する民族になったはずなのに、イエス様を殺してしまったがゆえに、その罪で二千年間流浪の民になったのです。そのようにして、一九四八年に再び春を迎えようとする歴史が展開し、この地に新しい天の主義が現れたのです。そうして解放され、新しい時代を迎え、再臨歴史時代に入ったのです。相手のいない歴史と、目的のない歴史は滅びるのです。
今日、先生は何をしますか。イスラエル民族の代わりに韓国を第三イスラエルにしようというのです。先生はこのような欲をもった人です。それは先生が頭が良く、飛躍的な知恵があってするのではありません。そのように考えてみたことは一度もありません。また、先生が他の人々の前に立ってみたくてその仕事をしようとするのではありません。その背後には途方もない秘密があり、立つまいとしても立たざるを得ない立場にあるために、今までこの道を歩んできたのです。
第二イスラエルは選民を形成しましたが、み旨を成せなかったので、これを第三イスラエル選民を中心として、世界に選民思想を移してあげようというのです。
歴史は追われる群れの革命としてつづられ、収拾された事実を否定できないというのです。彼らは追いに追われる立場を踏み越えて、自分の希望を大きな所に置くことができる自主性をもちました。そのような主義と思想をもつようになれば、将来は希望に輝き、新芽が出てくるというのです。
これから皆さんが知るべきことは、各自の心に選民としての自負心と自主性をどのように爆発させるかということです。死んでいく運命の道、瞬間に生命が左右される環境でも、この仕事に力を注いで死ぬことができる者にならなければなりません。
それでこそ、生命が死からよみがえるのです。その力をもたなければなりません。その力の何によってそのような立場に入籍できるのでしょうか。神様の愛、本然の愛です。先生は父母の心情をもって僕の体を使い、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流し、この道を歩んできました。
◆理想世界は既に習った事実だけでは成し遂げることができない
そうすることができる人は、罪悪にも勝利します。もし先生が皆さんならば、じっとしていなかったでしょう。先生はこの道を開拓し、皆さんが知らない中で背景を備えました。それで、あらゆる曲折をたどり、この道を開拓しながらも、このように死なないで生き残り、今日再び皆さんと対面したのです。
先生が話すことは、この時代を先に見通して言っているのです。先生が知っていることを人々に尋ねれば、「習わないことを私がどうして分かるか」と答えます。しかし、習わなかったために知らない人は、ただ習った圏内のことしかできない人です。私たち人間世界に、新しい理想世界を成し遂げるには、既に習った事実だけでは成し遂げることができません。習わない未知のものも行うことができる力をもたなければなりません。その時に行われることは、自らの力によって行われるのではなく、摂理によって行われるのです。
悪民から選民に、選民から天民に、このような段階で復帰していこうというのです。選民になったといって、そのまま天民になるのではありません。真の父母が出てこなければなりません。そうして、天民の権限をもって、天子と天女をつくらなければなりません。
◆息子を救おうとする父母の心情
皆さんは観念的な生活観、観念的な心情観を捨てなければなりません。そうして、そこに統一教会の信徒としての生活観を植えなければなりません。統一教会の生活観は天民観です。
今後、私たちが行くべき希望の天国には、どのようにして入っていかなければなりませんか。アダムとエバが堕落することによって、初めから誤って植えたので、そのように収めなければなりません。ですから、それを踏み押さえることのできる、ある輩が出てこなければなりません。この世界は、アダムとエバが堕落したために、大豆を植えた所に大豆が生え、小豆を植えた所に小豆が生えるように、堕落した人間たちが生まれてくるようになったのです。
人類歴史は、アダムとエバが十六歳の少年、少女のとき、神様の天道を離れて自分たちで勝手に愛するところから出発しました。世界的な終末である今日、青少年たちが腐敗するのも、その結果であるということができます。秋を迎えれば実を収めることができるのと同じです。青少年たちが、自分たちで勝手に堕落するのは、先祖が誤って蒔いた種を収めるためなのです。統一教会は、それらを完全に打ち払うために現れたのです。
力で入ってくれば力で征服しなければならず、頭で入ってくれば頭で征服しなければならず、権限で入ってくれば権限で征服できる皆さんにならなければなりません。そのようにして悪の根を抜かなければなりません。
そのように蒔かれて、そういう仮面をかぶって、恨の逆境の中で歴史とともに今日まで来た人間たちが、ここから抜け出すためには真の父母が現れなければならないのです。偽りの父母の出現で、今日まで嘆息の歴史がつづられてきたがゆえに、真の夫婦である真の父母が、天地間に現れなければならないのです。キリスト教に「神様を中心とした新郎新婦」という言葉があるということは、こういう面で先生にとっては、準備された環境の中の環境であり、希望の中の希望であり、解怨の目的を成す望みの中の望みなのです。
歴史が行き違ったがゆえに、そのような一基準をこの地上に提示しなければ、新しい世界を開拓することができません。これが天倫です。人間を神様の前に近づけて、神様に仕えるようにしたのがキリスト教です。今や聖書は根本的な問題を明らかにしなければなりません。
主が雲に乗ってどのように来ますか。飛行機に乗ってくるなら分かりますが、主は雲に乗って来ません。そのようなことを言っていては、霊界に行って億千万年讒訴されます。
父母が天倫の原則とともに生活した因縁がこの地上に立てられる日、人類の本性の人倫道徳が天地に創建される役事が起きるでしょう。
今日、家庭を脱する不幸な青年男女の多い原因が、どこにありますか。天倫の法度に一致した愛を喪失したからです。それで家庭を中心として、神様がその家庭に座ることができる、天地父母が顕現しなければならないのです。
これからは、イエス様が一人でいらっしゃったのでは、救い主になれません。堕落した私たちを救ってくださるとき、父母の立場で救ってくださらなければなりません。息子がおぼれているのに、その兄を見て、「お前の弟がおぼれているので、救ってやれ」と言う父母は偽者です。神様は真の愛の父であられるので、父御自身がこの地上に来られ、父母の資格で人間を直接救ってくださるというのです。
息子が死亡世界で呻吟し、救いを求めるとき、救ってあげたいのが父母の心情なのです。それで、そうすることができる橋を架けてあげる使命を果たすために、イエス様を送ったのです。その橋を通じて、父母として、人間自らに救いの門を開けさせようというのでした。したがって、これからこの天地の終末時代には、父母が来なければなりません。
◆統一教会は絶対的な宗教
そうして、新郎が新婦を迎える小羊の婚宴が行われなければなりません。その婚宴をするときは、六千年前に神様がアダムとエバを中心に結婚式をしてあげようとしたのに、彼らが悪民として出ていったので、再び春を迎えて初めて、神様の立ち合いのもとにそれを真の人類の父母として登場させる瞬間だというのです。これが正に再臨思想です。
その父母は、真のオリーブの木として来られ、堕落した人間の野性のオリーブの木を切って捨てて、真のオリーブの木の枝に接ぎ木をすることによって、この世の野性のオリーブの木を真のオリーブの木にして地上天国を完成しようというのです。これが神様の創造目的です。
したがって、今後は父母として万民を救うことができる宗教が出てこなければなりません。宗教の立場で世界を救うことができる家庭の救い主になって、世界の多くの家庭に対して「家庭はこうあるべきだ」、「天道、天倫、天理に従って立てられた家庭は、こうあるべきだ」という、すべての家庭が肯定できる道理を立てなければなりません。そうして、家庭を早く一遍に救わなければなりません。
このような家庭の法度を通じた救いの道理を、父母が従い、息子が従い、家庭が全部天国に行くことができるようにするのです。父は地獄に行き、母は天国に行けばいいのでしょうか。父母の救い主として家庭に対する救い主の使命を完結し、その次に氏族、民族、国家、世界にまで救い主として登場し、新しい世界をこの地に成し遂げなければなりません。
今まで世界の数多くの民族、あるいは五色人種がつくった文化圏の世界を全部打破し、一つの文化圏をつくらなければならないのです。言い換えれば、神主義的な家庭制度、神主義的な社会制度、神主義的な国家制度、神主義的な内容を備えた理想世界が成されなければならないのです。
そういう主義が、堕落しない完成したアダム主義です。民主主義でも共産主義でもない、アダム主義です。それは神主義を探していく過程です。主義というものは、ある目的を探していく杖です。主義自体が要求されるのではなく、目的を成し遂げるにおいて必要とする過程であるので、この主義というものは変遷するのです。今日、米国が民主主義の宗主国として先進国家といいますが、今後お金によって腐敗するようになり、民主主義を嫌う時が来るでしょう。
◆天宙主義
私たちは、この地上で家庭を中心として天国を建設しています。それゆえ、先生は合同結婚式をしてあげるのです。実践しなければならない歴史的使命があるので、生命以上の価値をもってこのようなことを断行するのです。
私たちは、故郷の地を奪還しなければなりません。故郷の父母を奪還しなければならず、故郷の家庭と氏族、民族、国家、世界を奪還しなければなりません。そのためには、失ったものを復帰していかなければならないのです。
アダムとエバが堕落することによって、天地の大遺業を相続することができる神様の息子、娘としての権威と体面を喪失してしまいました。また、神様と心情一体となり、祝福を受けることができる家庭的起源を失いました。それによって偽りの息子、娘を生み、そうしてみると偽りの氏族、偽りの民族、偽りの国家、偽りの世界になったというのです。
今日、復帰の途上に立った私たちが奪還すべきこととは何でしょうか。真の父母を奪還し、真の父母の愛を奪還して、真の父母の血統的な子女にならなければなりません。それで、真の父母の氏族を成し、真の父母の民族と国家と世界を成し遂げ、天上の大法度を立てて、神様を解怨成就してあげなければなりません。それが先生の天宙主義なのです。
◆復帰の主流には伝統が必要
では、復帰するための主流思想は何でしょうか。福地建設です。これは絶対的な神主義を中心としたものです。神様は私たちを愛する父母であられるので、父母がうれしく、最高に幸福であってこそ、その子女も幸福であるといえるのです。それゆえに、福地建設をしなければなりません。
皆さん、復帰の主流には伝統が必要だということを知らなければなりません。世界を復帰するために、伝統が必要だというのです。そうするには、福地建設の起点がなければなりません。その起点が故郷の地です。
故郷をなくした人間、故郷をなくして郷愁にひたる人間は、復帰という悲しい仮面をかぶり、蕩減という難しい峠道を回って故郷を探さなければなりません。国の幸福がある前に、故郷へ行く幸福の通路を整えて、その国を解放しなければなりません。
私たちが福地を訪ねるためには、拠点がなければなりません。故郷の地に行くには、父母がいなければならず、兄弟がいなければなりません。それで私たちは「食口」というのです。千年、万年恨を解いて見つけた食口として、一人の天地父母に仕え、永遠に別れられない絆で結ばれた兄弟だというのです。
私たちの生活の中で、世の中の何よりも近い内容をもったこの「食口」という感情があふれて流れない限り、統一理念は成し遂げることができません。
韓民族は、今後世界が歓迎する民族になるのであり、私たちが待ち焦がれるその時は、名実共に来ることでしょう。ですから、私たちは足取りを合わせて、世界へ行進しなければなりません。どこに行っても、私たちを防げることができない、自由の天国舞台を成し遂げるために、死力を尽くし、最善を尽くして闘っていかなければなりません。
◆復帰の主流
皆さんは、復帰の主流の行脚を知らなければなりません。アダム家庭のアベルが血をまいておいた、復帰の路程を死守しなければなりません。ノアが百二十年間、険しい環境に追い込まれながらも死の道をさまよう環境に勝ち、自分に任された責任を全うするために、千辛万苦した復帰の行脚を死守しなければなりません。
アブラハムが、幸福に暮らすことができる故郷の山河をみな捨てて放浪者となり、夜には星を眺め、昼には虫の声を友にして天命に従ったそのすべての事情も、復帰の因縁を残すためのものではありませんでしたか。パロの宮中で王子の権限をみな捨てて、追い込まれるイスラエル、迫害されるイスラエル、苦労するイスラエル民族のためにぼろの服を着て立ち上がったモーセも、復帰の行脚にモデル的な一つの奇跡を残すためにそうしたということを知らなければなりません。
そうして、四千年歴史のイスラエル民族を蕩減して収拾するために、洗礼ヨハネが現れたのです。イエス様を中心として責任をみな果たし、天的な因縁に従うために、荒野でいなごと野蜜を食べながら準備した彼のすべての生涯も、復帰の行脚路程を提示したものだったのです。
ところが、イエス様を奉ることができず、千秋の恨になったのです。そうして、この地上に勝利の起源を立て、天国を建設しようとしたイエス様の願いが、今日全民族的な恨として残りました。世界のキリスト教が、犠牲の血を流して戦い、民主世界を成し遂げたことを考えるとき、ここにどれほど多くの血の代価が込められており、どれほど多くの涙とため息が漂うのかということを、私たちははっきりと知らなければなりません。
その恨の要件と血の要件を探してきたのが統一理念です。それゆえ、今日私たちが自分の観点や生活圏に閉じ込められていては、何も主管できないというのです。一つの心、一つのみ旨、一つの行動で、一つの爆弾になって、ある一時に敵陣に飛び込んで爆発しなければならないのが、私たちの使命なのです。
この体に、この胸に矢が交錯して打ち込まれ、死の途上に出て受難に遭いましたが、先生は天命に従うために死のうとしても死ぬことができず、この道を行くまいとしても行かざるを得なかったのです。大の字になって昼寝をすることができるその日まで、耐えることを生活哲学としてきました。しかし、単純に耐えることだけで終わるのでなく、サタンへの恨みを晴らして悪から脱皮し、善の起源を創設するために大道の原則を率いてきたのです。
ですから、皆さんは統一の名前を表明して、永遠に輝くことができる伝統の基礎を立て、それ自体が一つの化身体となって、「なにがし」と言えば歴史が感動することができるように、涙なら涙、血の汗なら血の汗、その血涙なら血涙を天地のために流し、天地を抱き締めて因縁づけることができる一生を生きなければならないのです。これが今日、私たち人間の生活原則です。
皆さんは、神様が今まで決断しようとする、緊急な事情があるということを知らなければなりません。歴史上のすべての主義と思想を、アベルから、ノア、アブラハム、モーセ、洗礼ヨハネ、そしてイエス様と彼の十二使徒と数多くのキリスト教徒が今まで期待し願っていた、総合的な実体を見いださなければなりません。
皆さん、故郷の地を訪ねなければなりません。故郷を愛するすべを知らない人は、国を愛することができないという事実をはっきり知らなければなりません。
29. 私たちの因縁
一九六八年十一月十七日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十一巻』
この地上には数多くの人々が生きています。その数多くの人々の大多数が、自分を中心として考えています。しかし、自分を中心として願った望みがすべてかなうかというと、そうではありません。
◆歴史的な因縁をもっている私
ある存在物が存在するためには、必ず動機がなければなりません。それと同様に、「私」という存在も動機があってこそ存在し、その動機の前に結果の立場にあるということを知らなければなりません。しかも、人間始祖が堕落してから、六千年という歴史過程が過ぎた現在の視点から見るとき、自分個人の存在の裏面に歴史的な因縁をもっています。また、ある国ならば国、世界ならば世界にもそのような因縁が絡んでいます。それで、過去と現在の因縁を中心として、一つの目的に向かっていくことが、人生の道だというのです。この人生の道を歩みながら、大多数の人々は自分を中心に考えて行動します。
しかし、今日堕落した私たちの人生において、自分だけを中心としてすべてが処理され、自分だけを中心としてあらゆる幸福の与件が解決できるかといえば、そうではないのです。自分自身にある問題の新しい解決点を探すためには、必ず歴史に絡んだ事情を解決しなければならず、時代の事情を中心に完全に解決しなければ歴史が願う立場、あるいは時代が願う立場に立てないのです。したがって、このような決定的な位置にある自分自身が過去と現在の立場を完全に解決できなければ、歴史の因縁を抜け出せないのであり、時代の因縁を中心として新しい出発をすることができないのです。
このような観点から見るとき、歴史は今まで一つの願い、言い換えれば、ある目的に向かって進んできたということが分かります。また、この時代も一つの願いの世界に向かって進んでいます。ところが、過去に願った望みと現在に願う望みに差があれば、私たちの人生において新しい幸福への出発はできません。したがって、過去と現在に願う目的の基点を「私」の一代でどのように解決するかということが問題です。
◆動機と目的を失った現世代
それでは歴史について見ると、今日人類が出発した動機が、目的を成し遂げることのできる動機として出発したかといえば、そうではなかったのです。人間は堕落したがゆえに、目的を成し遂げることのできる動機を失ってしまいました。目的を失った立場で、今まで正常な道に従って出てこなかったのです。時代、時代に従い、回り回る曲折の路程を経てきたことを考えてみれば、いかなる曲折によってそういう環境に置かれるようになったのかを知らずにいたのです。動機も失い、方向も失った放浪者の人生行路を歩んでいたのです。
それで今日、国家ごとに願う目的がすべて変わるようになったのです。甲という国の立場で追求する目的と、乙という国の立場で追求する目的の方向が違うのです。また、各個人が願う目的は、国家が願う目的基準とは遠い距離に離れています。それゆえ、過去にそのようにして、現在もそういう立場に置かれている自分自身が、果たして一つの目的に向かうことのできる正常な立場に立っているかということを考えてみると、そうではないということはあまりにも当然なのです。
しかし、一つの目的に向かうことのできる動機も失い、目的に向かう方向も失った人間が、現在においてどのようにしなければならず、また目的の出発を知ることのできるその動機、目的の方向を整えることのできるその動機の内容と方向を完全に決定せずには、現在の視点を中心として全世界的な評価を受けることはできないのです。それゆえ、歴史的な出発の動機があれば、その動機が出発できる方向が、今日の「私」を中心として追求する内容になっていることを確実にしなければなりません。
この歴史的な動機をもたず、この方向を一致させ得る立場に立つことができなければ、私たちがどんなにこの地上で成功し、どんなにその国が富んで発展し、栄光と幸福の場において世界に誇ったとしても、それらは全部流れてしまうのです。流れてしまえば、それは歴史的な因縁とは、何ら関係もないということをはっきりと知らなければなりません。
◆堕落人間にとって一番重要な因縁�\―動機の因縁
では、ここで「私たちの因縁」ということを中心として考えるとき、その因縁の基点がどこになるべきで、因縁の方向がどのように行くべきで、因縁を通じ得る目的がどのようになるべきかが、人生行路において極めて重要なのです。したがって、この動機が何であり、どの方向に行かなければならず、その目的がどこに行って帰結されるかということを確実に知らなければなりません。
これを知ってその道に入るとき、初めてこの因縁を中心として見られる一つの観、それが世界的で、全体的な分野を中心として今までそのような動機と方向と目的が一致することのできる内容の基点に立って、今日の世界的な因縁が私と関係しなければなりません。これが決定された立場に立たずには、世の中のいかなる幸福が訪ねてきても、その訪ねてきた幸福と私とは一つになることができないのです。この地上に誰を問わず称賛するどのような方が来られたとしても、その方と私とは因縁を結ぼうとしても結ぶことができないということを知らなければなりません。
堕落した私たち自身の人生において最も重要な因縁は、目的を探していくその因縁の道も重要で、現在方向を整えて一日一日生活することも重要ですが、それよりも重要なのは、動機となることのできる因縁なのです。すると、その中心動機とは何であり、また動機の因縁ということを解決できない人間は、どんなに身もだえしても、どんなに努力したとしても方向が変わるようになり、その方向が違うために目的とするその目的点も他の結果の場に現れざるを得ないのです。言い換えれば、一生の間自分が欲しいものを持ち、食べたい物を食べ、願いをかなえたとしても、それは本然の願い、本然の目的を達成できる場ではないというのです。かえって、今日に至るまでの過ぎた日を後悔して、嘆かざるを得ない悲しい場に行かざるを得ないのです。したがって、私たちの因縁の中で、最も重要なものは動機の因縁なのです。
◆神様のみ旨と願いと目的を失った人間
今日全世界に生きている人類の誰彼を問わず、すべて堕落した因縁をもって生まれました。その因縁はどのような因縁かといえば、離脱しようという因縁です。統一されて糾合しようという因縁ではなく、分立しようという破壊的な因縁です。すべてを占めることのできる因縁ではなく、失う因縁です。それゆえ、私たちが原理を通して知っているように、堕落した私たちは神様のみ旨、神様の願い、神様の目的を失ってしまったのです。
では、神様のみ旨、願い、そして目的とは何かというと、今日の私たち自体だというのです。神様のみ旨、願い、そして目的が、他の世界や国家を立てることではなく、本然のアダムとエバを立てることでした。すなわち、アダムとエバ自体だというのです。そのアダムとエバが父の因縁と一体化するときに、そこには真の人がつくり出されるのであり、真の家庭が築かれるのであり、真の国家と世界が築かれるのです。
では、私たちは何を中心として生まれ、何を中心として行くべきであり、何を目的として行くべきなのかについていえば、神様を抜きにしては絶対に駄目なのです。神様を抜きにしては、動機のない因縁になるのです。動機をもっていない人は、あることを成就させようとしてもその結果は得られず、価値を認められないのです。
ある建物を建てるとき、設計者が設計した設計図に従って建築をします。設計の原本もなく建てられた建築物は、設計者が目的とした建物になり得ないのです。私たち人間も同様です。私たち個体について考えてみると、本然の因縁がどのようになっているのかを知らなければなりません。今日、私たちの心は神様を求めて帰らなければなりません。善の方向を求めていかなければなりません。善の国を探し求めていかなければならず、善の氏族を敬い慕って、善の宇宙、善の世界を憧憬しなければなりません。すると、その憧憬する世界をどこに行って探すのでしょうか。その世界は、個人にとどまるのではなく、最も根本となる神様に出会わなければならないのです。
神様御自身を中心として見れば、神様も一つの体があるはずであり、神様の心があるはずです。神様の心と体があれば、そこには必ず神様の生活圏があるはずです。神様の生活圏で親と子の因縁が出発したなら、必ずそこには社会構成が行われるはずであり、その社会構成を中心として氏族あるいは国家の形態が起こるはずです。すると、そこで神様の全体目的を中心として、国家ならば国家の目的、世界ならば世界の目的が行くことのできる方向の基準が立つのです。こういう問題について考えてみるなら、初めの基点は神様にあるのです。
◆神様を中心として生の動機と目的を定めなければ
したがって、今日堕落した人間に最も重要なこととは何かといえば、神様を知らなければならないということです。歴史過程でどれほど苦闘してこられた神様かを知らなければならないし、どのような方向を通じて出てこられている神様かを知らなければなりません。また、神様はどのような目的を成そうとされているのかを確実に知らなければなりません。
今日、私たちがこれを確実に知らなければ、どんなに苦労をしても無駄骨になるのです。理念と目的、言い換えれば動機と目的は、必ず直行過程を通じて関係を結んでこそ、良い結果が出てくるのです。結果が狂えば動機を一致化させることができず、動機が狂っても目的を一致化させることができません。これは互いに直行線上で起こるのです。
人には心が行こうとする直行線があり、体が行こうとする直行線と生活が行こうとする直行線があるということを知らなければなりません。同様に神様も御自身が行くべき責任があるはずであり、体が行くべき責任があるはずです。そして体と心から成された神御自身が、生活を通して世界へ行く直行線があるはずです。どんなに事情が違うといっても、行くその目的点には必ず直行して世界的な目的に結びつけられる焦点に一致させなければならないので、その過程を経ずには全体目的が成されません。それゆえ、今日私たちはこの本然の因縁を中心として出発しなければならないのです。
一日の生活の中で、皆さん各自の心について考えてみてください。皆さんの一日の生活の中で、心にある不和が起これば、なぜそうなのか考えてみてください。果たして自分自身が神様と因縁を結び、神様がもたれた希望をもち、神様が目的とされる所に向かうことのできる生活的な因縁をもったかということを、毎日毎日反省しなければなりません。私たちはある目的をもって行動しています。その行動は天的か、地的か、二つのうちの一つに決定されます。
今、この瞬間にも私たちの体が、呼吸するのに要求される最小の酸素呼吸量があります。その量を完全に吸収するか、少なく吸収するかによって、そのような環境に長くいればいるほどその体が健康になるか、そうでないかの差が生まれるのです。これが自然的な現象であり、自然的な法則でもあるのです。
こういう観点から私たち個体の生活を中心として見ると、心と体と生活の方向がいつも一致しなければなりません。私自体がそのように行くためには、神様を中心として心の方向と、体の方向と、生活圏の方向が一致することができるように神様と歩調を合わせられなければなりません。
本来人間は、神様の心と体と生活圏に入っていくことができるように創造されたのです。神様がこのようにせざるを得ないその道は、既に予定されていたのです。ところが、人間が堕落することによって、本来行くべき道とは関係もない立場に立っているために、必ず私たちは再びその立場に復帰して入っていかなければならないのです。これが、現在の私たち人間の立場です。
今、堕落した人間の一番大きな弊害は、堕落した悪主権を中心とした理念を重要視する行為です。したがって、自分を生んでくれた父母との因縁と、兄弟、親戚など世の中の血統を中心とした人間的な因縁を超越しなければなりません。また、環境と因縁をもったすべてを超越しなければなりません。
そうして、本然の私が設計されたとおり、体を自由自在に運転できる自分だと自負しなければ、神様が行かれる途方もないその動機と、方向と、目的の世界に入って立つことができないというのです。現在生きているあらゆるものを自由自在に抑制することもでき、取ったりもできる自分自身であることを自ら自負できなければ、現在の立場で神様が行かれる方向と一致することができません。
◆宗教の道は真の因縁を取り戻していく道
いつまでも自分自身を中心に堕落した世界の因縁をもったまま、その因縁をそのまま抱いて生きていくならば、神様が行かれる動機の道、神様が行かれる目的の道を私たちは行くことができません。
今日私たちがこのように生きているのにもかかわらず、ここに神様が共にされず、私たちの心はいつも悲しみを感じ、私自身は行けば行くほど内的に孤独になる原因は、もたなければならない神様の因縁を忘却してしまって、現実的な因縁のみに対して進むためです。したがって、歴史的な過程で打破できる一時を築くまでは、私たちは真の因縁を探していくことができないのです。
その基盤を築くためには、すべてを否定しなければなりません。宗教の道は、自己否定から出発するのです。このようにして探し出される兄弟と家庭、氏族、国家こそは、歴史が尋ねてきた理想的国家と氏族と家庭と個人になるでしょう。このように歴史が願った希望の実体となれば、この時代において自動的に中心的な位置に立たざるを得ません。
この世が悪なので、神様のみ旨が成されないのではないのです。この悪なる世の中が、いつも神様に背くためにみ旨が成されないのではないのです。歴史が願う中心の位置を決定づけることのできる個人、家庭、氏族、国家がなかったために、み旨が成されなかったのです。
そうして今までひっくり返すような曲がりくねった道を繰り返しながら来たイスラエルの歴史路程を、代わりに歩くために出てきたのが、今日の数多くの宗教団体です。ですから、この宗教団体を糾合して一つの国家形態を整え、率いて進むならば、神様のみ旨が成されます。それゆえ、世界はこのような形態を整えなければなりません。一つの理念と目的の世界へ定着できるように授受作用をしなければなりません。世界は一つの世界にならなければならないのに、個人主義的や国家主義的な欲望をもっていては、世界を収拾できません。したがって、理念を立てるための持続的な闘争を敢行して、世界を守らなければならないのです。世界人類が、同じ立場で、同じ目的と同じ価値の内容で、同じ栄光の場を憧憬し、模索してこそ、初めて世界は一つの形態を整えることができるということを知らなければなりません。正にそのような場が、神様を中心とした因縁の目的点だというのです。
六千年の長い歴史を中心に出発した所が、統一教会です。今まで数多くの人々と国家が、一つの基点を中心に努力してきました。ある人はみ旨の中で会っては離れ、ある国家は今ここで会ってから通り過ぎます。けれども、どのような人でも、どのような国家でも再び会わなければならない一つの基点があります。それはキリスト教を中心とした、メシヤ再臨の一日です。その日が正に国家全体の願いの日であり、数多くの宗教の願いの日であり、数多くの個人の願いの日です。
ところが、その場で対面しようとするなら、どのようにしなければならないかが問題です。たまたま自分に時期が来れば、自分勝手に方向を選んで会うのではありません。これに会おうとするなら、必ずその元の筋に乗っていかなければなりません。そこに合流できなければ滅びるのです。長い歴史過程を見つめれば、歴史的因縁を共にしてきた民族は興りました。たとえ滅びたとしても、摂理の流れに乗ったがゆえに、押され下りていってから、再び上がってきました。摂理の方向をうまくつかんだために、堕落した世界を収拾できる道をつくるのです。それで、この道に従って下りていってみると、摂理が地に踏まれて滅びているようだけれど、そうではないというのです。
イスラエルの民族史を見ても、神様の前に忠誠を立てることができなかった時には滅び、再び神様が指示する道に一致する時には栄えました。このように見るとき、どんなに立派な国家でも、摂理に一致し得る方向に行かなければ発展できないのです。それで、キリスト教がこのような場に一致しようと、歴史的因縁を中心に新しい歴史の根拠地を準備しようとしていました。このような因縁について考えてみると、イエス様を中心としたその因縁は偶然な因縁ではなく、歴史的な因縁です。それはまた、この時代の現実的な生活方向に一致したのです。これが出てこずには、この世界を求めることができません。
◆先祖の功績を相続しようとするなら
では、今日統一教会自体を中心として見れば、統一教会が出てくるまでには、数多くの個人の道、家庭の道、氏族の道、民族の道、国家の道を経て出てきました。統一教会の摂理的な出発がなされる前から神様は、統一教会が現れる日を眺めて、今まで歴史を率いて出てこられたのです。
そのような歴史的な因縁があるために、統一教会に入ってきた人は、当代に自分が優秀で入ったきたのではありません。これは必ず、歴史的な先祖たちの相続の因縁を通して入ってくるようになったのです。数多くの私たちの先祖たちが歴史の方向を握り、神様が上がれば上がって、下りていけば下りていかなければなりません。それは、忠臣ならば国が栄えるときも忠義の道理を果たすべきであり、滅びる場でも忠義の道理を果たすべきであるのと同じです。時によって変われば、忠臣になることができず、親孝行者にもなることができません。忠孝の原則というのは、不変の過程を経ずには立てられないのです。
こういう観点で見るとき、今日皆さんが統一教会に因縁があったという事実は、皆さんの生涯の中で何年、あるいは何カ月を中心として因縁があったのではありません。この場は、歴史的な場所であり、希望の場です。実際に私が生きていく基点になることのできる、歴史的な因縁を経た立場なのです。すると、一生の場でその歴史を見ることもできず、その因縁をもつこともできなかったのに、どのように自分が歴史的な因縁に連結することができ、またどのように歴史的な因縁をもって統一教会と連結できるのでしょうか。それは小さくても大きくても、心の方向に先祖たちの心の方向が、時代の流れに方向を合わせようと努力したその基準によって連結できたのです。すなわち、どれだけ近く共にしようと努力したかによって、統一教会に近く接することができるようになるのです。
そのような視角で見るとき、今日皆さんが置かれているこの点は、金なにがしならば金なにがしというある個体によって連結し得たのではありません。歴史的な因縁を通してつながったのです。今日私自身は間違っていて、また成り行きになっているけれど、その歴史的な因縁の中で数多くの私たちの先祖たちが、歴史の目的に向けて忠誠を尽くしたその目的と一致できる功労の基盤があったがゆえに、その功労の因縁で今日皆さんが立てられたのです。すると、こういう位置にある皆さんは、歴史的な因縁を受けた私自身として、今日の自分が生活の中で歴史的な因縁を輝かせる姿になっているのでしょうか。それも知らずにいます。それで歴史を動かすといったので、それを私たちがしなければ誰がしますか。
統一教会の信徒を中心として見るとき、統一教会についていく人は、一つの形ではありません。これから世界の多くの国を収拾しようとするなら、千態万状の形態を備えなければなりません。職業について見ても、商売をする人もいるでしょうし、あるいは工場に通う人もいるでしょう。このように人の基点は千態万状です。そのような差に該当できるその分野に忠誠した歴史的な先祖をもてば、その先祖の因縁を相続し、歴史の目的を達成するために、その道を一生懸命についていかなければなりません。
このような歴史的な因縁を相続して、皆さんは新しい基盤をつくらなければなりません。言わば、自分の先祖たちが今まで苦労したその基盤を相続しなければならないのです。したがって、現実に置かれている皆さん個人について考えてみると、その個人は十何歳とか、あるいは二十歳という限界内にある個体ではありません。また、どのような時代圏内に限界線を制定してできた個体でもありません。必ず歴史性を通してできた個体です。
それゆえ、私が今過ぎていくここは一生道を輝かすことができ、歴史的な目的を達成できる貴重な焦点上にあるのです。それで、うまくやれば目的を達成できるでしょうが、できないときには、これを完全に奪われてしまうということを知らなければなりません。
人々は因縁の中で復帰路程を通じるために出てきたのであり、また先祖の功労をもって出てきたのです。そうして今やその限界線に接し得る時が来ました。その時が来たのに、その方向を私の前で正しくつかまなければならず、人についていって接しようとしていて、基準が合わなくなればどれほど切ないでしょうか。また、皆さんがここに来るまで苦労した霊界の先祖たちが、どれほど切実に手に汗を握るような焦燥した立場で眺めるでしょうか。
◆歴史の召命の前に立った人の使命
この歴史的な召命と使命の前に立つようになった皆さんは、ただ流れていく人間たちと同じ生活をしてはなりません。私個人は数千年の歴史を経てきて、今は神様と対面できる時になりました。ここで自分が完全に一つとなって、この道に残って闘って導いていけるその日を待ち焦がれたのが、歴史的な願いです。その焦点に連結できるその場に自分が立っているということを知りながらも、その場でどれほど父母を困らせたかを考えなければなりません。自分が万が一間違って失敗するようになれば、全部が悲惨になるのです。
オリンピック大会に出場したマラソン選手を見れば、その選手は一等になるためにゴール地点に向けて、民族の威信をかけて走るのです。そうして、ゴールインするその瞬間が現れるためには、つまり勝利の結実は訓練の苦痛と、力の配分と、忍耐、そして今まで体験した悲しみであるとか、喜びのありったけの精誠が投入され、総合された結果として現れた現象です。その瞬間には他の考えはありません。そこに参加したあらゆる人々の走る足取りには、国家の新しい名声がかかっているのです。三千万ならば、三千万の歓喜の旗が振られるのです。ゴールインする瞬間が近ければ近いほど、勝敗の決定が出て、その瞬間が近ければ近いほど、勝つ国民はより一層団結するのです。
ここにおいて私たちが、はっきりとこの視点を完全に掌握して圧倒し得るならば、皆さんのように何の力もなく、何も知らずに「うん、まあまあだろう」、これではいけません。皆さんが苦労し、精誠を尽くして勝ち取った優勝品というのは永遠なのです。ある場で自らの命を懸け、ありったけの忠誠を尽くして得たその宝物は、生命と共に永遠に共にしたいのです。
果たして、歴史過程を経てきた因縁の結実体、この時代が要求する一つの中心体、新しい世界を出発させる創建の記事になり得る自分となったのかといえば、「私」という自分自体を考えてみると、何にもなっていません。したがって、ここで「私」という自分自身を否定してしまおうというのです。今まで生きてきた環境とあらゆる恨みの枝を取り除いてしまい、新しい枝と新しい芽が出てくるようにしなければなりません。そういう環境を突破して、出てくることのできる自分にならなければなりません。したがって、こういう席に立った人々は、本然の因縁を備えなければならないのです。
◆善を中心とすれば、滅びる場が間もなく栄える場
善はこの地上で踏まれたけれど、その悲しみの時が覆されるようになっています。善はいつも踏まれ、いつも滅びる場に入っていくけれど、そういう環境で悪の条件がどんなに大きくても、最終的にはそれに勝って栄光の場に移されるのです。ですから、この罪悪の世の中を眺めるとき、この悪なる世の中をさっと押し込んでしまう力がなければ、それを突破していくことのできる信念が生まれなければなりません。人が生きていくことを外的に見れば、ただ食べて、寝て、生まれて、死んで、喜んで、悲しんで生きています。かといって、神様のみ旨に対する人は特別なのかといえば、同じなのです。しかし、違う点があります。それは、歴史的な因縁の動機と愛の根源で形成された人格で差が出るのです。ここで宗教の差、民族の差、国家の差が起こるということを知らなければなりません。
自分が目的とする基準において、単に方向というものは因縁を通して私を導いていきます。行くにおいて、その動機が伴うようになり、方向が提示されて目的地に至るようになるのです。ところが、その方向をとろうとするなら、「私が方向をとろうとするので、その動機を起こしてください!」としてはならないのです。そうすることができません。ここで矛盾と苦衷が生じます。
社会がそのようになるとき、社会の苦衷であり、国家がそのようになれば国家の苦衷です。それゆえ、どんなにアメリカが世界に号令するといっても、そこに歩調を合わせなければ孤立するのです。どんなに統一教会のすることが天理だと自慢しても、統一教会の原則的な路線に符合し、一致しなければ孤立するのです。その孤立した場で、自分を修正できなくなる時は滅びるのです。
滅びるとき、友人も父母もすべて離れるのです。本来、滅びる場はみな失うのです。エデンの園でアダムとエバが滅びるとき、神様もいらっしゃいませんでした。滅びる場に入っていくようになれば、神様も失い、真の父母も失って、真の氏族、民族、国家、世界をすべて失うのです。そのような場は結局、私の生命も失うようになります。しかし、反対に栄える場はすべて探し求める場です。
それゆえ善悪について見れば、悪は滅びる場であり、すべてを失う場であるがゆえに行ってはならず、善は失ったものをすべて求め得る場であるがゆえに、その道を求めていかなければなりません。皆さんの心を中心として見るとき、悪い行動をすれば後ろを見るようになります。それは良心が私を離れるのです。良心が呵責を受ければ、「やー、こいつめ、私は離れる。離れてからはお前は私と関係がない」と言って良心が離れます。
善を中心とすれば滅びる場が間もなく栄える場になるがゆえに、それを誰かが反対すれば、無限の力が訪ねてきます。国が栄える場ならば、どんなに私が死ぬようになっても行かなければなりません。天地の理致がそのようになっています。それでこそ私が栄えるのであり、すべて探し求めることができるのです。善は絶対滅びません。滅びなければ、天地が探すようになっています。
◆歴史の主流に接しなさい
今日、統一教会で指導する方法と、神様のために今までしてきたことは、正に「歴史の主流に接しなさい」ということです。この因縁が世界を創建するのであって、皆さんがその世界を創建するのではありません。地球は太陽の周囲を軌道に従って回っています。千万回を回り回っても、そこには変わりがありません。それが正常な軌道にあるために、太陽も回り、地球も回るようになっています。
ここで今私たちが考えることは、私たちの因縁です。今日の私たちの因縁は大きいのです。ここに私たちは六千年の因縁を中心として、本然の故郷を訪ねようとする目的が一致して集まったのです。
そのような意味で、私たちの原理が教えてくれることは本然の神様です。神様と私との因縁は、動機の因縁と出発の因縁が同じだというのです。初めに人間は神様によって生まれました。神様が天地万物を造られる途中に、人を造ろうと考えられたのではありません。神様が天地万物を造られたのは、愛する息子、娘である人間のために造られたのです。
それゆえ、人間は創造の理念で見るとき、主体的な立場にあります。考える側面においても、主体的な立場に立たなければなりません。それを宣言して、神様は人間を目的的な実体として造りました。目的的な実体であるがゆえに、あらゆる宇宙は、人間を中心として網のように結束されているのです。人間と全宇宙が結束されたそのものと、神様が完全に結束されなければならなかったことが、人間と神様の根本の因縁です。ところが、人間が神様と一体的な因縁の中で立つことができず堕落したがゆえに、その場に上がることができませんでした。
◆神様は人間と共にしてこそ、悲しみから抜け出すことができる
神様のあらゆる出発の動機自体が人になっていて、その創造目的自体も人に帰結されているので、そのような人が堕落することによって、神様も堕落した結果になりました。
ある人が話したのち、失敗すればその話した人が責任を負うのです。私自身が仕事をして失敗をしたなら、それも私が責任を負うのです。考えた人が責任を取り、実行した人がいればその人も同様です。神様も創造理想を中心として人を創造して、それが神様が理想としていた創造物とならなかったとして、その失敗を創造物が責任を負うのではありません。製造物が変化して、願っていたものができなかったとして、その物が責任を負うのでなく、その人が責任を負うのと同様に、人間を創造した神様が堕落した人間のすべての責任を負うのです。それで今まで神様が責任を負ってこられたのです。
人間が堕落することによって、喜びを願った神様は悲しみの神様になられました。「私」によって悲しみの神様になられたので、神様の悲しみを中心として一つにならなければなりません。悲しみを中心として一つにならなければ、喜びが生じることができないことを知らなければなりません。こういうことを見れば、神様と私とは必ず関連しています。今まで神様は悲しみをももってこられました。それで、今は神様を喜ばせてあげなければならないのです。その喜びは悲しみの関門を通過してこそ出てきます。言い換えれば、神様が悲しまれる、悲しみの基点と一致できるその場から始まってこそ初めて、神様が喜ばれる出発を迎えることができるのです。それゆえ善が行く道は、歴史的な悲しみの場を探していく道です。
堕落した人生の立場で見れば、喜びは善の目的である創造理想実現のためのものではありますが、すべてがその喜びの条件自体にはなり得ません。悲しみの要件を突破して進まなければなりません。そうして歴史的に今まで連結して、人類が悲運にあったこの悲しみの要件を掘って入っていき解体しなければなりません。それで悲痛なときは、「神様の悲しみがこうであったのだな」と感じなければなりません。
この悲しみは、神様自体では脱する道がありません。人間によって悲しみの神様になったがゆえに、神様自らはその悲しみから抜け出すことができません。もし、抜け出すことができたならば、神様が今まで復帰歴史をしてこられる必要がないのです。神様は人間と共にする時、その悲しみから抜け出すことができます。人間によって神様の悲しみが始まったがゆえに、人間が先頭になってこの悲しみのすべてを踏んで立ち上がることのできる新しい決意をしなければ、神様は悲しみから抜け出すことができないのです。
◆統一教会の原理の偉大性
すると、この地上で、修道の道で責任を負ってきた道人たちと、今後終わりの日に来られる主がすべきことは、完全に神様と一致した中で、歴史過程の深い谷間に隠れていた悲しみ、すなわち神様を悲しませたその悲しみの動機に責任を取り、解決できる一つの爆発的な動機を探し求めなければならないということです。
子が父を悲しくさせたことに責任を負うためには、父の心を中心として歴史をつかんで、新しく出発する世界になるようにしなければなりません。ですから私たちには、必ず悲しみを取り除くべき使命があります。
父と子が一つになった力は、そのいかなる悪の勢力が合わさる力よりも強い力です。したがって、ここで新しい爆発的な出発が行われるので、ここに台風が生じるでしょう。それゆえ、統一教会ではこのような道に従っていきなさいと教えるのです。希望の基点は、希望から出発するのではありません。悲しみの峠を通して出発するのです。神様がそういう立場に立っておられるために、その悲しみの道を私たちも行かなければなりません。
人々は、「幸福とはどういうことか」と聞いたりします。では、幸福はどこから芽生え、ある国家が栄えることのできる動機はどこから生じ、文芸復興がどのようにして出発するようになりましたか。それは新しい理念を中心として、新しい人類史観を立てるにおいて、母体になり得る動機に接したゆえに可能だったのです。その動機に接したというのは簡単ではありません。それは、あらゆる文化的な間隔を埋め、超越しなければなりません。そのためには、現在に対するすべてを否定しなければなりません。その時、否定するその基準が、否定された外的な環境よりもより強くなるとき、その外的環境を超えることができます。そのようにして文芸復興が出発したのです。
天国はどこから始まるのでしょうか。神様の悲しみを解かなければ、どこの誰も天国に入っていくことができません。私たち人間が堕落して以来、今まで悲しい歴史をつづってきたがゆえに、悲しい歴史のあらゆる因縁を直接探さなければならないのです。
アダムとエバから、六千年の歴史から、その因縁を探さなければならないのです。そのような悲しみの神様を教えてあげるためのものが、統一教会の原理です。世の中の人々は、悲しみがあればみな嫌だといって逃げます。そのいかなる悲しい内容の事情よりも、もっと惨めな神様の悲しみを教えてくれるのが、統一教会の原理です。世の中では、悲しいことがあればすべて回避して逃げるけれども、統一教会の原理は、この悲しい所を通過しようというのが母体です。
世の中では、悲しいことがあればすべて回避していこうとするけれど、現実的に人間は、そのようにできなくなっています。神様に対する悲しみを知れば知るほど、実際には統一教会は強力な力が出てきます。神様の悲惨な内容を知れば知るほど、それを解こうとする力の源泉は、無限に爆発的な作用を起こす動機になります。これが統一教会がもつ偉大な力です。
◆復帰の道は、悲しみの道であることを忘れないようにしよう
ですから、私たちはまず悲しい神様に会わなければなりません。歴史上のどの人よりもより悲しい神様、悲しみの大王になられた神様に会わなければならないのです。その神様に会い、その悲しみを踏んで立ち上がるとき、私の心に強い喜びがほとばしるのです。その時、新しく迎えることのできる要件を備えなければなりません。それは苦いものだけを食べたのちには、甘いものを少しだけ食べても、ものすごく甘く感じられるのと同じです。
そのような立場にいらっしゃった神様は、堕落した人間に対して何を望まれるのでしょうか。皆さんが神様の苦痛をまず感じて、子供の位置に立って復帰路程を歩み始めるなら、その本郷の爆発的な愛をもって神様は恥じない一日を中心として、愛の歴史を施すことができるのです。本然の純粋な立場で悲しい峠を踏んで立ち上がって神様を呼ぶことより、泰山が揺れて骨と肉と細胞が躍動できる場に因縁を結び得る一つの統一された基準になります。動機をもって出たその場は、サタンが絶対的に侵犯できない完全な基準になったがゆえに、ここから完全な復帰の気運がわき出る基点と、心情を中心として役事していくのです。
悲しみで出発したがゆえに、悲しみの障壁を破って上がってこそ喜びが出てくるのです。この地上で生きる間、その悲しみを自分自身が解決できなければ、霊界に行って悲しみの境界線圏内に入っていき、永遠に苦痛に遭うようになるのです。そのようになれば、喜びとは永遠に関係を結ぶことができません。
それで、統一教会は歴史的な因縁の主体である神様の悲しみを教えてくれるのです。ところが、その悲しみを抱いた息子、娘として、悲しみの歴史をつづって出てきた私たちは、今まで悲しい道を忘れていました。しかし、これからは個人的に結ばれた障壁、国家的、世界的に結ばれた障壁を打破できなければなりません。もし、神様の前に召命されたことを忘れて、個人の責任を果たすことができない日には滅びるのです。家庭は氏族の塀を壊し、氏族を解放させるための責任を果たせなくなるとき滅びるのであり、氏族は民族に対するあらゆる悲しみの要件を、除去させるためのその責任を果たせなくなるとき滅びるのです。国家、世界、天宙もみな同じです。こういうことを考えるとき、今日統一教会についていく人々の路程には、悲しみの道が幾重にも重なり合い横たわっているというのです。
◆私たちが耐え忍んできた理由
今まで私たちが戦ってきた戦争は、国に対して闘うことでした。国に対する闘いを今までしてきたのです。国に対して闘いながらも、いつも追い込まれて敗れました。敗れるのを耐え忍んで克服してきたのは、より大きい闘いで勝利するためです。それで、先生が今まで「じっとしていなさい、じっとしていなさい、踏まれてもじっとしていなさい」と言ったのです。このように愚かなことをしてきたのは、愛を中心とした闘いをする相対がいなかったために耐えたのであり、最後の決着の場に責任を負うことのできる時を成すためだったのです。それで、譲歩すればするほど、そのような内的なあらゆる力を投入させて、ある一つの機会に一時に爆発させることのできる道を念を押しながら行くのです。今まで追い込まれて追い出されたのは、それ以後に来る一つの国家的な条件、あるいはより広い分野の勝利を占めるためです。
それゆえに、このような観点で私たちは、神様の悲しみのあらゆる障壁を壊してしまわなければなりません。個人の悲しみより、家庭の悲しみを取り除くための闘いをしなければならず、氏族を救うためには家庭を犠牲にしなければなりません。また、氏族を立てて民族を救わなければならず、民族を犠牲にしてでも国家を救わなければなりません。さらに進んで大韓民国ならば、大韓民国の三千万が全部犠牲になったとしても、世界を救うことができなければなりません。
それゆえ神様の摂理が要求することは、個人的な勝利です。個人的な勝利を要求するのは、家庭的な勝利を願うためであり、家庭的な勝利を願うのは、氏族的な勝利を願うためです。氏族と民族と国家の勝利を願うのは、世界的な勝利の基盤を築くためです。それで天の摂理が忙しいのです。
◆世界の復帰のためには自己犠牲が必要である
統一教会は、限りなく悲しい神様を教えてくれます。そのような神様を教えてくれ、神様が行かれる方向に共に行くようにするのです。神様は悲しみによって出発した歴史を背負って、復帰に向かって個人的な悲しみ、家庭的な悲しみ、氏族的な悲しみ、民族的な悲しみ、国家的な悲しみ、世界的な悲しみ、天宙的な悲しみを背負っていかれるのです。
今日、世界が外的に一つの世界を指向しようとすれば、全世界に繰り広げられている悲しみの要素をすべてなくさなければならないのですが、その責任を誰が負いますか。その責任をアメリカが負えなければ、韓国が負わなければなりません。世界はどこに向かっていて、人類歴史が後退したのちにどの方向に収拾されるのかなど、これを備えられなければ、その時は本当に滅びます。
では、栄え得る一つの道とは何でしょうか。それは、神様の行かれる摂理の方向を中心として、一致できる立場に立たなければなりません。世界的なあらゆる悲しみを抱いて、世界を代表して自分たちが傷を受け、世界的な悲しみに責任を負って死ぬ場に入っていっても、気に留めず進み出ることのできる民族とならなければなりません。そうして、その民族が立つ地がなくて世界に散らばるようになっても、その民族が残した思想が残っている限り、その思想によって世界を収拾できる天運が開かれるのです。
民族の文化を自慢してはならないというのです。現在のキリスト教は、世界的なキリスト教国家だと権威を誇ってはならないのです。今後近づいてくる悲しみの世界に、責任を負うことのできる民族になれなければ、この民族の主権と希望は失われてしまうのです。しかし、民族が大胆に世界の悲しみに責任を負うことのできる国民性を備えていれば、その民族は勝利の世界を迎えるでしょう。そのような勝利の世界を個人が待ち焦がれていたのであり、家庭が待ち焦がれていたのであり、氏族、民族、国家、世界が待ち焦がれていたのです。ですから気落ちしないで、終わりまで闘いなさいというのです。
孤独な牧師の生活をしても、あるいは放浪する氏族となって追い込まれながら、悲しく恨めしい生活をしても、今後悲しみの世界に責任を負うといえる民族とならなければなりません。そのような民族は神様から千年、万年祝福され得る民族となるでしょう。そして、その民族は結局世界を征服するのです。このような民族となるためには、民族の文化も放棄して、民族の主権も放棄しなければならないのです。そのようなことは失ってもいいのです。世界を占めるために、偏狭的なものとは絶縁しなければなりません。そのような観をもった群れがあるならば、その群れは必ずある一日、決定的な時に会うようになっているのです。
イエス様は十字架にかかって亡くなるとき、「ああ、私は父母との巡り合わせが悪くて死ぬことになった。弟子たちが裏切って死ぬことになった」、または「全人類を代表したイスラエル民族が責任を果たせず死ぬことになった」と考えませんでした。天地が責任を果たせず、死ぬことになったからです。この責任は天と地の責任であり、一つの時代だけの責任ではなく、歴史的な責任です。天地が責任を果たせなかったがゆえに、イエス様の生涯は孤独なものでした。その責任をすべて無にして再び切り開かれたので、キリスト教が中心となり、地が背負った責任を果たさなければならないのです。
「わが父よ……わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と言われた時のこの祈祷の意味は、与えられた限界内の幸福を待ち焦がれたのではなく、一つの生涯圏内で誰よりも世界の復帰を願う心が現れたのです。神様が世界と宇宙のために待ち焦がれたような立場だったのです。それで「私のこころ」と「神様のみ意」を見れば、イエス様のみ意はある限界圏内で待ち焦がれようとするみ意ですが、神様はその限界線を越えていたのです。
イスラエル民族を越えて世界を心配される父を見るとき、その父の心の中に、世界へと行かなければならない苦難の心情が抱かれているのを知り、「私の思いのままになさらず、父のみ意のままにしてください」とイエス様は切実な祈祷をしたのです。
その父のみ意は世界的な復帰です。世界を生かそうとしたので、死が横たわって「神様との因縁を結んでやろう」と言った宣布式であり、宣言式をした所がまさしく十字架上でした。それゆえ、イエス様は一面敗者の立場に立ったけれど、神様の心情の主体となり、苦難と悲しみを占領する第一人者となりました。では、悲しみを占領することができた基準とは何でしょうか。新しい希望の世界へと出発し得るという希望なのです。このようなことを見るとき統一教会は、動機の因縁となり得る神様の悲しみを教えてくれる所です。
それで、私たちは一つの方向、解放と統一の方向に進まなければなりません。神様が一人の方であるために、目的が二つになり得ません。それゆえ、人間はその一つの目的に向かって進まなければなりません。これを確実にして生きていかなければならない理由が、ここにあります。それゆえ、天との基点を同じにしなければならないのであって、これを異にしてはなりません。先生はこれを、すべて知っています。先生がこのようなことを皆さんに話してあげるのも、そのような事情があるからです。しかし、先生と皆さんは、ともすると別れるかもしれないのです。霊界に行ってその基準が合わなければ、共に帰ることができないのです。
◆神様の悲しみを解いてさしあげなければならない統一教会員
すべてのことは原理どおりになっているので、原理を中心として見れば、始まりと中間と終わりの三点が必要なのです。今、摂理は動機と目的が直線上にあります。直線の一つの中心を現在として見るならば、左側は過去であり、右側は未来のようなものです。それで、現在が過去を動かすことができ、未来を考えることができ、この二つの世界の力を統合することができてこそ中心となるのです。統一教会で教えてくれることは、喜ばしいことを教えてくれるのではありません。動機が悲しみであったので、喜ばしい歴史を教えてくれるのではなく、悲しい歴史を教えてくれるのです。
しかし、始めの出発が悲しかったとしても、いつかはこの悲しみが終わる時が来ます。この悲しみが終わるためには、皆さんの信仰生活が、世の中のどのような人よりも優れていなければなりません。この悲しい世界のくびきが下りてきていますが、これが解かれる日には解放です。
皆さんは今、神様が六千年間抱いてこられた恨みと悲しみの心情を中心として、出発し得る立場に立っています。皆さんが神様の心情を共感し得る立場に立ったがゆえに、六千年間苦労された神様の悲しみを、皆さんの一身にいっぱいに感じることができます。
また、父母が子供を愛する心は六千年間も続いてきましたが、昔も今も変わりがありません。これは父子の因縁、すなわち父と息子の絆が中心となっているためです。それゆえ、父の悲しみは息子の悲しみとなるのであり、息子の悲しみは父の悲しみとなるのです。また、父の喜びは息子の喜びであり、息子の喜びは父の喜びとなるのです。ですから、悲しい父が行く道に先駆けて、私たちが悲しみの道を収拾していかなければなりません。
そうしながら、私たちが背負わなければならないこととは何であるのかを知らなければなりません。それは民族を解放しなければならないのであり、アジアを解放しなければならないのです。また、大韓民国をみ旨の前に解放して、アメリカも解放しなければなりません。これが私たちがしなければならないことです。その他のことは、あとにしてもいいのです。まず始めに、悲痛窮まった神様の悲しみを解いて超えていかなければならないのです。
すると、現在の時点にある統一教会員の立場は、動機と目的をもった道を行かなければなりません。統一教会員は動機を探していかなければなりません。原因を探して、因縁を探さなければなりません。そうして悲しかった因縁を探して、悲しい因縁を探していく目的を成さなければなりません。それを私たち統一教会員が、「すべて成し遂げた」と言うことができなければなりません。そうできなければ哀れです。すべてのものを全部失ってしまうようになるのです。
堕落した世の中で、善を探していく道は悲しい道です。ここにそうでない善があるならば、それは偽物です。公的な信頼を守ることが、神様の法則です。これを知って、このような考えで行動をしなければならないのであって、「これをすれば、いくらお金を稼げるか」という考えは、自分を滅ぼすことです。絶対にそのような考えをしてはいけません。私たちが因縁を結んだ神様を中心として行く道は、悲しみの道です。また、その道は難しく、危険な道です。
◆復帰の道にはすべてが必要である
人々は大抵寝る家があり、食べる物が多ければ、それをもってうぬぼれます。しかし、そのようなことは作戦上必要なことであって、目的ではありません。そのように考えることこそ、神様の前に寵愛を受ける道です。そうして個人、家庭、社会を収拾して進み、大韓民国を収拾して、世界へと広がっていくようになるのです。このような心で進んでこそ、より大きな実践の基盤が生ずるのであり、不快な心が生じるようになっても何もないように進んでいくことができるのです。それゆえ、現時点でそのような心をもって仕事をすれば、落ち込みません。
そして、これが私たちの因縁だといったので、私たちは特に感じたり、向かい合ったりもしなければなりません。そこには妻も必要なのであり、夫も必要なのです。また、若者たちも必要なのであり、年寄りも必要なのです。それゆえに私たちは、万民の世論はともかく、共通的な姿を備えるようにしてきました。年を取った人は必要ないとして、年を取った人をみな無視する立場に立てば、その国の国民性がなくなるのです。年を取った人は嫌いだという人になれば、その民族の伝統性を中心として見るとき、民族性を売ってしまう人になるのです。
ところが、最近は子供が両親を否定します。人倫道徳まで否定しています。人倫を否定するときは終わりの日です。私たち統一教会は、これではいけません。このような現在の思潮に調子を合わせてはいけません。統一教会は、真に永遠に肯定することのできる因縁をもたなければなりません。父母は父母なりに、子供は子供なりに、師匠は師匠なりに関係を結ばなければなりません。それゆえ、若い人たちだけでは駄目です。み旨には年を取った人も必要なのです。それゆえ、年を取った人を重要視しなければなりません。長く残っていくときには、私たち食口がみな必要なのです。年を取り、気力が不足な人を重要視しなければ、その民族の精神が濁ります。
◆愛する方法
私たちが集まった因縁を中心として見るとき、統一教会は「私」によって成されたのではありません。世界も「私」によって成されたのではありません。全体によって成されたのです。私たちによって成されたのです。その全体が「私」を中心として動くことはできないのです。それで世界を動かそうとすれば、神様を中心として動かなければなりません。それゆえに「私」は神様に侍って生きなければなりません。
ですから、神様を中心として動くところには、子供も、大人も必要で、息子、娘も必要です。一つの氏族を中心として、すべてが必要です。そのいかなる人も、つまり監獄にいる罪人も必要なのであり、死んでいく人も、その世界では必要なのです。それゆえ「世界人類を愛して、民族を愛してから私を愛そう」、これが天の行く道です。人類を愛してから、自分の家庭を愛さなければならないのです。これが、今後教育される伝統です。私たちはそのような理念によって生きなければなりません。御飯を食べるときにも、近所に飢えている人がいるのかいないのかを見て、飢えた人がいれば、その人に御飯をあげてから自分が食べなければなりません。これが天の心です。
それ以上険しい場で学問を追求して、死の場でも自分の苦労を惜しまない人は、天が生かしてくれるのです。また、身もだえしながら「善の主人公よ、善の本郷よ、善のその日よ、どうか来て私を解放してください」と言いながら叫ぶ人がいれば、天はその心に共にされます。
今日、統一教会の教会員が自分中心に先生に対するようになれば、世界人類が先生を思慕することができません。絶対に思慕することができないのです。愛を中心として、与え受ける天地間にも互いに会わなければ思慕することができません。ところが、自分の民族を無にして、韓国に来て韓国を生かしてくれと祈祷する人もいるのです。その力がどこから来るかといえば、それらはやはり感心すべきことに、神様のみ旨を抱いたために、そのような心がしきりに芽生えてくるのです。神様の心を抱いていけばいくほど、愛の包みは自分の後ろに、高い山のように引かれてきます。
ある男性と女性がお互いの心が通じるとき、互いに愛そうとするその心情は、男性でも女性でも同じです。「私は神様に出会ったので、いかなる患難の中でも誰よりも万民を愛することのできる心をもたなければならない」と、このように身もだえする心情に徹して深く考えられる人、その背後には偉大な力が出てくるのです。
先生は皆さんに仕事をさせて、利益を得ようとするのではありません。今は先生が考えなくても、世界の人々が先生を考えざるを得ない、このような境地となりました。今は彼らのために祈祷しなくても、今まで築いてきた基台があるために、神様がその祈祷に公的価値を発揮することができ、また祈祷する人々を今後つかんであげ得る、個人的な足場となっています。それゆえに、先生は画期的に成したことがたくさんあります。これらが、私たちの因縁だということを知らなければなりません。
◆神様を中心とした因縁の世界を創建しなければならない私たち
愛を失うようになったことは、神様の悲しみを忘れてしまったためです。神様は父であり、私たちは子です。永遠に共にできる父子の因縁ですが、今私たちはその反対になった立場に立っているのです。父が苦労されることを知りながらも、なぜ苦労されるのかを知らなければ、何の役にも立ちません。その父が行く道は、個人の道ではなく、家庭を越えて民族、国家、世界を復帰するための道です。言い換えれば、家庭を抱く前に民族を愛して、民族を抱く前に世界を愛さなければならないということです。これが愛です。世界を愛せずには、民族を愛することができません。また、民族を愛せずには、自分の家庭を愛することができません。それゆえに、復帰の路程を行くにおいて、私たちはこのような愛の心をもっていかなければならないというのです。
統一教会を見るとき、統一教会の教会員は個人であっても、統一教会は全体をいいます。このような全体を成すために、神様は長い間数多くの戦争と歴史過程を経てきたのです。それで、個人の間の歴史的な塀を崩して、対面した因縁が統一教会で成されたのです。これを無視する人々は、歴史的な審判を受けます。このように、私たちは素晴らしい因縁を結んでいることを知らなければなりません。
今まで私たち個々人は、神様を中心としてサタンと闘い残ってきた立場です。今、この残ってきた群れが、第二次の作戦を準備しなければなりません。その作戦は、国と世界のために闘わなければならないということです。このために準備し、訓練すべき路上に私たちは立っているのです。それゆえに同志が必要であり、食口が必要だということをよく知らなければなりません。
神様を中心としたその因縁を糾明した私たちの因縁が、純粋な因縁であることをはっきりと実感することのできる皆さんにならなければなりません。お金はどんなにたくさんあっても嫌ではないはずです。お金を稼ごうとすれば、統一教会が世界で一等になるように稼がなければなりません。
道が生じたので、両足で支えて生きていきなさいというのです。世界の人が嫌がることがあっても、果敢に進まなければなりません。それで、世界のために使うことのできるお金を稼がなければなりません。世界のために、国家のために使え、働くことのできるお金を稼ぐために実績を得なければなりません。このようにしようとすれば、個人のつらさを甘受しなければなりません。皆さんのつらさを神様は知っていらっしゃいます。その苦難に勝ち抜けば、天の栄光と自分との因縁が残るのです。このようなことを知って、このような因縁の世界を創建しなければなりません。
皆さんは、因縁を離れては生きられないということを、はっきりと知らなければなりません。人の目は見るようにできていて、鼻は呼吸するようにできていて、口は食べるようにできています。すべてのことが、そのように因縁づけられているのです。それゆえ、私たちも因縁の世界を探し立てなければなりません。いわば、神様を中心とした因縁の世界を創建しなければならないというのです。
30. 境界線
一九六九年六月二十九日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十四巻』
私たち人間の人生の道においては、常に越えていくべき峠があると考えられます。人々がみな一日一日を生きていく生活においても、やはり峠があるのです。また、私たちの一生について考えてみても、そうなっています。一生を区分してみると、青年の時代や壮年の時代があり、老年の時代もあります。しかし、青年なら青年、壮年なら壮年、老年なら老年にも、その期間において境目があります。このように、越えなければならない境目が、私たちの人生には必ずあるのです。
◆神様と共に境目を乗り越えるには
この境目を中心として、こちらか、あちらかという二方のうち、一方に属して現在生きているのが私たちの人生であり、今日の世界的現象であると考えることができます。
私たち人間には、人間としての境目があると同時に、神様の御覧になる境目もあるということを知らなければなりません。人間の先祖が堕落することにより、私たちの行く手には、乗り越えなければならない数多くの峠が残っています。個人から家庭、氏族、国家、世界、そして天宙まで進むためには、数多くの峠を乗り越えなければなりません。その峠を偶然に越えるのではなく、必然的に越えなければならないのです。
その境目を越えるときはいつも、自ら越えなければならないばかりでなく、自ら越えるべき道を準備し、その道を切り開くために祈る人とならなければなりません。しかし、このような人になるのは容易なことではありません。
真の意味でその境目を越えるためには、神様から協助を受け得る、真を尽くす立場に立たなければなりません。そうでなくては、この境目を神様と共に越えることはできません。私たちは、サタンの所有圏の中で生まれたがゆえに、この境目を神様と共に越えなければ、サタンと共に越えなければならない立場に置かれるようになります。
私たちがサタンとその境目を越えるようになれば、サタンは私たちが人生において目指す本郷へ至るまでの道において、また、人生行路の目的地に向かっていく途上において、協助したり、その方向に一致し得る道には導きません。むしろ、いつも脱線させて、その道と反対になる方向に引きずっていくというのです。歴史的にもそうであり、この時代にもそうであり、今後もそうし得るということを私たちは知らなければなりません。
私たち自らがこのような境目を越えるにおいて、いかなる同伴者とも一緒に行くことはできません。もちろん、私たちの回りには、協助をしてもらえる家庭とか、国家のような環境的な因縁圏があります。しかしながら、私自身が主体的に因縁を結ぶために自らきっかけをつくっていかなければ、その環境と関係を結ぶことはできません。
◆個人的に越えるもよく、国家と共に越えればさらによし
国家には国家の乗り越えるべき峠があり、社会にも社会の乗り越えるべき峠があるのです。また、私自身にも乗り越えるべき峠があります。私と、社会と、国家の行くべき方向がみな一致していないために、その事情や立場や位置がみな異なってしまうのです。
私自身が境目を越えることももちろん貴いでしょうが、社会や国家とも因縁を結んで境目が乗り越えられるようにしなければなりません。そういった立場に立つきっかけを誰がつくらなければならないのでしょうか。それを動かす主体者になるには、社会や国家を凌駕できる立場に立たなければなりません。そうでなくては、社会や国家の境目は乗り越えられないのです。
それでは、知恵深い人、あるいは神様の道理に従う人々が願うのは何でしょうか。自分の乗り越えるべき境目、社会の乗り越えるべき境目、さらには世界、あるいは天運の乗り越えるべき境目をいかに結びつけるか、いかにこれを一斉に越えるべきか、こういう問題を考える人であればあるほど知恵深い人です。また、そのような人であればあるほど、世界史的な偉人になれるということを皆さんは知らなければなりません。
私たちの乗り越える境目は最後の境界線であり、歴史的所望の境界線であり、神様とサタンの天下分け目の境界線です。また、天と地が人間と共に関係を結ぶことのできる始まりであり、すべての解決が成される一線です。このようなすべてを成就できる境界線が、私たちの目前に迫っているということを皆さんは知らなければなりません。
◆境界線を乗り越える道
この天宙と天運が乗り越えなければならない境界線が、今日私たちの前に残っていることが分かるなら、私たちはその峠を越え、その境界線を越えるために、今からでも行かなければならないのです。しかし、皆さん独りでその峠を越えていくことはできません。それは、どんなに努力をしても不可能です。
歴史的な過程がそうでした。志をもった数多くの人々が、この道を乗り越えるために苦悶しては落下していきました。しかし、私たちは必ずや乗り越えなければなりません。皆さんは、この道を乗り越えるためには何を知らなければならないでしょうか。その境界線の峠がいかなる峠であり、また、どこに行けば乗り越えられるのかという、その方向をはっきりと知らなければなりません。なぜなら、皆さんが境界線を越えようとしても、誤って越えれば、必ず元の道に逆戻りしてしまうからです。
皆さんが境界線を越えていくには、どこへ行って、どこを越えなければならないか、ということをはっきり知らなければなりません。その道はたくさんはありません。その道はただ一つです。先生が解放直後に三十八度線を越えたように、どこでも越えるようにはなっていないというのです。越えることができるその道は、必ずただ一つです。神様もその道を行かなければならず、歴史的な数多くの聖人もその道を行かなければならず、また、今後復帰路程を歩むべきすべての人々もその道を通らなければならないのです。
その道は一つしかない最後の境界線です。その最後の境界線が、この終末時代に現れるというのです。ところで、その境界線を必ず越えなければならない立場にある私たちです。それゆえ、皆さんの生活態度やあらゆる観念、目指す目的を全部帰結させて、この境界線をいかに越えるかということが問題です。生活全体を集中させて、これに対する解決点を明らかにしない限り、皆さん自身がその境界線を越えることはできません。
この境界線は、個人から家庭、氏族、民族、国家、世界、そして天宙史的な内容までも総合した境界線として現れるために、自分独りでは越えられないのです。これは歴史とともに越えなければならない境界線であるがゆえに、そこには歴史過程において、この境界線を越えるために闘ってきた善の基準が必ずあるはずです。ですから、私たちも、必ずその善の基準を見本としながら越えなければなりません。ただ、このままでは越えられないというのです。
◆今までのすべての善の基準を一つに連結すべし
その基準は、この時代全体が越えなければならない基準であるため、現在この時代の善なる人々が従っている基準を橋とし、その基準を乗り越えなければなりません。歴史時代と現在のこの時代圏を中心として見るときもそうです。また、その峠を越えるために、そこに神様の貴い摂理のみ手が差し伸べられてきたということを考えながら、神様が今まで積んでこられた善の基準をこの基盤の上に連結させなければなりません。そうでなくては、この峠は越えられないのです。
過去と現在は、私たちが今まで経てきて、また経ているところですが、未来における興亡は、必ずこの境界線を越えるか否かにかかってくるのです。この問題が難しいということを皆さんは知らなければなりません。この問題をいかに解くべきかということが、今日私たち人類がこの地に生まれて抱く一生の願いであり、目的であるということを皆さんは知らなければいけません。
過去においてこの峠を越えるために無数の人々が苦労しましたが、越えることはできませんでした。しかしながら、彼らはある限界圏までは善の基盤を築き上げました。また、この時代がそれを乗り越えるために努力していますが、越えることができずにいます。しかしながら、ある環境圏内までは、善の基盤が築かれているのです。私たちはそれを連結しなければなりません。連結させるには、自分自身だけを中心としてはいけません。そこには神様が介在しなければならないのです。
神様はそのような峠を私たちに越えさせるために、今日まで方向を提示し、歴史の過程で実績を求めながら、その痕跡を残してこられました。このような神様と一致した立場で、過去と現在のすべての善の基準を踏み越え突破しなければ、その境界線は越えられないということを皆さんは知らなければなりません。
では、終わりの日とはどのような時なのでしょうか。その境界線の限界に臨む時が終わりの日です。だからといって、それに橋を架けて乗り越えられる時ではありません。この峠からあの峠へと直行できるその道は、別の所にあるのです。すなわち、今日二つの境界線が一致しているのではなく、その境界線がそれぞれ別の所にあるのです。国家の行く道もそうであり、あるいは数多くの宗教家の行く道もそうであり、天運の行く道もやはりそうです。
ゆえに、これを総合して一つにつなぐ仕事をしなければなりません。この仕事をするために、一人の指導者が来られるのです。この使命を果たされる方が、来たるべき再臨主なのです。
その方は、このようなすべての基準を連結させ、この境界線の限界を一遍に越えなければなりません。この限界線を接続させるのは、ただ簡単に成されるものではありません。蕩減という代価を払うことなくして成されないのです。歴史的な善の基準と時代的な天運の基準を連結させることは、ただ簡単にできるものではありません。「今や私は神様の息子、娘になった」と言うだけで、神様の息子、娘になれるのではありません。
◆必然的な蕩減の過程で勝利しなければならない
そこには必ず蕩減がなければなりません。その蕩減の過程の中で、歴史的な善の基準を踏み越えなければなりません。そして、国家なら国家、時代なら時代、世界なら世界、天ならば天、天運ならば天運が、今まで成就できなかったすべての内容を蕩減できる方法を提示しなければなりません。そうでなくては、この境界線を越えることはできないということを私たちは知らなければなりません。
復帰路程には個人復帰、家庭復帰、氏族復帰、民族復帰、国家復帰などがありますが、その復帰は偶然に展開されるのではありません。必然的に展開するのです。
それは偶然の歴史ではなく、必然的な歴史なのです。ゆえに、ある公式的過程をたどらなければなりません。甲や乙、あるいは東西南北、四方八方のいかなる人も、この過程を必ず公式的に経ていかなければなりません。必然的に行かなければなりません。そして、そこでは前後関係が一致し得る内容を備えなければならないのです。このような点から考えてみるとき、皆さんには必然的に越えなければならない境界線が残っていることを知らなければなりません。
皆さんがこのような峠を越えるとき、うかうかしていれば乗り越えられません。すべての神経と観念を集中させ、全生命的要素を何もかも集中させなければなりません。こうして境界線を越えるその瞬間、その刹那に勝利者として決定されるのです。勝利できない人は天国に行くことができません。また、勝利できる資格の備えられない人々、その使命を完遂できない人々は、歴史的な理念を相続することができません。
皆さん、親が今まで備えておいたすべてを子供に相続する場合、子供たちのうちで誰を探し求めるでしょうか。その家庭の子孫の中で、家庭を完全に引っ張っていける子供を探し求めるのです。家庭というそれ自体の前に、引っ張られていく子供であってはならないのです。
家庭を引っ張っていける、言い換えれば、家庭での勝利を確保した子供でなければなりません。一国家においても、代表者としてそのような人が要求されます。国家を中心として勝利できる資格者となってこそ、その国家を導くことができるのです。
では、天宙を引っ張っていける天宙的権限は、どのようにして獲得できるでしょうか。天宙主義圏を獲得する前に、まずもって境界線を越えなければなりません。そして、この境界線を越えるためには、蕩減の路程をたどらなければなりません。
では、その境界線が険しければ険しいほど、それに備えながら自ら試練に打ち勝つことのできる自主的力量をどのように補充し、その自主性をどのように確保すべきでしょうか。そのような峠を越え、境界線を越えるために、世界的な代表的人物がたくさん生まれては去っていきました。そのような人々は、人類歴史や人類文化史に貢献した聖人や賢哲たちです。それゆえ私たちは、彼らの歩んだ善の最高の目標を継承し、乗り越えていける者とならなければなりません。
そのような自我となっているかどうかが問題です。現実のこの社会や全世界について考えてみるとき、その国家や世界がそのような立場にあるかどうかが問題なのです。このような境界線に向かって乗り越えられるという、世界史的基準に責任を取り得る勝利者とならなければ、その境界線を越えることはできません。
この途方もない課題を前にして生きる私たちであることを知らなければならず、私たちの行く道は、神様が復帰の摂理をなさる道であることを知らなければなりません。
一家庭の使命だけでなく、このとてつもない天宙史的使命を担った私たちは、この境界線を乗り越えるとき、「きょうが駄目ならあしたやればいいさ」と言うようではいけません。そこには、一分一秒の時間の差も許されないのです。前もって行って待つ人は知恵深い人ですが、前もって行って待つことができずに一分一秒でも遅れた人は、もう一度振り出しに戻らなければならないのです。このように容赦のない必然的運命の道が私たちの前にあります。その道を皆さんが歩んでおり、皆さんが見ており、皆さんが聞いているというのです。
◆知恵深い人
それでは、その境界線を越える時はいつなのでしょうか。その時がいつなのか、私たちには分かりません。皆さんそれぞれの個性が違うために、自らの人生観を中心として越えるべきその境界線も、いつ皆さんと交差するのか見当がつかないのです。ですから皆さんは、個人個人が各自の領域から出発して、越えるべき境界線まで行かなければなりません。
それは生まれた日が異なり、皆さんの個性や指向する目的が異なり、心に抱いた方向性が異なるからです。皆さんの指向する目的が異なるために、その目的観に差があり、全部が千差万別にこの境界線に接近しようとしているのです。
一時に越えることのできる道も、誤った場合には十年、二十年と、さらに延長するのです。それゆえ知恵深い人になりなさいというのです。知恵深い人とはどのような人でしょうか。歴史を消化でき、時代を鑑定できる人です。それでは、この時代はどのようになっているでしょうか。この時代には歴史を消化できる能力がありません。それゆえ今日先生が、境界線に直行できる方向を提示しているのです。
では、ここでの一つの問題点は何でしょうか。ここに集まった人たちを見ると、みんな前後左右が備わっています。そのため、生活それ自体を見ることはできても、背後の因縁までは見ることができません。先祖代々つながっているすべての背後関係が、どのようになっているか分からないのです。
皆さんの中には、右の方向へ行く人もいるし、左の方向へ行く人もいます。上がる人もいるし、下がる人もいます。
このような点から見るとき、今日皆さんが食口同士で互いに相談し、協助し合う場合にも、うまく判断していかなければなりません。自分が相談を持ち掛ける場合には、どうしなければならないでしょうか。自分が上がる道に立っているのか、下がる道に立っているのか知らなければなりません。自分が誤った道にいるのか、正しい道にいるのか、よく判断してから相談しなければなりません。それも見分けることができないままに相談する人に従っていけば、その人は峠を越えていけません。
日常生活をしながら私たちは、ある人から打撃を受けたり、誰かが原因となって自分の行くべき道を歩むことができなくなったりする人を見かけます。そのような場合は、どのように自分の心を作用させるかにかかっています。ある人は真昼のような立場に立っているのに対し、ある人は真夜中のような立場に立っている場合もあります。
それにもかかわらず、自分の行くべき道を見分けられないままに、ただ他人についていったのでは打撃を受けるのです。自分は夜を中心として行っているのに、それも分からずに真昼を中心として行く人についていっては、その人と必ず食い違うようになっているのです。ある人は右に行くのに、ある人は左に行きます。このように行く方向が違うので、千差万別の現象が起こるのです。
それでは、境界線を越えることができる主体とは誰でしょうか。自分自身がそうならなければなりません。自らが個人的問題から家庭的問題、氏族的問題、民族的問題まで経ていかなければなりません。民族圏までは自らが開拓しなければならないのです。
◆境界線の限界点を越えていこう
聖書を見ると、六十万のイスラエル民族がエジプトから出ていこうとするとき、パロは十回もモーセをだまして送り出そうとしませんでした。その当時、イスラエル民族がエジプトを発つことは、とてつもない冒険でした。エジプトからカナンまで行くのは、大きな冒険なのです。
今までの生活基盤を捨てて出発するときには、何もかも否定して出発しなければなりません。イスラエル民族のエジプト出発を決めるのは、モーセではありません。モーセはこのようにせよと通報するだけで、決定は自分たちがしなければならないのです。
決定して行くには、堅く決意しなければなりません。イスラエル民族は、民族的受難の境界線があることを知らなければならなかったのですが、そのことが分かりませんでした。個人的な問題さえ解決すればいいと思っていたのです。自分だけで決めて立ち上がりさえすれば済むと思い、自分個人の峠で終わると思っていたのですが、民族的受難の境界線があったのです。彼らは、それに打ち勝たなければならなかったのです。
個人を求めるのは、民族的受難を打開するためであり、民族を求めるのは国家的受難を打開するためであり、国家を求めるのは世界的受難の道を蕩減するためなのです。
このような立場から考えてみるとき、今日、個人、民族、国家、世界のすべてが互いに食い違っているというのです。それゆえ、この食い違った環境を打開すべき個人、家庭、民族、国家、世界にならなければなりません。これが問題です。
では私たちは、必ず越えなければならないこの境界線の限界点をどのように越えていくべきでしょうか。人によっては、この境界線を越えた人もいます。ある人は、いつも苦労しなければならない苦労の道に入り込んでも、苦労をしません。またある人は、環境の良い立場に送られたにもかかわらず、苦労をします。またある人は、苦労させようと厳しい所に送られたのに、苦労しない場合があるのです。その理由は、自分個人が行かなければならない境界線を、既に自分の先祖の功績によって乗り越えてしまったからです。
このように個人個人の行くべき道が千差万別であるため、百人なら百人の行くべき境界線が全部違うというのです。方向も違いますが、位置も違います。ある人は南、ある人は西、東、北というように前後関係が互いに食い違っています。しかし、この食い違っているすべては、国家というその領域の中では統合されるというのです。また、国家を中心とした数多くの民族がありますが、国家という背景を中心としない個人は、みな互いに食い違っています。しかし、世界のためにはすべてが統合されなければなりません。天と地が今日、互いに食い違っていますが、天宙のために統一されなければなりません。皆さんは、そういった解決をし得る起点を求めていく人にならなければなりません。
◆より大きな境界線を求めて越えようとするのが知恵深い人
今日、人間として必ず通過しなければならない境界線を、いくつ越えなければならないのでしょうか。私たちは堕落したために、天地を失いました。世界を失い、国家を失い、民族を失い、氏族を失い、家庭を失い、個人さえも失いました。堕落しなかったならば、個人は個人であると同時に「家庭」であり、家庭であると同時に「氏族」であり、氏族であると同時に「民族」でした。その通路さえ経ていけば、自動的に「世界」、「天宙」にまでつながるはずだったのです。
しかし堕落したために、私たちはすべてこのような峠を越えなければならなくなりました。今日までの歴史は、このような峠を越えるために闘ってきたのです。
今まで宗教の中で、「民族のために闘い、民族のために信仰しよう! 国家のために信仰しよう! 世界のために信仰しよう! 天地のために信仰しよう!」と主張した宗教があったでしょうか。「私は天国に行く!」と言った宗教はありましたが、そのような宗教では、神様が目指して訪れてくる一線、世界人類が共感して共同的に行くべき一線を越えることはできません。
皆さんは何をもって進もうとするのでしょうか。私たちは個人よりも家庭、家庭よりも国家、国家よりも世界、世界よりも天宙を主張しなければなりません。私たちの境界線はそれなのです。
では、その境界線がはっきりと分かる人がいるでしょうか。皆さんは、国家の行くべき境界線がいかなるものかをはっきりと知らなければいけません。個人個人はそれぞれみな違いますが、国家の行くべき境界線が残っているがゆえに、それを中心として一致団結しなければなりません。そのようになれば、個人的境界線、家庭的境界線、氏族的境界線、民族的境界線、国家的境界線を一挙に越えていくのです。蕩減復帰はそのようにしてなされるのです。
自らの個体を中心として、その時その時を自分でうまく越えていくとしても、自らの生活を中心として個人的境界線を越え、家庭的境界線を越え、氏族的境界線を越えなければならないというのです。
それゆえ神様は私たちに「あなた方の罪を全部燃やしてしまい、神様を信じなさい!」と教えるのです。それでは、最後の境界線の中心には誰がなるのでしょうか。神様がなるのです。これが偉大だというのです。
境界線を突破してしまい、あるいは境界線をみな取り壊してしまって決闘すべきこの時、復帰路程を経てきたこの時に、歴史的全体を超越できるものは何かというと、神様を信じることです。世界的で天宙的な中心である神様と一つになることです。それゆえに、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・三七)と教えるのです。
ですから、今日のキリスト教は神様を中心として一つになり、千差万別の境界線を越えなければなりません。そうすれば天運がついていくはずです。そのような時が来るまでは、無条件に信仰の伝統を継承していかなければなりません。また、最善も尽くさなければなりません。
こういった点から考えてみるとき、知恵深い人とはどのような人でしょうか。個人的生活を充実させながら個人的境界線を越えて家庭的境界線で生活した人は、社会において真実な意味で鑑となることはできません。家庭的境界線を越えて国家的境界線を乗り越えなければならないのです。ところで、国家的境界線を越えるためには家庭を犠牲にしなければなりません。
そのためには、強靭でなければならず、最善も尽くさなければなりません。また、自分の民族や氏族を捨てる時もなければなりません。国を愛するために氏族や民族を捨てる時があるように、世界を愛するためには国を捨てる時もあるというのです。このような立場に立てる人が知恵深い人なのです。
◆境界線に関する内容を知り、全心全霊を尽くすべし
私たちが必ず歩まなければならない必然的運命の道には、境界線があります。その境界線を一気に越えていくためには、境界線がいかなるものか、はっきりと知らなければなりませんし、境界線を越えるために提示されているものが何であるかを、はっきりと知らなければなりません。この境界線を越えるときは、一人で越えるのではなく世界を抱き締め、宇宙を抱き締めて越えなければなりません。越えるにおいては、私が宇宙の前に手助けされて越えるのではなく、天運に乗って越えなければならないのです。
そのためには全心全霊を尽くさなければなりません。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神様を愛しなさい」とイエス様が語られたその時代には、この言葉がどういう意味か分からなかったために、境界線を越えることができなかったのです。ですから皆さんは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし」、すべてを尽くしなさいというのです。私たちはみな、国のために精誠を尽くしたことがあるはずです。そのように、国家あるいは世界のため、天地のために精誠を尽くさなければなりません。
個人が失敗すれば家庭が失敗し、家庭が失敗すれば民族が失敗し、民族が失敗すれば国家が失敗するというのです。歴史はこのようにつながり合っています。もし国家が勝利したならば、その勝利した国家には個人、家庭、氏族、民族がみなつながっているので、国家の勝利の中にすべての勝利が含まれるのです。個人の失敗は家庭の失敗の基となり、家庭の失敗は氏族の失敗の基となり、氏族の失敗は民族の失敗の基となり、民族の失敗は国家の失敗の基となります。しかし国家が勝利したならば、失敗した個人、家庭、氏族、民族はすべて勝利した結果となるのです。
このような点から見るとき、結局はアダム一人を失ったがゆえに、世界全体を失ったのです。アダムは世界史的な責任を負った、世界史的な中心存在です。ですから、その中心存在一人を中心として全部がつながり合ってきたのです。それゆえ、その中心存在が目的を完成するときには、彼につながった範囲内にあるすべての存在は解放圏を迎えるようになります。
再臨思想の目的をこの国で成就させて何をすべきでしょうか。統一教会においても個人の越えるべき峠がありました。これからは家庭の越えるべき峠があります。ところで、家庭の越えるべき峠に先生が責任をもっていくなら、皆さんは個人の峠を越えなければなりません。それは何のために越えるのでしょうか。過去と現在の善なる実績を、個人的勝利をもって連結させるために越えるのです。ですから、これをいかにして連結させるかが問題です。未来において、勝利的基準をもって天上世界の前に、あるいは地上世界の前にいかにその責任を遂行するかが問題なのです。
◆私たちに必要な理念――「愛主義」
このような使命を果たして、復帰する立場に立った個人が問題となります。そこに必要とされるのが理念なのです。それはどのような主義かというと、「愛主義」なのです。そのような点から見るとき、皆さん個人は、歴史や未来を中心としながら個人的な絶対基盤をつくり、サタンと闘って勝利しなければなりません。そのようにできる皆さんにならなければなりませんし、その次には家庭がそのようにならなければなりません。氏族ならば氏族が絶対的基準において民族や国家の代身となり、過去の歴史時代や現在や未来と関連性をもっていかなければなりません。
「神様を信じて天国に行く」と言って歩んできた群れは、みんな自己中心に陥っています。皆さんは決して自己中心になってはいけません。国家を越え、世界を越え、神様を中心とした立場にまで行かなければなりません。
では、神様が求めようとなさるものは何でしょうか。まず最初に、世界を探し立てるために個人を訪ねてこられるのです。世界を求めるためにイスラエルという特定の氏族を求めたのです。ところがイスラエル民族は、神様が世界のためにイスラエルの国を立てたことを忘却し、世界を自分の民族の前に屈服させる立場に立つことを願いました。むしろ、世界のためにイスラエルに来られたイエス様に恨を抱かせてしまったのです。
神様の息子として世界を解放し、栄光の座につくこと、それがイエス様の願いでした。その方が解放されてこそ、世界を解放することができるのです。世界が解放されてこそ、個人が解放されるのです。世界が解放されなければ、みな滅びるのです。
ですから、解放されるまで千年史の恨を抱き、億千万年でも十字架を担っていかなければならない使命があるのです。皆さん自身について考えてみても、全体的な境界線を越えてこそ願いがかなうようになるのです。
国家を中心として、今後世界のために闘わなければなりません。国家を中心として闘うのは、国家だけを一つにするためではありません。世界のために闘うことのできる基盤を築くためです。国家を中心として第一基盤を築くのは、世界のための第二基盤を開拓するためなのです。
この闘いがあまりに長く、疲れ果てて倒れたとしても、再び起き上がって第二の世界的戦線に向かって出動しなければなりません。このような使命を果たさなければならない皆さんであることを知らなければなりません。皆さんはここで疲れてはならないのです。短期間内に苦痛と試練を克服しなければなりません。あらゆる知恵と力量を総集結させ、一つの目的に向かってすべての試練に打ち勝ってこそ、目的を果たす期間が短縮できるのです。
◆私たちに残った最大の課題
皆さんに先生が願うこととは何でしょうか。世界に行くことのできる基盤をつくることです。そのようにして、この人類に神様のみ旨を相続させるのです。ですから、皆さんが先生についてこようと思うなら、世俗的観念をもってはついてくることができません。先生と皆さんが一心同体となって、東に行っても、西に行っても、どこに行っても環境の限界を超越しなければならないのです。
私たちは共に食べ、共に生きたい心情的基準を立てなければなりません。一つの細胞のようにならなければなりません。一体となり、すべての境界線を克服して越えていくことが、私たちに残された最大の課題であるということを知らなければなりません。御飯を食べるのもそのため、寝ることもそのため、行き来するのもそのためでなければなりません。こういう信念で一体化しなければならないのです。
国が重要なのではありません。国がある前に、まずもって神様の愛を受けることのできる個人がいなければなりません。そういう個人なくしては、神様の愛を受ける国が現れることはできません。それは堕落したからです。堕落したがゆえに神様の愛を受ける家庭がなかったし、神の愛を受ける氏族がなかったし、神の愛を受ける民族がなかったのです。
神様の愛を受ける国家は、そういう民族がなければ現れません。また、神様を中心とした個人個人の因縁で造成された基盤、神様を中心とした氏族的基盤なくしては、神様を中心とした民族的基盤もあり得ません。
そのような見地から考えてみるときに、神様を中心とした民族的基盤なくしては、国が存続することができないのです。民族的な感情が問題ではありません。これが問題となるのは、今まで話した境界線をまだ越えきれていないからです。そういう問題がある場合には、皆が一体となって善の世界に向かい、最後の戦線を突破して乗り越えることができませんし、世界的運勢に相対し得る資格者にもなれません。
この世界には、互いに行ったり来たりできない境界線がたくさんあります。その数々の境界線を崩して、世界を一つの共同的な生活舞台として築き、万民が福祉国家で暮らせるまで闘い続けなければいけません。いかなる障害があっても、それを克服しなければならないのです。
そのようなことを考えるとき、私たちの力の足りなさが恨となるのではありません。神様を愛せないことが恨なのです。
◆私たちは団結し、一心統一してみ旨の道を行こう
真の意味で神様を愛することができなければ、国を愛することができませんし、世界を愛することができません。ですから、内的基準を中心に何よりも神様を愛さなければなりません。皆さんは氏族的過程と民族的過程をたどって、国家や世界に向かっていかなければなりません。世界と国家の隔たりは大きいですが、その差はわずかです。
イエス様がイスラエルの国に来て何をされたかというと、イスラエルの国を背負おうとされました。私たちは、現在の社会においても問題を提示し、今後は社会ばかりでなく全世界人類の代身者となって、国家と民族の前に明確な目標を提示していかなければなりません。私たちは、思想を統一できる基準も提示しなければなりません。このような目標をもって、国家を中心として進んでいかなければらないのです。
知恵深い人とは、個人よりも、国家よりも、世界を貴ぶ道を追求する人です。国家に忠誠を尽くすことよりも、世界のために自らを犠牲にする人が立派な人です。また、国が世界人類の前に出ていくためには、今までの個人から家庭、氏族、国家の基準まで一遍に越えなければなりません。知恵深い人は、そういう将来を見通しながら行くのです。
それゆえ指導者は、いつ境界線を越えるべきかということをはっきりと知らなければなりません。それを知らなければ、指導者になることができません。その時は、全精力を傾けなければなりません。寝る時も、起きる時も、行く時も、来る時も、何もかも一体化した生活の全体を動員し、勝利しなければならないのです。判断をするときは、同時に祈りをもってしなければなりません。命懸けの判断をしなければならない時もあります。復活するか、滅びるかという運命が決定されるのです。
神様が共にあれば、勝利するのです。すなわち生きるのです。しかし、サタンが共にあれば、滅びるのです。どうしてそうなるのか知らなければなりません。私たちは、神様の心情を中心として事情の通じ得る息子、娘にならなければなりません。それはどういうことかというと、その息子、娘の立場は天国へと連結され、神様の往来する宇宙史的な実体の立場なのです。それゆえ、今後皆さんは行くべき境界線を越えなければなりません。
常にみ旨を中心としてすべてをなしていかなければならないのであって、自分の自由のままにするのではありません。み旨がなければ意味がないのです。そのみ旨の道とは何かというと、全世界の人類が越えなければならない峠、つまり境界線を越えて新しい道を探す道なのです。ゆえに、万民に必要な道です。その道を見いだすことができるがゆえに、先生はそれを多くの人々の前で提唱できるのです。そうでなければ、それを提唱したこと自体が初めから罪です。それゆえ私たちはみな団結し、一心統一して、この道を行かなければなりません。
◆霊界もこの道を行かなければならない
知恵深い人は、今後行かなければならない道に向かってうまく進んでいきます。十年か二十年後には、どのようになるだろうかを考えるのです。今いる場が取るに足らないとしても、その場が問題ではありません。十年や二十年後に、天運がどうなっていくかという問題を中心として道を切り開いていく人が、知恵深い人なのです。
そしてその道の前に行き、前もって待つ人にならなければなりません。このような人を、今この時代の人々が見ると、「狂った人だ」と言うでしょう。しかし、歴史を自分が創造するという心をもって、そのように行動しなければならないのです。
先生が新しい話をたくさんしましたが、長い間先生に従ってきた人であればあるほど、「先生の言ったとおりになる」と言っています。いつでもどこでも話したとおりになるというのです。しかし、それが神様によって成されたということを人々は知らずにいます。
先生がしようとすることに対して「そんなことをして将来何の利益になるのか」、「そんなことが何のために必要なのか」と尋ねる人がいますが、内容を知らないからそのように尋ねるのです。先生は、本当に切実な立場であるがゆえにそうするのです。そのことを皆さんは知らなければなりません。境界線を越えるために、先生の十字架の道についていかなければならないのは必然的な運命なのです。ですから、誰もかもが共同の目標に向かって、共通に行かなければならない行路なのです。
霊界もこの道を行かなければなりません。霊界から地上の私たちの行く道に協助するというのです。行くにおいては霊界が先頭に立っていますから、私たちはついていかなければなりません。このようにして数多くの民族を動員し、随所で私たちは公認されなければなりません。神様が共にいることのできる人は、むち打たれ生死の境をさまよう運命でも、すべてを愛することのできる人です。そういう立場にある人は、世話をしなければならない人が多くなるのです。
「国を愛する」と言っていながら、自分の味方だけを愛し、反対する人をみな嫌っているようではいけません。数多くの人々が先生をそしって非難しましたが、かといって先生は神様に「彼らを滅ぼしてください」という祈りはしませんでした。そのような祈りは、する必要もないのです。
皆さんはこの国を愛さなければなりません。この言葉の意味は、怨讐の骨の埋められたその地を愛し、その民族を愛し、その地に埋められた骨までも恩恵が受けられるように、雨が降れば雨に打たれながらも愛し、朝日がさせばその日ざしさえもみな愛さなければならないということなのです。そうなれば、そこは恵みの場となります。そういう心をもって、最後にはどのようにすべきでしょうか。世界的な感情をもたなければならないというのです。
◆最後の勝利者は世界のために忠誠を尽くす人
人は一生に一度は死にます。ですから、どんなに恐ろしい暴風雨に打たれても、最後の峠を越えなければなりません。着実に進んでいながらも、境界線の前で倒れてはいけません。皆さんはこのような境界線に立って、いったい何をしているのですか。気を引き締めて走っても最後まで行けるかどうか分からないのに、あたふたしていては行きそびれてしまうというのです。
最後の決勝点まで境界線を突破しなければ、勝利者になることはできないのです。天宙復帰というとてつもない使命を前にして、国家と民族を懸けた闘いが始まったがゆえに、世界的戦場に直行しようというのです。
それは、人として生まれて、やってみる価値のあることです。後ろから反対され迫害されても、我が行くべき道を行けばいいのです。一歩でも早く進み、この運命の道を突き抜けていくという人こそ、最後の境界線を越えることができるのです。皆さんはそのように行かなければなりません。
すべては民族または国家を中心とした復帰や、世界のための基盤を広げるためであるがゆえに、それに対して皆さんは順応しなければなりません。今後、個人は犠牲にならなければなりません。
残った最後の境界線を突破することにおいて、皆さんが声援し、祈願してくれることを願います。
31. 真なる生涯をいかに残すか
一九六九年八月二十四日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十六巻』
過去から現代に至るまで、この地上で暮らす多くの人々は、真を追求するためにあらゆる努力を尽くしてきました。さらに信仰生活をしている私たちは、真の中心であられる方を慕いながら真の自分になることを望んできました。
◆真実を求める人間
真の個人、真の家庭、真の国家、真の世界、これは今日の私たちだけが追求しているのではなく、過去にも追求してきたし、現在も追求しているし、未来にもそのようにするはずです。
では、過去と現在と未来を通じて追求してきた真の中心は、どこに帰結されるでしょうか。それは世界に帰結されるのでもなく、いかなる国に帰結されるのでもなく、いかなる社会に帰結されるのでもありません。真の基準は、個人に帰結されて出発しなければなりません。そうでなければ、真の家庭があり得ないし、真の社会、真の国家、真の世界があり得ないのです。
ここにおいて、真の中心が神様で終わってしまってはいけません。人間が真の中心にならなければならないのです。人間が中心になるべきだというのは、漠然とこの世界の人間が中心になるべきだという話ではなく、私たち各自がその中心になって、世界の中心として現れることができる立場に立たなければならないということです。
たとえ真の神様だとしても、環境と因縁を結ばなければなりません。縦的な神様は、横的な環境と因縁を結ぶことなくして真の因縁をもつことはできないのです。四方を整えて立体的な目的を成し遂げるためには、必ず相対圏を整えて中心を決定しなければなりません。
◆真の世界を成し遂げる中心存在になるべき人間
したがって、神様がいくら霊的な中心であっても、人間の心の中に神様が中心として決定されなければ、真として完全に存続することはできないのです。今まで神様が人間を探してこられた目的が、正にここにあるのです。
ゆえに、私たち人類自体に、神様を中心存在として探し立てなければならない使命がある、ということを私たちは知らなければなりません。したがって今日「私」という一人の存在は、流れる歴史の中でただ生きて逝く個人ではなく、この世界の中心として、未来の新しい開拓者として、真の姿として現れなければならない途方もなく重大な使命をもっているというのです。
このように個人は真の価値の内容をもっているので、イエス様も「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」(マタイ一六・二六)とおっしゃったのです。これを見れば、私という個体は全体を超えた価値的な内容をもっているということです。したがって、このような自分自身を中心として真の内容をもたずには、真の世界を成し遂げることができません。このような意味からイエス様も、個体の人格の価値をそのように評さざるを得なかった事実を、私たちは知らなければなりません。
聖書のみ言に「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ三・一〇)とあります。このみ言は、人間だけではどうしようもないということを意味しています。必ず神様と一致した立場で全体の中心として現れる時、言い換えれば、神様の代身存在として現れる時、真の姿、義の姿、善の姿として決定されるというのです。
男性ならば男性一人が真の姿になったとき、男性一人で終わるのでなく、必ず真の家庭へと発展させなければならないのです。また、その真の家庭は家庭だけで終わるのでなく、必ず真の社会に発展させなければならないし、真の社会は真の民族、真の民族は真の国家、真の国家は真の世界へと発展させなければならないのです。
したがって、世界が中心でなく、国が中心でなく、またいかなる家庭も中心ではないのです。その中心は、あくまでも私たち自身であるということを確実に知らなければなりません。
イエス様も、生まれた時から神様の前に自信をもって立つことができる認識圏内に入ったのではありません。三十年余りの生涯を通じて、その場に入るようになったというのです。そうしてイエス様は、自らの主体的認識を相対的な世界にどのように反映させていくかという問題において闘っているうちに、十字架にかかって亡くなったのです。
それゆえ、自我を悟ることが何よりも重要だというのです。自分の中心が動機になって、それを基準として左といえば「左」、右といえば「右」、前といえば「前」、後といえば「後」、静といえば「静」、動といえば「動」と言うことのできる主体的な認識をしなければならないのです。ですから、ある相手によって動くのではなく、主体的立場で相手を動かさなければならないというのです。
歴史の流れの中で「私」という個人は、ある瞬間に存在するものにすぎません。数億万年の永遠の歴史過程の中で、七十、八十年の生涯を生きていく私たちの一生は、正に瞬間にすぎないというのです。
人間が生きていくためには呼吸をしなければなりませんが、ちょうど私たちの一生は、数多くの呼吸のうちの一度呼吸するのと同じ期間に該当するというのです。したがって永遠を中心として見るとき、極めて短い期間を生きているのです。この短い期間に全体の願いを左右することができ、全体の願いの中心を決定できるというならば、この時期がどれほど貴重で重大であるかを知らなければなりません。
人々の中で、自分のみを中心として自分の一生をあきらめる人がいます。それで自分の一生を自分勝手に決定するのですが、本来人間はそのように生きるようにはなっていないのです。一つの国の国民ならば、その国の運命と共に一生を決定しなければなりません。また自分が世界人類の一員であれば、世界の運命と共に自分の一生を決定しなければならないというのです。さらには、天の因縁をもって生きる立場にあるとすれば、天運を中心として自分の一生を決定しなければならないのです。
個人の運は必ず、国家ならば国家、世界ならば世界、天ならば天の運と歩調を合わせなければなりません。そうして、その個人の運を必要とする家庭の運に、個人の運を必要とする国家の運に、個人の運を必要とする世界の運に、個人の運を必要とする天運に連結することができる人を、「真の生涯の路程を行く人だ」と言うことができるのです。
生涯というのは一生のことをいうのであり、生活は一日一日のことをいうのですが、人間が真の生涯を迎えるためにはどのようにしなければならないでしょうか。真の一日一日の生活をしなければならないのです。もし一日の生活が失敗すれば、それが生涯全体の失敗の要因になることもあるのです。したがって、一日一日の生活が緊張する生活でなければならず、多くの決死的な闘いをする生活でなければならないことを私たちは知らなければなりません。
◆生涯の中心原動力
人間の生涯の中心的原動力はどこにあるかというと、神様の愛にあります。その神様の愛の圏内で、神様の愛を吟味しながら神様の愛を謳歌し、神様の愛を厚くする生涯路程にならなければならないのです。それゆえ、人間の一生は愛で始まり、愛によって生き、愛によって終わらなければならないというのです。
ところが、その愛が自分を中心とした愛になってはいけません。その愛は神様の愛から始まり、世界全体を愛することのできる愛でなければならないのです。このような愛をもって私たち人間は生きていかなければなりません。したがって皆さんは、み旨を愛する前に神様の愛をもたなければならないし、み旨のために生きる前に神様の愛によって生きなければなりません。
こういう立場で、神様の前に忠孝の道理を尽くさなければなりません。ところが、神様の前に孝行者になれる時は、いつもあるのではありません。「孝行をする」と言っても、死んだのちに、霊界ですることはできません。永遠を中心として見るとき、極めて短い期間、瞬間のようなこの一生の間に神様を愛したという条件を立てなければならず、神様の前に孝行したという条件も立てなければならないのです。また私たちが生きている間に、「神様の前に絶対に必要な息子、娘だ」という決定もされなければなりません。
今まで歴史過程を経ながら、数多くの人々がそういう価値をもった人間を追求してきましたが、神様の前に忠誠を尽くし、「神様の心情を中心として永遠不変の真の孝行の道理を立てた神様の息子だ」と言うことのできる人がいなかったのです。そういう人が今日、私たちの時代に現れなければならないのです。その人は今までにもなく、今後私たちが死んでもあり得ず、私たちの後孫の中にもあり得ない、そのような人にならなければなりません。
◆一生の価値
世の中の人々は、「お金をたくさん持っていれば幸せだ」と言いますが、そのような幸福はただ流れていってしまいます。一時の因縁と人倫が、後代には嘆息の条件として残ることもあります。たとえこの世的な名誉や権威を得て、世の万国、万民の前に自慢することができる内容を備えた者がいたとしても、それが自分に恵みとなる条件になるのではなく、むしろ奪われる条件になることもあります。そうなれば、知識があるとしても、天上世界に行ってからその知識が恨みの条件になるし、地上でいかなる栄光の立場で暮らしたとしても、それがむしろ自分を食いちぎる条件になるのです。この地で、自ら意気盛んに言い張ってきたすべての権威意識というものも、あの世に行ってから、後代に移ってからは、自分を拘束する要因として残るのです。
この地でどんなに良い立場で幸福を謳歌したとしても、そういう幸福の要件は、私を究極的に解放する条件にはならないことを知らなければなりません。神様はそのようなことを御存じでいらっしゃるので、道義世界を通じて神様が願う一時をはっきりと掲げて、今まで人間を追い立ててこられたのです。そうして一時を中心として、全人類が共に迎えることのできるメシヤ思想が現れるようになったのです。
その時は、過去の人々が願った一時であり、現在の人々が願う一時であり、未来の人々が願う一時です。人類の前に中心になるその一時を、神様と天運と共にどのように合わせるかという問題について考える時、今日統一教会で迎えたこの一時が、どれほど貴重かを知らなければなりません。
この時を合わせ違えた時には、千年の恨みが宿るかもしれないことを知らなければなりません。皆さんに与えられた生涯は、一度過ぎればそれまでです。この地上で霊肉を備えた立場で、こういう時を再び迎えることはできないからです。したがって、この人生がどれほど貴いかを皆さんは知らなければなりません。
この期間を間違って生きる日には、永遠に破滅の道を行くようになるかもしれないのです。反面、この期間を良く収拾して神様と共に生きていく時には、永遠の幸福の基盤を迎えることができるのです。したがって皆さんは、寝ても覚めても、悲しい時うれしい時を問わず、この一時の価値を見つめながら、輝かしい生涯にしようと身もだえする人にならなければなりません。そのような人が、偉大な人なのです。
したがって、自らの心的基準の線から落ちないように、それ以上の所に向かってきょうもあすも変わりなく、一生を経ていかなければならないのです。そうして死に達する時まで、一つの善の基準を中心として、真の姿で生きていくために最善を尽くす人がいれば、その人は恵まれた賢い人です。
このような時に、私たちはあらゆる精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くすにおいては、ただ去っていく人のような精誠ではいけません。今まで歴史上に現れ去っていったすべての人々が、みな集中できるように最高の精誠を尽くさなければならないのです。
それは、ちょうど運動競技をするのと同じです。一つの国を代表してオリンピックに出場した選手がいるとき、彼が走ればその国の国民がその選手と共に走るのです。もしその個人が、世界的な勝利を収めて栄光の場に立った時は、その栄光の場にその個人だけが参加するのではなく、その国民全体が参加することになるのです。そういう絆をもって、その国の国民がその選手と呼吸を共にするのと同様に、今日私たちは、私たち個人だけではないことを知らなければなりません。
◆真の生涯を残すために
堕落した人類において、不幸と幸福は一つの交差点から始まりました。幸福が来る前に不幸がまず現れたのです。ここで不幸の立場に落ちた人間が幸福の立場に上がるためには、不幸の実を踏んで上がらなければなりません。そうしなければ、幸福を見つけることができないのです。
それゆえ宗教の道は十字架の道です。その中でも統一教会は、内外共に十字架の道を歩んできました。民族の十字架を一人で背負い、世界の十字架を一人で背負って歩んできました。全人類が「悲運が宿っている」と言って逃げる場も、経てきました。そのような出来事から、幸福の時が訪れてきている事実を知らなければなりません。
ところが、その時を逃してしまった人が多いのです。その時を完全に迎えて、神様と共に、歴史の一時と共に、宇宙史的な一時と共に勝利を称賛するようになる時、初めて宇宙的な価値が決定されるのです。したがって、皆さんが真の生涯を残すためには、真の一日を決定することができる瞬間瞬間において、どれほど誠実だったかが極めて重要な問題だというのです。
このような観点から先生を見る時、先生のような人は歴史始まって以来一人しかいません。歴史の中で、あとにも先にもない、一度しか訪れてこない人です。そういう立場で世の中を眺めると、先生は一番てっぺんに立っています。てっぺんでこの一時を引っ張り上げて、てっぺんとどのように直線を引くかが、先生の一つの課題です。
それが片方に少しでも傾けば、倒れてしまうのです。ほんの少し間違っても、天地がひっくり返るのです。私が決定しなければならない問題を少しでも間違えると、天地が傾くというのです。
それゆえ偏らない歴史的勝利の基準を備えて、生活の基盤と生涯の基盤をつくらなければなりません。そのためには、歴史過程に現れたいかなる戦いよりももっと熾烈な戦いを繰り広げなければならないのです。外的な世界の問題を中心とした戦いは、死ねばみな解決されますが、これは死んでも解決できない問題です。それゆえ、真の生活の基準をどのように立てるかという問題が最も重要だというのです。
死の交差点を前にして、そのようなすべての問題を解決しなければならないその瞬間は、真に厳粛な瞬間なのです。千年史の恨みと歴史的悲運がすべて解決され、歴史路程に勝利の旗が立てられて、光明な新しい朝が明けるということを思えば、どんなに生命が左右される厳粛で深刻な瞬間が迫っても、それをあすの希望と人類の真の生涯に代わる蕩減条件として受け入れることができるのです。
そのためには、どんな困難も喜びとして吸収し、消化しなければならないのです。悲しみで消化するのではなく、喜びの因縁によって残し得る戦いを続けなければならないことを皆さんは知らなければなりません。そういう一時のために生きていく人の生涯には、無限な価値があるのです。私たちは、そういう生涯を残していかなければなりません。行く途中で振り返る時、埋めてしまわなければならない過去なのに、未練をもって過去に生きた地を慕うようになれば、その生涯は悲惨になるのです。
それでは、この地に対して未練を残さない真の基準を、どのようにして立て得るのでしょうか。ありったけの精誠を尽くしなさいというのです。精誠の谷間があるならば、最高に深い谷間に入っていき、精誠の頂上があるならば最高峰に上がりなさい。そのためには、寝ても覚めても悔い改め、御飯を食べても悔い改めることができる心をもたなければなりません。
◆真の一日は瞬間から始まる
今日数多くの人々が神様のみ旨を称賛していますが、私たちは神様が苦労された功労を称賛しなければなりません。また、私の生活においては自らの一切を忘れ、神様を中心とする私の感情と生活全体にならなければならないのです。どのようにすれば一時的でない、永遠の絆によって残ることができるのかという問題を中心として、自分の生涯を天秤で量りながら生きていかなければならないということを忘れてはいけません。
真の生活は真の一日から始まり、真の一日は真の瞬間から始まります。したがって真の瞬間のような一日、真の瞬間のような一年、真の瞬間のような一生をどのように持続していくかということが、皆さんの生涯に残された課題です。
ある者は自分勝手に「このように生きるのが私の一生です」と言いながら、一時しかない青春時代をむなしく送ってしまいます。そういう生活はありふれた生活であり、そのような人はサタンも嫌います。サタンも嫌うものを神様が好むはずがあるでしょうか。サタンもうらやみ、神様もうらやむ生活をしてこそ残るのです。
では皆さんは、このような瞬間的な生涯路程において真の生活をどのように残すのでしょうか。神様は、神様の心情を中心とした真の価値とこの世界を天秤で量ってみたとき、どちらを取るでしょうか。世界を捨てて、世界を完全に忘れてその人を完全に取るようになる時とは、神様がその人に真の価値を探し出した時なので、その人に世界を与えてもかまわないのです。ですから、そのようにできる「私」の価値を決定することが重要なのです。
今日統一教会の旗のもとに人類の歴史が、私たちを中心として記録されています。そういう過程の中で、自分が引き受けた分野においてどのようにすれば真の仕事をし、伝道ならば伝道においても、真の伝道をどのようにすべきかを考えると、その問題は簡単ではないというのです。
◆どのように善と悪が決定されるのか
一度来て去っていけば再び訪れない一時において、無限の価値の生涯路程をどのように描いて、どのように決算すればいいのでしょうか。皆さんが出発するときには、平面上の一線を中心として出発します。しかし行く時は、分かれて行くというのです。心は良い所に向かって直線で上がりたがるけれども、体は直線のみでは行かないというのです。ある時はここに、またある時はあちらに行き、またあるときは下りていくし、ある時は上がるなど、あらゆることが起こるというのです。
そうして地上の命を終える時は、全体の一生がプラスかマイナスかを測ってみることになります。そうしてプラスがいくらだ、マイナスがいくらだという内容によって天国行き、地獄行きに分かれるようになります。では、どんな時にプラスになるのでしょうか。問題はそこにあります。
皆さんが一言を言っても、その一言が天地の水平線を中心として見るとき、上に上がった言葉か、下がった言葉かが決定されるのです。笑うその表情までも全部、天秤で量るのです。何気なくにこっと笑ったしても、それがマイナスの笑いかプラスの笑いかに区分されます。
皆さんの目も同じです。見ることを中心としてプラスの目か、マイナスの目かを天秤で量るのです。耳もそうです。プラスの耳か、マイナスの耳か、そして心も同様にプラスの心か、マイナスの心かを分けるというのです。皆さんが五官の刺激を中心として考えて動く動作が、プラス・マイナスに分かれるということを考えれば深刻なことです。それゆえ、言葉だけで信じてはならないのです。「神様を愛する」と、言葉だけで言ってはならないというのです。
どんなに不幸な人にも父母がいるのに、「知らない」と言う人はいません。また「あなたの父母はあなたのために苦労をしましたか」と尋ねられて、「苦労をしなかった」と答える人も、内心は父母が私のせいで苦労したということを認めざるを得ません。心はすべてを知っているというのです。父母が自分のために苦労したということを知らないならば、そのような親不孝者がどこにいるでしょうか。どんなに父母の心を痛めた親不孝者でも、その父母が自分を愛しているという事実だけは知っています。「愛している」ということだけは忘れることができないのです。
同様に、皆さんが自分自身がしていることについて、良いことか間違っていることかは、心が知っているというのです。罪を犯すときも、自分が罪を犯すことを知らずに犯すのではないのです。知っていながら罪を犯すので許されないのです。世の中でも、故意に罪を犯せば許されないのです。そうではないですか。犯罪捜査をする時、主犯か、共犯か、巻き添えかというのは、故意的か受動的かによって区分するのです。
では、親不孝だと知らずに親不孝をする人がいますか。国を売り飛ばす人は、自分がすることがどんなことなのかを知らずにしますか。すべて知っているというのです。皆さんが悪いことをする時、悪いということを知らずにするのでしょうか。知らずにすることは一つもないのです。
ですから、知ってしたことを誰に弁解するのかというのです。自分が責任を負うのであって、誰かを恨むことはできないのです。
歌を聞くにも善悪があります。見聞きしたり、御飯を食べたり、寝るときも覚めているときも、すべてに善悪があるというのです。戦争が起きて激戦が行われている非常時に、皆が出て戦っているのに、一人寝てばかりいてもいいでしょうか。普通の時にはいくら寝ても良心の呵責を感じないけれど、戦地に仲間が行って戦っているのに自分だけ後ろにいて戦わないならば、良心の呵責を感じるようになるのです。自らみな知っているというのです。
皆さん自身が一生の路程を歩みながら行った、動作のすべてによって善悪が決定されます。言葉一つもそうだというのです。先生が今話していることも、どのくらい善なる言葉を話して、どのくらい悪い言葉を話しているのか全部判別されるのです。
◆皆が喜べる一生にするために努力すべし
それでは神様はどのような方でしょうか。マイナス基準の立場に下がらない方が神様です。サタンは、どんなに努力してもプラス基準に上がることはできません。ところが人間はその中間で、引っ張られて上がったり下がったりする立場にあるのです。
皆さんの一生を中心として見る時、生まれる時は分からないけれど、皆さんが今後霊界に行く時はマイナスがいくらで、プラスがいくらなのかを決算するようになります。では、プラスがより多くなければならないのですが、どのようにすればプラスをたくさん残すことができるでしょうか。そうするには「一生の間本当に良かった」と言えることを生涯の標本としなさいというのです。うんざりすること、悪かったことは、夢にも考えてはならないのです。良い面を中心として生涯を延長させていくことが、正に人倫道徳の生活なのです。
では、「良かった」というその基準が私だけに良ければ、それでいいのでしょうか。国が喜び、世界が喜び、天と地が喜ぶことのできる基準にならなければなりません。天と地が共に喜ぶことのできる基準が、この宇宙間に明確にあるのです。それは神様がいらっしゃるならば、神様との関係を結ばなければならないということです。神様は公平なので、すべての人間が共にその基準をもつことができるようになさるのです。
そのようなことができる一時とは、皆さんの生涯路程の中でいつなのでしょうか。その時を中心として下がらずに上がるために努力をしなければならないのです。その時に、十ぐらい努力したとするなら、その次には二十、あるいは百ぐらい仕事をするために熱心に努力する人は、絶対に滅びません。自分が成功したといって休む人は、より前進することができません。その成功が自分だけを中心としたものではいけません。一つの国ならば国が成功できるように努力する自分となり、自分の後孫となるならば、その民族はその国の運と共に残るというのです。
今日統一教会員は個人が成功したといってそこで止まるのではなく、この民族の成功のために進んでいかなければなりません。そして、そこで止まらずに再び世界の成功のために走っていけば、走っていくその所まで私たちは発展して残るのです。
今日私たちは天宙主義という思想を中心として、天と地を統一するために絶えず努力しなければならないのです。この運動が今後、全世界化されることは間違いない事実です。そのようになっていく過程で、果たして天地の前に自慢することができる皆さんになったのかというのです。
天と地、天地において天がまず生じて、その次に地が生まれたので、縁があればいつかはそれが向かい合うのです。太陽と月が向かい合えるのと同じように、朝と夜が向かい合えるのと同じように、天と地が九〇度の角度で向かい合う時が来るはずです。その時が、最高の時だというのです。その時になって、今まで尽くした精誠をどのように残すかが重要な問題です。
したがって、一度しかない貴重な人生を重要視しなければならないし、失った皆さん自身を探すために一日の生活を有意義に送って、瞬間の戦いに勝たなければならないということを、皆さんが確実に知るべきだということを話したいのです。
◆み旨の道を行く姿勢
これと同じように、皆さんがみ旨の道を行くときにもいろいろな方法があると思いますが、自慢してはいけません。「君だけが立派だと思っているのか。歴史と環境がこのようで、私は今、たとえこういう立場にいても、私の世界においては誰と競っても負けない」という、それなりの何かが誰にでもなければならないのです。
皆さんが見る時には先生の立場が良いように思われるかもしれませんが、先生の立場は危険な立場です。一瞬も安心して生きられない立場なのです。ほんの少し深い眠りに就いたとしても、覚めてから悔い改めなければなりません。御飯をおなかいっぱいに食べても、気分を良くするのではなく、悔い改めなければならないのです。良い立場にいるといって、あまり自分だけ喜んではいけないというのです。
神様が同情して良い立場に立ててくれたなら、下を見下ろしてそういう立場にない国民と世界万民のために同情しなければなりません。上下、前後関係をいつも理解して進まなければなりません。したがって、話して行動するときに、原則を抜け出してはならないというのです。
では、永遠に「良い」と言うことのできる立場に立つまで、どれほど多くの犠牲の代価を払わなければならないのかを考える時、今日私たちの信仰の基準と精誠の基準は、そこに当てはまる基準ではないということを知らなければなりません。もし大学以上の基準をもっていても、「自分は幼稚園の基準しかない」と言う人がいるならば、彼は一番怖い人です。
高くなろうとする者は低くなり、低くなろうとする者は高まります。天下に功労をみな立てても、続けて功績を立てようと努力する人がいるならば、神様はその人を立てざるを得ないのです。そういう人は、自分が苦労しても「自らの苦労だ」と言わないで、それを隠す人です。
一つの国においても、愛国者は、よく食べて怒鳴る立場の人ではありません。末端の立場でぼろの服を着て、塩の汁に麦飯を食べて貧しく暮らしながらも、その麦飯を通りすがりの外国人に見られやしないかと恐れるのです。国の威信を考えて自分の姿が表れるのを恐れ、こっそり隠れようとする心をもった人が愛国者だというのです。
自分の国家の体面と威信は考えずに、憎み、嫉妬して面目のない行動をしてはいけません。たとえ自分がそのような姿をしていても、「国家の威信と体面を立てようとする私のような者は韓国にはいない」と言うことができ、自分の国をもう少し美しく価値あるものとして表そうと努める人が愛国者です。
したがって、皆さんは難しい立場に入れば入るほど、み旨を中心として歯を食いしばって誓わなければなりません。死が交差する十字架の立場だとしても血の汗を流し、歯を食いしばって、自らのすべての存在意識を忘れて、決意を固めなければならないのです。
イエス様が「アバ、父よ……どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ一四・三六)と言って最後の三度の祈祷を捧げる時、「父のみこころ」という差し迫った峠では、この世にない力とすべての精力を傾けて語ったことを皆さんは知らなければなりません。「みこころのままにしてください」と言うとき、簡単に語られた言葉ではありません。それゆえ血の汗を流さざるを得なかったのです。この世にない力を傾けて切実に求めたのであり、この世にない決意をしたのです。
◆先生が信じることができる皆さんになっているか
先生も同じです。それゆえ、いかなる試練が来ても、決してそれを恨んだことがなかったのです。先生は今まで何の罪もなく七回も監獄に入りました。事情の多い先生です。けれども先生はそれを避けようとしたり、後悔したことはありません。数多くの聖賢たちがこういう立場で悲観して敗北の苦汁を飲み、恨みを残して去っていきましたが、先生までそうすることはできないのです。そうであればあるほど、なお一層決意を固めてきたのです。
今まで統一教会を信じていたのに、落ちてしまった人がたくさんいます。「人間のすべてのタイプが集まった」と言えるほど、いろいろな類型の人々がいました。私の脳裏に忘れられない人々もたくさんいます。時々、平 壌時代から今までをずっと振り返ってみると、過去に対した人々のいろいろな型が、今日ここにもいることが分かります。数多くの人間像が通り過ぎたのです。過去に先生に従って途中で落ちた人々の中には、現在皆さんが決意して走るより、何十倍も強い決意をした人々もたくさんいました。
では、今日皆さんが「先生に死んでもついていきます」と言う時、先生は皆さんを何パーセント信じればいいでしょうか。それが先生には苦痛だというのです。一〇〇パーセント信じたのに皆さんが背を向けるようになれば、それだけ十字架を私が負わなければならないからです。神様をそのようにしか紹介できなかったことになるために、紹介した人にも責任があるのです。世の中でもそうではないですか。それゆえ、何パーセント信じなければならないかについて多くの苦しみがあります。
過去に先生に従った人の中には、このような人もいました。「白頭山の天池までも先生に仕えて登り、そこにある磐石を研いで畑を作り、じゃがいもを植え、千年の恨みを抱いても先生に仕えて、世の中がみな変わっても自分は変わらない」と言った人がいました。そのように誓った人もみな流れていってしまいました。
皆さん、ペテロについての話をたくさん聞いたでしょう。「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ二六・三三)と誓いましたが、鶏が鳴く前に三度裏切ったペテロでした。
◆難しい時神様と縁を結ばなければならない
それゆえ真の生活、真の生涯を残すことなくしてついていくことのできない道が、この道です。霊界に行けば、自らの一生がそのまま明かされるようになっています。私が幼い時はどうして、育つ時はどうしたという内容が、全部表れるのです。
こういうことを見る時、天上世界の人や、今後数多くの子孫もうらやみ、涙を流して自慢せざるを得ない貴い生涯を残していく人は、偉大な勝利者だというのです。そういう勝利者になるために、真の生涯を残すと覚悟して進んでいく皆さんにならなければならないのです。そのためには一瞬一瞬、必死の決意をする皆さんにならなければなりません。
そうして皆さんは、神様が今まで探してこられた利を無意味になくす人になってはいけません。これは千年史にも換えることができず、億千万金を与えても換えられない価値をもったものです。この世をすべてなくして、探したものをすべて逃しても、これだけは絶対に逃さないと誓う皆さんにならなければならないのです。私の生命がなくなっても、これだけは残していこうともう一度誓いながら、ありったけの精誠を尽くして進まなければなりません。
皆さんには一度しかない七十、八十年の生涯だということを知らなければなりません。私たちの生涯において苦労の路程がどんなに長いといっても、永遠と比較すれば息を一度吸う時間にもならない、ほんの瞬間なのです。けれども、永遠とはどんなに永いでしょうか。
この世界圏内では、私が呼吸する回数もみな計算できます。一時間に何度休んで、一日に何度休んで、一年に何度休んで、十年に何度休んで、一生の間何度休むということを計算して出すことができる期間だというのです。この短い期間を生きるのに、嘆息して生きてはなりません。すべては瞬間です。この世にいる間、み旨のために歯を食いしばって進まなければなりません。長いといえば長いのですが、それは一時です。
自分を自ら無慈悲にむち打って、難しい立場を乗り越えなければならないのです。耐えていくことができる自分になるために、そのようなことをたくさんしなければなりません。そのようにして神様と絆を結ばなければならないのです。難しいとき絆をよく結んでおけば、うれしいときは「結ぶな」と言っても結ばれるのです。普通人々はうれしいとき絆を結ぼうとしますが、そういう絆は瞬間的な絆で終わってしまうのです。
お互い生死を懸けて相手が死ぬか、私が死ぬかという境地でも、お互いに「私が死ぬ」と言い張ることができる立場、すなわち生命を互いに交換できる立場に立つことができなければなりません。死の道を同伴して困難を共に経た人々は、うれしいときに絆を結ぶことなど考える必要がありません。困難なときに結んだ絆とうれしいときに結んだ絆は、その味が違うというのです。
同様に私たち統一教会も、難しいときに神様の前に近い人になろうというのです。神様が私個人と私の家庭と私の国と世界のために困難に直面していらっしゃるので、私自身も家庭のために、社会のために、国家のために、世界のために困難を受けようというのです。
「神様、私しかいません。私がこの仕事をするために生まれたので、神様に困難があるときは私を呼んでください。夜昼かまわず呼んでください。どこでもついて行きます」と、このように言わなければなりません。「自分がする」と言う人が誰もいなくても、神様がいつでも呼びさえすれば一人でも「はい、はい」と言って、力強く立つことができる人になろうというのです。そのような人は絶対に滅びません。
では、統一教会は誰と困難に遭おうというのでしょうか。神様を中心としてこの国と共に困難に遭おうというのです。正にそれが先生の主義であり、神様の主義です。そのようなとき皆さんはどのようにしますか。皆が困難に遭っているのに、「私でなくてもする人がいる」と言ってさっと人に任せて、機会だけ得ようという人になってはいけません。
◆苦難の道の開拓者になって真の生涯を残そう
この道を行くためには愚かでなければなりません。忠臣は、別の見方をすれば愚かな人です。少し間抜けに見えて、熊のような性格があるのです。熊や 猪 は銃に打たれて邪魔になる部分があるときには、その部分を口でかみ切って逃げるのです。そのような愚かな何かがなければならないというのです。忠臣、烈士は愚かでなければなりません。少し足らないところがなければならないというのです。
ステパノのような人も三十歳にもならない若い時に、何ゆえに石をぶつけられながらも神様の前に「彼らの罪を赦したまえ」と言ったのでしょうか。イエス様も同様に、どれほど物悲しく哀れだったでしょうか。
それゆえ、利口な忠臣はいないというのです。利口な忠臣は日和見主義の忠臣です。盲目的な忠臣は、無知で愚かで、熊のいとこのような人です。
統一教会の人は、そのような人にならなければなりません。私はごみとして消えてもいいという心をもって、神様が谷間を埋める埋立て工事をなさる時に、「一番初めのシャベルに注がれる土にしてください」と言えなければなりません。そのようになれば、一番下に埋まることができます。
では、この世界で一番苦労を多くしなければならない団体は、どの団体でなければならないでしょうか。苦労の王にならずには喜びの統一を始めることができません。孤独な十字架を喜びの立場で謙遜に背負おうとする者が、忠実な人なのです。
こういう観点から見る時、国家の友人になり得る人とはいかなる人でしょうか。国家の困難に責任を負おうとする人です。世界の友人になり得る人とはいかなる人でしょうか。世界の困難に責任を負おうとする人です。神様の友人になり得る人とはいかなる人でしょうか。神様の困難に責任を負おうとする人なのです。
真の道は、喜びの道にあるのでなく、受難の道にあるのです。真の人は「受難」という二字を消化し、克服することを生涯の哲学として、変わらない心をもって生きていく人です。世界の苦難の道に独りで責任を負い、夜も昼も、誰が見ても見なくても、自らの幸福をそこで探そうと身もだえする人がいるならば、その人はすぐに世界の忠臣になることができるというのです。
このような人が真の生涯の路程を残すということを知って、皆さんもこれからそのような道を歩むことを願います。喜んで迎えてくれるほほえみのあとには悲しみが来ることもありますが、お互いにまず悲しみに打ち勝とうとする姿勢で、手に手を取って、あすの希望の国と、あすの希望の世界のために決意して行くとき、初めて喜びの世界へと伸びていくことができるのです。
皆さんと先生が共に決意をして世界を抱いていくようになるとき、私たちの悲しみによって世界に笑いの花が咲くはずです。このような道を開いて、このような道に責任をもっていく人こそ、真の生涯を残すことができる人だということを知って、この道を避けずに直行していく皆さんになってくれることをお願いします。
32. 真の父母
一九六九年九月二十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十五巻』
神様の復帰歴史の中心は世界でもなく、いかなる国でもなく、いかなる特定の氏族や民族でもありません。神様が共にすることのできる、すなわち、神様が立てることのできる国が存在する前に、その国を代表できる民族がなければなりません。
このような民族が存在するためには、その民族の中心になることのできる氏族が存在しなければならず、氏族が存在するためには家庭がなければならず、その家庭が存在するためには父母がいなければなりません。この父母を探し出すために、神様は今日まで個人復帰の摂理歴史をなしてこられました。結局、すべてのものが終結する帰結点がどこかというと「父母」だというのです。
◆真の父母は復帰摂理の起点
今まで流れてきた歴史の過去と現在を注意深く見てみると、大きな国、小さな国が数多く存在し、群小民族もたくさん存在しました。また宗教人の家庭も数えきれないほどたくさんありました。しかし、その国が神様の求めている国になれず、その民族が神様の求める民族になれず、その家庭が神様の求める家庭になれませんでした。その家庭や民族や国はすべて流れていってしまったのです。
神様のみ旨の中で永遠に残る一つの家庭、その家庭を通して永遠に残る一つの氏族と一つの民族、一つの国家を立てるためのものが今まで収拾してきた復帰摂理の歴史でした。このように収拾して、一つの家庭を全体の代わりとして愛することのできる一日を探してきたのが、今日まで神様が苦労してこられた歴史なのです。
では、ある国を立て、民族を立て、氏族を立て、家庭を立てたとしても、国と民族と家庭まで収拾してきたそのすべての苦労を忘れてしまえる一つの基準を決定するものとは何かというと、家庭でもなく、いかなる兄弟でもなく、正に「父母」なのです。人類の真の先祖の基準がここで決定されずして、神様の愛の結実が結ばれることはないのです。また、神様の今までの闘いを終結させ、最後の勝利をも誓うことができないのです。そして、神様が願われた希望の起点も決定づけることができないのです。このように、神様の愛を中心とした家庭を立てるにおいて、新しい出発をすることのできる起点が「真の父母」であることを私たちは知らなければなりません。
それでは、こういう立場に本来誰が立たなければならないのでしょうか。堕落していないアダムとエバが立たなければなりませんでした。神様の望みはアダムとエバを中心として見るとき、アダム個人に、あるいはエバ個人にもありましたが、それよりももっと願われたのは、その二人を中心として一つの父母の立場を決定づけることでした。それが神様の創造理想であり、神様の創造目的なのです。
それでは、四位基台の起源になる場とは、どのような場でしょうか。アダムとエバが一つになる場です。そのように育ってきたアダムとエバが一つの愛によって結ばれて、互いに愛することのできる出発の起点を成し遂げるその場は、人類の先祖が備えるべき最初の場でした。そのような場で神様の愛を中心として、誰も切り離そうとしても切り離すことのできない一体的な愛を成し遂げていたなら、そこから人類の真の父母は間違いなく出発していたでしょう。
しかし、人間が神様の願うその基準と一致できずに食い違ってしまったために、すなわち、私たち人類の先祖が失敗したために、その道にすっかり破綻が生じてしまったという事実を私たちは知らなければなりません。それがある外部の事情によってなされたのではなく、内部の問題、すなわち愛を中心として引っ掛かったために、それを正すというのは歴史にない苦労をしても極めて難しい問題だというのです。
ゆえに今後これを解決するためには、数多くの民族と数多くの国家がお互いに背を向けて分かれたものを結んでいかなければならないのです。それでは、結ぶにはどうしたらいいのでしょうか。一度にすべて結んでしまうことはできません。そのため、一つの国家を形成するために、国家を代表できる一つの氏族、その氏族を代表できる一つの家庭、その家庭を代表できる一人の真の男性と真の女性を立て、外的に分かれたものを本来の姿にすべて結ばなければならないのです。
言い換えれば、アダムとエバの代わりに人類の本来の父母になる基準を代表できる男性と女性の二人を立てなければなりません。彼らを通して本来の基準に向けて逆に結んでいかなければならないのですが、このようにすることが大変難しい事実であることを皆さんは知らなければなりません。
◆蕩減復帰摂理歴史の難しさ
今までの歴史は蕩減復帰歴史です。蕩減復帰歴史の中には数多くの家庭が動員され、数多くの氏族が動員されました。また数多くの国が動員され、経ていきました。しかしいつも、どのような家庭もどのような氏族も、どのような民族もどのような国家も、天のみ旨と一致した時は一度もなかったのです。いつも神様を悲しませる条件を立て、いつも神様を失望させる結果を結びました。
それで、数多くの家庭と氏族、数多くの民族と国家に対してこられた神様の悲しみが今日まで残っているのです。このような悲しい事情をいつ解消できるかということが、復帰途上において極めて難しい問題としてあるのです。
それでは、世界に散在している数多くの国家を見る時、その中に神様が探そうとされる国があるとすれば、その国とはどのような国でしょうか。またその国の代わりになることのできる民族とはどのような民族でしょうか。またその民族を編成できる氏族とはどのような氏族であり、その氏族を成すことのできる一つの家庭があるならば、その家庭はどのような家庭でしょうか。神様の立場で考えてみるとき、これは簡単な問題ではありません。
歴史を通して人類はサタンと一体になって、サタンと別れようにも別れることのできない血縁関係を結んできました。これは切ろうにも切ることのできない縁であり、切っておいてもまた結ばれてしまう因縁です。このような運命の中に人類は置かれているのです。
こういう死亡圏内にある人類を収拾し、神様と一致できる一つの家庭基準を決定づけるということが何よりも難しいという事実を知らなければなりません。一つの国家基準をつくったとしても、その中で神様が立てることのできる氏族を、氏族の中でも神様が立てることのできる家庭を、家庭の中でも神様に代わることのできる人類の真の父母の基準を、この堕落した世界で探して立てるということがどんなに難しくて大変なことかを皆さんは知らなければなりません。
今日、この地球星にはキリスト教の名前をもつ、キリスト教圏内の国家がたくさんあります。あるいは数多くの氏族や家庭があります。しかし神様が「私が設定してきたそのような家庭や国がこれだ」と言える基準とは、あまりにも遠い立場にあるというのです。
私たちの習慣化された生活を見ると、大韓民国ならば大韓民国が天の前に祝福を受けられる圏内に立ったと言えるかもしれませんが、祝福を受ける国だと断定することは難しいというのです。今日すべての国がそうした立場に立っているのです。この地に数多くの国家がありますが、一国家を標準として尋ねてこられる父の心情とは距離があまりにも掛け離れているというのです。言い換えれば、高くて尊い神様のその偉大な創造の偉業と、悪の現実的な世界の舞台とはその距離があまりにも掛け離れているのです。
では、その遠い距離を誰が埋めるのでしょうか。これを誰が蕩減するのでしょうか。これが問題です。いつも神様の側では、この問題を解決することが苦痛でした。これは自然には埋まりません。ここは必ず数多くの民族や国家に代わって、蕩減の祭物を提示しなくては越えることができないのです。
ところがその国家、民族がこの蕩減の条件を知り、すべてを蕩減し得る条件を提示できるかといえば、そうはできないのです。それなら、その仕事を誰がしなければならないのでしょうか。神様がしなければなりません。神様が彼らの前に蕩減条件を提示して、その距離を短縮し埋めてくるしかないのです。このように闘ってきたのが六千年の復帰摂理歴史なのです。
したがって、皆さんは神様が願う特定の国を建てたとしても、そこには必ず六千年という長い歳月の歴史的な蕩減があったという事実を知らなければなりません。そうした蕩減の内容を備えた国があるとしても、立てる時のその基準と、その国の行く期間が十年ならば十年、二十年ならば二十年、あるいはみ旨が成される時まで、いつも一つになって進むことができるだろうかとを考えてみるとき、そうはできないというのです。
今まで歴史路程において人間がいつもそうだったように、ある民族ならば民族も、やはり神様と一致して神様の歴史的な距離を埋めていくのを協助する立場に立つことはできなかったのです。その民族が何年、何カ月の期間はある因縁の中で一つになれるかもしれませんが、数十年間一つになるということは極めて難しいことなです。
例えば、神様が建てた国であるにもかかわらず、その国が神様のみ旨と一致すべき期間に共に歩調を合わせていくことができなければ、その国は完全に滅びるようになるのです。
◆真の父母を探し出そうとするみ旨
では、この滅びるしかない国の運命を支えるために、神様はどのようにしてこられたのでしょうか。一つの特定の民族を中心として、その国家の距離を埋めるようにしました。また、その民族が埋めることができなければ、その民族の中でも特定の氏族、例えば金氏ならば金氏、朴氏ならば朴氏をして民族が埋められなかったその距離を埋めるようにするのです。しかし、この氏族が神様のみ旨に代わることのできる国家と、その当時の国家との距離を埋めることにおいて責任を全うすることができなければ、その氏族の中で特定の家庭を中心として、氏族が埋められなかった距離を補充するようにしました。したがって、氏族の責任を代わりに果たすことのできる特定の家庭を立てなければならないのです。そして立てたその家庭が責任を果たせなくなる時には、それを延長していくことのできる一つの基準を残さなければなりません。ではその残すべき基準とは何でしょうか。「父母」の立場に立つことです。
神様が今日まで復帰歴史を成してこられるにおいて、最終的な目的はどこにあるのでしょうか。「真の父母」にあります。真の父母を求めるのは真の家庭を代表するためであり、真の家庭を求めるのは真の氏族を代表するためであり、真の氏族を求めるのは真の民族、真の国家、真の世界を代表するためです。このように発展していくのです。
これを逆に見ると、世界を代表しては国家が祭物にならなければならないし、国家を代表しては民族が祭物にならなければならないし、民族を代表してはある特定の氏族が祭物にならなければならないし、その氏族を代表してはある特定の家庭が祭物にならなければならないし、その家庭を中心としてはある特定の代表的な立場に立った人が祭物にならなければならないのです。結局どこに帰結するのかというと、「父母」に帰結するというのです。
ゆえにこの「父母」は歴史の動機になることができ、すべての国家形成の出発点になることができ、すべての民族編成の起源になることができるのです。ですから、神様はこの起源になることのできる父母を中心として、復帰摂理歴史をつづってこざるを得ないのです。
もし国と民族を失ったとしても、真の父母の基準を中心とした家庭が完全な基盤の上に立っていれば、その家庭を中心として氏族、民族、国家を新しく編成できるのです。したがって、全体をすべて失ったとしても、そのような内容を再編成できる起源になる基準、言い換えれば、人類が願って進む希望の一起点になることのできる立場がどこかというと、正に真の父母の立場だというのです。
本来アダムとエバは、永遠に変わらない家庭の父母になり、氏族、民族、国家、世界を形成しなければなりませんでした。しかし、アダムとエバが堕落したことにより、これを成し遂げることができなかったので再び探して下りてきて、新しい角度からこれを編成しようというのが今日までの六千年の歴史です。
こういうみ旨の中で、このような使命を終結するために来られた方とは誰でしょうか。イエス・キリストです。そのイエス・キリストは何を代表して来られたのでしょうか。蕩減という内容を中心として世界を代表して来られ、国家を代表して来られ、また民族と氏族を代表し、家庭を代表して来られました。このようにイエス様は全体を代表し、全体の中心として来られたにもかかわらず、イスラエル民族はイエス様に、そういう方として侍らなかったのです。
誰一人として国家の代表として信じることができなかったし、民族の代表としても、氏族の代表としても、さらには一つの家庭の代表としても信じた人がいなかったのです。しかし、神様がイエス様を送られたのは全体の代表として、全体の中心として立てるために送られたのです。それにもかかわらず、そうした使命に耐えられる環境をもち得なかったイエス様の困難がどれほど大きかったかを、私たちは知らなければなりません。
◆イエス様の望み
イエス様が望まれたのは一つの国であり、一つの民族であり、一つの氏族と家庭でした。そして、その家庭の起源になり得る「真の父母」が望みでした。ところが、真の父母を決定するには一人の女性が問題になったというのです。
その女性を探してくるには、ただ引っ張ってくることはできないのです。普通の一人の男性が一人の女性を迎えるといえば、いつでも迎えられますが、イエス様が一人の女性を迎えるには、縦的な環境や横的な環境で自由に迎えることのできる立場にならなければならないのです。
その女性を迎えるためには、イエス様が国家的な代表の基準を立てなければならず、民族的な代表の基準を立てなければならず、氏族的、家庭的な代表の基準を立てなければならないのです。その当時までの四千年の歴史の摂理の内容と一致できるすべての条件を懸け、これを完全に蕩減したという条件を立てることなくしては、イエス様は一人の新婦を迎えることはできないのです。
聖書を見ても、イエス様は新郎として来られたので、そのイエス様の前には新婦がいなければならないことが分かります。ところが、その新婦は平面的であり、横的な基準でただ一人の男性の前に一人の女性として登場してはなりません。一つの国家を代表し、一つの民族を代表し、一つの氏族を代表し、その氏族を中心とした数多くの家庭を代表する、そのような基準の前に立った女性でなければならないのです。
それでは、そうした代表的な女性とは、どのようでなければならないでしょうか。娘の立場では、娘の中の娘にならなければなりません。また妻の立場では、烈女の中の烈女にならなければならないし、数多くの母親の中で、その誰よりも神様の心情に代わることができなければなりません。
ではイスラエル民族の中に、そのような女性がいたのかといえば、そのような女性はいなかったのです。ゆえにイエス様が行かれた道、イエス様がこの地で三十余年の生涯を経ていったその道を回想してみるとき、その道はこのようなすべての内容をもったイエス様と共に、人類の罪を蕩減し得る一人の女性を探し出すことであったので、それが問題にならざるを得なかったのです。
また、そうした女性は、どのような女性でなければならないでしょうか。必ず歴史的背景を中心として、神様のみ旨に合わせていく女性でなければなりません。そうでなければなりません。イスラエル民族、あるいはイスラエルの国の前に、なくてはならない歴史的な背景をそろえなければならないのです。
またその女性は、自らが国を代表することができ、民族を代表することができ、数多くの家庭を代表することができ、数多くの女性を代表し得る特定の内容を備えなければなりません。それを決定せずには、蕩減復帰の基準を超えられないのです。言い換えれば、全体の中心になる父母の基準を決定づけることができないのです。
今日までの歴史は、蕩減復帰の歴史です。この歴史は、喜ばしい歴史ではなく悲しい歴史です。この悲しい歴史の中には数多くの国家が巻き込まれ、数多くの民族と数多くの氏族が巻き込まれ、数多くのイスラエルの家庭が巻き込まれています。
このように、悲しみによってつづられてきた歴史の結果として残った世界の数多くの国家と民族、数多くの氏族と家庭であるため、このすべてを代表し、立ち上がることのできるその女性は、ただ単調な女性ではいけないのです。そのような特定の内容を備え、それに責任をもち得ると決意をした女性でなくてはならないのです。言い換えれば、心の中に数多くの国を、数多くの氏族を、数多くの家庭を代表できる特定の内容を備えた女性でなくてはならないというのです。
そして、その女性はそうした決意と自信をもって、歴史的なすべての男性を代表して来られるイエス様と一つにならなければなりません。それは一人の男性として来られるイエス様を国家ならば国家を代表でき、民族ならば民族を代表でき、氏族ならば氏族を代表でき、家庭ならば家庭を代表できる一人の男性として信じ、彼と一つにならなければならないという意味です。そのようにできる基準が設定されずには、復帰された家庭を中心とした真の父母の因縁を決定づけることはできないのです。
◆キリスト教の使命
このようなことについて考えてみるとき、イエス様が選んだ十二弟子と七十門徒は、内情的な問題を根本的に解決する基盤になったのではないことが分かります。イエス様は彼らを動員して、民族を代表し、国家を代表できる一つの男性的な垣根をつくろうとしたのです。そうして、その基盤の上に一つの結実体として自分を連結しようとしたのです。このために歴史的に責任を果たすことのできなかった多くの男性を再現し、その時代に平面的に展開した代表的な型が、十二弟子と七十門徒です。
イエス様を中心としてその十二弟子と七十門徒が完全に一つになれば、歴史過程で失敗した、その時代時代ごとに蕩減できなかったすべての男性の失敗が蕩減されるのです。
そのため、イエス様は彼らと完全に一つになり、歴史的な失敗を収拾できる実体的な圏を横的につくらなければなりません。完全に守りの堅い城のような垣根をつくり、サタンが攻撃しようにも攻撃することのできない一人の男性としての勝利的基盤を決定づけなければならないのです。その垣根の使命を担わなければならないのが誰かといえば、十二弟子であり、七十門徒なのです。
このような基盤、すなわちこのような背景の上に強固に立って、前に話したような女性を探して母親の基準をつくらなければならないのです。そのためには歴史路程で闘ってきたのと同様に、一代の闘いを経なければなりません。このようにしなければならない内的な事情がイエス様にあったという事実を、その時代の十二弟子や七十門徒は知らなかったのです。
ですから、イエス様はこのような環境の基盤を一度ももつことができませんでした。そのようにすることのできる一人の相手も見つけることができず、そのような内情を伝えることのできる一人の弟子も見つけられないまま、三十余年の生涯を送り、結局十字架にかけられて亡くなったのです。
そのように十字架で亡くなったイエス様なので、恨があるとすれば、その方には誰よりも多くの恨があるはずです。神様が四千年間の歴史をつづってきながら苦労した上でイエス様を送られ、一つの時を迎えるようにしたにもかかわらず、神様が望まれたすべての内容が根本的に破綻してしまいました。また、イエス様は神様が男性の歴史としてつづってきた四千年の歴史に一つの勝利的な基盤を立てるために来たにもかかわらず、それを立てられずに逝かざるを得ませんでした。そのようなイエス様であったので、その事情がどんなに痛々しいものであったかを私たちは知らなければなりません。
イエス様は自分一人死ぬことは何でもなかったのです。自分一人死ぬことによって四千年という長い歳月、男性を通して役事してきた神様の摂理がすべて水の泡になるという事実をより悲しまれました。自分が死ぬその悲しみよりも、神様の摂理が失敗に帰する悲しみをより大きく感じ、内情的に深く悲しまれたイエス様でした。皆さんはそのようなイエス様の心情を知らなければなりません。
しかし、イエス様は自分は死んでも歴史的なすべての基盤をもう一度収拾するのだという信念と決意と覚悟のもとで、十字架の道を堂々と突破したので、神様の心情と一致点をつくることができ、霊的に弟子を再び収拾することができました。これで第二の垣根をつくり、今日男性を中心としたキリスト教歴史を再編成できたという事実を皆さんは知らなければなりません。かくして霊的な基準を中心として、今日まで二千年間、数多くの殉教の歴史を経てきながら発展してきたのがキリスト教の歴史です。
では、キリスト教の歴史を中心として考えてみるとき、キリスト教は漠然とした国家の理念圏内にあるのではなく、ある特定の民族を再び立て、イエス様の当時に解決できなかったすべての内的な問題を再現して完全に解決しなければならないのです。そのような蕩減路程が残っているのです。ですから、終わりの日には特定の国家が問題にならざるを得ないのです。
◆真の父母の垣根になるべき祝福家庭
今日、統一教会の理念を中心として真の父母と因縁を結んだ家庭が増えました。今まで祝福を受けた家庭は多いのですが、この家庭は何をしなければならないでしょうか。その家庭において男性は、来られる主の前に絶対的な男性を代表でき、歴史的な恨を連結することのできる相対的な基盤にならなければならないのです。
また、今までの歴史過程において女性は、神様の摂理路程に登場した時がなかったのです。ですから横的に平等な立場で女性が、神様の摂理路程の前に登場できなかった、その歴史的な恨を解く代表者として登場しなければなりません。
そのように登場できる特権的な恩恵を受けるようになったのは、彼らが祝福を受けた家庭だからです。ですから、男性の前で女性は全体の女性を代表し、過去から今までつづってきたすべての縦的な歴史を横的に蕩減し得る内的な垣根になり、それを家庭に連結し得る一つの力にならなければなりません。
したがって、一家庭が回って入っていくとすれば家庭全体が回って入っていかなければならず、その家庭が回って出てくるとすれば全体が回って出てこなければなりません。言い換えれば、ある男性とある女性を中心として回って入っていっても、その家庭全体が真の父母の前に連結されなければならないし、その真の父母を中心として回って出ていったとしても、その家庭全体が民族に代わることのできる家庭の基準にまで立たなければならないというのです。そうでなければ完全な蕩減復帰はできないのです。
こういう観点で、先生は今まで六千年の歴史過程において全男性を代表して祭物になってきたのですが、祭物の中でも最高の祭物にならなければならないのです。その立場はある特定の個人的な立場ではありません。いかなる家庭や氏族、また民族だけを代表した立場でもないのです。世界を代表し、歴史を代表した立場で祭物にならなければならないのです。
今日まで歴史過程には、数多くの男性が来ては去っていきました。神様はアベルからノア、アブラハム、モーセ、洗礼ヨハネ、イエス様に至るまで、多くの男性を中心として役事してきました。しかし、先生は彼らより内的にも外的にも、あるいは縦的にも横的にも優れていなければならないのです。彼らに対する時、恥ずかしい立場に立ってはならないのです。すなわち、すべての男性を代表して世界的な結実にならなければならないのです。そうした立場に立たずには、蕩減復帰を完全に成し遂げることができないのです。
では、統一教会とは何をする所でしょうか。統一教会は統一教会自体を発展させる使命よりも、統一教会を指導する先生と一体になるという使命が大きいのです。各自の責任よりも、先生と一体となることが何よりも重要な責任です。先生と一つになり得る基準が決定されずには、自分を中心とした責任は完遂できないのです。
したがって男性ならば、男性である先生を中心として完全に一つにならなければならないのですが、一つになるには自らの事情や立場、すなわち家庭ならば家庭で自分が置かれている環境が問題になってはなりません。そのすべての環境を超えて、完全に一つになった立場に立たなければならないの
です。
一つになったその場には、いかなる間隔もあり得ません。何ものもこれをかき散らしていってはいけません。完全に一致した基準でなければなりません。
また女性ならば、女性である母親を中心として完全に一つにならなければなりません。女性は女性自体によって立つことができないので、必ず母親を中心としてその基盤の上に立たなければなりません。ゆえに女性の皆さんと、母親は完全に一つにならなければなりません。そうしてこそ女性として成さなければならない自らの責任が完遂されるので、女性は必ず母親を中心として一つにならなければならないのです。
◆先生の使命
本来、歴史は男性と女性を中心として接触してきました。したがって、男性と女性は一つの起点で連結しなければなりません。その連結は「真の父母」という内容を中心としてなされなければならないし、その「真の父母」は歴史の起源として出発しなければなりません。言い換えれば、アダムとエバを中心として歴史が出発していたなら、永遠の結果の世界まで伸びていくはずでした。これが駄目になってしまったので、歴史の起源を再びつくらなければならないのです。
ですから、歴史の起源を再びつくるために、繰り広げられた歴史を収拾しなければならないのですが、そのためには真の父母の因縁を中心として一人の男性と一人の女性を必ず結んでおかなければなりません。そうでなくては新しい歴史時代へと越えていくことができません。これが今日皆さんが現実的にしなければならないことです。
先生の責任は、真の父母の因縁を決定づけることです。これは今まで誰も考えることのできなかった重要な使命です。したがってこれを決定するために、女性はどのような女性にならなければならず、男性はどのような男性にならなければならないのでしょうか。すなわち、先生自身はいかなる父にならなければならず、お母様はいかなる母にならなければならないのでしょうか。
この問題を解決せずしては国の問題も、世界の問題も、天地の問題も解決されません。したがって、この問題が最も重要な問題になるのです。ここから完全な勝利を決定づけなければ、すべてが水の泡となり、神様の摂理はまた延長されるのです。
二人の方が一つになるということは簡単でありません。一人の男性と一人の女性が会って一つになるということは簡単な問題ではありません。ここには歴史的なすべての問題がかかわっています。
今日、アメリカと韓国を中心として見るとき、二国家間には合わせようにも合わせることのできない数多くの内容があります。すなわち、文化が違い、歴史が違い、社会のあらゆる組織が違います。この違った環境が、そのまま一つになるのは難しいのです。一つになれない事情が多いのです。ところが、これよりももっと難しいのが蕩減内容がかかわっている問題、すなわちこの二人が一つになる問題だということを皆さんは知らなければなりません。
ここに深い穴があるならば、その深い穴はいかなる穴よりもより深いはずであり、山があるならばその山はいかなる山よりも高いはずです。それは私たちの平面的な視覚で見るものではなく、心情世界で見ることのできる高い山頂と深い谷間だというのです。ここで平地にする基準をどのように立てるのでしょうか。その基準が立てられる時が真の父母がこの地に因縁を整えて登場する時であり、その時までの歴史は、悲しみの歴史なのです。人類史にこのような蕩減路程が隠れているというのです。
このような点から考えてみるとき、神様が内情の中にアダムとエバを中心として成し遂げようとなさった願いの意味を、アダムとエバは知らなかったというのです。また、アダムとエバの堕落以後、悲しみの歴史を四千年間つづってきましたが、その歴史過程の数多くの人たちも知りませんでした。
四千年が過ぎたのちイエス様が来られ、天に代わって一人の男性として一人の女性の手を取り、歴史的なすべてを解怨成就しなければなりませんでした。しかし、神様のみ旨を抱いて進むにおいて直面しなければならなかったイエス様の内的な苦しい心情を、イエス様の弟子でさえ分からなかったので、イエス様は他の誰にそのことを話すことができたでしょうか。誰にも話すことができなかったというのです。
ですからイエス様が「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか」(ルカ一二・四九)、「わたしが地上のことを語っているのに、あなた方が信じないならば、天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」(ヨハネ三・一二)、「わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなた方は今はそれに堪えられない」(同一六・一二)と嘆いたのです。それは、そういう内情があったためです。ところが、こういう内情があったという事実を、今までの歴史路程では誰一人として知らずに来たのです。
◆真の父母が行くべき道
今日の先生も、そうした内情を知らずには蕩減歴史を成すことはできないのです。では、その内情を皆さんに打ち明けて議論しなければならないでしょうか。そうではありません。それは父母の責任です。父母が間違ってしまったので、父母になれる人だけが解決しなければならない問題なのです。それは難問題として幾重にも重なり合い横たわっていますが、外的には見えないのです。
しかし、内的に見れば世界的に交錯した多くの事情が内在しているので、ここに内在しているすべての事情を蕩減していく道が、真の父母が行かなければならない道なのです。
今から二千年前、イエス様もこのようなみ旨を繰り広げようとしました。しかし、み旨を繰り広げることのできない実情をあまりにもよく知っていたがゆえに、十字架にかからなければならないと宣告を受けた時も、それを難なく越えるのだという決心をすることができました。神様もその環境ではみ旨を打ち立てることができなかったために、イエス様を死の道に追いやらざるを得なかったのです。そのような事情が今日の統一教会の深い所に隠れているという事実を、皆さんは知らなければなりません。
それは表面に現れた統一教会の外的な面を見て知ることもできますが、統一教会の背後には現れることのない歴史的な、悲惨な歴史が内的に陣を張っているという事実を知らなければなりません。
それでは、今後統一教会員が行かなければならない道とはどのような道でしょうか。真の父母の門に通じる道を行かなければなりません。どちらにしてもその門は通らなければなりません。そうせずしては、新しい氏族として、新しい生命体として現れることができません。皆さんがその門を通るにおいては、その深い谷間の内情をどのように体験するかということが問題になります。それは、あの世において価値を決定することのできる重要な内容になるからです。
皆さんは先生を「真の父母」と呼んでいますが、その言葉が意味する深い谷間の内容は知らないでいます。しかし、皆さんは真の父母があらゆる人の憧憬の対象となったときには、同時に受難の結実体でもあるということを知らなければなりません。言い換えれば、この地上で十字架の途上に蕩減の祭物として捧げられたものの中で、最高の祭物として登場した方々だというのです。このような悲しい事情を抱えてその悲しみの峠を越えてこそ、父母の立場が完全に決定されるのです。
◆誰もが行くべき七年路程
原理を中心として考えてみるとき、祝福家庭はいかなる基準にあるでしょうか。アダムとエバが長成期の完成級で堕落したために、復帰路程にあっても、父母によって復帰して入っていく祝福の起源となる所は長成期完成級です。ここで祝福を受けるのです。また祝福を受けたのちに、そこから完成段階の基準に立とうとするなら、七年という期間を経なければなりません。この過程は先生自身も経なければならないし、皆さんも経なければなりません。私たちはみな、この過程を経なければならない共同の運命にあるのです。
したがって、皆さんがこの道を行くにおいて恵み多き道とはどのようなものでしょうか。夜でも昼でもいつでも、死線を越えて自分が完全に父の前に順応できるという道を見つけることです。その道さえ見つければ、他のいかなる道も行けるようになります。その道は自分の夫も遮ることができず、自分の妻も遮ることができません。なぜならその道は、各自が行くべき道だからです。
完成した立場に立つまでは、アダムとエバがそれぞれ個人として行かなければならない道なのです。ですから、この道を行くにおいては妻も制裁できず、夫も制裁できないし、息子や娘も制裁できないのです。この道を行くにおいては息子、娘もいないし、夫もいないし、妻もいないというのです。
人間すべてがこういう過程をたどらなければならないので、今日まで修道の道を行くすべての人々が深い無我の境地になり、神霊的な体験をするようになると必ず分立の役事がなされるのです。すなわち、そのような人がある夫の妻であるとすると、その夫を分立する役事が起こり、そのような人が夫であるとすると、その妻を分立する役事が起こります。また、そのような人が父母の立場にあれば、息子までも分立する役事が起こるというのです。なぜそうなのでしょうか。原理がそのようになっているためです。そのようにせずしては、その道を行くことはできないのです。
ですから堕落した圏内で歩むその道は、家庭に干渉して進む道ではありません。すべてを捨てていかなければなりません。このような道を行くべき歴史的な運命が宗教に残っているために、今日まで数多くの修道者が独身生活をしたのです。正にこの一つの時を越えるために数千年間、修道者たちは独身生活を強調してきたのです。ですから、皆さんは七年路程を行かなければならないのです。
それでは、こういう路程は誰が行かなければならないのでしょうか。父母が行かなければならないのです。アダムとエバが長成期完成級で堕落したために、父母がその道を行かなければならないのですが、誰を中心として行かなければならないでしょうか。男性ならば男性を、女性ならば女性を中心として行くのではなく、完全に神様を中心として行かなければならないのです。どんなにここで祝福家庭の形態を整えるとしても、その家庭の形態は一人の男性、一人の女性を中心とするのではなく、神様を中心としたものでなければなりません。
もしみ旨から外れるようになる時には、お互いがどんなに近いとしても、その近い要素を除去して越えることのできる立場に立たなければなりません。この道は、女性的事情や男性的事情をお互いが提示して、それを公正な立場で通過させては行くことのできない道です。完全に天の側に偏って行かなければならないのです。
また、そのような家庭において、一人の男性が主体であるとすると、女性はその前に絶対服従しなければなりません。ここでは、男性と女性を中心としてカインとアベルの立場と同じ内容が起こるので、男性がアベル的立場に立てば、カイン的立場の女性はその前に絶対服従しなければなりません。ここに異議があってはなりません。異議があればその分、支障を来たすようになるのです。神様はこういう役事を今日までしてこられたのです。
先生が経てきた七年路程も、こういう過程をたどってきたのです。こういう過程を経て、初めて実体的な勝利の条件を立てたのです。この七年路程は蕩減条件を中心として経なければならないので、この期間の間、先生は国家を中心として数多くの民族に対して闘ってきました。また数多くの教団とも闘ってきました。
ここで勝利の条件を決定し、彼らを屈服させた基盤の上に父母の基準を決定しなければなりません。そののちに「神の日」を宣布することができるのです。このように「神の日」は国家、民族を復帰した基盤の上に立てられなければなりません。
七年路程を経て行く間にアダムが主体になったのと同じように、お母様は必ず先生を中心として完全に一つにならなければなりません。
それでは、真の父母の立場とは、どのような立場でしょうか。アダムとエバが神様を中心として完全に一つになり、サタンの讒訴圏から抜け出した立場です。サタンが讒訴することのできる内容を残さないで、完成基準を越えた立場に上がってこそ初めて、真の父母の起源が生まれるのです。これが原理的見解で見た、真の父母の起源なのです。しかし、その見解に相当する立場は、簡単に手にすることのできるものではありません。
◆祝福家庭の責任
先生は統一教会のこのような内的な問題を中心として、一九六八年一月一日を期して「神の日」を宣布しました。言うまでもなく、この日のある前に「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」を設定しました。このように条件をみな立てたので、「神の日」、「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」を設けることにより、歴史的な新しい出発をするようになったのです。統一教会で新しい、歴史的な人類の出発をしたのです。このようにして今日まで歩んできました。
それでは、皆さんはどうなるのでしょうか。これを知ろうとするならば、まず祝福家庭はどこまで上がってきたのかを知らなければなりません。祝福家庭は、長成期完成級まで上がってきました。ですから祝福家庭は、そこから出発しなければならないのです。そこからは主体ならば主体、すなわち男性ならば男性が絶対的な信念をもたなければなりません。これは父母を中心として、男性ならば男性として完全に一つになるべきだという意味です。
父母と完全に一つにならないで、夫婦だけで一つになってはいけません。夫婦だけで一つになろうとするならば、各自が完全に一つの根に接ぎ木されたあとに一つにならなければなりません。父母と一つになったその場には、理由があり得ないのです。父母の命令だというときは、「死ね」と言われれば死ぬこともできなければなりません。生死の境地を自由に往来できる決定的な意識を常に自覚せずには、この道を越えることができないのです。
イエス様は十字架にかかって死ぬ時、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにでなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈りました。それは、死を越えるという意識観念が確実に立っているからできる祈りなのです。そこではサタンを除去することができます。死にしがみついて闘うならばサタンが屈服するのです。
このような点で考えてみるとき、今日家庭をもった男性は、先生と完全に一つにならなければなりません。ここには罪の観念がないのです。完全に一つになり先生の分身として、主体的な立場で出発しなければなりません。この時に対象である夫人は、主体と一つになり、その前に絶対に順応しなければなりません。
それでは、今まで祝福を受けた家庭の中で、自らの生活を中心として見るとき、「天の前に残ることができる」と言える家庭が何家庭くらいあるかというと、一家庭もないというのです。皆さんは今、このような難しい問題に遭遇しています。けれどもこの道は、行かなければならない道です。したがって皆さんは、家庭を中心として夫婦が完全に一つにならなければならないのです。
しかし、自分たちだけで一つになることはできません。夫婦が一つなるためには、必ず家庭を中心として進まなければなりません。また、この家庭が残ろうとするならば、氏族のために進まなければならず、氏族と連結できる根本的な因縁をもたなければならないのであり、このような根本的な因縁をもつためには三人の息子が必要なのです。
縦的な基準なしに家庭が一つになっては、横的な基準が連結されないのです。また、横的な基準が連結できなければ、家庭を中心として氏族的な縁も結ぶことができません。したがって、家庭的な内的基準を決定する立場に立とうとするなら、必ず外的な基準で自分の代わりに闘ってくれる人を補強しておかなければならないのです。
今日、世界は、サタン世界と天の世界の二つに分かれています。祝福家庭は、残されたサタン世界を吸収しなければなりません。そのためには、カイン的な立場で天の側に反対してきた私だったので、これから天の側を支持する立場になり、天の側を反対する天使長の立場に立っている人々を屈服させ得る私にならなければなりません。そのようにせずには蕩減できません。今までこのような内容で闘ってきました。
◆真の父母の基準
真の父母の基準点は、特定の一人の男性です。その男性は六千年の復帰摂理歴史の過程で、すべての国家ならば国家、民族ならば民族を中心として、その過程で失敗した数多くの男性を代表し、勝利の決定権をもたなければなりません。
このような絶対的な基準を立てた土台の上に、一つの相対的な基準を立てなければなりません。言い換えれば、エバがサタンに引っ張られていくことによって失ったものを、すべて再び探し出す役事をしなければならないのです。アダムを通してエバが造られたのと同じように、その男性の相手が再度造られなければならないのです。
先生は、そうした闘いを今までしてきました。皆さんも祝福を受けようとするなら、必ずこの基準を越えなければなりません。その基準を越えるにおいて、七年路程は避けていくことができません。この七年の峠は誰にでもあります。
先生が今日まで生涯を捧げて闘ってきたのは、この峠を越えるためでした。これが今日までの四千年歴史に該当するのです。本来はイエス様の時にこれを連結し、七年路程を行かなければなりませんでした。ところが、そこに行くことができなかったために二千年延長したので、これをまた再現して、その四千年の歴史に該当する歴史的な蕩減路程を歩まなければならないのです。
先生は復帰原理を通してイエス様についての内容と、聖書の中の未知の事実をすべて解明しました。そして、アダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モーセ路程、そしてイエス様の時代まで一番深い所を掘り起こしていきました。
したがって皆さんは、広げれば大きいけれど、手に握ろうとすれば一握りにできる網と同じように、心情的な基準の前に一握りにし得る内容を積み上げて進まなければなりません。それを積み上げて悟るだけでなく、それを条件として提示して、サタン世界で勝利を決定しなければなりません。したがって、サタン世界で統一教会が問題にならざるを得ないし、数多くの霊通人にも先生が問題にならざるを得ないのです。
また、先生は四千年の歴史の中のたくさんの高地をすべて平地にし、心情的基準を中心として神様との関係を勝利的な関係として立てなければなりません。ところでこれを先生が立てて、何らの支障もない内的決定をしておいたので、今日世界史的な蕩減路程を決定づけることができるのです。
先生があることに決断を下せば、その決断は世の中だけでなく、霊界にまで影響を及ぼすのです。そういうことは霊通した人々に聞いてみれば、みな分かります。外的世界だけでなく霊的世界までもぴったり合うというのです。ですから四千年歴史の中のすべての深い谷間を埋め、高い山頂を削って平地にしなければならないのです。
神様は今まで、数多くの私たちの先祖に対して悲しんでこられました。数多くの私たちの先祖に裏切られ、排斥されました。しかし先生は、そのようなあらゆる事情の深い谷間より、もっと深い谷間に入っていきました。先祖が入っていけなかった深い谷間まで入っていき、神様を慰労してあげることのできる立場に立ちました。そのため、先生の一言の慰労が、六千年の間に地上に来て去っていった、数多くの人々に対する慰労を代表できる基準を立ててきたということを知らなければなりません。
ところが皆さんは、そのような事実をよく知らずにいます。この基準を体験するためには霊的体験がなければならず、霊的体験をしようとすれば、祈祷しなければなりません。祈るだけでなく、必ず怨 讐の世界に入っていって闘わなければなりません。祈るだけでは駄目なのです。み言を中心として正しいことを求め、命を懸けて闘うことのできる信念をもたなければならないのです。
こういう観点から統一教会を見るとき、皆さんが知っているそれが全部ではないことを知らなければなりません。ここには幕を破って入っていった深い谷間があり、皆さんが歴史過程で感じられない深い内容があるということを知らなければならないのです。
◆神様を中心とした国家の形成
神様は今日まで、国家から民族を、民族から氏族を、氏族から家庭を、家庭から父母を立てるために逆さに収拾してきました。時になるまで二千年間、キリスト教を中心としてこの仕事をしてきました。これから時になるにつれて、キリスト教を中心とした国家がつくられ、その国家の中で一つの氏族がつくられ、一つの家庭がつくられるのです。このように一固まりにする歴史は、百二十年の期間を中心として成されるのです。
したがって、現在の世界的な発展は、百二十年間のうちに左右されるのです。この期間の中でも四十年期間が問題になり、この四十年期間を中心として進む時には、七年期間が問題になるのです。そのようにあらゆることを外的につづって六千年間繰り広げてきたものを、すなわち縦的に広げてきたものを、今は横的に全部収拾しておかなければならないのです。
これを収拾しようとするなら一つの特定の国家と、特定の民族と、特定の氏族と、特定の家庭を立てて、世界史的な代表として個人を立てなければなりません。そうして皆さんの側に縦的歴史を横的に立てて収拾しなければなりません。そのために神様が六千年間、世界のキリスト教国家圏をつくったのです。
ですから、時になってくるにつれて、この国家圏では歴史上にあったあらゆる失敗を再現し、天使長の立場で蕩減しなければなりません。これが国家、民族、氏族、家庭、個人の歴史にならなければなりません。こういう歴史をつづっていくためには、再び来られる真の父母が存在しなければなりません。その真の父母は、歴史上初めてこのような問題を解決して行かなければならないのです。
家庭を中心として先生がいつも感じることとは何かというと、私の家庭しかないということです。先生の家庭しかないのです。
先生の家庭は家庭の代表にならなければならないし、氏族、民族、世界の代表にならなければなりません。今日までの復帰歴史はこれを成すための歴史です。これはアダム家庭、ノア家庭もみな同じです。歴史の発展とともに、家族的な次元を世界路程の中心に連結していくのです。
皆さんがどんなに成功したとしても、その成功が自分一人だけの成功になってはいけません。そのような成功によっては何も収拾できないのです。また、皆さんがどんなに神様のために忠誠と栄光を捧げたいといっても、自分が動機になっては絶対にいけないのです。
皆さんの中に「私がみ旨の前に忠誠を尽くして、今後すべてを天の物として捧げよう」と思っている人がいるでしょう。皆さんがここで注意しなければならない点は、動機が誰になっているかということです。私が誰による自分であるのかということが問題です。あることをする時、その動機が誰になっているかというとき、動機が皆さん自身になってはいけません。神様にならなければならないのです。
また天が動機になって出発したことの結果が、自分になってはなりません。そのようなことを三回以上繰り返す人は、行く道がふさがれるのです。道がふさがれて力をなくすと、絶対に道を再び見つけ出すことはできせません。新しい動機の条件を探して、入っていかなければならないのです。
◆神様が共にされる時と場所
神様は時になる前に、必ず準備させます。軍隊が危険な時に対応して練習するのと同じように、また国家が国民を総動員して緊急事態に備える練習をさせるのと同じように、今後決定的な大きな時の来る前に、必ず練習時間があるというのです。練習は神様が率先してさせるのではありません。その期間、神様は完全に離れています。なぜなら、堕落の決定はアダムとエバがしたからです。
それでは、いつ神様が共にいてくださり、いつ同情してくださるのでしょうか。完全に「私だけが残りました」という立場に同情してくださるのです。二人ではなく、一人残った立場です。誰も言い表すことのできない、極めて孤独な立場に入っていかなければなりません。抜け出す穴もない、そのような立場にまで入っていかなければならないのです。一つの峠を越えるたびに必ずそのような立場があるというのです。
真の父母が行かなければならない道は簡単ではありません。家庭の十字架を背負って、氏族、民族、国家、世界の十字架を背負っていかなければなりません。これが、真の父母が行かなければならない運命の道です。
また、この道は神様が協助して越える道ではなく、一人で越えなければならない道です。イエス様が十字架を背負って越える時、神様が協助して共に越えたとすると蕩減にならないのです。したがって、神様が顔を背けている立場で一人で越えなければならないのです。一人で越えなければならない道が、こんなに難しくて退屈な道だというのです。
責任を負った人が行かなければならない運命の道とはどのようなものかを、皆さんはよく知りません。ところで、この道を行く過程では必ず三角圏内に入っていくようになるのですが、この三角圏内に入っていくようになれば、どこへ行くべきでしょうか。後退することは簡単です。しかし、責任を完遂するのが難しいと自暴自棄になり、後退するならば完全に滅びるのです。
ですから、どうしてでも行かなければなりません。ここで後退すれば必ずサタンが接近するようになっています。皆さんがこの道を行くにおいて、難しくて息が詰まるような時がたくさんあるでしょう。その峠を越えようとするなら、このような作戦をよく知らなければなりません。そして、これを知っているとしても、ここには死を覚悟して闘うべき問題が残っているということを忘れてはならないのです。
33. 一心統一
一九七〇年一月十一日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第二十八巻』
何事であれ、「出発が良ければすべて成就される」ということを私たちは知っています。「終始一のごとし」というのは、いつでも私たちの社会が要求することです。歴史の過程でも、このような過程を経てこそ、より優れた成果をもたらすことができたということを、あらゆる事柄を通して見ても確認することができます。
◆目的を成就するためには一心が必要
「一心統一」、すなわち「一つの心で、一つの統一を成そう」ということです。これは、ある国家の主権者がいれば、その主権者も願うことであり、ある団体があれば、その団体も願うことです。またこれは、ある制度を実行しようという人がいれば、その人も願うことです。心が統一されずには、その制度を通して成就させようとすることは成就できないのです。
この一心統一は、私たちの人生において一日の生活から、一年の路程、さらには一生の路程で必要であり、全歴史路程を見ても、必ずある目的に向かって進行する過程で、絶対的に必要であるという事実を私たちは否認することができません。
各個人が一日の生活を営むにも、朝家を出る時は一つの心であるのに、夕方帰宅する時は二つの心に変わっていれば、一つの目的を成就することはできません。このように見ると、今日私たちが生きているこの社会、今皆さん自身が接している生活環境が、一心になった環境を備えているでしょうか。そうでないことを私たちは知っています。皆さん自身も、一日のうちにも、心の方向が様々に変わるのを感じるでしょう。
心が変わるから行く方向が変わるのであり、行く方向が変わるから目的が変わるのです。心が変わり、一つの目的を達成する、これはあり得ないことです。心が一つになっても目的を達成するのは難しいのに、二つの心をもって一つの目的を成就させるということは、なおさらあり得ないことです。
このようにあらゆることを見てみると、一つの心が必要なのです。朝の心、昼の心、夕方の心が一つにならなければならず、幼年時代の心、中年時代の心、晩年時代の心が一つにならなければなりません。このように誰でも一つの心をもって始め、一つの心をもってその過程を開拓し、一つの心を中心に結束した結果を追求する、その期間が長ければ長いほど、その人の願う目的も大きいでしょう。
私たちは一つの心をもたなければなりません。ある目的を追求するにも、一つの心をもたなければなりません。一つの心を離れては、その目的を成就することはできないのです。神様が天地を創造されるときに、二つの心をもって創造されなかったということを知っています。一つの心から始まり、一つの目的を達成するためには、一つの方向を整えた過程を経なければならないようになっているにもかかわらず、今日人間は一つの心の形態を整えられずにいます。
大韓民国であれば、大韓民国の人が生きていく方向が異なり、各国の政策が異なり、その社会の思潮が異なり、今日現世の社会を構成する思想が異なります。このすべてが一つになっていません。千態万状の背後を中心として、その因縁を通して現実的な社会環境や制度の結果が、千態万状にならざるを得ないのです。このように数多くの動機によって数多くの結果が結ばれるために、必ず歴史はその結果の一致点を追求しなければならず、それでこそ歴史の目的が成されるのは当然の結論です。
このように歴史は必ず一つの目的を指向して出てくるため、数多くの主義、思想が収拾されて、一つの目的とする世界に帰結されるのは、必然的な結果であるといわざるを得ないのです。
このような一つの目的の世界に帰結されるのは、偶然な結果として成されないのです。これは誰もがその形を変形させることはできず、その方向を取り戻せない一つの原因と一つの過程を通して、一つの目的とするところの世界が成就されると見るのが、正常的な観であるといわざるを得ないのです。
それゆえ、一つの世界を追求するその背後においては、絶対的な要因と一つの一致点が成されずしては、一つの世界を成すことはできません。すなわち、一致したその起源によって過程を経て、その過程が世界化できる因縁を経て、一つの世界を成せるという結論を出すことができるのです。
◆幸福の起源
では、今日の世界思潮を大別してみると、どのような世界観になっているのでしょうか。物質的世界観と精神的世界観になっています。言い換えれば、唯物史観と唯心史観が対立しています。この物質的な面と精神的な面が対立した立場で、一つの中心に行くことができるでしょうか。これは不可能なのです。人についても見てみると、体と心からできています。心というものは、私たちの現実的なことをもってしては、分析、処理できません。物質的な環境や内容で観測しては、一つの結果を出すことができないのが、心の世界であることを私たちは知っています。
この心の世界は、具体的な内容をもっていないようですが、それが物質的な世界を管轄しているのです。高次的な内容を備えた内的な原則を通して、物質世界を分析することはできますが、物質的なことをもってはその次元に及ばないため、心の世界を分析したり、解決することはできないことを私たちは知っています。
このような過程から見ると、この世界は二つの世界に分かれています。では、二つの世界に分かれたままで永続できるでしょうか。もし、人類が二つの世界に分かれた状態で永続するなら、悲惨であるといわざるを得ません。これが一つの帰結点をもたなければ、一つの目的を達成できません。一つの目的を達成できない限り、その人や国、世界において、幸福あるいは平和はあり得ません。二つの間に相反する要因を残しておいては、幸福というものはあり得ないのです。
一つの家庭を中心として見ても、家庭で夫婦がお互いに相反する立場を固守していては、その家庭に平和はあり得ません。必ず主体的な立場の一つの中心を基準にして、その中心と相対が一つにならなければならないのです。主体と対象の関係において、誰が中心にならなければならないでしょうか。主体が中心にならなければなりません。対象は主体を中心にしなければならず、主体の前に自分を連結させなければなりません。それでこそ、自分が対象としての目的を成就できるのです。
ところが、主体が対象の立場に立って行ったり来たりすれば、一つの目的を成就することはできないのです。このように見ると、一つの家庭で目的を成就しようとするなら、その家庭の夫婦が一つにならなければならないのです。
では、一つになるには何を中心として一つにならなければならないのでしょうか。夫であれば夫、あるいは妻であれば妻を中心として一つにならなければなりません。世界に行ける心と一致した人を中心として、その近くに立てば立つほど、その家庭は世界の歴史に残ることができるのです。そうなればその家庭は、その国の運命と、民族の幸運を確約する起源になるというのです。そのように見ると、二人が相克、相反する立場では、幸福はあり得ないという事実を知ることができます。
社会が一つの形態を整えられないことを心配しますが、それは根本的な問題とは距離が遠いのです。家庭が一つの形態を成せないことも、直接的な問題にはなりますが、根本的な問題ではないのです。それよりももっと根本的な問題はどこにあるのでしょうか。自分自身にあるのです。自分自身が一つの心に従って生まれたかということが問題です。自分自身は一つの心に従って過去から生きてきて、この時代を生きているか、また、未来にまでも一つの心をもって生きられるか、ということが問題にならざるを得ないのです。
皆さんが「幸福だ」と言うとき、幸福というその言葉は、勝利した過去をもっているときに言える言葉です。現実には中心的な立場を決定して、世界なら世界の前に永遠に残ることができ、全存在の前に、あるいは万有の存在世界の前に、中心として立てるのに不足がないといえる立場で幸福が保障されるのです。そして、現実においてだけでなく、未来においても永遠の喜びになり得なければなりません。過去、現在、未来において、一致した内容であることを保障され得るところで、初めて幸福の起源になり得るのです。
過去の勝利の決定的基準をもつことができなければ、過去から今まで経験してきたすべてのことが、相反する要因として残されるのです。その相反する要因が、現在自分が立っている所より大きく、範囲が広くなれば、それはいつでも主体的な要因になるのです。
現実においても同じです。中心より相対的な環境とすべての条件が優勢になるときは、その中心は優勢なものに吸収されてしまいます。また、未来の起源を準備しなければなりません。それだけではなく、未来の世界の内的な核心になることができ、中心になり得る確固とした基礎を準備しなければなりません。未来の世界が現在の幸福の基準で眺めるより、さらに大きくなるとき、その幸福は完全なものです。過去の心、現在の心、未来の心が行ったり来たりすれば、その目的が成就されないのです。
◆真の成立
私たちはある人を見るとき、「その家系は良い家柄のようではない」と評します。それは、その人が過去を反映する立場で生まれたからです。その人を見て、その家柄を評することができ、またその人を見て現在を評することができ、その人を見て未来を観望できるのです。このような観点で、自分自身は過去の延長であり、現在の集約であり、未来の出発体になるのです。
このような点から見ると、幸福というものが、過去の勝利の中心になり、現在の勝利の中心になり、未来の新しい出発になるのです。言い換えれば、幸福になるためには、過去も一つであり、現在も一つであり、未来も一つにならなければならないというのです。このような意味で、真というものを追求するのです。
歴史上に現れた聖賢たちは、歴史の過程で生まれて亡くなった、その誰よりも真なる人です。では、真というものはどこで成立するのでしょうか。真というものは、未来でのみ成立するものではなく、現在でのみ成立するものでもありません。真というものは、過去でも真でなければならず、現在でも真でなければならず、未来でも真でなければなりません。真というものは環境を超越したものです。真なる人は、過去にも中心であり、現在でも中心であり、また未来においても中心なのです。このような立場において、真なる人が成立するのです。
では、人間世界で真に近いものとは何でしょうか。今まで数多くの人々が生まれて死にましたが、最も真に近いものとは何かというと、相対的に現れた師匠よりも、父母よりも、真の母体を成し得る存在とは、まさしく自分自身なのです。
では、自分に最も近い真の相対は何でしょうか。それは自分自身の心、つまり良心です。私たちはよく「あの人は良心的だ。あの人の心はまっすぐだ」と言います。「心がまっすぐだ」というのはどういうことでしょうか。歴史は直行します。ですから、過去もまっすぐで、現在もまっすぐで、未来もまっすぐでなければならないのです。
過去が曲がったために、現在も曲がり、未来においても曲がる可能性があります。私たちはそのような因縁を革新してしまい、心が直行できる所に行かなければなりません。直行は二点を中心として連結される線です。その二点とは何かといえば、原因と結果です。その原因は何からできているのでしょうか。一つの心からできています。
では、その結果とは何でしょうか。一つの心です。言い換えれば、一つの心の土台を通して、一つの目的を描いていく過程の現象的な表示が、一つの直線なのです。
それゆえに、幸福も真の立場で成立するのであり、神様の摂理も真の立場で進行するのです。しかし、この真が問題です。この真の中では、真なる自己が必要です。その真なる自己になれなかったために、教育を通して修養したりしているのです。ですから、今日の諸般の教育制度は、人間改造という問題を中心として組まれたものであり、それを中心として今まで革新運動をしてきたのです。ところが、その真の立場がまだ決定されていないのです。
その真を決定できるものとは何でしょうか。それは私たち人間が要求する、通り一遍の目的とは相反するのです。通り一遍のものではありません。絶対的なものであると同時に、中心的な内容なのです。それは何でしょうか。お金でしょうか。違います。
幸福は、経済的なものだけをもっては論議することができません。いくら世界を一つのこぶしで統一した英雄がいたとしても、彼が幸福を謳歌しようとするなら、権威をもって自分が成した世界的な舞台を眺めるとき、その心にあふれ出る喜びが世界の理想にならなければなりません。そうでなければ、幸福を謳歌することはできません。その喜びが自分一人だけの喜びではなく、必ず最も近い人が、その目的成就を自分以上に喜べる立場に立つようになるとき、初めて幸福が起こり得るのです。
今までの歴史過程について見れば、歴史は闘争史でした。一国について見ると、為政者が閣僚を中心として国の政策をうまく樹立し、目的を成就した立場に臨むようになるとき、その政策が成就されることを中心として、国全体が為政者以上に喜ぶことのできる基準になっているか、その国においてその政策が成功することを称賛し、喜ぶことができるかというと、その現れる現象は千態万状だというのです。
幸福の要件は、外的な立場で追求するものではありません。その人が成した幸福を、自分以上の幸福として考えられる相対的環境が四方に整うようになるとき、その幸福は永遠に保障されるのです。
◆父母の愛が必要な理由
そのような立場は、何によって成立するのでしょうか。外的なもので成されるのではありません。社会制度によって成されるのでもありません。それは心情、すなわち愛によって成されるのです。その愛は急変的に現れるのではありません。過去から出てくるのです。その愛は現在に連結され、未来にまで連結されるのです。
では、その愛の絶対的な中心とは誰でしょうか。人ではありません。人は絶対的な中心になれないのです。人々は絶対的な善を願うために、絶対的な中心に置かれることのできる愛を追求せざるを得ません。私たちはこれを、「神様の愛」と言います。
世の中でも、外的にあまりに不出来な息子がいたとしても、父母はその息子を愛するのです。善し悪しの外的な条件を超越するのが父母の愛です。いくら不具者の父母だからといっても、息子を愛するのは絶対的です。ですから、父母の愛が必要なのです。
では、なぜ父母の愛が必要なのでしょうか。それは父母が、過去の因縁に代わり得る愛のよりどころだからです。その基盤の上に立ってこそ自分が愛の息子となり、また愛に接ぎ木できる立場に入っていくのです。
ですから、父母がいない人は不幸だというのです。言い換えれば、父母の愛によって、過去の因縁と勝利の立場を、私たちが父母から引き継ぐことができるのです。父母の愛をたっぷり受けたということは、過去のことをただそのままもつことができるということです。
ですから、父母の愛を受ける息子がいれば、彼は、老いて死ぬまで父母の愛と運命を共にするのです。父母から相続された遺品があるとき、その遺品は、老いて死ぬまで一緒にあるのではありません。そのような外的なものは消え失せてしまうのであり、すべてなくなってしまいますが、父母と因縁を結んだ愛というものは永遠なのです。外的な立場が悲惨であれば悲惨であるほど、その中に深く染み込んで、より一層一つになることができ、それ以上の因縁をもつことができるのが愛です。
過去の勝利を決定できるものとは何でしょうか。それは世の中の権威でもなく、物質でもありません。それは絶対に父母の愛です。ですから、父母の愛を受けた人は、何だか分からなくても現実において十分に咲き始めるのです。現実において満開になります。自然に祝福の手があるのです。反面、何だか分からずに内的欠陥、すなわち心情的欠陥をもって育ち、萎縮した環境で育った人は、四方から尊敬され得る忠臣、烈士になれません。
では、今日の全般的な世界の情勢を見てみると、全世界に現れた欠陥の原因はどこにあるのでしょうか。今日、この文化世界を創建したこの社会組織に欠陥があるというだけでもありません。これを動かす人に欠陥があるというだけでもありません。では、何のためでしょうか。心情的な欠陥のためです。心情的な欠陥が社会に及ぼす影響によって、欠陥が形成されるのです。これは自他が公認するところです。
このような観点から私たち自体を中心として見ると、どのように父母が私たちを愛したか、その愛と一致できる子女になったか、ということが問題になることが分かります。このような問題が、家庭の幸、不幸を決定する絶対的な要因になります。夫婦が幸福に暮らしているといっても、その息子が父母の心情と一致しないときは、不幸を造成するしかないのです。息子と娘がいれば、息子だけが父母の心情と一致しても幸福にはなれません。娘も一致しなければなりません。
では、過去、現在、未来が連結され得る最小限の基準とは何でしょうか。それは家庭です。家庭は世界の縮小体と同じです。そこでは過去と現在と未来が連結するのです。それはどういうことかというと、家庭にはおじいさんとお父さんと息子が共存するのです。父親がおじいさんの位置になれば、自分が父親の位置になって息子、娘をもつようになります。おじいさんから父親、自分の三代が一つにならなければなりません。すなわち、過去、現在、未来、この三つの因縁が一つにならなければなりません。そのような家庭は、世の中がいくら揺れたとしても、揺れる社会の侵犯を受けずに、幸福の基盤をもつことができます。
◆一つの心を成就できる所
では、私という個体はどのような存在でしょうか。自分が自分自身を創造して生まれたのではない、ということは誰も否定できません。これを問い詰めていけば、私たちの父母、その父母の父母、またその父母の父母、最後には人間始祖の父母まで上がっていきます。すなわち、人間始祖であるアダムとエバにまで上がっていきます。
アダムとエバ自体を見てみると、アダムとエバが自分たち自身生まれたくて生まれたのであれば、自分が自分自体を創造することができるかもしれません。しかし、そのような存在ではなく、どこまでも自分は結果的な存在です。
人間の個体について見てみると、心と体は相対的な関係になっていますが、心は体を主管しているのです。それゆえ、神様と私たちの心が一つにならなければなりません。これが問題です。
このような観点から聖書で、アブラハムの神様、イサクの神様、ヤコブの神様といったのです。統一原理の観点から見てみると、第一アダム、第二アダム、第三アダムを通してこそ完成されます。過去、現在、未来に通じることのできるその基準に立たなければなりません。過去の勝利を決定し、現在の勝利を決定し、未来の勝利の基盤を完備してこそ、ここで一つの新しい世界が出発するのです。
では、今まで流れてきた歴史はどこへ行くのでしょうか。皆さんが押し進めていくか、通り過ぎていくかということが問題になるのです。また、今後来る世界はどうなるでしょうか。皆さんが越えていくのでしょうか、押し進めていくのでしょうか。これが大きな問題になるのです。流れいく歴史過程において、この世界に従っていくか、つまりこの世界を中心として行くか、未来の世界を中心として行くかということが問題になります。
この世界を中心として行くようになれば、希望がないのです。それゆえ、私たちは誤った歴史過程を脱皮しなければなりません。それを脱皮するには、人間自らはできません。そうすることのできる動機がなければなりません。そうすることのできる動機には、誰がならなければならないでしょうか。人間はなれません。そこには本来原因であられる方、すなわち神様が動機にならなければなりません。では、原因であられるその方と、今日の私たち人類との一致点とはどこでしょうか。これが宗教が追求する目的であり、また良心が願う目的なのです。
では、その一致点とはどこでしょうか。自分という個体、すなわち個人に帰るのです。個人に帰れば、個人の一致点とはどこでしょうか。心情問題に帰るのです。その心情の谷間に下って、父母の心情を経て祖先代々に下りていくと、愛し残したかった基準があります。その愛し残したかったものとは何でしょうか。自分の生命体です。自分の命が連続するのです。言い換えれば、息子と娘を中心として直系に続くのです。直系を分析してみると、何をもってつながっているのでしょうか。同じ血と肉でつながっています。同じ血と肉だけでつながってはいけません。同じ情を引き継がなければなりません。問題はこれです。
では、同じ情を継いだ所とはどこでしょうか。同じ血と肉を継ぎ、同じ情を継いだ所とはどこかというのが問題です。これを失ったのが歴史的な恨です。これを探し出すことは宇宙的な課業です。この課業を解決するためのものが神様の摂理であり、この目的を達成するためにイエス様が新郎新婦の理念を説いたのではないでしょうか。
では、皆さん自身においては、神様とつながる所とはどこでしょうか。この歴史の中心です。皆さんは歴史の中心に入り、神様と因縁を結ばなければならないのです。ですから、将来来る世界を自分自身がすべて迎えることができる、さらに世界が自分に向かってくるようにできる立場に立たなければなりません。来る世界と、流れていく世界がぶつかるようになるとき、来る世界が、流れていく世界を収拾しなければなりません。それなら、問題はどこにあるでしょうか。心情的な一致点です。今日の複雑多岐なこのような環境で、一致点をどこでもつのでしょうか。一つの心をどこで成すのでしょうか。それはすべて、心情で成すのです。
◆心情哲学の必要性
そのような意味から、今日の統一教会が心情哲学を提示するのです。哲学には多くの分野がありますが、神様の心情はその全体的な分野を内包しています。したがって、堕落した人間は帰らなければならないのですが、どこに帰らなければならないかというと、神様の心情に帰らなければなりません。現在の立場が不正確な立場にあるため、帰ろうとしても帰ることができないのです。では、行くことのできるただ一つの道とはどこでしょうか。現在の立場から見ると、模索可能な道は、未来に向かって行く道よりも、過去に戻っていく道のほうがもっと早いのです。未来へは、行けば行くほど、高く険しい山が幾重にもふさいでいるので遅れます。
帰るには、どこに帰るのでしょうか。昔の父母の懐に帰らなければならないのです。自分が幼いとき、何も知らずに無邪気に父母の懐に抱かれて愛された時期、その時は万事が思うようになりました。そのような立場に戻るためには、私たち人類の祖先の心情を経て、神様の心情を求めて戻らなければならないのです。
その神様の心情とは、どのようなものでしょうか。真なる心情です。それは過去を引き継ぐことができ、現在を引き継ぐことができ、未来を相続できるのです。そこがどのような所かといえば、主体的な愛がある所です。
ですから、偉大な方は愛を教えました。偉大な方は神様の愛を中心としました。神様の愛を中心として生きなかった人は、歴史的な聖賢になれませんでした。人間社会を中心とする人々は、その時代において偉人伝に記録され得るほどの偉人になったとしても、聖賢にはなれませんでした。聖賢は必ず、天地の人を中心として愛を論議できる人だけがなるのです。皆さんは、「あ!
彼はこれくらいだから、それで聖賢の場にいるんだな」ということを知るでしょう。
では、神様は人間をどのように愛したのでしょうか。神様を中心として、その神様の愛を受けたと主張する人がいるでしょうか。神様の真の愛を受けたという人がいれば、その人は神様の息子であるに違いありません。そうなったら、歴史を否定しようとすれば否定できたでしょうが、その事実だけは否定できないのです。現実以上の事実として主張できる内容をもったでしょうか。天国に行くことができ、理想世界に行くことのできる理念をもった宗教とは、いかなる宗教でしょうか。その愛の内容を中心として現実を審判でき、現実を押し進めていける主体性をもったでしょうか。愛、すなわち神様の愛を中心とした体 恤的な内容をもったのでしょうか。これをもたずしては、現実化された宗教といえども、永遠にこの世に残りません。この現実を凌駕し、この現実を消化できる愛を体恤しなければ、神様の愛を受けられないのです。
では、皆さんが神様の心情を中心として、いつ神様を愛しましたか。また、神様は誰を愛したのでしょうか。歴史過程において誰を愛したのでしょうか。神様の愛は永遠なものであるため、その愛を受けたものは永遠に残されなければなりません。
私たちの心が慕うことのできる、すなわち次の世界において欽慕の対象となり、長く残り得る存在にならなければなりません。その残り得るものとは何でしょうか。物質的、外的問題を中心として主張して出てきた権力ではありません。長い歴史過程で多くの権力者がいましたが、残ることはできませんでした。
◆宗教が愛を探す理由
それでは、残り得るものとは何でしょうか。歴史は変遷し、発展してきましたが、宗教はそうではありませんでした。キリスト教では、「初代教会に帰ろう、イエス様の時代に帰ろう」と言います。そして、他の宗教でもその宗教を立てた道師であれば道師、創始者であれば創始者の意図とは異なって進んでいます。ですから、宗教の制度を信じないで、宗教の主唱者を信じようといいます。このように長い間歴史のあらゆる矛盾した環境を打開してきながら、世界人類の心の方向になり、欽慕の対象として今まで残ってきたものが、唯心史観を中心としたキリスト教です。
イエス様を神様が愛されたため、キリスト教が今まで残っているのです。では、どのように愛されたのでしょうか。このような問題を教えてくれるのが、統一教会の原理です。このように見ると、神様と皆さんが一致するには、愛を中心としなければなりません。親と子においては、親子の愛を中心として一つになることにより、合同の目的を成就できるのです。同胞愛を中心として見ても、互いに同胞を愛する心があって初めて一つになるのです。
自由党の李博士は「団結すれば生き、散らばれば死ぬ」と言いました。団結するなら、何によって団結するのでしょうか。同胞愛によってです。では、同胞愛は何が集まってできるのでしょうか。家庭愛です。その家庭愛は何に由来するのでしょうか。自己愛です。自分の個体の肉になり血になり、骨になるという、このような実感を得られる立場で愛さなければならないのです。遠くの村人と自分の細胞が連結され、自己の触感が因縁となる同胞愛、その愛は父母の愛、親子の愛が拡大されたものです。そのような領域が横的に広がれば、その動機により結ばれる同胞愛を主張する民族は発展します。
では、父母の愛の源泉とはどこにあるのでしょうか。神様の愛の中にあります。神様の愛が下地となった父母になり、社会になるとき、正常的な進路を経て原因と目的が離脱しない理想世界に行くのです。皆さんをじっと見ていると、「誰かが自分を愛してくれたら」と思っています。大抵愛されようとします。男性でも、女性でも愛されようとだけします。問題はここにあります。ここで事故が生じるのです。愛されようとばかりする人のゆえに、世界は滅びていくのです。
堕落の起源を見ると、何をしようとして堕落したのでしょうか。不倫なる愛で愛そうとして堕落したのです。私たち人間は愛されようとして騒がしいのですが、堕落の起源を見れば、不倫の愛で愛そうとして堕落しました。反対なのです。アダム・エバが神様に侍り、愛したなら堕落しなかったでしょうが、愛を誤って受け、誤って愛したために堕落したのです。そのようになっています。しかし、愛されようとするのは人間の本然の心です。結局、結果が変わるのです。
堕落は、愛するといって愛しましたが、生まれた私たちは愛を受けようとします。結果が二重になったのです。では、私たち人間は愛を受けようとだけしますが、人間の祖先であるアダムとエバが愛するといって、愛を誤って受けて堕落したのを見ると、これは破壊的な愛です。この愛は、愛すれば愛するほど破綻するのです。ところで、私たち人間の世界にいる人は、誰でも愛を受けようとだけします。そのように要求するのは悪いことです。本然の心は、そのようなものではありません。
人間は、いつ神様の愛を受けましたか。親の愛を受けられなかった人は、親の愛を一度受けてみたいと思います。それは生涯において必然的な要求ではないでしょうか。その人が千年生きるなら、千年の間そのことを忘れずに生きるでしょうし、万年生きるなら、万年の間その心をもって生きるでしょう。それと同じく、アダムとエバが愛されなかった本心が連結されたため、愛されたいと思うのです。堕落とは、愛を誤って受けたことです。
もっとも、正しく愛されたなら、人間がなぜ愛されたいと思うでしょうか。誤って受けた人間なので、正しく受けられる所に帰らなければならないのです。これが正常的な立場なのです。
◆親子関係の愛
ですから、自分が愛を与え、愛を受けることが正しいか、間違っているのかという問題を再分析しなければなりません。ここには、新しい人倫道徳が必要です。自分が愛し、その愛を受けることが正常でしょうか。心の本郷を中心として見ると、離脱したものであるため、宗教は真の愛を中心として家庭の制度も、社会の制度も、個人の人格も無視するのです。全般的なすべての慣習をなぜ無視するのでしょうか。それは、真の愛の起源が成立しなかったからです。
ですから、それは無視しなければならないのです。では、無視できるその主体とは何でしょうか。愛だけが無視できる立場にあるのです。その愛は、どのような愛でしょうか。神様の愛です。それゆえ、神様の愛が問題です。その神様の愛の発掘地はどこでしょうか。兄弟の間で互いに愛する、そこから神様の愛が出てくるのではありません。男女が愛するその愛を中心として、神様の愛が立てられるのでもありません。その神様の愛は、親子関係の愛によって立てられます。前にも述べたように、血と肉が連結されなければならないのです。伝統として残し、永遠に残すためには、血と肉が連結されなければなりません。縦的関係が成立しなければならないのです。
その縦的関係は、親の愛を受けなければならないので、愛以外にはないと見るのです。この愛には距離がありません。この縦的関係においては一つの中心がなければなりません。中心は一つしかありません。中心は第一の場にあるのです。中心が二つであれば、世の中では争いが起こります。
このような観点から見ると、弁証法というものは根本的に破綻するのです。中心は一つしかありません。それ以外のものは、全部一つの中心を補助するためのものにすぎません。それは必ず吸収するか、吸収されるかしなければなりません。そのような二つの場合しかありません。ここで、存在の必然的な環境が成立されるのです。
血と肉に従っていく中心は縦的です。自分から父親、おじいさん、このように上がっていくのは縦的です。このようにずっと下りてくると、結局は数千の人が一つなのです。親が子を愛する心、ここに発展があって変遷があり得るでしょうか。これを革命できるでしょうか。ここには、発展や変遷や革命はあり得ません。
それは動物世界でも同じです。命が直系として連結される所は、そこだけです。母親が子供に、自分の血と肉を分け与えながらも、喜ぶ所がそこです。したがって、その場が宇宙の中心なのです。
宇宙は実体世界であり、絶対者の相対的世界だというのです。物質世界の中心とは何でしょうか。父母の愛です。では、父母の愛はどこから始まるのでしょうか。神様からです。このような神様の愛が表面化され、その内情的な実相が親子の関係にそのまま表面化される家庭があるなら、そこに神様が臨在せざるを得ないのです。他の所にいることはできません。神様が人類の父になるためには、そうしなければならないのです。動機になるためには、目的と一致しなければなりません。
神様を中心として一つになるとき、千態万状に回るようになります。ですから、兄弟間で愛することも、親が子を愛するのを見本として、兄は弟を愛さなければならないのです。そのように愛し、一元化された家庭には、家庭愛が花咲くのです。これがまた、社会愛になるのです。これがさらに、民族を愛する民族愛になります。このように愛すれば、世界愛が咲くのです。ところが、今日これが漠然としているのです。
聖書に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・一六)とあります。ここでの結論とは何でしょうか。ひとり子を賜ったのだから、彼と一つになりなさいというのです。このような観点から宗教を中心として見ると、キリスト教はどこに一致しなければならないのでしょうか。中心に一致しなければなりません。
◆信仰の中心
では、皆さんはどこに一致しなければならないでしょうか。中心が誰か分かりませんが、中心に一致しなければなりません。女性であっても男性であっても、みなこの中心に一致しなければなりません。先生が中心であれば、先生と一致しなければなりません。では、先生はひとり子ではないと思うかもしれません。しかし、「ひとり子だ」と言っても仕方ありません。
教会に行きたいのは、何ゆえに行きたいのでしょうか。会いたいのは、なぜ会いたいのでしょうか。それは父母の愛があるからです。父母の愛を完全に占領すれば、世界を完全に占領するというのです。では、子供に、「父母を取るか、世界を取るか」と聞けば、父母を取るのです。親に、「世界と自分の息子、娘のうちどちらを取るか」と聞けば、親は世界を捨てて自分の息子、娘を取ります。なぜそうなるのでしょうか。それは中心的な流れがその中にあるからです。
皆さんを愛してくれた親のその愛の心をもって、皆さんが民族を愛しなさいというのです。そうすれば国を主管できる願いのよりどころが広がるのです。それが原則的な指導方法です。
自分の位置だけを考える、というような立場になってはいけないのです。自己を顧みないで、相手のために全体の命を投入させるという道が、愛の道です。親は自分の子供だけのために、全体の命を投入するのです。自分のために、自分の全体を投入するのではありません。血と肉を、骨と肉を全部投入するのは愛です。そこに幸福があり、そこに希望があり、そこに自分の願いが宿るのです。それが愛の法則であるため「父母の愛をもって僕の体を使い、涙と血と汗を流しなさい」と言うのです。全体を投入しなさいというのです。そこに理由はあり得ません。条件を超越するのです。
◆父母と同伴できる場所
民族が受難の道を行くなら、その受難の民族を見て、子が受難を受けるのを親が見て哀切に思う以上の哀切な心をもって痛哭する人々がいるとするなら、この民族は彼らによって収拾されるのです。世界の人類を中心として、そのような心で昼夜の別なく努力する群れがいるなら、世界は彼らの前に収拾されるのです。歴史がそのようになっています。それは間違いない鉄則です。このような観点から先生が観望した結果、間違いないことを知ったので、皆さんを無慈悲に押し出すのです。愛は、無慈悲な道を通っていくのです。生死の境を超越して行くのです。
死と連続させ、死の血と肉をここに注いで、その目的の世界に行こうという、ただ一つの宗教がなければなりません。その宗教とは、殉教の道をたどってきたキリスト教です。キリスト教は殉教の血と肉でつづられてきたため、神様の愛を論議するとき、どのような宗教よりも近い距離にあります。ですから、名実共に世界的な宗教になったのです。
では、皆さんがどれほどこの民族を自分の血や肉のように、自分の体のように思いながら、この民族のために痛哭したでしょうか。いくら不義の息子でも、彼が法の網に掛かったとか、あるいは国の法の制裁を受けるはめになったとき、「よくやった、それで当たり前だ」と言う親がいるでしょうか。「お前がそのようになったのは、私と一つになれなかったからだ。こいつ、どうして私の言うことを聞かなかったのか」としかっても、息子に愛が流れるのを遮る親はいないのです。
今日私たちはそのような観点から、一心の世界を中心として一つの心にならなければなりません。一つの心を描くまで、一つの心の結果が統一されないのです。一つの心の目的を成さずには、統一を成すことはできません。統一を成さずには主管できないのです。すなわち、率いていけないのです。率いることは、中心を決定していくことです。皆さんがこの基準を通過するためには、手段や方法をもってはできません。子供がおなかがすいたときは、母親の乳を与えなければならないのであって、水を飲ませてはいけないのです。血と肉が連結されてこそ愛をもつようになり、心情が連結されるということを皆さんは知らなければなりません。
今日この世界を眺めてみれば、世界がいくら広いといっても、戻らなければなりません。父母の愛も、夫婦の愛も完全ではないため、神様のもとに帰らなければならないのです。ですから、「神様の心情」という言葉が必然的に出現したのです。この心情がなくてはなりません。自分の骨と肉が神様の愛に帰り、にじみ出なければなりません。
このように見ると、ゲッセマネの園でのイエス様の祈祷は、深刻だったのです。「わが父よ、もしできることでしたら……私の思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈祷しました。それは無条件でした。神様は愛の主体であるために、神様から愛を受けようとするイエス様は、無条件に順応したのです。「神様が要求するものがあるなら、何でもすべて差し上げる」と言ったのです。そのように祈祷したのは、神様の前にすべて捧げれば、すべて受けるようになっているからです。自分の思いのままにすることよりも、父の思いのままにすることにより勝利の場に立てるので、イエス様はそのように祈祷されたのです。神様のすべてをもって再び生まれることのできる価値を望みながら、イエス様は亡くなられたため、死の地獄世界を脱出して復活圏をもったのです。
父母が行くべき愛の道とは、どのような道でしょうか。十人の兄弟がいれば、その十人兄弟の中で、最も不幸な子と共にできる生活です。その場とは、どのような場でしょうか。不具者の弟がいるなら、その弟と一緒に生きなさいというのです。
そのような人は、兄弟の中で相続者になるのです。父母の愛と共に同伴できる場とは、どのような場でしょうか。何不自由なく暮らす場ではありません。十人兄弟がいると、その十人兄弟の中で最も不出来な人と一緒にいるようになれば、父母の愛の世界の代を継ぐ者になるのです。
では、神様の愛が一つの国を探してくるとき、神様の愛の近くに立つ場とはどこでしょうか。悲惨な立場でも国を愛し、不幸な立場でも国を心配し、不幸な人と友達になり、彼らを抱いて自分の命を捧げる立場なのです。そこが父母が共にある場であるので、私たちは都市を離れ、農村の農民を中心として活動するのです。豊かに暮らす人と交際するよりも、困難で貧しい人と交際することを、喜ぶことができる心をもたなければなりません。
神様が九十九匹の羊よりも、失った一匹の羊をより捜したかったのと同じでなければなりません。ですから、皆さんが伝道する時、「あの人は私が必要な人だから伝道しなければならない」と言ってはならないのです。それは条件的な愛です。皆さんはそのような観点をもってはいけません。親は、不幸な子供で自分に必要のない子供であっても、その不幸な子供に一層多くの愛を与えたいのです。
では、一心の因縁を経て、父母の愛と同伴できるその心情の場とはどこでしょうか。不幸な子を気に留めて心配するのが父母の愛の心であると同様に、神様も親の心の始祖であり、根本であるために、心が休める所、その国へ向けて尋ね求めていかなければなりません。さらに、その心が臨在できる世界を探していかなければなりません。
そのような所を欽慕して探していこうというのが、先生の主張なのです。一年あるいは十年、百年、千年ずっとそれを主張するとき、私たちが歴史の過程でみな倒れたとしても、今死ぬといっても、恨はないのです。なぜでしょうか。皆さんは千年後でも、その世界を占領することができるからです。今日の時間観念で見ると、千年という数はこの世界では遠い距離に見えますが、霊界は時間を超越する所なので、遠い距離に見えません。千年という時間が、天の世界では問題になりません。ですから、パウロは「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」(ローマ八・一八)と言ったのです。
◆父母の心情へと行く道
一心は、どこで得るのでしょうか。神様の心で得なければなりません。では、自分は神側にいるでしょうか、いないでしょうか。神様の愛の心中にいるか、いないかということは、何が証拠になるのでしょうか。神様の愛に近い場とはどこでしょうか。漠然としているというのです。では、それは何で知ることができるでしょうか。不幸な息子を一層心配するのが、父母の愛です。そのような父母の心配を知って、父母の代わりに弟たちを心配する長男であるなら、彼はアベルだといえます。キリスト教がこのようなものをもったため、長子の嗣業を引き継いできたのです。愛の世界においては、長子の主権をもってこそ、主人になることができ、新しい世界を創建できるのです。
では、これから私たちは東西南北、どこに行かなければならないでしょうか。神様が見て、最も心配な所に行かなければなりません。
不幸な条件を越えて、一つの形態を整えるようになるとき統一が成されるのです。そこで初めて自分が主人になるのです。皆さんもそのようにできなければなりません。そうしてこそ統一が成されるということを、皆さんは確実に知らなければなりません。
今日統一教会がこのような父母の心情を中心として歩むにおいて、歴史始まって以来摂理的に達成すべき願いが、このようなところから出てくるという事実を私たちは知らなければなりません。では、統一させることのできる秘訣とは何でしょうか。父母の心情をもって、十人の兄弟のうち、不幸な息子をより愛するような立場に立たなければならないのです。
◆この国、この民族の前に残ろうとするなら
一心はどこから始まるかといえば、心から始まるのです。ここには血と肉が連結されるのです。親が悲しければ、子供が悲しいのです。親が悲しんでいるのに「父母が間違ったから、こうなんだ」と言う子供は、「子供だ」と言えません。また、息子が誤って罰を受けるとき、「こいつ、罰を受けて当然だ」という親は、親の資格がありません。愛の心が先立ち、愛を与えようとせずに恨みの心をもって「当たり前だ」と言うのは父母の心ではありません。
神様は今まで与えようとしました。神様は愛を与えようとされましたが、人間は「私はその愛を受けずに地獄に行く」と言います。そのような人は、神様の前に顔を上げることができません。
ですから、皆さんの骨と肉、血と肉が連結されなければならないのです。イエス様がパンとぶどう酒を「私の肉と私の血」と言われたのは、そのような立場から話したのです。血と肉、骨と肉が連結されなければならないのです。ですから、統一の道は、親の心に行く道です。不幸な立場にいる兄弟がいれば、これを心配できる人は必ず、遠からず中心的な資格者になるのです。このように、私たちがこの国、この民族の前に残るためには、私たち同士だけが愛してはいけないのです。
今皆さんは自分の兄弟を愛する以上に、この民族を愛さなければなりません。これがこの国、この民族を愛するための訓練と同じです。保護するための訓練であり、愛するための訓練です。私たちは兄弟を愛する以上に、この民族を愛することのできる道を模索しなければなりません。このようになれば、正に民族の中心になるのです。
今まで私たちが残ってこれたのは、この作戦をしたからです。父母の愛を実践したのです。ですから、天はそのような道に従ってこざるを得なかったのです。どれほど純潔なことであり、どれほど烈と誠をもってしたかに従って、天が共にあるのです。天との一致点をもつようになるとき、自然に世界の中心になり、それによってこの地に天の主権が立つのです。
このような立場で、心の土台が燃えることのできる心情的主体をもって、この民族にどのように対していくかということが問題です。この国の為政者よりも、この国のどんな宗教指導者よりも、そのような心をもって生活し、環境を暴いていける群れが、私たちの中にあるのです。
ここで一心統一の理念によって、父母の因縁の中で生まれた兄弟を、父母の愛で抱ける環境に一元化させ、国民の前に施すようになるとき、この民族は、私たちに抱かれようとして来るのです。このような観点から、皆さんが一心統一を忘れず、再び進撃していかなければなりません。
34. 密使と祖国
一九七〇年二月十六日
韓国・統一産業寄宿舎の講堂 『文鮮明先生み言選集第二十九巻
人類歴史の発展において、新しい歴史は現実に安住しては成すことができないということを私たちは知っています。既存世界の思潮や風潮に合わせた立場では、新しい革命運動が起きないからです。
したがって、既存世界の思潮や風潮を完全に否定した立場で、新しい未来に対する望みをもって実績を備えてこそ、新しい発展について語ることができます。歴史過程を探ってみるとき、このような事実は誰も否定することはできないのです。
◆復帰摂理歴史と天の密使
今日この堕落した世界の歴史発展がそうであるように、神様の摂理路程も同様です。この摂理路程は、サタン世界と方向が同じで内容が通じる立場ではなく、方向も内容もすべて反対です。こういう立場から見るとき、新しい基点と、新しい体制を備えて影響を及ぼし得る環境を再建するのは、どれだけ難しいことでしょうか。
歴史を経て、影響を及ぼすことのできるある一基準を成すまでには、表すことができない内的な闘争の時期があります。その内的な闘争が、時代的なすべての要人と、国家の為政者たちの前に影響を及ぼすことのできる基盤をもつようになるとき、その国家全体を新しい分野で革新することができます。もし狭い範囲に影響を及ぼすようになるならば、一つの村ができるでしょうし、一つの家庭もできるでしょうし、さらには一つの個人もできることでしょう。
復帰摂理について見るとき、今まで神様がこのような革新運動を悪の世界に提示しましたが、その影響が社会と国家にすぐに及んだことはありませんでした。いつも個人がまずその影響を受け、そのあとに家庭を糾合する運動をして、今まで歴史を発展させてきました。これが今日摂理史において、個人が歩んでいかなければならない伝統的な路程です。
このように個人を通じて家庭から氏族、宗族、民族、国家、世界基準まで達した宗教世界を見てみると、どんな宗教でも闘争の歴史をつづってきたということを知ることができます。
そのような歴史をつづってくるのに、公然と現れて戦ったのではなく、自分自身を隠しながら環境に追われたり、または制約された環境を抜け出すことができない立場で発展的な要因を利用できないまま、一つの公的な姿勢を備えてきました。
このような事実を考えるとき、責任を担った摂理的な責任者の立場は、いつも自由な体ではないのです。自分を表すことのできる立場になく、自己主張できる立場になく、自分の行動をむやみにできる立場にないというのです。
自分本来のすべての行動の要件を隠して、その社会環境と対する人々の前に、現実の社会環境よりもより有益な与件を新しく提示しなければなりません。その人々と何としてでも関係を結んで、心が通じる立場に立って、自分の本心と連結させて発展してきたのが復帰摂理歴史路程です。
過去の歴史的な先祖を顧みると、彼らはどんな時でも密使の立場、すなわち、自分の正体を現すことができずに隠す立場にいました。そういう環境で、自らの踏み台を開拓するために限りなく努力していった人々です。
今日サタンがこの世界を占領して、数多くの主権国家をもっている舞台の前に、この国家と世界を洗いざらい天のものとして転覆させようというのが神様の復帰摂理であり、救いの摂理です。ですから、このような摂理の志をもった一つの姿が現れるたびに、いかなる国家、いかなる社会でも反対せざるを得ない立場に立つようになるのです。
ですから、反対される立場に立った人、言い換えれば摂理に責任を負って立つ人は、いつも密使のような心情でした。そのような人は神様から怨 讐の国家に派遣された密使、すなわちその国の主権に責任をもち、その主権が向かうことのできる運命を勝負づける密使の使命をしてきたというのです。
ローマに入っていったキリスト教も、やはりそういう歴史過程をたどってきました。個人的な密使の行動が、家庭的範囲、氏族的範囲、民族的範囲として提示されるようになるとき、これがその社会において新しい革命ののろしになり、新しい国家を成し遂げ得たのを、歴史を通じて知ることができます。
今まで宗教自体が発展するためには、その背後に密使の責任が大きかったことを知ることができます。怨讐の国家に派遣された密使の使命を成し遂げるために、そこに天の側の氏族を残していった人々は、その時代において天の前に責任を全うした人であり、そうでない人々は天の前に責任を全うできなかった人だというのです。
◆密使の苦衷
私たちも神様の復帰摂理の全体的な責任を担った立場で、やはり同様の運命の道を歩んできました。またそういう責任を提示して、その全体に責任を負った先生自身も同様でした。大韓民国という基台の上に生まれて、同じ倍逹民族(注:上古時代の韓国の称)として生まれましたが、この国、この民族の信任を受ける立場で出発することができませんでした。正に孤独な立場で、自らの内的なすべての事情を隠して社会活動をしてきたのです。
天が作戦を立てて展開していくにおいて、苦衷となる環境を克服し、自分の踏み台を発展させられないならば、祖国の運命を分ける大きな責任を完遂することができないのです。それゆえ祖国のための大きな使命に臨むたびに、密使の使命を帯びた自分個人の態度と行動が深刻であらざるを得ないのです。
例えば、一つの国にスパイが派遣されるためには、まずスパイ生活をするための訓練を受けなければなりません。では、訓練を受けるときに、まず何を習得しなければならないのでしょうか。そこでのすべての風習を習得しなければなりません。そこでの言葉と生活方式を身につけなければなりません。彼らがそこでの生活にどれくらい良く適応するかによって、自分の生死の問題が左右される運命がかかっているのです。
ですから、生活環境からすべての専門的な分野まで、吸収できる自分をどうやってつくるかということが、スパイ訓練の原理となっています。言葉や生活習慣で、少しでもぎこちなかったり、おかしいと見られる面があってはいけません。平凡で普遍的な環境を、そのまま自分の生活の中で表現化して暮らさなければならないのです。
自分たちの風習があり、生活習慣があり、社会的な制度があるために、そのようなことが我知らずある環境で現れることもあります。それにもかかわらず、これらすべてのものを取り除いて、他の国の人、または他の地方の人として行動するということが、どれだけ難しいでしょうか。二重三重の神経を遣わなければなりません。一度行動するとき、また一言話すにおいても、必ず二度、三番考えて注意してしなければならないのが、スパイの立場です。
もし、その行動や口調が人より少し違うとか、生活習慣が少し違うというときは、それが自分の正体がばれる一つの糸口になります。このように、自分が生きてきた生活環境と違う所で生きなければならないのが、スパイの生活です。そういう生活をしようとすれば、内的な面においてどれほど苦衷が大きいでしょうか。またそのような生活に染まるためには、どれほど多くの訓練をしなければならないでしょうか。こういう生活を、私たちもしてきたのです。
今日地方にいる先生に従う責任者は、今は少し良い立場にいますが、昔の草創期にはそれこそスパイのようで、特命を受けた密使のような立場で生活をしなければなりませんでした。では、そういう生活をするためにはどうすればいいでしょうか。自己主張をし、その地方の全体に適用しようという態度をもってはならないのです。
こういう環境ですべての犠牲の代価をみな支払い、今に及んでは、大韓民国の為政者にも認められる基盤を立てるようになりました。このような基盤を立てるまで、皆さん自身はよく知らないでしょうが、全体に責任を負った先生には限りない苦衷がありました。中央で全体に責任を負った先生は、密使の使命の基準を超えることができない生活の枠の中で、戦いを展開してきたのです。
今や、この国を神様のみ旨の前に立てなければならず、神様が願われる祖国の主権を取り戻さなければなりません。新しい人類の祖国の主権を取り戻さなければなりません。こういう意味で私たちの責任遂行を前にして、冷徹に批判してみると、今まで私たちがつづってきた生活態度は、どのような意味の生活であったかを反省してみざるを得ません。
◆祖国の主権回復のためにもつべき信念
天の密使としての使命を担いましたか、それとも特使の使命を担いましたか。悪の世界だということを忘れてしまって、その国全体を代表した特使の任務に責任を負うかのように、今まで私たちが勝手に行動してきたがゆえに、ここで言うに言えない犠牲の代価を支払ったのです。
これから大韓民国の全地域を中心として、アジアまで及ぶことのできる摂理のみ旨を発展させていくために、どうればいいでしょうか。これもまた、表すことができない密使の使命を帯びた責任の道を経なくてはならないのです。今後進んでいく道において、このように極めて難しい問題が横たわっているということを私たちは知らなければなりません。
ではどのように備えて、どのように解決するのでしょうか。私自身がその社会で生活し得る人格をどのように備えるのでしょうか。ある一つの新しい使命を担ったことが問題ではなく、その使命の目的をどのように達成するかが問題なのです。ここに解決点があります。ですから、どんなに大きい使命と責任を引き受けたとしても、その責任の遂行が前後左右に及んで効果的な結果を結べないときは、使命を担った人たちも批判を受けなければならないのです。
それで皆さんが今、み旨を中心として覚悟しなければならないこととは、「神様から密使の特命を受けている私の体だ」ということです。それゆえ、自分自身が行動一つ間違うことによってその環境に及ぼす影響は、自分一人だけに限られることでなく、祖国という広大で途方もない内容に連結するという事実を知らなければなりません。
今日私たち責任者、すなわち核心の要員であり、精鋭の要員だと言える人たちの中で、果たして祖国の主権回復のための天の特使の使命を成すために召命を受けて、担った責任を現地で果たす一存在だと自認できる人たちが、どれくらいいるでしょうか。
◆密使が果たすべき責任と、取るべき生活態度
皆さんが一地域に責任を負った人ならば、地域自体が今後祖国に代わることのできる一つの母体となれるという信念をもたなければなりません。また、三千里半島にある地域がみななくなって自分の地域一つだけ残っても、ここで国の代わりに祖国の主権回復のための一つの基盤をつくるという信念をもたなければなりません。永遠の世界を成し遂げるために、ここから新しい基盤を立てて、三千里全域に及ぶ栄光の起源をつくるという信念をもって進まなければならないというのです。
そのためには、密使の使命時代を経なければなりません。密使の使命が完結されるとき、言い換えればその環境で証されて、その環境が自分を信奉し、自分を信じて、自分と相談できる立場に立つようになるとき、初めて天に代わる特使の使命を果たすことができるというのです。しかし、その環境が自分を信じない立場で、自分の権威と自分の国家ならば国家の権威を先立たせて、その環境に出れば出るほど反発が加重されて、排斥の矢が飛んでくることでしょう。
ですから、皆さんが今後どのような心をもって地域に行かなければならないでしょうか。新しい密使の使命を受けるためにここに召命されたという事実を知って、内的に深く誓わなければなりません。そうして自分の地域に行って、密使の使命を完結しなければなりません。環境を開拓して、自分が絶対的な権限を成し遂げるようになるとき、そこで地域の人たちと共に初めて天の特使の使命を果たすことができるのです。今まで責任者たちが密使の使命時代を忘れて、特使の使命を成そうとしたので、私たちが発展するにおいて多くの迫害を受けてきたのです。
皆さんを指導している先生も、今も密使のような心をもっています。国家ならば国家の権力の前に信奉される基盤をどのように切り開くのでしょうか。そういう時になってこそ、特使の使命を果たすことができるのです。
その基盤を切り開くことができず、密使の使命の段階を経ないで行動していては、必ず破綻するようになります。自分の生命はもちろん、自分のすべての前後関係と国家の運命がここに横たわり、全体の前に惨事の結果を避けられないという事実を、いつも念頭において行動しなければならないのです。
密使の使命を担う過程においては、特使の使命よりもより厳粛で二重三重に心の中で誓いながら、自分の正体がその環境に露出しないように努力しなければならないのです。
それで彼らの前に利益を与えることのできる一つの条件を提示することによって、彼らが自分の前に順応できる基盤をつくらなければなりません。直接的な作戦よりも、間接的な作戦を起こさなければならないのです。すなわち、個体を検討して連結する戦いをしなければならないというのです。そういう作戦を展開したのちには、彼らを自分と共に生死を分かつことのできる基準まで引き上げなければなりません。そういう立場で自分の信ずるところを打ち明けて、共同の目的を達成することが密使として果たさなければならない責任なのです。
皆さんは、この民族が私たちを信任しているその基準に満足するのでなく、ここで神様がまだ明かすことができない内的な心情の事情が多いことを知って、これを発展させ、展開しなければならないのです。こういう密使の使命分野を、まだ経ていない私たち自身であるということを忘れてはなりません。
私たちは、スパイの生活をするように、その環境で一言であっても同化されてはなりません。行動するにおいても同化されてはなりません。時をおいてその環境で、またその部落ならば部落、地域ならば地域など、全体の前に何かを残してあげることができ、利益となる多くの問題を提示する人として認められなければならないのです。密使として責任を負わなければならない使命分野以上の基準を立てなければなりません。そのような立場で命令し、決意し、約束して、新しい運動を展開しなければならないのです。
では、密使はどのような態度を取らなければならないでしょうか。自分の生死が問題ではありません。密使はいつも生死の脅しを受けており、死がいつもその前をふさいでいます。ですから生死の境界線で死を踏んで越えた立場にいる、神様の代身なのです。三十八度線を越えてみた人は、その気分を知っているかどうか知りませんが、密使は国境線を越えるのと同じような冒険の世界で、死の足場を踏みつけることのできる確固たる生活態度を取らなければならないのです。
同様に、今日私たちが新しいみ言を伝えるにおいて、み言一つだけを伝えてはなりません。まず人間的な面で手本となり、生活的な面で手本となり、行動的なすべての面で手本とならなければなりません。すなわち、その村で上下関係やすべてに、彼らの前に手本とならなければならないのです。どのような面でも、彼らより劣ってはならないのです。
彼らが「あの人は我々の村に本当に必要な人だ」と言って、自分が離れようとするとき、すべての部落が一致団結してそのまま住んでくれることを願う基盤をつくらなければなりません。そういう基盤をつくらずには、私たちの立場で目的を成就するということは、大変難しいことなのです。
皆さんは、そのような生活をしてみましたか。自分が生まれた民族の前で、二年、三年、十年の歳月を一日のように、そういう生活をしてみたかというのです。密使の使命を完遂することで、責任がみな終わるのではありません。その民族や国家において、祖国の目的を達成させるために特命を受けて派遣された人がいるならば、その使命を十年、二十年かかっても達成できないのです。
また自分の一代においてその使命を果たすことができず、代身者を立てて使命を譲っていかなければならない人もいることでしょう。ですから、このような特命を中心として、いつも気をもみながら、それこそ生きた祭物のような立場で自分の責任を遂行しなければなりません。その責任を展開することができ、収拾することのできる一人の責任者にならずに、密使としての目的を成し遂げるということは不可能だということを知らなければなりません。
このような観点から見るとき、皆さんは、生活態度や他のすべての面で変わらなければならないのです。
その部落において誰も責任を負えないことを、当然自分の責任だと思って負うことができなければなりません。その部落に代わって打たれることがあれば、自分が乗り出して打たれるのが、密使として責任を完遂できる一番早い道です。部落のために打たれても死なずに立つとき、部落が全部屈服するようになるのです。
◆祖国の主権回復を迎えるための私たちの姿勢
今日天のために行く人たちは、派遣された密使です。個々人において大きい小さい、広い狭い、高い低いの差はあるかもしれませんが、各自が置かれている生活自体は、密使の生活を離れてはならないのです。ここには、いつも生死の脅威が介在しています。まかり間違えば永遠な生命の問題が左右される、こういう立場に置かれるようになるのです。
それゆえ永遠な生命を支えることができ、永遠な生命を保護してくれる私たちの祖国を探すという観念が、その環境より何百倍も強くなければ密使の生活をすることができないのです。その祖国の栄光を見つめる心をもって、祖国の恨みを解いたときに、全万民が喜ぶということを考えなければなりません。そして新しい歴史を創建して祖国の主権復帰の一日を迎えるその時に、自らの功労が表れることを考えながら、現在の立場を無視することができなければなりません。
そのような心が先立たなくては、密使の使命を遂行することができないというのです。言い換えれば、祖国の主権復帰のための望みが現実の望みより千倍、万倍強まる心になってこそ、今日の生命を取り替える恨みがあっても、それを克服して密使の使命を遂行することができるのです。
万一そのように責任をもちながら不意の事故で犠牲になっても、その場には新しい責任者を再び派遣することができるのです。彼は既に死んだとはいえ、彼の友人になることができ、彼の味方になることのできる人々が生じることでしょう。彼が模範になる立場で生きてきたので、たとえ彼が犠牲になったとしても、そこには彼の味方になることのできる人々が残るのです。
こういう人たちが残っている限り、神様はその基台の上に代身者を送ることができるのです。しかしそうできない立場で死ぬようになるときには、そこで彼がどんなに苦労したとしても、それで終わるのです。
こういう立場で皆さんが、これから新しい時代を迎えて、いかなる姿勢を備えなければならないでしょうか。祖国の主権復帰のための信念が、何よりも高く胸の中に燃えなければなりません。
言い換えれば、六千年間神様が待ち焦がれた祖国を建設する騎手となって、先駆けて立った精鋭部隊の一員として開拓者になるという、この途方もない使命に責任を負った自負心を感じなければなりません。過ぎ去った多くの人たちが手にすることを望みましたが、もとうとしてももつことができなかった、一つしかなく、この一時しかない特権的な使命を担ったという厳粛な責任感をもたなければならないのです。
ですから食べて、寝て、行って、来るすべての生活が、祖国創建のためのものでなければなりません。神様から特別に派遣された密使として凛々しく、格好良く、「この使命を遂行する」と言って立ち上がってくれることを神様がどれほど待ち焦がれていらっしゃるでしょうか。私たちは国家の足場を備え、全体の内容を提示して、一度も繰り広げることができなかった天のみ旨、祖国を立てることができるという志を立てなければなりません。今までそのみ旨を一度も立てられなかったというのです。
しかし今は、そういう祖国を建てることができます。その祖国には主権があって、その祖国には国土があって、その祖国には国民がいます。また、そこには単一民族の血統が因縁となっていて、他の民族がもつことのできない歴史があります。このような祖国のために、私たちは密使の使命を遂行しなければならないのです。
そういう使命を自分自ら早い日時内に完遂すればするほど、祖国の主権復帰の基台が自分によってますます近づくのです。今日、苦労の代価を支払うことが、祖国の主権復帰の一日を近くに迎えることのできる基台になるのです。
このような事実を考えながら、皆さんは生きて密使の使命を完遂するという決意をしていかなければなりません。そうでなければ、神様が私たちにもたらすことのできる世界史的な祝福と天運を、私たちのものとして迎えることができないのです。
◆密使は時を待つことを知らなければ
今回皆さんが知らなければならないことは、「密使と祖国」という信念です。「密使と祖国」というこの信念をもって戻らなければなりません。一つの村に責任を負えば、その村を早く復帰するために、その村の有志を訪ねなければなりません。それで、どのように影響を及ぼしますか。その人に、今までのどんな友人よりもより貴い友人にならなくては、彼を動かすことができません。その村のために誰よりも心配する立場に立たなければ、その村の責任者を動かせないのです。
その村の風習を守ることにおいても、その村の誰よりも一番よく知って守らなければなりません。そうでなくては、その村を動かせないのです。けれども一つの境界線を越えることのできる機会が来れば、その時には特使の使命を果たさなければなりません。それこそ権威を備えて道理を問いただしながら、善し悪しを判断して、正しいことを彼らの前に認識させる使命を果たさなければなりません。
今日私たちがこういう生活ができなかったので、私たちが過ごしてきた過程に副作用が多かったのです。副作用が多かったにもかかわらず、今日このように発展することができたのは、神様が密使の使命を代行してくださったためだという事実を知らなければなりません。
自分一人の過ちによって霊界が動員されて協助するようになれば、絶対良い結果をもたらしてくれません。神様が協助すれば、必ずサタン世界に蕩減の内容が残るようになるのです。神様が協助することが、今日摂理の途上に現れた恩恵の歴史だということを皆さんは知らなければなりません。
ですから皆さんがこの重大な責任を果たせないときは、皆さんの代わりに神様が何倍もの蕩減条件を立てて、皆さんをして密使の使命を完結し、その環境を収拾するようにするために、祭物の役事を成しているという事実を忘れてはなりません。
現在の皆さんを見れば、自分という観念が先んじています。それは密使が取るべき立場ではありません。密使は、自分が現れないかと、恐れて用心しなければならないのです。私の計画が一〇〇パーセント現れることのできる環境にならなかったにもかかわらず、計画が現れることを恐れない人には生命の脅しが迫るのです。
こういう問題について考えると、皆さんに付与されたことが祖国のための密使の使命ではなく、自分が成功するための使命だと思っているならば、皆さんは滅びるのです。このような観念を皆さんが感じて、皆さんの血に、皆さんの肉に刻まなければなりません。先生は、現れることを嫌います。なぜですか。まだ越えなければならない峠が幾重にも重なり残っていて、歴史上で最後の峠を越えることができずに死んだ先祖がいることを知っているからです。
黙って自分自ら心的基盤に深い根を下ろして、春を待たなければなりません。春が来れば一斉に生い茂って育つことのできる根深い生の価値のために、また自らの力量をみ旨に導入させるために、何よりも時間を投入し、努力を投入しなければなりません。
そうせずに自身が現れることを望むことは、あたかも根がない木と同じです。根がなく植えられた木は、そのまま枯れてしまうのです。このような問題を中心として、皆さんは再度自分を分析し、批判しなければならないのです。
◆密使が行くべき道
あなた方が責任者として仕事をするようになるとき、責任者の権限をもってむやみに「ああしろこうしろ」と言えば、多くの人の批判を受けるようになるのです。そのような批判の矢をどのようにして避けるのでしょうか。これが、ある役職を受け持っている責任者においては、一番先に超越しなければならない重大な問題なのです。その瞬間にも密使の使命を果たさなければならないのです。言い換えれば、その時には自分の正体を現さず、もみ消さなければならないのです。
ですから自分が関係していて、対している環境において、不快でも、相手に不快な印象を与えてはいけません。その人が、いつ怨 讐になるか分かりません。怨讐になり得る人とは親しくしなければなりません。親しくなるためには、お金が問題ではありません。お金と私の生命を替えることができますか。何をくれるといっても、生命と替えることができないのです。生命を保護するための囲いをつくらなければなりません。
そのためには、楽に座って人に使いをさせながら、私を表に出しては絶対にいけません。密使の使命、それ自体が重要です。本然の生活態度でその環境に一〇〇パーセント適応して、一〇〇パーセント以上の姿を備えて、彼らの前に中心的な態度を見せることができるかどうかが問題です。そうしようとするならば、食べることにおいても人より良く食べてはなりなせん。着ることにおいても人より良く着てはなりません。住むことにおいても人より良く住んではならないというのです。
皆さんは、その村の人たちがみな外的にうらやむほどに良く暮らしては、その環境に適応することができないのです。特権階級とは連結されるかもしれませんが、どん底から全体が皆さんに順応はしないのです。怨讐は上下高低を問わずどこでも現れるので、特権階級とだけ連結してはいけません。全体が怨讐であるので全体に適応することのできる立場に立って、防備態勢を備えることのできる生活態度を取らなければならないのです。
自分のために生きることは、その時は良いようですが、滅びるのです。しかし密使の使命を果たすことは滅びるようですが、必ず天の主権が彼と共に成すために滅びることがないのです。密使が行く道は、天の主権の直接的な命令を受けて行く道ですが、そのような行動圏を外れるようになるときにはサタンの支配を受けるようになります。このようにサタンの支配を受けるようになるときには、神様が願われる祖国の権威をもって現れることができないのです。
世の中でもそうです。一般的な国や、その国民の前においても同様です。良く暮らす位置を中心として、自らの権威の意識と自己主張を表に出す立場に立つようになれば、必ずその周囲から打たれるようになります。けれども自分を現さないで彼らのために歩調を合わせて、純利的な環境で彼らの前に利益をもたらすことのできる何かを残してあげるようになれば、「来るな」と言ってもついてくるようになるのです。密使が行かなければならない道が、正にこのような道です。
その国とその村の風習を中心として、私がそこに何の利益を与えるのでしょうか。どのように利益を与えることのできる私となるのでしょうか。またその村の責任者の前に、私が何をもって利益を与えることができるのでしょうか。そのような部落を指導している責任者の前に一番近い者として、利益を与えることができる、ある形態を備えて現れなければならないというのです。
◆新しい命令によって新しく決意せよ
今日、私たちはこのような道を切り開いてきています。先生が今まで指導する目的も、そこにあります。何でも、この国に対して利益を与えることのできる者になりなさいというのです。ですから私たちが必ず利益を与えることができて、利益になると彼らが認める立場にさえ立つようになれば、彼らを私たちが取ることができるようになるのです。
そして、私たちが本当に間違えば頭を下げなければならず、また良くしても頭を上げずに黙っていなければならないのです。このようになれば、彼らは自然に私たちの味方になることでしょう。村でも同様です。その村に善良な人がいれば、誰が何といっても、村人たちはその人の肩をもつのです。村の人たちが彼を認めて、肩入れをしてくれるのです。
このように、すべての人々が私たちの味方になることのできる環境を、どのように収拾し得るかという問題は、私たちが密使の立場を中心に、環境をどのように改善させていくかにかかっています。ですから、そのような生活態度が絶対的に必要だということを知らなければなりません。
今や皆さんは、新しい密使なのです。神様から新しい命令を受けて、新しい世界の前に立った皆さんです。これから皆さんは深刻でなければなりません。威信をもって村の人たちに対してはなりません。皆さんの生死の問題が掛かっており、今までの世界の問題が掛かっているのです。
ですから、深刻な心で新しい運命と共に私の基盤を固めて、密使の任務を全うしなければなりません。サタン世界に、崩れることのない基盤を固めるために、自分の身の振り方に気をつけなければならないのです。それにもかかわらず、昔のままの習慣で、新しい命令などしようがしまいが私のしたいとおりにするという心では、神様のみ旨を成し遂げることはできません。
新しい服と古い服は違います。新しい命令と昔の命令は違うのです。新しい現在の視点と過去の視点はお互いに違うのです。過去の段階と現在の段階とは大きく違うのです。これが発展的な段階だというのです。新しい自覚と新しい気分と新しい決意で、新しい環境の基盤を備えずには、新しいみ旨を成し遂げることができないのです。
摂理の段階も、一段階、二段階、三段階というように段階的に上がっていきます。それゆえ皆さんは次の段階に上がっていくために、自ら実践することができるという心をもたなければなりません。そうして実践したことが環境に適応するようになるとき、どのように成果として収め得る個体になるかということが問題になるのです。
こういう問題を見てみると、皆さんはまだよく知らずにいます。十年前に入るときの心も現在の心も、先生に対し神様に対することにおいて同じだというのです。今の心がその時の心より劣るようになれば、押し出されるようになるのです。
今まで神様が復帰してこられた過程には、天の秩序や礼儀礼法など、すべてが加重されてきています。加重されたこういう時代圏に自分が立っているにもかかわらず、昔世間知らずだった時の心よりもっと劣る心をもっていいでしょうか。部落での密使の使命と、道での密使の使命は違います。事情が違うというのです。また、一つの国の主権を中心として密使の責任を成すときにも違うのです。過去のような能力をもっては成せないというのです。
ですから、新しい命令と新しい指示があるときには、その命令に従って自分の生命を投入し、再出発をしなければなりません。過去にしたその基盤をもっては成せません。再投入をしなければならないのです。皆さんは昔は失敗して追い出された立場でしたが、今は歓迎される立場にいます。これから特使の使命を遂行するようになれば、そこから神様のみ旨の横的な進展を見ることができるのです。そうでなければ、私たちは発展することができません。
このような受難の道、退屈な道を内的に苦労していくのが密使の生活です。そのような生活は、誰もができるのではありません。天気が晴れても心配し、曇っても心配し、雨が降り、雪が降って季節が変わっても心配だというのです。
村の犬の吠え声一つにも、自分の生死の問題を中心として考えなければなりません。もしも自分の家の玄関を尋ねる人がいれば、その一人のために自分の生命を張る生活をしなければならないのです。汗を求める生活をしなければなりません。このようにすべての問題を、自分の生死の問題と結びつけた立場で考えなければならないのです。
◆密使の内的生活
それが、特使や密使の使命に責任を負った人たちの内的な生活です。誰も体験できない内的な生活なのです。他の見方をすれば、死刑を宣告された死刑囚が、死の時がいつ来るか分からずにすべての触覚を鋭く逆立てて、外から聞こえてくる声が、ひょっとして刑を執行するために自分を呼ぶ声ではないかと、脅威を感じながら生きるのと同じです。ただ東西南北に行動できるだけで、それ自体は一つの監獄生活と同じだということを皆さんは知らなければなりません。
先生はこのような使命を中心として、今まで流れてきた日々を一時も忘れることができません。どこに行くときにも、目的地を言わないのが習慣になりました。気を遣うようになるのです。なぜでしょうか。怨 讐がいつもねらっているためです。
このような闘いの歴史を経て、世界が認めることのできる現在の立場まで引き上げておきました。これはただできたのではありません。ここには数多くの事情があり、生死の峠を越えながら闘ってきた基台があったためです。すべてを天ものとして譲り、譲ったものが積みに積まれて今の実績に至ったのです。このような事実を知るようになるとき、皆さんの責任と使命は重いのです。
今まで六千年の復帰摂理歴史では、数多くの事情とともに先知先烈たちが犠牲になっていきました。このように血の祭壇を連結させてきたものを、この瞬間に恨みを晴らすことができるのでしょうか。それとも、恨みをもっと積もらせるのでしょうか。このような問題を扱っている深刻な立場に、私たちがいるのです。ですから、神様が同情することのできる心の姿勢、神様が同情することのできる生活姿勢、神様が同情することのできる公平で義理固い姿勢を備えなければならないということを、皆さんは知らなければなりません。
密使は、いつも祖国のために生きる人です。本然の主権者が神様であられるので、「お父様、これからこのようにしていてください」という生活、それ自体とならなければなりません。私たちはこれからどうなるか分からない立場にあるので、私が死んでも父と共に死に、追い込まれても父と共に追い込まれ、追われても父と共に追われ、戦っても父と共に戦うという心が、密使の生活圏内から離れてはならないのです。
秘密があれば、心を整理してその主権者の前に報告しなければならない責任を負っている人が、密使です。それゆえ、そのような心をもっていくところにおいて、死の道を十峠越えたとするならば、十峠以上の実を結ばなければなりません。実を結ぶことができないときは、神様の前に裏切り者になるのです。
北朝鮮で教育を受けて韓国に下りてきたスパイたちが、韓国の実情を見てもなぜ自首できないのでしょうか。その背後には他人には分からない密使の生活の中で、今自分が生きている韓国の生活より何百倍も熾烈な難しい峠を克服して越えたものがあるために、環境的な現実は問題とならないのです。それで彼らは自首しないで、再び北に越えていくのです。
神様は、どのような方でしょうか。神様は密使の大王です。祖国の主権復帰のために、サタン世界に現れる密使の大王であり、総司令官です。では、そういう神様がこの地に対して「私が神様であり、私が教える真理はこれだ」と、六千年の間に一度でも主張したことがあったでしょうか。なかったのです。
けれども神様は、私たちの澄んだ良心を通じて指示し、因縁を結ぶために苦労してこられました。私たちの心の土台を広めて、一致化することのできる自由な世界へ導き出してきたのが六千年の復帰摂理歴史です。
このようなことにすべて責任を負ってこの地に来られる神様の息子に、密使の使命を外的、内的に連結させなければならない使命があるために、外的にぶつかる怨 讐のような環境の難しさは、内的な面において神様と一致することのできる刺激的な内容になるのです。
難しい環境が分立させるのでなく、むしろ密接な内容で一つになるようにするのです。それゆえ、そういう所には必ず神様が現れ祝福して、神様が共に戦ってくださるという事実を認めざるを得ないのです。
◆祖国の主権復帰の責任を遂行する自分になれ
皆さんがこのようなことを実感して、責任を遂行するために誓いを立て、新しい旗手になると固く誓って立ち上がるとき、大韓民国は私たちの懐に入ることでしょう。
それゆえ、きらきら輝く目つきをもったなら、その目つきは栄光の祖国を直視する目つきと化さなければなりません。才能と力があるならば、これを祖国の主権復帰のために使うことのできる勇士となって、皆さん自身が堂々とした姿で祖国の主権復帰のために、聖別された責任者の代身をするという信念を感じながら行くことができなければなりません。
皆さんは祖国を立てて、祖国を輝かせて、祖国と共に生き、祖国の中で死ぬことのできる自分にならなければなりません。今まで天の前に誰も責任を負うことができなかったし、一時に一度しかできない、この厳粛な責任をおろそかにしてはなりません。一度聞いて十通りを考えて、一度聞いたことをもって十通り以上と比較しながら出ていかなければなりません。
天の運勢をここに表すためには、自分が千回恥をかいたとしてもそれを気にせず、または百回の死の道があるとしても、それを気にしないで行くという信念をもって出ていくようになるとき、神様が皆さんの行く道を守ってくださるのです。なぜなら、先生が今まで歩んできた生活の中で、どのような時にも神様は私を捨てなかったことを体験したので、皆さんも神様が保護してくださるに間違いないというのです。
それゆえ、祖国の主権復帰のための一つの主体的な使命者として、自分が引き受けた一つの道(注:韓国行政区の一つ)であれば道、一つの部落ならば部落で、この責任を遂行する人は自分しかいないという信念をもって、絶対に退いてはなりません。ここで裏切り者となってはいけません。天命にかなう責任を果たすことができなくてもいけません。責任の裏道にいては、この道を越えていくことができないのです。
寝ることができなくてもしなければならず、食べることができなくてもしなければならず、追われながらもしなければならず、死ぬとしても決定を下して死ななければなりません。皆さんが、このような決定的な使命を成し遂げると新たに決心して立つようになるとき、皆さんの行く道は当然開かれるのです。
しかしそうでなくなるときは、先生が皆さんを前面に立てて信じて見つめた希望の世界、光明の世界がかえって闇の世界となるのです。先生はこのような問題を心配しています。それで皆さんの前に、この時間に残してあげようとするのが「密使と祖国」という問題です。
神様が、この国を訪ねてきたその目的を達成して、すべての民族が国を挙げて御自身の名前を称賛しながら栄光の一日を万世に誇ることのできる時とはいつでしょうか。この使命を失わず、これを求めることが私の生涯の目的だと誓いながら行くことのできる皆さんとなる時に、皆さんの将来に祖国の主権復帰の希望の日が迫ることでしょう。そうできないときは、皆さんの前に受難の道が来るようになります。また、皆さんが責任を負えないことによって、その結果がこの民族の前に引き渡されるようになるということを知らなければなりません。
密使は、その姿が良いからなるのではありません。また、能力があるからなるのではありません。密使の使命は、神様と心情が一致した立場に立って、その国の風俗を正しく立てると同時に、絶対的に忠誠を立てて、その環境を収拾しなければならないのです。
これをする日には、天の主権者である神様の直接的な命令を受けた代行者の立場に立つことができるのです。そのようになれば、神様が責任を負わざるを得ないというのです。
皆さんが密使の責任を負うようになれば、そのことは必ず成し遂げられるということを先生は、長年の体験を通して知っています。皆さんもこのような生活をしていくことを願うので、きょう「密使と祖国」という題目で少しの間お話ししました。
35. 新記録
一九七〇年二月十六日
韓国・統一産業寄宿舎の講堂 『文鮮明先生み言選集第二十九巻』
今日、私たちは信仰の道を歩んでいます。これはちょうど、勝利を目標として競技場に出て、競技するのと同じです。ここでいう競技とは、ある体育の競技をいうのではなく、自らの日常生活を中心として、あるいは自分の生涯や国家の歴史を中心として、競技場に出ていって行う競技をいうのです。
◆競技場に立つのと同じような信仰者
今日の先進国家は、国民全体が一丸となって、他の国の国民よりも多くの努力をしたので、先進国家となったのです。反面、後進国家は、国民全体が様々な国と競争する歴史過程で、努力が足りなかったからだと見ることができます。ですから、自然に後進国家になるしかなかったのです。このような事実を見るとき、歴史や世界の運勢は、このような過程を中心として進行してきたということが分かります。
では、大きな世界の範囲を離れて、私たちの個体に帰り、自分自身をほかの人と比較し批判してみるとき、私は今、どのような立場に立っているのかということが問題になるというのです。ここで皆さんは、「神様と人間」言い換えれば、「お父様と私」の関係を回復するために、復帰の途上で競走している立場に立っているということを、知らなければなりません。パウロが、「私たちは競技場に立った人々であり、一つの標柱に向かって走っていく人々だ」と語ったように、私たちも一つの目標に向かって駆けているのです。
世界の人々が最も重要視する競技の中の一つがマラソンです。すべての国家は、マラソン大会で一等になり、新記録を出すことが最高の栄光だと思っています。なぜそうかというと、マラソンは普通の人々が完走することのできない競技だからです。マラソンの距離は、ものすごく長いのです。優勝するためには、その長い距離を克服しなければならないのです。
また、マラソン大会では優勝することも大切ですが、それよりもっと重要なことは、新記録をいかに出すかということです。優勝しただけでは駄目なのです。過去の大会ほどの記録を出せなくても、優勝はできます。しかし、マラソン大会ですべての国々が願うのは、優勝だけでなく、新しい記録をいかに出すかということなのです。
◆新記録を立てるには
では、これまでの記録を破り、新記録を立てるためには、どうすべきかというと、今までのマラソン大会に参加したすべての選手たちが努力した以上の努力をしなければならず、困難を克服しなければなりません。このように考えない人は、それまでの記録を破ることはできません。仮に、優勝はしたとしても、新記録を樹立することはできないのです。
また、いくら熱心に努力をしたとしても、作戦を誤れば、新記録を出すことはできません。新記録を出すためには、作戦をうまく立てなければなりません。マラソンで作戦をうまく立てるということは、走る人自らが、自分自身をよく知ることです。走る時間と距離に従って変化する体の状態を、自らがよく知らなければならないのです。すなわち、一定した時間と距離で変化する自分の体力と気力を、よく知らなければならないというのです。ある水準以上に無理したら、正常な体の状態ではなくなるということをよく知って、一〇〇パーセント自分の体力に合うように、自分の体を調整できなければなりません。でなければ、記録を出すことはできません。
また、自分が走るのが速いからといって、最初から一番で走っても駄目です。定められた距離に適応できるように、自らを調整しなければなりません。そして最後、ゴールに近づく時にどうすべきか、また、最後にゴールを突破できる余力をいかに残して走るか、ということが重要なのです。このようなことを調整できなければ、優勝することもできないし、たとえ優勝しても新記録を出すことはできないのです。
優勝は瞬間で決まります。ゴールインする場合には、一分、いや一秒が重要なのです。その短い瞬間に、優勝が決定するのです。百メートルの距離を同じように走ってきても、一等と二等が分かれるのは、一メートル以内です。そこで決定するのです。いや、十センチメートル、一センチメートル、〇・五ミリメートルの差によって、優勝は決定するのです。
新記録が決定されるのは、短縮された時間が長い、短いということによって決められるのではありません。一秒を短縮したとしても、新記録は新記録なのです。このように歴史的な記録は、とても短い距離によっても破られるのです。同じように、私たちが行く復帰の途上においても、これが問題になるのです。
◆統一教会の目標
統一教会の中心目標は世界復帰です。今も、この目標に向かって走っているのです。走るうえで、何を中心として走らなければならないでしょうか。これまでの宗教は、個人を中心にして走っていました。しかし、統一教会は復帰摂理の目的を中心として、家庭的な競技をしています。言い換えれば、統一教会は家庭的な競争圏内に入ったのです。これが、統一教会と今までの宗教との相違点です。
これまでの摂理歴史路程を見れば、失ったアダム一人を捜し求めるために、神様が多くの苦労をされたことを知ることができます。しかし、アダム一人を復帰したからといって、「勝利の記録」と言うことができるでしょうか。できません。誰がこれを証すのかというと、イエス様です。
イエス様はこの地上に来られ、神様の息子として責任を果たそうという立場に立ったのですが、復帰摂理の途上で終わったのです。勝利し、新しい記録を立てることができませんでした。イエス様が亡くなられることによって、神様の側において新記録を立てたのではなく、むしろ、失敗の記録を立てることになったのです。そのことによって復帰摂理の途上に、二千年の間隔が生じました。勝利者として新しい記録を出したのではなく、敗北者としての記録だけを残したのです。
では今日、私たち統一教会が新記録を出すには、どうしなければならないかというと、まず一人の男性と一人の女性を中心として、復帰摂理の公式を通した一つの家庭を立てなければなりません。その次に、目標に向かって進み、優勝するとともに、良い記録を出さなければなりません。そうしてこそ、そこから新しい起源が生まれるのです。この起源は、これから来る新時代において、永遠の基準となります。私たちは、このような驚くべき目標を中心として前進しているのです。
皆さんはこの時間が過ぎれば、東西南北に散っていきます。そこには、応援する人もいません。そのような立場で皆さんは、競技場に立つのです。しかし、皆さんは「私は走っている人間だ。行かなければならない人間だ。目標に向かって、この時間も走らなければならない」という認識を忘れてはなりません。
皆さんの立場と環境は各自違いますが、ただ一つ変わりなく大切に維持すべきことは、「私は競争する人間だ」という考えです。皆さんは、目標を中心として走っている人間です。皆さんが走る時は、天地が注視し、声なく皆さんを応援しているのです。
ところで、今までずっとこのように走ってきたのですが、いまだに国家的な大会がなされていないのです。自分が住んでいる地域だけで行ったり来たりする、小さな競技にすぎなかったのです。このような競技は、国家的な競技とは何の関係もありません。いくらそこで自分が活躍して記録を立てたとしても、国家的な大会とは何の関係もないのです。走るには走っても、それはその地域に限られたことです。その大会は、国民が注視し得る大会になることはできなかったのです。
しかし、一教会や一団体を中心としてなされた競技で出た新記録だけでは駄目なのです。世界的な大会で競争して勝利し、記録を出して初めて、その記録が世界的な新記録になるのです。
今日、統一教会が競争しようという大会は、どんな大会であるかというと、大会の中でも、最高に重要な大会なのです。この大会は、過去に生まれて逝った先祖たちも動員され、現在の人類も動員され、将来の数多くの後孫たちも動員することのできる大会なのです。このように、三時代が結束して動員される焦点上において、皆さんは今、走っているのです。
◆競技者が知らなければならないこと
ここで皆さんが、肝に銘じておかなければならないことがあります。走る時に、無条件に走ればよいというものではありません。目的地をはっきりと知らなければなりません。目的とする所がどこであり、その距離がどれくらいであるかを知らなければなりません。皆さんの姿勢がどんなに良かったとしても、走るコースが分からなければ、目的地に到達することはできません。そのコースは、復帰の原則から成っているので、それを中心として走らなければなりません。
皆さんが走るうえで、皆が一等になることはできません。この中で優勝者は、たった一人だけです。ここで誰が一等になるか、ということが重要なのです。
神様が何を願われるかというと、二等を願われるのではなく、一等を願われるのです。多くの人を願われるのではなく、一人を願われるのです。それで、その個体が最善を尽くして走ったならば、天と地が一つになるのです。
ここで、その距離がどれくらいになるかによって、問題が起こるのです。今日まで人間が復帰摂理路程において、国家なら国家を中心に、常にその日を願い努力してきたのですが、いかなる基準で願い、努力したのかが重要な問題なのです。国家を復帰するためには、まず個人が復帰されなければならず、さらには家庭、氏族、民族、国家と復帰されていかなければなりません。このように各段階に従って、その範囲が大きければ大きいほど、それに対する関心度も高くなるのです。
例を挙げれば、郡を代表する選手がどんなに良い記録をもっていたとしても、道を代表する選手の前では認めてもらえないのです。自分の記録がどんなに良くても、道を代表する選手に認めてもらうためには、再び試合をして勝たなければなりません。また、道の選手の記録が、国家の選手の記録よりも並外れて良かったとしても、その記録が国家的に公認される大会の記録でなかったならば、彼を国の新記録保持者とすることはできないのです。
しかし国家的な競技において、自身がもっている記録よりも何秒か劣ったとしても、国家基準の記録を破ったならば、彼は新記録を立てた栄光を得るようになるのです。世界記録を破ることも同じことです。国内で世界的な新記録を立てても、これは認定されませんが、世界的な競技に参加して記録を立てれば、認定を受けるのです。
皆さんが今まで、個人的にはどんなによく走ってきたとしても、今は舞台が広がったので、広がった舞台において走らなければなりません。面を代表して走るのと、郡を代表して走るのとは違います。また、郡で走るのと、道で走るのとは違い、道で走るのと、国で走るのとは違うのです。
皆さんはこのような時に、うまく一致させなければなりません。皆さんはこの時を中心に責任を負い、競技場に出た選手であることを自覚しなければなりません。ここで走る時には、時が違うと同時に、環境が変わります。それゆえ、走る環境と自身の技量とをよく調和させ、行く途中で生じる様々な現象をきちんと受け止めなくてはなりません。怨 讐が現れる可能性があるというのです。
走る中で、誰か応援してくれる人がいるかというと、いないのです。しかし、応援団がいないことは、それほど問題にはなりません。怨讐は、走る皆さんを転ばせようと、ありとあらゆることをしてきますから、これが問題なのです。その過程で、見えない隅に隠れて矢を放つ者もいるし、塀の上に潜んでいて足をへし折ろうとねらう者もいるのです。いろんな者がいるのです。
このような険しい環境を皆さんは直視して、侵犯を受けないようにしなければなりません。怨讐に引っ掛けられて転んだら、大変なことになると肝に銘じ、困難な環境に備えて、自分自身を防備できなければなりません。
◆世界的な舞台で新記録を立てなければならない
今日、このような立場で私たちは世界復帰という看板を掲げているのです。
それでは、世界復帰の時代を迎える皆さんにおいて、最も大きな問題は何かというと、世界を復帰するには今までとは違い、個人的に走って立てた記録ではいけないということです。氏族的に立てた記録でもいけないのであり、民族的に立てた記録でもいけないのです。世界的な舞台に登場し、新記録を立てることのできる人間にならなければならないというのです。
神様は今まで、最上の基準で復帰摂理をしてこられました。サタン世界の記録を破る立場に立つことができなければ、人類を復帰してこられた神様の権威と威信と体面が立たないのです。これが神様の立場です。ですから、み旨を掲げて歩む私たちの使命は、復帰の途上で、サタン世界のすべてのものを屈服させ、最高の栄光と権威を神様にお返しすることなのです。そのために今、世界的な競技場に出ているのです。
それでは、出ていくときには、その国の民と家庭がすべて出ていかなければならないでしょうか。
違います。国家なら国家を代表して一人だけを立てればいいのです。新記録を立てることのできる一人を代表として送り出せばいいのです。
今日の摂理過程において皆さんは、皆さんの家庭を中心に新しい家庭の起源をなし、新しい生命を出発させ得る家庭にならなければなりません。新しい生命が出発しなければ、新しい理想が出発し得ず、新しい愛が出発できないのです。
このような基準を中心に見るとき、この出発点が、どこにならなければならないかを知らなければなりません。ここでの勝利だけでは駄目です。その勝利が、サタン世界に一つでも引っ掛かる勝利であったなら、神様の権威と体面を立てて、新しい出発をすることはできません。この勝利は、歴史的なものでなければならないのです。
私たちは今、家庭的に走っています。走るときには、天地の摂理のみ旨に関係している数多くの背後の因縁と、神様を中心とする心情を土台にして、走らなければなりません。走る競技の途中でどんなに遅れたとしても、最後のゴールでは、一歩でも先にゴールインしなければなりません。先になるだけではなく、新記録を立てることができるように、先にならなければなりません。このようにして、集まろうというのです。これが復帰摂理の路程です。
皆さんが走っているこの道は、一年だけ走ればよいのですか。違います。一代でできなければ二代、二代でできなければ三代までいく恨があったとしても、行かなければならないのです。それゆえ、復帰摂理は今まで、アダム、イエス、再臨主の三代を経て走っているのです。また、アブラハムの神様、イサクの神様、ヤコブの神様と、三代を経たのです。
今、私たちは何代目かというと、最後の三代目として走っているのです。最後の三代目ならば、ゴールまであとどのくらい残っているのか、はっきり知らなければなりません。そして、残る底力と余力を総動員して、最後のゴールに向かって走らなければならないのです。
◆必ず行かなければならない運命の道
皆さんが参加しているこの道には、皆さんの先祖たちが加担し、応援しているのです。この道は、いつかは必ず行かなければならない運命の道です。
今はよく分からないでしょうが、あとで勝つようになれば、氏族がすべて頭を下げるようになります。それはいずれ、そのようになるようになっているのです。過去の先祖はもちろん、氏族が動員されるようになっており、また、未来の後孫たちも動員されるようになっているのです。それゆえ、皆さんがどのように走るかということが問題となるのです。
このように見るとき、世界復帰という目標に向かって走る統一教会において、人が来て走るときには、氏族を中心として常に問題が生じるのです。ここで皆さんは「私たちの氏族の中で、自分は何番目に負けた人間か」ということを考えるのです。
皆さんは一等にならなければなりません。今後、誰に関心が注がれるでしょうか。人々は「私たちの氏族の中で、負けなかったその人!」と言うことでしょう。また、「私たちの氏族の中で負けた人は多いけれど、その中で誰々はそうではなかった」と言うでしょう。このように、皆さんが氏族の代表者になってこそ、過去、現在、未来が連結された希望を中心として、「ああ、この競技場に、私たちの氏族が登場したなあ」と言うのです。
私たちは現在、一つの国家を中心に新記録を立てるために努力しています。歴史始まって以来、統一教会のような集まりはありませんでした。また、世界において問題になっている、そのような教団があったかというと、ありませんでした。国を愛し、世界のために生きるということにおいて、統一教会ほど新記録を立てた団体は今までありませんでした。
事実、国を愛することにおいて、新記録をもち得ない人間は、大統領の席を夢にも見てはいけません。国家の前に世界の前に誇ることを、夢にも見てはいけません。しかし、世界の新記録を破って余りある実力をもち、自他共に認める権威をもつ人間になった時には、世界人類が屈服するようになるのです。
今私たちは、今まで走ってきたことを教訓として、もっと大きな舞台で走らなければなりません。世界の国々は、国ごとに民族的な背景が違い、歴史的な背景が違います。また、民族に対する観念が違います。このように各々、異なる立場にある国家と国家が、互いに競っているのです。私たちの宣教本部が多くなればなるほど、競技の規模がだんだん大きくなるのです。そのようになれば、問題の焦点となるのは何かというと、最高の記録保持者は誰かということです。
私たちのその記録は、ギリシャの一兵士が、マラソン平野の戦いで勝ったということを告げるために、死を懸けて走り、「勝った」という一言を残して死んだこととは違うのです。その時、命を懸けて走り立てた記録と、近ごろの選手が立てた記録とは違うのです。彼は世界歴史に、マラソン出発の旗を掲げたのです。たとえ勝利したという言葉を残して倒れ死んだとしても、彼が立てた記録は永遠なのです。
皆さんも、そのような立場に立っているのです。オリンピック大会で、新しい起源を成すことができる立場にいるというのです。
人々の中には「み旨が早く成され、私たちが世界舞台に出ていって走れたらいい」と言う人がいますが、そのように簡単ではないのです。
新記録の起源を立てようとすれば、ある国なら国で闘った歴史が、世界的な大会の歴史と通じなければなりません。そうしてこそ、世界的な大会を中心に積まれた伝統を受け継ぎ、また相続させる、そのような歴史の中心の立場を受け継いでいくことができるのです。これが今、統一教会が成そうとしていることであり、また、そのような立場にあるのです。
私たちの今の活動は、皆が良い記録を出す方法を研究するためなのです。こうして研究したその道、そのコースを走ろうというのです。それが国家に影響を与え、さらには、世界まで影響を与えるようにならなければならないのです。
今ゴールが、近づいてきています。それを統一教会の原理から見れば、「家庭復帰」と言うのです。家庭復帰というのは、四位基台を成就した家庭として完成することをいいます。国家基準においても、この四位基台を成さなければなりません。では、四位基台を成すうえで、どこの国が一等になる可能性がある歴史をもっているでしょうか。これが世界の関心事です。
国家基準を成すためにはまず、氏族、民族的な基準を成さなければなりません。ここでは必ず、ある団体なら団体、あるいはある宗派なら宗派が問題になるので、統一教会は多くの宗派紛争を収拾しなければなりません。また、どのようにしたとしても、四位基台の基準を立てなければならないのです。この基盤をもたなければならないので、この基盤をつくるための作戦として、先生は超教派活動をしてきたのです。これを動機として、すべての宗教がどのようにしたら平面的に一つの四位基台形態をもつことができるか、という考えを中心にして闘ってきました。
そうして、世界に行く道を築こうというのです。その次に、そのような基準を中心にして、国を愛し民族を愛さなければなりません。ここでも、新記録を出さなければなりません。皆さんは良い記録を出して、今後、国家的であれ、世界的であれ、栄誉ある位置に立つことができなければなりません。
ところで今、皆さんは栄誉ある権威者として、国家なら国家の前に、そして世界なら世界人類に教えてあげることのできる立場に立っていますか。「競技場ではこのように走るのだ」と教えてあげられ、その意見には何らの異議も出すことができない実力基盤をもっているか、ということが重要なのです。新記録をもっている人間として、その分野においては、国家なら国家の前に、世界なら世界の前に、「この分野は私以外に、他の人が責任を負うことはできない」というほどの絶対的な立場に立つことができなければならないのです。
◆歴史に残ることのできる者
では今日、統一教会がそのようになっているでしょうか。これから世界的な選手として発掘される姿勢と内容をもっているでしょうか。結局、皆さんはそのために走らなければならないのです。これから、世界を中心に栄誉の一時が、必ず統一教会に来るのです。
その時が来たならば、皆さんはどのようにしなければならないかというと、絶対的な権威をもって、「過去はこのようにしてきたから、現在はこのようにして、未来はこのようにしなければならない」と言えなければなりません。ところが、責任を果たすことができない人間は、栄光の時代が来ても、その栄光とは何らの関係もない人間になるのです。むしろ、その栄光の前に恥ずかしく、自分の恥がさらされ、頭を下げるようになるのです。
優勝して、人々にあがめられる対象にならなければならないのであって、最下位になって、恥ずかしい立場に立つ人間になってはいけません。「あの人は一等にならなければならないのに、びりだった」と、ひやかされてはいけないというのです。
統一教会のみ旨に従っている人の中には、一等になる人もいるし、最下位になる人もいるし、落伍者もいます。統一教会に通う人々の中にも、差が生じるのです。そして、実体の競技場で起こる現象が、皆さんの家庭、あるいは活動する基台においても起こるのです。
ところで、問題となるのは、国家なら国家、団体なら団体において、よく走る選手をどのようにつくるか、ということです。すなわち、どのように教育し、どのように訓練し、優秀な選手につくり上げるかが問題なのです。この使命が、皆さんに掛かっているのです。
選手たちを教育し、訓練するためには、まず皆さん自身が、そのような実力を備えていなければなりません。皆さんの指導を受ける後輩たちが、皆さんの記録を凌駕するように、訓練しなければならないのです。こうして、統一教会のみ旨を中心としたマラソン競技で、国家を代表して世界に出ていくことのできる人間を育てなくてはなりません。そのような人間を育てた指導者は、彼と共に歴史に残るようになるのです。
皆さんが暮らしている地域を中心に見ても、歴史的にその地域を動かした人間は多いかもしれませんが、その地域を代表して、国の前に忠誠を尽くす新記録を出した人間は、多くないのです。皆さんがそのような人間を輩出することができたならば、死んでも、このような記録を出した指導者として、歴史に残るようになるのです。
今、私たちは、世界的な舞台を中心として走らなければならない時です。統一教会の文先生も同じです。先生は走る時に、「誰かの世話になる」とは考えません。選手たちが疲れたら励まし、引っ張ってあげることはあっても、選手たちに世話になることはありません。走る時は競技者として寸時を惜しみ、あらゆる精誠を投入して走るのです。一歩でも遅れないように、昼も夜も休むことなく、行くのです。こうして最後、ゴールインする時には、先生が一番最初に勝利した人間になるでしょう。
◆新記録の起源
今までの世の中になかった新記録を立てるためには、国家と世界の前にどのようにしなければならないかを、皆さんははっきりと知らなければなりません。
復帰摂理の過程において、私によってもたらされた勝利をいかになすか、あるいは、世界人類と後孫たちに影響を及ぼすことができる記録的な基準をどのように立てるか、ということがとても重要です。すなわち、今までの歴史過程の記録や、これから立てられる新記録よりも、より優れた記録をつくらなければならないというのです。絶対的な新記録を決定したら、過去も、現在も、未来も、この基準を中心に走るのです。すべての選手たちが、これを中心に動くようになり、また、これを中心に統一がなされるのです。このような基準をもって現れたもの自体は、過去から現在に、現在から未来へと続くのです。このような新記録の起源が、正に統一教会でいうところの「真の父母」なのです。
真の父母の栄誉を得るには、心情の記録保持者にならなければなりません。その記録は、絶対的でなければならないので、過去にもなく、現在にもなく、未来にもないものでなければなりません。言い換えれば、相対的基準とは比較することができない絶対的な基準が、真の父母の基準であるというのです。
真の父母は、二つはあり得ません。「真」という字のつく父母は一つだけです。天と地は、二つに分かれることはできません。では、天と地の父母が、どのように一つになるのでしょうか。これを解決するには、天を中心として関係を結ばなければなりません。
このような観点から、神様と人間は一つにならなければならないのです。このように、内的父母と外的父母が一つになって初めて、真の父母が規定されるのです。真の父母は絶対的基準の立場なので、真の父母を中心とする位置には、宇宙史的な新記録が永遠についてくるのです。誰であっても、この記録を抜くことはできません。
また、真の父母の教えは絶対的です。それゆえ、真の父母の教えを受けて、新しい記録を出そうという人間は、真の父母に絶対に従順であり、絶対服従しなければなりません。そうしなければ、再び生きる圏内に入ることができません。絶対従順、絶対服従する立場において初めて、統一の役事が起こり、一つの世界がなされるようになるのです。言い換えれば、その立場は、ある相手との争いを超越した位置、すなわち競技を超越した位置なのです。競技をして新記録を出すという、そのような相対的な位置ではなく、完全に定着した安全な位置なのです。多くの人が嫌がる立場ではなく、誰もがみな好んで従う位置なのです。
このような観点から見るとき、今日、統一教会が目標に向かって走っていくうえで、真の父母を中心として走らなければならないというのです。先生が発見したことの中で偉大なることがあったとすれば、それは今まで数千年の歴史を通しても探し出せなかった、真の父母の位置を復帰したということです。ですから、皆さんはこれを一番に考え、一日に十回、祝賀しなければなりません。
それゆえ、皆さんが真の父母の新記録を相続しようとすれば、先生のところに来て相続しなければなりません。もし、皆さんが、家庭が走っている競技場で、問題が生じたならば、すべてその基準で解決しなければなりません。その基準は、過去にも通じ、現在にも通じ、未来にも通じるのです。
新記録ということは、永遠から永遠まで通じるのです。その基準を中心として必ず、相対的関係が結ばれなければなりません。走る競技者たちは、その基準を中心に走らなければならないのです。今まで人間たちが理想を語れば、先に向かってだけ走っていくものと考えていました。しかし、私たちの理想は、未来にあるのではありません。世界をすべて回っても、また回っても、真の父母のところに来なければならないのです。なぜならば、出発もここであり、目的もここだからです。
今まで堕落した世界は、未来の希望を中心として行く道でしたが、統一教会時代は、新記録を中心に行く時代なので、出発もこの点であり、目的もこの点ですから、世界がその所から走らなければならないのです。内容面においても、これは今まで世の中にあった、そのような競技ではありません。それは、心情の世界で父子の関係を結ぶのです。競技の中で、それ以上のものはありません。それゆえ、誰でもこの原則を知るようになれば、統一がなされざるを得ない、ということを知るようになるのです。
ですから、皆さんが道を走るうえで、この目的がはっきりとしていなければなりません。走るときは、個人の目的を中心に走るのではなく、国家の目的を中心に走るのです。そして、行ったら、帰ってこなければなりません。国家から出発して、帰ってこなければならないというのです。これは否定することができない既定事実なのです。摂理の過程において、皆さんは今、帰って来るコース、すなわち復帰のコースを歩んでいるのです。
私たちが走っているこの道は、普通のコースではなく、復帰のコースなのです。復帰のコースを走る皆さんは、それなりにみな重要な人々なのです。ここで一等になる人間は、絶対的なチャンピオンになると同時に、絶対的に責任を負う指導者になることができるのです。
今、私たちがしていることが何かというと、絶対的な記録を立てる、真の父母の伝統を相続し得る選手を養成しようというのです。今まで先生はこのことをしてきたのです。
皆さんはもう、先生がいなくても、真の父母が立てた新記録を中心として生きなければなりません。いつもの生活で、その記録と比較してみて、何パーセントになっているか、その記録にどのくらい近づいているかを確認して、その記録に近づこうとしなければなりません。これが皆さんが将来、天上世界に入るとき、皆さんの権威と位置を決定するのです。
例えば、その記録に三等で到達した人間がどんなに優れていたとしても、三等の位置に行かなければならず、十等は十等の位置に行かなければならないのです。いくら大統領をした人でも、最下位ならば最下位の位置に行かなければならないのです。それは仕方がありません。
今先生が通り過ぎながら、一度だけ道を切り開いておけば、「ついてくるな」と言っても、ついてくるのです。なぜならば、ついてこなければ、競技場に行く道がなくなるからです。どんなに世界的な基盤を築いたとしても、競技場に出ていかなければ、世界的なチャンピオンになることはできません。したがって、新記録を立てるには、統一教会の真の父母に従ってこなければならないのです。
◆神様の念願の内容
今、私たちは走っています。ところで、私たちが走るとき、この国の全地域の人々が「頑張れ、頑張れ、頑張れ!」と応援をしなければならないのです。私たちの側が多くなければなりません。「私たちの側」というのは、競技する時だけ応援するのではありません。競技を始める前から、その競技に対して関心をもち、走る時も、「その選手と共に走る」という心をもつ立場に立たなければなりません。
選手が競技場に出れば、その時だけ「お前は私たちの側だろう。よく走れ!」と言うならば、その人を「私たちの側である」と言うことはできません。選手が代表として出て走る時には、緊張して視線を注ぎ、次第にゴールに近づけば、一緒に走っているような立場に立たなければなりません。応援していて、転がっていってもいいのです。そうしてこそ、走っている選手たちも、元気を出して走ります。同じ側というなら、選手たちが走る時には、そのぐらいにならなければなりません。
皆さんは、そのような実績をもっていますか。皆さんは今、走っていますが、自分に関心をもっている人間、すなわち、自分の側がいるかというのです。いるようだがいないとすれば、孤独な人になるのです。そのような人間は、走ることは走るのですが、国を代表することはできません。
国もないのに、国の代表選手に選ばれるでしょうか。国がなければ、個人資格にすぎません。国がないので、国を代表して出場することもできず、したがって、一等になることもできません。国の代表として選ばれるためには、どこの国であれ、自分が属する国がなければなりません。他国の名前を使うか、でなければ、無理やりしがみつかなければなりません。
家庭を中心にして、父親が「そう」と言えば、息子も「れ!」、息子が「そう」と言えば、父も「れ!」という基盤が必要です。しかし、子供がいたとしても国がなければ、何になるのでしょうか。国がなければ、「一等だ」「何だ」と言っても、意味のないことです。
皆さんが頑張れば、先生は体面など失ってもよいのです。先生にとっては、体面よりもチャンピオンになることが問題です。それが神様の願いです。今まで神様は、多くの体面を失いました。何度も闘いに負けたので、神様の体面は話になりません。今まで神様が訓練して立てたチャンピオンたちの姿を見てみなさいというのです。すべてサタンによって倒され、威信どころか何もかも奪われ、死に、思いどおりにできなかった神様の体面を考えてみてください。その時、神様が受けた恥辱を皆さんは考えてみなければなりません。
皆さんはもう少し走れば、新記録を打ち立てることができます。皆さんの側には、天を中心に自身の一生を懸け、新記録を立てるのに心血を注いでいる先生がいるのです。天と地の心情を経て、すべての責任を直接相談し得る先生が、皆さんの側にいるのです。
このような責任を果たすために、歴史的に数多くの人物が精誠を尽くしました。ノアからアブラハム、モーセ、イエス様をはじめとした先知者と聖徒たちが、チャンピオンになろうとしたのですが、みな失敗しました。それゆえ、皆さんが彼らの立てた精誠の記録を破るためには、その境界線を越えなければなりません。
ノアが百二十年間、箱舟を造る時に受けた試練と苦痛が近づいてきたとしても、問題なく越えていかなければならず、アブラハムが故郷の山河を離れる時に受けた苦しみも、越えていかなければなりません。おじけづいてはいけません。境界線を突破するという心で、また、必ずそうでなければならないという心で、すべてのことを引き受ける自分自身にならなければなりません。そうでなければ、チャンピオンの列に加わることはできず、新記録を出すこともできません。
歴史過程で来ては逝った数多くの責任者たちもみな、新しい記録を立てようとしたのです。このような観点から見るとき、イエス様もそのような面でチャンピオンではないかと考えるのです。
チャンピオンになるためには、誰よりも多くの考えを巡らし、誰もできなかった作戦を立てなければなりません。そうしてこそ、新記録を出すことができるのです。ところで、真の父母の基準が最高の基準ですが、他のところにチャンピオンがいるでしょうか。もしいるならば、訪ねていってもいいのです。それで、他のチャンピオンを探し出したならば、先生が応援することもできるのです。
◆チャンピオンの後継者になるには
先生は今まで、み旨を中心に歩んできました。皆さんが選ばれたチャンピオンの後継者になるためには、チャンピオンの生理や感情までも分析しなければなりません。そして、性質が似ていなければなりません。チャンピオンが虎のように生き生きとしているのに、皆さんが牛のようにのんびりしていれば、後継者になることができますか。チャンピオンが虎のような性質ならば、皆さんも虎のような性質にならなければなりません。性質が似ていなければならず、性格も似て、ものの見方も似ていなければなりません。
このような大きな位置が準備されているのに、皆さんはそれに対して、関心をもっていますか。「チャンピオンに似るために、祈祷をするときには真心からしよう。これから一年間、先生の家庭を見て手本とする計画を立てよう。誰かに会ったときに、あいさつを百回する人がいるなら自分は千回しよう。千回する人がいれば万回やろう」という姿勢がなければなりません。このような実績を積んでいくならば、チャンピオンになる可能性があります。今からは皆さんなりに計画を立て、走っていかなければなりません。走るうえで、野望をもたなければなりません。発展的な勝利の野望をもたなければならないのです。
世界的なチャンピオンになろうとすれば、チャンピオンとして認定される条件がなければなりません。どんな人にも対することのできる内容を備えなければなりません。このような観点から皆さんは、自分なりの新記録を立てなければなりません。誰でも中央舞台で記録を出そうと心に誓えば、どんな大きな山、険しい峰、絶壁、山河が立ちふさがろうとも、越えていかなければならないのです。皆さんは「私は生涯、競技場で走らなければならない人間である」と考えなければなりません。
統一教会の皆さんは、「新記録を立てる」と決心して家を離れたその日から、チャンピオンになるための訓練の過程にあるのです。ですから、必ず新しい記録を出し、皆さんの家庭が世の中で最高の家庭にならなければなりません。
統一教会の文先生は、世の中にない起源を残しました。そして、統一教会がすることは、今まで世の中の人々がなしたことのない起源になります。それゆえ、先生が手をつけたら、国家にも問題が生じるのです。先生は必ず、新しい起源をつくります。
私たちは非常に珍しく、貴重な部類の人間です。統一教会の「統」という字は、字のごとく「率いる」という意味です。「支配する」という意味です。では、支配して、何をしようというのでしょうか。一つにしようというのです。「一つになれ」という言葉は、「新記録をもつ絶対信仰者に似なければならない」という意味です。
◆天の家庭になるには
今から皆さんの各家庭において、夫がマラソン選手になり、新記録を出すために全力を尽くして走れば、妻はその夫に従っていき、応援しなければなりません。このような応援者は、世の中に一人しかいません。一人ですが、世界数億の人々が応援するよりも効果があるのです。
皆さんは、多くの観衆が歓声を揚げて応援するのを願いますか、でなければ、自分の妻の応援を願いますか。多くの人が声を揚げてする応援は、瞬間的な応援ですが、妻の応援はそうではありません。そうすることのできる応援者をもつ家庭が、天の家庭になり得るのです。
そこに、息子も従い、お父さんを応援し得る、そのような四位基台が完成するとき、天上天下唯我独尊となるのです。また、自分が走る時、お母さん、お父さんまで同じく走って応援するならば、それはどんなに素晴らしいことでしょうか。世の中にうらやましく思うことはありません。世の中に、このように価値のあるものはありません。そのようにだけなれば、心情の世界は世界的に復帰されます。このような過程を通して新記録を出し、国家的なチャンピオンになった時には、世界的なチャンピオンにもなることができるのです。
このような家庭になった日には、その家庭は忠臣の家庭となるのです。「忠臣夫婦」という言葉はまだありませんが、これからはこの言葉を新しく作らなければなりません。ところで、皆さんの家庭は、そのような家庭になっていますか。もし、そのような家庭になったならば、村中でうわさとなり、みんなが「どうやって、そのようにできるのか」と聞いてみたくなるのです。そして、手本にしたいと思い、教育を受けたいと願うはずです。
皆さんすべてがチャンピオンの家庭になり、世界の人々が「正しい」と認めることのできる家庭にならなければなりません。今までの祝福家庭を見ると、様々な民族が加わっています。このように様々な民族が加わっていますが、この中で皆さんの家庭が一等にならなければならないのです。
そのためには、新たに、精誠を込めて祈祷しなければなりません。走り続け、優勝しなければなりません。ベルトをきつく締め、優勝とともに、新記録の栄光を受けなければならないのです。
36. 和動の中心体
一九七〇年二月二十六日
韓国・統一産業寄宿舎 『文鮮明先生み言選集第二十九巻』
この世で起きるすべての作用は、一人で始まることはありません。作用をさせる何かがなければなりません。必ず相対的関係がなければならないのです。この相対的関係を造成するためには、主体と対象がなければなりませんが、この主体と対象は互いに関係を結ぶためのある決定的な要因をもたなければなりません。そうでなくては相対的関係を結ぶことができないのです。
◆すべての作用は相対的関係がなければならない
太陽系を見ても、太陽自体が主体的立場にあるので、その相対的な立場にある遊星が作用できるのです。同様に万有の存在物も、やはりそのような主体と対象の基準を決定することができる基盤が造成されていなければ、秩序や組織が成立しません。主体が確定されてから相対が確定してこそ、すべての秩序と組織が生まれるのです。
人間の体も、心臓を中心としてすべての肢体が動いて生命を維持しています。私たちの心について考えてみるとき、心にも中心があります。それは人間がもっている人格というものです。その人格を中心として、人間は今まで生活してきたのです。
私たちは、ある社会の制度の中で、中心的な位置に立つことができる人を「人格者だ」と言います。例えば、ある町内で尊敬される人格者がいるとすると、彼はその町内の内外に暮らしている人々に生活的に、精神的に中心的な作用ができる人です。
それは国家においても同じです。国家もやはり国家の代表者、すなわち一人の人格者を中心として形成されるのであり、その人格者を中心として国民が相対的関係を結んで、実体的な組織が形成されるのです。このように見るとき、範囲の広い世界にも、やはり一つの中心的な人格者がいなければならないのです。
人格者といっても、外的に見れば普通の人と特別な差がありません。しかし内的に見れば、思想的な面や精神的な面が普通の人とは違います。このように見るとき、人格者を決定することができるのは外的な面ではなく、精神的な面であるということが分かります。
したがって、人間の精神的分野を中心として、人格を論じなければなりません。ところが、この精神的な分野を広げる者になるためには、心の世界を知らなければなりません。心は無限大に接することができる能動性をもっています。
私たちの人格を見ても、それはある社会や国家や世界の限界圏に限定されているのではありません。さらには、過去、現在、未来までも超えることができる絶対的な最高の基準を見つめながら進んでいるのです。このように、絶対的な立場にまで進もうとする内心の作用を見るとき、心の世界は無限と通じているのです。
ところが、この心が精神的な世界で、絶対的な基準に落ち着いているかというのです。これが今まで問題になってきました。心がそのように落ち着いたというときは、人間が主人になることができる基点がつくられるのです。その基点はいかなる立場でしょうか。人間が要求する最高の幸福の要件と、絶対的価値の要件が決定され得る、中心的な立場です。
しかし、そのような立場に立ったとしても、またその立場から見える最高の存在があり、最高の価値をもったものもあり、最高の宝物もあるでしょう。ところが、そのような立場で最高の相対的な要件を備えて幸福を謳歌することができる人格が、どこにあるかが問題なのです。
したがって、人間は絶対的な要件を立てておかなくては、事理を判断することができません。そのような絶対的基準を立てたとすれば時間性と空間性を超越して、問題となることは何もないのです。
◆絶対的な中心となり得る人格基準
その絶対的中心となり得る人格の基準は、人間の個体だけを中心としては到達することができません。それゆえ、神様や絶対者を追求するのです。人間は相対的な立場で絶対者であられる神様と一つにならなくては、主体的な立場に入っていくことができません。ところが、一つになるには外的な面より内的な面で一つにならなければならないのです。
私たちの心は、絶対的な最高の基準を求めていきます。それゆえ、神様がいらっしゃるならば、その神様を中心として一つになることを願うのです。ところが、神様は外的分野で一つになることを願うのではなく、内的基準の最高の価値とつながることができる立場で一つになることを願うのです。
親が子供と一つになろうとするときにも、生活で一つになろうというのではなく、心の世界、すなわち愛の世界で一つになろうとするのです。同様に、人が絶対者と一つになりたいと願うのは、中心的立場に立ちたいからです。
原理によれば、主体の中には内性と外形があり、性相と形状があり、上下関係があります。すべての根本の主体者が統一の理念と一つの目的観を提示するためには、その主体の中に上下関係がなければならず、前後関係がなければならないという結論が出てきます。
人間をはじめとするすべての存在は、主体を中心として相対的な立場で、方向を変えていきながら三六〇度で作用しています。では、永遠の幸福を得ることができるその立場はどこですか。主体的な基準の上で主体と一体的な内容をもった、絶対圏内の立場です。その立場はすべてを統率して主管する立場です。そのような立場に立つようになるとき、初めて幸福の要件が生まれるのです。
人は万物の中心となり、その万物を主管することができる立場で自分が動機となって、万物が相対的要件を備えるようになるとき、幸福を感じます。それゆえ、人間は宇宙の中心である絶対者と内外の関係、上下の関係を総動員した絶対的な基準の前で、中心の立場を決定づけなければなりません。そうでなくては、最高の幸福を感じることができないのです。
では、そのような関係をどのように結ばなければなりませんか。親子の関係の愛を中心として結ばなければなりません。愛を中心とした親子の関係は縦的な関係であり、夫婦の関係は横的な関係です。それで韓国では、「妻より息子をより信じる」という言葉があります。これは上下関係を重視したものです。
人間が根本的に追求するのは、絶対者のところに入り、その場で主体と一体なろうとすることです。そのような場に入っていけば、上下関係が形成されます。ここで相対関係が形成されれば、横的にプラス・マイナス、すなわち主体と対象の相対的関係が生じます。これが正に、私たち人間における夫婦の愛というものです。
私たち人間に一番重要な問題があるならば、それは「絶対者と一つになるべきだ」ということです。「絶対」と「相対」という名詞を追求していくにおいて、人間は相対的基準を超えて絶対者と一つになるべきだというのです。
そうして上下関係の立場まで入り、すべての存在の起源の絶対者と一つになり、絶対的な内容をもたなければなりません。そのように絶対者と一つになる立場に立つようになるときには、その幸福が自分の幸福になることができ、そのすべての関係と因縁が自分のものとして結ばれるのです。人間は本来、そのような立場で出発するようになっていました。
◆和動の中心体である人間が絶対者と一つになれば
人間は和動の中心体です。ところが、和動するためには絶対的な中心基準が決定されていなければなりません。ちょうどいろいろな人が拍子を合わせようとするなら、指揮者を中心として上下関係がよくつながらなければならないのと同じです。
この宇宙の和動の中心体である人間は、絶対的基準と一致した立場にあるので、その人間がとどまる所に宇宙がとどまるのであり、存在世界が彼を中心として作用するのです。そして、その作用によって存在世界に力が生まれるのです。
神様が今まで嘆いた内容とは何でしょうか。神様は霊的で心のような存在です。そのような神様は、体のような存在と一つになることを願われます。この体のような存在が正に人間です。したがって、人間は心のような存在の神様と一つにならなければなりません。ところが、一つになれずにいます。これが正に、神様が今まで嘆いていらっしゃる理由なのです。
人間が神様と一つになる場合には、宇宙は自動的に一つになるのです。神様によって造られた宇宙は、人間を主体としてその対象の立場に立っているために、人間が神様と一つとなれば、万有の存在物も神様と人間と関係を結ぶことができるのです。ここでの関係は、お互いに反発的な立場ではなく、相対的な立場として授け受けすることができる関係です。その関係の範囲は超宇宙的です。
このように絶対者を中心とした相対的関係は、絶対圏内にまでつながっているので、その圏内を抜け出した存在はあり得ません。したがって絶対者と万物をつなげ得る存在、すなわち人間が絶対者と一つになれば、宇宙は自然に統一されるのです。
歴史時代に人間が願う人格的な中心体が決定されていたなら、必ず和動の世界になっていたはずです。原理でいうように、完全な中心は完全な相対を創造します。存在しているものすべては、相対的な要因を脱しては存在できないので、存在するには必ず主体と対象があるようになっています。言い換えれば、完全な主体があれば相対があるということです。すべての存在は、神様の属性をもって宇宙の中に存在するので、創造の原則により相対的に存在するようになっているのです。
人間は六千年の歴史過程を通じて、一つの中心となった人格を追求してきました。これを探すために、数多くの先祖が苦労の道を歩んできたのです。
それゆえ、世界的な人格者ならば世界的な国民をもたなければならず、世界的な国土をもたなければなりません。このような立場で見れば、神様御自身も宇宙的な民をもたなければなりません。神様も同じです。天地を合わせたものを統一教会では「天宙」と言います。ここで主人になることができる人は天民です。そして、この天民が立つことができる基盤は天国の国土です。神様もこのような基盤を備えるべきなのです。
人間は絶対的な立場に接近して入っていかなければなりません。その次には絶対的主体を中心として相対的なものと関係を結ばなければなりません。その範囲が大きければ大きいほど絶対圏内に近づくことができる立場に立たなければならないのです。したがって、国を治めることができる立場ならば、その国を中心として絶対圏内の近くに入っていくのです。
歴史時代を超越して、国家の前に代表的な指導者になれば、国家を超えて世界的圏内に間違いなく入っていくはずです。このように、世界的な圏内に入れば入るほど、その範囲が広くなります。そのようになれば絶対圏を中心として、一つの世界圏をつくろうという欲望が生じるのです。このように見るとき、人間は絶対基準それ自体としては幸福ではあり得ません。必ず相対的要件が必要なのです。
同様に、神様も相対的な人格の基準を決定し、その人格を中心とした相対的な世界をもたなければなりません。そうでなくては幸福ではあり得ないのです。このように、神様に幸福を返すことができる人になれば、その人は歴史時代において基準になるのです。
◆人間が追求する最高の立場
今まで六千年の歴史過程で、私たち人間は神様を中心とした絶対的な目的と、絶対的な存在と、絶対的な愛を願って追求してきました。しかしながら、そのような目的と存在と愛をつなげ得る立場に立つことができませんでした。歴史的な距離が過ぎましたが、この時代にそのような存在になるには、絶対的な存在から認められなければなりません。これが問題です。今までそのような人は、イエス様一人しかいませんでした。
イエス様が「神様は私の父である」と言われたみ言以上に、絶対的存在と自分自身との関係を表した明らかな言葉はありません。そして、すべての相対的関係を称する言葉の中に「私は主体であり、あなた方は対象である。私は新郎であり、あなた方は新婦である」と言われたことよりも良い言葉は絶対にあり得ません。
したがって、このような関係が、実際にすべての人類につながるようにしなければならないのです。つなげるにおいては、物質的価値を中心としてつなげるのではありません。現在の肉的な人間を中心としてつなげるのでもありません。では、何を中心としてつなげなければなりませんか。愛を中心としてつなげなければならないのです。私たちがいくら絶対的な存在を確定し、いくら絶対的な目的を確立したとしても、そこでうれしくなければ全く無駄なのです。生きて生活することがうれしくなければなりません。生活するのは目的成就のためにするのです。その目的を成就したというとき、そこには存在それ自体以上の新しい何かがあるのです。
それは何ですか。男性なら男性、女性なら女性を中心として見るときに、彼らにとって何よりも最も貴いものは愛です。愛だけが、これとつなげ得る幸福の要因になるのです。人が目的をいくら良く立てたとしても、その目的を主管する主体的な愛の権威を立てられなくなるときには、もう一度新しい目的を追求しなければなりません。目的の限界点は、愛より上ではあり得ないのです。
では、今までの歴史時代において、「絶対者に対する確認、絶対者の愛に対する確認をした」という人がいましたか。「そのような基準を立てた」と言える人はイエス様しかいません。では、イエス様は、絶対者との関係をどのように確認しましたか。神様を父であると確定したのです。
◆イエス様の降臨の目的と彼が提示した人格観
では、イエス様が地上に来られた目的とは何ですか。善の世界を成し遂げることです。父と息子が願う新しい善の世界を成し遂げるのです。その世界は、父と息子が絶対的につながってこそ実現し得る相対的な世界です。父と息子との絶対的な絆が関係していなければ、その世界は期待することができないのです。父には息子がいなければなりません。その息子の立場がどんな立場かといえば、絶対者である神様の相対的存在として確定してくださった、神様の相対になり得る立場です。
では、父と息子が共通して要求することとは何ですか。二人が絶対的な母体となって、この母体と絶対的な関係が結ばれ、互いに通じることができる世界です。その世界以外は、すべて偽物の世界です。そのような世界と関係を結ぶには、手段と方法をもってしてはできません。お金でも駄目です。愛がなければなりません。愛を中心として組織が立たなければならず、秩序が立たなければならないのです。
人類の共同の目的のために生きる人がいれば、その人は人類愛を中心として一つになるのです。同様に、国民が祖国愛をもっているならば、愛国思想を中心として一つになるのです。国を愛する心が強ければ強いほど、国家を成すために愛国思想を中心として縦的に一つになるのです。愛国運動は一人ではできない立場であるということが分かれば、横的な因縁をつなげなければなりません。これが同志糾合ということです。
同志を糾合して独立運動をするのも、国を探してすべての国民が幸福になるためだったのです。国を求め得なかった我が民族は、かわいそうな民族です。したがって、幸福になるためには、国を愛する立場で全体が一つになって、愛する国を求めなければなりません。家庭も、幸福になるためには愛する家庭を求めなければならず、世界も、幸福になるためには愛する世界を求めなければならないのです。
このような観点から見るとき、イエス・キリストが地上に来て説いた内容とは何でしょうか。世界を一つにつなげ得る、永遠の願いの母体になることができる愛を説きました。愛のない所には希望もなく、目的もなく、幸福もあり得ないのです。
私たちは、イエス・キリストが提示した人格観、すなわち私たち人間が絶対者の代わりだということを知らなければなりません。それゆえ、絶対者の代わりとして、絶対的な愛と永遠の主体性をもたなければならないのです。いかなる苦難があっても、このような主体性をもっていかなければなりません。これがメシヤの思想です。イエス様が願われた世界は、絶対的な世界でした。それゆえ、私たちの願う世界も永遠なものでなければなりません。そのような世界を成し遂げるためには、愛さなければなりません。どのように愛さなければなりませんか。怨 讐を嫌うのではなく、怨讐までも愛さなければなりません。この愛には、すべての宇宙が入っていかざるを得ないのです。
イエス様は、歴史時代を代表して、そのように愛さなければならない立場に立った方です。それゆえ、すべての人類は、このような圏内に入っていくために一つにならなければなりません。そのためには、ある時代や中心を決定しなければなりません。ここで和動の中心体となることができる主体者が問題となるのです。
神様は万物を、神様御自身のために造ったのではありません。人間のために造ったのです。人間を存在世界の中心的な存在として造りました。それゆえ、人間には存在世界のすべての要素と性稟が入っているのです。したがって、人間が完全な中心として決定されたというときには、天地が公認するのです。このような人間は、宇宙の和動の中心体の立場に立つようになるのです。私たちはそのような圏内にまで入っていかなければなりません。そのような存在になるためには、どのように全宇宙と授け受けする自分を発見するかが問題です。
皆さんは堕落した人間として、修道の世界の人格を求めているということを知らなければなりません。このような観点から見るとき、皆さんは修道の世界で人格を決定づけ得る中心の立場に入っていかなければなりません。釈迦もこういう立場に入っていって、「天上天下唯我独尊」と言ったのです。
◆和動の中心体となるべき人間
では、相対的な被造世界は誰のために生まれたのでしょうか。それは自分のために生まれたのです。誰のためにあるのですか。私たちのためにあるのです。私たちに喜びを与えるためにあるのです。
それゆえ、人間は自ら動機になって得た結果について、幸福を感じることができる環境をつくらなければなりません。ここに、高次的な愛の理念に発展させるためのみ旨があるのです。人間は万物を愛し、万物は人間に美を返す境地に入るとき、人間は和動の中心体になるのです。
そのような立場に因縁づけられた人間は、現在の生活にその中心を置かなければなりません。では、いかなる方法を通じてその中心を探すことができますか。和動の中心体の立場を失った堕落した自分自身がその立場を探そうとするなら、どのようにしなければならないかという問題が現実的に登場するようになるのです。
では、どのようにしなければなりませんか。すべての存在物と比較して、それより大きければ主体になるのではありません。自分は主体になるべきだという自信、言い換えれば相手より優れているべきだという自信がなければならないのです。
春を迎えて園に万物が蘇生する時、花が咲いたのを見て皆さんは「ああ!
花が好きだ」と感嘆しながら、それより優れていると考えなければなりません。新しい希望に満ちた姿を見ながらも、それ以上になるべきだと考えなければなりません。また、飛んでいく鳥が歌を歌い、自然と共に和動するのを見るとき、皆さんはその鳥より優れているべきだという自信をもたなければならないのです。大海を眺める時も、広くて大きい海よりも優れており、山に一人いても、天地創造の時に神様が万物を造って喜ばれた内的な心情を、どのようにすれば自分が表現できるかを考えなければならないのです。
主体は絶対的でなければなりません。すべての宇宙が絶対的な主体と共に一つとなって和動しなければなりません。皆さんがそのような立場、すなわち万物を統合させることができる立場に入っていかなければなりません。そのような圏内に入っていこうとするなら、神様から作用するその動機が必ず介入されなければならないのです。
このような人になれば、「神様が万物を造るとき、どれほどおもしろく造ったのだろうか。神様が私のために造ってくださったのだなあ」と言いながら、宇宙に対して今まで感じたことを批判しながら、新しい感動を感じなければなりません。道端の苦菜一つを眺めながらも、神様が人間のために造ってくださったということを知らなければなりません。世界を造る時、お父様がいかなる心をもって造られたかを知らなければなりません。
神様を絶対的な中心として、神様と相対基準を造成して一致しようとすることが、人間の本然の要求であり願いなので、人間がそのような立場に入っていけば、神様が感じられた本然のすべての美と創造の喜びが充満するように感じるはずです。皆さんがこのようなことを体 恤しようとするなら、園に座って朝から夕方まで日が沈むほど思索しなければならないのです。時間がたつことも分からない圏内に陥るべきなのです。そこで息を深く吸い込めば、この宇宙の空気が生命力をもって、すっと集まるはずです。このように、宇宙の生命力と共に生きなければならないのです。
そのように生きる私自身が、息をすればすべての存在が新しく覚醒し、深く寝入れば万物が相対的に和動することでしょう。このような立場が、万有を統治することができる絶対者の立場です。皆さんはそのような関係にとどまらず、和動の中心体にならなければなりません。そうして美しい自然の形態のようでもあり、宇宙自体のようでもあり得る姿にならなければなりません。そのような境地に入っていくようになるときに、そこで初めて宇宙の和動の中心になるのです。
このように相手と主体が一つとなった立場に、万物も一つになってこそ幸福になるのです。そのようになって初めて、一つの世界を創造したことになるのです。しかしながら、人間は今までこのような世界と関係をもつことができずに、掛け離れた生活をしてきました。自分の考えだけを中心として生活しながら、それを追求してきたのです。それはむなしいものになってしまいます。
皆さんが和動の中心体となれば、鳥が飛んでいくことも、復帰摂理のために飛んでいったかのように感じられます。私たちの心中に、そのような伝導体がなければなりません。電気が通じるには、必ず伝導体がなければならないように、私たちの胸中に伝導体がなければならないのです。
私たち人間には、宇宙を中心とした和動の中心体になろうとする欲望があると同時に、自分を中心として生かそうという欲望が作用しています。それゆえ、後者を根まで抜いてしまわなければなりません。そうすれば、必ずそこに新しい何かが満たされるようになっています。あたかも低気圧が形成されれば、高気圧の勢力が低気圧側に来るのと同じです。道理がそのようになるのです。
それゆえ、自分の観念を全部抜いてしまうのです。そうすれば、抜いてしまった力に比例するその何かが現れるのです。新しいものを伝達してくれる存在が現れるというのです。
この世と神様は相反した立場にあります。それゆえ、この世的な欲望を完全に取り出さなければなりません。抜くには、ゆっくり抜いてはいけません。突然に、ぱっと抜いてしまわなければなりません。そのようなことができる人にならなければならないのです。今日、私たちには宇宙的な力が必要です。体と心が一つになり、目的があればそのような力を受けることができるのです。これを知らなければなりません。
こういう観点から見るとき、人間は和動の中心体にならなければなりません。そのためには、堕落圏内にある自分たちの、この世的な欲望や、すべての私欲を抜いてしまわなければなりません。また、人間には生理的な作用、すなわち繁殖しようとする本能的な欲望がありますが、それが自分を中心としたものとして流れています。すべての人を自分の垣根にしようとします。
では、誤った私の存在を、どのように否定しますか。自分を中心として考えることは、人を犠牲にして自分がうまくいくということです。すべての人を自分のもとに置いて、彼らの保護を受けるという考えを、どのように否定するのでしょうか。また、誤った生活圏内にあるのを、どのように否定するのでしょうか。その次の問題は、食べて、着て、使うことです。このようなことは簡単なようですが、それをどのように否定するかが問題です。
自らの生活が誤っていたとすれば、誤ったことを完全に除去しなければなりません。皆さんはそのような境地に入っていかなければなりません。そのような境地に入っていって、必ず必要な人にならなければならないのです。そのような境地に入っていけば、心臓の鼓動が汽笛の音よりより大きく聞こえるはずです。心臓の音が汽笛の音よりも大きく聞こえるほどの境地まで入っていってこそ、和動の中心体になり得るのです。それでこそ、結局主体の立場に立つことができるというのです。
◆和動の中心体となる境界線を越えるには
では、主体的な立場に立つための和動の中心体となる境界線を、どのように越えるのでしょうか。存在に対する新しい自覚と、新しい目的がなければなりません。神様を中心として人格を形成しなければならないのです。ですから、結局は心情問題なのです。
今私たちには、何よりもみ言が必要です。私たちがみ言と一つになってこそ、神様と共にすることができるというのです。このようにみ言と一つになれば、その境界線につながるはずです。これは堕落した人間としては、奇跡と同じなのです。
では神様は、天地創造を誰ゆえにされたのですか。人を対象として、中心となるために造ったのではありません。喜ぶために造りました。喜ぶためには、何がなければなりませんか。目的がなければなりません。目的がなければ喜びがないのです。目的を中心として環境をこの目的につなげなければなりません。しかしながら、この環境には守らなければならないことがあります。このことを守りながら、目的を成し遂げなければなりません。
話すことも同じです。皆さんの話す言葉は、私的な言葉ではありませんか。全部堕落圏内の私的なものではないですか。皆さんが話す言葉を神様が「嫌いだ」と言えばいいでしょうか。皆さんは、和動の中心体として話し得る言葉を話さなければなりません。絶対者がいらっしゃるならば、その絶対者が公認し得る立場で、その絶対者と関係が結ばれ得る立場で、皆さんは「どのような言葉を話そうか。初めは何の話をしようか」と、このようなことを考えてみましたか。絶対者の前に、どのような話をするのですか。
皆さんは、父母によって生まれました。ですから、生まれて最初に話すことのできる対象は誰ですか。父母です。自分が生まれて、最も先に言えた言葉は何ですか。「パパ、ママ」です。それ以上の何がありますか。自分が呼ぶパパ、ママは、昔人間が本然の立場で呼んだパパ、ママです。おもしろいことです。皆さん、パパ、ママを一千回、一万回呼んでごらんなさい。パパ、ママの味がどうであるかを知ってください。その味が無窮、無尽なのです。パパ、ママを呼ぶと、そのパパ、ママが答えませんか。呼べば答えるようになっています。なぜかといえば、主体と対象がそのようになっているからです。
完全な対象があれば、完全な主体が現れるようになっています。これが原則ならば、「パパ、ママ」と呼べば必ず答えるようになっているのです。そのようになれば、互いに喜ぶようになるのです。数えきれないほど呼んでも、返事がなければ喜びますか。神様を求めるのも同様です。子供がお父さん、お母さんと過ごすのと同じ立場で、神様と共に生きていかなければなりません。お母さんの懐でおっぱいを飲んで、ひざの上でうんちをしながら育ちますが、親はすべてを教えてくれるのです。神様との関係もそうです。
今、私たちは「お父さん」「お母さん」という言葉が真の言葉だということが分かりました。その次に真の言葉は何ですか。その次には「お兄さん」「お姉さん」です。こういう段階を過ぎたのちには、対象を見つけることができます。相対を探すことができるというのです。愛で生まれたので、愛で完成しなければなりません。神様を中心として、世界を抱いて愛さなければなりません。万物を主管しなければなりません。愛を中心とした一つの目的の世界を成し遂げなければならないのです。
境界線を越える道は一筋しかありません。父母が息子を愛する道は一筋しかないのです。時間的に六千年という歳月が流れましたが、その愛は歴史的な時間と空間を超越できるのです。
親の愛は絶対的なのです。人間だけでなく、動物も植物もすべて同じです。動物も植物も見えないその何かがあるので愛するのです。このように愛においては、人間も動物も植物も、すべて同じです。見えないそれ自体が愛です。親子間の愛、兄弟間の愛、同族に対する愛は、次元は違いますが、絶対的なことは同じです。人間はこのような愛を中心として、今まで歴史を率いてきました。
これから私たちは、堕落した世の中を捨てて、本然の世界へ越えていかなければなりません。ところが、問題は捨てることです。人間は誰でも、より好むものがあってこそ、前にあったものを捨てるようになります。より好むものをもたずに捨てる人は、愚かな人です。生命を捨てるならば、生命よりより貴いものを得なければなりません。それでこそ捨てることができるのです。
◆より貴いものを得るためには
より貴いもののために何を捨てることができますか。貴いものを得るために弟を捨て、兄を捨て、父母を捨てなければならないようなことが起こるでしょう。このようなことが起こるということをはっきりと知らなければなりません。捨てるには、より貴いものをもって捨てるべきなのです。では、兄よりもっと愛することができるものをどのようにもち、弟や母よりもっと愛することができる基台をどのように準備すべきかということが問題です。
今まで堕落した人間は、そのような基台をもつことができず、より劣ったものを取ってきました。それゆえ皆さんは、愛を中心として全体のためになり得る、より完全な世界のために、誤った環境をけ飛ばしていかなければなりません。その道が遅くても、命を懸けて行かなければなりません。神様と共に愛の世界へ進まなければならないのです。
より貴いものを得るために捨てなければなりません。自らのすべてを捨てなければなりません。イエス様は、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ一六・二四)と言いました。自分の十字架を背負うには、自分を否定しなければなりません。ここで否定するという話は、盲目的に否定しろということではありません。
世の中を捨てたなら、その国を捨てたなら、それよりも偉大な何かを発見しなければなりません。家庭を捨てたなら、それ以上の貴いものを発見しなければなりません。命を懸けてすべてを捨てたなら、それ以上に価値あるものを発見しなければならないのです。そのような内容を発見すれば、後悔なく行かなければなりません。堂々と行かなければなりません。
貴い価値を発見した境地に入って、これから進んでいくならば、あすの主体になるのです。しかし、皆さんはまだ主体の立場に立つことができないので、み旨に絶対服従して主体になる道を行かなければなりません。
このような道を歩み出した人々が、イエス様を信じるキリスト教信者たちでした。では、サタンが今まで何をしましたか。このような道を歩んでいく人々に、主体になれないように反対しました。サタンである自分を主体にしようとしました。「この世に生まれて、ただ他の人々のように食べて寝て、そのように暮らせばいいのであって、どれほど生きようとしてそうするのか。せいぜい七十、八十年の短い人生なのに、何でそうするのか。神様を見たのか。この世でただ暮らすことが一番だ」というふうに反対してきたのです。
◆私たちが備えるべき人格
現在の立場を捨てて、もっと悪いほうに行けば、それが悪です。しかし、神様を中心としてもっと良いほうに行けば、善です。捨てることは同じですが、どこへ行くかが問題です。それゆえ、神様を中心として捨てるべきです。そうして人格体になるのです。そのような基台が皆さんに立てられるのです。
では、皆さんは統一教会に入って、統一教会の願う人格を備えましたか。み言を通じて人格を備えましたか。では、統一教会の願う人格者になるためにはどのようにしなければなりませんか。今までもってきた人格観を捨てるべきなのです。それゆえに三大審判があるのです。終わりの日には、三大審判を通過しなくては天国に入れません。自分の行動や、自分のすべてを何で否定することができますか。神様の愛でしなければなりません。神様の心情が分かれば、否定することができます。神様の心情が分かることによって、境界線を越えることができるのです。
これから皆さんは、和動の中心体の立場に立たなければなりませんが、何によってそのような立場に立ったことを感じることができるのでしょうか。皆さんが「今は信仰世界においてある程度上がってきている。今はいい加減に暮らしても地獄に行かない。今はある基準を越えた。境界線を越えた」という事実を、どのように感じることができるのでしょうか。
天を見て神様をたたえる詩を書くことができ、川の水を見ても神様をたたえる文を書くことができなければなりません。花を見ながらも、その花に恋人のように接し、神様をたたえる文学作品を書くことができる境地に入らなければなりません。そのような境地に入れば、すぐに分かります。しかし、この世的なただそのままの心をもっては、そうできないのです。絶対にできません。
皆さんは、神様と共にみ言を授け受けすることができ、神様の心情に接しなければなりません。神様の心情に接すれば接するほど、第二の絶対的な中心になるのです。そのようになれば、神様を中心とした家庭の土台の上に立つようになるのです。そのような立場に立った人が、一番良いのです。
そのような立場に立った人を見れば、なぜか知らないけれど美しく見えます。皆さんもそのようなことを感じたでしょう。なぜなら、本性の絆がその人に投入されているからです。その人の横の姿や前の姿を本性の絆を通じて見たからです。内的世界で実在的な要因を中心として、自分が主体の立場に立っているか、あるいは、その人が相対的な立場に立っているからです。そのような内容をもったので、本心の作用を通じて美しく見える感じがするのです。
◆来られる主は人間世界の和動の中心
では、今後来られる主はどうなのでしょうか。本心の作用を通じて見ると、すべての人がみな好まなければなりませんが、堕落世界にいるために問題になるでしょう。人の中には歴史的に人間を代表することができる歴史的な存在もあり、その時代を代表する時代的な存在もあるのです。歴史的な聖人を見れば、孔子もいるし、イエス様もいるし、釈迦もいるのです。しかしながら、皆さんは孔子よりも優れており、イエス様よりも優れており、釈迦よりも優れているという心をもたなければなりません。そのような心がわき出なければならないのです。
神様の絶対的な圏内に接近すれば接近するほど良くなっています。なぜ良いかというと、絶対的な価値の立場に立つようになるからです。それは金鉱を探して一獲千金をねらう人が、岩山で金脈を発見して喜ぶのと同じです。それゆえ、神様に近づけばうれしいのであり、遠ざかれば悲しいのです。
皆さんは神様と近い立場で歴史的な結実、時代的な結実を結ばなければなりません。そのようになれば、過去に生まれて死んだ善なる人々が喜ぶようになるはずです。今日この地にいる良心的な人も喜ぶはずです。そのような人ならば、サタン世界の自分の父親よりも優れており、兄よりも優れるようになるのです。結局はそのようになるのです。
すべてを与えることができなければなりません。受けずに与えるべきです。そのようにすれば、後悔がないでしょう。それは一年を過ぎても後悔するものではありません。十年を過ぎても後悔するものではありません。一生をそのように生きるならば、永遠に保障され得る自分になります。このような人格をもって来られる方が主です。言い換えれば、その方は人間世界の和動の中心体なのです。
皆さんは、すべての人々に好かれる人にならなければなりません。そのような基準を備えなければなりません。すべての人々に好かれる、愛の主体性を備えなければならないのです。最初は、み言の主体性を備えなければなりません。その次は、人格の主体性を備えなければならず、最後に心情の主体性を備えなければなりません。このようなことが統一教会のみ言を中心として成されるならば、何よりも価値あるそのみ言を絶対視すべきでしょう。
◆絶対的な愛を中心として一つになれ
では、皆さんは夫婦間でお互いに絶対視しましたか。み言により絆が結ばれたので、夫婦はお互いに絶対視しなければなりません。お互いの心情を中心として一つになれば、神様の願いが皆さんの個体を通じて成されるのです。皆さんはアダムとエバが立てられなかった基準を立てて、神様の愛を中心として互いに絶対視し、絶対的に愛さなければなりません。このような愛を中心として一つになり、和動の中心体にならなければなりません。
夫婦間で目の前の山を見つめながらも、あの山ができたのは誰のためかを尋ね、すべての宇宙を思いながらも、この宇宙が生まれたのは誰のためかを尋ねるのです。そうすれば、私のためであると同時にあなたのゆえに生まれたものだ、と答えるのです。夫婦とは正にこういうものです。この宇宙が生まれた目的を成就させること、主体的な目的を重要視することが、夫婦が一つになる道です。夫婦は心を中心として、人格を中心として、愛を中心として話すのです。
夫婦は同じ道を行くのです。田舎のお嬢さんでも、長官と結婚すればどのようになりますか。同じ道を行くのです。その田舎の女性が学校もまともに出られなかったとしても、すべての人が長官の奥様と言いながら頭を下げるのです。このように夫婦は一緒に行くのです。夫婦に、「あなたの愛」が別にあって、「私の愛」が別にありますか。「あなたの愛」でもあり「私の愛」でもあるのです。夫婦がお互いに、あなたが私をどれほど愛するのかと尋ねるとき、これくらい愛するなら気分がいいですか。「一番たくさん愛する」と言えば気分がいいのです。
真の愛を中心として、互いに勧告してくれて、慰労してくれることができる絶対的な人格、絶対的な心情、絶対的な愛がどこから展開するかといえば、家庭です。家庭の夫婦を中心として展開するのです。この夫婦が子供を生んで四位基台を成さなければなりません。家庭が絶対的な人格と心情と愛で一つになるならば、神様を中心とした四位基台が成されるのです。
そのようになれば、その家庭はすべての和動の中心体になります。万民を代表し、全家庭を代表した和動の中心体であり、氏族の和動の中心体であり、数多くの民族の和動の中心体であり、数多くの国家の和動の中心体になるのです。このように、国家基準まで復帰されれば、世界は自動的に統一されるのです。
◆平和の天国が成されるには
私たち統一教会員は、心情一致、理念一致、生活一致を成し遂げなければなりません。そのような立場で、絶対性を備えなければならないのです。そうして世界へ進まなければなりません。世界のために行くなら国家が必要です。国家と結合する前に、何が必要ですか。民族が必要です。また、民族が必要である前に氏族が必要です。氏族が必要である前に家庭が必要です。では、家庭が必要である前に何が必要ですか。個人が必要です。
結局は、私個人が問題です。個人が問題なのです。家庭を抱くことができる私、氏族を抱くことができる私、民族、国家、世界を抱くことができる私にならなければなりません。そのような私にならなくては、世界と関係がないのです。絶対的な圏内にある世界と関係のない私個人になるのです。
それで、統一教会では絶対的な人格観を模索し、絶対的な価値観を人類に提示しようとするのです。それゆえ、神様の救いの摂理が統一教会を中心として成されるならば、この宇宙の統一は自動的にできるのです。それが原則です。神様を中心とした国家と世界を成し遂げようとするなら、家庭よりも国家、国家よりも世界のためにならなければなりません。
それゆえ、世界を生かすためにこの国を祭物としなければなりません。この国を生かすためには、統一教会が祭物にならなければならないのです。新しい国家を成し遂げるために、自分を否定して光明の世界へ越えていかなければなりません。そのような世界へ突進しなければならないのです。そのような世界へ突進するにおいて、先頭に立つことなくして、それ以上の権限をもつことができないのです。
先生が今まで作戦を繰り広げてきたのには目的があります。和動の中心体になるために、この仕事をしているのです。個人的に克服していかなければならず、家庭的に克服していかなければならず、氏族的に克服していかなければならず、国家的に克服していくことが統一教会の行くべき道です。私たちは縦的な中心国家として決定されるまで、その使命を果たさなければならないのです。それを生涯の使命と思って、行かなければなりません。
今日私たち統一教会は、絶対的な立場に立たなければなりません。そのようになれば、私たちの家庭も絶対的な立場に立つようになり、先生も絶対的な立場に立つようになるのです。また、国も絶対的な立場に立つようになります。このような絶対的な縦的関係が、横的につながらなければなりません。縦的な人が国家に現れれば、その立場が国家を代表した立場になり、氏族に現れれば、その立場がすべての氏族を代表した立場になり、家庭に現れれば、その立場が数多くの家庭を代表した立場になるのです。このように一つの中心が現れてこそ、平和の天国が実現できるのです。
どのようにすれば、和動の中心体になりますか。現実のすべてを否定したあと、神様を中心として新しく、再び肯定しなければなりません。そうして、誤った現実を収拾していかなければならないのです。そのようにしていかなくては、統一教会が行こうとする道を進むことができないということを知らなければなりません。
37. 祝 福
一九七〇年三月二十二日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十巻』
この地上に生きている数多くの人々はみな、自分が幸福になることを願っています。先祖から何らかの遺業を相続するようになるのを願う人も多く、あるいは親から遺産を相続するようになるのを願う人も多いのです。
しかし、父母から相続を受けるためには、兄弟の中で誰よりも情がいって、「お前に私のすべてを相続してあげよう」と親が言える息子、娘にならなければなりません。すなわち、父母に認められ得る期間を経なければ、相続を受けることもできず、祝福を受ける場に行くこともできないのです。
◆「祝福」の起源とその成立条件
そもそも「祝福」というみ言は、統一教会から始まったものではありません。このみ言は、今まで神様が復帰摂理をしてこられながら、心の内で実践されるのを願われたことなのです。神様がエデンの園でアダム・エバを創造され、彼らを祝福して、それが成就するのを願われたのです。しかし、その祝福を今まで誰も実現できませんでした。このように、神様は悲しい立場で、祝福が実現されることを希望の中の希望として待ち焦がれながら、今日までの歴史過程を経てこられたのです。
このような四千年の歴史過程をたどったのちに、神様は元から与えたかった祝福を最後に決行するために、イエス様をこの地上に送られたのです。神様は、そういう摂理歴史を進められましたが、イエス様もやはりその祝福の位置まで行くことができずに、亡くなられたのです。それ以降にも、数千年のキリスト教の歴史過程で多くのキリスト教徒が殉教の血を流しながら闘ってきましたが、今までその神様の願いをかなえることができませんでした。
したがって、この「祝福」というみ言は、創世から堕落以降の今日まで、歴史過程を通して神様の心の中に一つの望みとして、いつも願ってこられたものなのです。その望みの一日を探すために、神様は今まで受難の道を歩んでこられましたが、いまだにこの日を探し出すことができません。それゆえ、この一日を探し出したなら、この日は歴史的な解怨が成される日であり、神様の長い間の望みが成就する日になるのです。
人類は堕落して、神様を中心とした直系の血縁関係をもつことができませんでした。それゆえ、神様と新しい因縁を結び、本来の立場に戻ってこそ、祝福の位置に行くことができます。ところが私たちは、堕落した死亡の世界で生まれたがゆえに、神様を中心とした生命の世界へ戻るためには、復活しなければならないのです。
しかし、ここで誕生したことだけで終わるのではなく、私たちが成長する過程を経なければなりません。それを経るためには、諸般の蕩減条件を立てていかなければなりません。諸般の蕩減条件を立てていくにおいて、個人的な使命だけではなく、国家的な使命と世界的な使命も共に責任を負っていかなければなりません。このような責任を中心として、どのようにしてきたかによって、祝福という問題が左右されるのです。
ところが、ある一人の存在が祝福の場に臨むためには、必ず先に備えるべきものがあります。祝福は個人のためではなく、その個人が、氏族、民族、国家、世界の代わりとなる新しい家庭を成し遂げるようにするためのものです。その家庭は、自分だけの家庭ではありません。民族と国家に代わり、さらには世界を代表し得る家庭です。このような家庭を成し遂げるのでなければ、祝福を成立させることはできません。
◆「祝福」の位置とその意味
人類先祖アダム・エバは、個人としては二人ですが、彼らは歴史的な始発点に立っているので、その二人だけで終わるのではありません。その二人を通して、新しい家庭が顕現するのです。さらには、新しい氏族、民族、国家が顕現するのです。このような世界的な基盤が決定する立場が、正に祝福の位置です。
そのような祝福の位置をアダム・エバが堕落することによってなくしてしまったので、私たちはこれを再び復帰すべき立場に立っています。祝福は、私たち個人の祝福と考えてはなりません。「祝福の基盤である民族と国家の基準を越えることができる立場で祝福を受けるべきだ」と心に誓わなければなりません。それでこそ、復帰摂理を完結することができるのです。
それゆえ祝福の場に行く人は、自分がどれほど厳重な立場に立っているのかということを知らなければなりません。その位置は、過去から今日までつづられてきた歴史過程でのすべての悲しみを清算し得る位置であり、また今まで成就できなかった神様の願いが新しく出発できる位置であり、新しい未来を出発する契機とし得る一起点なのです。
今までの六千年歴史は、一人の男性を探すための歴史でした。アダム家庭から今日まで、数多くの預言者や烈士が犠牲の代価を払いながら探してきたのは、一人のアダムである男性でした。その男性を探したのちには、その男性による一人の女性を探さなければなりません。神様はアダムをまず創造なさったのちに、そのアダムを通してエバを創造されたのです。それと同様に、彼らはまずアダムを探すための歴史的な責任を果たすために、今まで神様を中心として闘ってきたのです。
そのアダムを探せば、その日からエバを再創造していかなければなりません。再創造するのは、道理にかなっている環境でするのではありません。国家なら国家、世界なら世界を前に置いて、再創造したという勝利的な決定点を完全に解決しておかなければ、祝福を成し遂げることはできないのです。
アダム以降に失敗したすべてを蕩減するために、一人の男性として生まれた方がイエス様であられます。しかし、イエス様もみ旨を成し遂げるにおいては、一人ではできないのです。いくらイエス様がイスラエル民族に対する摂理のすべての内容を相続したとしても、イエス様一人では国家を形成することはできません。イエス様が国家を形成するためには、まず新しい家庭を編成しなければならないのです。
新しい家庭を成し遂げるには、地上にいる数多くの女性を代表し得る一人の女性を探さなければなりません。国家的、世界的に、全体の中から数多くの女性を代表し得る一人の女性を探さなければならないのです。その一人の女性をサタン世界から探し出そうとすれば、歴史過程で数多くのサタンが反旗を翻して反対したことを取り去る闘いをしなければなりません。すなわち、四千年間サタンに侵犯されたすべてを完全に越えられる勝利的条件をサタンに提示しなくては、失ったエバを取り戻すことができないのです。それで歴史的な女性になるためには、歴史的に失敗して追い込まれた内容を清算しなければなりません。また時代的なエバになるためには、時代的なすべての女性を代表して、天の前に忠孝の道理をすべて成した一つの基準を立てなければなりません。そして、一人の女性として、一人の男性に対して烈女の心情をもっていくべきです。
そういう一人の女性が現れなければ、今日まで歴史過程を通して願われてきた、復帰された一人の実体であるエバを探すことはできないのです。歴史上のすべての女性を代表し得る、一人の実体を立てることはできないのです。
しかし、一人の女性を探すために背後の環境をつくるということは、そんなに簡単な問題ではありません。その場には、世界史的な内容が入っているのです。その一人の女性を探せば、その一人の女性によって新しい民族が形成されるのであり、新しい世界が形成されるのです。
◆祝福行事の意義
エデンの園で、エバを堕落させた天使長の立場に立ったこの世界でエバを探し出すには、天使長の代わりに、エバの行く道を協助してあげられる一人の男性格の存在がいなければなりません。
私たち統一教会では、一九六〇年代に「祝福」というみ言が出てきましたが、このようなみ言と生活を私たちに提示するようになったのは、一九六〇年代にだけ該当するものではありません。歴史過程を通して、摂理が広がるあちらこちらに、あるいはそのたびごとに、神様の願う最高の望みは、「祝福」という一つの基点を準備することなのです。
それで祝福の基点の上に現れた中心存在は、その時代という制限された環境にだけ置かれている存在ではなく、世界史的な内容をもった中心人物です。それゆえ祝福は、夫婦の因縁をもつことだけで終わるのではなく、その祝福によって、新しい家庭が形成されなければならず、新しい氏族、新しい民族、新しい国家が形成されなければなりません。
こういう観点から見るときに、一九六〇年代から新しい歴史時代に入ったというのです。新しい歴史時代に入ることによって、新しい氏族がここに顕現するのであり、新しい国家、新しい世界の形成がここに繰り広げられるのです。今まで、このような基点を中心として統一教会では、数回にわたり祝福行事を挙行したのです。
この祝福は、受けることだけで終わるのではありません。このような行事を経て、民族と世界、復帰摂理の路程の前に、一つの勝利の盾、勝利の基点を広めてきたのです。祝福とは、このように途方もないことなのです。
私たちはそういう事実を、内的な心情で体恤しなければなりません。神様の前に、そういう男性と女性がいくらたくさんいたとしても、その数が問題ではありません。ここには必ず一人の男性と女性、ただ二人だけいるというのです。それゆえ、その二人が転換期を迎えて、新しい出発をするには、神様が探して立てた再創造の実体の姿を具備して登場しなければならないのです。
そうして、天地を中心とした新しい世界が展開されなければなりません。個人なら個人が「私はこういう息子、娘になります。この息子、娘が行く道は、あなたが願われる国のために行く道です。国だけではなく、あなたが今まで追求してこられた世界のために行く道です」と言うことができなければなりません。
行く途中には困難がたくさんあるでしょうし、困窮の曲折もたくさんあるでしょう。しかし、そのようなことが問題ではありません。何としてもこのすべてを突破して、国家を超えて世界へ行くことのできる夫婦にならなければならないのです。
◆祝福の因縁を結ぶための位置
一人の男性、一人の女性として、一生を同伴して暮らすのが祝福を受けるための基台ではありません。その位置は、新しい世界を形成するための運命を担っていかなければならない、決定的な因縁を結んで入る位置です。
この道は行きたいからと自分勝手に行ったり、行きたくなければ行かなくてもよいというような、そのような道ではありません。必然的に行かなければならない、私たちの運命の道です。この道は、私たちにとってただ一回しか与えられない、二度とない道です。もしここで誤った場合には、再び「復帰」という名詞を探して立てることのできない、最後の道になるのです。
アダム・エバの堕落は神様を中心としたものではなく、サタンを中心としてなされたのです。本来、愛は神様によってなされるべきであったのに、アダム・エバの堕落によって、その愛がサタンによってなされた結果となりました。しかし、愛を中心としてはいつも神側が初めとなり、結果になるべきなので、神様は今まで愛を標準として復帰歴史をしてこられたのです。
個人が愛の勝利をもたらすには、神様と一つとなり得る自分にならなければなりません。家庭ならば、夫と妻が完全に一つとならなければなりません。家庭の起源となる夫婦が、完全に一つとならなければなりません。完全に一つとなって、堕落したアダム・エバに対する神様の悲しい心を消してしまい、神様の心にしみた怨恨の心情を解怨しなければなりません。そうすることができる夫婦にならなければなりません。
神様が天地創造においてアダム・エバを造られたとき、まず万物を造っておいて、その万物の中心であるアダム・エバを栄光の実体として造りました。そして、彼らが歓喜に満ちた勝利を確かめることができる、祝福の一日が来ることを願われました。しかし、アダム・エバが堕落することによってそのみ旨を成し遂げられなかったので、今日私たちは、私たち一代でその望みの一日を完結することができるようにしなければなりません。その勝利の栄光をより高めるために、私たち自らが全天地の前に褒めたたえてさしあげなければならないのです。
この祝福を見つめながらイエス様が死んだように、復帰摂理の途上に生まれて逝った数多くの人々の望みも祝福でした。それゆえ、霊界に行っている数多くの霊人も、必ずこの祝福の因縁が結ばれることを願っているのです。
聖書を見れば「義の冠」、「愛の冠」という言葉がありますが、その冠は何を表象しているのでしょうか。それは、神様の前に祝福の相手と共に、神様が許される国の民になることです。そのような特権を神様から与えられるのが、冠という象徴になっているのです。
今日統一教会でなされるこのような祝福は、平面的に制限された環境の立場にだけ及ぶのではありません。過ぎた歴史の過程を通して、現在を通して、未来を通して、あるいは霊界の数多くの霊人が必然的に追求して、渇望してきた望みの基点がここで成されていくのです。
◆私たちがもつべき道理
そのような面から見るとき、神様がアダムの代わりに、あるいはイエス様の代わりに召される立場に自分が立っているか、新しく来られる主に代わり得る立場に私が立っていると認めることができるか、ということが問題になるのです。それゆえ、皆さんは過去から現在に至るまで、自らの生活を批判してみなければなりません。
私たちの中にも、自分なりに考える人が多くいます。「教会で常礼としてするのが祝福だ。私自身もこのような条件が成立しているから、そして教会に入って何年たったから、それに該当し得る資格者になっただろう」と考えるでしょうが、そのように考えてはならないのです。
この日は、神様が六千年間も願われた一日なのです。この一日を迎えることによって、失った息子を捜すようになるのであり、失った娘を捜すようになるのです。これらを通して神様の愛を連結することのできる一致点がつくられるのであり、ここから神様がみ旨を繰り広げることのできる横的な根拠地がつくられるのです。このように、神様の内心に一致することのできる心をもち、祝福の一日を迎えるために準備する息子、娘が今までいなかったのです。
私たちの姿を見れば、顔には耳、目、口、鼻がすべて備わっていて、体には四肢五体が備わっています。これらすべてのものが合わさって神様の前に現れるようになるとき、神様は私たちのどの部分を愛されますか。神様は、ある一部分だけを中心として愛されるのではありません。すべてを愛することのできる息子、娘になることを願われるのです。神様が願われる基準は、五十点ではありません。神様は六十点、七十点でもない、百点以上を願うのです。
その百点以上の基準は、アダム・エバが堕落した基準ではありません。神様の前に、すべてを蕩減復帰してさしあげる基準の立場なのです。言い換えれば、エデンの園で堕落する前のアダム・エバ以上の価値を追求する父の心だというのです。
もし、このような条件を成立させることができなければ、今日までの神様の威信は地に落ちるようになるのです。神様は、サタンがアダム・エバを侵犯して、その栄光の一日を蹂躙したことを凌駕する立場で、新しい祝福を受けられる夫婦をもたなければなりません。サタンが神様の息子、娘の所に訪ねていって、再び取ることのできる立場に立てば、神様は威信を探して立てることができなくなるのです。
それゆえ私たちは、何らかの自分の事情をもってを受けようとしてはなりません。祝福の位置は、天と談判した結果に立つ立場、神様が認めざるを得ない立場から出発しなければなりません。これが堕落した人間として取るべき態度です。そうできない時には、敗北者としてその場に残るようになるのです。その場で一度間違うようになれば、億千万年の子孫が引っ掛かって入っていくようになるのであり、先祖まで引っ掛かって入っていくようになるのです。
では、イエス様はこの地上に来られ、何ゆえに失敗したのでしょうか。イエス様が来られて三十余年間、御自身が語るべきみ言をすべて語ることができずに失敗したのではありません。また、公生涯路程で弟子たちと、あるいは親戚たちとしなければならないことができなくて失敗したのでもありません。失敗のきっかけは、ただイエス様が祝福の場に行くことができなかったためなのです。
十字架を背負われた直接的なきっかけも、イスラエル民族が裏切り、ユダヤ教徒が反対したからというよりは、ヨセフ家庭でそういう祝福の一日をもつことができなかったところにあります。そのような一日をもっていたなら、イエス様は十字架上で亡くならなかったはずです。
今まで人類が苦痛の中で呻吟している原因は、堕落して祝福の場に立てなかった先祖をもったからです。その悲運の歴史があったがゆえに、今まで長らく子孫たちは呻吟しているのです。この世の人類が、天の前に一様に願うのは、正に祝福の一日です。これはあとにも先にもない歴史的な事実です。
◆祝福家庭の責任
人は誰でも祝福を受けなければなりません。そして、祝福を受けた夫婦は、祝福を受けたその日から果たすべき責任があります。その責任は、夫婦が合わさって家庭を成して暮らすのではなく、二人を合わせて民族と国家を形成しなければならないのです。
祝福を受けた人が十人ならば、十人の家庭を合わせて新しい世界観をもち、一つの新しい氏族を編成しなければなりません。新しい国家を形成するには、まず新しい氏族を編成しなければならないのです。その氏族は、分裂した氏族ではなく、一つに統一された氏族でなければなりません。
祝福を受けた十人の目的は、互いに同じでなければなりません。これらの家庭は、サタン世界で探し立てた少数の家庭なので、いつもサタン世界の攻勢を受け得る立場にあります。それゆえ、いつも一つになって団結し、その環境を圧倒し、入ってくる外部の力を凌駕できる自体内の結束をしなければなりません。その力を凌駕するには、自体内の完全な統一が成されなければなりません。
このように一つになった姿となるならば、いくら外的にはサタンの侵犯を受けても、十分に勝ち抜くことができるのです。このように結集された実体を備えるところから、サタン世界の侵犯を受けない新しい氏族が形成されるのです。そういう団結された氏族を通して民族が形成され、その団結された民族を通して新しい国家が形成されるはずです。
もし私たちが、この地上で祝福を受けた家庭として行くべき道を行くことができなかったときには、霊界に行って生きることができません。皆さんは、祝福を受けた夫婦として天上に行って幸福に暮らすようになると思っていますが、そのようになってはいません。祝福を通して私たちは、万世の存在世界で栄光の実体の中心にならなければなりません。それが創造本来の姿勢です。
世界には数多くの国があります。サタン世界でこのような国家がサタンの陣営になっているので、天に代わってこれらをすべて勝利の決定圏内に探し立てなければなりません。それで神様の前に、栄光と称揚を捧げることができる立場に立たなければなりません。
私たちが、このような本然の位置に立つことができない立場で霊界に行けば、自分が安息できる場所を得ることはできません。それゆえ自分の夫、あるいは妻だけでなく子供たちまでも率いて、世界を復帰するために協助できるようにしなければなりません。そのような立場に立った家庭が正に祝福家庭です。
私たちが知るべきことは、霊界と肉界は全く違うということです。心で考えられる世界をそのまま具体化させた世の中が霊界です。み旨に対して忠誠を尽くすと心の底に大切にしまっておくだけでなく、必ず相対的な実体を同伴しなければなりません。それで心と体が一つとなり、必ず地上で良い結果をもたらさなければならないのです。
私たちが地上で備えるべきことをみな備えられず、サタンに心を奪われた立場で霊界に行くようになれば、実体の行動をどのように展開することができますか。この地上で責任を果たせないときには、自分の子孫を代わりに立てなければなりません。自分を救うことができるメシヤのような立場にその子孫を立てて、彼らを助け、彼らの事情を見ながら協助してあげなければなりません。彼らをして、自分が生きている時にできなかった責任分野を成し遂げることができるように協助しなければなりません。これが再臨復活の現象です。
もし私たちが、霊界に行って再臨復活しなければならない立場に置かれるならば、そのような立場は幸福であるはずがありません。自らの責任を全うしない人は、責任を全うした栄光の座に行くことができません。霊界は無限な功績の世界であるがゆえに、自らの責任を遂行することができなければ、責任を遂行するために数千、数万年の時間が延長され得るのです。したがって、今日私たちが生きているこの時が、どれほど貴重かを知らなければなりません。
◆祝福家庭が抱くべき望みと信念
イエス様が探し立てようとする一人の相対、言い換えれば、祝福の対象者はイエス様御自身にだけ属した人ではなく、世界に代わり得る人です。彼は世界に代わり得る中心存在なので、その中心の立場を世界から任命されるまでこの道を行かなければなりません。それで誰でも、祝福家庭を成したとしてもこの道を行かなければならないのです。
祝福家庭は、すべての願いを国家と世界のための家庭という信念に置かなければなりません。国家と世界を形成し得る、神様の代わりの者であるという責任感をもち、また、そのような心をもって一切の行動をそこに結束させなければなりません。
私たちが制限された環境で仕事をしたとしても、誰の命令を受けて仕事をするかが重要です。神様の命令を受け、あるいは世界と国家の召命を受けて仕事をしているという信念をもたなければなりません。世界に代わる仕事、国家に代わる仕事を制限された環境でしているのです。個人を中心とした仕事も同じです。それは命令を受けた背後が違うことによって、その仕事の結果も違ってきます。
世界を代表して仕事をすることも、私一個人がする仕事もとりわけ差がないようですが、世界の命令を受けてから仕事をするというときは、世界に結束されるのです。同様に、国家の命令を受けて仕事をするというとき、環境は制約されても、これは国家の前に寄与するのです。
したがって、今日の個人の生活、あるいは祝福家庭の生活は、自分たち夫婦のためにだけ生きるという観念を超越しなさいというのです。そうでなければ、この地上に蕩減条件を立てて、世界を復帰するのに、功臣という基準を残すことができないのです。私たちがそのような基準を残すことができないならば、霊界に行って自分の行く道を管理できません。もし、そのような立場で霊界に行った人がいるならば、その人に対しては厳格に処理するしかありません。
それゆえ、私たちが祝福を受けて行かなければならないその道は、自分たち夫婦のためだけの道ではないのです。夫婦のために生きる前に氏族のために生きることによって、夫婦として安息できる立場が繰り広げられるのです。氏族は国家のためになるべきであり、国家は世界のためになってこそ、安息できる場がつくられるのです。
このような観点から、祝福というものは個人のためのものではないというのです。私たち各自は「祝福は全体を代表することだ」という信念さえもてばいいのです。そのような立場で、互いが一つになって家庭を形成するようになるとき、初めてその家庭は、世界へ向かうことができる家庭になるのです。そのような祝福家庭が一家庭しかないときは、その一家庭がその責任を絶対的に負わなければなりません。
そのように進んでいく過程で一家庭一家庭が残っていくようになれば、そのような信念のもとで歩んでいる家庭が多ければ多いほど、復帰歴史は進展するのです。しかし、同じ道を歩む家庭がいくら多くても、互いに頼ってばかりではいけません。各自が自らの自主性をもちなさいというのです。そのような家庭が国家のための家庭であり、世界のための家庭です。そのような自覚のもとで歩む家庭ならば、その家庭で生まれた子孫たちも国家のために、世界のために生きる人になるはずです。
そのようになれば、歴史的な夫と妻になり、子孫は神様の復帰摂理の途上で世界を復帰し得る、必要な氏族になるはずです。そのような氏族的な因縁を備えることのできる夫婦になるならば、彼らは新しい時代の先祖の立場につくはずです。こういう途方もない責任と使命を与えられる因縁を決定するために出席する席が、祝福の席なのです。
◆祝福家庭が行くべき道
祝福を受けるにおいて、常習的な観念でその過程を経る者になってはいけません。その過程を経ただけでは、いけないというのです。祝福につづられた事情や因縁が、どれほどあきれ返るほどにもつれているのかを知らなければなりません。それを知るようになれば、世界が左右されるのです。その一つの目的に向けて、方向を合わせていくようになれば、世界がその方向に向いてくるのです。
祝福を受けた夫婦は、自分たちの思うとおりに生きることはできません。一つの公約のために、あるいはその国の公約のために生きなければなりません。自分の相対の優劣が問題ではなく、行くべき目的性が問題なのです。
それゆえ、自分を愛する前にまず国家を愛し、世界を愛さなければなりません。これが祝福を受けた家庭として行くべき道です。夫も妻もすべて同じです。夫や妻に自分を愛する代わりに国を愛し、世界を愛し、天を愛しなさいと言うことができなければなりません。
もしアダム・エバが堕落しなければ、彼らが愛する愛は天地に代わった愛となるのであり、世界に代わる愛、国家に代わる愛、民族に代わる愛となるのです。ところが、すべてが堕落によって始まったのです。
祝福家庭は本来、人間始祖が堕落して神様に対してできなかった愛を探さなければならない運命にあり、世界と国に対して愛することができなかったことを探すべき運命にあります。このためには国家を越え、世界を越え、天を愛さなければなりません。
それゆえ私たちは、天を愛したという公認を受けて世界を愛さなければならず、世界を愛したという公認を受けて国家を愛さなければならず、国を愛したという公認を受けて氏族を愛さなければならず、氏族を愛したという公認を受けて家庭を愛さなければなりません。このように、家庭まで愛したという公認を天の前に認められたのちに初めて、夫婦間で愛さなければなりません。
自分の家庭より氏族をより愛さなければならず、国をより愛さなければならず、世界をより愛さなければなりません。その次に、自らの親戚と祝福を受けた同僚を愛さなければならないのです。このようにして互いに連結された一つの家庭があるならば、その家庭はいくら多くの人々の中にあるといっても、見れば目立つのです。男性と女性が一つになって結合したその家庭では、国家を愛する形、世界を愛する形、天を愛する形が現れるのです。
それゆえ、祝福家庭は今まで世の中の夫婦たちが慣習的に使ってきた「自分だけを愛してほしい」というような言葉を使ってはなりません。妻である人は、そういう夫にならないように精誠を尽くさなければならず、夫である人もそういう妻にならないように精誠を尽くさなければなりません。お互いが力と力を合わせて助けてあげ、導いてあげなければなりません。その道を行くにおいて心を痛めないように、互いが勇気を与え、互いが導くとともに、導きを受けなければならない責任を負っているのが夫婦であり、家庭であるというのです。
祝福を受けた家庭は、祝福を受けたその日から、各自二重的な十字架を背負っていかなければなりません。男性は自らの世界だけでなく、女性の世界までも責任を負うべきであり、女性もまた自らの世界だけでなく、男性の世界までも責任を負うべきです。このように二人が責任を負っていく道において、サタンが讒訴できる内容を残してはなりません。これが祝福を受けた人々の責任です。
◆祝福家庭の生活
そのように行くことができる私自身になっているかという問題、そのようにできる内容を私自身が備えているかという問題について、ここに「蕩減条件」という言葉が出てきたのです。
蕩減条件を立てるには、まず信仰の三子女が絶対に必要です。アダムとエバが堕落することによって、その八人家族が堕落したために、その八人家族を代表できる基準を越えなければ行くことができないのです。それを備えずに「民族のためだ、国家のためだ、世界のためだ」という言葉は、単なる形式にすぎないのです。このような出発起点で初めて、「この基準は絶対的だ」と言えるのです。その絶対的な基準を解決していかなければならない運命の道にあるのが、祝福の立場です。
ここに数多くの家庭の中で中心になれる家庭があるならば、その家庭は、多くの家庭の中で天が最も愛する家庭になるはずです。反面、互いがみ旨を忘却して自分たちだけで愛しながら生きるならば、天の前に恥を感じなければなりません。
み旨を前にして、自分たちだけで因縁を結び、自分たちだけの幸福を探して家庭を切り盛りする立場に立てば、発展しません。したがって、家庭に良いことがあれば、それは国と共に、世界と共に、天と共に関係を結ばなければならないのです。その家庭の喜びは国の誇りであり、世界の誇りであり、天の誇りでなければなりません。
私たちが息子、娘を生むようになれば、そのような立派な息子、娘として、神様の前に捧げられなければなりません。私自身は、たとえそのような立場に行くことができなくとも、私が天を慰労し得る立場を成してさしあげる日が必ず来るはずだという信仰をもち、精誠を尽くすようになるとき、その息子、娘たちが世界と国の前に必要な存在として現れるようになるのです。しかし、自分たちを中心として、自らの幸福を模索する家庭は、天のみ旨を利用しようということにしかなりません。
私たちは、相対を求めるところにおいて熾烈な戦闘をしなければなりません。私が彼を引っ張っていくか、彼が私を引っ張っていくかして、いずれにせよ二人の中から一人でもまず行かなければなりません。その二人のうち一人は前に行き、一人はついていく立場に立ってこそ、必ずこの道を行くことができるのです。
では、ここで誰が主体になり、誰が相対になりますか。信仰生活において、主体になる人が自分の妻ならば、たとえ妻だとしても仕えていかなければなりません。妻の前に絶対服従しなければならないのです。男性だとしても、大声を張り上げてはいけません。
女性も同じです。男性が主体になって責任を負っているときには、男性に対して外的な問題をもってあれこれ言ってはいけないのです。問題は、み旨に対してどれほど忠誠を尽くすことができるかということです。互いにみ旨が自らの生命の中心になれるかどうか、それが問題だというのです。
それゆえ、個人が願う相対的基準ではないといって落胆してはいけません。彼がみ旨を思う心が自分より秀でていれば、「彼を通して世界を探していこう」と言わなければなりません。そのようなことができる男性、そのようなことができる女性を探して立ち上がらなければなりません。外的な形態を備えた学士や博士より、純真で純朴な農村出身者と暮らすほうが、より幸福になることもあるのです。自分を前面に押し出して大声で騒ぐ人よりも、黙々と引かれる所に行き、どのような場所においても永遠にその場を守ることができるそのような人が、天の前により必要なのです。
◆祝福は二度あり得ない
私たちがみ旨を前にして歩んでいくにおいて、自分が欲張れば、逆に行くのです。そこには自らの欲を介入することはできません。もし祝福を受けてから、互いに自らの利益のために欲張って生きる夫婦がいれば、その夫婦はアダム・エバが堕落した姿を再現することになるのです。堕落とは、欲で始まったのです。
祝福は、あくまでも神様を中心として愛の因縁を結んでいかなければなりません。「私はこういう人がいい」と言って、自分だけを前面に押し出す人には、絶対に天が同調しないはずです。自分たち同士が気に入った人は、絶対に祝福をしてくれません。祝福を受けるためには、信仰の正規の過程をたどらなければなりません。
本来愛は天から始まるべきなのに、人間が堕落することによって、サタンから始まりました。堕落はサタンから、エバから、横的に始まったのです。私たちは、その横的な子孫です。
それゆえ、私たちは祝福家庭として現在の立場にとどまるのではなく、発展しなければなりません。国家の運勢を抱え、世界の運勢を抱えて生まれ得る子孫を生まなければなりません。結婚とは、新しい民族、新しい国家を形成するために、そのようなことができる人材を模索しようとすることです。今まで人々は、「自分のために結婚する」と言いましたが、私たち統一教会の結婚は、民族のために、世界のためにあります。
民族は二つではあり得ません。私たちは民族のための夫婦であるがゆえに、結婚は一度しかできないのです。私たちは世界のために、神様のための夫婦であるがゆえに、結婚は一度しかできないのです。
◆精誠の重要性
そのために、私たちが結婚して暮らしている生活がどんなに貧しく困難でも、世の中で最も悲惨な生活をしていても落胆してはならないというのです。悲惨に生活するけれども、自らの家庭が、歴史路程にあった数多くの家庭を救う救い主の家庭になることができるのです。
いくら難しい立場で、不幸に暮らしているとしても、それを嘆いてはなりません。その場が世の中のすべての人々を蕩減復帰させるために、または、霊界にいる霊人や今後生まれてくる後世の子孫の代わりに道しるべになって、行くべき道を開いてあげる主体者となる立場であると考えなさいというのです。そういう救い主の立場に立つために、私が今生きていると考えなければなりません。
統一教会で祝福を受けた夫婦は、自分の妻が死に、あるいは夫が先に死んだとしても、嘆いてはなりません。自分勝手に再婚してもいけません。勝手に再婚すれば霊界で引っ掛かるのです。これは必ず天の前に報告して、天が指導するとおりに行かなければならないのです。
そのようにならないとすれば、結果がどのようになるでしょうか。地上では現れません。しかし、霊界に行ってみなさい。その人は間違いなく、サタンよりもっと悪なる立場に立つようになるのです。
この問題に基づいて、歴史が六千年間ひっくり返ってきたのです。このように祝福の立場は、ものすごい立場です。適当に自らの感情を通してできることではないのです。一人の生命の価値は、宇宙よりも貴いのです。その一人については、永遠を基準として責任を負わなければなりません。こういう問題が左右される立場が、祝福の立場です。自らの一生でそういう一時をもったならば、その人は幸福な人です。このような途方もない祝福の場に加担するためには、歴史的な決心をしなければなりません。
私たちの今現在の立場は、氏族を中心として、国家と世界につながっているそのような立場に立っています。こういう立場で世界人類に代わり、民族に代わり、氏族に代わって祭司長の責任を果たすという宣誓をしなければなりません。私たちの家庭は、歴史時代において、天を中心として残ることのできる家庭であり、世界の前に必要であった家庭であり、神様の愛の世界において必要であった家庭であるという、絶対的な内容を残すという決意のもとで祝福を受けなければなりません。
神様が探してこられたその家庭の基準は、私たち自らの家庭にだけ限定されるのではありません。神様が探し立てた家庭は、世界へ行くことができるのです。国家を代表し、世界を代表し、天を代表し得る家庭をつくるために探してきた歩みが祝福の歩みであるがゆえに、天の父母の家庭を通して祝福を受けなければなりません。その祝福を受けたのちに、精誠を尽くす家庭として正常な道を行くとき、その息子、娘は大運をもって生まれるはずです。
その父と母がどのように愚かであるとしても、彼らの子女は天の運勢をもって生まれるのです。ですから、天の運勢をもって生まれることのできる後孫は、父母が精誠を尽くす基準によって、その内容が決定されるのです。国のために、世界のために、天のためにどれだけその心が切実だったかによって、どれだけ誠を尽くしたかによって、今後生まれる後孫の運命が左右されるというのです。
自らの欲をもって動いてみたところで、天は彼に同調するのではなく、離れるのです。自分個人の欲望を充足させるための愛をもって出てくるようになるときは、神様はそこにいらっしゃいません。必ず世界と国家と民族のための立場にいるときに、共にいらっしゃるのです。それでより広くて高い愛を探し立てなければならないのが、祝福家庭の道なのです。
祝福を受けるにおいて「私はあの人と受ければいいなあ」と、このように胸中に自らの相手として結んでくれるのを希望する人がいるなら、その人は神様を冒する人です。エデンの園でアダムとエバが堕落する時と同じです。アダムとエバが長成期完成級で堕落する時に、互いが自らの相対であることをはっきりと知らなかったのです。知らない立場でサタンの誘惑によって、知らず知らずにそのような結果をもたらしたのです。
祝福の相対の決定は天がなさるのです。父母がなさるのです。すなわち、アダムの父である神様がなさることです。このようなことを見るとき、韓国の伝統的婚礼法は、天法に合っている結婚方法です。父母の承諾なしには、絶対に結婚ができないのです。
それゆえ、息子、娘は自分に好きな人が心にあれば、すぐ父母に報告しなさいというのです。その人が好きだという言葉が口から出てくる前に、まず父母の公認を受けなければなりません。二人が付き合ってもよいと父母が認めてくれれば、それでいいのです。報告して恋愛をするのは、罪にならないのです。しかし、報告しないでそうすることは、認めることができません。
私たちの世界は、堕落した結果の世界です。人間始祖アダムとエバが、青少年の時に何らの許諾なく愛の種を蒔いたことが、今日の青少年から収められているのです。大豆を植えれば、大豆を収め、小豆を植えれば小豆を収めるように、人間始祖がそのように堕落したので、そのように収め得る時代が、今世界的に迫っているというのです。
◆一生一代で最も貴いものは祝福
祝福は、自分一代でも永遠においても、一度しかあり得ない最も貴い場です。その最も貴い場で、最も貴い方と共に決定して越えていかなければなりません。天がここに降り立たなければならないのです。そうして、天と共に決定する最も貴い実体にならなければなりません。
こういう貴い実体を自分勝手に決定していくのは原則ではありません。これを間違ったがゆえに、堕落の恨が今までしみついているのです。これを蕩減していかなければならない私たちの立場で、どのようにこの貴い位置を探していくかということが問題なのです。
それで、統一教会では恋愛をしてはなりません。愛は天から始まり、天で終わらなければならないのです。では、これから世界を中心として祝福の機会がある場合には、どのようになるでしょうか。私たちに祝福を相続してくれるのです。その父が所有しているものを息子に譲れば、それは息子に移るのです。
その所有権は同じです。そこに収穫されたすべての結実を相続した人が管理をするように、それを相続した人が、どんなに年齢が足らず自分より若くても、その人の管理のもとで調整されなければならないのです。ここでは、優秀であるか愚かであるかは問題になりません。
これから先生が、これを引き継ぎするようになる際に、その相続を受けた人がどんな障害者であるとしても、その人の前に行って祝福を受けなければなりません。そのような時が、間もなく来るはずです。こういうことを悟り、この祝福の位置が私たち自身の一代において、ただ一度しかあり得ない、最も貴い因縁を決定する立場であるということを知らなければなりません。
先生が「この人は君と天によって定められた似合いの配偶者だ」とぴたっと決定してあげれば、それは間違いないのです。先生は、相手を選んであげるために、夜もろくに睡眠をとりません。他人の生命問題、霊魂の問題に責任を負った立場では、これが簡単な問題ではないというのです。
よく見れば、生まれつき星回りの悪い人がいます。顔を見れば、何度も嫁に行かなければならないタイプがいるのです。そのような人は、未亡人になるタイプです。目を見ても、唇を見ても、鼻筋を見ても、間違いなくそのようになっているのです。そのような人は、それ以上の男性に会うようにしてあげなければなりません。
そのような女性が自分の新郎に会えば、初めは「怨讐のようだ」と言うのです。うまく出発すればそれが壊れていくので、怨讐から出発すればあとでぴったり合うのです。そのようなことを先生は知っています。祝福に対しては、とにかく先生と相談をしなければならないのです。
また、先生が祝福をするとき、女性の中に障害者がいました。そうかといって、その女性の容姿は悪くもないのです。背後の因縁や天性をよくもって生まれた女性なのに、父母の過ちによってそのようになった女性です。ところが男性たちは、その女性と祝福してあげようとすれば、みんな「嫌だ」と言うのです。事実、どこに障害者を「好きだ」と言う人がいますか。
ところが、ある一人の男性をよく見ると、目にすっと入ってきて、容姿に欠点がたくさんありました。その欠点を補充できる女性が、正にその女性だというのです。それで先生が説得に立ちました。「君、この女性は見かけはこうだが、良い女性だ。暮らしてみて嫌な所が見えれば、その時は目を閉じればいいではないか。けれどもこの女性は本当に美人だ。そして、自分が結婚するのは、何のためか。正に後世のために結婚するのではないか。そのような立場で結婚すれば、これが統一教会の歴史に永く残ることではないだろうか。先生の一生で忘れることができないことではないだろうか」と言いながら、ずっと話をしてあげました。そして「君がその女性と結婚して娘を生むようになれば、美人を生むであろうし、息子を生むようになれば、将軍を生むだろう」と言いながら、相手を選んであげました。
そして何年か過ぎたのち、先生が地方巡回に行ったときに、その夫婦が参加していました。ところが、先生を見るや否やその人は、先生の前に飛び出してきたのです。その間、どうなったか気になっていたところで会ったので、その赤ん坊を見ようと行ってみると、案の定、本当に美人の娘を生みました。
◆祝福と理想相対
見かけが良いのは、サタン世界で看板を掛けて宣伝するのと同じです。そのように宣伝している家に入っていって物を買えば、ぼられるのです。宣伝をよくする所へ探しに入っていけば、大多数がぼられるというのです。本物は宣伝をしません。それゆえ、祝福を受けるために来るとき、新しい服を着て、顔はきれいにお化粧をして、のさばるような女性は相手にするなというのです。かえって素朴で、一皮むいてみれば、また一皮あるそのような女性に、何かがあるというのです。
美男、美女だけで一緒に暮らすようになれば、その家庭は耐え抜くことができないのです。そのような人は、反対にしてあげなければなりません。天地の道理がそうです。背の高い人は、背の低い人と結んであげるべきであって、背が高い人同士で結んであげれば、彼らが暮らすのにつまらないというのです。
そのように思って、顔が平たい人は顔の平たい人をもらおうとせずに、面長の人をもらうように考えなさいというのです。また、鼻がラッパのような人は、わし鼻の人と結んであげなければなりません。目が半分だけ開いたような人ならば、大きい目をもった人と結んであげなければならないというのです。
そのために、先生が祝福してあげるのはこれから長生きをし、自分の子孫のためなのだと考えて、自分の姿がどうだということは考えてはなりません。「私自身はこのように生まれたので、こういう男性をもらってこそ、私の子孫にこういう子供が出てくるはずだ」と考えなさいというのです。
ですから、相対が気に入らないからといって心配してはなりません。先生は今まで多くの人たちを指導してきました。今まで祝福をしてあげた人の息子、娘を見れば、大体その父母よりも良いというのです。それは、私が結合をうまくしてあげたという話になるのです。
韓国で、相性を上手に見ることで有名な李なにがしという人がいました。その人が、私たちの原理を知ってから、先生をとても尊敬するようになりました。その人が言うには、自らの専業がそれなので、先生が祝福をするにおいて、自分は手伝わなければならないというのです。それで先生が「私は必要ない」と言いながら「いったいあなたは、一日に何組ぐらいできるのか」と尋ねると、「一組するには、少なくとも一週間はかかる」と言うのです。そのような方法では、私には通じないというのです。
その人が、「それで先生は、一日に何組までなさいますか」と尋ねるので、「一日に普通は、七十組をしなければならない」と言いました。先生がその人に「今あなたがしているやり方と統一教会でしているやり方と、一度対決してみよう」と言いながら、先生の資料をぐいっと抜いて見せてあげました。そうしたところ、その人はここで感服して、「さすが先生でいらっしゃいます!」と言うのです。「どうすれば、そのようなことができるのでしょうか」と言うのです。
例えば、ある女性はいざとなったら急死する運命の女性なので、天下にその女性と合う男性を選ぼうとしても選べないのに、どうして相手の男性をうまく合わせてあげられたかというのです。このように先生には、何かがあるのです。見ればすぐに、何か知らずに感じることがあるのです。
結婚というのは、むやみにするものではありません。道端で通りすがりに会った人同士でするのではありません。自分たち同士が親しくなったといって結婚すれば、結婚してすぐさま異変が起きてくることもあるのです。互いが合っていないからです。
松は松同士で接ぎ木をしなければなりません。互いに合う型があるのです。ですから、自分たちなりの立場で通過しようという場には絶対に立ってはなりません。祝福というのは、前に話したとおり、国のために、世界のためにするのです。また、それがすなわち後世のためになるのです。
38. 公的統治の法度
一九七〇年六月四日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十一巻』
今まで、歴史を経て世界的に記念する日の中には、ある国家の特定の事件を中心として記念する日はありませんが、クリスマスのように特定の人を中心として記念する日はあるということを私たちは知っています。
しかし、いまだ全世界が一つになって記念することができる真の日は出てきていないというのです。クリスマスもキリスト教徒に限って記念する日であって、全世界が一つになって記念する日ではないのです。しかも世界だけでなく、天と一体化して記念することができる日は今までなかったというのです。
◆もしアダムとエバが堕落しなかったならば
人類歴史に堕落圏が生じたあと、人類はその堕落圏の限界線を越えるときまでは、神様を中心とした希望の一日として立てられる時をもつことができませんでした。本当の意味で神様に代わって、人類に代わって、歴史に代わって、現時代に代わって記念できる日をもつことができないということ自体が、恨めしく悲しいことだということを知らなければなりません。
もしアダムとエバが堕落しなかったならば、アダムとエバが生まれたその日は、世界史的な記念日となったでしょうし、あるいは天宙が記念することができる日になったことでしょう。アダムとエバが生まれた日でなくても、彼らが成婚式を挙げた日や亡くなった日などは、時代を経て人類歴史が続く限り、世界の万民が仰ぎ祝う日になったのです。それにもかかわらず、こういう日を考える人が今まで一人もいなかったという事実を見るとき、これは言うに言えない悲しい出来事であるということを知らなければならないのです。
アダムが生まれた日と成婚した日、そして亡くなった日を記念する世界的な統一圏が形成されていたなら、そういう日を記念する人類は一兄弟となり、一つの民となったことでしょう。言い換えれば、一つの世界に生きる人間になれたというのです。そのようになっていたなら、アダムが生活したすべての風習は人類歴史に継承されたでしょうし、そのように形成された文化は永遠に継承されたはずです。
しかし今日この世界を横的に眺めるとき、どの国にも特定の文化の背景があります。多くの国家は、互いに異なる歴史と伝統をもっているのです。これは悲惨な事実です。もともと一つの父母から繁殖し、一つの目的を中心として互いに通じ合う一つの生活圏を成した種族、一つの子女の因縁を尊重して、一つの父母の因縁を尊重視する一つの種族圏が形成されていたなら、その種族圏の文化はアダムから形成されたことが根となって継承されたのです。
アダムが生活した風習、すなわち言語や礼節など、すべてがそのまま継承されて、この世界の言語と文化は一元化されたのです。それにもかかわらず、様々に現れた理由とは何かといえば、争いが起きたからなのです。言い換えれば、アダム家庭でカインとアベルの間に殺戮戦が起きたためです。それで、その時から分かれるようになったということを皆さんは知らなければなりません。
このような歴史の伝統を受け継いだ人類は時代を経ながら、どんなに同じ兄弟同士でも、大げんかをしたのちには、彼が好むことは、私は無条件に嫌いだという立場に分かれてきたのです。このようにして、人類の文化は様々な系統に分かれて形成されてきたという事実を知らなければなりません。お兄さんが「御飯」と言えば、弟は「御飯」と言わなかったというのです。御飯に対するたびに、兄との良くない出来事が思い出されるので、自分なりに御飯を他の言葉で表現したのです。また、それで生活も別にしたのです。結局こういう敵対感情によって、文化が分裂してきたのです。
このように、すべての人類が一つの民族となることができず、様々な民族に分かれるようになった根本原因はどこにあるのでしょうか。もちろん、バベルの塔を積んでそのようになったという聖書のみ言がありますが、お互いが自分を主とした目的を第一視することにより、分裂が起きたということを私たちは考えざるを得ないのです。それですべての人類が残すことができて、すべての人類がもつことができる本来の文化圏、本来の生活圏をもつことができなかったのです。これは堕落による報いです。
◆一つの世界を求めてこられた神様
神様は、歴史過程を通して蕩減復帰された世界、すなわち一つの世界を追求してこられました。すべてを融和させて一つの文化圏、一つの生活圏、一つの主義と思想圏を成し、一つの世界を模索してこられました。そのために、歴史過程で多くの犠牲の代価を払ったということを私たちは知らなければなりません。
分かれたものを再び合わせようとすれば、分かれる前に入れればいい力以上の力を入れなければならないということを皆さんは知らなければなりません。一つの家を建てる時にも、まず土台をよく築かなければならないのです。家の土台をろくに築かないで家を建てれば、むしろ新しい土地を整備して家を建てるよりも二倍以上の苦労をしなければならないのです。これと同様に、一度失敗し誤ったことを収拾しようとすれば、言うに言えない加重された犠牲の代価を払わなければならないということを皆さんは知らなければなりません。
それでは、この犠牲の代価を誰が払わなければならないのでしょうか。この犠牲の代価は、悪の側が払うのではありません。今日のように分かれた環境を開拓して、一つの世界へと収拾すべき責任を担った主人が払わなければならないのです。その主人は誰かといえば、神様です。したがって神様は、地上で数多くの犠牲の代価を払ってこざるを得なかったのです。天の側の人を中心として、天の側の万物を中心として、分かれた文化とこの世界を収拾するために、多くの犠牲の代価を支払ってこられたのです。
このような立場で見るとき、どの民族がその代価を最も多く払ったかということが問題となります。最も多くの代価を払った民族が、今後新しい世界の主導権を握ることができる民族に決定されるのです。言い換えれば、新しい歴史時代を開拓するために、最も多くの代価を払った民族が、どの民族かということが問題だというのです。ここには民族が代価を支払うと同時に、その民族がもっている物質も代価として支払わなければならないのです。代価を支払うときには、必ず人と物質が共に投入されなければならないということを皆さんは知らなければなりません。
では、その代価を支払う方法とはどのようなものでしょうか。今までキリスト教は祭物の形式で代価を支払ってきました。それより先にユダヤ教を中心としたイスラエル民族は、祭物の形態を備えて、その祭物と人が一つとなって代価を支払ったのです。
このように見る時、どの民族が一つの世界的な目的のために、共通的な生活圏を標準として現れたかということが問題になるのです。もし実際にそのような道を歩んできた民族があれば、その民族の文化が新しい歴史時代の文化となり、新しい世界の生活の起源となるということは言うまでもないのです。
ですから、今日の民主主義文化は、結局キリスト教文化だということを私たちは知っています。これが今日全世界を支配しているために、英国と米国を中心としたキリスト教文化を世界の万民が行くべき望みの世界の基盤として認識し、その文化を受け入れるためにあくせくしていることは、神様の摂理による必然的な帰結だと見ざるを得ないのです。
今日世界を収拾しようとすれば、何を中心として収拾しなければならないでしょうか。キリスト教を中心として収拾しなければなりませんが、現在のキリスト教自体は、より高次的な立場で現時代を収拾できる能力を失ってしまいました。これが問題なのです。ですから今日、キリスト教自体も新しい復活の形態を備えなければならず、またこの世界も新しい復活の形態を備えなければなりません。そうでなくては一つの世界へと越えることができません。
◆み旨が指向する道
一つの世界へと越えていくためには、一つの特定の民族を新しく形成しなければなりません。そうして新しく形成された一つの特定の民族を中心として、伝統的なキリスト教思想を受け継いで、新しい文化圏を形成しなければならないのです。そのように形成された文化圏が、今後世界人類が共に立てなければならない文化圏だというのです。このような問題がこの時代に残っているのです。
ですから、キリスト教思想を相続して、一つの世界と単一文化圏形成のために責任をもっていくことができる特定の民族がなければならないというのです。そういう特定の民族があるためには、特定の団体がなければならず、特定の団体があるためには特定の人がいなければなりません。
このように特定の人によって特定の団体を成し、その団体によって特定の氏族を成し、その氏族によって特定の民族を成し、その民族によって特定の国家が形成されなければならないのです。すなわち、特定の民族を中心として特定の国家を形成してこそ、世界の文化圏を主導することができるの
です。
今日このような民族と国家の形成を掲げて出てきたのが、私たち統一教会です。ですから、大韓民国の民に選民思想を植えることが、私たちのみ旨が指向する道だということを皆さんは知らなければなりません。
そういう世界における生活観、人生観、世界観、宇宙観は神様を中心とした生活観、人生観、宇宙観とならなければなりません。神様と人間と万物が一つとなったそのような特定の圏、人類が願う国家と人類が願う世界へ進むことができる特定の圏を成せば、その圏を成した国家は間違いなく二十世紀以後の世界を支配することができる主体的な文化国家となることでしょう。これは原理的な観点から見るとき、当然の結論なのです。
今日この世界には数多くの国家があります。ところがその国家は永遠に固定されたり、分離されるべき国ではありません。ここには特定の国が善の立場で優位圏をもって、下位圏にある国を吸収しなければならないのです。歴史的に見れば、戦争という方式を通してそのようなことが成されてきましたが、その戦争に勝利するのは常に善の側でした。それゆえ『荀子』にも「善をなす者は、天これに報ゆるに福をもってし、不善をなす者は、天これに報ゆるに 禍 をもってす」とあるのです。すなわち、善の側は必ず恵みを受けて悪の側は必ず災いを被るということです。
今まで人類は数多くの戦争を起こしてきましたが、そのすべての戦争の解決の原則とは何だったでしょうか。少しでもより善の側が勝ったのです。なぜ善の側が勝ったのでしょうか。悪の側より善の側に人がたくさん集まるからです。肩入れする人が多ければ多いほど容易に勝つのです。
◆善悪の決定基準
皆さんの家庭や隣を見ると、あるいは同じ兄弟を見ても、その兄弟の中には善の兄弟がおり、そうでない兄弟がいます。では、「善」とは、どういうことを言うのでしょうか。言い換えれば、どのような人を「良い人だ」と言うかといえば、自分を犠牲にして公的な仕事のために努める人です。そのような人は自分の兄弟もみな善良だと称賛します。村でもどのような人が人格者かといえば、自分を主とした人生観をもった人でなく、村を主とした人生観をもった人です。
もしそういう人格者がある人から侵入されれば、すべての人がその侵犯者にかじりついてぶん殴るのです。私たち人間の心がそうだというのです。天国はこのような心をもった人たちで成された国です。したがって、天国の人たちは一つの心をもつので、一人の心が全体を代表することができるのです。このような国を合わせたのが天の世界であるので、天の世界も一人の心が全体の心を代表するのです。
一つの家の中で、兄弟がお互いに意見が違って争うというとき、父母はどちらの肩をもつでしょうか。先に手を出し、自分の欲望のために争う息子の肩入れをする父母はどこにもいません。それで今日までの歴史過程で、教育と人倫道徳の標準は「善良であれ」ということだったのです。
では、善悪をどのように決定するのでしょうか。皆さんは、これをはっきりと知らなければなりません。善はより公的な立場にあるのであり、悪は私的な立場にあるのです。忠臣や烈女も、すべてこの基準により決定されるのです。より大きいことのために生きれば生きるほど、一層善良になるのです。悪は個人を第一とすることです。善はより大きいことを求めていくことなので、家庭を第一にしていかなければならないのです。
ですから、皆さんは男性ならば男性として結婚をして家庭を求めなければならないのです。このように個人が家庭を探したのちには、氏族を探さなければならず、民族を探さなければならず、国家を探さなければならず、世界を探さなければならないのです。
大きいことのために行けば行くほど善の側へ行くようになり、小さなことのために行けば行くほど悪の側へ行くようになるのです。個人のために家庭を利用する者は、家庭から追い出されます。同様に自分個人のために村を利用する者は、村から追い出されるようになり、自分のために民族を利用する者は、民族の反逆者となって追い出されるのです。国を売り飛ばせば逆賊になるのであり、世界を売り飛ばせば天地の前に許されない天地の強盗になるのです。このような点で皆さんは善が何であり、悪が何であるかをはっきりと知らなければなりません。
それでは、どのような人が偉大な人でしょうか。より大きい善の立場に立った人です。その人は何のために生きる人なのでしょうか。善のために生きる人です。家庭のために生きる人は、その家庭では偉大な人でしよう。しかし、すべての人が家庭だけを中心としていくならば、何が偉大ですか。自分の家庭だけを中心として生きれば、みな同様です。世界のすべての人の中に、自分の家庭のために生きないという人がいますか。ここには偉大なものはありません。
ここで一段階上がって氏族のために生きる人がいるならば、彼は氏族圏では偉大な人なのです。そうでしょう。金氏ならば金氏一族のために生きる人は、家庭だけのために生きる人よりはましな人だというのです。
民族は様々な氏族が合わさってできたものです。ところが民族を愛するという人に「あなたは本当に民族を愛するのか」と言うときの、その「本当」は二つでなく、ただ一つでなければなりません。本当の愛は一つだというのです。本当の愛は一つであるので、民族を本当に愛するならば、すべてを愛さなければなりません。半分は自分の家庭を愛して、その残り半分で民族を愛するならば、それが本当の愛ですか。それは愛だといっても本当の愛ではありません。完全な愛ではないというのです。ですから、国を愛する愛国者、忠臣は自分の家庭を打っても行く人なのです。そうしてもそれは悪にならないのです。
それがなぜ悪にならないのでしょうか。善のために公的な仕事をするとお互いに争いながら人が犠牲となるようなことがあるならば、これを治める法が世の中にありますか。善の道を行くにおいて、お互いが犠牲になると争いながら人が犠牲となるようなことがあるならば、それを治める法がありますか。善を行おうと自分がもっている財産を全部売って人に与えたというとき、それを治めることができる法がありますか。世の中にはこのようなことを治める法がありません。
それでは、このようなことを治めることができる法とは、どのような法なのでしょうか。それは人間の法ではなく、天法なのです。皆さんは天法の統治を受けたいですか、人間がつくった法による統治を受けたいですか。言うまでもなく皆さんは、天法の統治を受けたいと願うのです。
◆公的法度の主管圏内にある万物
世界を統一して世界をすべて手に入れようという主義が、正に天法主義です。ですから、一つの国の国民をして死の道を先に行くといって、一時に走っていくようにする主義、こういう運動が現れるようにする真理は永遠な真理となるのです。良いものは私がもって、悪いものは人に与えたとすればそれは悪い行動なのです。
万物は公的な法度の統治を受けるのです。公的な法度の主管圏内にいるというのです。人も公的な法度圏内に属しているのであり、万物も公的な法度圏に属しているのです。国家も公的な法度圏内でだけ存続できるのです。ここに私的な内容が割り込むときは、存続することができないのです。悪なる国、悪なる世界を動かそうという立場で立てられた国は滅びます。世界を自分の国のものにしようとする国は必ず滅びるのです。このような原則によって見れば、共産主義は滅びるようになっていることを知ることができます。
アメリカが今日二十世紀の文明国家として先端を歩んでいるのは、その国の国民性がキリスト教の博愛思想を土台としているためです。アメリカの人々に対してみれば、そうだということを知ることができます。
アメリカが今世界の生計を立てていますが、彼らの女性団体や男性団体を見れば、みなアジアと連結しており、また未開発の国と連結して活動しています。すなわち、世界とつながりを結ぶために精誠を込めた立場に立っているというのです。
このように、彼らは人より先に精誠を込めたので、世界で主体的な立場に立つようになったのです。アメリカは外国人に物質的な援助や育英事業など奉仕的なことをするために、世界のどんな国よりも先立つことができるのです。アメリカのように善なる行いをする国は、公的な管理権をもつために世界の文化圏を支配できるのであり、世界の物質を支配することができるのです。これは道理にかなうことです。
それでは、世界で一番怖い主義は、何の主義でしょうか。一番怖い主義は、私的主義ではなく公的主義です。また、世界で一番怖い人はどのような人かといえば、私的主義者ではなく公的主義者です。個人より公的なものは家庭であり、家庭より公的なものは氏族であり、氏族より公的なものは民族です。ひいては、民族より公的なものは国家であり、国家より公的なものは世界です。世界よりもより公的なものは天地です。天地のために公的なみ旨を敬ってきたことは残るのです。
それでは、宗教はいかなる立場に立ってきたのでしょうか。公的な世界を標 榜して、一時を待ちながら犠牲になる立場に立ってきました。ですから、宗教が世界の文化圏を形成してきたし、一つの世界を形成する主流として貢献してきたということは、間違いない歴史の内容だというのです。
そして宗教は、私的な立場でなく公的な立場で望みを追求してきたので、歴史が滅び、あるいはその時代が滅び、国家が滅びて、すべての思潮が変わっても、宗教だけは数千年の歴史過程に綿々と続いてきているのです。
商売をする人にとっては公的な商売をするのか、それとも私的な商売をするのかが問題です。商売にも公的な商売があります。国家には商売に対する法があります。商売人がある物をおいて一千万ウォンで売るというとき、買う人が「良い」と言って喜んで買えば、一千万ウォンの取り引きが成立するのです。どのように契約をしようが、それは当事者たちの自由です。
しかし商取り引きにも商法があり、商道があるのです。そこから外れれば国家から制裁を受けて良心の呵責を受けるのです。ここにはいろいろな国家と共に決定した、世界的に通じる基準があるのです。その基準から抜け出さない立場で商売をしてこそ、公的な商売となるのです。
◆十一条の意味と万物管理の方法
キリスト教の十一条を見ると、そこには実に怖い内容があることを知るようになります。十一条を出さなければならないという聖書の一節もあります。十の中から一つを神様に捧げなさいということです。「神様に見えるのか。十一条とは何か」と言う人もいるでしょうが、十一条は、一つだけ行って十まで行くということです。
もし皆さんの両親の誕生日祝いや還暦祝いを迎えて、お祝いをするために牛もほふり、豚もほふって、ある物ない物みな作って捧げるというとき、その方々はそれを全部食べますか。そうではありません。受けることはみな受けますが、みな食べることはできません。ほんの少ししか食べることができないのです。しかし、このように少しだけ召し上がっても、みな召し上がったという条件が立てられるのです。
これと同様に、十一条は私が所有している物質の中から十分の一を神様に捧げることによって、全体を捧げるという意味をもっているのです。父に全体は捧げないけれども、その中の一つを精誠を込めて捧げるということは、そのような意味で価値があるのです。そのように一つを捧げることによって、残りの九も聖なる物として取り扱われるようになるのです。このように十一条を捧げて生きる人は滅びることがないのです。日がたてばたつほど彼の倉庫が増えるようになっているのです。
さらに公的な人は、すべての万物を公的な世界の統治法で管理することができ、主管することができるのです。その内容が正に天法だということを私たちは知らなければなりません。皆さんがこういう原則を知るようになれば、どのような言葉や行動、その上暴力を振るったとしても罪にならないというのです。悪を取り除くためであれば罪になりません。したがって皆さんはいつも善と悪をえり分けて、より大きいことのために生きなければなりません。
天地のために生きる人たちほど怖い人はいません。天地のために生きる人たちは宗教人ですが、彼らは今までサタン世界、世の中の人々から迫害と嘲 弄と蔑視と冷遇を受け追われきました。しかし宇宙の公法に照らして見るとき、そのような人たちがより公的な人です。
何の理由もなく追い込まれ追い出されることが良いことですか、悪いことですか。そういう立場に遭うと、その時には悪いでしょうが、結果は良くなるというのです。始まりは悪いけれど結果は良いというのです。これとは反対に、世の中のすべての私的なものは、始めは良いけれど結果は悪くなるのです。滅びるというのです。悪は始めは栄えるように見えるけれど結局は滅びるのであり、善は滅びるように見えるけれど結局は必ず栄えるのです。したがって公的なものは、始めは滅びるようだけれど結局は栄えることを皆さんは知らなければなりません。
物質を主管することができる人と、国家と世界を主管することができる主義が、この地上に出てこなければなりません。そういう主義を立てなければならないのです。それで文化的環境や社会的環境、歴史的背景は違っても、どのような国家でも必ずその民族を内外に発展させて統治してきた宗教という形態があったのです。そして法があったのです。どんな国でもこれを離れては存在することができないのです。なぜなら、より公的な目的に近づくためにはこれを避けられないからです。
◆天法と良心作用
皆さんが市場に行って見ても、自分の欲だけを張る人の所にはお客さんが物を買いにいかないのです。自分の欲だけ張れば、誰でも嫌うことをみな知っています。公的なことや私的なことを中心として見ても、このように統治することができる方法と秘訣を知らない人は一人もいません。
ですから、知らなくて天国に行けなくなったと言い訳することができないというのです。公的か、私的かということを必ず皆さんに教えてあげてこそ分かるのですか。それは教えてあげなくても分かるのです。
先生が今皆さんに話をしていますが、これは公的ですか、私的ですか。皆さんに迎えられるために話すのでしょうか、皆さんが恵みを受けられるようにするために話すのでしょうか。先生が恵みを受けるために話すならば、それは私的なものです。皆さんが恵みを受けられるように話すことは公的なものです。より公的な話をするときは皆さんが感動を受けるのです。そのような公的な話は少しだけ聞いても、心の包みがこっくりこっくり揺れるようになるのです。
今日人々は自らの生活を中心として、善悪の分岐点と公私の分岐点で内外にひっくり返って、行ったり来たりしながら、結局は私的に陥るようになる場合が多いのです。ところが、そのようになれば滅びるのです。ですから、過去は私的な生活だったと悔いて、再び公的な生活を歯を食いしばってするのです。そうするうちに耐えることができなくて、再び私的な生活をしながら行ったり来たりして、私的な方向に入るときが多くなり、そうするうちに公的な善とは遠ざかる生活をするのです。これが今までの私たちの日常生活だというのです。それゆえ私的な生活をするすべての人たちは、後悔しなければならないということを皆さんははっきりと知らなければなりません。
◆最高の公的な生活
最高の公的な生活は天宙のために仕事をすることです。先生は天地主義ではなく、天宙主義を主張しています。天宙の「宙」は家という意味です。天宙主義は、人が主人ではなく、家庭が主人です。国家形成の起源も人ではなく、家庭です。家庭がなければ世界を形成することができないのです。家庭が誤れば、その国は滅びます。
それで家庭教育は、その国が今後恵みを受けることができる運命を左右するのです。国のための公的な法理によって暮らす家庭が多ければ多いほどその国は栄えるのであり、私的な基準で暮らす家庭が多ければ多いほどその国は滅びるのです。
国が腐敗すれば滅びるというのはどういうことでしょうか。国を利用して自分の家庭のために私利私欲を選ぶ人は腐敗するのであり、滅びるのです。その量が大きければ大きいほど大きくけがをするのです。それは爆薬の包みを持って通うことと同じです。皆さんはこのような事実をはっきりと知って、この基準をはっきりと立てなければなりません。
何かを見たというとき、公的に見たのか、私的に見たのか、また何かの話をするとき、公的にしたのか、私的にしたのか、それが問題です。皆さんはどんなことをするにも、常に公と私の境界線で右往左往して闘うのです。人格者であるほど、より公的な立場に立つのです。
統一教会は、天宙主義を主張します。ここには家庭があり、氏族があり、また国があり、世界があります。家庭を中心とした新しい主義を主張しているのが統一教会です。先ほど話したように世界を見れば、万物があり、人間があり、一つの考え、すなわち理想があります。このような点から見るとき世界は一つの世界、一つの人類、一つの思想で成されなければならないのです。
ところがその生活圏、あるいは文化背景の全体が、私的か公的かということが問題になるのです。もちろん生活圏や文化は、その国家の特定の立場によって生じるものですが、世界万民が共通的に追求しなければならない主義と思想を土台に国家体制を備えるならば、その国家は歴史的で世界的な国家になるのです。何世紀かが過ぎて他の国はみな滅びても、その国だけは滅びないというのです。このように見るとき、公的なものとは何でしょうか。天道についていくことです。これを皆さんははっきりと知らなければなりません。
今日この世にある万物を見て、「お前は公的な法により統治されることを願うのか、私的な法により統治されることを願うのか」と尋ねれば、「より公的な法により統治されたい」と言うでしょう。それはなぜでしょうか。人が最高の善圏に行きたいと願うのと同様に、万物も最高の善圏に行きたいと願うからです。
ですから、世界のすべての万物とすべての人々は、誰に統治されたいと願うでしょうか。より公的な存在に統治されたいと願うのです。また、より公的な国についていきたいのです。ですから、戦争という方法と手段を通して、より私的な国は滅びるようにし、公的な国を栄えるようにして、より私的な国は公的な国に主管されるようにしてきたというのです。
このような目的ゆえに起きる戦いを、人々は侵略とか攻撃という言葉で表現してきましたが、実は、その内容面から見るとき、より善で公的な国家に統治されるためにそのような戦いが繰り広げられたのです。このように歴史は一つの善の圏、公的な法度圏に向かって発展してくるという事実を皆さんは知らなければなりません。
◆統一教会の主義と思想
世界人類史の中で、新しい国家体制と新しい理想世界の一模型を提示しておいた国があるならば、その国は、滅びるようですが栄えるのです。一粒の種が地の中に入っていくときには滅びるようだけれど、結局は根を下ろし、そこで千倍、万倍の実を収めるのです。
こういうことを提示する民族、提示する主義、提示する思想がこの世界のどこにあるでしょうか。これを求める人は、賢い人です。このような思想が博愛主義であり、世界大家族主義なのです。ですから、統一教会は世界大家族主義を主張しています。そして世界大奉仕主義を主張してきたのです。
一つの会社を見るならば、会社で誰が一番忠誠を尽くすのでしょうか。誰が一番会社のために生きるのでしょうか。初めは愚かで見栄えの悪い人が会社に入ってきたと思ったのに、一年くらい過ぎてみると、難しい仕事をすべて一人で上手にするので、のちには違う目で見るのです。
そのように五年くらいしてみると、社長から信任されていた専務より何倍も良いと認められて、そのように会社にずっと残っていさえすれば、彼がその会社の主人となることは間違いありません。
キリスト教が世界を征服することができた原因がどこにあったのかといえば、下人暮らしをし、使いをしながらも長く続けてきたためです。それでキリスト教が、十年、二十年、ひいては千年が流れても滅びなかったのです。
今後の文明時代において、大韓民国の新しい思想圏内で、国を愛すことができる僕に誰がなるのでしょうか。僕の中でも手押し車を引いて、背負子をかついで闊歩することができる僕に誰がなるのか、その人がもし王の親戚だというときにはどうなりますか。その国の民が、「手押し車を自分が押す」と、お互いに言うようなことが起きるのです。
そういう主義によって世界的な基盤を築いて、すべてを吸収するようになれば、全天下がそのような立場に入っても感謝するのです。それが当然だと考えることでしょう。それならその背後に介在された力と能力を一時に動員し、一つの目的に向けていくときには世界がどのようになりますか。
◆万物の解放時代を迎えようとするなら
皆さんが先生の前に立つとき、厳かになる理由は何ですか。それは公的な内容で積んだ基台が皆さんより大きいためです。それで先生の前に立てば、我知らず自然に厳かになるのです。それゆえ皆さんは公私の問題が生死圏を左右するのであり、勝敗を決定する要因になるのであり、また善悪を分離する基準になるということをはっきりと知らなければなりません。
このような点で、対人関係において、万物関係において、国家関係において、そして世界関係において、個人から家庭、氏族、社会、国家、世界、天宙まで一貫した生活観を中心として、生涯路程を善圏の世界と連結させる生活をした人は、「天国に行かない」と後ろに逃げても、天国が引き寄せるというのです。
今日キリスト教徒は「イエス様を信じて天国に行こう」と言いますが、ただ信じるといって天国に行くことができますか。かえって「イエ様を信じて地獄を解放しよう」と言わなければなりません。それで統一教会は、地獄を解放しようというのです。
私自身は、公的な万物をもったのでしょうか。これが問題です。皆さんは、生きている間に私の物という観念を超越しなければなりません。これが今後の世界人類に教えなければならない、最も大きな教訓なのです。皆さんは、私の物という観念を否定して、公的な物という観念をもっていかなければなりません。
被造世界のすべての万物は、ある特定な個人に固着されている所有物ではないということを皆さんは知らなければなりません。自分の土地だといって、それが良いと度を越して自慢すれば滅びるのです。なぜそうなのかといえば、それは公的なものであるからです。私はただ、それを管理しているのです。その統治法によって私が公的な管理人として管理するようになれば、永遠に管理することができますが、その管理法に従わなければ滅びるのです。しかし、そういう公的管理法、万物に対する公的な管理法をこの地上のどこの誰も知らずにいるのです。
今日公的な万物を個人はどのように管理していて、家庭はどのように管理しているのでしょうか。また氏族はどのように管理していて、国家と世界はどのように管理しているのでしょうか。万物に対する本当の価値を設定する時となってこそ、初めて聖書で話す万物の解放時代を迎えるようになるのです。そうしないで万物に対するのは、管理ではなく強奪です。
ですから、万物には真の主人が必要なのです。万物は今まで公的な権限と価値を与えられませんでした。これから万物はそのような立場で統治されることを願っているというのです。すなわち、万物は真の愛の管理を受けなければならないのです。
◆万物を公的に主管する人となりなさい
皆さんは、万物を公的に管理することができる人とならなければなりません。皆さんが御飯を食べるとき、御飯に対して有り難いというあいさつもなくむやみに食べるといって、世の中の御飯が全部動員してデモをする日にはどのようにしますか。人間の口という口にはすべて入らないことで同盟ストライキをすれば、どのようになりますか。そのようなことを考えてみましたか。植物なのでそのようなことができないから幸いですが、もしそのようなことができるならば皆さんはどうしますか。
ですから、皆さんは御飯を食べるときには、その御飯の価値を知って食べなければなりません。「お前はどんな人の口に入っていくことを願うか、お前はどんな顔をもった人の口に入っていき、骨になって、肉になって、エネルギーになって、善の世界のために何を残したいのか」と、こういう考え方で御飯を食べなければならないというのです。御飯が悪い人の腹の中に入っていくことを願いますか。たった一粒の御飯粒でも善なる人の腹の中に入っていくことを願うのです。より公的なものを願うというのです。
空気も同じです。もし空気が総団結して五分間だけ世界的にストライキを起こすならば、世界人類は一時に空気に服従するのです。もし神様が世界を強制的に屈服させようとすれば、空気で屈服させることができるでしょう。空気を取り出してこの世を真空状態にして、一分、二分、三分、五分だけそのようにすれば、「死んでも降参です」と言うでしょう。皆さんにとって空気は怖いものです。近ごろ「都市の空気を汚染するな」と言いますが、当然そうしなければならないのです。きれいにしなければ侵入されます。また水もきれいにしなければなりません。このように、万物はすべて公的なのです。
太陽は、生命の根源であり無限な価値をもっています。私たちはそういう太陽の光をただで受けています。太陽の光を買うといって、お金を用意して持ち歩く人を見ましたか。また、太陽の光を受けたと一銭でも出した人を見ましたか。この太陽の光を売るといえば買いますか、買いませんか。体をあげても買うことでしょう。水や空気、光などすべての自然物は、皆さん個人のものではありません。このような万物を自分のものだと考えてはならないのです。
◆万物の真の主人
この万物は誰のものなのでしょうか。私のものである前に国のものであり、国のものである前に世界のものです。なぜでしょうか。韓国始祖の檀君が現れる前の、この土地は誰のものでしたか。主人がいますか、いませんか。公的な法度から見るとき、主人がいますか、いませんか。人だけについて見るときは主人がいませんが、公的な法度で見れば主人がいます。
それでは誰が主人ですか。神様が主人であられます。その主人は、世界の主人ですか、大韓民国の主人ですか。その主人は、大韓民国の主人である前に世界の主人だというのです。
それでは、誰がこの地を支配しなければなりませんか。当然この世界の主人であられる神様が支配しなければなりません。そうでなければ神様の前に一番愛される、主人を代理する人が支配しなければなりません。
ある人が大韓民国で一番良い家を買い、彼の小さな息子がとことこと来て、その家を見て「パパ、私たちの家本当にいいね」と言うとき、「こいつ、なぜ私たちの家か、私の家だ」と言う父がいますか。私たちというのは、父のものが半分で私のものが半分ということですが、そのような言葉を聞いて気分を悪くする親がいますか。いません。どのような親でも「うん、私たちの家だ。お前よく知っているな」と言うのです。
なぜそう言いますか。愛は一体を成すからなのです。父母と子女の間は、愛という因縁で結ばれています。それゆえ、その愛を折る父はいなく、その愛を折る息子はいないのです。愛だけがその二人を支配するために、愛を中心として因縁をもった物は、父母のものであり息子のものに間違いないのです。
こういう意味で「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ三・一六)というみ言を下さったのです。神様は、ひとり子を迫害して十字架にかけて殺せと、イエス様を送られたのではありません。ひとり子を愛しなさいと送られたのです。
公的な場所に貴重な物が置かれていて、その物を他の人が貴く思わないといって、皆さんが自分の家に持っていくならばそれは公的な行動ですか、私的な行動ですか。それは私的な行動なのです。そこにその物を置く価値があるので置いたのです。価値ある場所にその物を置いたのに、それを私的に考えて価値がないと取り扱うかもしれませんが、価値がないのではないのです。
例を挙げれば、王宮には王や后や王子が暮らしますが、王子が王や后を見て大王様、お后様と呼びますか。彼らもお父さん、お母さん、息子、娘、お兄さん、お姉さんと呼ぶのです。同じなのです。
しかし王子だといって、民の物を勝手に持っていくことができますか。そうすることはできないというのです。王子でも、民が持っていかないからと、勝手に持っていくことができますか。「ここにあれば使い道がなさそうだ。私が持っていけばそれ以上愛して、より価値あるように感じるだろうに、これはここに置いてはいけないな」と、こうして持っていくことができますか。そうすることができないというのです。それは環境が違い、なければならない場所が別にあるということです。
私たちは、こういう観点で万物に対さなければなりません。ほとばしる太陽を眺めるときも「億千万金を与えても買うことができない太陽、お前は私という人が永遠に生命を支えていくようにと、私を照らしてくれるためにほとばしるのだな。やー! 力強くて頼もしいな」と、このように見なさいというのです。
水を見ても「お前がちょろちょろ流れていく様子は物悲しいけれど、天下の立派な男でも、のどが渇けば体面にかかわらず、土をなめる嘆きがあってもお前を飲むのではないか。驚くべき水の流れなのだな」と、このように称賛しなさい。また多くの木の中で、松一株が立っていれば「お前はなぜ多くの木の中で運悪く一人残ってゆらゆらするのか。この松の木め」と、そう言わないで「ああ、みな死んだのに独り種子として残ったんだなあ」と言いなさいというのです。
そうすれば考えが変わるのです。道を行ってもそのような心をもって行き、考えるときもそのように考える人は、国を愛すまいとしても愛さざるを得ず、世界を愛すまいとしても愛さざるを得ないのです。このように「真に愛する。本当に愛する」というとき、その本当の中の本当は何でしょうか。神様であられるのです。
神様は、大韓民国をより愛しますか、世界をより愛しますか。世界をより愛するのです。それでは、神様は、世界をより愛しますか、天地をより愛しますか。天地をより愛するというのです。神様は、より大きいものを愛されます。より大きいものがより公的であるために、より大きいものを愛するのです。
神様は、国を愛し、世界を愛し、天地を愛するという主義と思想をもって生きる民族を愛するというのです。たとえ粟飯や麦飯を食べ、塩やみそをつけて食べる嘆きがあっても、そのみそだるを見て「神聖なみそだ」と言うならば、そのみそだるは世界一のみそだるになるのです。
真っ黒にあかがついて欠けた皿でも「お前に対している主人は、ただの人ではない」と、そう言いなさい。そうすればその価値は変わるのです。その皿の上に盛られた食べ物はつまらない食べ物でも、「きょうこの時間に神聖な食べ物として私の体に入っていき、力になるだろう。この力は国のために、世界のために使われるだろう」と言うならば、その皿が気分を悪くするでしょうか。どれほど喜ぶでしょうか。皆さんは神秘の境地に入っていき、その物が喜ぶことを感知してみなければなりません。そういう境地に到達しなければならないのです。
ですから、ある物を自分よりもっと愛した人、すなわちより公的に愛した人がいれば、その人に与えなければならないというのです。それならば、自分よりもっと愛する人がいるとき、自分がもっている指輪や宝石もその人にあげなければなりませんか、あげなくてもよいですか。
そういう物が国のために使われるならば、自分の子供のために使わず、国に送らなければなりません。世界のために使うならば、世界へ送らなければなりません。これが正義です。これが物に対する正しい管理法です。ですから、国を愛し、民族を愛する人は、すべてを国のために捧げます。物を捧げ、自分の家庭までもみな国に捧げるというのです。
◆公的管理と統治時代到来
万物を公的に管理することができる時代が来なければなりません。その時代が来れば、地に肥料を与えなくても万物がうまく育つかもしれません。万物も、毎日のように笑い声を聞きたいのであり、泣き声は聞きたくないのです。皆さんの中で泣き声を聞きたい人がいますか。それでは、神様はどうでしょうか。神様も、やはり笑うことを好まれるのです。皆が笑って生きるようになっています。
神様が善であるならば、善はどこにありますか。笑って生きるところにあるのです。すべてを笑いで消化させることができる、永遠の権限をもった主体としていらっしゃる方が神様です。神様は、どんなに悪いことも善なることとして消化して、その悪いことを「良いことだ」と言うことができるのです。そのようになれば、天地の道理が変わるというかもしれませんが、そうではありません。人々は、今の世の中の道理はすべて良く生きるようになってはいないと話します。しかし、そうではないのです。
世の中は相応性と相克性で成り立っています。相応性だけであれば、世の中は一つにしかならないのです。みなくっつくようになります。しかし、相克性があるために個性真理体となることができるのです。存在の分別的な基準を確定するためには、ここに相反性がなければなりません。相反ということは相反だけで終わるのではなく、相応的な存在に対することができる相反ということです。これを人々は知らないのです。こういう問題において、哲学思想的な面で統一教会の理論が、今後新しい時代に大きく貢献できるというのです。
このようなすべてを考えてみるとき、皆さんは公的な管理を尊重視しなければならないというのです。物ならば物を尊重視しなければなりません。先生が幼いときにノートを使うときには、線が引かれた部分から書くのではなく、一番てっぺんから書きました。あるときは一枚に二度ずつ書いたりもしました。そうすれば、ノート一冊を十二分に使うことができるのです。物を惜しんで使わなければなりません。
先生は、先生自身に対しては本当にけちんぼです。今まで背広一着あつらえて着たことがありません。そばでしきりに言われればあつらえて着ました。自分がさっと入っていってあつらえて着れば、服をあつらえて着る味わいがありません。そばでしきりに「あつらえて着なさい」と言われて、あつらえて着れば、そばで称賛もし、すてきだと鑑賞でもしてくれるのです。それが良いのです。一人であつらえて着て、よくでき上がったのかと尋ねることは、自ら自慢することです。そのようなつまらないことは、先生はしません。先生の生理が初めからそのようになっています。
神様は、どのような人を好むでしょうか。公的な立場で、公的管理を生活哲学とみなしていく人を好みます。万物に対しても同じです。これが天地の理致であり、天法なのです。
皆さんがこのような原則を中心として、公的な道を歩むようになれば絶対に滅びません。絶対滅びないというのです。ですから、皆さんは物を公的に管理して、人に公的に対して、天に公的に侍りなさいというのです。
これを上手にする人たちが集まって夫婦を成したとすれば、その家庭を中心として新しい民族と、新しい世界が形成されるのです。ですから、より公的な生活をする皆さんにならなければならないというのです。