はじめに
最近、青少年が「いじめ」に遭い、ついには「自殺」するという事件が相次いで起こりました。青少年は今何を考え、何を求めているのか、また、どう生きようとしているのでしょうか。
しかし、生きるということの答えは、大人といえども容易に出せるものではありません。それは哲学者、宗教家ばかりでなく、歴史を通して全人類が考え悩んできた問題です。
ここに紹介する講話および講演文は、世界的に有名な宗教指導者である文鮮明師と、その令夫人であられる韓鶴子女史によるものです。
膨大な文師の講話集の中から、特に日本の青年に対して希望を与えようと、日本語で語られたものを選びました。「青年の希望」だけは、英文からの翻訳ですが、これも、もとは日本語で語られたものです。
文師の教えは、「統一原理」といい『原理講論』にまとめてあります。しかし、論文と比べ講話には、より臨場感と情熱が感じられるものです。文師にとって、日本語は母国語ではないため、文中ぎこちない箇所もありますが、そこを文章整理すると、味と迫力が失われるのではないかとの危惧から、そのまま掲載しました。ぜひともその情熱をくみとっていただきたいものです。
韓鶴子女史の講演文も、日本語で語られたものです。神の復帰摂理歴史と、文鮮明師の歩みと、現代の時代的意味を、的確に説明されているため、女性の人々に語られたものではありますが、掲載しました。
本書を読まれた青年が、人生に喜びを感じ、未来に希望を抱くことのできる、一つのきっかけとなるようにと切望するものです。
一九九五年五月一日
青年の希望
一九七四年七月十五日~八月二十三日、米国・ニューヨーク・ベリータウンにおいて、欧米の教授や学生との共同生活、講義、討論などを通し文化の違いを越えた出会いをなし、また、今後の世界的指導原理の在り方を探ろうとする「国際指導者セミナー」が開催された。そこに各国から参加した大学生たちに対して語られた、文鮮明師の講話(七月二十九日)である。
希望を抱かない青年はいません。
では、その希望、あるいは野心とは何でしょうか。「専攻する分野で成功することが私の野心です」と言う人もいるでしょう。しかし、そう答える人に「それが本当にあなたの野心なのですか」と真剣に問うてみる時、それを本当に確信している人はそれほど多くはいないことが分かります。そして、その野心を達成した時に、再び新しい野心に向かって出発しなければならなくなるのです。こういうことはよくあることです。例えば教授として成功し、教壇に毎日立っていても、突然、これは自分がずっと求めてきた野心ではない、ということに思い至ることもあるでしょう。
たとえ自分の野心を達成したとしても、「私はそれを成し遂げ、本当に幸福であり満足している」と感じることのできる人はほとんどいません。いったんある段階に達したならば、それを乗り越えていきたいと思うようになるものです。言い換えれば、人は現実にとどまることなく、それを乗り越えていきたいと思うです。それではいったい、究極の青年の希望、あるいは野心とは何でしょうか。
たとえ、どんなに一生懸命やったとしても、その野心を達成した時「私は幸せです。野心を成し遂げたからです」と言うことも、またそれを聞くこともありません。どんな世界的人物になろうと、さらに高い目標を目指さなければならなくなるからです。
それでは、若者はいったい何を望んでいるのでしょうか。それは、永遠に代わることのない世界の中心存在となること、これが青年の野心ではないでしょうか。しかし、たとえその野心を成し遂げることができたとしても、もしその人が人格的に完成されていなければ、彼は人間として不幸だといえるでしょう。
希望は私自身の中から出発する
私たちは、どれほどの幸福感を感じれば、満足することができるのでしょうか。このことは、私たちが考えるべき重大なテーマの一つです。あなたが今まで知り合ったどんな若者でも、「国を越えて世界的になろう」という野心はもっています。しかし、たとえ形だけその基準が立ったとしても、それは真の理想にはなりません。真の理想とは、自分自身から出発してこそ、存在可能となるものです。結論を言えば、青年の基本的希望と野心とは、私自身の内の一つの中心点から出発し、世界に向かっていくものでなければならないということです。
次に、私たちが「完成する」とはどういうことをいい、また、私たちの希望の中心とは何でしょうか。世界の中心となれる、その確かな「中心性」をもった人がいるとすれば、その人は過去において幸福だったでしょうし、現在および未来においても幸福であるでしょう。世界中の人々がそのような人を見つめるならば、その人を最も頼もしく、素晴らしい人だと思うでしょう。すべての人が、そのような人に自分自身を委ねたいと願うことでしょう。そのような理想的人物は歴史を通じて、終始一貫して認められてきたに違いありません。それでは、そのような人物は、どのように存在可能となるのでしょうか。
理想的な青年像は、すべての国を包容できる力をもち、世界を、また、過去、現在、未来を代表し得るような青年像であるべきです。もしそのような一人の青年が地上にいるとするならば、彼は世界の宝となるでしょう。皆さんもよく知っているように、貴重な宝はすぐにはなくなりません。それらは必ず、不滅の性質をもっています。また、そのような青年は全体を反映します。私たちはすべて、そのような青年像を追求しなければなりません。
そこで、私たちはまず、「人間」それ自体について考えなければなりません。一人の人を見るとき、私たちは、その人の内的なものと、外的なものとの二面を見ます。またその一人の人間の中に、「理想を成さなければならない人」と、「肉的存在としての人」との二面を見ることができます。それでは、理想とは何でしょうか。理想とは、すべての人にあてはまり、だれも除外することのできないものです。理想はすぐには現れませんが、しかし永遠のものです。
中国の理想の概念
「理想」の「理」という漢字は、左側の「王」、右側の「里」から成り立っています。つまり、「王の里」すなわち「王の村」を表します。片方が全体を象徴し、もう一方が中心を代表するのです。全体が一つの中心に焦点を合わせる時、その時が理想なのです。それは一人では決して成し遂げられず、中心点を取り巻く全体があって、初めて理想は存在するのです。
一つ一つの漢字は、それぞれの思想を表すとともに、組み合わさってより深いを意味を表します。「理想」のもう一つの要素「想」は、左側に「木」があり、右側に「目」があります。つまり、向こうにある木を対象として見ることを表します。すなわち、ある対象に対することを意味し、それは全体を表します。そして下に「心」が置かれています。これらが一緒になった時、一つの概念となるのです。人々がこれらの文字を使い始めた時、理想という概念の中に、幸福と理想のすべての要素が知らずに含まれていたということは、容易に理解できます。この理解の上に立って、一つの目的のために、私たちを取り巻く環境を発展させていった時、理想が存在可能となるのです。
簡単に言うならば、理想は、一人では決して成し遂げることはできません。私たちが働き、働かせることのできる完全な一つの目的がある時にだけ、理想は存在できるのです。たった一人だけでは、理想というものはありません。相互関係が確立される時、そこに理想が芽生え始めるのです。
それでは、理想的青年とはどういう青年でしょうか。彼は、決して自分自身の中に閉じこもることなく、全体と中心の両面を備えていなければなりません。それでこそ、初めて彼は、すべてを代表することができるのです。
すべての個人は、他の人と異なっています。より外的なことに特別の視点を置く人もいれば、より内的なことに特別の視点を置く人もいます。とても弱い人もいれば、とても強い人もいます。傲慢な人もいれば、謙虚な人もいます。理想的な人とは、両端までも包容でき、中心に立つことのできる人です。
理想的青年とは、すべてを包み込み、中心として雄々しく立つ人です。彼は自分自身だけでなく、彼の村や家庭、国家をも心配する人です。また、現在だけでなく、過去に、未来に、そして世界に関心をもっています。
人間は神を中心としなければならない
私たちは個人と人類についてだけ語っているのではありません。ある人が神との関係を完成しようとする時、初めて彼は理想的青年となることでしょう。もし神がおられるなら、神はどんなお方でしょうか。皆さんは、既に神は全体の中心におられる方であると、漠然と考えていたかもしれません。神の中にあって、私たちは過去、現在、そして未来を表すことができるのです。東西南北、どの方向からであろうと、私たちは神を中心としなければなりません。神は全宇宙の中心となるべき本質でなければなりません。
それでは神と人間とは、いかなる関係にあるべきでしょうか。人間は生まれながら、神に似ているのです。いわば人間は、神に、あるいは神のようになりたいのです。しかし、もし人間自身が神の実体となるならば、人間にはもはや、主体と対象の関係はありません。理想的であるためには、私たちは縦的(時間的)関係とともに、横的(空間的)関係をもたなければなりません。
そこで私たちは、外的にも内的にも完全な関係をもつために、二つの特性をもっています。ある人は肉体を中心として生きたいと思い、また逆に、心と魂を中心として生きたいと思う人もいます。私たちが外的なことを中心とするとき、それらは過ぎ去り、消滅していきます。また私たちの内的弱さゆえに、安易に強い悪の力に侵入されるということを、体験や過去の経験から学んでよく知っています。ですから人間にとって絶対的に必要なものとは、内的な強さであり、これは欠くことのできないものです。
心と体の間の一致と調和を見いだして、初めて私たちは、理想のようなものを見るようになるのです。正にこの一点において、神と出会うのです。当然私たちは、神を中心として心と体が一体化した生活を願っています。これが一個人の内に成される時、そのような完全に調和した個人は、神と一体化したいと願うのです。それが人間の欲望なのです。
既に知っているように、皆さんは、強い心をもつ時、強い人間になります。ここから一つの必然的な結論が導き出されます。それは、私たち自身、心と体において完全に一体化する時、また私たちの心が主体的立場に立ち、肉身が相対的位置において主管される時、私たちは神御自身のように強くなるということです。
結論をごく簡単にいえば、心と体が完全に一体となる時、人間は理想的になり、理想というものが分かってくるのです。
天国とは統一された世界
皆さんが一人ぼっちの時、「これは素晴らしい」と言うことはできません。例えば「善」とは、皆さんの好むもののことです。その漢字は簡単に言えば、男と女を意味しています。例えば、男と女が完全に一つとなる時のように、主体と対象が完全に一つとなる時、それが善となるのです。これは東洋の理想というだけでなく、西洋の世界にも示されている理想なのです。
聖書に、「神は男を造り給うたけれど、どうも十分ではない、そこで神は女を造ったところ、はなはだ善かった」と書かれています。理想となり、善となることは、相対的位置を取ることであるということを否定することはできません。いわば、真の男と女が一体となる時にのみ理想が成立するのです。それが理想です。善となる以前に、個人においては心と体の完全な調和がなければなりません。それらが真に一つとなった時、未来における幸福の要素となるのです。これは論理的にも十分納得のいくことです。
それでは、天国とはどのようなものでしょうか。天国とは、二つの分裂したものを一つのものにしたにすぎないのです。それが天国なのです。漢字で「天」は「二人の人」と書きます。それがなくて天国の文字はありません。それはまさしく啓示ですね。なぜ人間は昔、そのような文字を使い始めたのでしょうか。なぜなら、もともと人間の理想は、「理想」そのものに直結しているからです。理想とは、二つのものが一つとなって、初めて成し遂げられるのです。それで、この過程は、既に一つの文字で表現されているのです。私たちはどんな文化圏においても、二つのものが理想を成し遂げるということを否定できません。
私たちは、生まれつき貴重な存在であると思います。どうして人間がそれほど貴重な存在なのでしょうか。理想のために、備えられた欲望を成し遂げていく長い道のりがあるので、そのように感じるのです。私たちの理想達成への目標は、「私たちの心、あるいは良心と体の一体化を成し遂げることである」と言うことができます。理想的人間とは、心が一つの方向に進み、体は別の方向へ進むような人ではなく、心と体が一つの方向に向かって、永遠に進んでいく人です。それこそ理想像なのです。
例えば、私たちの体はいつも自分自身のことを中心に考えています。そして心はいつも全体的な視野の中で考えています。これらが一つになる時、完全な理想的人間となり、その人は心と体の両方を主管することでしょう。
私たち自身を見てみましょう。私たちの体と心は完全に一つとなっていますか。もし私たちの体を平面だとするならば、私たちの精神はより高い次元にあると考えられます。それらの確かな交差点は、どこにあるのでしょうか。そこが、私たちの理想を見いだすことのできる点なのです。その一点にすべてが一つとなった人は、すべての方面に通じることができるのです。それが神です。そこで私たちは神の似姿となるのです。また、肉体には時間的制約がありますが、私たちの精神には時間的制約はありません。限りある部分と限りなき部分が一つになる時、そこに理想が存在するのです。
人類がまだそのようになっていないので、「神はいない」と簡単に言う人もいます。しかし、もし神がいるならば、私たちの心と体は、神のように作用しなければなりません。そうでなければ、神は二つの相反した方向性をもたなければなりません。私が言おうとしていることは、私たちには、神は二つの方向性をもつようなお方であると思われるけれども、神はそうではないということです。
そこにおいて、私たちは人間の堕落を認めなければならないのです。私たち自身の、そして人類の、教育の必要性がそこにあるのです。私たちは「神は間違っている」と言うことはできません。神は正しい方に違いありません。すると私たちが間違っているということになります。人類歴史においてこの偉大な改革をなし、人類歴史を完成することは、宗教の仕事です。
心が先にあった
それでは、より価値あるものとは何でしょうか。より貴重で価値あるものとは、「私」あるいは「ある物」が存在する以前に、存在したものです。私たちの心と体を考えてみましょう。どちらが先に存在するようになったのでしょうか。存在の動機が人間自身の中にはなかったということは否定できません。人間は何か他の動機によって生まれたのです。「原因と結果のどちらが先でしょうか」と問われれば、私たちは「原因が先である」と言わざるを得ません。それでは人間は、どのように原因に通じることができるのでしょうか。唯一の道は、良心による道です。良心以外には、何もないのです。
どんな人でも、心の奥底から、心を込めて愛してくれる人を、より大切にしたいと思うのは、皆さんもよく知っています。二人の人が同時に皆さんを愛する時、皆さんは、大抵肉身に対してよりも、心を愛してくれる人を選ぶでしょう。
皆さんはなぜ、肉身よりも良心を大切にされたいと思うのでしょうか。それは良心がより先に存在したからです。世界で一番初めに存在したものは何ですか。それは神です。ゆえに、神には絶対的価値があるのです。私たちは、神によって造られた一個人の重要性を認めることができます。人間は第一の立場では決してありません。なぜなら第一の立場には既に神がおられるからです。
それでは原因(神)と結果(人間)は、どのように関係しているのでしょうか。この二つの要素は絶対不滅であって、全世界を代表すべきものです。私たち自身にあるその要素とは、良心です。私たちを神につなぐのは、まず心です。それゆえ、良心家と呼ばれる人は、物質主義者よりはいつも愛されてきました。なぜなら、良心は肉身より先に存在したからです。
なぜ肉体が勝つのか
人間は、このような二つの異なった立場に分離され、宗教はそれらを一つにしようとしてきました。すべての宗教の第一の目標は、良心を中心として神と一つになることです。さらに第二の要求は、神と一体となったあと、良心を中心として皆さんの体を主管することです。皆さんは良心が命ずるままに行動しなさい。肉身が命ずるままに行動してはいけません。これこそが、すべての宗教のいわんとすることなのです。
宗教は皆さんに、肉身的なすべてのことを否定せよと要求します。なぜでしょうか。それは元来、精神を中心として一つになるように創造された人間が、それを否定し、悪魔(サタン)が私たちの体を占領するようになったからです。人間は、自分の肉身を通じて、すべてを成したいと欲しています。私たちの肉身は、このことだけを考えています。このような生き方に、理想はありません。この種の人間は理想に反し、理想を破壊し、決して理想にくみすることはできません。ここに私たちは、肉体の完全な否定による、完全な宗教を見いだすのです。それゆえ、神はいつも人間に「肉体をささげよ」と要求します。
神は、逆説ですべてのことを教えています。例えば、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイ二三・一二)という聖句があります。私たちはこのことを理解して初めて、次の聖句が理解できるのです。「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)。
したがって宗教の発展は、肉体の完全否定がなされる時にのみあり得るのです。宗派が中心となって、独自の道を守り発展させようとする宗派は、世界の宗教の中心とは決してなれません。なぜなら、これは神の意志と神性に反するからです。しかし、たとえどんなに小さくても、自分の宗派を乗り越えて神が願うものを願う宗教は、必然的に神と共に栄えるに違いありません。そのような宗教は繁栄し、全世界の隅々まで覆い尽くすことでしょう。
すべての文化の基礎と背景になっているのは、宗教です。そして神は、ずっと宗教を通じて人を個人として完成させようとしてきました。私たちは神が私たちのために、これまでずーっと成し遂げてこられたすべてのことを見て、神がおられるという事実を認めなければなりません。
神と人間が分かち合う幸福
私たちが良心に主管される時、何が起こるでしょうか。永遠の価値と、自分自身の価値に対して、称賛することのできる人となるでしょう。原因と結果の両方が調和的統一体となる時、私たちはそのような価値を実感するのです。そういう時、私たちは体が壮快になるのを感じるでしょう。考えてみてください。そのように完成された時、私たちはどんなにか素晴らしい幸福を味わうことができることでしょうか。さらに五感を超えて、壮快さと幸福を実感することでしょう。それは全く別の次元のものです。今まで、そのような壮快さと幸福を体験した人は一人もいないと言っていいでしょう。
大抵の人は、神が存在するか否か、ましてや彼らの良心の源が何であるかも知りません。皆さんに良心のようなものがあるということを知る時、さらにそれが価値ある敬虔なものであるということを知る時、皆さんはその価値を実感するでしょう。皆さんの良心の基準を神の基準にまで引き上げたと分かる時、皆さんは今まで味わったことのない素晴らしさを実感することでしょう。
皆さんが簡単に想像でき、身近に得ることのできる、ある幸福の領域があることを考えてみてください。もし神がおられるならば、神と人間とが共に幸福と壮快さを感ずることのできる、ある基準があるに違いありません。もし人間が、一たびそのような基準のあることが分かるならば、その目的のためにすべてを犠牲にすることでしょう。皆さんはそれを望みませんか。皆さんがもしその基準を得たならば、世界のどんなものとも、あるいは世界のすべてのものとも、決して交換しないでしょう。
そこで皆さんは、神は平面的な方でなく、皆さんと共にいつもいまし給うてくださる方であることが分かるでしょう。皆さんは、神の偉大さをただ賛美するのです。そして神の生命が皆さんの生命となるでしょう。神の全知全能が皆さんのものとなるでしょう。ここにおいてこそ、私たちは神の全き愛を、真に感じることができるのです。
神は一人で愛と幸福を実現できない
もし私たちが、その位置において完全に神の愛を感じることができるならば、どれほど幸せでしょうか。もし堕落していなかったならば、私たちの肉身は、神の相対的立場に立っていたことでしょう。もし幸福が、あるべき姿として成就していたならば、幸福は永遠であったことでしょう。その幸福は、不滅であり、永続したことでしょう。私たちの一瞬の生命のようにではなく、神が幸福な時、そのような神の相対的立場に立てば、永遠に幸福を感じることができるのです。
神は、一人で幸福になることはできません。神は、愛をもっておられるにもかかわらず、一人では全く愛することはできません。神は、理想をもっておられるにもかかわらず、一人ではその理想を感じることも、成就することもできません。神がもっておられる、限りない理想、限りない幸福、そして限りないあらゆることも、人間なくしては決して成就されません。それが神によって創造された人間の、重大な、永遠な価値であると知るならば、私たちはどんなに幸福を感じることでしょう。もしそのような幸福な一日を体験でき、完全に神と一つになれるならば、人は、たとえ肉身を中心とした一千年の生活であっても、それと交換することはないでしょう。皆さん、そう思いませんか。
長い歴史を通して、神はずーっと、この完全な究極の理想を探し求めてこられました。神は何千年もの間、それを切望してこられたにもかかわらず、一度たりとも、私たちの内にその完全な基準を見いだすことがなかったことを学ばなければなりません。私たちは最初において、完全に調和されて一つになるべきでした。私たちはそれを成さなかったために、分裂し、もがき、悩み、苦しんできました。それが人類歴史です。
私たちが今、その理想の立場にいないということを、だれが否定できるでしょうか。いったんこれが真実であることを見いだすならば、「理想などいらない」とは、だれも言わないことでしょう。むしろ、だれもが求めていくことでしょう。そしてそのあとは、いかにすれば、その理想が実現できるのかということを考えるようになります。
宗教こそ重要なもの
人間の頭脳、心、あるいは能力などを、思うままに使うことによって、神の理想にたどりつくことができるでしょうか。いいえ、それはできません。私たち自身を神のやり方、神の思考法に徐々に近づけるために訓練すること、それ以外に方法はありません。そこで、宗教は人類に必要であると、結論づけられるでしょう。どれほど必要でしょうか。最も必要なものです。
この方向に進路を置くとき、それに反対してくるものがあったとしても、私たちはそれを否定していかなければなりません。たとえ両親が反対したとしても、それによって動じてはいけないことを宗教は教えてきました。反対されても、勝利しなければなりません。たとえ家族中が、あるいは国中が私たちに反対しようとも――。それで皆さんが最も貴重な存在として、大切にするすべてのものを、否定しなくてはなりません。あえて、それを越えていかなければならないのです。
神は、歴史を通じて、これらすべてを成してきました。神の愛によってこそ、それを成すことができるのです。神は、歴史上考えられなかったようなものを、皆さんに与えようとしています。皆さんが成したすべての犠牲とは無関係に――。
神の理想、神が果てしなく与えてくださるもの、そして神の配慮を見いだすとき、それこそが、私たちの理想への出発点といえるでしょう。私たちは、神の生命、神の愛、神の理想を受けることができます。これらすべてを受けられるのです。これが青年の希望です。
青年は最高の理想を切望する
それゆえ、青年は理想を探し求めます。それは低い理想ですか、高い理想ですか。高い理想でしょう。どのくらいの高さでしょうか。どこまでも神を愛し、いかに高価なものでも踏み越えていけるほどに高い理想をもたなければなりません。それゆえ、人類歴史を通じて、ずーっと高い理想を求めてきました。今も、死に物狂いでそれに立ち向かっています。
そこで、理想は高くなければなりません。天国を貫くほどに、すべてを解放できるものでなければなりません。人類だけでなく、神をも解放するものでなければならないのです。理想というものは、高過ぎるということがあるでしょうか。もし神が、人類にその理想が達成されたのを見なければ、神御自身も解放されないのです。神が束縛されている理由が、正にここにあるのです。
だれかが良心に反した悪いことをするのを見るとき、私たちは行ってその人に対し「あなたは良心をもっているのですか」と問いただします。彼はその時、「永遠なるものの原理」がここにあることを実感するでしょう。それは、神と共になさなければなりません。
良心には、その原因となるものがあります。それが、神です。その願うところは、永遠不変なる理想の実現なのです。私たちの良心はその一点に向かって進んでいます。
完全なる花があるとき、すべての人はそれを自分のものにしたいと願います。すべての人は、比較能力をもっています。人間は自分を何に例えたいと願うでしょう。それは自分以外の人間ではありません。なぜなら、私たちは変化するものを欲しないからです。無限なる、永遠なるものを欲し、決して変わることのないものを欲するのです。理想とは、そういうものでしょう。
最高の理想に立って、皆さんが神を迎えにいく時、神はすぐに現れてくださることでしょう。考えてみてください。私たちの精神が最高の理想基準に立つ時、肉身は自動的に制御されます。私たちの良心が笑う時、私たちの肉身もまた一緒に笑うのです。皆さんはかつて、そのような人に会ったことがありますか。
イエス様は、「わたしは父におり、父はわたしにおられる」(ヨハネ一四・一〇)と言っています。生まれつき私たちは、神と関係をもつことのできる、あらゆる要素をもっています。宗教によってのみ、皆さんの肉体を否定することができ、精神が要求する次元に、確信をもって進むことができるのです。
神と世界のために生きる
私たち人間は、四千年間、ライオンのえじきとなり、責め苦しめられたキリスト教徒を目撃してきましたが、なおも彼らは幸福そうに、この一つの理想を抱いていました。ローマへ通ずる道よりも確かな、幸福への道を、彼らは信じていました。それはあり得ることです。これを絶え間なく経験したならば、皆さんは目的に向かって突き進むために、これ以外は何も望まなくなるでしょう。この一点において、人間は果てしない、無限の価値をもっているのです。
青年は、最高の理想と野心をもっています。数多くの人々は、自分自身の個々の幸福を追い求めています。しかし考えてみてください。どんなに熱心に試みても、皆さんは、自分自身を解放することができるでしょうか。いいえ、それはできません。それは、大変悲惨な状態です。
ある人は、自分の家族のために生きています。「それは自分一人のために生きているより、いいではないか」、そう言うかもしれません。またある人は、自分の氏族の解放のために生きるでしょう。ある人は、国のために自分の生活をささげます。普通の青年は、自分の国のために犠牲となるところまで成長できるでしょう。これを越えて、世界の自由のために生きた人は、賢人、聖人と呼ばれてきました。でも考えてください。世界が解放されたとしても、もし神が解放されないならば、私たちはそのような世界を「理想世界」と呼ぶことはできません。
人間には二つのタイプがあります。物質的に生きる人と、良心に従って生きる人です。私たちは、これら二つの典型として、唯物論と唯心論を見ることができます。民主主義世界は良い世界であると思われていますが、しかし何が良心を構成しているのか、特に良心はどこに向かっているのかということは分からないのです。一方、唯物論、共産主義は決して精神を解放することはできないでしょう。それゆえ共産主義は、ある程度までは繁栄するでしょうが、それ以上は越えていくことはできないでしょう。
それではこの観点に立つとき、どちらがより価値があるでしょうか。共産主義ですか、それとも神を中心とした理念でしょうか。それは神を中心とした理念です。良心は物質以前に存在したに違いありません。そこで私たちは、共産主義でさえも、ある日、神を認めなければならないであろうという論理的結論に達するのです。
共産世界と自由世界は、そのままでは一つになることは決してできません。なぜなら、それらは結果の世界だからです。私たちの良心が絶え間なく肉体と闘っているように、共産世界と自由世界もまた、最後まで闘うのです。それらが闘い続ける限り、理想はありません。たとえ人間が、地上においてその解決策を見つけようとしても、できないでしょう。人間は病気にかかっています。皆さんがその病気を治そうとする時、その原因を突き止めなければ、それは永続する治癒とはなりません。その原因を突き止め解決する時、その痛みを取り去ることができます。
まず私たちが理想の人に
世界の問題に対する解答は、個人の問題に対する解答でもあります。一人の人間によって、人間が悪化し、そして復帰するのを見いだす時、世界をも復帰することができるのです。私たちはこの点を強調しなければなりません。私たちは、世界ではなく、まず私たち自身とかかわりをもたなければなりません。それが完全なものの始まりです。世界がどんなに平和に、幸福になろうとも、人間が幸福になることができないならば、その世界は人間と何の関係もありません。不完全な人間が、完全なものをつくることは不可能です。
他のだれかが理想の人となるのを望む前に、まず私たちが理想の人とならなければなりません。理想の人間は、過去と現在を代表して語るべきです。彼はまた、未来のための何かをもっていなければなりません。もし、これらすべてを成せる人がいるならば、その人こそ最初の理想の人間と呼ばれるでしょう。この一人の人が認めない何かがあるならば、それは理想とは言えません。このような方向を真剣に探し求める、そのような現代の文化や運動でなければなりません。
過去の人類文化がどんなに親愛な、貴重な、価値あるものであったとしても、それは来たるべき未来のものとは比較になりません。いったん「過去」を投げ捨ててしまいなさい。そうすれば皆さんは新しいものを見いだすでしょう。この観点に立てば、神が備えてくださった永遠なる道を、私たちは進むことでしょう。もしそれを望むならば、どんな青年でも、神はすぐに知ってくださるでしょう。目標を目指して進もうとする青年を、神は守るでしょう。それが最も重要な理想であり、青年が抱くことのできる最高の理想です。
もし、このような人生を生きる天性と決意があるならば、その時彼は、過去の歴史の宝となるでしょう。そして現代の宝となり、来たる永遠の未来の宝となるでしょう。
聖なる結婚
一たび皆さんが理想の自分になったとすれば、その次の、第二の欲望、あるいは野望とは何でしょうか。それは言うまでもなく、良い配偶者を見つけることです。人間には、男と女がいます。それを「人間」と呼ぶのです。私たちの第二の欲望は、真の男と女とが一つになることです。皆さん自身のことよりも、もっと貴重なことは、皆さんの配偶者となるだれかを見つけることです。人がどのように完全であっても、一人では完全にはなれません。その人の内に自分の完全性を発見できるようなだれかを見つけた時にのみ、完全になることができます。
どんなにみすぼらしい女性であっても、自分の配偶者は自分よりもはるかに素晴らしい人であってほしいと願うものです。同じことが男にもいえます。男は、自分自身も完全になりたいと願うのですが、自分の配偶者に対しては、より完全であってほしいと思うのです。そして彼女と共に幸福になり、幸福感を感じたいのです。
ですから理想とは、愛のうちに生活し、愛に酔い、高遠な諸理想を成就し、それらを周りに広めていくことです。
しかしここで、「そのような男と女が存在するのか」という疑問が生じます。もし私たちが世界中を見回して、まれにさえもそのような理想の青年を見いだせないとすれば、どのように感じるでしょうか。神もまた深く悲しまれ、過去と未来の、すべての人類も悲しむことでしょう。
個人がどのように完成を成し遂げたとしても、それが理想の終着点ではありません。むしろそれは、彼と彼の配偶者が一つになる理想への出発点なのです。そこに理想が始まるのです。私たちは、これをすべての人類が欲しており、あらゆる人が欲しているということを、決して否定できません。
これは、私たちが天地に向かって発した宣言です。私たちはすべての歴史を代表して、これを宣言しました。この宣言は、未来への伝統を準備するためになされました。将来どのような荒波に出遭おうとも、私たちはそれを突き抜け、克服しなければなりません。これは人類のすべてが願うことであり、神さえも私たちに願っていることなのです。
今まで神は、一つの目的をもち続けてこられました。それは、一人の完全な男と一人の完全な女、そして一人の青年を造ることです。堕落した人間においてはこれが成し遂げられないので、だれかが、神から直接に遣わされなければなりません。これがすべての宗教における、「メシヤ」の概念です。そのメシヤは、一人の青年です。
聖書の最後にある黙示録の中で、神の理想の目的は、この完全な男と完全な女であるということが明確に示されています。聖なる結婚によって抱擁しながら喜ぶ時、これは全宇宙にも替え難いものになるのです。
いったん神が、この高い理想を一つの基準として成就したならば、より多くのそのような個人や家庭が生まれるようになるでしょう。これが神の最も深い願いであり、また人類の最も深い願いなのです。
変わらぬ愛
私たちは、私たちの配偶者となる人が、永遠の変わらない愛にふさわしい者であることを願います。なぜでしょうか。なぜならば、真の愛は永遠であるからです。皆さんはただ一人の完全な配偶者を願うと思います。なぜなら、そのような愛は絶対であり、ただ一つしかないからです。そこで彼または彼女は、自分の配偶者に絶対の権威をもってほしいと思います。なぜなら、愛は全能だからです。私たちは神から生まれた者ですから、神に似て、このようなとても高い理想をもつようになったのです。
では、皆さんは、どのようになりたいのですか。皆さんは、神に愛される子供になりたいのですか。そしてそれ以上に、私たちは自らを成熟させて、神を幸せにできるようになりたいのでしょうか。これは私たちの願い、野望であるのみならず、神の願いに違いありません。
完全な家庭は、完全な個人を中心としてのみ存在できます。ところで皆さんはすぐに、「世界で一番美しい女性を配偶者にすれば幸せになれる」と思うかもしれません。しかし、それは違います。それでは、だれが世界で一番美しい男、または女なのでしょうか。世界で一番美しい男、または女は、自分の善なる目をもって善なる世界を見たいと思う人です。最高に美しい男、あるいは女は、何よりも自分の耳を通して何か善なるものを、そして善のみを聴きたいという人です。そして最高に美しい男、あるいは女は、自分の鼻で化粧品や何かのにおいをかぐだけではなく、世界の善なるもののにおいをかぎたいというような人です。最高に素晴らしい口をもった人はだれでしょうか。それは、自分の口を通して自分自身について語るのではなく、世界について語るような人です。世の中に対して敢然と立ち、歴史と人類のために神の立場から話そうとし、その上いつでもそうする準備のある人――そのような人こそ最も素晴らしい口をもった人であり、最も素晴らしい人です。
いかに均整のとれた体つきをしているとしても、もし多くの人から嫌われているとすれば、良い人ではありません。その人の人格ゆえに、だれもが好きになるような人こそ、善なる良い男であり、美しい女だといえるのです。皆さん、それが分かりますか。
反対物の統一
実際に、さらに理想的なのは、百歳になって霊界に行こうとしている老人が、小さな赤ん坊と一緒に、幸せに遊ぶことです。そのような世界こそ、理想の世界です。
それは、次のような結論になります。最も美しい男、または女が、最も醜い男、または女と一つになり、いかなることがあっても互いに離れないとすれば、そのような組み合わせこそ最も理想的なものだといえます。そしてそのような人たちこそ、最高に理想的な人たちなのです。
私は、大西洋によく魚釣りに行きます。一週間ほど前、嵐だったのですが、私はあえてその中に乗り入れました。波は非常に高く揺れていましたが、その時私はこう思いました。「風は一方向から吹いているのに、どうしてそれは一つの大きな波を起こさないのだろうか」と。なぜなら、それはすべてのものが対称になっているという宇宙の原理に従っているからです。高く低く、高く低く、速く遅く……これらすべての変化から理想が生まれるのです。
高い山に対しては、深い淵がなければなりません。そして、最も深い谷には、高い所から来るすべてのものが蓄えられます。最も高い所にはそれ以上のものはありませんが、そこで人はより低い所を見下ろして、何かをつくり出すことができます。それが理想なのです。それゆえ、授受作用も宇宙の至る所にあります。最高は最低と釣り合うのです。そしてそれが対称の在り方です。これがすべて意識せずに成し遂げられたとするなら、あらゆることが自動的に成し遂げられたなら、理想は自動的に実現します。
もしある人がたくさんお金を持っていて、もう一人の人があまりお金を持っていない時、たくさんのお金を持っている人がそれをすべて自分一人のものにしておくならば、彼は自分自身不幸でしょうし、もう一人の人も不幸でしょう。もしその人がそのすべてのお金を、持っていない人に上げるならば、その人はそのお金を持つにふさわしい人です。
地球の内部へと深く入っていくと、だんだん熱くなります。そして、溶解現象が起こります。物質を過熱すると、蒸発して上昇します。ですからここでは、高いものが低いものを補うようになります。皆さんが知っているように、水は高い所から流れて、最も低い所に行きます。しかし、それは再び蒸気として空中に上がっていきます。ですから私たちは、最低のものが、例えば雲となって高い山を主管するように、最高のものを主管する何らかの方法があるということを容易に発見することができます。
この世界には、先進国もあれば発展途上国もあります。富んだ国もあれば、それほど富んでいない国もあります。西洋があれば東洋があります。そして、これら反対物、あるいは対称物が完全な調和をつくるなら、理想が実現するのです。
すべての音楽は、リズムによってできています。それは風が吹く時も同じです。風はただ一吹きに吹くのではありません。このように風の動きをよく見ると、波のように吹いているのが分かります。風が一方向から吹く時でも、木の枝は、右へ左へと揺れます。また私たちが呼吸する時も、吸ってから吐きます。時々、私たちはまばたきをします。それが変化なのです。調和ある変化はどこにあるのでしょうか。それが問題です。「私は数学的な考え方をするのでそんなことは認められない」と主張できる人は、どこにもいません。いかに人が哲学的であり、数学的であったとしても、すべてはこのリズムによって運行しているということを否定できません。
西洋と東洋の調和
西洋人はおなかを下にして寝ます。多くの人がこういう寝方をします。彼らは知らずに、地上を見下ろしている立場を象徴しているのです。ほとんどの東洋人は、背中を下にして寝ます。これは天を見上げていることを意味し、精神文明を象徴します。特に時代の終末においては、人々の行動は象徴的意味をもちます。西洋人は少しばかり寂しく感じるかもしれませんが、それは仕方がありません。事実なのです。どうやって事実を変えることができるでしょうか。西洋文明は、物質を通して物質によって世界に奉仕します。しかし、それがすべてではありません。東洋は、その精神面において世界の指導的立場にあります。
東洋は西洋に寄与します。神は一つの高い理想をもっています。二つの要素が幸福を形成するので、神は精神的性質と肉体的性質を人間に与えたのです。これらを調和させることによって、神は幸福を期待されたのです。アメリカ人が人を呼ぶ時、手のひらを上にして呼ぶのは、とてもおもしろいことです。実際にそれは、「天よ、こっちに来い。私のほうに来い」ということを象徴しているのです。そして東洋人が人を呼ぶ時には、手のひらを下にして動作をします。それは天の立場に立って、「地よ来い」と呼んでいることを意味します。それは、とても象徴的です。
西洋文明はすべてのものを最小部分まで分析します。しかし東洋的思考は、問題を、要点または核心をねらって全体を把握しようとします。
西洋人は、幸福な時には体いっぱいにそれを表現します。彼らはそれを完全に表し、何ものも隠しません。しかし東洋人には、「あいまいさ」というものがあります。彼は幸福な時、ある時は幸福そうに、ある時は不幸そうに見えます。
歴史を通じて、すべての物質的なものを捨てて、霊的に完全となろうとしたのが東洋的美徳でした。
東洋人は貧乏です。彼らは悪なるがゆえに貧しいのではなく、神によってそう運命づけられているのです。そのため神は西洋文明を、東洋文明のために相互的に準備されたのです。
私たちは一つのことを明確にしておかなくてはなりません。それは、単なる物質文明の行き着く先は、悲惨でしかないということです。ところが、精神文明の行き着く先には希望が姿を見せます。希望こそ、貧しさの末に、私たちが得るものです。
「西洋人よ、どこに行くのですか」と聞かれたなら、西洋人は「私たちは東洋に学びに行くところです」と答えるに違いありません。そのように定められているからです。そして、東洋人は「どこに行きたいのですか」と尋ねられたなら、「西洋へ行きたい」と言うのです。そこで彼らは、今までかつて経験したことのないものを経験するでしょう。
私たちは、物質文明が、その終わりに差しかかろうとしているということを確実に予想できるし、だれもがそれを容易に理解できます。そのことから、私たちはとても劇的なことを期待できます。
西洋人たちが生き残れる唯一の道は、東洋的思考がとても価値あるものだと思えるような、ある道を見つけようと努力することです。言葉を換えて言えば、西洋人は自分自身を東洋思想に服従させ、その中に入って、そこから学ばなければなりません。なぜならば、人は自ら謙虚になってこそ初めて学ぶことができるからです。
理想の拡大
それでは、自分自身を完成させ、完全な配偶者に出会ったあとの、青年の理想とは何でしょうか。そのような男と女、そしてその家庭は、世界中のすべての人を友達にしたいと思うようになることでしょう。世界は、全世界の兄弟姉妹を見ているだけで幸福な人々の群れとなることでしょう。彼らが友達になればそれは麗しい光景となるでしょう。
それは自分の国よりももっと神を愛するという信条を立てた群れです。そのような人たちこそ、世界中のいかなる者よりも、神を中心とした兄弟姉妹を愛することができるのです。それこそが、青年が目標とし得る、最高の理想ではないでしょうか。自分の配偶者を通じて、かつそれを乗り越えて、全世界の兄弟姉妹に愛を広げることのできる人は、成功した人です。唯一の成功した人です。その人は、神を中心にしているに違いありません。なぜならば、神なくして私たちは存在し得ないからです。
もし人間を種子にまで凝縮するとすれば、その種子は何でしょうか。子供が生まれる前に両親がいます。だから両親が自分の根源、あるいは種子だというかもしれません。確かに両親は根源だといえます。なぜなら、種子は根源であり、根源から皆さんは生まれたからです。親、親、親、親……。そしてそれは究極の原因、つまり神にまでさかのぼっていくのです。
すべての生き物の生の唯一の希望と目的は、それ自身の原因に似ることです。種子を調べてみましょう。一つの種子は必ず二つに分かれていながら、一つの袋に収まっています。そしてその小さな部分を取って見ると、それもまた違った袋に入っていて、かつまた二つに分かれています。どんなに小さな種子を例にとってみても、すべてがそのように分かれています。では、だれがそうしたのでしょうか。それは究極原因に相似しているのです。究極原因とは何でしょうか。神です。ですから神は、二性の内容、あるいは二性の性相を一つの不可欠な性質としてもたれているのです。そのほかのものも、すべてそうです。なぜなら、その原理を見習うからです。
もう一つの例を挙げるならば、個人でさえ二つの要素をもっています。――体と心です。もしそれらが互いに対立するならば、滅びます。種子の例において、種子の内部の二つの要素は、互いに相闘うでしょうか。決して闘いません。もし闘ったなら植物にはなりません。万物の霊長である人間はどうでしょうか。個人として、皆さんは一つになっていますか。皆さんは完成されていますか。もしそうでないなら、皆さんは生命を帯びていません。つまり、まだ種子になり切っていないということです。完成された男も女も、一つになっていなければなりません。男と女とが一つになるならば、彼らは幸福になります。どうして男と女は一緒になると幸福なのでしょう。なぜならば、そのようにして彼らは神に似、神に近づくからです。ですから彼らは幸福なのです。
すべての個人は、根をもたなければなりません。そして幹をもたなければならず、それから葉をもたなければなりません。この三つが木を完成するのです。だれが皆さんの根ですか。皆さんの両親です。皆さんは、自分自身を完璧な幹にしなければなりません。
すべての種子は、植物のすべての要素を含んでいます。ですから、種子を植えると根が出ます。根は何ものかから出てくるのですが、その何ものかが種子の中に入っていたからです。幹が出てくるのは、既に幹がその中にあったからで、そして幹から葉が出ます。葉が芽生えてくるのは、既に葉があったからなのです。
木を見ると、それは閉じた円に似ています。なぜ? 神がそうだからです。神が丸いので、木も丸くなるのです。根元は丸く、幹も丸く、枝も丸いのです。丸いものは速く回転できるのです。どこへ行くのにも、たやすく走っていけます。それは、蹴ればどこへでもたやすく飛んでいくボールのようなものです。そのため皆さんは、自分の性格において何か丸い完全なものが必要なのです。
あらゆるものは、三段階になっています。指でさえ、三つの段階、あるいは関節をもっています。そして腕は、手首と腕の上半分と下半分とから成っています。それはみんな三つです。また、頭・胴・足……なぜなら、それが神の原理だからです。ですから私たちは、根・幹・葉という三つの段階を発見するのです。皆さんが、これらの三段階と調和して生きるならば、世界は皆さんのものであり、神も反対しません。
極端な個人主義は避けなさい
現在の私たちの生き方で、個人主義の極端な形は、「私はだれも必要としない。私は自分だけで満足だ。私は親など必要ない」というものです。個人主義は間違っています。それは存在の原理に合いません。つまり、それは種子に似ていないということなのです。ですから、個人主義は正されなければなりません。もし「家庭が一つの単位だ」と言うならば、その家庭の根は両親です。アメリカ人は、「私にはだれも必要ない。自分が必要だ」と感じます。「私は妻を必要としない」と言う人さえいます。あるいは、もし彼らが妻を欲すれば、どこででもお金で片づけることができます。それが神に通用すると思いますか。通用しません。
青年は木の根に似ています。それが青年期です。その期間に、青年は力をつけ大きく成長します。幹が完全な幹として育つには、あらゆる栄養分を吸収する、完全な根をもっていなければなりません。私たちは今、過去のために存在しているし、これからは未来のために存在するのだということを確かめておかなければなりません。それこそが、私たちが今存在している目的なのです。ですから、いつもふらふらしている人や、他人を落胆させる人は、決して実を結ぶことはありません。
青年期こそ、もちろん男性の人生の中で最も輝かしい時間です。一生懸命働き、最高の野心を抱き、世界で最高のものを期待し、そして力の限り仕事をします。完全なる男と完全なる女が成熟した時、その時、いつの日か花が開くことでしょう。花が咲けば、ありとあらゆる良い香りと、かぐわしさと、蜜とが満ちるでしょう。それが愛の始まりであり、それが青年期なのです。
男と女とが一つになれば、彼らはその実を得、それから彼らに似た、何ものかが現れます。それが子供です。これらもまた、同じく三段階です。両親、私たち自身、そして子供。世界中どこであろうと、幹から出て、葉と枝は繁茂するのです。ならば、皆さんは葉が必要ではありませんか。木には葉が必要ではないでしょうか。必要です。そのため、皆さんにとって子供は絶対に必要なのです。
皆さんが自分の内に三つの要素を備えた時、初めて皆さんは男だということができます。ですから、いかなる男であっても、これら三つをもっていなければなりません。利己的な人は、これら三つを自分のために保っています。もし皆さんが、「私は両親を喜ばせるために、これらすべてをやっているのです」と告白するならば、その時、神はうれしいでしょうし、皆さんもうれしいでしょう。だれでもこのような男を見れば、うれしくなるでしょう。だれでもその人に感謝するでしょう。だれでも自分自身のためには何もせず、むしろ自分の配偶者のためにしたいのです。西洋でも東洋でも、黒人も白人も、黄色人もみんなそろって、「そうだ」と言っています。
もし親がただ子供のためにのみ、できる限りのすべてのことをなし、とても一生懸命働いているなら、あらゆる人は彼を見て「素晴らしい」と言うでしょう。私たちは、これが良き実を結ぶための道、あるいは過程であるということを覚えておかなければなりません。幹は、根と葉のためにあります。葉は、ただ幹と根のためにのみあります。そこに理想が存在します。
皆さんは、自分の両親のために、何か良いことをしたことがありますか。皆さんは、自分の両親は自分より以前に存在していたので、皆さんよりももっと貴重だということを考えてみたことがありますか。自分よりも、自分の根を大切だと思う人は「良き人だ」と言うべきでしょう。私たちは、自分よりも、自分の子供を愛する人を「良い人だ」と言います。私たちは、これが最も深い、永遠の善に関する真理だということを悟らなければなりません。
変わらぬ者になりなさい
いったん、一つの成熟した自分になったならば、皆さんは簡単に変わる人間になりたいと思いますか。それとも永久に変わらない人間になりたいですか。根と幹と葉、これら三つのうちで根が一番変わりにくいのです。つまり、葉は幹よりも変わりやすく、幹は根よりも変わりやすく、根は一番変わりにくいのです。
皆さんが木として育つときに、まっすぐ上に伸びたいでしょうか、それとも曲がって育ちたいでしょうか。(まっすぐです)。高く伸びたいでしょうか。それとも低くでしょうか。(高くです)。つまり皆さんは、理想と野望と希望とを求めているのです。皆さんは大きくなりたいでしょうか。小さくでしょうか。(大きくです)。皆さんは、現実が個人的なものであってほしいでしょうか。それとも世界的なものであってほしいでしょうか。(世界的です)。皆さんも木と異なるものではありません。木も同じなのです。これらの輝かしく成長した木は、すべての植物、動物、被造物の中心となるでしょう。時が来れば、花が咲き、実が実るのです。
皆さんは、配偶者のために結婚しますか、それとも子供のためにしますか。(子供です)。しかし、現在ではだれもが自分のために結婚します。
自分の子供にすべてを与える唯一の理由は、そのようにしてこそ皆さんの実が成熟するためです。理想の現実化が成し遂げられるのは、これらの喜びが現実のものとなり、これらすべての原理が一致した時です。
私たちは、私たちが生きているのは将来のためであり、将来において現在よりも良い人生を送るためであるということにまだ気づいていないのです。私たちは、このことが分かりませんでした。歴史を通じて私たちは、結婚したいという思いをもってきましたが、なぜそうなのかは知りませんでした。私たちは、結婚して子供をもちたいと思ったのですが、なぜ子供が欲しかったのか知りませんでした。今私たちは、知りました。それは、いつでも神のため、神に似るためでした。神は、木の例えのように、人類が生きることのできる、完全な世界を見たいと思っておられるのです。
中心との一体化
何が、最も価値あるものでしょうか。最も価値あるものは、中心と似ているものです。ですから私たちは、中心者と似ようとするのです。東に伸びる枝と、西に伸びる枝は、二つの異なる正反対の方向性をもっています。しかし、たとえ方向が正反対だったとしても、一つの幹と一つの中心線があるので、これらはみんな調和しているのです。
私たちは、あらゆる方向とあらゆる形のものをもっています。ですから、今神が必要なのは、一つの中心です。そうすれば、神は価値を判断することができます。神はその基準をつくろうとされているのです。家庭でもそれは同じで、より大きなグループでも同じです。神は、他の者の価値を比較し判断することのできる、何らかの基準が必要なのです。
なぜ神が皆さんに「世界一完全な個人となれ、世界一完全な家庭と国家になれ」と要求するかといえば、皆さんが一つの幹、一つの中心線になるためなのです。一たびその価値、基準が確立されたならば、神はそれとの比較において、諸々の価値を判断できます。
さてこれらのことから、私たちは現在の家庭に対する、新しい理想を得ることができました。それでは、家庭の理想は、どれくらい遠くまで拡大されるのでしょうか。(世界までです)。ならば私たちは、世界を代表する国の中心とならなければなりません。それからその中心の周りに、異なるものが異なる方向に向かうことのできる基準を打ち立てなければなりません。天は、私たちを訓練して、この目的にかなう国の一員にしようと努力されていることを忘れてはなりません。
もう一度結論を繰り返しましょう。私たちは、いかなる歴史的偉業にも決して劣らない、私たちの完成を成し遂げなければなりません。私たちは、歴史上かつて現れたことのない男と女とになるのです。私たちは、世界と人類がもちたいと思うような子供を生み育てます。これが、神のもとに理想の社会と、理想の世界を創造し、獲得することの目的です。
最も大きな理想
神は世界のために、一日二十四時間働きます。私たちは神に似なければなりません。私たちは、神と神の努力に倣わなければなりません。ですから私たちは、いつも一日二十四時間、世界のことを考えていなければなりません。私たちが自らを神のこの理想の上に確立させるならば、その理想は私たちのものとなります。そしてそれは、青年がもつことのできる、最も美しい理想なのです。
さて私たちは、私たちの人生の道程と目的とが、三段階の説明によるごとく、良き子供を育てる神に似ることだと知りました。私たちは、方向性において誤りを犯すことはありません。私たちは、絶えずこの一つの方向に向かいます。ですから私たちのメンバーは、何よりも兄弟姉妹を愛し、何よりも両親を愛するのです。それが私たちの姿勢です。
ですから私たちは他のために生きなければなりません。これが、私たちの後輩にまねさせるために、私たちが確立しなければならない唯一の伝統です。
あまりにもたくさんの一見重大な事柄がありますが、これよりも重大なことはありません。本当です。これが最も根本なのです。
私は、皆さんが神に倣い、すべてを神のためになし、神を理解することを願っています。皆さんの、これからのすべての幸せと安全と、神へのすべての親密さとを祈っています。
興亡盛衰
一九七一年三月二十一日、韓国・水沢里の中央修練所において、訪韓した百余名の日本の統一教会のメンバーに対して語られた、文鮮明師の講話である。
世の中に住んでいる我々人間として、だれもが願うのは、滅びることを願わずに、栄えることを願う。それは、人間の情である。人間ばかりでなく、生きているものはどんなものでも、下等な昆虫においても、滅びることを願わない。存在するすべてのものは、栄えることを願うのである。
我々個人から考えてみても、「成功し、世界的な有名人になりたい。そしてその中心の人物となって、世界を自分の願いどおりにしたい」という心は、だれでももっている。日がたち、自分の将来の時間がなくなるにしたがって、発展の度数が高まることを、だれもが願っている。
しかし、我々人間の生活圏内においては、その願っている「栄える」という立場に立つことは、なかなか難しい。逆に、栄える反対のほうに、ふっとすれば落ちやすい。それに引かれやすいのが、我々が生活している現世の環境である。こう考えると、栄えるには、それに相応した、ある準備がなければならない。
理想を実現するための準備期間
十の目的を願って、それ以上の準備をしている者であれば、その十の目的はもちろん成し得るだろう。それ以上の準備をしていた場合には、その目的を成し得て余りがある。もしもその準備が、十にかなわないようなものであったならば、その十の目的は果たすことはできない。果たそうとしても、八あるいは五までで、それは中途半端に終わってしまう。そうなると、その目的は、自分に必要なるものとして立ち返るかというと、そうではない。なさなかったほうが、その目的を望みとしなかったほうが、かえって良かったというような結果になることが、我々人間生活圏内においてたびたび見られる。それは、個人的にも体験することである。こう考えると、我々人間としては、準備をしなければならない。
まず、その準備は、いかなる目的に向かって準備するかということが、重大な問題である。国を中心として、国のために自分は必要なる人間になり、自分自身はだれにも負けない愛国者になると、そのような心をもっている者ならば、まずその国たるものは、いったいいかなる国か。現在の国ではなくして、将来の国、あるいは現在より以上の国を願う。そういう目標を、はっきり決めなければならない。
次には、その目標は、他人の目標ではなく、自分自身の目標であることを、はっきり認識しなければならない。その目標たるものは命よりも尊いものであるということを、いかに自分自身が体恤し、感ずるか、ということである。自分ながらに望むその理想世界は、観念的なものではなくして、事実、実体としての自分と、いかなる関係を生活圏内にもち得るものであり、またその目的か、ということである。それは、だれかに助けてもらう目的ではなく、自分が果たすべき目的である。この目的のために自分は生まれたし、この目的のために生を営んでいる。それが自分の運命ならば、絶対的運命と思うような、そういう観念に徹して、いよいよその目的に生きたいという人がいるとすれば、それに相応して準備期間が必要である。
十を準備する者もいるだろう。百を、あるいは百以上の準備を願う者もいるだろう。それが世界的になれば、三十六億以上の人の願いが、そのままその目的になる。そのような思想圏になるならば、その思想を果たすにふさわしい準備をしなければならない。そして、歴史上にない強靭な忍耐力と共に、環境におけるつらい多くの場面を甘んじて受けきれることのできる準備をするには、それに相応する期間が必要である。
人間の一生は、六十年か七十年、百年未満である。長くて八十年と見て、八十年以内において、世界的にそれをいかになすかという問題である。そのために、何年で準備しようか。十年間で可能であるか。あるいは二十年間で可能か。それとも四十年か。それを冷静に考えてみた場合には、自分という一人の男であれば男、女であれば女としての、その目的成就の可能なる圏に立つという自信を、人間がもつということは不可能に近い。そうであれば、いかに大きい理想への目的観念をもったとしても、それを果たし得るための、それに相応する準備期間は、十年、あるいは二十年、三十年、四十年以上になる。その準備期間に基盤をつくったとしても、その基盤の上に勝利圏を果たし得るかを考えると、それは準備よりも、行動に移して実行するのが、もっと難しい。
人間だけでは理想世界は成し得ない
そうすると、その理想への目的は、自分が果たすべき目的として迎えていいか、悪いかということが問題になる。これを、そういう立場から考えてみた場合に、人間がいかに大言を言うとしても、世界的目的を一人で完成するということは難しい。決まりきったことである。それは、一つの民族をもってしても、不可能なことである。それは歴史が証明している。「主権者を中心として、国家を中心として世界を一つにしよう。新しい世界に発展させて、希望の世界をつくってみよう」、それを考えた民族、それを営んだ政治家もたくさんいる。しかし、一国家を動員してもなし得なかった。それが歴史の事実であることを考えるときに、果たしてこれはなし得るか、ということである。
それは歴史と共に、多くの人々が考えてきた。しかしそれは、人間を中心として考えたことである。だから、人間を中心として願ったその目的の世界は、人間を中心として、また覆すことができる。甲の人が、理想の世界をつくったとして、もし、それ以上のことを考える人がいた場合には、それは覆される。それを転換させることができる。我々人間の願うその最高の理想世界は、絶対的理想の世界であり得るか。人間を中心として考えてみた場合、相対的理想世界は考えるかもしれない。しかし、絶対的理想世界は考えることができない。だから、人間なりの、人間として願う希望というものは、生まれた環境が違えば違うほど、それは変わっていく。その理想世界は変わっていくに違いない。
自分の命を懸けて、万年の歴史の価値をたたえながら接して、鑑賞すべきその世界たるものは、いったいいかなる世界だろう。こう思うときに、人間同士、頭を使って組み合わせた理想世界は、絶対に、絶対的な立場においての理想世界にはなり得ない。このような結論に帰することを考えるときに、人間以上の絶対なる動機とか、あるいは因縁を結び得る何ものかがあった場合には、それと関係を結んで、全人類が願う目的の世界としてそれを果たし得たとするならば、それは人間同士が組み合わせた理想世界よりは、長く続くであろう。
それがもしも、絶対的で、全能なる神で、一度聖なるものを決めた以上、神自体変えることができないという見地に立つ神であるとしよう。今その神を中心として、果たすべき目的観念が、「絶対的にならざるを得ない」という神の声によって組み合わせたならば、それは人間同士で組み合わせた理想よりは長く続く。それは変わることができない。それ以上の絶対なる人間が生まれない以上は、変えることはできない。
このように、人間のみにおいて考えるときには、絶望に帰する。いつまでも革命が続くという、歴史の悲哀を感じなければならない。その歴史過程には興亡の歴史、盛衰の歴史は繰り返すであろう。そう思うときに、我々人間だけでは、理想というものをもったとしても、それを成すすべがないという結論になる。
その理想というものは、万人に尋ねてみても、万人の心情に問うてみても、そこに逆らう要件をはらんでいる。思えば思うほど希望の要因になり、眺めれば眺めるほど発展の原動力になり得るという理想世界たるものは、人間を中心として果たすということは絶対的に不可能である。だから、人間だけを考えた場合には、悲哀なる歴史観になる。それは、衰亡の極に尽きてしまうような、ある限界内の歴史観にすぎない。そのような希望にすぎないということになる。
宗教による文化圏
そこで人間は、人間以上の力で、人間以上の生命力によって、環境に引かれるのではなくして、環境を引っ張っていく、主体的立場に立ち得る理想世界を願わなければならない。その理想世界は、そうするには、人間ばかりではなくして、絶対なる神がいるとするならば、神自体もそれを必要とせざるを得ないものである。その神を、観念的な、ある空想的な実体としてでなく、生活圏内の神として、歴史圏内の神として、現世あるいは国家圏内を動き得る神として、世界の文化とか、世界のあらゆる制度を動かし得る、そういう神として、いかに迎えるかという問題が、その絶対なる理想世界をなし得るかという問題とつながっている。そのような立場において、人間世界においては、宗教というものがある。
人間が高い、あるいは高尚なる理想を願う心をもっていればこそ、制限や、ある限界を乗り越える絶対者なるものを慕わざるを得ない。それを媒介として、我々は理想世界を誘導してこなければならないという立場を思わざるを得ない。そのような立場から思ったときに、人類の歴史は未来へ未来へと発展してきているが、その原動力となり得る力は、どこから来るか。人間だけの力ではなくして、神に慕い寄る、その思いの因縁から、歴史は発展してきた。そのような摂理になっている。すべて歴史はそうなっている。
我々の歴史に現れているすべての文化というものは、人間が意識してつくった文化ではなくして、宗教を起源としての文化であるということは事実である。そういう内因があるからこそ、そうならざるを得ない。皆さん一人一人も、「我は世界的人物になる」、またその世界より以上の理想世界があった場合には、「その理想世界の中心者になりたい」と、そう思う。その自分のもっている思いの力というものは、ある圏内で望む人においては、その圏内に支配されたくはない。いつもそれを乗り越えたいと思う。それ以上の何かを求めている。それを見れば、その思いがあればこそ、未来の発展の要因になり得る。何かを考え、その思いによって我は引きつけられ、そのような動機があればこそ、現実生活圏内を達観し得る、あるいは忍耐し得る力となる。
自分ながらの良心の望みから考えてみても、そのような考えをもつその時においては、人間は絶対堕落しない。絶対滅びない。何か背負い、暗中模索している、そういう境地に立っている者においては、発展の跡を残すことができる。後退するとか、滅びるとかという結果は残さない。それは我々生活圏内に、皆さんが毎日体験することである。一人の人間の生活を中心として考えてみても、そのような働きをして生きている。
すべての歴史の中心において、その歴史が滅びるか滅びないかという問題も、結局は歴史以上の思想を思いながら、民族であれば民族、国家であれば国家がそれを思いながら、それはみんなの望みであるけれども、自分の望みであると思って、その方向に全国民が進んでいくならば、その国は絶対に滅びない。努力を続ければ続けるほど、それに比例した発展の跡は残る。そのような思いもなくして、体の願うまま、生活圏内に覆われた場合には、滅びる。より以上の目標を思わず、自分ながらの一日の生活圏内に限って、食べれば喜ぶ、遊べば喜ぶというような生活を営む者は、後退せざるを得ない。そのような民族は、滅びざるを得ない。
こう思うとき、それが栄える、発展する、善の結果に近づくという、その根底になる動機とは何か。それは良心であり、その良心を中心として世界とつながる考えをもつ、人格による。そのような考えによって、発展の要因をなし得る。それを慕い合い、そして組み合うところには必ず、ある実体を残していく。それは歴史の事実である。そうすると、数千年間民族から取り去ることのできない思想をもつ民族があるとすれば、世界においてどうなるか。その思想を中心として、いかなる迫害が加わっても、迫害を取り除いて黙々と進んでいくという民族があるか。そういう文化の歴史において、残った文化圏があるか。あれば、それは素晴らしいものになるだろう。
素晴らしいイスラエル民族
皆さんが知っているように、イスラエル民族に対して、「これは素晴らしい民族だ」と、今になってもたたえる。今から二千年前に国を失い、民族はばらばらになり、放浪の民になってしまった。国を追われ、部落を追われ、世界に散らばったイスラエル民族が、数千年の間それを我慢し、乗り越えた。その原動力とは何か。それは、憎しみを中心とした考えによって乗り越えたのではない。唯一神による、その信仰である。
「我々は選民である。選民の行く道は世界を救うため、こういうような苦労の道が妥当な道である」、このように思う民族ならば、それは素晴らしい民族になるであろう。
しかし、イスラエル民族においては世界に追われた。そして苦労しながら、選民思想に徹した考えを全部がもって世界路程を通過したのではないとしても、その中に核心となる、中心となる幾人かがそういう思想をもったならば、その思想は再び春に向かって芽生えてくる。そう思うとき、イスラエル民族史は、一九四八年以前までは、悲惨な歴史である。だれもその歴史を慕う者はいない。彼らと接する環境とか因縁をもちたいと望むものは、一人もいない。ナチスによる虐殺の歴史をもっている。
そのような境地に立っても、方向を変えなかった唯一神を中心としての選民思想たるものは、これは難問である。彼らは、数において負けている。外的においては包囲されている。もう今すぐにも消えてしまいそうなものである。しかし、消えることはできない。消えてしまうような形をして、何千年も続く。何千年ばかりでなく、何万年も続くとするならば、それは時が来た場合には、必ず世界を制覇する素晴らしい民族になる。
このように思うときに、イスラエル民族の、肉体をもった国民が偉いのではない。その国民に付いている思想が偉い。しかし、神はこういうイスラエル民族を、再び建国の主人として立たせることができなかった。イスラエル民族史がそうなっていない。かつての民族史以上の歴史をつくり得る聖人たちがいない。
しかし、そこにおいて個人の迫害はもちろん克服した。家族同士の迫害も克服した。民族間のその迫害も乗り越えた。一国でなく、ヨーロッパ全体、世界全体の主義を主張する、そういう世界圏国家群を迎えても、それを乗り越えた。何をもってしても、死、死、死でもって対抗しながら、後退せずに乗り越え、結局は敗者のようであるけれども、勝利の一日を迎えたのは、ナチスではなくして、イスラエル民族ではなかったか。
新しい思想「統一思想」
このように思うとき、世界をつくる動機たるものは、外的条件ではない。外的条件に近くなればなるほど、それは滅亡の道に近い。だからあらゆる文化圏というものは、ある頂点に達した場合には、必ず滅びる。なぜ滅びたのか。それ以上の目標に向かって進んでいくという、精神的な原動力がなかったからである。このような結論を出すと、歴史上に現れたその文化圏が滅びずして、数千年の文化と共に、歴史と共に残った場合には、いかに素晴らしい文化的世界になったことであろうか。
驚くばかりの文化が、なぜ滅びたか。なぜそこで尽きてしまったのか。その背後を思うとき、それ以上押しつける精神的背後の原動力がなかった。そこには、国という観念が少ない。民族における民族愛が欠けてくる。家族なら家族の、母を中心としての関係が薄らいでくる。自分なりの生活観念も真剣でない。これを見ると、世界の文化も、世界の民主主義国家における先進国家も、本当に幸福かというと、そうではない。外的基準の文化が、永遠に続くことは絶対にできない。今までつくり上げた文化基準以上の精神的母体がなければ、世界にたたえられるような文化圏として、あとの歴史に残すことはできない。
この観点から見れば、日本の現状はどうか。これは敗戦の悲哀を感じて、もう生きる道はない。命をささげて、もう一回奮発しなければならない。奮発するには、まずもって何を考えなければならないか。昔、戦争する時より以上の新しい決意を立たせなければならない。その決意を何によって立たし得たか。いろいろ環境もあるだろう。アメリカの援助とか韓国動乱の恵沢を受けてとか、そういうことも復興の契機になったのであるけれども、日本における昔以上の、心身共に一致し得る基準が満たされたところにおいて、復興の道をたどったに違いない。このようにして、戦前より以上の経済的文化圏を果たすことができた。では、今から日本はどのようになっていくだろう。これ以上発達し得るか。
日本自体を思ってみた場合には、日本は加工産業国家である。原料がない。これは、ある次元の限られた圏内においての発展は許されるが、もしも、周囲の国家圏における資源を補給している国々が先進国家圏になった場合には、日本は自然と絞められる。そうならざるを得ない。自分自体で自給自足し得る、文化の原因となり原動力となり得る、外的の経済的資源をもっていない。それは他国に依存しなければならない。これは絶頂に達した場合には、どうならなければならないか。それは下がる。必ず下がっていく。依存しながら、よその国を助ける国は絶対ない。それは今までの国としての鉄則である。日本をもうけさせてやって、自分の国がマイナスになりたいという国はない。だから日本において、物的発展の基準をたたえる、そしてそれを中心として満足し得る立場でもって、日本自体が永遠に続くかというと、そうではない。絶対そうではない。それが続けば続くほど、それは腐敗する。
国民はみな分解されていく。自分なりの国家という観念を失い、氏族観念をもつようになる。そして、氏族観念を失い、自分の家族を中心に考える段階になる。家族みんなが自由な環境圏に立つようになると、結局二人、夫婦、男女関係に尽きてしまう。その男女関係に尽きた場合には、人間として落胆してしまう。その実証の実体として現れたのが、ヒッピー族である。「権力とか国家とか、何か社会制度とか、それはみんな主権をもっている何人かの主張を満足させるための体制であって、万民すべてを幸福にさせるものではない。国家はいらない。アメリカ民族もいらない。自分の家族もいらない。自分は父母によって生まれたのであって、他の人と何のかかわりあるか」。このように、みんな分散してしまう。
これを大雑把に見た場合、新しい思想として残る道は何であろう。人間以上の内容をもつところによって、それは求めなければならない。そのような結論になってくる。歴史圏内に今まであったそういうものではなくして、今まで思いもよらなかった新しい宗教観念である。絶対なる神の存在を、感覚圏において感ずる、体恤し得るようなもの。神の認識圏を我々万民に、普遍的に、可能なる認識圏を与える新しい信仰観、それが必要である。そう思うときに、宗教世界においては再臨思想が残っている。その思想たるものは、落胆の、堕落の絶頂にいる万民に対して、一つの願いの、望みの神として会ってみたいという、要望の要因としてある。その立場から見た場合には、「統一思想」というものは、この現世でなくして、未来に続く新しい世界において、大なる貢献をするのではないか。そうしなければ、世界は滅びるであろう。
この文化圏に包まれて、この文化と共に定着してしまうような宗教ではいけない。毎日の信仰生活圏内において刺激され、破竹の勢いでもって打ってかかり、打破してしまうような、新しい何ものかを残し得るという、実績を求められるものでなければならない。それを果たし得るか、それが今後の問題である。
主体性をもつ
我々の活動というのは、一日生活圏内において働くけれども、その内容は、歴史を代表している。生きた歴史の実体として花ざかりの青春を懸けるとき、現世において、この何人かの結団こそは世界的であり、いかなる文化圏でも果たし得ることのできない、そのような結びつきである。世界はそこから生まれてくる。
今このように思うときに、皆さんは「統一思想」の勇士である。いまだ日本歴史になかった思想圏に立って、あるいは宗教圏に立って、両方のすべてを総合し得た新しい主体性をもたなければならない。そして、世界的な日本のまっただ中に立っているというような信念に、いかに徹するか。これが間違いなく、万民の願う理想圏に立ち得べく、後継者となり得るか。事実そうか。そこに徹し、そこに決意せよ。誓いの的とともに、誓いの実体となり得るよう、そういう自覚の本源とみなし得るような感覚圏に、あるいは体恤圏に自分が立っているか、それが問題である。
それができていなかったならば、理想がいくら偉大であったとしても、それは皆さんには関係がない。それをもしも体恤したならば、ユダヤ民族が数千年の歴史を通過したとしたなら、我々は数万年の歴史をも徹して生き得る。歴史を顧みながら悲哀した場合には、それ以上の人であるならば、内心がそこに潜んでおり、原動力がそこに潜んでいるという肢体を認め、確信し、自覚し得る肢体になっているかどうかということが問題になる。そうなっているならば、一億がいても、問題ではない。固いものがあった場合、そこにぶつかると、柔らかいものはみな割れてしまう。何千、何万、何億あっても、問題ではない。強靭で、強固で、確固たるもので、だれもそれを変えることができなければ、「絶対的に強し」と言う。それ自体を発見した一人があった場合には、その一人によって、歴史は変わる。
皆さん青年は、今からこの日本の歴史を受け継がなければならない。将来の日本は、皆さんの勝利圏に、だれもが集うであろう。いかに日本自体が、自己の路線をもって勝利圏に立ったとしても、その主権が日本を担うのではない。担ったとしても、それは日本を有するための準備の過程の、そういう主権圏であった。それを最後において愛するような主体的な思想の核を、日本のあなたたちの中になしているという自覚心をもって、それに向かって環境が変わっても、それに影響を受けずに徹した路程を行くならば、必ず、あなたたちは日本の中心になる。だれが何と言ってもそうなる。それがアメリカだったら、アメリカに何人もそのような人がいるならば、アメリカの歴史を変える。もしそういう人が一人でもいたならば、その一人によって民族は変わる。いくら数十億の人類が世界中に生きていても、そういう人が地上に一人でもいた場合には、地球は回る。人類は回る。結局はそうなる。それは決まりきった結論である。
そうすると、あなたたちが、こういう自覚に徹した場合は、日本や世界は、自分の手の中につかみ得る。つかむばかりでなく、自由自在に動かし得る自信をもって、それに何倍かの迫害が加わってきても耐え忍び破れないというようでなければ、何十年、何百年を続けて治めることはできない。それは何年間にそうなるかといえば、長くて三十年だ。四十年もいかない。
目的観念に徹せよ
あなたたちのある者は、「自分は何大学を卒業して、社会へ出た場合には、自分なりに幸福なその若者になったはずなのに、これなんだ」と、そう言う者がいるかもしれない。
不平を抱く者には、希望がない。不平をばらまく者には、希望がない。絶対的に滅びる。それをはっきり知らなければならない。迫害の中にあっても、不平を言わない。ガンとして走る。未来に向かって、死んでも落胆せず、喜びを抱いて死ぬならば、その人は歴史に残る。この思想は歴史を建設する。それがイエス様の思想である。不平を言いながら死んでいった者に、愛国者たるものは一人もいない。
親孝行する者は、親のために死んでいくのであれば当然である。正々堂々と、男として行くべき当然の道であるというように、これは親孝行なる者が行く道である。
ある者は普通の生活圏において、その道を行く。ある者は幸福な圏内において、そういう道を行った。ある者は一番貧乏の中で、その道を行ったとする。その中において、だれが親孝行の第一人者になるか。貧乏中の貧乏の中でそういう道を行った者が、親孝行の伝統の先祖になるのである。
歴史の主人にはだれがなるか。歴史の中で、宗教において、貞節を守るためにいかなる迫害の道でも甘んじて死に、乗り越えていったものは、キリスト教である。現世に生きているキリスト教文化圏である。しかし、もうそれは花ざかりを過ぎて、においは過ぎ去っている。そうすると、「統一思想」は世界を統一する。世界万民の、半分の半分くらいが「統一思想」になる。その思想のゆえに「殺してしまえ」と言われても、一遍で死んでしまうような思想、これは一遍で世界を占領してしまう。
だからあなたたちは、どういう道を行かなければならないか。滅びる道、衰える道、そういう道には行きたくない。栄える道、発展し得る道を行きたい。行きたいという目的観念に徹せ! それは人間ばかりの目的観念ではない。「統一思想」においては、神の心情をもちたいという。これは偉大な発見である。
天倫と人倫を一つにする
人間には人倫がある。人倫の母体は何か。国を愛し、家族を愛す。忠孝というのは、何につながっているか。法則につながっているのではない。情につながっているというのである。情の基盤を無視した理想観念は滅びる。希望とか、安息とか、喜びの観念は、情的基盤の上に立っている。人倫道徳を主張する者は、人情の基盤を無視した観念に立っている。それは無味乾燥である。人倫に対し、天倫がある。天倫があるということは知っているんだけれど、天の法則、天の原則、天の情を言った者は、一人もいない。
天情と人情が、いつも反発した場合はどうなるか。天情があれば人情を通じなければならない。天倫があれば、人倫を通じなければならない。こうなるのである。だから、良心の法則というものは、憲法第何条と言わなくても、良心のほうでは永遠に正視した立場に立っている。教えなくても、教わらなくても、それは分かるようになっている。悪いことか良いことか、みんな分かる。良心が喜ぶような情的内容は、なぜ分からないか。良心による情的内容を教わらなくても、分かるようになっているのであるけれど、その内容が分からない人がいるので、我々が善と悪を分かるようになって、それを救ってやらねばならない。そういう人間がまだまだ残っている。そこには理論的根拠がある。
そういう立場で見た場合、神が喜ぶ主義とはどういうものか。もしも神が喜ぶ理想世界、理想圏があるならば、その理想圏、神の理想とはどういうものか。我々においては、それは推し量る理想である。しかし、「こうだ、ああだ」と人間が言うような内容でもってつくることはできない。そういう理想であれば、その理想は我々には必要ではない。創造が問題である。創造を人間が否定してしまうことは絶対にできない。否定した場合には、崩壊とか、破滅になってしまう。そう考えてみた場合、「統一思想」は、神が喜ぶ思想であるとともに、人も喜ぶ思想である。神ばかり喜ぶ思想であったなら、神は孤独の神である。
いくら偉い神としても、一人では何もできない。もし、あなたたちが日本一の学者になったとする。そして一人ぼっちで図書館で座って、「ああうれしい」と、何もないけれど大声で笑っている。こういうのは、どうなったというの。「頭が回ってしまった。気違いになってしまった」と言う。神はいかに絶対なる神でも、いくらささいな被造物を中心として喜びを得たとしても、神の権威は落ちないというのである。相対者がいなければ、神は滅亡である。希望がない。発展の要因も、満足もない。すべてがない。男がいくら理想をもったとしても、女なくして何もない。男がいくら世界を救う自信があるといっても、女なくしては、おしまいである。その理想を、女と替えるか。「替える」と言う。それは何を意味するか。実体の相対者は、何より貴い。そうしたら女の価値が上がる。女が、歴史上たたえて余りある美人であるとして、男なくしては大変になる。その顔もいらないという。貴いものすべてをやっても、替えるという。相対者なきところには、希望も何もない。
絶対という言葉は、相対を認定しての言葉である。否認しての言葉ではない。絶対というのは、もう既に相対関係を言ってしまった結果の言葉である。相対があるから絶対がある。神様の希望というのは、神様ばかりの希望ではない。それではかわいそうな神様である。人間ばかりの、世界を中心としての希望をもっても、神は世界一の、天宙を主管する神様であるから、その人間自体の理想には、神様はびくともしない。そうであれば人間は、最後には落胆してしまう。「あなたと共同作戦し、世界的に共同して、つくり上げる理想はないでしょうか」、そう聞くようになる。神があるとすれば、そうならざるを得ない。
結局、人間だけの結果の世界を願うのではなくして、神と共同して協議してつくる世界を、自然と願う。そういう方面から見ると、「統一思想」たるものは、善人を乗り越えて、天上と地上、天倫と人倫が一つとなり、男、女を中心として一つとなるものである。偉大な発見といえば、偉大だ。それを妨げる者はいずこにいるか。
「統一思想」によって祝福された家庭を否認する家庭は、それ以上の理論と、それ以上の理想の基盤をもった者でなければ、それは信じられない。
このように考えた場合、一人の男は「天地」の天を象徴し、女は地を象徴する。それらがすべての象徴の実体となる。実体ばかりではない。これらが完全に一体となれば、宇宙と完全に一体となるというのである。人間だけが一体となるのではない。神も喜びで一体となる。その原理の根底をもった先生が素晴らしいから、素晴らしいのではない。内容が素晴らしいから、素晴らしいのである。
必要な再臨思想
聖書を研究した場合、「統一原理」にはとても勝てない。八百年から百二十年かけて書かれた聖書である。そこに一貫した思想の内容がつながっているということを発見した。聖書をそのように書くということは、人にはできないことである。その思想が六〇〇〇年の今の末の時期において、世界に現れてきた。この内容は、だれも見いだし得ない。それは旧約聖書を中心として新約聖書を解明し、新約聖書ばかりでなくして、現世の世界発展の現状と一致する結論を出しているということは、これは素晴らしいものである。
あなたたちは知らないけれど、蕩減の道というのは世界に進行している。これを見た場合、もう遠くない。我々の自由な思想圏が、もう目の前にころがり込んでいる。我々に向かって突進してきている。それを料理し、人々を指導し得る人材としての日本の若者として、要は、どういう決意をもっているかである。問題は、自分である。我々が問題である。自分を中心としての強固なる信念、これを貫いた場合には、我々は自分の生命はもちろん、先祖たちの生命も復帰し得るという話を知っている。
自分一人の生命を抜いてしまった場合には、霊界の先祖たちの生命もつながっているから、それも引っ張られていく。自分を引っ張っていくということは、後孫たちが引っ張られ、歴史が引っ張られてくる。それを自覚し得るか。だから我々は、三時代を代表している。歴史を代表し、現世を代表し、未来を代表している。過去の世界においては、希望たるものは未来に向かって、突き進んできた。未来に向かっての希望である。未来、未来、未来というふうに、希望はあすにあると思った。なぜ、あすにあるか。きのうあって、昔あったなら、どうなるのか。希望を過去の中に振り返りながら、喜びながら見るのはどうか。何もないところに苦労しながら、希望を探すようなつらい歴史ではなくして、なぜ希望が昔になかったか。そういうこと考えたことある? 将来の歴史は、そうではない。今、我々が正そうとする歴史は、未来に残る歴史、未来に向かって進む歴史ではない。未来を動かす。現世圏内にいて、未来の価値より以上にたたえる歴史観である。未来における歴史は、過去を宝としながら、それにつながって発展する。
そうするには、理論的な体系ばかりではない。法則、制約、規約ばかりではない。そこには心情的問題が、歴史より以上の問題として根を下ろしている。これが神の父母の心情、真の父母の心情である。この思想は、永遠に残るであろう。真の父母を中心としての生活圏は、真の生活圏にならざるを得ない。真の父母が地上で生活していったその生活は、万民共に真の父母と認める以上は、それを生命の糧として、自分の将来の基台として、これを侍らざるを得ない。だから歴史を否認していくのではなくして、歴史をたたえていく。現世の実体と、その価値を比較対照し得る主体が待たれている。
だから自分が幸福なるものか、不幸なるものか、すぐ分かるようになる。今はそれが分からない。今の歴史はそれが分からない。自分が不幸なる者か、分からない。それは宇宙的な基準がなければ、自分はどういう方向に立っているか、東の方か、西の方か、南の方か、北の方か、分からない。今からの歴史は、そうではない。ちゃんと分かるようになっている。だからより以上の希望に向かって、未来に向かって、希望を抱くような、望むような世界ではなくして、過去を慕いながら、現世を生きる、こういう歴史になる。反対の歴史になる。堕落しなかったら、そういうふうになったんだろう。
あなたたちの使う言葉は、万民共に使う言葉である。そういう文化の環境は、世界的文化圏になったであろう。いくら歴史が発展しても、その基準を外れては現世が成り立たない。滅びるものは現世の歴史圏において流されてしまうものである。滅びてしまう。尽きてしまう。それ以上の基準でもって、あすの未来に再出発しよう。そうすれば、この堕落世界が過ぎ去っても、我々の愛する理想世界は、神によって残るであろう。
今までは、人間だけの世界であった。人間だけの歴史であった。神を中心とする歴史は、世界的になっていない。それは宗教的にはなっているのだけれど、世界文化的にはなっていない。だからそういう時代を中心として、再臨思想というのは、現世においてこれは、望まないようにしても、望まなければならないような立場に、自然と立つ環境にあるのである。
みんな尽きている。西洋人は、もう自分の西洋思想にはついていけない。東洋思想を訪ねてくるようになっている。それは人だけでは、尽きてしまう。神を中心としての思想というものは、これは当然、結論として押し出さなければならない。ことに「統一思想」は、これは願っても願わなくても、神自身、これを万民のものとして、絶対的理想として願わなければならない。そういう理想に立っているとするならば、あなたたち自身が、そういう理想観念に立ち主体性をもった者になっているかどうか、問題はそこにあるのである。
自分の生命を、何のために費やしていくか。「自分のために、子供のために」。自分は何のために生まれたか。「この理想を迎えるために」と考える。これ、ずーっと来たった歴史過程に、今日たった一時で迎えるべき、その一日、絶頂圏に達して旗揚げするために生まれてきた。これは素晴らしいことである。自分の歴代の先祖たちは、何のために今まで生まれてきたのか。「自分一人を残すために、今まで生きたり、死んだりしてきた」、そう思うのである。先祖たちは、そう思ってくれると、喜ぶ。あなたたち、先祖の立場に立ってみなさい。喜ぶか、悲しむか。まずもって先祖たちは、喜ぶ。先祖たちは希望をもつ。「後孫に自分より偉大な者が生まれてきた。何代目の先祖さん、自分は何代後孫のだれだれだ」と言う。十代、二十代は遠い。近いほど価値がある。彼は私の孫だ。孫よりも、私は子供だった。おじいさんより、お父さんが偉い。先祖を集めて、会合をやろう。いろいろ集まる。「だれそれさん、ありがとうございます」。向こうであいさつするようになる。そうなる。向こうは希望を果たし得られない。そういう希望圏外で死んでいった。その希望をなし得る勝利圏に立つその者は、偉い者になる。
歴史上の先祖たちの復活体としての「自分」という確信は、なければならない。その先祖たちに、「第一にこうやり、第二にこうやり、第三にはこうやらなければなりませんよ」と教える。先祖たちは、「は、は、はーい」と言うのである。絶対的にそういう立場に立つという自覚をもったことがあるか。それを考えたことがあるか? ないか? あるとするならば、それは偉いものである。「統一思想」によって、そう考えるようになったとすれば、偉いものである。
先祖を中心として決意する。それは恥ずかしくない決意でありたい。現世において日本に一億の民があるとしても、我一人と替えることはできない。それを考えたことあるか?
一億の何倍、何億倍の価値がある。数で考えた場合、一億分の一でしかないだろう。価値からすれば、一億、何億倍になる。そういう自信、価値観を体恤したことあるかというのである。日本内にいる君たちだ。絶対日本が我々を必要とするというような、影響し得る動機の主体にならなければならない。影響される者になっている。それでは、生命はない。そういう自覚をもったことがあるか。たった一人であるけれど、日本人を率い得る日本人、それ以上の日本人、それは気持ちいいんだけれど、日本内の日本人、それは気持ちが悪い。
氏族のメシヤ思想
あなたたち、勉強好むの? 好まないの? 勉強をしたいという者、手を挙げて。(はーい)。手を下げて。勉強したいというのは、勉強すれば希望があるし、成功するということを知っているからであって、もしもそれを知らなかったら、勉強はしたくない。勉強、だれがするの。なぜするか。これに比例して、何か自分に受け入れるものがあるからという希望をもっているからであって、それがないとすれば、勉強はしたくない。本当は勉強はつらいものである。本当は、春の陽気の花盛りを眺められる、においかぐわしい環境になった場合、「ああ勉強したいなあ」と言う者がいるの? 仕方ないから、勉強をする。渋い顔して、歯を食いしばってやるのである。なぜ。今喜ぶ春より、何十倍より以上の喜びの春を迎えるためである。
壇上で大きいことを言う先生であるが、今まで何をしたか。何もしていない。有名になったのは、悪いうわさだけである。良くないうわさで世界的に有名になった。そのうわさを考えると、胸を悪くするような思いをするのだけれど、それがなければこういう道は行かれない。有り難いものだ。それがあればこそ、だれもできない統一教会の文さんになる。先生になれる。分かる?
みんな、歓迎する。みんな一から百まで、生まれたばかりの子供まで、「はい、はい」と言うような具合である。それは、だれもがそう言う。だれでも、競って歓迎する。しかし、願わない世界を開拓すれば、願わないうわさも起こる。願わない開拓の基準が、願うより以上の基準に立ってみれば、世界は一遍に、あーっと転がってしまう。そういうことを、ちゃあんと秤で計って、間違わない計算、それから実証の価値の内容を見つめているからこそ、こんなことができる。それはつらいことである、本当は。
腹は減る。腹が減るのを喜ぶ者は、死んでしまう。真実中の最高の真実は、腹が減ること。御飯がおいしい、欲しいというのは、最高の真実である。それよりもっと高い、最高の真実は、愛したい。そうなる。眠りたくても、こういうふうにして、これより以上の何かを収穫する、収めることがあるからこそできるのである。なければ、これは無能なことである。
そこであなたたちは、歴史始まって以来、林家なら林家において、我は王様だ。これは、氏族のメシヤ思想である。それを、日本のすべての氏族圏内にあっても、そうやる。一年過ぎても、十年過ぎても、思えば思うほど、懐かしく考えれば考えるほど、おもしろい。そういう思いで満たされるような立場、そう考えたことがある? 神はこれを愛して、我が氏族のうちに自分というものを選んでくださる。何々家、林家とか、氏族を中心に、たくさんの姓がある。だから再臨の時は、キリストと共に、王様になる。天の氏族になるのである。再臨の主は、世界的中心の先祖だけれど、あなたたちは氏族の中心として、同じ先祖である。だから、現世を総括しての中心者には間違いないという確信をもたなければならない。
現世、我なくしては成り立たない。反対する歴史は後退すべし、そういう確信をもて。自分の行くところには、すべてが続く。神も願うような決心をもたなければ、その氏族なら氏族を代表して、復帰の手を伸ばすことはできない。何にも負かされない、そういう自覚をもったことあるの? あるいは、そういう自覚もちたいの? (もちたいです)。もちたいのだから、もったことないということではないか。そういう観念、自覚をもたなければ、動機が生まれてこないというのである。動機なくして、結果が生まれる原則はない。そういう信念でもって立ち上がり、やろう!
何日くらいやるか。一時間やろうか。やろうとする時間が長ければ長いほど、勝利の圏は広くなる。十年間やろう。それは短い。何十年やるか。原理的に見た場合、何十年、少なくても四十年。四十年は二十年と二十年を合わせて四十年にしよう。二十年は三掛ける七で二十一。寝るのも、食べるのも、行くのも、そのためである。それ以外、一切許されない。当たるものは、みんなこっぱみじん。
そうすると、その道には、立ちふさがる障害物が出てくる。自分の決心が大きければ大きいほど、「事実そうか」と言って立つ者がいる。そのような体験をする。これこそ自分の敵だという場合、日本において一騎打ちというのがある。これこそ万年の怨讐との最後の一騎打ちだ。日本刀をひゃーと抜いて、そういう気持ちだ。さあ、君の実力を果たせ。
日本一はだれか。私は少なくとも七等、あるいは三等以内には必ず入る。その人が十二時間働くならば、私は十六時間やる。それ以上、二十時間やる。そう決めてかかる。やる。厳格に。日本的にならずして、世界的になる。
先生は、帝政時代にいろいろ拷問を受けた。打て! 角棒で何人かがする。打て! 打たれて、自分の決意を捨ててしまうような男ではない。そんな生易しい男ではない。死んでも復活して、何回も戦わなければならない。自分はどういうものであるかを示す立場にある。生死の境、死という問題は易いものである。そういうような訓練を思う。二つとない訓練の場だ。いずれの場所でも、それはやる。敵が向かってきた場合には、後退するな。真っ向から戦え。戦うには、何年ではない。何十年、一生涯、一代でできなければ二代、三代……五十代、百代続く。結局は、それは勝利する。
そういう自覚を、あなたたち、今からもつだろう。どうだ。(はい)。日本内の日本人としての統一教会、それは資格がない。やろう! 第一作戦、第二作戦、第何十作戦、第何百作戦。夜も昼も、食べずしてやっていく。四年間で、すべての戦いをやり尽くす。しかし、その反面、勉強はびりにならない。優等生になる。
そうすると、一番必要になるのは時間である。時間の問題が先立つ。それにはどうするか。寝る時間を切ってしまう。食事の時間は、一時間は長い。たった三分あれば済む。日本の立ちうどんは、食べるのに三分かからない。先生は、もりそばをよく食べたものだ。汁に浸したら、一口で入る。そのようにする。
韓国では反対され、たった一人である。家もなければ、何もない。むなしい詩があるだろう。「金もなければ死にたくもなし」。だれもいないよ。金もなければ服もない。何もない。みんな、ない。環境もなければ、国もない。自分の兄弟もない。たった一人。同情し得る、感傷し得る、その価値を求めていく。そういう男の行く道は悲惨なものだが、それは価値ある生涯だ。過ぎてみると、結局は自分は敗者ではない。そういう観念だということを、あなたたち、自覚をもつか。
三十代までは準備期間
今から興亡盛衰の結論を出す。一生涯というのは短い。一生涯を区分する。何年から何年までには何をする。何年から何年までには何をする。一生涯のプログラムを作る。そういうプログラムを作ったことがあるの? (はい)。自分は世界的な道を行くということを、はっきり分かった場合に、それは可能である。自分の道があいまいだったら、それを立てることはできないが、私はあそこに行くと確定したならば、可能である。それは正に間違いない道において決定した。そして行ったならば、その人は素晴らしい成功をする。
だから人は、大概十七から二十三歳まで、その期間において、「自分は何になる」と決定する。高校二、三年から、大学四年までの期間である。これが精神的思春期になるだろう。そこにおいて、希望も理想もかなえられるような気になる。自分なりの本性、本心、青年として、自分としての肉身、良心も、完全に一つになって希望に浸される期間が思春期である。その時において、女とすれば、世界のお姫様に自分がなったような気になる。そういう心情になる。素晴らしいマラソン選手を見た場合には、自分の希望は、「マラソン選手になること」、立派な牧師を見た場合には、「自分も牧師になりたい」と思う。みんな世界において有名な者には、自分がなりたい。そういうように思う時は、みんな思春期である。そこにおいて、「自分はこういうものになる」「そこにエネルギーを消耗する」と、それを確定しなければならない。
それから三十歳代まで、この七年間は、そのような目的を中心として準備期間として費やせ。イエス様もそうだろう。イエス様の出発は、三十歳からである。三十まで日本的になるには、日本的なことをする。いろいろ体験する。大衆を指導していくには、大衆との内的結合圏を完成しておかなければ、それはできない。そのためには、何でもやってみる。一心をもって、何でもやろう。一番最短距離の幸福を収めようとするか、あるいは、解放的な分野において、自分なりに、自分の力の及ぶ限りにおいてそれを求めるか。まず第一には、アダムを中心にやることにおいて、自分のそういう活動をやってみたい。
やっぱり大きいことをするには体力が問題である。外的基準、そして情的問題において、自分はどういうものになっているか。女に弱い男がいるだろう。眠っているような、女に好かれるような、いつもそういう顔つきをした男がいるだろう。それは、男として生涯の道を汚すか、それを曲げるかする。それは情的問題である。これは、行くべき道において処理しておかなければならない重大な問題である。
君はどういうような立場に立っているか。それに自信があるか。それにはテストをやってみる。日本的な美人がいるとする。その美人が自分に完全にほれた。命懸けて自分に身をささげていきたいという、何でも従うという女がいた場合、それを完全に否定することができるか。初めから否定するような腹でかかるのではない。同じ情的立場に立った立場から考えて、み旨を思うとき、何の未練もなく切って、それを退けることができるか。そういう訓練をやる。将来いろいろ、そういうようなことが起こってくる。それと対決し乗り越え得る、自分自体の準備をする。この期間においては、そういう見解を言わずして、テストをやってみなければならない。
自分は重労働に、どれくらい耐え得るか。先生は、そういう重労働を学生時代にやった。いろんなことをやる。もしも「統一思想」を主張した文先生が、貧乏になったとする。貧乏に追われ、悲惨な境地に立った場合には、「統一思想」を捨てるかどうか。そういう境地でどうか。「これ以上になっても、どうなっても、私は行きます」という決意を決めていくか。そういう防波堤をずっとつくる。君の気持ちはどうか。それが銃殺か、木にかけられて死ぬか、大衆によって石打ちされて死ぬか、いろいろなことを考える。その時には、頭が割れて血が出るかもしれない。どこからひどいけがが始まるか、足か、手か、頭か、それは胸か。その時に何を思い浮かべるか。君たちとしては、こういうことを考えなければならない。ちゃーんと公式的に条件をつけて、テストする。
そういう死を覚悟した道において、先生はまだ死んでいない。だから、まだまだ行かなければならない道が残っている。一度その死を迎えられる、その時がいつであろうか。もしも、これが地上で果たし得られなかった場合、霊界に行って神にいかなる感謝をしなければならないか。そういうことまで真剣に考える。君、こういう環境において後退するか。そのように、完全な準備を整える。
あななたち、父母が反対するって? 先生が反対するって? 何だ! 国が反対するって? 何だ! 世界が反対しても我は行く。最後まで、天のお父様が反対しても、我は行く。そこまで行く。先生が歩んでいる時、四十日以上、神が直接反対したこともある。やる! 霊界を総動員して来る。これは神の国の国賊である。許されない。天地共に一遍に崩壊させてしまうような、そういうような怨讐の中の怨讐である。
我たどってきた道は、正当な道に違いない。それを保証しる実証はいくらでもある。きのうの善なる神は、きょうの悪なる神になるはずはあり得ない。「実証を失い、今こうなった神はもう神として立っていた善なる神でなくして、偽りの神でなければならない。これは何か。事実はこうだ」と言えば、「分かった」と言うのである。
そういう戦いをやって、「統一思想」は地上に生まれるようになった。これは現れなければならない。机の上で考えて、ああだろう、こうだろうと適当にやった基盤でもって生まれきては絶対にいない。そういうような軽い価値の、ちっぽけな価値の統一教会ではない。それを試してみる力がなければ、信じなければならない。信じてそれを試されるような位置を待って、力を尽くして働いていかなければならないのが、あなたたちの行く道である。
三十代までには、準備しておかなければならない。日本において、先生はみんなに変なことをやらせるかもしれない。三十代までは準備期間である。ありとあらゆるものにぶつかっても、すべて自分の材料としてこれを貯蔵しておけ! 世の中は複雑である。つながっている、ありとあらゆるものを消化する。消化する王様にならなければならない。主体的存在になるためには、すべてに神がいる内的基盤を準備しておかなければ、それはいつか思わざる時において、引っかかって倒れてしまう。準備しておけ。自分なりにみ旨のために、その解答の立場に堂々と立て。命懸けで立て。若き胸が鼓動する、その鼓動より以上の強い決意でもって向かう。その姿は、真実の姿である。その目つきは、何を貫通し得るか。凝視し得るか。自信をもって、そのことに向かった場合には、ぶつかる。
反対するものは、いい材料だ。いまだ生涯になき環境が我々に与えられた。その環境が将来、自分の日記に残る。新聞記者が記事を書くような材料である。あるいは、山に登って体力もつける。時には、山で生活するようなことも覚悟しなければならない。山に行く場合には、食べること、着ることを研究しておく。雪に覆われて、食べ物がない場合もある。洞窟に入って、何日も過ごさなければならないこともある。だから断食もする。寒い冬に、肌着一枚で生活をしてみる。これ以上のことがあったらどうする。準備しておかなければならない。
そういう観点からすれば、若者たちは、朝も、晩も、昼も、夜も、休まず訓練させる。室内訓練ではなく、実地訓練である。険しい山があれば、我々はトンネルを掘る。日本の若者、大学の卒業生たち、やれ。そうしたら、みんな逃げてしまうだろう。(いいえ)。一番み旨に徹した者は、いったいどういう者だろう。それを考えている。何千人いたとすると、一番はだれだろう。こう考えた場合には、だれもいない。第一は先生だ。どうだ。やる気のある者? (はい)。人間が必要である。若者が必要である。訓練してやるんだから、それは、自分のものになるということである。
生涯において、いかなることが起こるか分からない。それに対して、余りある準備をしていくのは知者のやり方である。それを少なくとも三十代までは、ありとあらゆる分野において体験しておけ。だから、夜も、昼も、休む暇がない。遊びに行く暇がない。先生は、富士山にも学生時代には行けなかった。先生は、四方八方、よく見回る性質をもっている。しかし、友達が切符を買ってきて「これで行こう」と言うのだけれど、学生時代は暇がなかった。だから、三十までは準備しておく。準備は何かというと、実践のためである。
三十代以後は実践期間
三十代以後は、実践である。実践自体である。それは旺盛なる、生気はつらつたるそういう期間である。それは四十五歳までの十五年間、大概十五年間である。十五年は実践である。一瞬の暇も惜しんで、準備の目的にかない得る、心身を通しての実践である。四十五歳から六十歳までは、成就段階である。こういう方向に戦法を練って、復帰の公式を解いていくといい。
先生の七十歳までには、統一世界になる。七十歳代には、統一運勢が世界に漂う。そういう時勢に巻き込まれる。それは「二十一年」を知っているからである。だから統一運勢にならなければならない。だから先生が満六十歳代になった場合には、世界はどういうようになるだろうか。おもしろくなる。できなかったら、倍以上の真心を尽くす。夜も昼も、休みはない。不可能な場合には、それに倍以上の真心を尽くす。作戦を練っていく。
第一作戦、適応しなかったなら第二作戦、第三作戦をやっていこう。あなたたちそういう計画をしたことあるの。一生は一回しかない。だれかが生きてくれる生涯はない。そういうような青春期を、いかに費やすか。自分なりに命を懸けている、そういう生涯は貴いものである。その貴い生涯の道を、歴史と共に、主体と共にあれば、それはその渦巻きに巻き込まれてしまう者にはならない。新しい方向を提示して、自分なりの結果を、世界的に、あるいは歴史的に出す。そのために祈る。そういう計画をしたの? していないの?していたなら、それは幸福なものである。
そこには、体面とか、面子とかが問題ではない。世の中が、「気違いだ」とか何とか言っても、それが問題ではない。成すべき実体が問題である。その環境が問題ではない。成すべきことはせずして、「自分にそういう結果が表れない」と言うのは、これは詐欺である。動機と過程を通過せずして、その結果を望むのは、どろぼうである。
いかに真剣になったかが問題である。生命というものは真剣なものである。あなたたちが今生きているというのは、死と戦って勝利の上に立っているから、今生きている。あなたたちの知らない無慈悲な戦いを済ませて、その勝利の上に立っているのを証明していることを分かっていない。記憶していない。活動しながら忘れているのだろう。これと同じである。あなたたちが生きているという背後には、その死という恐ろしいそのものと戦ったということを忘れている。
実行期間を計画しなければならぬ。青年としての実行期間、実践期間が必要だ。人には生涯において、自分のもち得る力一〇〇パーセントを、それ以上の力を尽くしたい。その限界を越えるという事実を見た場合、死んでもいいと思う。天のために尽くした、そういう事実は天界に行く。尽くさなければ、地獄に行く。
だれが何と言おうと、我には何も不平を言うことはない。真心を尽くしてやった、それ自体は事実である。天上、天宙すべての万象界において、堂々と唱える実体者となれ。滅ぶ、嘆く、何ものもない。その実体を、神によって造られたすべての万象は保護する。それに反対するものは一つもない。いくら考えても、これ以上果たし得ない、善の力として、これ以上やれないという限界を乗り越えている。それにならなかった場合は、失望してしまうという基準でやる。すべてが結果に表れなくても、世界から必ず目をつけられる。そのようになっている。
実行期を命と共に戦う。そこにおいて、自分の目的を果たす道に嘆けば、苦労のどん底に後退しなければならない。不安を感じたりするのは、自分の目的に対して完全な決心をしていないからである。そういう結論になってしまう。その目的を成就するには、それに向かうすべての基盤の道を消化し得る決意が必要である。そういう基準でやる。我々は、世界的人物になろうと決意するならば、霊界全体の、その第一の怨讐となることは当然である。それを避けて行こうというのは、その目的を延長させる方策でしかない。これをこらえる。実行期間が必要であるということである。実行期を通過しなければ、完成期間、勝利期間は来ない。
関心をもたざるところには、成功の動機は潜んでいない。何か悪いことでも、関心をもたなければ、それは日本的にならない。いいことでも、日本的に関心をもたなければ、日本的善人にならない。そういうことをずーっと思うと、おもしろい。自分なりに決心して、「我が生涯において、この期間は必ずやると神の前に誓った準備期間であります」。そういう期間があったの、なかったの? なかったらかわいそうである。惨めなものだ。そういう期間があってこそ、実行期間を願う。
今あなたたちは、実行期間に入っているか。入っていないとすれば、それは日本をだれを頼りとして、神の摂理の道を展開していくだろうか。先生がもしいなかったならば、あなたたちは四方八方に散る。イエス様が十字架につけられる時、十二弟子が散ったと同じような、そういう結果になる。先生がいなくても、この思想を、日本のいかなる部落にも植えつけて、あとまでやると自分なりの証明をし得る実績をもつということになっているか。
準備をこれだけ命を懸けてやったんだから、これだけ真心を尽くしてやったんだから、くたびれることができない。いくらいいことがあって、人が誘って自分を引きつけようとしても、引きつけられない。今までやったその事実は、あまりにも真実である。あまりにも真心を込めて誠を尽くしたのだから、それを否定する何ものも見つけることができない。そういう立場に立ってこそ、善なる立場に立ってこそ、絶対的神の信頼を受けることができるのである。神はそういう者を探して、一時は計画の一点として使う。
しかし、生涯かけての勝利の基準としては、その前に氏族なら氏族を中心として勝利者にならなければ、神の歴史的な摂理の基盤をつくることはできない。ある団体の指導者も、そういうような見地から人を探す。それは当然のことである。人間もそうであるということは、神はそれ以上でなければならない。そう思うとき、日本のあなたたちが、責任をもって自分の将来の道を、準備の路程を、今まで考えなかったというのは、それは摂理の観点からすれば、非常に耐えられないことである。
完成期は収穫期間
それから、完成期においては、出した結果のとおりに収穫される。自分が真心を尽くして植えた、そのとおりに収穫する。真心を尽くしたならば、真心の結実は収まる。だから実行期においては真心を尽くせ。一日過ごすには、流す涙があれば、心情を込めて、涙を尽くせ。涙を流さない日が一日でもあるなら、我は許さないというように、真心を尽くせ。真心を尽くしてきたのだから、その結果は、真心の結果として迎えるのは自然の原則である。
あなたたちは若い青年である。今から日本の運命は、あなたたちの双肩にかかっている。日本の今後の行き方に、アジアの数十カ国、アジア全体の、全民族の運命はかかっている。こういうことを思うとき、あなたたちの責任は、重大である。八億近い中共が問題ではない。中共は跳ね返る。「統一思想」を武装したならば、そういう実行力をもつ実体にいかになるかが問題である。そう思うときに、あなたたちが、そういう決意でもって総進軍するならば、新しい日本は生まれてくる。新しいアジアにおいての、日本人として貢献する新しい希望の摂理の基準は、そこにおいて開かれるであろう。そういうふうに、真心を尽くして真の準備、真の結実を迎える立場に立ったとすれば、それは絶対に問題ない。そうでなければならぬ。そうでなければ滅びる。
人を適当に準備して、やろうとする者がいたとする。もしそのようにして、利用するその基準が過ぎ去ってしまったならば、自分はどうなる。何になる。利用する相対者がなくなってしまった場合には、自分はどうなる。何にもならない。だから、そこには結実がない。いちじくみたいだ。
自分なりに確実にその種となっている、どこへ行っても、それは根を下ろして成長する、そういう者だったら、そのような個人になっているならば、これは日本が問題ではない。あなたたちが、そういう決意でもって燃え上がって、今からどういうふうにしようか。
高い所へ行って、父に祈る。その山頂において、このような心情をもって祈る者は、歴史上、我が初めてである。その者の前に、展開される万象を眺めるとき、神が、天宙を創造した最後の祝賀式をやったならば、どのような思いをするか。第一声は、何をどうしたかである。それで先生が神の道について、こういうものを発表したのであるから、祈る時に、そういう気持ちをずーっと祈る。実に素晴らしい気持ちである。山水草木は、喜び、たたえるような気持ちに巻き込まれる。ここに逆らうものがあったならば、我許さない。すべてを包囲してしまう。悪の霊だったならば、みんな切って滅ぶべし。悪は、すべて日干しになる。そういう祈りである。
そうか、そうでないか、霊界に試してみれば、そうなっている。それは素晴らしいものである。一人の叫ぶ祈りの原動力、その力は、ここまでこういう霊界まで果たしきるというような、素晴らしい内容を語っている。それを語っている者は、だれか。自分である。それは自分なりに恐ろしさを感じるようになるのである。だから自分は恐ろしい。いい加減にできない。そうなるのである。そういうことは、通常のことである。奇跡でも異常でも何でもない。
今からあなたたちは、いろんな責任者になるだろう。その時、まずもって、天の権威、その伝統的思想を、絶対汚してはならない。我々は神の権威をもって立っているという場合には、交渉とか、会話するときには、ずーっと刺激して、したがって向こうでは、汚すようなことを言う口は、開かなくなる。そういうような実地的な生活の感情とともに、あなたたちがそれを体験しなければ、生きた神様に侍るという、生活圏内にいます神様という存在を認められるかというときに、これを認めることができない。それを認められない者は、敗者である。だから、いくら社会に出て、会社に勤めても、良心的価値基準は、そういうものではない。一つの鉱石を見ても、これはいい加減に取り扱われない。それなりの存在価値、目的観念に徹した、その価値の内容は、十分に見いだし得る。それを無視する者は、創造目的に逆らう者である。神の国に逆らう者である。
人にいかに忠実になるか。そういうことになる。それから天にいかに忠実になるか。だから、物的世界において、人的世界において、神的世界においてそうである。そういう真心を尽くして、いかに基台をつくり得る自分になるか。そして時間を乗り越えなければならない。
公的道・仕える道
興亡盛衰、この言葉において成功を収める一番の道は、公的な道である。み旨が絶対的なものであれば、それは絶対的に仕える道である。そこに、絶対的なる相対者としての自分が、絶対的な真心を投入すれば、絶対的に成功し得る。その内容を決定する動機になるという。これがすなわち、世界において栄えるための起点になる。それに反するものは、みな滅びて、消え去ってしまう。歴史と共に流れていく者になる。
歴史に逆らって、それを新しい世界に引き上げるような者になるには、今言ったように、絶対的神のみ旨の前に立って、自分が絶対的基準で、絶対的真心を尽くす。そういう行動期間を迎えて、成し得た者がいれば、それは天国から逃げていこうとしても、逃げていった所が天国になる。天国が追いかけてきて、それを抱擁してしまう。だから「神様」と呼ばなくても、神の子供になることを願わなくても、もう既になっている。もう晴れて、住んでいたという自分を発見するようになる。それがいわゆる再臨の道だ。それ以外の道は、滅びの道である。
先生は、今から何万年後、何十万年後において成就すべき、そういう目標を決めて祈る。目的がある。真心を尽くした場合には、その目的を果たすために、神はいまし給う。神と真実の子供との誓約である。その約束は、完全に成る。成るまでに、世界、万民が救われてしまう。それを成就させるには、世界を救ってやらなければならないからである。そういう祈りを、今しておくことである。歴史のために、祈っておくのである。
あなたたちは、そうではないだろう。きょうお祈りして、いいことがあれば、「神様ありがとうございます」。ちょっとつらいことがあると、「いるかどうか分からない」。いるか、いないか分からない期間が長いのが、一番いいというのである。あるかないか分からないながらも、真心を尽くした場合、それは一時に天下を治める勝利の見地が立つのである。善のために尽くしたこと自体を否認して嘆くということは、真なる善が分からないからである。善なる神様がいるのを知らないからである。神様がいるということを分かった場合には、そういう心配はいらない。新しく決意して、そういう方向に引っかからないように努力してもらいたいのが、先生の頼みである。
メシヤと我々
一九七二年四月二十三日、統一教会の東京教会において、文鮮明師御夫妻が来日された際に、統一教会のメンバーに対して語られた、文鮮明師の講話である。
神を失った人間
この世に住んでいる一般の人は、メシヤが必要であることを知る者はほとんどいない。宗教生活をする者に限ってそれを知る。
人間は救いの道を求めていかなければならない。この世において、我々人間としては未完成のものである。完成した人間の価値を求め、あるいは理想の人格の基準を求めているのだけれど、求めているその者は、堕落圏内にいる。現世に住んでいる自分たちの努力において、それがなされると思う人が多くいるかもしれないけれど、堕落している現世の人間自体がいかに要求しても、完成基準には到達できないということを、我々はよく知っている。
このように完成を願うような人間になったというのは、これは結局、堕落の結果である。堕落が問題である。
人間本来の理想の価値を立てずして、その価値の基準を失って落ちてしまったのだから、落ちた所において、再びそれを求めなければならないのが、この地上に住んでいる人類である。いかなる苦労の道を越えても、その目的の基準を我々は探り求めて、その基準に立たない以上は、理想とか、あるいは人格完成とか、人間として求めている最大の価値基準を得ることはできない。これは、人間自体の願いである。
人間が願うことはもちろんであるけれども、もしも神様がいるならば、神様自体もそれを願わざるを得ない。だから知らない人間たちを、神様は背後において、人間の最高の価値基準まで引き上げてやらなければ、神様の最初の創造目的もなされない。だから背後においては神様も願い、堕落した人間自体においては、我々は未来を目標としてそれを願っている。その基準が一致するある時が来なければ、神様の御理想はもちろん、人間として願っている最高の完成の価値観を満たすことはできない。
しかし、この世に住んでいる人類は、神様が本当にいるかいないか、はっきり知っている者はいない。これが問題である。もしも神様がいるということを知ったならば、ここには説明も何も必要ない。教える必要もない。ある方向とか、目的観念を勉強する必要もない。個人なりに神様に則したいその一念において生活していけば、神様の願いの目的の基準に到達するのはもちろんである。だから要は、神様がいるということをはっきり知ったならば、すべては解決する。個人に対しての問題、あるいは家庭に対しての問題、あるいは氏族、民族、国家、今においては世界が問題になっているから、世界のすべての問題までも、神様がいるということをもしもはっきり知ったならば、神様が人間の中心として率いるこの地上には、人間が新たに何ものも求める必要はない。
だから神に向かって共に相愛し、共に生活しながら引き連れられていけば、自然とその目的の世界、個人の目的はもちろん、全体の目的の世界に到達するのは、これはもちろんのことである。だから、問題はどこにあるかというと、神様を失ってしまった。神様を失ってしまったのだから、神様によって与えられた完全、あるいは最高の価値というものも、自然と失わざるを得ない結果になってしまった。
堕落したアダム・エバ、あるいは我々先祖が堕落したことは見たこともないし、聞いたこともない。しかし、堕落した結果の世界に生まれている。だから我々人類の生きている現世、この世の中というものは、堕落圏に包囲されている。この堕落圏内から脱出し、乗り越えていかなければならない。そのためにはまず、個人としていかに乗り越えていくか。個人を乗り越えたならば、家庭を中心としてこれをまた、乗り越えていかなければならない。家庭に限ったばかりではない。氏族、民族、国家、世界まで、天宙の最高の基準を乗り越えるまで、ここには堕落圏がすべてを占領している。これをいかに正すかということが、我々堕落した人間として解決しなければならない、重大な問題である。
これを果たすには、今、現世の世界のすべてを導入しても、それは可能な問題ではない。国の力でもできなければ、世界の力でもできない。それ自体が堕落圏に包囲され、拘束されている以上は、それ自体を中心としては解放とか、あるいは抜け出るということはできない。
メシヤの必要性
だからここにおいて我々人類として願うのは、第三者の力を頼りとしなければならない。そこにおいて、宗教の必要性が生じてくる。
愛なる、絶対なる神様がいたなら、我々はこのすべての環境を正してもらいたい。それが今まで歴史を通しての、我々人類の要求であった。その要求とともに、もしも神様がいたとするならば、人間をそのような立場に置きたいのが、神様のもともとの理想ではない。これはやむを得ない結果において、このようになってしまったのだから、神様自体も、これを本来の基準まで引き上げておかなければ、絶対なる神としての権威を立てることはできない。
我々人間の一人一人においても、自分なりに計画したものは、いかなる環境のつらさがあっても努力し、成そうとするのが堕落した人間としての要求である。本来、絶対なる神から見た場合には、自分の御理想を立たせ、それを成さずしてそのままにしておくというのは、これは威信の問題であり、権威の問題にも引っかかる。だから神としても、堕落した人間をそのままにしておくわけにはいかない。そこで、これを救ってやらなければならないという、神の立場よりの摂理という問題が生じてくる。
人間は救われたい。神は救ってやりたい。この両者が一致する。両者が一点において一致したその基準をいかに満たすかということが問題である。その一点とは、個人の環境に引き入れられていくような、そういう一点ではない。あるいは、我々がその家庭基準を中心としてそれが引かれていくような、そういう一点ではない。あるいは国家を中心としても、世界を中心としても、この一致した一点においては、すべてが引き入れられなければならない。そういう一点を神は求めざるを得ない。人間もその一点を願っている。その基準がいつ地上に果たされるか。その一点が結ばれた場合には、個人完成はもちろんなるであろう。家庭基準ももちろんなるであろう。あるいは国家、あるいは世界という問題も、この基準よりすべてが解放の一点を満たすことができる。このような立場になるわけである。
この一点の基準を、だれが責任をもつか。人間が責任をもって、これを果たすことができるか。絶対できない。そうかといって、神様自体が責任をもって果たし得ることができるか。それができるとするならば、今まで六千年とか、数千年の歴史過程は通過しなくても、すぐに果たされたはずである。だからこれは、神様が直接関与して、解決してあげる問題ではない。ここにおいてその問題解決は、堕落した人間も果たすことができなければ、神様も成すことができない。では、だれが成すか。ここにおいて、メシヤが必要となってくる。
今我々が世界情勢を眺めてみた場合に、宗教界はともかく、一般の社会において、あるいは世界各国において、「果たして人間の願ってきた理想世界が現れてくるのか」ということが問題になっている。
宗教として今まで求めてきた地上天国、あるいは極楽の世界が、我々人間の世界に現れてくるのか、これを再び問わなければならない段階に入ってきた。そうかといって、その疑問とされる立場を踏み越えようとしても、踏み越えることができない。その苦悶の、その塗炭の苦しみの中を潜っていかなければならない、我々の人生である。
ここにおいて、もし神様がいたならば、宗教界に新しい指導的方針を授けてもらいたい、人類に新しい時代的指導者を送ってもらいたいというのが、全人類の切々たる念願である。
今までの歴史過程において、聖人、義人のすべての思想を人間は果たそうとして、あらゆる方面において努力してみた。その努力の結果において、成功とか、希望の基準を満たしたことはない。それを通して、再び落胆するような、そういう結果に我々は到達した。いかなる人間の力、思想をもってしても、人間が要求している一つの世界は成し得ないということが、もう実験済みのことになってしまった。だから、一人から三十六億全人類まで、人間も喜んでそれに従っていく、神様もそれを立たしていく道に対して、喜びながらそれを援助するという中心的存在があったならば、これは神様の喜びになるであろう。神様の喜びとともに、人類の喜びになることはもちろんである。そのような立場に立っているのが、メシヤである。
堕落観念に徹せよ
だから、堕落したのだからメシヤが必要になってきた。堕落しなかったならば、メシヤは必要ではない。堕落したのだから、神様を失ってしまった。堕落したのだから、人間本来の本然の価値を失ってしまった。堕落しなかったならば、結局、本然の価値というものは、もう生まれると同時にもつようになっていた。ここには再び、神の作用ということは必要ない。要求もない。それ自体において、もう満たされる立場である。何ものも満たされないものはない。神様を中心として一つになったならば、分からないことがない。我々、こういう根本問題に対して、教育ということは必要ではない。
人間に対して、根本問題とは何か。食べることである。それから生きることである。それから生きて、最後には愛の問題にまで行き着く。
あなたたち、生まれて、食べるということを教わったことがあるの? これはおなかの中から生まれてくるというと、自然現象において、食べなければならないようになっている。あるいは吸わなければならないようになっている。そこには教育は必要ではない。相対物があったとするならば、それに口をつけたならば、自然と食べることが分かるようになった。
だから我々において、食べるとか、生きるとか、愛するとか、理想を求めている。この自然のことに対して我々には、教育は必要ではない。小さい昆虫においても、繁殖作用は自然と知っている。例を挙げていえば、お嫁に行くお嬢さんに対して、お母さん、お父さんが、愛する問題を根本的に教えてやらなくてもよい。それは、自然現象的に分かるようになっている。自然の要求に従えば、過程を通過して、立体的な感覚の世界、立体的な価値の世界に接するのが、堕落しなかった本来の存在である。
これが堕落したのだから、逆さまになっている。逆さまになっているから、これを立て直さなければならない。人間を産む時には、頭を下にして、お尻が上になっている。これを再び逆さまにさせなければならない。人間の姿のようになっているのだけれど、人間ではない。堕落したのだから、こういう運命に引っかかっている。
だから我々は、堕落観念に徹しなければならない。これをもとがえしするには、まずもって何を感じなければいけないかということに対して、メシヤを願うより、堕落観念をはっきり自分がいかに体恤するかということが問題なのである。牢屋に閉じ込められたその者が、自分が牢屋に入っているか、いないか分からないで、解放を、釈放を願うということはあり得ない。
まずもって我々人間たるものは、何かを求めている。解放を願っている自分に間違いないというならば、これは何でこのようになったのか。堕落の結果だ。堕落したからである。だからまず、堕落観念に徹しなければならない。堕落観念に徹すれば徹するほど、その願い求める力が強くなってくる。
もしも救ってくれる者が来るということを知った者がいたならば、もう到着する前に一〇〇パーセント準備しているだろう。そこには説明がいらない。万全な準備をなして、会う道が開けるよう、方法、手段を人々に教えてやりたいという心持ちをもつに違いない。だから宗教の使命とは何か。堕落観念を、堕落した人間――罪人であるという観念を、いかに強固に体験するように教えてやるか、というのが宗教の使命である。
この統一教会の食口と唱える若い者たちにおいても、自分は堕落したのか分からない者たちがたくさんいる。特に、初めて統一教会へ入った者たちにおいては、もちろんそうである。「堕落なんて思いもしなかった。自分の先祖の先祖、一番の先祖が堕落したって?何千、何億年昔の、おとぎ話みたいなその堕落の話と、何のかかわりがあるか」。ピンとこない。だから、問題はあなたたち、堕落したという堕落観念を、いかに強固に感ずるかということが第一の課題である。
堕落したということがはっきり分かったならば、「救い主を求めよ」と教えなくてもいい。「目を閉じろ」と言っても、目を開ける。「顔を向こうに向けなさい」と言わないのに、もう向いている。こうなるのである。
しかし、今まで歴史過程において、人類はそのような観念に徹してはいなかった。宗教生活をしながらも、いろいろなことをやっている。個人の解放を成した場合には家庭の解放を、家庭の解放を成した場合には氏族、民族、国家の解放を、あるいは世界解放、天宙解放、最後には神様まで解放しなければならないのである。神様まで解放するなんて、そういうおかしな言葉があり得るか。それはあり得る。
あなた方の父母は、子供たちがもしも牢獄に閉じ込められた場合には、子供は肉身的に牢屋に閉じ込められたのだけれど、親は心情的に閉じ込められる。子供はそうなっても、腹減った場合には、弁当一つ余計に食べたとするならば、その日はもう、夜などぐうぐう寝る。しかし、親はそうではない。解放されるまで、その本人より以上に心情的に拘束されている。こう考えてみた場合に、まさしく神様が人間と関係をもっている。その関係をもっている神様が本当にいるならば、いったい神様は人間と、どのような関係があるのか。普通の人間は分からない。神様は愛の方である。愛というような中心者が神様だとするならば、我々人間とどういう立場において、愛の関係を結ぶだろう。これは真剣な問題である。
神が結ぶ愛
女の子に尋ねましょう。女自体がこの世の中に生まれる時、「もしも男の子がいなかったならば」というような思いをもっていたとするならば、生まれてくるであろうか。生まれてきます? (きません)。
何億、何十億、何千億が、女ばかりだとするならば、それは一世紀以内に完全に整理されてしまう。そのようになったら大変だったろう。そう見た場合に、女たちよ、誇るな。安心なる境地に立って、自分を誇ろうとするは、男が前もっているからであって、男がいなかった場合にはどうなる。一人の男しかいなかったとするならば、女の戦争が何十年も続く。それを考えてみなさい。もしもそうだったら大変なことになる。
女自体が生まれる時、男がいるか、いないか、思いもしなかった。女自体が生まれてくる時に、それは女のために生まれてきたか。考えてごらん。女は女のために生まれたのではない。いい格好している女の姿というものは、女のためにそうしているのではない。だれのためか。結論をつけなくてはならない。男のためである。男がいなければ女は価値がない。一文の価値もない。女の価値の回復というものは、何によってなされるかというと、女自体によっては絶対なされない。男がいて、女の価値は決まる。だから相対者がなければ、価値も生まれてこない。
また男も、素晴らしい体格をしており、「日本でこういう美男子は我初めなり」。そのような威張るタイプの男がいるとしても、その男の体格は、だれのためだ。自分のものではない。男の連中たち、それは記憶しなければならない。男が男として威張っているその姿は、自分のための姿ではない。自分のための姿ではないということは、この若き者たちにおいては、考える者もなければ、そういうふうに思った者もない。しかし、そもそも生まれること自体から分析してみたならば、男は女のために生まれた。かわいそうだけれど、仕方ない。嫌でも仕方ない。そうでなければ、一人で生きてみなさい。そういう連中は、世界から分離させて、一つの島に集めて、いいようにしておけ。もう一世紀以内に、みなきれいになくなってしまう。結局は、男は男のために生まれたのではない。これを分からなければならない。
男がいくら素晴らしいタイプであっても、いくら力が強い、主管力をもって世界を自分の足場に踏みにじってしまうというな決意をもった男がいるとしても、その男は女のために生まれたものである。そうなるというと、女の価値は素晴らしい。
ここに立っている先生もそうだ。先生はでかいことを言う。いろいろ問題になっている。韓国においても日本でも、今度はアメリカで十人くらいの上院議員に会って、宣戦布告してしまった。こういうことをアメリカでする。「二億近いアメリカ人が使命を果たさないから、我一人でアメリカを救う」、こういう旗揚げをする。問題になっている。アメリカ人もサングラスをかけて、「ミスター・ムーンという男はどういう男か」と見る。いくら大きいことを言っても、そこに相対者がなければ、かわいそうな者である。こう見ると、文夫人の価値は上がる。
こう考えてみると、我々人間、自分というものは、どこに属しているか。自分はいったいどういう者であるか。これは真剣な問題である。
自分の行くべき道はいずこあるか。男の行くべき道は、男同士で行くのではない。嫌でも、ジグザグしながら女と行く。女は、男と一緒に行くようになっている。だから目的観念というものは、自分を中心として要求してはいけない。共につなぎ合って求めていかなければならない。そもそも人間自体としては、存在基台として生まれてきたのである。それは人間ばかりではない。すべての現象界においても、相対性をもっている。その相対性自体が、自分を中心として存在するためのものではない。それは共に抱え合い、相対基準が一致するところにおいて、価値観というものが現れてくる。これは否認できない。
日本の国においても、主権と国民が一つになって、より高い、より強い目的観念に立ったならば、日本は滅ばない。国家主権は、こういう方向に行き、国民は別の方向に行く。こうであれば、動けば動くほど、落ちていく。作用すればするほど、それは弱くなっていく。それは原則である。
だからこう考えてみた場合に、我々人間、三十四億の人類を総合して、それを結論づければ、これは男であり、女であり、二人である。大きく分ければ、二つに分けられる。
ここにも西洋の食口たちが来ているのだけれど、目玉は青く、髪の毛は黄色であるけれども、そんなことはどうでもいい。人たるものは同じものである。悲しいことがあれば、涙を流す。うれしいことがあれば、「口を開けるな」と言っても、開ける。いくらみっともない歯になっていても、口を開けて笑わなければならない。そういうふうになっている。
このように見た場合には、男、女に分けられる。男、女、この二人だけ永遠に喜ばせる、そういう問題を解決し得たならば、そしてその二人が共に目的に向かって呼びかけるようなそういう道であるならば、それは不幸の道ではない。人間の幸福というものは、天から化け物の枝みたいなものが飛んでくるのではない。我々同士間において満たさない限りは、理想もない。
そう見るというと、いくら人間が多くいても、それは男、女に限る。過去もそうである。現在もそうである。未来もそうでなければならない。絶対になる。だから、二人共に手をつなぎ合って、良い価値の基準に向かって、現実の自分を乗り越える喜びをいかに満たすかということが問題になる。
国家がどうなるよりも、その基準を満たさなければならない。理想世界は、それを満たさなければ生まれてこない。
自分一人が問題である
このように考えてみると、大きい問題は簡単になってくる。結局は、世界が問題ではない。あるいは氏族とか、そういう問題よりも、結局今、家族よりも問題は何か。自分が問題である。自分自体が、世界に対して愛する、愛されるそういうような心持ちを永遠にもつとするならば、それは神様の子供になる。永遠に憎むように、永遠に嫌うように、後始末をつけなければならないような立場に立ったのは、それは神様のほうではない。こう思った場合に、この世界は悪の世界だ。結論をつければ、結局は我々自体、個人が問題だ。
自分というものはどうなっているか。今現在から見た場合には、過去あり、現在あり、未来ある。現在は過去の結実体である。未来の出発の起点になっている。現世の中心点になっている。これをはっきり知らなければならない。現世というものは、未来の出発点である。過去よりも、もしもマイナスの立場に立った場合には、それは価値というものは満たされない。それで自分は、今日の中心体である。世の中がいくら困難であろうとも、自分に動かす力があるか、ないか。自分が動機になって果たすべきその作用は、適用する力はあるのだけれども、作用する立場ではない。そのような、中心的な自分の価値観、これが問題である。
未来があるとしても、自分を中心として未来は出発する。そういう決意をもって、そういう自分になったとするならばどうか。神様はどういう男を好むだろう。理想ばかり望む人を喜ぶか。そうであれば、それはどうかなっている。過去なき現在はあるか。原因なき結果はあるか。それは原則を無視することである。未来における理想の価値ばかりを求める者は、完成されたお方がいるとして、それと比べるならば、それは点数からいえば三分の一点だ。それに百点をくれるならば、それはくれた者が、無価値の者である。あなたたち、それを知らなければならない。
現実が問題だ。現実において、「歴史よ、我に従え。現在よ、我に従え。未来よ、我を基準として出発の起点をなせ」、そう言えるお方、そのような存在があったとしたら、それは歴史的勝利者である。それに向けて、歴史をたどって尋ねたならば、歴史のすべての重大な問題は、彼によって解決されたという歴史性にならなければならない。現世において、彼を中心として、すべてがそれに従うというならば、この世の中においては、すべてを凌駕した立場である。そういう者が問題である。
神をはばむサタン
もしも神様がいたならば、神様は人間世界において、人間の過去と、現在と、未来に関係もつべき神様であるにもかかわらず、なぜそういうような神様にならないかということが問題である。それは過去においても神様は、人間と共に交わりたかった。しかし、堕落して悪の人間になったのだから、それはできなかった。現世においても、神様を中心して接して、万民と共に生活していきたい。しかし、それはなぜできないか。未来においてもそうなりたいのだけれども、なぜできないか。
堕落したのだから、こうなる。その堕落した原因は、人間にはないのだけれど、堕落させた者がいるとすれば、それはいったい何か。神か、人間か。
人間が願って堕落したのではない。もとより、あなたたち青年が、悪い子供になる、不良青年になる、よた者になるというような立場に立つのは、生まれながらそのように願ってなる者はいない。それは何かの動機によって、誘われてそういうふうになった。しかし人間は、本心において悪を願う者はいない。良くなることを願うのである。教える、あるいは管理してくれる者があったならば、悪くなろうとしてもできない道であるにもかかわらず、悪くなるのは、その悪の動機になるものがあるから、悪くなりやすい。だから、あなたたちの父母たちは、「いい友達と交わらなければならない。いい先生を迎えなければならない」と言う。そういうことを教わる。
もし、我々人間、堕落しない前の人間において、悪を好むという観念をもち出すというならば、神様の創造原理は間違っていることになる。悪になった結果から見た場合には、悪は人間が求めてなしたのではない。神が求めてなしたのではない。何かの原因においてなされた。それをなした者は何か。それは人間でもなければ神でもない。そういう者を宗教界では、悪魔や、サタンと呼んでいる。サタンという者がいる。
それは、いろいろ悪いことをする者たちに聞いてみれば、本心はそれを願わなかったんだけれども、自分も知らないで、そういう気持ちになってなしたという答えをする者は、たくさんいる。
あなたたちは、牢屋に入って苦労したという経験がないから分からないかもしれないけれども、先生はそういう方面の専門家である。ずーっと聞いてみれば、牢屋に入っていても、「自分が悪いことをした」と言う者は、だれ一人としていない。「なぜそういうことをしたか」。「まずもって社会が悪い」。「社会が悪いんだったら、君はなぜそういうように悪くなったか。こういうようになったか」。その悪いことをする時には、自分も知らないでやったという者がたくさん見つかる。だからそのような結果をきたらす何者かがいる。それはサタン、悪の力の原因である。だから堕落を我々は非常に悔やみ、悔しく思う。これを正してしまわなければならない。ここにおいて、いかなる我を犠牲にしても、これをただ解放、あるいは釈放されなければならない運命になっている。
そうなるというと、堕落させた者がいなければ実にいいのに、堕落させた者がいた場合には、大変だ。これはもう、そのまま抜け出ようとするところにおいて、いつも監視している。素晴らしく、あるいは力強い監督がいる。こう見た場合に、まずもって自分がとりこになっているその場を崩してしまいたいなら、戦わなければならない。戦うその相手が、どのように老獪な者かというと、それは話にならないほど老獪な者である。数千年来、神様までも、人類までも、自分の気のままにして悪を振る舞った、そういう大将である。
例を挙げれば、日本の相撲取りの、一番有名な人がいたとするならば、その相撲取りと幼稚園の子供みたいな立場に立っている。いくら自分が囲まれている所を崩して出たとしても、その相撲取りがいる以上は、直ちにやられてしまう。それでおしまいだ。それがいなかったならば、問題は解決しそうな道があるようではあるけれども、もしも監督する者がいたとするならば、人間同士いくら同盟を結んでも、これは不可能である。だから神様にも人間にも、困った者がいる。
神としては、解放が問題ではない。解放は一瞬にできる。しかし、過去に、現世に、未来まで徹底した組織網をもって、世界全体を抱擁して、神に正面的衝突をしながら讒訴した場合には、神はその讒訴を否認できない立場で、その解決を相談してあげなければならないのである。そのような動機の内容をもって讒訴した。そうなった場合には、神もどうすることもできない。
サタンが主管する非原理世界
神様を中心として考えてみた場合に、サタンという者が問題である。サタンは何を中心として今まで、問題点とするか。神様は原理原則において万物を造ったんだから、その原理の法において、これを主管するのが原則である。その原理がある。その原理をサタンが握ったとするならば、いつでも永遠に讒訴することができる。その原理に合わなかった場合には、いつでも讒訴することができる。だから統一教会でいうのは、原理を中心として、非原理という問題が生まれてくる。それは堕落の世界である。それを原理の神様は願ったか。願わなくても、原理の原則を中心として、非原理的な中心者が生まれて、原理軌道によって讒訴していく。
こういう問題が、もしも世の中に起こったならば、神様はどうするか。非原理を否定するまでは、原理の権限というものは生まれてこない。では、否定はだれがするか。神様がするのではない。神様はすることができない。非原理になって、引きずられている人間が、否定する要件を満たさなければならないのである。だから非原理の者は、神様に従う者ではない。神様に干渉される者ではない。原理の姿をとっていき、神様の原理の基準に立っているので、神様はこれを干渉することはできない。そういう問題が起こったとするならば、これは神様もどうにもならない。非原理の相対基準に立っている人間だけで、この問題を解決しなければならない。これが歴史の恨みの基点になっている。
それが何を中心としてそうなったか。あなたたち堕落論で習ったでしょう。しかし、堕落原理というものは、本来はない。堕落原理というものがあるかというんだね。非原理というような基準を中心として、堕落原理ということである。堕落せずにその道をたどっていく以外に道はないのが原理である。
もしも、それ以外の問題で堕落したならば、堕落原理という問題にはならない。それは直ちに復帰される。もしも手が切られてしまったら、これはもう一つなくてもいい。足がなくてもいい。根本問題がいかれてしまった。それが愛の問題である。
本当はお姫様であるべき、その尊い者が、その国で一番の強盗の親分に引き連れられて、そして愛の関係を結んでしまった。そういう場合どうするか。王様は、「この野郎二人とも首を切ってしまえ」と、首を切ってしまったならば、永遠に子供というものが生まれてこないという場合にはどうするか。そういう結果になってしまった。原理としては、そういう方法を取ることは絶対できないにもかかわらず、引っかかってしまった。そういう場合にはどうするか。
お姫様が相対者も何も決めていない立場だったなら、それは何とか許しようがある。男に対して女が引き連れられていったのだから、原理原則である。しかし、そこにいいなずけの男が決まっていたという場合には、どうするか。これは許す道がない。そうかといって、切ってしまったなら、それで終わりだ。種がなくなってしまう。人間の種族がなくなってしまう。なくなってしまうのは原理ではない。人間は永遠に存在しなくてはならないので、切ってしまうことはできない。
そういう立場に立った王様は、いかに惨めであるか。そのようになったならば、殺してしまえば簡単である。日本国民にそういう問題があったならば、もう国の法において、処分して片づけてしまえばいい。しかしそれは、その人がいなくても、人はいくらでもあるからであって、もしもたったそれっきりの者だったらどうするか。大変なことになる。
そういう問題以外において人間が堕落したとするならば、神様は六千年もいらない。六日もいらない。しかし、その問題に引っかかったのだから、サタンが犯したその男が不平ばかり言っているのだから、自分も間違いなく罪人だ。この女も間違いない罪人である。罪を犯したのだから、罪を罰せられるのは原則である。宇宙の原則である。罰せられることに反抗する者があったならば、それは王様としては、再び関係をもって考える相対者には絶対ならない。罰せられても当然である。打たれても感謝しなければならない。そういうような道以外に、許される道はあり得ない。不平を言ったり、反抗したりする立場に立ったとするならば、許されるという道は閉ざされてしまう。
サタンは非原理の神
聖書では、サタンは神様と相談してやっていく。神様は原理の神様であり、サタンは非原理の神様である。これは実におかしくなってしまった。非原理の神様が、原理の神様を干渉することができるか。それはできない。非原理の神様が、善の神様の主管圏を干渉することができるか。できない!
だから堕落した人間は、非原理の悪の神様――サタンのほうに従えば、間違いなく手続きをする。神様も、「持っていけ」と言う。原理の神様のほうに手続きをした場合、悪の神様であるサタンは「持ってお帰りなさい」と言う。このように契約済みのことをするのだから、嫌でありながらも、毎日共に会わなければならない。
韓国において、三十八度線に板門店がある。北韓と南韓の代表者が毎日会いながら、一挙にこれを全部崩してしまえという気持ちをもちながらも、毎日平気な顔をして、「君、そうか、はあー」、笑いながらそうする。そっくり同じだ。そうなると問題は、だれが問題か。国民が問題である。悪なる権力者を、国民が打ち倒して追い出してしまったならば、解決する。人間がそのような立場に立ったとするならば、大変なものである。だから我々人間の行く所には、善の神様が向かい合い、悪の神様も向かい合っている。それを知らなければならない。それが我々人間の住んでいる、現実の現場である。
しかし現実というものは、実に貴いものである。すべてが、善悪のその頂点において、一瞬一瞬の時を中心として、それは行ったり来たりしている。これを分からなければならない。
善悪は遠い所にあるのではない。結局、自分が問題である。我は、二人の神様の主管圏内にある。サタンまでも神様と言うのは気持ちが悪いが、二つの、そういう境目にはさまっている。だからそのままいた場合には、これは死んでもどうにもならない。二等分しなければならない。今でも二等分した立場である。だからあなたたちは、二等分するのに、それはどっちが内的であるか、どっちが外的であるか、それが問題になる。サタンは、神様を中心として見た場合には外的であり、神様は内的である。だから人間自体を中心として、似た者を、自分のほうに引きつけるようになっている。
良心と肉身の戦い
我々人間自体も、二つのものをもっている。良心と肉身をもっている。この世の中において、良心をもっていない者は一人もいないということは、みな、それは承知している。良心がないという者います? (いません)。みな自信もっている。だれ一人、良心を見た者はいない。しかし、あるのを知っている。肉身を見ない者は一人もいない。これは問題である。良心があることは絶対的に知っていながら、良心を見た者は一人もいない。肉身があることを絶対的に見ながら、絶対的にあるのを知っている。
比例から見た場合に、分かるという感覚度から見た場合に、あることは絶対的に知りながら見たことなく、あることを絶対的に知りながら見たことがあるという場合には、どっちが強いか。肉身のほうが優勢になっている。
あなたたちもそうでしょ。食べたい、腹が減った、という場合には、「腹が減ったんだから」と良心が認めるか。肉身が「腹減った」と言っても、良心が腹減ったと認めるか。みんな肉身が優勢に立つ。欲しいというのは、見たい、会いたい、住みたい。これらの触覚の接する部分は、内部ではなくして外部である。しかし、感じたそのものが、決意として実る本拠地は、肉身ではない。良心である。
これは今、哲学的に問題になっている。神の人間に対して接する場と、サタンの人間に対して接する場との境目はどこか。境目はどこかというと、自分である。あなたたちも世界的戦争を恐れるな。自分を中心として、二大陣営が毎日戦争しているのをどうにもならない。朝に夕に、一日に何十回、何百回もやる。言葉を一つ誤って話した場合には、問題になる。責める動機の存在そのものは、肉身にあるか、良心にあるか? 責める存在は何か。良心である。
だから戦いである。良心に向けて、「おお、この野郎、良心よ、良心よ。君何やっているか」という戦いをしかけた肉身があるか。反対である。内的に、肉身に対して攻撃する。「それをやったらいけません」と。しかし、この世の中には、良心的な人が比例的に多いか、非良心的な人が比例的に多いか。そう考えてみた場合に、良心的な人が比例的に多い。良心の呵責を受けながら、とんでもないことをみんなやってしまう。その戦いをやっている。
だから宗教とか、教育において、その基準をどこに求めているかというと、良心の力である。それが教育とか、宗教の働きかけである。そうして何をするか。肉身の足場を占領する。目的はそこにある。善人であるか、悪人であるか、境目が生じてくる。そこをはっきりしなければならない。
善悪の中心は自分
自分とは何か。善とは、悪とは何か。神の主管圏として治めるべき善なる境地と、サタンの治める悪なる境地と、何を境目として分けるか。これをはっきりさせなければならない。それが自分である。朝に御飯を食べても、その御飯を食べてどこに行くか。それによって、食べた御飯は悪の御飯になったり、善の御飯になったりする。晩に休んだとする。休んで何をするか。その結果において、悪の休みになり、善の休みになる。一瞬が二つにつながっている。
善悪の中心者は、世界ではない。善悪の中心者は、神様ではない。サタンは悪の中心者である。それよりも、二つ兼ねているのが人間である。
そのようにに見た場合には、神様よりも偉いし、サタンよりも偉い。善悪の中心者は人間である。自分である。
だから神様よりも怖い者は、人間である。サタンより怖い者が人間である。この者の行動いかんによっては、国を滅ぼすこともできる。国民に三分の一善人があろうとも、一遍に善人を犯してしまうことができる。これを知らなければいけない。恐ろしい者がだれである? 自分である。
この怖い者同士で、一つに合同した場合はどうする。しかし、合同ということはできない。戦いの起点はここから始まってくる。これを考えなければならない。
自分の良心と肉身から始まったものだから、外的な者同士の結合体は自然と生まれる。内的な者同士の結合体は自然と生まれる。だから、この世の中は二大主流の思想流が生まれてこなければならない。一つは善を否認し、一つは悪を否認する、そういう思想の結実が、必ず地上に生まれてこなければならない。その時は、末の時である。それが現世である。
唯物思想とはどういう思想か。片っ端から怨讐に対して、その価値を認めないのが怨讐圏のなす行動だ。悪辣であれば悪辣であるほど、その力が強い。善のほうはそうではない。
共産主義と民主主義の対決になっている。それは、そういう結果として生まれてこなければならない。
肉心とサタンを占領せよ
それらの思想は、だれから始まったか。自分から出発して連結している。自分たちを中心として見た場合には、自分が先頭になっている。だから、世界的先頭に立ちたいというのが、人間の欲望である。だから世界において、歴史において、未来において、一番悪の先頭者はだれか。それは自分であると、確信をもたなければならい。
もし自分が生きるとすれば、過去のすべてを解決し、現世すべてを解決し、未来すべてを解決しなければならない。これをいかに分別し、解決するか。そこには、二大問題がある。現実において肉心を占領することと、見えないサタンを占領すること、この二大問題である。これらと戦争しなければならない。第一は肉身だ。第二はサタンだ。サタンと肉身が我々をとりこにしてしまう。その肉身というものは、サタンの命令において引き継ぎされた要塞である。それに負けた場合には、永遠に滅ぶようになってしまう。だから宗教の目的とは何か。世界を占領する前に、自分をいかに占領するかということである。
先生がこの道に出発する時の、第一の目標はそれだった。「天宙主管願う前に自己主管せよ」というのが問題だった。それにはまず、肉身をいかに主管するか。そこには食べたい、それから生きたい、それから愛されたい、愛したい。これである。人間生活の主流の問題に行き当たる。
そうすると、肉身を中心として食べたいという者はどうなるか。生まれながら、悪の圏に立っている自分であるということを知っている。肉身を中心に食べれば、悪のほうに近寄る。肉身を中心として生きたい道に歩調を合わせれば、悪に傾いてしまう。それは原理的にそうなる。肉身を中心として愛したいという道に行くなら、悪のほうに完全に傾いてしまって、もう沈んでしまう。
だから食べることにブレーキをかけ、食べる物があれば、その反面何をするか。それを自分よりもっとかわいそうな者にあげよというのである。かわいそうな者に与えたなら、善の繁殖になるというのである。そういう戦法を取る。そういう結果になるのだから、自分よりいい者に与えよというのではない。悪い者に譲ってやる。それをもっと価値ある立場に立つところに譲ってやれ。それは何かというと、現実を否認する作用だ。
その方策、その方法でなければ、第一線の悪の足場を乗り越える道はない。もしもとりこになった者がいれば、自分の物があれば、縄でもつけて向こうに、他の所へ上がっていかなければならない。そうすれば、人のためにして救ってあげれば、その人は私を救ってくれる。だから肉身の願いを越えて、それに逆らって、反対の結果になるようにする。今自分が要求するその価値のものをして、それが結局、自分が救われる。
それをはっきり知らなかったのだけれど、過去の義人、聖人たちは、「善人になれ」と言う。善人になるには、自分の物を犠牲にして、他の者にささげる。それが善人である。それは、とりこになっている自分が、この防備、あるいは要塞、あるいは牢屋から抜け出る作戦をするためにやった。そういうことは、今まで知らなかった。
そのように、四方八方にその縄をつける。全国民にそういうふうにする。そういうふうにした場合には、それを引き上げるときには、援助してあげた者は全部協力者だ。神はそういう摂理をする。一人の善人を探して犠牲にして、すべてにやるようにして、協力者の圏をつくる。そうした場合には、その価値以下の基準においてサタンは干渉するのだけれど、そのような圏に立った場合には、神が干渉することができる。こういう作戦をしてきている。
それで、善はいずこにあるか。肉身の回りを行くところにはない。肉身を救う道に乗り換えて行く。そういう良心の命令に従っていくところに善がある。これは歴史的に否認できない。そういうふうになれば、肉身は自然と包囲されてしまう。それでいかなる宗教も、こういう方法を教えないものは、宗教ではない。宗教がそういう作戦をしているという観点から見たならば、それらの目的は、全部一致している。それを主管する主人の目的は、一致している。だからいろいろな宗教があるのだけれども、本筋から、この原則から脱したならば、それは宗教ではない。その版図が広まるにしたがって、サタンの相対者がなくなれば、サタン自体も弱まってくる。こういうふうになっている。
善を広めていく生活
現実にあなたたちは、はっきり知らなければならない。自分というものは問題だ。自分は、善悪の株式会社の大株主である。そこにおいて、悪い人たちが攻撃してくる。それを屈伏させるには、善を広める作戦をしていかなければならない。伝道するにも、あなたたちが国家伝道圏、国家的伝道基準をつくったならば、国家的解放圏がつくられる。世界的伝道圏をつくったならば、世界的解放圏がつくられる。これが、神の地上においての作戦である。だから神のほうに立っている善の道に立つ者、宗教を信じる人たちは、死んでも行こうとする。死んでも行く。どっちが強いか? 善が強い。どっちが長引くか? 善が長引く。どっちが勝利するか? 善が勝利する。これは原則である。
長引くのであるから、善の側の者をもしひざまずかせたら、それに倍加して善は強くなってくる。そういう場合には神様が援助するのである。善なる責任をもって立ったならば、神様が援助する。それにぶつかってくる者があったなら、ぶつかってくる者が砕けるのであって、ぶつかられたその者が砕けるのではない。それが、善悪の闘いの秘訣になっている。
結論を出すと、悪人とは何か。自分を中心として、肉を中心として、私的な感情をもち出す者が悪人である。自分を中心として、すべてを占領しようとするのが悪人である。
善とは何か。自分を犠牲にする。善人とは何か。体を犠牲にして、人のためにする者、これが善人である。現世においては、善悪の基準はぼやけている。だから、「君の物は私の物である。私の物は私の物である」と言う者もいる。それは共産党のやり方だ。そこにおいては、方法、手段は構わない。
原理の価値を表し、最後の勝利の決着点をつけるには、二者が一度ぶつからなければならない。一度ぶつかって、勝利を決めなければならない。天下分け目の戦いがある。それで、個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的に戦ってきた。それが世界的になった。
今はどういう時代か。思想戦時代だ。本当は宗教戦争時代である。共産主義の悪なるサタンを中心として、神は認めないんだけれど、それが宗教みたいになっている。共産宗教だ。そういうふうになっている。
だから思想を乗り越えなければ、神に行く道を見いだすことはできない。人間の思想以上は神である。歴史を総合的に考えてみると、今までの歴史は何を中心として戦ってきたかというと、体を象徴する万物を中心として戦ってきた。両方とも、広めるために戦ってきた。今もそうである。だから続いている。
その次は何を中心として戦うか。だんだんだんだん、広くなっている。昔は、領主も何も、あったものではない。奪い取る。土地を中心として戦った。今は、人を奪い合う戦いである。発展していく。だから人は、何主義かが問題になる。選挙もそうである。人を奪う戦いにおいて勝利すれば、その国の主権者になれる。人の奪い合いの戦いである。それが思想時代である。その次に何の奪い合いの戦いが来るかというと、神を中心として奪い合う戦いが来る。これは最後には宗教戦争だ。あなたたち、それ知らなければならない。
今、政治家たちは、「物だけあればいい。そうすれば世界は自分のものになる」というように思う。そういう愚かな者もいる。独裁者とか、自分を中心として自分は宇宙の代表とか何とか、大きなことを言っている。そういう時代圏にあって、人を集める神の作戦の一方法の分担を責任をもたせて、それを許すのであって、その時代が過ぎたならば、許さない。だから一番問題は何かというと、思想戦が問題である。
霊界からの攻撃
最後には、もしも宗教同士戦ったならばどうするか。そういう現象が起こりやすい時代にある。それを防備するために、統一宗教がある。それは必要である。だから宗教戦争時代には、霊肉共に防備しなければならない。霊人がいるとすれば、何千億くらいいるだろうか。日本の一億は問題ではない。足場の塵にもならない。数千億、数万億の霊人たちが、地上攻略を進めてこざるを得ない。それが、ノイローゼ現象である。
もう少したてば八〇年代、まあ二千年代を越えれば、みな通じる時が来るかもしれない。悪霊に通じるか、善霊に通じるか。戦争するなと決めても、戦わざるを得ない時が来るかもしれない。それを防備しなければならないのが、「統一原理」の使命である。
一番恐ろしいのは何かというと、もしも霊界があり、悪霊だけ動員されて地上攻略してきた場合である。いくら人間が全地球上に満ちているといっても、悪霊に攻められてしまう。だから神様は、今まで準備してきている。悪霊の反対の善霊を中心として、霊界の基台を広めてきている。それは宗教圏の人たちをずーっと集めて、今人類の半分、十七億近い者が、みな宗教圏に立っている。二十億近い者が、宗教に立っている。だから世界で一番有名な人はだれだろう。宗教統一を考えて、そしてその解決策を打ち立てている者がいれば、これは歴史における最後の勝利者になるだろう。それは、神様もそれを認めた基準であり、人間においては、本心の、良心の最高の基準からの願いの的である。
だから、世界の四大聖人と言われる人は、みな宗教の教祖になっている。イエス様もそうであるし、釈迦も、孔子も、マホメットもそうであるし、神様はこういうことをよくよく知っていた。
現世において宗教は、思いもよらない弱き者が信じる、頼るような道をもっているにもかかわらず、なぜ四大聖人の思想が、この文化圏の中心史の主流として、国家の教育とか、国家の憲法を中心として国家組織の形態をつくり、この世の中の文化世界をつくってきたのか。しかし、それは間違いない事実であり、そういうふうにして世の中は発展していくのである。
今は末の時期になっているから、良心と肉身の闘いは最後の極致に立っている。この時代においては、物ばかりでは問題は解決されない。共産主義で世界を一つにするという時代は、もう過ぎている。中共とソビエトは、もう分裂している。日本にも共産党のいろいろな分派がある。それ同士が戦う。それでは理想のものではない。民主主義においての、良心においてのカイン・アベルは、こういう時代において、二つを一つにさせる。こういう目的を兼ねていかなければならない。それを完全に分けてから、いらないものはみな取る。
とうもろこしの切り株を引き抜いた場合には、土がいっぱいついてくる。その土をみな取ってしまうには、二つをぶつける。それを拳で取る者はいな。それを両手でもってぶつける。ぶつけるというと土が落ちて、株が残る。ぶつける時代が、今の時代である。そうすると、その両手はだれのものか。神様のものである。そうしたら人間は滅びない。宗教界を握り、思想界を握ってぶつけて、最後に残るものを一つの束にして、そして神様が担いで家に帰る。それを願っている。
しかし、その株の一方をサタンが持つようになっている。必ずそうなる。だから民主主義においても、カイン・アベルがある。アベルはだれが持つか。神様が持つ。カインはサタンが持つ。
共産主義も全部悪いのではない。そこにもカイン・アベルがある。だから共産主義にも神様は働きかけている。だから二つが戦うという場合には、一つはアベルの立場であり、一つはカインの立場である。それは何を意味するかというと、先のほうはサタンが持っているということである。サタンをだれが追い払ってしまうか。これが問題である。
サタンを追い出すメシヤ
この使命を果たすべき存在が、メシヤである。だから神様も、絶対メシヤが必要である。堕落した人間も、絶対メシヤが必要である。この環境から抜け出るには、メシヤなくしてできない。では、そのメシヤとは、どういうお方か。霊界のすべての完成と、地上のすべての完成にも、責任をもたなければならない。霊界、地上界、すべての完成に責任をもたなければならない。この責任をなす目的の基準が、「統一思想」で言えば、統一教会の名称を借りれば、「天宙完全復帰」という言葉である。このようなメシヤが、地上に来られる前には、霊界を統一せずして、地上を統一することができない。
堕落はどこで始まったか。それはまず、霊界からである。だから霊界において、それを一つの方法で治めるその基準を、絶対的主権をもって来られるお方が、メシヤである。そういう立場で、霊界を統合し得るその内容をもってこられるならば、神様の秘密、サタンの秘密を、すべて分かって地上に来られる者である。
それで地上に来て、地上を一遍に天国にしてしまうのではない。子供が生まれる時には、一人ずつ生まれてきた。男も女も、一人ずつ生まれてきたので、一人から始めなければならない。もし男がメシヤだったら、その一人をだれから始めるかということが問題である。前にも言ったように、男は女のために生まれてくる。だからこのメシヤ、天宙の中心の核として来られるお方は、男が来るか、女が来るか、ということが問題である。
男に聞けば、「はーい、男が来る」と言う。女に聞けば、「はーい、女が来る」と言う。なぜか。男は実際、何もやるものがない。女は体としては、お乳を子供に飲ませる。しかし、男には何もやるものがない。そういう立場から見た場合に、男より女がいいか。男のメシヤが来たらいいか、女のメシヤが来たらいいか。
女のメシヤが来たらいいの? 日本の場合には、天照大神は女か、男か? 日本人はよく知っているじゃないの。(女です)。日本人から言えば、女が来たらいいのではないか。これはおもしろい。世界中で、そんな国はたくさんはない。そういう血統を受け継いだから、日本においては、女といえばもてはやされる。男が来たらいいか? 女が来たらいいか? 男は欲張り、最高の欲張り、かなえなかったら、みな一人で取ってしまう。それは女にすれば、男がいいかもしれない。男にすれば、男がいいだろう。(笑い)
神は原理の神だ。神がメシヤをよこすには、原理に従ってよこすしかない。まずもって、そのメシヤたる者は、原理を中心として完成したものである。原理を、専門的な原理を中心とした者でなければならない。原理によって造られた一人から、原理を中心とした思想をもってこなければならない。そうすると、神自体も原理から見た場合、男が初めか? 女が初めか? (男です)。どうしてか? 女から子供が生まれてくるんだよ。なぜ男だ。聖書に書いてあるから信じて? (神様が男だから)。なぜ神様が男か、見たか?
そうかどうか分からない。実験してみなければ分からない。さあ男か、女か。人間は何が主体か。今度アメリカやヨーロッパへ行って質問されたのもそれである。何で男が主体か? 人間は生まれてくる時は、女か男に生まれてくるけれども、男が先か、女が先か。そもそも人間の子供の種は、女から生まれるのではない。男から生まれるようになっている。原因の出発点は、男からである。神様から見ても、男を中心としなければ原因の主体性を立たすことができない。男を中心としなければならない結果になっているから、男のメシヤが来なければならない。女は何か。畑である。女が主体にはならない。男が主体である。先にあった。だから原理的に見た場合には、男が主体者にならなければならない。
日本の女は生まれつき良く教育をされているから、日本の女は男に絶対服従するようになっている。家庭から、社会から、国家からそうなっている。よくよく従うようになっている。アメリカは反対だ。東洋は女が一番下であり、西洋は女は一番上である。反対でなければ、平均はとれない。先生、驚いたよ。西洋に行けば、みな左手を専門的に使う。東洋では左手を使ったら、かたわみたいに思うのだけれども、西洋は左利きが多い。寝るのも東洋人は仰向けで寝る。西洋は真下を向いて寝る。人を呼ぶときの、手の使い方も違う。よくよく釣り合うようになっている。中心から見た場合には、これらは反対である。だから二つにならなければならない。
ここにも西洋の食口たちが来ているんだけれども、彼らも先生が必要だよ。だからメシヤは、神様も仕方なしに男をよこさなければならないし、人も男を望まなければならない。だから男が来るのである。その男のメシヤは、何を求めてくるか。女を求めて来る。気持ち悪いんだけれど、女を求めて来る。女といって、気持ち悪く思ってはいけない。
だからメシヤは、この地上に来られる時には、堂々たる男として来られる。天下いずこに来られても、それに逆らう者なし、神様も惚れた男である。歴史的聖人にも、それは希望の的の男である。これは万民、世界三十四億の現世の人間は、その姿を一度見たい、一度話し、共に行動したいというような望みの的のお方である。未来は、そこから新しい尺度が始まる。出発の基点である。それがあって、すべての価値が生まれてくる。その基準があって、すべてが中心を取るようになる。それが確立するにしたがって、勝利が決定されてくる。
しかし、素晴らしいお方であっても、それは人間に違いない。目も二つであり、口も鼻も、君たちとそっくりである。君たちがメシヤに似ているのではなく、メシヤが君たちに似ている。メシヤは人に違いない。人は人だけれど、内容が違う。その内容は、立体的内容をもっている。それが違う。堕落した人は、堕落圏の平面的内容しかもっていないけれど、メシヤは立体的内容をもっている。心情においても立体的だ。それが違う。あなたたち平面がいいか、立体がいいか。立体的でなければ、永遠に回ることができない。そういうふうになっている。
メシヤの使命
メシヤが地上に来られて、果たすべき使命とは何か。サタンを屈伏させなければならない。サタンを屈伏させて、悪の主管圏を打破してしまわなければならない。占領してしまわなければならない。これは、メシヤの第一の責任である。
我々人間は悪主管圏に包囲されて、ねらわれている。この鉄条網をいかにして切るかということである。あなたたちには切る道もない。そこには、番頭さんが立っている。その番頭さんと戦って勝てる力をもった人は、この世の中にはいない。だから解放をなし得る主体の主人をもって、そういうとりこになっているその防壁を一挙に覆して、そして番頭さんを処分してしまえば、すべては解決してしまう。だからもう牢屋など、問題ではない。最後には何か。番頭さんだけ。これを追い出してしまえば、すべては解決する。サタンを追放するためにこの地上に来て、サタンの主管圏、悪の主管圏を奪還し、善の主管圏の設立のため来られるお方は、メシヤ。
メシヤは男として地上に来られるが、その第一の目的は、女のために来られる。
日本国民として、日本の首相には選挙でだれでもなれるし、なって走ってみることはだれでもできる。選挙で加担する者たちも、将来自分もなりたいと、欲望をもってそういう選挙運動する者はたくさんいるんだよ。それと同じように、もしもメシヤが女のために来られるのであれば、世界的な女性は、「一つ候補者になってみたい」と思う。候補者になってみたい心は、女としてみなもっている。メシヤは地上に、女のために来られた。そして、新しい血統を立たせる。それを考えなければならない。何のために女を迎えるか。新しい血統を立たせるためである。それは最も大切だ。原理から見ても、それは中核を訴えた答えである。試験の答案に、それ書かなければならい。
メシヤの来られる目的は、サタン世界主管圏を断ってしまって、それから、善の血統圏を立たせる。その善の血統圏を立たせようとしても、反対する国があった場合には、その国の中で血統圏を立たせてもやられてしまう。サタンが主管するその主管圏国家圏にあって、国内にあって善の血統圏を立たせたとしても、サタンは首を切ることができる。それはそうである。敵の王子が敵国の真ん中に来て、夫婦でのみ生活するとするならば、王子は、敵国の獲物になる。それは間違いなくそうなる。だからまずもって、善の主管圏を獲得してから、すべてをやらなければならない。
この世の王様サタン
聖書を読めば、ヨハネ福音書第一二章三一節に、「この世の君」とある。それは聖書を読むクリスチャンたちが少し考えても、すぐ分かる。なぜ、全能なる神様が造った万象界すべてが、サタンの指揮下に入ってしまったか。サタンと神様といつ戦って、神様が負けてしまったのか。聖書をいくら読んでも、神様が負けてしまったという聖句はない。戦ったこともないのに、しかし、結果がそうなっている。
万物は、アダム・エバのものである。アダム・エバを中心として、人類の先祖のためにつくったものである。つくった者の主管圏内にあるべきなのに、それをサタンが占領してしまった。占領方法は、何を中心としてやったかというと、神の最高の理想の基点である愛をねらった。愛の問題でなければ、何の問題もない。だからサタンがどういう者か。
聖書を読めば、イエス様もこういうことを言っている。「罪を犯した場合は七回を七十倍するまで罪を許してやれ」と。それだけの包容力、それだけの慈悲心をもっている者ならば、実に愛の者に違いない。イエス様は、そのような神の子である。その親父が神様である。それだけの心をもった神様であるならば、なぜサタンを怨讐視するか。サタンが犯した罪を許してやれば、一挙に済むではないかと思われる。しかしサタンを、神様はいまだに、永遠に怨讐視する。サタンは、何の罪を犯したのか。人間は今まで分からなかったのだけれども、それは許すことのできない罪を犯している。だからイエス様が罪を七回を七十倍するまで許してやれというのは、「サタン圏内にある人を、いかなる犠牲を払っても解放する、その目的がなされるまで許せ」という言葉である。
そうかといって、サタンを許すことはできない。何の罪を犯したのか。サタンは人が罪を犯した場合、神の前に讒訴して自分の所に引っ張ってくる。サタンも罪を犯したならば、その罪を人が引っ張り出し、神に讒訴した場合には、絶対なる公的の審判官である神は、サタン自体を裁かなければならない。そういう立場に立たれるか、立たれないかと思ってみた場合に、それは当然、同じ公式によって堂々と立ち得る。サタンがこういう罪を犯したと、讒訴し得るその者が、今まで歴史上に生まれてこなかった。
殺人をしても、その罪が公に現れなければ、その罪を犯した者は、平常な生活を送ることはできる。しかし、罪を犯したその現場を見て讒訴する少年、少女の前では、頭を下げる。警察に訴えようとすれば、それは命懸けでお詫びをするだろう。屈伏するだろう。だから人間は、今までサタンが、何でサタンになったか、はっきり知らなかった。それを我々は究明しなければならない。そういう内容を教えているところが、統一教会である。
もう少し突き詰めて言えば、まず一般の人は、悪の世界、サタンというものは、もともとあったという。それでは、二元論になる。二元論になった場合には、原因が二つだから、目的が二つになる。理論的な結論である。だから、そのようなサタンがもともとあったとするならば、神が人間を中心として理想世界を夢見るということは、これはナンセンスである。それではいけない。だから、そうではなかった。
サタンが数千年神を讒訴しながら、数多くの人間を自分の足場に踏みにじってきた。こういう権力あるサタンが、元から神と同じく存在したとするならば、人間は完成するという目的観念をもつことはできない。霊界へ行っても、堕落しないという基準を絶対的に求めることはできない。そうであるならば、神は絶対者ではない。相対的存在になってしまう。
善と悪、共に主張すべきなのにもかかわらず、悪なる者が滅んできたのが歴史の伝統である。だから、善に支配されるのが原則である。そういう結果から検討してみても、悪の主体は善に服従する動機をもっていることを、証拠として示すことができる。だから、それはもともとあるものではない。
サタンとは何か
サタンとは、どういう者だろう。最初の先祖、アダム・エバを中心として考えてみると、神様がおられ、アダム・エバがいた場合には、アダム・エバの関係、神様との関係をよくよく知っていた者はだれだろう。それは、天使長しかいない。理論的にもそうなっている。天使しかいなかった。一番近い者として天使しかいないので、天使長を中心として疑ってみなければならない。神様自体は、堕落の動機になれない。アダム自体も、エバ自体も、堕落の動機になれない。その動機になれる者、第三者の立場にいる者は、天使しかいない。
天使という者はいるか、いないか。それは、聖書からちゃんと分かる。人を造る前に造ったことになっている。だから神様が戒めを出したのも、天使長がいるからであって、もしも天使長がいなければ、アダムに対して善悪知る木の実を取って食べるとか、食べないとかということは、必要でない。問題はそこにある。だからサタンという者は、もともとあったのではなくして、堕落したために、罪を犯したために、それはサタンになった。堕落のために、サタンも生まれてきた。
では、人間とサタンと、その罪を犯したことに何の関係があるか。人間だけが堕落したのではない。サタンによって誘われて堕落したのだから、共に堕落の動機に結びつけることができる。サタンがエバを誘って堕落したのだから、人間が堕落するとともに、サタンも堕落した結果になった。では、その堕落とは何か。
聖書を探ってみると、堕落によってサタンもサタンになったとするならば、そのサタンはどういう罪を犯したのか。それは淫行を行っている。ユダ書六節以下には「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり」と記されている。だからサタンは淫行によって堕落した。そうすると人間の堕落と通じる。
エバは、堕落した結果どうなったか。見て、取って、食べて、口をふさいだのではない。手を隠したのではない。何かいい物があって、お客さんが来た場合、それをお客さんにあげようとしてお母さんが、「だれだれさん、手をつけてはいけない」という命令をした場合、子供は、それをおいしい物であると知って、お母さんの戒めをきかず手を出して食べようとした途端に、お母さんが入ってきたとしたら、口をふさぐ。それは人間の本能である。こう考えてみた場合に、エバはなぜ手を隠さず、口をふさがず、下部を覆ってしまったかが問題である。
聖書のイエス様の言葉を見ると、ヨハネ福音書第八章四四節に、不信なる者たちに対して「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって」と記されている。これは的中している。洗礼ヨハネも、敵愾心をもって、「へびよ、まむしの子らよ」と言っている。こういうのを見ても、サタンによって人間は、神も許せない淫行関係において、血統を汚されている。これは否認できないものになっている。だから我々先祖は結局、堕落の結果において血統を汚してしまった。
堕落した人間は、いくら努力しても、養子にしかなりません。養子というのは、血統が違う。ローマ人への手紙第八章二三節には、「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の中でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」と記されている。それは否認でない。我々堕落した人間、クリスチャンすべてが実子になりません。養子になっている。その養子とはどういう者かというと、例を挙げれば、渋柿みたいなものになっている。その渋柿の畑は、神様が管理するのではなくして、この世は、すべてサタンが管理する。サタンが管理する渋柿になってしまった。
人間自体が血統を汚したんだから、汚れた血統を受け継いで生まれるすべての者は、サタンの後孫になっている。一人生み、二人生み、数百、数千万になるにしたがって、それはみなサタンを先祖として、後孫として生まれてくるので、結局は、サタンは黙っていても王様にならざるを得ない。その後孫の立場に立っているから、サタンは自然とこの人間世界を中心として王様にならざらるを得ない、という結果になる。だからサタン圏内に創造された万象世界が、サタンに主管されるのは当然である。それは否認できない。戦わずして万物は、そういうような主管圏に入ってしまわざるを得ない結論になる。
だから、血統的な堕落のゆえに、神が主管すべき者をサタンが奪い取っていたということは事実である。
宗教の使命
神は、サタンが主管する渋柿の畑をそのままにしておいては、サタンの国において主管されるのだから、それをそのままにしては、神の摂理とか何もなすことはできない。それで、サタンを世界から分別する作用をする。その分別作用をなす機関が何かというと、これが宗教である。
宗教は、現世の権力のすべてを、外的なものすべてを否認して回り右せよ、そういう作戦をする。この世的なものすべてを否認する。だから完全なる宗教は公認されて出発するのではない。絶対否認から出発する。そうでなければ、完全に立つとか、回れ右することもできない。そこにおいて、後ろを振り返り、塩の柱になったロトの奥さんと同じような未練をもってはいけない。反対である。公認において、真の宗教は生まれてこない。この基準から見た場合に、日本の現実において、真なる宗教はいずこにあるか。分別する基準、分かりましたか。
だから聖人たちは、その時代においては、その国から迫害された。迫害されたどころではない。生命を奪われてきた者が善人になっている。イエス様自体もそうである。孔子もそうである。その時は、隣の犬みたいに扱われてきた。お釈迦様もそうである。みなその時代に、足で踏まれ、その環境に踏みにじられた者が歴史を動かし、新しい世界の方向を示す中心人物になった。その時代から抱擁され、歓迎される立場に立ったのではない。いかに否認して、善の立場に立つその観念を世界的にもっていたか。その基準において聖人が分別されてきている。だから、みんな世界主義者である。一国だけを思うのではない。
神の願うところは、国を越えていかなければ、その出発点を満たすことはできない。神はいつでも世界を願う。アダム・エバの時に、堕落しない前に国境というものあったか?国境はなかった。君の国、私の国というものがあったか? これは堕落の結果である。ちょうちょが国境を越える時に、「すみません」とあいさつしていくか? ちょうちょは国境を知らない。いくつの国を渡っても、あいさつなどしない。思いもしない。なぜ人間世界だけ、こういうふうになったのか。堕落の報いだ。日本の国、韓国の国、このような国境が生まれてきたのは堕落の結果だ。だから根本から見れば、国境とか、文化というものが、こんなにもたくさんになるはずがない。
撃ち合いをして基盤を広げて、国境をつくり、いろいろの文化に分かれていく。言葉もみな、時世によって変わっていくだろう。だから、今みたいにたくさんの言葉ができたのである。そういうのは、今からはいけない。我々の言葉は二つではいけない。国が二つではいけない。一つの国、みなそれを願う。
日本にも武士道があって、敵討ちというものがある。これは吸収しなければならない。一家が滅びても、一家の側近の何でもない者一人が残っても、生涯かけて敵討ちすることもいくらでもある。だから国境を、一時に、ある方向に向かって解放させるような運動をする。そういう思想的運動を必要とする。そういうことは根本的に間違っているということを教えてやる、何者が生まれてこなければならない。では、「日本が滅べばいい」と言う日本国民はいるか、いないか? (いません)。「アメリカが滅べばいい」と言うアメリカの国民はいるか? (いません)。各国ともみなそうである。これをいかにして、国境を越える人間にするか。それには観念的な問題がある。自分の国は日本だという観念、これが日本国民の伝統的思想観念になっている。そうでなければならないという歴史的文化の背後の伝統によって、それはみな釘づけられている。その思想を無理なく、それ以上の思想と取り替えれば、それ以上の国を求めるようになる。
国境を越える思想
だから今は思想の時代である。思想戦の時代である。より価値あるものがあった場合には、日本人でも、韓国人でも、西洋人でも、より価値あるものを得る権利を授ければ、今あるものを捨てて、より価値あるものと取り替える。人間は比較の能力をもっている。損する立場と取り替えはしない。日本人は百年の歴史を通して、西洋文化を導入して、早く早く取り替えてきた。だから今、現代文化世界においては、日本は模倣主義チャンピオンの国民である。そういうふうに考えると、先生は気持ち悪いことがある。「統一思想」においてもチャンピオンになるか。それはもちろん、チャンピオンになってもいい。しかし、元を覆してはいけない。
そういうふうに思ってみた場合には、日本人自体、あるいはアメリカ人自体、自分の国が滅びるのを願わない。その国に世界を抱えさせてやれば、国境はいくら広げてもいいという。今のハワイは、アメリカに入っている。ハワイ人もそれを願い、喜ぶのであるから、アメリカも大きい国で、それを抱えるようになっている。同じように、世界各国共に、世界の国民になり得る。事実そうならなければならない。それは日本民族によって、国民性をもった以上の必要性を要求するようになれば、これは自然と、戦わずして移り変わっていく。そういう運動を、神様も考えざるを得ない。
だから堕落しない前の価値観というものを、我々は、はっきりと知らなければならない。その価値たるや、万象すべてのものとも替えることはできない。人間の価値たるものは、どのくらいか。人間の価値というものは、何ものにも例えることのできない、最高の価値をもっている。
時計でも、自分のものよりいいものがあれば、取り替えようとする。着る物もそうである。いいものをやって「脱げ」と言ったら、自然に脱ぐのである。悪いものをやって「脱げ」と言ったら、戦うのである。問題はそこだ。だから、神様がこの世の中を統一世界にするには、神様自体も惚れる者、人間、万民すべてが自分よりいい者と認めるその者をもってきた場合には、今までのすべてが、未練なく捨てられる。それは黒人でも、白人でもみな同じである。
西洋人も、先生が「来い」と言えば来るのである。東洋人も、見たことも、会ったこともないにもかかわらず、「来い」と言えばすべてを捨てて動くようになるのである。それは、比べてみて、マイナスにならず、すべてにつながりがいいから、それは来る。
統一教会はおもしろい。何年前までいろいろなうわさをした。文鮮明といえば、日本人においては気持ち悪い思いになっている。新しく入ってきた者が、たくさんいるだろう。何で入ってきた。先生は歓迎しない。歓迎しなくても、その内容が分かった場合には、足場の近い所に立たせてもらいたいと、自然と願うようになる。学生でいえば、東大に入りたい、死んでも入りたいという場合には、死ぬときは東大で死ぬということも考えられる。同じである。要は何も奪おうとする必要はない。いいものを教え、いいものが得られることを教えれば、それは自然と世界的にならざるを得ない。これは事実である。
地上に来られるメシヤ
だから神様も、この地上においてそういう作戦をせざるを得ない。だから、メシヤが地上に来られる。その来られるメシヤが国家観念をもって来られるであろうかと思う時に、国家観念をもっては来られない。それでは落第である。少なくとも世界的、世界的人物の目標を満たして来なければならない。だから聖人というものは、民族主義者ではない。世界主義者である。
「統一思想」からいえば、我々は孔子より、イエス様よりもっと素晴らしい者にならなければならない。イエス様はその目的を果たせなかった。我々はそれ以上の目的観念で世界を統一しなければならない。「天宙統一」。それは素晴らしい思想である。この地上にない思想をもってきている。素晴らしい内容だけに、素晴らしい前後関係をもってくるに違いない。もしも神様がおられたとするならば、神様もそれをもちたいと願う思想であれば、いいだろう。そういう思想を、もしも自分がもったとするならば、神様もそれをもちたいと願うようになる。こういう人間に一つつくってみようという。これが「統一思想」である。
先生は、見ただけでは何でもないのだけれど、そういう思想を主張する先頭者だ。だから今から問題になる。メシヤは、世界的、世界主義以上の目的に向かって進んでいく。そもそも聖人というものは民族主義はいない。日本には愛国者がたくさんいる。日本の愛国者は韓国では敵だ。それは国境を越える力はもっていない。先生の話は、歴史の事実を言っているんだね。神はそれを知っているから、神のみ言を果たす使命をもった者は、世界的な者でなければならない。それは人間社会を中心として、人間の意志を無視した主義ではなく、人間を尊く思うとともに、神を尊く思う内容をもったものでなければ、神が必要としない。神が必要とする、そういう者であったら、これは滅びない。おもしろいことには、宗教の教祖がなぜ聖人になっているか。それをあなたたち若者は、知らなければならない。現代文化は、彼らの思想の総合的結果として成されている。日本国家も、その基準を型どっての社会組織になっている。それは事実だ。
イエス様も国家主義ではない。世界主義である。自分の個人の目的のために死ぬのではない。世界万民の目的のために死ぬ。我生まれたのも、また生きるのも、自分一個人で生きるのではない。万民のために生きている。我いっさいにおいて、そういう観念でもって、それに徹した生活観念でもって、生涯の道を行く。それに反抗する者がいれば、ぶつかって死しても、その決意を揺るがさない。そういう信念でもって、十字架を乗り越えて余りある男として行ったんであるから、神様がおられた場合には、その思想がなくなる恐れがあるならば、復活してもその思想を残さなければならない。そういう立場になる。
だから民族主義を超越して世界主義へ、そういう世界へ向けて、神はこの人類を押し立てる。それが今、あいにく共産主義思想圏に引っかかっている。それでは世界は、平和に絶対になりません。共産主義は、物質が元とする価値観を唱えているが、物質とは、人間に支配されるものである。人間の生活方便として消耗されるものである。そういうものの動機を絶対視し、そういう基準から人間の価値を見た場合には、この私、一人の人間としては、無価値な者に帰する。
あなたたちも知っているソビエトのスターリンを見れば、三千万以上の人間を虐殺している。毛沢東は五千万以上を殺している。目的を達成するには方法、手段を選ばない。自分の近親でさえも、意見が異なってくれば切ってしまう。それは善ではない。だから悪とは何かというと、自分のためにすべてを屈伏させるのである。それをはっきりしなければならない。
十人の友達がいた場合には、十人の友達に、「毎日、毎年、一生涯自分のためにやれ」と言った場合には、その友達は動くか。もしそういう者に支配された年数が重なればなるほど、「この野郎、時来た場合には一挙に整理してしまおう」という内心が大きくなってしまう。それでは平和は来ない。共産主義のやり方に、平和は来ない。
だからイエス様の主張したその生活は、愚かなようでも、実に偉大な戦法である。十人の友達のグループがいて、九の友達に毎日奉仕し、犠牲的に活動するという人がいた場合、九人が集まり、その一人が来ないときには、「なぜだれだれは来ないんだろう」とみんなが言うのである。何事もその人を除いては、なそうとしない。その人を中心としてなそうとする。人のために尽くせば、その人は消耗するように見えるんだけれど、時が長引けば長引くほど、だんだんと中心点を占領するようになる。
神の戦法・サタンの戦法
だから神の戦法と、サタンの戦法は違う。サタンの戦法は、打って滅びる戦法である。自分の利益のために人を犠牲にし、成功しようとする戦法である。それは長引かない。神の戦法は、自分を犠牲にして、打たれて勝利しようとする戦法をとっている。これはまるっきり違う。
悪人の戦法はどうか。悪人は自分のために他を足で踏みつけて、自分が成功しようとする者である。善人は奉仕してみんなを良くしようとする。みんなを良くしようとすると、結局、良くなった者は、良くした者を追い出すのではなくして、自動的に引き入れて、中心人物として立たせるようになる。ここには、戦わずして、すべてが占領される道が生じている。だから神は陰ながら、早く良くしてやろうという戦法で負けたことはない。
過去の聖人たちは打たれて、歴史が通過するにしたがって、だんだんだんだん打った国の後孫が、打たれた者の僕になってしまうという結果になって、歴史は発展してきているのである。それが歴史の事実である。原則はこういうふうになっている。だから統一教会は、この戦法をとる。「勝共連合の背後には統一教会がある。ああいうふうにするのは、勝共連合を前に立たして統一教会の発展のためだ」と、みんな誤解する。皆はそう思ってもいい。我々は、共産党をいかに防備するかということが目的で、統一教会はどうでもいい。統一教会が滅びても、それを成せばいい。「統一原理」は何を意味するものか。宗教が滅びかかっている、それを防備するものである。
二大目標のその看板を打ち出して、働きかけているのが統一教会である。「統一思想」である。そうしてその戦法は何か。共産党みたいに打って占領すべきでない。打たれてである。善の立場で打たれた場合には滅びない。それをはっきりさせるために、例えを言おう。
二人の兄弟がいるとする。満二十歳の兄さんと、十歳の弟がいる。その場合に、親は兄さんに毎日相談をする。しかし、そういう兄さんが何の罪も犯していないその弟をぶったならば、父母が兄さんを中心としてあてにしていたすべてのものは直ちに崩れてしまう。そしたら弟のほうを助ける。絶対的にそうである。なぜ弟をいじめるのか。「何が悪いか」と、それに反発した場合には永遠に切られてしまう。
だから、善悪はどこから始まるか。先に被害をかけたところが悪である。いくらいいことを言っても、被害をかけた場合には悪に終わる。悪いことをしていないのに、その国が攻められた場合には、攻めた国が攻められた国に支配される。その原則を、はっきり知らなければならない。統一教会の食口としても、いい者はいい者である。カイン・アベルである。被害の動機になった者、それはカインである。
エデンの園において、天使長はアダム・エバに被害をかけた。被害を先に被らせる者が悪である。それを治めるのが法律である。被害をかけた者が善か、悪か。それ一般社会での悪、サタン世界の悪も通じるのである。
人を見るとしても、微笑みながら気持ちいい姿をした人を、みな見つめる。気持ち悪い表情をした場合には悪だ。だから向かい合う時には、必ず微笑みながら頭を下げる。これは恐ろしい戦法である。これは善悪の分かれ目である。
話をするときにも、謙遜な者と傲慢な者。一人は小鳥がさえずるように歌いながら、気持ちいい姿でもって話をする。一方は傲慢な姿でもって、ぷんぷん言う。見ただけで気持ちが悪い。人間は、笑顔でいつでも歌いたい。口を開けば歌う。そういう気持ちをもった者には、悪人はいません。
被害を与える者は、悪である。被害を被る者は善である。そうして悪の被害をかけた者が黙って、そのままの道を続けていくならば、悪を犯した者から、戦わしてすべてを相続する素晴らしい道がある。これをイエス様はよくよく知っている。研究したらそうなっている。今から二千年前の時代において、そういうことを分かってか、分からないでかは知らないんだけれど。だから善悪をはっきりと知らなければいけない。
イエス様の思想
だから宗教人はみな奉仕をしながら、皆を喜ばせる。それが善の道である。イエス様は恐ろしい思想をもった。ローマの兵士に対して、自分を槍で刺し殺す怨讐に対して、神に祈ったその悠々たる姿には、天地すべての存在は涙ぐみながら、内心の深い底から永遠の勝利をたたえる。その瞬間が、その時だったのである。素晴らしい方だ。
三十三歳の年の人は手を挙げて。このくらいの若い年のイエス様、子供ももたない、結婚をしたこともない、これはもう逃げ回る男である。どこの部落を訪問しても、朝御飯も出してくれる者がいない。だから聖書にも、「いちじくの木の実を取って食べようとしたら実がなかった。呪われて枯れてしまえ」という言葉があるように、かわいそうな生活をしたのがイエス様だ。「狐には洞穴があり、鳥には巣があり、自分には何もない」。これはもう悲しいどころじゃない。悲惨な男であった。友もなければ親もあるわけではない。何もない。むなしい。林子平の言葉があるだろう。「金もなけれど死にたくもなし」。そういうふうに死んでいった。だれも認めなかった。国も認めなかった。弟子も認めなかった男が、いかにして世界の民主主義国家圏をつくるその創始者の主体となり得たかというと、神様がいなかったなら、絶対なり得ない。
だから善人は、このように後世において歴史的にたたえられるような道を保ちながら、その思想を受け継いで、歴史が過ぎれば過ぎるほど世界的万民を包容して、世界圏を広げてきた。これが歴史の事実である。四大文化圏の精神の思想が、宗教が、現在の文化圏の背後にある。
民族とか国家主義を越え、日本人を愛するより、世界人を愛せ。だから「統一思想」はあなたたちに教える。先生はあなたたちに教える。統一教会を愛せということは教える。しかし、統一教会より世界を愛せ。統一教会の文先生より、世界を愛せ。それが先生の教えである。
神を解放する日まで我々は行こう
先生も世界のために働いている。先生の関心は世界である。自分には関心がない。しかし、あなたたちは世界に関心をもつより、先生に関心をもつ。そこが先生と違う。先生は自分に関心をもたない。関心の的が世界であるにもかかわらず、君たちは世界はどうでもいい。先生に関心をもつ。こうなっている。これは間違っている。しかし一方には合っている。しかし、それっきりでは駄目である。先生が亡くなられた場合には、世界の行く道はふさがってしまう。先生と同じような思想を、あなたたちはもたなければならない。
世界に行く道を、先生が先頭に立って開いてくれるのだから、世界に早く行くために先生を必要とする。それが先生の目的である。先生を助けるために、それは先生を要求するのではない。
世界のために我々は生まれており、世界のために我々は統一教会をつくったし、世界のために我々は日本を舞台としている。これは訓練場である。日本で働いて、日本で死ぬために働くのではない。日本で訓練して、世界で死ぬためである。これは「統一思想」である。もう一歩越えて、共産主義より高い思想である天宙主義とは何か。これは万民解放を目的とだけするのではない。そこにおいて神様をも解放する。だから心情の世界でなければならない。心情のその鎖につながれている親だから、その子供が解放されない以上は、親は解放することができない。だから心情の歴史をつくろう。心情の伝統を立たせ、心情の世界をつくろう。神様を解放しよう。
我々は、歴史的神様の心情を知らなければならない。現世的な神の願いの目的をなし得たその心情の喜び、一方的な方向を要求するのではなくして、過去の心情を兼ねた現世の勝利、神の願いよりも、もっと願ってきた価値のものである。そうして得たものを、神様に何の功にするでもなく返してあげる。そうであれば神様も、これは素晴らしい男、女としてそれを抱えてやろうとされる。祝福は嫌だとして逃げていっても、足止めして、それはお世話をしてやるというのである。
そういう心情の世界を我々がもっていたなら、現世においての問題を解決しなければならない。未来に完成するのだから、我一生尽くしても、悲しみの心情を防備してしまわなければならない。そのように、命懸けでやる。
だから今のところ、世界の思潮がこのような困難な時において、両手を挙げて、濁流が渦巻く真ん中に立って、その方向を新しい神の願いの方向に進ませてあげる。歴史的心情をもって、そういうふうにしてあげたならば、神はいかばかり喜ぶだろう。それを我々は願っている。
統一の要因と方案
一九七一年九月十三日、韓国・水沢里の中央修練所において、訪韓した日本の統一教会のメンバーに対して語られた、文鮮明師の講話である。
一つになる標準基準
一つになるには、標準がなければならない。二つを一つに合わせるならば、一つになる。そのためには、標準の基準が絶対必要である。
世界を一つにするには、「世界を代表した国」という標準がなければならない。国が一つになるには、民族的、国家的な標準の基準に一致された「主権」が成立しなければならない。
また、民族が標準の基準に立つには、その前に氏族の標準が必要である。氏族であれば、標準になる一つの家庭が問題になる。これを突き詰めると結局は、「家庭を代表した個人」が問題になってくる。
こう見てみると、我々人間が世界を一つにすることを願う、その立場自体を考えてみた場合に、その標準の基準を忘れて、今向かい合っているのが、世界における生活圏であり、情勢圏である。そして、今より先に進めば、何かの標準が生まれてくるだろうと思ってきたのが、今までの歴史である。言い換えれば、はっきりした標準基準を求めた上において出発してはいないし、その基準に立ってもいない。そしてその標準は、未来の世界において求めようというのが現状である。それが人類の実情であることを思うときに、それ自体が矛盾している。
ここにおいて、神様がいらっしゃったならば、神様はどのような方法で世界を一つにされるかを考えてみるときに、結局は、神様自体も、ある基準を決定しない以上は、「それが正しい」とかと決定ができないのは、当然のことである。絶対なる神としても、その基準を無視することはできない。
善を主体にして、それに一致すれば、それは善になり、神様の絶対的目的圏内において必要な要素として認めることができるが、そうでなければ、神様も必要なものと認めることができない。歴史過程において、聖人、賢人、義人がたくさん現れ、あるいは霊界と地上界をつなぐ預言者がいたが、彼らはすべて善を目標として進んでいき、歴史に貢献してきた。そうであれば、そういう人たちの願いも、世界のために絶対的標準の基準を得ること、またそのための努力であったに違いない。
我々個人から見ても、何よりも必要なのは、その「標準的義人」である。その標準は、時代に応じて、あるいは文化圏に応じて、また発展にしたがって変化していくような基準であれば、それは理想の基準になれない。絶対的神の認める基準になり得ない。
また、歴史の方向というものが、ある目的をかなえて進んでいくというならば、その標準が違った場合には、とんでもない結果になってしまう。歴史が変化しても、外的な姿は変わっていくとしても、その内的基準は変わってはならない。それが変わった場合には、理想も何も、善の基準も、我々の求める喜びの基準も、探すことができないという結論に到達する。であれば、その基準は、時代性、歴史性を超越した基準に立たなければならない。それで、人間の希望においても、多少の差はあるとしても、その希望をもち続け、それを相続し得る、そのような標準の基準にならなければならない。
例えて言えば、結晶体みたいに、形は小さくても、それを成す要素は、絶対変わりないという内容で整えなければ、それは標準になり得ない。
金も権力も標準にはならない
こう見ると、世の中において標準となるべきものは何か? こう質問した場合、ある者は言うだろう。「この世的に考えてみた場合には、金である」と。金銭の問題だと、生涯をかけて、それを標準にして行っている人もあれば、そういう国家もある。
ある者は、「それは金ではない。権力だ。権力さえあれば、すべてが成し得る」と言う。しかし、その権力というものは、権力差の一単位が過ぎれば変化していくものである。それは本当の、人間が求めていく絶対的完成圏を成すべき標準になり得るかと聞かれた場合には、「そうではない」と答えざるを得ない。
最後に、一般の人の結論としては、「物でもなければ、知識でもなければ、権力でもない。それは、人間である」と言う。その「人間」を、再三思案しながら分析してみると、この人間たるものは、絶対的に信じられるものか。「普遍なる存在の基台に立ったものか。それが今、すべての標準の基準に立ったと確信している時代になっているか」と聞いた場合に、「これは困った」という立場に立っている。
自分なりに標準的内容を備えていると確信している者がいるかというと、一人もいない。自分を中心として、万人はこうでなければならない、家族はこうでなければならない、あるいは社会はこうでなければならない、自分が願うその標準として練り合わせて、もっと上層的な、あるいは上級的な国家、世界は、このように発展して、これを結びつけなければならないと確定したその個人の標準の基準をもつ者は、世の中にいるか? このように突き詰めて聞いた場合には、「いません」と言わざるを得ない。
なぜ、そう言わざるを得ないか。我々人間を考えてみた場合には、人間は変わりやすいものである。あなたたち自身を考えてみても、正月の元旦の日に、「自分はこういうふうに行く、公式的に決めておく」と決意をもって誓い、そして進んでいくときに、何日それを続けられるか。ある者は、一週間も行かずに、その決意がとんでもない結果になってしまうことをよく体験している。それが一日でなくして一年続けるのは、あまりにも難しいことであることは、あなたたちの生活圏内において、よくよく体験している事実である。
こうなると、大変な問題になってくる。その標準は「人間」と決めた以上において、その人間が絶対的標準の基台になり得ないという場合には、どうなるか。希望も何もあったものではない。
絶対の基準はなかった
信頼すべき絶対的基準というものを、このようにかき集めて批判して考えてみて、一人の人間も求めることができないという結論に立った場合には、「世の中に標準になり得るものがあるのか」と問わざるを得ない。とすれば、そこから自分はどうなるだろうかと考えてみた場合、それは悲惨なものにならざるを得ない。そこにおいては、希望の家庭を考えても、それは何のための家庭か、あるいは社会、国家、世界は、何のためか。自分も決定できない立場において、その相対の理想圏というものは、何の存在意味があるか。自分が立っている基盤は、あやふやなものである。そういうあやふやな立場において希望をもつとか、戦ったり、欲張ったりするのは、それはおかしい。そういう結論にまで到達する。
そうすると、あなたたち、決定的なその標準の基準を自分と結びつけ、その結びつけた確固たる標準基台において、自分の間違いない発展を願うとするならば、標準を求めること以上に深刻な問題はない。それを果たさない立場において、いくら国とか、世界とか、理想とかいっても、それは果たせるはずもなければ、望みの当てとするものでもない。
何を標準に求めるかという問題がもしも解決し、それが間違いなくそうであるとすれば、その基準はみんなが願い得るものでなければならない。一方は願うし、一方は願わない、あるいは、ある民族には合い、ある民族は合わない、というものであってはならない。本性を共にもっている人間であるから、平等に、あるいは共同にそれを求めるべき基準にならなければならない。
我々は個人をずっと分析してみた場合には、個人というものが、統一の基盤である。しかし、果たして統一になり得るような実体になっているか? 統一という観念を探り出すことができないものになっている。統一の標準を満たさなければ、統一されたという結果も得ることはできない。このように考えてみた場合には、現実の我々自体は結果的なものである。この結果的なものが統一されているかというと、統一されていないのである。なぜかというと、我々人間には、良心と肉身、相反するものがある。肉身がこうしようとすると、良心のほうは反対に引っ張る。その中に、引き裂かれなければならない中間的な立場に立っているのが人間である。それを防備するのに苦労しているのが人間である。ある時はこういうふうに引かれ、ある時はこういうふうにと、行ったり来たりしている。ある方向に、直線的に行くということは、自分の生涯路程において、思われないような結果の自分であることを否認できない。
我々は普通、良心がその基準になっているという。厳密に言うと、良心も時には行ったり来たりする。直線的でない。その良心も環境によって変わりやすいものである。肉身は言うまでもない。そうすると、良心が人間の本当の標準基準になっているか? なっていない。肉身自体はもっと当てにならない。
こういうふうに、この世の中をずっと考えてみた場合には、標準たるものがないという結論が下される。こう結論を下した場合には、信頼とか人倫問題とか、道徳問題とか、これは何だ! これは人間が、仮想的な欲望の、ある目的を果たすための方針としてつくったものでしかない。それは、本来の我々の求めている標準にかなう方法、あるいは方策ではない。そうなると、これ自体が不信されるものになっている。こう考えてみた場合に、世の中は寂しい。世の中は実に砂漠みたいな、頼りにならない、こういう世の中になってしまう。
価値ある「自分」を残したい
我々、外的なものからずっと総合的に批判してみるときに、世の中で一番素晴らしいと思うのは何だろう。金は、人間と相対関係のものである。人間自体が問題になっているから、人間と相対関係のものはあまりあてにならない。学問とか権力とかも、人間と相対関係のものである。であれば、我々人間の生活圏において、その中でも残したいものとはいったい何だろう。
そう考えてみた場合、「自分」というものは何が何でも、全部残したい。「自分」が死ぬということを一番恐ろしがる。残すばかりでなく、「自分」を何よりも価値あるものにしたい。そういう思いをだれしももっている。その思いは、抜き去ることのできない観念になっている。
この「自分」とは、何を基準としてそのような考えをするのか。尊重したい、あるいは残したい、そして価値あるものとしてそれを残したいと思うのは、いったい何を動機として思うようになるのか。もしも、そういう動機がなくてそういうように思うと言うならば、人間自体が自分を尊重するという思想、自分より価値ある基準を願い求めているという思想は、これは空想である。
しかし、それは今我々自体ばかりではなくして、過去のあらゆる人間、今、世界に数十億住んでいるすべての人間、あるいは以後生まれてくる数十億の、あるいは数百億のあらゆる人間、すべてがその観念を乗り越えることはできない。その観念下において、生まれて生き、そして死んでいくに違いない。人間世界からこの観念を抜き去る力があるか? ない。
人間世界において、自分の優秀なる素性を、自分なりに一〇〇パーセントの価値を生み出すところにそれを総合すれば、一つの文化圏が生まれてくるのではないかというとき、「自分」を尊重するその思想を抜き去った場合には、文化も何も、発展の動機もなくなってしまう。
そうすると、自分を残したいという、あるいはより価値あるものにしたいというように、自分を押し出す、その動機とはいったい何か。それは生命力である。生きる以上は、むやみに生きるのではない。ある目的をなしていきながら、生きなければならない。
だから、存在と生活圏という問題が始まるのである。人間として、存在基台と生活圏を否認した場合には、自分なりの価値の基準をもつことはできない。結局、自分の存在と生活圏というのは、まとめてその内容を突き詰めていえば、生活圏というのは相対関係である。だから、自分と相対関係のために、自分を残したい。自分を残すのも、ただ残すのではなく、相対と関係を結ぶにおいての価値ある自分を残したい。
価値というのは、一つでは生まれてこない。相対関係が必要である。結局、すべてをまとめてみた場合、自分の存在と、相対の存在という問題になる。
絶対の「生命」と「愛」
我々は、理想圏においては絶対を願う。あるいは、唯一を願う。あるいは永遠を願う。その基準に立った相対、結果のそのもの、それを必要としない者は、だれもいない。だからここにおいて、自分の存在と絶対なる生命、これはだれもが願うことである。
絶対なる生命、その生命は一時だけのものを願わない。それから自分と同じものを願う者はいない。人間はだれでも、みな違う特質をもっている。だから、唯一なる存在を願う。唯一なる生命を願う。それから永遠なる生命を願う。
「絶対」とか「唯一」とか、「永遠」というその言葉で形容される単語があるとするならば、それは「生命」を中心として言えば、適応される。
生命はいつも変わっていくような相対性を願わない。だから、これは絶対なるものだから残らなければならない。それから、唯一の生命だから、これは残らなければならない。その生命が一時のものであれば、それは流れてしまうけれど、永遠の生命だから残さなければならない。
信仰とは何か? 絶対なる信仰、唯一の信仰、これはみな相対の立場に立っている。相対を求めるときの、その条件として、絶対的相対基準を願う。その中間的立場に立って、絶対なる信仰とか、絶対的信頼とかというのである。信仰、信頼自体が相対関係の中心ではない。相対関係の、橋渡しをするための言葉にすぎない。
結果の言葉は何か? 愛である。生命があれば存在をなす。愛が成立するには、相対圏が必要である。このように結論を出すと、唯一の、あるいは絶対の、永遠の生命、永遠の愛、絶対の愛、唯一の愛。それは文学の歴史を通して考えてみても、愛というものは絶対である。だれでもが、見つめ、鑑賞するような、そのような愛である。たった一人であっても、愛を願うのである。それから、愛があれば、きのうあった愛は、きょうはなくなってしまうのではない。きのう愛があった場合は、それを元として、きょうの愛を積み重ねて、より高い価値基準を見いだすような、永遠の愛を願っている。
存在と相対関係、これを他の言葉で言うと、自分と相対の関係になる。自分と相手ということになる。相手がなければ、希望も何も果たされない。もしも、「自分には相手、相対関係はいらない」と言って、男一人でいくら威張ったとしても、一世紀後にはなくなってしまう。だから結局、自分と相対関係である。相対関係において、標準の基台を求め出す以外に道はない。
そうすると、自分の標準の基準は何か、相対の標準の基準は何か、ということが問題になってくる。男、女を考えた場合、女の標準が男か? 男の標準が女か? それはかえって男を標準としたより気持ちが悪い。標準というものは、より価値ある基準を求めて立たさなければならない。より絶対性に近いものでなければ、標準にはなれない。それは二人の良き関係において、標準なるものを探さなければならない。これは真剣な問題だ。
この両者の間において標準になるものは何か。男と女の、その感情とか性質とか性格とかは、相反する。男に隙があると、女はとんでもなくなってしまう。かえって、自分の良心と肉身を中心とした自分一人を管理するより、男、女の管理はもっと難しい。そう思った場合、変わらないもので、唯一のもので、絶対的なものといえば、それは何か? これは愛である。愛というものは、男も女も、絶対必要である。愛というものは、一人で成立させることはできない。愛というものは、共同、一致した基準を願い求めて、その基準において果たす。それが残るものである。少しでも一致した基準が伴わなかった場合には、流れていくか、それから飛んでいくか、そういうふうになる。
その愛というものは、どこに成立するか。共に共通目的の一点に徹した場合に、そこにおいて、永遠の愛、不変の愛、唯一の愛、絶対の愛が成立する。愛なくしては、どうしても自分と相対関係を結び合わせる道がない。いくら考えてもない。同志においても、「ああ、うれしい」、あるいは、「善なる友達だ」と言い出し得るような基準を生み出すまでには、その背後において、共に愛し合うということがなければならない。愛の観念を基盤として、そのように言えるようになる。
国を愛するとか、万民を愛するとかという問題は、みんなそこを基準として言う。だからなぜ、世の中において「国民が国を愛さなければならない」、「社会を愛さなければならない」、「家庭を愛さなければならない」と言うのか。それなくしては、何にもならない。結びつける動機というものが成立しない。なぜか?
主体と相対関係は、違った質をもっている。違った質をもっているものが一つになるには、質を乗り越えるような、強烈な愛の基準を求めていかなければならない。それは本当に統一されるかと考えてみる。それが統一の要因になり、あるいは、人間の標準の基準になった場合には、素晴らしいことになる。
愛によって生まれた者がなぜ対立するのか
自分に立ち返って考えてみる。人間は、堕落したものである。我々統一教会は、堕落ということを知っているから、問題の解決の方法を研究する余地はあるのだけれど、一般の人は、堕落とか何とか、それは分からない。「堕落も何もあったものではない」、そういうふうに思う一般の人々は、肉身と良心が相反する。これを何で結合させるか。難しい問題である。
このように理論的にずーっと追求していく。何で結合させるか。もしも愛としよう。人間が何によって生まれたかというと、父母の愛によって生まれてきている。愛の結果物である。愛の結果物たるものが二つになっているという場合には、その愛が人間の絶対的統一の要因になるか。一つになる、そういう標準基準になれるか? それは自分から見た場合に、父母の愛によって生まれているのに、こういうように分かれて、相反するような者になっている。それを見ても、それは、あてはまらない基準である。
この愛たるものが、自分と相対というものを本当の意味において一致させ、まとめさせる理想的な愛の基準において生まれているならば、理想的に一致した結果が生まれなければならないにもかかわらず、そういう結果になっていない自分を見た場合に、我々は、その愛なるものを疑わざるを得ない。
父母の愛だけは異なる
ここにおいて、おもしろいことを我々は発見することができる。
この世の中をずーっと考えて見た場合には、日本人としては、世界を愛するより日本の国を愛したい、日本の国を愛するより自分の氏族を愛したい、自分の氏族を愛するより家族をより愛したい、こうなる。家族の中において、自分の相対者を愛したい、自分の相対者よりも、自分を愛したい。(笑い) このようになっているのである。それが今までの歴史であった。それを歴史においてずーっとやってきた。
しかし、ここに変わった異質な愛があるというのである。それは何かというと、親が子供を愛する愛である。親が子供のために死ぬほど、命を懸けて愛する。それは自分を中心とした愛の相対を求めているのか? それはちょっと異質なものである。今まで見たときには、自分を中心としていたのだけれど、親の愛というものは異質なものだ。これは今まで、世界より日本の国、日本の国より氏族、氏族よりも家庭、家庭よりも自分というように愛するのが正統みたいに思ったその系列と、まるっきり反対の要因の基台の上に立った愛の現象が、たった一つある。それが、父母が子供に対する愛である。
あなたたち、子供をもってみると、そういうふうになるのである。そういうことを聞いているだろう。親が子供のために、命をささげ、自分のすべてを犠牲にすることを問題にもしないということがたくさん見られる。
本当の親の心を、親の愛の心をもったら、本当に子供を愛する親だったら、それは自分を犠牲にして、自分をほうり出して愛するというような道が、この世の中に一つあるというのである。これは根本問題を探っていく理論的な追求法である。多くの愛の中で、一般的な愛の階層があるとしても、その中において異質なものが一つある。これが問題である。
では、愛といえば、どちらの愛が本質か。愛なるものが標準になるという、その論法の結果から見た場合に、どちらがより本質になるか。
自分を中心として見た場合には、前者のほうがいい。しかし、親から見れば、犠牲になっても後者がいい。だからここにおいて、縦的愛とか横的愛を結合させれば、それが相反する方向に結合された結果になっているから、問題はそこに置こうではないか。人間が、そもそも相反するような愛の因縁でもって生まれた場合には、我々自体が二つになる。
また不思議なことには、親の愛によって生まれている。その親の愛というものは、男、女を愛した愛である。その愛の結果において子供が生まれたのにもかかわらず、その親の愛は、男女の夫婦の愛より強い。これがもしもそうだといえば、これは弁証法的発展であると言う。そうじゃないの? 親の子供に対しての愛と、夫婦の愛と、どっちが強いか?それは万民を集めて聞いてみても、「夫婦の愛が強い」と言う者は一人もいない。
いったいそれは、どういう結果か。強いのは、その背後関係において、どこからそれを補給してもらったから強くなったか、問題になる。
そうなると、こういうような親子の関係に結びつけられている愛というものは、夫婦の愛の体験を通ってきただけで生まれてきたという論法は成立しない。それ以上の力の加わった何かの起点が、第三点が、あるいは第一点がなければならないという結論に達する。こうなるとはっきりする。それは何か?
それは夫婦においての愛によって結ばれた、そういうものではない。別個の縦的な、根底を別にした愛の基準から結びつけられたものとして、これは認めなければならない。そうなっている。
愛の第一原因は神様
愛の中心はだれか? 父母ではなくして、その夫婦の愛を結ぶ基準ではなくして、そのほかのところにある。
その愛の主体は神自身、その愛の根拠地、絶対なる愛の原動力、その第一の愛の原因がある。それを認めないというと、これを論法的に解決することはできない。
作用した場合において、その作用した結果が作用し始めたその力より大きくなる力は、世の中には絶対ありません。力学の法則において、出力は入力より小なるのが原則である。そこに大なる力が生まれてきた場合には、その大きさに比例した力が、第三の位置から補給される道を満たさないというと、その結果は生まれてこない。そう見た場合には、弁証法的に小なるものが自然に発展したというのは言葉の誤りに違いない。
自然はどこにあるか。それは加重させて、発展していったということは、それは正当な事実としてある。
縦的に何が本体か。親なるものは素晴らしい。素晴らしいものだから、子供たちにとっては絶対のものだ。生命の母体になるから、素晴らしい。愛があれば親の愛になるし、生命の基台があれば親になる。だから親というものは、存在の基台にも立っているし、相対的愛の基台にも立っている。二重性をもっている。
親からその生命を受けなければ、生命を育てられない。それから愛においては、子供は、自分や自分の兄弟を愛するのではなく、親を愛する。だから、子供を抱えた親は、二重的な要因の主体になっているのである。生命の母体になっているし、愛の動機体になっている。だから、そういう二者を共に抱えるような、そういう立場になっているから、親というものはすべてを主管し、すべての本質の愛の起点に立っている。
だからその愛も、そういう結果の愛として、自分を犠牲にさせるような行動をなし得る愛を現すことができるのではないか。そういうふうに考えるのである。だから、「統一思想」が父母の愛をもち出した理由は、ここにある。
父母の心情でもって、僕の体でもって何代にも公益する。これは「統一思想」の主流の思想であるが、その父母の愛を、そこから生み出していくのである。質の違う愛の方向があるからこそ、これを基台として神様は、それを増やすことによって、一つになり得ない実体の愛の結果となった外的な悪の世界を、取り戻す。その道がなければ、人間社会においては理想が果たせるかというのである。そこにおいて父母の愛を相続し、繁殖していかなければ、我という存在は、統一圏には絶対立つことができないという、その基準を初めて発見する。
絶対の主体があれば相対が立つ
もしも、愛する立場に立った場合には、この世的な愛でもそうであるが、愛の本質は、統一の性質をもっている。
この世の中に愛があればこそ、家庭も成立する。その愛があればこそ、社会も成立する。それが欠けた場合には滅びるのである。それが固まれば固まるほど、強ければ強いほど、それが核心となって、相対の環境という相対圏が自然につくられるようになる。それは宇宙的存在圏の本質である。それを果たした場合には、完全なるプラスがあった場合には、完全なるマイナスは「現れてくるなと」だれが命令しても、それは自然と現れるようになるのである。陽電気が生まれた場合には、陰電気は自然と発生する。陰電気が発生した場合には、陽電気は自然と相対して発生してこなければならない。こうなっている。
完全なる主体が立った場合には、完全なる相対圏が立つ。神様は完全なる絶対的主体であるから、神様自体の創造圏というものは、完全なる主体が完全なる相対圏を結びつけるのである。たくさんのものを受け入れ、それを並べて、絶対なる相対圏をつくるようになっているので、その現象下にあるものは、より核心の立場に対しては、それ相応の相対存在は自然と伴うようになっている。
人間が、今世界に三十六億いれば、男、女に分けた場合には、十八億ずつになる。あなたたち、男として生まれるときに、日本には女がいないんじゃないかと心配して生まれた者はいないだろう。女が生まれてくるとき、男がいるかいないか心配して生まれる者はいない。人間が宇宙の主管主ならば、中心的存在実体をもって生まれるようになったならば、その相対圏は自然的に整うようになっている。そして、もしも人類をずーっと半分に分けて比較してみた場合には、ある時には何十万、何百万、何千万しか違わない。日本もそうだろう。比べてみた場合には、大差ない。差があるとしても、中間において、自然的な死ではなく、自動車事故とかでそういう結果になったのであって、本当は大概等しい。
だから絶対なる中心がある場合には、その相対者は自然発生するようになっている。だから聖書はそのことを、女は男によってつくられたといっている。完全なるプラスがあった場合には、それを中心として、マイナスは生まれる。それはちょうど一致するはずだ。
それがもしも、もう一つが現れてこなくて、授受作用をしない場合には、一時の存在は可能だけれども、永続はしない。それ自体もなくなる。こういうような論理の推理によって、絶対なる神様も万物がなくては、神様の価値もなければ、存在基準も絶対圏としてとることはできない。それでは理想がない。理想圏は立体的、質の違う刺激である。平面的立場の関係から立体的関係において、平面より以上の成果を立体的関係において受けることができる。
理想というものは、個人において感じる感覚よりも、相対関係において感じる感覚は強い。それはなぜ強いか。自分一人だけでは、一方しか動かない。一方しか与えることができない。向こうがなければ帰り道がない。結び合うのだから、全体が整理されるというのである。相対がなくて、全体を与えたなら死んでしまう。全体を与えた場合には、とんでもないことになってしまう。与えるとしても、半分以下しかやれない。そうでなければ、中心が飛んでしまう。だから完全に与えるのであれば、完全に返るというのである。
いったい、世の中において完全に与えるものがあれば、それは何か。肉身をもったこの個人を中心として完全に与えることができるか? 向こうにいっぱい充満させるものとは、何かというのである。金次第では、それはできない。話次第では、できない。何でもって完全に相手を充満させるか? それは愛によって充満させればさせるほど、不満か? そうではない。しかし、腹が減って食べて、いっぱいになった場合に、まだ食べたい? いっぱいになった場合には、どうなる? いっぱいになった場合には、それから上がるのではない。下がるのである。愛も同じである。愛も上がったり下がったりする。それも、永遠を目的としながら、それは一日生活圏の関係を貫いていく。
一番愛される者
神様から一番愛される者は、いったいだれか。絶対なる神様に対して絶対的犠牲心をもって、絶対死を覚悟して、勝利の苦労の先端に自分が絶対的に立つという者があった場合には、神様の絶対なる愛は他に行く所がないというのである。愛は二つか、一つか? 愛は一つである。その一つの愛を、それを占領する中心者たる者は、この地でいかなる者か? 神様が苦労するところがあったら、我は一遍に飛び込む。火あぶりにして殺すところあったら、我は先頭に飛び込む。手先から切って、そして殺すところあったら、我は先頭に、頭を切られる。そのような犠牲の場があった場合に、「我は行く」と言うものは、どういう者か? 神様から一番愛される者は、絶対なる犠牲を求めて、「その先頭は自分が占領したい」という覚悟で、生命を注ぎ合いながら走り込む者であるという結論がちゃんと出る。これは間違いない。
十人の子供がいれば、その子供たちの中において一番親の心情をつかめる者は、かたわの子供である。他の九人の子供は、もう世の中においては堂々たる子供である。権限もあるし、力もある。対面するのも好ましいような、そういう希望の者である。しかし、「それなりに、適当に親に対して孝行する」と言っている。しかし、かたわのその子供は、見るのも気持ち悪い者だけれど、朝、早く起きて行ってあいさつをする。「昨晩どうだったでしょうか。きょうの母さんの具合はどうですか」。そして、食べる物があれば、食べずして蓄えて、乏しいものでもいいから、朝晩、それをお母さんにささげたい。着る物は、「自分は病気でかたわだから、いいもの着たって似合わないので、兄弟に分けてあげます」。
だんだん親の心情は占領される。そして、その一家が滅びるという一大事が起こった場合には、その子はかたわであるが、自分から願って犠牲になって死んだという場合には、どうなるか? そのお母さんの心を全部占領してしまう。不具なる立場においてなしたことは、その相対基準に向かい合う価値は、不具の基準の結果としては現れない。反比例の結果として現れる。見たところはみすぼらしい結果になるように思われるけれども、心情的に見た場合は、何倍、何百倍、何千倍、その大きさによって父母は愛さざるを得ないということになる。
こういうふうに見たときに、平和なる統一世界をつくろうと願う場合には、どういうふうにすればいいか。先生が主体だから、先生の前にそのように犠牲になる者があった場合には、先生の両手を下げてしまうの? 上げます? 先生がそういうふうにして、そのような群れをつくってしまったとするならば、神様は手を下げてしまう? (上げます)。それもみな同じことだといえる。目的を立てるには、こういう基準に立たなければいけない。
だから、先生がこのような理論の基盤に立っていないというと、あなたたちに命令するとき、あなたたちから先生を見たら、気持ち悪いことをする。「これやれ! これやれ!」と言われて、今やりつつあるのだけれど、これをみな果たす前に、「あれやれ! これやれ!」。これをやろうとすると、「これやれ!」。そんな時がある。そうなっても心配する必要はない。命をささげて、これに打ち込む。すべてに打ち込む。この本筋に合った自分自身をささげて、文句を言う必要はない。
それから、それを基準において、心情的に神の前に相対圏ももってきてささげているか。それは種を植えて、何年、何十年、待つのと同じことである。このように信仰を立てる。このような場合、一般の人から見た場合には、とんでもないことをやっているように見える。
だから、苦労のネジを締めようというのである。初めは日本的に締めよう。日本的に締めた場合には、日本しか復帰できない。日本的立場において、世界的に締めた場合には、日本によって世界が復帰される。理論は簡単だ。
さあ、日本の立場で、日本的に締めよう。天宙的に締めよう。天宙的より、神様的に締めよう。天宙的神様がどのように締めるか。
これを理論的に出して、今までその基準を願ってやってきた。これがもし滅びたら、神の存在圏も宇宙の理想存在基台は、地上にあり得ない。そういうものは、行く道がない。堕落した子においては、絶対なる神様の愛を受けるために、絶対的犠牲圏を一遍に乗り越えていった場合には、神様が困るほどに突き進んでいけば、神様も一応位置を譲ってやらなければならない。その譲った位置が、元の神様の位置であった場合、神様は驚いてしまう。
堕落の位置はどうだったか。突き進んで神様が後退するのであれば、神様が理想圏におられることを考えれば、「では突き進んでいこう」と、そう考えざるを得ない。こうした場合には、苦労征伐の大将である。世の中では、すべてがそれを避けていたにもかかわらず、それを自分一人で、みんな占領してしまえば、「いやー、力の強いやつだ」ということになる。天下に一人しかいないという場合には、神様もそう言わざるを得ない。素晴らしい結果になるというのである。これは原理に合った話か? 非原理の話か? (原理の話です)。原理に合った話であれば、あなたたちに苦労させなければ、罰せられるのは先生だ。それを知りながら、なさないという場合には、だれが罰せられるか? (先生です)。先生が罰せられた場合には、あなたたちうれしいの? (悲しいです)。とんでもないことになる。
復帰の心情、復帰の歴史を中心として行く現状はどうかということを考えたのである。
命懸けの親孝行
そうすると、父母が命令してから行動するより、命令する前に、その内容をなした場合には、どっちがより孝行であるか? だから、命令を受けて行動するより、今から十年以後にこういう命令をするということを分かって、その内容を今においてしたという場合には、十年の歴史は自分によって保護された、ということになる。ただし、これには条件が伴う。命を懸けなければならない。
この目前の足場において結ばれる実践上において、命を懸け、そして滅んだ場合には、統一教会の文先生はもう滅んでしまったことになっているはずである。しかし、先生は、まだまだ滅びるという思いはしたことがない。いくら滅びるという境地にあっても、その滅びの境地は、踏み台を踏み越えて、より大きく跳躍するためにあるのである。大きい物を投げるには、一度後ろに持っていって、反動で投げる。反動力は、こういう作用をなす。それはかえってプラスの条件になる。
だれも占領できないこういう人材が、伝統基盤になる。そこにおいて統一基盤が備えられる。それ以上の強さでもってこれにぶつかった場合には、それは破られる。だから命を懸けて、それから愛をもって、絶対なる命を愛でもって打ち込む。その犠牲の道を行く目的は何か。神の愛の世界をつくるためである。自分が愛を受けて、分けてやるために、である。
観念だけ刺激しておけば、世界観はこれによってみな結論が出る。善悪は、これによって決定される。このとおりに行ってみた場合には、悪になる方式は絶対に発見できない。「地獄に行こう」と言っても行けない。「天国に行こう」と思わなくても行くようになる。だから、先生が締めなくてもいいことになったね。(はい)。だから、命令を受けるその体制をいつでも整える思想である。たった一人で生涯を打ち込んでも、それだけ世界を両手に抱えて死ぬような勝利者の立場に、神と共に行くことができる。一人で行くのではない。神はそういう男を、そういう所にやって、復帰の基台をつくらなければ、地上に神の国をつくれない。
そうすると、二つが一つになる統一の要因とは、力ではない。何によってなるかというと、天的愛である。天的愛を迎える道においてである。愛はどういうところに成立するかといえば、相対関係に起こる。生きるために貴いものを受けるのであるから、それだけ謙遜にならなければならない。水平以下の立場になればなるほど、マイナスにならない。そうなれば、「神は愛してくれない」と言っても、自然と愛される立場に立つというのである。
それを自分一個人に適用してみよう。良心と肉身が闘っている。なぜ闘うか。共に主体性をねらっているからである。それが永遠に続いた場合には、永遠に相反する。それを一遍でもいいから、相対関係につくってしまった場合には、どうなるか? 一つになる。
反発作用は保護作用
プラスとプラスがあれば、どうなるか? (反発します)。マイナスとマイナスは? (反発します)。今、良心が中心となりプラスになっている。電気の原理からいった場合、プラスとプラスは相反する。しかし雷は、大気中の雲の中に、たくさんのプラスの集まり、たくさんのマイナスの集まりで、相対関係をつくって向かい合い、それらが衝突する。それが雷であり、稲光である。プラスとプラスが集まって大きなプラスになり、マイナスとマイナスが集まって大きなマイナスになる。原則から見れば、反発するはずである。
宇宙は、相互関係と反発作用をもっている。共産党もそれは原則だと知っている。弁証法を持ち出している。相互作用と反発作用がある。プラス同士は反発する。プラス・マイナスは相互する。もしも反発作用のほうが強かった場合には、天宙創造は可能か、不可能か。相互作用が強い。強ければ、どのくらい強いか。
もしも反発作用が強いとなったとすれば、その相互作用を基準として、変わる過程を通過しなければならない。では反発するものが世の中にあるというのは、なぜか。それは相互作用を邪魔するものではない。
なぜ、神はそういうものを創造したか。反発作用は、何のためにあるか。これは問題である。これは相互作用をマイナスにさせるためにあるか、プラスにさせるためにあるか。それは相互作用に絶対必要だからである。こういうすべての原則を見つめなければならない。自然の状況を通して、ちゃんと整理した立場に立たなければ、あなたたちはいつもふらつく。
プラス同士が反発するという原則から見た場合には、雲の中の大きいプラスは生まれてこない。プラスとプラスが一つとなって、大きくなる。ここにおいて一つの問題が出た。プラス・マイナスというものは、相対関係を結んで授受作用をなした場合には、宇宙的存在圏において合格品である。そういうものがあった場合、宇宙が絶対保護する。そういう法則になっている。相対授受作用、相対理想圏だけを支持する宇宙圏内の宇宙の力になっているから、それを果たした場合には、絶対保護する作用をする。
だから、プラス電気と、マイナス電気が授受作用をなした場合には、絶対圏に達する。永遠存在圏をなす。合格品である。存在と相対圏という、それは原則的に一つになっているから、理想圏である。
だから結局、天から見れば、愛の道になっている。愛によって一つになる。
このように相対関係になった場合に、そこにプラスがのこのこやって来た場合、これは侵害者になる。そのような場合、向こうへ出ていけと、けっ飛ばしてしまう。それ、実感が伴う。男の子は結婚しない場合には、女の子とよくつきあう。神経質な女の子も、結婚する前には、自分なりに男の子とつきあう。しかし、結婚した場合には、愛する女のところにのこのこ他の男が来た場合には、これは反発するの、相互するの? (反発します)。なぜか? それは男女が一つになって宇宙原理、創造理想的な合格品としてちゃんと立っているのに、「あなたは私を侵害する邪魔者じゃないか。おい来るな」と、自然に反発する。それは何作用か? (反発作用です)。相互作用は相対的に反発作用する。
であれば、なぜ反発作用をするかというと、「あなたは宇宙の侵害者になる。罪を犯すぞ」ということである。だから自然と罪を犯さないように、神は保護力をもたせなければならない。それが反発作用だ。反発作用があればこそ、抜け出ることができない。だから永遠に存在することができるのである。そう思った場合には、相互作用を保護するための反発作用、そういう結果になる。
問題はここにある。こういう原則であれば、世の中において、サタン的愛でありながら、一つの相対関係を結んでいるのをいかに復帰するか。より強い愛をもってきた場合には、ふっ飛んでしまう。だから、いくらこれがプラス・マイナスになったとしても、それが十と十とすれば、ここに百のプラスとマイナスがあった場合には、これはくっつく。さかさまにくっつく。原理的になっている。くっつくことはくっつくのだけれど、主体的な立場ではくっつかないで、相対的な立場に立ってこそくっつくことができる。だから、復帰の道はそうなっている。
サタンと神は、プラスとプラスになっている。ここにおいて、神を中心としてマイナスをつくった場合には、相対はみなここにくっつく。だからアベルを通してくっついてこい。それは原理的、自然原則的な理論である。アベルにくっついてこい。マイナスになって、その本質をなくしてしまっている。マイナスとして来て、くっついてしまえばいい。それで一つになれる。
だから、もっと強い愛をもっていけば、その環境において自然とくっつくのは、弱いものがくっついてくる。神の愛の強い者の愛というのは、みんな喜んで、闘ってこのように合わせる。あとにずーっとついてくる。強制ではない。それはより強い愛でもってする。サタン的、プラス的愛圏を無視することはできない。それで神様は実に原則的な神だから、カイン・アベルの原則は、実に素晴らしい。
こういうことを整理して、ずーっと適用してみよう。そうなるかどうか。
訓練というものは、願わなくても、だれもがやらなければならない。本当に訓練を願う者はいない。訓練はきついことをやらせる。それは平常ではない。異常な立場から鍛える。しかし、それをやってマイナスにならない。こう見た場合には、理論的に、すべてが、世界が解決されるじゃないか。
これを信仰的に、イエス様の路程から見た場合には、実にこれと一致する。ずーっと原理を考えてみると、みんなそうなっている。我々統一教会の活動も、実にそうなっている。
犠牲の道を行こう
だから、できれば最高の奉仕をする。今までいかなる相対者に侍った以上に、すべてを担っていく存在として侍った場合には、その者は、「来るな」としても来るようになる。より強い愛情でもって犠牲になろうとした場合は、天宙、神様が動くのに、人は動かない、そういう原則があるか? 人は間違いなく、引っかかる。早い者は、三日で引っかかってしまう。だから我々は、黙々とそういうことをなしていけば、家庭を主管し、氏族を主管し、民族を主管するのである。ある特定の民族圏以上の数があり、民族圏より増えた場合には、それはその民族が後ろを振り返って見た場合には、自分一人だと思ったのに、どうなるの? 全部あとについてきている。そのように行ってみると、これは一番下に下がると思っていたのに、そこに行ってみれば、日本の最高の主権者まで願わずしてついてきてしまう。
地球は太陽の回りを回る。こうして運行する。運行してみるというと、それは春も来るし、秋も来るし、冬も来る。だから、これから我は春に向かって行くんだとして、行くんじゃない。
それと同じように、我々は公式的に運行する。だから統一教会に春があったの? 冬があった。それから秋になった場合は困る。反対になったら困るだろう。冬があった場合には、正式に運行の行路を通っていけば、何に向かうか? 春だ。歴史的な冬の時代は堕落圏である。それをもう少し譲って、秋の時代が来る。秋は夏から。夏の時代が堕落圏である。
歴史的文化圏をずーっと見た場合には、古代文化圏は熱帯圏文明時代だ。今は温帯圏文明圏である。この温帯圏というものは、春の温帯ではない。秋の温帯である。だから冬の時代が来るから、共産主義シベリア文明圏である。共産主義、冬圏である。冬圏の文明圏が侵入している。ここにおいて神様は、別の出発点をつくった。内的春、内的夏、内的秋を迎えて準備して、新しい生命の実体をこの中に植え込もう。そして、のみほそう。この温帯文明圏において、のみ込めるような生命の実体だったら、もう春を迎えない。これをぶつからす。こういうようになっている。そののみ込める、そういうような実体文化圏を生み出さないというと、神の願う春の国、理想的春の国とはならない。
愛の法則と体験の重要性
愛は、二人の目的が、共に釣り合った基準において成立する。これは愛の原則だ。そうしたら、甲のものも乙のものも引っ張っていくことができる。だから愛は二人とも主管することができる。もしも、その立場にいる者を切ってしまおうとしても、絶対に切ることはできない。だから、こういう愛が永遠に維持される、その故郷がどこかになければ大変なことになってしまう。だから霊界はどういうふうになっているか。この愛を絶対維持させ、愛の存在を維持させるための、相互作用と反発作用がある。それが霊界だ。
堕落世界には、そうならないようにするためのいろいろな反対がある。覆すそういう要件があるが、霊界はそういうふうになっていない。すぐ相互作用と反発作用、完全な相対的愛、本質の愛を中心にした場合、それは永遠に保つ。そういう力になっている。それは自然から違う。自然、その内容は、存在構造の法則作用よりは次元の高い愛の力を中心として、保護する作用と反対する作用がある。
だから、地獄というものが生まれてくる。それは、反対圏のものを反対圏のものとして処置するために出てきたものであって、最後には、地獄という存在を見ることによって、霊界に行っている者は刺激される。かえって感謝する。強いその感謝を感じるようになるというのである。
このように見れば、個人というものは、良心と肉身が闘う。良心と肉身が闘うこういう者が、いかに一つとなるか。その愛の基点は、どこから始まるか。自分自体からは始まらない。だから、絶対なる何者かを探し出さなければならない。ここにおいて、宗教とか神様とか、こういう問題になる。これは神様である。それから、一番高いものを願うという問題においても、神様を願う。ここにおいて、信仰問題が生まれてくる。愛の勝利体験を自分と直接関係結ぶには、体験の重要性、そこにおいては共通する要素源を、自分の相対圏に整えなければならない。それに違反するものを片づけて、相応すべき環境圏をなしていこうというのが、信仰の生活である。ここにおいて信仰が必要である。
だから信仰生活というものは、その標準的主体の思想である。だから、神様であれば神様の思想、あるいは宗教の教祖であれば教祖の思想を標準として、そこに近づくのである。そこに近づいて何をするか。その教祖は自分に対して内的の存在の立場に立ち、自分は外的な立場に立って、それが一つになった場合、初めてその教祖が願った愛を現実において体恤する。それは主体と客体関係である。完全な教祖があった場合には、教祖を理想としたそれと一致した基準に、生活一致、すべてに一致する。そして教祖をプラスとし、自分をマイナスとして授受作用をするというと、その教祖が願っていた本質の神の愛を体恤することができる。それを体恤して一つになったその時において、相対圏というものは、宗教なら自分の宗教において、それがお釈迦様ならお釈迦様の身代わりとして全般を愛するようになる。そうなった実体者が責任者になった場合、お釈迦様と同じ心情でもって結びつこうという平面的な実体圏が、生まれてくる。
このようにずーっと下に降りてくる。だから大きい苦しみ、それから小さい苦しみ。統一教会においては先生が中心となっているから、先生を中心として先生のすべての生活観と、相対関係のすべてを一致化することによって、先生が体恤した神の心情圏を体恤する。これを平面的に、その中にいかに早く見て感じ、共に接触し合ってなしていくことによって、その神の心情圏は自分のほうにつながるようになる。
神様は素晴らしいお方だ。愛なる世界、その愛の根拠は神に下ろさなければ、完全統一ということはできない。完全統一の主体である神様は、絶対である。だから、聖書は「心を尽くし、精神を尽くし」とあるだろう。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、それから力を尽くし、何をどうするんだって? 神を愛せ。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛す」、これだけは必要だ。これ以上に必要な法則はない。何のためにささげるか? 愛のためである。愛の道に命をささげてみなさい。肉身も心も、一致する点が果たせるのであるから、どうせささげるのであれば愛をかけて一遍にささげる。だから心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛するのは、その基準に立っている。
統一の要因は愛
統一教会で与えられた基準を越えて生活する者には、残す何ものもない。しかし、それ以下において一生涯を果たした場合には、それによって配給されたその恩恵で、永遠に報われる。こういう道だ。だからイスラエル民族が世界において、今まで滅びずに残っているのである。それはなぜかというと、昔、旧約時代にそういうように神様に奉仕した道があるから、回ってくるのである。
愛は素晴らしいということが分かった。この世におけるサタン世界の愛も、一つに統合する力がある。一つにする作用がある。そのサタン世界の愛以上の力でもってなさなければ、神の国は立たない。より強い愛でもって相対環境に向かい合うところに、発展の原動力は出発する。発展の要因はそこに発生する。それが統一の要因である。
そのように主体が願い、自分が願う、そういう愛の心情をもつには、まずもって神と一体とならなければならない。神の愛を多く受ける者、すなわちアベルにならなければならないという話である。ここにおいても愛の神が絶対なるプラスだったら、絶対なるプラスの前にマイナスになってしまう。愛される立場である。そうなった場合には、四方八方を包容していくと、プラス、マイナスが反対の境地に立つ。自然的現象である。四方八方を通じて回る。
カインは、プラス、マイナスが反対になっている。それでプラス、プラスで反発するので、アベルがずーっと奉仕して下がって回っていくと、結局マイナス、プラスになって、強い方向に引っ張られて上がっていくのである。上がっていく場合には、完全に反発するプラス、プラスの基準がなくなるのである。
心情的に侍って愛される者は、アベルの立場に立っている。旧約時代がなければ新約時代も生まれてこない。新約時代がなければ成約時代は生まれてこない。だから、この情的神の心情はどこから伝わってくるか。問題である。もちろん先生を中心として、神を中心としてつながるものを教えている。では、先生はどういう路程によってつながっているか。それは、先生を中心として考えてみた場合には、その愛を相続する系統がある。それはどこからか?
旧約時代から新約時代を通して成約圏まで勝利を果たしたから、これは横的な勝利的心情圏を現すことができるのである。もしもこの縦的関係を相続してこなかった場合には、横的環境の勝利の中心圏は果たされない。先生はその情的基準を尋ねてきた。旧約時代から尋ねてきた。それから新約時代、それから成約時代を勝利してきた。だから、旧約時代と新約時代圏の過ちを取り返す。
だからアダム家庭に入る。その根本的問題に入る。アダムの家庭を中心として、神はどういう方法をとってきたのか、これをよく考えてみる。悪がだれに入ったかというと、天使長、それからエバに入った。そして、アダムより、神にやってきた。やられた動機は、いったい何だ。愛の問題である。どういう愛の問題か。自分を中心としての愛の問題である。自分を中心としての愛の問題においては、堕落の経路を下りていくのは、当然のことだというのである。
自分を中心としたところから出発したその愛の道は、結局は堕落性の路程になってしまった。天使長は、自分を中心として、神もアダムもエバもあったものではないと考えた。自分を絶対と見ていて、相対のすべてを無視してしまった。それはサタンのなすべき根拠地であるというのである。だから宗教は、そういうものをなくすために、高慢な道を避ける。「自分というものは敵である」こう簡単に言っているのである。これを復帰するにはどうするか。
エバが天使長をアダムより以上愛した場合に、堕落したのである。だから我々統一教会は、その堕落圏を乗り越えるには、自分を愛するのではない。より以上アダム・エバを愛するその道を探っていかなければ、元の道に帰ることはできない。自分を犠牲にして、相対圏のために行こうというのが復帰の伝統的精神である。
歴史は今まで、戦争の歴史であった。戦争したのは、相手を成功させるためではなく、相手を犠牲にして自分が成功するためにしたのである。相手を犠牲にして自分の成功のために、これが今までの歴史の方向である。この点を、あなたたちは、はっきり知らなければならない。「統一思想」が、いかにして世界を統一するかという問題である。
見てごらん。創造の時にそれを蒔いたのだから、それを蒔いたあと秋になって、世界的にそれを収穫する、今がそういう時期である。それを植えるのに、だれを中心として植えたかというと、自分を中心として植えた。その自分というものは、肉的なものと、良心的なものがあるのである。民主主義も民主主義を中心として考えている。共産主義も共産主義を中心として考えている。二つの心が世界化されてずーっと結実したものが、それが民主主義と共産主義であるというのである。それは、物的世界と心的世界である。
共産主義の力はどこにあるかというと、パンである。共産主義の組織化運動は、何によって果たせるかというと、配給制である。パンの分配、これの操縦によって共産世界を組織化、強化する原動となっているのである。
民主主義とは、どういう思想か。キリスト教思想である。博愛思想である。愛を中心として、配り合いながら配給制度みたいに、より愛を配給してもらえるような道が見つかった場合には、大変なことになることが起こるのである。それはぶつからずして、当然たる博愛の圏に立った、それが今までの民主主義圏である。博愛と言うのであるが、全体の犠牲になれとか、具体的なことはよく分からない。
統一教会の行く道
我々統一教会は、具体的にやる。主体的に。自分が幸福になり、自分が成功する、自分が立派になる道は、より大きい愛を自分より以上他に配れば、やったその範囲が広ければ広いほど、その道においては、立派になる。今の世界にはそれはない。共産主義は共産主義自体を乗り越えることはできない。民主主義は民主主義自体を乗り越えることはできない。この両方を乗り越える主義が出た場合には、この地上に統一の世界が生まれる可能性を見いだすことができる。このようになる。
そこで、共産主義というその主義は、今まで人間が求めてきたのは、自分たちを中心とした考えだから、これはいかに行くとしても、それは世界的に立ったのではない。国家を乗り越えることができない。なぜか。サタンは国家以上のことを結ぶことはできない。それは国家的、国家基準である。国家基準以上は乗り越えることはできない。これが共産主義も民主主義も、人間から生まれた最高の中心体とすれば、その国家において、国家を乗り越えることはできない。これはもう実験済みである。共産主義もイスラエル民族も、そこにおいては出発することは許されない。こういった場合、二つに分かれる。民主主義は世界より自分の国が大事だという場合には戦ってしまう。
そういう、人間を中心として動いたものは、そういう人間のタイプ、自分を中心としたタイプも世界的になっている。それを何で引き上げるかというと、原則に立った天使長の主権ではなくして、世界圏を愛する神よりなった、その創造主をもうけて出発すべく、アダムは出発しなければならない。アダム圏というものは、神の愛をつくるものである。神の愛を復帰するという立場に立っている。自分を犠牲にしても相対の基準を立たせるような思想である。この思想があればこそ、初めて一つになる。それは原理原則に一致する。こういう観点から見た場合には、我々に民族観念というものは、サタン圏の結実の最高の基台であった。この基台圏を我々はいかに一時に滅ぼすか、こうなるのである。
だから、神の子供になるには、サタン、天使長主管圏以上に立ったその資格をもたなければならない。だから、国家以上の思想的観点に立った者でなければならない。
だから我々は、世界のために民族を犠牲にする。世界のために日本の国も韓国も、韓国の民族も犠牲にしよう。それだけの民族を犠牲にする。その時、サタン側もそれを打ち出してきた場合、神は非常に困る。そういう時が来るから、神はあらかじめ、それを覆す原動力として「統一思想」でもって、結果ならしめる。そういう圏を広めていかないと、天国をこの地上に建設することはできない。種を植えて、芽が枯れた場合には、その死にかかった体は肥料として摘み取って、そこから新しく芽が発生して大きくなる。大きくなるには肥料によって種になる立場を超越していくのである。
「統一思想」は何によって成立するか。サタンは愛によって成立した。「統一思想」は何によって成立するか。これも結局、愛によって成立する。その愛の発現の出発点が、サタンと神とではまるで違う。神の愛は、自分を犠牲にしてみんなを生かす。だから神は、神の心情を承知している一人が犠牲になった場合には、必ず三者、四位基台だから三者は必ず動く。犠牲になった場合には、三者は必ず祝福を受ける。
こういう戦法でもって、宗教は打たれれば発展していく。迫害されればされるほど、滅びるのではなくして、宗教は栄える。なぜそうか。こういう天的原則があるからそうなる。だから、迫害が悪いか、いいか。迫害なしに発展の道をきたすことはできない。だからキリスト教は数千年間、迫害されない日がないのである。
もしも日本が、島原の乱の前に、今から三百年以上も前に、豊臣秀吉の時代に、キリスト教を完全に受け入れた場合に、日本はエバ国家となる。その時代に、素晴らしい文明になっている。今までの、四百年間の現代文明である。正しい東洋文化の形じゃない。韓国よりは先じゃない。豊臣が反対したんだから、とんでもないことになってしまった。
イエス様が殺される結果を決定づけたのは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネである。だからキリスト教の発展段階も、信仰の時代、それから愛の時代、希望の時代となっている。それは、旧教の時代は信仰の時代である。ローマのカトリックを中心とした中世時代に、ローマにおいて迫害されたら命を懸けて信仰していったのである。次には、聖書を中心として、イエス様と同じような立場に立ち、イエスの人格に触れ、愛の実践者になるのである。昔は横的教義時代。それから新教は人格的愛を中心とした教義時代。こうなってきている。それから新教が終わり、最後に来る終わりのものとは、これは統一教会である。蘇生、長成、完成の三段階目、これは希望の表象である。
だから、イエス様の三人の弟子は、信仰と愛と希望である。ペテロは信仰者であり、ヨハネは愛の代表者であり、それからヤコブは希望の代表者である。だからヨハネは死んではいけないというのである。信仰、愛、希望、三つあるけれども、最後に残るものは愛をおいてほかにない。だから最後に残らなければならない、そういう愛の表象体であるイエスの弟子が中間に置かれた場合には、この世の中に残らなければならない。聖書にあるように、非常に愛されたのである。それから希望である。再臨の表象を希望にするのである。希望をもって、こういうふうに侍ってこられたのである。
統一の方案は犠牲
世界をこう見ると、これは統一の要因を迎えたということである。要因は愛であり、方案は犠牲である。これが一つに重ならなければ天国は絶対来ない。これは、どこにおいてもできる。家庭においても、平和な家庭、天国的な平和な家庭になるには、理想の要因は愛である。
自分なりに穴をあけた場合には、どうなる? そこから崩れてしまう。しかし、共に頭を下げ合い、犠牲にし合うという環境が成立した場合には、愛は絶対滅びない。愛があった場合には、すべての完成基準をなした基準だから、そこには神様は降臨せざるを得ない。だから、神様を中心としての愛の相対圏をもっているところは、いずこも天国である。
もしも、一氏族がそういう環境になった場合、すなわち一つの家庭が氏族のために犠牲になった場合には、その環境が救われる道がある。環境がよみがえる道がある。一つの家庭が親戚や同族に対して犠牲になって、すべてがそれに頭を下げるようになった場合には、一つになる。一つになりだすと、愛の目的は成立する。そして新しい大きい主体になるのである。そうして、それは氏族圏を中心としてプラスになった、それより大きい民族という相対関係に向かって突進する。それが創造の発展形態である。
個人が家庭の犠牲になるのは、より大きいプラス圏を求めるためである。その犠牲の上の人たちが、どこかに逃げては絶対いけないというのである。そういうようにして、自分たちの中心者に侍るのである。中心者に立たせるばかりじゃなく、最後に自分を主管してもらいたい。主管してほしいのである。それはなぜかというと、そういうふうな人たちの環境を統一させて、より大きい主管圏、プラス圏を形成するということである。
だから家庭のために犠牲になった者は、最後には家庭を主管する代表者になる。親父があっても、お兄さんがあっても、その親父やお兄さんが、家庭のために犠牲ならないというのであれば、親父やお兄さんをさておいて、一人家庭のために犠牲になったなら、みんなが寄り集まった場合には、反発することはできない。うなずきながら、その場にいるということになるのである。だから悪の世界も、願わない者も、願う者も、一方のほうに寄ってくる力は、このほうにあるのだから、これは統一される要因だというのです。だから、家族を中心として、氏族、血族、みんな出るのである。
家族が氏族のために犠牲になった場合には、氏族全部を主管するようになる。新しくプラスになった場合、プラスのないところを境において、サタン界において、その民族の全体を代表して、この氏族がプラス圏においてマイナスを相対関係で結びつけて一つになった場合には、今度は新しい主体になる。その主体の立場に立った場合、その圏を歴史的にサタンに譲らせて、勝利圏を歴史的、伝統的に残して立たせたのが、イスラエル民族圏である。国家圏である。それをそのままサタンに殺されずして立った場合には、イエス様が来られた、その時に、新しい国家的主体的圏をつくって、ローマから世界をマイナスにして一つにまとめて、より大きい世界的中心に立たせる。それが今日まで、ずーっと公式になっている。それが再臨の時において、世界次元のキリスト教文化圏とキリストが一つになった場合、これはちょうどイスラエル圏とユダヤ教と同じことである。
しかし、地上の勝利的絶対的民族とか国家とか主管圏はないのである。これは浮いている。だから霊的だ。地上に歴史的伝統、国家基準をもっていないのである。移動する国家基準、霊的な国家基準をもち続けてきたのがキリスト教文化圏である。それが地上に、ある一定の基準を結びつけなければならない。地上天国はその一点を見いださないというと、全体的中心の核心を求めることができないのであるから、その一点を求める。それは第三イスラエルというのである。韓国を中心としてのキリスト教、民族圏、国家圏。韓国では解放記念日、日本では敗戦した日であるが、解放した時に主権がないのである。それは再臨の主を中心として三年がたち、そして一九四八年において神様の国が初めて韓国になされたというのである。しかし、それが反対されて遠いところに行き、遠回りの道を今までやってきて、再び会わざるを得ない境地に向かいつつ勝利してきた。
神様の犠牲の愛
そのような勝利圏をどういうようにして立てたか。その思想の根底、勝利の根底は、たった一つである。
神の愛が地上に立つには、サタン圏の心情圏において反対の、すなわち、自分を中心として全部を犠牲にする、そういう者があったとしたら神が主管するようになる。こういうふうにして今までずーっと我々は上がってきている。
この方式を適用しよう。それが氏族圏を中心としてなすとき、これは一つの国を探すまでの戦いである。ここが旧約時代、新約時代だというのである。イエス様がそれを目指してきた。イエス様の目的を果たそうとしても、そういう限界基準が一国内、同民族を中心として主権をその指揮下に置く時までが、イエス様の求めてきた基準である。それが新約時代の終わりである。それが基準になった場合、そこから成約時代であるというのである。
あなたたち、成約時代というのは来ているの、来ていないの? 国がなければならないという話である。
こういうふうにしてあるアダム国家を求めた場合には、どういうふうにしてエバ国家を求めていくか。それも同じ法則である。その思想でもって犠牲しながら、影響しながら、これを一つにする方法を、同じくなしていく。
心情基準を蕩減する勝利基台を包んでいかなければ、蕩減の道を見いだすことはできない。より高い信仰で勝利するのである。愛の実体を使って、より以上の愛でなければならない。そういう問題が、統一教会の伝統の進路において果たすべき道である。それをなすなら、命を懸けて守ってもらいたいのはアベルの立場である。そのアベルの立場が個人的、家庭的、全国的になって、それが国家、世界へ拡大していこうというのが統一教会の戦闘手段である。ちょうど日本は五十県だから、その県領域のアベル圏の主体者があなたたちである。先生と一緒だから、先生が命令したんだから、その基準に歩調を合わせるようになると、日本は滅びずして、相対的価値圏に達することができる。それは原則どおりだ。栄えるための原則になっている。
旧約時代は物の時代である。だから物の祭物時代。新約時代は子供の祭物時代である。成約時代は完成期、父母の時代である。ここにおいて、本当は父母というものがサタンに讒訴される原則があるか、ないか? 讒訴圏、堕落したアダムの圏というものは長成期完成圏であって、完成圏ではなかった。七年間の期間を残した長成期完成圏に立っているから、それは七年間というサタン圏の蘇生、長成、完成圏になって、ここに三年間の期間を蕩減できていなければ勝利しない。だから家庭を連れて、サタンに勝ったという勝利圏を満たさなければ、家庭を連れて、堕落圏を蕩減した基準に立てない。それにはサタンに勝利しなければならない。
歴史的勝利者になれ
それを自分にまた適用した場合には、自分というものは歴史的勝利者にならなければならない。あなたたちは、「我々は六千年の結実体である」そう祈祷するだろう。何が六千年の結実体であるか。一人ぼっちで立っている。何が罪の結実体であるか。それは旧約時代を代表した者であり、新約時代を代表した者であり、成約時代の中心を受け継いだその者であるという話である。祝福された場合には、そういう立場に立つのである。子供をもった場合には、子供を集めて、物があった場合には物を集める。創造というものを反対にしてきたのだから、物より、子供より、神様、そうだろう。
創造理想はそういうふうに最高の理想になっているから、私にも物があり、私にも子供があり、私もこうなっている。創造過程のすべてを、神と一致された基準をちゃんと備えてもっている。だから、物は旧約時代の祭物であり、子供は新約時代である。自分は再臨の主に会うというのであるが、それをもしも讒訴された場合には、祭物をささげてそれを復帰しなければならない。
裂かないといけないようなものは、創造の神様が主管すべきものではない。それは罪である。裂いたり、血を流したり、そういう結果を主管する神様ではない。だから、そういうふうにした圏をもつにしたがって、我々は祭物として裂いてささげるものではない。そのもの自体において、その子供がサタンに讒訴されて、祝福されずに讒訴されて、イエス様の祝福のように、相対者をもらうのに歴史的蕩減をかざしていくような、そういう者ではない。
だから、その中に生きていても、すべての子供は、自分自体もそういうものを越えなければ蕩減がまだ重い堕落圏につながった、そういう圏に立っている。だからそういうふうにして、感謝して暮らすのである。
だから自分の旧約時代はあった。旧約時代でも、祭物を裂いてささげる旧約時代ではない。環境すべてが勝利した旧約時代圏を我はもっている。これをもっているから、祭物をささげながら失敗した旧約時代は我と関係ない。祭物を裂いてささげるところにこれまで失敗して、今までやってきた。そのものは祭物の勝利、全体そのものを勝利した基準に立つような、そういう条件をもっていないというのである。だから旧約時代完成圏を完成したそのものの実体圏である。
物自体をそのまま神にささげることができるから、旧約時代の祭物、その目的を完成した圏をもっているというのである。イエス様は、自体を裂いて十字架につけられたのである。だからここにはサタンが讒訴している。しかし我々は、そうではない。我々の子供は新約時代の勝利者とした子供をもっているから、その子供をそのまま神のほうにささげてもサタンが讒訴し得ない実体圏をもっているのである。だから新約時代完成圏を我々はもっている。自分の父母として立っている。祝福されたという場合には、祝福されたその時において、あなたたちは、立たされているの、立たされていないの? その時代において迫害されたその道ではない。そのような迫害を受けずして勝利の基台に立った、すべての父母圏をもっているというのである。それがまさしく、堕落しないで完成圏を迎えたアダム・エバの立場である。こういうふうになっている。
父母があり、子供があり、物があり、そのものすべてがだれのもの? 各個人において成されるのだから、あなたたちは神の上に立つことができるのである。
しかし我々には、神の家庭、神の氏族圏があるのだけれど、まだまだ国がないのである。国がない。主権がなければかわいそうである。旧約時代、新約時代、成約時代、韓国がこういうような環境をつくりつつあるというと、日本もこれに接触させないといけない。どういうふうにして接触させるか? 物の接触である。
勝利は近い
統一世界はもう勝利するようになっている。つくられるようになっている。だから先生は伝統を今まで叫んできたのである。伝統が問題である。九億以上のアジア人民があるとすれば、それをうならせるだけの伝統が必要である。その伝統たるものは、何をもってするか。それを実証すべき材料が問題である。材料は密度が問題である。
こういう思想でもって、日本人として日本の国が濁っている時代においてこういうことを成してきたと知って、感謝する時が来る。だから、それは原理だ。我々は歴史をつくっているというのである。そればかりでなく伝統を、これは永遠のものとして、その基準を残していく。死しても悔やむような道ではないというのである。栄える道である。こう思って今まで戦ってきている。
そして日本は今でも忙しい。昼も夜もない。夜の十二時近くまで起きていて、もう四時前には起きている。寝るどころではない。我々の現状の忙しさより以上、天の心情圏は本当に忙しいというのである。
我々において世界観は、もうちゃんと決まっている。運命というものは現実の生活面に決定的勝利圏をなせる基準だという。こうなった場合には、そこより新しい世界は生まれてくる。それ間違いないと思うだろう。だからこの道を行く者は、愛を中心として、人間の愛ではなく神の愛を中心として行く。現実に我々が歴史的勝利の実体者となるには、歴史的心情圏を受け継がなければならない。それをずーっと考えてみた場合には、神が六千年の歴史世界を苦労したのは、自分のためである。先生が苦労したのも、そうだ。すべてが自分一人を完成させるために、今まで苦労してこられたということがはっきり分かるようになるのである。それを返さずして、顔を上げること、食べること、笑うことができるかというのである。借金したものであるというのである。それをすべて蕩減して、神がもう同情されて、「おお、お前それでいいから」というような命令を受けたならば分からないけれど、それ以下においては犠牲を続けても、我々は報いる道がない。そういう恩恵を受けているというのである。
こう考えてみた場合は、そこにおいて心情的報いを成し得なければならないというような各自の決意をもって、世界的舞台に働きかけるようになると、世界はどうなるか。戦わずして、一つになる。
だから愛の心情、神の心情圏の愛を受けるためには、旧約時代、新約時代、これは供え物の血を流しながら、流さずしては蕩減の道を上っていくことのできない、そういう摂理路程にもかかわらず、我々は何の犠牲も果たしていないではないか。分かれば分かるほど、果たさなければならないものが、もっと大きい立体的なものが前に待っているということを見つけるのだから、それが分かれば後退はできない。それを受け持って、だれよりも先頭切って汗を流しながら、これを戦い抜いていく。そういう人がもしも倒れたとすれば、その倒れた墓場には花が咲く。冬にそうなった場合には、そこは春になってしまう。だから、過去の聖人たちはみな、神を慕って、神の愛を慕って今までずっとやってきた。そういう歴史ではないか。それ以上の心情圏を我々は神の生活圏と一致させてそういう者になっていけば、永遠の国のために神が涙を流しながら我々を援助するようになれば、これは世界的な勝利者になる。こう考えてみた場合には、これ以上素晴らしい道はないというのである。だから統一の要因は愛の問題であり、その方案は、犠牲、それがない場合には、絶対神とつながらない。
これを頭に入れて日本に帰っていった場合には、日本的な犠牲も尊いのだけれど、アジア的な三国に向けて犠牲にする国民運動を、我々いかに展開するかということが問題である。先生は今それをやっているのである。統一教会を中心として、まず統一教会自体、韓国の統一教会ばかりでなく日本と台湾と、そういう問題に応じて、アジア情勢に非常に頭を使っているのである。そういうふうにやって、苦労より、より犠牲にする。そういう道あればこそ、神を中心として行けばこそ、それは絶対、歴史は滅んでも統一教会は滅びないということをもちまして、日本に帰りましたら、より一層そういう精神で働きをしてもらいたいのが、先生の願いである。
日本を愛する前に統一氏族を愛せ。統一氏族を愛する前に統一祝福家庭を愛せ。家庭を愛する前に統一の個人個人、食口を愛せというのである。それが神が求めている標準の基準と一致した場合には、それは世界が求める標準の基準と一致する。その基準が心情である。それをなした場合には、個人を持ち出してそれを基準として家庭、家庭を基準として氏族、氏族を基準として民族、民族を基準として国家、国家を基準として世界基準が立つ。こういうふうに立たした場合には、これが統一の要因であるというのである。基準は愛のこのような原理的発展の心情圏を生み出すことによって、尊い基準となして世界を復帰する、統一することができる。そこにおいて可能だということを、結論として言っておきます。
真の父母と成約時代
一九九三年九月十四日、東京・後楽園の東京ドームで、五万人の参加者を集めて開催された、「世界平和女性連合」の創立一周年記念大会において、文鮮明師の令夫人・韓鶴子女史が、同連合の総裁として行った、講演である。
尊敬する御来賓、そして紳士、淑女の皆様。
このたび、招待講演会に、このように多数の方々がお越しくださいまして、心から感謝申し上げます。皆様が平和世界を建設するために献身される姿に接し、心から感動を覚えます。
皆様も御存じのように、今日私たちが住んでいる世界は、平和で幸福な世界ではなく、葛藤と絶望に満ちています。私たちは、家庭崩壊と道徳的退廃の問題に直面しています。したがって、私たちがもし明るい未来を願うならば、何よりもまず、神が人類を創造した根本目的を理解しなければなりません。
人間はだれでも、自分の愛する者が自分よりも、もっと立派になることを願います。例えば、すべての親は、子供たちが自分以上に立派になることを願います。このような心は神様から来たものです。神も、御自身が創造した子女である人間が、自分以上に、もっと立派になることを願っています。
さらに神は、子女たちに限りなく与えようとされます。神は一○○パーセント与えたからといって、決して満足されません。御自身が持っているものを千倍あげても、それ以上与えようとされます。
神の愛は、すべてを与え尽くしても、与えたという記憶すら忘れてしまう愛です。そして、永遠に与えたとは判断されない方です。
よく知ってみますと、神が被造世界を創造した目的は、愛の相対を得るためでした。神が存在するものをみなペアシステムでつくられた目的は、真の愛のためでした。
したがって、父母は子女のために生き、子女は父母のために生きるようになっています。また、夫は妻のために、そして妻は夫のために生きなければなりません。すべての被造万物は、「ために」生きるように創造されたので、与えながら生きるようになっています。
神の創造理想
もしも、アダム家庭で、神の真の愛の理想が成就されていたならば、その家庭は天国の出発点になっていたはずです。そして、このような天国家庭が歴史的な発展を経て、氏族的、国家的、世界的に拡大されていったでしょう。さらに、地上ばかりではなく、霊界までも天国理想が展開したでしょう。
もし、神の根本理想が完成していたならば、メシヤはもちろん、神の救援摂理も必要なかったはずです。一家庭であっても、アダム家庭は正に真の愛を中心として「ために」生きる家庭として、氏族、国家、世界の中心となったはずです。アダム家庭は、そのまま未来に誕生するすべての家庭の青写真となり、神の理想世界を実現する手本になったはずでした。
人類歴史の誤った出発
人類始祖の堕落のゆえに、神の救援摂理が始まりました。救援摂理の歴史は、旧約時代、新約時代、そして今日、成約時代に至るまで、複雑多岐で苦難に満ちた路程を経ながら、延長に延長を重ねてきました。
神がアダム家庭を中心としてつくろうとされた真の家庭の理想と天国は、アダムとエバが神から離れることによって、成就できませんでした。堕落のゆえに、今日の世界は、神が理想とされた善の世界とはあまりにも掛け離れた世界になってしまいました。事実、今日の世界は、偽りと利己的な愛に満ちています。
それは、アダムとエバがサタンを中心として、利己的で偽りの愛を土台として、偽りの父母となったからです。彼らは善の代わりに悪を繁殖し、偽りの家庭をつくり、子孫に偽りの生命と血統を伝授しました。そして偽りの氏族、国家、世界が現れるようになりました。
したがって、神の救援摂理の最も重要な目的は、真の愛を中心として復帰されたアダムとエバを代表する真の父母を見いだすことです。そして彼らを中心として、真の家庭をつくることです。そうすれば、その家庭を出発点として、真なる氏族、国家、世界が展開されていきます。言い換えれば、神の真の愛、真の生命、真の血統をはぐくむ種が創造されなければなりません。
和解を実現する公式
御来賓の皆様。腐敗と罪悪に満ちた世界が、善と愛の根源であられる神からどうして始まったのかと、疑ったことはなかったでしょうか? 聖書を注意深く読んでみると、人間の堕落が、アダム家庭全体を失う結果になったことを知ることができます。第一に、アダムとエバが堕落によって、父母の位置を失い、第二に、カインがアベルを殺害することによって、子女の位置を失ってしまいました。
理想家庭と完成した世界を計画されていた神の青写真まで失う結果になりました。したがって、神は根本家庭を復帰するために、カインとアベルの位置を復帰し、そして、真の父母の位置を取り戻すために、反対経路の摂理を進めなければなりませんでした。
カインとアベルを和解させ、一つにさせるパターンは、そのまま真の父母を復帰する基台として、復帰摂理歴史の公式になってきています。ユダヤ教、キリスト教の歴史を調べてみると、堕落人間はカイン・アベルのように、敵対と分立歴史を繰り返してきました。したがって神は、堕落人間をサタンを象徴するカイン側と、神を象徴するアベル側の二人の兄弟関係に分立させ、堕落によって生じた憎悪を取り除いてこられました。
神は、アベルが先に打たれて犠牲になる作戦をとってきました。その結果、アベルは自分を犠牲にし、カインを包容して、長子に与えられた祝福を取り戻したのです。例を挙げれば、救いの目的の最先端を行く宗教は、いつもサタンから激しい迫害を受けてきました。そのような宗教の行く道は、常に反対されながらも、罪悪世界を救うために絶えず犠牲になってきました。それゆえ、善なる人々はいつも先に打たれ犠牲の道を行きます。今日、堕落した世界を見ると、例外なく、カインとアベルの善悪の葛藤と闘争を見ることができます。このような葛藤と苦痛は、個人の心と体の衝突から始まります。心はアベル側に立ち、カイン側に立っている体を征服しようと身もだえします。
このような個人の苦痛は、家庭、国家、世界にまで拡大しています。その結果、人間は常にアベル側すなわち善なる側と、カイン側すなわち悪なる側との二つの側に分かれて、あらゆる次元で戦っています。しかし神のみ意は、いつも双方が争い、一方が勝利し、他方が征服されるよりは、共に復帰されることを願っています。
その実例を挙げれば、アベル格であるイエス様の十字架上における右側の強盗と、カイン格である左側の強盗がいます。世界的には自由世界と共産世界を代表して、最後の闘争を展開している韓国と北朝鮮の対決、さらには、中東でのキリスト教とイスラム教の対決を挙げることができます。したがって、神の復帰摂理にとって最も中心的な問題は、どのようにすれば分かれた双方を神の理想を中心として、一つにして真の父と真の母を迎える基台をつくるかということです。
終末を迎えた世界
紳士、淑女の皆様。家庭が神の愛の理想を中心としていないので、家族の間に衝突が生じます。神の愛を絶対的な中心としなければ、結局、その家庭は崩壊してしまいます。さらには、そのような家庭が集ってつくる国も衰亡の道をたどります。
最初の家庭が不倫をなし、利己的な愛の奴隷になったので、利己心と欲望は、個人、家庭、社会、国家、世界的次元へと展開して人類歴史を汚してきました。それゆえ神の復帰歴史は、個人から始まります。ところが、サタンもそれを知っているので、人間に対して個人の次元から集中攻撃を行ってきました。
終末を迎えた今日、利己的な個人主義が一般的な生き方となったのは決して偶然ではありません。人々は日がたつにつれて、周囲から次第に疎外感を感じ、各自が属している国家、社会、そればかりか自分の家庭にまでも無責任になりつつあります。離婚率が日々上昇している事実は、夫婦が互いに結婚に対して無責任であるという証拠です。父母は子女に責任をもとうとしないし、個人の威信を放棄しつつあり、自分に対する責任すらももとうとしません。
アメリカでは、このような現象が一九六○年代、青年の運動と共に台頭し始めました。理想を求める若者たちは、愛と平和の美名のもと、物質主義を排斥して出発しました。しかし、その過程で彼らは物質主義を排斥したばかりではなく、人間の道徳性と責任感までも捨ててしまいました。
彼らは、求めてきた愛と平和を獲得できなくなると、多くの若者たちは自殺、麻薬中毒、フリーセックスへと陥ってしまいました。これらの現象の中でも、神が最も心を痛められているのはフリーセックスです。愛はもともと純粋な情緒的刺激から誘発されるはずなのに、フリーセックスは、純潔や情緒とは全く関係がないのです。正反対に神のみ旨のために働いている人々は、全くそれとは一八○度異なった生き方をしています。
歴史を見ると、自己犠牲を甘受しながら霊的な価値を追求してきた人々は、周囲から言い表すことのできないほど反対と迫害を受けてきました。神の愛と祝福が共になかったならば、統一教会も世界的な反対の中で、今日のように発展することはできなかったに違いありません。私たちの教会が、わずか三十八年間で、戦争で灰と化した韓国の地で、無名の教会として出発し、今日世界的な宗教として登場し得た事実、それ一つだけを見ても、神の限りない導きと加護を感じることができます。
真の愛の復帰
紳士、淑女の皆様。聖書にはエバが先に神の戒めを破り、サタンと関係を結んだとあります。堕落によって、エバはもちろんのこと、アダムとその息子たちであるカインとアベルまでも利己心と偽りの愛を中心にして、サタンの血統を受けるようになりました。
このように、サタンによって本来の軌道を離脱した、最初の始祖アダムとエバの末裔となった私たち人間は、だれでもサタンの血統を受け継いで生まれています。ヨハネによる福音書第八章四四節に「あなたがたは自分の父、すなわち、悪魔から出てきた者であって」と、イエス様がとがめられたのも、正にこのような理由からです。旧約聖書では、「目には目を、歯には歯を」という公式に沿って、救援摂理の役事を展開してきたと説明しています。
『原理講論』では、過ちを償うことを「蕩減条件を立てる」といいます。堕落したエバが、自分の失敗を償うには、すべての責任を一人で負わなければなりませんでした。エバは堕落行為に対し、反対の経路を通じて原状に戻し、各段階を霊肉両面から復帰しなければなりませんでした。天のみ意は、エバが次子であるアベルを、み旨に従うように協助することでした。
創世記によると、神はアベルの献祭は受け取りましたが、カインの献祭は受け取りませんでした。しかし、これはアベルが期待してそうなったのではありません。カインはアベルを神が選んだ者として認め、彼と一体となるべきでした。
もしも、カインとアベルが一つになったならば、子女の立場を失うという堕落によって生じた二番目の問題は、その時既に解決されていたに違いありません。そうなれば、神はアダムとエバの問題だけを解決すればよかったのです。エバは元来、人類最初の母となるべきでした。エバはカインとアベルを一つにし、真の父母のための基台をつくらなければなりませんでした。しかしエバは生存中に、その使命を果たせませんでした。それで歴史は、だれか他の女性が現れて、堕落したエバの代わりに蕩減してくれるのを待つようになりました。
リベカの模範的事例
聖書では、イサクの妻リベカを、神のみ業を成した最も偉大な女性の一人として描いています。エサウとヤコブの母として、リベカはイサク家庭でアダム家庭のエバとちょうど同じ立場でした。リベカはエバとは違って、神の摂理を理解しました。それでアベルの立場にいた次子ヤコブを助け、長子エサウが受けるようになっていた祝福をヤコブが受けるようにしました。
エサウは自分の受けるべき祝福が弟ヤコブに与えられたことを知って、カインがアベルを殺害したようにヤコブを殺そうとしました。しかし、母リベカの助けによって、二人の兄弟は血を流す代わりに、最終的には温い兄弟愛で和解しました。この劇的な和解こそ、神から見た時、重大な勝利となりました。
しかし、それはまだ完全な勝利とはならず、血統転換の立場から見て、あくまでも象徴的なものでした。実体的な血統転換は、母親の胎中で完成しなければなりませんでした。ここに、タマルを中心とした逆説的出来事の理由があります。リベカのようにタマルも、堕落したエバの立場にいました。この点を理解すれば、イエス様がなぜタマルの血統を受け継いだ、ユダの支派から生まれるようになったかの理由がよく分かります。
皆様も、タマルの双子の息子にかかわる話を聖書で読んだでしょうが、彼女は舅であるユダと関係して、双子の息子ペレヅとゼラを身ごもりました。聖書には、この双子は母の胎中で長子権をめぐる戦いをしたと記録されています。
タマルの出産過程を見ると、ゼラの手が先に出たので助産婦がその手首に赤い紐を結ぶと、また母親の胎内に引っ込んでしまいました。次子となるはずのペレヅが先に生まれ、長子となりました。このようにして、カインとアベルの位置が出生前に転換されるという摂理が成就しました。正にこの条件のために、イスラエルがメシヤを迎えることのできる選民国家となったのです。
伝統的な道徳観から見れば、リベカとタマルにかかわる話に疑問を抱かざるを得ません。神様はなぜ、そのような女性を祝福されたかは、今日に至るまで神学界の謎となっています。
先に述べたように、イエス様をこの地上に送るためには、失われた血統をサタンから取り戻す準備作業が必要でした。このようにして取り戻した真の愛の血統的基盤の上で、イスラエルの国が拡大していったのです。イスラエルは、勝利を意味する言葉です。二人の女性の勝利は、また血統転換の勝利を意味しています。
命懸けのマリヤの路程
それ以来、ユダの血統は子々孫々発展を繰り返しながら、氏族、社会、国家基準へと拡大していきました。この血統を通じて二○○○年後、イスラエルにマリヤが生まれました。
マリヤの責任は、長子権を復帰するためにカインとアベルを一つにし、家庭、氏族、国家基準まで、み旨にかなった蕩減条件を立てることでした。マリヤは、神のお告げを受けてイエス様を身ごもりましたが、周囲の目から見れば自分の父母や、婚約者ヨセフを裏切った形でした。
その当時、どんな女性でも、夫以外の男性の子供を身ごもったならば、石打ち刑にされるのが慣例でした。しかし、アダムの立場にいたヨセフが勇敢に進み出て、婚約者のマリヤを見捨てず、保護してあげました。
マリヤの信仰と、リベカとタマルの貢献によって、マリヤの胎内に宿っていたイエス様に対し、サタンは所有権を主張することができませんでした。イエス様は、神の完全なる直系の血統のもとで生まれました。堕落した血統を転換したのちに、神のひとり子として生まれたイエス様は、聖人中の聖人であり、真の血統の祖先となるのです。
マリヤは復帰されたエバの立場で、アベルの位置にいたイエス様と年上の従兄である洗礼ヨハネを、一つにしなければなりませんでした。イスラエル国民とユダヤ教がカインとアベルの立場でイエス様をメシヤとして受け入れるために、この二人が一つになることは絶対的に必要な条件でした。洗礼ヨハネは兄さんでした。数多くの人々が彼に従い、広く尊敬されていました。
イエス様が弟子たちに言われたように、洗礼ヨハネの使命は、来たるべき主の道を直くするためにエリヤが先に来ると言われた、旧約聖書の預言を成し遂げることでした。
果たして、洗礼ヨハネは摂理の観点から見て、責任を成したでしょうか? ルカによる福音書には、洗礼ヨハネはエリヤの権威と使命をもって来ると記されています。しかし洗礼ヨハネは、自分がエリヤであることを否認し、ヨルダン川でイエス様に洗礼を授けた時、天が開けて受けた確かな啓示にもかかわらず、イエス様がメシヤであることを疑いました。
また、その当時の人々の目には、洗礼ヨハネは宗教指導者として非常に尊敬を受けた人物でした。一方、イエス様は貧しい大工の仕事をする私生児として映りました。したがって、洗礼ヨハネの助けなしには、当時のユダヤ人たちがイエス様を信じて従うことは不可能でした。それで、イエス様は自ら、自分でメシヤを宣布しなければならない困難な道を出発しました。
洗礼ヨハネは、イエス様がイスラエルの宗教指導者として登場できるように助けなければなりませんでした。洗礼ヨハネがその使命を完遂していたならば、アベルの立場にあるユダヤ教と、カインの立場にあるイスラエルの国が、イエス様を中心にして一つになるはずでした。そうなってさえいたならば、その時、小羊の婚姻がなされ、イエス様は人類の真の父となり、新婦は人類の真の母となっていたでしょう。
イエス様の福音は、彼が四十歳になる前の七年以内に、世界的に急速に伝播され、アジアとローマまでも従わせていたでしょう。最終的にイエス様は新婦と共に、個人天国、家庭天国、氏族天国、国家天国をつくっていたはずでした。
成就されなかった夢
しかし、この夢は実現を見ずに終わりました。いわゆる宗教家と自称する人たちが、イエス様のみ言を拒み、ついには十字架に追い込んでしまったからです。イスラエルの不信仰に直面したイエス様は、人類の霊的救援のために命を捨てる決意をされました。
したがって、霊的・肉的両面の救いを成就するために、イエス様は再び来なければなりません。このような理由で、人間の心はイエス様を通じて神に近づくことはできますが、体はいまだに悪の誘惑圏に属しています。聖パウロですら、肉身と良心の欲望とが葛藤し、矛盾の中で苦悩しました。多くのキリスト教の偉大な福音伝道師たちも、このような矛盾に苦しみました。
成約時代を開始するために、何よりも重要なことは、私たちはみな、霊肉ともの救いを受けなければならないという点です。イエス様が十字架上で亡くなられることによって、右翼と左翼の闘争が始まりました。これは、アダム家庭の堕落によって、カインとアベルが分立したのと同じです。またキリスト教とイスラム教が出現し、戦いを開始しました。このような分立闘争は、イエス様が十字架上で亡くなることによって生じたので、イエス様が再臨する時には、すべてが一つに統一されなければなりません。
神がイエス様の再臨を準備するためには、世界的次元でのカインとアベルの勝利的和解が必要でした。
第二次世界大戦の時に起きた一連の出来事を中心として、このような摂理が展開されました。キリスト教圏を代表したイギリス、アメリカ、フランスの連合国家群はアベルの立場に立っていました。一方、枢軸国家である日本、ドイツ、イタリアは国粋的軍国主義の影響を受け、カインの立場に立っていました。
この戦争は、世界的次元にまで拡大されたカインとアベルの対決を意味していました。連合国が勝利したのち、キリスト教を中心として、世界平和を実現するための大々的な努力がなされました。
イギリスは世界的なエバ国の位置に、そしてフランスとアメリカは、それぞれカインとアベルの位置に立って、共に再臨主を迎える準備を完了していました。しかし、そのような準備にもかかわらず、神の摂理は、その時成し遂げられませんでした。
神の代身として、み言をもって来られた一人の方がおられますが、その歩みは数多くの形容し難い迫害を受け、世界からも理解されませんでした。二○○○年前のイエス様の立場と全く同じでした。イエス様の時代、イスラエル民族が火の車に乗って天から再臨するエリヤを待っていたように、キリスト教徒たちも再臨主の顕現を、雲に乗って天から降臨するものと信じて待っていたのです。
黙示録には、イエス様が弟子のヨハネに「主は新しい名でもって来られるだろう」と言われた箇所があります。これはエリヤがそうであったように、イエス様も再臨の時には別の人の姿で来られることを意味しています。
神は、私の夫を選ばれて韓国のキリスト教徒たちに、新しい真理のみ言を伝えるようにされました。しかし当時、キリスト教界の指導者たちは一介のみすぼらしい若者にすぎない夫が、新しい真理のために選ばれた可能性すら無視してしまいました。
新約時代は旧約時代の延長なので、当時のユダヤ人たちがイエス様の顕現を信じなかったように、韓国のキリスト教指導者たちも再臨主が人間として肉身をもって、地上に誕生することを信じられませんでした。
もしも、その時キリスト教界と夫が一つになっていたならば、地上世界はもちろん、天上世界にまでも天国がつくられたはずでした。新約時代が終わる一九四五年から一九五二年までの七年間に、全世界が神の摂理に従って一つに統一されていたはずです。
しかし、その当時、宗教指導者たちは夫と一つになるどころか、夫に従う信者たちの数が日増しに増える理由を知ろうともせず、盲目的に嫉妬し反対しました。そればかりでなく、夫についての邪悪な嘘まで捏造して広めました。夫を人格的に葬るために、夫の教えとは正反対に、淫乱だ、貪欲だ、との噂のくびきを夫にかけてしまいました。
一つになることは必然
神はキリスト教を発展させ、再臨主の道を直くするために、アメリカのようなキリスト教絶対圏の国家を育成されました。彼らが悟ろうと悟るまいと、その当時韓国の牧師たちは全世界のキリスト教を代表する立場にいました。
第二次世界大戦後、アメリカと世界のキリスト教界は夫と一体化できなかったために、アメリカはその時から没落の道をたどり、道徳的権威もすたれ始めました。
第二次世界大戦後のアメリカとキリスト教界は、カインとアベルが一つとなった勝利的な基台の上に立っていました。再臨主を迎える時は熟していました。しかし、結果は再臨主を迎えることに失敗し、附和雷同して、全世界が夫の活動に反対するようになりました。したがって、夫は荒野に追われどん底まで追い落とされたのちに、再びはい上がってきました。
このようにして、韓国動乱による冷戦が始まりました。第二次世界大戦の時と同様に、世界は再びカイン圏とアベル圏に分かれました。十字架上でイエス様を不信した左側の強盗と同じく、神を否定する共産主義がカイン型の世界を代表して立ちました。一方、神の実在を信じるキリスト教民主主義はイエス様の右側の強盗と同じく、アベル型の世界を代表するようになりました。
韓国に来られる再臨主は、神のみ旨に従って、この敵対関係にある世界を一つにしなければなりません。その中心地が南北に分かれた韓半島です。そこでは、蕩減原則によって二人の父が対決しています。北側のカイン的父(金日成主席)と、南側のアベル的父(文鮮明師)とが一つとなって、神を中心として世界平和の基地を築かなければなりません。
この二人の父の統一は、共産と民主の統一ばかりか、全世界の統一につながっています。それで国連軍の十六カ国の投入も、人類の祖国統一のためになされました。
第二次世界大戦の時には、キリスト教を中心としたイギリスとアメリカとフランスが中心でしたが、その失敗を復帰するために、このたびは統一教会の「統一思想」によって、民主主義世界を代表して再び選抜されたエバ国日本と、アベル国アメリカと、カイン国ドイツと、自由世界が一体となって、世界的アダム国である韓半島の南北統一をなさなければなりません。
人間始祖の堕落を償うために、母であるエバは、兄弟のカイン、アベルを再び生み直さなければなりません。それで、日本国内には戦後五十年間、韓国居留民団と朝鮮総連とを抱えております。
それゆえエバ国家日本は、まずこれらを一つにし、次にアダム国家まで一つにし、さらにはアジア文明圏と西洋文明圏を包容して、世界平和に向かう太平洋文明圏を建設しなければなりません。私たちはまた、ユダヤ教とキリスト教を代表した立場で、イスラム教徒たちとの和解を促進してきました。
この冷戦の間、夫は失ったメシヤを迎えるための基盤を取り戻すために、個人、家庭、氏族、国家、世界、そして天宙的な次元まで、壁を取り除くための闘いをしました。このために、夫には最小限四十年の期間が必要でした。この四十年の間に夫は、イエス様の誕生の時までの四○○○年と、創世以来の聖書歴史六○○○年を蕩減復帰したのです。
このような蕩減をなしたのちに、カイン型国家群とアベル型国家群の和解を見るようになり、ついに冷戦の終結をもたらしました。
この課題は、全世界一六○ヵ国が参加した一九八八年ソウル・オリンピックの時に、統一教会によって完了しました。このことが、北朝鮮と韓国が、一六○、一六一番目に国連に加入する条件となりました。
過去数十年のことを考えれば、夫は言うに言えない無理解の中で生きてきました。北朝鮮では共産政権のもとで三年間強制収容所に捕らわれ、その後も神の仕事を続ける中、無実の罪で六回も獄中生活をしたのです。そればかりでなく、言論界は夫が「自分個人の利益のために若者たちを洗脳する悪魔のような者だ」とあざけり、悪評判を広めてきました。
皆様の中に、「文鮮明先生こそ全世界的に、最も多くの迫害を受けた宗教指導者である」と言えば、これに異議を申し立てる人がいるでしょうか? 旧約時代と新約時代を併せて、歴史上のすべての失敗を取り戻すために、夫と私は蕩減の道を歩んできました。
キリスト教文化を根としているアメリカを新約時代にたとえるならば、韓国は旧約時代にたとえられます。最初の二十年間夫は韓国で、イスラエルのような立場に立つ韓国と、ユダヤ教のような立場にある統一教会を中心として旧約時代の蕩減路程を歩みました。この基台の上で私たちは一九六○年、国家的次元で真の父母の聖婚式を挙げました。その後、一九七一年、私は夫と共にアメリカに渡りました。
そして、その後二十年間、私たちはアメリカで新約時代を完成し、成約時代を出発するための蕩減路程を歩みました。その結果、私たちは神を中心とした真の愛、真の生命、真の血統の根源となる、真の父母の家庭を樹立することができました。
重要な女性の役割
親愛なる御来賓の皆様。イエス様がメシヤの降臨に対して語られた内容に、新郎が来るのを待つ新婦たちに対するたとえがあります。黙示録では、キリスト教を新婦として説明しています。したがって、キリスト教を代表するアメリカも、新婦国家であるということができます。
したがってアメリカは、世界統一のための基台を立てて、最終的には新郎を迎える責任を果たさなくてはなりません。これは、復帰されたアダムとエバとして、本来の男性と女性の位置が立てられ、真の男女平等圏まで行くことを意味します。
このような復帰歴史の転換点で真の母の位置に立つ女性は、真の父を迎える基盤をつくらなければなりません。キリスト教が新郎を迎える最初の試みに失敗して以来、神の摂理は四十年延長して、一九九二年まで来ました。この期間に私は、世界的に新しい新婦基台を願って、韓国、イギリス、アメリカ、フランス、日本、ドイツ、イタリアを一つにするために祈祷しながら努力してきました。
そして、一九九二年四月、私は夫と共に「世界平和女性連合」を創設し、全世界的に女性時代の到来を宣布しました。その基盤の上で昨年一年間、私は真の母の心情でもって、先に挙げた七カ国はもちろん、ロシアとオセアニアまで訪ね、現地の女性たちを動員して、各国に「世界平和女性連合」の支部を創設しました。
このような業績を土台として、第二次世界大戦の時から、カイン・アベル関係に分かれていた国々が真の母を迎え、失った新婦の基台を復帰して、真の父を迎える基盤になりました。このように勝利した世界的な基盤の上で、最初の真の父母であることを宣布いたします8
今や、世界は成約時代に突入しています。私たちはいま一度、神に侍って生きることができるようになりました。このような歴史的転換点に立った私たちは、神を中心として、個人の心と体を統一できる原理を、世界的次元で実践しなければなりません。
このような目的を達成するために、私たちは世界平和を実現する二つの組織を創設しました。
「世界平和宗教連合」は心の世界を代表し、神の愛を基にして、世界の宗教を一つに結ぶ内的使命を帯びています。一方、「世界平和連合」は体の世界を代表しており、世界的な政界、財界、言論界、学界、科学分野の指導者たちと共に、理想世界を建設する外的使命を帯びています。
神の前で縦的な角度から愛を説明すれば、アダムとエバは子女の愛、兄弟姉妹の愛、夫婦の愛、父母の愛という四大愛を成熟させ、神と直接関係を結んで生きるようになっています。したがって、アダムとエバは本来、真の愛を中心として、四大心情圏すなわち、完成した子女、完成した兄弟姉妹、完成した夫婦、そして完成した父母の心情圏を通過して、完成した家庭を築くべきだったのです。
アダムとエバは、家庭のモデルとならなければなりません。子女たちは父母を理想的な手本として、侍って生きなければなりません。子女たちは父母が互いに愛し合って生きるのを見て、兄弟姉妹間の友愛を学ぶでしょう。結婚して夫婦となっても、彼らは父母の愛を見習って理想的な夫婦の愛を学ぶでしょう。やがて彼らも子供を生んで、父母が見せてくれた良い模範に倣い、もう一つの完成した家庭を築くでしょう。
父母と子女、兄弟と姉妹、そして夫と妻が、縦的、横的両面から一つになった、理想的で確固たる家庭を築くことによって、私たちは地上はもちろん、天上にまでも、天国を建設することができます。このようにして、神を中心とした同じ祖先から生まれた全世界の家庭は、アダムとエバの家庭と同じく、神聖な価値をもつようになります。
家庭基台の完成
紳士、淑女の皆様。成約時代の幕開けとともに、全世界的に救援歴史を完成し、またメシヤの分身となる氏族的メシヤの時代が来ました。皆様の家庭を復帰し、氏族、地域社会、国家を復帰しなければなりません。このような使命をもつ人々を、氏族的メシヤと呼びます。成約時代には、母親の役割が非常に重要です。堕落の時とは正反対に、母と子が一つになって真の父母と一体となり、夫を復帰し、祝福を受けることによって神に帰らなければなりません。
既に私たちは、数千人の氏族的メシヤ宣教師を全世界に派遣しました。遠からず世界的な次元で理想的家庭が築かれるでしょう。それぞれの完成した家庭では、祖父母は神を代表して王と女王の位置に立ち、父母は現在の人類を代表して王と女王の立場に立ちます。そして子女は未来の子孫を代表する立場で、王子と王女の立場に立ちます。これらの三代が一つになる時、過去、現在、未来が共に和睦して生きるようになり、そこから新しい歴史的伝統が出発します。
紳士、淑女の皆様。私はきょう、人類の最初の真の家庭の完成を皆様の前で宣布することができたことを、無上の光栄と思います。私と夫は、十三人の子供と二十人の孫と一緒に、神と人類のために絶対的な信念をもって献身しています。三代が一つの家族として共に生きながら、私たちは家庭的次元で、聖書で述べている生命の木の中心の根(祖父母)、中心の幹(父母)、そして中心の芽(子女)を確立しました。
皆様も真の家庭の血統に象徴的に接ぎ木されて、共に理想国家と理想世界建設のために先頭に立ちましょう! これが正に、成約時代の開幕を意味します。成約時代は神に侍って生きる時代です。
親愛なる御来賓の皆様。「世界平和女性連合」は、このような使命のために召命を受けました。第二次世界大戦後、キリスト教文化圏を代表したイギリスの失敗を復帰するため、再び選抜されたエバ国家日本は、その使命を果たすために女性は子女と夫を連れて、真の父母と一体となって、神の国に帰らなければなりません。
私たちはみな、神と人類が歴史的に願っていた、この使命を完遂いたしましょう! すべてのキリスト教徒と、すべての宗教者たち、すべての良心的な人々も心の窓を開いて、深い心情で、このメッセージを受け入れてくださるよう、切にお願いいたします。
私たちがみな、神のみ旨のために働き、神からの祝福を受けられる立場に立たれますことをお祈りいたします。神様の祝福が皆様と、皆様の家庭の上にありますようにお祈りいたします。どうもありがとうございました。