真なる子女の道

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第一節 本然の人間と真の人生の道 P.15

一 真の人間観

1)神と人間にとって最も貴いもの … 15

 神様は、エデンの園にアダムとエバをつくられましたが、神様にとって最も貴いものは何かというと、人間なのです。このように神様が人間を最も貴く思うその理由は何かというと、神様は愛の対象を必要とされるので人間を最も貴く思うのです。

 神様がどんなに愛を持っていても、愛することのできる対象がいなければ、愛を感じることはできないのです。愛は相対的関係においてのみ感じるのです。ですから、神様が人間を最も貴く思うのは、愛することのできる対象の位置、愛の対象の位置に人間が立っているからなのです。神様が最も貴く思うのは、人間以外にいないのです。

 それでは、その人間が最も貴く感じ、貴く思うことのできるものとは何でしょうか? それは、神様の愛を最も貴く思うというのです。人間は今まで、それが分からなかったのです。ですから、神様には人間の相対的愛が、人間には神様の主体的愛が最も貴いのです。(一九八六・三・二一)

2)人間存在の起源と目的 … 16

神様はなぜ人間をつくられたのかというと、愛を成就するためです。愛は神様から始まるのではありません。相対から探し出されるものなのです。愛は、相対がいなければ探し出せないのです。

 ですから、神様が最高に貴い愛を成就するためには、相対が必要なのです。神様も相対がいなければならなかったのです。それで、相対をつくられたのです。相対を通してのみ絶対的な愛を得ることができるので、神様ご自身も相対を探すのです。そして神様も、愛のために生きようとされるのです。神様も、愛のために存在するのです。このように、愛とは驚くべきものなのです。

 神様は、人間のために存在し、人間も神様のために存在するのです。ですから、真の愛というものは、「為に生きる」というところから始まるのです。本来、人間はどこから生まれてきたのでしょうか? それは、神様の愛から生まれたのです。愛のゆえに生まれたのです。愛が起源なのです。

 私たち人間が受け継いだ生命が貴いのではありません。神様の愛の理念を通して生命が生じたのです。生命よりも愛が先なのです。愛が根を張ったので、私たちの生命が生まれてきたのです。ですから、人間は愛によって生まれ、愛によって育ち、愛の相対に出会わなければならないのです。神様が一代目であるとすれば、人間は二代目ということになるのです。神様が自らの息子娘を愛するように、その愛を体恤することのできる立場に立たなければ、神様の前に完全な愛の対象になることはできないのです。(一九八六・三・二一)

3)神が人間をつくられた理由 … 17

神様がアダムとエバをつくられた目的はどこにあるのでしょうか? 人間の形状を見てご覧なさい。まず体を持っていますね。しかし、無形なる神様には体がありません。体を持っていなければ、霊界や地上世界を治めることはできないのです。ですから、神様が人間の父母として現れるためには、体を持っていなければならないのです。その体をまとって来る代表が誰かというと、アダムとエバだったのです。堕落しなかったアダムとエバの体を持って現れるのです。ですから、アダムとエバは人類の始祖であると同時に、天地を主宰する神様の実体となるのです。実体を持った神様、すなわち、永遠なる無形世界の神様の形状の代身者として、父母の立場で世界を統治する責任者がアダムとエバであったというのです。

 それでは、神様はどうしてアダムとエバをつくられたのでしょうか? 神様は実体世界をつくられた以上、実体世界の中心のアダムとエバの形状でもって、霊界と肉界を連結させようとしたのです。そういう意味で、神様はアダムとエバをつくられたのです。

 それで、霊界と肉界は何を中心としているのかというと、霊界の代表は神様であり、地上の代表はアダムとエバなのですが、これが連結されなければならないのです。ですからアダムが生きている間、彼の持つ形態は地上の国の王様なのです。分かりますか? 永遠なる王様なのです。そのように永遠なる王権を持って現れたのです。それで、エバが誰かというと、王妃なのです。永遠なる王妃権を代表した王妃として登場するのです。そして、永遠なる王権を代表した夫婦となって、霊界に行って神様の代身としての役割をするのです。

 それでは、神の国に、無形なる神様がひとりぼっちでいたとして何をするのでしょうか? 見えない神様では、何の役にも立たないというのです。人間の父母となるには、体を通して感じることができなければなりません。このように、人間と同じ体を持たなければならないので、神様はやむなくアダムとエバを二重的存在としてつくらざるをえなかったというのです。

 では、なぜ二重構造で人間をつくらざるをえなかったのかというと、無形なる神様と全く同じになろうとすれば、霊界に行くまでの一生の間に、心と体が一つになったという基準を立てなければならないのです。それができないまま霊界に行ったとすれば、その形状は、神様と一つになれないのです。実体的王権を持つ父母(アダム・エバ)が無形の父母である神様と一体になって、永遠なる天上世界で実体的王権を顕現させるために、アダムとエバを二重構造でつくられたというのです。

 神様も、アダムとエバに連結されなくては、地上との関係を結ぶ道がないのです。アダムとエバとの関係を結ぶことにおいてのみ、アダムとエバの息子娘とも関係を結ぶことができるのです。これは、自然に結ばれるようになっているのです。

 神様が人間をつくられた理由は、同じ父母の位置に立てるためだったのです。神様が体を得るためなのです。父母というのは、内外の父母を意味します。ですから外的な父母がアダムとエバであり、神様は内的な父母ということなのです。神様の体がアダムとエバであり、神様の心が私たちのいう神様なのです。その神様が、人類の父母なのです。本来の父母なのです。そして、その神様は、何人もいるのではありません。おひとりのみなのです。おひとりのみであるので、その方が入ることのできるアダムとエバを、二性性相を持つ分聖殿として立てておいて、神様はそこに入っていかれるのです。神様が入って作用すれば、アダムとエバは理想的作用ができるのです。神様が作用しなければ、神様のみ旨も何も分からなくなってしまうのです。

 そうしなければ、神様は人間との関係を結ぶ基盤を持つことができないのです。そのような本来の基盤が壊れてしまったので、神様が人間との関係を結ぶことが不可能になってしまったという結論が出てくるのです。ですから、どんなにこの地上に数多くの人間がいたとしても、神様とは関係のない存在になってしまったのです。

4)人間の特権と価値 … 19

神様は、愛のゆえに人間をつくられました。人間が万物と違う点は、神様の息子娘としてつくられたことです。人間は神様の直系の愛を受け得る対象としてつくられたということなのです。これが人間の特権なのです。

 人間は、神様の愛に対していかなる立場かというと、神様の愛の対象存在としてつくられたのです。神様は二性性相であり、プラス・マイナスという二性性相の主体となっているがゆえに、その主体の前に対象となるプラス・マイナスという形態を持つ物体が必要となるのです。そして、その形態は、主体の性稟に反対する形態であってはならないのです。主体のすべての性稟に対する相対性を備え持ち、愛という本質に必ずぴったりと合うことのできる、相対的形態でなければなりません。

 その相対的存在の人間は、神様と何で合うのかというと、愛以外のものでは合わないのです。愛にのみ、合うようになっているのです。神様には何の知識も、他の何ものも必要ないのです。ただ愛のみが必要なのです。ですから、愛にのみ合うようにできているのです。

 人間がこの宇宙の中心であり、被造世界の中心だというのは、神様が愛の理想を成すために、被造世界をつくられたからであり、愛なる神様の前に一番最初に中心の位置に立って愛を受け得る特権を持っているので、「人間は万物の霊長である」という言葉が成立するのです。霊長という言葉は、神様の相対的愛の圏内を除いてはありえないのです。万物と同じになってしまうのです。人間特有の価値は愛の特権を持つことであり、また、全被造世界を代表して、神様の前に一番最初に相対的立場に立って、この宇宙を支配できることです。そういう愛の因縁の位置に同参できる権威を持っているということなのです。それゆえ、人間は万物の何だというのですか? (霊長です)。ですから人間は、愛を除けばすべてを失ってしまうのです。(一九八四・七・一○)

二 三段階の人生過程と霊界 … 20

1)肉身と霊人体の特性 … 20

人間には、三時代があります。同様に、動物界にも水中時代があり、陸地時代があり、空中時代があるのです。すべてが、この三時代を経なければならないのです。ところで、人間は万物の霊長であり、すべての被造世界の万物を主管することのできる資格を持とうとすれば、人間も水中時代において、どんな存在よりも完全な生活体を備えなければなりません。その次に、陸地時代においても、どんな動物よりも最高の資格を持った存在でなければならないのです。

 ところが、人間には翼がないのです。翼がないのにどうして飛ぶことができますか? 皆さん、飛んでみたことがありますか? (いいえ)。飛んでみたことはないでしょう。しかし人間はどんな鳥よりも、どんな昆虫よりも高く飛ぶことができ、遠く飛ぶことができなければならないというのです。

 最近は、ジャンボジェット機がアメリカから飛んできます。それに乗れば、東京へは十四時間で着きます。五〇〇マイルを一回も休みなく飛んで、十四時間で日本に着陸できるのです。

 人間の作った機械ですらそうであれば、神様がつくられた人間はそれ以上に飛ぶことのできる存在であるというのです。鳥よりも、もっと上手に飛ぶことができて、どんな飛行機よりも、もっと速く、瞬間的に地球星を歩き巡ることができるというのです。そのためには、どうならなければならないかというと、それは、実体である肉身を持ってしてはだめなのです。肉身はどんなに走ったとしても、限界があるということです。

 しかし、人間は万物の霊長であり、また神様は霊的な存在なので、その方と対等な主管圏であるとか、その方と対等な相対的位置へ立とうとすれば、その活動舞台も神様と同様でなくてはならないのです。今日、光の速度は一秒間に三十万キロメートル走るのですが、それよりも、もっと速く作用することのできるのが人間なのです。それが何かというと、霊人体なのです。

 先生は、今ここに立っているけれども、霊人体は既にニューヨークに行ってきたのです。稲妻よりも速いのです。分かりますか、何のことか? そのように、思いとともに歩調を合わせて作用できるのが霊人体なのです。

 もし、人間が霊人体を備えていなかったならば、この宇宙を旅行することはできません。この宇宙は、人間の目には見えませんが、あの星の国に神様が、何かの仕掛けをしておられるのです。それが何か分かりますか? 皆さんの目にはよく見えないので、分からないのです。それが、見えたとしても砂漠のようであり、何にもない所のようなのです。そこに、金、銀、宝石で、どんな仕掛けがしてあるのでしょうか? 霊的に見れば、どんな仕掛けをしてあるのかが分かるのです。

 私たちは、新しい世界の息子娘にならなければならないのですが、その世界の本家のような素晴らしい家はどこにあるのでしょうか? それが霊界だというのです。分かりますか、分かりませんか? (分かります)。では、一回行ってみたいですか?(はい)。 皆さん、地上において、地上の何々がいいなどと思っているのは全部、影法師みたいなものです。しかし、一度あの世でパスすれば永遠なのです。                (一九八一・四・一二)

2)愛の作用と霊人体の完成 … 22

それでは、この世で最も速い作用は何でしょうか? それは何かというと、愛の作用なのです。分かりますか? この世で最も速い速度は、電波ではないのです。最も速く、最も目覚ましく飛ぶことのできる力を持っているのは愛だというのです。この地の果てと、あの地の果てにいる人間同士が互いに愛し合うとすれば、すべてを超えて引っ張り合うのです。何のことか分かりますか? 愛はそのような力を持っているというのです。

 ですから今日、宗教を中心として「その愛を探しなさい。その愛の神様に近づきなさい。そのために心情を持ちなさい。祈りなさい」と言うのです。私たちが愛の世界へ接触することによって、神様のすべての愛の作用に同参できるのです。同参ということは、直ちに同席できるということなのです。

 そうなれば、神様の行く所には、どこへでも飛んで行くことができるのです。そのような完成した愛の実体となって、神様の前に相対的資格を持てばどうなるのかというと、考えることすべてが、即時的に可能になるのです。そのように霊界という所は、私たちが願うことは何でも補給される所なのです。愛の内容を持ったものはすべて、どこででも供給を受けられるというのです。

 私たち人間は真なる愛をなぜ必要とするのでしょうか? 神様の本然の世界、理想的なその世界に行って、真なる愛を体験した人は、神様が願うすべてのことを即時的に所有できる能力と権威を持つことができるのです。それでは、その資格をどこで完成できるのでしょうか? それは、地上で成し遂げなければならないのです。霊人体という言葉を知っているでしょう? その霊人体を中心として、肉身と一つになる過程において、初めて神様の愛の接続点ができれば、そのような位置に立つことができるのです。ですから、皆さんは、神様を愛さなければなりません。

 どのようにすれば神様の愛を感じることができるのかというと、それは同胞を愛し、世界の人々を愛し、万物を愛さなければなりません。そのように、愛さなければならないのです。そこで、愛の感情を感じなければならないのです。いかなる国の人も五色人種を愛する、愛の心を持たなければなりません。

 人間だけではなく、微生物にも、そのような心情で愛することのできる心があるのです。それが自動的にあふれてくるのです。花が咲けば、その美しい花の色が自然に現れるのです。香りが、「ああ、これは私が何かの香りを漂わせようとして、このようにしたので漂っているのだ」というのではなく、自然に生まれてきたことと同じく、自然に愛の花が咲かなければならないし、愛の香りが漂わなければならないというのです。

 そうなるためには、その愛の花が咲くための栄養素を受けなければなりません。地から栄養素を受け、太陽から栄養素を受けるように、私たちも肉身において栄養素を受け、霊人体を通して栄養素を受けるようになるのです。分かりますか? ですから、生力要素、その次には何の要素ですか? (生霊要素です)。そのようなものが必要だというのです。

 そうなれば、どのようになるのかというと、私たちが、すべての愛の完備体となることによって、どこへでも飛んでいけるのです。どうです。素晴らしいでしょう? そうすれば、この太陽系だとか、すべての銀河系の大宇宙世界は全部、私たちの活動舞台になるのです。

 愛する夫がいれば、その夫と共にどこへでも行くことができるのです。太陽の中心にも行けるし、すべてを通過できるのです。太陽の中心は、炎が燃えていて、恐ろしくて行けないと思うでしょうが、炎の真っただ中も無事に通過できるというのです。あの太陽の中心はもちろん、太陽の東西南北四方も、思いのままに通過できるのです。そこで、その太陽の中心にダイヤモンドがあり、他の何かがあることも、すべて知ることができるようになるのです。

 そうしてみると、この膨大な宇宙にはダイヤモンド星があるでしょうか、ないでしょうか? あるというのです。純度の高い金を主成分とする、そういう星があるというのです。千差万別の万宇宙のすべての実像は、私たちの足下にあるのです。

 もし、皆さんが完全な愛の人格を完成できなかったならば、それが制限されるのです。そのような世界を行ったり来たりする道が制限されるのです。四方を通ることができないのです。一つの門を通ったとしても、また次の門を通らなければならないのと同じです。一瞬に東西南北、四方を巡ることができないのです。

 私たちは渡り鳥になってはなりません。春夏秋冬、どこへでも合わせて行ける、自由に生きていける資格を持つには、完全な愛の人格を具備しなければなりません。        (一九八一・四・一二)

3)愛の追及の目的と第三の誕生 … 25

私たちがこれから永遠に暮らすことのできる所は、どんな所なのかというと、愛の空気で充満した、そういう世界であり、この地の上でその愛の呼吸作用を体恤し、それを体得できる人間にならなければなりません。ですから、統一教会では、「どんな人でも愛しなさい。愛しなさい」と言うのです。

 自分を主張する人々は、あの世では地獄へ行くのです。ですから皆、「為に生きなさい」と言うのです。お互いが、為に与えるのです。他の人と出会ったならば、誰であったとしても喜ぶのです。人間は愛の対象実体となる個性真理体、愛に相対することのできる個性真理体となっているのです。その真理体の完成形態だけ備えれば、この宇宙全体が歓迎するようになるのです。霊界のどこへ行っても、歓迎されるようになるのです。

 皆さんが、もし飛行機などに乗りたくなれば、「747機よ出てきなさい!」と言えば、747機が現れるのです。分かりますか? そして、私が運転席に座ったら、直ちに運転できるのです。そして、飛行機がどんなに大きくても、逆さまになって飛びたければそうなるし、降下しようと思えば降下するし、何でも思いのままにできるのです。曲芸のような飛行もできるのです。想像もできないようなことも、すべて可能なのです、だからといって、事故は起きないのです。絶対に事故は起きないのです。

 それは、どんなに素晴らしいことでしょうか? そんな素晴らしい遊びを私一人でするのではなく、愛の理想相対と共に生きてみようとするのが、神様の創造理想世界の本然の故郷なのです。皆さん、それが霊界という所だということを知らなければなりません。

 ですから地上で、愛を追求しなければなりません。お父さんの愛、お母さんの愛、夫の愛、妻の愛、それらが必要なのです。そうでしょう? また、それだけではなく、民族的にも愛を受けることを願い、世界万民の前にも愛を受けることを願うのです。あらゆるものの前に愛を受けることを願うのは、最終的に神様の愛を受けることのできる資格者となるための訓練過程を経ることだからです。(一九八一・四・一二)

 人間が生きることの中で、第一の復活、第一の誕生は胎中での生活です。第二の誕生は現在の皆さんなのです。その次に、第三の誕生は神様に帰ることなのです。夫婦が一つになり、世界のすべての人々のためになる時に、私たちは無形なる神様のもとに帰ることができるのです。それは、愛のみが可能なのです。あの世に行くにも、そのような愛の理想の神様を標準として、そこに同化できる訓練を受けて行けば、神様のようになれるのです。神様の友達になれるのです。皆さんはすべて、そのような第三の誕生を経なければならないのです。

 さあ、皆さん、「為に生きなければならない」ということが分かったでしょうか? 愛を中心として、為に生きるのです。為に生きて滅びる人はいません。為に生きて貧しく暮らす人はいないのです。なぜですか? それは、為に生きようとして、父母のために夜を徹して仕事をしてみると、その父母が亡くなる時には父母の持っていた福をすべて与えられるのです。そうですね。     (一九八一・六・二〇)

4)霊界の構造とメシアの使命 … 27

統一教会の信徒たちは霊界に行く時、誰を訪ねていくのでしょうか? 霊界では誰が主人ですか? その国の主人は、真の父母なのです。ですから、「真のご父母様のおられる所を訪ねていこう」と言うのです。それでは、どうしてこの世において宗教を信じ、奉仕して、あらゆる人々のために犠牲にならなければならないのでしょうか? これが大きな問題なのです。他のために生きなければなりません。他のために生きずに、自己のために生きればどうなるかというと、あの世に行ったら、個人を中心として生きた人々は、あの世の個人クラブに入るのです。個人クラブでは皆、お互いに為に生きようとはしません。お互いが譲歩せず、喧嘩ばかりするのです。このような個人クラブに入れば、永遠に抜け出せないのです。個人を主として生きてきた人が霊界に行けば、他の所に移ろうとしても永遠に越えていけないのです。

 また、家庭を主として生きてきた人は、霊界では家庭クラブに行ってとどまるようになるのです。そして、家庭を主とする者たちが集まった囲いの中に皆入るのです。そこから別の所に行こうとしても、行くことができないのです。民族主義者は、民族主義者同士が集まって、お互いに「国を愛した愛国者だ」と、言うのです。そのように、すべてにクラブの塀ができているのです。

 それでは、神主義とは何でしょうか? 神主義とは何かというと、個人主義でもなく、家庭主義でもなく、氏族主義でもなく、民族主義でもなく、国家主義でもありません。天宙主義なのです、天宙主義の基盤を持ったそのような霊界には、個人主義の囲いの中にいる人が入っていこうとしても入ることができないのです。家庭を主として、「ああ、この世がどうなっても、うちの息子娘、うちの子たち、うちのお父さんお母さんしかない」と言っているような者の圏内に入れば、そこから抜け出る道がないのです。永遠に抜け出せないのです。そのような塀を誰かが崩さなければなりません。その中で互いに、自らの主張を通して、家庭を中心に喧嘩ばかりしているのです。

 そして氏族主義者は氏族主義者同士で集まって、「あなたの氏族がどうのこうの」と言って、他の氏族は必要ないというのです。互いがその間に身分を立てているのです。このようなクラブ的な形態ができたのです。そして、霊界へ行った人たちは、地上の堕落した人たちの影響を受けて皆、そのような囲いの圏内で騒いでいるというのです。

 そのようにして、この塀のために大騒ぎになっているのです。神様から見ると、人間は堕落してしまってそのような塀をつくっているので、その塀を全部崩してあげなければならないのです。では、誰が個人主義の塀を崩してあげられるのでしょうか? この塀をつくってしまったのは父母です。私たち人類の父母の過ちによって塀ができてしまったので、この塀を崩すためには、人類の父母が再び祖先の誤ったその責任を代身しなければなりません。

 全人類の父母、そして祖先の資格を持って、個人的な塀を崩してあげ、家庭的な塀を崩してあげ、氏族的な塀を崩してあげ、民族的な塀を崩してあげ、国家的な塀を崩してあげ、世界的な塀、霊界の塀まで崩してあげなければなりません。このような障害となる塀を完全に崩すために来られるお方がメシヤであり、それがメシヤの使命なのです。メシヤの使命が何か分かりましたか?(一九八一・四・一二)

三 真なる人生の道 … 30

1)真なる人生の行く道 … 30

 皆さんは、この五十億人類の中の一人ですか、それともそれを否定しますか? (人類の中の一人です)。それでは、この五十億人類は、すべて自己中心に生きられますか、生きられませんか? それに答えてみてください。(生きられません)。ですから、皆さんはお互いのために生きることのできる立場の五十億人類の一人ひとりであるという結論になるのです。

 個人を合わせて家庭になるのですが、家庭にもさまざまな家庭があります。数多くの家庭があるのです。家庭を合わせた氏族にも数多くの氏族があり、氏族を合わせた国家にも数多くの国家があるのです。そのように制限された環境に住んでいるのです。そして、それぞれが文化的背景の違う環境で暮らしているのです。ですから、食べて、飲んで、消化することと同じく、共通的真理を中心として一つに連結できる基準を立てなければ、関係を結べないという結論が出るのです。

 それでは、ここで個人から出発して、どこへでも行き、事故も衝突もなく、昼でも夜でも、二十四時間どこにでも通じる門を開けることのできる内容は何かということが結論として出てくるのです。いつでも無難に通過できる要素は何でしょうか? そこで、どんな立場の態度を執らなければならないのでしょうか? 降りて行かないといけないのか、昇って行かないといけないのか、横に行かないといけないのか、回って行かないといけないのかという問題が出てくるのです。行きながら戦って、ノックダウンされて、踏まれても行くのですか、歓迎を受けながら行くのですか? (歓迎を受けながら行きます)。どうしてですか? 戦う時には、消耗が伴うし破壊が起きるけれど、歓迎する所には、そのもの自体の発展がなされるからなのです。

 ですから、ここで知らなければならないことは、自分を中心にして作用しようとすれば悪をもたらすのですが、全体のために作用しようとすれば発展をもたらすということです。これが分からなければなりません。全体のために行く時には、あらゆるものが門を開くというのです。個人も門を開き、家庭も門を開き、氏族も門を開き、民族も門を開き、世界も門を開き、天国も門を開き、愛の道など、あらゆる道が門を開き歓迎するのです。

 それでは、そのような道は何でしょうか? それを私たちは考えなければなりません。ですから、統一教会では、このような観点から「為に生きる道を執りなさい。為に生きなさい。人は為に生きるように生まれたのである」という、天理を教えているのです。

 では、真なる人生の行く道は何でしょうか? 一つの公理として立てられたことは、「為に生きなさい」ということです。それは、どこにでも通じる原則なので、永久不変なのです。「過去も現在も未来も、為に生きなさい」ということなのです。

 そして、孔子やイエス様や釈迦牟尼やマホメットのように聖者といわれている人々の前に、神様が現れて「あなたたちはどう思いますか?」と言われる時、「それは正しいです」と言うでしょうか、「それは間違ってます」と言うでしょうか? (正しいと言います)。それが、宇宙の法則なのです。それは人生において、人間が真なる姿で生きることのできる一つの法則だということを知らなければなりません。このような真なる道があるのです。

 ですから、家の中に息子がいるとすれば、その息子が家のためになればなるほど主体になるのであり、為に生きれば生きるほど、センターに入っていくのであり、為に生きれば生きるほど責任者になるのです。皆さんの家のお父さんとお母さんのうち、どちらが家の主体であり、中心であり、責任者になっているかという問題は、お父さんはお母さんよりも息子娘のために、家庭のために、全体のために生きる位置にいるからです。それを知らなければなりません。

 愛国者も同様です。愛国者とは、誰よりもその国とその国の民のために生きる人です。それでは、聖人とはどんな人でしょうか? 聖人とは、あらゆる世界万民のために生き、昼も夜も永遠に為に生きようとする人です。また人だけではなく、大自然などのあらゆる宇宙すべてのために生きようとする人です。そのような人が聖人なのです。それに異議がありますか? ここで定義を下しても、否定することはできません。

 それでは、このような宇宙をつくられ、法度を立てられた神様はどんな方なのでしょうか? それは、この全宇宙を通して誰よりも為に生きる代表的な位置に立つ方なのです。その方が神様だというのです。ですから、その方に会おうとすれば、為に生きなければなりません。

 その方は、また知識の大王なのですが、知識をもって神様の前に来なさいとは言われません。さらに能力の大王なのですが、能力を持って来なさいとも言いません。その次に、権力に対する、お金に対する、物質に対する主人であり大王なのですが、それらを持って来なさいとも言われないのです。「為に生きれば、すべてが私のそばに来ることができる」と言われるのです。        (一九八四・七・一)

2)為に生きることの結果と為に生きる生活 … 33

 ですから、より為に生きなければなりません。では、より為に生きるということはどういうことなのでしょうか? より為に生きる人が責任者になるのです。十人のうち、誰が中心になるかといえば、その十人のために、愛し、生きた人です。その人の所には十人が十人皆、訪ねてくるのです。そうでしょう? そうですか、そうでありませんか? 今までは、為に生きることは悪いことだと思っていたのですが、これからは、為に生きることで中心者になり、責任者になるということを知らなければなりません。主人が中心者になるということを知らなければなりません。

 国の大統領は、より国のために生きる人なのです。そうでしょう? 会社を相続することのできる人は、会社のためにより犠牲になって生きている人です。天理がそうなのです。今までは、為に生きることが悪いことだと思っていたのですが、それは、中心者になる道であり、責任者になる道であり、あらゆることを皆、相続するための道だというのです。ですから、為に生きるということの意味をよく知らなければなりません。悪いことではないのです。分かりましたか? 損害となることではありません。

 皆さんが勉強をする時にもそうです。「やれやれ、私は勉強して何になるのだろう」と言いますが、誰のために勉強するのですか? 皆自分のために勉強するのです。考えを変えないといけません。人類のため、神様のために勉強しなければならないのです。私を送ってくださった本然の理想の道を、私は行かなければならないのです。「神様が私を一〇〇点に値する者として送ってくださったのであれば、死ぬ時には一〇一点になって死ななければなりません」と言えば、その人は、神様が命の手帳から抜き出して、違う手帳へと書き移してくれるのです。分かりますか? 十人の兄弟の中で、いくら末っ子だとしても、十人の兄弟の誰よりも犠牲になったならば、その末っ子が十人兄弟を越えて、父親の手帳に記録されるというのです。

 逆に、不平を言う人は滅びるのです。不平を言う人は、滅びる人なのです。その人が泥棒をして、欲張って、何かすべてを手に入れたとしても、夫が浮気をするとか、子供が病気になるとか、事故に遭うとか、泥棒に遭うとかして、みんな失ってしまうのです。散り散りにして捨ててしまうというのです。それを神様は見たくはないのです。しかし、為に所有するものは永遠に保管できるのです。

 皆さんが、もし音楽をするようになった場合に、「聴衆が聴いたことのなかった音色の世界を私は作曲して、聴衆のためになろう」とするならば、どんなに素晴らしいことでしょうか? 「私は千回も万回も練習することによって、歴史上にもなかった音を出すことができ、最高の理想的音色を聴く彼らの心を、新しい音律でもって覚ますことができるということはどんなにうれしいことだろう」という心、それが素晴らしいのです。神様から見る時、「ああ、何か見た目には優れたようにも見えないけれど、心は素晴らしいなあ。ああ、私の娘よ」と言って、「あなた、しっかりやりなさい。福を授けてあげよう」と言うのです。そういうものなのです。

 先生も、そうです。今回も監獄へ行く時、この世の人々だったら逃げようとするのですが、私は逃げなかったのです。自ら監獄の道を選んだのです。キリスト教のために、アメリカのために、愛を持って入ったのです。私は行く先々で、何らの名を残そうとは思いません。為に生きながら、愛を残そうとするのです。そうすれば、その愛の前に、天下がすべて屈伏するのです。そうでしょう? お父さんもお母さんも屈伏するのです。孝行者の前には、涙を流して、その前で敬拝するのです。君主とはそのような代表者なのです。父母も祖父母も、その人の前には一家が頭を下げないといけないのです。そのような伝統的愛は、宇宙を代表した愛であり、その愛の前には完全に順応しなければならないのです。そこでは、すべての階級を超越できるのです。                         (一九八四・六・二〇)

3)為に生きるところに完全なる統一圏が形成される … 35

 それでは、「統一」という言葉、「統一」という概念は何でしょうか? 「統一」という概念は、神様と一つになるところから始まるのです。神様と一つになり、アダム、エバと一つになり、その次に、あらゆる万物とはどうなるのでしょうか? 万物はどうなってもいいのですか? 統一しようとするならば、すべてのものと一つにならなければなりません。

 それでは、どうやって統一するのか、それが問題です。皆さんは統一教会の信者ですね? 統一教会の信者ですか、何ですか? いいかげんな世の風俗に従って、父母の教育を誤って受けてきた足りない者もいるでしょう? 殻を脱がないとだめです。皆さんの父母たちはだめになったかもしれないけれど、皆さんたちはだめにならないでください。先生と神様は、そんなことはありません。しっかりしなければなりません。

 では、どのように統一するのでしょうか? 先生は何をもってどのように統一するのでしょうか? 握り拳で、力で、お金で、権力で、知識ででしょうか? 愛を中心とした、為に生きる位置で万事が解決されるのです。結論は簡単です。真の愛を中心として為に生きるところには、悪魔の世界も天国に再創造されていくという結論です。それは理論的なことです。

4)為にする位置で万事が解決される … 38

 それでは、「統一」という言葉、「統一」という概念は何でしょうか? 「統一」という概念は、神様と一つになるところから始まるのです。神様と一つになり、アダム、エバと一つになり、その次に、あらゆる万物とはどうなるのでしょうか? 万物はどうなってもいいのですか? 統一しようとするならば、すべてのものと一つにならなければなりません。

 それでは、どうやって統一するのか、それが問題です。皆さんは統一教会の信者ですね? 統一教会の信者ですか、何ですか? いいかげんな世の風俗に従って、父母の教育を誤って受けてきた足りない者もいるでしょう? 殻を脱がないとだめです。皆さんの父母たちはだめになったかもしれないけれど、皆さんたちはだめにならないでください。先生と神様は、そんなことはありません。しっかりしなければなりません。

 では、どのように統一するのでしょうか? 先生は何をもってどのように統一するのでしょうか? 握り拳で、力で、お金で、権力で、知識ででしょうか? 愛を中心とした、為に生きる位置で万事が解決されるのです。結論は簡単です。真の愛を中心として為に生きるところには、悪魔の世界も天国に再創造されていくという結論です。それは理論的なことです。

5)愛を受けるには … 38

 父母の愛を受けようとするには、何をすればよいのでしょうか? 父母が愛するすべてのものを愛さなければなりません。そうすれば、愛を受けられるのです。それを知らなければなりません。家庭でいえば、父母からの愛を受けようと願うならば、その息子娘は、父母が持っているあらゆるものを愛して、父母の愛を受けなければならないというのです。それをしないで、愛を受けようとする人は泥棒です。父母が貴く思うものを全部、思いのままに手に入れる人は、父母の愛を受けることができない人です。

 現在、父母の愛するものがあれば、父母の貴く思うものがあれば、そのすべてを愛していく時に、父母の愛を受けられるのです。なぜ思春期とか、十七、八歳のティーンエイジャーという期間があるかというと、その期間に父母の愛するすべてのものを愛することのできる訓練をするのです。父母が祖父母を愛するように、皆さんも愛することができなければならないのです。また、父母が親戚の人々を愛するように、皆さんも愛することができなければなりません。さらに、父母が兄弟姉妹を愛するように、皆さんも愛さなければならないのです。そうして、父母の愛を受けるのです。

 ですから、神様の愛を受けようとすれば、どうしなければなりませんか? 神様の愛を受けようとすることにおいても同様です。どうですか? 同じですか、違いますか? 広さも違いがなく、高さも違いがなく、同じ原則なのです。

 国も同様です。その国の君主が愛する土地と、その土地に住む民を愛すれば、君主の友達になれるということを知らなければなりません。分かりますか? 王妃になれば、王様が愛するように、その国を愛し、王様が好きなものを愛すれば、王様の愛を受けられるのです。

 また、夫婦の生活においてもそうです。夫は、妻が好むものを全部愛して、それから妻を愛する時、妻は真実に自分を愛していると思えるのです。ところが、妻が好きなものを愛することなく、妻だけ愛するというのは、話にもならないことです。

 統一教会の娘さんたちを黙って見ていると、「ああ、伝道師の青年とは結婚したくない。金儲けのうまいビジネスマンと結婚したい。よいものを着て、好きに過ごし、楽に暮らして」と言っているのです。それは原則に反した言葉です。何のことか分かりますか? 誰よりも為に生きなければなりません。ですから、統一教会の二世の娘たちは全部、伝道師夫人にならないといけないというのです。この前祝福を受けた女性たちは、男性たちに対して、金儲けを考えていたのです。この者たち! 捕らえて、全部反対の道に送らなければなりません。僕のように暮らさなければなりません。

 先生は、皆さんの世話にはなりません。勉強をよくして、教会のために仕事をするって? そんな人の助けを受けるような、つまらないレバレンド・ムーンではありません。私は、すべてつくりあげていくのです。すべてをつくったのです。アメリカでも、私が面倒を見てあげた人々がたくさんいます。ですから私は大きなこともできるというのです。皆さんの世話になろうとは思ってもいません。ただ先生の永遠なる仕事を、代わって成してくれる人を必要としているのです。

 より楽に暮らそうと考える人は、地獄に近い所に降りていこうとする人であり、より厳しく暮らそうとする人は、天国に近い所に昇っていこうとする人です。皆さんはどんな人ですか? (一九八四・七・一)

6)神の愛は全体のために与える愛 … 41

 皆さんは、神様が生きておられるということが分かるでしょう? (はい)。神様に属するものは何ですか? この万物です。この自然です。その次に、人間です。そうだとすれば、この自然のうちで、あるものは除き、あるものはそのままにしておきたいですか? すべてが必要なのですね。人間のうちで、ある者は除き、ある者は必要だというのではありません。すべて必要であることを知らなければなりません。

 さて、私たちは自然を見て「ああ、私には四季は必要ない。春だけ必要であって、夏や秋や冬はきらいだ」と言うのですが、神様に聞いてみると「私は四季が全部好きだ」と答えるのです。ですから、嫌でも夏を好きにならないといけないし、秋も冬も好きにならないといけないのです。雪の降る冬になれば、神様は白い雪が世界的に積もるのを見て喜ぶというのです。「ああ、私もうれしい」と言うのです。皆さんも、そうならないといけないのです。

 神様のような心で、自然を見ることができなくてはなりません。そういう心を持たないといけないのです。洪水が起こって、雷が落ちる時「アイゴー。私は、嫌だ!」と言ってはだめです。神様は「ホホ、あれはキスして、結婚するのだなあー」と、このように考えるのです。そして、嫌だと言う人に対して、「ハハハハ、この者め、悪いやつらだ」と言うのです。

 いつでも、自然を愛さなければなりません。自然を愛さなければならないのです。また、人間を愛さなければなりません。人間の中でも、五色人種すべてを愛さなければならないのです。「ああ、私は白人だけが好きです」。神様はそう言いますか? そうであれば皆、白い服だけを着なければなりません。白人たちは皆、白い服だけを着なければならないのです。色のある服は全部、捨てなければならないのです。黒い服をどうして着るのですか? 色のある服をどうして着るのですか? それは、矛盾なのです。

 部屋に入ったら、色とりどりのものがあるのです。なぜピアノのようなものは、すべて真っ黒なのに置いてあるのでしょうか? なぜ黒板みたいなものも置いてあるのでしょうか? これも全部、真っ黒じゃないですか? 白人たちは白いものだけを好めば皆、死んでしまうでしょう。その人たちには、夜もあってはならないのです。真っ暗な夜があってはだめなのです。

 なぜ、そうなのですか? 白人が中心ですか、白人が主となることは何なのですか? それは滅びる道です。滅びる道なのです、滅びる道です。それが何年続くのでしょうか? いくら冬が長いといっても、三か月しか続きません。永遠なるもののために、皆さんはすべての四季を皆、好きにならなくてはなりません。ですから、白人だけが好きではだめなのです。

 これを、誰が収拾しようとするのでしょうか? このレバレンド・ムーンがしようとしているのです。以前には、「レバレンド・ムーンは少数の弱者を代表して戦う人だ」と、そのように言っていたのです。私はそうは思っていないのに、そう言うのです。青い目に、頭が黄色くて、顔が白い、このような白人たちに注意しないといけないのです。人種戦争が起これば、有色人は皆、総動員して攻撃するだろうということを皆さんは知っていますか?

 もし有色人種が立ち上がれば、白人たちを皆、全部、掃いて捨ててしまう時がくると見るのです。いつまでも白人が世界を支配すると思ってはなりません。神様も、そんなことは思ってもいないのです。一時は世界を愛し、人類を愛する人たちであったので、神様がそのように思ったのであって、白人を主として世の中を思いのままにし、白人が世の中を支配しようという考えは、神様が絶対に許さないのです。

 神様の愛は、神様のすべてを愛し、全人類を愛するだけでなく、過ぎ去った過去、現在、未来のすべての人類を愛する愛なのです。地獄へ行った霊人たちまでも、解放してあげる運動をする神様であることを知らなければなりません。ですから、人間は真理の道を行かなければならず、生命の道を行かなければならず、愛の道を行かなければならないのです。いくら偉大であっても、為に生きる基盤がなければ、すべての人はついて来ません。このように、為に生きる人が自然と主体になるのです。真の生命の人になるというのです。                               (一九八四・七・一)

四 本性の道 … 43

1)若い時に人生の目標を確実に立てる … 43

 それでは今、皆さんが自分の現在の位置が分からないということは船が航海する時、緯度や経度が何度であるのかも分からず航海するのと、ちょうど同じことです。自分がどんな位置にいるのかを知り、自分の方向を正確に知らなければなりません。自分が行くべき道を確定しなければなりません。(一九八二・一〇・二〇)

 私は何をすべきかという観を持たなければなりません。既に二十代になっていれば、二十代の観を持って「私はこういうことをするのだ」と、しっかり決めて、一生涯をそのように努力していけば、その人は歴史的な人物になるとか、何かを残せる人になるのです。人の目を気にしながら、環境に拍子を適当に合わせて生きようとする人は、流れていってしまうのです。自分がどんなことをするのかしっかりと決めた後には、どんな難関があってもその目的のために、戦っていくことのできる勇気がなければなりません。それらを嫌だと思わないで、全部消化できる肝っ玉がなければなりません。(一九八二・一〇・二〇)

 世の中が、そうなのです。すべてが競争なのです。そこから脱落しないためには、自分自らが失敗せず、一年を失わず、一か月を失わない確実な道を行かなければなりません。それを、どのように行くのかということも競争なのです。一年遅れれば、ついて行けなくなるのです。一年遅れてしまえば、家庭では既に赤ちゃんが生まれて、すべてに一足遅れてしまいます。ついて行けなくなるのです。弓を引くのと同じことです。同じ力で矢を弦にかけて引けば、矢先を頭にして飛んでいくのです。そうでなければ、何倍もの速い推進力が加えられなければなりません。ところが、そのような人はいないのです。

 ですから、青春時代の一年をどのように消化するのかということが一番重要なのです。そして、自分の観をしっかりと持って、そこに合わせていかなければなりません。ダイヤルと同じなのです。コンパスと同じなのです。航海する時には、方向をしっかりとつかんで、コンパスで角度をしっかりとつかんで、出発しなければなりません。そうしてエンジンをかけて、スクリューを回して、航海しなければならないのです。万が一、出発してから振り返る時には、それだけ大変なのです。(一九八二・一〇・二〇)

 皆さんが、自ら「私はどのような道を行くべきなのか」ということを知って、行かなければならないというのです。方向をしっかりと決めたら、それを中心として、ありったけの力をすべて投入するのです。疲れてしまって目も開けられないほど、耳も聴こえないほどに、すべてのものを投入しなければなりません。                                 (一九八二・一〇・二〇)

 今から、皆さんが確実な決心をして、自らの体と心を一つにして、行くべき道をしっかりと知って、それをつかんだ後には、二十四時間、寝る時もそのために寝なければなりません。目を開ければ、そのために森羅万象を全部、探究するのです。比較するのです。自分の世界をつくらなければならないというのです。一つの心、一つの思いで精誠を込めて、そのような世界にしっかりと根を張って、行き来すれば、天下に名を残す男になるのです。(一九八二・一〇・二〇)

2)本心を通して自分の行く方向を決定する … 45

 一番大切な時代は、二十四歳までです。十八、十九、二十、二十一、二十二、二十三、二十四歳までの期間なのです。二十四歳までに、完全に自分の全人生を懸ける目標を定めなければなりません。それは、皆さんが修養をし、精誠を尽くせば分かるようになっているのです。

 統一教会の子供として生まれたならば、正しい信仰生活をしていけば自分が何をしなければならないのか、すぐに分かるようになっているのです。しかし、自分を中心として生き、自分の考えを中心として行動する人には分からないのです。船に住むねずみも、嵐が来て波が高くなると、いつ船が壊れるのかが分かって、すぐにひもを伝って船が出港する前に皆、波止場の外に出ていくのです。人間に、それが分からないはずはないのです。ですから、自分の行くべき道が分からなければならないのです。

 皆さんも、自分の行くべき道が分からなければなりません。蟻も長雨になるのが分かるのです。蟻が、行列になって引っ越しするのを見たことがあるでしょう? 役に立たない空想なんかをしている人には分からないのです。自分で自分の分野が分からないという事実は、深刻なものです。深刻にとらえて、重要な一生の問題を、天とともに協議しなければなりません。そして、自分自らが環境的与件に適応しなければなりません。それは、誰がしなければならないのですか? それは必ず、自分がしなければならないのです。(一九八二・一〇・二〇)

 皆さんの一生の問題において、専門分野を策定するには、天と談判して、深い自分の本心に問いながら行うことです。自分の素性は自分で分かるのです。自分にどんな素質があるのかが、よく分かるというのです。そして、心が私をどこに連れて行こうとしているのかが、分からなければなりません。心の声を聞

かなければなりません。方向を定められない船は、誰も操っていくことができません。ですから、誰かが途中まで操っていって、そこでそのまま止まってしまっても、その先を自分で探していくことのできるような方向性を持たなければなりません。

 この者たち! 全部が全部、経済学科にだけ行こうとするとは何ですか! 経済学科に行く者たちは、泥棒の従兄弟みたいな者たちです。私はそう見るのです。自分の行く道を探していかなければなりません。お金さえ持てばすべてではないのです。お金が必要な時もあれば、また、人として行くべき別の道を行かなければならない時もあるのです。ですから、自分の行くべき道は、自分で決定しなければなりません。お父さんお母さんに相談しなくても、自分自身が、自分の心の深いところで、本来自分の持って生まれた素質とともに和合して、未来の目的を志向して、天がその方向を提示してくれるようにして、自ら解決するようにしなければなりません。(一九八二・一〇・二〇)

 皆さんは、二十歳以前に、十八歳前後に「私は、どのような人になるか」ということを決定しなければなりません。それを、自分自ら祈祷の中で、瞑想の中で分からなければなりません。ソウル大学に入ることも必要でしょう、それはうまくいっているのかもしれませんが、大したものではないのです。変に入ってしまえば、十年の勉強が元のもくあみです。博士学位を受けて、卒業するや否や死ぬことも知らずに、ただ喜んでいれば流されていってしまうのです。(一九八二・一〇・二〇)

 人は皆、先天的に生まれついた素質があるのです。磁石が南北に通じる素性を持っているように、あらゆる型があるのです。すべてが型を持っているのです。何の話か分かりますか? すべてが三六〇度を中心として、方向を持っているのに、皆さんは九〇度で行ったり、また六〇度で行ったりしていてよいのでしょうか? 三六〇度で行くべきなのに、それぞれに方向が全部違っているのです。これは深刻な問題です。

 先生は若い時に、電気工学、科学を勉強したのです。科学を勉強しても、自分の行くべき道を知っていたのです。自分の行くべき道は分かっていたのです。私は科学の勉強をしながら、電気の方面に手を付けたのはなぜかというと、大きなことを成そうとすれば、数学的な計算が速くなければならないからです。鑑定力が速くなければならないのです。見えないものを管理することは、宗教にも通じるからです。あらゆる現象世界では、運動するすべてのものにも電気現象を発見できるのです。そういう面から見た時、宇宙構成の作用は必ず主体と対象の関係でなされているのです。

 それで、磁石は地球の引力をしのぐ作用として現れるようになっているのですが、それと同じ作用は何によって可能かというと、地球の重力以下の作用で、その作用を越えていくというのです。何のことか分かりますか? ですから、私たちの良心も同じなのです。生まれた時から既に、自分が生まれた背景をはっきりと知っているのです。これを、自分が判定しなければなりません。そのようなことを感覚で判定できなければ、皆さんはこれから大きなことはできないのです。(一九八二・一〇・二〇)

3)本性の方向に合わせる … 48

 皆さんは、統一教会の運勢によって生まれた人々です。統一教会の運勢で生まれたので、統一教会の内容と本質に接することのできるものを持てば、これからすべてのことが皆うまくいくのです。今は二十代なので、大学に通っていて、よく分からないのです。昔は道人と言われた人々や、野生の高麗人参を探している人々は皆、霊的なアンテナを立てて、高麗人参がどこにあるのかちゃんと分かって探したのです。そういうことがいくらでもあったのです。それがなぜ必要なのかというと、そうすることによって、自分が被害を受けることを避け、利益になることにいくらでも連結できるからです。そのような道を探すのです。無駄に時間を消耗するわけにはいかないのです。(一九八二・一〇・二〇)

 そのような素質を持って皆さんが生まれたことを知り、皆さん自身が、お父さんお母さんたちが考える前に、二十歳になる前に、自分の行くべき道をすべて選んでおきなさいというのです。そのような心を持っていれば、もし違うほうへ行った時も、自分の行くべき道に体が帰ってくるのです。全部、教えてくれるのです。明日の朝になったら東に行こうと思って、東に向かって寝たとしても、東に行くことがよくなければ、いつの間にか、南に向かって寝ているのです。なぜそうなのかというと、南に行かなければならないからです。ですから、あらゆるものが皆、南に向かうのです。体自体が分かっているのです。そのように鋭敏になっているのです。

 皆さんもそのような境地に入らなければ、これからは偉大な指導者になることができないのです。これから、二世の責任者たちが先生の代わりに立っても、責任を持てないのです。皆さん全部が、自動的に自分の心霊を検討する時が、だんだんと近づいて来ているのです。

 一つの村に十人の人が住んでいれば、三人は皆通じるのです。何を考えているのか、全部分かるようになるのです。そういう時がくるということを知らなければなりません。ですから、皆さんは今、正しい姿勢で精誠を尽くさなければならないのです。(一九八二・一〇・二〇)

 皆さんは皆、父母が精誠を尽くして生まれたのであれば、そのような基準ですべてを感知し、未来に対する計画も、深い思索の中で自分自ら構想することができるようになっているのです。このような位置に立てば正常なのですが、そのようになれない時は皆、落第なのです。(一九八二・一〇・二〇)

 本性の方向性に合わせなければなりません。方向性を東側に合わせなければならないのに、北側にいくら合わせてもだめだというのです。そのような一生は、行けば行くほど、だんだんと小さな谷間に入っていくのです。(一九八二・一〇・二〇)

 本心が願う道を行くようになれば、宇宙が一つになるのです。それは、弾丸よりも速く、もっと強いのです。そのような何かがなければなりません。

 そのような位置に入るようになれば、自分の心と話ができるようになるのです。そのような境地で心と話をして、何かしようと思えば、すぐに答えが出てくるのです。そうなれば、試験問題までも分かるのです。試験勉強をしなければならない時に、試験の範囲が何ページなのかが分からなければ、口から「何ページだ」と言葉が出てくるのです。そのような境地にまでなるのです。

 そのような境地に入れば、自分の行くべき道が分かるのです。すべて行くべき道が確実となり、宇宙のあらゆる作用の力が助けてくれるのです。手を引っ張って試験場へ入るようになると、すぐにすべてのものが協助するのです。そのようになれば、大きなことができるのです。

 そのような偉大な力の背景が中心となって、生活できる人が真なる人間なのです。真なる人間とは、そのように無限なる力のバックグラウンドがあって、自分が志向する方向に無限に押してくれるのです。方向が違えば、いっぺんに分かるようになるのです。

 統一教会は今、皆さんが理解しているような統一教会ではありません。深く、高い背景、偉大な力のバックグラウンドを持っているのです。ですから、皆さんが努力して、このような境地をすべて連結して上がっていけば、すべてのものが皆解決されるのです。そして、そのような面で皆さんが、行くべき方向感覚を決定するのです。自分でしなければなりません。自分が一番よく知っているのです。(一九八二・一〇・二〇)

4)心情世界を中心として動く … 51

 人は、沈着な心の深い所に、心の落ち着く所があるのです。心の眠る所があるのです。その所まで私の心が入らなければなりません。そこで眠って、起きた時には鋭敏になるのです。そこで雑念を除いて、精神を集中すれば、あらゆることに通じるのです。ですから修養や、祈祷が必要なのです。

 先生も祈祷するのです。精誠を尽くすのです。いつでも、精誠を尽くさなければならないのです。ある時、精誠を一回だけ尽くしておいて利用するものではありません。

 いつも刀は磨かなければなりません。刀を使って一回でも磨かなければどうなるでしょうか? いつも磨かなければなりません。ですから一回だけではなく、いつでも磨いておかなければならないのです。それが問題なのです。静かに、心の位置をつかんでおかなければならないのです。

 そうすれば、皆さんの成すべきことがすべて分かるようになるというのです。それをしなければなりません。良くない考えを持って、若い女性のあとをついて回って、よこしまなことをしてはなりません。皆さんは方向感覚をよくつかんで、それを中心として、それに従わなければならないのです。方向は一つしかないのです。ですから皆さんは、万般の準備をしなければならないし、整備をしなければなりません。毎日のように、自らが押し出すことのできる推進力をつけなければなりません。それは、自分一人でしてもだめなのです。

 十八歳にもなれば、自分がどんな人なのかということが、すべて分かるのです。ですから、苛立ちやすいのです。友人の力が必要になったり、先生の力が必要になったり、神様の力が必要になるのです。

 先生も、自分自身が今持っている力よりも大きな世界的なことをする前には、深刻になるのです。より大きな力が必要な時は、それをどこから持ってくるのかということが問題になるのです。持ってくることができない時には、後退しなければならないのですが、そうするわけにはいかないのです。

 ですから、祈祷が必要であり、神様が必要なのです。それで、心情の世界が必要なのです。愛の世界は、いくら引っ張り出しても終わりがないのです。物質の世界も、知識の世界も、権力の世界も、すべて、崩壊するのですが、心情の世界は無限なのです。それで、心情の世界を中心として動かなければならないのです。(一九八二・一〇・二〇)

 心情の世界の中央では、降りていったり、昇っていったり運動するのです。自動的に運動するのです。これが息をするということなのです。地球も息をするということを知っていますか? 地球も一メートル近く息をするのです。そのようにしながら調整しているのです。円形に、曲がっているのを調整しているのです。したがって、心情の世界も中央はすべて、軸を中心として、昇っていったり、降りていったりするのです。運動するというのです。

 また、あらゆる存在物は楕円形で形成されているのです。分かりますか? それが分からなければ、心の、心情の中心へ入ってみなさいというのです。そこでは、無限なる力が伝わってくるのです。それで、九〇度の角度だけつくれば、無限な力を維持することができるのです。

 ですから、道を選んで行かなければならないのです。精誠を尽くして、世の中のすべての面で、深い心霊世界を体験しなければなりません。なぜかというと、一生涯、生きていくために、推進力を無限に補給できる一つの源泉が必要なので、そのような業をするのです。(一九八二・一〇・二〇)

 精誠を尽くして、自分の行く道を自分で見分けて行くべきなのです。本性の行く道があるのです。絵の素質のある人は、絵を描く時、一見して鏡のようなところに画幅がぱっと現れないといけません。何のことか分かりますか? 既に心で絵を描いているのです。それと同じように生まれついているのです。ですから、生まれつき持っているものから出発しなければなりません。そのようなものを捨てて行けば、すべてに失敗してしまいます。深刻なことです。すべて流れていってしまうのです。(一九八二・一〇・二〇)

 うちの孝進のような場合、私にこのように話をするのです。「お父さん、変なんです。三時になると、音楽が聞こえるのです。静かに深刻に…」。彼は、そういう素質を持って生まれているのです。誰でも、何らかの天才的な素質を持って生まれるのです。生まれつきというのは、既にそのように生まれついたということです。よい素質を持って生まれているので、これを無限に活用すれば、無限に発展できるというのです。(一九八二・一〇・二〇)

 かつて、譽進が学校に行くようになって、「お父さん、私、おかしいわ」と言うのです。何がおかしいのか話しなさいと言うと、子供たち皆が、何か忘れたりすると、自分に聞いてくるというのです。そこで譽進が、「あなたの家のどこどこを探してみなさい」と言うと、そこで探し出せるというのです。それは理解できますか? すべて分かるようになっているのです。分かるのです。

 また、恩進の場合は、さっと誰かが来た時、「お母さん、私はすぐ行こうとするのに、心がしきりに戻ろうとするの、何でこうなのかしら?」と言うのです。すると誰かが、「その人は、あなたが応対してはだめです」と教えてくれるのです。霊的に分かるのです。そのような磁石の作用のような何かがあるのです。皆さんに、そのような面があるのに、そのような方向感覚を感知できなければ、大変なことになるのです。

 譽進もそうだし、仁進もそうだし、恩進もそうです。「お父さん、変だわ。誰かが失敗するわ」と言うのです。それで、気分が悪いというのです。そのようなことは予感で分かるのです。どこに行こうと、さっと出かける時、何が悪いのか良いのか、予感で分かるのです。

 それで、約束した人が悪い時には、必ず時間を遅らせて行くとか、一時間前に早く行くとかしなければなりません。行く前に、霊的に戦って出発するのです。そうすれば、それを免れることができ、コントロールすることもできるというのです。ですから、道の生活が重要だというのです。このようなことをコントロールできるので、このように自分の運命を避けることができ、防ぐことができる自制力を育てることができるのです。(一九八二・一〇・二〇)

5)本性の生活 … 55

 先生は十六歳の時、深刻だったのです。その時、深刻だったのです。どこかに行くようになっていても、行きたくない時には行かないのです。もし行ったとすれば、必ず事故が起こるからです。今でもそうです。ですから、怨讐の多い世界の中で、今日まで生き残ってきたのです。私を狙う人がどのくらいいるか知っていますか?

 皆さん、考えてみてください。偉大な人になればなるほど、本当に困難が多いのです。それを全部越えるためには、自分が行く道をある程度選ばなければなりません。先生に、「先生、大変なことになりました」と言った時は、既に分かっているのです。「何かの問題が起こりました」と言った時も、私には全部分かっているのです。そうでなければ、これから大きな指導者にはなれないのです。そのために、皆さんは平面的な考えを捨てて、立体的な考えを持たなければなりません。平面は立体圏内に無限に入っていくのです。

 そのようなことがあるので、良心がまっすぐでない人は、いくら偉くても先生の前に来れば、いっぺんに押されてしまうのです。説明は必要ないのです。心が吸収されて、心が全部押されていきながら、自分の位置を探して入るのです。既に分かるというのです。皆さんは、先生を知らないでしょう? どうですか、先生が分かりますか? 「私のお父さんお母さんを祝福してくださいました」と言うだけの先生じゃないのです。四十億人類の中で、歴史上一番知られた名がレバレンド・ムーンなのです。

 もちろん、知識的な実力もなければなりませんが、霊界など、これからの世界は未知の世界なので、心霊が成長しなければならないのです。コンピューターで人間の運命をすべて打診できる段階に入ったのです。それ以上、コンピューターを使わずに、鑑定できる人にならなければなりません。これから、そのような時が来るのです。(一九八二・一〇・二〇)

 先生は、日曜学校でも有名だったのです。その当時から、有名な先生だったのです。日曜学校の壇上に立って、私が泣くと皆泣きだしたのです。既にその境地に入っていたのです。私は小説みたいなものはあまり読まなかったのです。そのようなものを読むのも、好きではないからです。私が全部構想しても、それ以上にできるのです。ですから、どこかの監獄に行って話をするようになれば、一年、十二か月の間、長編小説をいくらでも続けて話すことができるのです。さっと全部できるのです。笛の音が聞こえてきたら、その音に私の曲調を合わせれば、その環境がすべて共に戯れ出すというのです。(一九八二・一〇・二〇)

 また先生は、昔からよく眠りながら説教したのです。眠りながら話をするのです。日曜学校に通う時にも、眠りながら説教するのです。そして、その説教の自分の声に起こされるのです。その時、既に天を代表して多くの人たちを指導するだろうということを私は知っていたのです。私が教会の前を通り過ぎようとすると、昼食を食べたあとでも、わけもなく入って食べたくなるのです。壇上へ登って食べたいのです。そうなるのです。はしごをかけて登ることを知っているのです。心が、既に分かるのです。(一九八二・一〇・二〇)

6)一番近い先生は自分の心である … 57

 皆さんには、この救援摂理がどれほど大変なことなのかということが分からないのです。どれほど大変なことなのかが分からないのです。その道は、友人も助けることのできない道なのです。先生が歩んで来た道は、友人も助けることができません。助けてもらってはいけないのです。妻も助けることができません。父母も助けることができません。それが、父母の位置であり、アダムの位置なのです。

 その時は、誰もいないのです。先生もいなければ、誰もいないのです。いるのは霊界の天使だけです。本来は天使たちの救援を受けるようになっているのですが、堕落した天使圏なので、その天使圏の救援も受けてはだめだというのです。それは、利用しようとするからです。利用しようとするのです。誰も信じられないのです。神様さえも、正常に相対してくれないのです。神様も試験をして、パスしなければ、相対できなくなっているのです。

 人間が神様に背いたので、神様も人間を信じるためには、どうすることもできないことがあるのです。エデンの園で、自由に信じることのできる環境を見捨てた人間なので、不信のこのサタン世界において、信じられる息子を探し出すという事実を考えられない神様なのです。そうですね? (はい)。

 神様が信じることのできる立場に立つためには、どんな試験でもすべて経なければならないのです。先生が今日の立場に立つためには、ありとあらゆる試験をすべて経てきたのです。私がその試験の話をしないので、皆さんは分からないのです。その内容が分からないのです。その話を私はしないのです。そんな話を残したくないのです。

 エデンの園にそのような話が残ってはだめなのです。本来の世界には、そのようなものがあってはならないのです。それは先生だけが知っていて、すべて消化して、後代の人たちには良い話だけを残してあげたいのが先生の考えなのです。悪いものはすべて私から始まって、すべて蕩減して、皆さんの時代には、良いものだけ残していこうとしているのです。ですから、できれば監獄の話などは残さないようにしていたいのです。監獄の話などをすれば、慟哭する人がとてもたくさん出るのです。そのような話をするようになれば、もちろん情緒的面で衝撃も受け、もう一度決心するだろうけれども、それではだめなのです。そうやって決心するより、順理的、原則的に決心しなければだめだというのです。

 このような衝撃的な立場で決心することよりも、真理に立脚した、真実に立脚した立場で決心しなければなりません。誰かに強要されてではなく、自分がしたくてしなければならないのです。そういうものなのです。真実に出合えば心は動くのです。

 ですから、自分の一番近い先生は誰かというと、自分の心なのです。一番親しい友人よりも貴いものが自分の心であり、お父さんお母さんよりも貴いものが自分の心なのです。だから心に聞いてみるのです。その心には、神様が入っておられるのです。その声を聞く方法を知らなければなりません。心の声を聞く方法を知らないといけないのです。その立場にまで入らなければならないのです。

 仏教では、「自性を明るくしなければならない」という言葉があり、「天上天下、唯我独尊」と釈迦牟尼は言ったのですが、それは何のことかというと、私が私に聞いてみると、私の中に神様が入っていることが分かるということなのです。そうなれば、できないことがないのです。

 ですから、自分の心を明るくしなければなりません。心を明るくしなければならないのです。心は先生よりも優れているのです。心は永遠なる私の主人なのです。ですから、よこしまな心を持ってはならないというのです。公理に属した、公的な位置に立つ心を持たなければならないのです。(一九八四・七・一〇)

7)心に同化する生活 … 60

 愛する心は、いつでも犠牲になろうとするのです。譲歩しようとするのです。与えても、また与えようとするのです。例えば、私にお金が約一〇〇億あって、全部道端で分けてあげたとします。それでも心は、安らかではないのです。世界の人類を助けてあげられなかったからです。お金がもっとあれば、もっと分けてあげたいのです。きりがないのです。ですから、神様の心は測量できないのです。神様の心がそうだというのです。神様の心はどれだけ大きいことでしょうか、どれだけ深いことでしょうか? ですから、自分を誇ることはできないというのです。自分を誇れないのです。いくら、立派なことをしたとしても、心に聞くと、「もっとしなければならない」と答えるのです。

 世の中の人々は、少しでも分かってもらうことを願うのです。分かってもらうことを願い、称賛してもらうことを願うのです。しかし心はそうではないのです。心はそうではありません。人々は、分かってもらうことを願うのですが、それを分かってもらう日には、それで終わりなのです。おしまいになるのです。もし、それが好きになれば、第二段階として高い次元に上がる時に障害が多いのです。なぜ障害が多いかというと、心が願う道は十字架の道なので、たびたび称賛を受けていると、その位置がよくなるのです。尊敬されていると、気持ちがよいので十字架を背負わないようになるのです。第二段階の心の道を行こうとすれば、十字架を背負わなければならないので、それが難しい道になるのです。体が願う道ではないので、行けないのです。

 ですから、先生は三十歳近くになる時まで、本当にひもじい生活をしたのです。いつも、ひもじい生活をしたのです。お腹のすかない日はなかったのです。そのような生活をしたのです。お腹のすいた人々に同情しながらも、私はお腹のすいた時間をほめたたえなければなりませんでした。それは、深刻なことなのです。お腹のすいた時は、深刻なのです。一番深刻なのです。御飯がなくて食べないのではないのです。わざわざその道を行くのです。責任を果たせない人は、思いのままに御飯を食べられないというのです。私が準備する、あらゆる課題を成す前には、睡眠も取ることができないのです。そういうわけなので、何らかの違う考えをする余地がないのです。それでも心は、「もっとせよ」と迫るのです。

 そうです。私たちは、昼寝ができないのです。いくら疲れていても昼寝ができません。昨日も、一、二時間は寝たでしょうか? お母様は「疲れるので少し休むようにしてください」と言うのですが、心が許さないのです。「年を取ったので、休む時が来たのです」と言うけれども、寝ることができないのです。私は年を取っているけれども、私がする仕事は若い人よりも、もっと多いのです。以前よりも、もっと大きい問題がたくさん起きているのに、それを誰かに任せることができないというのです。今の仕事を全部、誰かに任せられないのです。私が全部、指示するのです。それも、ただ単に指示するのではありません。霊的な何かを得て指示するのです。

 ですから、仕事をする過程で、心が私を通して教えてくれるのです。心がさっと分かるのです。その人を見れば、その人がどういう人かということがいっぺんに分かるのです。既に、それが分かるというのです。自分にとって一番近い先生は誰かというと、自分の心なのです。ですから、心を苦しめてはならないというのです。心を悲しませてはならないというのです。それは、先生を悲しませることであり、天宙の主人を悲しませることになるのです。心が私の一生の主人なのです。心を悲しくさせることは、私の一生の主人を悲しくさせることなのです。心が喜ぶことのできる道を行かなければなりません。

 ですから、私は、中学校時代には、学校の掃除を全部したのです。私が先頭に立って全校を愛したい心があったので、全校を代表して、私は掃除をしようと思ったのです。そうなると、他人が手助けすることもよくないのです。一人でしたいのです。一人できれいに掃除しようとするのです。それで、他の人が掃除した所を、もう一度するようになったのです。そのように、何回かしていると、友達が皆、「それなら、お前一人でやれ」と言うのです。ですから、自然に一人でするようになるのです。

 その時間は、心と楽しむ時間なのです。この世的にみると悲しい立場みたいですが、心と友達となる時間なのです。それで、すべて掃除して座って瞑想でもすれば、深い祈祷の場に入れるのです。他の人には分からない深い世界に入れるのです。そのようなことが必要なのです。

 皆さんが劇場に行くようになると、幕がよければ、よい劇場だというのですが、そう言わないでください。その幕がよいからといって、どうなのですか、劇がよいかどうかが分かりますか? その劇がどれだけよいのかという問題は、その劇を中心として、人々がどれだけ一つになっているのかということで決まるのです。心と同化して版図を広げる生活をいかにしているのかということが、問題なのです。(一九八四・七・一〇)

五 公義の道 … 63

1)統一教会の主流思想と真の愛の道 … 63

 統一教会は、何のみ旨を持って進んでいるのかというと、神様を中心とする世界的思想を持って進んでいるのです。ある一民族的思想ではありません。大韓民国を中心とした思想ではないのです。天と地を中心とする、とてつもない大きなみ旨を中心とした思想を持って進んでいるのです。このような、み旨を中心とした思想が主流なのです。

 真の愛を中心として、父母を愛することができれば兄弟も愛することができるのです。また、兄弟を愛することができれば、父母も愛することができるのです。そして父母は、兄弟を愛する者をより愛するようになるというのです。ですから父母を愛することができ、その次に兄弟を愛することができ、その次に親戚を愛することができなければなりません。皆さんは叔父、従兄弟、再従兄弟がいるでしょう。そのような親戚と争うことなく一つとなって、互いに愛し合わなければなりません。

 その次には、自分の隣近所の人たちを愛さなければなりません。それがもっと大きくなると、その次は社会が問題となり、その次は国が問題となり、その次は世界が問題になるのです。そのような範囲をだんだん広げていくと、それが広がれば広がるほど、愛がだんだん薄くなり、愛がなくなってしまうというのですが、それではだめです。愛は広げていけばいくほど、より強くならなければなりません。分かりますか、何のことか? いけばいくほど強くなる愛を探し求めていく道が、神様に出会い、神様に通じる愛の道なのです。

 今までは愛というと、遠くの人はあまり関係がなく、近くのお父さんお母さん、兄弟姉妹に集約されていたのです。私の夫であるとか、私の妻であるとか、すべて私を中心とした家庭という基地で実を結んでいたのです。そこにぐるぐると巻きついていたのです。それが、今までの堕落した世の中における家庭だったのです。

 ですから、統一教会が他と違うところは、この一点なのです。統一教会の教えは何かというと、お父さんお母さんを愛するように、兄弟姉妹を愛し、兄弟姉妹を愛するように氏族を愛し、さらに民族を愛し、国家を愛しなさいということです。父母を捨ててでも、国家を愛そうというのです。ですから世界を愛するためには、自分の国も捨てなければならないのです。また天を愛するためには、世界までも捨てなければならないのです。より遠く、より大きいもののために、小さい近くのものから犠牲にする愛の道を訪ねていこうというのが、統一教会の主流思想なのです。

 ところで、その思想はどこからきたのかというと、それは文先生の思想ではありません。アメリカでいうところのレバレンド・ムーンの思想ではないのです。その思想は本来、神様の思想なのです。その神様はどのようなお方かというと、自分よりも相対を愛するお方なのです。自分よりも相対を愛して、二人が一つになって、より大きな範囲の相対を愛する運動が、神様の運動なのです。

 神様の思想は、このような内容が本質的になっているので、神様は最も近い人を悪なる世に送り、世界人類のために犠牲にさせるのです。これが神様の思想なのです。

 それゆえ、歴史的な聖人、賢哲たちは皆、この世界で「人類を愛そう」というタイトルを掲げてきたのです。そのような人々は、自分の家庭よりも、国家や世界を愛してきたのです。国家を超えて、世界を愛してきたのです。そして、そこで歓迎されたのではなく、むしろ排斥されて犠牲になってきたのです。

 ですから、そのような時代がだんだん近づいてくるにしたがって、今まで犠牲になってきた人々や、その思想を仰ぐ人々を高く奉るようになるのです。そのような人々が、イエス・キリストのような宗教の教祖たちなのです。イエス様や、釈迦牟尼や、孔子のような人々なのです。

 では、そのような人々の思想は何かというと、それは、自分の家庭だけのためのものではありません。この宇宙が一つの家庭になるためのものであり、宇宙家庭を成すためのものです。そこでは、それより低い立場にある国家も、民族も、氏族も、家庭も、個人も犠牲にしなければならないのです。そこが違うのです。                                 (一九七八・一〇・八)

2)善なる人々の行く道 … 65

 この世の愛は、すべて私の家、私のお父さん、私のお母さんに帰結するのですが、神様の愛はそれを基盤としてジャンプするのです。新約、旧約の教えの中では、大きなものを救うためには、小さいものを祭物にしなさいということなのです。ですから、善なる道を行こうとすれば、犠牲になりなさいというのです。犠牲とは何かというと、祭物になることです。血と汗を流して、自らを放棄する位置に立つということです。そのことを統一教会では、蕩減復帰の過程を経ずには善の基台を築けないというのです。

 家庭的善の基台を築こうとすれば、まず氏族の前に家庭が祭物にならなければなりません。そうしなければ、家庭的善の基台が築かれないのです。また氏族的善の基台を築こうとすれば、民族の前に氏族が祭物にならなければならないのです。一段階落ちるのです。ですから、民族的善の基台を築こうとすれば、国家の前に民族が祭物になる位置に立たなければならないのです。また国家的善の基台を築こうとすれば、世界の前に国家が蕩減復帰の条件を提示しなければなりません。このように犠牲にならなければなりません。これが、今まで堕落した人類が歩いてきた道と、今日まで神様が成されようとする復帰摂理の道の違う点です。

 ですから善良なる学生とは、自分のために生きる人ではなく、他の人のために生きる人をいうのです。大義のために、小義に立つ自分を犠牲にする人です。大きいことのために小さいことを犠牲にする人が善なる人だというのです。ですから、その差が大きければ大きいほど、善の価値基準が高くなるのです。

 私が世界のために犠牲になれば、その善の価値は世界的な価値となるのです。そのためには、個人を犠牲にしなければならず、家庭を犠牲にしなければならず、氏族を犠牲にしなければならず、民族を犠牲にしなければならず、国家を犠牲にしなければならないのです。

 それで、善を追求しようとする人々は、いつも遠い山々を眺めるように行かなければならないというのです。ですから皆さんも胸を張って、目を上げて未来に向かって進まなければなりません。そして、未来に対する決意と同じ犠牲の代価を払うことのできる自分にならなければなりません。このような人々が、これから善なる人になれるのです。分かりますか? ですから神様の思想と、今日の人間世界の思想とは全く違うのです。

 皆さんは、学校でもそのように生きなければなりません。自分の主張の強い人は、うっかりして失敗すると逆賊になりやすいのです。やたらと自分を主張して全体を否定する人は、もし誤れば逆賊になりやすいのです。もし、そのような人が国家の主権を握れば独裁者になり、人類歴史に大きな被害を残すことになるのです。

 未来に向かって、きょうの成功よりも明日の成功のために耐えることのできる人々が善なる人なのです。そのような人々が指導者になれば、善なる指導者になり、明日のために建設する人になるのです。未開地のような環境を開拓して、発展的環境として残すことができる人です。ですから、いつでも自分を中心として生きる人々は悪に近い人であり、公的な神様の思想を中心として生きる人々は善に近い人なのです。

 このように、皆さんの友達も、良い友達と悪い友達に分けることができるのです。自分の利益のためにしゃべり、自分を弁明する人は悪人に近いのであり、公的な立場で大義のために弁明し、公的な立場で考える人は善人に近いのです。

 日常の生活においても、すべてがそのように分かれているのです。左側と右側に分かれているのです。自分の目で見て、「ああ、よし」と言うのも、それがどのようによいのかということが問題なのです。それは、私が見てよいというのですが、そのよいということは、「私の家庭から見て、私の国から見て、未来の人類の立場から見てもよい」という見方と、「ああ、これは赤い色だから、私の好きな色だからよい」という二種類の見方があるのです。

 ですから、話をすることにおいても、二種類があるのです。ある人は自分のために弁明するのです。喧嘩して戦う時に、もし自分の意志を思いのままに主張してしまうと、悪に流れていくのです。自分に帰着して、世界との関係が結べなければ悪になるのです。しかし、もし弱い者が強い者に何の理由もなく殴られているのを見て、命を懸けて戦う人は、公的な道理のために戦う人であり、善なる人なのです。ですから戦うことが、すべて悪いのではありません。分かりますか? 皆さんも戦ったからといって悪いことではありません。

 戦いにも、二つの種類があるのです。自分の野望、自分の目的、自分の欲望を満たすために他の人々を犠牲にする戦いは悪なる側の戦いであり、神様と世界と宇宙を良くする目的のために戦うことは、善なる戦いなのです。悪なる戦いは、先に打って屈伏させる戦いであり、善なる戦いはまず譲歩して包容しようとする戦いなのです。そのような二種類の戦いが一生において、また一日の生活の中で交差するのです。

 ですから皆さんが、年下の少年たち二人の戦う姿を見た時に、憤りを感じて、一発殴りたくなったとしても、それを抑えて包容するような心を持たなければなりません。きょうですべてが終わるのではなく、明日は友達になる人であることを知り譲歩してあげれば神様も、あるいは誰であっても、どちらが善であるかを判断するのです。寛容で人々を包容する人が、善なる人であるというのです。(一九七八・一〇・八)

3)善なる生活の実例 … 69

 日常の生活においても、すべてそうなのです。勉強することもそうです。「私が勉強することは、誰々に勝つために勉強するのだ」と言いながら勉強する学生たちもいるのです。そのような思いで勉強する人は、いつでも試験の後で先生に、「私は何点ですか?」と聞くのですが、勉強するのは試験の点数が目的ではありません。私が勉強するのは、誰々に勝つためであるというより、大韓民国で一番にならなければならないということでなければなりません。このような観点から勉強しなければなりません。

「リトル・エンジェルス学校で、私が一番になることよりも、大韓民国で一番にならなければならない」と言わなければなりません。それは、どうしてでしょうか? 神様の栄光のためにでしょうか? 統一教会の栄光のためにでしょうか、自分の先生の栄光のためにでしょうか? ただ熱心に勉強すれば、そこに価値があるというのですが、自分のために勉強して一○○点を取れば、自分も喜ぶし、お父さんお母さんも喜ぶだけです。しかし大韓民国のために、神様のために、全人類のために勉強したとすれば、神様の名において全人類が喜ぶというのです。分かりますか? このように違うのです。

 寝る時もそうです。多くの人々は、「ああ、疲れたから寝なくては」と言って寝るのですが、寝るのは誰のために寝るのでしょうか? 当然、自分たちのために寝るのですが、「私は、お父さんお母さんのため、大韓民国のために寝ます。もし私が病気になったら大変だからです。大韓民国の損害になり、世界の損害になるからです。ですから、私は大韓民国のために寝て、世界のために寝て、神様のために寝るのです」と言えば、そのような考えはいかに素晴らしいことでしょうか。

「神様、私は寝ます。私はあなたのために明日も仕事をしなくてはならないし、あなたのために熱心に戦わなければならないので寝ます。寝てもいいでしょうか?」と言えば、神様も「よし!」と言われるのです。すべてがそうなのです。寝る時も、そのように善と悪が交差しているのです。ですから、休む時もそうなのです。すべてをそのように考えれば、ありとあらゆることが善なる側に収拾されていくのです。例えば、皆さんがどこかへ行って、水を一口飲む時もそうです。とても喉が乾いて、何杯でも水を飲みたいほどに、喉が乾いていても「神様、私はあなたの代身としてこの水を飲みます」と言って飲むのです。そうすると、それは自分が喉が乾いて飲んでも、神様の代身として飲んだことになるのです。

 皆さんのような少年少女たちが、水を飲む時に「ああ、水、水、水、水」と言いながら互いに争うよりも、「神様の代身として水を飲む人は、もう少し待ってあげるべきだ」と言って、「その代わり、私はたくさん飲みますよ」と飲み干せば、それは天地のために飲むことになるのです。

 また、歌を歌うことにおいてもそうです。天を褒めたたえ、自然を褒めたたえ、大韓民国を褒めたたえるという思いを持って歌えば、その歌声に三千里半島が耳を澄ますのです。三千里半島がどうして耳を澄ますのかというと、この宇宙は電波や、言葉でいっぱいに満たされているからです。そうでしょう? 電波や言葉がいっぱいになっているというのです。一度ラジオを聴いてみてください。逃げ出せないほどに幾重にも、言葉で取り囲まれているのです。

 それと同じように、皆さんは山鳴りを知っているでしょう? 山鳴りは、「ウー、ウー、ウー」と鳴るでしょう。とても素晴らしい山鳴りなのですが、それを全部、聞いて語ってあげるのです。どうして山鳴りが生じるのかというと、それは簡単なことです。空気の波動により、既に行く道がなくなって塞がってしまうので、反射して逆戻りしながら、山鳴りとなって聞こえてくるのです。それは、物理的現象ですが、その内的な意義はどこにあるのかということをもう一度考えてみてください。山がささやいて、自然がささやいて、岩がささやいているのです。それは、どんなに神秘的なことでしょうか?

 皆さん、いろんな虫や蝉の声をじっと聴いてみてください。「ジー、ジー、ジー、ジー、ジー」と鳴くのですが、音律が高くなったり低くなったりして調和をとっているのです。また風が吹く時も、その音をよく聴いてみてください。風が「ヒュー、ヒュー」と吹く時は、低く聞こえてくるのです。そうですね? そのような考えを持ったことはないでしょう?

 こおろぎが鳴く時もそうです。明るい昼間に鳴く時と、夕方に鳴く時と、夜に鳴く時と、全部鳴き方が違うのです。よく聴いてみてください。すべてに調和を合わせることを知っているのです。宇宙は、そのような調和の音律の中で戯れながら生きているのです。その中で、中心は誰かというと、人間なのです。分かりますか? 女性たちが歌を歌うと、庭のがまがえるもその歌を聴くために、そっと出て来るのです。そしてふくろうも、かえるも、水の中にいるすべての魚たちも、その歌を聴こうとして出て来るのです。

 ですから、皆さんも音楽の練習をする時には、そのような考えを持たなければなりません。「ああ、私の歌声があの山を越えていくだろう」というように考えるのです。「あの山の向こうまで届かないといけないので、もう少し大きく歌ってみよう」と言って、「ああ!」と歌ってごらんなさい。

 遠い山々を眺めながら、あの山の向こうに何があるだろうかと考え、「友達がいて、私の一番愛する人がいて」と思いながら、心を集中すれば霊界と通じて、霊肉が合わさってそれが見えるようになるのです。霊界まで動員されるのです。ですから、この宇宙と関係を結んで善の生活をすれば、あらゆるものが協助してくるようになるのです。(一九七八・一〇・八)

4)率直な人は発展する … 72

 悪とは、自分を主張することです。神様も、世界もすべてを自分に帰一させようとして、踏み消そうとすることが悪なることなのです。これがサタンです。反対に善とは、私自身でこの宇宙を全部解放しようとすることです。宇宙を踏み消そうとすることではありません。宇宙を解放して、最高に良くしようとすることです。ですから、それは易しいことではありません。

 皆さんは、喧嘩したことがありますか? 皆さんの中で喧嘩をしたことのある人は手を挙げてみなさい。したことがありますか、ありませんか? 他の人を見たというのはどういう意味ですか? 自分の良心に尋ねてみればいいのです。首をかしげているその女の子はたいへん独特な性格です。喧嘩をしましたか、しませんでしたか? (しました)。そうでしょう、したでしょう。このように聞いて、初めて「しました」と言うのですか? そのように弱々しく答えるのは、サタン的な悪なる側の答えです。大きい声で答えるのが、善なる側の答えなのです。

 皆さんは、悪なる側の答えをしましたか、善なる側の答えをしましたか? (善なる側です)。どうですか? 男性たちも答えてください。悪なる側の答えをしましたか、善なる側の答えをしましたか? 悪なる側でしょう。不利なので、自己中心的に「ウー」と小さい声で答えるのは悪なる側です。

 人間は率直でなければなりません。率直なことは、あらゆる世界に通じるのです。率直なことは、どのようなことにも通じるのです。もし自分が誤ったとすれば、率直に誤ったと言えば、そこから発展するのです。善であっても、そのような過程を経なければ発展することはできません。人間はいつでもうまくいくとはかぎりません。誤ることもあるのです。それで発展できるのです。

 私たちが過ちを犯しても発展できるのは、そこで、率直に告白して、悔い改めることができるからです。分かりますか? 過ちは悪いことではありません。もし誤ったならば、そこから新しい刺激を受けてジャンプしなければなりません。刺激を受けて善なるほうに飛躍できれば、誤ったことも良いことになるのです。ですから勉強ができずに落第をしたとしても、落第することによって優等生にもなれるというのです。

「この人はクラスの中で一番になれずに、なぜ落第してこのように台なしになったのだろう」と言うのですが、落第することによって、それが刺激になり、全く違う方向へ飛躍すれば、かえって落第したことが善なる道に行くチャンスになるのです。何のことか分かりますか? 直線で行くのは大変なことです。このように、最善を尽くさなければなりません。

 ですから、人間は率直でなければなりません。隠そうとする人は発展できないのです。率直な人は発展します。この宇宙が押してくれるので発展するのです。どこへ行っても宇宙が押してくれるのです。東洋でも、西洋でも、過去、現在、未来においても率直な人は皆、友達になれるのです。どうして隠そうとするのですか? 自分を弁明しようとして、自分が目立とうとすれば発展もできないし、友達もいないのです。

 皆さんに今、一番必要なことは何かというと、率直な考えを持つことです。そこで私が一歩踏み出せば、善と悪が決定するのです。何が悪いか何が良いかが決定するのです。

 十歩行けば、善の垣がだんだんと重なり合って十重になるのです。一度流れてしまうと、二重、三重に埋め合わせても、取り返しがつかないのです。永遠に流れていってしまうのです。ですから、そのような道を行きそうになる時には、指導する先生が必要なのです。「これではだめだ!」と言って、気合を入れてくれる先生が必要なのです。皆さんが気合を入れられることは、悪いことではないのです。

 気合を入れられて、「先生め、今に見ていろ。今夜、路地で会おうものなら容赦しないぞ!」と言う人は滅びる人です。「先生、待ってください。十年後に会いましょう。その時には、私が先生に教えてあげられるようになります。先生は私から学ぶ人になるでしょう」と言えれば、気合を入れられたことが、最も良いことになるのです。

 勉強ができないと気合を入れられて、人として扱われず、悔しくて胸がふさがる時、その憤る心を善なる方に向けると、先生から気合を入れられたことが、金メダルをもらったことよりも、より高価な記念となるのです。このように考える心が皆さんには必要なのです。(一九七八・一〇・八)

5)立派だという基準の段階とその道 … 75

学生の本分は何ですか? (勉強することです)。そうです。勉強がよくできないといけないのです。それでは、勉強する目的は何ですか? (立派な人になることです)。立派な人になることですね。

 それでは、立派だという基準は何でしょうか? 一番目に、自分の家庭で立派であり、二番目に国で立派であり、三番目に世界で立派であり、四番目に神様に立派だと言われることです。必ず三段階あるというのです。分かりますか? 私たちは、必ずその道を行かなければなりません。

 家庭を中心として見た時、皆さんが父母の前に親孝行することは、子女としての大切な責任なのです。なぜ孝行しなければならないのかというと、孝行の道は、国家に対する忠臣の道と連結するからです。竹の節のように連結するのです。国に忠誠を尽くす人はどのように生きなければならないかというと、世界に対しては、聖人の道を行かなければならないのです。

 それでは、どのように生きなければならないのでしょうか? それは、一直線に生きなければならないのです。このように見た時、たとえ孝行ができなくても、国家に対して忠臣になったならば、その両親は、「お前は私に孝行しなかった」とは言えないのです。「お前は本当によくやったね」と言うのです。父母を捨てて、家を捨てて親不孝をしたとしても、国家の忠臣になった時には、たとえ父母は死んで霊界に行ったとしても、「やあお前、本当によくやったね」と称賛するのです。(一九七八・一〇・九)

6)人間最高の完成の標語 … 76

 それでは、人類の行く道の中で、一番早い道はどんな道でしょうか? 一生というものは、短いものです。皆さんも、自分がいつ死ぬか分からないでしょう? 「ああ、私は十七歳になったので、ずいぶん生きてきたな」という言葉は、人間はいつ死ぬか分からないということなのですね。既に、皆さんはたくさん生きてきたでしょう? 十七歳といえば、十七日よりも多いでしょう。一年七か月よりも、多いでしょう。人間はいつ死ぬか分からないのですね。いつ死ぬか分からない短い人生において、私たちは思いもよらない多くの課題を背負っていかなければならないのです。そのような課題が残っているということを、考えなければなりません。ですから、神様は人間に対して、この課題をはっきりと提示しなければならないという結果になるのです。ゆえに神様は、「誰よりも私をもっと愛しなさい」と言ったのです。

 それで宗教の道は、自分の父母を捨てて、家庭を捨てて、国を捨てて、世界をすべて捨ててでも、神様の前に真の愛をつかんで出ていくのです。ですから一時は、すべてのことが皆破壊されるようになるのですが、それがすべてを一瞬に完成できる道なので、歴史もそのような道を擁護して出発したし、世界もそのように勝利した人を褒めたたえるようになり、国もそのような人を褒めたたえるようになり、家庭もそのような人を褒めたたえるようになるというのです。ですから、「神様を誰よりも愛しなさい」というその言葉は、何よりも最高の完成への標語であるという結論になるのです。

 それゆえ、宗教では「誰よりも神様をもっと愛しなさい」というのです。イエス様は神様の愛を持った息子なので、誰よりもイエス様を愛すれば、神様と一つになるのです。そういう意味から、「親よりも、妻子よりも、誰よりも私をもっと愛さなければ、私の弟子にはなれない」と言われたイエス様の言葉も、そういう意味があるのです。

 このような観点から見た時、神様は短い生涯を生きていく人間の前に、一番素晴らしい標語と課題を付与するために、「誰よりも神様をもっと愛しなさい」ということを主張してこられたのです。そうすることによって、誰でも神様の息子になることができるのです。神様の息子になった時は、聖人完成はもちろん、忠臣完成も、孝子完成も可能になるのです。いっぺんにすべてのことが完成されるのです。このようになれば、家庭的基盤でも勝利した位置に立つのであり、国家的基盤でも勝利した位置に立つのであり、世界的基盤でも勝利した位置に立つのです。

7)真なる孝子、忠臣、聖人、聖子の道 … 77

 皆さんはこれからどんな人にならなければならないのかというと、忠臣にならなければなりません。忠臣というのはどんな人でしょうか? 王様のために精誠を尽くす人が忠臣でしょうか? 違います。王様のために生きるとともに、国民のために生きる人が忠臣であるということを知らなければなりません。では、孝子とはどんな人でしょうか? 父母のためだけに精誠を尽くす人ではありません。父母のために生きるように、兄弟のためにも精誠を尽くす人が孝子なのです。

 その次に、聖人とはどんな人でしょうか? 歴史的な聖人とは世界人類のために今まで犠牲になって死んでいった人です。そして神の息子聖子とは、神様を中心として、世界のために生きようとした人です。世界の人々に対して、神様に対するように生きる人が聖子なのです。聖子は、聖人とは違うのです。

 私は聖子の道を行こうとするのです。先生は、神様を愛することは当然であり、同じように人類も愛するのです。怨讐であるアメリカまでも愛するのです。分かりますか? そうすれば、神様が見た時、「私の息子である」と言うことができるのです。どこかの国の息子ではありません。大韓民国で生まれても、大韓民国の息子ではありません。神様が「私の息子である」と言える人は、神様のために生きるように、人類のために生きる人なのです。そのような人が神様の息子なのです。神様はご自分を忘れて人類のために生きておられる方なので、私たちも自分を忘れて、人類のために生きれば真なる孝子になるのです。分かりますか? そのような定義を正確に知らなければなりません。私たちは、孝子の道から忠臣の道、聖子の道を探し求めていくのです。聖人の道を探していくのではありません。

 ですから、皆さんの家庭の中で、国の忠臣の立場に立つとすれば、忠臣であると君主から指名される人はどのような人かというと、君主のために生き、国民全体のために生きる人なのです。そのようになると、奸臣は既に伝統が違うのです。自分のために生きる人は奸臣なのです。逆賊なのです。環境がその人を容赦しないのです。

 そのような内容を中心とした孝子の道理を立てて、忠臣の道理を立てて、聖子の道理を立てていけば、その国が、地上天国となり、このような国に生きた人がそっくりそのまま天上天国に行くのです。そのように移行していくことが神様の創造理想だったのです。(一九八四・七・一七)

第ニ節 子女の責任分担 … 80

一 準備と基盤、実力と実績 … 80

1)準備は歴史の要請 … 80

 皆さんが知らなければならないことは、人間は現在だけを生きているのではないということです。過去の先祖の時代からずっと生きてきたし、今も生きているし、これからも生きていかなければならないのです。そして、過去も現在も未来も、いつでも競争しているのです。また、必ず相対がいるのです。オリンピック大会で、もし、チャンピオンになろうとすれば、チャンピオンシップに対し、必ず挑戦しようとするのです。これはしかたのないことです。歴史過程において、より高い次元に発展するために、それは不可避的な現象なのです。

 ですから、いつでも挑戦を受けなければならず、その挑戦を克服できる過程を経なければなりません。そうでなければ、より高い発展した世界に前進できないということが、歴史観においても、社会生活においても、発展の天理であり、原則であるということを知らなければなりません。

 今まで先生は、とてつもなく大きいみ旨を抱いて、戦ってきたのですが、今は世界的基盤がある程度築かれてきたのです。その過程において、先生が一番心配することは何かというと、準備のない人、基盤のない人、よりどころのない人のことなのです。このような人ほど、悲惨な人はいないのです。

 例えば軍隊でいうと、軍隊のあらゆる装備であるとか、軍事訓練であるとか、軍の要件に必要なすべての環境、あるいは補給的環境、縦横に動くことのできる環境の与件を連結させることのできる基盤がないことが一番悲惨なことなのです。基盤がないことと、その次には準備ができていないことほど、悲惨なことはありません。

 いかに実力があったとしても、その実力を中心として、自分が対社会環境に挑戦して克服するためには、長い期間の準備が必要なのです。必ず準備が必要なのです。その準備過程を経ずしては、絶対に基盤というものは出てこないのです。

 今日、統一教会がこれほどの基盤を築くことができたのは、天の摂理から見た時に、既に準備ができていたからなのです。それでは、旧約時代を立てて成してきたことは何かというと、メシヤのための準備をしたことです。そして新約時代は、再臨主を迎えるための準備をしたのです。

 ですから、再臨主を準備しておいて、新しい次元に発展させることのできる基台を形成していかなければなりません。準備したところから、すべての時代の環境を整理して、新しい次元に発展させて、新しい基盤を形成しなければならないのです。

 この新しい基盤が、古い基盤よりも勝らなければ、旧時代の歴史は新しい時代に移らないのです。これが、歴史的な天理なのです。このことは、皆さんの個人生活においても適用されることであり、社会生活、また、国家の行く道や歴史の行く道にも同様に適用されるのです。人間の一生を考えてみた時に、人間は一生をどのように生きるべきなのか、その準備をしなければならないのです。(一九八四・七・一九)

2)新しい基盤を築くためには準備が必要である … 82

 皆さん、青少年時代について考えてみましょう。少年時代から青年までの期間に皆さんは勉強しますが、勉強とは何でしょうか? それは準備をすることなのです。今日の社会基盤の上に、新しい基盤として立つことができるように準備をすることなのです。

 その準備した内容は、新しい環境の中で築かれた歴史的伝統基盤となるのですが、それが現在の基盤よりも劣る時には、既成圏内に包括されてしまうのです。消化されてしまうのです。既成時代圏を克服できないということです。すべてが既成圏内の基盤の中で消化されてしまって、新しい歴史発展の基盤となりえないというのが、理論的結論なのです。

 このように考えた時、青少年時代には夢を持って、現在の国家全体、大韓民国三千里全体を眺めなければなりません。そこには経済分野、政治分野、文化分野、教育分野、宗教分野などの全般的な基準が入っているのです。この全般的な基準を眺める時、その基盤を乗り越えるためには、その基盤を乗り越えることのできる準備が必要だというのです。

 今日の世界を見ると、民主世界と共産世界とがあります。大韓民国自体を見ても、民主と共産両世界の中でうめく、旧時代の基盤の上にいるのです。そこで、どのように跳躍をすればいいのでしょうか? これは、誰でも願うことですが、これを解決することは大変難しいのです。

 それは、ある個人だけではできないのです。国家全体がそれをしなければ、不可能なことなのです。国家全体がそれを解決するためには、まず精神的統一が必要なのです。

 ですから、国家政策を立てて強調することも、あるいは、経済問題に対する見解を発表することも、選挙の時に、「自分はこのようにしよう」というすべての発表も、ある一つの分野において新しい次元に行くための、準備してきた内容を発表することに過ぎないのです。このように考える時、このことは、どこの社会でも適用されることなのです。

 皆さんは成功したいですか? 成功は誰でもしたいのです。では成功するためには、どのように生きなければならないのでしょうか? それには、まず成功できるための準備をしなければなりません。その次に、何をしなければならないのかというと、旧時代の基盤の上に、新しい基準を築くために、準備してきた内容を中心として、その基盤を必ず消化できなければなりません。古い基盤を乗り越えることができなければなりません。それを成さなければ、歴史的な新しい基盤が立たないということが、宿命的結論なのです。それをはっきりと知らなければなりません。これは私たちの一生や、私たちの国家が行く道においても当てはまることなのです。

 例えば、軍隊でも徹底的に訓練をしますが、その訓練はなぜするのかというと、敵が強力なことを想定して、その敵の環境を吸収し凌ぐことのできる軍隊をつくらなければならないからです。ですから、情報であるとか、敵国の歴史などすべてのことを知って、現在の敵の環境基盤を吸収して、克服できる自らの力を持たなければならないのです。そうするためには、力の投入が必要なのです。そのような力を持たなければならないという事実は、すべてに関する内容であることを知らなければなりません。(一九八四・七・一九)

3)勝利の三つの条件 … 84

 統一教会は今、何をしているのでしょうか? いつも困難に直面して迫害を受けているのですが、その迫害の中にあっても未来のために準備しているのです。常に成長しているということです。盲目的ではないのです。いつも準備をしなければなりません。徹頭徹尾、準備しなければなりません。

 では、どのような準備をしなければならないのでしょうか? まず思想的な準備をしなければなりません。精神力において、他の人々に対して負けてはだめです。絶対に負けてはなりません。その次に、努力においてもアメリカの歴史を支えてきた人々と比較して劣ってはだめです。そのように努力し、準備しなければなりません。その次は何かというと、行動、闘争的準備をしなければなりません。ですから、まず徹底した思想を持たなければなりません。その次には、努力をしなければなりません。たとえ思想を持ったとしても、じっとしていてはだめです。そのように準備された事実の上に、無限に努力しなければなりません。努力をするとしても、自分個人を中心として努力するのではありません。この基盤を乗り越えることのできる母体、主体性を備えるためには、無限に闘争をしなければなりません。

 今日、既成世代の基盤となっているすべてのものは、新しい体制を歓迎するようにはなっていないのです。歴史は必ず、闘争過程を経なければならないのです。闘争過程の中で滅びたり栄えたりするものなのです。では、どのような者が滅びるのでしょうか? 吸収される者、消化される者、弱い者が滅びるのです。これが、鉄則なのです。これには、誰も異議がありません。ですから、滅びないようにしようとすれば、相手を消化しなければならず、吸収しなければなりません。そうでなければ、生き残ることはできません。敗者としての悲しく苦い杯を飲まざるをえないのです。

 このような問題を中心として見た時、今日先生が当面する問題が、これから世界的な波動で押し寄せてくるのです。レバレンド・ムーン一人を中心として、アメリカを代表とする自由世界はもちろん、四十億人類が総攻撃をしてくるのです。

 それでは、レバレンド・ムーンが準備することは何でしょうか? これが問題です。思想的な面では、千年、万年、受難の道を経ても克服できる自信を持っているのです。どんな因縁も、自信を持って、突破していく努力をするのです。目的達成のためには、どのような犠牲の代価を払っても行くという努力が必要です。その努力は、誰かに消化されてしまうような努力ではなく、すべてのものを消化することのできる努力なのです。その次は実践です。実践するにあたっては、私たち宗教指導者は闘争することができないので、言葉なく、ただ努力して、実践するのです。彼らが八時間実践すれば、私たちは昼夜二十四時間実践するのです。これが私たちの実践力です。

 四百年の歴史を一日八時間努力して、現代文明を創建したとすれば、もし私が三倍努力するならば四百年の文明は百三十三年間で同じ立場に立ち、肩を並べることができるというのです。また、その倍の努力をする時には、七十年あればよいのです。それは理論的なのですね。しかし、準備のできない人は流れていくのです。ですから、私が皆さんを呼んで教育する内容は、準備しなさいということです。

 皆さんは、準備をして、残された環境基盤を吸収しなければなりません。そのためには、初めに何がなければならないのでしょうか? (思想です)。徹底した思想です。まず徹底した思想を持たなければなりません。そのような思想を持ってぶつかれば、相手が壊れるというのです。そして時間を置いてみようというのです。相手が後退するのです。その次は何ですか? (努力です)。努力しなければなりません。その次に、何ですか? (行動です)。行動は、いかに早くやってのけるかということです。統一教会が他と違う点は、ここなのです。先生はこのような観を持って指導してきたのです。また、私自身がそのような観を持って生きてきたのです。

4)世界的な指導者になるには … 86

 皆さんは学校へ行っても、友達と交わりながら勉強することにおいて、友達を消化し、乗り越えることができなければなりません。友達に対して頭を下げて、その友達に消化されたら負けです。皆さんは学校の先生まで乗り越えなければなりません。

 では、先生を乗り越えるにはどうしたらよいでしょうか? それは先生が教える以上に勉強して、質問することです。そうすれば学校にとっても、先生にとっても、必要な人になります。そうなっているのです。万事がそうなっていることをよく知らなければなりません。

 皆さんが、どのように準備するかということによって、今後、どのような人になるのかが決定されるのです。皆さんの一生で築く既成基盤において、何を残していけるのか、中心的人格が決定されるということを知らなければなりません。

 私たちは、相手に吸収されてはなりません。私たちが相手を吸収しなければなりません。そうなれば、今日の、既成基盤の上にいる人たちが、「ああ、私たちは後退する」と言いながら、ストップするのです。後退した位置から、私たちを吸収しようとする人はいないのです。

 宇宙の運動をつかさどるすべての元素や自然を構成する世界が、より大きな世界へと発展できれば、継続的に作用するようになるのです。後退して、退化すれば、全部ストップするのです。自然現象がそうなっているのです。人間も同じです。

 旧形態と新形態、旧基盤と新基盤を考えてみた時、飛躍する時にその差異がどれだけ大きいかによって、どんな冒険も克服でき、どんな困難も克服できるのです。何のことか分かりますか? 既成基盤から新しい基盤に越えていこうとする時に、どんな困難があっても、その困難よりも何倍も大きい飛躍があれば、その困難は自然と消化されるのです。心配する必要はないのです。

 このようなことを知っているので、先生は韓国や日本から、世界的に若者たちを集めて訓練するのです。多くの人々の指導者になろうとすれば、経済分野においても自立しながら、責任を持って主管できる能力がなくてはなりません。それがない人は、指導者にはなれません。

 その次に何かというと、説得力です。指導者は説得力がなければなりません。説得しようとすれば、相手をよく知らなければなりません。共産主義思想を持っている人を説得しようとすれば、共産主義について知らなければならないし、神学者を説得しようとすれば、神学について知らなければなりません。つまらない枝葉のことより、根本を知らなければなりません。

 ですから、いつも根本が問題なのです。枝葉ではないのです。それを知らなければなりません。勉強をするのも、枝葉だけではなく、根本問題を深く掘り下げて勉強するのです。哲学の根本問題である神様がいるのか、いないのかという問題や、人間関係、生命関係、永生関係を中心とする根本問題の確実な定義を求めて勉強しなければなりません。

 次に、統一教会の思想を持った人たちは皆、既成社会に出て迫害を受けるのです。それは何かというと、試験なのです。私が相手を吸収するのか、相手に吸収されるのかという問題、また、消化するのか消化されるのかという問題、前進するのか後退するのかという問題を中心に試験してみるのです。皆さんは、これを知らなければなりません。

 皆さんも、これから世界的な指導者になろうとすれば、世の中をよく知らなければなりません。アメリカを指導しようとすれば、アメリカをよく知らなければなりません。韓国を指導しようとすれば、韓国のすべてをよく知らなければならないのです。(一九八四・七・一九)

5)準備と実力を通して基盤と実績を立てる … 88

 今こそ、飛躍できる時なのです。このことをサタンはよく知っているのです。怨讐たちは、よく知っているのです。サタンは一番難しい時、攻勢に出てくるのです。しかし、そこで屈伏してしまってはならないのです。このことを、よく知らなければなりません。先生は、そのような思想を持っているので、何の本を読んでも、その後編まですぐに分かるのです。昔、小学校五、六年生の時、日本語の国語の本をいっぺんに二巻ずつ終えたのです。一巻が一八〇ページの本を一晩で全部暗記してしまったのです。人間とはそのように素晴らしいものなのです。十年かかることも、一年でできるのです。

 皆さんに今、先生を思う心があれば、先生のように努力しなければなりません。準備するのです。実践時代に備えて準備をするのです。軍事訓練は、実戦の舞台で敗者とならないために行うのです。それと全く同じことです。このような道理は、皆さんの生涯において必要なことなのです。それをはっきりと知らなければなりません。

 皆さんは、どんな人になるのですか? 芸術だけ学んで、ピアノだけ上手だったらいいのでしょうか?すべてを包囲できる基盤を築かなければなりません。そのためには、経済支援をする人もいなければなりませんし、環境的与件を持っていなければ滅びるのです。それで、統一教会の人々はどんなに悪口を言われながらも、経済的基盤、環境的基盤を築いてきたのです。国を包んで、世界を包むために、このような準備をしているのです。そして、内部が弱化した時は、外部を強化して、外部が弱化した時は、内部を強化して平均化させるというような作戦をしてきたのです。それが、すべてに的中してきたのです。

 皆さんの行く道は忙しいのです。皆さんは実践時代に備えて、準備が忙しいことを知って、少しでも先生のことを思うならば、「先生の行かれる道を、私たちが早く引き継いで、新しい世界の基盤を拡大する者になろう」と、ひたすら準備しなければならないのです。頼みますよ。

 初めは何でしたか? (準備です)。その次は? (基盤です)。皆さん、基盤がありますか? それを、いつつくるのですか? もし、皆さんに大学を任せたならばどうしますか? いつでもそのように考えていなければなりません。もし大学を任せられたならば、皆さんはどうしますか? そのような観を持たなければなりません。ですから、準備をしなさいというのです。

 アメリカの大統領を見た時に、「大統領にできないことは私がする」というようでなければならないのです。ですから、実力が必要なのです。実力を備えなければなりません。

 また、実力がいくらあったとしても、努力しなければだめなのです。また努力をいくらしたとしても、基盤をつくらなければ流れていくのです。努力して、どうするのですか? 社会基盤や世界基盤をつくらなければ流れていくのです。私たちは一生涯仕事をしていくのです。先生はそのように思うのです。私たちが努力することは、大韓民国と世界にとって必要な基盤を拡大するためです。ですから、準備をしなければならず、基盤が必要なので、実力を持たなければならないのです。そして、実力がある人は実績を持たなければなりません。実績が基盤になるのです。

 それでは、実力とは何でしょうか? 準備時代を経て、実力を持たなければなりません。分かりますか? 準備し基盤を整えて、その次に実力と実績を確実に築くのです。いくら実績があっても、実力がなければだめであり、実力があっても実績がなければだめなのです。準備と何ですか? (基盤です)。その次に実力と? (実績です)。そのような基盤が貴く、実績が貴いのです。    (一九八四・七・一九)

6)歴史に忘れ去ることのできない誇り … 91

 先生がこれから一つの話をします。先生は学生のころ、自炊をしていました。ちょうど皆さんの年ごろにです。故郷を離れて、ソウルで学生として勉強していた時、一番最初の休みの時には、とても故郷が懐かしくなるのです。分かりますか? 故郷が懐かしくて、休みになれば、飛んで帰りたいのです。しかし先生は故郷には帰りませんでした。一人で自炊をしながら、何をしていたのでしょうか? 他の人々は故郷に帰ったけれども、私は実践時代の準備をするために忙しかったのです。

 また、おばさんたちが準備してくれる御飯も私は食べませんでした。なぜかというと、私の行く道においては、女性なしに一人で生きていかなければならないことを知っていたからです。ですから、私にできないことは何もないのです。服もつくれるし、帽子もつくれるし、できないことは何もありません。男が一度決心して、それを実践に移す時は、独り暮らしをしながらも、全部できなければならないのです。

 私が天地の前に決意をして、もしも死んだとすれば、後で神様が「お前は死んでしまったが、何でもできる男だった。最後まではできなかったが、お前はよくやった」という言葉を聞くためです。何のことか分かりますか?

 勉強しながら自炊をしていた時、ソウルはとても寒かったのです。また、零下一七度や二二度というように上がり下がりしていた時でした。井戸から水を汲もうとして、つるべを取ると、ブリキのつるべが手にぴったりとくっついたのです。また、夜は火を焚かない部屋で寝るのです。部屋は小さなオンドル部屋でした。そこに、ねんねこがあったのですが、そのねんねこの模様が一夜にして体に判を押したようについたのです。

 また、勉強をしていて、あまりにも寒いので電球を入れて寝たら、皮膚が軟らかくなって傷になったのです。これらのことを私はいつまでも忘れられません。一生涯、そのことは忘れないでしょう。

 そして、また監獄生活をした特別な期間を私は忘れることができません。それは、誰にも話すことはないでしょう。しかし、いつもそのことを考えるのです。忘れることができないのです。自分が勝利者となった時、そのような条件で神様の前に誇ることができ、そのような条件で祈祷したことや約束が、今日成し遂げられることを願いながら、誰にも話さないのです。そのような世界を知らなければなりません。ですから、ここに来た人々が皆家に帰ったあとでも、先生にはまだ成すべきこと、準備すべきことがたくさんあるのです。私の行く道は忙しいのです。一生をそのように生きてきたのです。

 そのようにして、皆さんのお父さんやお母さんを祝福してあげたのです。八道江山(韓半島を意味する)の皆さんのお父さんやお母さんを集めて面倒を見て、おじいさんおばあさんが泣きわめきながら反対する中で全部の結婚式をしてあげたのです。祝福家庭としてつくり上げたその内容と、その背後の歴史はどれほど悲惨だったことでしょうか? 皆さんには分からないのです。

 このような負債は、本当にありがたい天の恩賜なのです。このことを摂理史から見た時、神様が今まで韓国の民を訪ねてこられた民族的な福を、私たちにすべてお任せになられたのです。それだけでなく世界的な福の基盤として、世界に分けてあげるための福であったことを知らなければなりません。ですから皆さんが世界を考え、民族を考えることは当然なことなのです。分かりますか? そのような歴史が必要なのです。そうなれば、それを子供たちに遺言できるのです。(一九八四・七・一九)

7)歴史に残るものは実績と基盤である … 93

 歴史に残るものは何かというと、実力が残るのではなく実績が残るのです。準備が残るのではなく基盤が残るのです。分かりますか? これは、すべてに適用されることなのです。よく考えてください。学校へ行っても、どこへ行っても同じです。

 ですから、話をする時は、ただ単に話してはいけません。実績を話すのです。私たちが講義をするようになった時は、慟哭しながら感動を与えなければなりません。先生は、草創期には激しい迫害の渦中であっても、血と汗を流しながら説教をしました。そのように、喉が裂けるぐらい説教をして、集めた人々に感動を与えなければなりません。

 昨日よりも、きょうの迫害に疲れ果ててしまったとしても、これから行かなければならない道が残っているので、力を投入しなければなりません。力を投入して消耗戦をしなければならないのです。ですから、私はありったけの力をすべて注ぐのです。分かりますか? そうして、引っ張ってくるのです。なぜかというと、実績を残さなければならないからです。私が今、冒険の道を行くことも、監獄を訪ねて行くことも、何のためかというと、実績を残すためなのです。そのような望みを持って行くので、神様が間違いなく導いてくださるのです。

 今までの先生の生涯の生活哲学を通して得た結論として、そのことが、信じる以上に分かるのです。これから展開されることが分かるのです。例えば監獄へ行った時、そこの囚人たちと同じ立場の人間としてどのように対したらよいかということも、ちゃんと分かるのです。そこでどのような人と会うのかも皆分かるのです。

 このままでは世界が死んでしまうというので、互いに議論して生かす道が生まれることもあるし、私がそこに行くことによって、新しい世界的基盤を築くことのできる運動が起こるかもしれません。そのように、もっと大きい運動が起こることは、間違いないという夢を持っていくのです。分かりますか? 試練を怖がらないで、すべてを消化する度胸を持って、自分が行くことによって、善を残していこうと言いつつ歩む人は、絶対に失敗者にはなりません。たとえ死んでも、失敗者ではありません。このことをはっきりと知らなければなりません。(一九八四・七・一九)

8)愛の子女として準備しなさい … 94

 まず準備が必要であり、基盤が必要であり、次に何ですか? (実力と実績です)。実力と実績が必要であることを忘れないでください。これらを、四位基台として考えればいいのです。四位基台です。

 そのような準備をするべきですか、しないほうがいいですか? (するべきです)。「何だ、ちょっと遊んでしまえ。夏になれば、他の人々はバケーションに行くのだから、僕たちも遊ぶべきだ」と言うのではなく、「僕たちは休暇なんているものか。行くべき道に忙しいんだ」と言って打ち消してしまうのです。それは良いことですか、良くないことですか? (良いことです)。皆さんは休みになったら、「あぁうれしい。先生から解放された」などと言いながら、東に西に飛び回るのですか、穴を掘ってその中に入って準備をするのですか? (準備をします)。

 皆さんの時代は、汗を流しながら、一年、十年と準備をしなければなりません。先生のような人は、百年の準備をしなければならないのです。機会を逃すことはできないのです。ですから、神様はしかたなく、皆さんに対して期待を持たざるをえないのです。それで、私がこの貴重な時間に話をするのです。

 きょうは一日、重要な会議の日なのに、「会議をしないで、なぜ祝福家庭二世たちを連れてきてこのような話をするのですか?」と言うのですが、これは原理的なのです。皆さんを優先することが原理的なのです。

 先生の代身者として、愛を受ける子女として、準備をしなければなりません。何を願い何を考えるのかによって、他の人々と質も違い、量も違うのです。私たちがこの世の人々に対して消化されるのではありません。それでは、「友達がいなくなります」と言うのですが、自然がすべて友達なのです。太陽が私の友達であり、月が私の友達であり、星が私の友達なのです。星を見て話をし、月を見て話をし、木を見て話をし、飛んでいく鳥を見て話をするのです。「私もお前たちのように準備をしなくてはならない。お前は一年間準備して、渡り鳥となって大洋を越えて、季節を越えて、国境を越えて来たのだね。やぁ、偉いなぁ。私も準備して、どこへでも行くぞ8」と言いながら、準備を急がなければならないのです。(一九八四・七・一九)

二 勉強しながら祈りなさい … 96

1)指導者になるには勉強しなければならない … 96

 皆さんは勉強しなければなりません。勉強して良い学校に行くのは何のためかというと、良い学校には国家を動かすことのできる優れた教授たちが集まっているからです。良い学校は長い歴史を持っているので、いろんな機関にも同窓生たちがたくさんいるのです。その基盤を中心として、国家の最高機関とも連絡できるし、社会において、どんな分野に行っても同窓生がいるので、さまざまな関係を結べるのです。それが必要なのです。

 学校を卒業したからといって、学校で習ったことがいつまでも頭の中に入っているでしょうか? 勉強は私自身がするものなのです。学校だけではないのです。そこでの風土、環境を習得するということが必要なのです。そして、専門分野の術語を理解できなくてはなりません。そのようになれば、今後より高い次元のことをすべて行うことができるようになるのです。また、参考材料と参考書を探すことのできる能力もなければなりません。勉強は、(社会に)出て行ってからもしなければなりません。直接勉強をすることが生きた勉強になるのです。

 ですから、大学を出たからといって、すべてが分かるのではありません。むしろ、高等学校を卒業しただけで社会に出ても、その分野で三年、四年、五年と活動した人のほうが、実務においてより先に立つのです。しかし、彼らは、初めは先に立っているのですが、大学を出た人は覚えが速いので簡単に追いつくことができるのです。さっ、さっ、さっ、と速くやれるようになるのです。

 なぜ勉強をしなければならないのかというと、あらゆることにおいて、簡単にできるようになるためです。勉強をしていなければ、頭の回転がよくないのです。ここに一つの線を引いたとしても、そこから全体の円形を描くことができないのです。ですから勉強することが大切なのです。皆さんは、勉強しなければならないのです。(一九八二・一〇・二〇)

2)決心して努力すること … 97

 孝進がよく友達のことを話すのです。「昔、彼は勉強がよくできていたのに、韓国へ帰って来てみると、韓国語もよく分からないので、成績が落ちてしまった」と言うのです。しかし、落ちてしまったことを心配するのではなく、今から決心すれば、十年、二十年後には追い抜くことができるのです。今、勉強ができなくてもがっかりすることはありません。十年、二十年、あるいは一生かかっても努力をしようと決心して、その期間を長く取れば取るほど、その人は偉大な世界的人物になることでしょう。

 今から決心しなさい。今、決心をすることによって、皆さんの一生におけるすべての問題が左右されるのです。今、決心したことを、四十年、五十年、六十年の間忘れずに、夜も、昼も、食事をしている時も、休んでいる時も、寝ている時も、起きている時も、そこにすべての力を注げば、その人は世界的な人物になるのです。

 私たちの頭の記憶力は、いくら天才的な人でも、大学を出て博士になった人でも、頭の七千分の一しか使っていないのです。それだけ頭は、貯蔵庫が膨大だというのです。分かりますか? 「私はもう年を取ったので、勉強ができない」というようなことは言わないでください。この貯蔵庫がいかに膨大かということは、考えも及ばないことなのです。

 そのような観点から見る時に、五十年、六十年、七十年、八十年、一生涯を懸けて、ある一つの分野を中心として、考えて、考えて、考えた時、全体の分野がその頭脳を中心として、その脳細胞を中心としてすべてに反応して、どんどん世界的な舞台へと拡大していくのです。本を読んでも、ぱっと一目見ればすべてが分かるのです。何のことか分かりますか? ですから、皆さんは今のうちに、「私は善なる神様の息子娘となり、善なる世界の息子娘となり、統一教会の勇士となろう!」と決心しなければなりません。それでは、何を決定するのでしょうか? そのようにいくら決心したとしても、「私は来年、そのようになれる」ということではありません。三十年、四十年、五十年が過ぎ、皆さんが八十歳になった時に、世界的であり、歴史的な大人物になれる道が、門を開いて待っているのです。

 しかも、統一教会の皆さんは、本当に幸福だと思います。ただ、走りさえすれば、果てしなく走れるし、飛ぼうと思えば、果てしなく飛ぶことができるのです。そうすることのできる舞台が、皆さんを待っているので、今こそ決心して、「どんなことがあったとしても、どんな美人や美男子が、邪なる誘惑をしたとしても、曲がることなく、四十年を撃破しよう。六十年を撃破して進んでいこう!」という決意を持って進めば、皆さんは歴史的な人物になるでしょう。何のことか分かりますか? 今までの歴史にない善なる人になるのです。

 この先生も、そのように生きてきたのです。先生はどんな人かというと、誰に対しても負けることが嫌いなのです。先生は一度決心をすると、誰に対しても絶対に負けるのが嫌いなのです。皆さん、男性として生まれていて、なぜ負けるのでしょうか? 頭が悪いのでしょうか、体力が足りないのでしょうか? 努力不足で負けることは言うまでもないことです。

 もし勝つために努力が必要であれば、勝つための努力を投入しなければなりません。知恵が必要であれば、知恵を投入し、時間が必要であれば、時間を投入するのです。どうして負けるのですか? 負けるということはおかしいことです。先生は一度こうと決心して、着手する日には、死を決心して、言葉なく最後まで推進していくのです。分かりますか、何のことか?

 そのように生きてみると、世の中は、「文なにがしが、ああした、こうした」と言いながら、悪い人だという噂が立って騒々しかったのです。しかし、約三十年、四十年、生きてみると、今では先生のことを世界中の人々が皆、知っているのです。アメリカなどでは、私がイギリスに行けば、「イギリスに行っている」と言い、韓国に訪ねて来れば、韓国に行っているということを知っているのです。

 ですから、アメリカ大使館では、私がどこで何をしているかという報告を受けていることを、私は皆聞いているのです。それはなぜでしょうか? このような道を行くと、このような世界がつくれるし、このような世界を実現することができることを知っているからです。そのような基盤は、どこで準備されるのかというと、少年時代に決心したことを一生の間、どのような困難があったとしても、家庭が壊れてしまっても、子供が裏切ったとしても、父母が反対したとしても、国が裏切ったとしても、全世界が裏切ったとしても、神様がけ飛ばしたとしても行くことです。

 そのように生きてみると、世界的な問題の人物として登場するのです。分かりますか? それは、悪い意味で問題の人物なのですか、それとも良い意味でですか? (良い意味でです)。良い意味なのですね。ですから、そのような観点から見れば、皆さんの年代が、本当に貴いというのです。(一九八二・一〇・二〇)

3)陶酔できれば発展する … 100

 皆さんは、今が本当に貴い時であるということを知って、この時代に決心したことを最後まで実行してみてください。皆さんは、芸術中学校や芸術高等学校に通い、最初に決心したことを最後までやってみてください。ピアノ科の人は手を挙げてください。下ろしてください。次に、バイオリンの人。チェロの人。その次に管楽器は何がありますか? いろいろあるでしょうね? 百回演奏しても、千回演奏しても変わらない、神秘的な音を出さなければなりません。このように楽器を扱う人々は、自分の音の世界に自分が酔わなければならないのです。

 いくら寝ていたとしても、眠気がおそってこようとしても、その音が一度「ピン」と聞こえたならば、精神がさっと翔ることのできるように、酔うことのできる素質を持っている人は、これから発展性があるのです。そのような人は、必ず成功をします。しかし、しかたがなくて、気分のままに自分が負けないために、このようなことをする人は長くは続かないのです。自分のすることに酔わなくてはなりません。

 誰々は、今ピアノを上手に弾くそうですね。もし素質があるのならば、ピアノを弾きながら、自動的に酔えるはずなのです。ピアノに酔いなさいというのです。そのような素質を持つ人は、間違いなく発展します。その軌道に乗れば、飛ぶようになります。そうでない人は、そこで中止するようになるのです。

 ですから、芸術の分野に趣味を持った人は、これから酔う方法を知らなければなりません。先生も話す時には、そのように酔って話すのです。バイオリンを弾いたり、ピアノを弾く時に、酔えばもっと早いのです。皆さんが三十分で酔うとすれば、先生は一秒で酔います。そのように感度が速いのです。それをキャッチする方法を知らなければなりません。先生と同じ感度になるには、皆さんはどのようにしたら到達できるのでしょうか? それには、たくさんの訓練が必要なのです。

 また、世界的な名作を作る彫刻家のような人々も、酔って作品を作るのです。けっして義務的ではないのです。朝、太陽が昇ることも忘れ、夕方に太陽が沈むことも忘れ、夜になったことも忘れるくらいに酔って作った作品は、名作にならざるをえないのです。すべてのことが皆そうなのです。先生もそうなのです。

 先生がみ言を語って心霊指導をする時も、いつもみ言に酔うのです。朝になり、夕方になるのも分からなくなるほどです。そうして、必ず真なる世界に対して、真なる相対的存在が自然に現れるのです。これが、自然の理だというのです。そのような人たちは神秘的な霊的世界の霊人たちが協助することを感じるのです。その世界に入るようになれば、バイオリンのような楽器を演奏するにしても、一人ではないのです。霊界が皆、聞いているのです。そのような境地に入れば皆、成功するのです。(一九八二・一〇・二〇)

4)適性に合う科目を中心として集中的に勉強すること … 102

 今、勉強することにおいては、何が一番面白いのか、趣味が何なのか、皆さん自身がよく分かるのですね? 皆さん一人ひとりに一番面白い何かがあるのです。夜中に寝ていて、目を開けるや否や、何が面白いか分かるのです。何の音楽がよいか分かるのです。皆さんには、このような素質があるのです。

 皆さんが食べている食事についてもそうです。御飯を食べるのも、ある人は魚のおかずが好きなのですが、ある人は魚が嫌いであり、ある人はナムルが好きで、ある人はキムチが好きなのです。このように皆違うのです。そうなっているのです。自分がある好きな性稟を持っていれば、それを一日中食べていても、嫌いにならないのです。好きなものは一生の間、好きだというのです。

 食事において、このような性稟があるように、勉強もそうなのです。勉強も自分が一番好きな科目があるのです。その科目は何でしょうか? これは、一人ひとりが慎重に考えなければなりません。皆さんのような思春期には皆、流行歌が好きなのですね。しかし「私はいつも流行歌が好きだ」と言うことはできないのです。それでは、つまらなく、流れてしまう人にしかなれないからです。

 ですから好きなことにも、価値基準から見て一体何が好きなのかということが問題なのです。少年、青年、壮年、老年を問わず、すべての時代に好きであって、また過去、現在、未来においても好きであるという、そのような基準を中心として「このことが私に合っている。このことが私には面白い」という科目があるのです。そうですね? そうなれば、その科目を中心として集中的に勉強するようになるのです。

 ところで、勉強はどのようにしなければならないのでしょうか? 勉強は自分で定めた目的を達成するためにするのです。もし科学が好きであれば、主に科学に対しての勉強をするのです。全体的にはできなくても、まず科学を専門にして、その次に、自分が必要であれば横的に広げることができるのです。自分の趣味に合わせて広げることができるのです。

 今の世の中では、必ず専門科目を持っていなければなりません。まず専門科目を選び、それを中心として勉強するのです。科学であれば、科学の歴史に対して知らなければなりません。昔、どんな人々が科学をこのように発展させてきたのかという、科学の歴史と、科学者たちを知らなくてはならないのです。

 その次には、現在の科学者たちがどのクラスにいるかということを知らなければならないのです。そして、そのような中で自分がどの位置にいるかということを知らなければなりません。過去から現在があるのですが、今の私は降りていく位置に立っているのか、昇っていく位置に立っているのかということを知らなければなりません。

 もし、皆さんが降りていく位置にいるのならば、その位置を捨てて昇っていこうとする位置に立たなければなりません。昇っていく位置に立つためには、過去のどの人よりも、現在のどの人よりも、もっと熱心に勉強しなければならないという結論が出るのです。

 過去の誰々はどうであって、現在の誰々はどうであってと言いながら、その人々と比較した時に、その人々は八十点だけれど、私は七十五点だと。また、現在の科学者たちを中心として見れば、あの人は百点なのに、私は今六十点だと。このようにして比較するのです。それで、六十点から百点になろうとすれば四十点を足さなければならないのですが、四十点を足すためには、そのための努力をしなければならないのです。そのようにして、最高の位置に上がっていかなければならないのです。

 そのような努力をしなければならないのです。そのような努力を各分野で行って、世界の先端の道を行くようになれば、皆さんは世界の各分野の素晴らしい人々を、すべて指導できる位置に立つことでしょう。

 ですから、皆さんは自分が何を中心としなければならないかということを、早く決定しなければなりません。その次に、過去、現在、未来のすべての偉大な人々と比較してみなければなりません。自分がそれ以上のものを備えようと努力すれば、その人々は私の後につくのです。そうして、皆さんが各分野の偉大な人になり、すべての人々を指導できるようになるのです。       (一九八二・一〇・二〇)

5)勉強する方法は祈祷と精誠 … 104

 皆さんが、祈祷をして精誠を尽くすことはよいことです。きのう、お母様がお話しした内容は、子供がきちっと座って、精誠を込めている姿を見ると恐ろしいという内容でした。祈祷をするとなぜよくなるのかというと、精神力を集中すれば、観察力がよくなるのです。先生が講義を始めると、次に出る試験問題が分かるようになるのです。試験問題を出そうとしている先生の心が分かるのです。なぜそうなるのかというと、祈祷することは、アンテナを高くつけることと同じだからです。アンテナを高くすると、小さな音も聞こえるようになるのです。それと同じことなのです。精誠を尽くす人には、必ず未来の世界が連結されるのです。ですから、啓示や預言は皆、精誠を尽くす人から出てくるのです。

 そのように、勉強して、精誠を尽くして、よい点数を取ることは、人類のために、神様のために、全体のためにすることなので、その試験の時には、あらゆる善なる霊人たちが、その分野の専門的な善なる霊人たちがやって来るのです。間違いなくやって来るのです。ですから、精誠を尽くして神秘的な境地に入るようになった時には、何か文章を書いてみなさい。必ず名文が書けるのです。そのような境地に入ると、絵を描いてもそうなるのです。手先だけで絵を描くのではなく、精誠を込めて「この手に、一つの偉大な画家が働いて、私を協助している」と、そのように思って、精誠を尽くす中で描けば、嘆声が起こるのです。分かりますか? ですから、よい作品をいつも壁に貼っておくと、そのようなことが起こるのです。

 それで、偉大な科学者や偉大な芸術家たちは、必ず霊的に通じるのです。その人たちが精誠を尽くしているのでそうなるのです。ですから、勉強を熱心にしなければなりません。(一九八二・一〇・二〇)

6)勉強する姿勢とは … 105

 勉強をする時には、ただ学科の時間に教室に入って座って、勉強することだとは思わないでください。すべてこのような課題を中心として、競争することであると思いなさい。なぜかというと、皆さんは運動会の時のスタートラインに立っているのと同じなのです。「パーン」というピストルの音で走り出すのと同じなのです。皆、そのような立場にいるのです。

 勉強の時間になると、世界中の学生たちと共に一つの出発点に立って、誰が一番速く走るのかという、立場に立っているということを忘れてはなりません。

 ですから、先生が指示するこの話は、銃を撃つのと同じなのです。「パーン」と撃つと、瞬く間に、どっと駆けていくようにしなければなりません。それだけ呼吸が一致した位置であるほど、一歩でも先だつことです。たとえ千歩、万歩を走ったとしても、出発に一歩先だっていれば、必ず一等になれるのです。そうでしょう? あっという出発の瞬間を取ることによって、既に勝負が決定するのです。千歩、万歩走ったとしても、最初の一歩で決定するのです。また一時間、二時間走ったとしても、最初の一秒で決定するのです。そうなっているでしょう? 最後の一秒、最後の一歩はとても難しいのです。

 勝利するためには、数万歩を犠牲にして、数万時間を投入しなければならないのです。そのような時間と、そのような犠牲を投入する時に、悲嘆にくれながら投入するのではなく、喜びながら投入する人は必ず賞を取れるのです。そして賞を取ったとしても、そこでストップしないのです。しかし、しかたなく賞を取った人は、賞を取るとすべて後退するのです。趣味を持って成した人は、また走れるのです。賞を取ってもまた走れるのです。

 皆さんは高等学校を卒業するとどうなりますか? しかたなく大学に行くのでしょうか? 「ああ、勉強がなければいいのに」と言う人は、大学へ入って卒業をしたとしても、ただ流れていく人になるのです。

 大学に入ることは、ひたすら知りたいことを知り、やりたいことができるように、早く勉強できるからです。大学へ入って、そこで、勉強する目標を発見できれば、その人は、そこで教室の仲間たちを突破していける人です。そのためには、趣味がなければなりません。趣味があり、面白くなければなりません。精誠を尽くす時にも、面白くなくてはいけないのです。          (一九八二・一〇・二〇)

7)速成で勉強を終える方法 … 107

 統一教会の教会員は、二十歳以前に大学を出るのがよいと思います。なのに三十代までいれば、いつ大学を出るのでしょうか? いつ博士コースを終えるのでしょうか? それで私は今、コンピューター式勉強制度を考えているのです。皆あっという間に勉強できるようにしなければいけないのです。

 その時は、どうするかというと、監獄のようにすべての門を閉ざして出られないようにして、本を全部暗記させて、試験をしてパスした人だけが出られるようにするのです。そのように、最も地獄のような監房から上がっていくのです。監房が何か分かりますか? 監獄の部屋を監房というのです。そのような一番悪い監房からだんだんと解放していって、よいホテルへと上がっていくのです。

 皆さん、一日に何時間ずつ勉強するのか考えてみなさい。皆さんは学校で何時間勉強しますか? リトル・エンジェルス高等学校三学年の学生たちは、一日に何時間ずつ勉強しますか? (七時間です)。それで何日学校に行くのですか? (六日です)。六日でどうなりますか? それで、四十二時間がとられるのです。それでは、一年に何週間になりますか? (五十二週になります)。五十二週というと、何時間ですか? (二千百八十四時間です)。二千百八十四時間を一日二十四時間で割れば、九十一日となります。これを四年間すると、三百六十四日です。これは一年間にしかなりません。ですから、大学を出るためには何日勉強すればよいのかというと、一年間勉強すればパスするのです。

 さあ、それでは一日を二十四時間として計算したので、これを十二時間ずつにすれば、二年間あれば間違いなく大学を卒業するのです。それをしますか、しませんか? このことに反対ですか、支持しますか? 皆さんが支持するならば、明日からそのようにしてもいいということなのです。そうですね?

 そのようにしてでも、早く卒業するのがいいですか、よくないですか? 一年にいっぺんにするのがよいですか、二年、三年、四年にするのがよいですか? 私はさっとしてしまうのが好きなのです。皆さんはどうですか? (さっとするのが好きです)。それは誰に似たのですか? (先生です)。先生に似たのですね。では、この先生は誰に似たのですか? (神様です)。神様はできるだけ早くすることを願うのです。遊ばないで、休まないで、額がぴかぴかになるくらいに勉強しなければなりません。神様のために仕事をして、頭がはげるのならばよいことです。自分のために稼いで、食べるために生活をし、息子娘のことを考えて頭がはげてしまうのは落第です。

 私は大学を軽視しています。もし大学を卒業しようと思えば、私には一年以内にできることです。ですから、大学を出たからといって大きな顔をしてはなりません。勉強すれば一年以内に全部できることです。学校で勉強することが問題ですか、問題ではないですか? (問題ではありません)。満点を取ることが問題なのですか、問題ではないですか? よく考えてみなさい。皆さんはサタン世界の息子娘に対して負けるのですか、勝つのですか? (勝ちます)。どんなことをしても、執拗に勝たなければなりません。

 皆さんは、勉強しなければなりません。勉強がよくできる人は、私がアメリカへ連れていくかもしれません。アメリカの立派な大学に、祝福家庭の息子娘を連れていって勉強させなければなりません。お母さんお父さんが、皆さんを勉強させることができなければ、私が連れていって勉強させてあげようというのです。「このできそこない」と言いながら引っ張っていくのです。嫌だと言っても皆、連れていって勉強させるのです。

 その時は、すべて容赦しないというのです。そのようにしてでも、早く博士学位を持った立派な人にならなければなりません。そのように、大変な課程を一年間で終わらせようとすれば、それだけつらいのです。

 ここには、遊び好きな者もいるでしょう? そのような人は蟻になるのですか、キリギリスになるのですか? (蟻です)。ああ、どれほど苦労すれば真っ黒になるのでしょうか? どれほど大変だったら、腰がそのようになるのでしょうか?

 蟻は、そのように腰が細くなるくらいに努力して、仕事をたくさんするのです。小さな体で自分の十倍以上の大きな物を、後ずさりしながら引いたり、前に歩きながら引いていくのです。大きいキリギリスがあお向けになって倒れた時には、それを引いていって倉庫に積んでおくのです。分かりますか? この世は偉そうにしているキリギリスのような者たちが多いのですが、私は蟻のようになって、人々を全部引いていって復帰摂理に用いようと思うのです。(一九八一・四・一二)

8)どのように専攻を決定するか … 110

 これもしたい、あれもしたいと、決定できない場合には、まず祈祷をするのです。木でいえば、五葉松の木のように、よく見るとその芽の茎があるのです。成長するすべてのものは、必ず茎を中心として育つようになっているのです。そうだからといって、横の枝が全部間違っているということではありません。これは何のことかというと、全部がそのような茎を中心として歩調を合わせているのです。特に木が育つ時がそうなのです。皆さんも、同じなのです。

 普通、人間は一つだけ素質があるのではありません。二つ、三つ、四つ。このように四位基台の原則を通してつくられた被造世界であり、人間はその中心となるので、誰でも東西四方に向かって合わせることのできる性格、素質を持っているというのです。その中に、茎のような性稟があるというのです。それは自分がよく知っているのです。祈祷してみると、それが分かるのです。

 落書きをして遊んでいても、自分でも知らないうちに、自分の好きなことを書いているのです。皆さんは、そのような経験をしたことはありますか? また、昔の立派な人たちの中で、私は誰が好きだとかいうことは、その人の思想が好きだからです。このようなことを判断して、自分たちで選り分けなければならないのです。そのようなことがありましたか、ありませんか?

 原理の勉強は、誰もが皆しなければなりません。復帰歴史が残っている限り、復帰の道を行くために、教会に対するあらゆる知識を全部知らなければならないのです。その他に、世の中のことも、私たちは勉強しなければなりません。

 皆さんは、そのようなことを全部分からなければなりません。先生は、既に全部知っているのです。先生は昔、そのようなことを全部勉強したのです。先生はしかたなく、他の系統の勉強をしていたのですが、その勉強も復帰の道を行くためにしたのです。自分が自分のすることを皆、知っているのです。私は何になるべきなのかということが分かるのです。それが分からなければ、皆さんは自分が何になるべきなのか、祈祷してみなさい。

 皆さんは、先生がすべて指示してくれるだろうと思っていても、どうやって先生が毎日のように皆さんに会って指示できるのでしょうか? 世界中の数多くの人々が先生を待っているのです。そうでしょう?朝日が昇るようになれば、お母さんも好きであり、お父さんも好きであるのと同じく、私も好きなのです。そうでしょう? 朝の時間の好きな人がいて、昼の時間の好きな人がいて、夕方の時間の好きな人がいて、また夜の時間の好きな人もいるのです。ですから、自分たちが探さなければならないことなのです。よく祈祷をしてみてください。(一九八二・一〇・八)

9)祝福子女たちに対する進路指導 … 111

 全部終わりましたか? (新しく来た人がいます)。どこの大学ですか? 立ってみなさい。(延世大学、社会学部です)。誰の息子ですか? どうして髪をそんなに伸ばしたのですか? どうしてそういう眼鏡をかけているのですか? (はい。日の光が刺激になるので、色のあるのにしました)。少し髪を切ると良いでしょう。(はい)。

 次は誰ですか? 以前は首がほっそりしていたのに、ずいぶん太ったね。誰の息子でしたか、どうして学校に行かないのですか? (昨年は入れませんでした)。なぜですか? (勉強ができなくてです)。なぜ、勉強ができなかったのですか? (遊んでいました)。これから学校に入るつもりですか、試験を受けるのですか? (はい、十二月二日に受けます)。今回はパスする自信がありますか? (はい)。勉強は熱心にしましたか? (はい)。勉強しなかったら大変だったでしょう? (はい)。一回落ちたら、追いつくのが大変だね。一回落ちるということは、大変なことなのです。

 その次の人は、性格を少し直さないといけません。君は誰の息子ですか? 一二四家庭ですか? 一二四家庭の息子がこんなに大きくなったのですか? 何歳ですか? (十九歳です)。君も十九歳ですか? (はい)。十九歳の人は手を挙げてみなさい。二十歳、二十一歳、二十二歳の人もいますか? 二十二歳はいませんか?

 お父さんは誰ですか? 学校はどこに通うのですか? (昨年、落ちました)。では、今回もう一度受けるのですか? (はい)。浪人生になってみると情けないでしょう。今回もまた落ちたらどうしますか? (今回は入るつもりです)。そうじゃなくて、また落ちたらどうするのかというのです。死ぬつもりですか? ならば、どうして勉強しなかったのですか、遊んでいたからですか?

 男性も、女性も、大学を卒業したら何をするのですか? 少し先生に話してください。答えてください、大学を卒業したら何をするのですか? もう、二十歳になったのに答えられないのですか? 皆さんは偉大な人になりたくないのですか? 偉大な人、立派な人になりたければ、少年時代に決心したことを一生涯離さず、その目標に向かって戦っていく人にならなければなりません。

 そのためには、いろんな分野があるのですが、自分が持って生まれた素質に従っていかなければなりません。環境が後押しするようでなければなりません。今厳しい生活をしていたからといって、お金のことだけを考えていてはいけないのです。お金が避けていくようになります。そのような人が事業をするようになれば、いつも失敗します。経済分野で活動する人は、お金がついてくるようにならなければなりません。お金がついてくる顔つきをしている人がいるのです。君は、機械や電気の方面に進めばいいでしょう。そういう面での素質を持っています。

 君は、政治家になるというのであれば、政治をする人は、歩き回ったらいけないのです。(政治学を勉強したいのです)。政治学を勉強することは、政治をするためでしょう? 君が政治家になると困るでしょう。君の素質をそこに使っては、困るというのです。君は、何か座ってでもできる仕事をしないと、口を開いて話をするような仕事はよくないのです。政治家になろうとすれば、口を開かなければなりません。

 君、少し額を見ましょう。眼鏡を取ってください。それが出ていたらよくないのです。君は、自分の頭がよく回ると思っているでしょう? 政治家というのは、深く遠くを見ることができないといけないのです。ところが、君はそういうタイプではないのです。目前解決が早いのです。目の前に起こったことに対しては、素早くキャッチして、素早く判断するのです。ですから、思いがけなく仲間を離反させてしまうのです。君のような性格を持っている人は、できれば座ってできる仕事が必要なのです。手先が器用なようだけれども? (使ってみたことはありません)。やってみないとね。(一九八二・一〇・二〇)

10)勉強をする目的 … 114

 皆さんは、どんな道を探していくのでしょうか? 皆さんは、どんな道を求めなくてはならないのでしょうか? 神様を絶対的に愛する道を求めなくてはなりません。神様を絶対的に愛すれば、勉強も、何も、すべて放り出してもいいというのではないのです。勉強はなぜするのでしょうか? なぜ勉強をするのかということが問題になるのですが、愛があればそれでいいのに、なぜ勉強をするのでしょうか? 何のために勉強をするのですか? そういうことを考えてみたことがありますか?

 あらゆることをすべて捨てても、神様の愛を持っていけばいいのです。そうすれば、私は一人であっても救援を受けられるのです。しかし、私たちは大衆を教化できなければなりません。私たちが全体の前に、正しい道を教えることのできる能力を一〇〇パーセント活用できる基盤が成立できなければ、一方向にしか通用しないのです。分かりますか? 言い換えれば、私たちが世の中に出ていく時に、神様の息子の資格は持てるかもしれないけれど、堕落したこの世界で、あらゆる人々を神様の息子としてつくり替えることはできないのです。

 勉強はなぜするのかというと、私たちのような神様の息子をたくさんつくることが必要だからです。ですから、勉強が必要なのです。分かりましたか? 私たちが世界一有名な科学者になれば、科学を通して、いくらでも神様を教えてあげることができるのです。そうでしょう? ですから、私たちだけが神様の息子になるのではなく、自分の専門分野で研究するすべての人々を、神様の息子としてつくり替える人にならなければならないのです。

 それでは、何も影響を与えることのできない神様の息子と、全世界に神様の息子をたくさんつくることのできる神様の息子と、どちらが神様の前に称賛を受けるでしょうか? それは、言うまでもなく、一人で神様の前に来る息子よりも、全世界に神様の息子、すなわち自分と同じ人をたくさんつくることのできる息子を、神様はより願うのです。ですから、愛の道を行こうとすれば、両面の結果を持って来る人が必要なのです。それが神様の願う道であり、私たちの願う道なので、この道を完成させるためには、勉強をよくしなければならないのです。

 ですから、母親や祖父に対する時も、このように対さなければならないという倫理の問題が出てくるのです。そして、生活の問題も出てくるのです。これらを適用し、応用する時に、便利な方法を私自ら絞ることができ、編成することができる能力を持つためには、知っていなければならないのです。

 ですから、統一教会の教会員は、これから神様のために絶対命を懸けて、あらゆることを犠牲にすることができ、最高の努力をして、知識的分野とか、あらゆる面での実力を備えて、私たちのような人をたくさんつくらなければなりません。人類を幸福にするために、勉強するのだと思うことは素晴らしいことですか、素晴らしくないことですか? (素晴らしいことです)。本当に素晴らしいことなのです。(一九七八・一〇・九)

11)神の課業と私たちの使命 … 116

 皆さんは、愛を受ける神様の息子を一人つくりますか、百人つくりますか、数万人の人をつくりますか? (数万人です)。その欲望は、神様より深くても、高くても、神様がよしとするのです。「神様、六千年間何をしてきたのですか? この四十億人類を、一人も神様の息子娘としてつくれなかったからといって、あきらめないでください。神様、私の手で全部、神様の息子娘につくるので見ていてください」と言えば、神様は「この不届者め!」と言うのではなく、「フフフ。そうだ、そうだ」と言うのです。その欲望は地よりも厚く、天より厚く、神様の頭の上よりも、もっと高くてもいいのです。ですから、熊のような愚鈍な心を持っていても、そのような欲望はいくらでも持てるのです。そのような欲望は悪くないのです。

 皆さんは韓国人ですか、日本人ですか? (韓国人です)。韓国人だけを神様の息子娘につくるのですか、日本人は怨讐だから外しておくのですか? (違います)。次に、黒人たちの国はどうするのですか? 先ほども私が話したように、世界の人々を皆、神様の息子娘としてつくり、地獄にいる人たちも、すべて救わなければならないのです。

 神様もそうなのです。神様の仕事は何かというと、全世界の人々を神様の息子娘としてつくることです。ですから、私たちが神様に代わって息子娘をつくる仕事をするようになる時、神様は自分のすべてをいくらでも譲ってあげようとするので、神様の息子の中でも、一番の息子になるのです。息子の王様になるのです。

 一番の息子になるのですか、一番の娘になるのですか? どんな息子になりますか、どんな娘になりますか? (一番の息子、一番の娘です)。欲が深いですね。みんなが「一番!」と言うことは、一番がいいからなのですね。「いくらでも一番になりなさい」。韓国人だからなれないという法はありません。白人だけがなるのではありません。黒人だからなれないという法はないのです。誰でも、同等な立場において、神様の息子であるという特権を、万民の前に共に授け受けることができるのです。

 先生は、勉強したと思いますか、しなかったと思いますか? (勉強されました)。先生は勉強する時、一夜漬けのように勉強してきました。何年間もかかってすることを瞬間にやってのけたのです。

 先生の故郷は北韓です。定州から北東の方向に約八キロメートルの距離にある農村なのです。皆さんはあんどんを知っていますか? (はい)。あんどんに油を入れて勉強したのが、ついこの前のことのようです。二時、三時、夜を徹して勉強していると、お父さんお母さんが、「寝なさい。体が弱っていてはだめだ」と言ったのです。いつもそうだったのです。

 その時、私が一番友としたのは、夜の虫たちでした。夏に夜の虫を友としたのです。こうしてぴったり座って、二時、三時まで勉強しました。田舎の夜はとても静かなのです。静かな月夜に昆虫たちが鳴く声は、とても神秘めいているのです。また山へ行って歩き回ったことがついこの前のことのようです。それは何のことかというと、私たちの人生は短いということなのです。短い人生なのです。

 だからこそ、何をするにしても、神様の息子娘をつくるためには知識が必要であり、能力が必要なのです。一人だけが神様の息子娘になるのではなく、万民を神様の息子娘としてつくることを神様が望んでおられるので、そのために、あらゆる準備条件として私たちは知識が必要であり、能力が必要なのです。知識を磨くことによって能力がつくようになるので、勉強しなければならないという結論に到達するのです。だから勉強しなければなりませんか、しなくてもいいのですか? (しなければなりません)。そして、祈祷をしなければならないのです。(一九七八・一〇・九)

12)人生の成功の道を行くためには … 118

 勉強も熱心にする反面、祈祷も熱心にしなければなりません。そして、学校に行くようになれば、愛を中心として訓練しなければなりません。自分を中心としてするのではありません。この道を行くためには、怨讐を愛さなければならないので、怨讐を愛するための雅量を持たなければなりません。幼い時から、「私は怨讐を愛さなければならない」という、心を持たなければなりません。

 知識の道を磨いて、あらゆることをすべて知らなければなりません。前後左右を選り分けることができ、上下を選り分けることができ、分別することができなければなりません。すべてを選り分けることができなければなりません。

 堕落とは何かというと、エバが前後を選り分けることができなかったことです。そのために堕落したのです。前後を選り分けることができ、四方を選り分けることができ、国の抱えているあらゆる問題、世界の抱えているあらゆる問題を選り分けることのできる知識が必要になるということを、皆さんは知らなければなりません。

 ですから、そのような知識を勉強しようとすれば、小学校から正常なコースを経なければなりません。中学校、高等学校を経て、大学に行かなければなりません。大学を終えてから、博士の道を行かなければなりません。このように行けば行くほどによいのです。それで、この時間を短縮して、神様の息子娘になるということと同時に、神様の息子娘をつくることのできる私たちにならなければなりません。このようなことのために生死を超えて、天をつかんで熱心に努力すれば、皆さんが成すすべてのことは、万事がうまくいくでしょう。

 それで、本当に神様のために生きていくために、神様はあまりにも遠くにおられるので、身近な兄弟姉妹を神様の代わりに愛し、お父さんお母さんを神様の代身として孝行をするのです。分かりますか? そうすれば、その人は兄弟姉妹の中でも模範になり、家庭の中でも、父母はその人を立ててくれるのです。

 今、神様に対することができないので、家庭の中で父母を愛することと同時に、国の主権者を愛するようにすれば、忠臣の道理をパスするのです。分かりますか? その次は、イエス様や聖人たちを、神様の愛を持って愛することによって、聖人の道理をパスするのです。これは、飛躍する道ではなく、正常の道を経て、そのような位置を引き継げるということなのです。皆さんが、このことをよく知って勉強すれば、勉強する過程でこれらを皆、引き継げるようになるのです。

 神様だけを愛するようになると、ジャンピングして、すべてを捨てていかなければならないけれど、そうするのではなく、勉強する過程でそれらを順次的に連結させることのできるよい環境にいるので、神様を愛する心を持って、神様の息子娘の立場に立って友達の間で手本を見せてあげ、家庭で手本を見せてあげ、国で手本を見せて、世界で手本を見せてあげることができなければなりません。

 外国であれば、外国人に対してもそうであり、大韓民国にいれば大韓民国の人に対してもそうであり、黒人に対しても、そうすることができなければなりません。黒人に対しても、そのように愛し、自分と関係を結ぶため、心の訓練ができる自由な環境に立っていることを知り、そういう面で訓練することをお願いします。分かりますか? そうしながら、勉強は勉強としてするのです。

 一挙両得とか一石二鳥という言葉があるでしょう。それと同じ結果をもたらすことのできる、本当に素晴らしい時代なのです。ですから、このように貴い時代に、いたずらに日々を送ることなく、男性がどうだとか、女性がどうだとかいう考えは皆捨てなさい。私が決心した勉強の道がすべて成就する時まで、神様の息子娘の権威を備えて、神様を愛することにおいて第一の旗手となり、その次に、その旗手としてのみ旨を成し遂げる、全体に適応する自分になるために熱心に勉強することです。熱心に勉強する過程においては、父母の前には孝行して、友人たちには神様の愛で兄弟姉妹の心情を結び、国家と民族と世界の前には、自分のできる環境でおおいに忠誠を尽くすことです。そのような、一石二鳥の立場、一挙両得の立場を逃すことなく、熱心に勉強しながら努力することを、お願いします。これが、先生の頼みです。分かりましたか、分かりませんか? (分かりました)。

 このことが確実に分かれば、神様を信じなければなりませんか、信じなくてもいいですか? (信じなければなりません)。どのくらい信じなければなりませんか? (一〇〇パーセント以上です)。一〇〇パーセント以上信じなくてはなりませんね。次に、神様を愛さなければなりませんか、愛さなくてもいいですか? (愛さなければなりません)。お父さんお母さんよりも、その国の大統領よりも、誰よりも神様を愛さなければなりません。

 ところで、それが私にだけ及ぶのではなく、万民にも及ばなければならないので、そのような範囲を活用させ、拡大させなければなりません。そして、生活ではありったけの精誠を尽くして、勉強もするのです。そうすることによって、未来に全世界における基盤が待っているという希望を持って、一生懸命喜んで勉強するのです。その次に、内的に孝子、忠臣、聖人の道理を代身する準備をしなければなりません。

 このようにして、神様の愛する息子娘となり、さらに神様の愛する息子娘たちをつくって、神様の前にお返しする皆さんになれば、皆さんは短い人生の道で、どこの誰よりも成功する人になるでしょう。その時には、イエス様より立派な皆さんになるでしょう。孔子、釈迦が問題ではありません。そのようになれる道が皆さんにはあるということを知って、熱心に勉強することをお願いします。(一九七八・一〇・九)

三 責任分担と蕩減復帰 … 122

1)神が人間に責任分担を下さった理由 … 122

 皆さんは、責任分担を軽く思っているでしょう? このことをよく知らなければ、歴史は解けません。なぜ、神様が責任分担を与えたのでしょうか? 神様は人間に責任分担を与えたので、「取って食べるな」と言われたのです。責任分担を与えなければ、つくられるや否や、赤ちゃんの時から愛し合わなければならないのです。分かりますか? 思春期がなくなるのです。思春期というのは愛の成熟期間であり、お互いが相対性を知って、活動することのできる作用が出てこなければなりません。そうですね?

 神様が、なぜ責任分担を与えたのかというと、それは、成熟期である思春期まで育てるためです。もし、それがなかったならば、生まれてすぐ、子供の時から結婚しなければならないのです。結婚が何か分かりますか? 子供にはできないのです。成熟期という期間を経て、大きくなるまで待たなければなりません。女性ならば、女性のあらゆる器官が完成して、四肢五体が完全に成熟し、同じように男性も成熟しなければなりません。バッタであっても皆、成熟してそうしているのに、なぜ人間だけが分からないのでしょうか? 自分なりに、かってに自分の相対を探しているのです。        (一九八四・七・一○)

2)責任分担を中心とした私たちの生活姿勢 … 122

 皆さんは、気になることがたくさんあるでしょう? しかし、何が何だかよく分からなくて、尋ねることができないのですね。もし私が、皆さんに尋ねるとすれば、身じろぎもできないでしょう。皆さんは責任分担について分かっていますか?

 さあ、皆さんは、その口で、「ああ、お父さんお母さん、御飯を食べたいよ」と言うのですが、それは責任分担を完成した口でもって食べるのでしょうか? その口は責任分担を完成しましたか? (いいえ)。この手はあいさつもしないで、しきりにつまんで食べるのですが、「この手よ、お前は個人の責任分担を完成した立場で御飯を食べるのか?」と言わなければなりません。

 また、目もそうです。美男子と目が合えば、追憶に残って、気になって会いたい思いになるのです。その目に、「この目よ、お前は責任分担を完成したのか? このろくでもない目よ。お前は、サタンの目そっくりのままだ」ということを考えてみたことがありますか?これからは、原理的に見て「ああ、私がネックレスをするのは責任分担を完成した首にかけるのだ」という考えでなければなりません。ネックレスをかける時、「責任分担を全うできなかったけれど、しかたなく許しを請いながらかけます。勉強するためには支障があるのですが、多くの人々が変に思うのでしかたなくかけるので許してください」と言えば、神様は、「うん、そうしなさい」と言うことでしょう。自慢気に、「ああ、これをつけて、私のきれいなことを自慢しなくちゃ」と言うようであってはなりません。この責任分担で全部が変わってしまうのです。

 服を着る時も同じです。皆、どうしてそんなにおしゃれして来たのですか? 女性たちは皆、服を着替えて来たのですか? 一番よいものを着て来たのですか? この間、私が約婚をしてあげるかもしれないと、それとなく暗示したからですか? 皆さんがどんな姿でやって来るかと思えば、この者たち! ルージュを塗ってはいけないと言ったのに、なぜ塗ってきたのですか? (きょうは、特別にご父母様にお会いする日だからと思ってです)。ご父母様にお会いするという言い訳は、私には必要ありません。私は責任分担でもって、その人を見るのです。

 皆、なぜ指輪をつけているのですか? 今まで、私は一つの指輪も身につけませんでした。私は指輪もつけず、腕時計も、いつも外してしまい、このような格好で暮らしているのです。

 先生も、「世界と天宙の責任分担を完成したのか?」と問うてみるのです。統一教会の教会員は、個人の責任分担が何かを尋ね求め、三十六家庭の家庭の責任者は家庭を中心として身内に尋ねてみるのですが、先生は天宙を中心とする自らの責任分担を完成できたのかということを尋ねてみるのです。

 女性たちは、腰が大きくなり、胸が大きくなってくると、「ああ、これはすぐに新郎が来られてー」と思わないでください。どうして顔を隠すのですか? そういう考えをした者が顔を隠すのです。そういう考えをしたことのない人たちは、何が何だか分からないので、じっとしているのです。

 そのように体が成長してきたら、「この体め! お前は責任分担ということを知っているのか」と言ってみるのです。生理になった時も、「この生理め、責任分担を知っているのか? 本然の位置で生理になれば、どんなによいことか分からないのに、今は死の峠を越えなければならないのに、どうして生理になるのか?」と言ってみるのです。生理になるということは、もう赤ちゃんが生めるので、新郎を迎えてもよいという予告なのですが、「今は、ちょっと待ちなさい」と、言ってみたことがありますか?

 そういう考えは今、私が初めて話すので実感するのですが、昔は原理も分からなかったし、責任分担という言葉は分かっていても、こんなに深刻なこととは思わなかったのです。(一九八四・七・一○)

3)すべての制度は責任分担の下に所属する … 125

 学生は学生としての責任分担を全うしなければなりません。学校で定めたすべてのことが責任分担なのです。学生は、試験勉強をよくしなければなりません。それが、学生の責任分担なのです。責任分担による人格完成によって、一つの目的完成の資格者として、価値を備えた資格者として決定するのです。それが、この世のすべての制度なのです。それは、あらゆる法にも通じ、あらゆる制度にも通じるものです。分かりますか? 責任分担です。

 小学校の生徒は、小学校の生徒としての責任分担がありますか、ありませんか? (あります)。中、高等学校はどうですか? (あります)。それでは、大学はどうですか? (あります)。博士コースは? (あります)。夫婦同士は? (あります)。子女と父母の間には? (あります)。家庭のすべての、おじいさんおばあさん、お父さんお母さんの関係はどうですか? (あります)。すべてに責任分担があるのです。ですから、法律を尊重視しなければならないのです。自分の思いどおりにしていては、行くところがなくなるのです。宇宙が追っ払ってしまうのです。いくら上手にいくみたいでも、だめになるのです。

 すべてに責任分担があるのです。御飯を食べるとすれば、御飯を食べるために満たさなければならないことも、すべて責任分担なのです。責任分担をたくさんつくることのできる人が、偉大な人だというのです。分かりますか? ですから、統一教会の先生は、責任分担の分量をたくさんつくったでしょう? 制度をたくさんつくりましたね。そして、全体を助けることのできる原則、法を立てたので、その規約を守らなければなりません。自分かってにあれこれしていたら、絶対追い払われるのです。分かりますか? アダムとエバも、あれこれとかってに行動していたので、どうなりましたか? 追い払われたのですか、追い払われなかったのですか? 追い払われたのですね。

 今日、先生の時代において、法を定めることは責任分担の延長であり、責任分担の拡大であることを知って、その法に絶対順応しなければなりません。分かりますか? 教会の規定も皆、責任分担なのです。ですから、礼拝時間はきちんと守らなくてはなりません。礼拝が始まる前に来なければならないし、礼拝中には絶対動いてはいけません。先生もそうしてきたのです。先生も昔、学校に遅れた時は、その日は昼食を食べないで過ごしました。必ず五分前には行くようにしたのです。前もって行けば、時間を浪費することがないのです。それはとても科学的なのです。

 私が小学校に通った時は、二十里の道を歩いていったのです。二十里がどれくらいの距離なのか分かりますか? (八キロメートルです)。八キロメートルを毎日のように、歩いて通ったのです。それで、通学路の間に住んでいる子供たちは、私がきっちりその時間に通り過ぎるので、その時間に家を出て来れば絶対遅刻しないのです。このように、すべてが科学的なのです。ですから、峠ごとに子供たちが待っていたのです。私は、とても速く歩くのです。八キロメートルを四十五分で歩くのです。さっさっさっと、歩くのです。そうすると、後をついて来るのが大変なのです。そういうことでも私は有名でした。

 私には、そのような逸話がたくさんあるのです。そして、お父さんお母さんに学校に行くための準備をさせたことはなく、皆自分で準備して出かけたのです。口述考査を受ける時も、学校の校長先生の所に行って、自分で交渉して全部開拓してきたのです。全部が創造なのです。

 ですから、皆さんは、すべての制度が責任分担の下に所属していることを知らなければなりません。分かりますか? 統一教会の法を守らなければならないのです。皆さんは、敬礼式の時間には起きましたか? 家で敬礼式をしない人は手を挙げてみなさい? それが皆さんの責任分担なのです。それ一つもできなければ、今後すべて、皆さんの一生の問題が左右されるのです。     (一九八四・七・一○)

4)お父様の蕩減復帰とその相続 … 127

 では、今までの責任分担を中心とした蕩減歴史を誰が全うしてきたのでしょうか? (お父様です)。では、それをお金でもって返すことができますか? (できません)。皆さんの家を売って、国土を売って返せますか? (できません)。それでは、何をすればいいのですか? することがないというのです。ただ、できるとすれば絶対服従だけです。皆さん、二十代までは絶対服従です。エデンの園でアダムとエバが二十代になる前に尻込みをしたので、堕落したのです。自己主張したので堕落したのです。

 二十代までは、絶対服従でなければなりません。ですから、子供たちも絶対服従です。子供たちは絶対服従を教えなくても、絶対服従するようになっているのです。彼らがもし父母と一つにならなかったならば、自ら滅びるということを知っているのです。神様と一つにならなければ滅びるのです。

 サタンがこれを知っているので、今日のアメリカの一世は、旧時代と現時代をつなぐ父母の言うことを聞かなければ、皆追い出されてしまうのです。なのにアメリカは反対をしているのです。サタンは本当に名人中の名人であり、世事に精通しているのです。ですから、サタンは全部裸にしてから、それを放り出したのです。それを知ると、ヒッピー、イッピーは皆、大したものではないのです。

 それゆえ、皆さんがこのようなことを知ってみると、祝福を受けた家庭であるということが、どれほど驚くべきことなのか、よく知らなければなりません。祝福家庭が、どれほど大変な立場なのかを知らなければなりません。イエス様も成せなかった位置なのです。イエス様が亡くなってから二千年間、キリスト教は世界版図を築くために、どれほどの犠牲の代価を払ってきたことでしょうか? 四百年間、ローマ帝国の迫害時代を経て今日まで、キリスト教は、どれほど血を流してきたことかしれません。どの国でも、キリスト教は血を流しながら、犠牲になりながらも祝福の位置を得ることができなかったのですが、今日、先生を通して成し遂げたのです。

 ですから、皆さんのお父さんお母さんが祝福を受けたという事実は、どれほど大変なことでしょうか。 これは、どんなにお金を渡しても、取り換えることはできません。皆さんが言葉でもって一千年間感謝しても、両手でもって万年踊りを踊っても、及ばない恵沢を受けているというのです。そのような恩恵を受けているということを、よく知らなければなりません。

 蕩減は先生が払って、福は誰が受けたのでしょうか? (私たちが受けました)。三十六家庭の皆さん、今私が監獄に行くとすれば心配するでしょうか? 目をぱちくりさせて、「先生行くのですか?」と思っているのでしょう? それでもかまいません。父母は子供たちのために生きるものであり、子供たちとは、そういうものです。父母が苦労することによって、子供たちが恵沢を受けるのです。

 その代わり、皆さんもそのような恵沢を与えることのできる父母にならなければなりません。間違いなく、そういう父母になろうと思えばなれるのです。そうするために皆さんは、伝統として先生の思想を引き継がなければなりません。「私のおじいさんおばあさんは、このような伝統を私のお父さんお母さんに相続させてくれたのですが、私のお父さんお母さんは、私たちにそのような伝統を相続させてくれなかったので、私は哀れだ」と、皆さんの後孫たちの前で讒訴を受けるような父母になってはなりません。(一九八四・七・一○)

5)私たちが蕩減の道を行かなければならない理由 … 129

 もし、堕落しない本然の世界が成し遂げられていたならば、統一教会に対して、ただ頭から反対するだけではなく、全面的に歓迎したことでしょう。ところがサタン世界になったので、私たちが再創造しなければならないのです。再創造するためには、反対の力を凌駕しなければならないのです。そして、それ自体を構成できる力の余裕を持たなければなりません。力の余裕がなくては、創造ができないのです。ですから、今まで否定された反対の力を除去させるために、蕩減の道が必要であると統一教会ではいうのです。人類は堕落してしまったのです。女性たちは何のことか分かりますか?

 再創造するためには、本来、本性的に投入した力よりも、もっと投入しなければならないのです。建物を修理しようとすれば、新しくつくることよりももっとかかるということと同じです。ですから、創造よりも、修理することのほうが手間がかかるように、創造の時に投入したより以上にかかる蕩減という条件を払わなければならないのです。そのような概念が分かりますか? 蕩減の概念は、再創造のためのものです。ですから私たちには、再創造のための蕩減が必要なのです。

 さあ、それでは今朝、皆さんは蕩減を歓迎しますか、しませんか? (歓迎します)。なぜですか? それは、再創造されて本然の人になるためですね。復帰されるためです。本然の人が現れた時には、本然のみ旨の道を行く人が出てくるのです。皆さんは本然の人ですか? 堕落した族属(血統関係の一族)です。ですから、皆さんは蕩減を通して再創造されなければならないのです。

 私たちには、蕩減の道が必要なのです。皆さんは、この世を救うために蕩減の道を行かなければなりません。イエス様ですら、いくら神様の本然の息子として生まれたとしても、この世を救うためには蕩減の道を行かなければならなかったのです。この世が完成されていなかったので、人々が皆反対する中を、イエス様自身も蕩減の道を行かざるをえなかったし、責任を持たざるをえなかったのです。

 先生は、皆さんをなぜ苦労させるのでしょうか? それは蕩減の道を行かなければならないからです。先生自身も一生涯、蕩減の道を行こうとするのです。しかし、嫌々行くのではありません。志願して行かなければならないのです。このことをよく知らなければなりません。監獄へも、願って行かなければなりません。蕩減のために行かなければなりません。不平を言えば蕩減にならないのです。皆さん、理解できますか?

 今からが始まりです。今に、「反対に歩け」と言うかもしれません。「世が悪であるから、皆さんは反対に歩きなさい」と言うかもしれません。今は世の中が反対になっているので、悪い人と共に行けば悪くなるから、私たちは反対に行かなければならないのです。そうすれば、善なる人になれるのです。それが、理論的なのです。(一九八四・七・八)

6)万物復帰をしなければならない理由 … 131

 統一教会の会員には、蕩減の責任分担があるということが分かりましたか? 蕩減路程を行かなければなりません。人間の責任とは何かというと、神様が人間を再創造しようとするには所有できるものが必要なので、万物を復帰しなければならないのです。分かりますか? 堕落した人間を再創造しようとしても、万物が神様の所有圏内にないのです。

 堕落したので、私たちを再創造するために必要な神様が所有できる万物がないのです。全部サタンが持っていってしまったので、私たちを再創造するための万物を神様の前にお返しして、それを通して私たちが再創造されるのです。私たちを再創造するための物質的要因を神様にささげることによって、私たちを再創造したという条件を立てるのです。

 この世の中で万物条件を立てて、お昼代以外はそれを神様の前にささげるのです。その期間は三年半です。神様は七年間という数を通して万物を創造したので、この万物を探すためには三年半を必要とするのです。三年半の間、心と体を尽くして精誠を込めなければなりません。

 そこで、ありとあらゆる冷遇を受けて、涙も流し、あらゆることを皆体験するのです。逃げ出したくなっても、どんなことがあっても耐えていかなければなりません。ありとあらゆることにぶつかるのです。唾を吐かれたり、足で蹴られるということにも、直面するのです。その位置で神様の心を中心として、皆さんを受け入れることができたならば、その家庭は福を受けるのです。その家庭が私たちをありがたく思うようになれば、その家庭は福を受けるのです。神様が干渉できる圏内に入ってくるからです。神様が干渉できるのです。そのようにして、この地上が明るくなるのです。

 ですから、数多くの階層の人々に、労働者や乞食に対してまでも、手を広げて彼らの所有を一つずつ集め、これを皆、天のものとするのです。エデンの園で失ったすべての万物と同じものをささげるために、三年半の間、ありとあらゆることを体験しながら、復帰するのです。

「これは神様の地ではありませんか?」と。神様は本然の地でアダムとエバをつくられたのに、彼らが堕落したことによって、本然の地も失い、本然の人も皆失ったのですから、涙と血と汗を通して探し出さなければなりません。皆さんを再創造するための物質的起源がないので、このような万物を天の前にささげて、自らを再創造するのです。(一九八四・七・一○)

7)伝道をしなければならない理由 … 133

 皆さん、伝道はなぜするのでしょうか? サタンの侵入を受けた物質で再創造された私たちは、サタンから権限を奪ってこなければなりません。私たちはサタン側にいることはできないのです。ですから、サタンの権限を奪ってくるのです。私たちは神様を愛し、神様の法を守り、世界人類を探そうとする心情で、どんなに天下が反対しても前進していかなければなりません。このような信念を持って前進していくのです。皆さんは、そのような気力を育てなければなりません。

 ですから、霊の息子娘を探し出さなければなりません。それは、天使長を探すことになるのです。アダムには三天使長がいたのですが、皆、失ってしまったのです。それを復帰しようとすれば、皆さんが三天使長を探さなければなりません。サタンの息子娘、天使長の息子娘の代わりに、霊の息子娘は、エデンの園の三天使長たちと同じになるのです。それはカイン復帰です。旧約時代、新約時代、成約時代、三時代のカインを全部復帰することになるのです。

 そのために、罵られたり、自分の息子娘を誘い出したとか言って、男たちがやって来たりして、村でありとあらゆる騒々しい噂が立つことでしょう。

 先生は一人伝道するために、反対するその人の家で、一年六か月暮らしたことがあります。完全に伝道するまでは、罵られたりするのですが、それが問題ではなく、また冷遇されるのが問題ではありません。(一九八四・七・一○)

8)祝福子女たちも自分の責任分担を果たすこと … 134

 それから、学校を卒業して社会に出れば、社会の法律をよく守らなければなりません。交通の秩序は、交通運行においての責任分担を完遂することです。学校の法は、学校での生活を完成させるための責任分担です。それらを一つひとつ遂行していかなければならないのです。先生が小言を言った時、「ああ、あれ何だ。あれ、あれ」と言っていいでしょうか。

 皆さん、学校の先生たちの中で、勉強を厳しく教えてくれる先生は良い先生ですか? ただ、いいかげんに教えてくれる先生が良い先生ですか? (厳しく教えてくれる先生です)。ところが、厳しく教えてくれる先生を好きな学生は一人もいないのです。厳しく教えてくれる先生は良い先生なのに、そのような先生を好きになる学生はいないのです。みんな反対なのです。そうだからといって、二人が共に同じようになったならば、その学校は滅びてしまうというのです。反対作用をすることによって、学校も発展できるのです。若い人たちには、必ず制度が必要だということです。自由は必要ありません。分かりますか? そういうことなのです。

 大学も出ていない、社会の経験もない若い人の言葉のままに行動したならば、国を売り渡してしまうことになるのです。家に帰っても、学校にいても、まだまだ世の中を知らない皆さんなのです。全部、分からないのです。これからいろいろと習うことが多いので三十歳までは、自己主張してはいけないということです。

 先生も、そのように考えてきたのです。私は三十歳になるまで、お腹のすかない日はありませんでした。分かりますか? わざとそういう生活をしてきたのです。服は皆、古物屋で買って、臭いのするものを着ていたのです。なぜかというと、女性が慕ってついてこないようにするためです。そうでなくてもくっつくものが多いので、徹底してきたのです。

 また、一言もしゃべらずに暮らしてきたのです。私が口を開く時は、天下が動く時だと思っていたので、むやみに言葉をしゃべらなかったのです。その過程で、私の行く道はまだまだ準備することに忙しかったのです。

 祝福を受けた者たちは皆、私の世話になって遊んで暮らしてきたのですね。私の世話になって生きる人たちは、文先生に対して負債を負って暮らすのではなく、天地の前に、神様の前に、人類の前に負債を負って暮らしているということを知らなければなりません。世界の前に負債になり、人類の前に負債になり、神様の前に負債になって暮らしているという、考えを持たなければなりません。

 そして、「これは必ず、死ぬ前には返さないといけないものであり、自分の子供たちに返さなければならないし、自分の親戚に返していかなければならない」という、決意をしなければならないのです。

 私は、そのような考えを持って助けてあげているのです。それで世界が生きることができる土台となるのです。私が三十六家庭に話したことは、「私はあなた方の息子娘を一人ずつ連れてきて教育し、着させ、食べさせてあげたので、あなた方も、私の息子娘に対して、私がしたようにしなさい」ということです。そういうことなのです。借りをつくってはなりません。

 皆さんも、私に助けてもらった分を、他の人に対して助けてあげるようにしなさいというのです。先生が皆さんを教育してあげたので、その負債を返すために、一人でも教育して返さなければならないのです。それができない時には、その民族は滅びるのです。

 では、奨学金を受けている人たちは、責任分担があるのでしょうか、ないのでしょうか? 祝福家庭の息子娘として生まれた人たちには責任分担があるのでしょうか、ないのでしょうか? それは他の人たちより、もっと多いはずです。責任分担とは、このように重要なのです。責任分担を十分に全うしなければなりません。それを越えなければなりません。そうでなければ、全部が嫌になるのです。(一九八四・七・一○)

9)責任分担はすべての分野の過程にある … 136

 蕩減と責任分担の話をしていたら、こんなに長くなりました。さあ、結論を出しましょう。蕩減復帰歴史は、幼い時から、年老いて死ぬ時まで、また霊界に行ってからも永遠について回るものです。霊界に行っても、責任分担は残っているのです。分かりますか? 霊界に行って、高い世界に上がれば上がるほど、より高い次元の法があるのです。そして、すべてに責任分担がついて回るのです。そのことをよく知らなければなりません。

 アダムとエバは、愛を中心として完成しなければならなかったのに、愛の問題で間違ったので、そのような責任分担に引っかかったのです。責任分担は、すべての分野の過程にあり、何かの目的を完成しようとすれば、そのような過程を経なければなりません。過程には、必ず責任分担遂行が連結されるのです。ある時限の過程を経る時には、必ず責任分担があるのです。それを成さなければ、すべてのことが破壊されるのです。(一九八四・七・一○)

四 真正なる自由の道 … 137

1)自由に対する正しい観念が必要 … 137

 皆さんは「平和、幸福、自由」と言いますが、その自由とは何でしょうか? 最近、一般の人々も「自由」だと言いますが、その自由とは何でしょうか? 「自分の思いのままに生きることが自由だ」と言うのですが、自分の思いのままに生きて、どこまで行けるというのでしょうか? すべてには、限界があるというのです。人間はどんなに生きても、百年以上長くは生きられないのです。その百年くらいの間に、私たちは自由を求めて生きていくのですが、もし法もなく、思いのままに生きるのが自由であるとするならば、その自由とは何でしょうか?

 今日、文化の世界が猖獗(たけだけしくも、あらあらしいこと)する中で、それを研究し、勉強することは易しいことでしょうか、難しいことでしょうか? 研究室に閉じこもって、ひたすら頭にねじり鉢巻きをして研究することは自由でしょうか、拘束でしょうか? 答えてください。何と解釈するのですか? 勉強することが嫌であれば、勉強することは自由でしょうか、拘束でしょうか? (拘束です)。では、なぜ求めて回るのでしょうか? それが問題です。ですから、自由という概念を、どのように正すかということが問題になるのです。自分の思いのままに生きることが自由ではありません。

 それでは、女性としての自由とは何でしょうか? 男性としての自由とは何でしょうか? 人間としての自由とは何でしょうか? 家庭としての自由とは何でしょうか? 社会としての自由とは何でしょうか? 国家としての自由とは何でしょうか? それが問題なのです。個人として、皆さんは自分の思いのままにすることができますか? すべてが自由であれば、「私は御飯を食べたくない」と言って、もし御飯を食べなければ、その人は死んでしまうのです。それもまた、しかたのないことです。

 さらに、「私は何も見ない。それも自由だ」と言って、何も見ないでいてごらんなさい。その人は、ただの盲になるのみです。それが問題なのです。それで、今日の西欧社会が滅びつつあるのです。彼らには、自由の定義が何か分からないのです。(一九八八・一○・一六)

 幸福の中に自由があるのでしょうか、自由の中に幸福があるのでしょうか? 何の中に幸福があればよいのですか? 皆さん、自由の中に幸福があればよいでしょうか? (幸福の中の自由です)。今までは、それが分からなかったのです。このように尋ねた時、「自由の中の幸福」と考えるかもしれませんが、それは間違いです。自由も幸福の中に入って休むことを願うのであり、自由の中に幸福が宿るのではありません。幸福の中に自由が宿ろうとするのです。ですから自由というのは、一つの方向性であり、決定的行動にはならないのです。それは、副次的であって、一次的ではありません。(一九八八・一○・一六)

2)自由の備えるべき三大原則 … 139

 自由とは、原理を離れた自由はないのです。既に、そのような観点から全部分析して、先生がそのような規定を下したのです。原理を離れた自由はありません。御飯を食べなくてはならない時に、御飯を食べなかったならば、それは、自由ではありません。お腹がすくし、副作用が起こります。御飯を食べなければ、自ら破壊するのです。ですから、原理原則を離れた自由はないのです。

 このように見た時、この宇宙は運動し、全体が自由なのです。地球が一日に一回りすること自体が、最大の自由なのです。そして月は、一か月に一回りし、地球は三百六十五日で太陽系を一回りすることが自由なのです。そこで、「ああ、私は嫌だ」と言えば、存在価値を失ってしまうのです。ですから、すべてのことにおいて、原理原則を離れた自由はないということが理論的であり、理にかなっているのです。分かりますか? (はい)。みんなそうなっているのです。

 それでは、先生には自由があるでしょうか? それは、先生も同じです。原理を離れた世界で自由を追求するということは、破綻をもたらすのです。先生が年を取れば、年寄りとして守らなければならない自由の法度があるのです。年寄りが若い娘に対して恋愛するとすれば、それは理にかなっているでしょうか? 世の中の人々が皆笑うだろうし、唾を吐くことでしょう。すべてのことは、原理に合わなければならないのです。

 また、自由には責任が伴うのです。皆さんが行動した後に、悪い結果が残されているようではだめです。良い責任的立場で歩まなくてはなりません。自分が行動した後において、全体が見ても、その行動に尊敬できなくてはならないのです。ですから、自分が行動した後においては、善の実績が残されていなければなりません。それが、三大原則です。そうですか、そうではありませんか? (そうです)。「それでは何が自由なのか?」と言うような人は、とんでもありません。家庭に帰って、「私は、お父さんお母さんの支配など受けたくない。私の思いどおりにするのが自由だ」という主張はできないことです。

 ご覧なさい。木に例えれば、大きな幹と小さな枝があって、小さな枝が「私は大きい幹とは関係ない」と言ったとしても、大きな幹がなければ、自分を保護し、自分の位置を決定することはできないのです。この宇宙の中で自分は東にいるのか、西にいるのか? これは、自分一人だけで決定できるでしょうか? 東西南北の四方に調和していなければなりません。東側に枝があれば、必ず西側にも枝がなくてはならないし、南側にも、北側にも枝がなくてはなりません。

 そして、竹のように根を張らなくてはなりません。そのような位置でこそ、自由が保障されるというのです。そうでなければ、東側の枝がいくら偉いといっても、まっすぐな木になることはできません。曲がってしまうのです。木が育つのも自由ですが、木の目的があるのです。ですから、原理原則を離れた自由はありえず、責任を避けるような自由はありえないのです。必ず、行動して善なる実績を備えなければならないのです。(一九八八・一○・一六)

3)悪魔の便宜的なる自由 … 141

 最近の学生たちの姿を見てください。彼らは皆、火炎瓶を手にして、すべてをたたき壊しているのです。学校の器物などを破壊しているのです。それを世の中で何と言うかというと、「悪魔の独断主義者だ」と言うのです。世の中に、そんな者たちがどこにいますか! それは、ふしだらなことであり、ふしだらなことをする者は、降りていくしかありません。絶対に昇っていくことはできません。すべての人々が支持してこそ昇っていくことができるのです。そうですね? 自分が育つために必要な栄養として、すべての元素を吸収して、それが自分にとっての後ろ盾となって大きくなっていくのです。

 ところで、そのようなことを全部無視して、「自由行動である」と言って、破壊的行動を執るようになる時、降りていくしかないのです。そして、消え去ってしまうのです。それでは、あまりにも問題が大きいのです。皆さんにとっても、問題となることなのです。先生も、皆さんのような年齢の時に、その問題で苦しんだことがあるのです。これは、すべての人が苦しんできた問題なのです。

 皆さん、このことをよく知らなければなりません。自由には必ず、何ですか? 原理原則を離れた自由はないのです。お父さんお母さんが結婚して、息子娘が生まれれば、お父さんお母さんの息子娘であるという、その原理を否定することはできません。そうですね? その事実の前には順応しなければなりません。そのためには、お父さんお母さんと和合をしなければなりません。互いに好きにならなければなりません。私だけが好きなのではだめです。お父さんも好きだし、お母さんも好きだし、私も好きだというのが本当の自由なのです。「私だけが好きでなければだめだ」と言うのは、悪魔の便宜的自由です。すべてを破綻させるための一つの策略による自由行動なのです。それは、原理を離れたことになるのです。(一九八八・一○・一六)

4)女性の自由とは … 142

 女性として生まれたならば、女性として行く道があるのに、「ああ、私は女性だけれど、自由があるので男性がすることをしよう」と言うことは、いいことでしょうか? 女性として生まれたので、髭も生えていないにもかかわらず「私、髭を生やしたい」と言って、髭を持ってきてつけてみなさい。いくら自由だからといって何日もつでしょうか? それが原理の道です。女性としての原理の道なのです。それが自由だというのでしょうか?

 女性には一月に一回ずつ生理があるのですが、それを、「ああ、めんどうくさい。なくしてしまおう」と言って、一度なくしてごらんなさい。なくすことができますか? なくす自信がありますか? 原理原則には順応しなければなりません。女性であれば、女性としての原理原則に順応しなければならないのです。

 その次に、女性は女性としての責任を負わなければなりません。女性の胸が大きいのは、赤ちゃんを育てなければならない責任があるからです。それが自由なのです。赤ちゃんを生んで育てることは、最高の自由なのです。ですから、赤ちゃんを生めないような女性は、半分不具者なのです。

 いくら、大きなよいイガ栗でも、秋になって実を実らせることができなければ、そこで腐ってしまうのです。熟してはぜることもできず、そのまま落ちて腐ってしまうのです。しかし、実をはらんだイガ栗は、その実が腐ってしまうことはできないので、しっかりと枝にくっついているのです。どれだけしっかりとくっついているかというと、それが不思議なのです。栗を取ってみたことがありますか? (はい)。

 これが後で、さっとこのように分かれるようになっているのです。ところが、これが熟していない時には、皮革と全く同じなのです。どんなに擦っても、違うところが裂けてしまって、栗の実は出てこないのです。しかし、実をはらんだ栗は秋になったら全部がよく実を実らせるのです。そのように実をはらむようになれば、実が落ちる前に、栗はさっと自動的にはぜるのです。

 ですから実をはらめなかった栗は、いくら大きくても、秋になれば全部、落ちて腐ってしまうのです。秋になると、実をはらんだ栗は、口を開いて、それを保護しなければならない責任があるのです。それが原理なのです。それが、原理的順理だというのです。原理を離れた自由はないのです。

 また、責任を負わなければなりません。なぜ、責任を負わなければならないのかというと、皆さんも赤ちゃんを生んだ場合に、「ああ、お前の思いどおりに育ちなさい」と言うことができるでしょうか? それは、連帯的責任なのです。父母が私たちをこのように育ててくださったので、私もそれと同じように育ててあげなければならないのです。(一九八八・一○・一六)

五 み旨の道を行く二世たちのとるべき姿勢 … 144

1)生の目的を成就するには … 144

 質問(お父様が今まで過ごされた中で、うれしかったことや悲しかったこと、大変だったことを少しお話ししてください)。

 悲しかったことと、うれしかったことと、そして何のことだって? (大変だったことです)。大変だったことが何かあったかな。人は、自分の目的を定めて仕事をすれば大変なことも大変ではなく、悲しいことも悲しみではなくなるのです。自分の目的を持って進めば、難しいこともありえないし、悲しいこともありえないのです。悲しんでいたら、その目的をどうやって成せますか?

 統一教会のみ旨の道がそうなのです。目的を定めたならば、いかに大変であっても行かなければならないし、涙が出ても耐えなければならないのです。目的をはっきりと定めることによって、大変であれば大変なだけ、その目的がだんだん近づいてくるし、また、涙を流す心情があればあるほど、その目的のために涙を流すようになるというのです。そういうことを考えた時、皆、良いこととして考え、良いこととして消化して喜ばなければなりません。そのように考えればいいのです。

 人が、何かの目的を定めたとすれば、その目的を成し遂げるためには、時間を投入しなければなりません。一年、二年、時間を投入しなければならないのです。その次に、努力をしなければなりません。いかに多くの努力をするかということなのです。その次に、精誠を尽くさなければなりません。ですから、時間と何ですか? (努力です)。努力をするといっても、普通の努力ではだめなのです。必ず体と心が一つになって、天に覚えられるように、精誠を尽くした努力をしなければなりません。そして、その量が多くなればなるほど、その目的は近づいてくるのです。

 初めに何ですか? 時間を消耗しなければなりません。その次は? (努力です)。その次は精誠です。その目的を成し遂げるために十年かかることを、三年のうちに成そうとすれば、三倍以上時間を投入しなければならないのです。その次に、三倍以上努力しなければならず、三倍以上精誠を尽くさなければならないのです。これは簡単なことですか? (難しいことです)。ですから、できないのですね。しかし、これは科学的なのです。

 結局、どれだけの量を投入するかということなのです。目的のためには、その目的が願う量よりも、時間であるとか、精誠であるとか、努力する量とかが大きければ、その目的は成し遂げられるのです。しかし、目的の基準よりも、少なくなる時、それは成し遂げられないというのです。

 皆さんは、どういう人間になりたいと思いますか? 「私は指導者になりたい、私は文学者になりたい、私は科学者になりたい」など、いろいろあるでしょう? 皆さんが、そのような目的をしっかりと定めたならば、その目的が大きければ大きいほど、そのために時間を投入しなければならず、努力をしなければならず、精誠を尽くさなければなりません。西洋の人たちは、精誠ということがよく分かりません。

 皆さんは時間を投入して、努力をして、精誠を尽くさなければなりません。そして、その目的は自分のための目的ではなく、全体のための目的でなければなりません。ですから、時間をたくさん投入しなければならないのです。寝る時間がきても寝ることができず、他の人たちが遊んでいても、遊ぶことができないのです。皆さんは、そのように時間をすべて投入しなければならないのです。

 また、他の人が皆、友達と遊び回ったりしていても、皆さんは、一人寂しい生活をしなければならないのです。皆さん、そうでしょう? 精誠を尽くすということは、人に対して精誠を尽くすことではないのです。神様であるとか、高い人に対して「助けてください」と言って、精誠を尽くすのです。ですから、そのためには、極めて孤独な立場を経なければならないのです。いろいろと難しいことがあるでしょうし、悲しいことが続くでしょう。しかし、それを消化しなければならないのです。それを苦痛に思ってはなりません。それを通過することによって、自分の願う目的も早く成し遂げられるのです。

 統一教会もそうです。今まで統一教会の経てきた道も、大韓民国すべてが反対し、世界全体が反対する道でした。実際、そのことは悲しいことでも苦痛でもありません。しかし、そのようなことがあればあるほどに、私たちの目的が結果的によくなるので、世界のすべての人々が関心を持つようになるのです。目的を中心として見ると、悲しいこと、難しいことが悪いことではないのです。そのことが分かるようになれば、悲しいとか、つらいとは思わなくなり消化することができるようになるのです。

 この世では、自分の目的も持たずに、ただ泣く人は泣いて流されてしまうのです。また、悲しんだり、つらかったりすることがあっても皆、それは流れてしまうのです。しかし、目的を中心として行く道には、悲しみがあり、苦痛があっても、それは必ず残るようになるのです。必ず、後代や私の一生において、その代価を得ることができるのです。ですから、それは、つらくてもつらいことではなく、悲しくても悲しいことではないのです。(一九七八・一○・九)

2)復帰の歴史を早く終結させるには … 147

 質問(私たちが大きくなれば、将来、することがたくさんあります。私たちの将来に対して、少し、お話をしてください。私たちが完全に大きくなっても、この世の人々が復帰されていなければ、私たちの父母たちのように、私たちも公的路程を歩まなければならないのですか? またその時になれば、皆復帰されていて、私たちは芸術活動とか自分がしたい特技活動をすることができるのですか? 具体的なお話をしてください)。

 復帰歴史がいつ終わるのかという問題は、単純な内容ではなく、膨大な内容です。復帰歴史は、これからも長い期間続くでしょう。世界の人々、四十億人類が全部、み旨の中で一つになって立ち返らなければ、復帰歴史は終わらないのです。ですから、復帰歴史は、きょう、明日に終わるものではありません。これは、先生が始めたのですが、皆さんのお父さんお母さんを中心として続いており、皆さんの代にも、その歴史は続いていくでしょう。

 それでは、どうすれば復帰歴史を終結させて、早く終わらせることができるのでしょうか? それは、各自の努力によって決定されるのですが、その努力は、どのようなクラスを通して努力するのかが問題になるのです。高位層、上流社会なのか、中流社会なのか、下流社会なのか? その次には、上流階級の人々なのか、中流階級の人々なのか、下層階級の人々なのか? このように見た時、世界人類を主導できる頂上の人々を変えることができれば一番早いというのです。

 それとは反対に、復帰歴史を労働者から先に始めたのでは、何千年かかるか分からないのです。頂上に上がり、ぐるぐる回ってそれらを屈伏させるまでには、何百年、何千年かかるか分からないのです。

 もし、早く韓国を復帰するためには、韓国の大統領を早く伝道して、食口を多くつくらなければなりません。早く日本を復帰するためには、日本の中心となる人々が早く復帰されなければなりません。このように見るのです。そのように考えた時、今日、皆さんはどのような道を選ぶべきなのでしょうか? 「お父さんお母さんが行ったと同じように、ただ守って行けばいいだろう。そうすれば、復帰歴史が成し遂げられるだろう」と、そのように思っていてはいけないのです。

 それでは、皆さんはどのように生きなければならないのでしょうか? 熱心に勉強をして、世界のすべての国の指導者を皆、一人ひとり伝道しなければならないのです。今、ここには、何人いますか? 百人ですか? (九十六人でしたが、きょう四人来たので、ちょうど百人です)。それでは、百人が一つの国から一人ずつ、すなわち、三年間で一つの国の大統領を一人伝道できるようになるか、または、皆さん百人が、百か国に散らばって三年間伝道すれば、この世界はどのようになると思いますか? 早く復帰されるのですね。

 ですから、復帰歴史の道を行く若者たちは、世界の指導者を復帰するために、彼ら以上に学ばなければならないし、彼ら以上に実力がなければならないのです。国を治める問題であるとか、人間に対する問題であるとか、社会に対する問題であるとか、世界に対する問題であるとか、歴史に対する問題であるとか、哲学に対する問題であるとか、科学に対する問題であるとか、さまざまな問題において、その人たちを皆、指導できる能力がなければ不可能なのです。

 ですから、神様もそうなのです。神様の役事も、メシヤを真理の王として送るのです。真理と知恵と愛の王として送り、すべての人間たちが分からなかったことを教えてあげ、人々がそれを全部、学ぶことができる立場に立たせて、早く復帰するための役事をされるのです。(一九七八・一○・九)

3)まず熱心に勉強しなさい … 149

 復帰歴史を短縮させることができたならば、どのような世界になるでしょうか? この世には平和が訪れ、愛の世界となり、神様のみ旨が成し遂げられた世界となるのです。人間が希望する理想世界が実現するのです。

 そして、戦いのない世界となり、国境のない世界となり、すべての偉業を相続する世界となるのです。そのような世界を人類は追求してきたのです。しかし、そのような世界が実現できなかったので、必ずそのような世界を成し遂げなければなりません。ですから、すべての問題を解決するために、皆さんはこれから努力をして、「私は世界を救おう。良い世界をつくることに責任を持とう」と言えるようでなければなりません。そのような夢を持って、果てしなく努力しなければならないのです。

 努力をしなければならず、時間を投入しなければならず、精誠を尽くさなければなりません。その量が多ければ多いほど、皆さんは立派な人になり、この世界に影響を及ぼすような主体的な人になって、外的世界は相対的立場に立つことにより、神様の歴史が、摂理が短縮されるのです。そのような結論になるのです。ですから今、皆さんは、「私が全世界を救うのだ」と考えることはよいことなのです。

 しかし今、現実的な問題を中心として、考えなければならないことは、大韓民国のどんな高等学校の学生よりも、熱心に勉強をして、優秀な成績を取ることです。また、外国のどんな若者よりも、優秀な実力を持たなければなりません。そうすることによって、この世の復帰摂理は短縮されるのです。それをなさなければ、天国に行けないのです。さあ、分かった人は自らの目標をしっかりと定めて、それを中心として、一生懸命勉強してください! (はい)。

 皆さんの立場では、あれもこれも皆したいでしょう? ある時は、マラソン大会に行ってみると、観衆が歓声を上げて、歓呼しているのを見ると、自分も走りたくなるのですね。しかし、あれこれ全部することはできないのです。まず一つのことを早く定めてから、専門的な分野で最高の基準に到達して、その後に、それを補強するための次の勉強をしなければならないのです。

 すなわち、文学であるとか、哲学であるとか、科学であるとか。補強するために、それだけの努力と時間が必要なのです。その次に、精誠を尽くさなければならないのです。それは、限りがないのです。分かりますか? 遊ぶ暇はありません。今、そのような戦いに皆さんは入っているのです。ですから今、皆さんに、他の道はないのです。熱心に勉強しなければなりません。(一九七八・一○・九)

4)何よりも重要なことは勉強である … 151

 質問(私たちがこれから大きくなったら、世界に出て、しなければならないことがたくさんあります。そうなれば、多くの人々に会うようになるので、そのためには会話が必要なので、ペンパルをしたりして、社会の知識をたくさん知っておくのもよいと思いますが?)。

 それは、皆さんが勉強を全部してから、職場生活をするとか、先生になった後にでもできることです。自分の専門分野の勉強をする時は、そんなに外的に広げてしまうと、勉強もだめになってしまいます。あれこれしてもだめなのです。二つのうちの一つをしなければなりません。皆さんは、ペンパルも、外的な社交生活も、皆必要とするかもしれませんが、今一番必要なことは勉強なのです。その場において、優秀な成績を収めることが最も貴いことなのです。他のことは、それが終わってから、いくらでもできることです。

 本を書く時は、誰でも一ページ目を書いてから、次に新しいページを書くのです。一ページを全部書かないでおいて、新しいページを書いてはなりません。一つひとつを終結させてから、次のことをして、また次のことをするようにすれば、それは自分と関係が持てるようになるのであって、途中で廃止してしまえば、自分と何ら関係がなくなってしまうのです。関係がないだけでなく、それは何もしなかったことよりも悪いというのです。ですから、皆さんは今、ペンパルだの何だのと、そのような考えを持つ必要はないのです。外に出ていって何かの活動をする必要もないし、教則によって決められたことに、満点を取るために、どれだけ努力をするのかということが一番貴いことなのです。ですから、じっくりと勉強しなければなりません。

 勉強がよくできれば、皆さんがじっとしていて何も考えなくても、上の人たちが皆やってくれるのです。その学校の全生徒から敬われ、先生から褒められるようになれば、その人を選んでアメリカに送って勉強をさせるのです。嫌だと言っても、勉強させてくれるのです。皆さんが、世界の問題を考えなくても、世界の人たちから歓迎されて、世界舞台へと出ていくようになるのです。しかし、いくら大きな夢を持って世界的な交流をしたりしても、それができなければ全部だめになるのです。

 ですから、自分の受け持った分野で、忠実に実績をつくる人は、必ずその周囲から全体の代表に立たせられ、高い所に立つようにと後援されるのです。それが天理です。これこそ天地創造の原則であるということを悟ることです。ですから、心配せずに、現実に忠実であることを学ぶことが一番よいことなのです。

5)み旨の道を行く二世たちがとるべき姿勢 … 152

 前もって準備しない人は滅びるのです。準備した人は滅びそうになる時に、防備することによって生き残れるけれども、準備をしない人は滅びるのです。先生はスポーツの中で、したことのないものはありません。ですから、熱心に勉強してください。分かりますか? (はい)。

 皆さんが、四年間の大学課程を一年間で全部終えて、次に、体を鍛えて、神様にとって必要な勇士となり、義勇軍の資格者となりたいという心を持つことは、極めて神聖なことです。そのような心を持つ国と民族があれば、その国は滅びることがありません。北の軍隊よりも、統一教会の皆さんがもっと熱心にならなければなりません。

 柳寛順が十六歳の時に、国を愛し、国を取り戻すために犠牲になったことは、どれほど若者たちの胸に、爆発的な愛国心を呼び醒ましたことでしょうか? それを知らなければなりません。それと同じことです。私も、皆さんのような年齢の時に、命を覚悟して、この道を選んだのです。十代の青少年期に、この道を出発したのです。

 それで、先生は学校に通っている時も、ちゃんとした服を着たことはなかったのです。一年中ずっと古着を着ていたのです。今でも古着屋はありますか? 昔は古着屋がたくさんあったのです。学生服も一番垢がくっついていて、つるつるして脂が溜ったものを着て通ったのです。ですから、においがとてもひどく臭かったのです。

 皆さんは、天命による天道、天法を立てることのできる道を行かなければなりません。すべての厳しい風霜を経てお父さんやお母さん、家族から皆、離れていかなければなりません。涙を飲んで、耐えて笑いながら越えていかなければならないのです。先生は、そのような業を断行することに、ためらわなかったので、今日、レバレンド・ムーンが敗者の杯を飲まずに、勝者の権威を持つことができたという事実を、皆さんは知らなければなりません。(一九八一・四・一)

 アメリカを見てごらんなさい。二億四千万の民がレバレンド・ムーン一人を捕らえるために、今まで、国務省と国会を動員して、ありとあらゆることをしてきたのです。それで私は国会と戦い、ホワイトハウスと戦って、勝利したのです。今では、アメリカの人々が、「レバレンド・ムーンはジャイアント(巨人)だ」と言うのです。巨人だという別名がついたのです。分かりますか、何のことか? ですから、『ニューヨーク・タイムズ』と戦うということは、誰にでもできないのです。「彼らと戦い続けよ」と言って、言論界を革命するのです。

 皆さんは、そのような訓練を受けて、このようなすべての血統的なことと心情関係を結んで、決意と決断を下して勝利しなければ、世界的な指導者になることはできないのです。ですから、成功を願うならば、言い換えれば、幸福を願うならば、戦いの過程と逆境の過程を克服しなければなりません。勝利の覇権を持った後にのみ、勝者の栄光の日があり、勝者の幸福の理想があるのです。敗者には幸福も理想もありえないのです。敗者は哀れな者なのです。

 今まで先生は、大韓民国から背反を受けて、あらゆる迫害を受けてきたのですが、今日、勝利者となってみると、この民族も賛美せざるをえない、そのような基盤をつくったのです。皆さん、分かるでしょう? 勉強をして、優等生にならなければなりません! 先生は、そうしたのです。他の人が十年かかってする勉強を、三年の間でやってのけたのです。

 精神統一とは、恐ろしいものです。倒れて死ぬような被害を受けるようになっても、戦場で戦わなければならない立場です。銃を撃つ方法を一回だけ習ったとしても、戦死したり、失敗したりする時には、皆消滅してしまうのです。すべての火薬を挿入しても死ぬのです。ですから、命を懸けてやらなければなりません。

 皆さんの立つ舞台は韓国ではありません。世界的舞台なのです。そのために万般の準備を整えるのです。分かりますか? 皆さんの先生は、素晴らしい人なのです。先生はとてつもないことをしているのです。とてつもない決意をして、多方面での基盤をつくっているのです。ですから、大統領が先生に、「私の国を生かしてください」と頼むような基盤になってきたのです。夢のような話です。

 皆さんは、国を指導することのできる、そのような実力を持って、明日の後継者として堂々といでたつ群れにならなければなりません。そのように決意する祝福三十六家庭の子女たちには、多くの若者たちが、青少年たちが従ってくるのです。我が統一教会の群れの未来に、光明が訪れてくることを早く悟って、力強く進まなければなりません。分かりましたか、分かりませんか? (分かりました)。

 先生のみ言を一○○パーセント理解して、何でもすることができなければなりません。いつでも爆発できる爆弾となり、また、何でも撃破することのできる、神様が必要とする愛の原子爆弾にならなければいけないのです。そして、きれいになくなってしまわなければならないのです。ですから、永遠なる愛の旗を持って、神様の前に進軍するのです。(アーメン)。(一九八一・四・一二)

6)ナンバーワンの人になりなさい … 155

 皆さんは、責任を果たせないような父母の血筋を引き継がないで、前進的で、進取的な先生の伝統を引き継がなければなりません。(アーメン)。

 アーメンとはどういう意味だか分かりますか? アーメンは「エイ・マン」(A man)です。エイ・マンですから、アーメンは、「ナンバーワン・マン」です。「ナンバーワン・マン!」。そのように考えるのです。祈祷の最後には、「真の父母様の御名によって祈祷いたします」と言って、ナンバーワン・マンであるという意味で「アーメン」と言うのです。分かりましたか? アーメンは何なのですか? (ナンバーワン・マンです)。

 妻をめとる時は、お姫様をめとり、お嫁に行く時は、王子様の所に行くのです。そして姑、舅に、君主に仕えるように仕えるのです。王と王妃に侍るように、姑、舅に侍らなければなりません。法度がいくら大変であっても、その法度をためらわずに消化させて、あまりある者になるのです。 (アーメン!)。

 それは、どんなに素晴らしいことでしょうか? (そうです)。王子に侍り、王女に侍る、そういう新郎となり、新婦となるのは簡単でしょうか? 難しいのですね。ですから、難しいことをやってのける人は、ナンバーワン・マンなので、それが、アーメンなのです。皆さん、新郎をもらうならば、先生のような新郎をもらいたいでしょうか? 答えてください。新郎をもらう時、先生よりも、もっと素晴らしい新郎をもらいたいですか、だめな新郎をもらいたいですか? 先生みたいな新郎をもらえたらいいですか、もっと優れた新郎をもらえたらいいですか? 男性たちは、お母様よりも、もっと優れた新婦をもらいますか、だめな新婦をもらいますか? (優れた新婦です)。

 ですから、先生以上にしないといけないし、お母様が責任を持ったこと以上にしなければならないというのです。(一九八一・四・一二)

第三節 祝福家庭の子女たちが行くべき道

 一 祝福家庭の父母と子女たちが行くべき道 … 158

1)祝福の意義と祝福家庭の価値 … 158

 皆さん、祝福家庭とは何ですか? 祝福家庭の位置は、皆さんの家庭が蕩減復帰するために、先生を中心として血統的に間違ったすべてのことを清算して、サタンの讒訴圏から逃れた位置なのです。この位置は、長成期完成級です。蘇生、長成、完成という、成長の三段階の長成期完成級で堕落したので、まだ七年が残っているのです。最後の七年間を残したまま堕落したのです。ですから、先生はお母様を一九六〇年に選んだのですが、その時、先生はどのような位置に立っていたのかというと、長成期完成級なのです。この位置に立っていたので、サタンの試練を受けたのです。

 一九六〇年から七年を経て一九六八年、「神の日」が制定されたということは、何を意味するのかというと、原理主管圏内において、長成期完成級まで行けなかったことを、神様の直接主管圏内に立つことにより家庭を中心として、サタン世界の家庭に対して戦いを始めたことです。氏族と民族を中心として、国家的蕩減をなして、世界的蕩減をしてきたのです。

 祝福というものは、父母様が現れる以前にはできないのです。分かりますか? 祝福とは何かというと、天地を共に受け継ぐために、父母様の枝を切り取って、皆さんの父母たちに移してあげたものなのです。ですから、父母たちが救いを受けるだけのものではありません。皆さんの父母は、何をしなければならないのかというと、氏族をつくり、民族をつくり、父母様が国家時代に入る時には、氏族圏をささげなければならないのです。また、皆さんが大きくなって、父母様が世界圏内に入るようになった時には、皆さんの家庭は、国家基準において収拾してささげなければならない連帯責任を担っているのです。このことをよく知らなければなりません。一段階下の責任を成し遂げるべき使命を、共に担うという立場で祝福してあげたのです。

 祝福をしてあげるということはどういうことかというと、サタン世界の血統を、完全に天の世界の血統に切り替えることをいうのです。皆さんは水を飲んでも、そのパイプがどこに連結されているのか分からないのですが、天の国の水を飲んでいるのです。同様に、サタン世界では同じように水を飲んでも、サタンの水を飲んでいるのです。全く違うのです。見たところは同じであっても、内容が全く違っているのです。分かりますか? ですから、その内容が変わるように、先生の枝を分配してもらった、その家庭的基盤の上で出発するのが祝福なのです。(一九八四・六・二○)

 皆さんは、祝福の根本を確実に知らなければなりません。祝福された家庭は、祝福家庭が何なのかということをはっきり知っていなければなりません。分かりますか? 愛の因縁を中心として生まれて、愛の理想のために私たちは結婚して、愛の理想のために家庭を成さなければならないのです。

 人類歴史を考古学的な見地から見ると、およそ八十五万年から百五十五万年と見ます。そのような長い長い歴史過程であれば、誰もこれを解くことができず、解決する方法が分からないのです。人間は、山の頂上から数十万年を転がり落ちてきたようなものです。果てしなく、限りなく降りてきたのです。それをご覧になられた神様は、本来の愛を中心とした本心を持っておられるので、「かわいそうな者たちよ」とおっしゃりながら、死んだ子供を忘れられない心を抱いて、「悲しみは私が責任を負う」と言って、耐えてこられたのです。そのような神様の苦衷が、いかに大きなものであったのかということを知らなければなりません。

 そして、その期間に、どれほど多くの人々が犠牲になってきたことかしれないのです。岩を見て祈り、水を見て祈り、木を見て祈り、太陽を見て祈りながら、「神様がいるのならば助けてくれ」と喘いできた惨めな人間なのです。神様がいることが分からず、原理原則に立脚した宇宙の大道が分からず彷徨してきた人間は、どんなに犠牲になってきたことでしょうか? その犠牲の代価、その基盤の上に積もって、積もって、積もって、人間の死亡の山が積もりに積もって、そして腐っていくその中に、たった一つの金粒のように残って、四十億人類の墓の圏内で初めて、現れたものが、今日の統一教会であるということを、よく知らなければなりません。

 そのような、歴史上のすべての汚点をこやしとして、新しい世界の理想のために勃発することのできる原動力とならなければなりません。勃発するということは、爆発的に出発するということです。このような力を持って、発展することのできる内容を備えた統一教会が現れたということは、偉大な事実であるということを知らなければなりません。今日までの歴史的事件の中でも、この事件以上に大きいものはないということを、はっきりと知らなければなりません。(一九八四・六・二○)

2)祝福家庭とこの世の家庭の違う点 … 161

 祝福家庭と祝福を受けていない家庭は、何が違っているのでしょうか? (祝福家庭は神様を中心とした家庭です)。ただ神様を中心とした家庭というだけでは、漠然としていて分かりません。「神様の愛を中心とした家庭と、サタン世界の愛を中心とした家庭が違います」と答えなければなりません。分かりますか、何のことか?

 サタン世界の愛とはどんなものでしょうか? (自分しか知らないものです)。自分だけのために、自分の家庭だけのために生きるのであり、それ以外にはないのです。皆、利用してしまおうとする愛です。利用して、分別させる愛であり、分派をつくる愛なのです。

 また、その次に何が違っていますか? 愛を中心として、何が違うのでしょうか? 祝福家庭はそれをはっきり知らなければなりません。血統が違うのです。血筋が違うというのです。皆さんは誰にぶら下がっているのですか? (真の父母様です)。真の父母様と愛も似ているし、生まれた血統も似ているのです。今まで、そのようなことをはっきり分かっていましたか? 違うということは、どこを指していうのでしょうか? 目も鼻も口も全部同じなのに何が違いますか? 出所が違うのです。真の父母を通して出発したのです。真の父母も、神様を中心として出発したのです。神様の愛を中心とした一体基準において、先生の出発は違うのです。この二つが全く違うのです。

 初めは何でしたか? 神様の愛がすべての中心なのですね。自分の家庭が中心ではないのです。神様の愛を中心にすれば、その中には家庭、氏族、民族、国家、世界が皆、入っているのです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ」ということは、これが一番初めの戒律だということなのです。そうすれば、万事が「オーケー」なのです。神様の中に皆入っているので、愛の同参者になるのです。愛するようになると、同参権ができるのです。そうではありませんか? 男性を知らなくても、さっと夫婦となって、四日だけでも過ごせば皆、同参者となるのです。あなたのものは私のものであり、私のものはあなたのものになるのです。同参者です。愛の偉大さはそこにあるのです。同参権を同伴することのできる、偉大なことなのです。

 その次には何ですか? 相続権があります。彼が死ぬ時は、私はその相続者になるのです。同じように、神様の愛を受けるようになれば、神様の前に同参することができるのです。神様がおられる所と対等な位置に立つことができるのです。それだけでなく、神様が持っているすべてのことを私は相続することができるのです。驚くべき愛! 愛のみが、それをすることができるのであって、お金や、知識や、権力ではできません。そうです。神様の愛を学び、また、神様の血統を受け継いだのですから、神様は呪うことができるでしょうか? 離れることができるでしょうか? できないというのです。

 そうです。皆さんはどこに属していますか? サタン世界に属していますか、神側に属していますか? (神側です)。ということは、何が違いますか? 違うのは何ですか? 同じなのです。私は神様も愛することができる愛を持っています。また、私の位置は違う血統を受け継いで、その血統を発展させることのできる位置なのです。(一九八六・四・一二)

3)祝福家庭二世たちの行くべき道 … 163

 今から、理想を持たなければなりません。皆さんがリトル・エンジェルス学校に行くようになった時、「ああ、何がああだ、こうだ」と言ってはなりません。そういうことは、全部放っておいて、まず隣にいるすべての人々を愛して、彼らと親しくならなければなりません。「ああ、私たちの学校には、統一教会の祝福を受けた子供たちがいるけれど、目が小さくて、気さくで、友達に対することも一番なので、学校では模範生であり、もしこの学生たちがいなくなれば、私たちの学校はどんなに悲しくて寂しいことでしょうか? そして、どんなに心細くてひっそりとしてしまうことでしょうか?」と言われるような環境をつくらなければなりません。百名の子女たちがいたならば、三百名を心配することができなければなりません。三百名がいたならば、全部合わせて、千二百名を消化できる基盤をつくらなければならないのです。(一九八一・四・一二)

 ヤコブの息子たちは、十二人の兄弟なのですが、その中で、誰が一番祝福を受けたのか知っていますか? (はい)。誰ですか? (ヨセフです)。ヨセフは何番目の息子ですか? (十一番目です)。ヨセフと、その次は、ベニヤミンですか? (はい)。その時十人の息子たちが何をしたのかというと、サタンの業をしたのです。兄さんたちがヨセフを嫌ったのです。なぜ嫌ったのかというと、歴史的に、カイン・アベルを中心にした、このような三家庭形態が東西南北に十二数となっているからです。ですから、そのように十家庭以上が反対する中において、冷遇される立場でも、愛する心を持って越えていかなければならないということを代表的に見せてくれたのです。

 ヨセフは自分の兄弟が、自分を井戸にはめて殺そうとしたり、売り飛ばしたのですが、兄たちが自分を死ぬ位置に追い込んだのではないと考えて、自分のすべての権威とすべての欲望を皆捨てて愛したのです。そのようにヨセフが兄弟を愛したという条件で、イスラエル民族全体が生き返ることができたのです。それと同じような道を、皆さんも行かなければなりません。

 皆さんを祝福してあげたのは、皆さんによい暮らしをしなさいということではないのです。分かりますか? 統一教会に反対し、統一教会を嫌う人々に対しても、十人の兄たちと同じように接して、彼らを救ってあげるために、彼らを抱いて、神様の愛の圏内に入れてあげることのできる責任的使命を負っていく代表として立つことが、ヨセフと同じ位置で祝福を受ける家庭の息子たちなのです。これが、祝福家庭の子女たちの行くべき道なのです。

 それでは、祝福を受けた家庭の息子に置き換えて考えてみるとしましょう。エデンの園の堕落しない息子娘と同じ位置にいるので、皆さんは何をしなければならないのかというと、救世主と同じ仕事をしなければならないのです。イエス様は罪なき息子として生まれて、この世に来て、よい暮らしをしようとしたのではありません。世の中を暮らしよくしてから、後で自分もよい暮らしをするのがイエス様の使命なのです。そのような使命の原則は同じなのです。

 それでは、祝福を受けた家庭の息子である皆さんを、神様が、先生が祝福してあげてよい暮らしのできる環境をつくったとしても、その環境は皆さんのためのものではないのです。世界のためのものであることを知らなければなりません。世界のための祝福を皆さんが引き継ぐためには、平面的に十二人以上の横的な兄弟たちを愛して、その後で、彼らが「ああ、すべての愛の主体よ。私たちのすべての模範的な主体よ。私たちの家庭を相続できる人は、私たちの一番上の兄さんでもなく、二番目の兄さんでもなく、七番目、八番目の兄さんでもなく、ヨセフのような十一番目の弟だ」と、公認を受けるような立場に立たなければなりません。十一人の兄弟全部が、このようにならなければならないのです。

 そのためには、どのように生きなければならないのかというと、何も言わずに犠牲となって、兄弟たちのために生きなければなりません。分かりますか? それと同じ位置に立たなければならないのです。(一九八一・四・一二)


4)兄弟間の友愛-父母の相続を受ける者 … 165

 統一教会の家庭は、たくさんの子供たちを生むでしょう? (はい)。一番たくさん生んだ家庭は何人ですか? (九人です)。兄弟は多いほどいいのですが、一つ皆さんが喜ぶべきことは、兄弟が多ければ御飯を食べる時も、一つのお茶わんでもって二人が分けて食べなければならないのです。そのようにしなければならないのです。御飯がお茶わん一杯しかないといって喧嘩してはなりません。兄弟が多くて、どんなに暮らしが大変でも、「私は御飯をぬいて、お姉さんにあげなければ、弟にあげなければ」という、そのような愛の心を持てば、いくらでも良くなるのです。皆さんは、良い服は私が着て、悪い服は弟にあげるのですか? 反対なのです。サタンの世界と反対に考えなければならないのです。統一教会の祝福を受けた家庭の子供たちが考えることは、サタン世界と違わなければならないのです。良い物があれば私が食べて、悪い物があれば弟に上げて、兄さんに上げるのですか? (違います)。反対に、良い物があれば、妹やお兄さんに上げて、悪い物があればどうするのですか? (私が…)。

 お互いにそうなれば、どのようになるのでしょうか? 良い物を置いて皆、後に戻っていくのです。互いに嫌だと言うのです。ですから、良い物は皆、真ん中に集まるのです。十二人の息子娘が皆そうなったとすれば、どうなるのでしょうか? 真の父母が通り過ぎる時、それを見て「君たち食べないのか? 私が食べよう」と言うような、無慈悲な真の父母ではありません。「君たちはお腹がすいているのに」と言いながら、全部食べてから、何十倍以上に満たしてくださるのです。その時、「ああ、先生、待ってください。私が食べます、私が食べます」と言ったらだめなのです。先生が全部食べれば、その後に責任が生まれるのです。それで、何十倍も、その息子娘のポケットに、食べても余るように満たしてくださるのです。神様も同じなのです。それは、良いことですか、悪いことですか? (良いことです)。

 皆さん、兄弟たちの中でも、どの兄弟よりも兄弟のためになり、父母のためになり、全体のためになる兄弟が父母の相続を受けるのです。問題を起こして、お父さんお母さんの言うことを聞かず、したい放題にするという人たちは皆、ビリになってしまうのです。

 それでは、サタン世界の前での体面は何でしょうか? お父さんの体面、お母さんの体面が問題なのです。そのようなことが分からなければなりません。皆さん、祝福家庭の暮らし方はいかにあるべきかということが、分からなければなりません。お母さんたちがすべきこと、私たちがすべきことが分からないといけないのです。

 どんなに暮らしが大変でも、どんなに苦しい生活をしていても感謝して、天の前に涙を流しながら、その日を待つのです。お腹のすくのを我慢しながら、「神様、私たちの民族を愛し、私たちの母の願いを成就させてください」と言えなければならないのです。

 そういうことが多ければ多いほど、良いものは全部パンパンと、後ろのポケットに入れておくのです。神様の後ろには、ポケットが数千個もあるのです。分かりますか? そうしておいて、「ほら、君に上げるよ」と、一番底から、一つ、二つと出していくのです。

 それは誰に上げるべきかというと、「おい、君、二十一歳まで我慢しなさい」「十二歳まで我慢しなさい」と言うのではありません。「二十一歳まで我慢しなさい。そうすれば、サタンの前に完全に勝利できます」と言うのです。そのような立場で祈祷できるようになると、一番良い宝物が神様の後ろのポケットから、ひっきりなしに出てくるのです。その時が十五歳ぐらいなのです。「神様が何だ! 十五年間待っても何一つ与えられないなんて、これは何だ! プー」と言ってしまえば、十年間勉強したことがすべて台なしになるのです。

 それでは何に一番価値があるのかというと、幼い時から苦痛に遭いながらも、耐えて祈祷することです。それが一番尊いのです。ですから苦労をたくさんして、精誠をたくさん尽くす息子娘は、お父さんお母さんのすべての相続を受けるのです。どんなに顔が醜くて、いくら背が低くて、いくら知識がなくても、そのような人が、その家の中の相続者になるのです。分かりましたか、分かりませんか? (分かりました)。それは、正しいことですか、正しくないことですか? (正しいことです)。(一九八一・四・一二)

5)父母に忠告する時の姿勢 … 168

 皆さん、今、お父さんお母さんがみ旨のために忠誠を尽くしていることを知っていますか? 皆さんは皆、知っているのですね。皆さんは、お父さんお母さんがみ旨のために忠誠を尽くさない時には忠告をしてあげなければなりません。「お父さんお母さん、なぜそうなのですか? み旨の道はこうであり、天のみ旨はこうであると見るのですが、お父さんお母さんは、なぜそうなのですか? このようにやっていかなければならないのに、何ですか! 毎日のように喧嘩ばかりして、何ですか!」と言って、忠告してあげるのです。それがよいのです。もし、お父さんお母さんが誤れば、大変なことになるのです。

 このような共同責任を背負って、皆さんが今、家庭に帰ったとすれば、たとえ年は幼くても、もしお父さんお母さんが間違っていたならば、正座して、おじぎをして、「お父さんお母さん! 私はこれが正しいことであり、これが悪いことであると考えているのですが、お父さんお母さんはどのように考えておられるのですか? 正しいことですか、違っていますか?」と言うのです。そこで、「お前の言うことが正しい」となれば、「それでは、喧嘩をしないでください」と言うのです。

 その時は、そのように正すのです。さっと行って正座して、「お父さんお母さん、ちょっと話があります」と言って、そして重要なことを話すのです。そのような話をするのです。そうしなければならないのです。

 そのようにして、皆さんが自分たちの家庭を守らなければならないのです。昔アダムとエバが十代の青少年であった時、エデンの園で守ることのできなかったことを、今日、統一教会の十代の青少年である皆さんが、父母の守れなかったことを守ってあげて責任を果たしてこそ、皆さんは堕落圏を防ぐことができるということを知らなくてはなりません。何のことか分かりますか?

 そうすれば、お父さんもお母さんも、「やあ、まいった。お前の言うことが正しい」と言いながら、皆さんのことがだんだん恐ろしくなり、気兼ねをするようになってくるのです。そして、そのようなことをしなくなるのです。何のことか分かりますか? さあ、皆さんがお父さんお母さんをよく指導してください。皆さんがアドバイスすることによって、お父さんお母さんは素晴らしい弟や妹を生んで、素晴らしい真の家庭をつくってくれるのです。そうですね? (そうです)。

6)二世たちの誇りは真の父母である … 169

 皆さんが誇れるものは何ですか? 私が皆さんに一つ尋ねましょう。皆さん自身が神様を愛する時に、誇れるものは何ですか? 皆さん自身が神様を愛したことがありますか、ありませんか? また、皆さんの誇りは何ですか? 祝福を受けた皆さんのお父さんお母さんを愛することのできる能力ができていますか? そのように、お父さんお母さんたちを信じることのできない者たちであるというのです。

 皆さん、答えてください。サタンの前に誇れるものは何ですか? サタンの前に誇れるものの何もない者たちに私が会って、祝福してもらうとすれば、サタンはどれほど嘲笑することでしょうか? 歯でガラガラと笑うのです。鼻先で笑うというのは聞いたことがあるでしょうが、歯で笑うという話は初めて聞くことでしょう?

 皆さんが誇りにするものは何ですか? 二世とは、何の二世ですか? サタンの前に誇れるものは何もないでしょう。サタンの前に誇れることがない者が、どうやって天の前に祝福を受けられるのですか? 皆さんがサタンの前に誇れることはいったい何ですか? お金ですか? 面構えですか? 女性の体ですか? 男性の体ですか? そうではありません。それは何ですか? 答えてください。誇ることができるものは何ですか? 答えられる人、手を挙げてみなさい。

 皆さんのお父さんお母さんの中に、誇れるものがあると思いますか、ないと思いますか? (ありません)。どうしてですか? 何を中心としてないと言うのですか? サタンの前に誇ることができるものは何でしょうか? 簡単なことです。神様を愛するということなのです。サタンが神様を愛しますか? サタンが神様を愛するようになれば、すべて終わるのです。また、その次に、真の父母を愛するのです。真の父母を愛しますか? (はい)。

 きょう、この時間、私の問題に対する答えのように、愛してきましたか? (はい)。私は、そのようには信じられません。愛したという証拠は何ですか? それが問題なのです。皆さんのお父さんお母さんは、誇ることがないけれども、一つ誇れることは先生を愛するということです。真の父母を愛するというその愛は、サタンが持てないものです。サタンはそれを持つことができません。真の父母という言葉の前に、サタンは完全に後退してしまわなければなりません。地獄に行かなければならないのです。

 皆さんがサタンの前に誇れることは、神様を愛し、真の父母を愛することです。「この世界の中心である真の父母様を愛することのできるのは、サタンの持てない誇りであり、私の氏族もそうであり、私の家庭でも、お父さんお母さんの前にそれが誇りである」。そのように考えてみたことがありますか? 最初から、最後まで誇れることは、真の父母しかないというのです。堕落した父母がとどまることのできる位置ではだめなのです。真の父母を否定する位置では、即座にサタン圏内に戻ってしまうのです。分かりますか何のことか? (はい)。

 統一教会で、一番の誇りは何でしょうか? サタン側に誇れることは何かというと、「お前が侍ることのできない、お前が持つことのできない、真の父母のために忠誠を尽くして、そのために死ぬことである。自分自身のために万民を犠牲にさせるお前とは根本的に違うのだ」と主張できることです。皆さんのお父さんお母さんがそうでしょうか? 先生と同じでしょうか? 先生は一生の間、監獄を訪ね回り、出たり入ったりしてきたのです。皆さんのお父さんお母さんは、教会でちょっとだけ大変なことがあると皆逃げていくようでは、だめな父母なのです。だめな父母は横にけ飛ばしてしまわなければなりません。この者たち! 子供の前に正しい道を教え、正しい道を行って見せてあげなければならないのです。

 この堕落した世界で、皆さんには先生だけしかいません。「全天下を渡しても替えることのできない先生であり、真の父母なのです。先生を愛することによって、自分の愛する家庭がそこで垣根になることができるのです。私がその国の立場で愛することによって、私たちの後孫がその国に行って暮らすのであり、私が世界を代表して愛することによって、私たちの後孫が、世界的後孫時代にその懐に入って生きることのできる道が開かれるのです」。そのような考え方をしてみたことがありますか? すべてがふさがれてしまって、一日食べる分だけ働いて生きていこうと、威張り散らして歩き回る人は、流れていく人です。そのことを全部、教えてあげなければならないのです。(一九八六・二・一九)

 皆さんの誇りは何ですか? (真の父母様です)。その次は何ですか? (愛です)。真の父母を持つことで、サタンの前に誇れるのです。他には何もないのです。私たちの誇りは、この宇宙の中で真の父母を持ったことです。そうですね。サタンが悔しがることは、この地球星に真の父母が現れたことであり、神様がうれしいこともこの地球星に真の父母が現れたことなのです。そして、その真の父母が望んだので真なる家庭の世界が訪れ、真なる氏族、民族、国家、世界が現れるようになったのです。今や、統一家は世界を指導できる段階にまで越えてきたのですが、統一国ではありません。愛を中心として家庭をつくるのです。(一九八六・二・一九)

7)真の父母様と二世の使命 … 172

 何が皆さんの誇りですか? (真の父母様です)。その真の父母はどこにいますか? 天国はどこにあるかといえば、「私の心にある」と言わなければならないのです。私の心です。私の外ではありません。心の中にあるのです。私の考えは、私の考えになることはできません。心の中から湧き上がる真の父母の考え、真の父母のみ旨を中心とする私となって、その生活圏を中心として基盤がつくられる時、それが家庭天国の基盤となり、氏族天国の基盤となり、民族天国の基盤となり、国家天国の基盤となり、世界天国の基盤となるのです。私の心から来るものなのです。真の父母に従ってください。真の父母は今まで、心に歪んだすべての世界の障害物をかきまわして、すべて壊してしまいました。

 今や統一教会の迫害時代は過ぎ去りました。百四十か国に宣教に出た時、今までその宣教国から反対されたのですが、今では、すべて過ぎ去っていったのです。反対しなくなったのです。私の一代で殉教の歴史を全部食い止めてしまったのです。イエス様がローマの元老院で勝利できなかったために、キリスト教はローマ四百年の迫害時代、犠牲時代が現れたのです。それは神様のみ旨から見た時、とんでもないことなのです。ですから、先生一代でそれらをすべて整備したのです。

 今や皆さんの心の中には誰がいますか? (真の父母様です)。そう、真の父母がいますか? (はい)。真の父母は何をする人ですか? 堕落した父母は、堕落の愛の種をまいて、世界中を堕落圏内へと追い込んだのですが、真の父母は堕落圏を越えていく愛を持って、この堕落した世界をすべて天上世界へと連結し、天と地を連結させる愛の主人公なのです。ですから、サタン世界の愛以上に真の父母を愛さなければならないという結論が出るのです。

 皆さんのお父さんお母さん、自分の体、自分の妻、息子娘よりも、真の父母を愛さなければ、先生が築いた天の国のすべての蕩減の勝利的基盤を相続することはできません。そうですね?

 今日、先生は大韓民国でも有名になったでしょう? 皆さんが今回、仕事してみて、どうですか? 有名ではないですか? (有名です)。ということは、皆さんがこれから、その人たちに何を感じるようにしてあげなければならないのでしょうか? その人たちは先生に会うことができますか、会えますか? 彼らは言葉での先生しか知らないのです。その先生に会いたいのですが、どうすれば会えますか? 望遠鏡を通して、あの月の国を通して、人工衛星を通してですか? どうしてもだめなのです。皆さんが先生の鏡なのです。皆さんが問題なのです。皆さんが先生に侍る心を中心として、体は先生の代わりに生活して、サタン世界を整理できる責任者になることによってこそ、サタン世界がなくなるのです。(一九八六・二・一六)

二 摂理の時と二世の行く道 … 174

1)今は子女たちが先駆ける時である … 174

 きょうは何の日かというと、先生がお母様と会って聖婚式をした翌日であり、また、三次七年路程二十一年を終えた日です。それで、先生はなぜ皆さんを呼んだのでしょうか? 今は何の時でしょうか? 今からは、先生がなしてきたことを、皆さんが先駆けていくのです。私がなしてきたことを、教会長家庭を中心として、すべての祝福家庭が引き継いでいかなければなりません。

 ところで、皆さんのお父さんお母さんたちは祝福を受けて皆さんを生んだのですが、まだサタンの要素がたくさんあるのです。まだまだ満たさなければならないその器を満たすことができず、立てなければならない法度を立てることができなかったので、今日皆さんは、先生が言ったとおりに行動しなければなりません。お父さんお母さんたちが誤ったことを、皆さんが責任を執らなければなりません。皆さんはお父さんお母さんを教育して、天の国の家庭を成すために、責任を負うことのできる年齢になったのです。

 ここで十八歳以上になる人は手を挙げてみなさい。十八歳以上。十七歳以上。満十七歳以上は手を挙げてみなさい。あー、素晴らしいことです。私たちのお母様が先生に嫁いで来た時は何歳だったか知っていますか? 満十七歳以上は手を挙げてみなさい、女性たちは立ってみてください。満十七歳以上は立ってください。数えの十七歳以上ではなく、満十七歳の人は立ってください。

 四十代になる先生が世界中にいる食口たちを前に、皆さんのような子供を嫁にするということは幸福でしょうか、惨めなことでしょうか? 皆さん、答えてください。幸福だったでしょうか、惨めだったでしょうか? 惨めだったでしょうか、幸福だったでしょうか?このように、み旨の世界は、世の人の常識で通じる世界ではないのです。何のことか分かりますか? お母様になることのできる人は、十八歳以下でなければならないのです。そうなっているのです。これが原理です。(一九八一・四・一二)

2)統一家の立場と実体蕩減時代 … 176

 皆さんはどのような立場に立っているのかというと、統一教会の教会員はカインの立場であり、祝福家庭の皆さんはアベルの立場なのです。分かりますか? このような立場なのですが、今まで、長子権争いをしてきたのです。長子は誰かというと、先生の息子娘です。先生の息子娘が侍っているので、カインやアベルも皆、自動屈伏するようになっているのです。統一教会はそうなっているのです。

 ですから、皆さんの中で年のいった人も、「孝進お兄さん」と呼ぶのですね。なぜそうなのか分かりますか? それは、長子権を持ってきたからなのです。世界を代表する家庭的長子権です。堕落した世界では、長子権がサタン側にあったのですが、今や長子権は誰にあるかというと、天の側にあるのです。

 その長子権が現れたので、これからどうなるのかというと、統一教会が蘇生期だとすれば、皆さんは長成期であり、先生の家庭は完成期なのです。この三つが一つにならなければなりません。そこでは誰が中心なのかという時、統一教会の教会員が中心ではありません。初めて入教してきた博士たちは、よく知らなければなりません。年のいった博士だといって、優秀であるからといって通用するものではありません。統一教会の教会員が蘇生であり、祝福を受けた家庭が長成であり、先生の家庭が完成の位置になるのです。

 旧約時代は物質を対象にした物質蕩減時代であり、新約時代は自分の蕩減時代であり、成約時代は実体蕩減時代です。統一教会においては、私が物質蕩減も受けてきたのです。また、興進君も蕩減しました。実体蕩減が最後なのです。ですから、今や実体蕩減時代に入ったのです。法廷闘争を経て進まなければなりません。分かりますか?

 私は監獄へ行っても、すべて蕩減条件を立ててきたのです。人類の残された十字架を父母として完全に清算してきたので、統一教会は孝進からぐるぐると巻き込まれ、その次に、既成教会がぐるぐると巻き込まれ、その次には、何が巻き込まれるのですか? 自由世界がぐるぐると巻き込まれるのです。その次には、共産世界がぐるぐると巻き込まれてきます。共産世界と戦う必要がないのです。統一思想だけを正しく教育すれば戦う必要はないのです。

 神様のみ旨は何かというと、政教分離ではありません。政教一致です。神様を中心とした心情一致世界、一つの世界へと向かって前進するのです。その時には、千年、万年行くのです。分かりますか? 堕落した世界が、神様を中心として、父母様を中心として、長子権を中心として、一つになるのです。それが本来の天国へ行く道であり、天国へ行く原則なのです。

 長子権、アベル権をいくら探しても、父母がいなければ天国へは行けません。父母がなく孤児のように戦っていては、次子が長子から首を絞められることになってしまうのです。ですから、宗教が主権者の前に犠牲になっていくのです。しかし、父母様が現れて本然の位置を復帰してくださったので、今や父母様に侍り、長子と次子が一つになって生活して、天国に入るようになっているのです。原理がそうなのです。この時が最後です。分かりますか? 間違いなく最後の時なのです。

 ですから、昨日、日本の責任者が来て、「いや、本当に不思議です。ただみ言を聞くだけで、ふわりふわりと皆浮かび、何でこうなるのでしょうか?」と言うのですが、なぜそうなるのか分かりますか? 時が来たのです。皆さんはそれを悟って、この時のために準備をしなければなりません。無駄な空想をしてはいけません。

 皆さん、どうですか。嫁入り先を選びますか、み旨を選びますか? (み旨を選びます)。君はどうですか? (み旨を選びます)。聞く必要はありません。不平を選んで行って、敗者となるのですか? 不平を言えば敗者になります。その時は、「何も選びません」と答えなければなりません。分かりましたか? 今はそのような時なのです。(一九八四・七・一九)

 ヤコブも十二人の息子を中心として摂理してきたし、モーセも十二支派、イエス様も十二使徒を中心として摂理してきたのです。ですから、お母様が十二人の息子娘を生まなかったならば大変なことになったのです。世の中がどんなに悪口を言おうと、先生は何としても十二人の息子娘を得ないといけないのです。分かりますか?

 ですから、韓国の宮中において妾制度が生まれたのです。三千官女だという官女法が生まれたのです。天がそれをつくったのです。そうしなければ、終わりの日に合わせることができないからです。そういう悲惨なことが分かりますか? 私たちの時代は、そこが違うのです。

 これからは、誰であっても、地位を据えて責任的王権を渡せるようになった時には、兄弟を代表して渡してあげるのです。だめな兄より、しっかりした弟を立てることによって世界が生きる時は、その弟を立てたとしても兄さんは反対してはいけません。支持しなくてはいけないのです。サタン世界では、このことを讒訴してきたので、カイン・アベルの闘争歴史になったのです。私たちの時代は、それを讒訴してはいけないのです。

 もし、私たちの教会の中で、誰々は何の輩と言ってはなりません。そのような人は、あの世へ行けば引っかかってしまうのです。父母様によく侍り、世界のためになろうとすることなのに、それがどうして輩なのですか? 木でいえば東側の枝であり、西側の枝なのです。見守ってあげて、早く大きくなりなさいと言うのであり、めちゃくちゃにすることとは原則が違うのです。そのようなすべての歴史的な摂理の恨みを、私たちは知っているのです。これらは皆、私たちだけが収拾できる内容なのです。(一九八四・七・一九)

3)復帰された本然の長子と一つになること … 179

 横的に見た時、蘇生は何ですか? (統一教会の食口です)。その次に、長成は何ですか? (祝福家庭です)。完成は何ですか? (先生の家庭です)。中心家庭なのです。子女を見た場合に、統一教会の祝福家庭の子女は二世たちです。そうですね? 今や時代は、二世を訪ねて来るのです。一世ではありません。一世は荒野で鳥のエサになっても、私とは何ら関係ないのです。しかし、私が皆生かしてあげなければならないので、祝福ということを通じて生かしてあげたのです。

 これが原則です。あの世へ行けば、この法が原則なのです。皆さん、天国に行きたいですか? そのためには、私たちはどう生きなければならないかというと、神様の息子娘にならなければなりません。神様の息子娘になろうとすれば、アベルとしてカインを救って、父母様の公認を受けなければなりません。父母様の公認を受けるには、父母様の息子と一つにならなければならないのです。今は子女時代なので、私たちが父母様と一つになろうとするには、カイン・アベルの位置を訪ねてきた、長子と一つにならなければなりません。何のことか分かりますか? このことをよく知らなければなりません。直接父母様と一つにはなれないのです。先生の息子が長子なのです。堕落した長子ではなく、本然の天の前に完成した位置です。皆さんの息子娘はカインと一つになることによって、アベルの位置の恵沢を受けて天国に入るのです。堕落したことをすべて蕩減して、堕落しなかったという条件を持つのです。確実にです。それをよく知らなければなりません。

 ですから、いつでも祝福家庭は、自分の息子娘を愛しながら悔い改めなければなりません。自分の息子娘を愛せずには、妻を愛することができないのが原理です。カインを探して、アベルを探した後で父母が出てくるのですが、カインを愛して、アベルを愛することができない位置では、夫婦がお互いに愛することができないというのです。カインを愛する前には、夫婦の生活もできないのです。

 今こそ悔い改めて、秩序を正さなければなりません。皆さんは、子供よりも誰をもっと愛さなければならないのかというと、長子を愛さなければなりません。昔、堕落した世界の復帰過程において、アベルが長子を復帰するために精誠を尽くした以上に、何倍も尽くさなければならないのです。いくら長子を復帰したとしても、個人復帰、家庭復帰、氏族復帰があるように、段階的復帰の路程が残っているのです。いっぺんに世界舞台まで復帰された長子を持ったという栄光と誇りを、何をもって比較できるでしょうか? 「ああ! 神様、感謝いたします」と言わなければなりません。

 長子は誰をだましたのでしょうか? 父母をだましたのです。そうですね。皆さん三十六家庭は、今まで誤った点も多いのです。自分の子供を愛しています。私は孝進や譽進に対して申し訳ない思いなのです。私は優しく抱いて愛してあげようとしなかったのです。忍耐力が必要です。それは、皆さん(三十六家庭)が愛さなければならないのです。私はサタン世界を愛するので、皆さんは孝進に対して天使長の位置から教えてあげなければならないのです。父母様には、「このようにして侍らなければなりません」というようにです。本来、アダムを誰が教育してあげなければならなかったかというと、神様が教育するのではなく三天使長が教育しなければならなかったのです。

 そのような意味で、三十六家庭は天使長の使命を代身しなければなりません。三時代、十二数を代身した責任を負わなければなりません。復帰されたアベルの立場に立って、先生の家庭の息子を中心として、復帰された本然の長子を中心として、千年、万年、感謝する心で一つになり、父母様に侍ることのできる伝統を立てなければならないのです。しかしそれができなかったのです。何のことか分かりますか?

 それが確実に分かったら、今や誰と一つにならなければなりませんか? (長子です)。十二人の息子たちと、私たちの家族と一つにならなければなりません。私たちが地位を据えた時は、皆さんが皆、入籍しなければならないのです。分かりますか? そして、どれかの支派に属さなければなりません。国ができた時は、どれかの支派に属するようになるのです。十二の支派です。そうでなければ、父の前に出る道がありません。このような原則があるので、統一家は移動することがないのです。揺れることがないのです。不義の悪童が現れるとしても、原理がいっぺんに除去するのです。(一九八四・七・一九)

4)今までの自分を捨てて父母以上になりなさい … 182

 今まで生きてきたことを皆、放棄してしまわなくてはなりません。今から皆さんは、自分のお父さんお母さんを見習うのではなく、皆さんがお父さんお母さん以上にならなければなりません。皆さんだけは、お父さんお母さんより優れなければなりません。お父さんお母さんが天の前に立てることのできなかった伝統までも、皆さんが立てなければ、お父さんお母さんの行く道までふさがってしまうのです。そのようなことが起こるのです。ですから、皆さんを通して、父母を復帰するのです。原理でアベルが父母を復帰するようになっているようにです。

 私が祝福してあげた皆さんだけは、この怨讐の基地となるような基準を越えていかなければならないということを知らなければなりません。分かりますか? お父さんお母さんの忠告を受ける二世となってはいけないのです。それは、ありえないことであり、神様が恥ずかしがるというのです。先生が恥ずかしがるというのです。

 お父さんお母さんのアドバイスを受けるような息子娘になってはなりません。もし、そうなれば、その家庭は滅びてしまいます。その家庭は、もう発展できないのです。今や原理結果主管圏内から直接主管圏に越えていく時ですから、皆さんは跳躍しなければなりません。跳躍しなければならないのです。父母の忠告を受ける信仰はだめなのです。

 今から蕩減時代が来るのです。この世界は、私たちの世界です。先生を迫害した共産世界は皆過ぎ去ってしまい、民主世界も皆過ぎ去っていきます。これからはゴッディズム(神主義)、ユニフィケーショニズム(統一主義)の世界へ跳躍するのです。そのためには、原理原則に立脚した本性の基準を中心として、原理のその核心基準に愛を中心として、完成できる代表的な男性や女性とならなければなりません。そうならなければ、この天宙と大宇宙の前に、神様の願われる創造理想世界は現れることができないというのが原理観です。皆さんは不可避的に運命を懸けて、その位置に行かなければならないのです。行くのですか、行かないのですか? どうですか! 行きますか、行きませんか? (行きます)。(一九八四・七・一九)

 皆さんが今、問題なのです。ご覧なさい。このようにアメリカに来ている皆さんが、これからの大学街の学生たちを救うことのできるような模範とならなければなりません。光にならなければなりません。皆さんが方向を提示できる先導的な立場に立ってこそ、天が願う、原理原則に立脚した祝福を受けた子女の位置を占めることができるということを、よく知らなければなりません。

 これから、皆さんは皆、勉強もよくできなくてはなりません。先生は今まで二時間以上、三時間以上寝ないで仕事をしてきたのです。一生の間、そのように生きてきたのです。み旨のみのために、そのような伝統を先生が立ててきたので、皆さんがそれを引き継げる直系の子女となった立場で、その伝統に従って勉強を一生懸命しなければなりません。無駄な考えをする時間はないのです。他の人が十時間でできれば、私は三時間でやるという信念を持ちなさい。(一九八四・六・二○)

三 一つになりなさい

1)解放以後四十年間の復帰摂理歴史概観 … 184

 きょうは八月十六日、韓国が解放されてから四十年目になる日です。復帰摂理を振り返ってみると、先生は四十年の間に、四千年の歴史を蕩減しなければならなかったのです。ヤコブからイエス様以後今日まで、四千年の歴史を再蕩減する苦労をしてきたのです。キリスト教が第二次大戦直後、統一教会と一つになっていたならば、キリスト教を中心として、世界が一つになっていたことでしょう。

 いつも問題になるのが、カインとアベルの問題です。カインはお兄さんとして先に生まれました。ところが、先に生まれたお兄さんはサタン側に立って、弟のアベルが神側に立ったのです。歴史路程において、これを転換するための戦いをしてきたのです。

 アベルがカインを復帰せずしては、父母が地上に現れることができないのです。父母が現れても父母に侍ることができないのです。ですから、アベルがカインを復帰する歴史は、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神の八段階をかけて蕩減してこなければならなかったのです。

 このような摂理のみ旨を成し遂げるために、キリスト教は霊的ではあっても、アベル的立場に立って血の代価を払い、多くの血を流して犠牲になりながら、命をささげながら、サタン世界のカインを屈伏させてきたのです。この最高の限界点がいつであったかというと、第二次世界大戦の時です。第二次世界大戦の直後、アベル圏のキリスト教が初めてカイン圏の世界を全部掌握できる時だったのです。キリスト教文化圏に、全世界を主管することができる特権が賦与された時だったのです。

 アメリカは、その時キリスト教文化圏を中心にして、一つの世界をつくらなければならなかったのですが、アメリカとキリスト教は、そのような神様のみ旨が分からなかったのです。どのようにして、この世界を一つに収拾し神様の願う世界に転換させるのかということを、キリスト教自体が分からなかったし、アメリカ自体も分からなかったのです。それは分からないのが当然です。神様のみ旨の中で送られた再臨主が、これらを皆教えてあげなければならないのです。

 キリスト教とアメリカは、アベル・カインと同じです。キリスト教とアメリカが完全に一つになることによって、父母が復帰されるのです。ですから、原理のみ言によれば、アベルを通してカインが復帰された後に、アダムとエバは復帰されるのであって、アダムとエバが先に復帰されることはないのです。ですから、神様の摂理は父母の位置に立ったアダムとエバが現れる前に、カインとアベルが、間違って反対になったことを復帰しておかなければなりません。そうでなければ、いつまでもサタン側に長子が残ってしまうのです。(一九八五・八・一六)

 今日まで、キリスト教が統一教会に反対して、アメリカをはじめ、キリスト教文化圏を中心としたすべての国々が皆、統一教会に反対しました。今まで数多くの宗教が、人類が皆、加担して統一教会と先生に反対してきたのです。このように反対される中で、統一教会は何をしてきたのかというと、長子権を蕩減してきたのです。この四千年歴史を二十年間で蕩減しなければなりませんでした。二十年間で蕩減しなければならなかったのです。一九六〇年を中心として一九八一年まで、これを四年間短縮させて、一九七六年まで蕩減条件を立ててこなければならなかったのです。ところが、それが今日まで延長されてしまったのです。

 もし、その時にアメリカを中心として、アメリカの大統領と日本の首相と韓国の大統領が一つになっていたならば、すべてがみ旨の中で、アベル圏を中心として復帰された基準において、世界的な基盤が築けたのですが、アメリカの大統領が過ちを犯して、日本の首相と韓国の大統領が一つになれなかったことによって、すべてが失敗してしまったのです。

 それを再び復帰するために、アメリカで四代を経て十二年間、その戦いを連結させてきたのです。ニクソン、フォード、カーター、レーガン大統領までの四代をかけて、四十代の基準で、蕩減復帰過程を通した闘争において、長子権使命を果たすべき教会とアメリカが反対する位置に立ったので、先生は追われ追われて監獄にまで行くようになったのです。それが、今も続いているのです。そして四日前に、解放四十年の記念日を祝った後に、先生が解放されたということに意義があるのです。四十四数です。この数は、サタン数の完全数です。そのような数を中心として、蕩減復帰の道を今、行っているのです。(一九八五・八・一六)

2)父母様を中心とした天国の実現 … 187

 今、私たち統一家においてのアベルが誰かといえば、先生なのです。また、統一教会自体から見ると、祝福を受けた家庭が祝福を受けていない教会員のアベルなのです。ですから、順理的に一つとなるようになっているのです。同じ原理を学び、同じ父母に侍ることができるという事実は驚くべきことなのです。ですから、ここに父母がいなければ、喧嘩が起きてしまうのです。このように見た時、今は順序が逆さまになっているのです。祝福を受けた家庭が、祝福を受けていない教会員たちに対してアベルの位置にいるにもかかわらず、カイン側に立っても統一教会の教会員たちは反対しないのです。順応するのです。それが違うのです。

 その次に、統一教会の祝福を受けた家庭と先生の家庭を見た時、誰がアベルでしょうか? 先生の直系の子女が統一教会の祝福を受けた家庭の前にアベルの位置にいるのです。ですから、統一教会の食口は統一教会の祝福を受けた家庭の前に、無条件で順応しなければなりません。そうでなければ、エデンの園で堕落した蕩減をしなければならない内容の基準が、順理的に解決できないのです。それと同じように、統一教会の祝福を受けた家庭や子女は、統一教会の先生を中心とした、父母様を中心とした、直系の子女たちの前に絶対服従しなければなりません。

 なぜかというと、ここでカイン・アベル問題を清算しなければならないからです。ですから、先生が監獄に行く前に、孝進に言ったのです。問題は何かというと、統一教会内の先生の家庭を中心として、誰がこのことをすべて成し遂げるのかということです。

 先生は今、六十五歳です。今日、先生一代である程度、伝統的基準を立てることができても、全世界が完全に復帰されるということは難しいことです。ですから、二世、三世まで連結して解決しなければならないという歴史的摂理が残っているのです。神様とアダム・エバとカイン・アベルは三代です、この三代を中心として四位基台ができます。三段階を広げていくと四位基台になるのです。三段階を見てみると、おじいさん、お父さん、孫です。ですから、一つの家庭で三代が共に暮らすことが原則なのです。三代がいつも家庭の基礎になるのです。

 このように見た時、統一家で先生を父母様として侍ったとすれば、先生の息子の位置はアベルの位置なので、これが長子の位置に上がっていくのです。ここから、長子圏が始まるのです。長子圏というのは、真の父母様を中心とした位置から設定されるのであり、父母様がいなくては設定されないのです。

 今までは、アベル圏であったのですが、アベル圏を延長してカイン圏を復帰して、メシヤを迎えることのできる歴史的な願いの道を歩いてきたのです。しかしながら、今や再臨理想を成し遂げた父母様が現れて、すべてを蕩減復帰したので、神側の父母様の息子娘が、長子次子の復帰基準を備えなければならないというのです。

 先生の家庭の息子たちを長子として見れば、お兄さんとして見れば、世の中から復帰されて入ってくる人たちは次子になるのです。そこで、順応すればよいのです、順応するだけです。分かりますか? 今からは、信じてついて来さえすれば、長子圏、次子圏が設定されるのです。その長子の行く道についてさえ来るようになれば、統一教会の祝福を受けた家庭はもちろん、二世全体も自動的にアベル圏として設定されるのです。これは、蕩減復帰が必要ない時代に入っていくということなのです。

 ですから、初めて順理的な基準が、歴史的なカイン・アベル過程を中心として、個人蕩減、家庭蕩減、氏族、民族、国家、世界、天宙史的な、すべての蕩減をして、父母様の勝利の基盤を通して、横的な面において、父母様の息子娘が長子圏を成して、統一教会の二世たちが次子圏を代身できるようになったのです。

 このように、長子圏と次子圏が、横的に展開される時代が一致しなければ、地上天国実現は不可能なのです。原理がそうなのです。いくら地上天国を唱えたとしても、長子圏と次子圏が、神様を中心として勝利された父母の基準と血統的因縁を通した関係で結ばれなくては、地上の天国顕現は原理観的な立場からも不可能なのです。何のことか分かりますか?

 それでは、このようなことをいつ決定したのでしょうか? 統一教会の歴史において、このような決定をいつしたのかということが問題なのです。この決定がなくては、根本的にサタンを追い出すことができないのです。ですから、先生が監獄に入る前に、孝進を立てて、二世たちを一つにする運動をしたのです。

 本当に孝進が先生の長男として、その位置ですべて責任を負っていく時に、祝福を受けた家庭は一つになって従ってこなければなりません。無条件で従ってこなければなりません。自分の主張が正しいとするアメリカ式ではだめなのです。ここには、何の式もありません。父母様が提唱する式に従ってこそ、天国に行けるようになっているのであって、今までのアメリカや韓国の伝統的な習慣性は、天国と因縁が結べないのです。父母様と一つになった基準を中心としての長子圏と次子圏が横的に設定されない限り、天国顕現は不可能であることを、はっきりと知らなければなりません。(一九八五・八・一六)

3)先に子女様方が一つになること … 190

 さあ、これからは君たちが完全に一つとならなければなりません。私の家庭の子女は今十二人です。十二人の息子娘たちです。これからは、それが十二双になって、十二の支派を責任持たなければなりません。君たちがどの支派に入るとしても、責任者にならなければならないのです。これから世界的な支派を編成するのですが、君たちが一つになることによって外的支派が編成されるのです。

 君たちの家庭は、これからは喧嘩してはなりません。今までは、知らなかったので喧嘩したとしても、これからは喧嘩してはいけません。そのような伝統を立てなければならないのです。十二歳以前には、喧嘩をしてもいいのです。また、二十歳前までは、過ちをしても許してもらえるのです。私たちの十二の家庭が完全に一つになった時、支派編成をするのです。

 祝福家庭も一つになって、すべてが支派編成をしなければなりません。何々支派、何々支派というように、これから支派の名が全部出てくるのです。しかし、国家と世界の勝利の版図がなくては、名をつけることができないのです。

 ですから、君たちがそれをよく知って、内的に固く団結して、統一教会の祝福家庭として団結して、自分の家庭のお父さんお母さんを引っ張っていかなければなりません。君たちが、父母様までも引っ張っていかなければなりません。「父母様がされる仕事を、私たちが代わりにしますので、父母様は休まれてください」と言うことができるようになれば、世界に与えられた神様の祝福を全部君たちにあげられるようになるのです。それはどういう意味かというと、外的世界がだんだん崩れていくというのです。だんだん崩れていって、「統一教会の伝統と、統一教会の信仰と、統一教会の決意に満ちた群れにならなければだめだ」と言うようにならなければなりません。自然に世界が注目をするようになるのです。(一九八五・八・一六)

4)祖国創建は子女たちが一つになるところから … 191

 今日まで、歴史過程におけるカイン・アベルを中心として、長子権復帰の基準を探し求め、世界的蕩減路程を皆父母様が準備したのです。ですから、真の父母様の家庭を中心として、長子、次子の権限を世界的基準に連結させることのできるのが祝福なのです。この日を神様がどれほど待ちこがれ、父母様がどれほど待ちこがれたことでしょうか? また、この人類がどれほど待ちこがれたことでしょうか? それによって、三年の期間を中心として、「祖国創建」という標語を下したのです。では、祖国創建はどこから始まるのかというと、家庭から始まるのです。そのような家庭の位置が定まらないかぎり、国が一つになれないのです。世界が一つになれないのです。

 今日、我々が家庭から出発することによって、祖国創建の曙光が輝いてくるのです。今はそのように新しく熟した時なのです。外的にそのように熟してきたのです。お父様が言われる環境に、すべてが合うように外的に熟してきたので、皆さんが完全に一つになって、これから長子、次子を中心として闘争がなくなる時に、統一家を中心として地上天国理念が実現されるのです。

 そのような家庭教会を出発しなければなりません。分かりますか? 家庭教会が出発するためには、そのような家庭をつくらなければなりません。家庭教会は天国の基地であり定着地であると教えてきたのですが、これを終わらせなくてはなりません。(一九八五・八・一六)

四 二世たちの七年路程 … 192

1)祝福家庭と子女たちの行くべき七年路程 … 192

 皆さんが祝福を受けたからといって、それが全部ではないのです。祝福を受けて、生まれたその位置は長成期完成級なのです。ですから、皆さんは生活において誤ってはなりません。祝福を受けたお父さんお母さんを通して生まれても、いくら祝福家庭だといっても、行かなければならない七年路程が残っているのです。完成期完成級まで進んでいくために、そのような原理的七段階が残っているのです。

 アダムとエバが堕落したことによって、家庭が堕落したために、長成期完成級でカインとアベルを生んで上がっていったのではなく、落ちて、降りていったのです。ですから、新しく家庭が天の前に祝福を受けて現れたとしても、長成期完成級から上がっていかなければなりません。上がっていくその位置において、サタンの讒訴を受けるような環境的与件を残してはだめなのです。それが原理です。何のことか分かりますか? サタンの讒訴を受けるような環境的与件があってはなりません。

 それで、今日、堕落圏内に落ちたこの世界で、祝福家庭を中心として、統一教会が長成期完成級から上がっていくとしても、皆さんの周囲と環境は皆、サタンの讒訴圏内にあるのです。それを、誰が解決してくれるのかというと、皆さんの家庭自体で解決することはできないのです。皆さんの家庭自体では解決できないというのです。人類の祖先となるアダムとエバのような人が現れて、これを解決してあげなければ、皆さんの家庭がいくら祝福を受けたといっても、サタン世界を逃れる道はありません。これが原理の骨子なのです。(一九八六・四・八)

2)お父様の七年路程 … 193

 それゆえ、先生は今までその業をしてきたのです。七年路程で、先生の家庭を中心とした世界的蕩減復帰路程の途上で、先生が祝福を受けてお母様を迎え入れる時、サタンの讒訴があってはならないのです。お母様を迎え入れたその日から、讒訴されてはならないのです。そうですね? 本来、アダムとエバが堕落しないで、祝福の位置に立つようになっていたならば、堕落圏もないし、堕落したサタンもいないのです。

 しかし、一九六〇年に先生が聖婚する時、十四年の間、国家的な基準で何をしてきたのでしょうか? 皆さんは知らないのですが、先生個人を中心として、アダムとエバが堕落しなかった過程から、行くべき伝統的基準を立てなければなりませんでした。その伝統的基準が何かというと、サタンを屈伏させることのできる基準をいかに立てるかということなのです。イエス様当時の、イエス様を中心として国家次元で準備していた基準を蕩減しなければならないのです。それを蕩減できなければ、祝福という位置が出てこないのです。

 解放後十四年が過ぎて、一九六〇年の四月に聖婚式をしたのですが、その時には、大韓民国のすべてが、個人から家庭、氏族、民族、国家全体が反対したのです。イエス様の時代十二使徒が反対したことと同じように、統一教会に従っていた人たちまでも反対したのです。一番親しくしていた人たちの中で、十二人以上が統一教会に、先生に反対する中で蕩減の道を経ていかなければなりませんでした。そのようなことは、皆さんの誰も知らないことです。先生は聖婚式の前日まで、裁判所に出頭して調書を取られる中で、聖婚式をしたのです。それこそ戦いなのです。そのような激戦の中で、今日の基盤を築いてきたのです。

 先生個人を中心として、サタンがありとあらゆる反対をしたのです。個人的にどんな条件を立てても、絶対にみ旨の道を行けないようにすると言うのです。それゆえ、統一教会を信じてきた皆さんの父母たちの背後でも、サタンがすべてに反対してきたのです。その時の状況がどんなだったかというと、自分のお父さんお母さん、子女、夫婦が問題ではなかったのです。彼らが、すべてサタン側に立ったのです。それで皆さんのお父さんお母さんは、自分の家族や氏族に背くことになったのです。自分の氏族に背いて、自分の家族に背いたのです。

 堕落とは何かというと、妻に背いたことであり、その次に、真の子女に背いたことです。さらに、真の父母に背いたことです。ですから、家庭においても、そのような道を行かなければならないのです。聖書にも、イエス様は次のように語られているのです。「誰よりも、私をより愛さなければ…」と。そのように背いたのは、何を立てるためかというと、お金でもなく、社会の名誉でもありません。神様をより愛したという基準を立てなければならないからです。

 自分の父母よりも、神様をより愛したという位置に立たなければなりません。今まで、どんなに父母を愛してきたとしても、それはサタン圏内に立っていた愛だったのです。サタン圏を越えて、父母を愛することのできる位置ではなかったのです。また、サタン圏を越えることのできる、そのように愛することのできる夫がいなかったのです。そして、さらにサタン圏を越えて、子女を愛する道がなかったのです。

 そのために、今日までの宗教の願いが何であったかというと、父母を探し求めていく前に、相対を探し求めなければならないということです。それが復帰路程なのです。それで、イエス様が第二のアダムとして来られて、成さなければならなかったことは何かというと、新婦を探し、新婦と出会って、本然の父母の位置を求めていかなければならなかったのです。イエス様の前には、父母がいなかったのです。

 もし父母がいるとすれば、それは神様でなければなりません。マリヤが生んでくれて、お父さんがいたとしても、彼らが父母ではありません。それは、一時的な、ある一つの条件を立てるための蕩減条件を必要とする、父母だったのです。本然の基準において、アダムとエバを代身して、神様が父母の体を持つことはありえないのです。

 ですから、先生がイエス様の前に、新郎、新婦の位置を探し立て、初めて父母の位置に上がっていけるのです。父母の位置に上がっていくためには、新郎、新婦を策定できなければ、父母の位置を探し出すことができないし、もし父母の位置を探し出せなければ、子女の位置を探し出すことができないのです。それゆえ、蕩減復帰はすべて何を基準にするのかというと、それが愛なのです。(一九八六・四・八)

 先生がいかに一九六〇年代に父母の位置に立ったといっても、蕩減復帰をしなければならないのです。父母の位置に立っているということは、七年路程に向かっていくことなのです。では、この七年路程で何をしなければならないのかというと、「父母の日」を策定して、「子女の日」を策定して、「万物の日」を策定しなければなりません。この七年路程で、お母様もそのような位置まで進まなければならないのです。

 この七年路程を中心として、縦的に主管的主体であるアダムが立てなければならない長成期完成級まで、七年ずつ二回の十四年間の基準を越えて、サタンと戦って、国家基準までの基盤を築いたのですが、お母様自身においては、そのようになってはいなかったのです。横的な位置に立てて、七年路程、七年間で、二人合わせてサタンの讒訴圏を越えていかなければならないのです。何のことか分かりますか? ですから、お母様にも七年路程があるのです。

 そこで、一九六〇年に聖婚式を行い、一九六八年に、「神の日」を定めたのです。「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」を心情的な中心とすることによって、初めて「神の日」を設定したので、神様と先生の家庭が通じるようになったのです。神様と先生が通じ合い、その次に父母と子供が通じ合い、父子の関係で万物とも通じることのできる条件的版図が開かれたのです。それは、全体的環境でなく、条件的環境なのです。国家基準に限られたものであり、世界基準ではないのです。ですから、世界基準を立てるために、先生が韓国で勝利した後、一九六八年から世界舞台での蕩減基準を経ていくのです。(一九八六・四・八)

3)二世の行くべき道 … 197

 それでは、皆さんは真正な意味から、いかに神様を愛するのでしょうか? 何よりも神様の愛を貴く思うことができますかということなのです。分かりますか? 神様の愛を探し求めなければならないのです。分別をわきまえない成長期間は、思いのままにしてもいいけれども、物心がついてきた後は、父母の願いは何かということを求めて、愛の道を探していかなければなりません。そうしなければ、世代を受け継いでいけないのです。縦横の歴史を清算して越えていかなければなりません。

 祝福家庭で、祝福を受けて育ったといっても、先生がこのような蕩減路程を行かなかったらば、皆さんの家庭にも、第二世の祝福はありえなかったのです。何のことか分かりますか? 皆さんのお父さんお母さんは真の父母ですか? メシヤとなるためには、蕩減条件が必要なのです。そのためには、すべてのカイン・アベルの血統を真の父母を中心として、分別しなければなりません。

 真の父母の言葉に順応しない人はいないのです。批評することも許されないのです。なぜ批評できないのかというと、万宇宙が必要とする絶対基準を探し立てておいて、愛の基準を立てて進む道を、真の父母として先生は歩んでいるのです。それは、皆さんの祖先たちにも必要であり、四十億人類にも必要であり、これから、皆さんと皆さんの後孫にも必要なのです。人間世界においては、いつ、いかなる時代であっても、歴史の願うものは真なる愛の基準なのです。その基準を批評する者は、この愛の世界には存在しえないのです。

 皆さんは、神様の本然の愛を探していくことにおいて、先生を絶対視する立場に立ちましたか、立ちませんでしたか? 「私のお父さんお母さんの話を聞いてから、考えてみよう」と言う人たちは皆、粉々になってしまうのです。先生が押し出せば、永遠の崖へ落ちてしまいます。ですから、何の紐で結ばれていなければならないかというと、血統の紐でもだめなのです。愛の紐で結ばれていなければなりません。

 皆さんはそのような愛の紐に結ばれていますか? 皆さんのお父さんお母さんは、先生と結ばれていますか、結ばれていませんか? 今まで「何が、どうだこうだ」と言って、ひそひそ話をしてきた人たちは、ここに参席する資格がありません。「何が、ああだこうだ」とか、先生が今、来いと言ったのに、最近では集まるたびに「どうのこうの」と言わなかったですか、言いましたか言いませんでした? ただ通りすがりの者のように考えていてはだめだということです。サタンが皆、入っているのです。(一九八六・四・八)

 皆さんは今や、祝福家庭なので先生の許可がなければ、再び七年路程に出て開拓しなければなりません。皆さんのお父さんお母さんたちのように、再び出て行って苦労して帰ってこなければならないのです。先生が認めなければだめなのです。それを皆、越えられなかったのです。これから、皆さんの家庭全体の記録を残しておいて、今まで指示したすべてのことに対して、合格なのか不合格なのかを先生が決めるので、それを越えていくことができなければ、全部引っかかって、引っ繰り返ってしまうのです。(一九八六・四・一二)

 皆さんの行く道は、他にはないのです。先生について来なければなりません。先生について来て、国を越えて、世界を越えていかなければなりません。世界を越えて、霊界を越えていかなければなりません。皆さんが先に立って、思いのままに行くことはできないのです。思いのままに行けるのであれば、私がなぜこのように苦労することがあるのでしょうか? そうであれば、皆さんよりも、もっと簡単に行けるのです。行く道は一つしかないのです。

 これからは皆、自分かってにやる人たちは見ていなさい。これから、もし皆さんが責任を執れなければ、皆さんのお父さんもお母さんも、他の所に行かなければなりません。他の所で再訓練を受けて、蕩減しなければならないのです。(一九八六・四・二七)

4)お父様の七年路程と二世たちの七年路程 … 199

 先生の一代は悲惨なものです。アダム時代を蕩減しなければならないし、イエス時代を蕩減しなければならないのです。また、蘇生時代を蕩減しなければならず、長成時代を蕩減しなければならず、完成時代を蕩減しなければならないのです。それゆえ、十四年ぶりに統一教会の人たちを皆、先生が四十代になるまで待たせて、祝福したのです。そのためには、国を越えて、イエス様がザカリヤ家庭を中心として、一つになれなかったことを全部、蕩減復帰しなければならないのです。

 それを話せば、一日中話をしても尽きません。その次は、長成期完成級という七年路程に、世界的な総攻勢があったのです。その時代に、そのような道を行ったので、皆さんも七年路程を行かなければならないのです。七年路程が残っているのです。分かりますか? それが歴史的、六千年の聖書歴史を越えることのできるものなのです。ですから、今が歴史的に一番複雑な時なのです。六千年の聖書の歴史から見ると、皆さんにとっての転換期なのです。

 そのような七年路程をいつ行きますか? いつから行かなければなりませんか? さっき、「皆さんの祖先たちは蕩減復帰時代だ」と言ったのですが、皆さんは何の復帰時代なのですか? ただの復帰時代なのです。蕩減復帰時代とただの復帰時代は何が違うのでしょうか? それは、サタンを分別しなければならないことです。サタンを分別しなければ、いつまでも繰り返されるのです。

 今の時代は復帰時代なのです。復帰時代は迫害がないのです。今にソウルでは、どこに行っても、文総裁と統一教会に反対する人はだんだんといなくなってくるのです。学者たちも皆、「先生が好きだ」と言う段階になったのです。学者たちが教壇に立って、「文総裁の話を聞きなさい」と言う日が、遠からずやって来るのです。なのに、反対するのですか! そのために準備しておかなければなりません。

 皆さんがこれから、息子娘を教育するためにも、七年路程を行かなければなりません。その期間が何かというと、完成時代なのです。それゆえ、本来は約婚して三年路程を行き、その次に結婚後、三年路程を行かなければならないのです。今日の統一教会がそうなのです。約婚後に三年路程ではなく、本来は七年路程を歩んで約婚段階に入るのです。ところが、先生が蕩減したので、それを途中で中止して三年半としたのです。そうして七年に合わせたのです。

 その七年期間にやるべきことは何かというと、まず経済問題を解決しなければなりません。なぜ経済問題を解決しなければならないかというと、堕落したからなのです。自分自身が全部サタン圏にいるために、神様が再びつくり替えることのできる万物を持っていないのです、肉体までも堕落してしまったために、これをサタン世界から探して来なければなりません。私自身を再創造するための物質を探して来なければなりません。エバは、すべてアダムが失ってしまった物質を代わりに探して蕩減するのです。ですから、皆さん自身を神様の前に再創造するための物質を探して来なければならないのです。ですから、統一教会の食口たちは、すべてその業をしなければならないのです。

 物質を探して、その次は一線に出て、自分の相対を探して来なければなりません。相対を探すには、三人の霊の息子娘がいなければなりません。三人の霊の息子娘がいなければ、相対を探せないのです。それはなぜかというと、相対を探すためには、三天使長を屈伏させた基準を立てなければ、アダムの位置に上がっていけないからです。

 それで、霊の息子娘を探すために、自分に一番反対する村に行かなければならないのです。その村の隣の村ではだめなのです。面であれば、(行政区画の一つで日本の村に当たる)三つの面を経なければならず、郡であれば、三つの郡を経なければなりません。自分の故郷の地では、復帰ができないのです。サタンの一線へ行って探して来なければならないのです。

 このようにして、三人の霊の息子娘を復帰した後で、祝福を受けることができるのです。そうですね? そのように行くのです。蕩減的な道が残っているのです。皆さんはどうですか? 皆さんは霊の息子娘が必要ですか、必要ありませんか? (必要です)。皆さんは皆、三人の霊の息子娘がいますか? そういうことは知っていますね。ですから、信仰の条件を探し立てることに努力しなければなりません。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界まで、一回りして来なければなりません。そのようにして、世界カナン復帰をしていくのです。

 その次に、皆さんは先生の故郷に一度行ってみなければなりません。先生の故郷から出発すべきなのです。分かりますか? 志を定めて、先生の故郷へ行って、「さあ、私は今から本当の公的な道を行きます!」と、宣誓しなければならないのです。先生の故郷はどこですか? (定州です)。ですから南北統一をして、先生の故郷へ行って暮らさなければなりません。その道が残っているのです。先生の故郷へ行くことは難しくはないのです。

 皆さんはこれから七年間、公的な奉仕をしなければなりません。大学を出ようが出まいが皆、すべてに奉仕をしなければなりません。軍隊の訓練と同じようにです。一つの面に行って労働したり、すべてのことをするのです。公的人として合格するための教育が必要なのです。小学校、中、高等学校も必要ですが、そのような課程が必要なのです。ですから、高等学校を卒業すれば、普通何歳ですか? 十五、六歳で卒業できるでしょう。子供たちのIQ(知能指数)が高くなるので、早くなるのです。すべてが七年路程を行かなければなりません。そのような過程で、失敗してはなりません。旧約聖書を見ると、罪人は皆、石打ちの刑で殺されたのですが、それよりもっと恐ろしい時代が来るかもしれません。

 私たちがすることはたくさんあります。今や、韓国の伝統を立てなければならないのです。女性たちが服を着るのもそうです。これからは韓国の服を世界的にしなければなりません。そういうことを全部パスしなければなりません。その次に、結婚をするのです。

 ところで皆さん、それができなかったので、三代を通して、皆さんの息子娘の時代にはできるだろうと思います。私がその時まで生きていなければ、大変なことですね。(一九八六・四・八)

5)行かなければならない七年路程 … 203

 先生が、皆さんのお父さんお母さんたちを結婚させてあげたので、皆さんが生まれたのです。皆さんのお父さんお母さんが統一教会に入っていなかったならば、どんな存在となって生まれていたことでしょうか? きっと変に生まれていたことでしょう。今回、「結婚しても三年、七年路程に出ていくように」と言ったら、学校も皆放っておいて行きますか?

 少し、皆さんに聞いてみます。ソウル大学の卒業証が必要ですか、赤ちゃんが必要ですか? 何が必要ですか? (卒業証も必要ですし、赤ちゃんも必要です)。それではサタンよりも、もっと悪いのです。二つのうち一つを選ばなくてはなりません。一つずつ処理しなければ、すべての問題は解決できないのです。二つとも必要であれば、どちらを先にしますか? どちらを先に手に入れますか? 卒業して三年路程を行くのですか、三年路程を行ってから卒業証書をもらいますか? 卒業して三年後に行こうとすれば、赤ちゃんの誕生は望めません。

 本来の七年路程とは、女性が七年、男性が七年として、十四年の基準に合わせなければなりません。皆さんは七年路程に出て苦労しなければなりません。先生は皆さんと同じ十代に、八道江山(韓半島全体をいう)をすべて回ったのです。全羅道から慶尚道、全国を回ったのです。(一九八六・四・八)

五 カナン福地に入った二世の姿勢 … 204

1)二世時代とは復帰の時代である … 204

 皆さんは、どれほど大変な歴史時代を経て生まれてきたのかということを知らなければなりません。過去に、皆さんのお父さんお母さんは蕩減復帰の受難の道を行ったのですが、今からは蕩減復帰という言葉もなくなってしまうのです。復帰のための受難の道を行ったお父さんお母さんの時代と、皆さんの時代は違うのです。お父さんお母さんたちは蕩減復帰のために、サタンを全部防衛して復帰して行かなければならなかったのですが、今ではサタンの防衛は必要ないのです。蕩減がないのです。復帰歴史は復帰の道を行かなければなりません。

 先生がこのようにすべて立てておいたので、アフリカでも、南アメリカでも、これからは首相たちが皆、私に侍ってこようとするのです。そのような段階に入ってきたのです。皆さんの時代は、何の時代になるのですか? (復帰時代です)。皆さんのお父さんお母さんの時代は何ですか? (蕩減復帰です)。何が違うかというと、サタンの讒訴条件がなくなるということです。簡単なことです。すべての蕩減復帰時代の原則は、同じなのです。

 これから、皆さんの時代です。十四歳になれば、その時までに高等学校を卒業して、その次から七年路程に出て活動するのです。七年路程は必ず行かなければならない道です。その次は、歓迎を受けにいくのです。何のことか分かりますか? 復帰路程は同じなのです。(一九八六・四・八)

2)カナン福地に入った二世の姿勢 … 205

 皆さんが感謝しなければならないことは、四十年カナン復帰路程を経て、今、統一教会はカナン福地へ既に入ってきているということです。民族的基準においても、これからは統一教会をふさぐ道がないというのです。統一教会の風に従っていかなければ、国家も存続できないということを、すべての人々が感じる段階に入ってきたのです。

 それゆえ、これからは、機関車となって、砲弾となって撃破していかなければなりません。新しい歴史を展開しなければならないのです。そのことを誰が宣布するかというと、過去の皆さんの父母ではありません。皆さんなのです。すなわち、皆さんがいなければならないのです。   (一九八六・四・一二)

3)イスラエル民族の教訓と私たちの姿勢 … 206

 イスラエル民族はどこで滅びたかというと、荒野四十年路程中に一世は皆死んだのですが、イスラエルの国は滅びなかったのです。イスラエルの国の望みであるカナン福地に向かっていったのです。では、どこで滅びたのでしょうか? カナンの福地に入ってから滅びたのです。滅びた原因はどこにあったかというと、神様のみ旨を中心として、指導者が定めたことに一致できず、環境に吸収され始めたことによって、カナン復帰をした後に、イスラエルの国は滅びたのです。そして北朝十支派、南朝二支派に分かれてしまったのです。

 イスラエル民族はどこで滅びたのかというと、カナンの福地に入ってから滅びたのです。ですから、もし皆さんが滅びるとすれば、どこで滅びるのかということをはっきり知らなければなりません。祝福を受けた位置、祝福家庭になって滅びるというのです。それを知らなければなりません。祝福を受けた位置から滅びの道が生じるのです。皆さんは歴史的事実を知ることによって、誤った過去を参考にして、時代的使命において滅びる道を越えていかなければならないのです。ですから、一日一日の生活が習慣化されてはいけないのです。

 皆さんは、きょうの位置から、明日の位置へと発展していかなければなりません。その次に、再び発展して進んで行かなければなりません。皆さんから、新しい家庭、新しい氏族、新しい民族、新しい国家形成をしていくのです。皆さんは、今の基準で停止してしまってはなりません。明日に向かって、もっと発展するために、日々の生活が習慣化されないようにしなければなりません。(一九八六・四・一二)

 ですから環境に流されてはなりません。イスラエル民族が、カナン復帰したのに、なぜ滅びたのかというと、環境に吸収されてしまったためなのです。よいものを食べて、よい暮らしをしている姿を羨ましく思ったのです。異邦の金持ちの女性に皆、ついて行ったのです。また、異邦人の権力を好み、知識を好んだのです。皆さんが学んできた知識が、これから全部必要でしょうか? 必要ありません。何々の法科とか経済科とか、どこにも必要ないのです。もし日本が滅びるようになった時には、日本の経済学、日本の法学も皆、壊れていってしまうのです。

 ですから皆さんは、これからみ旨を成し遂げるためにも、神学を勉強するために頭にはちまきをするようにして努力しなければならないのです。ここに集まった皆さんは、今まで考え方が間違っていたのです。先生が経済学について行くと思いますか? 先生が政治学を参考にすると思われますか? 先生はそれを切ってしまって、一掃するのです。神様は、その臭いすらもかぎたくないし、その姿を見るのも嫌なのです。

 イスラエル民族はカナン福地で滅びたのです。私が祝福してあげても、滅びることもありうるということです。しかし、皆さんは、滅びてはなりません。(一九八六・四・一二)

4)この世に勝って神の権威を立てること … 207

 皆さんは、すべて世に勝たなければなりません。この世の上位に立たなければなりません。世の中に埋もれてはなりません。頂上に上がっていかなければならないので、この世の人々がついて来ることもできないような、苦難の道を行くのです。統一教会はその道を行くのです。神様もその道を行くのです。すべて上位に立とうとするので、サタン世界が皆、譲歩しないのです。ですから、上にいる者たちを屈伏させるためには、反対の道をとって降りていかなければなりません。

 皆さんは戦って、頂上に上がっていく自信がありますか? そのためには、反対に降りていくことです。そこで、反対する者たちは滅び、皆さんは栄えるのです。これが、摂理の秘密路程です。

 先生もそうでした。一生の間、四十年の間、戦ってきたのです。頂上に上がっていくために苦労の道を行くので、私たちの歴史は悲惨な路程になったのです。犬の餌を食べながら戦ってきたのです。先生は、悲惨な監獄の話などあまりしないのですが、とても悲惨な背後の歴史が残っているのです。それが、皆さんの後世の歴史に灯台のように照らしていく、一つの看板になっているということをよく知らなくてはなりません。

 世の頂上に立ち、世に勝たなければなりません。お母様も今ここにいるのですが、そのようなことは何も知らないのです。私の息子もここにいるのですが、彼は何も知らないのです。これは、皆さんが教えてあげなくてはなりません。皆さんは、これがどんなに聖なることなのか、分かっていますか?

 最初は何でしたか? (苦難の路程です)。なぜですか? (世の中の上に立とうとするためです)。世に勝たなければなりません。この世の人々を指導しなければなりません。サタンの上に立たなければならないのですが、このサタン世界が許さないので、神様はしかたなく、その反対の道を行かれたのです。そのために、迫害の道、苦難の道を行かなければならなかったのです。サタンがついてこられないように、関係を結べないようにしなければなりません。そのようにして、引っ繰り返していくのです。

 最上の位置で指導するためには、戦って勝利していかなければなりません。命を懸けて、魂を懸けて勝利の道をとってきたので、神様は宗教を立てて迫害の道を経てきたのです。それゆえ、先生の一生は迫害の道であったということを忘れてはなりません。

 先生が、今まで話したすべてのことは、先生の闘争歴史の目標だったのです。先生は一生をそのように生きたのです。分かりますか? 歓迎を受ける環境を望まなかったのです。勝利すれば、必ず褒めたたえられます。しかし、私は褒めたたえられることを避けてきたのです。なぜかというと、イスラエル民族が環境に吸収されて滅んだからです。今や、統一教会が世界的に歓迎を受けるようになっても、私は、その歓迎の場には出ないのです。その反対の道を行くのです。

 このようにしながら、神様の権威を立ててあげなければなりません。今に、統一家に反対する者はいなくなるのです。今から、二世たちを駆り立てていかなければならないのですが、皆さんには、そこに行くことのできる資格がないということを知らなければなりません。天が指示した目標に向かって、すべてを捨てて直行しようという決意を持たなければなりません。(一九八六・四・一二)

5)み旨の道と進学問題 … 209

 今日、統一教会の三十六家庭から、すべての家庭は、世俗的な風土に習慣化されてしまったのです。「私たちの息子娘を勉強させなければなりません。勉強させなければ出世できません」と、はっきり言うのですが、私はそう思いません。「勉強すれば出世する」と言うけれども、それは間違いです。国をどれだけ愛するか、神様をどれだけ愛するかということが貴いのであり、どれだけ知っているのかということが貴いことではありません。知っているだけではだめなのです。

 神様は、何かを知るために私たちをつくったのではないのです。創造理想は、知識によって成し遂げられるものではありません。それを正しく知らなければなりません。創造理想のみ旨、私たちの理想は、知識によって、権力によって、お金によって成し遂げられるのではありません。それは、愛によって成し遂げられるものなのです。そのことをよく知らなければなりません。皆さんのお父さんお母さんが教えるとおりに、「勉強しなさい。勉強しなさい」と言えば、足でけ飛ばしてしまいなさい。今まで、私は大学院へ行くことを許さなかったのです。天を愛した後で、国を愛した後で、そして自分の氏族を愛した後で、自分の家庭を愛した後で、大学院が必要なのです。皆、そうなっているのです。何のことか分かりますか? これは、確実に知らなければならない内容なのです。(一九八六・四・一二)

 大学を卒業できなかった人たちは、全体が完成する時まですべての力を注いで協助して、その次に学校に行ってもいいのです。分かりますか? 大学院を出た人は立ちなさい。大学院が何ですか! 本来は、先生の息子娘が大学院に行けなければ、皆さんも行けないようになっているのが原理です。そうですか、そうではありませんか? (そうです)。先生の息子娘だから言うのではありません。天の法度がそうなっているのです。先に芽が出てこそ枝が張るのであり、芽が大きくなるので、枝が伸びるのです。芽よりも枝が多ければ、それは滅びてしまうのです。わけもなく先生が話すのではありません。本来の伝統を受け継ぐことのできる先生の息子娘が先に大学院に入れば、皆さんも従っていけるようになっているのです。分かりますか? 皆さんが孝進に、「よく勉強してください」と、激励してあげなければなりません。統一教会の会員はそのような心掛けで協助しなければならないのです。原理がそうなっているのです。

 宗教の中には、高次的な宗教があり、仏教には尼僧がいますし、カトリックには修道女がいますが、彼女たちはなぜ結婚しないのでしょうか? 父母が結婚できなかったのに、子供が結婚することはできないからです。先生が皆さんを学校にやりたくなくて、そのように言っているのではありません。(一九八六・四・一二)

6)二世たちの行くべき道 … 211

 皆さんの中で、出世しようとして勉強する者は、気の狂った者です。皆、記録に残ってしまうのです。そのような人は、大きな峠を越えていけないのです。ヒマラヤ山頂を越えていけないのです。皆つまずいてしまうのです。何のことか分かりますか? 皆さんも同様です。ですから、自分のお父さんお母さんの言葉以上に、先生の言葉を信じなさい。そうでなければ、行くべき地には行き着けないのです。最初は何でしたか? 習慣化されてはいけないということですね。「祝福を受けたので、他人と同じように生きてみよう」と言っても、皆さんには召命があるのです。責任があるのです。カナン復帰をした民族は、イスラエルの国を創建する責任があるのです。国を建てなければなりません。ですから、今年の標語は「天国創建」なのです。

 そして、そのために、私はソウルでの責任を負って堪えているのです。皆は喜べなくても、メンツにこだわることなく、何か月かいたので、今や峠を越えたのです。完全に峠を越えました。そのように、生死の権を懸けて戦っていくのです。先生は一生をそのように生きてきたのです。適当ではだめです。皆さんは皆、適当に生きてきたのでだめなのです。そのことをよく知らなければなりません。習慣化されてはなりません。そこで、神様の愛を中心として探していくのです。私たちは、宇宙の相続権を受けるべき本然の人間として、行くべき道に忙しいのです。その位置で、公認を受けなければならないのです。

 その次は何かというと、イスラエル民族はカナン復帰をしてから滅びたので、皆さんも祝福を受けてから、統一教会の中で滅びるということも起こるのです。なぜかというと、世の中の栄華を望むからです。お金が必要な、知識が必要な異邦人になってはなりません。これは、二つとも滅びる道です。

 その次に、三番目は何でしたか? 最高の苦難の道を行きなさいということです。それゆえ、すべてを捨てて、乞食のような格好で、ふろしきに包んで出ていくのです。そして、国を救うのです。分かりますか? 「夫婦の暗行御使(朝鮮王朝時代に勅命で地方の行政および民情を調査した人)になってみよう」という心が必要なのです。「夫婦の暗行御使」です。いい言葉ですね。

 それで誰が先に立つのかというと、み旨のために生きる者が先に立たなければなりません。「為に生きる者が先に立とう」と言えば、異議はないのです。簡単なことです。これが分からない人は、絶対に成立できないのです。そのような人は、夫であっても、ほおをたたいてでも、引っ張っていかなければなりません。それは、先生も同じです。先生も皆さんと同じなのです。世の習慣性を屈伏させなければなりません。ですから「天宙主管を願う前に、自己主管を完成せよ」という言葉が必要なのです。習慣というのは、どれほど怖いものかしれません。名節(韓国の正月、お盆など)の時になると、よいものを食べたいし、よいものを着たいし、たくさん遊びたくなるのです。

 先生は日本統治の環境下で、勉強して出世しようとして、おうへいに生きる者たちにはついて行かなかったのです。環境には絶対について行かなかったのです。ですから、怨讐の国で獄衣を着て、冷たい監獄に入る身になっても、その道を行こうとしてきたのです。先生の一生は監獄を出たり入ったりすることの戦いでした。先生は苦労の道を自決したのです。それを忘れてはなりません。

 ある日、ある時、先生が「北韓に行きなさい」と言ったとしても、異議があってはなりません。そのような人が必要なのです。そのような人たちがいてこそ、天国創建が可能になるのです。それが、伝統として立てられなくてはなりません。一人ひとりが犠牲になる心が必要です。それは哀れなことだけれども、その人が犠牲になったということで、若い人々に新しい愛国の精神の火をともすようになるのです。この三つを忘れてはなりません。(一九八六・四・一二)

7)お父様が歩まれたみ旨の道 … 213

 先生が皆さんと同じ年齢の時には、絶対に話をしませんでした。自分の行くべき道を探していくことにおいて、道理を明らかにできなくて、自分すら立つことができていないのに、何の話をする必要があるというのでしょう? 私はそのような生活をしてきたのです。私が口を開く日には、天下は私を止めることができないのです。そのような自信を育てていかなくてはなりません。分かりますか? 騒いで、彷徨するような位置では、自信を育てることはできません。根にはなれません。深い根になることはできません。

 ですから、そのような人生行路において、誰よりも苦労したのです。先生は乞食の生活から始めたのです。乞食も救われなければなりません。それで、乞食の父親の役もしたし、肉体労働をする現場に行って、労働者の責任者の役もしてみたし、農夫の役もしてみたし、漁夫の役もしてみたし、鉱山の仕事もしたし、ほら穴を掘ったりもしたのです。鉱山の坑木を立てることも、全部してきたのです。炭を焼くことまでも皆、習ったのです。なぜかというと、み旨を成すためには、もし私が追われるようになり、山の中に入っても、天の召命に対する責任を果たさなくてはならないという考えを持っていたからです。

 そのように歩んできたので、今日、統一教会の教主になったのです。それは、悪くなったことなのでしょうか、良くなったことなのでしょうか? (良くなられたことです)。良くなることも、簡単ではありません。私には、大変難しかったのです。本当に難しいことでした。しかし、それを誰かがしなければならないのです。私の息子娘の前に、私たちの民族の前に、そのまま残してはならないので、私は難しくても今日までやってきたのです。それで私は、民族に対して涙をたくさん流し、この世界のためにたくさん涙を流したのです。彼らの前に苦労を残していきたくないので、「私がきれいに責任を執ります」と言って、この業をしてきたのです。そうして、世界統一国の宣布まで成してきたのです。今や、私は死んでも、天の国に行っても、「お前は責任を果たさなかった」と言われないようになっているのです。分かりますか、何のことか? 先生は人間として成功したのです。

 人類歴史は二百五十万年、一千万年と見なされているのですが、堕落したことが分からなくて、今日まで収拾できなかったのです。しかし先生の時代において、四十年の中で四千年の歴史を全部、引っ繰り返して、隅々まで全部つくろって、根源から、心情のその行き違った道まで全部正しておいて、人類の解放圏まで提示しました。そうすることによって、神様がこの地上に君臨されて天国を建設できる、そのような道理を開くことができたという事実は夢のような話なのです。嘘のような話ですが、これが事実なのです。ですから、皆さんはそのような恵みの位置にいるということを、よく知らなくてはなりません。分かりましたか? (はい)。(一九八八・一〇・一六)

第四節 二世の祝福と夫婦の道 … 216

 一 男女の真なる愛観 … 216

1)神が天地万物を創造された動機 … 216

 神様に必要なものは何でしょうか? 神様には、お金も必要ないし、知識も必要ありません。神様に、何の知識が必要でしょうか? 私が神様の前で、「私は知識が多くて、博物学博士です」と言った時、神様は何と言われるでしょうか? 素晴らしいと言われるでしょうか、意地汚いと言われるでしょうか? 私たちに、誇れるものは何もありません。神様は真理の王であり、知識の王です。また、「私は、ある国の大統領をしてきました」と言えば、「この者め」と言われるのです。神様の前で、大統領の権威を認めてほしいというのですが、それは、神様がいつも持っているものです。神様に必要なものは何かというと、お金でもないし、知識でもないし、権力でもないのです。必要なものは、愛だというのです。(一九八九・一・六)

 では、神様が天地万物を創造するようになった動機は何でしょうか? 根本的な問題に入ります。天地万物を創造するようになった動機は、何のためだったのでしょうか? 神様は、すべてのものの王であられるのに、一つだけ欠けているものがあるのです。神様には一つだけないものがあるのです。あるにはあるのですが、使用することのできないものがあるのです。それは何かというと、愛なのです。心に愛はあるのですが、使うことができないのです。触って、つねって、かみちぎって、ののしって、刺激を与えたいのに、それができないのです。皆さんもそうでしょう? 何かよい物があれば、後ろを見て、前を見て、開けてみたいのです。知りたいのです。ところが愛だけは、神様一人ではどうにもできないのです。これが問題なのです。

 神様はとても退屈だったというのです。神様のことを考えてみてください。何億、何万年、ひとりで「ああ、天下に万有の大主宰の御座に座っているのでうれしい」と言って、じっとしているでしょうか? それほど惨めなことはないのです。それほど、やり切れないことはありません。皆さんも友達がいなければ、もの寂しいでしょう?(一九八八・一〇・一六)

2)宇宙をペアシステムでつくられた理由 … 217

 神様の愛を中心として、愛し合おうとすれば、この宇宙はどのようにならなければならないのでしょうか? 神様だけを愛していてはいけないので、この宇宙も全部、ペアシステムでつくったのです。理論的なのです。それで鉱物世界もペアになっているのです。

 皆さん、「それは違う」と言えないのです。例えば、水晶の結晶体はどのようにできるのかというと、くっついて、くっついて、くっついて、ペア同士がくっついて、相対的概念が連結されて、拡大されていくのです。そのような作用をするのです。皆さんの目には見えないのですが、皆そのように作用をしているのです。

 ですから、宇宙はどのように生じたのかというと、愛の概念を標準としてつくられたので、すべてのものは、その愛の前に和動することができるようになっているのです。そのためには、主体・対象関係でなければならないのです。ひとりでは愛することができないのです。分かりますか?

 したがって主体・対象の概念を中心として、愛で連結されるために、全宇宙はペアシステムになっているのです。それは正しいことですか、間違っていることですか? (正しいことです)。鉱物世界も皆ペアになっています。異なるペアのものに、神様が「おい、お前。こっちに来て、これとくっつきなさい」と言っても、その命令は聞けないのです。それは、神様にもできないことです。このような原則がしっかりと立っているのです。

 真の愛の理想とは、必ず与えて受けることのできる素性の内性と外形が和合する因縁に従わなければなりません。それができないままで作動をするということは、それ自体が消耗することなのです。損失です。ですから宇宙はペアシステムになっているという事実を見た時、先生の言うことは理論的なのです。天地創造は愛というタイトルを中心としてできたので、すべてのものがそうだということは理論的なのです。分かりますか、分かりませんか? (分かります)。このようなことを皆、整理しておかなければなりません。(一九八八・一〇・一六)

 動物たちも皆同じです。最近の秋は、霜も降りないので、昼間山にでも登って昼寝などしてみなさい。変わった虫の声が聞こえてくるのです。オーケストラのような声が聞こえてくるのです。さまざまな種類の昆虫の鳴き声が皆、聞こえてくるのです。「ピッ」と言う虫もいれば、「チェッ、チィ、チェッ」と言う虫、すべてが和音になっているのです。そのオーケストラは、人間のものとは違うのです。この前、『ニューヨーク・シンフォニー・オーケストラ』が来ましたが、それは相手にもなりません。それほど、調和をなすのです。それは、相対を探して、相対と楽しんだりする和動の音楽なのです。額を突き合わせたり、足をこすり合わせながら歌うのです。そういうことを知っていますか? インコなども、そのようにするのです。

 では、なぜそのようになっているのでしょうか? それは、神様が愛というタイトルを中心として、天地万物をつくられたからです。そうでなければ、神様は気持ちが悪いというのです。「人間は相対同士で、愛し合って喜んでいるのに、私は何だ!」と言われるのです。神様は知恵の王様であられるので、それをすべて分かっておられて、微生物をはじめとしてすべての動物をペアとしてつくられたのです。そして、その世界で永生を歌うことができる愛を中心として、存続するのが宇宙なのです。(一九八八・一〇・一六)

3)男性と女性が生まれた理由 … 219

 自分を知らなければなりません。自分が誰なのかというと、縦的な神様を中心とした愛の継承者であり、横的な真の父母の愛を中心とした愛の継承者であり、その結実体として生まれたのです。そういう存在でなければならないのです。しかし今日の人間たちは、体と心が自動的に九〇度の角度で一つになって生まれることができないのです。それは堕落したために、サタンの血統を通して生まれたからです。

 サタンとは、何かというと、アダムとエバを保護することができずに、相対理想を破壊させた存在なのです。神様に反発した存在です。分かりますか? 宇宙力で保護されていたのに、それを侵犯して、奪っていったのです。神様の本質的な愛の前に、また違うプラスとして登場して、二律背反的な立場になったのです。そのために、体と心が永遠の歴史の怨讐となって戦い続けているのです。

 これを除去することが、宗教の使命なのです。宗教はそのような真理が分からなければ、解放されないのです。理論的にすべてのことを悟って、それを解明してこそ、実体的社会環境に存在性を付与できるのです。理論に合っていない存在性は残らないのです。分かりますか? (はい)。ですから、愛の道を探していかなければならない人間であることを知らなければなりません。

 それでは、女性はなぜ生まれたのでしょうか? 誰のために生まれたのでしょうか? 人間とは何でしょうか? 人間といえば、男性と女性がいるのですが、男性は何であり、女性は何なのでしょうか? なぜ生まれたのですか? 皆さんは、女性として生まれたことを嘆いたでしょう。「男性として生まれれば良かったのに、なぜ女性に生まれたのか」と言って、嘆きませんでしたか? それは心配するにはおよびません。

 男性が外に出かけていって、あらゆるものをつかんで帰って来た時に、誇ることのできる対象は誰でしょうか? 平面的に誇れる人は妻しかいないのです。そのように、考えなければなりません。男性は東西南北を歩き回って、春夏秋冬の四季を通して自分が何かを得たり、何かを成したりした時にはそれを妻に全部あげるのです。分かりますか? 男性が収穫したものを守ることのできる主人は女性なのです。あらゆる収穫の後には愛までも持ってきて与えようとするのです。それを女性は受けるのです。

 お嫁に行く女性に、「あなたは、どうしてお嫁に行くのですか?」と尋ねると、愛されるために行くと言うのです。愛するために行くという言葉は、聞いたことがありません。そのような言葉は活動時代をいうことなのです。しかし、女性は愛されると同時に、背後で愛さなければなりません。球形なので、男性がプラスのほうから来たならば、女性は、マイナスのほうから返してあげなければなりません。そのように返してあげれば、愛を中心として生命が回るのです。

 そのために、夫の生死の権を念慮して、「アイゴー、永遠にそのままでいてください。アイゴー、丈夫でいてください」と言うのです。自分は食べなくても、夫が健康であることを願い、背後から支えてあげなければならないというのです。分かりますか、何のことか? 背後から支えていくということを考えなければなりません。

 男性も愛を中心として、妻の背後から支えていかなければならないし、女性も夫の背後から支えていかなければなりません。そうすれば、球形が生じるのです。球形の中で包括された夫婦としてのみ、九〇度を中心として中央線の近くに立つことができるのです。このように見た時、男性と女性が、なぜ生まれたのかという問題の答えは、簡単なのです。男性は女性のために生まれたのです。簡単なのです。

 喧嘩するために生まれたのですか、好きになるために生まれたのですか? (好きになるために生まれました)。好きになるためにですね。では、どれだけ好きになるのでしょうか? 知識とか物質が問題ではありません。環境的な他のことが問題ではないのです。愛する妻のことを考える時は、皆許してあげることができるのです。愛する夫のことを考える時は、どんなことがあっても腹を立ててはいけないのです。腹を立てたとしても、球形を外れてはいけないのです。分かりますか? (はい)。初めて目を合わせた時の因縁を尊重視しなければなりません。そこから外れると、宇宙から追放されるのです。(一九八九・一・六)

4)先に花が香りを漂わせる … 222

 さあ、女性たちは男性について歩き回らなければならないでしょうか、男性たちが女性について歩き回らなければならないでしょうか? (男性です)。(笑い)生理的に見れば、女性が早く成熟しますか、男性が早く成熟しますか? (女性です)。女性が早く成熟するので、男性は何も分かりません。それゆえ、堕落する時は、男性は無感覚的なのです。ですから女性たちが、男性よりも先に臭いを漂わせるのです。

 花が先に香りを漂わせますか、蝶々が先に飛び始めますか? (花です)。(笑い)花が香りを漂わせるようになれば、蝶々が飛ぶのです。これは、女性と同じことです。天地の道理がそうなっているのです。女性が十五、六歳になれば、「アイゴー、どこにいるのかしら?」と言って大変です。(一九八九・一・六)

5)愛は最短距離を通るもの … 223

 愛は、神様も好きでしょう? (はい)。好きなのか好きでないのか、分かりますか? そのようなことを感じたことがありますか、体験したことがありますか? 霊的な神様は、愛が好きなのかどうか分かりますか? それを実感しましたか? 例えば、電気の線があるとすれば、電気が通ることが分かりますか、誰にでも分かりますか? (分かりません)。電気の器械で計れば、よく分かるのです。感応で分かるのです。でなければ、分かりません。そのようになっているのです。見えない電気を現象的に感じることができるということは、本性的に通じる刺激を感じることができるということです。愛も同じなのです。もし、皆さんが堕落しなかったならば、神様が悲しまれると、皆さんも自然に悲しくなるし、神様が喜ばれると、皆さんも自然にうれしくなるのです。

 愛が恋しくて泣く人の話を聞くと、胸がじーんとしてくるでしょう? (はい)。それは、なぜでしょうか? 皆さんがそのような要素を持っているからなのです。共通性を持っているのです。それゆえ、愛をかき抱いて、人類に対して神様が泣いておられるのならば、人間はその神様をけ飛ばしてしまうのでしょうか、歓迎するのでしょうか? どうですか、どうしますか? け飛ばすのですか? (違います)。

 このように見た時、神様が愛以外で泣かれれば人々は皆、否定するかもしれないのですが、神様が愛を中心として、恋しくて、愛の目的を達成できなくて悲しく切なく思う時には、あらゆる万物が同情し、そこに皆協助しようとするのです。それは、愛が作用する世界の道理なのです。これは永遠に不変なのです。より大きな愛を中心として、気が狂うように恋しい心を持って喘ぐ人は、その環境を動かすのです。国が動き、家庭が動き、世界が動くのです。(一九八九・一・六)

 私たち人間は縦横の道理を中心として、縦的には天と地を連結し、横的には国から世界へ連結して、全体的に回るのです。先生も同じです。昔、世界まで行く時には反対されたのですが、帰ってくる時には歓迎を受けたのです。そのように循環するのです。ですから、天地の度数に合うというのです。神様がそのように動かれたし、先生もそのように縦横に動いたのです。

 それでは、どこで結ばれるのでしょうか? どこで、そのように括られるのかというのです。角度はどうして九〇度なのかというと、愛は最短距離を通るからです。そこで、男性と女性は横的な代表者であると同時に、互いに行く道は一つだけしかありません。絶対に一つです。二つはありません。なぜならば、愛は最短距離を通るので、九〇度に合わせなければならないからです。そうですか、そうではありませんか? (そうです)。垂直と水平が愛を中心として、最短距離を通るために、九〇度の他は必要ないというのです。九〇度でなければならないということは、理論的にも正しい結論なのです。(一九八九・一・六)

 垂直は、絶対と連結されます。愛の宿ることのできる所がなぜ垂直なのかという、それが問題なのです。ですから、質問することも多いのです。それらを後で皆、処理しなければなりません。

 なぜ垂直でなければならないのかというと、愛は一番近い距離を通るからです。それは簡単なことですが、大切なことなのです。なぜ愛は垂直にならなければならないのかということが問題なのです。なぜ水平になり、平衡にならなければならないのでしょうか? 愛を中心として垂直になろうとすれば、愛は最短距離を通らなければなりません。

 愛する人を訪ねていく時には、隣近所の村を訪ねていくみたいに、そろそろと行きますか? まっすぐ矢のように直行しますか? (直行します)。直行してみたのですか? (笑い)夜であろうと昼であろうと関係なく、春夏秋冬、どんなに歴史が長いといっても、愛は一番の最短距離を通ろうとします。何のことか分かりますか?

 愛は、なぜ垂直なのでしょうか? 縦的に一番近い距離は何ですか? 一番上にある愛が一番近い所になくてはならないので、そのように上下で連結するのです。それゆえ、愛だけは万有において最短距離で通じるようになっているのです。ですから、上にいるものが下に降りてくる時には、最短距離で降りてくるのです。それが垂直なのです。(一九八九・一・六)

6)愛は円形を描きながら大きくなっていく … 225

 また、愛は円形を描いて進んでいくのです。だんだん小さくなるのではなく、だんだん大きくなっていかなければなりません。愛は大きくなっていかなければならないので、個人的愛よりも、家庭的愛を追求するのです。皆さんもそうでしょう? 個人的愛よりも、家庭的愛を追求するのです。そのためには、自分の家庭だけではだめなのです。氏族が必要なのです。氏族が必要なので、螺旋形に拡大運動をしながら発展するのです。

 統一教会では、これを「個人は家庭のために」と言うのです。なぜかというと、大きな愛の世界を連結させようとするからです。国は世界のために、世界は天宙のために、天宙は神様のために、神様は愛のために。神様は、愛のために現れたのです。

 それゆえ、この地のすべての存在は愛に吸収されようとするのです。人もそうです。夫と妻とが共に暮らすようになる時、夫がとても愛してくれるのですが、それよりも、もっと強い愛があったとすれば、それにくっついて行くのです。もっと大きい愛を持てば、夫婦同士でも離すことができるのです。愛国心に燃え、世界を中心として、すべてを抱くことのできる愛の世界があるということを知るようになる時は、家庭を捨てて出ていくのです。それは悪いことではありません。妻がしがみついて、「私と暮らしてください」と言って、いくら泣きわめいても、大きな愛のためには、妻もけ飛ばして、子供たちもけ飛ばすのです。その大きな愛に従って出ていく人々が、神側により近いので、それを善だというのです。何のことか分かりますか?

 これらを比較してみた時、皆さんはどんなものを手に入れたいですか? 小さいものを手に入れたいですか、大きいものを手に入れたいですか? (大きいものを手に入れたいです)。小さいものを手に入れたいと言う人はいません。また、良いものを手に入れたいですか、悪いものを手に入れたいですか? 悪いものを手に入れようという者はいません。これは、万民の共通的な概念なのです。所有的な概念なのです。それは平等です。何を中心として平準化させるのかというと、愛のみができることなのです。赤ちゃんに対するアメリカの母親の愛は、韓国人の母親の愛と違っていますか? 本質においては同じなのです。ゆえに、統一という概念は愛でなければ難しいのです。

 それでは、アメリカの男性と女性と、東洋の男性と女性が愛することは同じだと思いますか、違いますか? ある女性がアメリカにいる夫が恋しくて、流す涙がまだらになっているでしょうか、純情の光で白くなっているでしょうか? 同じなのです。東洋人の妻が、夫を慕って流す涙も、西洋人の妻が夫を慕って流す涙も、その光は同じなのです。味をみても、塩からいものは全部塩からく、甘いものは全部甘いのです。そうですね? 一色なのです。一色という言葉は不変なのです。(一九八九・一・六)

二 真なる結婚観と理想相対 … 227

1)男性と女性が生まれて結婚する目的 … 227

 女性はなぜ生まれたのでしょうか? 女性のために生まれたのでしょうか? 先生は何と教えているのですか? 女性が生まれたのは、何のためですか? (男性のためです)。では、男性は何のために生まれたのですか? (女性のためです)。そのとおりです。今日まで、人間はどうして生まれたのか分からなかったのです。簡単なことが分からなかったのです。神様がなぜアダムとエバをつくられたのかというと、男性の愛、女性の愛が恋しくてつくられたのです。ですから、神様の愛は、人間を通りこして探すことはできないのです。猿に対して、愛を求めることができるでしょうか? 人間しかいないのです。

 愛は、一人では成し遂げられません。相対関係で成し遂げられるものなのです。そのために神様が天地創造をされたことも、相対圏をつくって、相対的環境を私たち人間に提示するためなのです。それゆえ、すべての自然は愛の展示場なのです。主人になるためのアダムとエバを中心として、東西南北を眺めた時に、すべての存在が皆教材となるのです。何の教材かというと、愛の教材なのです。

 植物も皆、相対的与件であり、動物も、昆虫も、すべてが相対的に、アダムとエバに理想的な愛の道を教えるための博物館なのです。愛のための、愛を教える自然博物館になっているのです。誰のためかというと、アダムとエバのためです。それゆえ、自然を愛することのできない人は、人を愛することができません。人を愛することのできない人は、家庭を持つことができません。

 神様の前に、なぜアダムをつくったのかと尋ねてみると、もちろん、神様のためでもあるのですが、神様の愛する娘のためにつくったというのです。そうですね? ですから、男性は何のために生まれたのかというと、女性のために生まれたということになるのです。分かりますか? もっと追求すれば、神様が見て、愛するエバのためにアダムをつくったというのです。それはどういうことかというと、アダムはエバのために生まれたというのです。そういうことです。

 同じ道理によって、AがBであるならば、BがAであることと同様に、神様はなぜエバをつくったのかというと、アダムを愛することのできる女性が必要だからです。そして、なぜ女性をつくったのかというと、アダムのゆえにつくられたのです。ですから、二人互いに入れ替わって生まれたのです。それで、アダムの愛というものはエバが持っており、エバの愛というものはアダムが持っているのです。皆さんの至聖所は、自分のものではないということです。簡単なことです。

 先生が今まで祈祷して調べて、その問題が分かってみると、簡単な内容なのです。女性はなぜお嫁に行こうとするのかというと、自分の主人を探し出すためなのです。その主人が誰かというと、男性なのです。また、男性はどうして妻をもらおうとするのかというと、自分の主人を探し出すためなのです。互いに入れ替わらなければ、主人を探し出すことができないので、愛というものを中心として、必ず男性と女性は一つにならなければならないということです。(一九八六・四・八)

2)統一教会の真なる結婚観 … 229

 堕落した世界において、愛というものは危険なものです。エデンの園では、アダムとエバしかいなかったのです。女性はエバしかいなかったのです。しかし、この堕落した世界には、いくらでも女性がいるのです。その女性たちが皆、夜昼なしに男性たちを誘い出そうとして大騒ぎしているのです。ですから、男性たちは自分の立場を守っていくことがどれほど大変なことでしょうか? また、それは女性たちも同じなのです。

 それゆえ、結婚した後に、男性は他の女性と会うべきではないのです。分かりますか? では、他の女性たちに、どのように対すべきなのでしょうか? キャンキャン騒ぐ隣の犬のように対しなさいというのです。自分の妻は人間であり、他の女性たちは何と同じように対すべきですか? (隣の犬のようにです)。また、女性たちは自分の夫以外の男性は皆、何だと思えばいいのでしょうか? (隣の犬です)。

 ですから、結婚した後は、必ず二人がくっついていなければならないのです。堕落とは、管理を誤ったことなのです。妻が夫を上手に管理できなかったからであり、夫が妻を上手に管理できなかったからなのです。また、自分だけの夫として、自分だけの妻として絶対視することができるような教育をされていなかったからです。そのような愛で愛せなかったのです。

 質問(しかし、個性完成しておいて、祝福を受ける程度であれば、管理をしなくても自律的に全部できなければならないのではないでしょうか?)。

 今の個性完成は、絶対的な全体個性完成になっていないのです。条件完成なのです。復帰過程での条件完成であることを知らなければなりません。分かりますか? ですから、彼らは父母の位置には立っていても、神様の心情圏というものが分からないのです。自分の妻は全宇宙を得ても替えることができないものであり、夫は全宇宙をもらっても替えることができないものであり、二人が愛し合うところに、天地をつかむことのできる偉大な力があるということを、体験できていないのです。

 そのために、今まで祝福してあげた家庭は、この堕落圏を通り過ぎる時まで、条件完成圏内に立っているということを知らなくてはなりません。分かりますか、何のことか? 今までの祝福は、天国完成圏ではないのです。条件完成圏なのです。条件完成圏にいるために、霊界に行く時は、別の手続きをしなければならないのです。その手続きを経て、完成した者がパスポートをもらって天国に入っていくのです。(一九八六・三・二一)

3)結婚と結婚の適齢期 … 231

 質問(学生たちが恥ずかしがって、進んで質問をすることができないので、私が代わってお伺いします。私たちは何歳くらいになれば、結婚することができるのでしょうか? また、結婚することのできる資格と要件は何でしょうか?)。

 結婚は早くすることもできます。早く結婚することもできますが、早く結婚すれば、支障も多いのです。それは、まだ皆さんには分からないことです。お嫁さんをもらえば、いくら勉強しようと決心しても、勉強ができないというのです。もし高等学校を卒業して、すぐにお嫁さんをもらえば、大学の勉強をしようとしても、勉強ができないというのです。分かりますか? 「私は大学を卒業して、大学院に行って、さらに博士コースを行かなければならない」という考えを持っていても、博士コースに行くのは本当に大変なのです。博士コースを勉強した後でお嫁さんをもらうよりも、お嫁さんをもらってから博士コースに行くことは、恐らく四、五倍は大変でしょう。それは何のことかというと、博士コースを勉強する前に結婚すれば、博士ということとは、永遠に関係がなくなってしまうということなのです。何のことか分かりますか? ですから、結婚というのは、すべてのことの実りであるというのです。

 また、結婚後に、勉強しなければならないからといって、妻をほっておけば、副作用が大きいのです。妻がじっとしていないのです。ひたすら、「愛するあなた、私は博士など必要ありません。早く帰ってきてください」と言うのです。また、そこに赤ちゃんでも生まれるようになると、ますます複雑になるのです。男性たちがそのような考えを持つことは、責任感がないからです。いいかげんな男性が、そんな考えをするのです。いったん結婚すれば、きちんと責任を持たなければなりません。妻に対して一生の間、責任を持たなければならないのです。さらに、赤ちゃんが生まれれば、赤ちゃんに対しても責任を持たなければなりません。そのような責任感が必要なのです。

 それは、誰かが同調することはできないし、誰かに協助を受けることもできないのです。そうでしょう? 結婚して、誰に同調を受けることができますか? 誰に協助を受けることができますか? 二人がお互いに共同責任を負わなければならないのです。そのようになれば、その中に何かの付属物が入ってくることを嫌がるのです。勉強も嫌になるのです。ですから、結婚する前にすべてのことを成しておかなければなりません。

 高等学校を卒業すると何歳になりますか? 十七、八歳になるでしょう? (十九歳です)。十九歳? 十九歳に結婚してみなさい。そんな人は、どの職場に行っても受け入れてくれないのです。十九歳から赤ちゃんを生むようになれば、どんなにたくさん赤ちゃんを生むようになることでしょうか? 今の韓国の実情から見た時に、高等学校を出てすぐに結婚したといえば、世間では良い人として見なすでしょうか、ふつつか者だと見なすでしょうか? それは間違いなく、恋愛結婚をしたのに違いないと見るのです。そのようになれば、どこに行っても就職の道がふさがってしまうのです。

 結婚できる原理的な資格は、二十一歳を超えなければなりません。女性は、十八歳以上は可能だけれど、男性は二十一歳を超えなければならないのです。ですから、お嫁さんをもらうという考えは、初めからやめて、自分が何を成すべきかということを定めて、死ぬほど努力をして、十年かかることも五年の間にやってしまうのです。博士コースに行こうとすれば、大学を二十一歳に出たならば、二十五歳から二十八歳までは努力しなければなりません。他の人々が二十八歳までかかることを、約二年の間にやってしまいなさいというのです。二十四時間勉強すればできるのです。方法はそれしかありません。

 ですから、皆さんが早く結婚したければ、今から熱心に勉強しなければなりません。中、高等学校を卒業することも、六年間かけるのではなく、検定考査にパスして、二年間でやってしまうのです。次に、大学コースもそのようにするのです。大学コースも国家試験にパスするようになれば、約二年で卒業できるのです。その次に、博士コースがあるのです。

 自分で研究すれば、博士学位も取ることができるのです。このように勉強して努力すれば、時間も短縮できて、すべてのことも解決できます。学校に通う時に、遊んだりしていては、中、高等学校で六年、大学で四年、その次に大学院で二年、博士コースで二年半、ないし三年かかり、失敗すれば五年もかかるというのであれば、三十歳過ぎてもだめなのです。そういう人は、三十歳を過ぎても結婚することはできないということなのです。「私は目的を達成するまでは、結婚しません」と言って、男たちは決意しなければなりません。(一九七八・一〇・九)

4)責任分担と理想相対 … 233

 皆さんは責任分担が重要なことを知らなければなりません。神様がアダムに対して、責任分担の重要性を、先生のように説明してくださったならば、アダムは堕落しなかったことでしょう。「この者よ。取って食べてはならない。責任分担だ、責任分担だ!」と、夜も昼も人間に対して、責任分担の大切さを叫んだならば、堕落はしなかったことでしょう。

 そうですね。じっと見てみると、あなたは学校に通うのも大変苦労してるようだし、私は体格のよい夫をもらわないといけないと考えているでしょう。夫は体格がよくて、背が高くないといけないと思っているでしょう。けちであったり、背が低ければだめと思っているでしょう。ですから、私は一番背が低い夫を選んであげようと思うのです。それが、蕩減復帰なのです。蕩減復帰するためにもそうするのです。背の低い男性は背の高い女性をもらったら恨みが晴れるでしょう。やせている女性は太っている男性をもらえば恨みが晴れるでしょう。

 東と西とは正反対なのですが、センターがあるので、一致できるのです。センターがなければ、永遠に一致することはできません。センターはお父様です。お父様を中心として、東西南北はいつでも一致できるのです。もし、お父様を中心とするセンターがなければ、永遠に一致することができないのです。

 先生を中心とすれば、男性が東であれ、女性が西であれ、東西は一致しなければならず、南北も皆、一致しなければならないのです。「私は一致しません」と言うことはできません。東西は、センターが決定するのです。

 東西がセンターを決定するのでしょうか、センターが東西を決定するのでしょうか? 原理的に見た時に、どちらでしょうか? (センターが東西を決定します)。センターのゆえに東西ができるのです。センターのために東西南北が生じるのです。センターのゆえに三六〇度が生じるのです。東のゆえに西が生じ、東西のゆえに三六〇度が生じるのではありません。センターのゆえに生じるのです。センターを保護するために生じるのです。その定義を確実に下さなければなりません。センターは一つしかありません。ですから、私が決定しなければならないのです。

 エデンの園のセンターは誰でしょうか? 神様がセンターなのです。その時、そこにはアダムとエバの二人しかいなかったのです。もし、その時エバが失敗をして、片目になったならばどうなっていたでしょうか? 串のようなもので目を刺したならば、目が見えなくなっていたでしょうか、いなかったでしょうか? エデンの園で神様がご加護をくださって、だめにならないと思いますか? 違います。自分の手で目を刺せば、目が見えなくなるのです。串が目に刺されば、当然目は見えなくなるのです。二つの目が見えなくなった時には、盲になるのです。

 そうだからといって、アダムが言うには「神様、本来の創造理想から見た時に、目が二つあってこそ、私の理想的相対なのに、二つの目がつぶれて盲になってしまったので、もう一度創造してください」。それは可能でしょうか? その盲が自分の妹であると同時に妻になるのです。また、アダムはエバに対し、お兄さんであると同時に夫になるのです。ですから、好きでも嫌いでも、盲の妹と一緒に暮らしながら、導いてあげなければならないのが兄の責任であり、夫の責任なのです。    (一九八四・七・一〇)

 この女の子は一番悪いものだけ皆、持っているのです。お父さんとお母さんがとても批判的なので、「これはどうの、あれはどうの、目も格好悪い、鼻も格好悪い、耳も格好悪い。アイゴー、体も格好悪い。アイゴー、乞食よりも悪いよ!」と言いながら、とても批判的なのです。ですから、何を見ても批判的でないタイプの人を選んであげようと思うのです。先生の話が何か分かりましたか? 先生がどんな男性を選んであげても、ちゃんと従っていくことです。

 愛の道は宇宙が歓迎する道なのですが、自分を中心として宇宙が歓迎するでしょうか? 答えてください。皆さんどうですか? 愛の道とは何かというと、宇宙が歓迎する道だというのです。自分を中心とすれば、宇宙が歓迎するでしょうか? それは、権力をもってはできないのです。為に生きる位置に立たなければなりません。男性が一人の女性に会った時、その姿が問題ではなく、何が問題なのかというと、心がけが問題なのです。                           (一九八四・七・八)

 人は、春夏秋冬と季節が異なるように皆、違うのです。北のほうが秋であれば、南のほうは夏なのです。また南のほうが秋になれば、北のほうが夏になるのです。

 ですから、生まれる時、夏の季節に生まれた人もいるし、秋の季節に生まれた人もいるし、冬の季節に生まれた人もいるし、春の季節に生まれた人もいるのです。春の季節に生まれた人は、夏を通らないといけないし、冬に生まれた人は春について行かなければならないのです。行く方向が違うのです。地球が回るので、行くべき方向が違ってくるのです。ある人は昇っていく運勢を行かなければならず、ある人は降りていく運勢を行かなければならないのです。分かりますか? ところが、降りていく運勢の人が、降りていく人と出会えば、二人ともめちゃくちゃになるのです。交通事故が起きて、二人とも死ぬようなことが起こるのです。ですから、降りていく運勢の男性であれば、苦労しないで昇っていくことのできる運勢の女性をもらわなければなりません。

 そのように、出会わなければならないのです。しかし初めは合わないので、約三年、四年かけて合わさなければならないのです。三年、四年の間に春夏秋冬が入れ替わるのです。(先生が黒板を使って説明される)これ(A)が、春から出発したのです。これ(B)がここから出発したのです。これが秋の季節で出発したのならば、これは(AかB)早くついて回らなければならないのです。ですから、二人のうち誰か一人はついて行って合わせなければならないのです。どちらかが合わせなくてはならないのです。そのような過程が皆、残っているのです。

 皆さんは、自分の生まれた天性が何の季節に符合しているか分かりますか? 降りていく季節なのか、昇っていく季節なのか? それでなければ、横切っていく季節なのか、相対型なのか、反対型なのか?  これが全部違うのです。それを初めに合わせて行かなければならないのです。それを合わせることは、数か月ではできないのです。約三年間はつかまえていないといけません。三年の間は合わさなければなりません。そのような運命の道を開拓しなければならない道が残っているのです。皆さんが結婚したからといって、それで済むことではないのです。

 また、動物を見た場合は、ライオンと猪は結婚していいでしょうか? だめなのです。猪は猪と結婚しなければならないのです。猪は地面を掘ることのできる鼻を持って生まれており、山の葛の根を掘って食べるのです。しかしライオンは、くぼみや葛のつるを探していくことはしません。山の頂上に登っていって、行ったり来たりする獣たちを獲て食べるのです。そこが違うのです。それぞれに行く道が違うというのです。

 本当に結婚が問題なのです。結婚を正しくしないといけないのです。何のことか分かりますか? 道端で会った人が、よく見えるからといって、結婚すれば長くは続かないのです。皆さんの目は、全部夏なので青く見えるのです。青い木があり、美しい実があって、カラスやカササギが飛び回っているのでよく見えるのです。誰もその木が、何の木なのか知らずに、接ぎ木してしまえばおしまいなのです。松の木は、松の木同士で接ぎ木しなければなりません。すべてに分科の境界線があるのです。(一九八二・一〇・二〇)

5)理想相対に会う前の責任 … 238

 理想相対というのは、後日のことです。まず、自らを考えなければなりません。自分がどのようにすれば早く完成するのかということが問題なのです。理想相対ということは、相対の世界を連関させることなのですが、まず、自分が完全な主体となるのか、完全なる相対となるのかという決定をしないと、完全な理想相対は生まれてこないのです。ですから先だつ条件、先決問題が何かというと、自分自身が完成するということなのです。

 皆さんが思春期になれば、異性を愛そうとするのですが、それより先に父母をもっと愛したという条件を立てなければならないのです。「孝行息子、孝行娘よ」と言われるようになれば、神様の愛と関係を結べるようになるのです。これが、原理原則です。創造原則なのです。

 理想相対を考える前に、まず自分自らが父母の前に孝行者とならなければなりません。父母が孝子として公認することのできる愛の因縁を持たなければならないのです。そのためには、父母と一つにならなければなりません。孝行をしようとすれば、兄弟同士が一つにならなければなりません。家庭において、誰もが本当に模範だと言う、そんな話が出てこなければなりません。それゆえ、そんな意味で自分が完成しているかということが問題なのです。そうして、それが終わった後に、理想相対が始まるのです。(一九七八・一〇・九)

 皆さんは今が深刻なのですね。分かりますか? 頭だけが大きくなって威張り散らし、道端で女性たちの後をついて回ってはなりません。女性たちはいくらでもいるのです。男性たちもいくらでもいるのです。男性が自分の行くべき道も決定できないで、女性に「首をくくって死んでやる」などと言ってはだめです。そんな人は、全部流れていってゴミ箱にしかなれない人です。先生はそんな過去がなくても皆よく知っている人です。そんなことは全部、分かるというのです。

 男性にとっては、女性が怨讐です。女性にとっては、男性が怨讐です。自分の行くべき道を定めたならば、不人情でなければなりません。ありったけの精力をすべてそこに注いで、早く基盤をつくってから、女性を迎え入れなければなりません。そこで女性は、男性に侍っていかなければなりません。一生は一度しかないのです。もし、この地上世界で誤ってしまったら、大変なことになるのです。(一九八二・一〇・二〇)

6)相対を得る前に自己主管を完成すること … 240

 先生が今までこの道を歩んでくる中で、先生自身の標語が何であったかというと、最初の標語が「宇宙主管を願う前に、自己主管を完成せよ」ということです。相対主管完成ではありません。愛において、欲望ということは大きな問題なのです。自分を中心とする欲望が大きく、自分を立てようとする欲望が大きく、自分を中心として外的世界を支配しようとするけれども、自分を主管することがもっと難しいのです。ですから、宇宙主管を願う前に自己主管を完成することです。これが幼い時から今日まで、先生の立ててきた標語だったのです。分かりますか? 自己主管完成です。

 それでは、自己主管完成に自信がありますか? どんなに自信があると言っても、男性の前に一番恐ろしい破壊分子が女性なのです。分かりますか? 女性の前には、破壊分子は誰ですか? (男性です)。

 皆さんも、十五、六歳になれば、男性が訪ねてくることは嫌ではないでしょう? 男性に対する関心がしょっちゅう起こってくるでしょう? (違います)。それは、嘘です。違うと言っても、一年生の時はそうだけれど、二年生になり、三年生になり、高等学校の一年生になり、二年生になり、三年生になるとそうなるのです。そうなるようになっているのです。ですから皆さんが「違います」と言っても、それは嘘です。

 それでは、女性の皆さんに一つ尋ねてみましょう。男性に見られると、恥ずかしい表情をするでしょう? 皆さん、そのようなことを感じなかったのですか? 男性に見られると、変に恥ずかしくなって胸がドキドキするでしょう? それはどういうことかというと、男性に関心を持っているということなのです。関心を持っていなければ、どうして顔が赤くなるのでしょうか? そういうことなのです。

 自己主管完成において、一番難しいことは寝ないことです。その次は、お腹のすくことです。その次は、愛なのです。その中でも、一番大変なのが愛なのです。御飯を食べることも我慢できるし、寝ることも我慢できるけれど、愛に対する問題は我慢することが難しいのです。

 ですから、東洋思想では、「男女、七歳にして席を同じくせず」という言葉が残っているのです。愛が一番危険なのです。ダイナマイトと同じです。お互いに好きになれば、火がついてパチパチと燃えあがって、爆発してしまい、体がずたずたになって飛んでいき、首が取れてしまうのです。極めて危険なことです。

 皆さんの個人完成において、女性には一番の怨讐が誰かというと、男性なのです。男性にとって一番の怨讐が誰かというと、女性なのです。男性をどうしてアダムだと言うのかというと、「あー塀(ダム)がある」ということなのです。男性に対しては塀を作らなければならないというので、アダムと言うのです。女性はどうしてエバと言うのかというと、エバが堕落したので復帰して完成してこいということなのです。すなわち、「してこい」として、ヘワ(エバ)と言うのです。男性はアダムなので、塀(ダム)をつくって、エバが越えて来られないように高くしておくのです。

 また女性は、絶対にエバのようになってはいけないのです。天使がラッパを吹きながら、「おい、お前、新郎を迎えろ」と言っても、「しません、しません」と言わなければなりません。神様が「あなたは新郎を迎えなさい」と言っても、「しません、しません、しません」と三回まで言っても、それでも、「しなさい」と言えば「あなたは神様ですか?」と尋ねるのです。「もちろんそうだ」と言っても、「私は分かりません。証拠を出してください」と言わなければなりません。そのようにして、夫を迎えるのです。そして、復帰してこなければならないので、ヘワ(エバ)なのです。いつも女性たちが事故の原因になるのです。ですから、理想相対ということは、今の自分とは遠いものであるということを知って、早く自分自身の完成をしなければなりません。

 皆さん、娘さんたち、十七、十八、十九歳になれば、もう体も大きくなったので、美男子と二人、綱でぎゅうぎゅうに縛りつけられて、一つの部屋に入れられたとしても、背中で氷が凍るようでなければなりません。男性が、氷のように冷たく感じて「アイゴー、嫌だ!」と言うようにならなければなりません。「アイゴー、熱い電気が通る!」と言ったらだめなのです。「アイゴー、どうしてこんなに冷たいのか。まるで氷みたいだなあ! これは何だ、これは何だ!」と言うようになってこそ、完成したエバ、あるいは完成したアダムという公認を受けることができるのです。分かりますか? これは大変なことなのです。そのようにして、堕落線を越えて、理想相対を得ることができるのです。原理がそうなっているのです。

 それゆえ、この道を行くようになると、そんなことが多くなるのです。先生も、たくさんそんな経験をしたのです。たくさんの女性たちが霊的に誘惑してきたのです。それも絶世の美人たちです。そんなことがあるのです。必ずあるのです。

 それでは、皆さんが完成したのか、完成できなかったのかということは何によって知ることができるのでしょうか? いくら、体格のいい美男子がいても、無関心でなくてはなりません。また、いくら素敵な美人がいても、無関心でなくてはなりません。「無関心でないとだめだ!」。こうして、それらをパスして、次に「お前は、もうこれだけ勝利すれば、理想相対に対して考えなさい」と言われれば、その時には目をパッチリと開けて、精神をしっかりと持たなければなりません。そして、「さあ、選んでみなさい」と言われた時には、女性の後について回って選ぶのです。

 そこで、合同結婚式をするために、各国から、若い女性や青年たちが皆、集まってくるのです。何千名という人々が集まってくる中で、「お前の好きな人を選んでみなさい」と言われれば、その時は、皆さんの思いのままに選んでもいいのです。それゆえ、先生が「祝福家庭の子女たちは集まりなさい」と言う時まで男性は何でしたか? 女性は何でしたか? 女性はきつねのようであり、男性は狼のようなのですね。これは間違いないのです。(一九七八・一〇・九)

7)人を見る法 … 243

 神様は人を見る時に、まず心を見透して、その次に過去を見て、さらには現在を土台にして未来を見るのです。何のことか分かりますか? 若い皆さんは、これからそんな面を重要視しなければなりません。人を見る時、顔を見て選ぶのではなく、その人の心がどうなのか? その人の過去と現在の生活を中心として未来はどうなのか? というような面を見て、人を選ぶ術を知らなければなりません。

 皆さんは自分の顔を見て、「アイゴー、私のお父さんはどうしてあんなお母さんに会って、私をこんな姿につくったのだろう? この醜いところはお母さんに似たし、この醜いところはお父さんに似たのだなぁ」と言うし、女性たちは「アイゴー、この顔で、どうして外に出られよう」と言いながら、絶望する人も多いのですが、それはよくないことです。

 顔は窓と同じなのです。顔を見ると、何種類に見えるのかというと、四種類に見えるのです。ですから、顔は不細工でも品行を端正にして、厚徳な心を持たなければなりません。神様は、世界を全部引っ繰り返して人を探すとすれば、どんな人を探そうとするのかというと、世界のように大きな人です。目が世界のように大きく、手が世界のように大きければ、どこに行っても歓迎されるのです。心を大きく持てば、調和がとれるのです。ですから、顔よりも心を中心として、徳望の高い心を備えて生きるべきです。

 それでは、皆さんは未来に顔のきれいな妻を迎えますか、心の清い妻を迎えますか? (心の清い人です)。高等学校の学生たちも、中学二年生の学生たちも心の清い人ですか? どうですか? 何ですか? 心の清い人ですか? (はい)。それでいいのです。男性は将来、お嫁さんをもらわないといけないですが、今すぐにお嫁さんをもらうというのではありません。

 女の子たちは、素敵で体格のいい美男子をもらうのでしょうか、心の清い普通の男性をもらうのでしょうか? 心も清く、体格もよければ一番いいのですが、二つともよいわけにはいかないのです。そんな人は、途中で壊れてしまうのです。太陽の出ていない薄暗い日に、風船を浮かせれば、よく昇っていくのですが、太陽の出た日に風船を浮かせると、風船が割れてしまうのです。何のことか分かりますか? それと同じことなのです。

 心が清くて、その次に顔立ちがよければどうなるのかというと、パンと割れてしまうのです。それゆえ、心の清い人は顔立ちが崩れているのです。醜くなくてはならないのです。心の清い人は、少し崩れたところがあってこそ、太陽が出てきても壊れないのです。太陽が出ると、空気が膨張してくるのと同じです。女の子たち、何の話か分かりますか? 人をそのように見る術を知らなければなりません。心も顔立ちもよい人は、パンと割れてしまうというのです。二つとも違うのです。美人は何かというと、美人薄命、美人薄福というのですね。

 さあ、皆さん、目は何を見るのでしょうか? 皆さんの目は顔立ちだけを見るのですが、神様の目は何を見るかというと、心を見るのです。まず心を見て、その次に何を見ますか? (過去です)。過去、現在、未来を観察して、その後で顔立ちを見るのです。その目がそこに合うのか合わないのか、その鼻がそこに合うのか合わないのか、その口がそこに合うのか合わないのかを見るのです。皆さん、口をつぐんでみなさい。口をつぐめば皆、姿が違ってくるのです。それは皆、歴史を表すものであり、伝統を表すことなのです。過去、現在、未来を表すものです。

 それゆえ、独身の男性たちには、これから道を通りすぎる女の子たちを、そんな観点から見なければなりません。スマートな面だけを見てはなりません。スマートな、まくわうりは苦いのです。まくわうりの畑で、まくわうりを取る時、一番きれいだと思うまくわうりは、取ってみると十のうち十が苦いのです。そうなのです。形が歪んで、凸凹しているまくわうりを取ってみると、とても素晴らしいまくわうりが多いのです。この世の道理がそうなっているのです。そのような観点から、人を見なければなりません。

 ですから、顔がきれいで、毎日のように服を着替えて歩き回っている人を見るべきではありません。心を見るべきです。そんな人はトラブルばかり起こして、どこに行っても自分が先だとうとするのです。まるで駄犬たちのようです。よい家の上品な犬は、駄犬たちが皆出そろった後になって、「オッホン」と言って出てくるのです。それがよい家の犬なのです。犬も皆、このように違うのです。ですから、よい服を着て歩き回って、靴を自慢したりして、「私は、昨日、誰それとどこに行ってきたが、面白かった」と言いながら、学校の規則は二の次にして、「私がよければいいでしょう。卒業すればそれまでじゃない」と言う人たちは皆、流れてしまうのです。そんなことを中心として、皆さんは人を評価する術を知らなければなりません。

 それゆえ、顔立ちだけを見てはいけません。格好がいいと思ったならば、八〇パーセントが危険分子なのです。どうです、気分悪いでしょう? 格好のいい人たち、どうですか? そうだからといって、顔立ちがいい人たちは「私は顔立ちがいいとうわさが立ったから・・」と言って、カミソリで顔を切るのではありません。男性たちはそういう考えでなければなりません。女性たちは、格好のいい男性で信仰生活を正しくする人はいません。神様の前に忠臣となる人はいないのです。分かりますか?

 ですから、そういうことを全部評価して、何を見なければならないかというと、心の姿勢がどうなのかということを、まず知るべきです。女性を調べようとすれば、その友達を見て、友達の話、友達の生活全体を見て、「あぁ、そういう種類の女性なのか」と評価するのです。

 その次に、話す時はどうなのかということです。特に学校に行って、友達とどんな態度で話をするのか、どんな表情で話をするのか見るのです。また、運動する時には、活発でなければなりません。そんなことを全部見なければなりません。まず心を見るべきです。

 ですから、ずるくて邪悪な駄犬のような女性たちに、男性たちは注意しなさい! エデンの園でも、男性が誤って堕落したのです。皆さんと同じ年齢の十六歳にです。女性たちが男性を見て、「ピーナツを買ってきて、机に置いて食べる」と言ってひやかしたりもするでしょう? それでも、知らないふりをしていなさい。岩石のようにです。イエス様が磐石だと言ったのは、そういうことなのです。この世の人々が何と言っても、黙々と自分の道を行くべきなのです。自分の定めた道を行こうとすれば、鉄石のように、磐石のように行かなければならないのです。それが男性の道なのです。そのように、皆さんは人々を見る術を知らなければならないのです。分かりますか? スマートなずるい人々は八〇パーセントが流れていってしまうのです。その人たちが、「これから結婚して、息子娘を生むのだ」と言ってきたとしても、期待を持つことはできません。言葉なく未来に向かって生きて、一言を言うにしても、意図のあることを言い、友達に対しても、大義のために自分を犠牲にすることのできる人でなければなりません。

 教室で清掃などをするのを見れば、いっぺんに分かるのです。清掃時間になれば、ほうきを持たないようにと尻込みをして歩き回り、自分は雑巾を持たないようにして、「あなたがしなさい」と言いながら、他の人にさせようとする人がいるのです。さっと見れば、すぐに分かるのです。教室は自分の服と同じなのです。学校を掃除することを自分の仕事のように考えなくてはなりません。このようなことが皆、反映されるのです。顔立ちだけを見てはだめです。

 その次に、道を歩く姿を見ればよく分かります。先生は、その女性が歩く姿を見れば、すぐにどんな人なのかが分かるのです。何のことか分かりますか? あの女性は、男性を何人も経ていくようになるとか、すぐに分かるのです。それゆえ、皆さんは、そのことをよく知って、心の姿勢を正して、修養することによって、精誠を尽くすことによって、過去の歴史が悪くても、現在の環境が悪くても、どんなにでも調整できるし、克服できるのです。ですから、教育が必要であり、師が必要なのです。先生がこうしなさいと言う時、「はい。そうします」と言って実践すれば、どんな運命の道も調整できるのです。素晴らしい先生や素晴らしい友達と交われば、運命の道を調整できるのです。

 人は、誰でも歴史が違うのです。北から南に流れていく歴史を持つ人もいるし、南から北へ、または東西南北、三六〇度それぞれの方向を持って、各自各様の背後の歴史を残していく人たちがいるのです。(一九七八・一〇・八)

 さあ、それでは皆さんが結婚をすれば、どんな人と結婚しますか? 心の姿勢を見て、天地を一つにつくるため、公平で義理堅い心と、愛の心と、知恵の心を持つ人格者であれば、その人の目に障害があってもよいと言わなければならないのです。分かりますか? 女の子たち! 目が一つしかない人でもいいのです。義眼でもいいのです。義足でもいいのです。しかしながら、父が義眼であれば、その息子も義眼の息子になるだろうと思うのですが、そうですか? (違います)。義足である人の息子は、間違いなく義足の息子になるのですか、そうですか? (違います)。

 将来を見通して、千年万年を望むことのできる、そんな余裕のある性稟を持って生きなければなりません。皆さんのような思春期に、そんな心を持って、女性たちは男性たちを皆、観察する術を知らなくてはなりません。このような観点から異性を見れば、あの女性はパスできる人かできない人かということを全部、知ることができるし、男性もパスできる人かどうかを知ることができるのです。(一九七八・一〇・九)

三 結婚と人生 … 249

1)真なる結婚観と家庭観 … 249

 結婚はなぜするのでしょうか? 少し結婚観について話をしましょう。人間はどうして生まれたのか分かりましたか? 人間は、どうして生まれたのかというと、神様の愛のみ旨を成すために生まれたのです。では、結婚はどうしてするのかというと、神様の愛のみ旨を成し遂げるために、神様の願いであり、アダムとエバの願いである息子娘を生んで、四位基台基準をつくり、球形になって、家庭の基礎をつかむためです。家庭に息子娘がいなければ、夫婦同士だけでも横的な基準は立つのですが、縦的基準は立てることができないのです。

 ですから、結婚したすべての夫婦は、息子娘を願うのです。それはなぜかというと、天理の運行法度の力が、そこに作用するからです。皆さん、不思議だとは思いませんか? お嫁に行くとどうして、赤ちゃんを生むことを望むのですか? 女性の立場からいうならば、大変なことなのに、どうしてそんなに苦労してでも生まなければならないのでしょうか? それが分からなかったのです。

 どうして赤ちゃんを生まなければならず、どうして息子を愛さなければならず、どうして娘を愛さなければならず、どうして夫を愛さなければならないのかが分からなかったのです。自分の命を犠牲にしても夫を愛さなければならず、自分の命を犠牲にしても息子娘をどうして愛さなければならないのかということが分からなかったのです。

 それは、宇宙の中心となる神様の愛に接するためであり、神様の愛に接することによって、万事に勝利して、万事を意のままにするためです。愛のゆえに、そうなるということを知らなければなりません。それは、皆さんによってつくられたのではなく、皆さんが願ったことでもないのです。神様の創造の原則がプログラムとして、そうなっていたからです。コンピュータに入力したプログラムは、何百回引き出しても、そのまま出てくるのと同じように、歴史が千年、万年変わっても、そのプロジェクトは皆さんの心に作用して、そのように、力の本性の作用として出てくるのだということを知らなければなりません。それは、確実にです。では、人間はどうして生まれたのでしょうか? (神様の愛のためです)。神様が愛の相対者をつくろうとするからです。では、結婚はどうしてするのでしょうか? それは、球形世界の家庭の形態をつくるためなのです。

 それゆえ、そこには何の愛があるかというと、父母の愛があり、夫婦の愛があり、子女の愛があるのです。神様は、父母の愛を手に入れられなかったし、夫婦の愛を手に入れられなかったし、子女の愛を手に入れられなかったのです。球形の愛を持ってこそ、一つの核を中心として四方にすべて通じるのです。球形は一点を中心として、すべてに通じるのです。この一点が理想的な愛の核なのです。この核を通じて、伸びていった時に、すべてに愛の関係の球形が生まれるのです。ですから、家庭というものは、宇宙を代表する総本部であったのだという結論が出るのです。分かりますか? それが宇宙です。簡単なことです。(一九八四・六・二〇)


2)女性の誇りと特性 … 251

 女性たちは、結婚しないで子女を生むことができますか? 一人で繁殖できるものならばしてみなさい。どうですか? そうしてみますか? 女性は結婚しなければならないのです。本来、人は誰でも結婚しなければならないのです。女性は結婚するために生まれたのです。男性が生まれたのも女性と結婚するためなのです。

 ですから、女性の体を見てみてください。女性の胸が大きくなり、腰が大きくなるのは、自分のためではないのです。赤ちゃんのためにそうなるのです。そうですね? なぜ腰が大きくなるのかというと、赤ちゃんを生むためなのです。腰は赤ちゃんを生むために大きくなるのです。また、胸はなぜ大きくなるのですか? 自分のためにそうなるのではありません。赤ちゃんにお乳を飲ませるためなのです。(一九七八・一〇・九)

 私は、女性が一番たくさんの福を受けたと思います。どうしてそうなのか話してあげましょう。神様が人間をつくられる時、女性を一番最後につくったのです。人が何かの作品をつくる時には、傑作品は一番最後にできるのです。そのような意味で、男性と女性を比較した時、どちらが美しいかというと、女性のほうが美しいのです。そうですか、そうではありませんか? (そうです)。そのとおりです。

 では、動物の中で、鳥などを見ると、雌が美しいですか、雄が美しいですか? (雄です)。それでは、なぜ雄のほうが美しいのですか? (雌に対して、よく見せるためです)。それは、男性も同じです。男性も見た目がよければ、女性によく見えるのです。創造過程がそのようになっているのです。しかし、神様は一番最後に女性をつくったので、空飛ぶ鳥たちと比較して見た時、やはり女性のほうが美しいのです。反対になっているのです。なぜかというと、女性が最後の創造物だからです。それが、女性の誇りなのです。(一九七八・一〇・九)

 では、神様が人間をつくられる時、男性をより愛したでしょうか、女性をより愛したでしょうか? (女性です)。(男性です)。違います。女性をより愛したというのです。なぜかというと、男性は神様の家なのです。ですから、男性は成熟して、思春期ともなれば皆、天下に号令したいし、宇宙を駆け回りながら、すべてに一等を取りたいというのです。孝進もそうでしょう? すべてが一番になりたいのです。そうでしょう? (はい!)。そうなのです。男性には、そのような欲望が大きいのです。

 しかし、女性はそうではありません。女性は、私が世界で一番になろうという考えは持たないのです。一方向の考えしかありません。ある所に行って、安らかに眠りたいし、安らかに頼りたい、そういう性格があるのです。いつか突破して出ていきたい、激しい闘争をしたいという、そのような気質はないのです。ただ、愛されながら暮らしたいし、頼って生きたいというのです。ですから、どこかに行って暮らす時も、ぶら下がって暮らしたいし、その姿は、引っかかって暮らしたいのです。

 ですから、女性は何かかけるのを好むのです。ネックレスのようなものが好きなのは、自分が引っかかって暮らしたいということなのです。また、ちゃらちゃらと、ぶら下がって生きたいというのです。また、何かにはまって生きたいので、指輪をはめて暮らすのです。女性は、どうしてネックレスが好きで、指輪が好きで、イヤリングが好きなのかというと、ぶらさがって生きたいし、はまって生きたいし、そして引っかかって生きたいからなのです。それを好むのです。

 それは何のことかというと、愛を受ける立場が、男性より女性のほうが神様の前に近いのです。また、男性の笑い声と女性の笑い声を聞いてみなさい。男性は「ハッハッハッ」と笑うけれど、女性は「ホッホッホッ」と笑うのです。ご覧なさい。笑う時に、男性は後ろへ反り返るのですが、女性は前に崩れて笑うのです。いくら太っている女性でも、そうやって笑うのです。それをよく観察してみなさい。

 そのように見た時、女性たちはそのような素質を多く持っているのです。それを理解できますか? ですから、神様は男性よりも女性をより愛そうとしたのです。なぜかというと、アダムという男性は、神様の体です。そしてエバという女性は、相対的立場なのです。ですから、アダムが完成すれば、神様がそこに入っていって「やあ、息子よ。大きくなったなあ。エヘン!」と言いながら、女性を愛するのですね。未来の相対者と同じ立場に立ったので、愛するというのです。

 ですから、女性は神様が一番最後につくった傑作品なのです。そして、男性よりも愛される位置にいるのであり、その次に、母親になるのです。母親です。皆さんは、お母さんがいいですか、お父さんがいいですか? (お母さんです)。お父さんが好きですか、お母さんが好きですか? (お母さんです)。(お父さんです)。(二人とも好きです)。二人とも好きには好きだけれども、子供たちはどうかというと、善進を見ても、お父さんとお母さんが同じ場にいる時、私が先においでと言っているのに、笑っているだけでもお母様がいいと、お母様の所に行って私の所には来ないのです。お母様のほうがいいのです。

 女性たちは、赤ちゃんを生まなくてはなりません。赤ちゃんを生まなければならないのです。もちろん、お父さんも赤ちゃんを生むために協助するのですが、赤ちゃんを抱いて育てるのはお母さんなのです。そうですね? このように見た時、赤ちゃんを生んで育てることができるということが貴いのです。(一九七八・一〇・九)

3)結婚と女性の運命 … 254

 女性たちは、いくら勉強をしたとしても、男性に従っていくのです。何のことか分かりますか? どんなに偉くなって、大学を出ていても、今回もそうですが、有名な大学を出た女性も、韓国に来て小学校しか出ていない男性と結婚したのです。女性は夫に従わなくてはならないのです。農村に嫁に行けば、野良仕事をしなくてはなりません。女性がいくら偉くても、夫について行かなければなりません。夫を捨てて行くことはできません。

「ああ、私は大学も出て賢いので、この男性と暮らそう」と言って、自分たちで選んでも、それは、絶対にだめなのです。思いどおりにいかないのです。必ず仲たがいをしてしまうのです。アメリカでは皆、優秀な女性と男性が恋愛結婚しても、何か月もたたないうちに仲たがいをしてしまうのです。どうしてそうなるのか分かりますか? それは、本質的に合わないからなのです。プラス・マイナスが本質的に合わないから、そのようになるのです。

 東西関係が連結すべきなのに、東西関係が二人を排斥するのです。すべてが過程にあるために、押していかなければならないのですが、行けないのです。それゆえ、結婚という問題は、大変なことなのです。夫を迎えることに誤ると、どんなに素晴らしい女性でも、一生の運命が左右されるのです。顔がきれいだからうまくいくとは限らないのです。その人が何の素質を持っていて、どんな方向を持っているのか鑑定できなければならないのに、お互いが分からないのです。それゆえ、先生のような人が必要なのです。先生はさっと見ただけで、合わせてあげられるのです。(一九八二・一〇・二〇)

 女性の運命というものは、いくら勉強をしたからといっても、男性に従っていくことなのです。そのようなことを考えてみましたか? それゆえ、賢い女性ならば、既に分かっていなければならないことです。自分がどんな道を行くのかということと、自分がどんな女性なのかということを知って、どんな男性を相対にすべきなのかを知らなければならないのです。それを考えてみたことがありますか?

 皆さんがいくら留学をしたからといって、それで皆、有名になるのではありません。夫に出会って、そこから夫婦を中心として、家庭をつくっていくことによって、千態万象に分かれるのです。それゆえ、男性は男性として、徹頭徹尾、責任を負わなければならないし、女性は女性として、徹頭徹尾、責任を負わなければならないのです。二人が共に責任を負う立場で、一人がだめになったとしても、もう一人が半分の責任を負いながら引っ張っていかなければなりません。そのような夫婦として結ばれなければなりません。(一九八二・一〇・二〇)

 この世は無情なのです。本当に無情なのです。自分の友達ですらも、自分が困難なことになれば、相手を利用してしまおうとするのです。独身時代にはそうではないけれども、妻をもらうと、互いに顔を合わせないようにしようとするのです。そうでしょう? それを知らなければなりません。妻をもらっただけで、既に独身者といることが嫌になります。それは、宇宙がそのようになっているからです。新郎、新婦が一つになるようになっているのです。

 ですから、皆さんが勉強するにも、自分一人が成功しようという考えだけを持っていてはなりません。素晴らしい妻を迎えて、二人で協力して成功の道を探していこうと考えることです。二人が協力して、成功しようと考えなければならないのです。出会う前にいくら夢があったとしても、その夢が全部壊れてしまうのです。何のことか分かりますか? それゆえ、自分の本性に合う道を探していかなければならないのです。(一九八二・一〇・二〇)

4)男性と女性の責任 … 257

 女性たちは、結婚すれば家の中にいるのですが、男性は女性を食べさせるために、どれだけ厳しい闘争を経なければならないのか知っていますか? 男性は女性よりも難しいのです。男性たちは暮らしに責任を負わなければならないのです。女性たちは家にいるので分からないのです。韓国の女性たちを実例にとってみれば、どこかに行って昼寝をすることもできるし、どこかで休むこともできるし、その村で何かあれば癇癪を起こすこともできるし、喧嘩をすることもできるのですが、男性は職場に行くと、目上の人に対しては、いくらはらわたが煮えくり返ることがあっても、だめな上司だということが分かっていても、知らないふりをしなければならないことが多いのです。また、部下の者が自分を無視して、それが気に障っても、黙って、ぐっと耐えていなければならないのです。(女性には、内的に問題があります)。女性たちは、内的にどんな問題がありますか? 夫にだけよく仕えていれば、すべて解決できるのです。

(それでは、女性の幸福は赤ちゃんを生んで育てることだけですか?)。赤ちゃんを生んでお母さんになり、世界的な息子に育てれば、母親として女性の責任を果たすことになるのです。アメリカに行って、ワシントンの中心地に住んでいるからといって、世界的な母親になれるのではありません。どんなに韓国の山奥で暮らしていたとしても、そのような希望を持って、愛を持って、赤ちゃんを育てれば世界的な母親になるのです。(一九七八・一〇・九)

5)結婚後の女性たちの芸術活動について … 258

(女性がどんなに芸術活動をしていたとしても、お嫁に行けば終わってしまうのですか?)。どうして終わりですか? どうして終わるのですか? (お父様は男性ですから、そう言われるのですが、女性はお嫁に行くと、自分の活動のために歩き回ることができなくなるのです。なぜかというと、家で赤ちゃんを育てたりするのが、女性として当然しなければならないことなのです。どうして女性は芸術活動が続けられるのでしょうか?)。

 芸術とは何かというと、芸術活動をして、世界的に有名になることだけが芸術ではないのです。いかに華麗で趣味に合った生活圏を持つかということが、芸術の目的であることを知らなければなりません。(しかし、私たちの教会で今必要とすることは、世界的人材ではないでしょうか?)。世界的なことは、世界的であり、それは、また家庭的なことなのです。

(しかし、それは努力の差によるのではないでしょうか?)。皆さんが芸術をする時、歌を歌い、作曲をするように、赤ちゃんを寝かしつけるためにピアノを弾いたり、バイオリンを弾きながら、子守歌を歌ってごらんなさい。それは、どんなに芸術的なことでしょうか? そして、天下を抱いて眠っている赤ちゃんを見た時、その芸術がどれだけ美しいかというのです。(だからといって、それでは世界的ではないのではありませんか?)。

 それが、なぜ世界的ではないと言うのですか? 赤ちゃんを寝かしつけるために、世界的な子守歌をつくって歌えば世界的でしょう? 女性が生活を立てていく中でも、世界的な芸術表現をすれば、世界的になるのです。壇上に立って、講演をして、世界の人々に称賛されなければ、世界的にならないのだと思っているのですか? (一生懸命に活動して、早く世界的な人物になってから結婚したらいいのではないでしょうか?)。それはだめです。世界的な人物として、世界に有名になろうとすれば、六十、七十、八十歳にならないとだめなのです。ですから、それはだめなのです。いくら世界的な人物になったとしても、愛を知らなければ、それはかわいそうな人です。(一九七八・一〇・九)

 皆さんは、芸術だといえば、パリのオペラハウスに行って、大衆の前で歓呼を受けて、世界の人々が「ああ、素晴らしい!」と言えば、世界的なことだと考えているのですか? そのように考えてはいけないのです。芸術をすることは、生涯を美しくすることであり、生活を美しくすることなのです。

 そして、勉強することもそうなのです。勉強することも、一生を素晴らしく生きるためなのです。このように考えるのです。皆さんは世界的な先生のような人になったらいいと思いますか? 先生は悲惨なのです。行く先々で悪口を言われ、蹴られて追いたてられるのです。それがいいですか、どうですか? それがいいですか? 女性たちが、そんなことをするのですか?

 文なにがしといえば、ある人は「世界的な人物だ」と言うのですが、それはただ座っていてなれるのではありません。闘争が大変なのです。そのような熾烈な過程を女性たちは、いくら行けと言っても行けないのです。女性たちに行くべき限界線があるのです。そのような限界線を越えて行こうとすることは冒険であり、無理です。

 それゆえ、芸術は、生活化するためにすると考えればよいのです。子女教育において、芸術的な教育をさせるべきだということです。夫に対して、芸術的な感情を持って手厚くもてなすことも知り、かばってあげることも知らなければなりません。それが、もっと素晴らしい芸術であると私は思うのです。芸術をすることによって、愛をもって家庭を美化させ、昇華させることが芸術のより誇りある価値だと思うのです。女性は、どうしても家庭に入らなければならないのです。ですから、お嫁に行かなければならないのです。(一九七九・一〇・九)

6)女権と男権の出発点 … 260

 愛を中心としては、男性と女性は平等です。そうでしょう? あなたは、男性に生まれたらよかったと考えたのですか? (はい)。その必要はありません。女性は女性として半分になるということを知らなければなりません。愛を中心として平等だというのです。今日、女権主義者が、「ああ、統一教会の文先生という人は、女権反対者だ」という噂を立てたと私は聞いたのですが、私の話を聞いてみてください。

 女権運動をする人たちは、愛を中心として、お母さんの女権を守る術を知らなければなりません。愛を中心として、お母さんと娘が一つになったのでしょうか? まず、その一つになった位置に立つ自分にならなければなりません。夫の前に、完全に愛で一つになった位置で、夫を愛することのできる女権を持ったのでしょうか? その次に、息子娘に対して愛することのできる女権を持ったのでしょうか? そのような女権が、先に出発しなければならないのです。

 この愚かな女たち! 政治風を吹かせて走り回り、何の女権運動ですか! 母親を無視し、夫を無視し、子供を無視し、女性基盤を喪失した立場で何が社会的な女権運動ですか! 「放り出してしまいなさい」と言うだけです。あってはならないことです。動機のない女権運動は、流れていくのです。

 皆さん! 一番の女権は何でしょうか? まず父母の前に、愛される女性としての女権、母親を愛する女権、妻として愛されることのできる女権、夫を愛することのできる女権、子供に愛されることのできる母親としての女権を持てば、第二の世界に現れてくるのであり、根本が間違っていては、何もできないのです。

 今日、何かの女権運動をして走り回っている女性たちを見ると、ただ毎日を好きかってな生活をして、父親、母親をけ飛ばして、夫をけ飛ばして、子供も無視しているのです。そこには、女権はありません。そのような女権運動は、混乱をもたらすサタン世界の運動なのです。私たちの女権は、原則的内容を主張しなければなりません。

 あなたは誰の妹でしたっけ? 名前は何ですか? あなたは男性たちを軽蔑しているでしょう? 「それくらいで何だ」と思ってるのでしょう? そういう目をしていて、そういう顔をしていれば、そうなのです。違いますか? 女性は、母親を愛することのできる女権を備えるべきです。夫を愛することのできる女権を備えるべきであり、兄弟を愛することのできる女権を備えるべきであり、また、愛されることのできる女権を備えるべきなのです。このようなことを知らなければなりません。分かりますか?

 このようなことが間違ったので、今日のアメリカの若者たちが駄犬のようになってしまったのです。カラスにつっつかれ、禿鷲につっつかれ、蛇にもつっつかれ、蟻にもつっつかれるのです。そのような屍の群れが今、生きているのです。分かりますか? さあ、女権がどんなものか、もう分かったでしょう? では、男権が何か分かりますか?

 皆さんは、父母の言うことをよく聞かなければなりません。皆さんは、よく「お父さんお母さんの言うことを聞きたくないのに、どうしてお父さんお母さんはひっきりなしに私を呼ぶのだろう?」と言うのですが、それは男権を与えるためなのです。男性も、お父さんお母さんの愛を受ける男性の権限、兄弟の愛を受ける男性の権限、その次に、妻に愛されることのできる男性の権限、自分の子供に愛されることのできる男性の権限を備えなければなりません。

 あなたは今、お父さんを愛していますか? 愛しているでしょう? (愛しています)。愛しているのですね。それに背馳することは、不義です。サタン圏です。それは自然に破壊されるのです。宇宙が保護しません。しかし、原則的なものは、宇宙が保護しています。宇宙が絶対保護するようになっているのです。ですから昔、東洋には、「家和して万事が成る」だとか、三綱五倫があったのです。そのような礼法、そのような原則に従って、歴史は変化しても、この法則は変わらないのです。そのために、それに従って皆、そのように教えられているのです。「長幼序あり」。すべてに秩序があるべきだというのです。「朋友信あり」。友達は信義がなくてはなりません。

 女権、男権が何か分かりましたね? 女権を備えた女性、男権を備えた男性、そうならなければ愛の道を行くことができないことを知らなければなりません。愛の道が何か分かりますか? 恩進も、うるさく言ってはなりません。お姉さんがどうであっても、「アイゴー、お姉さんがどれほどじれったくて、そうなのだろうか?」と言って、愛する心を持たないといけないのです。また、顕進が大きくなり意地悪くなって、お姉さんに対して威張りちらしたりすれば、「アイゴー、男はそうだからしかたない。ひたすら私が愛してあげないと。私が愛してあげられなかったからそうなんだ」と、ならなければいけないのです。全部がそうです。ですから、女権運動、男権運動するためには、自分ということを考えていては絶対に接触する道がないのです。(一九八四・六・二〇)

7)真なる女権と男権を完成するための私たち姿勢 … 263

 この愚か者たち! 今、目がどこに走ったのですか? 「お父様なんて何だ。見るなら見て、見ないんなら見ないで…」と。このアメリカは滅びる国なのです。先生たちが教壇に立って、「皆さん、デートをしなさい。デートをしなさい。放課後になったら、全部パーティーなどをして踊りなさい」と言っているのです。これは、サタンが騒動を起こして、天の国の理想を根本的に破綻させるための作戦だというのです。

 このような高貴な理想的男性の前に、女性の前に、誰が手をつけられますか? ですから、先生は昔、肌も見せなかったのです。女性は男性に肌を見せないのですが、先生も女性に肌を見せませんでした。最近では、女性たちが全部肌をさらけ出して歩くのです。ミニスカートなどがそうです。このアメリカなどでは全部、お尻をさらけ出して、乳首をさらけ出して、何のことなしに大路を闊歩する愚か者たちや、あやしく邪悪な者たちがいるのです。このように滅びる者たちがたくさんいるので、この世界は滅びるようになるでしょう。分かりますか?

 さあ、統一教会の思想は何ですか? (為に生きることです)。何を中心としてですか? (神様の愛を中心としてです)。愛の理想を成すためには、それが課題なのです。それでなければ、愛の理想が成されません。お母さんが永遠に私の娘だと称賛することができ、「愛する私の娘よ」という詩をつくることができなければなりません。あなたの姿は、か弱いけれども誰よりも強い者であって、この世のすべての形容詞を持ってきてつけることのできる娘となり息子となれば、それは孝行者でしょうか、何でしょうか?

 皆さん、そのような所にお嫁に行って、そのような息子娘を持ちたいでしょうか? どうですか。女性たち、考えてください。そのような息子娘を持ちたいですか、持ちたくないですか? 顔立ちが整っているとか、醜いとかが問題ではないのです。たとえ顔が屋根瓦のようだったり、しわくちゃのカボチャみたいだったとしても、愛があればよいのです。

 ですから、このような女権を備えることのできる女性として成熟して、初めて神様の愛に接してその圏内に入っていくことが思春期なのです。それが、思春期だというのです。ですから、そこで一つになりぶつかって、火が出るような境地になれば、神様が臨まれるのです。神様が自然に臨まれるようになっているのです。神様が臨まれて、神様が愛するのです。ですから、男性と女性が愛するようになると、神様が愛することと同じなのです。(一九八四・六・二〇)

 私が皆さんを見ると、よく分かるのです。さっと、その目を見れば分かるのです。「この者たち、浮ついている」と言えるのです。とうの立った大根を誰が食べますか? いくら大きくなっても、頭がまっ青で見栄えがよくても、切って見てとうが立っていれば誰が食べるでしょうか? とうの立っていない大根が甘いのです。そういうことを知っていますか? 市場に行って、とうの立った大根を持ってみると軽いのです、触ってみればすぐに分かります。とうの立った大根を持ってみると重さがないのです。

 皆さんの中で、「私は浮ついていない」と思う女性は手を挙げてみなさい。アメリカの風習が入っていない、女性崇拝の風習が入っていないという人! 車に乗れば男性が来てドアを開けてくれればいいのにと願っても、それは、七十年の歴史なのです。お母さんに侍るための一時の訓練なのです。それは、瞬間だけに通じることとして、過ぎ去っていくのです。第一次世界大戦以後から七十年なので、いくらも残っていないのです。皆さんは、歴史を知らないからそうなのです。全部、神様がそのようにしておいたことなのです。

 女性たちは、夫のためになる術を知り、その次に子供のためになる術を知り、その次に父母のためになる術を知り、その次に国のためになる術を知らなければならないのです。神様のためになることもよいけれど、国のためになるべきなのです。国は世界のためにあるのです。そして、人類のためになるべきなのです。人類のためになれば、世界のためになることなのです。国のためになれば、人類のためになることであり、同じみ言なのです。(一九八四・七・一〇)

四 二世の祝福と祝福に臨む姿勢 … 266

1)祝福の基盤と二世の祝福 … 266

 イエス様が死の場に出ていく時に、その弟子たちは共に出ていかなければならなかったように、統一教会の人たちも、共に死の場に出ていかなければなりません。逃げていってはなりません。死を覚悟して進まなければなりません。それゆえ、命を懸けて反対してくるのです。統一教会に反対してきたのです。お父さんやお母さんが反対し、夫や妻が反対し、子供が反対し、ただひたすら反対したのです。ですから、いかに悲惨であったかということを知らなければなりません。先生一人に従って、死の境地を越えたという条件を立てながら、統一教会の基盤を築いてきたのです。それで先生の勝利とともに、皆さんの基盤が築かれてきたのです。分かりますか? 皆さんの父母によってです。

 それらは皆、理論的なのです。蕩減復帰という理論的な過程を経てきたのです。祝福を受けるためには、国家的基準まで皆、イエス様が責任を執れなかったすべてのことを蕩減しなければなりません。それゆえ、全世界的な活動舞台に進むのです。一九五七年から、すべてが国家的な次元に入るのです。

 麦御飯を食べながら動員したのです。麦御飯が何ですか! 全部、飢えて犬の餌を食べながら活動したのです。ユダヤの国がユダヤ教を支持できなかったので、私たち統一教会が蕩減しなければならないので、すべてを捨てて立ち上がったのです。大事な息子娘たちが何ですか! 大事な息子娘は国のために祭物として捧げなければならなかったのです。お父さんとお母さんを中心として、子供まで合わせて国に祭物として捧げなければならないのに、祭物として捧げずに生かしておいて、「孤児院に行っても、生きていれば、帰って来た時に会うことができるので幸福です」と、このように考えて、皆さんの父母たちが活動したことを知らなければなりません。捨てたのではないのです。憎くてそうしたのではありません。

 それでなければ、天の国に行く道が現れないので、そのような血も凍る闘争の過程を経てきたのです。既成教会がなせないので、代わりに国家と民族の前に、国家が反対しても、押して進んでいく基盤を築くために祝福をしたのです。三千万民族の前で、公開の祝福をしたのです。祝福に反対すれば、大変なことになるのです。今では祝福も世界的に公認されてきました。統一教会は当然そういうことをするのだと、日本でも、どの国でも皆、世界的に公認されました。

 これから、皆さんが正しい暮らしをするようになれば、多くの人々がやって来て、祝福を受けようと大騒ぎすることでしょう。彼らは、アダムとエバが何かという理論を全部知って、愛し合っているのでしょうか? 今に学校に通う若者たちが、二十代の大学生たちがたくさん入って来て、祝福を受けたいと言った時、四十日修練、百二十日修練を受けさせて、祝福してあげれば、彼らは全部統一教会員になるのです。

 それが、人々を入会させる方法です。統一教会の魅力は何かというと、若い男女たちが、「統一教会の家庭は皆、永遠を目標にして一生懸命生きている。この世の家庭は皆、壊れていってしまうのに統一教会に入れば、全部よい家庭になれる」と言いながら、集まってくるのです。

 今や大学街で、「結婚志願者募集」と言えば、火花が散るようになっているのです。その時を待っていて、皆さんも祝福を受けるのです。体格がよく、目が青く、金髪で、素晴らしい男性たちが集まるその時に、祝福を受けるのです。その時に入教して祝福を受ければ、皆、西洋の人なのです。彼らは、田舎者でバッタみたいな者たちと結婚するのです。

 皆さんのお父さんお母さんが苦労していたので、皆さんも皆、そのような顔になったのです。よいものを食べて、こころ平安に横になって、夢を描いたりして、よい胎教をしていれば、よい赤ちゃんを生めたのに、ひたすら悪口を言われ、逃げ回りながら赤ちゃんを胎教し、食べるに食べられず、どこにいっても迫害を受けてきたのです。ですから皆さんは、そんなような顔になったのです。しかし、根本はよい人々なのです。当時、どこに食べる物など十分にあったでしょうか? 先生が飢えながら暮らしていたのに、皆さんのお父さんお母さんたちは、御飯が食べられましたか? 正しい歴史を知らなければなりません。

 今では、ファンダレージングもしてみたので、皆さんも少しはお金の貴さが分かったでしょう? 「お父さん、お金をください」と言えば、ちゃんとお金をもらえたので、「お金をよくくれるお父さん」とだけ考えていたでしょう。しかし、お金のために死んだ人々がたくさんいるのです。そのことをよく知らなければなりません。血の代価を払っているということを知らなければなりません。

 先生は、このように戦っているので、私的にお金は使わないのです。自分のためには使いません。皆さんは、今や世の中が分かったので、これからは、そのように生きなければならないのです。今から始めるのです。

 皆さん、体格がよくて、この世でとても素晴らしい男性を私が選んであげましょうか?私がアメリカに住んで、アメリカの若者たちを見た時、アメリカの男性たちはハンサムです。「ああ、あんな婿をもらえたらいいなあ」と思う時がよくあります。(たいしてハンサムだとは感じません)。それは、あなたがお化けのような子だからです。お化けのような性根があるからです。ハンサムだということはハンサムなのです。東洋の人たちは皆、顔がめちゃくちゃで田舎者なのです。

 それも蕩減だと考えなさい。責任分担が全うできない韓国人が結婚生活をする時、一番苦労してきたのです。原理的に見てもそうです。アベルが一番苦労しなくてはなりません。それゆえ、全世界のあらゆる人々の代表が韓国人と結婚して、苦労するのです。私が同情しても、自分の夫が同情するのではないために、難しいことが多いのです。                       (一九八四・七・一)

 皆さん、どうして二世を祝福してあげなければならないのでしょうか? 二世を選ぶ時、その家庭が世界の途上で迫害を受ける家庭に属していれば、その二世たちを祝福してはいけないのです。しかし今では、摂理的に見た時に、統一教会において祝福家庭は迫害を受ける時代を越えたのです。

 その基盤は、誰がつくったのですか? 皆さんのお父さんお母さんがつくったのですか、誰がつくったのですか? (お父様です)。どこのお父様ですか? (真のご父母様です)。真の父母以外に誰がいましたか? 天のお父様がいたのですね。三代の父母に対して、このように侍ってこそ復帰がなされるのです。縦的中心である神様と、真の父母を中心として、縦横に連結される所で、皆さんは父母に侍らなければなりません。それが、三代の父母に侍ることです。(一九八六・二・八)

2)摂理の時と二世祝福 … 270

 今や、皆さんは大人になりました。昔のカナン復帰路程の二世たちには、七代怨讐を分別して、三十六か国に対処しなければならない戦いがあったのですが、皆さんは三十六か国ではありません。七つの家、十二の家を消化すればよいのです。そこの青少年と一つにならなくてはなりません。お父さんお母さんが、息子娘に反対できないような環境を全部つくっておいたのです。神様がそのようにつくられたのです。そのように、蕩減復帰は現実的なのです。それは先生が教えた原理に一致しますか、しませんか? 今まで、そのような戦いをしてきたのです。

 ですから、統一教会で先生が祝福をする時には、先に先生の家庭を祝福しなければならないのです。この世界運勢を、大韓民国と皆さんを中心として、全部、二世圏に連結させなければなりません。ですから今回は、三番目の娘の恩進を祝福したのです。そこに、横的に皆さんの祝福を連結させることで、家庭的に越えていけるのです。分かりますか? 家庭祝福圏を立てたとしても、サタンが讒訴できないように、最もどん底から行くのです。それが、最後の戦いなのです。

 今月の十日で、先生が聖婚式をしてから二十六年目になります。満で二十五年目、数えで二十六年目です。それで、今回の祝福は歴史的な意義があるのです。今回の祝福が終われば、サタン世界は私たちの家庭に対して讒訴できません。もし、二世たちの祝福ができなければ、サタン世界の讒訴を受けて全部終わってしまうのです。

 これからは、勝共の会員や韓国の人々が皆、「文総裁の所に行って結婚させてもらおう」という風が吹くようになります。「統一教会の結婚式が一番素晴らしい」と言うのです。本来は、今回の結婚を解放式として、素晴らしく行わなければならないのです。ですから、これが終わった後は、世界的に約八千双を祝福するかもしれません。

 今回の結婚式は何かというと、このような転換期において、皆さんが家庭基盤をつくっていくことにより、サタン世界の第二世たちが皆さんを通して、平面的に橋をかけて越えてくるのです。韓国の班支部長の息子娘たちが、皆さんを通して、平面的に橋をかけて越えてくるのです。

 今までの路程は、このサタン世界での蕩減復帰なのです。すべてを昇っていって清算し、再び国を探して降りてきて基盤を築き、アベルの家庭に侍っていかなければなりません。先生は今、それが必要なのです。先生がすべてを勝利しておいたので、皆さんは今、班の集会を通して、そこで若い男女を消化させ、皆さんが家庭の標準となって、彼らを全部連れて、越えていく道をつくっておかなければならないのです。そのような時代に入ってきたのです。

 ですから、皆さんは今、第一線に立っているのです。それで、今年の年頭標語が、「天国創建」なのです。今、天国を創建しているのです。分かりますか? 天国創建は誰が先にするのかというと、皆さんが先にするのです。先生による統一家を中心として、皆さんたち二世家庭を早くつくらなければなりません。そうすることによって、サタン世界に、カイン世界において、アベル家庭が横的に広がるのです。

 今や、先生を中心にして上がってきたのです。皆さんのお父さんお母さんたちが、二世を中心として上がってきて、今や平衡基準に立ったのです。ですから、初めて先生の家庭がこの歴史的時代に平衡基準を立てたので、三番目の娘の恩進を中心として連結させてあげるのです。それでたくさんの条件は必要ないのです。十二家庭だけでいいのです。三家庭だけでも、その条件を立てればよいのです。(一九八六・四・八)

 きょう結婚するといっても、私が誰と結婚するということが問題ではないのです。自分自身を中心とした結婚ではないということです。統一家において、一大革命を提唱するための結婚なのです。

 ご覧なさい。恩進に対して、お兄さんならばお兄さん、お姉さんならお姉さんになるのです。恩進は、皆さんより年が若いのです。恩進は、きのう、おととい、三日前の夜十一時まで、何も知らなかったのです。何も考えていなかったのです。夜、十一時に私が命じて、結婚の準備をさせたのです。

 このようなことを行う時、そこに、第三者の考え方とか、観念が介在されてはならないのです。どこまでも先生に従って、真の父母を中心としなければならないのであって、そこに、第三者の介在は許さないのです。ですから、皆さんの父母の言葉は、参考にもできなかったし、念頭にもおけなかったのです。(一九八六・四・一二)

3)二世祝福の資格 … 273

 皆さん、何歳になったのですか? (一九六六年以前に生まれました)。一九六六年以前ならば、何歳になりますか? 韓国の年で二十二歳だね。皆さんは祝福家庭の二世として生まれた意義を知っていますか? それを皆、知ってますか? 私がちょっと試験をしてみましょう。何家庭の子女たちが集まったのですか? 百二十四家庭も入っていますか? (はい。百二十四家庭が多いです)。手を挙げてみなさい。四百三十家庭も入っていますか? 四百三十家庭はいないのですか? (四百三十家庭はいないと思います)。(一九八六・四・八)

 皆さんは『原理講論』にある、信仰基台、実体基台、メシヤのための基台という言葉を知っていますか? メシヤのための基台とは何のことですか? 基台というのは何のことですか? それは誰かが行かなければならない道なのです。原理は、歴史時代を経てきた聖徒たちが行く道であり、すべての歴史を横的に分けているのです。それゆえ、私たちの生涯でこれらを全部、蕩減しなければならないのです。そのように見た時、確実な信念を持って生きなければならないのに、皆さんは、そのようになっていないのです。

(四十日修練会の名簿ができました)。四十日修練会は、私が監獄にいながら孝進に実施させるようにしたのです。それは、八月十三日か、十四日に終わったのですね? (はい)。二世たちは皆、そこに参加しなければならないのです。その修練会に行ってから、孝進が病気になり、今まで苦労したのです。本来、良心的であり、人格者と言われる人は、考えたことを言葉にする前に、行動しなければなりません。行動できる主体的人格を備えてこそ、その言葉が自らを讒訴しないのです。何のことか分かりますか? 語る前に、その言葉を実践してみなければなりません。サタン世界では、詐欺をしても、蕩減法が何か分からないのですが、天の世界では、厳然たる蕩減法があるのです。(一九八六・四・八)

 皆さん、「先生が、このように祝福してくださったらよいのに」と思っていたでしょう? 君は、このように呼ばれたので喜んだのでしょう? 恩進は今朝、私が呼んで初めて話をした時、涙をぽろぽろと流したのです。どうしてそうなるのかというと、お父さんお母さんと離れなければならないと思うと、そうなるのだと言うのです。そして、「本当に結婚するのですか?」と言うのです。

 皆さんは四十日修練会を受けた人たちですか? (四十日修練会を受けていない人も、何人かいます。一番後ろのほうにいます)。四十日修練は皆、受けなくてはいけないのです。これからは、原理試験にパスしなければ祝福対象者にはなれません。教会で行うすべての行事を皆、通過しなければならないのです。祝福家庭の子女たちは七日断食をしなければならないのですか、しなくてもよいですか? 答えてください。

 君は何歳ですか? (韓国の年で二十五歳です)。韓国の年で二十五歳だったら、満では二十四歳ですね。皆さん、祝福家庭は七日断食をしなければならないのですか、しなくてもよいですか? 統一教会の二世たちは断食しなければなりませんか、しなくてもよいですか? 断食しなくてもよい人が、断食すれば罪になるのです。口はすぐに食べたいのに、食べられないので罪なのです。(しないほうがいいです)。しないほうがいいという、そんなことが原則ですか、原理ですか? 「断食しないでよければしないし、断食するのであればします」と言わなければなりません。しないほうがいいだろうとは何事ですか! どうですか? (しません)。自分が原理以上になっているのです。「しません」と言う、そのような答えは零点です。質問されている内容を分かって答えなければなりません。

 断食しなければなりませんか、しなくてもいいですか? (しなければなりません)。皆しなければならないと考えないのですか? するべきですか、しなくてもいいですか? 皆さん、七年路程を行かなければならないのですか、行かなくてもいいですか? (行かなければなりません)。どうしてですか? ヤコブが行った路程は、イスラエル民族が行かなければならないし、モーセが行った路程は、イスラエルの国が行かなければならないし、イエス様が行った路程は、キリスト教が行かなければならないのです。では、統一教会の文先生が行った路程は、誰が行かなければなりませんか? (私たちが行かなければなりません)。先生は七年路程を行きましたか、行きませんでしたか? (行かれました)。 (一九八六・四・八)

 君たち! 四十日伝道期間を全部、満たせなかった人も来たのですか? 四十日は絶対に守らなければなりません。(はい)。(四十日修練を受けてない人は、きょう、ここに来る資格がないと前もって話しましたので、本人たちは知っています)。四十日伝道期間を全うしなかったのならば、全部やめるべきでしょう? (その人たちは、初めから、きょうは来る資格がないと分かっていたのですが、お父様のみ意をもっと知りたくて参加したのです)。この者! そのようなことであれば、乞食も皆ここに来て勉強せよと言ったら、どうするのですか? (その人たち、この場を出ていかなくてはならないでしょうか?)。外に出なさい。

 四十日は、四十年を蕩減することと同じなのです。荒野四十年期間である四十日は、絶対守らなくてはなりません。孝進にも、「そのような立場に立たせなければだめだ」と、先生が説き伏せたのです。それをしなければ大変なことになるのです。皆さんにも、こんな時間は持てません。全部が駄犬のようになって、きつねが全部ほじくって食べてしまうのです。先生が監獄に入って特別な条件を立てたので、これが可能になったのです。皆さんを祝福してあげなければなりません。蕩減法は容赦がないのです。

(お父様。それでは、その人たちを外に出すようにします)。ああ、外に出してください。自然に出て行かなければなりません。四十日修練に参席していない人は、ここに参席してはいけないのです。四十日修練を受けていない人は、もう一度、四十日修練会を行いますから、次に参加しなさい。残っていてはなりません。これは、四十年の蕩減なのです。先生が四十年間蕩減してきたので、返り咲きして、皆さんに会えたのです。

 本来は、皆さんが南北統一した基盤の上で、国を持たなければなりません。皆さんが国に対しての責任を執ることが、半分裂けてしまったのです。南北が分かれた運命を中心として、皆さん二世が現在、韓国に対処できる段階に入ったのです。それゆえ、四十日を通過しなければ、その条件にならないのです。祝福を受けた家庭も皆、四十日聖別期間があるのです。

 四数は、いつでも問題になるのです。原理がそうだからです。四十年路程でモーセに反対をした者は皆、滅びたのです。四十日修練を経た位置で、絶対にみ旨を中心としてカナン復帰の道を行かなければなりません。指導者がどんなことを言っても、それについて行かなければなりません。行かなければ滅びるのです。早く外に出しなさい。だんだん難しくなるのです。四十日修練を受けない人は参席してはなりません。

4)祝福を受けるための姿勢 … 277

 皆さんが今、第二世として、一回目の祝福対象者になったということは驚くべきことです。今まで統一教会は、三十六家庭から七十二家庭へと、家庭が続いてきたのですが、その家庭を見た時、神様は何の期待も持たれないというのです。皆さんが侍ってきた父母は、神様が好ましく思われないのです。三十六家庭や七十二家庭、すべてがみ旨の前に罪を犯しているのです。

 そのような者たちの後孫を収拾して、再び祝福をしてあげるということは、神様も、先生も、相当に心配なのです。それゆえ、今から皆さんが統一家の新しい伝統を立てなければならないという覚悟を、この時間に固く誓わなければなりません。(一九八六・四・一二)

 堕落した人間は、結婚することができなくなっているのです。それゆえ、仏教やカトリックでは尼僧や修道女などの独身者がいるのです。人類の父母が結婚できなかったのに、どうして何百代、何千代の後孫として生まれた者が、結婚することができるのでしょうか? そのような逆天者は滅びるのです。順天者は栄えるけれど逆天者は滅びるというのが、孔子の言葉です。

 皆さんは、結婚する資格がありますか、資格がありませんか? サタンの讒訴圏を抜け出しましたか? 今、どうしているのですか? 皆さん自身が、み旨の道に対して、たじろいでいるのではないでしょうか。そんな者は皆、良心的な呵責を受けて、ここに参席してはいけない人です。

 皆さん、ちょっと顔を上げてください。ちょっと目を見てみます。皆さん、目がいくつに見えますか? ハンサムな男性、醜い男性、そうでなければ中間の男性、そのように見えるのですね。三層に見えるでしょう? また、この者たちの目には、美しい女性、醜い女性、中間の女性。そのように見えるの、見えないの? そんな思いを持ったことがありますか、ありませんか?

 アダムとエバの目に、ハンサムな男性、醜い女性、中間の男女がいましたか、いませんでしたか? (いませんでした)。それは、絶対的でなければなりません。絶対的でなくてはならないのです。ハンサムな男性も、醜い男性も、中間の男性も、それしかないのです。しかし皆さんの目には、うじ虫がくっ付いています。

 原理的に見た時、それを認めなくてはなりませんか、認めなくてもいいですか? 答えてください。認めなければなりませんか、認めなくてもいいですか? (認めなければなりません)。ハンサムな男性、中間の男性、その次に醜い男性。そんな目を持つ人たちは、真なる結婚をすることはできません。それは邪悪な結婚です。サタンの従兄弟みたいな者たちが、ここにやって来て座っているのです。

 アダムには選択権があったでしょうか? エバには多くの男性の中で選択できる、アダムには多くの女性の中で選択できる権限がありましたか、ありませんでしたか? (ありませんでした)。うれしくて泣きながら眺めるのは、一人の男性なのです。アダムしかいなかったのです。エバには、足が折れて、どこか体に大変なところがあっても、一人の男性しか眺めることができなかったのです。二人の男性を眺められなかったのです。また、アダムがいくら得意になって歩き回っても、二人の女性を眺めることはできなかったのです。

 また、アダムはエバ以外を選ぶことができるでしょうか? 「私は嫌いだ。他の女性と結婚する」そうすることができるでしょうか? それに固執すれば、晩年は一人で暮らして、死んでいくだけです。それでは、人類が絶えてしまうのです。自分たちの氏族がなくなってしまうのです。自分の思いのままに結婚すれば行く先は地獄であり、自分の思いのままにでなくて結婚すれば行く先は天国なのです。

 今や、統一世界しかありません。皆さん、大学街で共産党と戦ってみなさい。共産党が押されて出ていくのです。統一教会が押されて出るようにはなっていないのです。実際に行って戦ってみなさい。今や全部が私たちの世界になったのです。その世界の誇りは、伝統を誇ることです。原理的伝統を誇ることなのです。

 女性たちは、先生に叱られるからしかたなく、ルージュを塗らないで来たけれども、鏡を覗き見て「これは、よくないなあ。この姿は何だ! アイゴー、誰が私を好きになってくれるだろうか」と言うのですが、そんな考えなど持っている人は必要ないのです。先生の心にすーっと入っていけばいいのです。先生は、よい新郎を選んであげるし、悪い新郎を選んであげるのです。悪い心を持っていれば、いくら顔が美しくても、私の目で見ると、片目をつぶるのです。その女性が、こう言っているというのです。「それでは、どうすればよい新郎を選んでくれるのですか? 先生は変わった人ですね」と。そんなこと、かまっておられません。それは、国が滅びるようになるということが分かるし、どうして世界が滅びるようになるかが分かるからです。

 さあ、早く選んであげるのがよいでしょうか、遅くしてあげるのがよいでしょうか? (早く選んでください)。早く選んでもらおうと思ったら、さっと二つの線を引いておいて、「目をつむって、一人ずつつかみなさい」と言えば、不平を言うことはできないのです。そこでは、運命に任せることが一番簡単なのです。そのようにしますか? そうするのも、私はよいと思うのです。神様がご加護を賜ってくださるように、私は祈祷します。全部が背を向けあって、男性なのか女性なのか分からなければ、男性は時計を外して、女性は時計をはめなさい。それを見て、時計があれば女性であり、時計がなければ男性であることが分かるのです。「アイゴー、私の夫であり、私の妻だ。ありがとうございます」と、目を開けるのです。そうすれば、本当に美人と美男子に見えるのです。

 愛の眼鏡は、天地調和の眼鏡なのです。その愛の眼鏡は極めて変に凸凹して、醜い人もハンサムに見えるのです。「あばた顔でも、愛の涙をいっぱいに溜めるためにあのような顔になったのだなあ」と言いながら、触れると気持ちがいいのです。初愛の甘美というものは、宇宙を消化させても余りあるものです。(一九八六・四・八)

5)祝福は本来、父母がしてあげるもの … 281

 皆さんが相対を選ぶことがいいですか、私が選ぶことがいいですか? まず、これを決めましょう。私が、「オーケー」すれば、皆よいのです。そうですね? 皆さんが思いのままに選ぶのがいいですか、それとも先生が目をパチクリさせて選んであげるのがいいですか? どちらがいいですか? (先生が選んでください)。私は昼食もちょっとしか食べていないので、気運がないのです。少しくらい同情してもらわなければなりません。

 今では、アメリカの食口たちも、ヨーロッパの食口たちも、先生に選んでもらえることが一番の希望なのです。ですから、私はしかたなく、二世の皆さんも選んであげようと思うのです。本来、皆さんは、父母たちに全部選んでもらわなければならないのです。天の国の伝統を正しく保っていけば、結婚式は伝統を伝授する式なのです。愛を中心としてあらゆることが伝授されるのです。前時代を後時代に移してあげるのです。最近の旧時代の人だとか、世代差異だとかいう言葉は皆、終わりの日になったために出てくるのです。時代とともに移っていかなければなりません。(一九八六・四・八)

五 祝福家庭夫婦の愛の道 … 282

1)「根こそぎ私の愛」の意味 … 282

 どうして神様がこの世界を創造されたのかというと、神様は「愛のゆえに」と言われるのです。では、その愛はどのような形の愛なのでしょうか? 神様は「根こそぎ私の愛」を願われるのです。皆さん、「根こそぎ私の愛」という言葉を聞いたことがありますか? 歌では聞いたことがあっても、そういう愛は知らないでしょう? 考えただけでも神秘的であり、丸ければ丸く、長ければ長く、不思議な愛なのです。では、女性が一人でその愛を探すことができるでしょうか? (できません)。誰を通さなければならないのですか? 醜い意地悪なぼさぼさ頭の青年について行かなければならないのです。そのようになっているのです。

 それで、「根こそぎ私の愛」というのは何かというと、根こそぎという言葉は、夫の愛を受けているのに、さらに愛の主人である神様がおられるという時、その気分はどうでしょうか? 夫と神様の愛までも根こそぎ私がもらってしまおうという考えをするでしょうか、しないでしょうか? 「根こそぎ私の愛」の中に、神様をつかんで入れたいですか、入れたくないですか?

「根こそぎ私の愛」の中には、すべてが入っているのです。そこには、夫の愛も入っているし、妻の愛も入っているし、息子の愛も入っているし、神様の愛も入っているというのです。「根こそぎ私の愛」には、すべてが入っているのです。ですから、愛はどんなに入れても持ち堪えることができるのです。父母は愛する心を持っているので、あらゆるものをすべて子供に与えたいのです。与えても与えても与えても、また与えたいのです。愛は、そのように大きいのです。しかし、お金の世界では、私が孝進に百ドル与えても、「もう、あげない」と言えば、それで終わるのです。しかし、愛の心は無限なのです。無限に通じ、無限に大きく、無限なる価値の内容を持っているのです。

 それゆえ、愛を備えた人は宇宙を備えることになり、愛を備えた人はすべての幸福を得ることになり、愛を備えた人はすべての面で勝利者になるのです。そういう結論が出るのです。いくら素晴らしく人生を生きたとしても、このような愛を備えて、愛に対する勝利者になれなければ、人生の敗北者なのです。(一九八四・六・二○)

2)愛の一端 … 283

 愛するということは、どういうことでしょうか? 背中と背中を合わせることが愛することでしょうか? 愛も蘇生の愛、長成の愛、完成の愛があるのです。女性と男性は、一番初めに何をしますか? キスをするでしょう? それを習いなさい。神様いわく、「その時に上から降りて来る」と。

 人々はどうして皆、キスをしようとするのでしょうか? 口は何かというと、飲食物を供給する仕事をしているのです。生命の起源が通じるところなのです。それで、神様を象徴するのです。では、言葉は何なのでしょうか? 言葉も神様を象徴するのです。口は、そのような二つの内容を持っているのです。ですから、愛を表示しようとする時、キスをするというのです。愛する時には皆、子供たちに対してもキスをするのです。皆さんも、幼い弟たちが生まれた時は、可愛いからキスをするのですね。それは罪ですか、罪ではありませんか? そこに、神様が天から降りてくるのです。(一九八一・五・一七)


3)愛の道を引き継いでいく人生行路 … 284

 人間が生まれたのは、愛の世界を旅行するためです。愛の宇宙旅行するために生まれたのです。分かりますか? それは不幸なことですか、幸福なことですか? 考えてください。私が、お父さんお母さんから血統を受け継いだ時、お父さんお母さんの愛の中で受け継いだのです。

 ですから、生まれながらにして、愛されていたのです。お母さんの胎中にいる時から、お父さんお母さんを愛しましたか? 愛されましたか? お父さんお母さんに愛されたのです。十か月の間ひたすら触られて、そして生まれてから、また愛されて、そのように学校に入る時まで愛されたのです。大学まで何年ですか? 二十年ですか、二十二年ですか? 六年、三年、三年で、十二年です。大学まで入れれば十六年です。幼稚園まで入れると十八年になります。その期間を皆、父母の愛の圏内で育ったのです。

 そのようなお父さんお母さんが、自分の息子娘を最高に愛したいのに、他人のように対しなければならないとすれば、とても胸が痛くなるのです。皆、そういうことを知らないでしょう? 今に息子娘を生んでみると、私たちの父母もこうだったのか、ということが分かるのです。それにもかかわらず、皆さんを捨てて出ていく時、父母はどうして眠りにつき、いつ平安な時間を持てたでしょうか? いつも焦る心、不安な心を持ったに違いないということを、皆さんは知って、自分の父母は偉いということを悟らなければならないのです。すべてが愛なのです。

 ですから、二十歳を過ぎると、生まれてから十六年くらいから皆、物心がつくでしょう? そして十八歳ないし二十歳になれば、結婚をするのです。結婚して、息子娘を生んで、愛して、その息子娘を嫁にやったり、婿にしたりすると、次に孫を愛するようになるのです。おじいさんおばあさんは、息子娘よりも孫息子や孫娘をもっと愛するのです。皆さんもおじいさんおばあさんのいる人は、お父さんお母さんの愛よりも、おじいさんおばあさんの愛をたくさん受けたのです。そこで、おじいさんおばあさんの願いは何かというと、ただ孫息子、孫娘の頭を撫でることなのです。

 また、自分の家の中には何があるのかというと、そこには、昔自分が少年時代から青年時代を過ごした時と同じものが全部あるのです。その次に、お嫁さんをもらって、息子娘までいるのです。そして、おじいさんになると自分が一生歩いてきたことを、再び実体で見ることのできる環境が現われてくるのです。曽おじいさんも、そうだというのです。東西南北を全部備えて、数多くの子孫たちを従えているのです。その子孫たちが皆、愛で連結されているのです。ですから、それが多ければ多いほど福であるというのです。人は、愛によって生まれて、愛によって育っていくようになっているのです。分かりますか? 人生行路は、愛の道を受け継いでいくことなのです。愛ゆえに生まれた人生であるということを否定することはできません。

 女性たちは、赤ちゃんを生むのが怖いのですか? 赤ちゃんを生んだ婦人に聞いてみると、生む時は死ぬほど大変だったけれども、生み終えるとその苦痛も瞬く間に消え去ってしまったというのです。船酔いする人が船に乗れば、「死にそうだ」と言って、吐いたり大騒ぎをするのですが、陸地に着いて一歩でも踏み出せば、いっぺんに治るのです。ちょうど、それと同じです。皆さん、十か月の間、赤ちゃんを身ごもって過ごすのは大変ですが、生んでしまえば、瞬く間に楽になるというのです。

 私は、母の残した言葉を忘れることができません。私が小さかった時、私の姉がお嫁に行く時、叔父とか、他人と同じくらい遠い姻戚まで集まってきたのですが、そこで母は、「この世では何といっても、赤ちゃんを生んで育てる時が一番いいことだ」と言うのです。一番苦労する時なのに、どうしてそうなのかというと、赤ちゃんがお腹がすくと、お母さんの乳も張ってくるというのです。何のことか、分かりますか? 百発百中、お乳が張って痛みだすというのです。お乳が一番鋭敏なのです。それで、お腹のすいた子供をさっと抱いて、お乳を飲ませる感覚というものは言葉にもならないほどのものなのです。お乳を飲ませる気分は、赤ちゃんを持ったことのあるお母さんでなければ分からないのです。張っていたお乳がさっとしぼんだ時、どんなにすっきりして気分のよいことでしょうか? また赤ちゃんが、チュッチュッと吸いながらお乳に触れる姿を見る時、母親の愛がそこから湧き出るというのです。それで、すべての喜怒哀楽の双曲線がぶつかる、その母親の心というものは体験しなければ分からないのです。

 ですから、母の言うことは何かというと、「八人の兄弟姉妹を皆、結婚させて、お嫁にやってしまったら、この世がこんなにひっそりと寂しいものとは思わなかった」と言うのです。行こうとすれば行けないことはないのだけれど、それぞれが遠い所に行ったので、一日に一回ずつ歩き回ることもできずに、いつも思い詰めているのです。愛したいし、恋しい心で、息子娘が元気でいるのか訪ねてみたくて、福を願って祈祷するのです。それが貴い親心なのです。そのようにしながら年老いていくのです。ですから人は、愛によって生まれ、愛によって一生を終えるのです。そのようにして、原理的な順理的な法度を経て、地上世界と天上世界まで継続されていくのです。(一九八九・一・六)

4)女性の人格完成の道 … 287

 女性は半分なのです。男性を愛で消化することによって、円満な女性の人格が完成するのです。分かりますか? それゆえ、悪い女性は、たまには男性からぶたれなくてはなりません。尻にあざができ、ほっぺにあざができないといけないのです。そして、口はむやみに開けないで、じっとしていなければなりません。女性は口が武器なのです。それしかないのです。口が武器なのです。そして、表情が武器なのです。その二つなのです。分かりますか? それで、女性は言葉のために滅びることもあるのです。

 ご覧なさい。映画を見ても、一言も言わないでじっとしていれば消化できたのに、「アイゴー、出よう!」と言って、風呂敷を持って一度家を出て行ってしまえば、もう戻ってくることができません。息子娘がいても、「お母さんがそれでは、お父さんに冷たくされるのが道理です」と言われるようになるのです。ですから女性は、どんなことがあっても風呂敷を包んではいけないのです。

 お仕置きをされたとしても、決して風呂敷を包まず、布団に横になって寝込んでしまいなさい。横になって復讐するほうがよいのです。御飯を一週間くらい食べずに、けろりとして、すべてに干渉して、「ああ、今来られたのですか?」と言って、けろりとして食べないでいてみなさい。夫が眠ることなく一週間の間、見守っていて、和が生まれるのです。それは、どんなに素晴らしいことでしょうか? (笑い)為に生きながら復讐できるのです。

 ですから、「夫は悪者」と言う女性は、存在できないのです。「悪い夫であっても、私のために歴史的に訪ねてきた人であり、数多くの男性たちの旗を受け継いで、私という女性を訪ねてきてくださいました」と言わなくてはなりません。そのような旗を立てて、平和の王国を成し遂げよう、愛の国を成そうと、出会った二人なのです。これが夫婦なのです。愛は、生きていなければなりません。愛が死んでしまってはいけないのです。女性は半分なのです。分かりますか? 円の半分なのです。女性の行く道は、円の半分を描かなければなりません。男性を踏みつけて上がっていこうとするのはよくないことです。

 それでは、どのように上がっていくのかというと、男性が降りてこられるようにしておいて、次に、背負われていくのです。男性のために生きる人は、自然にその村でも上がっていけるのです。村の人々の前に、おじいさんの背中におぶさって上がっていくのです。家庭で、お母さんがそのような厚徳な心を持っていれば、三代以内で、その家門を受け継ぐことのできる長孫の息子娘が生まれるのです。そのような道理によって、三代で復帰するのです。復帰するということは、全体を支配できるので、三段階だけを越えることができれば、新しい希望の世界に連結されるのです。そして、螺旋形になって大きくなっていくのです。(一九八九・一・六)

 皆さんは愛の家を持っていますか? 君は、愛の家を持っているのですか? (探さなければなりません)。女性は、女性の愛の家を持ち、男性は男性の愛の家を持っているのです。しかし、女性が持っている愛の家は女性のものではなく男性の愛の家であり、男性が持っている愛の家は男性のものではなく女性の愛の家なのです。何のことか分かりますか? これが分からなければ大変なことです。交通違反になるのです。

 女性の愛の家はどこにあるのかといえば、女性にあるのではありません。入れ替わっているのです。それでは、なぜそのように交差するのでしょうか? 愛は、交差の過程を経なければならないからです。宇宙を連結させるためには、交差しなければならないのです。

 これは愛のみが可能なのであって、他のものではだめなのです。他のものにはできないのです。他のものは全部、皆さんのためにあるのです。目は誰のものでしょうか? (自分のものです)。自分の体は皆、自分のものだと言うのですが、愛だけは自分のものではないのです。愛だけは自分のものではありません。愛は、自分のものではないのです。全部が相対のものなのです。入れ替わっているのです。それが入れ替わっているために、交差点が生じてそれを拡大すれば、球形が現れるのです。

 旧約聖書には、聖所や至聖所という言葉がありますが、それは何を言っているのでしょうか? 聖所は人を象徴するものであり、至聖所は愛の家を象徴するものなのです。愛することのできる家のことをいう言葉なのです。

 人は皆、聖所、至聖所を持っているのです。聖所とは、神様に侍ることのできる所です。では、至聖所とは何でしょうか? 特権的な愛の主管権を持つために、神様との関係を結ぶ所が至聖所なのです。至聖所は、天と通じることのできる位置をいうのです。天との直接的関係を結ぶことのできる所がすなわち至聖所なのです。

 それは、誰もが触れることはできません。至聖所を守る祭司長は、二人ではありません。絶対に一人なのです。そうですね? 至聖所を守っている人が鍵を開けなくてはならないのに、他の人がそれを汚し、触れるようなことがあれば、昔は雷に打たれて死んだのです。何のことか分かりますか? エバの至聖所の鍵を持っていたのはアダムであり、アダムの至聖所の鍵を持っていたのはエバであったということを知らなければなりません。

 そして、神様と一体の愛の因縁を結ぶところで、神様に侍って愛し合わなければならないのです。男性と女性の二人だけが会うのではありません。男性と女性の二人が会う時には天理を代表する、宇宙創造理想が巡り合う位置で神様の愛を受けるのです。そして、「あなたの願いである息子娘を得なければなりません」と言うのです。(一九八四・六・二〇)

5)夫の責任と妻の責任 … 290

 夫は妻を愛して、影をつくってはなりません。妻のために責任のある夫として、自分の妻を一番愛する夫にならなければなりません。また、「妻としても、私の夫は本当に素晴らしい」と言うことができなければなりません。私たちのお母様がそうなのです。

 また、父親もそうなのです。他人の父親になることは簡単ではありません。事実、息子は他人です。世界に送り出す、他人となる子供を私が管理して育てているのです。そのように見るのです。子供は他人なのです。父子の関係は、問い詰めると他人になるのです。父親の役目をすることは簡単ではありません。妻の役目も、夫の役目も簡単ではありません。また、大きな所帯を好きにならなくてはなりません。大きい所帯を受け持つ金持ちの長男の嫁をよく見ると、慣れていて落ち着いているのです。いくら秘密に何かしようと思っても、自然に防御されてしまうのです。それだけ、経験があるのです。

 皆さんは、舅、姑のいる所にお嫁に行きますか、舅、姑のいない所にお嫁に行きますか? (いる所に行きます)。舅、姑がいても、統一教会の皆さんは皆、先生が小言を言って教育してきたので、問題ないのです。そこで暮らせば、その嫁に、舅が死ぬ時には遺産を譲り渡してくれるのです。分かりますか? どんなに怖い姑にむちで打たれながらでも、そこで不平を言わずに過ごして、姑が「本当によい嫁だ」と褒められるようになる時は、その姑のすべての貴重なもの、装飾品も全部、受け継ぐことができるのです。分かりますか? 皆、そのようになるのです。

 気難しい性格の夫は、妻をよくたたくのです。時々、夫からたたかれて、すっと涙が流れ落ちていくことを感じても、すぐに笑うことのできる女性であれば、幸福な女性になるのです。私は、そのように考えるのです。女性たちで、夫からしかられたり、ぶたれたことのない人は不幸なのです。ですから私は、お母様は不幸だと思うのです。(笑い)私が統一教会の教主でなければ、既に一発なぐっていたことでしょう。統一教会の教主であるゆえ、そのようにできなかったのです。(笑い)真の父母という名がついているからです。そんな名がついていなければ、私はそんな訓練をするというのです。

 そのようにしながら、お互いに開拓していくのです。高い所に登っていくのです。明日の希望がある限り、お仕置きされても、構わないというのです。希望の道を早く行くことができるとすれば、その道のためにお互いが激励して、押し合ってでも行かなければなりません。女性は、お嫁に行く時、愛そうとして行きますか、愛されようとして行きますか? (愛そうとしてです)。この世の女性たちは、愛されようとして行くというのです。それでは、愛そうとしてお嫁に行くのに、夫が愛を受け付けないとすればどうなるでしょうか? どうなるのですか? 愛を受け付けないというのに、始終、愛そうとすれば、しかられて、たたかれることでしょう。しかたのないことです。それはありえることです。始終、愛そうとすれば、夫が殴りつけることもあるでしょう。その時は、どうするつもりですか? 泣きながらでも愛そうとしなければなりません。死にそうになっても、愛そうとしなければならないのです。死にそうになりながらも愛そうとする時に、夫が屈伏するのです。そのようになるのです。それは、説明の仕方によるし、解釈の仕方によるのです。環境や立場が違うといって、一方的にすべてを評価してはなりません。

 あなたは、お仕置きされたことありますか? (されたことはありません)。それでは、ちょっとぶたれなければいけません。(私がぶちます)。(笑われる) 統一教会の女性たちは、あまりにも運がいいのです。男性たちがどこかを歩き回って帰ってきた時、昼寝などできるでしょうか? どうですか。

 この世で有名な夫に仕えようとすれば、女性は昼寝などできないのです。ありったけの精誠を尽くして、衣類を整えて、化粧をして、ひたすら夜を明かして座って待っていなければなりません。でなければ宝石の装飾品をつけて、貴金属の装飾品をつけて、ラッパを吹き、踊りを踊り、何でもできる芸者たちが列をつくって待っているからです。

 賢い夫に仕えていて、妻が高慢になり、「私は愛だけを受けたい」と言っていれば、一生の間、夫は共に暮らしてくれるでしょうか? 皆さんの顔を鏡で見て、一生の間共に暮らしてくれる男性がどこにいるのか考えてみなさい。皆さん、丸い目、平べったい顔、ぺったんこの鼻、唇、その四つを見て、一生の間、どうやって暮らすのですか? それを考えなくてはなりません。この顔だけを見て一生の間、暮らしてくれる男性を考えた時に、心から同情してあげなければならないのです。ですから一か月に一回くらい、「仕事が大変だろうから、私を小突いて、気分を晴らして暮らしてください」と言える余裕がなければなりません。(一九八四・七・一〇)

6)二世祝福家庭夫婦の道 … 293

 皆さんの家庭で、二人が行くべき道は確実なのです。どちらがよくできたのか、できなかったのかという問題より、神様をより愛するために、どちらが先に立つのかということに意義があるのです。そのような人には、従っていかなければなりません。

 第一に、環境に習慣化されてはなりません。二番目は何かというと、愛を中心として前進的に発展していかなければなりません。妻は夫のために生きなければならず、夫は妻のために生きなければなりません。そうすれば、夫婦は神様のためのものなので、み旨の中で神様が訪ねてくださる氏族が必要になり、民族が必要になり、国家が必要になり、世界が必要になるのです。まだ、天の国の霊界を解放しなければならない解放圏、地獄を解放しなければならない解放圏が残っているのです。

 堕落の結果、それが残っているのです。それを掃除しなければなりません。誰がゴミ箱を掃除しなければならないのでしょうか? 神様はすることはできず、真の父母はすることができないのです。自分たちのとどまる家庭的環境、氏族的環境、民族的環境、国家的環境、世界的環境が、真の父母様の後孫として連結される環境なので、その環境の当事者が解決しなければならないのです。

 それでは、復帰路程における当事者には誰がなるのでしょうか? 代表として皆さんが立たなければならないのです。それを家庭的になした人は、あの世では家庭的祝福圏内に入るのです。氏族的になした人は、氏族的祝福圏内に入るのであり、民族的になした人は、民族的祝福圏内に、国家的になした人は、国家的祝福圏内に入るのであり、世界的になした人は、世界的祝福圏内に連結されるのです。

 そのような愛の内容を中心として、天国の格位が決定されるという驚くべき事実を知らなければなりません。寝ても覚めてもそのことを考えるのです。夫を愛する以上に父母を愛し、夫を愛する以上に兄弟を愛し、家庭を愛する以上に国を愛し、国を愛する以上に世界を愛し、世界を愛する以上に天宙を愛し、天宙を愛する以上に神様を愛さなければなりません。愛の道が連結されなければ、行く道がないのです。

 皆さんの心の中に、皆さんの生活の基盤の中に、神様の愛が流れてきて、一滴、一滴、落ちてこなければなりません。一滴でも、落ちてくれば希望があるのです。泉が湧くのです。それが理想です。もし、これがポタポタと落ちなくなれば、滅びていかなければなりません。愛の国の国籍から除去されなければならないのです。愛の伝統世界に違反した者として除去されるのです。(一九八六・四・一二)

 結婚すれば、皆さんの思いどおりにはできないのです。神様の愛を受けるために、夫婦は行かなければなりません。また人間は、なぜ男性として生まれて、なぜ女性として生まれたのかというと、それは愛のゆえです。ですから、夫婦は一つにならなくてはならないのです。それが神様の愛です。二性性相に分立されたものが合性一体化して、神様の愛を受けるために、神様の愛を探していくのです。

 神様の愛に会おうとすれば、女性は男性と一つになり、男性は女性と一つにならなければなりません。そうしなければ、神様の愛に会う道がないのです。神様の愛に会うことによって、神様の隣に立つことができるのです。皆さんもそうでしょう? 男性と女性は何を中心として一緒に立っているのかというと、顔立ちでもって立っているのではありません。愛というものなのです。男性と女性、夫婦は愛のために存在するのです。そのような愛を、神様はなぜアダムとエバに要求されたのでしょうか? 神様がその愛を中心として、一つになることができるからです。それゆえ、夫婦の愛は、神様の愛を連結させるためのものなのです。

 なぜ、私たちは神様の愛を要求するのかというと、神様の愛を受ければ、神様と同じ位置に立つことができるからです。そうですね? 皆さんも今、初めて会ったのですが、夫婦の愛という概念の前には、確実に同じ位置に立つことができるのです。二人が愛すれば、一つになるのです。逃げることはできません。いつでも連帯責任を負うのです。同様に、夫婦が完全に神様の愛を中心として一つになる時には、神様の位置に上がっていくのです。神様の位置に上がっていくだけでなく、神様が持っているあらゆるものが、二人の所有権内に入ってくるのです。ですから、愛は驚くべきものなのです。同参的権威を許されると同時に、すべての所有権を伝授されるという、驚くべきものなのです。

 それは、どういうことかというと、神様はアダムとエバを愛したので、ご自身をアダムとエバに下さるのです。ご自身を下さるだけではなく、理想的な愛までも私たちに任せるのです。ですから、そこに属するすべての宇宙は、自動的に伝授されるようになるのです。そのような相続圏が得られるのです。

 それでは、人間が世界で一番になろうとする欲望は、何によって達成されるのでしょうか? それは、愛によって達成できるのです。お金でも、権力でもできません。ただ、愛のみが可能なのです。神様が立てておいた愛のみが可能なのです。私たちの本心は、神様の愛を中心として結束できる本然の性稟を持っているために、世界で一番になろうとするのです。

 世界で一番になることとは何かというと、神様が一番なのですが、その位置に上がっていくということなのです。上がっていって何をするのかというと、神様の愛を中心として、宇宙を私のものにしようというのです。皆さんも、そういう欲望があるでしょう? その欲望をすべて完成させるには、お金でも、知識でも、権力でもできないのです。ただ愛のみが可能にするのです。これが、統一教会の原理の神髄であり、人生哲学の根本です。今まで、これを知らなかったのです。知ってみると、簡単な内容なのです。(一九八六・四・一二)

7)地上天国を成すための生活姿勢 … 297

 皆さんは結婚するのですか、しないのですか? 男性たちは結婚するのですか? (はい)。それで、子供たちが必要ですか? (はい)。なぜですか? それは、神様の愛を知り、父母の愛を知り、父母に侍る術を知り、夫の愛を知り、夫に侍る術を知り、子供の愛を知り、子供に侍る術を知らなければならないからです。子供には命令だけではなく、侍ることを知らなければならないのです。為に生きることを知らなければならないのです。

 でなければ、神様の愛を理解することができないのです。すべてが教材として必要なのです。子供がいなければ未完成であり、神様の愛を知ることはできないのです。神様が人間を子供として、どんなに愛してこられたのかが分からないのです。夫になってみなくては妻の愛が分からないし、妻になってみなくては夫の愛が分からないのです。また、父母になってみなくては、父母の愛がどんなものか分からないのです。すべてが、それらを連帯的に分かるようにするための教材としてつくられているのです。皆さんは息子娘がいなければ、真なる父母にはなれないのです。そうでしょう?

 ですから、本然の原則、規法に合格できる一級品になるためには、父母が必要であり、相対が必要であり、その次に何が必要ですか? 子供を持ってこそ、神様の愛を体恤できるのです。この宇宙がハンコを押してくれるのです。そうして、自然に天国に入っていくのです。これを受けられなければ、天国には入れないのです。

 皆さんは、家庭を中心とした愛の体験を、そこで拡大しなければなりません。そのためには、氏族のために家庭を犠牲にしなければなりません。また国家のために、氏族を犠牲にしなければなりません。大きな愛のために、すべてを犠牲にしなければなりません。その段階的犠牲を通して、より大きな愛の条件を立てることにより、どこでも愛の理想圏と連結されるのです。皆さんは、実際にはできなくても、それと同じ愛の環境でなせば、合格者として、天上世界に入っていくのです。垣根の中で、環境の中で愛してきたのですが、その環境を愛する人が、世界、国家を愛し、天と地を愛する人たちと同じ恵沢の位置に同参できるのです。また、そんな位置に立つようになれば、さらに愛するようになるというのです。それをよく知らなければなりません。

 皆さん、自分が祝福家庭の息子であるといって、意地を張ってはなりません。お父さんお母さんの立てた基準の上に立たなくてはなりません。皆さんの夫の先輩となる人を見た時、夫以上に尊重し、彼らが皆、これから国家的基準で、み旨を成す忠臣たちになるのだと考えなければなりません。

 それを延長して、皆さんのおじいさんおばあさんの年齢に当たる人たちには、おじいさんおばあさん以上に侍る心で、皆さんの父母の年齢に当たる人たちには、父母に侍る以上の心で、皆さんの夫や妻の年齢に当たる人たちには、夫や妻以上に愛する心で、皆さんの子女と同じ年の子供たちには、子女以上の心で愛さなければなりません。

 そうすれば、家庭では何にもできないみたいでも、社会に出れば素晴らしい人になって戻ってくるというのです。それが父母の願うことなのです。そのような思想を連結させなければなりません。

 なぜ、そのようにしなければならないのかというと、統一教会の思想が、個人は家庭のために犠牲になり、為に生き、愛しながら生きなければならないからです。家庭は氏族のために生きなさいというみ旨があるので、世界の代表と同じ心を持って、為に生きなければなりません。そのような心を持って、祖父母がそうであり、父母がそうであり、夫婦がそうであり、息子娘がそのようになる時、天上世界のどんな忠臣たちの位置へもためらうことなく行けるというのです。分かりましたか? 地上天国がどんな所なのかというと、そうやって生きる世界なのです。(一九八四・七・一〇)〈完〉


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