はじめに
過ぎ去った二十世紀は、驚くべき科学の発展によって生活条件が大きく発達した世紀でした。しかし、片や世界的な紛争と道徳的な混乱の世紀でもありました。科学的知識と文明の発達は、人々に豊かな暮らしを享受することができるようにした反面、自然と環境の破壊、地球の温暖化、大気中のオゾン層の破壊など、地球レベルの問題を引き起こしました。一方で産業化と現代化の過程で家庭が破壊し、麻薬中毒、エイズ、暴力や犯罪のような深刻な問題が人類の危機を予告しました。
人間たちは様々な面で平和と幸福を追求してきましたが、満足するほどの成果を挙げることができませんでした。第一次、第二次世界大戦が終わり、戦争を防ぐために結成された国際連盟と国際連合の二大機構が展開してきた世界的な活動も、平和世界を築くことができませんでした。宗教団体の努力によっても幸福の世界は実現されませんでした。また、国際共産主義の理想やファシズムの夢によっても、理想世界の実現は失敗しました。さらには高度な技術によっても、政治的な努力によっても、人類に平和と幸福をもたらすことはできませんでした。
冷戦時代が終わり、世界はしばらくではありますが、平和のための祝杯を挙げることができました。しかし、すぐに人類は、その冷戦の終わりがそのまま平和時代に繋がるものではないことを知るようになりました。世界の随所で熾烈な戦争が引き続き、今もいくつかの地域で殺し合いが起きています。これが現実です。
人間の幸福と平和世界の実現は、人々の道徳性と霊性の回復にかかっています。世界の平和も国の平和も、その構成員の一人一人と家庭によって成されるからです。科学と技術も善なる人々によって応用されるとき、人類の生活向上のための義なるものとして用いられることができます。
現在を生きる私たちは、明らかに物質的な豊かさの中にいます。肉体は満ち足りて、環境は華やかです。しかし、私たちの霊魂は渇いています。生命の価値を凌駕する愛の高貴さは色あせました。周辺にたくさんの人々がいますが、情は薄れ、関係は断絶しています。今こそ、ご飯でおなかを膨らませるのではなく、愛とみ言で霊魂を肥やさなければならない時です。
本書は、真の父母、真の師、そして真の主人として来られた文鮮明先生のみ言選集三六〇巻の中から、人類の永遠なる平和と幸福を実現するために、私たち人間が回復しなければならない道徳性と霊性を開発するにおいて、大きな指針となる内容を主題別に部分抜粋して編集したものです。
読者の皆さんが、本書を通じて人間の本性と霊性を回復し、人類の永遠なる希望である真なる平和と幸福を実現しうる神様の真の子女となられることを願います。
第一章 祈祷と信仰
第一節 祈祷の本質と目的
一 祈祷とは何か
祈祷は、自分を対象の立場に立て、その対象に対する主体を立てるためにするのです。したがって、その主体の基準に合わせていくのが信仰の道です。(一七-二五七、一九六七・二・一二)
祈祷とは縦的な絆を結ぶためのものであり、精誠は横的な絆を拡大するためのものです。(二-九-二一六、一九九一・八・二九)
祈祷は天に対する誓約であり、宣誓であり、そして宣言です。(二四〇-三五、一九九二・一二・一一)
祈祷は、神様と対話をすることです。ですから、特別な場所に座って祈祷するよりも、日常の生活の中で、天とともに同化することができる時間をもたなければなりません。そのような時間が祈祷の時間となりうるのです。このように見るならば、言葉でする祈祷よりは、歌でする祈祷のほうが感動的です。そのような祈祷を通して、自分自身が神秘境に引き込まれていくのを体験することができます。(二七〇-一七、一九九五・五・三)
感動して歌う歌が最高の祈祷です。そのような歌を歌う人たちの目をじっと見つめると、感動のような何かがあります。それで「ああ、ここから新しい歴史が始まるのだな」ということを感じることができます。(一七-二一、一九六六・一一・六)
祈祷をするというのは「私は神様の人である。サタンは私にタッチできない」と宣布することです。それゆえ、「絶えず祈りなさい」(テサロニケ一五・17)と言ったのです。(二七九-一七三、一九九六・八・四)
祈祷というものは、自らの意識を忘れてしまうのです。そのようになると、縦的な世界の波長が影響を及ぼすのです。(二九六-二〇一、一九九八・一一・九)
バイオリン奏者は、自分のバイオリンを磨いて触り、数多くの練習をしたために、そのバイオリンの音がすべて分かります。それで、そのバイオリンと一体となった立場で演奏するので、その音が神秘的になるのです。同様に、だれでも天のために真心を込めることができなければなりません。祈祷はそのように真心を込めることのうちの一つです。(二四一-一七九、一九九二・一二・二四)
祈祷というのは、心と体を神様の前に捧げることです。神様に物を捧げるのではなく、心と体を捧げる時間が祈祷の時間です。(二八-二五、一九七〇・一・一)祈祷する時間というのは、供え物を捧げる時間です。「神様、あなたに悲しみがありましたら、その悲しみを私によって蕩減してくださいませ。それのみならず、教会のすべての悲しみまでも私によって蕩減してくださいませ」と言いながら、供え物になることを誓う人がいるならば、神様はその人を訪ねてこられるはずです。必ず、神様はその人を中心として因縁を結ぽうとなさるのです。天の役事は、そのような人を通じてのみ前進することができるので、神様は、そのような人を中心として因縁を結ばざるをえないのです。(四二-七〇、一九七一・二・二一)
祈祷は、精神を浄化するために必要なものです。精神を浄化し、統一をするために必要なのです。(一八一-三二二、一九八八・一〇・三)
人々が精誠を捧げるとき、山の上でよく祈祷をします。谷間で祈祷する人はいません。海辺で祈祷する人もいません。山頂のような高い場所でするのです。それはなぜでしょうか。縦的な極点により近い所へ行こうとするためです。(二一二-七〇、一九九一・一・二)
祈祷はなぜしなけれぱならないのですか? 縦的な刺激を受けるためです。(一七一-一九、一九八七・一二・五)
すべてを愛の心で克服することができる人は、祈祷を完成した人です。そのような人には、祈祷が必要ありません。(一一二-五二、一九八一・三・二九)
有能な医者は、患者の顔色を見ただけでも、何の病気か分かります。同様に、皆さんも霊的に鑑定することのできる能力がなければなりません。そのためには、精緻を捧げなければなりません。祈祷しなさいというのです。祈祷は恐ろしいものです。それは言葉なく環境を占領することができるのです。(二〇七-三四九、一九九〇・一一・一一)
祈祷しなさい。祈祷は心情の補給庫です。祈祷する時間がなければ、自分の仕事を通じてでも祈祷することができなければなりません。(二七-八五、一九六九・一一・二六)
心情がグーグー鳴るときは、ご飯を食べなければなりません。そのご飯は何かといえば三つあります。第一に何でしょうか? 祈祷することです。祈祷するのは、呼吸するようなもので、ご飯を食べるのと同じです。その次には何でしょうか? 伝道すること、み言を伝えることです。その次には愛です。(一二七-一四四、一九八三・五・七)
祈祷をたくさんしなさい。祈祷をたくさんすれば、一人で生活しても絶対に孤独ではありません。祈祷は呼吸をするのと同じです。祈祷をたくさんすれば、霊的に明るくなります。また、善悪に対する分別力が生じます。(三〇-二八二、一九七〇・四・四)
掃除をしなければなりません。心の掃除をしなければならないのです。そのために祈祷しなければならないのです。(二七-八五、一九九六九・一二・一四)
二 祈祷の目的
皆さんは「終りの日」を迎えて、この地である指導者を求める前に、まず本然の心を求めなければなりません。それで、キリスト教では、祈祷を通して神様の心情を求めていき、仏教では座禅を通して人間の本然の心を求めていくのです。(四-一六一、一九五八・四・六)
私たちが祈祷する目的、あるいは仏教徒が座禅を通して無我の境地に入っていく目的は何でしょうか。それは、心の核心を求めようということです。皆さんがその心の核心を見いだすならば、神様に出会うことができるようになるでしょう。(二-一九三、一九五七・五・一九)
神様がそこにいたいと思い、イエス様もそこにいたいと思う、その所は、天の宝座ではありません。イエス様も祈祷をするとおっしゃいました。そのようにイエス様が祈祷する理由は、まだ清算しなければならない条件が残っているからなのです。そして、神様もそのような祈祷を受けてくださらなければならない立場におられます。なぜでしょうか。まだ神様の心情が清算できていないからです。
地上に神様の実体を立てられず、イエス様が使命を果たせなかったので、神様とイエス様のその問題が解決されるまで、神様は祈祷を受けてくださらなければならず、イエス様は祈祷をしなければならない責任があるのです。このようにして、二千年という歴史が流れました。(八-一〇一、一九五九・一一・二二)
祈祷というのは、願いと希望が成されることを願う心でするものです。神様に、自分自身がそれを成就することができるよう、能力を満たしてくださるようにお願いするのです。(二一-一八一、一九六八・一一・二〇)
祈祷を通じて霊界を動員しなさい。(一三-一六一、一九六四・二・一七)
自分が多くの怨讐たちと戦って勝利するには、どのようにしなければなりませんか? 非常作戦を展開しなければなりません。奇襲作戦や誘導作戦を展開しなければならないのです。そうではなく、正面から戦おうとすれば、力が強くなければなりません。ところが、自分の力が足りないので、神様の力を借りなければなりません。それで祈祷するのです。その戦いが神様のみ旨にふさわしいとき、その祈祷は成就するのです。ですから、祈祷する者は、苦難の中で災い転じて福となすことができるようになるのです。(一九-一四五、一九六八・一・一)
皆さんの心と体は、一つにならなければなりません。今まで、皆さんの心が願わないのに、口がブツブツ言いました。それゆえ沈黙の時間が必要です。「この口のやつ、閉じろ!」と言わなければなりません。神様のみ言に代わることができる者になってから、口で話すことを願うのが本然の願いです。ですから、祈祷は何よりも自分白身の統一のために必要なのです。(一八四-三〇一、一九八九・一・一)
すべての宗教家が祈祷する目的は一つになるべきです。自分たちの教派よりも、世界のために祈祷して願い、進んでいかなければなりません。(二五-四五、一九六九・九・二八)
今まで宗教家たちの祈祷は、「神様! 恵みを下さいませ! 祝福してくださいませ!」と言うだけでした。彼らの祈祷は、神様の目的を成就するためのものではなく、自分自身の欲望を満たすためのものでした。そのようにして神様を利用してきました。そのような人々の宗教は、歴史とともに消えていくということを先生ははっきりと知っています。歴史とともに消えない宗教を立てなければなりません。(二二九-一〇六、一九九二・四・一一)
祈祷には主題がなければならず、目的がなければなりません。祈祷をするとき、だれのためにしますか? これが問題です。だれのために祈祷しますか? 神様は、どのような祈祷を喜ばれるでしょうか。神様のために祈祷するのを喜ぱれるでしょうか、祈祷する人自身のために祈祷するのを喜ばれるでしょうか? 神様のために祈祷するのを喜ばれるのです。ですから、神様のみ旨に従っていく自分自身とならなければなりません。自分自身を先頭に立たせることはできないのです。
神様が東におられれば、自分も東に行こうという祈祷、神様が西に行くことを希望されれば、自分も西に行くという祈祷をすべきなのです。神様が西に行くのを願われるとき、いくら自分が東にいるのだと祈祷してみても通じません。神様を中心として、神様のみ旨を成し遂げるために祈祷すべきであって、自分白身を中心として自分の思いを果たすために祈祷してはいけないのです。
ところが、今日一般の既成教会の人々が祈祷するのを聞いてみると、全部自分の息子、娘、自分の家、自分の国のために祈祷します。神様を中心として宇宙を考え、世界を考え、万民を考えながら祈祷する人はいません。祈祷の方向が間違っています。主題が違います。主題が違うのです。目的が違うのです。(一六一-一四二、一九八七・一・一八)
三 祈祷をする理由
私たちは、神様を失ったと同時に、真の父母を失ってしまいました。あるとき、「神様、なぜうちの父は、私の救い主になれないのですか? どうして、私を生んでくれた父母は、私の救い主になれないのですか?」と言いながら祈ったことがあります。この地上にそのような父母をもつ人間がいるなら、イエス様は信じず、救いを受けなくても幸福であるでしょう。本来はそのようになるべきでした。ところが、エデンの園で堕落した人間始祖の子孫であるので、救い主が必要なのです。(九-一三六、一九六〇・五・一)
なぜ祈祷をしなければならないのでしょうか。主体を確定するために必要なのです。人間は、絶対的な主体を願っているのです。その主体がだれかといえば神様です。ですから、皆さんが祈祷するとき、絶対的な主体を確定したのか、神様は本当にいらっしゃるのか、主体意識が確定されたのかという問題が重要です。自分自身は絶対的な主体に対する絶対的な対象なのです。ですから、絶対的な主体の前に服従しなければなりません。(一〇八-八〇、一九八〇・六・二二)
エデンの園で堕落した人間始祖の子孫たちは、肉身に制裁を加えてでも祈祷しなければなりません。祈祷は堕落した人間始祖の子孫たちに必要なものであって、そうでない人間には必要ありません。(一五-一五九、一九六五・一〇・七)
祈祷は、堕落によって生じるようになったのです。したがって、人間が復帰され、完成されれば、祈祷する必要のない時代が来ます。(一〇一-一〇一、一九七八・一九・二二)
ダイズを植えればダイズが出て、アズキを植えればアズキが出てくるのと同様に、生命を植えてこそ生命が出てくるのです。歴史の最初に植えられた生命の種を収穫しようとするなら、復帰摂理が終わるまで、投入し、努力しなければなりません。それゆえ、祈祷、精誠、修養のようなものが必要なのです。(二四五-三〇七、一九九三・三・一四)
皆さん、なぜ祈祷をするのですか? いたずらに、なぜ祈祷をするのですか? 神様は、皆さんが祈祷してくれることを願って、皆さんをつくったのですか? 神様は、人間が自らの事情をもって祈祷することに接してくださりながら苦痛をお感じになります。ですから、悲しい神様であるという結論が出てくるのです。(一六-一一五、一九六六・三・一三)
祈祷は何かといえば、「神よ、再創造のみ手をお収めにならないでくださいませ!」ということなのです。「私がまだ一つになるためのあなたの創造理想のとおりに完成できていないので、創造のみ手をお収めにならず、続けて私の足りないところを満たしてくださいませ!」という意味で祈祷するのです。自らの足りないところを満たしてほしいというのです。(二三七-一四三、一九九二・一一・一三)
なぜ祈祷をしなければなりませんか? サタンを屈服しなければならないからです。サタンを追放することが問題です。神様と一つになって、サタンを追放しようというのです。人が良心と一つになれば、サタンより高い次元に上がるのです。堕落したアダムとエバより高い次元に上がるために、サタンを追放することができるのです。(二七五-三〇九、一九九六・一・一)
宗教の役割は、人間の心にポンプで力を加えてあげようということです。祈祷は何のためにするのですか? 肉身の力よりも強い心の力を補充するためです。その心の力が補充されるためには、理念がなければならないのです、理念が。自分が、ある中心と一つになったという確固たる信念がなければなりません。(一五五-三〇、一九六四・一〇・六)
祈祷するときは、悲しみで始めて、無限なる喜びで終わる立場、すなわち前進する立場にならなければなりません。また、喜びで始めたならば自分自身を中心として喜ぶのではなく、より大きな次元を中心として喜べなかったことに対して悲しみを感じる立場とならなければなりません。そのような立場は、新しい熱意を抱いて出発していく立場です。
自分を中心として喜びで出発したとしても、その立場がより大きな次元を中心として考えてみるなら、言葉では言えない悲しい立場になりうるのです。そのような立場で、悲しみを感じながら、新しい出発の動機を見いだすことができなければなりません。したがって、そのような立場では、神様と一つにならなければなりません。(三六-一一三、一九七〇・一一・二二)
人間は有限な存在です。しかし、無限な次元にどのように入っていくことができるかということが問題です。このように有限な人間が無限の次元に入っていくことができるためには、固着した意識観念をもっていてはいけません。それゆえ、仏教を信じる人々は、座禅を通して無の境地に入っていこうとするのです。
人間は何かということを考える前に、まず人間の心が何であるかを考えなければなりません。自分が何かということよりも、心が何かということがもっと大きな問題です。「私」は、心と体でできています。では、体を離してしまった心はどのようなものでしょうか。それがどのようなものであるという認識が自分によって意識されたものであるならば、それは完全なものではありません。無我の境地の純粋な立場で意識されたものであってこそ完全なのです。そのような超自我的な境地に入らなければなりません。
そのような境地に入っていくことができる人は、予言をすることができるのであり、未来を透視することができます。そのような人は、堕落した立場に置いておいても、自ら飛び出すことができます。そのような人格があるのです。皆さんがそこに到達するためには、熱意がなければなりtせん。新しい熱意がなければならないのです。ですから、そのような熱意を育てなければなりません。それは、何によって育まれるのでしょうか。祈祷によって育まれるのです。(三六-一一四、一九七〇・一一・二二)
祈祷するときの姿勢はどのようにするのが望ましいでしょうか。できるだけひざまずいて座って祈祷するのがいちばん良いのです。そのように体を拘束しなければなりません。それで、体の苦痛と不便さを克服することができる深刻な何かがなければならないのです。そうしてこそ天の側の人となり、その祈りが神様の前に届くのです。
イエス様も夜を徹して祈祷し、過去に天の仕事をした人々も祈祷せずしては大きなことはできなかったのです。そのような姿勢で祈祷した後に、その祈祷の内容が成就しうる時を待つ心がなければならないのです。皆さんは祈祷をしておいてすべて忘れてしまうでしょう。それではいけません。(一〇四-一一〇、一九七九・四・一五)
祈祷することよりも、その時間に人のために犠牲となり、奉仕するほうがもっと貴いのです。祈祷は、精誠を尽くしても能力が足らないときにするものです。自分自らできることに対して、どうして祈祷が必要でしょうか。ですから、祈祷をするなら、神の国と神の義のためにしなさいというのです。世界と神様のために祈祷するのです。そのような祈祷は、いつも神様が祝福してくださいます。(一〇四-一〇七、一九七九・四・一五)
祈祷とは祈ることです。その祈るということは何かというと、主体と対象の関係を築くことなのです。何の主体と対象の関係を築くのでしょうか。愛の主体と対象の関係を築くのです。そのような主体と対象の関係を中心として祈らなければなりません。自分自ら、何かをすることができる自信がなければ祈祷するのです。自分自ら何かをしなければならないという刺激を受けることができなかったならば祈祷するのです。「死ぬことがあっても、私はこの仕事をします。死んだとしても、私は神様にしがみついて死んでいきます」と言わなければなりません。
ですから、祈祷は誓いです。宣言なのです。「私がこのようにします」と言うのです。そうすれば神様が、「うーん、そうか。そのようにしてみなさい!」と言われるのです。皆さんが祈祷したとおりに実践しながら、峠を一つ越え、二つ越えて、三つ越えるようになれば、神様もじっとごらんになって、「こいつは合格だ!」と認めてくださるのです。祈祷して実践しない人は偽善者になります。次第に神様の前から遠ざかるのです。先生も神様のみ旨のために行動する際に、自信がないとき、「神様、私に力をくださいませ!」と言いながら祈祷すれば、神様が九十五パーセント協助してくださいます。(一一二-五四、一九八一・三・二九)
何か問題が生じて困難になったら祈祷するのです。一人で心配しないで、困難なときは神様の前に祈祷するのです。「私には神様の愛の道に従っていくべき運命があるのではありませんか。しかし、妨げとなるものが多いので、助けてくださいませ!」と言うのです。それはどれほどすてきかというのです。「私がそのように歩むのを、父母が願い、兄弟が願い、世界が願い、神様も望まれるのではないでしょうか」と言うとき、神様は「そうだ」とおっしやるのです。
そのようなとき、「ならば私に力をくださいませ! 一度だけ、私をもっと押し出してくださいませ!」と言いながら夜を徹して、四時、五時まで祈祷して出て行きなさい。そのように祈祷したので、明け方から飛び出していかなければならないのですが、外はまだ暗いのです。それで東の空を見上げながら、「太陽よ、早く昇れ!」と言いながら座っている姿はどれほどすてきでしょうか! 神様がごらんになるとき、その姿がどれほど美しいだろうかというのです。皆さんが祈祷をするときいその祈祷の味を知らない人は発展することができません。ご飯を食べる以上に、祈祷をおいしいものと思わなければなりません。(一一二-六三、一九八一・三・二九)
あらゆる努力を傾けても成就しないときに祈祷するのです。眠らず、食べなくても努力することができるのに、「神様、助けてください!」と言うことができますか? 神様は皆さんの僕ですか? それはサタンが讒訴するのです。先生は難しい問題が生じても祈祷しないのです。「お父様、心配しないでください! 私は堂々と、男らしく行きます。私は正義の血が沸き立つ男です。このように生涯を戦ってきたとおりに、最後まで行きます。私は自力で行きます! 私自ら蕩減復帰のために先頭に立たなければならないのではありませんか」と言うのであり、「神様、助けてください!」とは言いません。
努力もしないで、どういう祈祷をして、何を願いますか。祈祷というものは、努力を尽くした後にすることができるのです。自分の努力が及ばず、倒れるときに祈祷しなければならないでしょう。昼寝をしながら、休みながら、ありとあらゆることをすべてやりながら祈祷するのは、附いてくださいません。そのような祈祷を聞いてくださる神様ではありません。先生の知っている神様はそのようなかたではありません。正義の神様なのです。歴史に恥を残さない神様なのです。
皆さんがそのような立場で祈祷するのを聞いてあげれば、歴史に恥ずかしい神様となるのです。剛直な性格と強靭な心をもった者だけが、天のための身代わりとなり、後継者となることができるのです。そのような自分自身となることができるかというのが問題です。(四二-一二四、一九七一・二・二八)
今日、数多くの宗教家たちが祈祷をします。しかし、私はむやみに祈祷することはできません。「ああ、私は監獄に入れられて、死ぬようになったので生かしてください!」という祈祷をすることができないのです。監獄に入れば、口を閉じてじっとしているのです。神様に申し訳なく祈祷ができません。
しかし、祈祷しないというのも何なので、祈祷を捧げるべきであるとするならば、国と世界のためにするのです。「あなたが願われる国と世界を求めていくにおいて、私がその足場となることができるようにしてくださいませ」と祈れば、神様も「おお、使えるな」と言われます。
しかし、「ああ、私は死にそうです。私が統一教会の先生になって忠誠を尽くしましたが、このような姿、このようなありさまになりました」と言えば、神様は見向きもされないというのです。「おい、こいつ! おまえは落第だ」と言いながら、落第の烙印をボンと押されるというのです。
今日、あらゆる人たちが祈祷するのをじっと聞いてみると、「ああ、神様! 生きておられる神様! 愛があふれ、能力が豊かで、無所不在であられ、万能であられるので、うちの息子、娘、うちの夫、うちの親に福を下さいませ!」と言います。そのような祈祷はする必要がありません。(一二七-二六、一九八三・五・一)
既成教会の人々は、楽に座って「神様、何々を助けてください!」と言いながら、習慣的に祈祷します。何かどうのこうのと言いながら、安易に祈祷をします。しかし、先生は粘り強い祈祷をするのです。神様にすがって服が裂ければ裂けたで放さないのです。「どのようにするのですか?」と言いながら、けんかするのです。十年を一日のように、ひたすらすがってぶら下がるのです。一度握ったら、手首が切れるまでは放さないのです。(一〇六-一三〇、一九七九・一二・二四)
前に先生は、ひざまずいて祈祷すれば十二時間が普通です、十二時間。この手がすべて凝り固まるのです。タコができるのです。それで祈祷の場は、数年間、涙で濡れていました。皆さんがレスリングをやって汗を流す以上に、そのような祈祷をしたのです。綿入れのパジとチョゴリに汗がしみ込んで、絞れば汗の滴が落ちるほどに祈祷しました。だれもできないことをしようとするので、そのようなことをせざるをえなかったのです。だれでもそのような中で「これだ!」と言うことのできる何かを発見すれば、それはどれはどうれしいでしょうか。そのように猛烈な人が「後に、将来よくしてあげよう!」という言葉を聞いて離れると思いますか? 決死的だったのです。(一〇六-一三〇、一九七九・一二・二四)
祈祷は、愛を実践するために必要です。絶えず、愛を実践することができる刺激を受けるために祈祷が必要なのです。(一一二-五九、一九八一・三・二九)
愛の心は自分よりも大きい対象を訪ねようとするのです。そのように大きなものを求めていく所に天が臨むのです。自分の家庭を守るためには、氏族と一つにならなければなりません。氏族が維持されるためには、国家と一つにならなければならず、国家が維持されるためには、世界と一つにならなければなりません。神様を中心として、地上天国、天上天国も一つにならなければならないのです。ところが、愛がなければ、それらすべては一つになることができません。
ですから、毎日のように、祈祷をこのようにしなければなりません。「神様、わが家に臨んでくださいませ!」と言うべきだというのです。「なぜか?」と言えば「神様から大きな愛を私たちの家庭に伝授されるためです」と言うのです。そのように祈祷しなければなりません。(二八七-二九五、一九九七・一〇・六)
神様が祝福してくださり、恵みを施してくださると、そこには必ず迫害がやって来るのです。ですから、どのように昼も夜も打たれて越えていくかを考えなければなりません。自分のために祈祷してはいけません。国と世界のために祈祷しなければなりません。すべての世界が全部み旨に合うようになれば、祈祷はしなくてもよいのです。
しかしながら、その時はまだ来ていません。皆さんは、その時が来るまで祈祷し続けなければなりません。皆さん、今そのようにしていますか? 祈祷をしてから、なぜ自分の祈祷は聞き入れてくれないかと言うでしょうが、それが幸福なことなのです。十年間精誠を尽くし、一生の間精誠を尽くしたのに、祈祷を聞いてくださらなかったら、それが幸福だというのです。打たれないでいることができる天の保護圏内にあるというのです。そうしながら発展するのです。そうして、個人的な蕩減時代を越え、氏族的な蕩減時代を越え、民族的な蕩減時代を越えていかなければなりません。(二九-二二二、一九七〇・二)
四 祈祷の効力
最も威力があるのが祈祷です。それは不可能を可能にすることができるからです。(九一-一〇一、一九七七・二・三)
いつでも、難しい問題があるときは、祈祷をして解決していかなければなりません。その祈祷は、神様の心情的基準を中心として関係を結ぶのです。真の意味で国を心配し、神様を心配する心から祈祷をするようになれば、神様がすべての問題を解決してくださるようになっています。(三三-一三一、一九七〇・八・一一)
祈祷の力は偉大なのです。涙を流しながら夜を明かして祈祷すれば、朝が来るように感じることができる偉大な力があります。(一九二-二三三、一九八九・七・九)
だれでも祈祷生活をするようになると、大きくて偉大な力が訪ねて来るのです。ですから、祈祷する人の目はその力によって肉界だけでなく、霊界までも透視することができるのです。(一八-六六、一九六七・五・二一)
どれほど祈祷の力が大きいかということを知らなければなりません。自分万人が祈祷して、無限な世界である霊界を動かして動員することができるというのは偉大なことです。ですから、祈祷というものは方位磁石のような作用をするのです。そのような力をもっています。それゆえ、皆さんが「成就する」と信じて祈祷すれば、そのまま成就するようになるのを見ることができるでしょう。(七六-二九八、一九七五・九・二一)
京畿道のある都市の私たちの教会の周辺に家が七軒ありました。そこにいた人たちは、皆私たちを追放しようという人たちでした。ところが、私たちがその家々をすべて買ってしまいました。彼らがすべて滅び、荷物をまとめて逃げていったのです。
どうしてそうなりうるのでしょうか。自分の先祖たちが夜ごとに殴るというのです。ですから、夜寝ることができないのです。「こいつ! ここにいたら皆死ぬぞ!」と言って、役事をしたのです。そのように霊界からすべての家々を売らせました。その動機は何かといえば、祈祷だったのです。それで祈祷は怖いのです。四年間の祈祷で全部苦境に陥ってしまったのです。祈祷にはそのような何かがあります。(二二七-一九六、一九九二・二・一)
皆さんが新婦になろうとするなら、新郎が必要です。女性たちにとって、堕落した世の中の男性たちは偽者の男性で、本物の男性は先生です。その愛の道理に従わなくては天国に行くべき道が曲がってしまいます。死んでみなさい! そうすれば、私の話が合っているか、いないかが分かるでしょう。祈祷してみなさい。統一教会の皆さんはすべて体験しているでしょう? (二二七-二八一、一九九二・二一四)
いくら世の中で恐ろしいといっても、私以上に恐ろしい人はいないでしょう。私が、だれかに死ねと祈祷すれば、三か月で終わるのです。しかし、そのような祈祷はしません。人に対して死ねという祈祷はできないのです。(二三八-三〇九、一九九二・一・二二)
祈祷と奉仕というものは恐ろしいものです。祈祷する者や奉仕する者は、戦わずして祈祷して奉仕してあげた者のすべての基盤を譲り受けるようになります。自分が祈祷してあげた者が、その責任を全うできなければ、その人の基盤がこちらに移ってくるのです。そのように、戦わずして、すっかりできあがっている基盤を伝え受けて発展していくのです。(二五六-七七、一九九四・三・一二)
祈祷は、心を体より二倍、三倍強くします。それで心と体が、レスリング選手と子供のようになるのです。ですから、心が体を思いどおりにコントロールすることができるようになるのです。そのようになるとき、サタン圏を越えて、天国に上がることができるのです。(二七九-一七三、一九九六・八・四)
第二節 祈祷する方法
一 体を心に屈服させなさい
祈祷するときにどのようにしなければなりませんか? 皆さんの心を水平線のようにしなければなりません。皆さんの体を水平線のようにしなければならないのです。水平線のような所には世界があります。世界と個人が水平線のように横的に通じなければならないのです。
皆さんが、「神様、私が参りました」と祈祷するとき、「おまえはだれか? 金氏の家庭を代表しているか?」と聞くならば、「はい!」と答えなければならないのです。それから大韓民国の人ならば、「韓国を代表しているか?」と言えば「はい!」と言い、それから、アジアの人ならば、「アジアを代表しているか?」と言えば「はい!」と言わなければならず、それから、「おまえは世界を代表しているか?」と言えば「はい!」と言って答える声がさらに大きくならなければなりません。(一七八-五六、一九八八・六・一)
人の心と体の勢力は、ほとんど同じであるために闘うので、心にもっと強い力を与えなければなりません。それで「祈祷しなさい、精誠を尽くしなさい!」というのです。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、あなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・37)と言いました。精誠を尽くしたら、天から強力な垂直の力が垂直に下りてくるのです。そうして体を約三年間、引っ張り回しながら習慣化させなければなりません。そのようにするためのものが宗教生活です。(二〇〇-一五一、一九九〇・二・二四)
「絶えず祈りなさい」(テサロニケ一五・17)と言いました。悪魔は二十四時間皆さんを通じて活動することができます。しかし、神様は縦的なところにだけおられます。人間の心は縦的なのです。神様は縦的な場にだけおられるので、人間の心を通じることなくしては活動することができません。サタンは三六〇度どこでも活動することができるので、人間の体は打ち勝つことができないのです。
人間の心は垂直的なものであって一つです。垂直的なものは一つです。二つはありません。平面上の一点から、垂直的なものが二つありえますか? 一つしかありえません。その垂直的な場で祈祷すれば、心に力を受けて、体をコントロールすることができます。そのように三年ないし五年の間、習慣化させなければなりません。それが宗教の目的です。(二〇一-一五五、一九九〇・三・三〇)
私自身、心を中心として体をどのように治めるかという問題が重要です。皆さんは皆さん自身を信じることができますか? 信じることができません。どうして信じることができないのですか? 体が心よりも強いので、信じることができないのです。(二〇一-二九一、一九九〇・四・二九)
人間の心と体の勢力がほとんど同じで行ったり来たりするので、心が体をコントロールすることができるように心に力を補充することのできるもう一つの方法を神様は求められました。それは、「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、あなたの神を愛せよ」と言われたことです。そのようにして心の力を受けなさいと教えられました。(五四-二八、一九七二・三・九)
毎朝これを祈祷するとき、神様と自分の心をつなげなければなりません。それで、神様と対話するのです。そのように対話しながら何でも聞いてみると、すべて教えてくださるのです。方向感覚を失わないようにするには、東がどこなのかを知らなければなりません。精神を集中して祈祷すれば、すべて分かるようになるのです。ですから、「心田」、心の畑を開発しなければならないのです。心田開発、このような言葉が必要です。(二七五-四二、一九九五・一〇・三〇)
良心の命令に絶対的に服従することができなければなりません。そうすれば肉身の欲望は消えていきます。そのような生活が習慣化されなければなりません。それゆえ祈祷が嫌いで、断食が嫌いで、奉仕が嫌いでも、そのようにすることができる習慣性を付けなさいというのです。三年、五年以上そのようにしなければ、喜びを感じることができません。祈祷、断食、奉仕の味が分からないのです。(二五七-三〇九、一九九四・三・一六)
良心を神様のように絶対視して生きるならば、間違いなく天国に行きます。そうすれば宗教は必要ありません。祈祷も必要ありません。完全な解放です。皆さん、宗教が必要ですか? 統一教会も大変でしょう? 蕩減だ何だと言ってです。蕩減して何をするのでしょうか。良心を解放するのです。
そのように蕩減しながら、肉身を屈服させるのです。そのように肉身の屈服が習慣化されなければなりません。そのようにならなければ心が休まりません。そのような習慣性を付けて良心の屈服する肉身とならなければなりません。そのような習慣性を付けるための生活が宗教生活です。(二五七-一一六、一九九四・三・一三)
堕落が何かといえば、長成期の完成級で堕落的な愛の因縁を結んだことです。それで長成期の完成級にあった良心よりも、堕落的な愛の力が大きくなりました。その愛の力を日常生活でどのように克服するかということが問題です。それを解決するのが宗教の責任です。
ですから、宗教では体を打ちなさいというのです。犠牲になりなさいというのです。断食しなさいというのです。そのようなことを体が好みますか、嫌いますか? 死んでも嫌だというのです。「徹夜祈祷しなさい1情欲を断ち切りなさい。独身生活をしなさい!」ということにすべて反対なのです。
三年ないし五年間、良心を絶対的な立場に立たせておいて、体を屈服させる習慣を付けなければなりません。そうすれば祈祷するのが面白くなります。聖書を読みながら良心の世界を求めるのが面白いというのが習慣化されなければなりません。そのように習慣化されていますか? (二五三-二一、一九九四・一・二三)
祈祷するとき、心の姿勢を正さなければなりません。どの方向に祈祷すべきかを知って、祈祷しなければなりません。山にもひなたがあり、日陰があり、半ばひなた、半ば日陰があります。そのような場所よって方向が変わるのです。自分の心がどこを好むのかを知らなければなりません。その心が主体です。「ああ、あそこだ! あそこに行かなければ!」という気持ちに従って祈祷すると、祈祷もうまくいき、試練も受けないのです。
濁った水をさあっと静めたら澄んだ水が浮かぶでしょう? 澄んだ水は軽いので上に浮くのです。人の心がそのようになれば、その日にいかなることがあるだろうということが分かるのです。そのように心を開発しなければならないのです。最初は分からずにしゃにむに祈祷するのです。それではどれほど大変でしょうか。こうして「神様、どこにいる?」と言えば、腹の中から「ここにいる、こいつ!」と言われるのです。(二五二-九四、一九九三・一一・一四)
二 縦的な立場に立って祈祷しなさい
皆さんは一生の間に供え物的な祈祷の時間があるということを知らなければなりません。そのときは神様が訪ねてこられる時です。恵みが下りる時です。皆さんが祈祷してみれば分かるでしょう。不思議で霊妙な体験をするようになれば直ちに知るのです。
そのような祈祷の方向は、人によって変わります。朝、昼、夕方だけではなく、春夏秋冬の季節と各自の素質によって、祈祷と精誠の方向が異なります。時間も異なります。朝に祈祷をしてこそ恵みを受ける人がいるかと思えば、ある人は昼に、ある人は午後に、ある人は早朝に祈祷してこそ恵みを受けるのです。そのように異なるのです。その人の素質によって異なるのです。(四八-八八、一九七一・九・五)
すべてのものは、垂直に下りてくるものに対して水平にならなければなりません。その水平は垂直と九〇度になります。七五度になれば、どちらかに傾くようになります。しかし、垂直は変わりません。ですから、水平が垂直と九〇度になることができるように合わせなければなりません。それ以外には方法がありません。同様に、神様の愛も垂直であるために、人間がその愛とつながるためには、人間自ら角度を合わせる以外には方法がないのです。
そうならなければ、「ああ、私の望みをかなえてくださいませ!」といくら祈祷しても、神様は動かれません。完成の路程は、垂直を通してつながるところにあるとお考えになる神様に対して、一五度や七五度の角度では、いくら叫んだとしても、相対してくださることのできない神様の立場であることを知らなければなりません。(二〇五-四九、一九九〇・七・七)
宇宙の根本が何かという問題をもっていくら祈祷しても、神様は教えてくださらないのです。だれにでも教えてあげられない内容であるということを知らなければなりません。それは不思議でしょう? 神様が教えてくだされば、天下が一日にして統一されるでしょうに。
それは人間が罪を犯したので、その罪を清算しなければなりません。人間が未知の立場に落ちたので、その未知の立場を克服しなければならないのです。それは、病気が治った人でなくては、病院から退院することができないのと同じなのです。そのような人でなければ、神様は何も教えてくださることはできません。(一九八-一〇四、一九九〇・一・二五)
先生も修行する過程でいちばん悩んだのがそれです。サッと祈祷してこの角度が合いそうになると、ずれるというのです。電波で言えば、周波数を合わせるときのように、ういーんといって響くのです。そうして、これが合うときにぐるっと過ぎていくのです。これをどのように合わせるかというのが問題です。知ってみると、体の角度が違っていたのです。九〇度になるべきなのに、七〇度や六〇度になっているので、一つになることができなかったのです。(一九七-一七六、一九九〇・一・一三)
皆さんが祈祷するとき、神様が答えますか? いくら祈祷しても、「神様、私は死にます」と言ってもお答えになりません。しかし、自分が天地を代表した者として神様と九〇度を合わせて相対的な立場に立つようになれば、自動的に答えが出てきます。(一七八-五九、一九八八・六・一)
夜、祈りを終えてから寝ても、朝起きれば申し訳なさを感じなければなりません。そのように祈祷して祈祷しても申し訳ないという気持ちをもたなければなりません。そのような気持ちが先んじなければなりません。いくら「もう少し休もう、楽に暮らそう」と言いながら、良くなることを願ったとしても良くなることはありえません。(三〇一-一八五、一九九九・四・二六)
一体、神様はどこにおられるのでしょうか。神様がお住まいになる所はどこでしょうか。神様は愛に定着なさいます。もし男性、女性の二人がいるなら、彼らのための神様はどこにおられるでしょうか。神様は変わらない愛の底辺におられるのです。それはどういう意味ですか? 男性と女性が一つになれば、神様が中心になられるのです。(二二四-一四八、一九九一・一一・二四)
皆さんは祈祷するとき「ああ、天の宝座におられる天のお父様…」と言うでしょう? それは違います。間違っているというのです。人間の良心におられるのです。先生があきれ返ったことは何だったでしょうか。神様は、霊界がどうであり、愛の根本問題が間違っていることをすべて教えてくださったというのです。知ってみると、すべて神様が教えてくださったというのです。ところが、堕落のためにすべて乞食になったのです。(二五二-三一五、一九九四・一・五)
皆さんの心は縦的で、皆さんの体は横的です。それで、縦的な立場に立って祈祷をしなければならないのです。そうすれば、心に力を得るようになります。そのように心が力を得れば、体を主管するのに何の問題もなくなります。(二〇三-八〇、一九九〇・六・一四)
心はいつでも縦的な場に入ろうとします。そこですべてのものをさらけ出して祈祷するのです。サタン側に属するすべてのものをさらけ出すのです。地を掘って自分の体を埋葬するのと同じです。完全にここで体がゼロの状態に落ちるのです。そこから心が体をコントロールすることができます。縦的な立場で神様と一つになることによって、心が大きくなり、体をコントロールするので、何の問題もなくなるのです。
そうでなければ体を容赦なく打たなければなりません。それで宗教世界において、犠牲になりなさいと言い、断食しなさいと言うのです。そのようにでもしてこそ、体の側がどんどん下りていって、本然の心の側でコントロールするにあたって問題がなくなるのです。(二〇五-一八〇、一九九〇・九・一)
神様は垂直に通じるので、縦的な場に入って祈祷しなければなりません。ほのかで聖なる所がそのような場です。(二一一-二五〇、一九九〇・一二・三〇)
「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ二二・37)とありますが、それは縦的な愛です。それが第一の戒めなのです。二つ目は何でしょうか。「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ二二・39)というのです。
どのような人に、隣人をそのように愛しなさいというのですか? 第一の戒めを守る人に、隣人もそのように愛しなさいというのです。この二つの戒めは、縦横になっています。ですから、すべてその縦横の戒めに拍子を合わせ、生涯路程を通過しなければなりません。
ところで、祈祷が必要だというのはどういう意味でしょうか。だれでも横的なことに時間をたくさん消耗すれば、縦的な概念が弱くなるのです。それゆえに、そのように分けておかなければならないのです。これを明確にしておかなければなりません。それで、縦的な基準がいつも横的な基準に影響を及ぼすようにしなければならないのです。(一八五-一六一、一九八九・一・一七)
今日の世の中の監獄生活よりも恐ろしいものが堕落圏内に包囲されているという事実です。この堕落世界を抜け出すということが、どれほど途方もないことであるかを知らなければなりません。世の中の監獄には刑量がありますが、サタン世界には刑量もありません。血統的な根から汚されたのです。
この根をいかに変えるのですか? それが問題です。女性たちの産みの苦しみより数百倍大変な道を歩んでいかなければならないのです。それゆえ、イエス様も休まずに祈祷しなさいと言われました。人間の背後に途方もない包囲網が広がっているので、休まないで祈祷しなければならないのです。(二一三-九九、一九九一・一・一六)
三 祈祷の公式
堕落した人間始祖の子孫である人間は、霊的にサタンが支配するのです。実体的にもカイン型である人間に主管されます。そのように両面にわたっているのです。神様に対してサタンが身動きできなくても、カイン型の人間は戦うことができるのです。サタンがいなくてもカイン型の人間か思いのままにすることができます。ですから、神様が選んだ人が残らなければ、神様も役事しうる方法がありません。今までそうだったでしょう? 神様も人間的な土台がなければ身動きできなかったでしょう?
しかし、世界がサタン世界なので、サタンはいつでも思いどおりにすることができます。それで、神様が愛する家庭が出てくれば、サタンは四方八方に飛び跳ねながら妨げることができます。ですから、神様は今まで不利な立場で作戦を立ててこられました。いつもサタンは両面作戦を立てることができますが、神様は一面作戦しか立てることができません。その一面作戦も、人間が「神様…!」と祈祷を捧げてこそ立てることができるのであって、そうでなければその作戦も立てることができないのです。(五五-二一四、一九七二・五・九)
皆さんが祈祷する場は天に属した所ではありません。それだけでなく、皆さん自身も神様が直接主管することのできる内容を備えている人々ではありません。このように直接主管圏外にいる人が祈祷するとき、神様がその祈祷に応答してくださるというのは、簡単な問題ではないのです。そのような立場にある私たちが祈祷するとき、神様はその祈祷を聞いて訪ねてくることはできないのです。
例えば、一つの国の大統領ならば、大統領が末端にいる民を訪ねていくには、様々な複雑な問題が持ち上がるのと同じです。それは霊的な世界においても同じです。皆さんは、至高至聖なる神様に祈祷を捧げますが、その祈祷を受けられる神様の立場と皆さんの立場の間には顕著な隔たりがあるというのです。(三二-一五六、一九七〇・七・一二)
皆さんが精誠の限りを尽くせば、神様の力が臨むようになるのです。例えば、カエルに電気が通じるように、その能力が入ってくるようになれば、その能力に支配されるのです。それゆえ、精誠を尽くす人たちの中で天と通じない人はいないという事実を知っています。それでイエス様も、休まずに祈祷しなさいと言いました。世の中と交わってはならないと言ったのです。(五三-一二四、一九七二・二・一三)
「神様…!」と言うとき、習慣的に呼ぶ神様になってはならないのです。何億万年が流れても、広大無辺なる大宇宙の法度と秩序が少しも違わないように操縦し、管理なさる神様です。そのような神様とつながれば、自分からでも偉大な力が爆発しうるのです。そのような信念を抱かなければなりません。いっぺんにそのすべての能力を受けることができなくても、祈祷するたびにその能力が少しずつ自分に臨むという事実を知らなければならないのです。(一二一-一九一、一九八二・一〇・二七)
皆さんが宗教生活をしてみると、本当に神様がおられることが分かるときがあるでしょう。例えば、ラジオの周波数を合わせるとき、雑音が聞こえます。そのように雑音が聞こえてからダイヤルが合えば、はっきりした音が聞こえるのです。ぴったりとチャンネルが合うようになれば、放送局から送る音が少しも消耗しないでそのままはっきりと聞こえるようになります。その味を知った人がいるならば、神様に一日だけついて行くでしょうか。一年だけついて行くでしょうか。老いて死ぬまで従っていきたがるでしょう。それが人間の心です。(四二-二三、一九七一・二・一九)
祈祷するとき、あるときは無限に恵み深いときがあります。すなわち、引き続き祈祷をしても、引き続き恵み深いときがあります。信仰生活をしていくと、間違いなくそのようなときがあります。なぜそうなのでしょうか。
一日の中で朝があり、昼があり、夕方があり、夜があり、一年に春夏秋冬があるのと同じように、私たちの心もそのようになっているからです。朝は春と同じであり、昼は夏と同じであり、夕方は秋と同じであり、夜は冬と同じです。
また、人もすべて違います。春の季節に該当する人がいるかと思えば、冬の季節に該当する人もいます。冬の季節に該当する人が夏の季節のような相対的な基準と出会えば、恵みが訪れるのです。冬の季節に該当する人が冬の季節のような相対的な基準と出会うようになれば雪が溶けません。恵みを受けることができないのです。
人ごとにその素性が異なります。東西南北の方向により、似合うタイプがあるのです。したがって、祈祷するとき、恵みを受ける時間も違うのです。だれでも夜や早朝にだけ祈祷して恵みを受けるのではありません。ある人は朝に、ある人は午前中に、ある人は午後に祈祷してこそ恵みを受けます。そのように恵みを受ける時間が違います。また、季節によっても変わるのです。
なぜそうでしょうか。それは宇宙の存在が回りながら存在するからです。ですから、方向が変わるのです。そのように変わる方向に従って祈祷すればその祈祷の能力も変わるのです。個々人の祈祷する立場がすべて違うというのです。(二七-一〇〇、一九六九・一一・三〇)
祈祷をしてみると、時間によって感じが違います。早朝一時に祈祷する感じと、三時に祈祷する感じとは違います。それは皆さんが体験してみれば分かります。皆さんもそうではないですか? 朝感じるもの、真昼に感じるもの、夕方に感じるもの、夜に感じるものが違うでしょう? 四季の変化によって私たちが感じる肉体的な感情が違うのと同様に、心の世界もそうなのです。
ですから、祈祷をする場合にも、どのような時間にうまくできるのかを知らなければなりません。うまくいく時間、それは何かというと、神様と近いということです。そのように祈祷がうまくいく時間によって深く入っていくようになれば、扉に出会うようになるのです。それで神様の心の扉と人間の心の扉がぴったり合って開くようになれば、神様の心情を体恤することができるのです。(七六-一二七、一九七五・二・二)
各自が祈祷するのを聞いてみると、すべて自分の欲望でもって祈祷するではないですか。神様はそのような祈祷は聞きもしません。先生はそのような祈祷をしません。自分の息子、娘のために祈祷することもしないのです。世界がすべてみ旨の中に立つようになれば、息子、娘はその世界がよくしてくれるのです。祈祷する順序があるのです。
既成教会に行って祈祷するのをじっと聞いてみると、ああ…! 泥棒たちが集まって祈祷しています。祈祷をむやみにしてはいけません。神様に必要な祈祷をしなければなりません。神様の耳に入っていくことができるように祈祷しなければならないのです。(一四四-二六九、一九八六・四・二五)
祈祷するときは、心が好む祈祷をしなさい。そうしたら酔うのです。あるときは声を出して祈祷することのできる環境でなくても、心が声を出して祈祷するのを喜ぶようならば、声を出して祈祷するのです。あるときは、歌で祈祷するのを心が好むようならば、歌で祈祷をするのです。「かーみーさーま…♪」といって曲調に合わせて祈祷するのです。
そのように融通性が豊かでなければなりません。心が感動してこそ自分が感動するのです。心がすすり泣くときは、体も自然にすすり泣くというのです。これは重要な言葉です。心に仕えるということです。心を無限に高めなければなりません。そうすれば心が教えてくれます。「きょうは何かがある」というようにです。(一三三-一八五、一九八四・七・一〇)
心が清くあってこそ神様が臨在なさいます。心を最高に尊重してあげなければなりません。もどかしい心を抱いた人はどのような人でしょうか。自分の利益だけ考えれば、もどかしくなるのです。そうすれば、心がどれはどもどかしいでしょうか! 心は公的ですが、体がさかんにもどかしくなるので、心ももどかしくなるのです。自分だけを考えるのでもどかしいでしょう。心にいっぺんに不満が生じて、あらゆる考えが浮かんで、四方がすべてふさがってしまうのです。
心が好むときは、体が好んで歌を歌ってあげなければなりません。さらに公演のようなものをするときは、そのようなものが絶対に必要なのです。心が楽しくなれば、環境が完全に回っていくというのです。説教や話をしてもそうなのです。説教のようなものは、題目に縛られたらできないのです。心が好むような話をすれば、必ずだれかが恵みを受けるのです。(一三三-一八六、一九八四・七・一〇)
太陽を見ても、万物を見ても、良心の呵責を受けないで堂々としていられれば、太陽と通じ万物と通じるのです。すべて友になるのです。そのような人も、サタン世界、暗黒世界に陥る場合があります。神様と直結することのできる自分白身を発見してこそ、初めて安心することができます。そのようになることができれば、祈祷などは必要ありません。そうすれば神様が教えてくださるのではなく、良心がすべて教えてくれるのです。ですから、良心は神様に百パーセント代わることができるのです。(二五七-三一一、一九九四・三・一六)
祈祷生活は良いですか、悪いですか? 未完成な人は、あの世に行っても祈祷しなければなりません。千年万年祈祷しなければならないのです。今まで堕落世界を中心として生きて霊界に行ったすべての人々は、祈祷する時間が決まっています。それは自分の修練、自分の錬磨のための祈祷です。例えば、ヘビが脱皮するのと同じです。すべて消しゴムで消さなければなりません。文字がすべて消えてこそ、紙がきれいになるでしょう? まさにそのようなものです。そのようなことを永遠にしなければならないということです。(二四二-三〇五、一九九三・一・二)
四 祈祷は神様と問答するようにしなさい
神様は、ほかの所におられるのではありません。私の心の中におられます。それゆえ、祈祷するとき、心と対話しなければなりません。神様がどこにおられるかといえば、心の根におられます。心を絶えず抜き取ってみれば、最後に出てくる良心的な根に神様がおられるというのです。それから愛の根、生命の根、血統の根におられるのです。そのように四位基台になっているのです。(二五四-一九八、一九九四・二・六)
神様は別の所におられません。祈祷するときは、自分と問答式でしなさい。「おい、おまえは今朝起きて話したことのうちで、あのように言ったのは誤ったな。こんなことを言ったときは体が喜び、あんなことを言ったときは体が嫌がったな」と分析して、体が嫌うことばかり行えばいいのです。そうすると、サタンはだんだん死んでいくのです。食べるご飯を与えず、息を吸うことができる空気がなくなるので、だんだん衰退していくのです。(二五二-二六一、一九九四・万一)
祈祷をするとき、どのようにすべきでしょうか。空や空中を見て祈祷するのではありません。自分の心を見て祈祷するのです。「私の心よ、大きくなれ! 神様の愛の代表者となり、身代わりとなり、相対者となれ!」と言って祈祷しなければなりません。(二七五-三二四、一九九六・一・一)
皆さんが祈祷するとき、愚かな祈祷をしてはなりません。皆さんの心を通して祈祷できる人にならなければなりません。皆さんが体を通して表す言葉や行動も、心の中心とつながるとき、神様やどんな人の前でも恥ずかしくなく、堂々としたものになるはずです。(二-五〇、一九五七・二・一七)
私たちは具体的な内容をもって祈祷しなければなりません。皆さんの心情、わびしさ、苦衷、そして願いを感じるとき、未来の摂理と縁を結ぶことができるのです。(四-二三三、一九五八・五・一一)
第三節 祈祷と応答
一 祈祷の応答を受けるには
祈祷するからといって、すべて成就するわけではありません。自分が一生を捧げて祈祷したとしても、その器がどれほど満ちているかによって、成就したり、成就しなかったりするのです。(二八〇-一一、一九九六・一〇・一三)
神様は、皆さんがいくら祈祷をしても、知っていることが知らないことにも及ばないときには教えてくれません。(一四-九〇、一九六四・六・一二)
皆さんが暮らしている村のために先祖たちが涙で訴えた祈祷が残っています。彼らは消えていきましたが、切迫した立場で神様にしがみついて訴えた祈祷は、神様の胸中に残っているという事実を記憶しなければなりません。(一七-二六九、一九六七・二・一五)
自分自身を中心として祈祷したら成就しません。神様が願われる目的であるその国とその義のために祈祷しなければなりません。神の国と神の義のために前進するようになるとき、神様が、「うん! しなさい! しなさい!」とおっしゃるのです。それで非難される場に訪ねて行くようになさいます。そうして神様は、「あれは一度ぶつかればどのようになるだろうか?」と言って見守っておられてから、それを自力で屈服させるようになれば、「ああ、良いなあ!」とおっしゃるのです。ところが、戦いもせずにおじけづいているのに、神様が助けてくださるでしょうか。まったく、そのようなことがどこにありますか。ですから、善意の問題を起こしなさいというのです。(一〇四-一〇七、一九七九・四・一五)
祈祷は必ず成就します。それが私個人のためのものではなく、神様の義とみ旨のためのものであるなら、必ず成就します。それが成就しなければ、人間はサタンを屈服させることができません。六千年間神様を泣かせてきたサタンを屈服させるために祈祷が必要なのです。(一〇四-一〇七、一九七九・四・一五)
私が祈祷するとき、神様と一つになり、神様の目的と神様の方向と一致し、そして神様の相対的な位置を確定するために祈祷すれば成就します。しかしながら、十年、二十年、一生の間、死ぬまで祈祷したのに成就しなくても心配するなというのです。必ず私たちの子孫が福を受け、統一教会が福を受けるでしょう。大きなことが成就するのを願うならば、それなりに待たなければなりません。(一〇八-八二、一九八〇・六・二二)
神様も祈祷されるのです。皆さんの両親も愛する子どもたちのために、心の底からつぶやいて、「こうしたら良いなあ」と言いますが、それが祈祷です。それはだれのためにするのですか。神様も人間のためにそのような祈祷をなさるのです。(一〇四-一〇九、一九七九・四・一)
十年後のために祈祷をすれば、十年間その祈祷を中心として実践していかなければなりません。そのような姿勢をもたなければなりません。そのような姿勢で祈祷すれば、必ず成就します。だからといって祈祷が早く成就するといって喜んではならず、遅く成就するからといって悲しんではならないというのです。待てば待つほどさらに大きな福を得て、さらに大きく成就するのです。(一〇四-一〇九、一九七九・四・一)
一度祈祷して三、四十年待つことができる切実な心をもたなければなりません。三、四十年過ぎても忘れてしまわない心で祈祷して待ってみなさい。そのような心で祈祷することは成就します。多くの祈祷は必要ありません。(七-九四、一九五四・七・一九)
祈祷することによって、今後の展望に対して教えを受けることができます。「あることはこのようにして、あることはあのようにするのだ」と教えてくれるのです。そのようになることができてこそ、皆さんは大きなことをすることができるのです。祈祷だけで前途を開拓することができるのです。祈祷がご飯を食べることよりも重要であるということを知らなければなりません。(一〇四-一一一、一九七九・四・一五)
聖書で、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ一八・20)と言いましたが、なぜ万人でいる所には共におられないのですか? 男性が祈祷するのを聞いてみると、自分の思いを果たそうとする祈祷をするのであって、女性の思いを果たそうとする祈祷はしないのです。しかしながら、一人の男性でも、「神様、私よりも、あの女性を祝福してください!」と祈祷すれば、神様は即刻共におられ、成し遂げてくださるのです。(一一八-二二、一九八二・四・二六)
西洋の女性たちも男の子、東洋の女性たちも男の子を生みたがります。そのようにすべて男の子ばかり生めばどのようになりますか? 女性たちのおなかが膨れると、「神様、私に息子を生ませてくださいませ!」と言って祈祷するでしょうが、神様がその祈祷を聞いてあげたら、世の中はどのようになりますか? すべての女性たちが、男性だけ生めるようにしてあげたら、どのようになるかというのです。ですから、そのような祈祷はいくらしても、神様は聞き入れてくださらないのです。神様は、そのような祈祷を聞き入れてはならないのです。そのように考えるとき、そのような祈祷はする必要もないと考える人が賢いのです。(一一七-一九、一九八二・一・三〇)
お嬢さんたち、少し不細工でも金持ちの家の息子ならばどうですか? お嫁に行きますか? そのようにお嫁に行くのは、お金を見て行くのであって、男性を見て行くのではないのです。同様に、皆が神様を求めるのを見ても、神様のために求めるのではありません。神様の祝福、神様の福を奪うために泥棒根性で祈っているのです。そのような祈祷は、いくらしても聞いてくださいません。そのような祈祷では通じないのです。(一二一-八五、一九八二・一〇・二四)
忠臣が死につつ、「神よ、私が死ぬことによって、わが大韓民国をアジアと世界を連結し、天の福を受けることができる国にしてくださいませ」と言うとき、その祈祷は直ちに伝わるのです。大韓民国に怨讐がどれほど多いかというのです。自分が血を流したとしても、「すべて分からなくてそうしたのですから、分かるまでは災いを下さないでください!」と言って祈祷すれば、神様は、そのように死んだ忠臣が大韓民国で死んでも、世界を歩んで死んだと思われるのです。世界を歩んで犠牲になったと称賛なさるのです。(一三〇-三〇〇、一九八四・二・一三)
自分が困難なとき祈祷して、「お父様、明日お金をちょっと使わなければなりません」、「おお、そうか。やろう!」そのように利用する自信がありますか? 先生はそのようなことをたくさんしています。今も大きなことをするのに、先生はお金が一銭もありません。むやみに、だれかがお金を持ってきてくれるのも嫌です。それでも祈祷はしません。うんうん、うなっているのです。すると立体的な世界を通して、思いがけない人が支えてくれます。「おまえのタンスの中に何かあるだろう? 今先生にお金がいくら必要だから、おまえがそれを処分して先生に持っていってさしあげなさい!」という夢のお告げを受けるのです。神様の命令なので、しないでしょうか。(一五三-二九八、一九六四・三・二六)
神様を求める道は、どれほど大変でしょうか。神様を求めることも大変ですが、神様を求めて出会い、神様の愛をすっかり自分の愛として受けるのは、どれほど難しいことでしょうか? ところが既成教会の信徒は、「愛する神様、娘が来ました。福をお与えくださらなければなりません。これを成し遂げてくださらなければ、私は死にます」と言うのです。そのような祈祷は、百回死んでも神様は聞き入れてくれません。そのように祈祷する人々の宗教は滅びます。滅びるようになっています。神様とは関係ないかちです。(一四〇-三一、一九八六・二・一)
母が真心込めて作ってくれた綿入れのズボンを履いて、血の汗を流し、涙を流して祈祷して、ズボンから汗と涙を絞り出すというようなことがたくさんありました。腰が曲がり、骨が砕けるような、そのような環境でも耐えて、み旨のために、神様のみ旨を解怨成就してさしあげるために苦闘して祈祷するときは、神様が見舞って慰労してくださいました。(二一二-三九、一九九一・一・一)
聖人の祈祷は世界を感動させます。天国を泣かせることができ、すべての人間の心霊世界を引き込むのです。そのようになれば、どの国に天の愛する人がいるかが分かるのです。(一八〇-二九六、一九八八・八・二二)
神様の前で「私が誤りましたのでお赦しくださいませ!」と祈祷したからといって、赦されうるものではありません。その祈祷がいくらよく通じたとしても、しばらくの間蕩減期間を経なければ、赦されないということを知らなければなりません。(二四-一三二、一九六九・七・二〇)
祈祷して早く成就するからといって、喜んではなりません。私はそのようなことを願いません。祈祷が早く成就すれば、終わってしまうのです。聖人の祈祷は、あの彼岸の世界が戻ってくるまでは解決しないのです。そうすれば、その民族は滅びないのです。アブラハムでいえば、自分の子孫が天の星と地の砂のように栄えることを願いました。そのように千年万年を中心として祈祷したことのゆえに、イスラエルの民が滅びえなかったのです。(一八〇-三〇五、一九八八・八・二二)
今、先生は祈祷するときに千年後に実現することを祈祷しています。だれも考えることのできないことについて祈祷しています。その祈祷が成就するまで、統一教会は発展しなければなりません。イエス様がゲッセマネの園で祈祷するとき、再び来るときまでのことのために祈祷したので、再臨主が来るようになれば終わるのです。
神様の理想を中心として、統一教会は千年万年続かなければなりません。万世の子孫のための根として残らなければならないのです。そのようになりうる動機が必要です。何でも動機がなければ過程もありえず、過程がなければ結果もありえません。(一八〇-三○五、一九八八・八・二二)
千年、万年後のために祈祷しなければなりません。いつまでこの立場にいるでしょうか。いつまで統一教会はこうしているでしょうか。困難であるほど未来のために祈祷しなさい。先生は、獄中に入っていくときは、すでに世の中から排斥され、隔離されたのです。そのようなときに、千年万年の後代のために祈祷したのです。統一教会の文先生がそのように祈祷したことは、永遠の立て札として残るようになるでしょう。その立て札を取り除くためには、すべての霊界が協助した基盤がなければいけません。その基盤がなければ、それを取り除くことはできません。だれでも、そうなることができてこそ愛国者、聖人の境地に至ることができるのです。そのような道は天国の王子王女たちが行く道です。(二一〇-二九一、一九九〇・一二・二五)
二 深刻な立場で祈祷しなさい
人にとって最も深刻な時間は、ご飯を食べるときと眠るときです。おなかがすいてご飯を食べるときと眠くなって眠ろうとするときは、すべての神経がそこに集中するからです。その反面、目覚めるときはすべての神経が解かれた状態なので深刻ではないのです。したがって、一日の生活の中で、三度の食事の時と眠る時がいちばん深刻な時間です。それほどまでに深刻な立場で、み旨のために祈祷しなさいというのです。そのようなときに一度祈祷することは、普通のときに数回祈祷するよりましなのです。(四二-一六四、一九七一・三・四)
だれでも結婚相手を決定するというのは深刻な問題です。統一教会員は、先生がしてあげるのでそうではないですが、それを皆さんが決定すると考えてみなさい。深刻な問題なのです。そのように深刻でなければなりません。それ以上に深刻でなければならないのです。それ以上に深刻な立場で祈祷することは成就します。
また、自分の父母が亡くなろうという瞬間は、どれほど深刻かというのです。それ以上に深刻でなければならないのです。ですから、夜を明かしてでも、うとうととすることのできない立場で祈祷しなければなりません。そのような祈祷は、必ず成就します。神様が役事してくださるというのです。(一〇四-一〇七、一九七九・四・一五)
今からでも、皆さんが涙を流し、骨髄が溶け出すような深刻な境地に入って、一対一の決着をつけなさい。自分が涙ぐむとき、神様が涙ぐまれ、神様が涙ぐまれるとき、自分が涙ぐむ境地に入らなければなりません。そのように神様と授け受けすることのできる境地に入らなければならないのです。何でもそのような境地でやっていかなければなりません。そうするためには、祈祷をしなければなりません。根がなければならないのです。その根が祈祷です。(三一-二九〇、一九七〇・六・四)
祈祷するときは温と血の汗を流さなければなりません。その祈祷は根と同じであり、その涙と血の汗は咲く花と同じだというのです。イエス様もゲッセマネの園で血の汗を流しながら祈祷されたでしょう。そのような深い祈祷をしなければなりません。十分祈祷ではないのです。一時間、二時間、十時間、二十四時間を祈祷しなければならないのです。(一〇四-一一〇、一九七九・四・一五)
祈祷をすれば、自分の意識を失うほどの境地に入っていくことができなければなりません。心情世界に接するときは、涙がなくてはならないのです。(一四-一五九、一九六四・九)
祈祷をどのようにすべきですか? 自分の生涯において、切実で重要な問題について祈祷するためには、永遠にサタンと関係のない立場で祈祷しなければならないという事実を知らなければなりません。ある人は「どんなに祈祷してみても答えがなかった」と言いますが、そのような人々に祈祷の答えがありえるでしょうか。サタン側で祈祷するのにです。神様がそのような祈祷を聞かれるでしょうか。いいかげんに、こうでもよく、ああでもいいという立場で、そのような祈祷を聞かれるでしょうか。何でも一つのこととしてはっきりとしていなければならないのです。(一二三-八○、一九八二・一二・一二)
三 祈祷は天理と通じてこそ応答を受ける
このような道をずっとたどってくるときにあったことを考えるようになれば、いくらおなかがすくようなことがあっても耐えることができます。そうすれば、ほかのことを考える余地がないのです。今日、天のみ旨が世界的な基盤を備えることができるようになったことを考えるとき、自分自身の忠誠の足りなさに反比例して、み旨の成果が大きいことを感じるとき、感謝の祈祷を捧げたいのです。(一五三-一三六、一九六三・一一・一五)
このごろ面白いことが何かというと、霊界から協助することが起こっているということです。そのようなことが起こらなければなりません。皆さんは、仕事をするとき、一人ですると思うでしょう? 神様を中心として「あなたとともにこの仕事をします」と言わなければならないのにです。「あなたは私の主体です」という信念が皆さんにありますか? いつも自分万人でいると思うのです、一人。何か難しいことがあると、「ああ、これは難しい!」と言いますが、自分一人だけが難しいのですか? 神様も難しいと思わなければなりません。
なぜ神様は大変な仕事を助けてくださることができないのでしょうか。条件があるからです。相対的な条件があるためにそうなのです。ですから、神様の助けを受けようとするには、「夜も昼も、どこに行っても私はあなたの相対です!」と言うことができなければなりません。そうすればいいのです。そうすれば、むち打たれても骨が打たれるのではなく、肉が打たれるのです。そのように考えなければなりません。「あなたより私がもっと苦労すべきでしょう!」と言いながら、眠りもしないで努力すれば、助けてくれと言わなくても神様が助けてくださるのです。(六六-二一二、一九七三・五・七)
皆さんが祈祷するのを聞いてみると、皆、何かを下さいという祈祷をします。そのように、くれというのは、自分が必要とするのであって、神様が必要となさるものではありません。(二〇-五二、一九六八・四・一八)
統一教会では、どのように祈祷をしなければならないでしょうか。自分のための祈祷をしてはいけないのです。自分の息子、娘のために真心を込めることより、神様のために祈祷しなければなりません。「私はあなたのために痛哭し、あなたが心配なさる人類のために痛哭します」と言うときは、動機が違い、内容も違います。神様は、悲惨な立場で死ぬのだと大騒ぎしても、そのように祈祷する場に訪ねてきて、「そうか、そうか! おまえには希望がある」と言って行かれるのです。(一〇八-三二一、一九八〇・一〇・一九)
先生は、「神様、私をお助けくださいませ」という祈祷をしませんでした。私の行く道は、私の力で開拓しました。神様に、「あの人々を何とかしてくださいませ!」とは言いませんでした。それは私の出る幕ではありません。何か問題が生じても、絶対に先生はその問題について祈祷しないのです。私が神様に助けてもらおうという祈祷はしないのです。神様の助けを受ければ、忠臣になれず、孝行者にもなれません。神様を助けてさしあげるとき、忠臣と孝子として残ることができるのです。
このごろ、法廷に行って争っていますが、「神様、私をお助けくださいませ!」と祈祷することはできません。統一教会の人々は、第三者のことで祈祷をすることができますが、自分自身のための祈祷をすることはできません。ですから、統一教会員はかわいそうです。いくら苦労する人々がいるとしても、その人たちよりかわいそうなのです。それはなぜでしょうか。そのようにより高い次元の絆を結ぶようになることによって、忠と孝の標本となりうるからです。(一〇八-三二一、一九八〇・一〇・一九)
祈祷をするときは、神様を説得しなければなりません。ですから、神様がその祈祷に耳を傾けるようにしなければなりません。そのためには神様が耳を傾けることができる材料をもたなけれぱなりません。(二〇-五〇、一九六八・四・一八)
何か気分の悪いことがあったからと、「ああ、私は悔しくてたまらない!」と言いながら自分の感情を神様に訴えるそのような祈祷はしてはならないのです。これを克服して、み旨のために死ぬという立場にまで進まなければなりません。いつでもそのようにできると考えてこそ、み旨の前に立つことができるのです。その条件に引っかかる人は欲張りな人です。そのように欲張りな人は、目の前にあるものはすべて自分のものだと考えるので、条件に引っかかるようになるのです。(一七-二八八、一九六七・二・一五)
皆さんが恵みを受けて霊界に接してみると、祈祷の題目が自然に出てきます。自分が祈祷したものの統計を出してみると、祈祷の方法と内容が発展していくことが分かります。堕落したアダムとエバの子孫である人間たちがいちばん最初に祈祷するとき、世界的な問題について祈祷しようとすれば、どんとひっくり返ってしまいます。ですから、最初はいちばん近い人、すなわち父母と愛する息子、娘と夫を救ってくださいと祈祷しなければなりません。
その時期が過ぎて発展するようになれば、祈祷の内容が変わります。神様のみ旨を知る人は、何のために祈祷するのでしょうか。自分の家族のために祈祷せず、世界のために祈祷します。そして、自分か置かれている立場と神様が願われる立場がどのような立場であるかを知って、神様が願われるその立場で蕩減路程を開拓しようと言うのです。そのような人が賢い人です。(一六-三○三、一九六六・七・三一)
祈祷するときに善霊と悪霊をどのように区別するのでしょうか。祈祷する人の心が、光を反射する純粋な反射鏡のようにならなければなりません。善悪を区別すべき立場であるときは、絶対に自分自身の欲望を考えてはいけません。何もないゼロの立場に入っていかなければならないのです。それで、「私は真から生まれて、真で生き、真で動くのだ」と言うことができなければなりません。そのような境地に入るようになれば、善悪がいっぺんに分かります。(三六-一一二、一九七〇・一一・二二)
皆さんが信仰生活で注意すべきことは、現実的な問題を中心として善悪を見分けなければならないということです。朝ぱっと出かけるときには、祈祷を長くする必要はありません。「お父様、きのうよりきょう、もっと善良でありうる道を行かなければなりません。ですから、そこに障害物があれば、その障害物を克服することのできる忍耐力を下さいませ! その障害物の前で挫折せず、神様の威信と権威を立てることのできる息子となれるようにしてくださいませ! きょう、そのようにしうる道を行きます。恥じることなく歩みます。ありがとうございます」と言えばいいのです。立て板に水のように何時間も祈ってどうしますか? 行わず、実績のない祈祷は全く無駄なのです。皆さんは、それを知って、すべてをよくわきまえて行かなければなりません。(四五-二六四、一九七一・七・四)
祈祷するとき、「神様は世界的なので、世界を愛されるので、神様の息子である私も世界を愛さなければならないでしょう?」と言ってこそ神様が喜ばれるのであって、「神様は私を愛されているのではないですか? 私を愛されるので、私の父、母、姉、兄、姻戚縁者、そして私の国だけを愛してください」と祈祷すればどうなるでしょうか。すべての人々が一様にそのような祈祷をすれば、神様がどれほど困るでしょうか。アメリカ、ソ連、日本、韓国など、すべての国の人々が自分の国だけのために祈祷するならば、神様の立場はどれほど大変なものとなるでしょうか。そうすれば神様が数百人はおられなければならなくなるでしょう。(二二-一三七、一九六九・二・二)
祈祷するとき、今当面している問題である南北統一のために祈祷する前に、天地の統一のために祈祷しなければなりません。東西文化の格差と南北の貧富の格差を中心として統一を追求した後に、南北を愛そうというのが天理と通じるのであって、世界は放棄し、天地は放棄して、南北だけを愛そうとすれば、そこで終わってしまうのです。(一八〇・九七、一九八八・八・七)
祈祷は、道理に合うようにしなければなりません。盲目的な祈祷は無駄です。盲目的な祈祷は、いくらしても通じないのです。道理に合った祈祷をしなければなりません。(八三-三〇二、一九七六・二・一五)
四 祈祷は信念をもって切に求めてこそ協助される
先生は、祈祷をするときは、世界のてっぺんと端をつかんで、地球星を回す戦いをします。そうすると五分以内に汗が出ます。それは、戦いの中で最高の戦いです。イエス様が十字架を前にして祈祷するとき、血の汗を流す祈祷をしましたが、それは戦いでした。最高の戦いだったのです。皆さんは、祈祷の必要性が分かりますか? 皆さんが祈祷して、効果がありましたか? そのような体験がなければならないのです。祈祷すれば、必ず成就するという信念をもたなければなひません。
祈祷しておいて、「神様が聞いてくださるだろうか?」と疑ってはなりません。皆さんが先生の指示したとおりに信じ、「これはできることだ」と言えばできるのです。百年が過ぎても上がるには上がるのであって、下ることはないと思えば、神様が助けてくださるのです。ところが、皆さんはそうですか? 何年か努力してみて、「ああ…!」と言うでしょう? そのように何年間か努力すれば成就しうるというみ旨を、神様が成就しようとなさるでしょうか? 何億万年変わらないという信念がなければいけません。神様は、そのような人を願われるのです。(六六-二一二、一九七三・五・七)
皆さんは信念を抱かなければなりません。どのような信念を抱くべきでしょうか。神様は自分の父であることに間違いはないという信念を抱かなければなりません。それで、その父が住む所に自分も住み、その父が好まれるものを自分も好み、その父が悲しめば自分も悲しまなければならず、その父が死の境地にあれば、自分もそのような立場にいなければなりません。そのように影のようについて回らなければなりません。
このような信念を抱いて「神様、ここに六千年の実を結びました」と祈ることができなければなりません。これからはそのような祈祷をしてください。「世界の万民の中で私しかいない。万世の真なる先祖が私から始まるので、子孫たちは手本とすべきである」と言うことができなければならないのです。(二六-三八、一九六九・一〇・一八)
私はみ旨のために生まれた、み旨のために生きる、それ以外には一切他のことを要求することはできないという心の姿勢をもたなければなりません。イエス様は、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・39)と言われたそのような祈祷で談判することのできる立場を常に私たちの生活圏内に備えていなければなりません。それで、「み旨を主管なさるお父様、み旨を中心として私に指示し、命令してくださいませ!」と言うことができなければなりません。そのような立場をどのようにして自分の生活圏内に備えることができるかという問題が、み旨を成就させなければならない立場にある私たちにおいて最も重要な問題ではないでしょうか。(二八-七二、一九七〇・一・四)
根が深い祈祷生活をたくさんしなさいというのです。み旨に徹する生活をしなさいというのです。神様が行かれる道と本部教会の行く道に、自分がどれほど呼吸を合わせて生きるかということを常に考えなければなりません。そうするには本部の便りが気がかりで、直接訪ねていくことができなければ手紙でも出して知りたがる気持ちがなければなりません。そのような気持ちを掲げて生きる家庭であれば、神様が共にあられないはずがありません。そうか、そうでないか、やってみなさいというのです。植物は、根もなしに植えておけば死んでしまうので、植えないよりも悪いのです。このような原則を知って、生活を再整備しなければなりません。(三一-一九二、一九七〇・六・四)
皆さんは神様が間違いなくおられるということを知らなければならず、必要なことが祈祷であるということを知らなければなりません。祈祷は習慣的にお経を読むようにするのではなく、判定を下して決着をつけるための祈祷なのです。自分の生命の脈拍が延長されうるか、されえないかを決定することのできる祈祷であるということを知らなければなりません。皆さんは、そのような談判祈祷をしてみたかということが、信仰生活において重要な問題です。(三一-三○六、一九七〇・六・七)
「私は使命を果たしうる自信がある者だ」という心の余裕をもって祈祷を捧げることができなければなりません。そのような立場で祈祷するときには、多くの祈祷が必要ありません。そのような立場に立った者がいるならば、「お父様…!」という一言ですべて通じるでしょう。説明が必要ありません。論理が必要ないというのです。(一-三二四、一九五六・一二・二百神様が六千年の歴史を摂理なさった理由は、歴史をご自身の懐に抱かれるためでした。地上だけでなく、霊界までもご自身の愛を中心として全体が一つになりうる一日を欽慕してこられた神様です。このような神様から恵みを受けようと願うならば、「お父様! 私をお呼びください!」と祈祷しなければなりません。(一-三四三、一九五六・一二・三〇)
神様の心情に自分自身の心情を縛り付け、「お父様! 私の血は先祖たちの血とは違います。神様を恨みながら倒れて死んだ者たちのような男ではありません。私に同情なさらず、民族と国家、そして世界の人類に同情してくださいませ! 霊界にいる霊人たちの恨を解いてあげることができるよう、助けてくださいませ! 私を前面に立てて、彼らの生きる道を開いてくださいませ!」と血を吐きながら、祈祷してきたのが先生の道でした。(二〇-一四一、一九六八・五・一)
だれでも罪人としては神様に侍ることができません。孝子、烈女、忠臣にならなければなりません。孝子というのは、父が嫌うことはそれ以上に嫌わなければならず、父が喜ぶことはそれ以上に喜ばなければなりません。イエス様が「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・39)と祈祷したのもこのためです。(二〇-一四四、一九六八・五・二六)
サタンより恐ろしいのが人であるということを知らなければなりません。神様は善の立場におられ、サタンは悪の立場にいますが、人間は二種類の立場を兼ねているのです。それで、神様を信じて立ち上がるときは善として現れ、サタンを中心として立ち上がるときは悪として現れます。
皆さんは自らの立場をどのように取るべきでしょうか。皆さんの日常生活でサタンの立場を取らないようにしなけれぱなりません。サタンの讒訴条件に引っかかってはいけません。絶え間ない祈祷と精誠を通して、鋭利な刃のような知恵により善悪を分別することのできる、そのような何かをもつことができなければなりません。(二-五二、一九五七・一二・一七)
五 祈祷は率直で純粋でなければならない
愛のない人は、人ではありません。兄弟の中にも情が豊かで他の兄弟の事情をよく聞いてあげる愛の豊かな人は、じっと座っていてもすべての兄弟たちの欠点がすべて分かります。他の兄弟たちが、兄はどうであり、姉はどうであるとすべて報告してくれるからです。
同じように、私たちも愛が豊かな神様の前に、この地上の罪という罪はすべてありのまま告げなければなりません。「神様、私はこのような罪を犯した罪人です。過ちを犯しました」と報告しなければならないのです。皆さんが祈祷するとき、「私のお父さんとお母さんは分かりませんが、神様は知ってください! 私は罪人です」とありのままに告げますか、告げませんか? (三三-三二七、一九七〇・八・二三)
嫁が毎日のように夜を徹して精誠を尽くしておかずをつくったのに、おいしくないというときには、舅は、三日ぐらいはご苦労だったと言いながら食べますが、その次からはご苦労だったという言葉が出てきますか? しかし、精誠を尽くさない嫁だとしても、ふらりとどこかに行って遅く帰ってきて、「お父さん、遅く帰ってきてすみません」と言いながら、簡単に食膳を準備して出したのに、百日の精誠を尽くした嫁よりも、「舅がこのようなものを好むはずだ」と考えながら、季節に合わせてこしらえて出すのならば、どうでしょうか。そのおかず一つに麦飯であっても食欲をそそるというのです。そのようなこともあるのです。
もちろん、精誠を尽くして自分に侍ってくれる嫁も良いのですが、自分の気分を損なわないようにしてくれる嫁をもっと好むというのです。それゆえ、気分を合わせることができなければなりません。あまりにもこびへつらうようなのも良くありませんが、舅の気分を損なわないように適当に取り入ることは必要だというのです。
神様も同じです。神様の前に問い詰めるような祈祷をすればどうですか。じっと霊的に感じてみると、あたかも重い岩が押さえつけるようです。しかし、「神様、よくなさいました。ただ、転がしてもよく、ひっくり返ってもよいです」と褒め称えるならば、神様も喜ばれるというのです。ですから、人の気分を良くするためには手段も必要なときがあります。もちろん、いつも率直であるべきですが、率直でありながらも時代の感覚に合い、環境に合うように調和の美を高めることができるならば、それこそ言うまでもないのです。(四五-二六〇、一九七万七・四)
皆さん、祈祷するときはそうです。「私はどこそこの責任者です」という祈祷は成立しないのです。子供のような立場で、自分白身はなく、天だけがあることを望む心をもたなければなりません。外的な世界の責任者は、命令するのが常です。指示することが常なのです。しかし、内的な世界の責任者はそうではありません。どれほど命令を受けることができるかということが問題になるのです。(七二-三一〇、一九七四・七・一四)
自分自身に対して率直にありのままを告げなければなりません。「私は本来このような人です」と率直に明らかにして、「私はこのように足りない人間ですが、あなたは善なる人なので、私のような人に同情して、行くべき道を模索することのできる方策があれば、教えてくださいませ!」と言わなければなりません。言い換えると、祈祷するような心で人に接するようになれば、自由な環境が展開されるようになるのです。ところが、そのまま踏ん張って立っているようになれば、環境を収拾することはできません。
ですから神様にも、「私はこれこれこのような人としてあなたと関係を結びたいです。ですから、同情を施してくださいませ!」と言おうとするならば、率直にありのままを告げなければなりません。そのようにするのが祈祷です。祈祷は私が行く方向が間違ったとき、正しい方向へ導いてくれるものです。(四五-二四六、一九七一・七・四)
神様は、前後、左右、上下に通じることのできる愛を所有しておられます。それで、自分を抱いてくださることのできる愛の神様であるという事実を知るようになるとき、祈祷もすることができ、蹟罪の悔い改めもすることができるのです。ぴたりと固定的な立場で、号令をかける神様に対することのできる人はいません。ですから、愛の神様と思って信仰生活をする人々は、低い位置でも神様の前に謝罪することのできる道があります。
いくら失敗を犯しても、「神様、私はこのように過ちを犯しました」と率直に祈祷しなさいというのです。「父の心、母の心、師の心、民の心がこうであるべきではないですか? このような心を神様の愛と連結させようと努力する私の心は変わらないでしょう。そのような心を哀れに思われて、きょう誤ったすべてのことを赦してくださいませ!」と言えば、神様は、「うん、うん」と言われるのです。ですから、祈祷する方法も知らなければなりません。(一四九-三七、一九八六・一一・一)
祈祷するときは、悔い改めなければなりません。率直でなければならないのです。「過去の私はこのような人でした。このような時もありましたし、このような時もありました」と悔い改めなければなりません。また、そのような罪人が祈祷することができることに対して、感謝の気持ちを抱かなければなりません。過去の過ちを考えるとき、神様の過酷な審判があったとしても、それをありがたく受けて、自分白身を神様の前に供え物として捧げようという心を抱かなければなりません。このような立場で神様の赦しを受けることができるということを知らなければなりません。
今まで生活していたそのままの姿ではいけません。純粋で、純潔になりうる作用がなければなりません。この作用を何によってなすのでしょうか。それが祈祷というものです。純粋な祈祷が必要です。自分自身の欲望を中心として祈祷する立場では、神様は絶対に動きません。(三六-一一〇、一九七〇・一一・二二)
皆さんが祈祷するときに、先生が霊的に、「君、どうしてこれをさらけ出さないのか?」と言いながら忠告する場合があるでしょう。すべての秘密を告白しなければなりません。その秘密は父母から始まったものではないのです。自分から始まったものです。
その秘密が国と世界を保護する内容であるならば良いのです。夫を永遠に愛するという内容を秘密としているならば、それは話さなくても良いのです。それ以外の秘密は、全部さらけ出さなければ、絶対的な中心軸とつながることができません。
その内容を良心はよく知っています。説明が必要ありません。さらけ出すべきことは、すべてさらけ出さなければならないのです。そのようにして祈祷するとき、神様がお赦しになれば解放されるのです。そうでなくて、死ぬまでそれを抱いていれば、霊界で引っかかるのです。そのようなことを知っているので、すべて告白しなさいというのです。(二五五-二三九、一九九四・三・一一)
第四節 どのような祈祷をしなければならないか
大部分の人々は、「私の思いをかなえてくださいませ!」と祈祷します。私たちはそのような祈祷をしてはなりません。かえって「私の思いよりも、神様のみ旨が成就するようにしてください!」と祈祷しなければなりません。天のみ旨が成就されれば、私の思いも成就するのです。それゆえに、「私の思いを成就させてください!」という祈祷をしてはなりません。私たちは、精誠を尽くして「アバ、父よ! 私を立てられたので、私をお呼びになったので、この私を通じて父のみ旨を成就してくださいませ!」と言わなければなりません。(一-一四六、一九五六・七・一)
皆さんは、「神様、私を通じてあなたの悲しみを解いてくださいませ!」と祈祷しながら、神様を慰労してさしあげ、イエス様を慰労すべき立場にありますが、今までそのような祈祷をすることができませんでした。皆さん自身だけのために祈祷したというのです。それゆえに、そのような自分だけの立場を越えるべき責任が皆さんに残っていることを知らなければなりません。(四-五四、一九五八・三・二)
皆さんが「ああ、私たちの息子、娘に万福を下さいませ!」と祈祷する前に、国と世界のために祈祷し、「お父様、私が死ぬときに代を継いで使命を果たすことができるようにしてください!」と祈祷しなければなりません。そのような祈祷は、神様も喜ばれます。(一〇一-二五〇、一九七八・一一・一)
皆さんが息子、娘のために祈祷する前に、今まで苦労した歴史的な先祖たちのために祈祷しなければなりません。自分自身が豊かに暮らすことを願う前に、この地上の人類が豊かに暮らすことを願う心を抱かなければならないのです。私が踊りを踊る前に、嘆息圏内にある万民を見つめて心配することができなければなりません。そして、喜ばしくても喜びの表情を浮かべることができず、楽しくても楽しい行動を取ることができなかったイエス様の心情に代わりうる心を、皆さんが抱かなければなりません。終末時代に置かれている今日、この地上にそのような人が現れて、神様とイエス様の悲しみを慰労してさしあげ、宇宙の悲しみをなだめてあげることができなければなりません。(四-一二四、一九五八・三・二三)
大部分の人々は、神様が血を流しても流さなくても、汗を流しても流さなくても、かわいそうな場におられてもおられなくても、自分だけを平安にしてくださいと祈祷します。先生は、そのような祈祷をしません。また、「お父様、この体が死ぬほどの罪を犯しました。私の罪を赦してください!」という祈祷もしないのです。
だれであっても「お父様、歴史的に人間たちが犯した罪を赦してくださいませ! 私もその罪人の万人であり、この民族の一員です。ですから、この民族の罪をまず赦してくださいませ!」と言って祈祷しなければなりません。それでこそ正しい祈祷です。ところが、何も知らないで、「神様は無限なる愛と言われたので、私の罪を赦してくださいませ! 神様が私の重荷を背負ってくださり、私は天国に送ってくださいませ!」と祈祷しています。それは本当に嘆かわしいことです。(九-一四八、一九六〇・五・一)
皆さんは、数千年間を一日のように耐えてこられた神様に侍るべき立場にあるので、皆さんの一身の苦痛を苦しいと考えてはいけません。苦しいという考えさえも捨てなければなりません。皆さんが祈祷するとき、皆さん自身を中心として祈祷してはなりません。「私にこのようなことは避けさせてくださいませ!」といった祈祷はしてはならないというのです。「私が受ける苦痛があなたのみ旨の前にふさわしい苦痛となるようにしてください!」と祈祷しなければなりません。私がある境遇に置かれるのは、神様のみ旨があるためであり、そのみ旨の成就のためであるという心を抱かなければなりません。(一一-九九、一九六一・二・一二)
皆さんの根本的な観念を抜いてしまわなければなりません。今まで神様を信じた人々が、神様を一度でも慰労してさしあげたでしょうか。何かを下さいとだけ言いました。そのような泥棒根性がどこにおるでしょうか。そのような祈祷は、いくらしても成し遂げられません。「あなたの願われることは何でしょうか」、このように祈祷しなければなりません。
ところが、堕落したアダムとエバの子孫である群れは、福を下さいとばかり言います。「あなたが願われることは何でしょうか? 私の一身が患難を経てあなたのみ旨が成就するならば、患難を経るようにしてくださり、私の体が裂かれてあなたのみ旨が成就するならば、裂かれるようにしてくださいませ! 福と栄光は、あなたがお受けになり、罰と苦痛は私に下さいませ!」という祈祷を捧げなければなりません。(一一-九九、一九六一・二・一二)
祈祷をしたとしても、堂々と「お父様、あなたが呼ばれていた息子、娘が参りました。あなたが会いたがっておられた息子、娘が参りました」と言うことのできる環境を設けておいて祈祷しなければなりません。(一一-一三二、一九六一・三・二六)
今後、皆さんが祈祷するとき、皆さん自身のために祈祷してはなりません。「神様、私が参りました。福をくださいませ。今の私の身の上がみすぼらしく、おなかがすいているので何とかしてください!」などというつまらない祈祷はしてはならないというのです。「神様の恨を解いてさしあげるために、この場に来ましたので、その方法を教えてくださいませ!」と言いながら祈祷しなければなりません。そのように祈祷すれば、聞いてくださらないでしょうか。皆さんが善なる行いをなすことのできる条件さえ提示すれば、無事通過するようになっています。(一四-二二、一九六四・四・一九)
最近、信仰する人々をじっと見てみると、「神様! 私の罪を赦してくださり、私たちの家庭の罪を赦してくださり、民族と世界の罪を赦してくださいませ!」と祈祷しますが、そのような祈祷は絶対に通じません。(一七-一六六、一九六六・一二・一八)
個人の目的のためとか、自分自身の息子、娘だけのために祈祷してはなりません。そのような祈祷は、いくらしても成し遂げられません。かえって、そのように祈祷をする人の息子、娘がごろつきになったりします。
それゆえ、自分自身のためとか、自分の家庭や息子、娘のために祈祷する精誠を、民族と世界の万民のために向けなさい。統一教会では、そのような内容をすべて知っているので、自分のために祈祷をしないのです。(一九-一四三、一九六八・一・一)
皆さんが十字架の苦難に遭うようになっても、お父様の愛を感じて、お父様の愛の圏内に皆さん自身がいることを感じるならば、祈祷することができないでしょう。先生は、そのようなことを感じてみました。肩に千トンにもなるかのような重荷が乗せられても、「お父様、これを軽くしてくださいませ!」と祈祷しませんでした。そのように祈祷してはならないのです。(一-三一八、一九五六・一二・二三)
父母の心情で兄弟を愛し、親戚を愛し、氏族を愛し、民族を愛し、世界を愛するという心で祈祷するようになれば、世界のための祈祷になります。(一八-一二七、一九六七・五・二八)
皆さんは、心霊が暗いときがあっても、皆さん自身を中心として、「お父様、私を哀れに思われて、私の暗闇を取り除いてくださいませ!」という祈祷をしてはいけません。かえって人のために奉仕しなさい。統一教会員の中で、最もかわいそうな人のために涙を流せば、暗かった心霊が明るくなります。このような方法を知らなければなりません。
結局、人のために生きる心です。神様が同調なさることができ、神様と同じ立場を取ることができる立場は、人のために生きる立場です。それゆえ、人のために生きなければならないのです。(四二-二六〇、一九七一・三・二一)
涙を流すにしても、つまらなく自分自身が救われるために涙を流してはなりません。そのような涙の祈祷はしなくてもよいのです。一生の間、自分白身のためには祈祷を一度もしないで、涙をひとしずくも流さなくても、人のために祈祷し、人のために涙を流していく人は、天国の中でもいちぱん上層の天国に行きます。
国に困難があるとき、その困難な問題を中心として祈祷するのは許されますが、統一教会ならば統一教会のような宗教団体の困難な問題を中心として祈祷するのは許されません。
それゆえ、統一教会の文先生は、そのような祈祷はしません。「神様、私を打つ怨讐たちの首を皆切ってくださいませ!」という祈祷はしません。「私を打つ怨讐もこの国に尽くすときは一人の民であり、一人の民族であり、一人の同族なので、そのときに彼を愛する心で愛さなければなりません!」と言うことができてこそ、真なる愛国者と見るのです。観点が違うというのです。(五一-一〇八、一九七一・一一・一八)
国家的な使命を考えるべきこの時において、「ああ、国がどうなっても私は知らない! 世界がどうなっても私は知らない! ただ、私が楽であればよい! 私の父と母の言うとおりにしなければならない!」と言えば、それで終わるのです。先生について来ることができません。
そのような人は、先生の心に記憶されようといくら祈祷しても、神様が聞いてくださらないのです。そのような祈祷をしてはなりません! 国家を越え、世界に尽くそうとする心で、「神様、私の力が足りませんので助けてくださいませ!」と言わなければなりません。(六四-八三、一九七二・一〇・二四)
皆さんが祈祷するとき、「ああ、私の息子、娘が良くなるようにしてくださいませ!」という祈祷はしてはならないというのです。「ああ、私の夫が良くなるようにしてください!」というつまらない祈祷はしてはならないのです。統一教会は、統一教会のために戦うのではなく、国のために戦うのです。他の宗教とは違うのです。今後、大韓民国が神の国となる日には、大韓民国のために戦うのではなく、世界のために戦わなければなりません。
そのように犠牲になる人は、自然と中心存在になります。家庭で犠牲になれば、その家庭の主人になります。夫が妻のために犠牲になれば、その妻は完全に夫に隷属されるのです。そのような道理を私たちは知らなければならないのです。そうすれば、神様の求める人々は、どのような人か大体分かるはずです。(六四-一一一、一九七二・一〇・二九)
世界を心配して神様のみ旨に沿って祈祷する教団があるならば、その教団は繁栄するものと見るのです。既成教会と私たちを比較するとどうですか? 既成教会の信者は祈祷するのにどれほど忙しいでしょうか。生活を中心として祈祷しなければならず、食べることのために祈祷しなければならず、商売のことについて祈祷しなければならず…。ああ、どれほど複雑でしょうか。
世界の中では、それらのことは何でもありません。葉のようなものです。時が来れば落ちてしまうのです。枝となり根となりうる祈祷をしなければなりません。ですから、特別に祈祷をしなくても、そのような考えを抱いて、一日に一回ずつ自分が神様と問答すれば、それが祈祷になりうるのです。(一六一-一四二、一九八七・一・一八)
統一教会員は、「地上天国を建設しよう、建設しよう! お父様、地上に天国を成就してくださいませ!」と言ってたくさん祈祷したでしょう? 神様の耳がどれほど痛かったか分からないのです。キリスト教徒の祈祷というのは、「神様! 私は、天国に行かなければなりません。ああ、天上天国よ!」と言うでしょう? 天上天国に行くと言う群れよりも、地上天国を建設しようという群れが多くいてこそ、天国が地上に移されるのです。(七四-二五七、一九七四・一二・三一)
だれであれ苦労を喜びで消化して越えていかなければなりません。そうしてこそ、サタンは侵犯することができません。先生はそれを知ったので、監獄で拷問されて血を流して死んでいく場でも、「神様、安心してくださいませ! 私は弱者ではなく、サタンのいかなる威圧にも勝利することのできる男です」と言って神様を慰労してさしあげたのです。そのようなことを知ったので、「神様、私を救ってくださいませ!」というようなつまらない祈祷はしませんでした。今も自分の努力により死の境地まで越えていこうと考えるのです。(九一-一七九、一九七二・二・六)
統一教会員が祈祷しながら、「神様! あなたの願いは、地上世界を建設することではないでしょうか。私は地上地獄にいるとしても、この体を張って成就します! 私の家庭と世界を犠牲にして、あなたの願いを成し遂げてさしあげます! そのように歩む道が堕落のどん底から抜け出すことのできる道であるという事実を知っています!」と言うとき、神様は「ほう、おまえの言うことは正しい!」と言われるのであり、「けしからん、そうではない!」と言われないのです。ですから、私は統一教会はすてきだと考えざるをえません。(一二七-二五〇、一九八三・五・一五)
皆さんは祈祷するとき、いつも原則的な祈祷をしなければなりません。神様に祈祷を捧げるときは、自分の所属を明らかにしなければなりません。どこの地区、どこの地域、どこの場所にいるだれだと明らかにしなければなりません。そうしてから自分を中心として横的に因縁付けられている食口たちのために祈祷しなければならないのです。「私には彼らのために果たすべき責任があります。しかし、私にはそのような責任を果たすことのできる力が不足していますので、力をくださいませ!」と言うならば、そのような祈祷は通じます。(一七-二七五、一九六七・二・一五)
私が七〇になった今まで、どれほど世界の人々が迫害したでしょうか! 私が死ぬようにと祈祷する牧師たちの祈祷の声を聞きました。本当に神様は冗談もうまいというのです。神様がすてきだというのです。「あの何々という牧師が、おまえが死ねと祈祷するのをちょっと聞いてみなさい!」と言いながら、聞かせてくださるのです。お尻を突き上げて「ああ、文総裁が死ななければ私が死にます!」と言うのです。それで、神様は「おまえのような者は死んでみよ!」と言われたのです。文総裁がいなかったならば、世界が滅びるのにです。自分が死んだからといって世界が死んだでしょうか。とんでもないというのです。そのように悪口を言われながらも生き残った理由は何でしょうか。手段方法が良いからではありません。だれが守ったゆえに生き残ったのでしょうか。神様がお守りくださったゆえに! 結論は簡単です。(一九九-二五七、一九九〇二・四)
既成教会で祈祷するのを聞いてみると、自分の息子、娘たちは皆、天国に行かせてあげて、他人の息子、娘たちは皆、僕の暮らしをしても良いというふうに祈祷をしています。そのような祈祷が通じると思いますか? 千年万年祈祷しても通じないのです。祈祷というものは、全体のためにするものです。統一教会の信徒は、絶対に自分自身のために祈祷し、精誠を尽くしてはいけません。世界と国をつかんで祈祷しなければなりません。(三九-二〇一、一九七一・一・一〇)
祈祷するとき、既成教会では「おお、神様! 私たちの教会の面倒を見てください!」と祈祷します。国を忘れてしまい、世界を忘れてしまい、天地を忘れてしまい、自分たちの教会のために祈祷するのです。そのような教会は、教会時代が過ぎ去れば、滅びるようになります。民族時代に教会のために祈祷すれば、神様が後退なさるようになるのです。(三四-二三九、一九七〇・九・一三)
既成教会の牧師たちは、「ああ、神様! この家を祝福してくださいませ!」と言いますが、私はそのような祈祷をすることはできません。祈祷する気持ちがあれば、「この国を祝福してくださいませ、この世界を祝福してくださいませ、この家庭は滅びるようにしても、世界を生かしてくださいませ!」と祈祷するのです。先生はそのように祈祷することはできますが、「お父様、国が滅びて世界が滅びても、息子、娘が良くなるようにしてください!」という祈祷はできないのです。(六二-四二、一九七二・九・一〇)
既成教会の牧師たちの中で「神様、私たち長老教会の面倒を見てください!」と祈祷するならば、その牧師は零点です。自分の息子、娘のために祈祷する牧師も零点です。皆さんのお父さんとお母さんが、「神様、私たちの息子、娘にたくさん福を下さり、人の息子、娘は犠牲にしてもかまいません」と祈祷してよいでしょうか。そのような祈祷は、いくらしても成し遂げられません。かなえられないというのです。(六三-一八七、一九七二・一〇・一四)
既成教会の教徒が祈祷するとき、「神様、私たちの息子、娘に千福を下さり、万福を下さいませ! 大韓民国でいちばんの金持ちになり、有名な判事、検事になり、大統領になるようにしてくださいませ!」と言いますが、そのような祈祷は千万回しても、神様は喜ばれません。だれであれ、世話してくださいと祈祷するのは、神様が聞いてくださいません。先生が研究して探ってみると、そのようになっていたというのです。(八五-一五、一九七六・三・二)
先生も同じです。私が祈祷するとき、「神様、私は困難で疲れて大変です」という祈祷は、一度もしたことかありません。私は、まだ休もうにも休むことができないのです。まだ、私が背負っている世界的な責任を完遂することができていないので、お父様の前で顔を上げることができない恥ずかしさを感じながら生きています。私の行くべき道は忙しいのです。私の行くべき道は忙しいです。
それゆえに、「神様が私を愛されるならば、早く万民を解放させうる道に私を追いやってくださいませ!」というのが先生の祈祷であり、「万民はどうでもよいので、私を楽にしてください!」という祈祷はしないのです。(八五-一三一、一九七六・三・二)
既成教会の信徒の祈祷を聞いてみると、すべてが何かを下さいという祈祷です。そのように借りを作るという祈祷は、いくらしても通じません。自分の息子、娘、妻、姻戚と自分たちの教会のための祈祷は、千年万年捧げても神様に通じません。
しかし、「神様、私を犠牲にして世界の借りを清算してください!」という祈祷は、神様が耳を傾けられます。「私を犠牲にして天宙の借りを清算してください! 私にそのような胆力と勇気を下さいませ!」と言えば、間違いなく与えてくださるのです。(八五-一三一、一九七六・三・二)
皆さんは、「ああ、神様! 私に反対する人々の首をねじって反対できないようにしてください!」という祈祷をしてはなりません。そのように祈祷するよりは、かわいそうな人々を救ってあげられるようにしてほしいと祈祷すべきでしょう。
皆さんは、福を祈ってあげなければならないのです、福。なぜそうすべきでしょうか。いつも、カインとアベルが一つになる場を占めるためにです。そのように一つになる場を占めれば、滅びることはありません。(八九-一一二、一九七六・三・二)
キリスト教徒が祈祷する一つの目標があるなら、それはほかでもありません。「私の息子、娘に福を下さいませ! 私の教会、私の牧師……」と、どうこうしてくださいというものですが、そのような祈祷はつまらないものです。そのような祈祷は、神様の耳にも入っていかない祈祷であるということを知らなければなりません。
自分の息子、娘、自分の教会、自分の民族を犠牲にしてでも世界を救うと言う人が、神様のみ旨にふさわしい人です。「世界がどうなっても、国がどうなっても、私だけがしっかりと信仰して天国に行こう!」という人々は皆、地獄に行くのです。(霊界に)行ってみなさい! 間違いなく、地獄に行くのです。(九〇-一四六、一九七六・一二・二五)
今日、キリスト教徒の数はとても多く、彼らは神様のために祈祷しますが、その祈祷は世の中が滅びるようにというものですか? 世の中が滅びるように祈祷する人は一人もいませんが、世の中は滅んでいきます。キリスト教ならばキリスト教で、「キリスト教が栄えてこそ神様のみ旨が成就します。キリスト教を栄えさせてくださいませ!」と言ってどれほどたくさん祈祷するでしょうか。しかし、キリスト教は滅んでいくのです。(一二三-八〇、一九八二・一二・一二)
最近、キリスト教が滅びるようになったのは、「神様、私たち長老教会を祝福してくださいませ! 主よ、メソジスト派に来てくださいませ!」と祈祷するからです。そのようなつまらない祈祷は通じません。そのような祈祷は通じないのです。
しかし、「神様、そこにいらしてください! イエス様、どこに行かれますか? あなたが願われる国を築いて、その国にお連れします!」という人がいるならば、神様は「ああ、そうしなさい! どうか、そうしなさい!」と言われるでしょうし、イエス様も、「どうか、そうしなさい」と言うでしょう。(九三-二〇、一九七七・五・八)
キリスト教が一つになった立場で、「神様、私たちキリスト教を通じて、あなたがいちばん頭を痛める宗教の統一問題を解決してくださいませ! 私たちにその問題を解決することのできる能力を下さいませ!」と言って祈祷すれば、天が、「おまえたちの祈祷は正しい!」と言うのであって、「こいつら、欲張りだ。そのような祈祷はだめだ」と言われるでしょうか。「おまえは長老教会を信じ、おまえはカトリックを信じて…。だから教派をもって私に祈祷しなければ!」と言われるでしょうか。違うのです。それゆえに、神様は教派の壁を崩すことのできる人が出てくるのを願われるのです。すべての教派を一つにすることのできる人が出てくるのを待っておられるのです。(九八-一一四、一九七八・五・七)
皆さん、今から万物復帰に向かうとき、「神様、きょうはよく売れるようにしてください!」と祈祷してはならないというのです! 「神様、きょう私は百ドルを稼ぎました。あなたのために私が精誠を尽くして捧げますので、歴史上のいかなる人が献金したものより貴くお受けくださいませ!」と祈祷すれば、神様は「うん! こいつは使える…」と言って喜ばれるというのです。(九三-二一、一九七七・五・八)
ただ、働くことはしないで福を下さいと祈祷する者たちは泥棒でしょう? そのような祈祷はする必要もないのです。仕事をして力が不足しているならば祈祷しなさいというのです! 私が過ごしてみると、そのようなことを神様は好まれるという事実が分かったのです。私が知っている神様はそうです。既成教会の信徒が知っている神様は、私が知っている神様と違うのです。彼らが知っている神様は、滅びる神様です。私が知っている神様は繁栄する神様です。(一〇一-二六〇、一九七八・一一・一)
神様に向かって怨讐に報いてくださいと祈祷する必要は絶対にありません。そのような祈祷を三度だけすれば、神様は「こいつ、おまえ白身が間違っている」と言われるのです。(一〇二-一四二、一九七八・一二・一〇)
今日、キリスト教の牧師たちが祈祷するのを聞いてみると、「私たちの教団がよくなるようにしてください。異端教会は滅びるようにしてください!」と言うのです。そのような祈祷をするのであり、「私のすべてのものを犠牲にして、私たちの教団を犠牲にして、神様の愛のために・:」という祈祷はしないのです。そのような祈祷を神様は聞きたがるのであり、「お金をください、福をください! この飛行機が落ちないように!」というような祈祷は聞きたくないでしょう? 神様がそのような祈祷を聞かれるとき、どれほどあきれかえるでしょうか。神様に耳があるならば、その耳を覆ってしまわれたことでしょう。先生ならば、ふさいでしまったことでしょう。ですから、どれほど神様はあきれるでしょうか。(一〇四-四七、一九七九・三・二八)
今日、キリスト教を信じる人々の中で、長老教を信じている人々が祈祷するとき、「神様、私たち長老教会だけを祝福してくださいませ!」と言いますが、そのような祈祷はいくらしても、神様は聞いてくださいません。「神様、大韓民国の中にある長老教会です。長老教会が愛する大韓民国に福を下さいませ!」と言って祈祷するとき、神様がその長老教会の信徒に向かって、「こいつ、それでも祈祷するすべは知っているな!」と言われるのです。
そして大韓民国の人々も、「神様Iアメリカより、いかなる国より大韓民国をもっと愛してくださいませ!」と言うとき、そのような祈祷は億千万回しても通じません。「神様、世界のために分断された大韓民国です。三十八度線は、共産世界と民主世界が対峙する境界です。それはサタンの一線であり、神様の一線です。この国は、全人類の運命を決定づけることのできる岐路に立つ国ですから、世界のために犠牲となりうるよう導いてくださいませ! 金氏ならば金氏の一族はもちろん、私たちの家はもちろん、私も犠牲となる覚悟ができています。共産世界の悲惨でかわいそうな者たちもあなたの子女でしょう。彼らを私の子女のように生かしてあげたいので、三十八度線を開いてくださいませ!」というときは、神様は「おい、こいつは祈祷するすべを知っているな!」と言われるのです。
そのように「彼らを私たち以上に豊かに暮らすようにしてあげます」と言うときは、神様は私たちの側に立たれるのです。私たちの側に来られるのです。私たちほどに豊かに暮らすようにしてあげると祈祷するときは、神様は様子を見られるのであり、私たちよりも多くの福を受けられるようにしてあげると祈祷するときは、神様は私たちの側に来て立たれるのです。そのように祈祷しなければなりません。(一三〇-二九八、一九八四・二・一二)
最近、キリスト教徒の中で長老教会の信徒たちが祈祷するのを聞いてみると、「私たち長老教会に福を下さいませ!」と言います。長老教会の神様ですか? 統一教会員は、そのように祈祷してはいけません。聖潔教会の信徒たちも、じっと見ると聖潔教会の群れのために祈祷しています。世界のすべての福を神様が雷を落として奪ってきてくださったらよいというのです。そのような祈祷は、いくらしてもかなえられません。神様の目には、長老教会の信徒も息子に見え、聖潔教会の信徒も神様の息子に見えるのです。(一五四-三〇、一九六四・三・二九)
現在のキリスト教を見ると、ご利益宗教です。「神様! 私に福を下さい、福を下さい!」と言うのです。教会に行って祈祷するのを聞いてみると、すべて滅びろというのです。長老教会で祈祷するのを聞いてみると、「統一教会も滅び、メソジスト派も滅び、聖潔教会も滅び、大韓民国も滅び、私たちの教会にだけ福を下さい!」と言いますが、そのような泥棒がどこにいるでしょうか。そのような祈祷は、いくらしても神様はお聞きになりません。そのように滅びろと祈祷する前に愛して滅びろと言うべきです。
もしだれであれ、愛したとしても、愛の相対にならないときは、滅びろと言っても理に合います。父母が子どもを愛するにもかかわらず、誤った道を行くときは、むちを振るっても、皆が「そうだ!」と言うことができますが、毎日のように怒鳴りつけながら、父母の言うことを聞かないと言えば、それは道理に外れた父母なのです。(一六八-七八、一九八七・九・一三)
第五節 祈祷と体恤
一 信仰生活は体恤すること
信仰生活は体恤です。体恤しなければ分からないのです。体恤しなければなりません。体験ではなく体恤なのです。その体恤というものは何でしょうか。天が悲しむときに自分がその悲しみを知らなければなりません。その悲しみが感じられてくるというのです。それが体恤です。体恤するようになれば祈祷が必要ありません。(二五五-三六、一九九四・三・二五)
体恤信仰においていちばん重要なことは何でしょうか。それは主体と対象の関係です。神様はいつも主体であると思い、「私を愛される神様なので、私のことを傍観することはできない。私と共にあられる」ということを感じなければなりません。そのように、祈祷に先立って感謝することのできる生活をするようになるとき、神様が共にあられるのです。最初はそれが分かりませんが、ある段階に入ると感じるようになるのです。(五八-三一一、一九七二・六・二五)
一年に春夏秋冬があるように、一日の中でも春夏秋冬があります。朝は春、昼は夏、夕方は秋、夜は冬に該当します。そして、朝の中でも、春、夏、秋、冬のようなものを感じることができます。そのように、大きなものは大きなもの、小さいものは小さいものなりに単位を備えています。
私たちの心もそれと同じです。それゆえ、心に感じられる感覚がいつも同じではないということを知らなければなりません。しかしながら、大部分の人々は春、夏、秋、そして冬を見分けることができないのです。ですから、祈祷生活を通じて「ああ、今がどのような時なのだな!」ということをわきまえることができなければならないのです。(七六-一二九、一九七五・二二・二)
私たち食口は、祈祷する中で役事をします。役事というものがあります。霊的な力が、電気が通じるように入ってきます。そのように私たちの意識よりも強い力が入ってきますが、そのようになるときは別世界の意識に変わるのです。そのように超自然的な意識に変われば、どのようになるでしょうか。人間の体には堕落性があるので、本然の神性と衝突を起こします。(七六-一三四、一九七五・二・二)
体恤的な信仰、これはお金をもってしてもだめであり、努力をもってしてもだめです。精誠を尽くして祈祷しなければなりません。コップ一杯の水をもって千年の歴史をたどっていったとしても、一滴の水もこぼさないという信念を抱かなければなりません。いくら険悪で不安な世の中だといっても、自分が少しもそのような世の中の影響を受けないと考えなければならないのです。(二六-四三、一九六九・一〇・一八)
皆さんは体恤信仰をしなければなりません。自分の信仰の結果を測定することができなければ、神様が共におられるのか、悪が共にあるのかが分かりません。その体恤信仰を育てていけば、道を進み出るときに祈祷しなくてもかまいません。第一歩を踏み出すとき、「この道はどのような道だろうか? 神様が喜ばれうる道か、残念に思われる道か?」ということが分かります。神様が残念に思われるようであるなら、行かないのです。それを鑑定することができなければなりません。そのように体恤信仰を開発するために努力しなければならないのです。(四〇-二八五、一九七一・二・七)
外出して帰るときは、外であったすべての悲しかった条件を蕩減して、喜びの条件を抱いて帰ってこなければなりません。もし職場で悔しくて気分の悪いことがあったら、それを家に来て解こうと思ってはいけません。そのようなことがあったその場ですぐに解くか、そうでなければ他の喜びの条件で蕩減してから帰ってこなければなりません。そのようにすることのできる秘法がなければならないのです。道すがらわざと電信柱に額をぶつけてでも蕩減の条件を立てなさいということです。
それによって蕩減されるという祈祷をするとか、そうでなければ子どもたちに与える飴玉でも買って、子どもたちの喜ぶ姿を思い描きながら帰ってきなさい。あるいは、かつて好きだった春の歌とか、秋の歌を歌いながら、きょうの悲しい感情をかつての喜んだ感情に変えて帰ってきなさいというのです。そのようにするのは、何の考えもなしに祈祷するよりもましです。そのような生活を中心として体恤的な感度をいかに培っていくかということが問題です。(四〇―二九〇、一九七万二・七)
精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くすときにはむやみに尽くすのではなく、かわいそうな人について尽くさなければならないのです。先生はある人のために精誠を尽くすとき、その人がご飯を食べることができず、ぼろを着ていると思ったら、寒いときにも服を脱いでその人のために祈祷することがたくさんありました。そのような基準があるために、今日これはどの基盤を築くことができたのです。(四二-一六八、一九七一・三・四)
伝統とは何でしょうか。第一は為に生きること、第二は投入して投入して忘れてしまうこと、そして第三は完成のために祈祷と精誠を捧げることです。そのような伝統を皆さんが一人で立てることはできません。どうして祈祷しなければならないでしょうか。主体となる天の協助を受けるためです。それから、なぜ精誠を尽くさなければならないのでしょうか。環境的な与件を受け入れることのできる基盤を築かなければならないからです。祈祷とは天との主体的な絆を結ぶためのものであり、精誠とは横的な絆を拡大するためのものです。(二一九-二二八、一九九一八・二九)
皆さんは心門にあわせて、心田を開発しなければならないのです。心田、心の畑を開発するためには、神様を発見しなければなりません。神様を発見するにはどのようにしなければならないでしょうか。自分の心が清くなれば、方向が分かるようになります。磁石のように、プラスがあればマイナスは自然について行きます。そのような何かがあります。皆さんもそれを感じるでしょう? 私が東に向かって祈祷して、神秘の境地に入っていけば方向が違ってきます。私が北に向かって祈祷を始めたのに、いつ回ったのか分からず、方向が変わるのです。そのようになるのです。それゆえ心の門があるというのです。(七六-一四一、一九七五・二・二)
特別に祈祷がよくできる時があるでしょう? それは皆知っているはずです。祈祷がよくできる時があるのです。私がいくら斎戒沐浴をして精誠を尽くしても、祈祷がうまくいかないときがあります。
部屋によって違うこともあります。部屋の位置によって違うのです。そして、東西南北の方向によっても違うのです。山に行っても祈祷がよくできる所があります。そして、サタンが集まっている所もあります。それは日陰です。そのような日陰とひなたは、霊的に区別されるのです。何度か体験してみれば、だれでもそのようなことが分かります。(七六-一四二、一九七五・二・二)
二 神様の心情を体恤する道
祈祷しなければなりません。一人で静かな所に行って月を眺めて感謝するなど、すべて自然と呼吸できる心霊的な生活、祈祷生活が必要なのです。今、先生もそうです。私が海に出て行くのも、そのような心情を体恤するためです。それは、ご飯を食べることよりも貴いのです。寝ているときに一人起きて、夜を明かすときもあります。(九四-一五五、一九七七・九・一)
祈祷することによって、「そのことはこのようにして、あのことはこのようにする」と教えてもらうのです。皆さんはそれを知ってこそ大きなことをすることができるのです。祈祷だけでそのような道を開拓することができます。祈祷がご飯を食べることよりも重要だという事実を知らなければなりません。
先生も自然を好み、一人でいる時間が好きです。先生は静かな夜が好きです。先生にそのような面がどうしてないでしょうか。すべての生活において豊富な底辺の基盤を築くことができるのは、祈祷以外にないという事実を知らなければなりません。そのような場で愛を体験することができるのであって、普通の場では難しいのです。
皆さんもそのような土台の上で、力を補強することができてこそ、信仰の道を行くことができるのであって、いつもこのように、先生が導くとおりについてくるようになれば、どうするのですか? 先生がいなければどうなるでしょうか。そのような裏面の生活を備えるためには、祈祷が必要だということを知らなければなりません。(一〇四-一一一、’一九七九・四・一五)
あるときは、神様が何かのために祈祷しなさいと言われる場合がありますが、それは公的な一時を越えるための作戦です。そのようなときは、精誠を尽くさなければなりません。その精誠は、自分の子どものために尽くすものではありません。自分の家庭が問題ではないというのです。そのように精誠を尽くすときは、夫も避け、子どもも避けなければなりません。清潔なところで、きれいなものを食べて、きれいな服を着て、清らかな心持ちで精誠を尽くさなければなりません。(三一-一六九、一九七〇・五・二四)
精誠を尽くすときは、「絶対的に信じます」という立場に入っていかなければなりません。「神様を絶対的に信じます、み旨を絶対的に信じます」という立場に入っていかなければならないのです。そのような立場でのみ神様が協助されるのです。祈祷しながらも、その祈祷が成就するのか否か疑ってはならないというのです。「お父様! 私だけが残りました。六千年間あなたが苦労してこられた基盤の上に、私一人が残りました。あなたのみ旨の前において、近くにいる者は私しかいないではないですか? それほど私という存在が重要ですが、まだ何も備えることができていません。それでも、私に命令なさったので、私がすべての基盤を備えて、この民族に代わります。それが復帰摂理ではないでしょうか」と言うことができなければなりません。(三一-二九〇、一九七〇・六・四)
皆さんがたくさん祈祷をして熱心に信仰生活をしていくと、時を知るようになるでしょう。あるときは、秋のような気分がするのではなく、春のような気分がするのです。そのようになると、新しい恵みの因縁が芽生えるのです。祈祷の内容も変わるようになります。(三二-一七二、一九七〇・七・一二)
祈祷をするとき、人知れずしなければなりません。精誠を尽くすときも、人知れず尽くさなければなりません。この世に風が吹き、揺れてすべてのものが崩れて倒れたとしても、自分自身は残ることができる因縁でも残しておいてから死ななければならないのです。これがまさに統一教会員たちが生きなければならない生涯であり、残すべき生涯路程です。(三五-三〇、一九七〇・九・二七)
自分が生まれながらにもった人柄を消耗しながら使ってしまい、そこに加えるものがなければどのようになりますか。世の中の人々は、神はいないと言いながら、人柄だけをもって生きていきます。それで世の中の終わりになれば、一面では善なる面が大きくなります。しかしながら、そのように大きくなるものは見えません。
社会が悪くなればなるほど、神のみ旨を心配して精誠を尽くし、昼夜祈祷する人が多くなります。世の中を救うために精誠を尽くすのです。そのような人は多くはありませんが、その基準は高まるのです。
それでも世の中は絶えず悪くなっていきます。周囲の環境が良くなれば、その中で生きていく人々の人柄も良くなりうることがありますが、その環境が次第に悪くなるので、かつて良かった人々の人柄までも侵食されるのです。そのような社会に出て、あの人この人と会いながら酒などを飲むようになると、ゆがんでつぶれてしまうのです。(三九-三一八、一九七一・一・一六)
人は公的な生活をしなければなりません。先生もそうです。疲れていても、このように仕事を済ませて寝床に入ってこそ気分が良いのです。何かを少しだけやり残して休むようになると、気分が悪いのです。そのようなときは、祈祷でもしなければならないのです。そのように暮らすのです。(三九-二一二、一九七一・一・一〇)
祈祷時間を定めるときには、早朝に祈祷してみて、朝にしてみて、昼にしてみて、夕方にもしてみて、夜中にもしてみなさい。そのように数年間、祈祷生活をしてみて、何時から何時まで祈祷するのが自分白身にとって最も合った時間かを知らなければなりません。それを知って、自分自身に最も合った時間に精誠を尽くしなさいというのです。(三一-二八八、一九七〇・六・四)
心霊基準の高い人が祈祷する時間に共に祈祷すれば、その人によって恵みを受けます。もし夫の心霊基準が高く、信仰生活でも模範になれば、妻がその夫によって恵みを受けるようになります。そのように恵みを受けるようになれば、夫がこの世にない美男に見えるというのです。そして、夫が妻を通じて恵みを受けるようになれば、その妻が本当に美しく見えざるをえないというのです。世の中の女性の中でいちばんだというのです。本来、夫婦はそうでなければなりません。(三一-二八九、一九七〇・六・四)
自分のために祈祷してくれて、精誠を尽くしてくれる人がたくさんいればいるほど、その人は福を授かった人に違いありません。自分一人のために精誠を尽くす人をたくさんもつためには、私が多くの人々に福を譲り渡してあげなければなりません。そうするまでは、多くの人々が私に福を授かるようにと祈ってはくれないという事実を知らなければなりません。
今までキリスト教徒の中で、世界的にキリスト教が勝利することができるよう祈祷した人々はたくさんいたかもしれませんが、「終りの日」に審判を受ける怨讐たちまでも救うために精誠を尽くして死の道を行ったキリスト教の信者たちがどれほどいるでしょうか。その数は多くないのです。これは今日のキリスト教の現実を見て分かることです。(三一-一五七、一九七〇・五・二四)
祈祷をするときは、まずこの国とこの民族のためにしなければならず、それから教会のためにしなければならず、それから子孫たちのためにしなければなりません。自分の血筋を受け継いで生まれた息子、娘たちが、神様の心をどれほど痛めているでしょうか。それで、子孫たちのために祈祷しなさいというのです。
自分が子孫たちのために涙を流すことによって、神様がその子孫たちに同情することができる条件を立てるのです。統一教会の信徒は、死ぬときにひざまずいて死ななければと考えます。そのようにひざまずくのは、世界的な使命を代々連結していくべき統一教会の信者として果たすべき義務であると理解しています。(二一-二七三、一九六八・一一・二四)
皆さんはこの世界を掲げて、深刻に祈祷してみましたか? 歴史時代を通じて、今まで神様は、「私が東に行くときは世界が東に動き、私が西に行くときは世界も西に動く。私が呼吸するのは世界人類を代表して呼吸するのであり、私が食べて生きるのは、人類を代表して食べて生きるのだ」という信念に徹して信仰生活をすることができる人を待たれたのです。それゆえ、ある一時代を代表して祈祷し、その時代だけの悲運に責任をもって身もだえする人は、ある宗教ならば宗教の教祖として登場することができないのです。(四四-二三四、一九七一・五・三〇)
船内にいるネズミがその船が沈没することを知って逃げるのに、万物の霊長である人間は自分が生きて死ぬことを知らないようになっていますか? 本来から、それが分かるようになっていますが、分からないから祈祷が必要なのです、祈祷が。人間の人格を革新し、革命するには祈祷が必要だということを知らなければなりません。
しかし、自分白身のためには祈祷してはいけません。私が、お母様と子どもたちを連れていますが、その子どもたちのためには祈祷しないのです。いつも世界と国の問題を心配するのです。そうすれば神様は私のことを心配してくださるのです。そうだというのです。
もし自分の家庭のために祈祷すれば、病気になったり故障したりするのです。教会や全体のことを重要視しないで、自分の家庭を重要視したら、その家庭に事故が起こるようになります。先生は家の生活は夢にも考えません。教会の生活とか全体のことを考えるのです。それはすべて神様がやってくださるのです。それを知らなければなりません。
それが原理的な道理ではないですか。大きなことをする人々は、下のすべての人が尊敬するものであり、すべての人のために生きれば天が高めてくれるものです。天理の道理がそのようになっています。今や祈祷をいかにするのか分かったでしょう? 空虚な祈祷はしてはならないというのです。空虚な祈祷をしてはいけません。(一〇四-一一四、一九七九・四・一五)
いつでも、祈祷しながら注意すべきことは、絶対に自分の欲をもって祈祷してはいけないということです。そうしていたら気が狂うことがあります。いつも公的なことを中心として祈祷すれば、心が澄んでいきます。そのように生活するようになれば、ある段階で何が起こるかということに対する予感がするのです。そのような予感がすることに備えて祈祷しなければなりません。(一〇四-一一四、一九七九・四・一五)
すべて霊的な体験をしなければなりません。それで自分が行うことが成功するか、失敗するのか、分からなければなりません。祈祷を熱心にすれば、それが分かるようになるのです。そうすれば気分が良く、体が軽くなります。すでに肉体的に分かるのです。そうするには自分白身を中心とした観念をすべて洗い流してしまわなければなりません。皆さんがその戦いを克服しなければならないでしょう。(一〇四-一一五、一九七九・四・一五)
三 知的な人と霊的な人の祈祷
知的な人は祈祷が必要であると同時に何か必要でしょうか。そして、神霊的な人は知的な面の補強が必要であると同時に、何か必要でしょうか。どちらも友が必要です。だれでも一人で信仰生活をするのは難しいのです。(七六-一四〇、一九七五・二・二)
祈祷と真理、「霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ四・24)という言葉があります。それは何かといえば、平行をなして和する立場に立ちなさいということです。人間は霊界と肉界を調整しなければなりません。霊的な世界と知的な世界の中央で、左右に調整することのできる人間にならなければならないのです。
人間の中、霊的な人と知的な人の二つの部類があるために、自分白身はどの種類の人であるかを知らなければなりません。知的な人は霊的な面を補強するためには、祈祷しなければならず、霊的な人は真理に対して研究しなければならないのです。このように両面が補強されなければならないという事実を忘れてはなりません。
統一教会の人々は、そのような経験をたくさんしたでしょう? 何かを聞いて心霊に打撃を受けてどうしたらよいのか分からなくなるのです。そのようなときは、一人で祈祷によって解決するのは難しいのです。しかしながら、知的な友達がいれば、「おい、おまえ! このようにしろ!」と言って助けてあげることができます。
そして、知的な人が難しい立場に処した場合には、霊的な友達が、「おい! 私が祈祷してみるとこうだ」と言いながら容易に解決することができるのです。それゆえ、信仰者には必ず友達が必要であるということを知らなければなりません。(七六-一三七、一九七五・二・二)
知性的な人は総じて祈祷を嫌います。「ああ、祈祷が何で必要なのだろう? 父なる神ということをどうして言うのだろう?」と言って、実感がわかないのです。祈祷を思うと迷信のようであり、自分自身が否定されるような感じがするのです。
その反面に、生まれつき「神様…!」という言葉がとても快く聞こえる人がいます。何か説明を聞く以前にただ良いというのです。「お父様…!」と言うと、ご飯を食べなくても良いというのです。そのような人もいます。(七六-一三六、一九七五・二・二)
四 祈祷と精誠
いつも精誠を尽くさなければなりません。精誠は一度尽くして腐るものではありません。刀はいつも取り替えなければなりません。刀を一度使って取り替えなければどのようになるでしょうか。取り替えなければなりません。いつも取り替えなければなりません。同様に、一度激して怒ったならば、静かに心の位置を定めておかなければなりません。
先生も、もっている力よりも、もっと大きい世界的な仕事をするときには深刻です。より大きい力が必要なときは、その力をどこからもってくるかということが問題になります。その力をもってこられないときには後退しなければなりませんが、そうすることはできないのです。ですから、祈祷が必要であり、神様が必要なのです。それで心情の世界が必要なのです。
愛の世界は、いくら引き出しても終わりがありません。物質の世界も終わりが来て、知識の世界も終わりが来て、権力の世界もすべて崩壊しうるのですが、心情の世界は無限です。それゆえに、心情の世界を中心として動かなければならないのです。(一二〇-三〇六、一九八二・一〇・二〇)
神様に侍るにおいては、言葉だけではいけません。どれだけ精誠が込められた心を抱いてお父様に待ったのかというのが問題です。私たちの五官を通じて感じるすべての感覚は、私たちの感情に直結します。そのような五官を通して、どれほどお父様を愛し、どれほどお父様の貴い価値を悟り、どれほどお父様の神聖さを慕って賛美することができるのかということが問題なのです。
それが聴衆と共に祈祷する時間や、ある恵み深い時間に受けることのできる感覚ではなく、私たちの生活圏内で絶えず受けることのできる感覚でなければなりません。そのような感覚を中心として、天と一つにならざるをえない自分白身をいかに発見するかということが重要です。(四二-二一八、一九七一・三・一四)
自分が捨てられ追われるときには、祈祷しなくても滅びません。自分が迫害を受ける立場にあれば、神様は離れることができないのです。しかし、栄光が訪ねてくるようになるとき、より大きなもののための環境と基盤を築くことができなくなれば、その栄光は自分にやって来ても他の人に移っていかざるをえません。自分を通り過ぎてしまうというのです。このようにやるせなく恐ろしいことが私たちの信仰路程にあるので、精誠を尽くすことにおいては限りがありません。(四二-二三一、一九七一・三・一四)
精誠を尽くす場に祈祷の能力が現れて神様が共にあられるのです。神様が共におられることを生活の中で感じる人になってこそ、神様の恵みを相続することができるのです。神様が共におられるということを民族的な次元で感じることができる人は、世界を相続することができるのです。必ず、そのような結果が結ばれるということを知らなければなりません。堕落したアダムとエバの子孫である人間としては、精誠なくしては復帰の道を行くことができません。(四二-二三四、一九七一・三・一四)
祈祷するときに、こう言うのです。「私はあなたの愛を学んでみたいし、あなたの愛の力をもちたいのです」と言うのです。そして、「このように混乱した歴史時代に、このような内容をご存じの真のご父母様、そのかたの愛を中心として私たちが集まったので、そのかたの伝統を受け継ぎます」と祈祷するのです。これが統一教会員の主流思想であるということを知らなければなりません。(一二四―一四六、一九八三・二・一)
信仰者はどのようなことがあっても打撃を受けてはなりません。いかに衝撃的な言葉を聞いたとしても、打撃を受けてはならないというのです。たとえ自分自身が悔しい立場に立つようになっても、そのような悔しい立場に立つようになったのは、自分が滅びるためのものではなく、栄えるためのものとして考えなければなりません。そのような場合が生じれば生じるほど、自分の時が近づいてきたことを知らなければなりません。そして、その環境を克服するために、謙遜な心で精誠の限りを尽くして祈祷しなければなりません。(四二-七五、一九七一・二・二)
だれでも、信仰者として考えられないような見苦しく恥ずかしいことをしたならば、罪を犯したならば、「神様の愛を感じるようにしてくださいませ!」などとずうずうしく祈祷してはなりません。私はそのような祈祷はできません。良心に呵責を受けることがあれば祈祷ができません。お父様と呼ぶのが恥ずかしくなります。皆さん、そのようなことが分かりますか?
ただ分別なくお父様の名前を呼んで「愛するお父様!」と言うのは、ほらを吹くことにしかなりません。ですから、恥じなければなりません。神様の前で自分の姿勢を正しく整える態度が必要です。
今、先生自身もそうです。私自身が、公的な立場でどこかに行って礼拝の時間に遅れるようになれば、出てくる前に祈祷します。また、ある聖日には、礼拝時間に行くことができないこともあります。そのようなときにも必ず悔い改めの祈祷をするのです。主体的な責任を担った者として、「食口たちが、生死の問題を解決するために精誠を尽くしているのに、その時間に行くことができなかった私自身をお赦しくださいませ!」と祈祷するのです。そのような祈祷が必要です。しかし、それは簡単なことではありません。(四三-一一三、一九七一・四・二五)
大きい枝になろうとするならば、深い根の津波を吸収することができる力がなければなりません。横にこっそりと伸びた枝はでたらめです。それは、後には枯れるようになります。それゆえ毎日のように祈祷して精誠を尽くさなければなりません。そのように精誠を尽くすところにおいては、きのうよりもきょうがましでなければなりません。昨年よりも今年がましでなければなりません。昨年、忙しかったならば、今年はさらに忙しくなければならないのです。(四六-一六九、一九七一・八・一三)
最近、先生は霊界にいる皆さんの先祖たちを動員するための祈祷をしています。皆さんの先祖たちを動員して、蕩減の道を歩んでいる皆さんに協助させようとしています。それゆえ、今後、自分を中心として蕩減しようとしても、自分自身を中心として蕩減するのではなく、金氏ならば金氏の家門を中心として蕩減することが起こるでしょう。
それで、み旨に対して変わらずに行くという食口たちに、ある一時に不祥事が起こるようになるかもしれません。先祖たちが早く復帰させるために子孫たちを打って犠牲にする場合が生じるのです。そのような場合は、個人的な責任を果たすことのできない統一教会の信徒たちに起こるようになるでしょう。そのようなことが起こらないか、見ていなさい! 原則はそのようになっています。(一六-三一二、一九六六・七・三一)
先烈たちの精誠の基盤を相続しようとするならば、どのようにすべきでしょうか。驕慢であってはいけません。絶対的に謙遜でなければなりません。皆さんの先祖たちが、精誠に花を飾って模様を刻んであげるため祈祷しなさいというのです。「あなたは貴いものを探しましたが、内的に不十分だったので、私が補強して完成させます」と祈祷しなさいというのです。そうすれば、彼らはどれほど喜ぶでしょうか! (四二-二二九、一九七一・三・一四)
「私が友のために命を捧げるのは、救いを受けるためではなく、祝福を受けるためではない。私がよくなるためのものではなく、その友を救うためにこのようにするのだ」と言うことができなければなりません。その友のために精誠を尽くしてあげなければならないのです。一つの生命を中心として命をかけて祈祷し、精誠を尽くす人が、その人を本当に愛することなのです。
皆さんが一つの生命を握りしめて一年、二年、三年あるいはそれ以上に数年の間、精誠を尽くしてみたことがあるでしょうか。それが問題となるのです。この地上に生きている人類の中で、一つの生命のためにどれほど精誠を尽くしてみたかというのです。自分の手を経なければ、その人は間違いなく地獄に行くという思いで、万人のためにどれほど精誠を尽くしてみたかということが問題なのです。(四二-二二四、一九七一・三・一四)
祈祷をするときは、自分自身を克服しうる祈祷をしなければなりません。もう少し楽になりたくて、もう少し幸福でありたくて、自分のすべてを中心として動機にしたがる自分自身を否定する力が足りないので、神様に助けてもらうために身もだえする場が祈祷の場であるということを知らなければなりません。
そして、環境を克服するための祈祷と精誠を尽くすようになるとき、その精誠の分だけ悪なる環境が除去されうるのです。そうすれば喜ばざるをえないのです。なぜうれしいのでしょうか。自分の本性がこの善なる環境と授受することのできる基盤が築かれ、その基盤が拡大されることによって、そのときまで感じることのできなかった喜悦と満足を感じることができるからです。(四二-二一九、一九七一・三・一四)
自分に悲しみがあるようになると、「お父様、私から悲しみを取り除いてくださいませ! 私の悲しみは神様のものとされ、私には喜びだけを下さいませ!」というのが、今日の私たちの祈祷です。そして、「私たちから災いをなくし、福を下さいませ! 災いがあるならば、その災いはあなたがもたれ、あなたがもっておられる福を私に下さいませ!」と祈祷します。このような信仰は必ず終わりが来るのです。そのように祈祷する人たちは、信仰の道を長く行くことはできません。(四三-二五、一九七一・四・一八)
皆さんが信仰生活をするにおいて、暗闇が訪れてくるのを防ぐためには、為に生きなければなりません。皆さんが早朝祈祷をしようと出かけていって一生懸命に祈祷しますが、早朝祈祷ができなくてもよいので、その時間に信仰の同志のために三家庭の門の前で祈祷しなさいというのです。一分でも良いのです。これが早朝祈祷を何時間するよりもましです。それが福を受けることです。このような思想がなければ、世界を一つにすることができません。(四二-二六〇、一九七一・三・二一)
先生は祈祷するとき、自分が孤独なとき、神様が心情的に慰めてくださったときを思います。心情の世界は時間を超越します。六・二五動乱のとき苦労した人ならば、今でもそのときの話をすれば涙を流すのです。そして、かわいそうな子どもを置いてきた親は、老いて死ぬときまで、その子のことを考えれば涙が出てくるのです。そのような境地は、人間としての限界を超越するのです。(三三-九一、一九七〇・八・九)
皆さんの心霊状態が一様でないのは、善なる先祖と悪なる先祖の結実体だからです。今日、統一教会の信徒が祈祷するとき、「ああ、私たちは六千年の歴史的な結実体です」と祈祷するでしょう? そのように六千年の歴史の結実体ならば、善なる先祖の津浪だけでなく、悪なる先祖の津液も及んでいるのです。(五一-二五〇、一九七一・一一・二八)
み旨を中心として祈祷をしても実感がわかず、出ていって伝道をしても実感がわきません。囲いもないのに四方がぴしゃりとふさがった立場で、なぜか実りがないようです。自分がお父様を呼ぶ声もかすれ、み旨のために生きるということもぼんやりしてくるのです。このようなぼんやりとした生活をしてみると、結局は世俗的な環境に吸収されるほかなく、自分自身を忘却するほかないのです。そのように歩んでみると、結局は思いがけない所に流れていく、とんでもない結果を招くようになるのです。(二〇-一四九、一九六八・六・四)
皆さんは過去に恵みの生活をしたときに記録した日記を読み返したり、祈祷の中で体験したことをもう一度思い起こしたりして、心情を復活させなければなりません。そうして新たに決心しなければなりません。いま一度、そのときの心情を復活しうる身もだえをしなくては、皆さんのだらけたその立場を収拾することができません。(四一-九六、一九七一・二・二八)
皆さんの過去と現在の生活を比較してみるとき、過去が今日よりましならば、その過去の生活を現在の生活に再現させなければなりません。いかにそのときの心情を復活させることができるかが問題です。もしそれが祈祷で不可能ならば、行動で解決しうる道を探さなければなりません。
もし、今日皆さんがだらけたような立場にあるなら、いかにしてでもそのような立場を収拾しなければなりません。過去よりましでありうる条件を立てなければなりません。過去には一日に一度ずつ本部教会に来たならば、今は二度以上通わなければなりません。昔は祈祷すれば恵みがあったのに今は恵みがないならば、そのときに十分関していた祈祷を今は二十分、三十分、一時間以上しなさいというのです。(四一-九七、一九七一・二・二八)
皆さんのだらけてしまった立場を収拾する方法は、統一教会の主流的な方向に歩調を合わせるのです。そして、そこに先頭に立った主体者がいるなら、その人より強力な信念をもつことです。そうすれば、祈祷しなくてもかまいません。「神様、私を助けてくださいませ!」と言う必要がないというのです。祈祷しなくても神様が助けてくださるようになっています。(四二-一二五、一九七一・二・二八)
第六節 祈祷と実践
祈祷する目的は何でしょうか。実践するためです。ですから、実践するようになると、祈祷しなくても祈祷した以上の立場に立つことができるのです。いくら考えてみても、その道がいちばんの早道です。私は、精誠を尽くして神様に会うことができるまで、数多くの試練を経験してきました。しかし、皆さんがみ旨のために一線に出てくるようになれば、直ちに先生に会うようになるのです。(四七-一八五、一九七一・八・二八)
だれでも祈祷をすれば実践しなければなりません。祈祷は神様との公約です。祈祷は神様に対する人間の公約であるだけではなく誓いです。ですから、祈祷をしたら必ず実践しなさいというのです。そして、一つの問題について毎日のように祈祷する必要はありません。真なる祈祷は一度だけするのです。そうしてから、十年であれ二十年であれ、祈祷する姿勢で求めていく心をもたなければなりません。そのような心をもっている人は、恐ろしい人です。
私がお父様の前に宣誓して誓ったゆえに、十年だけでなく一生の間、そのように宣誓して誓ったとおりに進んでいく人は、祈祷を成就しつつある人です。十年間祈祷する人よりも、一度祈祷して成就していく人が賢いのです。ですから実践が問題です。祈祷だけして行うことができない人は、神様が訪ねてこられても離れられるのです。それゆえ、体恤的な信仰の基盤を生活圏内に築くことが、何よりも重要なことであるということを知らなければなりません。(四〇-二九九、一九七一・二・七)
霊的な体験をするには祈祷しなければなりません。それだけでなく、怨讐の世界に入って戦わなければなりません。祈祷だけしてはだめなのです。み言を中心として正しいことを探して、命をかけて戦うことができる信念をもたなければならないのです。(二五-三二、一九六九・九・二一)
信仰生活するにおいては、漠然と精誠を尽くす祈祷よりも、実践をしながら精誠を尽くすことが必要です。神秘的な体験をしたとしても、その体験だけではだめだというのです。それはあくまでも個人的なものですが、その個人的な体験だけを中心としては、全体と関係を結ぶことはできないのです。そのような人々は、いくら祈祷して精誠を尽くしても、新しい味がしないのです。ですから、新しい方向を模索していかなければならないのです。(三〇-一二三、一九七〇・三・二一)
祈祷するのは、自分の事情を報告するのです。そのように報告することが実績として残るのです。そのような実績の報告であるために、天が干渉して祝福するのです。それで、祈祷する人が恐ろしいのです。黙って祈祷する人が恐ろしい人です。そのような人が主人となるのです。(二三三-一〇五、一九九二・七・三〇)
祈祷するよりも為に生きる生活をする人がもっと多くの福を受けることができます。兄弟をつかんで涙を流すことが、何時間祈祷することよりもましなのです。(二〇四-五三、一九九〇・六・二九)
蕩減の道を行かなければなりません。一年に何回かずつ蕩減の道を歩む期間を定めて、特別祈祷をしなければなりません。そのようにしてみなければなりません。そうすればどんなことが起こるでしょうか。そのようにしなければ、訪ねてくるようになる悲しいことや、困難なことが蕩減となってしまいます。(一三一-三一九、一九八四・五・一九)
体験が必要です。神秘的で霊的な体験が必要なのです。祈祷の中で先生に会い、幻想の中で先生に会い、夢の中で先生に会う体験が必要なのです。ずっと霊的な世界に入って、楽園にも入ってみる体験が必要なのです。(一三一-三一〇、一九八四・五・四)
祈祷をしたら、必ず行わなければなりません。十ほどを標準として祈祷したならば、十五ほど実践しようと努力しなければなりません。そうすれば、神様が自分の後ろに訪ねてきてくっつくというのです。だれでもそのような観点でみ旨を成すために努力しますが、疲れることがありますか? 「ああ、四十になって結婚もできず…」と言うことはできないのです。何の話か分かりますか?
どのように生きなければならないでしょうか。皆さん、家に行って祈祷しますか? だれでも、少しだけだらけても、「神様、申し訳ありません」と悔い改めて正さなければなりません。そのように正すところにおいては、ご飯を食べるのが問題ではなく、眠ることが問題ではありません。そのように暮らせば、たくさんの祈祷をしなくてもかまいません。行えばよいのです、行えば。「あなたはこのように願いませんか? ですから、私がそのようにします」と言えばよいのであって、祈祷が何で必要ですか。(一〇八-八四、一九八〇・六・二二)
祈祷には要求の祈祷があり、報告の祈祷があります。その中で、要求の祈祷は決意の祈祷にならなければならず、報告の祈祷は感謝の祈祷にならなければなりません。(一一二-五九、一九八一・三・二九)
祈祷は、他人のためのものです。自分自身のためのものではありません。自分自身のために祈祷するのは通じません。教会の問題、近所の問題、世界の問題のために祈祷しなければなりません。そのように祈祷すれば、そのまま実戦しなければならないのです。部落のために祈祷したら、投入しなければならないのです。祈祷だけして何をしようと言うのですか? 祈祷した分、行動しなければならないのです。(二六五-二一一、一九九四・一一・二)
祈祷はつまらなくしないで、愛を実践するための祈祷をしなければなりません。愛を実践するための祈祷をしなければならないのです。そのように祈祷して実践し、祈祷して実践すれば発展するのです。「神様、明日はもっと前進いたします」と祈祷してからご飯を食べるとき、ご飯を見て、「おい、ご飯! おまえは私が愛を実践するためのエネルギーとなれ!」と言うことができます。また服を見ては、「おい、服よ! 私が愛を保護するためにおまえを着るのだ」と言うことができなければなりません。門を開けて出ていくとき、太陽が照らしたら「歴史的な太陽が照らすのだな! 自然が私の同志となってくれるのだな!」という心を抱くことができるのは、どれほどすてきだろうかというのです。そのような生活をするために祈祷が必要なのです。(一一二-五八、一九八一・三・二九)
では、どうして祈祷する人たちの中で、ある人は滅び、別の人は発展するのでしょうか。どうしてですか? それは祈祷を宇宙の拍子に合わせるか、合わせられないかによって異なるからです。(九四-二〇、一九七七・六・一九)
祈祷はどうしてするのでしょうか。どうしていたずらに祈祷をするのですか? 神様は、祈祷してくれることを願われて皆さんをつくられたでしょうか。神様は人間が自分の事情をもって祈祷する姿に向かい合われ、苦痛を感じられます。ですから、悲しみの神様であるという結論が出てくるのです。(一六-一一五、一九六六・一・二)
祈祷するときには「神様、私は哀れな者でございます。私が神様の立派な息子となりますから、哀れに思ってくださいませ!」と祈ってはなりません。祈祷をしようとするなら、「神様、世界の万民を救うのがあなたのみ旨ではないでしょうか。この瞬間にも無念な思いで死んでいく人がいるのならば、私の生命を捧げてでも救おうと思いますので、彼らを救うことのできる道を教えてくださいませ」と言わなければなりません。そうすれば、神様はだれを必要とするでしょうか。自分を必要とされるのです。そのように祈祷しなければならないのです。(三九-二〇一、一九七一・一・一〇)
手足が凍り、膝も腫れて、食べることができずに意識がかすみ、死の境界線を行き来するようになるときどうしますか? 「神様、私は死にそうです!」と、いくら祈祷したとしても無駄なのです。勝利した結果をもって、「お父様、私はこのようにやりました」と報告すべきであって、何の結果もなしに祈祷だけしてどうするのですか? そのような祈祷を聞いてもらって神様だけ滅びるようにでもするのですか? そうではないですか? 祈祷して実践しなければならないのです。(四〇-二五三、一九七一・二・六)
第七節 「終りの日」の聖徒たちが捧げるべき祈祷
今日、堕落した世界に生きていることを、私たちはいま一度悔しく思わなければなりません。「神様、どうして私が堕落したアダムとエバの子孫として生まれたのでしょうか。もし神様が私を人間の先祖としてつくられたならば、私はアダムのように堕落しなかったでしょうし、エバのように堕落しなかったでしょう。神様、ですから、アダムとエバが堕落する前の心情を私に許諾してくださいませんか。神様がアダムとエバを希望の心情で見つめられた内容があったならば、そのような希望の心情を、私をして抱くことができないでしょうか?」と祈祷しなければなりません。
堕落したアダムとエバの子孫たちの中から、そのように祈祷する人が出てこなければなりません。聖書でも、ただ無条件で下さるとは言っていません。「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう」(マタイ七・7)とあります。(九-一八三、一九六〇・五・八)
私たちがみ言に従っていき、み言を守っていく目的はどこにあるのでしょうか。私たちもイエス様のように、道であり、真理であり、生命となるところにあります。そのようになって何をするのでしょうか。イエス様の新婦になるのです。それが信仰者の最高の目的です。
それゆえ、「終りの日」にはキリストとともに王の役目を果たすとあります。イエス様と相対的な関係なのです。ですから、皆さんが祈祷するとき、イエス様の名前で祈祷するのです。(八-三一六、一九六〇・二・二一)
涙を流してたくさん祈祷しなければならない時が「終りの日」です。涙だけでなく血を注ぎながらも祈祷しなければなりません。私たちは涙の峠、十字架の峠を越えてきました。イエス様はゲッセマネの園で血の涙を流して祈祷をしました。民族をつかまえて涙を流しました。そのような祈祷は、サタンの権限を押さえてしまうことができます。(一〇-四一、一九六〇・六・二六)
祈祷をしたとしても、「イエス様が汗を流した谷間に私を追いやってください、イエス様が血を流したゴルゴダに私を追いやってくださいませ!」と祈祷しなければなりません。それがキリスト教の本質的な要素であり、永遠に変わりえない伝統の中の伝統であるという事実を知らなければなりません。(一〇-二八〇、一九六〇・一一・六)
「終りの日」に置かれている聖徒たちは、天に向かって歴史的な祈祷を捧げなければなりません。どのような祈祷を捧げるべきでしょうか。モーセがシナイ山で石板を受けるために捧げた以上の祈祷、アブラハムがモリヤ山上でイサクを播祭として捧げるとき捧げた以上の祈祷、イエス様がゲッセマネの園で生死をかけて捧げた以上の祈祷を捧げなければならないのです。(五-一六二、一九五九・一・一)
私たちにみ旨を願われる神様がどれほどかわいそうでしょうか! 皆さんは、「ノア、アブラハム、モーセ、イエス様の責任を私に少しでも私に背負わせてください!」と祈祷してみましたか? ノアの心情、アブラハムの心情、モーセの心情、そしてイエス様の心情をご存じである神様は、それ以上の心情を抱いた者が現れることを待ち望まれています。ところが、皆さんは歴史的な曲折の事情をかけて深刻に祈祷してみたかというのです。
天地を明るく照らしながら、昇る朝日を眺めたり、暗い夜空できらきら輝く星の光を見つめたりしながら、歴史的な恨と希望を感じたことがありますか? 神様は、太陽の光や月の光を見るにも申し訳なく思われます。息子を立てて万物を主管しなさいと祝福してあげたのが逆になったので、神様としては何の面目があるでしょうか。(一一-三一九、一九六二・三・二三)
皆さんは、どのように祈祷しなければならないでしょうか。「神様、大変です」と言ってはいけません。アダム、ノア、アブラハム、ヤコブ、モーセ、そしてイエス様に代わって祈祷しなけれぱなりません。今日の先生に代わって祈祷しなければならないのです。そのような伝統的な因縁をもって祈祷すれば、天は皆さんを見捨てません。「天が彼らの前途を開拓してあげるために、協助した基準があることが分かります。私もそのような歴史的な実体となって、現実的な責任を負ってサタンと戦おうと思いますので、神様、力を下さいませ!」と祈祷すれば、力を下さるようになっています。(一五三-一三六、一九六三・一一・一五)
第一イスラエルは滅びて、イエス様を中心としたキリスト教が第二イスラエルです。今日のキリスト教徒が第二イスラエルの民です。ところが、第二イスラエルが責任を果たすことができないので、私たちは「主に侍って生きることができる第三イスラエルを成してくださいませ!」と祈祷しなければなりません。私たちが祈祷するのは、それしかありません。自分の息子、娘に福を与え、自分の国を愛してくださり、世界を何とかなるようにしてくださいという祈祷はしてはならないのです。この世界は、すべて滅びるはずです。一度、審判台の上に立たなければならないのです。(八-一七九、一九六〇・二・七)
皆さん、祈祷してみてください! 祈祷すればするほど涙が目の前をふさぐでしょう。お父様の前に近く行けば行くほど悲しみを感じ、慟哭するでしょう。そのような段階を越えて、お父様のことを考えただけでも踊り出すことができなければなりませんが、まだそのようになることができていません。それゆえ、まだ皆さんは歴史的な条件に引っかかっており、時代的な条件に引っかかっています。そのような条件を清算して、天の食口として入籍しうる日を恋しがらなければなりません。その日を恋しがるにおいては、皆さんだけでなく全世界の人類が恋しがらなければならないのです。(八-一一四、一九五九・一一・二二)
天宙に通じることのできる祈祷をしなければなりません。そのような基準を立てなければなりません。この地に数多くの人々がいて、霊界にも数多くの霊人たちがいますが、この時代には自分でなければいけないという基準を立てなければなりません。(一二-二五〇、一九六三・五・二二)
信仰は何を要求しているのでしょうか。悔い改めを要求しています。それはどのような悔い改めでしょうか。歴史的な悔い改めと時代的な悔い改めです。天は歴史的な悔い改めと時代的な悔い改めを願っています。それを知って「過去のすべての罪も私の罪であり、この時代のすべての罪も私の罪ですから、お父様、赦してくださいませ!」と祈祷することができる人にならなければなりません。(八-三二一、一九六〇・二・二一)
祈祷をするにしても、だれよりもたくさんしなければならず、精誠を尽くすにしても、だれよりもたくさん尽くさなければなりません。六千年間、精誠を尽くした烈女たちが頭を下げうる権威をもたなければなりません。霊界にいる烈女たちも、「あなたの精誠を天宙に賛美するでしょう!」と言うことができなければならないのです。そのように公認されなければなりません。
そのような新婦であってこそ、天がサタン世界の矢面に立てて誇ることができます。今日の大部分の人々のように、ただ信じれば天国に行くと思っていてはいけません。礼拝堂に献金でも少しずつしながら行ったり来たりして、牧師や長老になればもう良いものと思っていますが、とんでもないことです。私の知るところではそうではないのです。(九-一〇八、一九六〇・四・二四)
歴史的な神様は悲しかったのです。六千年間、悲しかったのです。私たちの不信した先祖たちによって無念に思われました。ですから、私たちは無念で悲しい神様を慰労してさしあげる祈祷をしなければなりません。
今、世界に広がっている第二イスラエルに対する神様の心情はやるせないのです。その神様のそでをつかんで、「お父様、どうしてあなたの心情がこのように痛々しくて無念となったのでしょうか」と言うとき、神様がその手をつかんで、「そうだ、私の息子、娘たちよ!」と言うことのできる群れが出てこなければなりません。(一〇-三四九、一九六〇・一一・二七)
私たちが倒れることがあったとしても、天的に立てようとする忠孝の伝統は立てなければなりません。忠男、息女の伝統、烈男、烈女の伝統、孝行息子、孝行娘の伝統さえ立てておけば、統一教会は使命を果たすのです。伝統を立てるにおいても、「こういうこともある」ではなく、「こうだ」という公式的な伝統を立てなければなりません。
心情が慕わしくてさまよう人類は、どのみちその伝統の門を経なければなりません。いくら背を向けて反対したとしても、その門を経ざるをえないというのです。ここで話している人は、そのように信じています。また、そのように実践しています。
私たちは涙を流さなければなりません。そのような心情が体恤できなければ、涙を流さなければなりません。その心情が体恤できなければ、夜を徹して祈祷しなければなりません。断食をしながらも祈祷しなければならないのです。その心情を体恤することができる者だけが、最後の勝利を収めるでしょうし、最後の審判で残るでしょう。
そのような皆さんになるというならば、神様は皆さんを通じて安息の場を築かれるでしょうし、世界は皆さんによって動くでしょう。皆さんがそのようなことを感じて知ったならば、今から全人類の前で言うべきことがなければなりません。(九-一二二、一九六〇・四・二四)
私たちは、過去から現在までの歴史的なすべての罪悪を蕩減するための民族的な試練を、どのように越えていかなければならないのでしょうか。「この民族が天国の血族として立てられましたので、この民族を犠牲にして歴史的な罪悪を蕩減してください!」と祈祷しなければなりません。皆さんはそのように祈祷しなければなりません。必ずそうすべきです。
皆さん個人のために祈祷してはならないというのです。「お父様がこの民族を通じて成し遂げようとされるみ旨があると思いますので、その責任を私たちに任せてください!」と言うことができなければならないのです。「左手では過去を悔い改め、右手ではこの時代を収拾しようとする供え物です。一方は歴史的な供え物であり、もう一方はこの時代の供え物ですので、天よ、お受けくださいませ!」と祈祷することができなければなりません。そうしてこそサタンが屈服するようになります。(一三-二六五、一九六四・四・一二)
主の新婦になろうとする人は、一日たりとも平安な生活を送ることができません。そのような人は、天地にわだかまっている歴史的な恨を解くため、世界を代表して「お父様、私を打ってすべてのことを赦してくださいませ!」という祈祷をしなければなりません。
世の中でもそうではないですか。孝子というのは、弟が過ちを犯して父母がむち打つならば、「お父さん、お母さん! 私を打って、弟を赦してください!」と言うのです。(一四-二二五、一九六四・一二・二七)
ゲッセマネの園でイエス様が「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください!」と言ったような祈祷をしないで、「神様とすべての天軍天使たちは、私を踏んで世界に向かって出ていってください!」と祈祷しなければなりません。ですから、神様と霊界の協助を世界に拡散させうる皆さんになってこそ、世界の復帰が早まります。(一五-二二七、一九六五・一〇・一〇)
霊的な体験をした人々は、祈祷するときに自分のための祈祷はいちばん最後にします。神霊の世界に入っていって祈祷すれば、だれのために祈祷しなければならないでしょうか。まず神様のために祈祷しなければなりません。主人に出会う時間なので、主人の福をまず祈らなければならないのです。そうしてから、イエス様のために祈祷することができなければなりません。神様のために祈祷してこそ、歴史的な神様の心情を知るようになります。イエス様のために祈祷してこそ歴史的なイエス様の心情を知ることができます。その次には、今までキリスト教界でみ旨のために戦ってきた数多くの人々のために祈祷しなければなりません。(七-三二八、一九五九・一〇・一八)
私たちの先祖たちを思うと、「私を救ってください!」というのは妥当ではありません。かわいそうな民族のために泣いた預言者たちでした。民族のために泣いたイエス様であり、教団のために泣いたイエス様でした。ですから、まともな生涯路程を歩む人ならば、世界をつかんで泣き、天地をつかんで泣き、民族をつかんで泣き、教会をつかんで泣き、自分の食口をつかんで泣き、いちばん最後には、「私に責任を下さいませ!」と祈祷しなければなりません。(七-三二八、一九五九・一〇・一八)
イエス様が「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ二六・39)と祈祷しましたが、それは気分が悪い祈祷だというのです。皆さんは、そのような祈祷をしないでしょう? 皆さんは三十八度線を越えて人民軍に捕まって、イエス様が十字架で経験したよりも五倍もの死の苦痛を経験してみなければなりません。そのようになっても恐いものがあってはなりません。
皆さんは、そのように困難な立場になるとしても、「先生のみ旨は私のみ旨です。私のみ旨のゆえに先生が苦労しておられます。悔しくて恨めしいです。私一人でもみ旨のために行きますので、私について心配しないでください!」と祈祷して歩まなければなりません。(二八-一七五、一九七〇・一・一一)
今までの誤った信仰態度を捨て、自らの十字架を神様の前に振り向けるのではなく、自分が甘んじていくという心を抱かなければなりません。それだけでなく、民族と世界の十字架まで責任を負うことができなければなりません。
そのような立場で、「お父様、私に免じてでも、この民族を救ってくださいませ! 私がこの民族を思うのは、お父様がこの民族を救うことを望まれるからです」と言わなければなりません。そのような心情を抱いて泣かせる祈祷は神様に届きます。
ところが、皆個人のために祈祷します。皆さんは先生のために祈祷しますか? 私のために祈祷することは、私が望みません。皆さん自身のためにも祈祷してはいけません。(三一-五四、一九七〇・四・一二)
第八節 祝福家庭の祈祷生活
一 子女たちに手本となる生活
今は横的に蕩減すべき時代なので、だれでも失敗すれば、いくら祈祷しても、その子どもたちが正しく立つことはできません。牧師の息子、娘たちが失敗する理由も、牧師がアベル的な責任を果たすことができなかったからです。それゆえ、先生は責任を果たすことのできない人を、一つの立場に長くは置きません。(一八-九四、一九六七・五・二四)
一間の部屋であっても、いつも精誠を尽くす一つの場所を備えておかなければならないのです。それで、父母に侍ることのできる一日が訪れたならば、服を着るのも準備された服を着て、靴を履くのも準備された靴を履いて、きれいにして侍る準備をしなければなりません。そこは、ほうきを祷って掃除するときにも、ほかの所よりもさらにもう一度掃かなければならないのです。そうしながら、父母を千回万回、思わなければなりません。
皆さん、そのようにしてみましたか? 教会も、生きた教会になるには、そうでなければならないのです。教会には、お父様が訪ねて来て祈祷することのできる所がなければなりません。常日頃、心情のろうそくをともして精誠を尽くさなければなりません。(一七-二九一、一九六七・二・一五)
聖日礼拝のときには、必ず斎戒沐浴をして神様の前に敬礼を捧げなければなりません。また、聖地を訪ねていって祈祷しなければなりません。神様が共にいて監督することのできる心情的な基盤を築いておかなければならないのです。神様に祈祷しながら涙を流すその場では、絶対に孤独ではありません。神様が共にあられるので、孤独ではありません。三年以上皆さんが精誠を尽くしたにもかかわらず、訪ねてくれる人がいない町は滅びるのです。(一七-二九三、一九六七・二・五)
真の夫とは、どのような夫でしょうか。結婚初日から年老いて死ぬまで、妻のために投入して忘れてしまう夫が真なる夫です。真の夫の反対は何ですか? 真の夫人です。真の妻でしょう? 真の妻は、夫が死ぬほどまでに世話を焼かせても、すべて忘れてしまい、その夫が復活して新しい人になりうるように引き続き祈ることのできる妻です。そうすれば、数年しないうちにその夫は屈服するようになります。サタンが打つとしても、数理的な限界を永遠に越えることはできません。原理的な数以上を打つことができないのです。(二二九-二二八、一九九二・四・一二)
夫婦がけんかをするようなことがあっても、けんかできないのです。夫婦がけんかをするようなことがあれば、ご父母様にお伺いしてみてけんかしようと言いながら、部屋に入って祈祷しなければなりません。そのように祈祷するとき、妻は泣きながら、「うちの夫がこのような気持ちを抱いており、私はこのような気持ちを抱いています」と言い、夫も、「私はこのような気持ちを抱いていますが、妻はこのような気持ちを抱いています。妻とけんかすべきでしょうか、してはならないでしょうか?」と尋ねてみるのです。そうしたら、けんかをしなさいという答えをもらうでしょうか。絶対にそうではないのです。ですから、夫婦どうしでけんかするようなことがあれば、「あなた、一緒に祈祷しましょう」と言わなければなりません。まず、ご父母様にお伺いしてみて、けんかをしようと言わなければならないのです。(四四-一六九、一九七一・五・六)
統一教会の家庭は、祈祷をするときも一人で祈祷してはいけません。祈祷の題目も夫婦が相談して定め、祈祷を捧げるのも夫婦が共に捧げなければなりません。エデンの園で、アダムとエバも一人で堕落しませんでした。人間始祖が堕落の種をまいたのも、一人でまいたのではなく二人でまいたのです。したがって、復帰の愛も一人ではいけないのです。(四四-二八五、一九七一・五・二四)
夫婦が礼拝に参加するとき、子女たちがうらやましくてついて行きたがるように、仲良く出ていかなければなりません。有史以来、すべての人間たちの祈祷の実が、家庭で結ばれなければなりません。家庭を復帰しなければならないのです。それ以上の伝道はありません。夫婦が早朝に起きて子女の手を握り、涙を流しながら祈祷しなければなりません。そうして、お父さんやお母さんがどこかに行っていないとき、子どもたちが待ちながら、恋しい歌を歌うことができなければなりません。(二一-八六、一九六八・一一・三)
み旨にかなった生活において、父母たちが模範にならなければなりません。家庭での祈祷生活とか家庭礼拝において、既成教会に負けない信仰生活を子女たちに見せなければならないでしょう。また、敬礼時間がどれほど重要かということを認識させてあげなければなりません。その時間には、敬礼式だけで終えるのではなく、み旨を中心として父母として子女たちを教育しなければなりません。
公式的に礼拝を捧げる聖日になれば、礼拝の時間を迎えるために早朝から精誠を尽くして、その日を神様の前に捧げるという生活を子女たちに教育すべきなのにもかかわらず、皆どのようにしていますか? み旨にかなった生活をすると言いながらも、祈祷するのも、精誠を尽くすのも、原理の勉強をするのも、伝道をするのも…。
そうしながら、聖日の昼の礼拝の時間が十時三十分ならば、家から九時半や十時に出発してこそ礼拝の時間に遅れずに到着するのに、ほとんど十時三十分になって家から出発して、礼拝中に入ってきてこっそり座るというのです。このようになれば、いくら子女を教育したとしても入っていかないのです。(三一-二六八、一九七〇・六・四)
二人で会えば、必ず男性がまず祈祷しなさいというのです。「お父様、きょうは天地が動じ、私の心が動じますので、女性の心も動じるようにしてくださいませ!」と祈祷して、息子、娘を生んで暮らしてみなさい。その家庭は悪くなりません。男性がその程度はしなければなりません。(三四-二〇五、一九七〇・九・六)
息子、娘たちが、父母の行く道が民族を救う道であることを知り、その道を心から欽慕することができるようでなければなりません。それで、やっと話すことができるようになった子どもたちまでも、「神様、うちのお父さんとお母さんが願うみ旨を成し遂げてくださいませ!」と祈祷することができなければなりません。そのように祈祷する子どもたちが、統一教会の祝福家庭の中で多ければ多いほど、新しい歴史を復活させうる四位基台の土台が築かれるはずです。(四〇-一八七、一九七一・二・一)
皆さんは、息子、娘たちを愛しているでしょう? 子どもたちは、お父さんとお母さんが行くままについて行くのです。それゆえ、皆さんの家庭で神様に侍り仕えなければなりません。子どもに向かって、お父さんは祈祷するお父さんであると教育しなければならないのです。神様のために生きるお父さん、人のために苦労するお父さんであると分からせてあげなければなりません。ですから、子どもがそれとなく親を尊敬し、立派に思うことのできる基盤を築かなければなりません。(四七-三三一、一九七一・八・三〇)
統一教会の信徒は良心的に、罪を犯すようなことになれば、息子、娘の前に悔い改めなければなりません。神様の前で悔い改めの祈祷をするよりも、それがもっと効果的なのです。それで、子どもが父母の罪を赦してくれれば、神様も赦さざるをえないのです。そして、息子、娘が父母の前で謝罪を求めるときも同じです。その罪を父母が赦してあげれば、神様もその子どもの罪を赦してくださるのです。(九三-三三五、一九七七・六・一七)
祈祷をするとき、「私がこのようにするので、私の子もこうするようにしてくださいませ!」と祈祷しなければなりません。自分がまず基準になった後に、子どもをそのような位置に立てることができるのです。自分自身がそのような位置に立つようになれば、神様はその子もそれと同じ方向に引っ張っていかれるのです。(一三-一〇三、一九六三・一一・一)
既成教会の信者たちが祈祷するとき、「神様、うちの息子、娘が通う学校で一番になるようにしてくださいませ!」と言いますが、そのような祈祷をしてもよいですか7・「神様、うちの息子が悪いことをしても、良いものを下さいませ!」と祈祷をしたら滅びます。そのように祈祷するよりは、「うちの息子が間違っていました。私の息子は分別がありません。私の息子は何もとりえがありません。しかし、あなたの国を築くにおいて、いちばん大変な荷を背負ったとしても耐えられるよう、保護してくださり、愛してくださいませ!」という祈祷をしなければなりません。(四二-四八、一九七一・二・一九)
涙を流しても、自分の息子、娘のために流してはいけません。祈祷をしても、自分の息子、娘のために祈祷してはいけません。息子、娘と夫を供え物として、民族を生かすために涙を流さなければならないのです。慕わしさが身に染みるならば、その慕わしさも自分の血縁的な関係で結実させるのではなく、民族を通じて結実させることができるようにしなければなりません。そのようにできなければ滅びるのです。
自分の家庭を離れて、希望の心情を抱いて出発したのに、夫と子どもをその希望の帰着点だと思いながら祈祷し、苦闘する女性は滅びるのです。そのような人は残りません。そのような人は歴史とともに審判されるのです。審判の限界線を越えることができなくなるのです。
夫に向かって心に染みるような慕わしい気持ちがあるならば、「私たちの家庭よりも国を中心としてとどまりたいのが神様の願いではないでしょうか。さらには、私たちの家庭よりも世界を中心としてとどまりたいのが神様の願いではないでしょうか。ですから、私の心を夫に置くのではなく、国に置き、世界に置こう!」と言うことができなければなりません。それで、「国と世界に私の心を与えたように、夫にもそれぐらい与えることのできる心をもたせてくださいませ!」と祈祷しなければならないのです。
そのようなときに初めて、夫も現世に生きていますが、未来のために生きると言うことのできる立場に立てられるのです。そのような家庭は、堕落圏内にある家庭ではなく、未来まで残ることができる家庭になるでしょう。これが原理的な見解であるということをはっきりと知らなければなりません。(四三-二六二、一九七一・五・一)
自分の息子、娘を愛するように、相対的な立場にある人たちを狂うほどに愛したくて、狂うほどに与えたくて、狂うほどに為に生きたい思いが止まらない人は、神様が共におられます。それだけでなく、霊界にいる数多くの霊人たちも、協助するようになるでしょう。彼らと何千年もの歴史的な間隔がありますが、心情世界は時間の間隔を超越します。(四三-三三八、一九七一・五・二)
既成教会の信者は、祈祷するとき、「うちの息子、娘が福を受けるようにしてくださいませ!」と言いますが、そのような人々の息子、娘に与える福がどこにあるでしょうか。絶対に、神様はそのような息子、娘には福をお与えになりません。祈祷をしたとしても、そのようにしてはいけません。
皆さんが祈祷するときは、「お父様、世界に広がっている人々の中で、うちの息子、娘より善なる人がいれば、彼らにまず福を与えてくださいませ! それで彼らが福を受けた恵みによって、私の息子、娘も福を受けるようにしてくださいませ!」と祈祷しなければなりません。(二1-六五、一九六八・九・一)
二 真のご父母様の教えを受けて生きなければ
皆さんが祈祷するとき、先生の心情を通じて祈祷しようとすれば天が助けてくれます。これがいちばん早い道です。先生と共に身もだえして、先生に対するとき、胸が溶け、先生の事情を考えるとき、死も辞さないで立ち上がることのできる心が生じるのです。
皆さんがこのような心を抱いて動くならば、世界を料理することのできる門が開くということを知らなければなりません。これが今日、この地上に生きている私たちには一つしかない贈り物、歴史時代にだれももつことのできなかった貴い贈り物の中の贈り物であり、生命の源泉であることを知らなければなりません。(三一-八三、一九七〇・四・一九)
皆さんは生活の中で祈祷生活を重要視しながら、先生から直接指導を受けることのできる雰囲気をつくっていかなければなりません。このような霊的雰囲気をどのようにつくるかという問題を、夫婦どうしで、あるいは子女たちを集めておいて、相談することのできる環境をつくるように努力しなければなりません。(三一-二八八、一九七〇・六・四)
皆さんの生活の中で心情を培うために、どのようにしなければならないでしょうか。たくさん祈祷しなければなりません。夢のお告げを通してでも先生の指導を受けなければなりません。そのようにして先生の指導を受ける人がいれば、すべての人の前にはっきりと現れなければならないのです。(三一-二二五、一九七〇・六・三)
精誠を尽くさなければなりません。先生に侍る人たちは、先生が動く以上に動かなければなりません。自分が使命を果たすことができなければ、早く教会に来て祈祷する精誠でも尽くさなければなりません。(二一-三二一、一九六八・一二・八)
皆さんは、夢のお告げを通して受ける教えについて、すごいものであるかのように思っていますが、直接教えてもらうことがどれほど貴いかということを知らずにいます。皆さんがそのように知らなければ、今まで霊的に指導を受けた人たちに福を丸ごと奪われるようになるでしょう。それを知らないというのは、神様を無視することです。金銀財宝の価値を無視する人は、その主人になることができません。
皆さんがいくら困難な中にあるとしても、三日だけ祈祷すれば、先生が教えてあげるようになっています。そのような因縁を経た後にこそ、父子の関係を結ぶことができます。夜を徹しながら祈祷して、神様の体に代わらなければなりません。そのためには精誠を尽くさなければいけません。(二一-二三九、一九六八・一一・二四)
私たち食口の中で、先生の近くで侍って暮らす人たちが言うには、天国で暮らす気分だというのです。聞いてみると、あたかも天国で暮らしているものと錯覚しながら暮らすというのです。実際、皆さんのすべてがそのような域まで達しなければなりません。そのためには、熱心に祈祷して精誠を尽くさなければなりません。乙女が嫁に行って夫を愛する以上、独身の男性が愛する女性に対して命をかける以上の立場にまで行かなければなりません。そうすれば、直接に通じるようになります。その場にまで皆行かなければならないのです。堕落した愛より高い愛の峠を越えなければなりません。
そうして神様を欽慕し、思慕する心が、サタン世界のいかなる心よりも強いということができる新しい心情的な開拓地を開発しなければなりません。その場で初めて神様の愛の圏に入っていくのです。そのような場に入るようになれば、先生の命令によって死の場も恐ろしくなくなるようになります。ところが、先生の命令にああだこうだと理由を並べる人たちは皆、殼に過ぎません。(二一-二三八、一九六八・一一・二四)
三 刺激となる生活を創造せよ
祈祷をするには、一日の日課を始める前にしなければなりません。一日において最も重要な時間がいつかというと、早朝です。その早朝が一日の勝敗を左右する重要な時間です。その時間に祈祷しなければなりません。
その時間に祈祷をするにおいて、自分が今まで感じることができなかったあるものを感じてみるためには、自分を中心とした祈祷をしてはいけません。国家ならば国家、世界ならば世界という大きな目的を中心として祈祷しなければならないのです。(三〇-一二二、一九七〇・三・二一)
何でも習慣的になってはなりません。習慣は凝り固まった悪い癖です。皆さんが結婚して、子どもたちを生んで育てながら習慣的な生活をするようになると、そのような生活が体にしみついてしまいます。そのような生活の中では、特別な精誠を尽くすとか、祈祷をする時間がないのです。子どもたちがそばで騒ぐので、祈祷することができる時間がないのです。
ですから、環境を革新しなければなりません。いつも子供たちがいない静かな所とか、聖地を訪ねていって祈祷する時間をもたなければなりません。それで自分自ら刺激を受けることのできる場を備えなければなりません。そうでなく、習慣的な生活環境にそのままとどまっていては、自分自身の発展を期待するということは妄想です。常に新しい与件を介入させなければならないのです。(三〇-一二四、一九七〇・三・二一)
刺激は何を通して受けるのでしょうか。それは祈祷しかありません。祈祷をして、それから伝道をしなさいというのです。伝道しながら、自分が心から接している人たちが自分を異端として扱い、詐欺師として扱ったとき、激憤する心を忘れてはなりません。骨のない男になってはいけません。だれよりも天を考えながら、人のためになる立場にあるときに受ける悲惨さとわびしさは、人生において忘れることができません。それが恵みというものです。(五六-五八、一九七二・五・一〇)
第二章 摂理的中心人物たちの祈祷
第一節 モーセの祈祷
いかなる豪華絢爛な立場でも、選ばれた民であるという思いを忘れなかったモーセ、すなわちアブラハムの祝福とヤコブの祝福を忘れずに、一貫して民族の遺業を相続しようという意志を固めてきたモーセにおいて、祝福は当然のことだったのです。モーセは豪華絢爛なパロの宮中で、王女の息子として天下を手にすることができる環境にいたとしても、彼の心は違いました。
そのような生活の中でも、祖国のために人知れず祈っていたモーセでした。良い服を着るたびに、塗炭の苦しみの中に倒れていく民族を心配したモーセでした。彼は良い服を着て民族を眺めるとき、より一層胸が痛かったというのです。「いっそ私がおまえたちと同じ立場にあって、同じ服を着ていたならば気が楽なのに…」と考えたモーセでした。すべてが豪華絢爛な環境で彼らを眺めるたびに、胸にくぎ打たれたのです。
彼は「神様! あのかわいそうな民族のために私が先頭に立ちます」と数十年間、人知れず祈祷しました。一途な心で神様の心情の骨髄に通じうる祈祷をしました。そのような動機があったので、神様はモーセを選んだのです。自由で豊かで豪華な環境の中でも、天に対して真心を込め、民族のために生きることにおいてイスラエル民族のだれにも比較できないほどの忠誠の心情を、モーセはもっていたのです。(一〇-三三七、一九六〇・一一・二七)
昔のノアやアブラハムだけでなく、曲折や事情も知らずに選ばれた者たちも、やはり無念な路程を歩みました。神様のために生きようという一念で歩んだヤコブも、ハランに向かって行くとき、石の枕をして涙あふれる路程をたどりました。モーセも同じです。豪華燦爛な外的なすべてのものを備えたパロの宮中は、彼を幸せにし満足させることはできなかったのです。彼が置かれた所は、怨讐の場所でした。それゆえ、一片丹心で天の前にひざまずき、人知れず涙を流しながら、祈祷を絶やすことのなかったモーセであったということを、皆さんは知らなければなりません。(一一-二五、一九六〇・一二・一一)
モーセは、イスラエル民族が祝福された民族であり、アブラハム、イサク、ヤコブの血族であることを知っていました。それで、イスラエル民族が怨讐サタンにもてあそばれてはならないと考えました。モーセは豪華なパロの宮中でも、カナン復帰の一日が来ることを切に待ちこがれたということを知らなければなりません。
彼は自分の国を恋しがりながら、祈祷を絶やすことがありませんでした。そのようなモーセを知らなければなりません。パロの宮中の豪華な生活の中でも、イスラエル民族が大きな苦難と苦痛を強いられているということを感じれば感じるほど、イスラエル民族の生活と自分の豪華な生活との差が大きければ大きいほど、イスラエル民族を愛さなければならないという思いが強まったモーセでした。
ミデヤン荒野で四十年間、羊飼いとしての生活をしながら、羊の群れを追うたびに、彼の心はパロの治めるエジプトで呻吟しているイスラエル民族を忘れませんでした。また、羊の群れを呼び集めて羊小屋に追い込むたびに、その羊の群れがイスラエル民族のように思われました。そのような境地でモーセは「生きておられる神よ! イスラエルを捨てないでくださいませ」と祈祷したのです。(一三-一七八、一九六四・三・一五)
モーセの祈祷は、自分一身の栄華のためのものではありませんでした。モーセは、神様が自分をこの地に送られたのは、自らのために送ったのではなく、民族と世界のために送られたのだということをだれよりもよく知っていたのです。これから世界的なカナンの福地を眺めながら進んでいく私たちも、このようなモーセの心情を受け継がなければならない、選ばれたイスラエルの民であるということを自覚しなければなりません。(二-二六四、一九五七・六・一六)
パロの宮中で王女の息子として育ったモーセは、個人的に何一つうらやむことのない幸福な環境でも、心の中では、「ここは私のいるべき所ではなく、私が住むべき所でもな! 私が享受すべき福地ではない。この地も天が祝福なさったイスラエル民族が住むべき所ではない」と考えました。カナン七族が占領したその地を、パロの宮中で四十年間、目を閉じても開けても恋しく思いながら、「お父様、イスラエル民族にカナンの地を主管せよと言われた約束が成されるようにしてくださいませ」と言って祈祷したという事実を皆さんは知らなければなりません。そのような心がエジプトで苦役を強いられていた六十万のイスラエル民族以上であったために、イスラエル民族はモーセを指導者として立てたのです。(八-二四、一九五四・一〇・二五)
ミデヤン荒野で生活したモーセは、パロの宮中で豪華に暮らしたことを恥ずかしく感じ、パロ王の娘が自分のためにすべての願いを聞き入れてくれるという自由な環境で暮らした過去の富裕栄華をすべて忘れました。そして、羊飼いの服を着て、羊の群れを追い回す無名の牧童の身分でしたが、その羊の群れを眺めながら、神様がアブラハムに約束なさったカナンの地を恋しく思いました。
今はたとえ羊の群れを追い回すとしても、いつかは羊の群れを追うように、イスラエル民族を率いてカナンの地に入っていこうという思いを忘れなかったモーセでした。ソドムとゴモラの人々が知らない中で彼らのために切に求めたアブラハムのように、モーセは食べても食べられなくても、寝ても覚めても民族のために心配して精誠を尽くしてイスラエル民族のために祈祷しました。(一-一四一、一九五六・七・一)
神様を裏切る民族を見つめるモーセの心情は、いっそ自分が死んでしまったほうが楽だったはずです。しかしモーセは、先祖たちの時から今まで神様が祝福してくださった歴史的なイスラエル民族であると考えました。そして、自分の子孫たちとも永遠に共におられる神様であるということを考えるとき、モーセは逃げることはできなかったのです。
モーセはイスラエル民族をほうり出すことはできませんでした。そのような指導者の立場に立っていたモーセのつらさというものは、だれにも想像できないものでした。それでモーセはシナイ山に登って、四十日間の祈祷をしました。民族と一体にならなければ、カナンの地に入っていくことができなかったからです。(一五-二〇、一九六五・一・三一)
第二節 イエス様の祈祷
一 イエス様の祈祷内容
神様は四千年間準備して送ったイエス様がどのようになることを願われたでしょうか。十字架にかけられるイエス様ではなく栄光のイエス様になることを願われました。イエス様が祈祷なさった目的も、そのような神様のみ旨を成し遂げてさしあげるためのものでした。(七-三一四、一九五九・一〇・一八)
イエス様はよくぞ言ったものです。神様は私の父である! 実にこのようなことを語った人はイエス様が初めてです。イエス様が祈祷した内容も、「父よ、どうか、この杯をわたしかち取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ一四・36)と言いました。これは人を中心とした考え方ではありません。神様を中心とした考え方です。このような考え方で、真の人生の目的を模索した代表的なかたがイエス・キリストでした。(四一-二三四、一九七一・二・一八)
有史以来、堕落した世界を復帰してこられた神様の前に、天宙的な因縁を中心として、血の汗を流し、命をかけて身もだえしてこられたイエス様と同じ立場に立つことができなければ、神様の息子、娘にはなれません。イエス様も十字架にかかって亡くなりましたが、復活することができたので神様の息子として決定されたのです。イエス様は祈祷するとき、皆さんのように自分を中心とした祈祷はしなかったのです。(一七-一二九、一九六六・一二・一一)
イエス様の最後の祈祷は何でしたか? イエス様も人間であるゆえに、「アバ、父よ、できることなら、わたしの思いのままにさせてください」と言うこともできました。しかし、イエス様はそのように祈祷しませんでした。俗的な人間性を踏み越えて「わたしの思いではなく、父のみこころのままになさってください」(マルコ一四・36)と言って、神様の意に従ったのです。(二四-二一、一九六九・六・二二)
イエス様は、自分の喜びや幸福のための祈祷はしませんでした。ゲッセマネの園で祈祷するとき、「アバ、父よ、どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ一四・36)と言いました。父の思いとは何でしょうか。万民の死と苦痛に責任を負いなさいというものでした。イエス様が犠牲になっても、万民に幸福を与えようとなさったのが神様の願いでした。(三四-一三七、一九七。・八・三〇)
聖人となりうる内容とは何ですか? 世界のために生きることです。イエス様はなぜ聖人ですか? イエス様はユダヤの民によって追い込まれました。ローマ兵たちに無念に殺されたので、彼らはイエス様の怨讐でした。また、イエス様には国と世界を愛さなければならない何の理由もありませんでした。むしろ、イエス様は怨恨に満ちて復讐するために歯ぎしりしなけれぱならないほどだったのです。
しかし、イエス様は死んでいきながらも、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・34)と祈祷したのです。その祈祷は、その場を中心としてしたものではありません。未来を中心としてしたものです。(三四-三三九、一九七〇・九・二〇)
十字架を前にしたゲッセマネの園でのイエス様の三度の祈祷は、いかなる祈祷よりも深刻な祈祷でした。神様はその場を注視せざるをえませんでした。人類の願いを訴えるその場は、神様が注視せざるをえなかったのです。
ですから、だれであれ、その願いを成し遂げるためには、イエス様と共に死の場にまで行かなければなりません。神様の願われるとおりしてくださることを願い、その願いを成し遂げようとするのが、生きたキリスト教の姿ではないかというのです。(三五-三四、一九七〇・九・二七)
ゲッセマネの園を訪ねられたイエス様は、どれほど深刻だったでしょうか。「父よ!」と呼んだ祈祷は、血と汗と涙の祈祷でした。わけもなく血と汗と涙を流すのではありません。イスラエルを救うために、血と汗と涙の出る祈祷をなさったのです。ところが、そのようなイエス様の心情を知らずに、ペテロ、ヨハネ、ヤコブは眠っていたのですから、どれほどあきれるようなことだったでしょうか。(一九-三二六、一九六八・三・二九)
イエス様がこの地上に来たとき、イスラエル民族はどれほど謀略を図り、裏切ったことでしょうか。イエス様はそのような謀略と裏切りを受けることよりも、十字架にかかって死ねば後代の信者たちに途方もない困難の道が残るようになるという事実について、もっと悲しみました。それで、ゲッセマネの園で三度の祈祷をなさったのです。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ二六・39)とです。(一四-五三、一九六四・五・三)
イエス様は「神様が彼らに希望をもち、私をイスラエルの地に送り、私は三年余りの間、彼らのために生き、彼らのために戦った。彼らのために戦った目的は、彼らを救おうとするためであって、罰を与えようということではなかった。もし私がここで彼らを呪ったならば、彼らの子孫たちまでもすべて地獄に行くだけでなく、今までの復帰歴史がすべて崩れるだろう」と考えました。
それで三回の祈祷をしたのです。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・39)と血に染まった訴えをしたのです。そのようなイエス様の心情をだれが知っていたでしょうか。(一四-五八、一九六四・五・三)
神様が四千年間、所願成就の一日のために、イスラエル民族を通じて準備していたすべてのことが水泡に帰してしまったので、血のにじむ復帰の道を歩んでこられたのです。神様はイスラエル民族に災いを下して一掃しても余りあるものでしたが、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ二三・34)と言って祈祷したイエス様のその祈祷の条件があったので、その民族を一掃してしまうことができなかったのです。
そのようにイエス様が死んでいきながらも、哀切で懇切なる祈祷を捧げたのはなぜでしょうか。イエス様の死によって、今もなお残っている地上天国の理念を失うようになれば、神様が願われ、精誠を尽くしてこられた四千年の歴史の功績が崩れるということを知っていたからです。イエス様はそのような歴史的な心情をもって神様の前に祈祷したのです。(一五-三三五、一九六五・一二・七)
ゲッセマネの園での三度の祈祷は何のためだったのでしょうか。自分が十字架にかかって死んでいけば、イスラエルの子孫たちが十字架の道を行かなければならないということを知っていたので、そのような祈祷をしたのです。イエス様によってイスラエル民族は救いを受けなけれぱならないのですが、そうすることができずに、イエス様が十字架にかかって死ぬようになることでイスラエル民族の子孫たちも十字架の道を行かなければならないということを知っていたのです。それゆえ、イエス様がその子孫たちの怨恨を地上で蕩減復帰させるためにこの地に再び来ざるをえないのです。(一四-六四、一九六四・五・三)
ゲッセマネの園でのイエス様の祈祷は深刻でした。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ二六・39)と祈祷しました。それは無条件でした。神様は愛の主体であるゆえに、神様から愛を受けようとするイエス様は無条件に従ったのです。神様が要求することがあるならば、何でもすべてなしてさしあげようとしたのです。
そのようにイエス様が祈祷なさったのは、神様の前にそっくり差し上げれば、そっくり受けるようになっているからです。自分の思いどおりにするより、お父様の思いどおりにすることによって、勝利の立場に立つことができるので、イエス様はそのように祈祷をなさったのです。イエス様は神様のすべてのものをもって、再び生まれることができるという希望を抱いて亡くなったので、地獄世界を脱皮して復活したのです。(二八-一七二、一九七〇・一・一一)
メシヤは命をかけて使命を果たさなければなりません。それで、イエス様も十字架を前にして「神様のみこころのままになさってください!」と最後の祈祷をしたのです。だれであれ、最後の祈祷はそのようにしなければなりません。命をかけてしなければなりません。み旨の前でそのような信念を貫徹しなければなりません。死んでも戻ることはできません。イエス様もそうであり、先生もそうです。命を失ったとしても前進だけがあるのであり、後退は許されません。先生の生涯がそうなのです。(二二二-三三三、一九九一・一一・七)
二 怨讐を愛したイエス様の祈祷
イエス様が自分を十字架にかけたローマの軍兵たちを見ながら「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と祈祷しました。その祈祷の中にイエス様自身を中心とした思いがあったでしょうか、なかったでしょうか? 今日のキリスト教徒たちがそのような立場にあったとすれば「神様、彼らを審判してください!」と祈ったでしょうが、イエス様はそうではありませんでした。ですから、今日のキリスト教は滅びるという論理がここから出てくるのです。
なぜイエス様はそうされたのでしょうか? 神様が人間世界のために投入しては忘れ、投入しては忘れてしまったという事実を知って、息子として死を越えてでもそのような道を残さなければなりませんでした。それゆえにそうしたのです。そのようにイエス様が怨讐に恵みを祈ってあげることによって、神様はイエス様を最上の位置に立てることができたのです。そのような摂理的な基盤の上で、キリスト教国家を中心として第二次大戦直後に世界の統一圏が築かれたという事実を否定することはできません。それをキリスト教は忘却しています。(二三〇-二三二、一九九二・五・一〇)
だれも信じられないことを信じるということは偉大なことです。だれも信じられないことを信じて、それを行うために命をかけて出ていく人がいるならば、偉大な人だと言わざるをえないのです。イエス様がそうでした。イエス様は死を目前にしていたにもかかわらず、「私の思いのままにではなく、みこころのままになさってください」と祈りました。だれでも裸にされてむちで打たれるようなれば、「ああ、痛っ、痛い…!」と言うのであって、「父よ、痛いですか?」とそのように言うでしょうか? それでもイエス様は、「父よ、私の思いのままにではなく、みこころのままになさってください!」と祈ったのです。それは「私は大丈夫です。お父様が痛いでしょう?」ということだったのです。次元が違いました。(四四-二五三、一九七一・五・二三)
神様は追い込まれ、むちで打たれ、虐待され、あざ笑われたイエス様を眺めるとき、同情せざるをえませんでした。イエス様がゲッセマネの園で「父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください!」と祈祷しましたが、それは人類のための祈りでした。しかし、一旦決定してからは、すべてを受け入れました。今日でも立派な将軍ならば、死に臨んでは小銃に撃たれて死ぬのではなく、原子爆弾にあたって死のうとするでしょう。
イエス様は、民族的な呪いや嘲弄が大きなものだとは考えませんでした。「おまえたちが私の行くべき天倫の道を混乱させたり、ふさいだりはできない」という心で、イエス様は父の心情を感じて戦いました。先生はそのように思います。だれかの話を聞いて話しているのではありません。探ってみたらそうだったというのです。(二〇-二一六、一九六八・六・九)
アダムとエバは欲心によって堕落しましたが、イエス様は死を前にしても神様を裏切ることはありませんでした。ゲッセマネの園で十字架にかかる前に三度の祈りまで捧げました。「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」(マルコ一四・36)と祈祷したのです。そのように祈祷したのは人間の意を中心としたものではなく、父のみ旨を中心としたものでした。そのようにして始まったのがイエス様の死の道でした。そこでイエス様は堕落した人間始祖以上の基準を立てたのです(二一-三八、一九六八・九・一)
イエス様は宇宙的な使命をもってこの地に来ましたが、生涯苦難の道を行かれました。しかし悲しみのために祈祷するのではなく、お父様を心配し心を痛めたのです。人間たちの無知に耐え難い思いをされたイエス様だったのです。イエス様は神様に代わって苦労しようと乗り出したので、死のうが生きようがお父様のみ旨だけを中心として生きました。イエス様は神様が知っていてくださろうがくださるまいが、地上の人間が知ってくれようがくれまいが関係なくみ旨のために生きました。(一-二〇、一九五六・一二・二三)
イエス様が十字架上で救いの基準を立てることができたのは、神様と全人類のために死ぬことができるという愛の心があったからです。その当時、イエス様は「父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」と祈りました。
そのように死の峠を越えて、お父様のみ心のままに生きることを願われたイエス様だったので、神様の愛を人間たちに連結させることができたのです。それほどイエス様の路程には驚くべき愛が内包されていたという事実を私たちは知らなければなりません。(二-一一、一九五七・一・六)
イエス様は十字架につけられて亡くなる瞬間まで、すべてを神様に捧げました。神様から与えられた使命が地上に残るように、死ぬ瞬間までお父様のみ旨を実現しようという心情に徹していたのです。イエス様は怨讐たちまでも救わなければならないという責任を感じながら、彼らのために祈祷したという事実を皆さんは知らなければなりません。(二-一〇一、一九五七・三・六)
イエス様は人間たちのために、死の峠を越えていきながらも、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と祈祷しました。その道は今まで他の人たちがだれも行けなかったイエス様だけの独自の道です。(二-二三二、一九五七・六・二)
イエス様が最後に天に向かって祈祷するとき、「父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」と祈りました。それは人間世界のすべてを超越した祈祷でした。イエス様ご自身の死が悔しいのではなく、お父様がもっと苦労され、もっと痛々しくもっと悔しいであろうと考えたのです。
イエス様は万民を救わなければならないという神様のみ旨があるということを知っていたので、死の道を行くことができたという事実を知らなければならないのです。イエス様は十字架の死を控えて、全人類を救うためのみ旨を中心として神様の心情と通じることができたので、死の道を行ったというのです。
イエス様は眠さも忘れて夜を明かし祈祷するときも、お父様が共にあられることを感謝する心で祈祷しました。三十余年の生涯を歩む間に、迫害が押し迫り、困難な十字架が横たわった立場でも、そのすべてを越えることができる心情をもって生きました。それゆえ、サタンが侵犯できなかったのです。(七-五四、一九五九・七・一二)
イエス様が「お父様!」と言えば、お父様も「よし!」と言われました。イエス様が「お父様!」と言ったその一言に、神様は億千万人の祈祷の世界を超越した心情を感じました。「お父様!」、「よし!」といった、そのような因縁は神様の創造目的を中心としたものでした。何もどうすることもできず、いかなるものも否定できず、いかなる条件でもふさごうにもふさぐことのできない因縁でした。皆さんもそのような場に入っていってみたことがありますか?
皆さんがそのような場に入っていって祈祷すれば、夜が問題ではないのです。ご飯を食べたのか食べなかったのか、寝たのか寝なかったのかを忘れてしまうのです。そのような認識を超越するようになります。人間の認識を超越するのが愛の世界です。イエス様がゲッセマネの園で祈祷した時間も、他の人たちには分からない幸福の時間でした。「お父様!」と言って呼んだその瞬間は、イエス様のすべてが心情世界に同化されていった瞬間でした。(七-五七、一九五九・七・一二)
イエス様の祈祷は世の中のだれも分からなかった次元のものでした。イエス様は万民が理解することができなかった次元で祈祷し訴えました。イエス様がゲッセマネの園で血の涙を流しながら祈祷したその場は、神様とサタンが対立していた場であり、そのように祈祷した時間は人間のすべての苦痛と悲しみだけでなく、死の境地までも超越した瞬間であったという事実を知らなければなりません。そのような境地でイエス様に一つの心情が通じました。「天上と地上のいかなるものも、私の心を通じているこの心情だけは侵すことはできない」という基準が立っていたのです。(七-八一、一九五九・七・一九)
イエス様がゲッセマネの園で、内的には神様の苦痛、外的には聖徒たちの苦痛を考えながら祈祷した心情を知らなければなりません。そこでイエス様が「お父様…!」と言ったのは神様の創造の心情、イエス様ご自身が責任をまっとうすることができなかった心情、そして未来を心配して心を痛められる神様を考えながら叫んだ呼び掛けであったということを知らなければなりません。
イエス様が「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください」と言って祈祷したのは、自らが苦痛から逃れようとするものではなく、創造目的が成就するか否かが自らにかかっていたからです。それで、その難関を避けて創造目的を果たすことができるようにしてくださいという祈祷だったのです。(一二-二五、一九六二・七・一五)
イエス様はゲッセマネの園で夜を明かして祈祷しました。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」と言って祈祷しました。それは「この地上にあなたが私を送られたのはお父様の基準を立てるためであり、私が生まれたのは息子の基準を立てるためでした。しかし、お父様の基準を立てていない立場でこのように挫折するわけにはいきません」という意味でした。それがイエス様の心情であったことを知らなければなりません。天地が崩れるようなことがあったとしても、お父様のみ旨に背くことはできなかったのです。(八-二五二、一九六〇・一・一七)
だれであれ、「神様、私が地獄に行ってお父様の苦痛を体恤できるようにしてくださいませ!」と言って心からわき上がる心情で祈祷する人がいるならば、その人は地獄へは行きません。しかし、「ああ、神様! 地獄は嫌ですので天国に送ってください,ませ!」という人は地獄に行きます。地獄に行くのです。
イエス様は十字架上で「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と言って祈祷しました。そのように祈祷したのは、四千年間イスラエル民族を救うために地獄の苦痛にあわれた神様の心情を考えるとき、イエス様ご自身も十字架の道を避けられないと感じたからです。(七-一六二、一九五九・八・三〇)
先生は、イエス様がゲッセマネの園で「わが父よ、もしできることでしたらどうか。この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」と言って祈祷したのは、キリスト教の解釈どおりだとは考えません。それはイエス様ご自身のための祈祷ではありませんでした。
イエス様がそのように祈祷したのは、数多くの人間たちもそのような運命に処するようになることを知っていたからです。それで、先生はイエス様を認めるようになりました。先生がそれを知って初めて「さもありなん…!」と考えました。もしイエス様がそのように祈祷しなければメシヤになりうる資格はなかったでしょう。
では、イエス様が「すべてが終った」(ヨハネ一九・30)と言ったのはどのような意味でしょうか。世界を征服したという意味だったでしょうか? 先生はそれをこのように考えます。イエス様が自分を十字架にかけたローマの軍兵たちを見ながら、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と祈祷したその瞬間に世界を占領できる基準が立てられたと考えるのです。それで、イエス様は「すべてが終った」と言ったのです。(一七-二六、一九六六・一一・六)
イエス様が十字架にかかって亡くなった瞬間に、怨讐のために祈った基準があったので、殺人の罪を犯した罪人たちも赦されうる道が開けました。そして、イエス様が強盗を楽園に連れていった基準があったので、僕の立場にある人間たちも楽園に行くことができる道が開けたのです。(一三-七七、一九六三・一〇・一九)
イエス様が到達した最高の境地とはいかなる立場だったでしょうか。死の立場でも怨讐のために祈祷した境地です。どうしてイエス様はそのような境地にまで到達しなければならなかったのでしょうか。サタンを完全に征服するためでした。サタンを完全に征服しようとするならば、サタンが讒訴しうる条件に引っかかってはなりません。それで、イエス様はそのような境地にまで行かざるをえなかったのです。いかなる不幸な立場でもサタンの条件に引っかかってはなりません。イエス様がサタンに何らの条件も奪われなかったので、サタンと関係のない立場に立つことができたのです。(一七-二七、一九六六・一一・六)
三 神様に対するイエス様の孝心
イエス様は三十余年の生涯にどのような祈祷をしましたか? 「神様、私はこのように暮らしていますが心配なさらないでください! 私はこのように暮らすのが王宮で暮らすよりもよいのです。私はこのようにかんながけをして暮らすのが、王宮で贅沢に暮らすよりもよいのです」と言って祈祷しました。そのように悲惨な立場でもイエス様は自らを送られた神様の願いを知っていたので、「落胆なさらないでくださいませ!」と神様を慰労したのです。(一四-六〇、一九六四・五・三)
祈祷しながら「お父様…!」というときには、口だけのお父様になってはいけません。骨髄から刺激を感じうる立場でお父様を呼ばなければなりません。それで、すべての環境を消化させて感情的な屈曲をすべて吸収できる能力を備えなければならないのです。そのような皆さん自身を発見しなければなりません。(七六-二九、一九七五・一・一九)
イエス様は神様の祝福を受けることができる新郎と新婦の因縁を恋しがり望んでいました。そして、小羊の婚宴を中心として十四万四千の群れと共に歓喜の歌を歌いながら、すべての栄光をお父様に返すことを願いました。それがイエス様の念願でした。
しかし、イエス様はイスラエル民族の不信によってそのような願いを実現することができず、ゴルゴダで十字架にかかって亡くなりました。イエス様がゲッセマネの園で十字架を前にして血の汗を流して祈祷したのは、神様の切実なる、悲痛なる心情を代弁した祈祷でした。その祈祷はイエス様ご自身のためのものではありませんでした。イスラエル民族とサタン、そして三弟子たちのための祈りでした。(四-二六一、一九五八・二・二三)
皆さんが祈祷するとき、安らかな立場で祈祷をすれば恵みを受けることはできません。神様に代わることのできる路程を歩まなければなりません。イエス様がイスラエル民族に追い込まれて裏切られるたびに、どのように祈ったのか分かりますか? 「お父様、私に恵みを下さり、楽に暮らせるようにしてくださいませ」という祈祷はしませんでした。
そのたびにイエス様は、「お父様、悔しいです。あなたは歴史路程において、どれほどこのような路程を通過せざるをえなかったでしょうか」と言って祈祷しました。それで、「私の流す涙はお父様に代わる涙だ!」と考えて祈祷したというのです。(九-一二〇六、一九六〇・五・二二)
愛する弟子たちから裏切られ、ただ一人で全責任を担っていかなければならなかったイエス様を考えてごらんなさい! もしイエス様が人間たちに対して嘆き、恨もうと考えたならば、地を叩きながら泣きに泣いても三十年の生涯の恨みをすべて解くことはできず、それだけでなくその間の苦衷に対する補償を受ける道もなかったのです。
イエス様は、人類がサタンの統治下で苦痛を受けるのを心配する哀れみの心情で十字架にかかって亡くなる場でも、裏切った民族、裏切った弟子、裏切った人類のために祈りました。四千年の人類歴史上にはなかったことでした。それは天上と地上の垣根を壊すための祈祷だったということを知らなければなりません。(一-二七一、一九五六・一二・二)
イエス様は歴史的なすべての犯罪史を清算し、新しい歴史の起源を築くための責任を担い、神様の国を築かなければならないイスラエル民族のために、「怨讐たちの罪を私に担わせてくださいませ!」という祈祷をしながらみ旨を果たそうとなさいました。イエス様がそのように祈祷しながら果たそうとしたみ旨は、今日まで引き続き全世界的に展開しています。
今日にも韓国の教会を代表して、「神様、私に世の中のすべての罪を担わせてくださり、生命をすべて捧げてサタンと戦うことができるようにしてくださいませ!」と祈って進み出る息子、娘がいるならば、摂理歴史の基準はこの民族を通して立てられるでしょう。(二-八九、一九五七・三・三)
イエス様は、十字架上で民族のために祈祷し、自分は死んでも責任を完遂するという心をもっただけでなく、死を超越して神様のみ旨を心配したので復活することができました。そのように復活したイエス様に対してサタンは讒訴することはできませんでした。皆さんもそのような人格体になれば、サタンは讒訴することはできません。(二-一四一、一九五七・三・一七)
何のためにイエス様がゲッセマネの園で、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさってください」と祈ったのでしょうか。神様の悲しみと人間の悲しみに対して、だれが責任を負うのかを心配したからであり、イエス様が十字架にかかって死ねば、数多くの聖徒たちも死の道を行かなければならないということを心配したからです。(二-二〇八、一九五七・五・二六)
聖書では「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ五・44)とあります。そのようにイエス様が主張したことは、私たちが立てなければならない法度であり、永遠なるお父様の民族が誇らなければならない伝統です。その道理は当時にだけ限定されたものではなく、人類を復帰させるのに必要な天倫の法度です。(四-一一〇、一九五八・三・一六)
イエス様がゲッセマネの園で祈祷するとき、三弟子たちは一晩も夜を明かすことができずに眠っていたのをご覧になったにもかかわらず、どうして叱ることができなかったのでしょうか。それは四千年間、神様を裏切ってきた人間たちが多かったのですが、叱責することもできず、審判することもできなかった神様の心情を知っていたからです。イエス様のそのような心情を体恤することができなければなりません。それで、皆さんもゲッセマネの園で祈祷したイエス様の心情で祈祷しなければなりません!
ゴルゴダ以上の犠牲になってもしかたのない人間たちであるにもかかわらず、自分たちが苦労したことが少しでもあれば、「ああ、神様! この苦労をお受けくださいませ!」と祈祷し、自分たちに少しでも何か事情やつらさがあれば、「神様、私の事情を引き受けてくださり、私を慰労してくださいませ!」と言って祈るのです。ですから、神様の心情と人間たちの心情は相克的であるという事実が分かります。(四-一二二、一九五八・三・二三)
神様は人間たちに、「死ぬほど聖書のみ言だけを読みなさい」とは言われませんでした。イエス様も、「死ぬほど私のみ言だけを聞きなさい!」と言ったのではなく、「休まずに祈祷しなさい」と言われました。イエス様は三年の公生涯路程で多くのみ言を語って逝かれました。しかし、イエス様のみ言をつかんで生きなさいとは言われませんでした。イエス様の実体をつかんで心配してくれることを願いました。(七-五二、一九五九・七・一二)
イエス様は逝きました。イエス様は成すべきことをすべて成しえずに逝かれました。では、だれが残されたみ旨に責任を負うのでしょうか。だれがその真理を引き継いで人間たちに教えてくれるのか、開拓しなければならない人間の心の畑をだれが開拓するのか、立てるべき生命の基準をだれが立てるのか、永遠なる愛をだれが因縁づけてくれるのだろうか。そのような問題ゆえに、今でもイエス様はもどかしい思いを抱きながら神様の右側で祈祷しなければならない運命にあるという事実を知らなければなりません。(七-一九四、一九五九・九・六)死の道を行かなければならないということを心配したからです。(二-二〇八、一九五七・五・二六)
聖書では「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」(マタイ五・44)とあります。そのようにイエス様が主張したことは、私たちが立てなければならない法度であり、永遠なるお父様の民族が誇らなければならない伝統です。その道理は当時にだけ限定されたものではなく、人類を復帰させるのに必要な天倫の法度です。(四-一一〇、一九五八・三・一六)
イエス様がゲッセマネの園で祈祷するとき、三弟子たちは一晩も夜を明かすことができずに眠っていたのをご覧になったにもかかわらず、どうして叱ることができなかったのでしょうか。それは四千年間、神様を裏切ってきた人間たちが多かったのですが、叱責することもできず、審判することもできなかった神様の心情を知っていたからです。イエス様のそのような心情を体恤することができなければなりません。それで、皆さんもゲッセマネの園で祈祷したイエス様の心情で祈祷しなければなりません!
ゴルゴダ以上の犠牲になってもしかたのない人間たちであるにもかかわらず、自分たちが苦労したことが少しでもあれば、「ああ、神様! この苦労をお受けくださいませ!」と祈祷し、自分たちに少しでも何か事情やつらさがあれば、「神様、私の事情を引き受けてくださり、私を慰労してくださいませ!」と言って祈るのです。ですから、神様の心情と人間たちの心情は相克的であるという事実が分かります。(四-一二二、一九五八・三・二三)
神様は人間たちに、「死ぬほど聖書のみ言だけを読みなさい」とは言われませんでした。イエス様も、「死ぬほど私のみ言だけを聞きなさい!」と言ったのではなく、「休まずに祈祷しなさい」と言われました。イエス様は三年の公生涯路程で多くのみ言を語って逝かれました。しかし、イエス様のみ言をつかんで生きなさいとは言われませんでした。イエス様の実体をつかんで心配してくれることを願いました。(七-五二、一九五九・七・一二)
イエス様は逝きました。イエス様は成すべきことをすべて成しえずに逝かれました。では、だれが残されたみ旨に責任を負うのでしょうか。だれがその真理を引き継いで人間たちに教えてくれるのか、開拓しなければならない人間の心の畑をだれが開拓するのか、立てるべき生命の基準をだれが立てるのか、永遠なる愛をだれが因縁づけてくれるのだろうか。そのような問題ゆえに、今でもイエス様はもどかしい思いを抱きながら神様の右側で祈祷しなければならない運命にあるという事実を知らなければなりません。(七-一九四、一九五九・九・六)
第三節 真のご父母様の祈祷
一 先生の祈祷は違う
皆さんの祈祷と先生の祈祷は違います。根本的に違うのです。先生が「お父様」と言うのと、皆さんが「お父様」と言うのは違います。私の知っている原理の価値と、皆さんの知っているものとは天地の差です。私の知っている先生という私自身の価値と、皆さんの知っている先生の価値も天地の差なのです。(七一-一四四、一九七四・四・二九)
皆さんが祈祷する内容と、先生が祈祷する内容は違います。皆さんの祈祷は漠然としていますが、先生の祈祷はそうではないのです。先生が切実な感情で「お父様!」と言うようになるときは、それは言葉では簡単ですが、そこには億千万年の事情が込められているのです。(五一-一九八、一九七一・一一・二一)
先生は、今まで家を離れて三十年以上の歳月を過ごしてきましたが、「神様、福を下さい。保護してください!」という祈祷は一度もしませんでした。妻子を捨てて七年間の旅人の路程を経てきましたが、妻子のためには一言の祈祷もしませんでした。(四〇-五七、一九七一・一・一六)
私が北の両親と決別をして離れたあとは、神様の前に、「私の両親に福をお与えくださいませ!」という祈祷は一度もしなかった人です。私が祈祷すれば、死んだのか、生きているのか、すぐに分かりますが、今まで知ろうともしなかった人なのです。(四七-一八六、一九七万八・二八)
お金がないからといって、神様の前にお金をくれと言ったことは一度もありませんでした。自分がすべきことは、皆しなければならないでしょう。死ぬときまで責任を果たそうとするのであって、神様に頼りません。だれでも自分の責任をまっとうしなければ神様は助けてはくれません。百を期待しておられるのに、八十ほどやっておいて、いくら祈祷したとしても助けてはくださいません。百二十ほどすれば、祈祷はしなくても助けてくれるのです。(三〇-七四、一九九九・五・一八)
先生の生涯の願いは何でしょうか。今まで先生が祈祷する目的は、統一教会を世界的に発展させようというところにはありません。そのような祈祷は一度もしませんでした。今でも統一教会に一元化させようという考えはありません。統一教会を通じて、どのように世界を救ってあげるかというのが問題です。世話になろうという立場ではありません。(五〇-二四四、一九七一・一一・七)
先生は、私の息子や娘たちのために一度も祈祷しませんでした。今でもそのような祈祷をする時間があれば、世界のために祈祷します。世界のために祈祷するのです。それで世界のみ旨がなされれば、私の息子、娘がいちばん初めに勝利の立場に同参することができるのです。それゆえ、神様も今まで、息子、娘の世話をしなかったのです。彼らを犠牲にしたのです。しかし、神様の栄光の日に自動的に同参することができます。それが天道です。(五七-二八二、一九七二・六・四)
今まで、先生は自分のための祈祷というものをしたことがありません。「私のために何々をしてください!」というような祈祷はせず、神様のみ旨を中心として世界のために祈祷しました。今でもそうです。家庭の暮らしには関心ありません。それは天がすべて責任を負ってくれます。(七三-六〇、一九七四・七・二九)
私は、自分の子供たちのために祈祷はしないのです。「私の息子、娘に福を下さい!」という祈祷はしないのです。先生が祈祷をするなら、「この時代の他の人々よりも神様の前にもっと忠誠を尽くした息子、娘たちがいたら、彼らを祝福してくださいませ。もし、この時代において、だれよりも大きな祝福を受けるべき人がいるならば、その人を祝福してくださいませ。私もその祝福の恵沢によって生きることができるようにしてくださいませ」というような祈祷をするのです。そうすれば滅びないのです。(一五四-三二、一九六四・三・二九)
ここで語っている人は、今まで皆さんのために血の汗を流してきました。だれが何と言おうと天地の前に誓うことができます。あらゆる精誠をすべて傾けて、皆さんのために今まで戦ってきました。皆さんの行くべき道に責任を担った者として、すべてを準備してきたのです。先生が道端で出会ったような因縁でもって、皆さんに接すると思いますか? 先生は祈祷するときにも、「四十年の生涯、私に接してこられたお父様!」という心情で祈ります。一つの生命をお父様の前に立てるか、立てられないかという決戦の岐路で責任を感じながら祈祷するのです。世の中の人々のように、ある題目を定めて説教を準備する人ではありません。そのときに必要なお父様のみ言を語ろうとするのです。そのような基準が立たなければ、苦闘して涙を流しながら祈祷するのです。皆さんの行く道を心配しながら祈祷するのです。(一一-一三〇、一九六一・三・二六)
礼拝のときには、すべての食口のために祈祷します。食口たちの苦痛を感じるからです。そのようなときは、たった五分でも祈祷してあげなければなりません。(一一-二二一、一九六一・九・一六)
私は、統一教会をどのようにしてくれという、そのような祈祷はしません。常に世界的な問題を掲げておいて、談判祈祷をしたのであって、私の息子、娘をどのようにしてくれ、統一教会の食口が苦労しているのでどのようにしてくれ、とは祈りません。私が統一教会の皆さんに苦労させているのに、苦労させておきながらも、「神様、福を下さい」とは言わないのです。ぎゃあぎゃあと泣き叫んでも苦労をさせていくので、神様がサタン世界に与えることができなかった福を下さるのです。(四四-二四八、一九七一・五・二三)
私が神様の前に祈祷するとき、「ああ、神様! 私を無条件にお助けください!」という祈祷は絶対にしません。そのようなつまらない祈祷をする人ではありません。むしろ祈祷をしないのならしないのであって、そのような祈祷はしないのです。「あなたが私を祝福なさることによって、あなたが利益となるなら祝福してくださり、損をするようならばほうっておいてください」と言って祈祷するのです。そのような思想をもったゆえに、全部が滅びる世の中で残って、成功することが可能だったのです。(九七-三一、一九七八・二・一九)
先生も若い青春時代に、この道を早く通過しなければならないと考えました。それで「今よりも十倍、百倍の困難が加わったとしても、早く行くことのできる道に私を送ってくださいませ」と祈祷したのであって、「私を易しい道へ送ってくださいませ」という祈祷はしたことがありません。そして「それがあなたの願うことであり、私が願うことであり、人類の願うことではないでしょうか。その道を行くのに私は弱者ではありません」と祈祷したのです。(九七-一三三、一九七八・三・四)
先生はアラスカに来て休んでいると思っていたでしょう? 釣りが目的ではありません。釣りに関しては、私は知らないことがありません。五大洋を連結させるのです。険しい波に出合うたびに、困難な国境を突破していく宣教師たちのことを考えるのです。皆さんのために考えて祈祷してあげるのです。皆良い相手です。相手のために祈祷するのです。(二三五-三一三、一九九二・一〇・二五)
アメリカが反対して、朴普煕とフレーザーが戦ったときも、私が、「神様! 私をお助けください!」と祈祷しなかったのです。「彼らと私が一つになるようにしてください」。このような祈祷はしましたが、「私をお助けください」というような祈祷はしなかったのです。私の責任なのです。(一一一-一四一、一九八・二・八)
二 宇宙の秘密を探すための祈祷
先生が学生時代に祈祷をするときには、のどか詰まるような祈祷をたくさんしました。しかし、だれもそのように祈祷をする理由を知りませんでした。二十歳前後の青年が、のどを詰まらせながら祈祷するのを見た人々は、「あの青年はなぜあのように祈祷するのだろう?」と言って変に感じていましたが、その祈祷には人の知らない心情が宿っていました。(二二-一二〇、一九六九・二・一)
レバレンド・ムーンは、宇宙の隠された秘密を探し出すために、一日に十七時間までも祈祷しました。通常、十二時間は祈祷しました。ですから、膝にたこができました。(一八九-六三、一九八九・三・一二)
宇宙の秘密をたどって探すための先生の背後の歴史には、涙の乾く日がなかったのです。そのような生活をしたので、外に行くこともできませんでした。常に一生懸命に祈祷をしました。一日に十七時間までも涙を流しながら祈祷しました。毎日、祈祷で流した涙の跡が残りました。木でできた床が全部濡れて、いくら乾かそうとしても乾かなかったのです。先生の涙が皆さんを讒訴する時が来るでしょう。(一九〇-二三五、一九八九・六・一九)
先生が誠を尽くすときは、一日に十七時間ずつ祈祷しました。これはすべてそのときにできたたこなのです。このごろはそのような祈祷はしません。祈祷の解放を迎えました。何であれ、知ろうとすることがあってこそ祈祷をするのです。すべて知ったので、これから私がすることしか残っていません。ですから、やることが忙しいのであって、祈祷するのに忙しいでしょうか。(二二〇-四一、一九九一・一〇・一三)
先生の祈祷は、普通聞けば、とても深くて何を言っているのかよく分かりません。霊界の一つの波長には数多くの周波数が入っているのです。そのような感情を表現しようとするので、普通は容易に分からないのです。私はその境地に入って聞くと実感がわきますが、皆さんは何を言っているのか分からないのです。ですから、それを書いて一度、二度、三度だけでなく、しきりに読めば読むほど、だんだん味が出てくるのです。み言もそうです。(二二六-三四五、一九九二・二・九)
先生の祈祷の内容は本当に感動的です。それを本来の声そのままで聞き取ることができなければ不幸なのです。先生も今、第三者の立場に立って聞くとき、その祈祷を先生がしたとは思えません。その叫び声が、二十年過ぎた今になっても先生を感動させます。ですから、だれでも感動するのです。それを聞いてみれば、だれもが「ああ!」と言って感動するのです。そのような感動はお金を出して買うことができるものではありません。国を与えても、世界を与えても取り替えることはできないのです。皆が貴重に感じうる一つの宝物なのです。(一九〇-二三五、一九八九・六・一九)
先生の祈祷には、先生も感嘆します。立派な祈祷なのです。このように言うと、自画自賛することになってしまいますが…。先生はそうなのです。先生は、説教の題目を定めて研究したことはないのです。なぜなら、縦的世界があるからです。まっすぐ垂直になれば水が流れるように流れるのです。水道の蛇口を開けば水が流れるように、聴衆を見ればその時々に必要なみ言が出てくるのです。(二四七-三二、一九九三・四・二一)
先生の祈祷は名文です。先生も今それを見れば、我知らずそこに引き込まれていくのです。これは詩的な内容をもった流暢な祈祷です。先生が自分を自慢しているようで申し訳ないのですが、そうだからそのように話すのです。嘘をついているわけではありません。世界のどこに出しても良いのです。世界の知識人たちにこれを読ませても、百パーセント公認することができるのです。(二五〇-二七三、一九九三・一〇・一五)
三 涙の跡が乾かなかった祈祷
私はあるとき、このような祈祷をしました。「お父様! 私はあなたから父母の情を感じるので、あなたの子女としてくださいませ!」という祈祷をしたのです。皆さん、このような祈祷をしてみたことがありますか? 六千年間、息子、娘を恋しく思ってこられた心で「そうか、私の息子、娘よ!」と言われ、体面も忘れ、泣いて良いのか、喜んで良いのか分からず身もだえしながら、抱き締めて喜ぶそのお父様に、皆さんはお仕えしたことがありますか? (九-二六、一九六〇・四・三)
東洋が夜になって休む時間ならば、西洋は昼です。東洋の人々が夜になって休む時間に、西洋の人々の中には神様に祈祷する人々がいるはずであり、神様を中心として闘争する人々もいるのです。このような地球を眺める神様は二十四時間、一瞬でも休むことができるでしょうか。
神様を除いては世の中の何事も解決することができないと見るとき、一から千万の事まで干渉し、善の決定を下さなければならない立場にあられるのが神様です。ですから、神様は極めてかわいそうなかたではないでしょうか。(三一-三九、一九七〇・四・一二)
統一教会の文先生は大変な星の下に生まれました。寝て起きてもひざまずいて祈祷しなければならないのです。そうではないですか? この時間にも世界に散らばっている統一教会員たちの中で、恵みを受けようとして祈祷している群れがいるのです。韓国は夜ですが、アメリカは昼なのです。ですから、アメリカでは血の汗を流して祈祷しているのではないかというのです。
それで、韓国にいる先生について祈祷しているときに、神様が私に代わってすべてを処理してくださることができるでしょうか? 「今や、彼らも疲れて寝なければならないだろうに、そうしているのではないだろうか」という思いが先生から消えないので、外国の食口たちは先生に会いたくて大騒ぎなのです。そのように見たがり、会いたがらなければならないのです。(四六-五三、一九七一・七・一八)
この頃、私は十二時に寝れば二時には起きたりもします。それでも昼、活動すれば疲れを知りません。頭が痛いのも忘れてしまいます。しかし、車に乗れば自分も知らないうちに寝入ってしまうことがあります。そのようなときがあります。その時間には神様に申し訳ないと祈りながら寝るのです。
そのような立場で神様が私を愛して共にあられるのを感じます。あるときは、なにげなく寝ている途中で驚いて目覚めるときがあります。そのときは運動をします。先生は特別な運動をします。疲れたときには面白い運動をします。そのように運動まで研究してこのようなことをしているのです。今後、皆さんにもその運動を教えてあげましょう。(四三-一三、一九七一・四・二五)
先生は疲れてだるいのですが、うとうとしません。お手洗いに行って十五分だけ運動して出てくれば、眠気が逃げ出していきます。そのような訓練をしなくては、祈祷ができません。十二時間、十七時間まで祈祷したのです。先生は十二時間の祈祷は普通です。朝昼晩にです。談判祈祷をするのです。(二六三-三二、一九九四・八・一六)
神様の愛を体恤しなければなりません。では、皆さんは神様の愛を体恤したことがありますか? それで一週間慟哭しうるそのような経験をしてみましたか? 腸がひっくり返り、細胞がひっくり返らなければならないのです。そのように新しい体恤をするようになると、どこへ行こうが飛ぶような気持ちになるのです。世界が新しくなるのです。ですから、かつては体を中心として考えて暮らしていたのが、完全に体はなくなり、心の世界を中心として暮らすようになります。
そのようになると、どこに向かっていく道が良い道か、悪い道かが分かります。しきりに行けば行くほどに足が重くなり、行きたくなくなります。しかし、良い道はどんなに困難な道であったとしても、出向くときには大変でも、足がささっと行くのです。そのような経験をしたことがありますか? それが天に向かっていく信仰の道です。
そのような立場に立とうとするならば、徹夜しながら祈祷もしなければならず、身もだえもしなければならず、慟哭もしなければならず、孤独な立場も越えていかなければならず、死亡の線も越えなければなりません。八十になり、百歳になると、次第に気力が衰え、流す汗はなくなりますが、涙は深くなるのです。そのような生活をしなければならないのです。次第に汗は乾いていきますが、涙は深まっていかねばならないのです。(二五四-三〇一、一九九四・二・一六)
先生の心は、み旨を中心として異義がありません。私の一生の七十三年間、監獄に行こうがどこに行こうが、変わることはありません。拷問され血を吐き、気絶して倒れたとしても、「私があなたの前に定めた思いは変わりありません。むしろ、あなたが変わるかと思って心配します」という祈祷をしたとしても、監獄で我慢できないから私を助けてくれという臆病者のような祈祷は一度もしませんでした。(二三三-三三、一九九二・七・二〇)
祈祷するときに、神様のみ旨は何であり、神様の事情は何であり、神様の心情はどうであるのかを知らなければなりません。それで神様が最も悲しまれること一つをつかんで、一生泣きながら祈祷してみなさい。そうすれば天国に行きます。他の何かをどうのこうのと祈ってみたところで、すべて必要ありません。神様が最も悔しいこと、最も悲しいこと、最も喜ばれることが何であるのかを知らなければなりません。
聖書を見ると、神様にはうれしいことはありませんでした。悲しみだけでした。人間たちから裏切られ追われてきたのですから、うれしいときがあったでしょうか。それを解決すれば良いのです。友人も相手の悲しみを知って心情が通じてこそ本当の友人です。孝子も、だれでもなれるものではありません。忠臣も同じです。それを知らなければなりません。六千年間神様が歩んでこられた路程がどのようであったのかを知らなければならないのです。(九-二三三、一九六〇・五・二九)
先生には、いまだに皆さんを引っ張っていかなければならない道が残っています。皆さんと共に世界と戦い、神様の胸に刻まれた怨恨を解いてさしあげなければなりません。そのような立場に立つ者が何人になるでしょうか。これが問題です。ここで話している先生は、見た目には何もない人のようですが人と違ったものをもっている人です。
先生は祈祷するとき、ほかの祈祷をしません。「お父様!」と言えば、天地が揺れ動くのです。その「お父様」という言葉の中には、曲折が込められています。皆さんの知らない曲折がたくさんあります。お父様の前に孝子としてこの世に責任をもとうというのに、涙なしに祈祷ができますか? まだ恨の多い復帰の道が残っているからそうするのです。(一四-三二〇、一九六五・一・一〇)
先生は、「お父様、私の一生の苦労は過ぎ去っていくものですが、一片丹心にあなたを愛し、忠誠を尽くそうという熱い情熱だけは残るようにしてくださいませ! そのようにしてくださるのならば死の道もいとわず進んでいきます」と言って祈祷したことがありますか? (一六-二五九、一九六六・六・一九)
皆さんは自分を中心として考えるよりも、国を考え、世界を考えなければなりません。他の人を自分の代わりに苦労させる立場に立たせようとするのは愚かな考えです。先生も復帰路程を歩んできながら、蕩減復帰の原則を知ってからは、苦労の場に私を送ってくださいと祈祷しました。(一六-三〇六、一九六六・七・三一)
私がお父様に仕えているとき、お父様はいかなる苦痛を味わうような立場に立っておられても、私を横にさせようとなさるということを知りました。かつて私を訪ねてこられた神様は、今でも祈祷するときには訪ねてこられます。まさにこれが統一教会の財産です。(一六-三四三、一九六六・一〇・一四)
先生は「地上にいる人間たちよ! 自分たちの子どもを恋しがって泣く前に、天を恋しがって泣きなさい。自分自身のことで悔しいと胸を打つ前に、天の悔しさを考えて胸を打ちなさい。地上の何かに狂う前に神様に狂った者となりなさい!」と言って祈祷したことがあります。(七-二九四、一九五九・一〇・一一)
私が祈祷するときには涙が限りなく流れます。どうしてでしょうか。私が受けたように、受けてこられた神様をよく知っているからです。この道を父母が理解せず、兄弟も理解せず、妻と子も理解しませんでした。ですから、弱いと言えば極めて弱く、愚かだと言えば極めて愚かな私を宇宙よりももっと信じようとなさる神様を考えるとき、身の置き所のなさを感じるのです。霊界と通じる人たちが先生について祈祷するようになると、慟哭するしかないというのです。(九三-六四、一九七七・五・一)
祈祷をするときは、背中が曲がって、膝にたこができるほどしなければなりません。先生の膝には、昔祈祷してできたたこが、いまだに残っています。祈祷は床の上でしなければなりません。涙も流さなければなりません。先生は祈祷しながら流した涙の跡が乾かないほどに祈祷しました。(二五-三三三、一九六九・一〇・一二)
先生は床の上に伏して祈祷するときには涙の跡が乾きませんでした。ここにたこができたのです。今でもたこの跡が残っています。今ではそのような祈祷はしませんが、以前は伏して祈祷してここにたこができたのです。「精魂込めた塔が崩れるか」という言葉があるでしょう。神様のために精魂込めなければなりません。神様が恋しくて狂うほどの境地まで至らなければならないのです。神様がおられるところが地であれば、一日に千度も行き来したいという思いになるほどにならなければなりません。
しかし、神様がおられるところが地上ではないので、しかたなく先生を送られたのです。そのような何かがあるので、皆さんが先生を愛さなければならないようになっているのです。わけもなくそのように情がわくでしょうか。冬に涙を流しながら祈祷するとき、綿入りのパジとチョゴリがすべて涙で濡れてしまうことがありました。どれはどの思いだったのか考えてごらんなさい。刀を刺し立てて談判祈祷をしたのは一度や二度ではありませんでした。(六〇-二一一、一九七二・八・一七)
先生は祈祷をするとき、しばしばこのような祈祷をします。霊人たちに対して、「あなたたちの要求はこれでしょう? あなたたちの先祖の願いはこれこれこういうことでしょう? その目的を達成したいのではないですか。それなら皆集まってきて勝敗を決定しましょう! 私に勝ったならば成し遂げてあげましょう!」と祈祷をします。(一五―八四、一九六五・九・二九)
六千年間神様が完遂できなかった救いの目的をすべて完遂することができるだろうか。今までの先生の戦いはそのためでした。あるときはこのような祈祷をしました。「神様1六千年の摂理路程において、私たちの先祖は、あらゆる罪を犯してあなたを裏切ってきました。ぜひとも六千年を六日間として蕩減できるように、そのすべての荷を私に担わせてくださいませ」と言って祈祷しました。また「三十二億の人類と、今まで霊界に行ったすべての先祖の代わりに、すべてのサタンは私に向かって機関銃を撃て!」という祈祷をしました。そのようにして条件を立てるほかに道はなかったのです。(一五-一一九、一九六五・一〇・三)
だれであれ、自分の側の人たちだけを愛し、反対する人たちをすべて嫌うというのではいけません。多くの人々が私にあらゆる非難と誹膀を浴びせましたが、そうかと言って、私は彼らが滅びるようにしてくれとは祈りません。そのような祈祷はする必要もないのです。(二四-七五、一九六九・六・二九)
四 逆境の中で行う祈祷
私は一生の間、この道を歩んできながら、迫害され、監獄に閉じ込められて、血を吐き、あらゆる辱めを受けました。しかし「神様、私を生かしてください。私を別の道へと送ってくださいませ」という祈祷は一度もせず、そのような祈祷は考えたこともない人なのです。(八七-一八九、一九七六・六・二)
私が監獄にいたときに、あるときは十二時間、あるいは二十四時間祈祷しなければならない問題がありました。そのときには考えで戦いました。ある事実について戦うのではなく、考えで熾烈な戦いをしたのです。いつでもそのように戦うところでは、考えの一切を自分の思いどおりにすることはできません。その戦いを解決するまでは、どんなに良いことがあっても喜ぶことはできません。(四三-一一八、一九七一・四・二五)
あるとき、私が祈祷するとき「お父様!」と言って、数千数万回呼びたくて涙を流したことかあります。「お父様!」と数千数万回呼びたくてです。そのようなことをして今日の統一教会が始まったのです。それを皆さんは知らなければなりません。ですから、深刻なのです。道端で酒でも飲みながら鼻歌を歌うようなものではないのです。深刻なのです。(四六-一七二、一九七一・八・一)
先生が監獄に入ってむちで打たれて、血を吐いて倒れるときも、私自身を心配するような祈祷はしませんでした。「お父様、私は昔の預言者たちやイエス様とは違います」と言ってこらえました。「神様、私を救ってください!」という、つまらなくて男らしくない、意気地のない祈祷はしませんでした。ただ神様のための祈祷をし、そのほかには祈りませんでした。(一六-二四一、一九六六・六・一九)
先生は、興南での監獄生活、ソウルで日帝時代に監獄に入ったこと、ダンベリー刑務所に行った事実を忘れることができません。先生はダンベリー刑務所に入ったときも「ああ! ダンベリーに入ったので、私をお助けくださいませ」という祈祷は一度もしませんでした。(一三四-二五五、一九八五・七・二〇)
先生は監獄に入ったときも、「神様、私を監獄から解放してください!」という祈祷はしませんでした。「私がここに入ったのはあなたの解放のためです」というような報告はしました。神様を解放してさしあげるために、そのような路程を通過しなければなりませんでした。「お金も必要ありません。自ら解決いたします」と言ったのです。神様が、「統一教会は私が築いてあげたのではなく、レバレンド・ムーン、あなたが成し遂げたのだ」と言ってこそ、人間の責任分担が完成しうるからです。(二三五-二四二、一九九二・九・二〇)
私が欲心をもったら、ここまで来たでしょうか。サタンがほうっておかなかったでしょう。神様は守ってくれることができなかったはずです。私は数多くの監獄暮らしをしましたが、一度として監獄から出して欲しいという祈祷はしませんでした。「神様、この息子は生きています。心配なさらないでください。私が行けばこうこうこのようにしますので、見ていてください。あなたが協力しなくてもやります」。そのように祈祷して出てきてみると、すでに神様が全部準備しておかれていたのです。そのように祈祷して出てきてみると、神様は私がしようと思っていたことのためにすべて準備しておかれたのです。(二三六-二三七、一九九二・一一・八)
先生は、興南の監獄から出てきたときは、何ももたない旅人のようでした。平壌から南に下りてくるまでの約三か月間は乞食をしました。あるときは、言葉で表現することができないほど食べたいときもありました。そのような放浪の生活をしました。そうかといって「神様、きょう食べるものがないので、何か食べるものを下さい」という祈祷は絶対にしませんでした。かえって神様を慰めて寝ることもありました。(三五-一九〇、一九七〇・一〇・一三)
先生は監獄に何回行っても、監獄から出してくれという祈祷は一度もしませんでした。今でも日本の問題があっても、「神様、私のこれを助けてください」という祈祷はしません。私が責任を負うと考えるのです。(二四四-一八九、一九九三・二・七)
先生は監獄に入ったとき、「神様、愛する息子をこのように監獄に入れてもいいのですか」というような祈祷はしませんでした。笑いながら、「神様、このレバレンド・ムーンは監獄から出て行く時を待つという希望があります」と言うのです。その過程を通過すればどのようになるでしょうか。跳躍です、跳躍。そのようになるのです。ですから、監獄から出てきたときに跳躍するのです。(二五七-一四九、一九九四・三・一四)
先生が監獄に入っていくとき、「神様、監獄に入ったので助けてください」というような祈祷は一度もしませんでした。拷問を受けて吐き出した血を見て涙を流しながら、親のことを考えるようなことはありませんでした。妻や子どものことも考えませんでした。悲しい神様のみ手をつかんで慰めるのに忙しかったというのです。
そうしながら、「絶対にこの息子のことを心配なさらないでください。私は生きています。アダムが神様を信じられずに堕落したその恨の峠を越え行くことができる息子となろうと思いますので、私に協助しないでくださいませ」と言ったのです。そのようにして戦ってきた道です。歴史を語るならば、伝統を語るならば、そのようなあきれかえるような道を歩んできた人なのです。(二六〇-二六五、一九九四・五・一九)
先生は興南収容所のとても激しい労働の中でも、疲れることなく、倒れませんでした。倒れるわけにはいきませんでした。体が病気になったとしても行かざるをえない路程の歴史を担った人なのです。私はそのような立場でも、「神様、私に同情しないでくださいませ。私を愛するなら、民族を愛してくださり、私を貴くお思いになるなら、世界を貴く思ってください。共産圏の魔手の鉄条網の中に私が入っていますが、私のことを心配なさらず周囲にいる彼らを救ってくださいませ」というように祈祷した男なのです。その祈祷は、うわべだけの祈祷ではありません。涙と鼻水を流しながら、このような祈りを捧げたことが一度や二度ではないのです。この偉大な伝統を受け継ぐことができる人々を天は今でも呼んでいます。(六四-二八四、一九七二・一一・一二)
監獄で血を吐くような拷問に遭っても、「神様、私をお助けください!」という祈祷はしませんでした。「神様、私の愛する民族を私以上に愛してください。世界を私以上に愛し、私のためには同情する必要はありません。もしこの者が死んだとしても、臆病者としては死にません」と言って祈祷しました。(六五-九三、一九七二・一一・一三)
私は監獄に入って拷問を受けて血を吐くそのような立場にあっても、「神様、このような立場を私から過ぎ去らせてくださいませ」という祈祷は一度もしたことはありません。そのときにはかえって、「お父様、このミスター・ムーンという者は、昔のだれそれとは違います」と言いました。血を吐いて気絶することがあっても、決して死にませんでした。その血は、いくらでも再び補充することができます。
ですから、「神様、私がこのような立場にあるからといって、残念に思わないでくださり、かえって私を愛してくださるなら、これよりももっと力強く伸びていくことができる信念を下さいませ。民族と世界のために死ぬ覚悟をしている立場でございますので、臆病者ではなく堂々と血を流しながらお父様を慰め、倒れることのできる男となさしめてくださいませ」と祈祷しました。自分のために祈るような祈祷は必要ないのです。(三九-六〇、一九七一・一・九)
今まで神様が文総裁を信じてきたのは、個人、家庭、氏族、さらには世界を克服するところにおいてI方通行だったからです。変わることはありません。拷問を受けて倒れる立場でも、その一念は変わることかありません。「神様、心配なさらないでください。私は生きています」と言ったのです。私がアメリカのダンベリーの刑務所に入っていき祈祷するときも、「神様、私を救ってください」とは祈祷しませんでした。
今まで一生の間、私が苦痛を受けながら、私を助けてほしいとは一言も祈祷をしなかったのです。「私の代わりに大韓民国に暮らす六千万の人々を保護し、アジア人の三十億を保護し、世界の五十億の人類を保護してくださいませ! そのためには、私がまず南北統一をしなければなりません。それが何よりも重要です」と言ったのです。(一七五-二六七、一九八八・四・二四)
五十歳になるまで、「どうして私にこのような苦労をさせるのでしょうか」という祈祷はしたことかありません。それを皆さんは伝統で見習わなければなりません。先生はむち打たれ気絶し、生死の境界線を何度も行き来する立場でも、そのような考えは夢にも思わなかったのです。「当然だ。打て! いかに死の勢力が大きいのか? 使徒パウロを捕え、ペテロとヤコブ、そしてヨハネを滅ぼした死、その恨みの根拠地が踏まれるように打て! 殴れ! 私は死の障壁の前で退くような男ではない」と言ってこらえました。今までそうしながら戦ってきたのです。(二七―二五五、一九六九・一二・一四)
五 神様のみ旨と願いを中心とした祈祷
蕩減復帰の原則においては、先生も例外ではありません。私が蕩減復帰の路程を通過するまでは、神様の前に現れようとは考えませんでした。祭物の過程を通過できない人は、後援が必要ありません。祭物が同情を受けるようになると、真の祭物にはなれないのではないですか。そのような意味で、先生が監獄に入っていくとき、「神よ、私を保護してくださいませ」という、そのようなつまらない祈祷はしませんでした。
今でもそうすれば、祭物の意に反します。きれいに犠牲になり、きれいに血を流さなければなりません。もし同情を願う祭司長になっては、神様をぽうとくすることになるというのです。私はいかに困難なことがあっても、「神様!」と言うことはできないのです。「神様、私は私自身に責任を負います。同情は必要ありません」という思想をもっている男です。(六三-三五一、一九七二・一〇・二二)
私は復帰路程をすべて知って、「神様、あなたが行かなければならない道はこの道ではありませんか? これはこのようになるべきではありませんか?」と言って祈祷します。つまらなく過ぎたことに対して祈祷しません。私は神様が共にあられるこの道を守って行くつもりです。
いかにしてこの時代に十年、百年、あるいは千年後になされることと因縁を結ぶことができるかというのが問題です。そして、いかにしてそのときのために血の汗を流す苦労の条件を立てるかというのが問題なのです。
今まで先生はその問題を模索してきました。そのような先生が「行こう!」というのに反対する人は滅びます。滅びるか、滅びないかは見ていなさいというのです。(三一-三二六、一九七〇・六・七)
たくさんの祈祷生活をして霊的に高い見識を備えて生きる人に、我知らず悲しみが訪れてくるときがあります。それを分析してみると、そのとき神様が悲しい立場におられるということが分かります。そして、我知らず心にあふれるほどの喜びを感じることあるのですが、そのようなときは神様がうれしい立場におられるということが分かるのです。(三二-二一九、一九七〇・七・一九)
蕩減時代に戦っていくときには、神様の前で祈祷はしません。皆さんはそれを知らなければなりません。今後困難な時が来るでしょう。とても深刻な時が来るはずです。そのような時が来たときに祈祷する考えをしてはならないというのです。そのような時であるほど、世界のために戦いなさいというのです。(三三-一〇七、一九七〇・八・九)
今まで私は皆さんに何をしてあげるべきかを心配してきました。先生は皆さんに借りをつくらないようにしようと思っています。今も皆さんに何でも与えることのできる姿勢を備えることができるように、というのが先生の祈祷題目です。祈祷するたびに、借りをつくる人になってはならないと念を押すのです。(三三-一〇九、一九七〇・八・九)
私は監獄でも神様を愛し、追われながら山の斜面で岩にすがって号泣しながらも神様を愛する道を歩んできました。しかし、世の中のだれもが好み、うらやむような大きな宮殿では神様を愛してみることはできませんでした。それが私の抱いている悲しい恨です。
そうかと言って、私がそのみ旨を成せなかったわけではありません。間違いなく、私が死んでもそのみ旨は実現するという信念をもっています。そのような心で国のために生き、世界のために生き、神様にしがみついて祈祷する人が、韓国人の中から現れることを祈りました。
そして、韓国が新しい世界のために、神様のために、神様を愛して、また神様の愛を保有する世界の中心になることを祈祷したのです。(三三-一一五、一九七〇・八・九)
先生は夢にも、「ああ、お父様! もう進めません」と言って祈祷したことはありません。いかなることであれ、ぶつかればぶつかったように処理して来ました。そのように復帰してきました。「神様も無情だなあ!」と言って恨んでみたこともありません。今まで死ぬような目に遭っても、私の心と体が一つになって天を恨むことはありませんでした。(一二-三三五、一九六三・八・一一)
今、先生は血を吐いて、床に五本の指の印を押しておきたいと思います。この手は以前だれかと争いながら大きな傷を負ったときも、最後の勝利に導くかたは神様であるという事実を知っていました。
先生は、天のお父様が私を生かしてくださり、また、私に希望をかけておられるという事実をよく知っています。それで「死を数千回覚悟してきましたから、心配なさらないでくださいませ!」と言って心の底から祈りを捧げています。(一六-二四三、一九六六・六・一九)
むちで打たれ、血を吐き、肉が裂けるような立場にあっても「この血は歴史を裏切った先祖の血です。いまだ私には行くべき道が残っていますので、担うべき十字架があればもっと担わせてくださいませ!」と言って祈っていた私です。(一七-二九八、一九六七・二・一五)
先生は監獄でむちで打たれたり拷問されたりするような立場にあっても祈祷しませんでした。そのような状況ではどんなに祈祷しても無駄なのです。なぜなら、心的な姿勢が問題だからです。先生は自分自身よりも世界をより愛するので、先生を通じて神様が世界を愛するのです。私は監獄にいるたびにそのような忠誠の基準を立てようと努力して、そのように自分を治めてきました。(一七-三四三、一九六七・五・一〇)
神様はやっただけ埋めてくれます。私が受けられなければ、私の息子、娘が受けるのです。ですから、皆さんに千年万年について祈祷しなさいと言うのです。今、先生は千年以降のことについて祈祷しています。万年以降に世の中がどのようになるべきだという祈祷を深刻にしています。
教祖を中心として、信徒たちがそのような祈祷を深刻にしておけば、その祈祷の基準が天上に残っている限りは、統一教会が滅びることはありません。皆が滅びろと言ったとしても絶対に滅びません。統一教会が滅びろと祈祷する人々がどれほど多いですか! そうでしょう? そして今後の時代がどのような時代であるかを予測しながら、その時代の責任者としてふさわしい人になるために努力しなければなりません。ですから神様のように投入しては忘れ、投入しては忘れてしまうのです。その道しかありません。知ってみると、その道だけがすべてを解決する秘法だったというのです。(二一二-二七一、一九九五・八・二八)
監獄でも孝子は孝子の役割を果たさなければなりません。監獄に入っても忠臣は忠臣の役割を果たさなければならないのです。それで、「神様、心配しないでくださいませ! 私が共産世界のどん底を通ってモスクワまで貫通させます」と祈祷しました。モスクワまで共産世界のどん底をすべて貫いてしまわなければならないと考えました。ですから、神様は信じてくださるのです。神様が信じてくださるので、滅びることなく、死ななかったのです。(一〇六-七〇、一九七九・一二・九)
み旨の道を歩むとき、愛を骨として行く人は天地が保護することでしょう。一人でどこかにいるからといって落胆してはなりません。監獄にいるからといって敗者ではありません。私が監獄に入ったからといって、「お父様、あなたの愛する息子が監獄に入ったので、恨みを晴らしてください」とは言いませんでした。
むしろ、「いまだ神様の愛の壁がまだ崩れていないので、私の監獄の道が残っているということが分かりました。私の心と体を、棒でもって、紅海を分けたモーセの杖として用いて打ってくださいませ。私の肉がそげ、骨が折れても行かなければなりません。私はまだ死んでいません」と祈祷しました。(一八〇-一一九、一九八八・八・七)
死亡の線を越えていこうと覚悟した男が死なないで、前幕にいることを感謝することができなければならないのに、悲嘆と悲哀に陥って、福を受けようとして祈祷するでしょうか。私は統一教会のためには祈祷をしません。息子、娘のためにも祈祷しません。名前は呼んであげています。一日に三回ずつです。「万民を記憶なさるお父様、この息子、娘たちとの愛の波動を通じて、一つのわらくずが波に乗って海辺に達するように、人間世界の汚いすべてのものが地獄の縁へと流れていきますように!」と言って祈祷します。
私は統一教会のためには祈祷をしない人です。統一教会が果たすべき南北統一のために祈祷します。では、だれがいちばん先に行くのでしょうか。正々堂々と戦って勝ち、三十八度線を越えて先生の故郷にある先生の両親の墓に行って、「先生に代わってやって来ました」と言って報告することのできる人たちが何人ほどになるのかというのです。そのようなことを考えるのです。(一八〇-一一九、一九八八・八・七)
私は監獄の道を歩みながらも祈祷した人です。私が監獄に入っていけば天が会わせてくれると約束された人がいるのを知っていたので、希望を抱いて行った男です。豆ご飯を前にしても感謝の涙を流して民族のために祈祷しました。受難の道に追い込まれるような立場でも民族を忘れたことはなく、世界の人類を忘れたことはありません。(六四-二八四、一九七二・一一・一二)
先生は監獄に入っていっても普段よりも三倍以上祈祷した人です。仕事をするときも、楽な仕事を探し歩いた人ではありません。いちばん難しい仕事をしようとしました。他の人たちと同じ
ご飯を食べて、いちばん難しいことをしようと考えたのです。「もしも怨讐たちが謀ってこのような所に再び連れてきて打ち込むようなことがあればどうすべきだろう? そのようになる前に訓練して、自信がもてるように準備しなければならない」と考えました。(六八-七五、一九七三・七・二三)
今まで皆さんが民族を愛し、世界を愛するために、一日でも夜を明かしながら心を痛めたことがあっただろうかと考えてごらんなさい! そのようなことがなかったとすれば、膝をついて悔い改めなければなりません。先祖から譲り受けた堕落圏を抜け出すためには、悔い改めなければならないのです。「過去には、私はそのように暮らしましたが、残りの人生だけでも光り輝くように終わりを結びます。今まで果たせなかった忠誠を、残りの人生で尽くしていきます」と言って夜を明かしながら祈祷しなければなりません。
今から、「私は死んだとしても、世界を生かしてくださいませ!」と祈祷するならば、その人の墓は廃虚にはならないでしょう。どんなに顔に醜いしわがあったとしても、平和を象徴するしわとして現れるはずであり、歩く姿勢が気がかりであったとしても、その道は希望の道になるでしょう。今まで自分白身だけを中心として生きてきた過去を清算して、少しでも善の礎をつくっておいてから逝こう、という考えをもって、休まないで努力しなければなりません。(六五-九三、一九七二・一一・二三)
先生の主義はそうです。私が公的な仕事をするところにおいては、借りをつくってでもしなければならないというのです。いかなることであれ、公的なことはできないという考えは抱きません。借りをつくったとしても、しなければならないと考えてしていくと、いつもすべて解決します。祈祷する必要もありません。だれであれ、自分に忙しい仕事があれば、神様の前で祈祷するよりも、自らの責任であると思わなければなりません。そのようにして神様にまで心配させないようにしようと考えなければならないのです。それが孝の心であり、忠の心なのです。(五九-二四〇、一九七二・七・二三)
先生がしきりに祈祷するときには、生死をかけて祈祷しました。ある食口を立てなければならないと定めて徹夜祈祷をするようになれば、その人は家に行って夜眠れません。その人がおぱさんであれば、朝、市場に出かけたところ、教会に来ました。市場に何か買い物に出かけたのですが、足は本部教会の先生のところに向かい、「おおっ!」ということになったのです。だれの力で来たのでしょうか? 霊界の天使たちが引っ張って来たのです。そのようなことが起きました。(六〇-二二九、一九七二・八・一七)
皆さんが「神様、サタンを赦してくださいませ!」という祈祷を一度でもしてみたことがありますか? そうすると、神様の気分が直ちに分かります。神様の気分を知らなければ、二重生活をするようになります。つまり、一軒の家の中で二つの愛の道が生じれば、その家は破綻します。同様に、神様がサタンを赦すことができるならば、宇宙自体が破綻します。平和の本宮が生じないというのです。すべての愛は絶対的です。(四八-二三五、一九七一・九・一九)
神様がいるのか、いないのかという問題について探究しました。神様の実存を知るようになると、人生の根本的な問題を解決できるものとして信じて掘り下げたのです。そうこうしていたら、統一教会の教祖になりました。
この服がどれほど多くの涙に濡れ、腕や足にはどれだけ多くのたこができたかしれません。平均して十二時間以上は祈祷しなければなりませんでした。そのようにすることなくしては、ご飯を食べることができず、その問題が解けなければ眠ることもできませんでした。(二〇一-三四四、一九九〇・四・三。)
実際のところ、私も神様を呼ぶことを好みませんでした。呼ばずにはいられなくなったので呼ぶのです。むやみに神様を呼ぶ人ではありません。調べてみて、祈祷してみて、裂いてみて、味わってみて、投げてみて、持ち上げてみて、分析してみて、そのかたでなければならないという結論が出たので神様を呼ぶのです。
私だからと言って、最初から宗教指導者になろうと心に決めて出てきたのではありません。ところで、いかにして神様を好むようになったのでしょうか? 神様は絶対的に善なるかたなので好むようになりました。そのような結論になったのです。(四一-一四一、一九七一・二・一四)
神様はおられます。間違いありません。私は神様がいるのか、いないのかという問題に決着をつけるために一生を捧げました。今でも祈祷するとき、「神様、私と決着をつけましょう」と言って、神様が応じなければ激しくののしるのです。「この神様め、死ね!」と言ってです。
いつもひざまずいて祈祷するのは大変ではないですか? 大変なときには、ぐるぐる回りながら祈祷するのです。そのようにぐるぐる回りながら祈祷したとしても神様はよく教えてくださったというのです。(二〇三-三四八、一九九〇・六・二八)
六 真のご父母様の三大祈祷
先生は、神様の前に基金を下さいという話をしたことは一度もありません。お金をくれという祈祷は、今まで一回もしたことかありません。お金をくれという祈祷は絶対にしません。
私は今でもそうです。工場を建てても、「神様、私たちの工場で金もうけさせてください」というような祈祷はしません。この工場から民族を生かすことができ、民族の誇りとなる指導者が出てくることを願うのであって、お金については話もしないのです。(一七二-一二五、一九八八・一・九)
自分たちが責任を果たすことができず、神様に助けてほしいと言うのですか。私はそのような祈祷は絶対にしません。「神様、私が死にそうなので、お金をちょっと助けてください」とは言わないのです。お金のための祈祷は夢にも思わないのです。(一六六-一八八、一九八七・六・五)
今まで経済問題では絶対に祈祷をしませんでした。私には、お金をくれというような祈祷はできません。祈祷は原則的な祈祷をすべきであって、祈祷をむやみにしたら蕩減を受けます。災いを受けます。私たちのような人は、絶対に欲張ったような祈祷はしません。
先生の祈祷は公式化されています。たくさんの祈祷はしません。サッと目をつぶって、スッとやれば、すでに天が共にあることが分かります。ですから、ただみ旨のために走るばかりです。祈祷するよりも走るのです。考えることよりも実践するのです。(一六六-一九二、一九八七・六・五)
文先生はお金をくれという祈祷はしません。出世しようと祈祷しませんでした。三大目標とは何ですか? 第一が何かというと、「宇宙主管を願う前に自己主管完成せよ」です。その次に第二は、「絶対的信仰をもて」です。第三は「絶対的愛をもて」です。それが三大目標です。サタンが嘘でだましたとしても、私は絶対的な信仰をもって事実を確認するまで行きます。ですから、「サタン、おまえも最後には私を正道の道に案内しなければならない!」という信仰です。(一三九-六三、一九八六・一二六)
先生は二十四時間祈祷します。どこに行こうが目標を中心に二十四時間祈祷するのです。食事をしながらも、呼吸をしながらも祈祷するのです。それは私自身のためではありません。人類のため、神様のための祈祷です。
そのような一念を中心として精誠を尽くしながら、四方に一回転すると円形になります。その円形の圏内は天が主管することができるので、その圏内の良心的な人たちは必ず引っ張られてくるようになります。彼らは、我知らず引っ張られてくるようになるというのです。そのようにいつも精誠を尽くさなければなりません。
かつて先生が教会を指導するとき、ソウルのおよそ五百名に及ぶ食口たちの名前を必ず呼びながら祈祷しました。その五百名の名前を呼ぶだけで約四十分かかりました。その時間に笑顔で現れたり、心配ごとのある表情で現れたりもしました。
ですから、だれにどのようなことがあるのかが分かりました。だれであれ電話して呼び出すように言って、「あなたはこのようなことがあるのではないか? 言いなさい!」と言うと、「どうしてご存じですか?」と言いながら驚くのです。どうして分かったのかですって? そのようにして見て分かるのです。だれそれが来るようにと、精誠を尽くせば、引っ張られてきたのです。(二○七-二四九、一九九〇・一一・一一)
文総裁は松の本の根が抜けるほどにつかんで祈祷し、「岩が転がるか転がらないか試してみよう」といって、力いっぱいつかんで祈祷するのです。そうして岩が転がっていき、ひとしきりドンドンというときは、どれほど気分が良かったことかしれません。祈祷を終えて走って下りてきても気分が良かったのです。(二一二-三九、一九九一・一・一)
先生は祈祷するにあたり、「一万年後の統一教会はこうでなければなりません」と祈っています。千年ではありません。「一万年後はこうでなければなりません。一万年まで伝統を受け継いで、神様を私よりも愛する人が、一世紀、一世紀と世紀を重ねるごとに出てくるようにしてください」と言うのです。だれよりも素晴らしい人ですか? 先生よりも素晴らしい人です。
そのように、「私よりも素晴らしい愛の火の塊が出てきて、万有の存在が、彼が口ずさむ愛の歌を聞くことができるようにしてください。そのような愛のボスが出てきて統一教会を久しく光り輝かせてくださいませ」というような祈祷は、すてきな祈祷ですか、すてきでない祈祷ですか? すてきな祈祷だと言わざるをえません。それゆえ、いかなる聖者も統一教会を飲み込んでしまうことはできません。
祈祷をするにおいては、のらりくらりとはしませんでした。祈祷を何度ずつしますか? 一度やったらいいのです。その次には祈祷しないで待ちます。男が一度約束すればそれでよいのであり、しきりに念を押しますか? 文総裁の特徴がそれです。一度祈祷すればしません。
それからは祈祷をしないで応答を待つのです。十年遊んだとしても、その心をきっちりと抱いて、「ある日、海王星から木星、金星を通って地球星に訪ねてくるだろう。現在の韓国で見るならば、全羅南道の木浦くらいに訪ねてくるだろう」というように考えるのです。(二一二-四〇、一九九一・一・一)
先生の祈祷する内容は簡単です。神様を中心とした真の父母、真の父母を中心とした家庭、家庭を中心とした子女、子女を中心とした氏族の関係を回復することを願う内容が中心となっています。(一九-一五、一九六七・一一・二)
先生が今まで祈祷してきた内容は三つあります。一つは信仰に関してです。「神様の前に私が出るようになるときには、世の中の人が信じることのできないことを私は信じなければならない! 神様を中心とした言葉は、どのような言葉であれ信じられないものはない! 父や母まで裂いて祭祀を捧げなさいという神様の命令があるならば、それも実践するつもりだ! そのような人倫道徳に外れた命令をなさる神様の曲折がどれほど大きいだろうか。そうすることで、世界が救われる条件になるならば、やらなければならない! 歴史にない親不孝の名前を残したとしても、そうしなければならない。しかし、神様の前にはそれが親不孝ではないだろう」と考えたのです。「いちばん信じられない言葉を私に語ってくださいませ、神様!」と祈ったのです。そうしてペテロ以上の信仰のために祈祷しました。
その次は何でしょうか。知恵のために祈祷しました。事理を判断する明確な主体性をもたなくては、指導者になることはできません。それで、「ソロモンの知恵を上回る知恵を下さいませ!」と言って祈祷しました。さらにその次は何でしょうか。愛のために祈祷しました。「イエス様ができなかった愛を私がしなければならない」と考えたのです。数多くの民族であっても、私が愛を抱いて現れるようになるときは、反対する人はいないというのです。だれでもその愛に引かれていくのです。「終りの日」は、愛が乾いた時代なので、新しい運動を展開するためには愛が何よりも必要だというのです。
この三つが、先生が今まで祈祷した内容です。それを祈祷してみると、いつそうなったのか、すべて成就したというのです。だれでも信じられることをした人ではありません。世界の人々が信じられないという人になってしまいました。それは悪い意味ではありません。不思議な神秘に包まれた謎かけのようなことをすることのできる人になったというのです。(七七-六二、一九七五・三・三〇)
先生が六年以上祈祷した内容は、信仰と愛と知恵でした。信仰は神様も信じることができないことを信じようとする信仰であり、愛はすべての人が喜ぶ愛であり、知恵はソロモンの知恵も比較することのできない知恵です。(一二-七八、一九六二・一〇・二八)
先生は夜寝て起きれば、再びそのまま寝ないで必ず祈祷をしてから寝ます。どのようにしてでも、神様が同情することのできる立場に立たなければなりません。(一八-一三四、一九六七・五・三〇)
長い間、憤りを抱いていてはいけません。憤りを抱いていたら、自分のために祈祷してくれる人がいたとしても、その祈祷が反発するようになります。(一六-三二九、一九六六・七・三一)
三年間、私は経済的な問題を中心に冒険しています。そのように私が冒険するのは、大韓民国のだれそれの欲望を満たすためではありません。統一教会の威信を立てなければならないからです。しかし、私はその結果については知りません。神様が願われる以上にその威信が立てられることを願う、そのような信仰だけをもっています。
そのように成されたか、成されていないかについては知りません。その代わり、だれよりもたくさん精誠を尽くしています。そうかと言って、「神様、私はお金がないのでお金を出してくださいませ!」という祈祷はこれっぽっちもしません。そのような祈祷はしなくても、神様は成してくださいます。そのような心を抱いています。(四六-九〇、一九七一・七・二五)
七 未来のための祈祷
先生が精誠を尽くして祈祷するその中には、「この祈祷は、千年万年なされませんように」という内容もあります。神様がその祈祷を千年万年記憶なさり、成し遂げてくださるならば、その間は、統一教会は滅びないというのです。ですから、千年万年かけて神様が成してくださる祈祷をしなさいというのです。万年の間、神様が、「それを成し遂げてあげなければならないなあ」と言って引っ張っていかれたなら、その間は、統一教会は滅びません。(一五九-三三二七、一九六八・八・一八)
先生は「お父様! 数千年後にもこの祈祷が成し遂げられず、神様の心の中に記憶されるようにしてくださいませ」という祈祷もします。成し遂げられるか心配なのです。すべて成し遂げられたら天変なのです。今、すべて成し遂げられたならば、今後、私たちの息子、娘たちが祈祷することがなくなります。そのように祈祷する必要がなくなれば、どのようになりますか。希望がなくなります。
それゆえ、「千年万年これだけは成し遂げられないようにしてくださいませ」と祈祷するのです。千年万年、少しずつ成し遂げられていくならば、統一教会は滅びずに、千年万年残るのです。他の人たちとは考えが違うのです。そうだと思われるでしょう? 祈祷をして「よし、こいつ」といって、ひっくり返るほどどっと成してくださったら、「ああ、私の神様、ありがとうございます」と言うかもしれませんが、そこには永遠なる生命はありえません。(六〇-一八六、一九七二・八・一八)
先生は「神様、この祈祷だけは千年万年後にかなえてくださいませ」というような祈祷をしているのです。そうすることで、統一教会は千年万年と続くことができます。祈祷して早く成し遂げられるのではと恐れます。そのようになれば、私一代で終わってしまうのです。しかし、その祈祷が私一代でなされなければ子孫まで続くのです。(六八-五九、一九七三・七・一三)
神様に対して借りをつくってはなりません。ですから、私は祈祷しないのです。とても忙しいときに、いろいろと複雑な問題で祈祷する何かがあったならば、祈祷する代わりに遊んで回るのです。十年後、二十年後のことを準備するためには祈祷します。しかし、当面の問題をもっては祈祷しないのです。(六八-七二、一九七三・七・二三)
私は「神様、お助けください」とは言いません。絶対にそのような祈祷はしません。死ぬほどに努力しておいてから祈祷すべきだと考えます。無駄な祈祷はするなというのです。祈祷をしません。私の行く道が分かっているので、私のすべての力を尽くして努力します。「汗を流してもだめなら、血を流してやりなさい! それでだめだったら死ぬまでやりなさい!」というのです。
そうして死ぬまで努力してもできなかったらどうなりますか。それが成されるか、成されないかは神様に委ねるので、神様が責任をもたれます。祈祷とは何の祈祷ですか。ぴんぴんして目が生きているのに、ひざまずいて祈祷しますか? 祈祷する時間に出ていって働くほうがましです。土地を耕すとかするのです。神様はそのような人が悲運の立場で死ぬようになったり、滅びるような立場に立ったりすれば、神様が雷のように救ってくれるのです。そのようにしてみなさい、滅びるかどうか。(六八-六一、一九七三・七・二三)
先生は今まで十年、二十年、四十年と祈祷してきましたが、いまだに祈祷する題目があります。数千年後の統一教会のために精誠を尽くしているのです。その時が来るまで統一教会は滅びません。(二〇六-二八七、一九九〇・一〇・一四)
統一教会を自分たちの国と民族の前に連結させるために、数多くの兄弟姉妹たちが血を流し、夜も寝ないでいるという事実を知らなければなりません。私はそれを知っている人です。またそれを命令した人なので、昼も夜も借りをつくらないように踏ん張って暮らすのです。十二時が過ぎるころになると先生は、「彼らが祈祷する時間になったな」と言いながら、眠らないで彼らに借りをつくらないように努力するので、統一教会は発展するのです。
私は生涯、食口たちの血を吸い取ることはありませんでした。詐欺を働きませんでした。すべて私が世話をするのです。統一教会は、私が死んだとしても、それをすべて返すまでは発展するのです。千年万年、統一教会の行く道のために祈祷する先生なのです。今、このときのために祈祷するのではありません。この時代に私が残していく基準の祈祷を子孫たちが引き継いでいけば発展しないはずがありません。(二三一-六五、一九九二・五・三一)
神様と天使世界が残念がる以上に、私が残念に思わなければならないというのが先生の考えです。世界に対してそのように考えるのです。そのように世界に対して考えるのですが、統一教会に対して考えないのです。世界のために生き、神様のみ旨の世界のために生きるのです。
ですから、レバレンド・ムーンがみ旨を成就できないで死ぬ日には、統一教会がなくなるとは考えません。神様が生きておられるならば、その恨を解いてくださらずにはいられないので、統一教会はもっと発展するものと考えるのです。私の志を成し遂げてくださらなければならない神様がおられるので、そのみ旨が成就するときまでは統一教会は滅びないという観念を抱いています。(九三-九三、一九七七・五・一五)
自分が未来のために祈祷していて死んだしても落胆してはならないというのです。その祈祷が千年延びるようになれば統一教会は千年滅びないのであり、二千年延びるならば二千年間、統一教会は滅びないというのです。五千年間、私の祈祷が成就されなければ、五千年間、統一教会は発展するのであり、後退はしないというのです。私が祈祷するのはそれなのです。私が生きている間に成就しないように祈祷しているというのです。「神様、私の一代では成就しないようにしてくださいませ」と言いながら祈祷しているというのです。
それでは、いつ成就しなければならないのでしょうか。「暗い世界の終わりの日に、統一教会がなくなるそのときになったならば、その愛のみ旨を成就してくださいませ!」と祈祷しているのです。それは狂った人でしょう? そのように暮らしてみると、一生がただただ浪人の群れのように、村の犬にほえられ、指さされながら歩き回ってみると、今になって私は福を受けました。私は、耳が遠くて目がよく見えない立場で死ぬこともできずに生きてみると、天下に思いがけなかった人たちが従ってきているというのです。私は乞食だと思っていたのに、天下に黄金の風呂敷がこのように積まれているとは知らなかったというのです。(一〇五-二五六、一九七九・一〇・二六)
皆さんが祈祷するとき、「ああ、神様、何かを成し遂げてくださったので喜ばしいです」と言って祈祷するでしょう? しかし、祈祷するとき、「神様、千年後にも私が祈祷することが成就しないで、万年後にも成就しないで、数十万年後にも成就しないとしても祈祷しますので覚えておいてくださいませ!」と言うことのできる人がいるならば、その人は偉大な人になるでしょう。数万年後のために今から一生をかけて精誠を尽くして準備するというのです。(一○五-二九一、一九七九・一〇・二八)
春になれば自然に花が咲くのと同じように、冬を過ぎた人の前には、必ず花が咲くことのできる与件が宇宙を通じて与えられるのです。ですから、長い間祈祷がかなえられなかったと、ため息をついてはならないというのです。そのように祈祷が成されない期間が長くなればなるほどに大きな福が来るのです。しかし、千年万年について祈祷するようになると、それは成就するのです。(一八〇―一〇七、一九八八・八・七)
先生の祈祷の中に、「お父様、私が精誠を尽くして祈祷することを千年万年後に成し遂げてくださいませ」という祈祷があります。先生が精誠を尽くすことが私の一代に成されずに、それが天の前に届いて記憶され、万年後に成就しうるお父様の心情的一念が残ることを願うという祈祷をしています。
これは何の活かというと、統一教会が万年たっても滅びないようにするために祈祷するというのです。万年後に成就しうる天の同情的な事情が残っていたならば、それがすべて成就するまで統一教会は滅びない立場に立つので、そのような祈祷を捧げているのです。祈祷をして、それが今成就するのではないかと恐れる祈祷をしています。皆さんはそれを知らないのです。皆さんはすぐに成就する祈祷をするでしょう? 十年精誠を尽くしても不足で、生涯精誠を尽くしても不足なので、自分の息子、娘だけでなく、ひいては三代、四代、十代を経て、引き続き精誠を尽くすことのできる一つの目的を中心としていくならば、その一族は世界を支配する一族になります。このようなことを考えるべきですが、この統一教会の群れは三年もしないで、十年もしないで、「み旨がどうして成就しないのだろう? これはやりきれない」と言うのです。
先生は今まで五十歳を越えるまで、み旨のために働いてきたのです。考えようによっては運命の致すところですが、先生はこのように生きなければ粉々になるのです。不幸な自らの身の上を嘆くのです。私の定めがこのようになっているので、運命の道を避けて行くことができないと考えるのです。(五〇-三一九、一九七一・一一・八)
アブラハムがソドム城に対して祈祷したのと同じように、「神様、少し待ってください」と言うことができなければなりません。そうすれば、神様は涙を流しながら、「おい、こいつ、もっと一生懸命にやりなさい。おい、もう少し範囲を広げてひたすら求めなさい」と言われるでしょう。
そのような人がいるならば、神様もサタンの前に威信を立てて、「うん、おまえのことを汲んで、
この滅びる世界を十年でも数十年でも待ってみよう」と言われるでしょう。
神様が喜ばれうるそのような人に一人でもお会いにならなければならないのではないですか? そのような人が終末の審判の後に現れうる真の人の姿であるというとき、統一教会のメンバーはそのような人を夢見て行こうという群れです。
ですから、昼も夜も、「歳月よ、歳月よ、どんどん過ぎよ。青春時代は過ぎて老年時代よ、来い。私が死ぬまでこの道を行って、最後まで行けなければ千年の事情を抱いて祈祷するでしょうが、この祈祷が成就するまでは、世界を心配しないでください!」と祈祷する人がいるならば、‘その人は審判を千年まで延長させることのできる人になるでしょう。(六一-一〇一、一九七二・八・二七)
先生は昔、幼い頃に転げ回りながら、歌いながら祈祷したのです、歌う祈祷。いつも座って祈祷するよりも、このように天と同化する時間をもつのです。そのような時間が祈祷の時間だったのです。
だれであれ言葉による祈祷よりは歌の祈祷が感動的であり、そのような歌による祈祷を通して神秘的境地に入る体験ができます。神様をお呼びするとき、深く通じるときには、「天のお父様…♪」というのが歌になるというのです。(二七〇-一七、一九九五・五・三)
先生が祈祷するときは、いつも詩的な祈祷をたくさんするのです。あなたがつくられた万宇宙が美しいと言いながら祈祷するようになると、神様が喜ばれたものです。そしてまたあるときは、神様の前で私が雄弁を振るうのです。そのようなときは、子供が自分のお父さんとお母さんに茶目っ気たっぷりに振る舞いたい気持ちと同じなのです。(一〇六-一三九、一九七九・一二・二四)
先生は戦争祈祷もしました。岩を砕く祈祷をするのです。この綿入りズボンがすべて濡れてしまうほどに祈祷したのです。それほど汗が出るほどに生命をかけて祈祷したのです。そのような祈祷を何年か繰り返しました。それが嫌ではありませんでした。面白く感じました。味があるのです。だんだん深く入っていくので、他人が知らない霊的世界の深い所まで体験することができたのです。(二七〇-三八、一九九五・五・三)
先生は祈祷する時間がなければ、横になって祈祷するのです。我を忘れて仕事をしてみたら、祈祷する時間もないのです。そうすると、しかたなく横たわって祈祷するのです。「神様、横になりました」と言うと、「うん、うん」と言われるようになっているのです。くたびれて座る気力もないのです。そうだというのです。すると様式も越えていくのです。(九八-二九三、一九七八・八・六)
八 祈祷中に忘れられない人々
強盗がいましたが、ある朝、世の中でしていた行動を監房に入ってきてもするので、私が言葉で正しました。その不遜なことについて前後を問い詰めて攻撃しました。ところが、そのようにしてからは祈祷をしても祈祷がふさがってしまったのです。世の中にそのような地獄はないというのです。そのおよそ一分以内のその時間ゆえに、一週間以上も苦痛を受けたことを忘れることができません。
光をもっていた人がその光を失ったときのその悲惨さが、皆さんには分かるでしょうか。真っ暗な天地に一つしかないろうそくの明かりまで消えたら、どれほど気がふさがるでしょうか。まさにそれです。漆黒のような暗闇の中で囚われて、自分自身の気力まですべて弱まっていくのを見るとき、ご飯が問題ですか、ご飯が? そのような立場でご飯を食べることができますか?
朝、三時間、四時間、あるいは五時間待って、ようやく食べられるご飯であるにもかかわらず、ご飯が何ですか? それで、「もう監房でも何でも構わない」と言ってひれ伏して祈祷するのです。看守たちが来て騒ぐなら騒げと…。その光を失ったときのその地獄のような生活は今でも忘れられません。(七一-一五〇、一九七四・四・二九)
私は監獄から出てからは母親には会えませんでした。両親には会えなかったのです。平壌から故郷までは二十八里です。すぐに立ち寄ることのできる距離なのです。では、どうして行けなかったのでしょうか。先生と信仰で因縁をもった人々をすべて探して回ったからです。彼らをすべて探さなければなりませんでした。私はその人たちのために監獄に入ったので、彼らの墓まで訪ねていって、「あなたたちは背いて離れていったけれども、私は離れない」と言いました。
私がアメリカに出発するとき、皆さんに、「一月十八日が何の日か祈祷して探ってみなさい」と話したことがあるでしょう。その日が何の日か分かるかというのです。その日は先生にとって最も悲しかった日です。お金がなくて悲しかった日ではありません。人がいなくて悲しかった日でもありません。先生の一生において忘れることのできない日です。
その日が何の日かというと、私が神様の前で彼らのために祝福の祈祷をしてあげた日です。しかし、彼らは皆、裏切ってしまったのです。彼らが先生に背いてしまったとしても、先生は万丈の手紙を書いて三度も連絡をしました。ところが、彼らはその最後の手紙までも送り返してぎたのです。先生は送り返してきたその手紙を持って、北から出てきました。
慶尚北道の永川に入っていくと橋があります。その橋で一月十八日にその手紙を破ってしまいました。そのような日がありました。その内容が何か皆さんは知らないでしょう。ですから、先生は韓国の地に下りてきて、だれも知りえないこの道を再び行かなければなりませんでした。(四五-一四二、一九七一・六・二四)
いちばん難しいのが霊的責任者の立場です。ですから、祈祷しなければならず、食口たちと夜を徹しながら議論しなければなりません。真理を討論して夜を明かすそのようなところには発展があります。村々の反対を受けようともです。
今でも先生はどこに行こうが一九六〇年代のような気分に戻れば、そのような風が吹きます。私がぴたりと行ってやるようになると、その環境が直ちに違ってくるのです。そのような何かがあります。皆さんもそのような基準を立てるためには祈祷しなさいというのです。霊的な実力が必要なのです。ですから、祈祷をたくさんしなければなりません。
祈祷の時間をたくさんもつことができなかったとしても、私の心情はいつも神様に向けられていなければならないのです。常にそのように生活するようになれば、祈祷の時間をたくさんもたなくても構わないのです。見るものも神様を中心として見て、感じるのも神様を中心として感じて、話すのも神様を中心として語れば良いのです。そうすれば、説教の準備はしなくても説教の題目はいくらでもあり、説教の内容もいくらでもあるのです。(七〇-一七四、一九七四・二・九)
先生は一九四九年十二月十七日から二十一日までのことは、生涯忘れることができません。毎年その日になれば、私一人で神様の前で祈祷します。そのときはどのような期間だったでしょうか。北韓の共産統治下の監獄にいたときだったのですが、六・二五動乱が起こるいちばんの峠に向かうときでした。そのときに共産党の人たちは、監獄にいる人々を殺すように言いました。
そのとき、何を配給したのかというと、監獄に入っている人々にはトウモロコシご飯と、燕麦という咸境道にある麦ご飯のようなものと、それから豆粕のようなものです。それは殺すこともできずに食べさせていたものでした。ところで、十二月十七日から二十一日までの期間は、どのような時でしたか? 皆さん、そばがあるでしょう? そのそばも三分の二しかひいていないのです。半分ほどしかひいていないのです。そのようなものを配給して、それで食事を解決していました。
それを最初の日に食べたのですが、体が腫れるのです。そば飯を食べさえすれば腫れるのです。ところが、だれもがおなかがすいているので、ただぐいと飲み込んでしまい、皆、病気になったのです。先生はそれをあらかじめ知っていました。それで他の人たちよりも三倍もゆっくり食べたのです。すべて一つ一つ皮をむいて食べたのです。そのようにそばを一粒ずつむきながら食べたそのときのことが生涯忘れられません。(六八-八〇、一九七五・五・四)
先生が監獄から出てくるときに、私の後ろには四人が従ってきました。「先生についていきます」と言うのです。妻も子どももすべて捨ててです。その中に文家の人が一人いました。ですから、文家の中でカインが万人生じた形となりました。ところがその人が家族に連絡をしに行っている間に、私たちは南に下ってくることになり、はぐれてしまいました。彼はカインなので北に残り、私はアベルなので南に下ってくるようになったのです。
私が北に行けば、その人を探してくるつもりです。死んでいればその墓を尋ねていき、碑石を一つ建ててあげなければというのが先生の思いです。「あなたの精誠が途絶えなかったとすれば、今後私たちが会う日が来るだろう」と思っています。先生は父と母のためには祈祷しませんが、今でも彼のためには祈祷しています。これはすべて偶然ではありません。(六〇-二三六、一九七二・八・一七)
避難しているときのことで、一つ忘れられないことがあります。そのときは、私が北の監獄から出てきたばかりで、髪の毛も短く、暮らし向きも良くありませんでした。つむぎのズボンと上着が真っ黒だったので、いちばん上の部分ははがしてしまい、国防色に染められた内側を外に出すようにして、ひっくり返して着ていました。つむぎの上着は二か月間も着ていたので、あぶら垢が付き、雨が降るとその滴がささっと流れていくのです。そのように哀れな乞食のようになって釜山に到着しました。
そのときの釜山の道は一本道だったので、国中の人たちに会うことができました。一週間ほど行き来するだけで、すべて会うことができたのです。そのようにして釜山に到着して、ひっそりと寂しい思いをしているとき、その一本道を歩いていて、故郷の友人といえば友人と言える万人の人と会ったのですが、その人が一万ウォンを私にくれました。
ところが気分の悪いことがありました。私は、「返してあげよう。そのときになれば数千倍にして返してあげよう」と考えているのに、その数年後に、その人の妻がこの統一教会を尋ねてきました。そのときは統一教会の文先生になるとは思いませんでした。自分の故郷の知り合いの人だと思っていたのに、過ぎてみると統一教会の文先生になっていたというのです。自分たちより上を行っていたというのです。
すると、その妻が来て、「かつてうちの夫が文先生をこれくらい助けてあげたから、今は私たちを助けてくれないと」と言うのです。それで、私は非常に気分を害しました。私はあなたたちの子どもたちに手厚く報いようという心を抱いて、祈祷しながら、もう一度会えることを願っていたのに、このように邪悪に現れるのかと思いました。どれほど気分が悪かったかしれません。いっそそのまま死んだなら福となりうるのではないかというのです。その人にとってはそうだったのです。
ですから、私は会ってもあげませんでした。そのとき、一万ウォンをもらったので、その利子まで計算して早くあげて追い払ってしまいなさいと言いました。そうしてから、どれほど気分が悪かったかしれません。私が一生の間、恋しがり、善であると賛美しうるその基準、避難していた時期にいちばん刺激的だった標的がばっさりへし祈られたのですから、どれほど気分が悪かったかしれません。(四九-七三、一九七一・一〇・三)
皆さんが良い家を見れば、最も苦労した人にそれ以上に良い家を作ってやろうと思わなければなりません。私がそれ以上良い家で暮らそうと考えてはなりません。あるいは、通り過ぎる良い車を見れば、神様のために苦労した人をそれ以上良い車に乗せてあげようという心をもたなければなりません。そのような思想をもつべきだというのです。
そのように悪なる世界のすべてのものよりも、より価値あるもので立てようという恋しさに徹して生きようというのが、統一教会の伝統的な思想であることを知らなければなりません。自分か良い家を建てて豊かな暮らしをしていると自慢するためではなく、内外において暮らしに窮することのない基盤を築いておいて、安息の基盤を整えようというのが皆さんを指導している師の行く道であるということを知らなければなりません。そのように自分のすることを果たしつつあるというのです。
統一教会の文先生は、野望を抱いてそう言うのではありません。文先生は百度千度滅びても構わないというのです。しかし先生は、神様の希望は滅びてはならないので、私も滅びることができないというのです。このような思想をもった人がいないことを知っているので、先生は死のうにも死ぬことができないと心に誓う生涯路程を走っているのです。それを皆さんは知らなければなりません。神様の前に借りをつくらず、皆さんの前に借りをつくらないために昼夜祈祷している人であることを知らなければなりません。(五一-四七、一九七一・一一・四)
神様は先生を愛されているようです。ですから西洋の霊通人たちも統一教会の文先生を証して、東洋の霊通人たちも先生を証しているわけです。先生はそのような人です。先生は公的な立場で借りをつくるまいとするのです。神様の同情を受けることのできることをなすのです。
空腹なときに食膳のご飯を見て、「ああ、おなかがすいた」と言ってぱくぱく食べてはならないというのです。そのようなときであるほど慎重でなければなりません。そのようなときであるほど、私よりも苦労した人を考えて、彼のために祈祷してあげて、祝福してあげることができなければならないのです。そうすれば、神様はその数百倍の祝福をしてくださり、私の子どもまで食べさせてくださるというのです。(六八-七八、一九七三・七・二三)
他人が精誠を尽くした物は、精誠で受け取らなければなりません。何であれ、受け取る人は、与えた人が精誠を尽くした以上の精誠を尽くして代価を支払った後に受け取らなければなりません。先生もそのような物はむやみに扱わないのです。
その人が精誠を尽くして千里万里の道を遠いとは思わずに訪ねてきて、くれたリンゴなのに、直ちにリンゴを取って食べることはできないのです。十ウォンの物のように扱うことはできず、百ウォンの物のように扱うことはできないのです。必ずそれを食べるときには、その人の精誠に違わないように、神様の愛によって祈祷してあげてから食べなければなりません。(六八-六九、一九七三・七・二三)
かつて何とかという医師がいたでしょう? 頭をぼうず刈りにした人がいたでしょう? その人は千日祈祷をして統一教会を訪ねてきた人です。先生はそのような人に対して、「おお! 私が統一教会の文先生だ!」と言って、威張って現れるようなことはしませんでした。彼が功を尽くしたすべてのことを歓迎する意味で、全面的に迎えてあげたのです。
そのときまで彼が築いてきた道の価値ほどに接してあげなければならない責任が先生にはあるのです。神様にとっても、この地上の人間に対して、その人が苦労した分、接してあげなければならない責任があるのです。(六〇-二九五、一九七二・八・一八)
先生は一言を失敗して三週間祈祷したことがあります。言葉一つを過って三週間、昼に夜に祈祷をして清算しました。言葉一つを過ったからです。
人間始祖が犯した一瞬の失敗に,よって、六千年の歴史がすべて巻き込まれたではないですか。またアブラハムが一度失敗したことで、人類の歴史が台なしになりました。それと同じです。責任者の一言の失敗がそのように恐ろしいということを私はよく知っています。それゆえ、原則から外れることは、死んでもできません。(五六-五六、一九七二・五・一○)
この数年間に私の心に衝撃を与えた人が何人かいます。ぽんと飛び出してくる言葉が、「こいつ…!」このような心が発動するようになります。これが私の心だったのか、これが神様の心だったのか?
今でも何度か祈祷してみればすべて分かります。神様の心ならば、直ちに分かるというのです。先生が祈祷しようとすれば真っ暗になるのです。名前まで忘れ、顔まで忘れてしまうのです。一度か二度祈祷してみると、「ああ、この人は長くないな」ということが直ちに分かります。
私は今までそのような戦いをしながら、怨讐の名前を呼んで、「神様、この怨讐を解決してくださいませ」という祈祷をしたことかありません。その人が最後になって来るまでは、私がその息子、娘を呼んで菓子でも買って送ろうとしたのです。
世の中でも死刑囚が刑場に出るようになるときは、しっかり食べさせてあげるでしょう? 世の中でもそうではないかというのです。同じように祭祀のやり方がそうだというのです。神様に祭祀を捧げるときに、そのような人に最高の贈り物を与えることのできる大きな度量がなくては滅びるのです。(四六-四五、一九七一・七・一八)
私白身も私を恐れます。あるときは、一言口にしたらそれがそのまま実現します。またあるときは、先生が祈祷しようと思っていたのとは反対の言葉が出るときがあります。そのようなときは、歯をくいしばって祈祷をしません。祈祷すれば、そのようになるのにどうしますか? 皆さんが知らないそのような何かがあるので、私が先生の立場に立っているのです。(三三-一一三、一九七〇・八・九)
第三章 摂理の発展と祈祷の変化
第一節 統一教会時代の祈祷
一 イエス様の名で祈祷する理由
今日、堕落した人間始祖の子孫たちは、本心に従って我知らず天に向かって進んでいます。倒れて転がりながらも進んでいます。
今までも個人、氏族、民族、国家的に倒れ、ひっくり返るような歴史路程を経てきました。しかし、その中でもありかたいことは何でしょうか。神様を失って、このように多くの転倒路程を経てきましたが、今に至るまで神様の名が人間の心の中に残っているという事実です。神様という名でも残っているということが幸いなのです。
また、イエス様は亡くなりましたが、イエス様の名が残っていることが幸いなのです。皆さんはイエス様の名によって祈祷していますが、先生は昔からそのようには祈祷しませんでした。イエス様の名によって祈祷しなかったのです。(一三-二一九、一九六四・三・二二)
私たちが祈祷するとき、だれよりもイエス様が神様に近いので、イエス様の名によって祈祷するのです。「イエス様がこれを願ったはずなので、イエス様のためにしてくださいませ!」と言うのです。そのようにイエス様の名で「私に福を下さいませ」と言うのは、イエス様を売り飛ばすことです。今までそのように祈祷してきました。(二九-二七三、一九七〇・三・一)
一九六〇年までは、説教するときの祈祷はイエス様の御名によって祈祷せず、簡単に主の御名によって祈祷すると言っていました。「主」という字は「王」の字の上に点が一つあって、万王の王を表します。(二九五-二七〇、一九九八・九・八)
今日私たちにとって恨めしいこととは何ですか。イエス様のみ言にしがみついて泣き叫んで生きていかなければならない立場にあるということです。皆さんが祈祷するとき、イエス様の名によって祈祷するでしょう?そのように、イエス様という名詞に縛られて生きるという事実は哀れなことなのです。それゆえ、私たちにとっての希望は何かというと、イエス様の理念をもって祈祷することではなく、イエス様の実体を探さなければならないということです。(一九-二四五、一九六八・一・一五)
これからはイエス様の名前で祈祷する段階を越えて、イエス様の実体で祈祷しなければなりません。そして、み言は人格の後ろに隠れなければなりません。み言は新郎として来られるイエス様が神父の前に送った手紙です。しかし、そのみ言の主体であられる実体が現れたならばその手紙は何の意味もなくなるようになるのです。(一九-二五〇、一九六八・一・一五)
神様は人類に対して父母の立場であられるので、今日多くの人々は、自分たちが神様の子女だと言っています。しかし、理論的にのみそうなのです。私たちは養子の立場にあります。では、私たちはどのようにしなければならないのでしょうか。み言を中心としてイエス様に会わなければなりません。
そのためには山の中や密室、あるいは死の場までも訪ねていかなければなりません。イエス様も山中での祈りの時間を経て、密室の路程を経て、死の峠も越えました。ですから、皆さんもそのような路程を通過しなければならないと覚悟しなければなりません。聖書を見るとき、イエス様のそのような事情を知らなければなりません。(一三-六一、一九六三・一〇・一六)
二 統一教会では真のご父母様の名で祈祷する
今までキリスト教ではイエス様の名によって祈祷しましたが、統一教会では真の父母の名によって祈祷します。そのように祈祷するには深い内容があります。統一教会の人々はそのような内容をよく知っているのです。
そのように祈祷するといって、キリスト教徒たちは、「ああ、異端だな」と言います。しかし、だれが異端だと思いますか?私たちはすでに十段、三十六段、すべて越えたのに、彼らは一段上がってきて、「あれは私が習っていないことなので異端(注・韓国語で“二段(イダン)”と同じ発音)だ」と言います。本当にあきれ返ります。ですから相手にもならないというのです。
私たちは世界的な水準に行かなければならないのに、そのような人たちとけんかするでしょうか。ですから、先生は耐えるのです。(二一-一五〇、一九六八・一一・一七)
統一教会ではイエス様の名によって祈祷しません。統一教会に初めて入った人々は、「あれ、真の父母が何だ?どうして真の父母の名で祈祷するのだろう?」と考えるでしょう。
皆さん、真の父母というのはどういう意味か知っていますか?真の父母とは、エデンの園で堕落しないで、神様が千年万年誇ることができなければならなかった私たちの先祖のことを意味します。
ところが人類の先祖が堕落したので、新しい先祖が必要なのであり、神様もまた新しい先祖を中心として摂理されるので、新しい先祖の名によって祈祷するのです。理致がぴったりと合うのです。
イエス様お万人では通じず、イエス様と聖霊を通じなければなりません。すなわち、イエス様は父なる神であり、聖霊は母なる神なので、堕落したアダムとエバの子孫である人間たちは、だれもがそのような父母の因縁を通じることなくしては、天国に行くことができません。
イエス様は父なる神なので、母なる神がなくては、完全なる救世主になることができないというのです。このような事実も知らないで、イエス様の名で祈祷して、福を祈ってよいでしょうか。皆、知らずにいます。(二〇-二六八、一九六八・七・七)
統一教会では、祈祷するとき、「イエス様の御名によってお祈りいたします」と言いません。片方だけなので嫌だというのです。それで「真のご父母様の御名によってお祈りいたします」と祈祷します。
堕落が何かといえば、偽りの父母をもったということです。皆さんは、偽りの血筋を受け継いで生まれました。ですから、皆さんを正しい立場に立てるには、真の父母が再び来て生んであげなければなりません。それで統一教会では、祈祷するとき、真のご父母様の名前で祈るのです。(四〇-三一六、一九七一・二・一一)
統一教会ではイエス様の名前で祈祷しません。つまらなくそのようにはしないのです。父母を尋ねていくのです。父母も真の父母と言います。すべてばらして直さなければなりません。礎石を正さなければならないのです。(四八-二二六、一九七万九・一九)
イエス様の最高の願いとは何でしょうか。だれでも国をもつ前にまず何をもたなければならないのでしょうか。子どもをもつ前にまず何をもたなければならないでしょうか。まず妻を迎えなければなりません。しかし、イエス様はそうすることができなかったので、伝道することができなかったのです。息子、娘を立てることができなかったというのです。必ず父母の資格で来たならば、父と母にならなければなりません。
ですから、統一教会では祈祷するとき、「真の父母の御名により祈祷します」と言います。既成教会とは違います。新婦がいない、独り者のイエスの御名で祈祷するのは、気分が悪いというのです。統一教会では本当にすてきな祈祷をするでしょう。真の父母の御名で祈祷するのです。「先生」と言うと先生の夫婦が良いですか、万人が良いですか?どちらが良いでしょうか。ペアが良いですか、一人が良いですか?
いつでも男性がいれば女性がいなければならず、女性がいれば男性がいなければなりません。男性が生まれるとき、女性がいるかどうか心配して生まれましたか?考えてみてください。生まれるとき心配しましたか?あらかじめそれはすべてそろうようになっているのです。それを私が解いたのです。(四一-二二九、一九七一・二・一六)
皆さんは祈祷するときに真の父母の御名により祈祷しますが、その真の愛が何であり、真の父母が何でしょうか。それらの言葉を先生とお母様だけを中心として考えてはなりません。より高い次元で世界を抱いて、民族的な感情や国家的な感情を越えて、万民を一様に愛することのできる真なる父と母という基準を考えなさいというのです。それで、先生も真の父母の御名によって祈祷するのです。(三三-一四一、一九七〇・八・一一)真の父母には神様の愛が宿っています。今まで私たちが考えることもできず、夢にも考えることができなかったような神様の愛が宿っています。神様の愛を中心として、父子の因縁が連結するのです。皆さんが祈祷するとき、神様を直接呼ぶのではなく、そのような真の父母を通じなければなりません。皆さんが祈祷するとき、最後に真の父母の御名によって祈祷すると言いますが、それは習慣的に感じるような簡単な内容ではないというのです。(三一-七七、一九七〇・四・一九)
統一教会では何を教えてくれますか。父母の道理を教えてくれます。キリスト教の教えとは本質的に違います。キリスト教で教えるのは息子の道理ですが、統一教会では何を教えると言いましたか?父母の道理を教えます。これが違うのです。
息子と父母のうちでどちらがより高いでしょうか。父母がより高いのです。ですから、統一教会ではイエス様の御名によって祈祷せず、真の父母様の御名によって祈祷するのです。一段階先を行くのです。
神とイエスと聖霊の三位一体としておられるならば、父と子と聖霊の御名で祈祷すべきであり、どうしてイエス様の名で祈祷するのでしょうか。どうして一人のかたの名前だけで祈祷するのかというのです。「父母」と言うと、すべて含まれます。
ですから、父母の名前で祈祷したらいいのに、どうして寂しくも一人のかたの名前だけで祈祷するのかというのです。もし、男性と女性のうちで男性だけが良いと言って、「ああ!最高だ」と言えば、女性の気分は良いでしょうか。
三位一体と言いながら、祈祷するときはどうして聖霊を抜いて「イエス様の御名で祈祷します」と言うのでしょうか。家でもお父さんは良くて、お母さんはいてもいなくてもいいような存在ですか?お父さんの誕生日は盛大に祝ってあげながら、お母さんの誕生日は覚えてもいませんか?父母という因縁は天地の調和であるという事実を、今日の信仰のない人たちも知っています。(二一-一九四、一九六八・一一・二〇)
統一教会では祈祷を終えるときに「真のご父母様の御名によって祈祷いたします」と言います。最初の真の父母は神様がならなければいけないでしょう?では、祈祷するときにだれを通じて祈りますか?何をするときも父の名を呼ぶようになっているではないですか。そうでしょう?(四一-二○七、一九七一・二・一七)
第二節 家庭連合時代の祈祷
一 真のご父母様の勝利圏を祝福により受け継いだ…
真の父母はだれにとって必要ですか。個人にとって必要です。心と体の戦いを停止させうる方法は、真の父母しか教えることができないので、真の父母は数多くの人類の個々人にとって絶対に必要ない?本当ですか?私が必要だと言いましたか、言いませんでしたか。真の父母は過去と現在だけでなく、未来の人間のだれにとっても絶対に必要だというのです。
真の父母はだれのものですか?真の父母は絶対的にだれのものですか?私のものです、私のもの!真の父母はだれものだと言いましたか?私のもの!そのように真の父母が私のものとなった男性と女性は、真のご父母様の血統を受け継いだ息子、娘です。真の父母は絶対にだれのものですか?絶対的に真の父母が私のものとなった人は完成した個人です。(三○三-二六六、一九九九・九・九)
真の父母を私のものとするためには、地球星を売ってでも買わなければなりません。地球星を売ったとしてもだめです。地球星だけでなく霊界と肉界をすべて売っても買えないのです。(三○三-二八五、一九九九・九・九)
特に決心しなければならないことは何ですか。真の父母は絶対的で、唯一で、不変で、永遠に私のものだという事実です。何を中心として私のものですか。真の愛を中心として私のものです。(三○三-二八六、一九九九・九・九)
イエス様のみ言にしがみついて泣き叫び、イエス様のみ言にしがみついて生きなければならない立場にあることが、私たちの恨であり悲しみです。キリストの名前でもって祈祷することが悲しみなのです。皆さん、祈祷するとき、「イエス様の御名によりお祈りいたします」と言うでしょう?このような仕方で、ある名詞にしばられて生きる自分がかわいそうなのです。これからは、自分の名によって祈祷する時が来なければなりません。その日が希望の日です。(七-二六八、一九五九・九・二七)
第四次アダム圈を準備するためにイエス様の名で祈祷して、真のご父母様の名で祈祷してきた時代を過ぎて、祝福を受けた家庭の名で祈祷することのできる時代を迎えました。ですから、これからは祝福を受けた家庭は、堕落しない父母の名で息子と娘を祝福してあげることができます。(三〇四-一五七、一九九九・一〇・一〇)
今まで皆さんが祈祷するとき、「何々をしてくださいませ。成し遂げてくださいませ」と言ったのです。ところがすでに成し遂げてくださったのです。それで今まで先生がサタン世界で戦って勝ってすべて知っているように、皆さんもすべて知っているのに何を祈祷するのですか。
これからは「このようなことが分かったので、私がします」というように祈祷しなければなりません。そして、真の父母の御名によってするのではありません。「真の父母の御名により祝福を受けただれそれの名によって祈祷します」と祈るのです。「真の父母の功労によって真の息子、娘となっただれそれの名により祈祷いたします」と言って祈らなければなりません。祈祷ではなく「報告いたします」というようにしなければなりません。祈祷までは構いません。
先生も二十年余りの間祈祷しませんでした。完全に知っているからです。私自身がサタン世界を屈服させて、天の願う基盤を築いたのです。皆さんもそうすべきです。何を祈祷して何をしてほしいと言うのですか?そのように祈祷する時代は過ぎ去ったのです。すべてくださいました。すべて知っているではないですか。
今や、真の父母の勝利的基盤を相続した息子として、責任を全うするというのです。個人・家庭・氏族・民族・国家における息子、娘の責任を果たさなければなりません。そして孝子と忠臣の家庭にならなければならないのです。すべてくださいました。ですから、接ぎ木しなさいというのです。(三〇四-一二八、一九九九・九・一四)先生は、もう道をすべて築いておきました。私のすべきことは、すべてしました。蕩減復帰摂理を完結しておいて、第四次アダム圏を宣布しました。皆さんは、イエス様の名によって祈祷せず、真の父母の名によって祈祷しません。神様は後回しで、イエス様も後回しで、そして真の父母も後回しです。皆さんを前面に押し出すのです。だれの名によって祈祷するのですか?「真のご父母様の勝利圏を祝福により受け継いだ祝福家庭だれそれの名によって祈祷します」と言わなければなりません。(三〇四-二〇三、一九九九・一一・四)
今から自分の名前で祈祷するのです。そのように自分白身の名で祈祷する家庭は、自分の息子、娘を祝福しなければなりません。自分の息子や娘がいればその息子、娘から祝福してあげなければならず、お兄さんの息子、娘がいればその息子、娘も祝福してあげなければなりません。そしてその次にはおばさんだけでなく、三代を中心としてすべて祝福してあげなければなりません。(三〇四-一五四、一九九九・一〇・一〇)
二 家庭連合時代における祈祷の実際
① 祝福家庭の場合(一世、二世を含む)
(例1)夫(妻)が祈祷するとき:真のご父母様の勝利圏を祝福により受け継いだ祝福家庭○○○の名前でお祈りいたします。アーメン。
(例2)子女が祈祷するとき:真のご父母様の勝利圏を祝福により受け継いだ祝福家庭○○○家庭の息子(娘)○○○の名前でお祈りいたします。アーメン。
(例3)大衆を代表して祈祷するとき‥真のご父母様の勝利圏を祝福により受け継いだ祝福家庭○○(祈祷者の職責)○○○(祈祷者の名前)の名前でお祈りいたします。アーメン。
② 祝福家庭でない場合は以前と同じように祈祷する。
(例)真のご父母様の御名を通じてお祈りいたします。アーメン。
第三節 節天一国時代の祈祷
一 祝福の中心家庭、だれそれの名前で報告
新千年、新しい三千年が始まる日が近づいています。これから私たちの世界になるのです。私たちの世界。正月からどのように拍車をかけて自分自身を天宙と連結させるかという各自の責任があります。
今や先生が皆さんの家庭と関係を結ぼうとすることのできる時代は過ぎ去りました。皆さんが先生と関係を結ばなければならず、皆さんが神様と関係を結ぶべき時に入ったのです。これが第四次アダムの心情圈時代です。真の愛も私が主人となって、真の生命も私が主人となって、真の血統も私が主人とならなければなりません。(三四〇-九四、二〇〇〇・一二・二四)
二〇〇一年の元日から祈祷が変わります。「祝福の中心家庭、だれそれの名によって祈祷します」というようになります。すべて蕩減して、長子権、父母権、王権を復帰しました。ですから、堕落しないアダムとエバの立場で主体的な家庭を築くことができなければ脱落するのです。
アダムとエバが堕落したとき、即刻処罰されました。皆さんもそうです。夫や妻が誤れば、即時に関係を切ることができる時代に入っていくのです。男女問題においてはなおさらです。(三四〇-九四、二○○〇・一二・二四)
祝福とは何ですか?結婚式をすることではないですか?旧約時代と新約時代はどうなったのですか?旧約の約束というものは、結婚することでしたが、その約束が崩れてしまいました。それで、新しくまた約束したのです。それも果たされませんでした。
再臨時代、成約時代には、祝福をしました。その祝福の基準を立てるようになることによって、すべてアダムとエバが堕落せずに祝福を受けたのと同じ立場となって、自分の家庭を中心として、祈祷でない報告をしなければなりません。それゆえ、善なることができなければ、祈祷することができません。
今の皆さんはそうではないですか。皆さんの国家を世界につなげ、天国につなげるべき責任があります。そのように、皆さんがすべきことが山のように生じたのですが、そこに一握りの砂で、p加えなければならないのです。そうでなければ、報告することができません。報告なのです。祈祷するのではありません。
祝福の中心家庭だれそれの名前で何ですか?「報告しお捧げ申し上げます」と言って、切に報告しなければなりません。切に祈祷していた時代は過ぎたのです。そうするためには、毎日のように報告するものがなければならないのです。(三四〇-九四、二〇〇〇・一・二・二四)
今や、二〇〇一年一月十三日から祈祷の内容が変わりました。「祝福の中心家庭、だれそれの名前により」祈祷するというのです。それをはっきりと知らなければなりません。その前は何と祈祷しましたか?「真のご父母様の勝利圏を祝福により受け継いだ祝福家庭だれそれの名前によって祈祷します」と言いました。
そうです。ご父母様の祝福を受けただれそれの家庭です。それはサタン世界と区別されるのです。サタン世界とは関係がありません。「真のご父母様の勝利圏を祝福により受け継いだ」と祈祷するとき、その祝福は何かといえば、サタン世界と隔離されているのです。堕落以後のサタン圏との関係が完全に整理されたということです。
その前は何の名によって祈祷しましたか?「真のご父母様の御名により」祈祷しました。自分の名によって祈祷しませんでした。自分の主体性がありません。そこで祈祷するのは、真のご父母様の勝利圏を祝福により受け継いだだれそれの名なのです。ところが、これが変わるのです。それはサタン側と完全に断絶されたということです。内的だけでなく、外的にも何の関連もありません。(三四三-一〇六、二〇〇一・一・一六)
祝福の中心家庭は堕落世界と何ら関係がありません。アダムとエバが堕落する前に神様の心情世界と連結されていたそのような立場でした。それが祝福の中心家庭です。それは神様の創造理想を完成した家庭として堕落しないアダム家庭に代わる立場です。そのような立場で祈祷の代わりに報告するのです。
そのように完成したアダムの家庭では祈祷する必要はなく、報告を捧げるのです。毎日報告しながら理想世界を築いていくのが完成したアダム家庭の行く道です。そのような新しい何かがなければ報告することができません。そこではメシヤも必要なく、宗教も必要ありません。すべてを知っているからです。
皆さんもすべてを知っているでしょう?真の父母がすべて教えてあげました。毎朝、訓読会をしていますね。その時間を通してすべてのことを理解するようになります。個人・家庭・氏族・民族・国家・世界・宇宙、そして神様の心情世界がすべて分かるのです。(三四三-一〇六、二〇〇一・一・一六)
皆が、家庭では孝子、国家では忠臣、世界では聖人、天宙では聖子の道理を果たさなければなりません。生きている間に五官ではなく十官をもって、自分が暮らしているこの地を聖なる地として築いていかなければならないのが、祝福の中心家庭の果たすべき責任です。それは喜ばしい言葉ですか、難しい言葉ですか?それを難しい言葉だと考えること自体が、恥ずかしいことです。
そのようにできる道があるならば、どれほど良いでしょうか。ご飯を食べても、寝ても覚めても一心一念がその根に連結しなければなりません。生まれたこと、生きること、話すことだけでなく、すべての行動がそのような責任を中心としてなされたと言うことができなければならないのです。そのような自分自身を誇ることができなければなりません。(三四三-三〇、二〇〇一・一・一五)
皆さんが祈祷するときは、「真のご父母様が残したみ旨は、間違いなく私がしっかりと成してさしあげます。私たちは神様にお仕えすることにおいては、先生がなしえなかったことまですべていたします」と言うことができなければなりません。ですから、「祝福の中心家庭、だれそれの名前で切に報告いたします」と言うのです。何かをこいねがうというのは乞食です。忠臣にはなりえず、聖人にもなりえず、孝子にもなりえません。(三四三-四五、二〇〇一・一・一五)
「祝福の中心家庭、だれそれの名前によって」と言って祈祷しますが、そのとき祈祷という言葉を消しなさいというのです。祈るという言葉は、やめなさいというのです。祈祷ではありません。報告なのです、報告。それがぎこちなかったならば、孝子だれそれ、それ以上になれば忠臣だれそれ、それ以上になれば聖人だれそれ、それ以上になれば聖子なにがし、神様の友人だれそれとして報告するのです。神様の友となるのです。皆、自分自身の立場を知っているのです。忠臣の次には聖人、その次には聖子です。イエス様が聖子として理想家庭を築くことができずに逝かれたので、皆さんは聖子よりはましだというのです。(三四四-二五二、二〇〇一・三・二五)
皆さんに、これ以上の教育は必要ありません。神様の心情まですべて知るのです。そのような内的な観念が、外的に真の愛を中心として一つにならなければなりません。そのように内外的に真の愛を中心として一つになれば、万物がついて来るようになるのです。
そのように、すべての万物が、昼夜、四季を問わずついて来ることのできる中心が真の愛です。皆さんはそのような真の愛の観念を抱いて生きなければなりません。そうすれば、ご父母様も必要なく、イエス様も必要ありません。
皆さんが祝福を受けたということは、第四次アダムの心情圈を成すようになったということです。それがどういうことかと言うと、皆さんが祝福をうけることによって、堕落する前のアダムとエバの立場に立つようになったということです。ですから、神様と一つになった立場にある祝福家庭です。(三四三-一〇八、二〇〇一・一・一六)
皆さんが祝福の中心家庭として報告することができるようになったのですが、その報告が堕落の圏内で捧げる報告になってはなりません。真の父母まで否定して本然の神様を父として侍ることができる立場にあるので、祝福の何の家庭ですか?中心家庭です。祝福の中心家庭、だれそれの名前で報告するのであって、祈祷するのではありません。そのような時代になったということを知りなさい。
今、先生が語ったことを覚えておいて、自分がどのような立場にあるのかをはっきりと知らなければなりません。皆、犬の糞よりも汚いものにしがみついて、国だ、何だと言っていますが、それがどれほど恥ずかしいことであるかを知らなければなりません。そのようなことをすべて踏んで立ち、祝福の中心家庭だれそれの名前で報告することができるようになったという事実を知らなければなりません。(三四三-二五、二〇〇一・一・一五)
二 神様と直接連結した息子、娘の時代
自分の父母よりも、自分のだれよりも、所有する何よりも神様を愛さなければなりません。それが第一です。それから真の父母と一つになった生活圏を拡大して、地上に天が放棄した世界を再び探して、神様が共におられることができる環境を成さなければなりません。それが皆さんの生涯の願いとなりえなければなりません。ところが、皆さんはみ旨の道において、どれほど息子、娘と所有権を天秤にかけているかというのです。それは赦されえない罪であるということを知らなければなりません。(三四三-二四、二〇〇一・一・一五)
先生のために生きるべきですか、神様のために生きるべきですか?だれでも救いが必要なときには、地上に真の父母がいなければなりません。真の父母を通さなければ救いは不可能です。ところが、救いがなされたあとに「神様王権即位式」を宣布したので、先生よりももっと神様のために生きなければなりません。
神様が中心の根です。先生よりも何倍、何百倍、神様のために生きることができなければならないのです。先生をつかんで祈祷すること自体も恥ずかしいことです。そうでなければならないでしょう。ですから、皆さん自身が皆さんの家門と国と世界を再創造しなければなりません。先生のみ言をもって努力すれば間違いなくできるのです。これからは、だれでもみ言を実践できなければ、先生を訪ねてくることも難しいでしょう。(三四三-一九、二〇〇一・一・一五)
もう先生を求める必要はありません。先生をすべて知ったので、これからは天のお父様に、先生より何百倍以上侍ることができなければなりません。先生は、堕落した世界で蕩減復帰の道を開拓するために力を尽くしてきましたが、皆さんは開拓するために努力する以上、神様の前に孝子となり、天国の忠臣となり、天国の聖人、聖子としての道理を果たさなければなりません。そうしてこそ、神様が失った世界を復帰なさる喜びがより一層大きくなりうるという事実を知って、そのように歩まなければなりません。(三四三-二七、二〇〇一・一・一五)
神様の息子、娘に違いないという道を行きなさいというのです。神様に似ているという事実を神様が証し、宇宙が証し、自分が証すことができなければなりません。そうしてこそ、神様の直系の子女の名分を備えて、天国の伝統を立てることができるのです。
先生は一生の間、僕よりも困難な生活をしてきました。皆さんは十分の一だけ努力したとしても、先生が知っている世界をすべて知ることができるのです。それほど容易だというのです。先生は知らなかったので身もだえしましたが、皆さんはすべて知っているではないですか。身もだえする必要がないではないですか。
ただ一つ皆さんに残っていることは、息子、娘の責任です。神様の血筋を受け継いだ伝統を立てて誇らなければならないのが私たちの生涯の使命です。それが一族の使命であり、氏族と民族と国家の使命ですIアーメンです。(三四三-三二、二〇〇一・一・一五)
だれでも本然の立場に戻って神様の心情と一致することによって、神様が悲しめば自分も悲しみ、神様が苦痛を受ければ自分も苦痛を受けるという、息子、娘に違いないと公認されうる立場を見いだすまでは、自分自身をつかんで戦わなければなりません。
「この怨讐のやつ!神様が捨てざるをえない根拠を残すこととなったこの者たちを赦すことはできない」と言って、嘆くことができなければなりません。そのように神様を父母として侍ることのできる本然の立場を失うようになったことを嘆きながら、何としてでもその立場を取り戻さなければならないのが、私たちの生涯の願いです。すべての被造万物が堕落圈でそのような道を開拓するために身もだえしています。
まず、人間がそのような立場を取り戻してこそ、世の中の万事が解決し、解放圈が築かれるという事実をはっきりと知らなければなりません。ご父母様を見つめながら、何かを要求してはなりません。皆さんも見て、知って、聞いて、五官を通じてすべて知っていながら、何を願うのですか?この世のことを願ってはならないというのです。願うことはほかでもありません。本然の神様から汚れなき血筋を受け継いで生まれた息子と娘であることを認識して、そのお父様に侍ろうと願わなければなりません。それが摂理史と創造史の総結論です。(三四三-二六、二〇〇一・一・一五)
本然の父に侍り、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を完成してさしあげなければならないという希望の一念を抱かなければなりません。そのようになるならば、神様が皆さんを誇られるようになるでしょう。堕落したアダムよりも立派だというのです。そのように神様が誇ることのできる直系の息子、娘にならなければなりません。(三四三-三〇、二〇〇一・一・一五)
三 報告がすなわち祈祷の時代
これからは、だれでも勝手に先生を訪ねてくることはできません。条件を提示するのです。国が築かれれば厳格になるでしょう。大韓民国の法が問題ではありません。それより十倍以上に厳格な法を中心として越えていかなければならない道が残っているという事実を知らなければなりません。
そのような過程が残っているので、これから皆さんはどのように生活すべきでしょうか。先生を信じてはいけません。先生について祈祷もしてはいけません。祈祷の時代は過ぎ去りました。救世主が解放圈をなしておきました。
ですから、今年の標語は何ですか?「解放された天地父母と子女が一心一体となって、真の愛の主体性である絶対、唯一、不変、永遠のみ旨が完成されますように!」です。天地父母と子女が協力するのです。
そのように協力して報告することがしっかりできたか、できなかったか、ということが問題になるのです。それがうまくできないようになるときは、報告もできないのです。祈祷ではありません。祈祷という言葉を片づけてしまいなさいというのです。報告なのです。
だれであれ、良い報告内容のない人たちは、このような集いの場に来ることができなくなるでしょう。今までは、どこかの教区長だ何だといいながら、伝道も万人もせず、実績もなく、自分の所属の要員たちの血を吸う吸血鬼たちがたくさんました。どこかに来いと言えば、自分勝手に旅費を使って「ああ、いいものだ!」と言って行ったり来たりする人たちがたくさんいたのです。
そうしながらも働くことをすべて忘れ、ただで暮らす人たちが多かったのです。これからはチェックしなければなりません。ですから、実力がなければ来ることはできないのです。
先生はみ旨をすべて知ったので祈祷をしませんでした。二十四年間祈祷しなかったのです。知っているのに何を祈祷しますか?すべて許したのに、何をしてほしいというのですか。お母様も不思議に思ったはずです。しかし、T昨年の八月からまた祈祷をしたのです。新しい時代に祈祷を中心として神様を解放してさしあげるために努力するのです。(三四一-一四六、二〇〇一・一・一)
第四節 天一国時代と祈祷の完成
一 宇宙の根本
「宇宙の中心とは何ですか?」と祈祷すれば、それは父子の関係だというのです。答えは簡単です。父子の関係です。その父子の関係は何で結ばれますか?愛で結ばれるのです。その愛で生命を動かすことができ、血統を左右することができます。(一六七-二五六、一九八七・七・二一)
神様は本然の私たちの父です。私たちは本然の心情を受け継いだ息子、娘です。間違いありません。私は霊界をすべて調べてみて、天地の最後の秘密が何かを調べるために、数年間祈祷して得た結果が、「父子の関係」です。答えはそれです。この世的な父子の関係ではありません。お父様は、縦的な愛をもち、息子、娘は横的な愛をもちましたが、その縦横が一つの位置で連結した統一的な父子の関係を言うのです。(一七六-一二四、一九八八・五・三)
「宇宙の根本とは何か?」と祈祷してみると、答えは簡単だったのです。その答えは何でしょうか?「宇宙の根本は父子の関係だ」ということでした。その関係の中心が何かというと愛です。その関係を結ぶために訓練する場所が統一教会であり、その関係を完成させるのが統一教会の文先生の責任です。(一〇五-一〇八、一九七九・九・三〇)
二 神様に侍る家庭生活自体が宗教生活
宗教の出発は、どのようになされたのでしょうか。聖人たちが皆、教祖となっています。宗教の主人となっているというのです。その人たちが皆、精緻を尽くして神様の教訓を受けることのできる立場で宗教が出発しましたが、結局は世俗化してしまいました。
それゆえ、世界が混乱の中にある渦中にも、正しい道へと指導することのできる宗教がありません。宗教も実験済みだというのです。すべて実験済みです。政治も実験済みであり、すべての思想も実験済みであり、すべてが失望的な帰着点に到達したのです。今やさらに進もうとしても進むことができない限界線にぶつかっています。(二五三-一三、一九九四・一・一)
理想世界は、永遠、不変、絶対的な神様を父として侍り、全人類が兄弟姉妹として為に生きながら、和睦して生きていく大家族の世界です。その世界を建設するための神様の摂理を主導する存在を救世主、あるいはメシヤといいます。真の愛の回路がふさがった世界で、為に生きる生活によって手本を示されるこのかたは、人類の理想であり、目標なのです。(一三五-二三五、一九八五・一二・一一)
神様の前で恥ずかしくなく、子どもたちの前で恥ずかしくないと思える夫と妻にならなくては、夫婦の愛を結ぶことができません。夫婦が互いに好んで愛そうとするとき、神様が笑うことができ、その神様の愛を通じて喜びの子女をもつことのできる男性と女性でなくては、理想的な家庭をこの地上に立てることができません。(一二〇-一五七、一九八二・一〇・一三)
真の父母の真の愛を通じて、神様の真の愛を学びながら、真の兄弟の真の愛を通じて、人類に対する普遍的な真の愛の訓練を受ける場が真の家庭です。それだけではなく、父母と子女の間の真の愛を通じて、過去と現在、そして未来が一貫した真の愛の価値観によって連結されていく歴史的な連結の輪の基本単位も真の家庭です。(二八八-一九九、一九九七・一一・二八)
神様は、絶対に妄想的で観念的な神様ではありません。抽象的な神様ではありません。生活的な主体性をもって、いつも私たちが暮らしている生活の主人として共におられるのです。人間から侍られるだけではありません。人間と、愛を中心として生活をしておられる神様です。(一六八-一一一、一九八七・九・一三)
どのように侍る生活をしなければならないのでしょうか。ここに私が生きているなら、「このすべてのものが神様のものであると同時に真の父母のものであり、真の父母のものであるために私のものである」という観念をもたなければなりません。この宇宙も真の父母のものであり、この家も真の父母のものであり、すべての国と世界も真の父母のものなので、自分のものだという結論が出てくるのです。自分は真の父母の息子、娘だからです。(一六一-二三二、一九八七・二・一五)
皆さん自身はだれのものでしょうか。父母のものであって、息子、娘のものです。では、父母はだれのものでしょうか。父母は息子、娘のものであると同時に神様のものです。ですから、皆さん自身は神様のものとなり、子女のものとなった後に皆さん自身のものとなるのです。そのようになるとき、初めて完成するのです。それゆえ、父母を敬う法度が地上に残っています。ここから父母を敬い、子どもを愛しなさいという言葉が出てくるのです。
父母がいなければ孤児です。父母の愛を受けてみて、子どもを愛してみてください。そうしてこそ、「私」という人は四方をわきまえることができ、上も下もわきまえることができるようになるのです。それゆえに、人間は万物を主管しなければならないのです。人間は、万物まで愛してこそ、自分の生が自分のものとなりうるのです。(一八-二〇八、一九六七・六・八)
孝子、孝女とはどのような人でしょうか。自分の心と体を犠牲にしてでも、父母を愛したいという人を孝子、孝女と言うのです。愛国者とはどのような人でしょうか。国家のために自分の一身を顧みず、犠牲に犠牲を重ねる人です。
何かのために十回投入して忘れてしまう人と、十一回投入して忘れてしまう人がいたならば、そのうち十一回投入して忘れてしまう人が主体となるのです。この原則によって、すべてが平和に収拾されるのです。いつでも為に生きる愛でなければ、そのように収拾することはできません。(二五五-一九〇、一九九四・三・一〇)
孝子は地獄に行きません。地獄に行かなければならない場合でも、再臨主が来るまで保留されて待つようになるのであって地獄には行きません。中間霊界という所があります。では、皆さんは孝子になりますか、愛国者になりますか、聖人になりますか、聖子になりますか?両親に孝行できなかったとしても、愛国者になる場合には、孝行を完成するようになるのです。(二四六-一八八、一九九三・四・一六)
なぜ、孝子、忠臣、聖人、聖子が必要なのでしょうか。両親に孝行したとしても長くて百年です。父母は千年万年と生きることができません。一生の間、孝行しても百年未満なのです。しかし、忠臣は一代を越えるのです。忠臣の伝統は、祖父母から父母を経て、自分と自分の子孫たちにまで相続されるのです。そうでなければ国が成立することはできません。
聖人は、忠臣を超越します。神様は一つの国にだけ住むことはできません。ですから、聖人の道は忠臣の道を超越し、聖子の道は聖人の道を超越するのです。孝子が両親を愛し、忠臣が国を愛する以上に、聖人と聖子は地上天国と天上天国に対する愛のために犠牲となるのです。(二四六-で八八、一九九三・四・一六)
東洋哲学の三綱五倫を中心として見ると、五倫の中では父子有親と言っているでしょう?有親が良いですか、回禄が良いですか?父子有親とは何ですか?血筋が一つになっています。愛の根と幹が連結されているのです。父子有親ではなく父子一身と言わなければなりません。夫婦一身、それから何でしょうか。君臣有義ではなく、君臣一身と言わなければなりません。
何をもって一身となるべきでしょうか。愛をもって一身とならなければなりません。家庭でも愛を中心として絶対的に為に生きる中心存在を孝子と言うのです。国家を中心として見るときも、絶対的な愛で、国のために生きる人を忠臣と言うのです。(二〇一-四六、一九九〇・二・二八)
なぜ神様が孝子、忠臣、聖人、聖子を好むのでしょうか。それが宇宙の核だからです。彼らだけを中心として考えてみれば、孝子は一代先祖、忠臣は二代先祖、聖人は三代先祖、そして聖子は四代先祖です。三段階です。それらが愛で連結されますが、そのような愛の天理を中心として理想圏は動くのです。(一七三-二七三、一九八八・二・二一)
真の愛、真の血統、真の生命とは何でしょうか?神様は、真の血筋、真の生命、真の愛の存在ですが、何をされたのでしょうか。神様のすべてを投入して新しい理想的な世の中を建設しようと役事なさいました。同様に、人間も理想を求めていくためには、家庭ならば、家庭において自分自身のすべての生命と血筋と愛を投入しなければなりません。
そのように家庭のためにすべてを投入する人が孝子となるのであり、国のためにすべてを投入する人が忠臣となるのであり、世界のためにすべてを投入する人が聖人になるのであり、そして天地のためにこのすべてを投入する人が聖子となるのです。(二〇五-一五二、一九九〇・八・一二)
三 神様とともに、一心、一体、一念とならなければ
天一国の「天」というのは、二人です。天一国は、二人が一つとなった国です。主体と対象が一つとなった国、個人の心と体が一つとなった国、父と子が一つとなった国、夫と妻が一つとなった国、兄と弟が一つとなった国なのです。いつでも二人が愛で一つとならなければなりません。
そして、三六〇度のすべての環境にいる人間たちが、神様に似ているということができる世界を成すべきなのが神様の創造理想です。その創造理想を成すために、救いの摂理の歴史が始まったので、私たちも神様に似ることができなければなりません。
どこにいても神様を迎えて暮らさなければなりません。それで神様とともに一心、一体、一念とならなければならないのです。その一心、一体、一念は、神様ご自身を中心とした考えではありません。それは、相対のために投入して投入しようということです。
いつでもすべてを備えて、賛美されうる存在世界の中心となるべきものが何であるかというと、個人ではありません。家庭です。新郎と新婦の二人です。その次には、父子も二人であり、兄弟も二人です。その二人は同じ価値をもっています。
何でも高いものは低いものと平準化して同じ立場に立てるのです。その反面、低い所にあるものは、高い所にあるものを受け入れることができる受容態勢を備えなければなりません。父なら父を中心として、自分の価値をプラスさせなければならないと考えてこそ回っていくのです。
神様には何もありません。すべて与えてしまったからです。それで、自分が受けて平準化される立場に上がり、神様と永遠に授け受けする運動をするようになることによって、永生が可能になるのです。
一つの愛の根を中心とした万有は、すべて似ています。木を見るなら、一つの根を中心として幹も似ており、芽も似ており、枝も似ているのです。そのように、すべてのものが平準化された価値をもつために、細胞の繁殖ということが可能なのです。(二〇〇二・一〇・三、第一五回世界統一国開天日)
神様は、一心、一体、一念で天地の万物をつくられましたが、その天地の万物は、だれのためにつくられたのですか?人間のためにつくられました。ですから、だれでも神様の心に似ることができる孝子、神様の国で神様の心に似ることができる忠臣、神様の世界で神様の心に似ることができる聖人、天宙で神様の心に似ることができる聖子の道理を果たすことができる主人とならなければならないというのが総結論です。(二〇〇二・一〇・三、第一五回世界統一国開天日)
四 愛の世界には祈祷が必要ない
神様の全権時代が来るのです。原理的に見るとき、間違いなく来ます。今やルーシェルまで屈服させ、天地父母勝利大宣布をしておいて、地獄の門を開いて霊界を収拾しました。ですから、摂理史に見るとき、堕落したアダムとエバの子孫である人間たちを救うことができる環境は、すべて成されたのです。神様を解放し、真の父母を探し、地獄を撤廃し、サタンを追放して、そのような環境をすべて成就したのです。
それで、何か欲しいという求める祈祷は必要ないという時が来ました。そのように祈祷する時間に何でもなしなさいというのです。実践だけが残っています。真の父母が勝利することによって、神様は私たちに背負われたのです。今までは、神様が私たちに頼まなければなりませんでした。「祈祷しなさい、祈祷しなさい!」と言って、絶対信仰の基準を立てた後に地上と天上の解放圈を成し遂げることができたのです。それで今まで、「祈祷しなさい、祈祷しなさい!」と言われたのです。(三〇二-三一二、一九九九・七・二)
人間の幸福は、真の父母の愛と一つになることであり、真の父母の愛を中心として真の兄弟の因縁を結ぶことであり、真の父母と真の兄弟の圏内で真の家庭を成し遂げることです。ところで、真の国家、真の世界、真の天国を成して、神様まで解放してさしあげる恵みの圏内で祝福を受けたので、祈祷して望むことはなくなりました。祈祷して何を求めますか?今まで皆さんは、祈祷しながら何を求めましたか?幸福?幸福もすべて天がくれました。ですから、祈祷して切に求めるものがないという結論です。
それゆえ、祈祷よりは、愛の実践が貴いのです。祈祷より、真の父母の愛を中心として、兄弟を愛し、国を愛し、世界を愛しなさいというのです。それから、天地を愛することが祈祷することよりましだというのです。祈祷して何をしますか?祈祷したならば、祈祷の約束どおりに実践しなければなりません。愛を実践する人が、祈祷する人よりもっと多くの福を受けることができるのです。(一八一-三二二、一九八八・一〇・三)
皆さんは、エデンの園で生きていくのに、祈祷が必要ですか?すべて知っています。すでに、すべて知っています。皆さんの行動を、神様が好まれるのか、嫌われるのか、ご父母様が好まれるのか、嫌われるのか、食口たちが好むのか、嫌うのか分かりますか、分かりませんか?だれかが教えてあげなくても、すべて分かるようになっています。
原理を知って両方の世界が明らかに分かるので、自分が何をすべきなのか分かるのです。ところが、やるべきことはやらないで、何の祈祷をするのですか?すべて知りながらも、祈祷だけする人は詐欺師です。
先生は祈祷をしません。祈祷しないというよりは、祈祷の題目がありません。強いて祈祷の題目があるとするなら、「千年後にこのようにならしめてください!」というのです。「二千年後にこのようにならしめてくださいIサタンが植えておいたすべてのものが浄化されて、あなたの願いどおりにならしめてくださいませ!」という祈祷をするときは、神様は喜ばれますが、何かをくれというときは、神様は嫌がられます。(一八一-三二六、一九八八・一〇・三)
神様の血統と心情圈を受け継いだ人には、宗教というものが必要ありません。宗教は愛をつくることはできず、愛の道を築くことはできません。宗教は愛の道についていくのです。愛の道を学びながら、ついていくというのが宗教です。ですから、愛の世界では、宗教は必要ありません。祈祷も必要ないのです。そのような論理です。(一八二-八二、一九八八・一〇・一四)
だれでも、真の愛の主人となれば、その人に神様がついていかれるようになっています。それで、どこでも神様が共にあられるので、その人には祈祷が必要なく、宗教も必要ありません。ですから、完全な解放時代に入っていくのです。
真の愛の主人となれば、神様と同居、同行、同参するようになることによって、祈祷生活を超越することができ、宗教生活を超越することができます。ですから、すべてのものから解放されるのです。(二四二-三〇五、一九九三・一・二)
だれでも霊人体と肉身が神様の愛を中心として共鳴して響くようになれば、霊的な細胞と肉的な細胞が作動するようになります。そのように作動するとき、目を開くと天上天下がすべて見えます。マイクもそうではないですか。性能が良ければ百パーセント響くでしょう。同じように霊肉が愛を中心として一つになれば、スパークして光によって天上天下がすべて見えるというのです。
それだけでなく、手もそうです。そのようになるとき、手で万物に触れると電気が走ります。それですべてくっつこうとします。そのような人が通れば神様も宇宙もついていこうとするのです。完全なプラスがあれば、完全なマイナスはついていくのであり、完全なマイナスがあれば、完全なプラスがなくても生じてついていかなければならないのです。それが宇宙の法則です。ですから、そのような人に、「ああ、神様、お越しくださいませ!」という祈祷が必要でしょうか。そのような人にとっては、祈祷は邪悪なものなのです。
完全に、霊的な愛と肉的な愛が神様の愛に和して、「ああ、良い! このまま千年万年暮らしたい!」と言うことのできる、そのような境地で女性の最初の先祖が出てこなければなりませんでした。そして、男性の始祖もそのような立場で出てこなければならなかったのです。もし、そのような男性と女性が神様の愛の中で落ち着いたなら、だれが動かすことができるでしょうか。だれも動かせません。どこの男性がその場を離れようとするでしょうか。その場を離れても、そこにまた戻ってこようとして大騒ぎするでしょう。女性も同じです。その場を離れることができないようになっています。
神様の愛と、男性も一つになり、女性も一つになって血筋が連結します。神様の血筋が連結するのです。私たち人間とは何ですか。神様の息子と娘だという基準をもって、横的に展開して世界に満ちるようになりました。それで人間は絶対的な愛を中心とした男性であり、絶対的な愛を中心とした女性です。最初からそのようになっていたならば、絶対的な愛を中心とした男性と女性が結ばれて、絶対基準にふさわしい夫婦となっていたはずであり、その夫婦の愛の中で生まれた子孫たちも絶対的な愛を中心として繁栄していたはずです。私が調べてみたらそうでした。
神様は何を好まれるかというと、愛を好まれるのです。では、どうしてそのように愛を好まれるのかというのです。何をしようとしてそうなのですか?そのようなことをなさるためです。これは宇宙の秘密の中の秘密です。これは私だけが知っている秘密です。「あなたたちは知ってはならない、この者たちめ!」と言ったら気分が悪いでしょう?だれであれ、知らない人を悟らせて、そのような世界に同参させるために教えてあげるのです。アーメン!
いつから神様の血統が人間世界に連結されたのか、だれも知りません。今日、既成教会では、「ああ、創造主は聖なるかたであり、被造物は俗で邪悪なものである!」と言っていますが、よく知らないのでそう言うのです。私ほど知りません。神様に尋ねてみなさい、だれの言葉が合っているのか。祈祷してみなさいというのです。私が、自信がないなら祈祷してみなさいと言うでしょうか。すべて露わになるのにです。そうしてこそ、どうして神様と人間が愛の因縁を結ぶようになったのかという問題を中心として、理論的な体系を立てることができるのです。(一七一-一〇三、一九八七・一二・一三)
皆さんは真の愛の王子と王女として祈祷してみましたか?だれでも祈祷するときは、真の愛の王子と王女になって、神様に侍って祈祷しなければなりません。それから、神様の王子と王女として考え、語り、行動をしなければなりません。さあ、皆さんは神様の王子と王女ですか?真の愛で全宇宙をカバーすることができる息子、娘となってこそ、真の愛の王子と王女になることができます。そのように生きる人であるなら、どうして天国に入っていけないでしょうか。(一六二-一四三、一九八七・四・五)
皆さんは二重構造になっています。霊と肉、心と体の二重構造になっているのです。これがいつ一つになりますか?皆さんが一人でいくら修養を積んで、いくら祈祷をして、いくら精通しても、完全に一つになることはできません。人間には五官があります。人の良心にも五官があります。その外的な五官と内的な五官の細胞が、百パーセント一つになるようにすることができるのは、神様の愛だけです。その他には不可能だというのです。それを知らなければなりません。
愛の陶酔境、その境地に入っていくようになれば、酒が問題ではありません。食べるものを克服することができ、睡眠を克服することができます。驚くべき世界です。このような本然の価値を喪失してしまった人間であるので、その価値を取り戻すような刺激を受けるために酒に酔うのです。しかし、愛に酔って生きる人生行路とならなければなりません。なぜそうでなければならないめでしょうか。本来、人は愛から生まれたのではないですか?
自分は何なのでしょうか。自分の起源はどこにあるのでしょうか。両親の愛から始まったのです。なぜ自分は貴いのでしょうか。父母の愛という宇宙的な核に同参したからです。そのように愛から生まれ、愛で育てられ、宇宙の核と通じることができる男性と女性として成熟して結婚し、愛を中心として生き、息子、娘を生んで愛で育てるようになるのです。
そのように、愛を横的に分けるようになるだけでなく、縦的にも与えなければなりません。なぜ縦的にも与えなければならないのでしょうか。そうしてこそ、回るからです。運動するというのです。すべての力は円形運動をして四方に伸びる作用をしなければならないのです。そして、死ぬようになれば、神様の絶対的な対象の価値をもつので、永生することができるのです。そのように愛を中心として永生という概念を見いだすことができるのです。(一三七-六八、一九八五・一二・一八)*
2004.5.23