第一章 神様の創造のみ業 … 17
P.18
第一節 神様の実存
一 神様の実存を知る
今日、先生が世界的に提唱している思想的内容を見ると、一番目は何ですか? 世界の宗教を統一する原理です。では、宗教をどうやって統一するのでしょうか。神様についてだれよりもはっきりと教えてあげるのです。「このようにすれば、間違いなく体験的宗教を実現することができる。理論的体系に基づいて、科学的データに基づいて、体験させることができる。そうしなければ宗教を一つにすることはできない」というのが宗教に対して提唱している原理です。
二番目は何ですか? 思想に対して提唱している原理です。世界が混乱し、人々が右往左往しながら方向を見いだせずにいる中で、確固たる思想を中心として進んで行く道、その道が二通りあると先生は見ています。
その思想というのは何かというと、人生問題、個人の問題に対する思想です。人間は一体どのようにして生まれたのでしょうか。人間自体を論ずるとき、人間はあくまでも結果的な存在であって、根源的な存在ではありません。自分自身が第一原因的存在だと主張する人は一人もいません。原因は分かりませんが、結果的な存在だから結果的な存在として生まれたのです。人間とは何かという問題を考えるとき、結果的な存在として生まれた人間には、人間に生まれるようになった原因があるに違いないため、第一原因的存在として提示すべき何者かが存在しなくてはならないのです。ですから、神様についての問題を中心にした上で、自分自身にについての答を出さなければなりません。
神様を知った土台の上でのみ、自分個人の人生観というものが設定され、家庭がどのように進み、社会がどのように進んでいき、国家がどのように進み、世界がどのように進み、将来、世界の終末はどのようになる、という方向を設定できるのです。それは自分だけの方向ではありません。自分だけの方向ではないのです。ですから、人間についての問題と、原因的な存在である神様がいるかどうかの問題を知らなければなりません。
今日、哲学の追求する道は何ですか? 哲学は理論を通して神様を究明するために、すべての知性人を投入しましたが、失敗の烙印を押されてしまいました。神様を発見できなかったのです。
世界が一つになれなかったのは、中世のローマ教皇庁が本当の神様を教えてあげられなかったからです。そこから、世界が人本主義に転落してしまったのです。神様はいない、というわけです。妄想だ、虚構だ、というわけです。それはなぜですか? 神様をはっきりと教えることができなかったからです。神様をはっきりと知るには、体験を通さなければだめです。理論だけではだめです。直感を通した体験が必要なのです。しかし、そのような神様を教えることができませんでした。
哲学は神様を探して求めてきましたが失敗しました。今日、世界が民主主義と共産主義に分かれて争っていますが、これは失敗に終わるのです。なぜなら、神様を見つけることができなかったからです。
では、宗教は何なのでしょうか。宗教には神様の究明が必要ありません。宗教というのは、神様を見いだし、神様とともに生きようとするものです。それも理想的に生きようとする生活理念になっています。人生の幸福を神様とともに追求するのです。ですから真の宗教は神様とともに生きる宗教です。
では、ここで問題になるのは何でしょうか。思想の問題も、神様を知らなければ解決できないのです。また、共産主義、共産主義は唯物論を主張し、物質主義ですが、これを解決するにおいても神様を知らなければだめなのです。「神様はいない」というその主義を完全に滅ぼし、「神様はいるのだ」ということをはっきりと百二十パーセント認識させなければなりません。神様を知らずしては、何事も解決できないのです。違いますか? 思想も神様を徹頭徹尾知った上で、神様と相対的位置なり対等の位置に立たなければ、正しい思想理念を世界に提示したとしても、変動する環境に巻き込まれてしまいます。それは、絶対的な思想になりえないからなのです。(一四一�\二三四)
二 本来は自然に分かるようになっていた
P20
人類が堕落しなかったなら、神様がいるかどうかということを問う必要もありませんでした。それは本心で分かるのです。つまり、人類が堕落せず善の父母としてこの宇宙に現れ、家庭を成し、その家庭が繁殖してこの人類世界をつくったなら、今日の人類は神様がいるとかいないとかで論じ合う必要はなかったのです。血統がつながっているので、体で分かるのです。一本の木と同じで、そこには説明が必要ありません。説明を通して神様が分かるようにつくったとしたら、神様は創造を誤ったのです。
本来、人間には説明が必要ありません。説明の過程を通り越したところから出発すべき人間が、堕落により、神様と隔離された立場から出発して個人・家庭・氏族・民族・国家・世界と進んできたために、神様がいるかどうかを論ずるこのような世界になったのです。
人類が堕落せずに、善なる父母を通して生まれていたなら、神様がいるかいないかという議論は必要なかったはずです。生まれながらにして、自然に分かるのです。子どもは胎中でお乳の飲み方を学んで生まれるのですか? 生まれると同時に、目の前に母親の乳房があれば吸うようになっています。自動的に分かるようになっているのです。それと同じく、人類は堕落しなかったならば神様との関係を自動的に知って、自動的に解決して、自動的に行くべき方向を知ったことでしょう。ところが、堕落によってすべて分からなくなってしまったのです。だから神様がいるかどうか、疑う世界になったのです。(二〇�\三〇六)
三 神様の遍在性
P21
人間の始祖であるアダム・エバが堕落しなかったなら、神様の愛を中心に一体となり理想の実体を成したことでしょう。そして、神様は私たちの内的父母となられ、アダム・エバは外的父母になるのです。地上の世界が地上だけで孤立するのではなく、神様を中心とする霊界が地上を代表した人類始祖と完全に一つになるため、神様を中心とした霊界は内的な面を表し、アダム・エバを中心としたこの地上は外的な面を表して一体になるのです。
では、神様はどこにおられるのでしょうか。霊界ではなく、私たちの心の中心におられるようになるのです。すなわち、心の中心におられる神様と心の命令を受けるアダム・エバは一心同体なのです。(一四五�\三一〇)
それでは、皆さんは神様の遍在性をどうやって感じることができるでしょうか。それは、空気を神様の息吹のごとく感じ、台風が来たら、神様が世界のために苦難の道を克服してこられながら流された涙のように感じることができるのです。太陽を見るときには、その太陽がこの宇宙全体の生命の源を象徴することを知って、神様の愛を太陽に学べということです。
神様の心情を体恤するにおいて、一つの教本として、教材として展開したもの、愛する子供たちを喜ばせるための教材としてつくられたものが自然ではないですか? そうなのです。木の葉を見て自分の息子や娘のように思い、独りで語りかけることのできる人がいたなら、その人は聖人に近い人なのです。分かりますか? 気の狂った人ではありません。(五九�\一〇二)
四 神様は無形の存在
P22
神様は生きていますか、死んでいますか?(生きています)。悪魔も生きていますか、死んでいますか? 神様を見たことがありますか? どうして分かりますか? 悪魔を見たことがありますか? どうして分かりますか? そこで、共産主義でいう観念と実在が哲学の問題となるのですね。目に見えないものは皆すべて観念です。抽象名詞。良心も観念だと見るわけです。
では、愛を見たことがありますか? いわば愛も観念、抽象名詞です。しかし、愛は観念ではありません。実生活のあらゆる面で触れているのです。(一八六�\六七)
神様は知恵深い方です。神様は自ら「見えない主人になろう」そういう考えができるのです。便利な道を選ぶとなると、人間たちの知らないうちに、そっと神様ひとりで思いのままにできるように、人間がいくら追いかけても捕まえることができず、見ようとしても見えない存在になるのがいちばん便利な方法でしょう。それでもって主人として君臨すればよいのです。分かりましたか? そうやって君臨するのが理想的なのであって、二百十億光年にもなる宇宙に「我が懐に抱かれよ、お前は我がうちにあれ」と言うそんな図体をした神様だったら、神様としてやっていられるでしょうか。その神様に心があるとすれば、心から体までの距離はどのくらいになるでしょうか。その大きな体と心が互いに訪ねて行くには、どれだけ時間がかかるでしょうか。神様がご覧になっても嘆かわしいはずです。
そのように考えると、知恵深い神様、全知全能であられる神様は、中央に立って思いのままに動き回れる、無形の存在としてこれを支配するのがいちばん便利だと考えたのです。では、だれか文句を言う人がいますか? 神様は無形であるだけに、存在世界を自由に通り抜けて行っても、少しの支障も感じる人はいません。皆さんにも体がありますが、神様が来て自由に通り抜けても分からないのです。神様が、うとうと居眠りしている皆さんの体を踏んで行っても気づかずにいるのです。だからとても都合がいいのです。いちばん都合がいいでしょう? 従って、神様はよく考えた末に、目に見えない存在でいるのがいちばん便利だということで見えない神様になった、という論理は妥当な論理なのです。
皆さん、空気が体を出入りしているのを知っていますか?(はい)。出入りしていますが、それを感じますか?(感じません)。感じないでしょう? 空気が出入りするのも感じないのに、神様が出入りするのを感じられるかというのです。こうして神様は、無形の神様でいることが最も便利な方法だと判断し、この宇宙を支配できる、宇宙を風呂敷に包んで余りあるほどの神様でなければいけないと考えたのです。無形の神様ですが、無形の神様の心はこの宇宙でさえ小さいと感じ、もっと大きなものを要求しているのです。分かりましたか?(はい)。(一三八�\一六七)
五 神様は体恤しなければ分からない
P23
では、「神様はいる」、漠然と「神様はいる」と言うと、私たちにはあまり関係がないような気がします。神様がいるならいるで、私たちと何の関係があるのかというのです。関係、リレイションシップ(relationship)というものが問題ですが、どのような関係を持つかということが重要なのです。(一三〇�\二〇九)
「神様はいる、神様はいる」というのは、言葉だけではないのです。『原理』を通して主体と対象の関係を中心として見るときに、私たちは、神様が不可避的にいなくてはならない存在だという立場ではなく、「神様は私が考える以前から存在していたのだ。私のすべての感覚、私の一切のものを主管する神様だったのだ」という立場なのです。それを認識することが何よりも重要な問題です。
「認識して知る」のが原則ではないですか? 「知って認識する」のではなく、「認識して知る」ようになっています。私たちは、寒いなら「寒い」ということを知ってから感じるのではなく、寒いことを感じてから知るのですね。それと同じように、皆さんは、神様がいるなら神様がいるということを感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。すなわち、体恤的立場をどのように確立するかという問題、これが問題なのです。(五八�\二九一)
今日、私たちは、「神様の愛を受けたか?」あるいは「今、神様の愛を受けているか?」と聞かれたら、何と答えるでしょうか? 世界中の神学者の中には、神様がいるのかいないのか分からない人もいます。ムーニーたちはどうですか?
神様は頭で知るのではなく、心情で体恤しなくてはなりません。感じなくてはならないのです。私たち統一教会は、神様からいただくことのできる愛の取り分があります。その取り分をいただかなければなりません。(一二八�\一三〇)
皆さん、これが問題です。皆さんは寝ているときも「お父様」、独り言でも「お父様」と言えなければならないのです。世の中の人々が自分の相手を慕う以上の慕わしさがこみ上げるようでなければなりません。そうして食べることも寝ることも忘れて、その生活の内面に天のお父様への慕わしさを持って「お父様」と呼べば、目の前にお父様の姿がなくてもお父様の手が握られるようになるのです。そういうことがあるのです。夢のようなことが起こるのです。「お父様」と呼べば、お父様の懐に抱かれるようになるのです。このような中で体恤的感情をいかに体得するかということは、信仰生活において何よりも貴いものであることを皆さんは知らなければなりません。
そのような体恤の感度、感じる度数、その量がその人の信仰の基準になりうるのです。そのような愛の心情を持ったならば、どこへ行ったとしても「私がこれをしなくてはならない」というときには、「天よ、共にいてください」と言う前に、すでに神様は共にいてくださっているのです。そのようなことを皆さんが感じるときには、「神様、感謝いたします」と言うようになるのです。(五八�\二九九)
第二節 神様の創造
P26
一 なぜ、天地万物をつくったのか
神様はなぜ天地万物をつくったのか、これが問題です。この地、万物はなぜ生まれたのでしょうか。自然発生ではありません。偶然に発生することはありえません。「科学的」という言葉を使うとき、原因と結果がつながらなくては公式になりません。公式的な論理を経て文明も発展するのです。公式を適用できる環境的与件があります。これは自他ともに認める事実です。(一六四�\八三)
神様はこの天地をなぜつくったのか、これが問題です。この問題は哲学でも問題であり、数多くの宗教でも問題です。この天地はどうしてできたのか、それが問題なのです。宇宙もやはりそれをなぜつくったかが問題であり、人もどうして生まれてきたかが問題なのです。(一三六�\一三六)
神様は何をするために天地を創造されたのでしょうか。いたずら半分につくった? あるいは何か遊びの対象として? 違います。収穫できる一つの結実を心に抱きながら創造したのです。(二七�\二二七)
神様はなぜ天地を創造したのでしょうか。それはいくら絶対者だといっても、自分独りでは喜びを感じることができないし、たとえ喜びがあっても喜びの刺激を感じることができないからです。つまり、絶対者がいくら「私は絶対者だ。私は愛の主人公だ。生命の主人公だ」と言ったところで、絶対者一人では愛の刺激を感じることができないのであり、天地が自分の体の中にあるという生命の刺激を感じられないのです。(三八�\一五二)
神様は天地創造をなぜなさったのでしょうか? 生命的接着を目的としてなさったのでしょうか? 違います。愛の理想を同化させるためなのです。(一八八�\一九六)
二 神様が人間を創造されたわけ
P27
神様は人間を何のために創造したのでしょうか。子供たちの生命を見るために創造したのではありません。ご自分の子供たちと愛を築くために、人間を創造したのです。いくら考えてもそれしかありません。
人間を創造した目的は愛のゆえです。神様の愛を中心として、そこから生命が創造されたのであって、生命をつくってから愛を誘発したのではないのです。言い換えると、本来、神様の心に愛が芽生えはじめて生命が生まれたのであり、その生命は愛から始まったので結果も愛にならなくてはなりません。分かりますか? 始まりが愛なので、終わりも愛にならなければなりません。それゆえ、愛を取り去ってしまえば私たち人間は不幸になるのです。(五七�\二二)
神様は私たち人間をなぜ創造したのでしょうか。神様が私たちを創造したのは愛のゆえです。神様は芸術作品か何かを作ろうとしたのではありません。愛ゆえに創造を始めたということを知らなければなりません。ですから、「私」という一人が存在する以前に愛が先にあったのです。愛のモデルを標準としてすべてをつくったのです。本来、愛のモデルを中心に、神様の理想的なモデルを中心に男性をつくり、女性をつくり、この被造世界をつくったということを知らなければなりません。(一六一�\三二七)
神様はなぜ人をつくったのでしょうか。全知全能の神様、遍在する神様は何が不足で人をつくったのでしょうか。キリスト教式に、ただつくった、とすれば簡単でしょう。しかし、それでは通じません。神様は何が必要ですか? 神様にお金や金塊やダイヤモンドが必要ですか? 必要ですか、必要ないですか?(必要ありません)。そんなものはいくらでも…ない?(あります)。ちゃんと知っていますね。では、神様は知識が必要ですか、必要ないですか?(必要ありません)。知識の王であるわけですが、その知識はいくらでも…ない?(あります)。そうです。では、全知全能の神様に権力が必要ある、ない? どうですか?(ありません)。あってもなくてもそれだけのことです。そんなものは「ある」と言ってもいいし、「ない」と言ってもかまいません。同じことです。
それなら神様に必要なものは何ですか? 神様は生命も必要ありません。生命の主体なのに生命が必要ですか? それでは何が必要ですか? 何ですか?(愛です)。愛が必要なのです。どうして神様に愛が必要なのですか? 愛というのは相対的関係において成立するものだからです。理論的に突き詰めてもそれしかありません。神様も愛を必要とする神様にならずしては、この創造世界の人間と関係を結ぶことができないのです。だから愛を持って訪ねてこなければ存在世界と関係を結べない、という結論になるので、神様は愛を標準として定められたのです。分かりましたか?(一二一�\九九)
神様ご自身が愛するために、愛の対象が必要で人をつくったのです。愛は一人ではできないですね? 対象圏がなければ愛は成立しません。神様も愛が絶対に必要だからこそ被造万物をつくり、被造万物を代表した霊長として人をつくったのです。人が絶対的に必要なので、絶対的愛の対象圏の価値を与えたのです。愛を共有するために、その対象的存在としてつくったのが人間なのです。従って、人間自体が神様の体です。神様の体であるアダムとエバの二人が夫婦になるということは、神様が夫婦になることなのです。分かりますか? そして、天上世界に行ってどうなるでしょうか? アダムとエバの姿で神様が人類の先祖になって、霊界と地上世界を処理するようになっているのです。分かりましたか? そうなったのです。
神様はなぜ天地万物を創造したのでしょうか。一番目は愛の対象のために。二番目は形状を持つために。三番目は実体を持った存在を主管するのに無形の存在ではだめだから、刺激がないから実体的主体となって刺激的な因縁を結ぶためです。それで人間をつくったのです。分かりますか? 一番目は何ですか?(愛のために)。二番目は何ですか?(形状を持つために)。三番目は何ですか?(刺激的な因縁を結ぶために)。刺激的な愛を必要とするからです。(一三八�\二一二)
神様は人間をなぜつくったのかという問題について見るとき、ただつくりたいからつくったのですか? 違います。見るためにつくったのではありません。何のためにつくったのかというと、愛を築くためにつくったのです。それを知らなければなりません。(八一�\一六)
三 神様は人間をどのようにつくったのか
P29
神様はあらゆる万物をおつくりになり、その万物の主人公として人間始祖をエデンの園につくっておかれました。人間をおつくりになるとき、神様がふざけ半分に見て楽しむものとしてつくったのではありません。趣味でおつくりになったのではありません。人間をつくって万物を代表する中心に立てるまでの神様のご苦労と精誠は、到底語り尽くせるものではないという事実を私たちは知らなければなりません。
神様は、人間をおつくりになるとき、精誠の限りを尽くし、心血を注ぎ、ご自身の命の核心をすべて集中なさり、愛と愛情をありったけ注いでおつくりになったのです。どんな力をもってしても離れられない、切っても切れない因縁の中でおつくりになったのです。このようにしておつくりになった人間なので、その人間をご覧になるときはじめて神様に平和が訪れるようになり、すべての情と幸福は人間を通してのみ宿るのです。
神様は人間の父であり、人間は神様の子女です。神様が骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をそっくり投入してつくった人間なので、このような人間が神様を引っ張れば、自ずと引っ張られてしまうのです。また神様が人間を引っ張れば、嫌でも引っ張られて行くのです。
神様はこのような因縁の中で、内容と目的が一致する人間としてつくったのです。もし、そのようにつくった人間を見て神様がほめたたえるみ言や詩があったとしたら、それは世の中のいかなる詩人も作家も表現できない最高の作品になるはずです。その対象は神様でもなく、万物でもなく、ただ万物を代表した人間なのです。(二〇�\二〇七)
宇宙が創造される前に、まず神様がおられました。神様がおられ、み言を構想されました。そのみ言というのは、具体的な実体をつくりだす内容をもったみ言です。その実体をつくりだして、それっきり神様と関係のない位置に置こうされたのではなく、神様とその実体が永遠に一つになるようにされたのです。切っても切れない、神様も切れないし人間も切れない不可分の一体理想を成就しようとされたのです。そのための最高の位置はどんな位置ですか? 私たち人間の立場から見ると、神様が最高の位置におられ、私たち人間は無価値な位置にありますが、私たちは最高の価値を持った神様の前に最高の対象となることを願うのです。また、それが一時的ではなく、永遠であることを願うのです。ですから人間は、「出発当時から神様と別々に出発したのではなく一緒に出発したのだ。自分は神様がおられると同時に出発したのだ」という立場を追求していくのです。(六八�\一二七)
四 万物をつくった目的
P30
本来、神様は天地万物を何かの遊びでつくったのではありません。趣味でつくったのではありません。何の目的も方向もなしに、何ら理念的内容もなしにつくったわけではないのです。これは皆さんが常識的に考えてもよく分かるでしょう。偉大な目的と大宇宙の理念をもって創造したのです。それでごく小さな生き物から広大な宇宙に至るまで、あらゆる存在物には、神様の心情を通した理念が宿っていることを私たちは否定することができません。
それでは、このような理念をもって創造した目的は何でしょうか? 神様の愛を中心とする理念の世界、すなわち愛を中心に通じ合い、愛を中心に楽しみ、愛を中心に生き、愛を中心に死ぬ世界を目的としたに違いないのです。
私たちが眠りから覚めて目を開くと、眼前に広がる森羅万象が見えてきます。私たちは目に映るその万象を通して何か計り知れない間接的な印象を受け、そこに反応する感覚で生活での感覚を高めていくのです。私たちの回りにいるごく小さな生き物も、例外なく私たちと因縁があり、関係があるのです。私たちが無視しても、その生き物たちはその日その日、天倫の理念に従って存在の価値を表し、人間と因縁を結んでいるのです。
なぜですか? ごく小さな存在物から、万物を主管できる万物の霊長といわれる人間に至るまで、その存在目的を中心に見るならば、すべて神様の大宇宙の理念に通じる愛の理念圏内に入っています。それで小さなものは大宇宙の目的を達成するにおいて大きな分野を担っているものに吸収されて動くのです。小さなものは大きなものに吸収され、その材料になり、一つの要素になり、大理念を中心として一つの目的に向かうようになります。歴史はこのように進展していくものであり、存在世界は天倫という原則の軌道に従って一つの目的のために動いていくという事実を否定できません。(九�\一六四)
神様はなぜ万物をつくったのですか? 自分が愛する対象、対象者を得るためです。自分が愛する対象圏をつくるためです。その対象が地上生活を終え、自分の本然の世界に帰り、永遠の神様の愛の国に入って暮らすようにするためです。それを知らなければなりません。(一四二�\七六)
五 創造の過程
P32
皆さん、聖書を見ると、天地創造をしたことが簡単に述べられています。み言で天地万物を創造した、とあります。「おい、何々!」と呼んだら「はい」と言って出てきたというのです。「星よあれ」と言ったら星が出てきて、「地球よあれ」と言ったら地球が出てきたとなっているのです。しかし、ここには無限の秩序と法則に従って、前進的な原則を継承し、小さなものから大きなものへと発展させてきたのだということを私たちは知らなければならないのです。そうしてこのすべての万物をつくっておいて、万物の精髄として集約したものが、いわゆる聖書のアダムとエバ、人類の祖先です。(六五�\二一)
創造するとき、何で創造しましたか? 最初は神様のみ旨がありました。神様の考えがありました。神様の考えとともに計画がありました。人間を創造して、これこれこのような人間世界をつくる、という神様本来の意志と計画があったことが分かります。(七六�\九二)
一つ知らなければならないことは、神様が世界をつくるとき、環境を先につくったということです。環境創造を先にしたのです。それを知らなければなりません。そこは必ず主体と対象を中心として作用する世界です。結果としてそうなったのです。主体と対象が合わさって作用する形状世界として自然界は展開されています。そうなるのです。(一三一�\二一七)
天地創造の原理を探ってみると、核心を先に創っておいて相対を創ったのではありません。核心を創る前に相対的な与件を創っておいたのです。人を創るために、土を先に創っておいて…。外的なものを基盤として、内的なものを立てていくのです。それが天地創造の原理なのです。現在よりも大きいもの、無価値なところからより価値あるものを築いていくのです。こうなるのです。天地創造の原理はそうなっています。今日、人間創造について見ても、人間を創るときには、先に体を創っておいてから霊人体を創ったのです。(一五二�\三一九)
第三節 宇宙
P34
一 宇宙とは何か
宇宙とは何かといえば、被造世界のすべてのものは、神様の愛する子女たちが愛の理想を実現していくことができるように、教材としてつくっておいたものです。ですから、すべて対照的構造です。鉱物も主体と対象の関係で作用します。原子もそうではないですか? 陽子と電子が主体・対象の関係で作用するのです。作用をしなくては存続できません。運動をしなくては永続、存続できないのです。
それゆえ宇宙は、人間を中心としてその中心に到達できるように創造された世界なのです。(一三七�\五九)
宇宙は何ですか? 神様の一つの体と同じです。目に見える神様の体と同じなのです。このような論理がここで成立するのです。宇宙は神様の分身です。それゆえ、私たちは現実に宇宙を愛することができる、という観念が成立するのです。宇宙を愛するという実感が持てるわけです。皆さん、髪もこうやって整えてやるでしょう? 服も何かがついたら払い落とすでしょう? それはなぜですか? 自分のものだから、自分と同じだから、そのような観念があるわけです。分かりますか? 皆さんがこれからどうしなければならないかというと、心の中に神様を迎え入れ、神様と心を一つにし、体を一つにし、万物が一つになる世界を成さなければなりません。(八六�\一七四)
二 宇宙の規模と構造
P34
この宇宙がどれほど大きいかというと、何億光年にもなります。何億光年です。光は一秒間に三十万キロメートル進むのですが、その三十万キロメートルというのは、地球を七周半回る距離です。その距離を一秒間で進む光が一年間かかって進む距離を、天文学では一光年といいます。その光年を単位として出発した光が、何億光年と進んでもまだ到達できない、それほど大きな宇宙です。分かりますか?(一二七�\二一六)
グリニッチ天文台では、これまで百億光年の彼方にある星まで発見し尽くしたのですが、今や百五十億光年の彼方にある星も見ることができる時代になり、それ以上の時代に入りつつあるのです。
この宇宙がどれほど大きいかというと、先ほど何といいましたか? 百億、ざっと見当をつけて、それも原理的数で二百十億光年、それほど大きいのです。それはどういうことかというと、光がここから出発して、それが一日かかるのを何というでしょうか、一日かかるのを?(一年かかるのを一光年といいます)。いえ、それが一日かかったら何といいますか? 光年ではなくて一日何といいますか? 一何ですか、一光日。一カ月だったら何ですか?(一光月)。私は分かりません、こんがらかって。皆さん、自分で考えてみなさい。
さあ、これが出発して一秒間に三億メートル�\光と電気の速度は同じです�\三億メートル進むのです。距離でいえば、地球を七周半回る距離です。七周半からの距離になります。あっと言う間にもう七周半回っています。それほど速い光が一日かかってもまだ着かないので、腰が曲がるほど疲れ、気が遠くなって「もう知るもんか」と言うくらいなのに、百年でもなく、百の何万倍ですか? 百の何万倍? 百の百万倍が億ですか? それが一億ですが、一億光年というと、出発してから一億年、進んでいく間にも百歳生きる人が百万人生まれて死んでいきます。
では、二百十億光年ならどうなりますか? 百人の人生の何倍ですか? 二億千万倍ですか? 皆さん、計算してみてください。その人たちがずらりと並んで、次々に生まれては死に生まれては死に、百歳生きて死にまた百歳生きて死に、それほど時間をかけてまだ先があるのです。
その距離も直線で進むのではありません。ぐるぐる回っているわけです。そのような宇宙なのです。自分より先に数えきれない人々が死んいっても、まだ果てしなく続くその距離はどんなに遠いことでしょうか。それは何千年何万年生まれては死に、さらに復活しても足りないほど遠い距離です。そういう世界があるのです。それは盲目的に動いてはいません。すべて授け受けする対応関係を中心として…。私たちの細胞まで作用するのです。
共産主義では、それが自然にできたものだといいます。
三 宇宙の完成
P36
宇宙完成、宇宙完成という言葉は簡単ですが、一体宇宙の完成とは何でしょうか。宇宙を完成するには自分が完成しなければなりません。たとえ宇宙が完成したとしても、自分が完成できなければ何の関係もないのです。世の中がいくらよくても、いくら外的世界が喜び、踊りを踊っていても、自分が今苦痛にあえいでいるとしたら、その外的世界の喜びの環境も自分とは関係がないことを私たちは知っています。
宇宙の完成というのは、外的世界もいいし、内的な自分自身もよくなければなりません。よいというのは、心もよく体もよくなければならないのです。私たちの細胞についていうと、細胞全部が皆よくなければなりません。目の細胞と足の裏にある細胞とでは違いますね? 違うのです。違いますが、それらの細胞が皆喜び、手の細胞も一つ残らず喜び、心と体の全体が喜べなければなりません。それも、ただ離れたところで喜ぶのではなく、一つに連結されて連帯的な内容を中心として、共鳴的な愛の喜びを感じられる世界であってはじめて宇宙完成になるのです。(一六六�\二一〇)
第四節 .自然と人間
P38
一 自然は第一の聖書
昔、祈祷する人たちは、自然は第一の聖書だといいました。第二ではありません。イスラエルの歴史を綴ってきた聖書を見れば内容がはっきり分かります。その内容を見て、先生がどれほど首をかしげたと思いますか? それは占い師がやるのと同じで、鼻につければ鼻輪、耳につければ耳輪だというようなものです。現実から逃避するための方便です。そこで、事実内容を判断して前後の事情を明らかにするのが困難なので、聖書よりも神様のおつくりになった自然世界が第一だというのです。(二〇�\二七一)
二 神様の心情的因縁が宿る万物
P38
因縁というのは、きわめて小さなところから結ばれていくものです。個体も四百億兆個にもなる細胞が因縁で結ばれている生命体です。神様の愛を中心とした創造理念の世界、つまり大宇宙のあらゆる存在物は、どれひとつ取っても神様の心情を受けずに生まれたものはありません。このことを感じる詩人は偉大な詩人です。一つの木の葉が揺れるのを見て天宙的な心情を感じ、それを表現できる詩人がいたとすれば、彼は宇宙的な詩人だといえます。
今日、私たちはこういうことについてあまりにも無視し、無関心でいました。私たちの周りに私たちの知らないうちに展開している森羅万象が、神様の愛とともに存在しているという事実を知りませんでした。
神霊に満たされた境地に入ると、ちっちゃな砂粒ひとつにも宇宙の原理が込められているし、ひとつの原子にも限りない宇宙の調和が込められていることが分かります。存在するすべてのものは、はっきりとしたことは分からなくても、何か複合的な力を通して現れた結果だということを否定することができません。分子の中に原子、原子の中に素粒子…。これらが無意識的に存在するのではなく、ある意識と目的を持って存在している事実を皆さんは徹底的に知らなければなりません。
道人とはどんな人ですか? 一本の草を見ても「神様!」と言える心情で、自分の価値と同等にその価値を認識できる人が最高の道人だといえます。同じように、その価値を謳うことのできる人が最高の芸術家なのです。さまざまなに存在する自然界を見て、神様の奥深い愛と心情の妙味にふれ、それらの友となって互いに喜び合うことのできる感情を持った人がいるとすれば、また、さらにその感情で細胞の一つひとつが動く人がいるとすれば、その人は全宇宙を代表できる人なのです。その人は万物の霊長です。しかし、食べることしか知らない人は、万物の霊長になれるでしょうか?
神様が被造世界をおつくりになるとき、そこには喜びがありました。つくったあとで見ると「それははなはだ善かった」とあります。喜びがあったのです。喜びとは何ですか? ある目的を果たしたときに感じるものです。おつくりになった万物に神様の目的意識が内在していたので、創造された万物を見て神様は喜びを感じられたのです。
それでは、復帰の世界はどのような世界ですか? 一言でいうと、森羅万象の各個体を見ながら、神様を賛美できる心情的な因縁を立体的に備えた人々の住む世界です。神様がご覧になる人格の価値はそこにあります。ですから、昔、聖フランチェスコのような人が、動物を見て、あるいは鳥を見て説教したという話もうそではありません。夢のような話です。でも、夢ではなく事実です。(九�\一六八)
三 宇宙は神様がつくった自然博物館
P40
子供たちを見ていると、おもちゃなどに対してすぐ反応します。何か不思議なものが動いている、というわけです。おもちゃは何でも好きですが、動くもので直感的に感じるのは動物です。子犬だとか、昆虫かなにか。子供たちは皆、飛び回る生き物や野生の動物といった動くものが好きなのです。
なぜでしょうか。もともと人間はそうなっているのです。人間は、自然世界やこの地球の動きを見て興味を覚えるものなのです。それを楽しんで、もう一つの相対のように…。もちろん、(人間の相対とは)相対基準が違いますが、それを鑑賞するところで、人間は本当に楽しみ、興味を感じるのです。それによって、自分自身の愛の属性を一通り学びます。虫、昆虫、動物が生きていくのを見ると、どれも皆つがいになっていることが分かります。このような観点から自然とは何かというと、唯一人間だけを愛の対象として、相対理想を教育するために展開した教材、博物館なのです。
ですから鳥たちの歌には三つの種類があります。まず、おなかがすいたときの歌と、次に愛し合う相対のための歌、そして危険を知らせる歌があります。それが皆違います。普通の人は分かりませんが、彼らの世界ではちゃんと分かるのです。おなかがすいて鳴けば、即座に分かります。そうなっているのです。彼らの毎日の生活は何が中心でしょうか。おなかのすいたのは、一回食べれば済みます。かといって、毎日のように危険にさらされているわけでもありません。大部分の歌は何を中心に歌うのかというと、相対と授受する関係で歌が行き交いするのです。(一三七�\二一一)
人間は主体と対象、すなわち相対的な男性と女性に創造されており、さらに人間のためにある万物世界全体も、愛の原理の下に調和を成し、また人間の愛によって生命と理想を実現するようになっています。
万物世界は人間、とくに成長過程のアダム・エバにとって愛の教科書であり、愛の真髄が無尽蔵に陳列された博物館なのです。(一三五�\一二)
初めは、神様の子女として誕生したアダム・エバも、神様の保護圏内で幼い頃から育てられ、高められるに従ってだんだん大きくなっていきます。そうして知能が発達するので、神様がなぜ被造世界をつくったかを知るようになり、その被造世界を通して教育されていくのです。森羅万象のすべては、人間始祖、本来の祖先となるアダム・エバが生活していけるすべてを教える教材だったのです。「一つの完成したアダム・エバ」になっていないので、理想の生活をしていくために必要な標本であり博物館であったという事実を知らなければなりません。(一三七�\一二八)
四 自然に対する姿勢
P41
朝、目を開いて自然を見渡すと、その自然がしみじみと自分の本姓と因縁をもって新しい理想の感情を芽生えさせます。しかし、人の世は見れば見るほど絶望と悲しみの思いがつのることを皆さんはよく知っているでしょう。本来、堕落していない本然の人間たちの住む世の中であれば、人間の価値は見る者に悲しみを感じさせるような程度の低いものではありません。人間は、一本の草、一輪の花、一本の木と同じ程度の価値でつくられたのではないのです。被造万物のいかなるものをもっても換えられない高貴な人間であり、どんなものとも比較することのできない価値を持った姿で、天の代身を務めるべき人間だったのです。(九�\九七)
もう、私たちは気づかなくてはなりません。神様の愛が宿る自然を見渡し、「世の中の王や有名な人物が持っている素晴らしい品物と比較になるものか。骨董品なんかと比較になるものか。どこかの有名な婦人が着ている豪華な衣装と比較になるものか」という心を持たなくてはなりません。それができないなら、私たちは自然世界に対して知らず知らずのうちに罪を犯しているのです。
一つの生命体を見るときに、「人間の作った何と比較になろうか。いくら素晴らしい人がいようと、神様より素晴らしいはずがあろうか」と、神様が心情を注いでおつくりになった万物を抱きしめて、何よりも貴く感じる者がいたとすれば、その人は間違いなく天の子女でしょう。このような人は、祈祷が必要ありません。神様とともに生きる人です。天は人間をそのような立場に押し出すのです。
皆さん、考えてみてください。人間は自分が愛する人の者は何でも愛し、かわいがります。違いますか? それでいて、いちばん愛すべき神様のお創りになった万物は、かわいがることを知りません。こんな人間たちが神様の息子や娘になれますか?
嘆息する万物の恨みを解いてやる責任を負った皆さんは、一本の木、一本の草からも六千年前、それらをおつくりになるときの神様の心情と創造のみ業を体恤しなければなりません。そういう心を持たなければなりません。
ですから統一教会の食口たちは、道を歩いていて野の草一本見ても涙するようでなければなりません。木を抱きしめて泣くことができなければなりません。「主人を失ってどんなに寂しかったか」と。一度そうしてごらんなさい。私はたくさんの涙を味わいました。岩を抱きしめて泣いたこともあれば、風が吹くのを見て泣いたこともあります。なぜ泣いたのか、もう話を聞きましたから分かるでしょう。
「神様がおつくりになった価値ある万物が、神様と永遠の因縁で結ばれた貴い万物が、今日どこかの宮殿で国宝だの宝物だのといわれ大切にされる品物ほどの扱いも受けられずにいる悲しさを、私は分かってあげなくてはいけない」という心を皆さんが持つなら、この民族はこれから世界人類を支配できる新しい民族になるでしょう。これは観念ではなく事実です。
果たしてだれが万物に対し、先祖代々伝わる家宝より、この世で最も貴い宝石といわれるダイヤモンドより貴く思い、つかんで放すまいとするでしょうか。そういう人がどこにいますか? 神様は、ご自身のおつくりになった万物を心から思いやり、それを抱きしめて涙する者を見て「よしよし」と言われるのです。どう思われるか考えてごらんなさい。(九�\一七五)
自然とは何でしょうか。神様が私たちのために、為に生きる愛を持った息子や娘が生まれるとき、その愛を与える万物として、贈り物として与えた展示品です。鳥の鳴き声ひとつ、草一本といえども、愛する子供たちの生活を美化するためにつくられた作品だということです。道端に転がっている石も、子供たちが国を治める主人となることを思い、その国の装飾品としてつくったのです。流れる水も同じです。無味乾燥で単調であってはいけないので、調和をきわめた和合の園をつくり、愛のために生きる世界を見てそれを相続できる夢の王子、希望の王子を育てるために創造したのです。
ですから万物を通して学ぶわけです。雄・雌がチッチッとさえずるときは、(万物の)主人であるおばさんも学ばなくてはなりません。互いのために生きる世界に向かって、自分の一生、自分の命を懸けて生きる本然の被造世界の美しさを賛美できるようでなければなりません。そうなれば、その家の垣根に小鳥たちが来て住もうとするのです。巣を作ってひなを育てようとするのです。分かりますか?
博物館にある何かの作品がいくら貴重だといっても、生きている作品に勝るものがありますか? 神様の作品である地球万物博物館を、だれが神様以上に愛したかというのです。自分の国の博物館以上に愛したかというのです。道端で踏みつけられてよれよれになったタンポポであれ、神様が直接おつくりになったものを博物館にある新羅時代の金冠と比べることができますか? 祖国の地をそのように考えるのです。
そのような神様の心情を持って「お前を神様が主管できるように、本然の王の立場で、愛を受けていたその立場で愛することのできない自分が恥ずかしい。すまない」という心を持ち、立派な姿勢で万物を愛する王がいるならば、野の草もその王について行って、永遠にそばにいたいと思うものなのです。そのように生きなくてはならない人間なのです。(一七五�\一八七)
五 自然を愛し、人を愛せ
P44
自然を愛し、人を愛することができなければなりません。人を愛することができず、自然を愛することができない人は、神様を愛することができないということを皆さんは知らなければなりません。万物は神様の象徴的存在であり、人間は実体的存在なので、万物と人間を愛することのできる人は神様を愛するようになるのです。
そして、若い人しかいない教会はだめなのです。おばあさん、おじいさん、おばさん、おじさん、みんな集まる教会をつくらなければなりません。献身だけがいちばんよいのではありません。分かりますか?(はい)。だからずっと孤児で育った人は、(成長できず)孤児にしかならないのです。(七〇�\一八二)
いつも自然を愛さなければなりません。自然を愛さなければならないのです。それに、人間も愛さなければなりません。人間の中でも、五色の人種すべてを愛さなくてはなりません。神様が「私は白人だけが好きだ」と言われるでしょうか? そうだとしたら、だれもが皆白い服を着なければなりません。白人たちは皆白い服だけを着なければなりません。色のついた服は全部捨てなければならないのです。黒い服などなぜ着るのですか? 色のついた服などなぜ着るのですか? 矛盾するでしょう。(一三三�\三〇)
五 自然を愛し、人を愛せ
P44
自然を愛し、人を愛することができなければなりません。人を愛することができず、自然を愛することができない人は、神様を愛することができないということを皆さんは知らなければなりません。万物は神様の象徴的存在であり、人間は実体的存在なので、万物と人間を愛することのできる人は神様を愛するようになるのです。
そして、若い人しかいない教会はだめなのです。おばあさん、おじいさん、おばさん、おじさん、みんな集まる教会をつくらなければなりません。献身だけがいちばんよいのではありません。分かりますか?(はい)。だからずっと孤児で育った人は、(成長できず)孤児にしかならないのです。(七〇�\一八二)
いつも自然を愛さなければなりません。自然を愛さなければならないのです。それに、人間も愛さなければなりません。人間の中でも、五色の人種すべてを愛さなくてはなりません。神様が「私は白人だけが好きだ」と言われるでしょうか? そうだとしたら、だれもが皆白い服を着なければなりません。白人たちは皆白い服だけを着なければなりません。色のついた服は全部捨てなければならないのです。黒い服などなぜ着るのですか? 色のついた服などなぜ着るのですか? 矛盾するでしょう。(一三三�\三〇)
第二章 人間の価値と人体の神秘
P46
第一節 人間の位置と特性
一 人間の位置
1 神様の形状を持った分性的実体
統一教会の原理では、神様は無形の絶対的主体であり、二性性相の中和的主体として存在されるかただといいます。二性性相として存在される神様の分性的実体としてアダムとエバを創造されたというのです。そしてアダム・エバが成長すれば、愛を中心として横的に結ばれ、縦的に神様と関係が結ばれるということです。つまり、アダムとエバが成熟したら、神様の男性性稟はアダムの心の中に入り、神様の女性性稟はエバの心の中に入るのです。しかし、神様が分かれるわけではありません。そのような二性性相の主体であられる神様なので、アダム・エバの心の中に臨在することができるのです。
神様はどんなかたでしょうか。神様は目に見えない内的アダムの位置におられ、そして目に見えない内的な位置におられながら、内と外が一つになって…。アダムは人類にとって何かというと、目に見えない内的な父に侍る実体的父の立場に立つのであり、またエバは内的な母である神様に侍る人類世界の実体の母として立つのです。こうして縦的基盤から横的基盤に拡大させるのです。(一三八�\二四七)
神様はなぜアダム・エバを必要としますか? 二つの目的があります。一つは、愛の理想を成就することです。二つ目は何ですか? 無形の神様が形状を持って現れるためです。そのため、無形の神様が有形の形状を持って有形世界と関係を結ぶことのできるその基礎、その核心がアダム・エバなのです。
ですから、もしアダム・エバが完成して霊界に行っていたなら、アダム・エバは神様の体と同じであり、神様はアダム・エバの心のような立場で補佐するのです。一人の霊的世界の完成した人(神様)を実体世界の体と心のような一つの結果としてをなそうというのが、神様がアダム・エバを創造された目的です。(九二�\一四七)
2 神様の愛の対象
人間は宇宙の被造物の中の傑作です。どれくらいの傑作かというと、皆さんが考えも及ばないほど大きく素晴らしい作品なのです。それならその主体者、つまり絶対的な神様がおられて人をつくったのなら、神様ご自身の話すこと、見ること、感じることを人が感じられないようにつくるでしょうか?(五三�\五一)
神様は被造万物の中に神様の愛の対象となるものをつくったのですが、その存在が私たち人間です。神様の愛の対象、神様の愛の対象をつくるために全身全霊を込めて、ご自身のすべてを投入しきったのです。今日のクリスチャンたちが信じているように、み言で魔法の杖のように、最近のアメリカの子供が見る童話や映画でやるように、呪文を唱えて「出ろ」と言えばパッと出るようなそんな愛の対象を神様は願いません。愛の対象を立てるため、神様はご自身のすべてを投入したのです。そうして何をしようとされたのでしょうか? 宇宙に愛の核を定めようとされたのです。それが創造理想だったのです。(一六六�\一四七)
3 神様の息子・娘
今日、多くのクリスチャンたちは、神様は唯一無二のかたであり、絶対的なかたであり、創造主であり、神聖な存在として最高の位置におられるため、被造物である人間と創造主とは関係を持つことができないと考えています。被造物は卑しいもので、創造主は絶対的で神聖なかただと考えています。しかし、愛の概念を中心として見るとき、いくら至高至善の神様で、たとえ卑しい被造物だとしても、愛の関係を結ぶためには人格的な内容が似ていなければなりません。心情的内容が同じでなければなりません。つまり、人格を持った人間と性稟が同じでなければならないのです
従って人間はだれに似て生まれたのでしょうか。神様に似て生まれたのです。それで統一教会の食口は「神様は私たちの父だ。私たちは神様の子女だ」と言うのです。これは何を意味していますか? 私たち人間は神様に似て生まれたということです。何を通して似たのでしょうか。血筋を通して、血統を通して神様に似たのです。血統を通して因縁を持ったということは、愛で因縁を持ったことを意味します。(一三八�\二四六)
本来人間の特権は何かというと、どんな人であれ天の王国世界において王子として生まれることのできる権威を持っているのです。王女として生まれることのできる権威を持っているのです。それが人間の価値です。それが本来の人間の権威でした。(六八�\三二六)
では、人間の願いは何でしょうか? 人間の理想や願いといったものは何でしょうか? どこに帰結するのでしょうか? 何だと思いますか? その一つ目は何ですか? 神様の息子や娘になるのが人間の最大の希望に違いないという結論になります。次は何ですか? 神様に愛される息子や娘になることです。次は何ですか? 神様のすべての存在を相続すること、それ以上はありません。分かりますか? 人間の願いは何ですか? 神様の子女になること、神様に愛される子女になること、神様のすべての存在を相続できる子女になること、これがすべてなのです。
ここで問題になるのは、神様の息子になるにはどうならなければいけないか、ということです。神様と生命が連結されなければなりません。血統的連結がなくてはいけないという問題になるのです。もし、人類始祖が堕落しなかったなら、皆さんはだれの息子や娘として生まれたでしょうか? 自然と神様の息子や娘として生まれたのです。(九一�\二四二)
4 万物の霊長
イ)万物の霊長
人間は万物の霊長だといいます。霊長という言葉は、必ず中心に立ち、全体の価値を代身できてはじめて使えることを私たちは知っています。
出来の良い人であれ悪い人であれ、人には世界的な中心になろうとする欲望があります。無限の価値を持った中心になりたいと願うのです。何かの存在であれば、その存在の中で最高の存在になりたいと思い、また絶対的な中心があれば、その中心と一つになりたいと思うのです。このようにより価値あるものと関係を結びたがるのが人間の心です。
では、人間の心はなぜそうなっているのでしょうか。それは本来人間が歴史の全体価値を代表する中心的な価値を持っているからです。(三二�\二一二)
神様が人間を万物の霊長として立てるときに、天地のあらゆる環境を代表した中に、センターとして立てたでしょうか、それとも一部分として立てたでしょうか?(センターです)。それは事実です。そのため、すべての人は宇宙の中心になると主張できる自主権を持っているのです。それを知らなければなりません。それは猿の世界やライオンの世界、虎の世界にはありません。人間世界にだけあるのです。(一一七�\三五)
万物の霊長という言葉はどういう意味でしょうか。万物の霊長とはだれですか? 今日、人間だといっていますが、万物の根本の霊長は神様です。違いますか? 皆さん、霊があることを知っていますね。人間にはその霊があります。人間は霊の長なので、結局神様と直結して霊長というのです。
万物の霊長というのは、人間自体ではなることができません。人間も被造物なのにどうして万物の霊長になるかというのです。被造物というのは相対的結果体です。被造物ということだけでは原因に通じることができず、原因を占領できないのです。被造物は原因によって占領されるようになっているのです。皆さんが結果的存在であることは間違いありません。霊長というときの長は、霊の中心という意味です。これは、本来語らずとも神様と人間が一つになった関係においていう言葉なのです。(三二�\一三七)
ロ)動物と人間の異なる点
動物と人間の違うところは何ですか? 食べるのも同じです。寝るのも同じです。服を着たりするところは違いますが、あとは同じです。目や鼻の形・構造から見ても、さして違いはありません。
では、人間の中で貴い人とはどんな人でしょうか。体や目鼻、生活することを中心として貴いと見るのですか? 何をもって貴いと見るのですか? 人間を見ると、人間は霊的な人間と肉的な人間からなっています。霊肉が合わさって一人の人間になっている、こう見るわけです。この二つが一つになるのです。ここで、霊的な生活、肉をもって生きる生活は動物と何ら変わりありません。食べて寝て、また食べるための活動をして、全く同じです。動物とどこが違うのでしょうか。動物と何が違うでしょうか。
人間は動物と何が違いますか? それがこの宇宙で動物と違った価値を持たしめ、貴い価値を持たしめるものになるはずだ、という推理ができます。「人間は貴い」というとき、その人間は肉的な人間ではなく霊的な人間です。霊的なものが貴いというのは、肉的なものとは違うということです。違わなければならないのです。霊的なものが高ければ、肉的なものは低いのです。また、霊的なものが低ければ、肉的なものは高いのです。この二つは違うものなのです。(一二九�\三〇七)
それでは、人間と猿を比較してみましょう。猿と人間は根本が異なります。猿はただキャッキャッと騒いで、食べて寝て子供を産むのが第一です。猿が古里のおとうさん・おかあさんに会いたくて泣きますか? 猿がお兄さんを気遣ったり、あるいは親のために死のうとしますか? では、人間はどうですか? そういったことをしますか、しませんか?(します)。種が違うのです。それに猿たちが集まって、先祖が何をどうしたとか、神様はいるとかいないとか話し合うことができますか?(できません)。霊界があることを考えたりしますか? この宇宙が平和の世界になって、一つの世界になって、愛の花園になるということなど考えるでしょうか? その猿が進化して人間になったと言う人たちは、犬や豚のような人間です。人間と動物は種が違うのです。
人間は自分を中心とするのではなく、他を中心として、より大きなものを中心として願いながら生きるものであって、自分より低いものを願いながら生きるようにはなっていません。次元が違うのです。
人間は古代から、つまり人間が生まれるときから神様をあがめてきました。神様をあがめない種族はありません。神様について考え、人間がより高度な存在として生きる宇宙について考えてきたのです。猿の頭でそんなことが考えられますか? 何千何万の段階を経たところで、できないなのです。猿にそんな能力がどうして備わるでしょうか。話にもならないのです。(三九�\三三三)
ハ)神様の絶対的な相対は人間のみ
天地の万物の中で、絶対者である神様の前に絶対的な相対の価値を持って現れることのできる存在物はどのようなものでしょうか。考えてみてください。昆虫だろうか。あるいはうちの裏庭でグーグーいびきをかいて寝ている子犬だろうか。これらが絶対的な相対の存在になりえますか? もしなれるとしたら、子犬よりもずっと賢い猿が文句を言うことでしょう。
では猿は相対になれるのでしょうか。今日では猿が進化して人間になったと言うでしょう? これから私が大学生たちに言って、教授たちに「猿先生おはようございます」とあいさつさせたらどうでしょうか? 「教授は猿の頭と猿の体を持っておられるでしょう?」と言ったら、「こいつ!」と怒るはずです。
人が猿のような体を持っているのは事実ですが、次元が違います。霊的な存在である人間は、霊的存在でない猿とは次元が違います。根本が違うのです。猿の手と足の形は人の手足に似ています。このように多くの点で人間と似ているため、猿が進化して人間になったと言うのです。
私は、猿のことを考えただけで気分が悪くなります。ところが皮肉なことに私はさる年なのです。これはもう間違ってさる年に生まれたのだと思います。それほど猿が嫌いなのです。
人間と猿を解剖学的にみると、数十項目の違いがあります。ところが進化論では、この猿が飛躍的な発展、すなわち突然変異によって人間になったと言います。それらしい論法ですが、ここには無神論者たちの魔術的な要素が隠されているのです。そこで、共産党の間違いを正すために、統一教会が勝共理念をもって猛攻を加えているのです。猿が進化して人間になったというようなでたらめを信じないでください。
もし猿を絶対的な創造主の前に絶対的な相対として立てたとしたら、人間たちがどれほど批判することでしょうか。「あれが神様の相対だって? トイレを使うことも知らない。あの歩き方は何だ。四つ足で歩いてるじゃないか」と陰口を言うはずです。四つ足で歩き回るのは未完成なのです。
人間も赤ん坊のときは四つ足で歩きます。ですから猿は外形からしても未完成圏内にいるのです。人間は四つ足で歩きはしません。人間は二本の足で歩きます。それはすでに猿より立体的な安定性を持っているということです。また、人間は天と地の連絡機関です。曲線ではなく直線で行き来できます。だから神様と通じる内容があるのです。(三八�\一五九)
ニ)人間が二本足で歩くわけ
あらゆる万物の中で動物は皆四つ足で歩きますが、人間はなぜ二本足で歩くのでしょうか。なぜですか? 縦的な代表者だからです。このあらゆる被造万物の中で人間だけが立って歩ける動物なので、神様が分かるようになっているし、無形世界や何かといった無限に高い垂直世界と無限に低い垂直以下の世界を考えるようになっています。
ですから二本足で歩く動物の権威を失わないようにしなければなりません。これを知らなければなりません。木は立っていてこそ芽が太陽の光りに向かうわけですから、立っていてはじめて価値が出てくるのです。人間が立って歩くのも、神様の愛の光を慕い価値ある存在になるためです。これを知らなければなりません。では、皆さんは低い人になりたいですか高い人になりたいですか? 高い人になりたいはずです。皆さん、そんな欲望があるでしょう?(はい)。ありますか、ありませんか?(あります)。(九六�\二一七)
全被造世界の動くものの中で、立って歩くのは人間しかいません。なぜ人間は立って歩くのですか? それはすでにすべての標準が縦的なものからなっていることを意味します。次に被造世界のすべては、横的九〇度を中心としてどのくらいの角度かによって、その価値の基準が変わるのです。(三六�\二〇四)
二 被造世界における人間の価値
P54
1 二つの世界の主管者
人間は二つの世界を主管しなければなりません。天上世界の神様と地上世界にいる自分、神様と自分は両方でのこぎりを引き合う関係です。そうして世の中を裂こうというのです。それはやさしいことですか、難しいことですか? のこぎりの刃がぼろぼろに欠けるほど困難なことです。一方には統一教会の男性がいて、もう一方には統一教会の女性がいると考えてみてください。皆さん、そのような立場でこの世の中を裂くことができますか?(三四�\三四七)
2 和動の中心体
人間は和動の中心体です。しかし、和動するためには絶対的な中心基準が決まらなければなりません。ちょうど、大勢の人がリズムを合わせる際、指揮者を中心に上下関係がしっかりつながらなくてはならないのと同じです。
この宇宙の和動の中心体が人間だということを、私たちは原理を通して学びました。従って人間は絶対的基準と一致した立場にあるため、その人間がとどまるところに宇宙がとどまるのであり、存在世界が彼を中心として作用するのです。そして、その作用によって、存在世界に力が生じるのです。(二九�\一二八)
この宇宙で神様が笑いたくて地に連絡しようとすれば、人間を通さなければならず、地が笑いたくて神様に連絡しようとすれば人間を通さなければならないのです。人間を通さなければならないのです。なぜ宇宙も人間が必要で神様も人間が必要なのか分かりますか? そのわけは、人間が回れば神様も回り、人間が回れば宇宙も回るというところにあります。人間が回らなければ神様も回らず、行ったり来たりできないのです。分かりますか、言っている意味が? そうなっていることを知らなければなりません。(九六�\二三二)
宇宙の中心は何でしょうか。人間は中心にはなりえません。宇宙の中心は創造主であられる神様、すなわち絶対的な実体が中心にならなければならないのです。その絶対的な中心の要素と一致した内容を持った存在がその中心に近づくことができます。つまり、その内容と一致する要素を備え、心情的な一致か、事情の一致か、希望の一致か、という問題を中心として、そこに一〇〇パーセント一致したらその中心に近い位置に立つのです。(二四�\二二〇)
3 大宇宙の縮小体
人間は大宇宙の縮小体です。皆さんは小宇宙です、小宇宙。大宇宙とは何でしょうか。大宇宙は被造世界なのです。大宇宙の源泉は力の源泉です。作用の源泉、力の源泉とは何でしょうか。神様です。私たちは大宇宙の前に立った一つの小宇宙であり、大宇宙の絶え間ない力の源泉である神様の力が私たちの心に入ることによって、この大宇宙と釣り合う相対の価値を持っているのです。
従って人間は宇宙の花だと考えることができます。分かりますか? 一本の木に例えると、宇宙という大きな苗木があり、その苗木において人間というものは�\「私」という存在は�\一つの花だということです。雄しべと雌しべがありますが、原則的調和の作用が展開して種を作るのと同じく、男性・女性が宇宙の花として咲いて香りを漂わせるときが思春期なのです。(一二一�\一九〇)
私たち人間というものは自分一人だけではありません。人間とはいかなる存在でしょうか。人間というものは自分一人ではないのです。宇宙の共通した因縁を総合して結実体として現れたのが人間ではないですか? このような人間には万物の総合相がすべて入っているのであり、数多くの先祖たちの個性すべてが投入されたものなのです。
金○○さんといえば、その金○○さん一人ではありません。その人には植物、鉱物、動物、あらゆる万物の形態がすべて入っています。顔も、今は自分の顔のように感じていますが、その顔になるまでには数万年の歴史を経てきたのです。数万年にわたって先祖たちの血を引き継いでそのように生まれたのです。それは奇跡的な実体です。
のみならず、その背後に天の因縁が共にあったがゆえに、その人が残ったのです。天の因縁を中心に見るとき、限りなく屈折した因縁を経て今日の自分がつくられたことを知らなければなりません。(五八�\三○四)
三 人間の型
P57
1 人間の区分
肉的人間は動物的人間であり、霊的人間は精神的人間です。人間を二つの種類に分けるなら、動物的人間、精神的人間です。動物的人間は価値のない人間であり、精神的人間は価値のある人間です。質を比べると何が違うのでしょうか。動物的人間は自分のために生きる人であり、精神的人間は全体のために生きる人です。(一二九�\三○三)
この地上に三種類の人間が住んでいることを皆さんは知らなければなりません。体の言うなりに生きる人、心の言うなりに生きる人�\心も変わります�\そして、神様の心と神様の体が一つになっているその部分に自分の心と体を一致させることのできる人、この三種類の人間がこの地上に住んでいます。(七〇�\六一)
信念の強い人、意志的な人、情緒的な人、など三つの型の人間を中心として歴史的な人物が生まれます。これが十二の型に分かれ、さらにこれが三段階になれば三十六の型になります。また、これが男性・女性で展開すれば七十二の型になります。(一八�\九四)
2 人間のさまざまな型
統一教会を見ると、皆同じ食口でも実にいろいろな人がいます。白人の中でも百人が百人皆同じではありません。皆さんはこれを知らなければなりません。東の型、西の型、南の型、北の型、などそのタイプは皆違うのです。
皆さんの中には東の型の人、西の型の人、南の型の人、北の型の人、すべています。あるいは、春、夏、秋、冬、すべての季節の人がいます。氷のように冷たくカチカチに凍りついた型がいるかと思えば、一目見ただけで良い印象を受ける型もいるのです。いつも堂々として、いつも成長していけるのは夏の型です。一気に舞い上がって、またすぐ落ち込むのは秋の型です。(三三�\四〇)
皆さん一人びとりが、今どの季節に該当するかを知らなければなりません。自分の性格を考えれば、自分が春に当たるか、夏に当たるか、秋に当たるか、冬に当たるかが分かるのです。
人間的にとても美しく、情的に穏やかで、何でもよく吸収する人は春に当たります。また、情がとても豊かで涙もろい人は夏に当たり、淡々としてすっきりとした容貌を持ち、けちをつける隙のない人は秋に当たります。そして冬に当たる人は、一度食らいついたら決して離れない要素をもっている人です。皆さんは自分がどの季節に当たるか、見分けることができなくてはなりません。
秋に当たる人は相対的な人と出会わなければなりません。つまり、春の人を探さなければならないのです。夏に当たる人は冬の人と出会わなければなりません。熱過ぎて心配な人は、冷たい人と出会って冷やさなければなりません。それは目を見れば分かりますし、顔かたちを見れば分かるのです。(三一�\二一五)
祈祷生活をすると、人に対するとき、一目見ただけで説明する前にその人がA、B、Cの型のうちどの型か分析できるのです。そんな何かがあります。先生はそれが速いのです。そういう体恤があってこそ…。霊も無数にいます。人がたくさんいるのと同じで、霊もピンからキリまでいるのです。人もありとあらゆる人がいるでしょう? 霊もそうなのです。ですから霊を判別するためには、自分自身の尺度、心の零点(座標の原点)を中心として、これが左に行くか右に行くかを分別できなければなりません。それができなければ霊を見分けることができないのです。善霊か悪霊かということも、そのような感覚によって直ちに分析できるのです。従って、必ず体恤的な信仰が必要だということを知らなければなりません。(七六�\一四六)
3 個性真理体としての人間の特性
皆さん、人によって顔が違うのと同じく、人によって臭いが違うことを考えてみてください。臭いをかいでみると違います。だから犬は皆臭いをかいで探すのです。ここに約二百人集まっているとして、二百人全部の臭いをかいでみると皆違います。(九八�\二六六)
私たちの教会で使う個性真理体という言葉は特殊な用語です。個性真理体という言葉を使うのです。それを英語でいうとindividual truth bodyになります。おかしな言葉ですが、しかたがありません。(一三三�\一四)
一人びとりが持っている特性は一つしかないものです。また、一人びとりの人格も皆違うのです。(四一�\一三六)
原理でいうと、人間というのは個性真理体です、個性真理体。お母さん・お父さんから生まれましたが、お母さん・お父さんとは違います。もし、その本性が違っていないのなら、特性を持っていないのなら、生まれる必要はありません。神様が多様な個性真理体をこの地上につくることを願われて、そのような分立体として生まれたのが私たちの個体なのです。ですから、いくら神様が大きいといっても、私たちの個体一つひとつと相対することによって、大きな神様の全体の喜びが完成できるのです。こうして見るとき、小さくても平等な自由、平等な価値を私たちはここで発見するのです。
では、ここにいる人たちが皆同じ顔をしていたらどんなにつまらないでしょうか? うんざりするはずです。長い顔や平べったい顔がいて、鼻の形から何から全部多様なので、見ればみるほど関心を持つようになるのです。これも面白いし、あれも面白い。全部面白いのです。
皆さんが服を着る際にも、男性・女性皆一緒に春夏秋冬同じ季節を過ごしていますが、服を着るのを見ると全部違います。次に歩き方もそうです。歩き方も皆違います。全部違います。手のしぐさも、小さなことですが皆違うのです。また、笑い方も違うし、声も違うし、すべてが違います。そのようにして個性真理体の特性が現れるのです。これが貴いのです。
皆さん、人の顔をよく見ると、目と鼻と耳と口、この四つがありますが、世界四十億の人類を比べてみても一つとして同じものはありません。これが神秘的なのです。それ自体が神秘的なことなのです。そう思いませんか? このように見るとき、個性真理体が喜ぶことのできる天国というのは、男性・女性を中心として個性的な人間たちが入って住んでいるため、そのすべての人間たちが調和し、理想形として現れる所です。(一二四�\二七九)
四 人間の特性
P60
1 人間は貴い
万物世界のどこを見ても、必ず起源があります。起源がなくてはならないのです。では、その起源において人間が中心であったかという問題、そして私たちが見ている鉱物世界と植物世界のうちどちらが先かという問題も重要な問題です。「萬物之衆 唯人最貴」といわれますが、人間が最も貴いとはだれが言ったのでしょうか。万物のうちでただ人間だけが貴いという決定をだれがしたのでしょうか。それなら植物界を見るとき、個々の植物は貴くないということでしょうか。もちろん貴いですが、万物の中で最高の価値の内容を持っているのが人間なのです。では、その貴いというのは一人の人生についていうのでしょうか。それとも、私たちは先祖から血族を通して続いてきたその一人ですが、私たちの先祖たちも皆含まれるのでしょうか。また、これから生まれてくる子孫たちも含まれるのでしょうか。それをだれが決めたのでしょうか。だれが決めたのかという問題を考えるとき、その決めたこと自体を本当に信用できるのでしょうか。これが問題です。
それでは、「人間は貴い」「あの人は貴い人だ」というとき、それをだれが決めるのかというのです。この問題について考えるとき、私たち自身がそのように決めるのよりも、動機となるに足る、根源となるに足る中心者、ある主人がいて、その主人が決めたのなら認めることができます。しかし、自分が決めた、私たちが決めたと考えるなら、私たちというもの自体が今日自分の生活を中心に行くべき方向も知らない者ですし、今世の中に生きる人もそうではないですか? ただ動物のように生まれて生きて死ぬのが人生のすべてだ、このような立場の人間として自分自身が万物の中でいちばん貴い存在だと決めたとしたら、それ自体信じるに足りません。自分を信じられない、こんな立場に立っている自分を中心としてその自分が貴い立場にあるという決定をしたところで、それが全宇宙から認められた事実として普遍化できないということです。
それでは、だれが決めなければならないでしょうか。すべてを存在せしめる、ある原因的な存在が…。鉱物世界を見ると、無限な元素が互いに結ばれています。その鉱物世界の神秘的なすべての構造と形態というものは、でたらめに出来ているのではありません。必ずある方向性を中心としてその目的と価値を持っているのです。植物も同じですし、人間も同じです。すべてを存在せしめる一人の主人がいて、その主人から「お前は私がつくった万物の中でいちばん貴い」と言われれば、それは全体が認めることができます。そうなるには、自分自身が貴いと認めることのできる根本的な存在と関係がなくてはなりません。
では、「貴い」というとき、現在の立場をもって貴いというのか、自分が生まれて生きていく中で人生の目的を完成させる内容全体を中心として貴いというのでしょうか。いくら考えても、自分が生きている現在の立場、生活圏自体を中心として貴いと見ることはできないのです。「人間には、責任と目的完成の内容を中心とする貴い価値が与えられている」ということを考えないわけにはいきません。
そのような立場から見るとき、自分は何でしょうか。自分は何なのでしょうか。人間が貴いことを願う自分は何なのでしょうか。そう願うことが一つの根源となって、ある過程を経て目的地まで行った後でなければ、貴いという価値の決定は不可能なのです。その目的を達成する過程で「自分は貴い」というのですが、実際には、まだその位置に到達できずにいることを考えなくてはならないのです。だから「人間は完成しなければならない」というでしょう?(一三八�\七一)
人間は何が貴いのですか? 立って歩くことですか? 熊の子でも立って歩くことはできます。人間の勝っているものは何ですか? 人間が勝っているのは、神様と愛し合う資格があることです。(一二七�\二三)
人間が最も絶対的に知らなくてはならないのは何かというと、根源です。神様をはっきりと知り、自分の親をはっきりと知り、自分の夫をはっきりと知り、自分の子をはっきりと知り、自分の兄弟をはっきりと知ればよいのです。その次に、兄弟がこれから生きていける国をはっきりと知ったらすべて終わるのです。それが第一です。
どこかの大学を出て大学院に進んで博士になったと言いますが、博士など何になりますか? お母さんや妻・兄弟と換えることができますか? 親と換えることができますか? 最も貴いものを持っていながら、その貴さに気づかずにいる人のことを何といいますか? 愚か者、人でなしといいます。(一四七�\二三一)
2 人間の本性
人間の本性は何を求めていますか? 貴いものを求めています。貴いものはどこで探さなければなりませんか? 変わる所から貴いものを見つけることはできません。変わるものは貴いものと関係がありません。従って貴いものというのは、変わらない所にあるもので、変わることのないものです。なぜそうなるのでしょうか。私たち人間の本性自体が変わることのないものだからです。
私たち人間の本性は絶対的に変わらない性質を持っており、その性質の指向する通りに絶対的に変わらない価値を求めていこうとするのです。ですから、人間はきょうよりも明日、明日よりもあさってにより価値あるよいものがあるという希望を持って生きています。「若いころは苦労しても、中年になったらきっと幸せになれるだろう」という希望を持って生きる人であればこそ生きがいを無理矢理にでもつくり出せるのであって、それすらなかったとしたらどうなりますか? それではいけないのです。(一四一�\一三二)
神様を作家に、人間を作品に例えてみましょう。自分が何かを真心込めて作ったにもかかわらず思い通りにならなかったときは、気分が悪いものです。しかし、作ってみたところ、自分が考えていた以上のものになったとき、それを見て「おい、こいつ、なんで思ったよりいいものになったんだ?」と気分を悪くする人がいますか? そのようにうまく作られたものは、寝るときにも、また戦争で避難するときにも懐に入れて持ち歩き、どこに行こうと愛したいのが人間の本性です。(五三�\二二六)
3 人間の精神力
人間の精神力がいかに偉大なものかを知らなければなりません。「ああ疲れた。八時間寝ないときつくてもう…」という思いをだれがさせているのですか? 取り去ってしまわなければなりません。人間は二十四時間働いても平気でいられるのです。ご飯は三食食べるものとだれが決めましたか? 一日一食でもいいでしょう。一食ずつ食べながら約四百日修練会をやれば、一食だけでも十分に普通の人の二倍働いてもびくともしない、むしろ前より健康な人をつくることができます。そう思いますか、思いませんか?
人は決意してこそ強い行動ができるのではないですか? 正しい思想的骨組みさえ入れてやれば、体は走っていくのです。(六五�\三〇八)
4 人間の求めるもの
今、この地上に生きている人間たちを見ると、何か、より高いものを追い求めています。きょうもあしたも、自分の置かれている環境を超えて、より広範囲な環境で価値ある存在になることを望んでいます。(三八�\七三)
現時点を中心として見るとき、人間や神様が望み、待ちこがれるものは何でしょうか? 何を追求するのかといえば、現実よりよくなることを望むという事実を私たちは否定することができません。これまでの時間よりもこれから訪れる時間がよりよくなることを願い、今の立場よりも今後の立場がよりよくなることを願っているのです。ここで信仰という問題が登場するわけです。(二七�\九三)
人間が生まれたばかりのときは母乳しか知らなかったのが、成長するにつれて父母を知るようになり、次に自分を知るようになります。人間の心はいつも最高の基準まで上ろうとします。いったいどこまで行ったら「これ以上は必要ない」と言うのでしょうか?(一三�\八六)
人がよい人と出会いたいと思うのは、よりよい人を通して神様と出会うためであり、よりよいものを求めるのも、結局、神様と出会うためです。ですから、神様の前に進み出ることのできる道を見つけることは喜びなのです。(一三�\九五)
人間にいちばん問題になるのは、人間が追求する最高の中心、すなわち絶対者と一つになることです。絶対と相対という言葉を追求していくのにおいて、人間は相対的基準を越えて絶対者と一つにならなければならないのです。そうしてはじめて上下関係が成立するのです。人間は、このように上下関係の立場まで進まなければならないのです。(二九�\一二七)
人間たちはどこに行きたがるかというと、よい所へ行きたがります。学生なら学校へ行きたがるでしょう? なぜ学校へ行こうとするのですか? 高くなりたいからです。高くなって何をしようというのですか? よりよくなるためです。
ではよくなったらどうなりますか? つまり、どんどん広くなって高くなったら、どこまで上って行きますか? 人間世界を越えて天の頂上、神様がおられる所まで上って行くのです。ずっと上って行けたらいいでしょう? 人の欲望は限界がありません。こういうことが問題になるのです。
人の欲望の限界点はどこですか? その目的地はどこですか? これが問題です。すべてを所有したいし、どんどん上って行きたいし、よいものは全部自分のものにしたいと思うのです。世界までも自分のものにしたいと思うのです。そうでしょう?(四一�\二六八)
人間はだれでも尊敬されることを望んでいます。また、多くの人の中で自分が中心になることを望んでいます。つまり、中心的な立場で指導したいと思う心をだれもが持っているということです。(二四�\二九〇)
5 人間が好きなもの
人はだれが見ても分かるものを好みますか、見ても分からないものを好みますか? 人は神秘的なものを好みます。皆さん、そういうものが好きではないですか? 神秘的なものは表に現れません。功名に隠されたいちばん重要な本宮に入って行き、その中の部屋まで錠でがっちり閉ざされた所にある宝物、そういうものがあればもっと神秘的です。人はより神秘的なものを欲しがります。外的にはより大きなものを求める反面、内的にはより神秘的なものを求めるのです。(一三八�\一五八)
それでは、ここで高いものが中心ですか、低いものが中心ですか? どちらですか? 人は高いものを好むでしょう? 深い所があって高い所が始まりますか、高い所があって深い所、低い所が始まりますか? 人は深い谷が好きですか、高い山の頂上が好きですか? どちらが好きですか?(高いほうです)。
なぜ深い所は嫌いなのですか? どうして? 高い所に上れば上るほど多様な世界と関係を結ぶことができます。高い所に上れば、すべてが目に見えるのですべてを相手にできます。しかし深い所に行くと、たくさんあったものがだんだんなくなってしまうのです。皆さん、分かりますか? 見えていたものがだんだん切り取られていくのです。だれもが高い所を好むのはなぜですか? 高い所では多様な世界と関係を結んで、自分が主体的な立場で全体を観察できるからです。深い所ではその反対になるわけです。
人はなぜ高い所が好きなのですか? 多様なものと因縁を結ぶことができるので高い所が好きなのです。なぜ低い所は嫌いなのですか? 単純になるからです。多様な関係から遠ざかるということです。最も貴い人は、高い理想、高い考え方、高いものと関係を結ぼうとする人です。そういう人が貴い人だという概念をここから導き出すことができます。
そのような観点から見るとき、精神的姿勢の高い人が貴い人だということです。体は同じでも精神的姿勢の低い人は卑しい人です。霊的な基準で生活する人が高い人で、肉的基準で生活する人が低い人です。このように分けることができます。(一二九�\三〇八)
皆さん、木を見るとき、「われわれは緑のほうがいいけれども、その木自体は毎日のように緑色をしているのだから飽き飽きするだろうに」と考えたことがありますか? 黄色い色、赤い色に一度なってみたいと思うでしょうか? ですから生きること自体が自分のためではなく、あらゆる自然のために生きるものなのです。
では、緑色なのはなぜでしょうか。皆さん、このように暑いときに、緑色でなく赤い色だったらどうでしょうか。しかもそれがまだら模様だと考えてみてください。どんなに刺激が強くてうっとうしいでしょうか。
空、海、草は皆青いのですが、どうでしょうか。うんざりするでしょうか。私の好きな黄色だとしたらどうですか? また、ほかの色だったらすぐに飽きてしまうでしょう。ところが、青や緑は慰労の色なのです、慰労の色。
では人はなぜ緑が好きなのでしょうか? なぜ人は緑が好きですか? この存在世界はグリーン(緑)と調和するようになっています。ですから土にはグリーンの色素が多いと見るのです。土は主にグリーンの色素なはずです。だからその土からつくられた私たち自身はグリーンを好む、そのように理論的なのです。そう考えることができます。神様もそれを知っておられたので、空も海も青や緑に…。すべて人間を中心にこのグリーンと調和するようにつくったのです。なんと素晴らしいことでしょうか。(一一九�\一六九)
6 人間の特徴
人間は考える動物なので、考えてみて自分が損をすることは絶対にしません。よく比べてみて、自分に利益にならなければ絶対に行動しません。利益になれば行動するのです。皆さんもそうではないですか?(一九�\三四)
皆さん、成功することを願う人、手を挙げてみてください。では失敗することを願う人、手を挙げてください。そんな人は罰が当たります。どんなにしとやかな娘でも、聞くまでもありません。本当に成功する道があるものなら、手だけでなく足まで挙げたくなるはずです。だれであれ、滅びたいと思う人はいません。皆さん、優秀な男になりたいでしょう? では、何からうまくいくことを願いますか? 自分の友達の間でまずうまくいくことを願うのです。(三二�\二五八)
人は現実の中で生きていますが、未来への夢を持っています。ほかの動物と違って人間は未来に対する夢を持たなければならないことを知っています。夢というのはどんなものですか? 夢というのはただただ高く、ひたすら高いものであり、ただただよく、ひたすらよいものです。これが夢というものです。夢を持っているというとき、あしたに向かって、あるいは未来に向かってただひたすら悪い夢を抱いている人はいません。そんなものは夢ではありません。ですから一般的にいうと、夢というものはただひたすらよく、ただひたすらうれしいものです。それはどういうことかというと、発展を意味し、栄えることを意味します。(一七一�\四一)
人間をよく見ていると、実におかしな存在です。一度悪くなりだしたら限りなく悪くなり、一度よくなりだしたら限りなくよくなるのを見かけます。また、極から極に連絡することができ、極から極に飛び越えることのできる存在がまさしく人間です。(一八�\三一七)
第二節 人間の目的と価値観
P70
一 人間の目的
1 本然の目的
先生は全生涯を捧げて修道の道を歩んできた人です。さらに、宇宙の根本と神様の実存という問題をめぐってだれよりも悩んだ人です。
血と涙のにじむ修道の過程を通して、先生は生きた神様の実存をはっきりと知りました。生きた神様と直接対面する体験までするに至りました。そして、宇宙の根本である神様との平和を得ずして、この地球上で真の平和を論ずることはできないと悟ったのです。
神様は宇宙の第一原因であり、森羅万象の創造主です。そして私たちの愛する父です。神様は特別なみ旨を成すために万物を創造され、その目的はまさしく愛の具現にあります。神様は真の愛の根源ですが、いくら全能の神様でも、一人では決して愛の喜びを感じることはできません。神様は愛の対象が必要であり、その対象から自発的な愛が返ってくることを願いました。その対象として最高の被造物がまさに人間です。そのような理由で、人間の人生には目的があるのです。人生の目的は成熟して神様と永遠に真の愛の関係を実現することにあります。まさにこれが神様と人間の間に平和を成す根本原理なのです。(一六六�\一三一)
私たち個人はもちろん、地上に生きている数多くの人間たちの中に善を望まない人はいないことを私たちはよく知っています。これまで歴史の方向も善を指向してきましたし、教育者や信仰者たちも善の基準を立てるために努力して闘ってきたことをよく知っています。ですから、生まれるのも善のために生まれ、死ぬのも善のために死ななくてはならないのが人生の目的です。人生の目的のみならず、人間が歩んできた歴史の目的であることを私たちは否定することができないのです。(二四�\一三)
自分たちが豊かに暮らすことも大切ですし、自分たちが何かをすることも大切ですが、それより先に、縦的な天の父母の前に孝の道理を尽くさなければならないのです。縦的な天の父母の前に忠の道理を尽くさなければならないのです。縦的な天の父母の前に聖人以上の道理を尽くさなければならないのです。それが、人間が生まれた本来の目的です。また、そのような人間と出会うために、神様は人間をつくったのです。そういう目的があるのです。(五八�\二三一)
真の人生を生きる道はどこにありますか? 人間はどこから生まれましたか? 愛から生まれましたが、人生はどんな道を行かなければなりませんか? 愛の道を行かなければなりませんが、どのように死ななければなりませんか? 愛のために死ななければならないという結論になります。その愛はどんな愛ですか? 大宇宙が歓迎できる愛です。小宇宙ではありません。神様が認め、天使世界が認め、万物が認め、すべての人が認め、父母が認めることのできる大宇宙の中で生まれ、その中で生き、その中で愛し、その中で死んでいくことが人生の目的だと見るのです。(八三�\一六四)
人は自分がよいときは親、兄弟、親戚を訪ね、一緒に楽しもうとします。よいということは幸せだということです。幸せは永遠なものであり、永遠なものは心情です。
宇宙の中心は何ですか? それは親と子です。つまり親と自分です。神様と自分なのです。神様は父、自分は息子…。
人生の究極的な目的は、父を見つけだし、切っても切れない関係を結んで喜びを感じることです。(一二�\一〇四)
2 人生最高の目的
人生最高の目的は何ですか? 堕落した人間にとって最高の願いは何ですか?「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(コリント十三/十三)」というこのみ言は、実によいみ言だと思います。(一六�\一三二)
人間は何を目的にしなければなりませんか? 個人を目的とするよりも、家庭を目的とするよりも、団体を目的とするよりも、国を目的とするよりも、世界を目的とするよりも、天地を目的とするよりも、神様を中心として、神様と人間が一つになった目的に向かって進まなければならないのです。
では、どの目的が最後に残るでしょうか? 個人を中心とするものは流れて行き、家庭を中心とするものも流れて行き、自分の団体を中心とするものも流れて行き、国を中心とするものも流れて行き、世界を中心とするものも流れて行くのです。しかし、最後まで残れる一つの目的があるとすれば、それは神様と人が合同で追求する目的です。そのような目的だけが人類歴史の最後まで残ることができるのです。(四一�\三二三)
皆さんの心が最後に落ち着く終着点はどこですか? 神様を見つけて自分のものにしたとしても、そこに皆さんの心は安息しようとはしません。では、皆さんの心の最後の終着点はどこですか? 神様を占領し、神様の愛を占領するところです。ですから、皆さんが神様の愛を占領できなければ、万事がだめになります。
人生の最後の目的は何でしょうか? ここでは神様を中心として天の中心となるそのかたと出会うことが問題なのではありません。そのかたとともに生活することが問題になります。
そのかたとどんなところで出会うか、どんなところで生活するかというのが問題です。そのかたとは中心で出会い、中心で生活するというわけですが、その中心となる場というのは神様の愛の場です。
ですから、人類の良心が指向する最高の目標は、天運に従って神様と一つになり、神様の愛を自分のものにすることです。結論はそれです。(二四�\一七)
人間が最後に到達したいと願うのは何でしょうか。最高のかたの愛の相対者となることです。その最高のかたがだれかといえば、私たちの父であると同時に神様なのです。(六五�\四六)
3 二重目的
私たち人間は、二重構造の形態になっています。霊的世界と肉的世界、この二つの世界の媒介体、共鳴体として生まれたのです。(一二七�\一五四)
人間は男性であれ女性であれ、心と体の二重構造になっています。心は縦的に、体は横的になっています。縦横の起源を通さずしては座ることも位置を決定することもできません。違いますか? 間違いだ、ぺちゃんこだ、まっすぐだ、正しい、といえる基準は縦横の基準なしには設定できません。位置を決定できません。東だとか西だとかいう位置を決定できません。(一七二�\二六四)
統一教会でいう個体目的と全体目的というのは歴史的に妥当な論理的基盤で主張できる、ということを私たちはここで知ることができます。そして、個体目的は何かというと、個体完成のためのものであり、全体目的は何かというと、個体目的完成のためのものです。そこで、個体目的を完成せずしては全体目的に接することができない、出発することができない、ということができるのです。(一〇八�\一六二)
人間には体の目的と心の目的があります。では、どちらがより大きな目的で、どちらをより早く成さなければなりませんか? 心の目的を先に成さなければなりません。
個人の小さな目的と大きな目的があるとき、小さなものを捨ててより大きな目的を追求すれば、ここにはプラスの要因が発生し、小さな目的にも利益になり、大きな目的もやはり成すことができるのです。共産主義者たちも目的世界は認めています。しかし、非目的世界から目的世界に変わるその過程においては、必ず破壊的な闘争の歴史が展開すると言います。従って共産主義の理論は、いつかは覆されるのです。
人間は生まれたときから行くべき道があります。全体のための目的と個体のための目的、すなわち二重目的の存在になっています。(一九�\二九九)
二 人間の価値決定
P74
1 没落した世俗的価値観とその代案
今日、人間たちの願うものは何でしょうか。最後に願う彼らの目的は何でしょうか。豊かに暮らすことです。だれでもそう思います。では、豊かに暮らすというのはどういうことでしょうか。根もしっかりしていないし、芽の目的もはっきりしていないので、結局は自分を中心とした平和、自分を中心とした幸福、自分を中心とした民族を追い求めるのです。そうして享楽の淵に落ちてしまうわけです。
人間は死んだらそれで終わりだという思いから、彼らが築き上げた理想的な環境で、死ぬ前にだれよりも豊かに生きてみたいのです。だれよりも世界的な環境で行動し、一度関係を結んでみたいのです。そうこうするうちに、享楽のわなにはまってしまうのです。そのため、今日アメリカなどの国では倫理・道徳などすべてが没落してしまいました。
価値観の喪失というのも程があろうに、歴史的伝統までも拒み、家庭の親・兄弟・夫婦といった家庭制度まですべて破綻させてしまいました。皆、個人的享楽のために相対的なものをすべて除去しています。(一七二�\一五)
だから今、価値観の没落だの脱イデオロギーだのと言いながら騒ぎ立てているのです。だから今、主体的な思想をもって世界を導くことのできる指導者が求められる時代にきているのです。経済的問題が問題ではなく、科学的問題が問題ではありません。「真の宝のような一人の人間が現れたらどんなにいいだろう。新しい革命を提示して人生の理想郷を描くことのできる主人、そして真の価値を持った個人から価値的家庭を経て価値的世界まで導いてくれる主人がいたならどんなにいいだろう」というのが今日の人々の悩みです。(八五�\一〇〇)
したがって、今日この世界においては、はっきりした価値観を持たなければなりません。世界観を越えることのできる価値観を持たなければなりません。統一教会ではその価値観の中心を神様に置いているのです。私たちの主張は「理想世界に帰ろう」ではありません。「神様に帰ろう」です。神様に帰らずしては、理想世界もなく、幸せな世界もなく、永遠な世界もなく、愛の世界もないのです。なぜですか? そのあらゆる幸福の要因、私たちが願うあらゆる与件は、神様によって始まらなければだめだからです。それで神様に帰らなければならないのです。これを慕い、これを探し求めてきたのが人類歴史上に現れた宗教という機関だということを、皆さんは知らなければなりません。
それでは、私たち堕落した人間はどんな考え方を持たなければならないでしょうか。無限の価値観を持たなければなりません。今日、世界は共産世界と民主世界が闘争していますが、最後には皆疲れてしまいます。人間だけではだめだと、疲れる果てる時がだんだん近づいてくるのです。人間だけで世界を料理するようにはなっていないので、疲れるに決まっています。
このような立場から、有り難いことに統一教会では何を提示していますか? 私たちは絶対的な価値観を提示するのと合わせ、真の父母を提示しているのです。私たちが願う絶対的な価値のその基準は何ですか? どこが終着点ですか? 真の父母の子女になることです。永遠の命を持つことができ、永遠の愛を持つことのできる神様の子女になるのです。それ以外には道はありません。違いますか?
アダムとエバが堕落するとき、神様の許しの中で相対理想を結んだわけではありません。自分勝手にしたのです。神様が許して関係を持って出発できるのは、父子の因縁に他なりません。しかし、それが壊れて没落したため、標準の形にもう一度継ぎ合わせなくてはなりません。それは避けようがありません。(六八�\一三八)
2 人間の価値決定
心情が通じるようになれば、皆が神様の子女になります。文化の背景や歴史的環境、あるいは時代の位置によって人間の価値が左右されるわけではありません。いかなるものによっても、人間の価値を決めることはできません。人間が天を知り、地を知り、天の目的と地の目的と人間の目的を知ったところにおいてのみ、人間の価値が決定されるのです。(一五�\八三)
価値は目的観によって決定されます。私たちは何のために生まれ、何のために生き、また何のために死ぬのでしょうか。それはだれかの妻になるためでもなく、だれかの夫になるためでもありません。私たちは一つの目的のために生まれました。
より価値あるものは何でしょうか。より大きな目的のために、この原則的な神様と神様のみ旨のために、主体的な自我を確立してその道を開拓し、相対的な権限を吸収していくところにおいてのみ、より価値ある道が成立することを皆さんは知らなければなりません。
それを要約して簡単にいうと、神様は第一であり、神様のみ旨は第二であり、第三は自分です。このようにして、第四である相対的圏を求めていかなければなりません。この道においてのみ、より価値のある道が生まれるのだという観念をしっかり整理しなければならないのです。この道を通してのみ可能なのです。そして、それだけで終わるのではありません。それをいつも第二目的、第二出発の動機として反復することによってのみ、その価値は帰結するのです。(六六�\二七二)
私たちは新しい価値観を模索し、それを中心にしなければなりません。世界に対する新しい価値、人間に対する新しい価値、理念に対する新しい価値、あるいは愛に対する新しい価値を模索しなければなりません。その価値観が神様のみ旨と一致できる内容をもって出発するとき、その価値観は人間を中心とした価値観とは母体が異なります。人間の理想を中心に立てられている価値観とは違うのです。
そこには天地の差があります。その価値観は分立されたところにあるのではなく、悪の現実圏内で関係を結び、悪の世界のどんな幸福にも勝る幸福をもたらすものでなくてはなりません。そういう理念を見つけなければ、そこから忍耐と克服、つまり耐えて乗り越える基準を立てることはできないのです。従って今世界は、現実を否定し、より次元の高い価値観を見つけられるかどうかの境目で悶えているのです。
実存哲学もそのような観点で生まれたのです。現実を克服するには、現実を克服できる内的な価値観を提示しなければなりません。その内的な価値観をどのように提示するかということが、現代哲学における重要な課題であることを皆さんは知らなければなりません。
その価値観は人間によって形成されるのではありません。人間がいくら努力したところでだめなのです。それが証明されて余りある圏内に入ってきています。ここで重要なことは超越的な価値、より高次元的な価値です。その内容というのは、漠然としていてはだめなのです。「過去にこうになったように、未来もこうなるはずだ」という認識ではだめなのです。現実生活において、私たちの生活感情を中心として環境の与件を克服し、打開できる実質的な内容を備えなければならないのですが、それをいかに体得するかというのが問題なのです。(四四�\二二八)
3 人間の価値基準
皆さん、人に対して「この人は良い、あの人は悪い」と批評することがあります。それでは、ここで良いというのは何を根拠にしているのでしょうか。どんな位置とどんな環境の中で言っているのかという問題を中心に見るとき、その基準は漠然としています。今日この地上は、そのような漠然とした基準を持って生きる人々で満ちています。ある人が朝もワッハッハ、夜もワッハッハといくら喜んだところで、その喜びも一貫した目的と関係を結ぶのでなければ、咲いてはすぐ散ってしまう花のようになるのです。このような立場で喜びを描いていったところで、その人生の終わりに何が残るでしょうか。むなしく寂しい人生しかもたらさないのです。(四一�\一三七)
私たちが人の価値を論ずるときに、その外的な姿がよいからといって、その人を立派な人だと評することはできません。人の価値を評するときには何を中心として評しますか? その人の持つ思想と良心基準です。そして、その思想と良心基準に心情問題がどの程度まで介在しているかによって、その人の人格を論ずるのです。(六�\三〇六)
人間の価値基準は何でしょうか。愛を通さずには価値基準が設定できません。愛という言葉は相対的観念圏内で成立するものなので、互いの価値基準も相対的観念圏内で成されるのです。(五一�\一六六)
4 価値の形成
人は自分一人優れているからといって、すべてがうまくいくわけではありません。必ず相対的世界と関係を結び、相対的関係を備えてはじめて、そこで自分の人格的価値が現れるのです。人のできないことをすれば、それだけの価値が現れるということです。(二七�\一二九)
神様がいくら素晴らしいかただとしても、愛は一人で築くことはできません。レバレンド・ムーンがここに立っていますが、レバレンド・ムーンにも愛があります。愛をたくさん持っています。愛するにおいては、一人でいくら「わが愛よ!」と叫んでもどうでしょうか。「頭がおかしい」と言われるでしょう。しかし、小さな何か、一円玉に口づけする人がいたとしても、それはおかしなことではありません。ですから、相対価値の無限性を知らなければなりません。(一三六�\一一一)
神様は絶対的な創造観を所有する絶対者なので、絶対的な対象価値の存在を追求するのです。これは、この地上の被造万物の何ものにも換えられません。価値で見るなら、相対的存在とは神様を与えても換えることのできない存在です。「相対的価値」という言葉はちょっと難しい言葉ですが、相対という言葉を中心として、その対象の価値というものは神様を与えても換えられないのです。神様を与えたところで、神様一人になります。ハナニム(一人のかた:神様)として残るのです。
ですから、神様自身を投入し、神様自身の力、エネルギーを消耗するのです。消耗戦をするのです。それで、神様にも換えられない対象の価値的存在としてつくったのが人間です。このように、絶対的な価値の存在が人間であることを皆さんは知らなければなりません。神様はそのような思想でもって、価値的存在として人間をおつくりになったのです。
ところで、人間をつくる際には漠然とつくったのではありません。漠然とではありません。そこには、「必ずこのようになる」という神様ご自身の信念があったのです。(六八�\一三四)
5 人間の価値は偉大だ
人間の価値はどれほど大きいでしょうか。神様が杖をついて、先年万年懐かしむことのできる存在が人間です。統一教会の文先生がよく考えてみたところ、これが宇宙の根本だったのです。これが内と外の関係になっているので、縦横の愛の世界観が成立するのです。そうではないですか? 上下の関係と左右の関係になるので、縦横の愛の世界観が展開するのです。その中心には神様が臨在されます。違いますか? 心の深い谷間に、一つにしっかり縛りつけておけるのはどこかというと、縦横の中心です。そうですね? これを縛っておかなければ、縦横の基準が愛の理想形として現れません。縦的なものがいくらあっても、横的なものは出てこないのです。それで人間をこのようにつくったのだということを知らなければなりません。
このような観点から見て、神様を私たちの心の中に入れようとするのは不敬罪ですか、正当な行為ですか?(正当です)。神様を心に入れるとしたら、どのような入れ方をしますか? 大切にお迎えするというより、近ごろの争い合う世の中に突っ込むわけで、お迎えするようにはなっていないでしょう? 違いますか? そうなのです。(四八�\二二四)
人間の価値はどれほど大きなものでしょうか。神様がぐうの音も出なくなるような偉大な武器を私たちは持っているのです。世の中に人間を保存しておく博物館があったとしたら、その博物館の標本は美人が多くて美人でない人は少ないということがあるでしょうか? 考えてみてください。どちらか一方が多くなるのでしょうか? 美しい女性がいれば、それに相対する美しくない男性がいなくてはならないのです。それで釣り合いが取れるのです。神様が見るとき、そうなのです。(一六一�\一三九)
第三節 人体の神秘
P82
一 体は神秘の王宮
人間の体は神秘の王宮です、神秘の王宮。どこかの学者だ科学者だという人が何を言おうと、それらは全く役に立たちません。指一本研究して本を書くとしたら、何千万冊書いても書ききれないのです。人体は神秘の王宮です。人間の体には四百兆以上にもなる細胞が、皆それぞれ異なった作用をしながら動いています。これを拡大すれば、この宇宙よりも大きくなるのです。
これは何の衝突もなく調和を成し、一日の生活、一年の生活、一生の生活を営むことができるほど神秘的です。ところがある科学者は、それらがすべて自然に適応し発展してきたものだと言います。(三七�\一六)
体は神秘の王宮です。この指の爪一つ取っても、医学的に何千年何万年研究して切りがないのです。このごろの博士とかいう人たちを見ていると、怠け者もいます。博士たちが研究していることと全宇宙を比べてみると、何億万分の一にも満たないのです。そんな人たち、いわゆる博士という人たちが、神様はいないとかどうしたとか結論づけたことを信じられますか? 気分が悪いでしょう?
何かの公式だの法則だのと言いますが、それを超越したものがたくさんあります。公式の終わりはどこにあるか、考えたことがありますか? 私たちが学校で学んだ高等数学や何かの公式は、宇宙の公式世界において何段階に属すでしょうか。人間は自然環境に備えることのできる内容を持って生まれたということを、私たちはもう一度考えなくてはなりません。(三五�\五三)
皆さん、これから毎朝鏡を見る際に考えてみてください。どれほど神秘的か。この顔かたち全体について考えると、この世界は神秘の王宮になるでしょう、神秘の王宮! いくら医学が発達しても、この人体の中にある無窮無尽の世界の内面を解明し尽くすことはできません。本を千冊書いても、この指一本すら解明できないのです。子供が適当に粘土をこね回して人形を作るようにして出来たと思いますか? 前後左右どこを見ても矛盾や欠点がないように、秩序整然とした配列の中ですべてがつくられたのです。(一五九�\二七四)
私たち人間の体の構造を見ると、これは神秘の王宮です。どんな存在よりも「神秘」そのものだといえます。そのようなすべての神秘の要素を連結しながら、人間という一つの生命体をつくった絶対者がいるとすれば、彼は無限の能力を持った主人公であるに違いありません。(二七�\二一九)
二 人体の三段階
P83
私たちは原理を通し、蘇生時代、長成時代、完成時代という三段階について学びました。三数が重要です。自然界を見ても、鉱物世界、植物世界、動物世界、このように分けられます。人間を見ても三数で、一・二・三、一・二・三、一・二・三、全部三つの部分に分けられます。顔を見ても、目・鼻・口、三段階です。(両隣の人と)手をつなぐのも、三数を表します。一人・二人・三人と、手をつなぐのも三数を表すのです。目も三点を結びます。焦点が三点を連結しているのです。鼻も中に入って一つになります。口を見ても、一・二・三、三数なのです。さて、こうして見ると三数が必要です。それでこの宇宙を見るときに、西洋思想にはありませんが、東洋思想では宇宙を「天・地・人」と見るのです。また、世の中もそうではないですか? 上・中・下があります。円形を描くのにも、必ず三点を結ばなければなりせん、三点を。一・二・三、必ず三点が連結されなければなりません。直線になるためにも、必ず三点過程を経なければならないのです。この直線というのは、すべて三点で連結されなければならないわけです。全部、同じ立場で連結されなければならないのです。(一二五�\一五八)
皆さんが一つ知らなければならないことは、アダムとエバはそのときは一人の男性であり一人の女性にすぎませんでしたが、全宇宙の中心だったのです。アダム・エバは何ですか? 神様の何ですか? 神様の体なのです、体。そのため、人間は二重構造からなり、心に神様が入るようになっています。神様を中心とした空気のようなものが心なのです。この宇宙を見ると、空気のある空間世界があり、これが心に当たります。そして地に当たるのが体なのです。三重構造になっているのです、三重構造に。すべてが三段階になっているのです。これを見ると、地にも私たちの体が生きていくのに必要な生命の要素があり、空気にも生命の要素があり、また霊界にも私たちの永遠の生命が呼吸できる生命の要素があるのです。
皆さんはご飯も食べなくてはならないし、呼吸して空気も吸わなくてはなりませんが、この二つだけ吸収してもだめです。これ(霊界の生命の要素)を吸収しなくてはならないのです。まず、食べるのが蘇生です。口が蘇生です。そしてこれ(鼻)が長成ですね。次に皆さんは、永遠の生命を呼吸することのできる生命の要素をもらわなければなりません。全部合わせて三段階になっているのです、三段階に。この手を見ても、指があって爪があり、さらに白いところがあります。すべて三段になっています。全部がそうなっているのです。(九二�\一六一)
目の構造はいくつからなっていますか? 白目、黒目、瞳からなっています。蘇生・長成・完成でピタリと当てはまるようになっているのです。鼻を見ても、穴が一つ、二つあって、中のほうで一つに合わさります。完成になるわけです。耳を見ても、一・二・三、このように三つの部分からなり、これが総合して聞くことができるようになっています。指も折り曲げてみると、このように一・二・三です。全部、調べてみればこのように三つになっているのです。従って、三段階の法則というのは宇宙の法です。内臓にも、肺・胃・肝臓があります。すべて秩序整然として、このように天地の原理が人間という一つの存在の中に皆入ってるのです。(三七�\一七、九六�\二三〇、三八�\二五三)
「三度目の正直」という言葉があります。一回目にできなくても三回目には必ずできる、ということです。韓国ではこのような言葉をよく使います。三つ揃わなければならないのです。三つのものが合わさる所には、神様がおられます。目上の人に何かを差し出すとき、手を下に支えるように持って差し出すでしょう? 天地の原理がそうなっているからです。あいさつをする際にも、腰を曲げてしますね。なぜそうするのか分かりますか? 一つになるためです。三つ揃えば、一つに結ばれるということです。(三八�\二五三)
(途中まで)