第一章 真なる家庭
第一節 神様の創造目的と四位基台
一 神様のみ旨
神様のみ旨とは何でしょうか? これはとても簡単な言葉ですが、とても難しい言葉です。私がある神学者に神様のみ旨とは何かと尋ねたところ、その人の答えは「言葉はとても簡単だが、とても難しい言葉である」というのです。その言葉は当たっています。それでは統一教会の、ここに立っているレバレンド・ムーンが見る神様のみ旨とはどんなものでしょうか? これを規定しなければなりません。はっきりと規定しなければならないのです。これがすべての救援摂理の根本となり、神様が摂理歴史を推進する目的の帰一点になるため、神様のみ旨を帰結し、その定義を決めるということは、何よりも尊いことだというように見るのです。
それでは、神様のみ旨とは何でしょうか? それは神様が宇宙をつくった、つまり創造理想、創造目的を完成することです。簡単です。神様のみ旨とは何でしょうか? 創造目的を完成することです。創造するときは無目的に創造するのではなく、目的をもってつくるのです。ですから、その目的を成就することなのです。
それでは、その目的の中心はだれでしょうか? アダムとエバでした。それゆえ統一教会では、神様の創造理想を完成すること、神様の創造目的を完成することは、アダムとエバを中心とした理想を実現することだと言うのです。その理想の実現とは何かと言うときには、四位基台の完成だと端的に言っています。
四位基台とは何でしょうか? 本来、神様を中心としてアダムとエバが完全に一体化して、神様の愛の圏内から抜け出そうにも抜け出せない、上は神様を父として侍り、下に対しては地上において人類の先祖の位置に立って、結合された一つの愛の起点を引き継いでいくことのできた家庭が中心だったのです。したがって、アダムがエバに対する場は神様が創造していたアダムとエバの理想を完成させるための、神様の一体理念をなすことができる愛の結合の場だったのです。
アダムとエバが、そのような愛で一つとなった夫婦として子女を生み、その子女と父母が一つになることのできる愛を成し、神様の愛を中心としてみ旨が成就されていたなら、アダム文化圏が形成されていたことでしょう。そして、今日この世界は、これほど多くの民族に分かれることはなく、文化の背景が錯綜とした歴史の路程を経るのではなく、単一民族で単一思想を中心とした単一文化圏を成したことでしょう。文化を中心として見るときには、文化だとか歴史的背景だとか風習が、皆同じだったはずなのです。
そのようになっていたならば、神様の愛の圏内の家庭を中心として繁殖されたその家庭から、氏族が形成され、神様の愛を中心として民族形成と国家形成が展開されていたことでしょう。そしてアダム民族を中心とした理想国家が展開されていくのです。それが世界に拡散することによって人類の形成がなされた時には、アダムの理想を形成した、完成した一つの世界的国家になるのです。それは何を中心に? 神様の愛を中心として。そうしてはじめて、上は神様を父として侍り、万民を兄弟のように…。一本の愛の木のように根と幹になり枝と葉になるのと同様に、世界は一つの愛の生命体となって、神様と永遠なる理想世界を成したであろうというのが、み旨から見た概略的な世界観なのです。(一九八〇・一一・一八、ロッテ・ホテル)
二 四位基台とは
創造目的は四位基台を完成しなければ成されません。一番目は個性完成であり、二番目は四位基台完成です。
人間には情的分野(愛―家庭)と使命的分野(仕事)があります。この二種類のどちらも持つことができないとき、その人はこの存在世界で死んだ人と同じです。イエス様は、神様とアダムとエバの三対象目的の結実体、すなわち、子女を持つことができなかったために、神様の前で堂々たる立場には立てませんでした。(一九六七・一一・五、前本部教会)
男性と女性が真の愛で一つとなり、その夫婦が離れられない関係になれば、その時は永遠に共存するのです。統一教会はそのような家庭を考えるのです。
そのような原理型の家庭を求めているがゆえに、統一教会の教えでは、救援摂理は復帰摂理であると言い、復帰摂理は創造目的実現、創造目的は四位基台完成だと言うのです。家庭というものがしっかりと定められています、家庭が。家庭がなくては伝統が形成されません。家庭なしで伝統を受け継ぐことができますか?(できません)。何によっても受け継ぐことができないのです。お金ではありません。お金は家庭がなくても受け継ぐことができますし、権力も家庭なしで受け継ぐことができますが、愛というものは家庭がなければ受け継ぐことができません。そのような意味で、四位基台というものを知らなければならないのです。
では、四位基台とは何でしょうか? 男性と女性を見るならば、男性にも心と体があるし女性にも心と体がありますね。これが四位基台です。霊的男性女性、肉的男性女性、これが四位基台です。だから、霊的なものは何でしょうか? 霊的なものは縦的な私です。縦的思想であるというのです。(一九八九・一・六、漢南洞公館)
私たちは夫と妻、そして子女とともに四位基台を成した後にはじめて、私たちの家庭を創造原理、創造理想を実現した家庭と呼ぶことができます。まず父と母が一つになり、次に子女と父母が一つになってはじめて、完全な四位基台を成すのです。
神様はそのような基台を成した家庭を、地上でただの一度も見つけ出すことができませんでした。家庭的範囲では言うまでもなく、個人的にもサタンの勢力を克服して勝利した人は一人もいません。統一理念は、単に個人をしてこの目標を達成させるのではなく、子女を含めた家庭をしてこの目標を達成させようとするのです。(一九七二・一・九、サンフランシスコ)
三 四位基台の基準が成されると
私たち堕落した人間は、一人ひとりが何を望みながら行かなければならないでしょうか? 神様を望み、神様の愛を望みながら行かなければなりません。
アダムとエバがもし神様を中心として完全に一つとなったならば、相対的位置においても絶対者と一つになっているので、彼らの愛は絶対的な愛になったことでしょう。そうなったなら、そのような絶対的な愛の圏内で生まれた息子や娘も絶対的な愛を受けるようになるので、自然に絶対的な愛の圏内に存在するようになります。絶対的相対圏で矛盾や相反するものがなく順応する位置に入っていけば、そこには絶対的愛がともに存在し、絶対的愛の主管を受けるようになります。そうして、その息子・娘たちは平和な愛の囲いの圏内で育っていくのです。そのような雰囲気の中では父母と子女が互いに和合することができ、神様の愛を讃揚することができ、そこから今日統一教会でいう四位基台の基準、すなわち理想的な家庭の形態が展開されるのです。
それでは、父と母とその息子・娘が一つとなり四位基台の基準が成されれば、どのようになりますか? このように、父母がしっかりと立ったなら、その息子・娘は神様の愛を中心としてぴったりとくっつくというのです。そうではないですか、四位基台ですから? (絵を描かれる)
母と父がこの基準にあれば、神様を中心としてAとBも同じだし、CとDも同じ、EとCも、FとHも全部同じになります。ここで、Aが絶対ならBもCもDもEも何ですか? (絶対です)。Fも同じです。GもHも絶対です。一つの絶対的価値が立体的に絶対化できる、その圏が天国ではないかというのです。(一九七一・一一・二一、前本部教会)
四 四位基台を中心とした愛の法度
四位基台理論はこの宇宙原則のすべてに通じます。だから、縦横を中心として和合しうる授受作用ができなくなるときは、存在的基盤が宇宙の中に形成されません。軸がなければ飛んでいってしまいます。軸が必要なのです。(一九八八・八・二八、漢南洞公館)
天国の愛の根は何でしょうか? 自分が存在する以前にだれの愛がなければならないでしょうか? 父母の愛がなければなりません。次に、これからもずっと自分が存在するためには、夫婦の愛がなければなりません。そうしてはじめて、子女の愛が出てくるのです。それが三大愛です。ですから、神様の愛は父母の愛、夫婦の愛、子女の愛として現れます。この三大愛が人間において絶対的な観を超越することのできる、永遠なる実存的権限を持っています。それゆえに、この三大愛が結合するときに人間は幸福になるのです。これが完全ならば幸福も完全ですし、これが欠如すれば不幸が巣くうことになるのです。
母親がいない人は幸福ですか? 母親がいない分、不幸です。また、父親がいない人は幸福ですか? 父親のいない人は父親のいる人をうらやましく思うのです。幸福だということには、うらやましいことがあってはなりません。愛もうらやましいことがあってはだめです。うらやましいことがあっては幸福だということができません。だから、父親がいなくても幸福ではありえず、母親がいなくても幸福ではありえません。男性がいくら肝っ玉が大きく、大声をあげたところで、女性がいなければなりません。妻がいなければならないのです。また、夫婦二人で楽しく暮らしていて、夫が突然出ていってしまえば、夫人は涙を流します。男性がいなくてもだめだし、女性がいなくてもだめなのです。次に、夫婦同士でどんなに仲むつまじく暮らしたとしても、息子・娘がいなければどうですか? 不幸ですか? 幸福ですか? (不幸です)。では、息子だけ必要ですか? 息子・娘ともに必要なのです。それから、たとえば父母に息子・娘二人しかいなかったらどうでしょうか? 息子がいるというとき、彼には姉が必要であり、また兄が必要です。娘には兄が必要であり、姉が必要です。また、彼らには弟と妹が必要です。兄がいなければならず、姉がいなければならず、弟妹がいなければなりません。これがすべてそろっていなければ不幸なのです。妹弟姉兄すべてそろって完全に一つとなる家庭は神様が保護されます。これが氏族と民族と国家の起源になるからです。
私を中心として父、母、兄、姉、その次には弟、妹それに私まで合わせれば何人になりますか? (七人です)。だから、七数が完成数だというのです。ここで、完成とは愛についてだということを知らなければなりません。どうして七数が完成数なのですか? 何のためにキリスト教でいう天地創造が七数を中心として完成されたのでしょうか? そのような内容があるからなのです。
三数は天の数で、四数は地の数だといいます。ここで三数は父、母、私まで含めて三数です。それでは四数は何を意味しますか? 上の三数に弟、妹まで合わせたものが四数です。この地に歴史が始まって以来、いったいだれが父母を中心とした真なる愛、夫婦を中心とした真なる愛、兄弟を中心とした真なる愛を成しましたか? 真なる愛は絶対的なものです。
先生が、愛を中心としてそろえなければならないものは七種類だと言いましたね。だから、七数が完成数だということを知らなければなりません。父なる神、御子、聖霊というのは神様を中心としたアダムとエバのことです。父母の愛は天と地を代身したものです。聖なる父は上下、すなわち縦的因縁をいうのであり、皆さんを中心に見るとき、兄・姉は東西をいい、弟・妹は南北をいうのですから、それが完成されれば立体になるのです。これが愛の法度です。したがって、科学のすべての法則も、数理を離れて公式・法度に適応されるものはありません。神様の愛の法度を根源とした創造原理的な概念がここから出てきます。このような愛の法度が根づいたとき、平和の起源が成されるのです。(一九六八・三・三一、前本部教会)
五 家庭の必要性
家庭という単位がなぜ必要なのでしょうか? これはサタンが絶対に讒訴できないのです。サタンが絶対に讒訴できないから家庭が必要なのです。だから、家庭で完全に一つとなって、その母と父をつかんで「神様! み旨のために(わが家を)選びました。あなたがここに来て住んで、助けてくださらなければなりません。そうですか、そうではないですか?」と言えば「そうだ。そうだね」と言われるのです。(一九八五・八・二〇、ベルベディア修練所)
人間たちは必ず家庭を持たなくてはなりません。家庭を中心に見ると、家庭には父母がいて子どもがいて物質があります。それでは、旧約時代、新約時代、成約時代において、縦的歴史全体を横的に展開させて代身することのできる実体は何でしょうか? 万物と子女と父母です。すなわち、父母と子どもと彼らの所有物です。これらは、家庭の一つの囲いの中で必要なものです。(一九七〇・二・二七、統一産業寄宿舎講堂)
統一教会の理想は他のところにあるのではありません。出発も家庭であり、結論も家庭です。今までこのような問題を解決した人がいなかったので、それを願ってきました。そして、そこに幸福があるので、それを体系化させて天宙化させて無限な価値を表したことから、統一主義が公認されたのです。したがって、この主義を嫌う人がなくすべての人がこうべを垂れて好きになれば、世界は自動的に統一されるのです。(一九六九・一〇・一八、大邱教会)
第二節 真なる家庭の構成と系統
一 家庭は三代すべてが必要
皆さんは複雑なことが好きですか、簡単なことが好きですか? (簡単なことです)。そうですか、簡単な家庭がいいですか? (はい)。それなら、先生が話したことはどうなります? おじいさん、おばあさん、舅、姑、小姑、孫までも一緒に暮らそうというのです。何を中心として? センターを中心として蘇生、長成、完成、三代が定着するのです。これはどういうことですか? お父さん、お母さんだけ愛するのではなく、おじいさんを愛することができなければ、神様を愛することにはなりません。お父さんとお母さんの上におじいさんをおいて愛することができなければ神様を愛することにはなりません。
それでは、なぜ夫がいなければだめなのですか? なぜ息子・娘がいなければだめなのですか? 彼らがいなければ、神様に侍ることができないからです。だから、それがなければだめなのです。父母がいなければならず、息子・娘がいなければならないというのは原則です。一つ、二つ、三つ、これがセンターになります。これがセンターになるのです、九十角度に。九十度は完全に合うようになっています。だから、三代が必要なのです。
さあ、父母は必要なのですか? (はい)。では夫婦は必要ですか? (はい)。子女は必要ですか? (はい)。それをなぜ必要とするのでしょうか? 神様とベリー・グッド・センター(とても重要な中心)と関係を結ぶためには父母が必要であり、夫が必要であり、子女が必要であるという論理が成立するのです。なぜ父母が必要で、夫が必要で、子女が必要なのかをはっきり知らなければなりません。これを知らなければならないのです。私は下にも行かなければならず、センターにも行かなければならず、上にも行かなければならず、横にも行かなければならず、四方に行かなければなりません。たとえ孫だとしても、愛をもっておじいさんを好きになれば「おお、よしよし」と言うのです。分かりますか? (はい)。
だから、本然の世界ができなかったので、本然の世界をつくるために、本然の愛を中心として、このような家庭編成を標準化することを、わが統一教会が宗教世界を通じてはじめて教育した事実は、驚くべきことだということを知らなければなりません。(一九八三・五・二九、アメリカ)
家庭には必ず父母がいて、妻子がいなければなりません。それではじめて家庭が幸福の拠り所になるのです。神が人類を探し求める目的も、神自身の幸福を模索するためであることには間違いありません。そこで、神自身が幸福の拠り所を探し求めてくるとき、人間を離れた場所にはそのような理想がありえないのです。人間と一緒に関係を結ばなければ、その一致点をもたらすことができないのです。私たちが家庭において、情緒的なすべての内容を備えた場所で幸福を感じるのと同じく、神もやはり、そのような場所において幸福を感じるのです。(一九七〇・七・一五、前本部教会)
私たちは互いに感じ合ったり、よく顔を合わせたりしなければなりません。そこには、妻も必要なのであり、夫も必要なのです。また、若者たちも必要だし、お年寄りも必要なのです。だから、私たちは万民の世論がどうであっても、共通した形を整えることをしてきました。
年取った人たちは必要ないといったら、将来どうなるでしょうか? 年取った人を皆見捨てる立場を取るようになれば、その国の国民性はなくなるのです。分かりますか? 年を取った人が嫌いだという人になるなら、その民族の伝統性を中心として見るとき、民族性を売り飛ばす人になるのです。
ところで、このごろは子どもが親を否定します。人倫道徳まで否定しています。人倫を否定する時が終わりの日です。私たち統一教会はそのようにしてはいけません。こういった現在の思潮に調子を合わせて操られてはいけません。統一教会は真実で永遠に肯定できる因縁を持たなければなりません。親は親なりに、子どもは子どもなりに、先生は先生なりに関係を結ばなければなりません。ですから、若い人だけではいけません。み旨には年を取った人も必要なのです。
ですから、年取った人を重要視しなければなりません。これから、先生を中心としてそのようなことを試していくことになるでしょう。だから、神様を中心として動くのには、子どもも必要だし大人も必要だし、息子も娘も皆必要です。一つの氏族を中心として、皆必要なのです。(一九六八・一一・一七、前本部教会)
おじいさんの杖やおばあさんの杖を、孫の嫁たちは皆見るのを嫌がるのです。なぜですか? 早く死ねばいいというのです。しかし、愛を持った孫嫁は、「ああ、あの杖がなくなる日には、目から雨のような涙が出るだろう。ああ、千年も万年もあればいいなあ」と言うのです。そのようにできる嫁は偽りの嫁ですか? 真の嫁ですか? 偽りの孫嫁ですか、真の孫嫁ですか? 何ですか? (真の孫嫁です)。皆さん、全員そうですか?
現在において簡単に生きようとするでしょう? 簡単に生きようとする人は、東西南北がない人です。東西南北を備えることのできない人は、中央を見いだすことができません。(一九八九・一・一、本部教会)
今日、家庭倫理の根本問題が揺らいでいます。ずっと今まで、宗教を信じる人たちは、結婚することを悪く考えてきたというのです。結婚の最高の神聖さを私たちは謳わなければなりません。男性と女性が愛し合うことのできる道は結婚生活なのです。
そうして、結婚して一つになることによって、男性と女性がだれに似るのでしょうか? 神様に似るのです。男性と女性が一つになってはじめて、ご自身の形状通りに男性と女性を創造された神様に似るのです。そうしてはじめて、神様が臨在されます。
この宇宙の力はこうなっています。皆さん、夫が死んだら妻がなぜ泣きますか? 死んだら死んだで仕方がないでしょうに、なぜ泣くのかというのです。ご飯を食べたくないから死んだというなら、それまででしょうに、どうして泣くのですか? それを知らなければなりません。また、息子・娘がいないとなぜ泣きますか? なぜ寂しいですか? 宇宙の根本原則は東西四方を皆備えなければならないからです、東西四方を。
宇宙の存在の力は相対理想を擁護する力でできているというのです。だから、全部授け受けるのです。南北が授け受けるというのです。北極と南極が授け受けるのと同じく、星と星が授け受けるのです。だから、相手がなくては存在できないのです。完全に授け受ける存在は、この宇宙が擁護します。永遠に維持できるようにその存在を擁護する天運が伴うのが原則です。全部それを協助するのです。
さあ、息子・娘がいなくてもだめなのですね。今日、西欧では「息子・娘は必要ない」という主義が現れていますが、必要ないかどうか今に見ていなさい。霊界へ行ってみなさい。自分が立っている所には必ず上があり下があるのです。三数を通さなければならないのです。三段階を経なければならないのです。
だから、すべてのものが、皆三段階になっているのです、三段階に。父母に侍らなければならないし、夫婦がいなければならないし、子女がいなければなりません。子女がいなくては天理原則に合わないというのです。これを真っ二つに分けると男性三段階、女性三段階ですが、これを合わせて統一的な三数の形態を備えて、理想世界が展開されます。すなわち、おじいさんとおばあさんがいて、お父さんとお母さんがいて、自分がいてはじめて理想的だというのです。統一教会の家庭倫理はここから始まるのです。(一九七四・二・八、中央修練院)
天国とは何でしょうか? 自分の家庭と同じように、世界の人を愛することのできる所が天国であり、そういう人が天国の民です。おじいさんとおばあさん、お父さんとお母さん、自分の妻、兄弟、子女、この四代は何でしょうか? 天の国の民として愛を、宇宙の真の愛を体験するための教材としての家庭です。教材としての家庭なのです。教材として私に教えてくれる基盤が家庭というものだということを知らなければなりません。(一九八三・一〇・一、世界宣教本部)
サタンとはどのようなものでしょうか? サタンとは何でしょうか? さあ、私たちの家庭を中心として見てみましょう。サタンが一体どんな奴かを知らなければなりません。サタンが一体どのように悪いものかということを知らなければなりません。
さあ、一つの家があるとしましょう、一つの家が。世の中では一つの家庭に、だいたい何代が住んでいますか? 一つの家庭に何代くらい住んでいますか? (三代です)。三代ですか、四代ですか? どちらですか? おじいさん、お父さん、自分で三代ですし、その次はおじいさんのお父さんである、ひいおじいさんがいることもあるのです。だから、この地上で一つの家庭に住んでいるのは四代だというのです。四代が住んでいるのです。四代が住むことのできる環境だということを知らなければならないのです。
そうして、四代以上なら、だいたい二十年ずつ見ると二十年、二十年、二十年、二十年で八十歳になります。このように見るとその代以上の人はどこへ行って住むのでしょうか? 霊界に行って住むのです。永遠に行くというのです。
それでは、地上でこの一つの家族が生きるのに何を中心として生きるのですか? 知識を持って生きるのか、お金を持って生きるのか、権力を持って生きるのか? 何を持って生きるのかということが問題なのです。愛を持って生きるのです。(一九八三・二・一、アメリカ)
二 家庭で変わらない軸は父親
変わらないものは何でしょうか? 今日、男女が互いに好きになって結婚するのに、その結婚も変わるでしょう? お父さんお母さんの愛も変わるでしょう? 親が子どもに対するときの愛も変わりますが、それは大きくは変わりません。人間世界のすべてのものは常に変化しますが、その中で共通して変わらないものを探すと、それは母親の愛なのです。父親は生むところまでです。父親よりも母親のほうが子どもをより深く愛するでしょう? 違いますか? もちろん、愛するのには父親を中心として愛することを知らなければなりません。愛の種はどこから出てきましたか? 生命の種はお母さんから出てくるのではないのです。お母さんは肉でありお父さんは骨です。お父さんのものをもらって出てきたのです。だから、お父さんを思って、(次に)お母さんを思わなければならないのです。
骨がなかったら形ができますか? 骨がないと、皆餅のように、餅をつくときくっつくように、皆べたっとくっついているでしょう? お父さんの骨から骨が生まれたからこそ、肉に効果があるのです。なければ何の…。
だから、家庭において変わらない人がいるとしたら、お父さんが最も変わりません。お父さんは怖いでしょう? 怖いですが位置を守るために、軽率に行ったり来たりしません。しかし、お母さんはくるくる回ります。お父さんは一つの場所で回転しているために、軸と同じ位置にいるために変わらないのです。皆さんそうでしょう?
この前、清平へ行ったら、タービン(原動機)とジェネレーター(発電機)が回っているのですが、それを連結させるシャフト(軸)がこんなに太いのです。一分間に四百五十回回転するのですが、目で見ると動いていないように見えます。しかし、その周りには、大変な騒ぎが展開しているでしょう。それと同じように、お母さんもお父さんを中心として回ります。回るから、お母さんは変わるのです。東へ行っては東の形態を持ち、南へ行っては南、西へ行っては西の形態を持つのです。
したがって、家の中で変わらない人を探してみると、おじいさんでしょう。その次はおばあさんでしょうか、お父さんでしょうか? (お父さん)。知ってはいるのですね。その次はだれですか? その息子、孫息子です。全部男性なのです。女性たちは変わるので秘密の話を全部してしまうなというのです。お母さんがいるときは、父親と息子だけで秘密の話をするときには、「お母さん、ちょっと出ていてください」と言うのです。(笑い)東洋思想はそのようになっています。重要な話はお父さんとするようになっており、お母さんとしてはだめなのです。明日にでも浮気をして、もう一度お嫁に行くかも知れないでしょう? (笑い)だから、重要な問題はお父さん、おじいさんと相談しなければなりません。違いますか? なぜでしょうか? 重要だから。重要というのは、変わらないことをいいます。永遠に変わらずにいられる主体だというものは、永遠に貴いのです。(一九八六・三・二、本部教会)
家庭の中心は何ですか? 父母ですが、なぜ父母ですか? 父母は家庭全体のためにいるからです。(一九八三・一・二三、ベルベディア修練所)
たった一つの父母だということは何を意味しますか? 絶対的であり、変わることがなく、永遠でありうる、たった一つの中心存在だというのです。そのような人が父母だということを私たちは知りました。また、その父母の中に変わらない愛が蓄えられているのです。皆さん、ダイヤモンドとか金とかを包んでいる風呂敷は貴いでしょうか、貴くないでしょうか? 風呂敷もダイヤモンドを包んだときにはダイヤモンドと同じ価値を持つのです。そういう観点から見て、父母がどんなに貴いかということを(私たちは)知りました。変わらない愛を、無限な愛を持っている父母自体がどれほど貴いかということを、私たちは知らなければなりません。皆さんたちは父母に対してそのように考えたことがありますか? ここから唯一という、唯一なる父母という言葉が出てくるのです。
父母は唯一なのです。次に不変です。永遠です。このような観念がここからすべて出てくるのです。父母とはそういうものです。父母は実際そうでしょう? そうでしょうか、そうではないでしょうか? そうなのです。では、父母が変わることができますか? (できません)。父母の愛を革命することは、歴史時代になかったということを私たちは知らなければなりません。結局、たとえ革命が起こるとしても、この愛を革命することはできないので、この愛の起源は永遠に存続しなければならないということになるのです。そのような父母、そのような愛の主体となる父母が私を絶対に必要とするのです。唯一的に必要とし、不変的に必要とし、永遠に必要とするのです。(一九七四・一一・一〇、ベルベディア修練所)
父母が子女を愛するのは、だれに教えられて愛するのですか? ここにいるおばさんたち、子どもを産んで愛するとき、その愛する方法を習いましたか? どこに愛を教える小学校がありますか、中学校がありますか? 何か、高等学校や大学がありますか? そこに何か、学博士でもいるのですか? 何もありませんが、だれでもその基準は満点です。不足だと感じれば感じるほど、もっと完全なのです。そうでしょう? 完全なものは手を加える必要もなく、習う必要もありません。加減が必要なければないほど完全なものなので、完全なものは変わらず、変わらないものは永遠に行くというのです。(一九七一・一・八、議政府教会)
父母とは一体全体何でしょうか? 力も世界的なチャンピオンで、頭も世界的なチャンピオンである息子が、(目の上の)こぶのような存在のお父さんとお母さんを一本の指で片付けて勝手にすればいいのに、なぜ勝手にできないのでしょうか? これを知らなければなりません。父母がいないときは、力でも一番であるし頭でも一番なので、力を振りかざして「やあっ! こいつら!」とやることもできるし、頭をつかって「えいっ!」とやり込めることもできるのです。
しかし、愛の起源はどこでしょうか? 愛はどこから出てきましたか? 自分からですか? (父母から…)。父母から出てくるので、愛の起源は自分ではなく父母なのです。原因に礼儀をわきまえない結果はありえません。分かりますか? 愛を中心にすると、自分が主人ではないことが分かるので、そのように(自分勝手に)できないのです。だから、父母の前に来ると「はい、お父さん、お母さん、そうです」というのです。父母が「お前がいくら名高く力が強いとしても、お母さんとお父さんの前では守るべき道理を外れてはいけない」と言えば「はい。はい。はい。お父さん、お母さん、その通りです」と言うのです。なぜでしょうか? 愛があるからです。父母が主体であり、子女は対象だからです。分かりますか?
主体は対象のために生き、対象は主体に従うのが天理原則です。これを破綻させる日には、その家庭は完全に無価値な結果に転落するのが天理原則だということを、いくら無学な人間でも天性に従って生まれたので分かるのです。したがって、いくら外的に力の強いチャンピオンだとしても、父母の前では頭を下げなければならないのです。誤っていますか、誤ってはいませんか? (誤ってはいません)。(一九七一・一一・六、光州教会)
人間社会は力の争いが続いているし、知識の争いが続いています。まだ、愛の争いができる時にはなっていません。だから、宗教指導者たちは終末になれば自分たちの時が来ると言っているのです。その終末になると鉄拳の力は過ぎ去って、愛の力だけが残るのです。そのような最後の世界的な覇権時代、その時がまさしく終わり日となるのです。
力の強いお兄さんが家に入ってきて、大将のように振る舞うことができますか? できますか? できませんか? どんなに力の強いお兄さんも、家では大将のようにできないのです。リングでは世界的なチャンピオンになれても、家では大将になれないのです。分かりましたか? また、博士の学位を何百個持っているお兄さんでも、家に入ってきて大将のように振る舞うことができますか? 男性たちできますか? (できません)。なぜ、できませんか? 父母がいるからです。( ? )
三 おじいさんは神様と同等
おじいさんはだれかと言うと愛を持っている人です。夫と妻がけんかをすると、おじいさんとおばあさんが愛で「けんかはやめなさい」と言い、また息子・娘がけんかし、孫たちがけんかをすると「けんかはやめなさい」と、このように僕の役を務めるのです。すべて「お前が最高だ。お前が立派だ」と言いながら、尽くしてくれるのです。愛の僕の役を最大限にする人がおじいさんだということを知らなければなりません。夫も妻がシクシクと泣けば、「泣くんじゃない。ちゃんと分かってるよ。あなたが望むことは全部やってあげるから」と言うのです。どうですか?
さあ、それで結論は何でしょうか? 宇宙で最も偉大で驚異的で、最も権勢を持った人はどんな人かと言えば、愛の僕の道を歩んだ人なのです。このような結論がぴったりと出るのです。これが神様の哲学であり、レバレンド・ムーンの哲学であり、ムーニーの哲学です。(一九八五・一〇・四、ベルベディア修練所)
アメリカの家庭ではおじいさんが息子たちの家へ行くとき、電話をしてから行くそうです。人はどういうことを好むでしょうか? 皆さんたちはどういうことを好みますか? いいですか、きれいな嫁が、白髪だらけのおじいさんとおばあさんに慕わしい気持ちを抱き、愛する夫よりもっと良い物を買ってあげようとするなら、どんなにか美しく愛らしいでしょうか? 美人の嫁が、年老いたおじいさんとおばあさんがしわくちゃなのにもかかわらず、何かを買うのに、自分が愛する夫に買ってあげる以上の喜びで買ってあげる場面は、どんなにか素敵であるに違いありません。そうすれば、おじいさんとおばあさんは秘めていたすべてのものを…。愛に関するすべてのものを全部与えるというのです。
さあ、この世で一番年を取ったおじいさんはだれでしょうか? (神様)。当たりですね。(笑い)だから、そのおじいさん(神様)のために生きる愛を自分のおじいさんから学ぶのです。この伝統を学んで、天のおじいさんの秘密の倉庫にあるすべての愛の宝物を私がもらうことができるのです。それはどんなに素敵なことでしょうか。(一九八〇・六・八、アメリカ)
皆さん、このように考えるとき、おじいさんが咳をすれば「まったく、あの年寄り、早く死ねばいいのに」と言いますか、おじいさんの咳もいいものとして考えますか? 年を取っているから、あまり寝ないのですね。それを考えてみなさい。「いやあ、うちではおじいさんが眠らずに守ってくれる神様だなあ! 私たちを守っていて、あんなに老いたんだなあ。しわを見ると、本当に年を取ったなあ」そのように考えなければなりません。だから、命令に絶対順応しなければなりません。それはどんなに美しいことでしょう。そのようなおじいさんとおばあさん、年を取ったおじいさんとおばあさんに侍るなら、火事にもならず泥棒にも入られないのです。これを知らなければなりません。
おじいさんとおばあさんは眠らないで何をするのでしょうか? 祈祷をするのです。「神様、うちの息子・娘に福を授けてください。福をください」と言って祈祷するのです。「おい、だれだれよ! お前、きょうは出歩いては危険だ。言うことを聞きなさい」このように全部教えてくれるのです。「きょうは外に出るな! けんかをするな! 息子よ、どこにも行くな。娘よ! 嫁よ! きょうは遠くへ行くな」このように教えてくれるのです。(笑い)
さあ、だから孫たちにこのようなおじいさんとおばあさんが必要でしょうか、必要ではないでしょうか? 愛を持てばおばあさんとおじいさんも小躍りし、お母さんとお父さんも小躍りし、兄弟同士も小躍りするのです。(一九八〇・六・八、アメリカ)
父母は孫をどこかに送り出すとき、必ずおじいさんの承諾を受けなければなりません。父母の勝手にはできません、おじいさんが神様の位置になるのです。分かりますか、何の話か? それをアメリカ式ではとても嫌がるのです。お父さんとお母さんがどこかに出かける際、子どもが「私も一緒に行きたい」と言う場合、(おじいさんの承諾なしに)「だめだ! だめだ!」とは言えないのです。(一九八〇・六・八、アメリカ)
四 人間世界の系列
人間の中にはどのような人がいるでしょうか? 人間世界には系列があります。祖父母がいて、父母がいて、子女がいます。良いおじいさんとおばあさん、良い夫・妻、良い息子・娘、これらがどのように一つになるかが問題です。人と人同士連結されたこれらのものが、一つになっているのが最高に良いことだと私たちは考えるのです。
人間において最も貴いもの、良いものはどこにあるでしょうか? それは外にあるのよりも自体内に、自体とともにあります。だから、内的私自身を中心として、良いおじいさんとおばあさん、良いお父さんとお母さん、良い兄弟、良い夫婦を中心として、良い環境で相対的世界の良い因縁を捜さなければならないのです。(一九八七・三・八、ベルベディア修練所)
今日、人間世界のティーンエージャー(十代)たちは、お母さんが何かを持っていってあげても「ふん」と言って食べません。(笑い)母親と父親が、遊びに行くために赤ん坊をひもで縛っておいて、柱にぐるぐる巻きにして、部屋に閉じ込めて出ていきます。そんな母親と父親、どうですか? 実際、アメリカにはそのような夫婦が多いのです。人間の中には虫けらにも劣る者が多いという事実を知らなければなりません。
さあ、私たち人間にとってこれがなぜ必要でしょうか? 世界にはおじいさんとおばあさんのような人々が住んでいるし、お母さんとお父さんのような人々が住んでいるし、夫婦のような人々が住んでいるし、息子・娘のような人々が住んでいます。何種類かと言うと、このような四種類の人々が全世界に住んでいるのです。そうですか、そうではないですか? (そうです)。だから、世界の数多くの人々が天国の国民になることのできる教育の教材として、経典とされたものが家庭であるという観念を持たなければなりません。
では、ここで秩序を立てるにはだれが立てなければならないでしょうか? その家庭に対して功労が多く、その家庭をよく知っていて、その家庭で見本になる人が責任者となるのです。これは民主世界全体の原則にも反しないというのです。さあ、だれがセンターにならなければなりませんか? (おじいさんとおばあさんです)。そうです。おじいさんとおばあさんです。違いますか? (いいえ)。なぜ、どうして? 全体をよく知っているからです。おじいさんがその家では王だということでしょう? その王がお父さんに「私はもう年を取ったから、お前がやりなさい」といって相続してくれ、そこでお父さんが「お父さんが本当によろしければそうしましょう」と言うその時になってはじめて、その家庭の中心がお父さんに代わりうるのです。そのお父さんが、次に私に相続してくれてはじめて、私も家庭の中心になることができるのです。
そうしておけば、おじいさんがお父さんにこのようにし、お父さんが息子にこのようにし、息子はまた先の後代にこのようにしていくことが、私たちの伝統として立つことになります。これが宇宙を代表した家庭のシステムの原則にならなければなりません。
ところが、今まで世の中には神様が認める家庭がありませんでした。だから、神様がこれをもう一度つくるために宗教を立て、複雑な過程を通過して苦労してきたのですが、今日神様の名でこのような家庭のシステムをつくろうと運動するのが、歴史上はじめて現れた統一教会だというのです。これは事実なのです。(一九八四・二・五、アメリカ)
人間は自分の父母を愛するように近所の父母を愛し、自分のおじいさんを愛するように近所のおじいさんを愛し、自分の息子・娘を愛するように近所の息子・娘を愛さなければならない! だから、上下関係が広がり、左右が広がり、前後関係がそこから広がるのです。このようになるのです。分かりますか? それが広がってはじめて、この縦的な心情の基準が定着して天道ができるのです。だから、それを実践しようというのです、皆さんが。統一教会はそれを実践するので理想的家庭建設だ、このようになるのです。
それでは皆さんは何でしょうか? 皆さんはこの縦的中心で何をしなければならないでしょうか? これを横的に再現させようというのです。そうしなければなりません。それゆえ、おばあさんを愛さなくてはならないのです。もう、先生も間もなくおじいさんになるでしょう? (はい)。おじいさんになるのです。皆さんも年を取ったらおばあさんとおじいさんになるのです。同じです。息子・娘として生まれて、次に結婚してお母さんとお父さんになり、おじいさんとおばあさんになっていくのです。それが人生というものです。
それゆえ、おばあさんとおじいさん、次はお母さんとお父さん、次は自分たち夫婦、次は息子・娘なのです。これが人生が行く公式路程なので、これを愛さなければ天道から外れる! このようになるのです。分かりましたか? (はい)。
これを根本的に結んでおかなければ、この世界を収拾する道がありません。西洋のあたりへ行ってみると、本当に西洋のおばあさんとおじいさんたちはかわいそうです。彼らは東洋の風習をどんなにうらやましく思っているか知れません。「ああ東洋思想はおばあさんとおじいさんをその家の神様のように長として侍り、七十歳、八十歳の老人のところに息子が行ってすべてのことにおうかがいを立てて…。いや、どんなにいいだろうか」と言っているのです。
それゆえ、おばあさんとおじいさんを愛することのできない人は…。一番年を取ったおじいさんはだれですか? 神様ではないですか? また、一番若い人はだれですか? その人も神様なのです。おじいさんよりも年を取った人が神様であり、赤ちゃんよりももっと若い人が神様なので、その神様を愛そうとするわけですから、すべての人を愛さずしては神様を愛することはできない、このようになるのです。何の話か分かりますか?
だから、神様は年が多いと言えば一番多い方であるし、末来に対する青春ならぱだれよりも青春なのです。そうでしょう? その神様を私が愛そうとするからには、あらゆる人類を愛さなければならないし、歴史時代に霊界に行っている人々までも愛さなければ、神様に従って愛することのできる道を捜して行くことはできない、というのが理論的ではないかというのです。(一九七四・二・九、中央修練院)
五 祖父母と孫
皆さん、孫を持ったおじいさんとおばあさんたちは分かるはずです。孫たちはおじいさんとおばあさんを見ては、「ああ、あなたの生命的構成体(外貌)を見ると、年が八十になって死にそうです。年取った人は嫌いです」「ああ、しわくちゃなのは嫌だ。だから、おじいさんとおばあさん、私に近づかないで。ああ、嫌だ」と言ったらどうでしょうか? しわくちゃなおじいさんを見ると、顔がやせこけて歯が抜けて目までしなびて、髪を見てもおかしいですね。そのおじいさんに対して…。そんなおじいさんの愛を受けた人とおじいさんの愛を受けられなかった人を見るとき、おじいさんの愛を受けた孫は「私はお母さんとお父さんの愛も受けましたが、おじいさんとおばあさんの愛も受けました」このように言います。ところで、もう一方にはおじいさんとおばあさんがいません。それで「私はお母さんとお父さんの愛だけを受けました。だから私のほうが立派でしょう」と言ったら、果たして本当でしょうか? 皆さんはどちらがいいですか? おじいさんとおばあさんの愛まで受けた人と、お父さんとお母さんの愛だけを受けた人と二人いるなら、どちらがいいですか? おじいさんとおばあさんの愛を合わせた愛ですか、お父さんとお母さんだけの愛ですか? (おじいさんとおばあさんの愛を合わせた…)。そうです。根本がそうです。(一九八九・二・二六、本部教会)
皆さん、おじいさんとおばあさんは自分の孫が好きですか、好きではないですか? (好きです)。年を取るとしわも増えて、手も顔もしわくちゃになって、髪も白くなっていきます。それに、おじいさんたちは髭まで生やしています。そして、年老いた人たちは体からにおいが出ます。それにもかかわらず、孫・孫娘がかわいいと言って、頬を擦り付けてなで回したりすると、孫たちは嫌だと言って逃げていくのです。それでも、おじいさんとおばあさんたちはパンまで買ってあげて、孫たちと一緒にいようとするのです。私もこんな気持ちを体験しました。皆さんは体験しましたか? 孫たちは嫌がるのですが、おじいさんとおばあさんはついて回って、何かしてやろうとするのです。そのようなおじいさんとおばあさんが亡くなったとして、その後孫たちを憎むでしょうか。考えてみてください。恋しがるでしょうか、嫌うでしょうか? 皆さんの先祖たちが皆さんを好きになれぱ、気持ちがいいですか、悪いですか? いいはずです。(一九七一・二・一四、ソウル中区教会)
考えてみろというのです。孫が、小さい孫がいたらですね、ちょこちょこ歩き回っている孫が家に入ってきて「ああ、おじいちゃんとおばあちゃんどこに行った?」と言ったらどうですか? お父さんとお母さんも座っているのに、自分の兄弟たちもたくさんいるのに、入ってくるや否や「おじいちゃんとおばあちゃんどこに行った!」と言うなら、それは身にかなっていますか、かなっていませんか? それはどれほど身にかなっていないでしょうか? 言葉遣いも乱暴です「おじいちゃんどこに行った?」と。
では、その言葉を考えてみろというのです。今八十歳を越えたおじいさんとおばあさんなのに、鼻垂れ小憎がどうのこうのと言うではないですか? 大胆に突っ立って、お父さんとお母さんも皆いるし、お兄さんとお姉さんが自分よりもっと立派なのに、そこに突っ立って「おじいちゃんとおばあちゃんどこに行った!」と言っても、みんな目を丸くして「おい、この野郎! こいつめ! 何だ!」と叱る人はいないのです。それはなぜでしょうか? 普通なら、よそからほかの人たちが来てそんなことを言えば「うちのおじいさんに向かってそんなこと言えるか?」と大騒ぎになるはずですが、孫が突っ立ってそう言っても喜ぶのです。「そうか、そうか。おじいちゃんに会いたいか?」そういうのです。
それがどういうことかと言えば、おじいさんに対して「どこに行った?」と言うのは、「おもちをくれ」ということであり、「ご飯をくれ」ということなのです。その内容が問題です。内容が何かと言えば、おじいさんに会いたがるということです。では、その会いたがるのはいいことでしょうか、悪いことでしょうか? それはいいことだというのです。
天下のすべてのものが(おじいさんに)会いたがり、また会いたいと同時にその次は何のために会いたいのでしょうか? じっと四方を見回しても、お兄さんをじっと見ても、お姉さんやほかの人をじっと見たところで、今どこかの膝に行ってちょっと座りたいのだけれど、この小さい小僧がですね、座りたいのだけれどこっちを見てもあっちを見ても、お兄さんの機嫌をよくよく見て、行って三分だけ座っても、除けられてしまうに決まっています。また、お父さんもよく見ると忙しいし疲れているお父さん…。それはすべて経験を通して分かっているのです。行ってお尻をのせて十分だけ座っていても、嫌な顔をします。なぜですか、気分が悪いからですか? それは、皆時間の感覚が早いのです。ぱっと簡単にしてあげて…。
しかし、おじいさんは…。おばあさんをよくよく見ると、観察するとおじいさんのように年取った人たちはそのように、何と言いましょうか。おじいさんは素晴らしいけれど、ほかの人たちはそうでもないことが分かるのです。おじいさんの膝に座ると、一時間座ってもじっとしているし、二時間座ってもじっとしています。そのように(長時間)座っても家族の中で一番よく自分を抱いてくれるのです。抱いてくれてですね、「こいつはああだ、こいつは耳がこうだ」と言いながら触ってくれるのは嫌ではないのです。それを知っていますか? なでてやったり、さすってやったり触ってあげて、時には触らないところがなく全部触ってみますけれども、それでも嫌ではないのです。それはどんなに素敵なことですか? どんなに素晴らしいことかというのです。それは木の一番てっぺんが、木の幹のてっぺんが根と一つになる、その言葉に通ずるのです。(一九八六・一・二六、本部教会)
皆さんの心と体は愛で和動して和合する愛の連体にならなければなりません。だから家庭において尊敬される、相続できる人…。永遠なる相続者として残れる、永遠なる内容を持ったものがあるとすればそれは何ですか? 考えてみなさい。おじいさんも孫が良いものを持ったとすれば喜ぶのです。また、その子のお母さんお父さんも喜ぶのです。何がそれを可能にするのでしょうか? 全体が平等に、同化的に、統一的にすべて喜ぶことのできるものは何でしょうか? それは愛です。愛を中心としなくては、そのようになりえないのです。
それゆえ、おじいさんとおばあさんは息子・娘が孫を産めば喜ぶでしょう? なぜ孫を産むと喜ぶのですか? 愛の足場が拡大されていくからなのです。(一九八六・三・二、本部教会)
神様の嘆きは何でしょうか? 孫を抱いてみたことがないことです。孫娘を抱いてみたことがないことです。神様の願いがそのような基準に入っていくとき、そこで自分の版図が広がっていくのです。宇宙が私の家庭から存続することになるのです。そうでなければ、宇宙が連結されません。横的基盤ができないためにそうだというのです。(一九八八・八・七、本部教会)
おばあさんたちが寂しいのは孫の愛が必要だからです。そのような愛を受けられなければ、寂しさを感じます。(一九七九・四・二九、アメリカ)
六 警戒すべき西洋の老人冷遇現象
今日、アメリカの家庭ではお父さんとお母さん、おじいさんとおばあさんが全部一緒に住みますか、住みませんか? (住みません)。それは、いい家庭ですか、だめな家庭ですか? (だめな家庭です)。では、なぜそうなのですか? 養老院へ行くおばあさんとおじいさんがいるのですが、アメリカ人たちはそれが好きなのか考えてみました。ニューヨークの公園、あれは何公園ですか? (セントラル・パークです)。その公園へ私が春に一度行ってみたのです。すると、そのベンチにおじいさんとおばあさんたちが大勢いました。一度そこに座って彼らに「あなたは息子・娘と暮らすのがいいですか、それともこうして別々に暮らすのがいいですか?」と尋ねてみました。すると、別々に暮らしたくはないと言うのです。息子たちと一緒に、孫と一緒に暮らしたい、いつも会いたいと言うのです。アメリカの数多くの老人たちがそのように一人で暮らしながら、息子・娘、孫を慕いながら死んでいきます。養老院で一人とても寂しく過ごしながら…。
人間は愛から生まれて、死んでいくようになっていますが、相手を愛してあげようにも愛することができず、愛を受けようにも受ける場がありません。息子・娘、孫を愛しながら生きたいというのがおじいさんとおばあさんの楽しみであり、願いです。それゆえ、神様はちょうど老人たちと同じだというのです。その家庭で子女たちが真なる父母に侍った条件、すなわち真の家庭で育った条件の中で真の兄弟を再び迎えるように、ここですべてハンダ付けをするのです。接ぎ木をするのです。(一九七八・四・八、アメリカ)
アメリカに何々ホームとかいうのがありますか? オールド・シチズン・ホーム(養老院)があるでしょう? そこのおばあさんとおじいさんは幸せですか、死ぬような境地ですか? それは自由ですか? アメリカの家庭の自由ですか? (違います)(一九八八・一一・一三、ベルベディア修練所)
さあ、アメリカはどうですか、アメリカ? 老人を冷遇などしていいのですか? (いけません)。ですから、若い人たちは年取った人を尊敬しなければなりません。このような面から見て、西洋社会と東洋社会を見ると東洋社会が道義的です。神様の愛的理想圏を中心として比較するとき、高いと言うこともできます。それゆえに西洋は東洋に帰っていかなければならないというのです。帰っているのです、今。生きるためには帰らなければなりません。レバレンド・ムーンが西洋で暮らしたなら、このような概念を発見したでしょうか? (いいえ)。(笑い)端と端です。それは東洋に近いのです。では、家庭制度について見るとき、東洋の家庭制度に従っていかなければなりませんか、アメリカの家庭制度に従っていかなければなりませんか? (東洋の家庭制度に従っていかなければなりません)。東洋に行ってみると、若い娘が結婚もしないでおばあさんとおじいさんに侍り、死ぬときまで子どももなしに暮らす人がいます。それは不幸ですね。不幸ですが、宇宙が見るとき、どのように見るでしょうか? それは不幸な人ですか、幸福な人ですか? どんな人ですか? 個人としては不幸ですが、未来と宇宙が見るときには、標本になれる人であると見るのです。未婚の女性が夫なしでおじいさんとおばあさんに侍って暮らし、年を取って結婚もできない境遇、結婚しても遅く結婚して子どもも持てないその立場が、個人的には不幸でもこの宇宙と将来を中心に見ると、その兄弟たちの家門に祝福が来るというのです。
それはどういうことですか? その一家が福を受けるのです、一家が。文氏の女性がそのようにしたら、その女性の福に何倍もプラスされて文氏一族の全体に福が訪れてくるし、また大韓民国の女性が世界的に一番そのようにしたなら、その女性のゆえに大韓民国に福が訪れるというのです。(一九八八・一一・一三、ベルベディア修練所)
七 兄弟の間柄と兄弟愛
兄弟とは何ですか? 同じ愛の同参者です。父母の愛の同じ同役者です。だから、これは互いに争うことができますか? 争うことができないのです。それゆえ、右手を挙げるときはお父さんの手、左手を挙げるときはお母さんの手、右足を挙げるときはお父さんの足…。うちの善進に「この足はだれの足だ?」と聞いてみると、右足はお父さんの足で左足はお母さんの足だと答えるというのです。全くその通りなのです。なぜですか? あらかじめ愛を中心として、そうなっているというのです。(一九七九・一二・九、ベルベディア修練所)
皆さん、そうではないですか? 「兄弟愛」と言いますが、兄弟を愛して何になりますか? 兄弟愛というものは何かと言うと、自分を越えて愛の版図を持てということです。同胞愛、自分の存在する版図を越えて持て、関係を集めろというのです。人類愛、同じです。生命を中心として、そのような言葉が成り立ちますか? 生命、さあ何と言いましょうか? 同胞生命という言葉はないではないですか?
このように見るとき、すべての根源の出発点もそれが全部が喜ぶことのできる所であり、環境の方向性とすべての位置も全部が保障する位置であり、その目的帰結も全部がそうだと言うことのできる帰結をもたらすためには、生命をもってしてはだめなのです。(一九八九・二・二六、本部教会)
家庭を愛せない人は近所の娘がプイッと首を横に振ります。お母さんとお父さんの愛を受けられず、兄弟間の愛を受けられなければ首を横に振りますか、振りませんか? 振るでしょう? 同じです。お母さんとお父さんの愛を受けようと思えば…。
その家庭において自分を中心にして考えるお母さんとお父さん、兄弟たちが多いのですが、全体のために犠牲となる息子・娘になれば、お母さんとお父さんの歓迎を受けるのであり、兄弟たちの歓迎を受けるのです。それは正しいですか、正しくないですか? 反対の道を捜していくのです。寝ずに、悪い物を食べて、悪い物を着て、悪い所に住んで、もっと苦労をしますと言えばよいのです。( ? )
さっと行ってみると、私より年配の目上の人がいるし、年下の人がいるし、相手がいるはずですが、それを見分けて私がそこで中心になり標準になることのできる何かにならなければならないというのです。それは教えられなくても知っているのです。教えられなくてもこの原則は知っているというのです。それゆえに父母の言うことを聞かなければならないのであり、夫に従っていかなければならないのであり、兄弟は兄弟同士愛し合わなければならない、そのような道理は皆知っているのです。統一教会の時代に来て、ここで細密に教えてくれるので、もうはっきりと分かるでしょう。(一九八二・一二・二六、ベルベディア修練所)
皆さん、家庭でもそうではないですか? 父母がいれば、その父母のひざ元で多くの子女たちが育っていくのですが、そのひざ元で育つその子女たちには個性があります。各人各様の個性を持ったあらゆる兄弟たちが住んでいますが、その兄弟たちが自分を主張できるのは父母の愛と根を同じくしているためです。そのような主張は、たとえ幼い弟妹が主張したことだとしても、兄弟たちは無視できないのです。なぜ無視できないのでしょうか? 父母の愛を中心として主張するからです。大きくとも小さくとも父母がともにいてくれる立場では、いくら弟妹の位置にあるとしても、その弟妹が父母の愛と一つになった位置にあるために、彼が主張することを認めてあげなければなりません。また、それが歓迎されるように動くのが家庭生活です。問題は父母とともに一つとなっていない位置ではだめだということです。
そこでは何が起こるでしょうか? お兄さんがいてお姉さんがいれば、お兄さんの考えとお姉さんの考えが違うこともありうるというのです。しかし、父母の願いはそうであってはなりません。お兄さんの考えも父母の願いに連結されなければならないし、お姉さんの考えも父母の願いに連結されなければなりません。そうして、その考えを論ずるとき、権威があるのです。お兄さんとしての権威、父母が認めることのできる基盤の上に立って主張するときは、父母を代身するお兄さんとしての権限を持つのです。それと同じ立場で主張をしなければなりません。お姉さんはお姉さんとしての権威があるのです。同じです。
いくら弟であっても父母の愛と一つになって主張するときには、父母の同位圏に同参できるのです。同位圏、同じ位置に同参できる権限があるというのです。また、愛を中心とした相対的な位置というときには、父母の権限がここに連結されるのです。言い換えれば、相続権が介在するというのです。父母が「こうだ」と言う基準を中心として、そこに「私もこうだ」と言える、愛することができる位置に立てば、父母と共同的な位置に立って相続権を受けることができるのです。これは驚くべき事実です。(一九八七・一一・八、本部教会)
子女たちが育つ場合に、何によって育つのでしょうか? 愛によって育つのです。愛によって、お母さんとお父さんの愛。「ああ、お母さんとお父さんの愛がここにあるな! お母さんとお父さんの愛! ああ、お母さんとお父さん大好きだ! お母さんとお父さんの愛が私だけではなく家庭に連結されていて、お母さんとお父さんの愛が社会に連結されていて、お母さんとお父さんの愛が国に連結されていて、お母さんとお父さんの愛が世界に連結されていて、お母さんとお父さんの愛が天の国に連結されているのが分かった」と言うのです。さあ、ウーマン(女性)がこの位置に上がってきて、マン(男性)がこの位置に上がってくるとき、ここで「ああ、お母さんとお父さんが歩んでいた道はどんな道だろう?」と言いながら、お母さんとお父さんに従っていくのです。「お母さんとお父さんはどのように生きるのか?」こう言いながら、お母さんとお父さんが好きで、全部従っていくのですが、「ああ、お母さんとお父さん、男性と女性はどのように生きるのか?」ということを考えるのです。愛を考えるわけです。「完全に歩調を合わせて生きるのでもないし、けんかをする方法も違う、百パーセント違うのだがどう生きるのか?」と考えているうちに分かるようになるのです。「ああ、あのように生きるんだな」と分かるのです。
皆さん、お母さんとお父さんを愛しているでしょう? (はい)。お母さんとお父さんとただ二人だけで…。弟や妹だの、お兄さんだの、お姉さんだの、いなければいいでしょう? (笑い)「私だけ、私だけ」そう思うでしょう? 皆さん、お母さんとお父さんを愛しているでしょう? すっかり大きくなってから、お母さんとお父さんと二人が私と暮らす期間だけ愛しますか、それとも大きくなるまで、育ってきた期間まで愛しますか? 生まれた時から育ってきたすべてを愛しますか? どうですか?
では、兄弟をなぜ与えたのでしょうか? 兄弟がなぜ必要かと言えば、男性は妹やお姉さんを見ながら「うちのお母さんはこのように育ったんだなあ!」ということを知るようになります。お母さんが育つのを見るのです。また、女性はお兄さんや弟のわんぱくなところをじっと見ていると、お父さんがそのように育って生きたことを見るのです。それが兄弟愛というものであるのを知らなければなりません。そのように育って一つになるのです。
だから、兄弟を愛さなければなりませんか、愛さなくてもいいですか? (愛さなければなりません)。それはどういうことですか? なぜそうなのですか? 歴史を、昔のお母さんとお父さんが育っていた時を…。皆さんが霊界に行くと、育っていく時のお母さんとお父さんに会えるでしょうか、会えないでしょうか? 可能ですか、不可能ですか? (可能です)。そうです。皆さんたちは大人になっているのですが「三歳の時のお母さんに会おう」と言ってパッと現れたら、蹴飛ばしてしまいますか、敬拝しますか? どうでしょうか? (敬拝します)。敬拝しますか、抱擁しますか? 小さい子どもは敬拝を知りませんからね。(笑い)さあ、どうしますか。働かせてこき使いますか? むちで追い立てて、こっちへ行け、あっちへ行けとやりますか?
さあ、その小さいお母さんに対して、妹を愛するようにお父さんを愛するようにお母さんを愛するように、愛することを学ばなければなりません。学ばなくては愛することができないのを知らなければなりません。だから、兄弟たちをお母さんとお父さんが育ってきたその時の姿だと思って愛することによって、あの世に行ってもいつでもお母さんとお父さんを愛することができるのです。恥ずかしくない、愛することのできる主人になるために兄弟が必要だということも知らなければなりません。分かりますか?
また、お母さんとお父さんは息子・娘が多いですが、お母さんとお父さんよりも兄弟同士でより深く愛し合うのはいいことでしょうか、悪いことでしょうか? (いいことです)。本当に? (はい)。先生は知りませんよ。本当に? (はい)。なぜそうかというのです。なぜ、なぜそうでしょうか? 息子・娘にお母さんとお父さんが育つ時の姿を見せてあげ、兄弟を愛することによって、生まれてから死ぬまでのお母さんとお父さんを愛したという立場を立てるための、愛を中心に因縁をもった兄弟たちなのでそう考えるのです。
次には、父母に息子・娘が多ければ多いほど、お母さんが思うのには男の子がとてもわんぱくに育つのを見て「私の夫が育つ時も、こうだったんだな」と思うのです。子女たちを愛することは出会う前の夫を愛する立場になります。学ぶというのです。また、男性は「ああ、あの娘を見るとあのように指輪をはめて耳飾りをつけて…。妻が同じようにしていたので…。あれは小さい時の妻を見せてくれるんだなあ」と学ぶのです。彼らを愛することによって、今までの妻の全体を愛したという条件が成立するためにそうだというのです。
さあ、お母さんとお父さんが「男の子だけ愛して女の子は愛するな」と言いますか? お母さんが息子・娘を愛するのは同じです。また、お父さんも息子・娘を愛するのは同じです。分け隔てなく愛するのです。だから、皆このように兄弟を持つのは、このようなとてつもない一つの家庭に美しい愛の円和、丸い球形を築くためだというのです。このことを考えるとき、どれほど近いですか? どれほどうれしいことでしょうか?
お母さんとお父さんは兄弟たちに同じように接してあげることを好むのです。それを知らなければなりません。父母は皆そうです。何の話か分かりますか? (はい)。兄弟を憎むことはお母さんを憎むことよりも罪だ、このような結論が出ます。アメリカの家庭がそうですか? このような話は初めて聞くでしょう? これが家庭教育において第一条です。これが読本です。アメリカの家庭は何ですか? 人ですか、猿ですか? モンキーでも子の虱を捕って食べます。それは事実なのです。(一九八八・一一・一三、ベルベディア修練所)
皆さん、お母さんとお父さんの愛の中で完全に一つになればなるほど、生命が育って円満になります。それは理論的です。理論的なのです。だから、宇宙の公法に…。次に自分と同じ男性に会えば兄弟になるでしょう? だから、これが一つになった縦的な連結を好むのが父子関係です。分かりますか、何の話か? なぜ兄弟同士一つにならなければなりませんか? 兄弟同士なぜ一つにならなければなりませんか? 原因であるお母さんとお父さん、男性と女性が一つになるのを見るとき、兄弟も一つにならなければならないというのです。宇宙の公法がそうなっているのです、宇宙の公法が。さあ、兄弟とけんかをしたら気持ちがいいですか? (いいえ)。好きでけんかしたのに、何が気持ち悪いですか? では、それはだれが悲しくさせるのですか? (宇宙の公法です)。宇宙の公法が。皆さんたちは、空気の圧力がありますがこれを知らずにいます、知らずにいるのですね。これはすべて調和をうまく成しています。同じように宇宙力が引っ張っているのです。
だから、人間はこの縦的紐帯を持たなければならないので、このような関係を結ぶために「父母を愛せ」というのです。「父を愛せ、母を愛せ」ではありません。「父母を愛さなければならない」というのです。複数、複数です。「兄弟を愛せ」というとき、兄弟が単数ではなくそれも複数なのです。なぜでしょうか? なぜ複数なのかというのです。愛というものは複数から成されるのです。そのような観念から成されます。理解できますか、何の話か? (はい)。
それでは、兄弟同士けんかをしていいものでしょうか、悪いものでしょうか? (悪いです)。また、お母さんとお父さんはけんかをしてもいいですね? (いいえ)。それゆえに、相関関係は絶対的です。だれもひっくり返すことはできません。このごろの若い連中が「その相関関係は必要ない」と言うのですが、必要ないと言う連中が必要ないのです。(一九七九・四・二二、アメリカ)
家で、兄弟同士けんかをして「あっ痛っ、エーン」と泣きわめいたりしたら、お母さんとお父さんはどうしなければならないでしょうか? それはお母さんとお父さんを棒で殴りつけるのと同じです。そのようにしょっちゅうけんかをしていたら、お母さんとお父さんが長生きしますか、早く死にますか? (早く死にます)。不幸でしょうか、幸福でしょうか? (不幸です)。それを知らなければなりません。それゆえ、弟妹一人を思わないことによってお母さんとお父さんが不幸になり、自分の家庭が不幸になるというのです。そのような事実を今知ったというのです。
弟妹一人が過ちを犯したら、兄弟たちみんなで助けてあげ、お母さんとお父さんが愛する、そのような家庭はどれほど美しいでしょうか? お母さんとお父さんは「後代の私たちの神様です」と言うのです。それはなぜでしょうか? 神様の愛を中心とするときも同じです。そのような家庭でそのように愛でもってお母さんと一緒に愛し合い、お母さんがお父さんのために生きてあげるそのような愛になれば、その家庭には神様がともにあり、その息子・娘は未来において神様の代身者になることを知らなければなりません。(一九八八・一一・一三、ベルベディア修練所)
八 家庭の秩序的法度
皆さんは考えてから行動したいですか、行動してから考えたいですか? (考えてから行動したいです)。何ですって? ムーニーだからそう思うのでしょう。皆さん自身を中心としてはまあ「私は考えるのは嫌いだ」といっては行動し、一回行ってみてその次に考えるでしょう? ところで、なぜ社会がそれを悪いと言いますか? なぜそうするなと言いますか? なぜですか、なぜ? 「それは間違いだ。われわれが行くのが正義だ。お前たちが間違っている」と言うではないですか? 旧時代と新時代の激突がここから起こるのです。どちらがいいですか? なぜ制裁を加えて反対しますか? 反対しても私たちは何としてでも行かなければならないのです。
さあ皆さん、自分を主張する人にお母さんとお父さん、父母と子女、六人いるとするなら、全部でいくつの道があるでしょうか? セルフィッシュ・シックス・ウエイ(自己中心的な六つの道)があるというのです。それなら、息子は「お母さんとお父さんは私の道に従ってきてください。私の言うとおりにしてください」と言い、娘は「お兄さん、弟の言うことは聞かないで、私の言うとおりにしてください」と言ってみんな自己主張します。このような家では毎日のように、争いが起こります。争えば争うほど、すべてのものの位置が上がりますか、下がりますか? 下がるのです。二回争えば下がり、三回争えば更に下がり、どんどん下がって、後には破壊するというのです。これは事実ですか? 「そうではない、われわれは争って上がっていくのだ。これが原則だ」と言うのはどうですか? (違います)
真の道は何かというと、争えば下がるのです。それが真の道です。この言葉は正しいですか、正しくないですか? (正しいです)。民主主義もそこから出てきたのです。「われわれが好むようにしよう!」ということでしょう? それはなぜ、どうして? 全体が発展して上がっていき、全体を保護するために不可避なことです。不可避なことだということを知らなければなりません。
さあ、先生の言うことは間違っていると言う人は手を挙げてみなさい。先生が聞いてみますよ。だから、ここでどんな結論が出てくるでしょうか? 「私たちが互いに助け合える道を選ぼう!」このような結論が出るのです。嫌でも、そういう結論を出さなければなりません。互いに利益になりうるとするなら、下がっていく道ですか、上がっていく道ですか? (上がっていく道です)。したがって、上がっていくことのできる道を中心とした共同利益が絶対必要だ、こういう結論が出てくるのです。では、上がっていってどこに行くのでしょうか? 家庭が上がっていこうとすれば社会のためになりうる道に従っていかなければならないし、国が上がっていこうとすれば世界のためになりうる道に従っていかなければならないし、世界が上がっていこうとすれば、世界以上があるならそこのためになりうる道に従っていかなければなりません。ところで「それは間違いだ。それは違う。違う」このように否定しようとするのです。しかし、それは事実です。(一九八二・三・七、世界宣教本部)
法には互いに争ってはならないという、争いを防ぐ法、互いのために生きなければならないのでために生きろという法があるのです。争いを防ぐ法、その次にために生きろという法、このようなことを教えたのです。
それでは、争うのを防ごうと思えば、どうしなければならないでしょうか? お兄さんと弟というときは、お兄さんに従えというのです。なぜ? 先に生まれたから、そうなるのです。宇宙は先に出てきたものが主体になるので、私たちはこのように秩序を立てていくのです。その、先にあるものが神様と通じます。先にあるものは神様と通じるというのです、神様が一番先にいたので。だから、そのような秩序を中心とした防止法が出てきたのだ、このように考えるのです。
では、父母と兄弟とがいるときはどう考えるのでしょうか? それは先にいるのが父母だから父母に従わなければなりません。それが法です。秩序的法が適用されます。分かりますか、何の話か? 私は突然に生まれたのでだれも干渉できないと言いますが、そこにはおじさんなど、親戚もいるし、いろいろいるというのです。一族圏内に生まれました。それゆえ「私の勝手にしよう」というのではなく、秩序によって一族に、自分よりすぐれた人たちを中心として、そこに歩調を合わせて和することのできるこのような法が自動的に出てきたのです。さあ、皆さんは「法が何だ?」「法がなぜ必要なのか?」と思うでしょうが、とんでもありません。法が絶対必要なのです。万一自分の主張ばかりするようになれば、これは争って一番最後に強い奴が一人残って、ほかの人が死んでしまえばそれで終わりです。
個人は個人同士、男性は女性のために女性は男性のために生き、父母は息子のために息子は父母のために生き、兄弟は互いに互いのために生きろというそれが法です。分かりますか、何の話か? そのような法があるのですが、その法を完全に通過するものは何かと言えば真の愛です。真の愛を持ってために生きる立場で犠牲奉仕しなければなりません、犠牲奉仕。結局はすべての法がここに屈伏するようになっているのであり、法にこれが屈伏させられはしません。この宇宙にこのように高く手をパッと開いて、どこに行ってこのようにしても引っ掛かるものがなくすべて通過します。パスします。分かりますか? (はい)。だから先生は皆さんに真の愛を持ってために生きなさいと、犠牲奉仕しなさいと言うのです。簡単なことです。
だから、兄と弟の位階が反対になったと考えてみなさい。お兄さんが弟を見て「あ、君すまないね。僕が君のために…」といくら言ってみたところで、これはそのまま自動的に秩序が正されるようになっているのです。お兄さんが弟を見て「お兄さん」だと言ったところで、それは破壊されないというのです。分かりますか? 父母が自分のため以上に子女たちのために生きるからと言って秩序が破壊されるでしょうか? だからと言って息子・娘がお母さんに重荷を負わせて食い物にしますか? 「お母さんが私にそうしてくれるなら、私はそれ以上にお母さんのために生きます」と言いながら、返そうとするのです。秩序を守らなければならないと言う本心があるというのです。それがオリジナル・マインド(本心)だというのです。何の話か分かりますか?( ? )
九 家庭は天国の模型
さあ、皆さんは子女の立場にいるのですが、どんな運勢を受けるでしょうか? 祖父母と父母の運勢、この二つの運勢を引き継がなければなりません。祖父母はなぜ必要でしょうか? 過去を代表するからです。祖父母は過去の生きた歴史を代表します。次に父母は何でしょうか? 現在を代表するのです。また、その次に子女たちは未来を象徴します。このようにすべて入っています。そこには東西も入っているし、南北も入っています。すべて入っています。全体の中心です、全体の中心。祖父母の中心、父母の中心、子女の中心、神様の中心、全部が真の愛を中心としてできています。分かりますか? 皆さんの家庭を考えるとき、これを考えなければなりません。
だから、おじいさんを愛して、おじいさんを尊敬することは過去をすべて引き継いで過去の世の中を学ぶことです。お父さんからは現在を学ぶのであり、子女を愛することは、子女たちを尊く思うことは未来を学んでいくことなのです。おじいさんを通じて、お母さんとお父さんを通じて何を引き継ぐのか、何の血統を引き継ぐのかと言えば真の愛です。真の愛を引き継ぐのです。おじいさんとおばあさんは年取っているけれども、二人は真の愛で一つになっており、お母さんとお父さんが一つになっているので、私たちもあのようになって未来を引き継ごうというのです。未来を引き継ぐために…。絶対に、真の家庭にならずしては未来を引き継ぐことができないということを知らなければなりません。家庭のこの三つを見るとき、それは宇宙を見るのと同じです。宇宙の愛は神様からの全体歴史、現在と未来を代表した真の家庭にあるのです。真の家庭でおばあさんを愛し、お母さんを愛し、お姉さんを愛するから…。動物世界を見ても雌を愛し、雄を愛し、全部がこのようになるのです。これは何かと言えば、宇宙の愛を学ぶことのできる教科書です。おばあさんがいなければ不安定なのです。おじいさんがいなくても不安定だし、だれがいなくても同じです。このようになってはじめて、そのまま天の国に移っていくのです。真の祖父母を愛し、真の父母を愛し、真の子女・真の家庭・真の国家・真の宇宙を愛した人が天国に行くのです。その模型教科書が家庭です。
さあ、おじいさんはお父さんとお母さんのために死を覚悟して生命を懸けて愛する、これはどんなに幸福ですか? また、お母さんとお父さんは息子・娘のために生命を懸けて愛するというのです。これはどんなに幸福ですか? 皆さんが愛のために死ぬと言いましたが…。孫がおじいさんのために死ぬのが真の愛です。おじいさんは孫のために、父母は子女のために、子女は父母のために、姉は弟のために、弟は姉のために、夫は妻のために、妻は夫のために、おばあさんはおじいさんのために、おじいさんはおばあさんのために愛を中心として生命を捧げようとする、そのような家庭が真の家庭であるという結論が出てきます。(一九八七・四・五、ベルベディア修練所)
今、統一教会の若者たちがこのみ旨を知ったので、おじいさんとおぱあさんたちを、養老院へ行っているその人たちをすべて捜してこなければならない時が来ました。そうすれば、その養老院のおじいさんとおばあさんが喜びますか、嫌がりますか? どうですか? (喜びます)。皆さんはどうですか? 皆さん、若い人たちはどうですか? (いいです)。なぜ? 皆さんはもともとは老人を嫌いますが、統一教会の原理を知ったからいいと言うのです。
君たち、皆さんのお父さんとお母さんが養老院へ行っていたら絶対不合格者です。「愛を中心としておばあさん、お父さんとお母さん、私、三代が完全に愛で結ばれました。アーメン、ハレルヤ! 神様、来たりませ」このように祈祷して天国へ行かなければならないのであり、それができなければ行くことができません。
さあ、それでは神様がおじいさんとお父さんと皆さんを見るとき、神様の側にだれが近いでしょうか? (おじいさんです)。そうです。次は? (お父さんです)。その次は? 皆さん。だから、おばあさんとおじいさんの福を引き継ぐことができなければ、お母さんとお父さんの福を引き継ぐことができなければ、復帰されないという事実を知らなければなりません。皆さんだけでは、縦的世界がないために天国と連結されません。四位基台ができないのです。(一九八四・一・一、アメリカ)
第三節 家庭は心情的訓練の場
一 家庭は天国を成す一つの教本
私たちが今まで父母の心情を持ち、僕の体で涙と血と汗を流したのは何のためだったでしょうか? 世界のためです。自分の息子・娘のために生きることのできない人が世界のために生きると言うのはうそです。世界のために生きることができなければ、サタン世界から選んできた代表者になることができません。だから、それを実感する立場において天国を成す一つの見本になり、標本になりうるその基準を決定する仕事を私がしているのです。
それでは、そのような基準は何でしょうか? 家庭だというのです。また、国を成すことのできる標本は何でしょうか? それもやはり家庭だというのです。それゆえ、愛を中心として子どものために犠牲となり、あらゆる代価を払いながらも報酬を望まない立場に立つことができなければなりません。むしろ、続けて与えてあげることのできないことを恨みに思いうる心を持たなければなりません。そのような心を持った時、その子どもたちがそれを見本にして父母がそのようにしてくれたことに感謝して、自分もそのようにしなければならないという立場に立ち、父母の困難な道に自分が代わりに責任を持とうとするようになるのです。皆さんはそのようにできる環境を作ってあげなければなりません。そうせずしては、エデンの園で堕落したその恨みの基準を飛び越えることができないのです。(一九七〇・二・二五、統一産業寄宿舎講堂)
皆さんの心にはおじいさんの愛があり、お母さんの愛があり、兄弟の愛があります。これをわが統一原理では三対象の愛と言います。そうでしょう? 夫婦が現在ならば、その現在の夫婦が過去のために生き、未来のために生きることのできる心を持たなければなりません。そういう心がなければなりません。すなわち、縦的基準がなければならないというのです。
では、姑が好きですか? (はい)。また、息子・娘が必要ですか? (はい)。「はい」と言ったのですが…。それでは、父母に対してですね、ここに夫がいて、妻がいて、ここに子女がいるとして、それで、ここにおいて縦的がより重要ですか、横的がより重要ですか? (縦的です)。どうして? それが宇宙の根本だからです。愛は天から、上から来たというのです。横的なものから来たのではありません。それゆえにこれ(縦的なもの)が先にあってはじめて、ここに従ってこれ(横的なもの)が出てくるようになっています。これはプラスで、これはマイナスです。
それでは、この横的なもの(夫と妻)二つが合わされてどこに向かなければならないでしょうか? 夫を愛することと姑を愛することのうちでは、どちらがより強くなければならないかというのです。(姑です)。さあ、ここでこの二つが愛し合って、必ずこちらに帰ってこなければなりません。(板書したものを指して語られる)帰ってこなければここになりません。このように一回りしなければなりません。そのためにはどうしなければならないでしょうか? 夫は妻を愛するのと同じだけ父母を愛さなければなりません。そして、父母を愛した分まで合わせて子女を愛さなければなりません。一番前にはおじいさん、次にはお父さんとお母さん、その次には子女、三つの愛がここになければなりません。縦的愛、横的愛を合わせてここに来るというのです。
このように考えるとき、アメリカの夫婦が離婚すると夫を捨て妻を捨てますが、子どもは捨てることができません。それはどうしてでしょうか? ここにはすべて入っているというのです。男性の愛、女性の愛、神様の愛が皆ここに集まっています。だから、男性が必要なく女性が必要なくても子どもは必要だというのです。なぜでしょうか? ここには神様の愛があるからです。分かりますか? だから、夫婦が離婚すると問題になるのが息子・娘を奪い合う争いでしょう? (はい)。それゆえ、夫は子どもを愛するように妻を愛し神様を愛し、また妻は子どもを愛するように夫を愛し神様を愛して、三大愛圏が成されればどんなに理想的でしょうか。
さあ、西欧社会はですね、西欧社会は夫と妻がこれを中心として頻繁に移動します。ところで、移動してもこれだけしかなく、センターはないというのです。(板書したものを指しながら語られる)センターがどこにありますか、センターが? ここにセンター・ラブを移しておかなければ西欧社会と西欧文明は先に進むほど暗くなるのです。そうでなければ、宇宙が受け入れないというのです。
だから、このような家庭形態の組織を中心として見ると、そのような家庭は一つの標本なのです。一つの理想郷、理想国家を成しうる一つの教本と同じであり、その国は理想世界を成しうる教本である、このように見るのです。何の話か分かりますか?(はい)。それゆえ、教本が四つあります、家庭教本、国家教本、世界教本、字宙教本。それでは、これをどこで教育しますか? 家庭で教育しなければなりません。家庭で教本教育をしなければならないのです。
さあ、家庭はどのようにしなければならないでしょうか? 男性は女性を克服しなければならないし、女性は男性を克服しなければなりません。そして夫婦は、また一つのおじいさん夫婦を克服しなければならないし、将来の息子・娘夫婦を克服しなければなりません。そのような内容がこれから問題なのです。したがって、一つの国について見ると、これが一つの教本です。家庭教本は国家のためのものなので、ここにはですね、おじいさんとおばあさんの群れ、お母さんとお父さんの群れ、未来の息子・嫁の群れ、その三つの群れが国を構成するのです。父母カップル、夫婦カップル、未来の子女カップル、全体が関係しているものが一つの国を成します。自分の国を成すと言うことができるのです。(一九八二・六・六、ベルベディア修練所)
それゆえ、人間を中心として見るとき…。神様と真のご父母様と自分たち夫婦―夫婦は父母様の代身です―その次に子女、これを代数で言えば四代です。四代は神様、父母、夫婦、子女です。真のご父母様を代身する位置を横的に拡大させておいたものが皆さんの家庭の父母だというのです。だから、堕落しなかったなら神様を信ずる必要もないのです。神様をすべて知るようになっているのです。神様をすべて知るようになります。
それゆえ、自分の父母を神様のように愛し一つになれば、神様の国へ行ける、行けない? (行けます)。また、夫と妻が自分の父母を愛するように―父母も夫婦です―愛するときには、男性・女性である夫婦も間違いなく天の国へ行くことができます。だから、宗教が必要ありません。教える必要がないのです。分かりますか? 次に子女を愛するにおいても同じです。子女を愛するには絶対的な愛が必要です。また子女が父母を愛するのも同じです。自分のおじいさんに対して自分のお父さんがするように、その息子もまたお父さんのためにしなければならないのです。分かりますか? そこには教育が必要ありません。これは動物世界も同じです。それゆえに、愛を中心として神様、父母、妻子が完全に一つになればよいのです。これが教本です。このような愛を自分の家庭でだけ適用するなというのです。(一九八七・四・二六、本部教会)
家庭は天国を成すことのできる教材です。天がつくっておいた教材です。世界にいるおじいさんくらいの年齢の人を自分のおじいさんのように愛すれば、その人は天国へ行くようになっています。自分の父母の年齢と同じ人を自分の父母のように愛すれば、どこに行っても通用します。万国共通です。霊界へ行っても境界線が生じないというのです。アメリカの若い人を自分の息子・娘だと思う心を持てば、その人は天国どこでも、十二の真珠門があり方向があっても、どこでも通ずることができるというのです。
家庭というのは天国と因縁を結ぶようにするための教材です、教材。教育のテキスト・ブックなのです。だから、軸を中心として…。それを国に適用すれば愛国者になるのであり、世界に適用すれば聖人になるのであり、天と地を中心として適用すれば神様の息子・娘、聖子になるのです。ここでは聖者ではなく聖子です。ホーリー・サン(聖子)になるのです。人間は皆その欲心を持っているのです。(一九八五・一二・一八、シェラトン・ウォカーヒル・ホテル)
二 天国を成すことのできる第一教化場
人には家庭が必要であり、国が必要であり、世界が必要であり、本然の世界宇宙が必要なのです。これは階級では四階級で、段階では三段階です。皆さんには家庭が必要であり、国が必要であり、世界が必要であり、統一教会でいえば天宙が必要なのです。それを連結させなければなりません。この愛は不変の愛です。どんな愛かと言えば、神様と通じることのできる愛、聖人と通じることのできる愛、愛国者と通じることのできる愛です。
そのような愛を中心とした家庭で父母を…。父母は何かと言えば国の代表者であり、聖賢の代表者であり、神様の代表者だと見るのです。それを訓練するための第一段階の訓練舞台が家庭だと見るのです。地上に天国を成すことができる第一教化場が家庭です。そして大韓民国が第二の教化場です。そこに愛国者が必要なのです。その次の第三教化場が世界です。霊界は第四の教化訓練場です。その次には神様の息子・娘になります。聖人だからといって神様の息子・娘ではありません。だから、全部が神様の息子・娘にならなければならないのです。聖人が神様の息子・娘にならなければならないのです。聖子の座について神様の愛と一つになり、永遠に、永遠に神様を所有することのできる座についた後にはじめて、神様の愛を中心として一つになった後にはじめて相続が始まります。神様の持っている物が私の物になるのです。分かりますか? (一九八六・三・二、本部教会)
三 家庭は宇宙の愛に接する愛の教材
今日、宇宙とは何でしょうか? 家庭を拡大したものです。これを知らなければなりません。家庭の愛が満たされた家庭を見ると、年を取った人がいて…。上中下があって、左右があって、前後があります。これが原則です。だから、上下を言うときには父母と子女を言い、左右を言う時には夫と妻を言い、前後を言う時には兄弟を言います。このような全体は何をもって一つになるのでしょうか? 力で? (違います)。知識で? (違います)。お金で? (違います)。お金でそれができますか? (できません)。それでは、何によってできますか? (愛)。愛というのは普通の愛ではありません。真の愛です。それは間違いないことです。間違いなく真理です。そうでなければ球形になりません。球形にならないのです。球形に。もう分かりましたね。
それでは、上中下は私たちの家庭において何でしょうか? 愛の教材です。宇宙の愛に接することのできる愛の教材です。家庭で接するのと同じことを社会に出てしなさいというのです。どのように自分を愛さなければならないでしょうか? イエス様も「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」と言われましたが、どのようにするのですか? それは漠然としていますね。世の中に出ておじいさんに対するときには、皆さんのおじいさんのように対しなさいというのです。お母さんのように対し、お父さんのように対しなさいというのです。息子のように対しなさいというのです。さあ、世の中に出たら、すべてそのようにしなければなりません。上中下、前後左右の人に、世界という展示場に展示されています。人の展覧会を全世界がしているのを知らなければなりません。
展示なのですが「うちの家庭は私が一等品だ。尊い家庭だ」このように考えるのです。これが家庭というものです。皆さんそのような愛を持ってすべてのものを愛することができれば、その中に神様が臨在されます。神様のように自分のおじいさんを思う愛を持って世の中にいるおじいさんを愛すれば、それは、その人を神様のように思うのと同じだというのです。分かりますか、何の話か? 幼い子供を見るとき、神様のように愛せよというのです。
さあ、天の国はどんな所でしょうか? 家庭を拡大した国なので、その展示場の合格品だということは、一定の形があるということを知らなければなりません。したがって、そこに合格した家庭を永遠なる霊界に持っていって展示することができます。(一九八三・五・二九、アメリカ)
さあ、ここでこの宇宙の愛を学ばずに生きられますか? (生きられません)。神様は教本、経典のようなものをちゃんと作ってあげて、ここで「お前のおばあさんとおじいさんを愛せ。地上にいるおばあさんとおじいさんは霊界のおばあさんとおじいさんを代表して送ったので、そのおばあさんとおじいさんを愛せば全体を愛したことにしてやろう」と言って公約するのです。
その次には「お前がお母さんとお父さんを深く愛することは、この世界の数多くのお母さんとお父さんを代表する教本のように愛するモデルとしたので、全体を愛したという条件にしてやろう。また、男性として女性を愛したということは、世界の男性が世界の女性を代表的に一人にして愛したということにしてやろう」このように言うのです。だから、家庭はその訓練を受ける訓練所です。訓練所。経典による世界の愛の訓練家庭なのですが、その訓練を受けた人に、今から世の中に一回出ていって皆さんのおじいさんとおばあさんの代わりに世の中のおじいさんとおばあさんを愛することができるかと言うときに、「イエス」と答えればそれは世界を救うことができるのです。
自分が白人だからといって、「私は白人だけが好きだ。白人のおばあさんとおじいさんを愛しているから、黒人のおばあさんとおじいさん、アジア人のおばあさんとおじいさんは愛せない」と言ってはならないのです。そのおばあさんとおじいさんを自分のおばあさんとおじいさんのように愛さなければならないのです。それは公式です。人類がこの地上で行きながら訓練を受けるための公式だということを知らなければなりません。(一九八四・二・五、アメリカ)
四 愛の王国に合格できる実験場
愛の王国を成したいのが神様のみ意です。愛の理想世界を発展させて世界化させようとするのが神様のみ意であると言うとき、小学校卒業から大学院卒業までパスすることのできる実験場が、実験所がどこかと言うと家庭なのです。
家庭を拡大すれば世界です。世界をよく見ると、世界に何がありますか? おじいさんとおばあさんが住むところが世界である、正しいですか? (はい)。その次におじさんとおばさんたちが住むところが世界である、正しいですか? お兄さんとお姉さんのような人たちが住むところも世界です。次に青少年たちが住むところも世界であり、子供たちが住むところも世界です。そうではないですか? だから、老年から、壮年、中年、青年、少年たちが住むその場所が形が大きくなっただけだし、数が多いだけで家庭を拡大したものなのです。(一九八六・一〇・一、本部教会)
五 家庭は愛の修練所
人はなぜ生まれたのでしょうか? 愛のために生まれました。それゆえに、真なる父母の愛に根を下ろし、腹中からお母さんとお父さんの保護の愛の懐から育っていって、生まれてから二十歳まで思慮分別なく、父母はおむつを替えるときにも咎めることなく、汚いものも汚いと思わずにすべて喜びとして消化できる真の愛がその底辺に宿り、その愛の中から育っていって次には愛の相対者と出会い、互いに為に生きる天理の愛に接ぎ木しなければなりません。そのような一生の過程を歩みつつ、神様の愛がどれほどかということを体験させてあげなければならない立場にあるので、その体験をしてはじめて神様の対象、愛の実体圏が完成されるので、息子・娘を生んで愛するようにさせるのです。
息子・娘に対して持つ気持ちをそのまま神様の前に返して、そのまま夫、夫人、家族に返す、そのような過程は何でしょうか? 天国に入ることのできる最小単位の修練所であり、教材です。そこにはおじいさんの教室、お母さんの教室、夫婦の教室、兄弟の教室、すべてあります。これをおばあさんとおじいさん、あるいはお母さんとお父さんの年齢、その次は自分の年齢、息子・娘の年齢と拡大させたものが世界人類です。この人類を自分の妻とともに愛し、父母とともに愛し、息子・娘とともにために生きることのできる家庭だけが天国を相続できるのです。これは驚くべき事実です。神様がつくられた天と地のすべての権勢を相続することのできる特権がここにあるというのです。
世の中もそうではないですか? 昔、家柄のよい家庭でどんなに祖父母、父母から僕まで家族が多くとも、その家庭においてより苦労し、よりために生き家庭を愛している人が相続者になったでしょう? 同じ道理なのです。(一九八六・三・二〇、ヒルトン・ホテル)
皆さん! 愛の起源が分かったでしょう? (はい)。だから、家庭を愛さなければなりません。家庭は死ぬ時に天の国、平和の王国へ入籍できる相続権にあずかることのできるテキスト・ブック(教科書)なのです。家庭が愛の修練場です。これを拡大したものが世界です。おじいさんのような世界があり、おばあさんのような世界があり、お父さんとお母さんのような世界があり、妻のような世界があり、息子・娘のような世界があるというのです。これを拡大すれば直ちに世界になるのです。
それゆえ、自分の家庭を愛するように、その家庭を中心として神様を愛するように全世界の人を愛すれば、それが天国へ行く最も正しい道になるのです。
したがって、先ほど話したように「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」というのが第一の戒めです。第二は「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」です。神様を愛し、人類を愛せばすべて終わるのです。修養など取るに足りません。それができなければ、いくら修養を積んでも全部無駄です。宗教がどんなに道を極めても、神様を愛することができず、人類を愛することができず、この全宇宙を愛することができなければ皆落第するのです。
家庭において全体宇宙を縮小させた、何と言いますか、修練所のような公式過程の愛を体験して拡散させ、世界を愛さなければなりません。それができる訓練所として引き継いだのが皆さんの育った、お母さんとお父さんが住む、皆さんが住む家庭だということを知らなければなりません。ましてや統一教会は、真のご父母様を中心として新しい家庭編成をしただけに、新しい家庭訓練所だということを知らなければなりません。
それゆえ、自分の妻を愛する以上に父母を愛し、自分の妻を愛する以上に息子・娘を愛し、自分の妻を愛する以上に人類を愛し、自分の妻を愛する以上に神様を愛すれば、それでいいのです。だからといって、自分の妻を捨てろというのではありません。そのように皆を愛すれば、その愛されたすべての人々が自分の妻を愛するようになるのです。それ以上に光栄なことがどこにありますか? 妻を愛そうと思うなら、そのようにしろというのです。(一九八六・三・一一、清州教会)
家庭とは何だと言いましたか? 理想の国と理想の世界を愛で占領できる訓練場である、このように見るのです。けれども、これを知らずにいるのです。もっと言えば、天の国と神様までも占領できる訓練場です。ここで、そのような運動して、愛の力を投げ込んで引き寄せてみると、皆すべて、世界が駆け寄ってきて、霊界が駆け寄ってきて、神様までもぐっと駆け寄ってくるというのです。それを考えてみなさい。神様がにこにこ笑いながら、「ホホホ」と喜ぶ日を考えてみなさい。その後で「おお、わが子よ!」と言われるのです。
それでは、理想的家庭とは何でしょうか? 宇宙を愛で吊り上げるところです。「愛で釣るための釣り堀なんだな!」一度考えてみなさい。この釣りには、目が引っ掛かっても「ハハハ」、ここが引っ掛かっても「ハハハ」、ここが引っ掛かっても「ハハハ」と言うのです。(笑い)そのために持つ家庭が、そのための家が何ですか? (アイディアル・ホーム=理想的な家庭)。アイディアル・ホームに住める人はアイディアル・マン(理想的な人)です。このような愛の因縁を持った男性と女性です。(一九七九・一一・四、ベルベディア修練所)
六 家庭は心情的な訓練の場
家庭では父母を中心にしなければならず、社会を代表する教育機関では先生を中心にしなければなりません。その先生が父母よりも、先生が知っている分野においては…。父母は自分を母乳で育て、すなわち生理的な発展を助け、こうして情緒的な面を助けてくれるのです。それでは、学校は何でしょうか? 社会的な生活、将来の生活舞台を中心として訓練させる所です。家庭が情緒的な訓練場ならば、学校は社会においての実験的な訓練場なのです。
その次には、社会で終わるのではありません。それがどこに行って帰結するのでしょうか? 国に帰結します。国には国の中心者がいます。人々が皆だれでも大統領を慕って、大統領の近くにいようとする理由は何でしょうか? 家庭から社会まですべてのことを知ってから、その次にどこに行くのかと言えば、大きな実に…。
大統領をやるとなればですね、蘇生・長成段階を超えて三段階目の実です。根から始まって、種が根から始まって循環作用をして、このように分かれるのです。分かれてから、ここで総合して花が咲いて、実を結ばせるのです。実と同じものです。三段階を経てこのようになるというのです。
それゆえに、学校も国のための貴重な指導者・人材を養成して、国に必要な人を育てなければなりません。学校でする勉強は何でしょうか? 訓練です。学校は訓練場所です。実験場です。訓練は実践ではありません。準備段階なのです。準備を誤ってはいけないのです。
家庭とは何でしょうか? 心情的な訓練場所です。愛を中心として心情的に…。それゆえ、情を持って兄弟のように学校で生活しなければならないし、情を持って国でも兄弟のように生活しなければなりません。父母のそのような教育は、学校のための教育であり、社会のための教育であり、国のための教育になるというのです。父母は情緒的なすべてのことを子どもたち、後継者たちに対して伝授しなければなりません。父母が生きたのと同様に、家庭ではこのように生きなければならず、社会ではこのように生きなければならず、国のためにはこのように生きなければならないということを中心として、情緒的資質を磨いてあげなければなりません。
それゆえ、家庭では「勉強しなさい、勉強しなさい」と言い、学校では「出世しなさい、出世しなさい」と言うのです。学校で教えてくれることは何かと言えば、国を指導することのできる人になれ、素晴らしい人になれというのです。素晴らしい教授たちが社会に素晴らしい基盤を築いているのです。だから、自分と心が合う人たちには自分の素晴らしい基盤を伝授してやろうとするのです。全部そうです。何かを残さなければなりません。伝授しなければだめだというのです。(一九八八・八・二二、漢南洞公館)
第四節 家和して万事成る
一 家庭がよい理由
家庭はなぜいいのでしょうか? 家庭は愛を互いに自由に与えて受けることができる拠り所になっていて、発展することができるからです。それゆえ、人は自分の故郷を慕い、父母と兄弟がいる所を慕うのです。(一九七一・一・八、春川教会)
家庭、家庭はいい所です。なぜいいでしょうか? お母さんとお父さんがいるからいい所であり、お姉さんとお兄さんがいるからいい所であり、弟妹がいるからいい所であり、親戚がいるからいい所なのです。だから、人間ならだれでも本郷の地、故郷を慕う郷愁の心情を持っているのです。国よりも故郷をもっと思うのです。大韓民国に住みながらも、慕うところは故郷です。大韓民国が好きで大韓民国に住みたがり、また大韓民国に住みながらも慕うところはどこでしょうか? 故郷です。故郷、故郷なのです。(一九六九・五・一八、水原教会)
二 父母は自分に似た子ほどかわいい
自分が持っている物がいくら取るに足らないとしても、奥深い自分の内情と一つになったとき、そのすべての内容が自分そのものと似たものとなり、切り離そうとしても切り離せないという立場でそのものに対する無限な価値を感ずるようになるとき、その価値が一層大きくなるのです。
子どもも同じです。父母は自分に似た子どもをより愛します。皆さん、そう思いますか? 子供の中でお母さんに似た子供や、お父さんに似た子供がいるものです。もちろん、子どもを愛することは同じですが、それでも父母は自分に似た子どもをより愛するのです。子どもたちを育てながら、父母同士で、子どもがだれに似たかについて話をするでしょう? おじいさんなら、おじいさん同士で、おばさんなら、おばさん同士で、おじさんなら、おじさん同士で座って、子どもたちがだれに似たかについて話をします。顔立ちのよい子がいれば、お父さんは「あの子は父親似だ。どう見ても私に似ているな」と言います。すると、お母さんはとんでもないと思って「あの子は母親似ですよ。どう見ても私に似ているわ」と言うのです。それでもお父さんは自分に似ていると言うのです。
似ているということは何かと言うと、素性が同じだというのです。素性が同じだということは、互いに完全に一つになることができるというのです。それは一時的にではなく、永遠に一つになりうる関係なので、その比例によって善し悪しが決定されるというのです。それだけに、自分に似たということは自分自身で分かるというのです。(一九七一・一・一五、麗水教会)
人は、好きであれ嫌いであれ「あいつは父親、母親に似ている」と言われて気を悪くする人はいないのです。それゆえ、人は似ている素性を比例的にある程度所有していれば、その基準に比例して感情を感じるようになるのです。(一九八六・二・一六、本部教会)
三 家和して万事成る
東洋の教訓の中に「家和万事成(家和して万事成る)」という言葉がありますが、これは実によい言葉です。家庭が和睦すればですね…。家庭と言えば、そこはもちろん人が中心になっています。おじいさんとおばあさん、父母、子ども、このようにして一つの家になっているのですが、家といえばそれだけではありません。家自体は万物を縮小したものです。ここに全部集まっているというのです。全部すべて。
そのように考えるとき、私の家といえば普通に考えると「ここはお母さんとお父さんがいる所で、妻子がいる所が私の家ではないか」ということになります。しかし、私の家と言えばそれだけではないのです。その他にも家があって庭があって、すべてのものを縮小した中に環境がうまく調和を成していて、そしておじいさんがいて、おばあさんがいて…。そのようになってはじめて気持ちがいいと言えるのです。調和していない環境に、いびつな所におじいさんとおばあさんがいたら気持ちもよくないのです。
おじいさんとおばあさんが向かい合って笑う姿は、若い夫婦が仲よく「キャッキャッキャッ」「ヘヘヘ」と笑う姿とは比べ物になりません。「ホホホ」としわの寄ったおじいさんとおばあさんが笑うのはすてきだというのです。知らないからであって、すべて和合する、互いが相応する立場において笑うおじいさんとおばあさんの笑いがあることによって、すべてのものが和動するというのです。おじいさんの笑いは深い笑いで「ホホホ」と笑います。身振り手振りをしても動作がのろくて、こうは動きません。動いてもこのように動くのです。広く、高く、深く、大きく、そのように動くのです。
それゆえ、おじいさんとおばあさん二人の老婦人が愛し合えば、そこにいるおじいさんとおばあさんの息子・娘は、そのおばあさんとおじいさんの息子・娘も中間のおばあさんとおじいさんなのです。これは間隔があってはならないというのです。すべてのものが上中下の三段階で連結されて、すべての調和が生まれなければなりません。
それで、和する家庭、「家和万事成」だと言いますが、家和すればなぜ万事が成るのでしょうか? 家和すればすべてのことが成されると言いますが、なぜそう言ったのでしょうか? 言いやすくて、詩的に詠んでみたくて? それは違います。違うというのです。(一九八六・一・二六、本部教会)
四 家族の中で良い人とは
私たちは、良い人だというその定義をどこで見つけるのでしょうか? 自分から見つけるのでしょうか、どこかで見つけるのでしょうか? そのような問題が提起されるのです。私が、私が決定するのでしょうか、全体が決定するのでしょうか? このような問題が問題になるのです。それゆえ、公的な全体の雰囲気を中心として、これは良いか悪いかということを決定することがより価値があって良いことなのです。そのような結論が出てくるのです。
自分の容貌がよいというときにはですね、目もときれいで鼻立ちもよく、口もすべて形がよいけれども、指一本だけこのようになった、指がないというときはどうなりますか? どのようになるかというのです。手で自慢できる権限はありません。これを隠そうとします。指を隠そうとするのです。そうですか、そうではないですか? それはどういうことでしょうか? 体の全体を構成するにおいて、全体の基準を代表できる公認された基盤の上に立たなければならないというのです。このような論理が裏付けしているという事実を知らなければならないのです。分かりますか? 伝統的なこのような基準が完全な基盤を代表する位置に立っているために、それを善と言うことができるし、良いと言うことができるし、誇ることができるのです。このような観点から見るとき、「私がわが家で一番よい人だ」と言うことができるでしょう? お母さんとお父さんは私が好きだけれども、お姉さんが見ると、「この子は本当にいつも意地が悪くて、欲張りで…」と言うこともあるというのです。だから、わが家で一番良いという私になるためには「私が一番良い」という主張は通じません。わが家全体が、良いという主張を、決定をしなければならないというのです。これは理論的に否定できません。
さあ、それではお母さんをはじめ全体で十人の家族がいて、また家族が多ければ多いほどそこで良いと言われる人になろうと思えば、どのようにしなければならないでしょうか? 良くしてあげることのできる、より高い次元を持った私にならなければならないのです。そうすることなしには、「良い」と言う決定を受けることができないという事実を知らなければならないのです。そこにおいて、公的に善であり良いと公認されうる問題は何でしょうか? このような問題が起こるのです。
犠牲と奉仕、これが絶対必要です。それが必要なことは必要なのですが、「犠牲と奉仕は私がするのではなく、お母さんとお父さんと家族全体が皆一緒にしなければならない」というのがよいでしょう? その人が善なる人だ、良い人だ、というのです。(違います)。どのようにする人が「良い人」ですか? (自分が犠牲になり奉仕する人です)。私が、私がしようとする人です。(一九七九・九・三〇、アメリカ)
五 家族の中の真なる人
真なる人とはどんな人でしょうか? 真とはつまり善なるものですが、善なる人とはどんな人でしょうか? 自分を中心として全体が自分の前に屈伏することを願う立場において、善なる人だと言うことはできないのです。それでは、善なる人とはどんな人でしょうか? 善なる人は全体のために生きる人です。違いますか? 家庭でも一番おとなしくて、かわいくて望ましい子どもだというとき―子どもたちもたくさんいますが、その中で孫でもいいし息子でもいいです―その子どもたちを見るとき、未来に善を占めることのできる望ましい子どもだというとき、おじいさんも「そうだ」おばあさんも「そうだ」お母さんとお父さんは言うまでもなく、兄弟、家族、一家、親戚までも「そうだ」と言える子どもだというときには、その子どもは間違いなくおじいさんを喜ばせる子どもであるはずです。おじいさんに毎日のように「私によくしてください! 私によくしてください」と言う子どもではないのです。小さい子どもですが、年取ったおじいさんのために夜といわず、昼といわず、おじいさんが喜びうる道をいつも考えて、そのためにいつも行動し、いつも侍ろうとする子どもであるに違いないという結論が出ます。
おじいさんにだけでなく、おばあさん、お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さんは言うまでもなく、一家親戚全体を助けようとする生活様式と、あるいは礼儀秩序に従う子どもが真なる希望の息子であるに違いなく、孫であるに違いないのです。この結論を否定することはできません。それはどういうことでしょうか? 全体のために、喜ぶことのできる環境の要件を作り、そのような内容を提示しようとする人が歴史時代を経て、善を引き継ぐことのできる真の位置に立っているというのです。
三六〇度の中央線(真ん中を通る線)に一つの中心点があるなら、その中心点はどのようになっているでしょうか? すべてのものが訪ねてくるときもその点を経なければならず、訪ねていくときもその点を経なければなりません。それが問題です。ここに一つの中心点三六〇度を中心として球形が備わると、力の作用はどこを通して均衡をとるのかと言えば、要点です。角度を異にするすべての線がこの中央線を通る距離は全部同じです。千万の作用をしたとしても、距離は全部同じです。それゆえ、この中央線を通らざるをえません。
では中央線というものは何でしょうか? 全体に行き来する力を支持してくれるものです。支えてくれるものです。言い換えれば、家庭にお母さんとお父さんがいて、あるいは夫婦がいます。また前後左右には兄弟がいるし、親戚がいて一つの球形を成した一族になります。その一族の中で望ましく真なる支柱、中心、地軸になれるような存在はどのような人でしょうか? おじいさんの気持ちもその子と一緒に行き来したい、おばあさんの気持もその子と一緒に行き来したい、お母さんの気持もその子と一緒に行き来したい、お兄さんの気持もその子と一緒に行き来したい、お姉さんの気持もその子と一緒に行き来したい、弟はもちろん親戚たちの気持ちも皆そうなのです。そのような人であってこそ「真」の中心になるのです。(一九八八・二・二三、本部教会)
六 家族の中の主人―最も為に生きる人
ある家庭の十人の家族の中で主人になれる人はだれでしょうか? 十人に苦労をさせて、自分の欲望のみを満たそうとする人が中心になるのではありません。十人の家族のために黙々と犠牲になる人を、十人が支持して中心に立てるのです。それが原則ではないでしょうか。父母までもその前にはひざまずいて千年万年の祝福を祈ってくれるのではないでしょうか。それが原則なのです。(一九七二・八・六、前本部教会)
例えて言えば、一つの家庭に八人の家族、父母がいて六人の兄弟がいるのですが、その中で一番末っ子の弟が、だれよりもその家庭のために生きるというときにはどうなるでしょうか? そのお母さんとお父さんもその息子には頭を下げるのです。いくら小さい弟でも、時がたてばたつほど、そのお姉さんとお兄さんたちは家庭のために生きる弟を自然に中心存在として立てるようになるのです。自分の家の中心にだれがならなければならないかと言えば、自分のために生きる存在ではなくて、全体のために生きる弟でなければなりません。時がたてばたつほど、そのような存在が中心存在になるのを私たちはこの世の中で見ています。それゆえ、「良いことをしなさい! 良いことをしなさい!」と言うのです。良いことというのは何ですか、良いことというのは何ですか? ために生きることではないですか? ために生きればどうなるでしょうか? 中心存在になるということは私たちには思いもよらなかったのです。(一九七五・四・一四、全州室内体育館)
それでは、皆さんは皆さんの家庭の主人をだれにしたいですか? どんな人を主人の席に座らせたいでしょうか? お父さんやおばあさんは言うまでもなく、家族全体はどんな人を相続者にしたいでしょうか? より愛する人です。おじいさんが一番その家庭全体を愛するなら、家族はおじいさんにすべて報告するのです、お父さんを差しおいて。それは仕方のないことです。したがって、ある家の主人になれる人は愛の心を持ってために生きる人です。愛の心を持って、よりために生きる人がその愛の家庭の伝統を引き継ぐのです。より愛を持ってために生きる人が永遠なる相続系列に同参するということを知らなければなりません。分かりますか? (はい)。それは間違っていません。
ところで、今日人々はこれを知らずにいます。若い子どもたちはこの邪悪な世界に対して「なぜ犠牲になろうとするのか? 目を開けていても、目を奪っていこうとするこの世の中では闘争しなければ生き残れない」と考えるのですが、これは間違った考えです。友達の中でよい友達とは、自分のために生きろという人ではありません。全体のために自分が犠牲になろうとし、手伝ってあげようとする人です。その本質がどこにあるかと言うと知識の世界にもなく、権力の世界にもありません。お金の世界にもありません。上下高低すべてに通ずることの、できる方向感覚を超越して、どこでも可能な作用を提示できるのは愛以外にはないのです。分かりますか? これを知らなければなりません。
家庭でどんなに世間知らずで幼い少女だとしても、おじいさんを愛して、食べる物があれば大切に取っておいておじいさんにあげようと言えば、その少女はその家庭で愛の的として登場するのです。分かりますか? だから、その家庭の相続者にだれがなるのかと言えば、全体をより愛してために生きる人がなるのです。これを知らなければなりません。より愛してために生きる人…。(一九八六・三・二、本部教会)
もし、十人の家族がいるというとき、その十人の家族が全員生きられればいいでしょうが、この十人の家族を生かすためにその中の一人が犠牲になるしかなければ、その一人を犠牲にすることは十人の家族が生きるための道です。それは一般の歴史的な常識として分かることです。だから、その十人の家族が互いに自分が先に死ぬと言って争えばどうなるでしょうか、争えば? 神様が見るとき「さあ争いなさい、争いなさい」と言いますか?(はい)。すぐに争って殴り倒して、全部殴り倒して一番最後に力の強い者が犠牲になろうとするのを望みますか? (はい)。それも望むでしょう。それも望むのです。
その代わりに十人の兄弟の中で九人の兄弟が殴り掛かって「おい、こいつ、お前は供え物になったらだめだ」と言ってその兄弟たちが犠牲させまいとするのに、ひたすら犠牲になろうとして「私が死にます。神様、私が家庭のために死にます」と言ったらどうなるでしょうか? 「私は家庭のために罰を受けて死ぬとしても、全体のために犠牲になります」と言えばどうですか? その兄弟たちが「お前は犠牲になってはだめだ。こいつめ、お前は犠牲になるな。お前は蕩減する必要がない。蕩減はうちの家庭全体がするから。こいつ、お前みたいな小さいのがなぜ蕩減するのか」と言うのに「私は全体のために犠牲になります」と言うときにはどうしますか?
それは二種類です。一つはただ殴り倒して皆放り出して私が犠牲になろうという者で、もう一人は罰を受けても私が犠牲になろうという人ですが、二人のうちでどちらの人が勝っているかというのです。どちらですか? (二番目です)。私は分かりませんよ。多様なのです。最初の方ですか? (はい)。二番目ですか? (はい)。どちらですか? (よく分かりません)。それがよく分からないと言う人は勝手にしろというのです。(最初の方です)。(二番目です)。これを決定しなければだめなのです。この二種類の人がいるとするなら神様はどちらを好み、どちらを支持するのでしょう? サタンはどちらを嫌い、どちらを好むだろうかというのです。どちらですか? (両方とも…)。困った人たちですね。どちらですか? それは重要なことなのです。どちらですか? 最初ですか? (はい)。二番目ですか? (はい)。
おや、女性がちょっとましですね。重要なことです。笑いごとではないのです。根本問題を決定しなくてはなりません。根本問題。これが根本問題です。一方は罰を受けながら死んでゆきながらも自分が蕩減しようとする人、もう一方は殴り倒して自分が蕩減しようとする人なのですが、どちら側が天の側ですか? 二種類のうちどちらが…。一つはサタン側であり、一つは天の側になるということを知らなければなりません。二つとも良いことは良いのですが、一つは天の側であり、もう一つはサタン側になるのです。分かりますか? だから、はっきり答えろというのです。一番目ですか、二番目ですか? 一番目ですか、二番目ですか? (一番目です、二番目です)。先生はどうでしょうか? では、先生が話してみましょうか? 私は一番目だと言う人? 皆さん、自信がないですね、自信がない! (ナンバー・ツー、ツー、ツー、…)。分かりますか? 皆さんがツー、ツー、ツーと言いますが、それは、より犠牲になろうというのです。より犠牲になるというのです。より犠牲になるという、そこにはより大きな愛があるという事実を知らなければなりません。より犠牲になるという所に、より大きな神的な愛が内在する事実を知らなければならないというのです。(一九八四・一・二九、ベルベディア修練所)
七 因縁圏のために生きる訓練場として
今まで皆さん、お兄さんとお姉さんとけんかをして、兄弟同士けんかをしてプイと背を向けて出てきたなら、後で行ってご馳走して満足させてあげ、自分を許してほしいと、もうお母さんとお父さんを愛するように愛し合おうと言わなければなりません。それはどんなに美しいことですか? お母さんとお父さんが皆霊界へ行った後に、兄弟達に侍ることは、残されたお母さんとお父さんに自分が侍るのだと考える人はどんなに幸せだろうかというのです。兄弟がお母さんとお父さんの代身ですから、残されたお母さんとお父さんに侍ろうとして、兄弟の生活が苦しければ自分が助けてあげて、お母さんのためにしたようにために生きてあげる、それはどんなに美しいでしょうか? そこから、天国が始まるのです。分かりますか? (はい)。
皆さん、おじいさんがいるでしょう? お母さんとお父さんがいるでしょう? おじいさんがいるでしょう? おばさんとかたくさんいるはずです。この三代圏を中心としたすべての親戚を中心に生まれたすべてのものは、皆さんに、皆さんのお母さんとお父さんを見せてあげるためのものなのです。もっと言うと、神様を見せてあげるために私にくれた贈り物だと思って生きる人はどんなに…。おじいさんとおばあさん、お母さんとお父さんを愛することのできる愛をそこに広げておいて教えてあげ、後々まで(その愛を)残してあげるために、自分が死ぬ時までもために生きることのできる愛を持っていく、そのように生きる所が天国なのです。
皆さんはですね、おばさんとおじさんとがいれば、おじさんがどうだとか、おばさんがこうだとか言うでしょう? それはおじいさんとおばあさんを見せてくれているのです。おじいさんとおばあさんを見せてくれていると思えというのです。おばさんはおばあさんですね。それを学ぶのです。
このようなことを一つの家庭を中心として考えるとき、これを拡大したものが世界なので、社会を見ると、おじいさんとおばあさんの年齢、おばさんの年齢、おじさんの年齢、お母さんとお父さんの年齢、お兄さんの年齢、お姉さんの年齢、弟妹の年齢、全部がそうです。社会が大きいだけでこれは同じなのです。丸いものは同じなのです。サークルは同じです。年取った人にはおじいさんとおばあさんとして侍り、ために生きて愛してあげ、その次にお母さんとお父さんのように、お兄さんと弟のようにために生きようとしなければなりません。神様も同じです。神様は私たちのお父さんではないですか? 世界の人を見せてあげて、兄弟として愛せと言うのです。かわいそうなこじきがいれば、そのこじきがお父さんの年齢ならお父さんのように愛してあげようとする心、それはどんなに美しいですか? また、お兄さんのように弟のように思う心…。
さあ、神様から見るとき、全部が自分の息子なのに争ってもいいですか? 同じ道理です。同じだというのです。全人類が神様の息子です。同じ概念なのです。分かりましたか?(一九八八・一一・一三、ベルベディア修練所)
第五節 ツルとサケと木の教訓
一 ツルの教訓
ツルを見ると、ツルはよく飛びますか? あまり飛ばないのです。しかし、ひと度飛び立つ日には、後について行くことのできるものはありません。これがすてきなのです。ツルが大股でのそりのそりと歩くのを見ると、上手に飛べそうにもありません。片足で立って昼寝しているのを見ると妖邪な感じがしませんか? 口ばしはいつもこのようにしています。(動作をされる)瞑想しているのです。片足でもってどれほど精誠を込めたのやら、このように微動だにしないので、神様も同情するというのです。けれども、ひと度飛べばついて行くことのできるものがありません。だれもツルに追いつけないのです。そのような権威を持っているのです。(一九八六・三・二、本部教会)
皆さんはスズメのひなのような行動をしてはいけません。ツルでなければなりません。私はツルが好きなのです。ツルが飛ぶときはどのように飛びますか? ちっちゃな鳥はここで飛びますが、ここで飛ばなければなりません。長さが長いから。力を伝達しようとして羽をエス(S)字型に動かして飛んでいくのです。スズメのひなたちはこのように飛ぶのですが、これは拍子をおいて…。私はそう思うのです。8の字型にこのように飛ぶのです。(動作で表現しながら語られる)そうですか、そうではないですか? そして、高く舞い上がっては遠くのかなたを見渡すのです。
ツルはどうして足が長いのですか? ツルは立つときにどうして片足で立ちますか? 立つ時は必ずこうして立つようになっています。なぜそうするのですか? (二本の足を両方上げたら倒れるからです)。そんな理屈がどこにありますか? 天地の度数を合わせようとするから、口が一つだから、垂直線に倣おうとするから、「われは垂直に立たなければならない」というのです。そう言わなければ答えになりません。
宇宙の垂直線は、理想的垂直線は一つです。理想的垂直線とは何でしょうか? 高尚な思想を中心とした生命だとか高尚な愛を中心に宇宙は回るようになっています。ツルは横を見ていても面白くありません。ツルは頭を上げていてこそ格好がいいのです。長い首がどんなにか格好いいのです。それは長大な高いアンテナのようになります。高い所に向かって伸びていく力を持っているのです。その次は線が地球と垂直になります。その垂直になるとき、翼はツルの胴体が垂直になるので厚くありません。そっと流線型にサーッ。そしてツルの翼は水平線をなすようになります。
そして、一度翼を広げると…。翼を動かさないで、一番長く飛べる鳥がツルです。タカではありません。高く上がっていくので、放っておいても高く飛ぶようになっています。だから、一番遠くを見渡すのです。それは理論にピッタリ合うのです。
いくら「えい、こいつ! なぜキャーキャー鳴きながら飛ぶんだ? このツルめ!」と言っても「キャーキャー」と飛ぶのです。いくら悪口を言っても知ったことではないでしょう。どんなに、何を言おうが飛んでいくのです。飛んでいくというのです。飛んでいくのです。太陽に向かっていくのです。世の中が騒いで、スズメのひなたちが殺してやるぞとピーチクさえずっても、また千差万別で鳥たちが互いにひな鳥のように騒ぐとしても、それでもわれは飛ぶというのです。大洋を渡り大陸へ飛んでいってとまるときには、自分だけが主人だという所にとまるのです。取るに足らない雑種どもがいるところにはとまりません。最高に良い場所を見つけ出してとまるのです。それはどんなにすてきでしょうか?
私はいまだに定着していません。先生はいまだに定着できずにいます。私が落ち着く定着地を捜して行くのです。それはどこですか? その定着地はどこですか? どこですか? 神様が主体だから神様の前に行かなければならないでしょう。どうですか? レバレンド・ムーンはそれを運命の道として行くのです。そのように生まれついたのかもしれませんね。
だから、そのように生まれた人に師として侍り、そのように生まれた人がつくった統一教会に入ってきたら、ガチョウの子になるのですか、ツルの子になるのですか? ガチョウがどのくらいいいですか? ガチョウが尾を広げて歩きまわるときも格好いいでしょう? このごろはディスコ・ダンスをしています。それがどのくらいいいですか、どのくらい? どのくらいいいですか? ツルになるのを願いますか? ディスコ・ダンスをするチャンピオンのガチョウになりたいですか? (ツルになりたいです)。統一教会の連中どうですか? 統一教会の連中にも二つの種類があるのです。ガチョウになりたいですか、ツルになりたいですか? (ツルです)。ツルになりたいですか? (はい)。そんなに首が長いですか?
それゆえ、統一教会の連中は垣の向こうを見るのです。韓国に住みながら日本を見渡すのです。韓国からアメリカを見渡して…。だから統一教会のこの者たち、癖を私が直そうにも直せないのです。私がアメリカに行っているので、韓国では「アメリカに行こう」とか言っています。それはいいのです。ですが、ツルになろうと思えば、ツルの格好で片足になってしっかりと立って並んで、こうしなくてはならないのに、足はこのようにしています。これは不合格です。それはどういうことでしょうか? この者たち、のんびりと勉強するために? それではだめなのです。飛ばなければなりません。飛ばなければならないのです。
だから、ツルになろうと思えば、片足になって天地度数を垂直線に合わせられる心の姿勢を持たなければなりません。人が良心が正しいと言い、良心が真っ直ぐだと言うのはどういうことですか? どのように真っ直ぐだというその目印を、垂直線を前もって引いておいて言っている言葉です。それを知らなければならないのです。人の良心が真っ直ぐだというのはどこから出てきた言葉ですか? すでに天地の一つのセンターに垂直線を引いたところで、そこに対置した平行的基準で比較して真っ直ぐだ。曲がっている、と言うのです。ツルがそうなのです。動物の中でそういうのはツルしかいません。
また、ツルは真っ白なところに真っ黒なものが重なっています。それは高く飛ぶけれども下水をもかき回すというのです。そのときには白いものではなく黒いものが必要です。低い所へ行って黒い群れが「あんた、昇っていくのが専門だろう、どうしてここに来たんだい?」と言えば「何だよ、こいつ! うるさいなあ。ぼくにも黒い所があるだろう、こっちに」、つまり相対的条件をすべて備えたと言えるのです。次に、赤いものもあるというのです。情熱があるというのです。何の情熱? 案内者の情熱が後についてくるのです。どんなにすてきですか? 解釈はそうでしょう。
次に食べるのは何を食べますか? 陸地の物も食べますが海の物も食べるのです。両方の世界を兼ねることができます。統一教会の文某がツルならばですね、宗教街でも食べますが、事業世界でも食べるというのです。そうでしょう? 高い所にいるのに、汚い物をもほじくるのです。だから、魚釣りもするのです。そうだというのです。それはすべて格式に合うのです。だから、尻が黒いのです。尾がなぜ黒くなっていますか? 上がっていくときには全部上がり、下りていくときには尾が先につくからです。それはすべて天地の度数に合わせるためです。私はそう考えるのです。
だから、韓国の民はツルを愛するのでまくらに…。まくら何々と言いますか? (まくら元)。まくら元というのかな? 違うでしょう? (ペゲンモ=まくらの両端につける刺しゅう)。ペゲンモ、ペゲンモにツルあるいはオシドリの刺しゅうが施されています。
リトル・エンジェルス会館に行くとですね、あれは何ですか? (幕です)。幕がありますが、そこに四羽のツルがさっと出てきます。あれは民族を象徴するものです。統一教会の人の口からは「キャッ」という短音が出ます。言葉が少ないのです。「クゥィ」という声はガチョウの声です。タンチョウヅルが鳴く声はガチョウの鳴く声のようです。しかし、内容が違うというのです。
皆同じように鳴きながら生きるのですが、その内容が違います。世の中をよく見るとガチョウの子どもは、彼らを皆見てみれば汚物の塊なのです。すごくたくさん食べるでしょう。だから、お尻が大きいでしょう。汚物の塊を作る行いをしようとして、食べるのはとてもたくさん食べるのです。そうして、大便もしっかり一塊しておくでしょう。そうではないですか? 鳥の中にも留守番をしようとする鳥がいます。留守番をしようとするのです。そのような一面があるでしょう。
人にも二種類の人がいます。食べるために生きる人と飛ぶために生きる人、二通りあるのです。統一教会は食べるために生きるくそガチョウの群れですか、ツルの群れですか? 少し食べて? 少し飛んで? (たくさん飛びます)。たくさん飛ぶ。だから、体が太って? (違います)。ほっそりして遠くまで飛ぶのです。遠くまで飛ぼうというのです。それでは、レバレンド・ムーンは体が太っていますから、よく飛べないでしょうか? いいえ、飛ぶことも上手にできるのです。だから、ツル…。
お母様は鶴子ですが、なぜ鶴子でしょうか? 鶴女になるのであって、なぜ鶴子になったのでしょうか? 私は「ああ! 息子の子の字を付けたのは、神様の息子と因縁を結んでやるためだったのだな。本来、生まれる時にそのように生まれついたために統一教会のお母様の名を持ったのだな」と、このように考えるのです。それはすてきでしょう? お母様! 「韓」と言えば韓国を代表することもできるし、宇宙を代表することもできるでしょう。「韓(ハン)」と言えば「ハナ(一つ)であって、第一という意味です。お母様が喜ぶことでしょう。私たちはそのように生きるのです。それが統一教会式です。そうでしょう? (はい)。私がただおもしろくない既成教会式に、原稿を書いてサーッと読むだけだったら統一教会員たちは消化できないのです。このようなやり方でようやく消化できるでしょう。そうでしょう? (はい)。よく似ましたね。
だから、皆さんの口からは「自分がいい生活をしよう」という言葉が出てこないのです。遥かに高く…。ツルは大空を飛びますが、私たちは大空を飛べなくても中空を飛ぶのです。中空(チュンゴン)といっても中共(チュンゴン)ではありません。中国人の中共ではなくて中間くらいの空中を飛ばなければならないというのです。飛ぶにはどう飛ぶのでしょうか? 頭はお母さんとお父さんについて行くために、高く上げて見なければなりません。地を見てはいけないというのです。どうですか? そうですか、そうではないですか? (そうです)。
だから、飛ぶときには中空を飛ぶのですが、頭とくちばしはどこに行かなければなりませんか? (天)。上に行かなければなりません。では、飛べば飛ぶほど昇っていかなければなりませんか、平行線で行かなければなりませんか? 首をこのようにしてどう飛ぶのでしょうか? 首を中心として平行線にならなければならないというのです。昇っていかなければなりません。胴体で昇っていかなければならないのです。そうですか? 私が言うのも済まない気がしますが。すべて結論を知って座っているのですが、顔色を見ると「ああ、また苦労させようというのだな!」と思って座っています。そうです。そうなのです。それが皆さんたちの定めなのです。飛ぶのは中空を飛びますが、頭は上がっていかなければなりません。(一九八二・一〇・一七、本部教会)
二 サケの教訓
皆さん、人間は実に多くの反省をしなければなりません。海へ出てみると、海には魚類がたくさんいます。その魚類を見ると神秘的です、どのようにして旬になると訪ねてくるのか。海の近くに住んでいる人は知っているはずです。イワシならイワシ、イカならイカ、次にスケソウダラならスケソウダラ、そして一番多いサバならサバ、その群れが四月、五月になると決まって訪ねてくるのです。五大洋を舞台に流れる潮に乗って回遊しながら、旬になるとどうして間違うことなくその場所に訪ねてくるのかというのです。
ましてや、皆さんよく知っているアラスカのサケもですね…。そのサケなんかの場合を考えてみなさい。これは一番最初に稚魚、小さな子どもを数カ月の間、半年ほど育ててですね、送り出すのです。送り出されるとその流れる潮に乗って行くのですが、その活動舞台が四千マイルです。そのような長大な舞台ですが、そこを離れた魚がですね、四年ぶりに卵を生む時期になるとその場所に必ずやってくるのです。それは今日の科学の力ではどうにも証明できません。
それはどんなに神秘的なことでしょうか? 一つの小さな生物であるサケという魚でも、そんな神秘的な内容をもって一生を小躍りしながら行動するのに、この欲の多い人間がなぜ数千年の間一度もそれを成就できず、方向性を失ってしまい、複雑に社会環境の変遷とぶつかり、もう終わりにして助けてほしいと騒いでいるのかというのです。これは生かすべき希望もない人間です。これが問題です。
それゆえ、皆さんはそれを知らなければなりません。この万物世界を見れば皆公的な道を持っています。そうではないですか? 太陽系を見れば太陽を中心に地球が回っていて、地球を中心として月が回っていませんか? 地球も公転する公路があるのです。その方向には変化がありません。千年歴史、万年歴史をあざ笑いながら「お前は変わるなら変われ、私は変わらない」こう言っているのです。
また、小さなスズメたちもじっと見てみなさい。これが、まあチュンチュンチュンチュンと鳴くときには、子どもたちがただおもちゃくらいに思って、捕まえて殺そうとしてですね、好きなようにできるスズメですが、このスズメは家を作ることを知っているのです。ひなを生んで育てながら、危険が迫ったときには自分の生命を超越することを知っているのです。それは千年万年過ぎたとしても変わりません。
ところが、人間の世界はなぜこのように変わりましたか? 「父母の愛がない、父母の愛がなぜ必要か」と言っています。(一九八六・二・八、漢南洞公館)
皆さんサケを見ると、サケは卵を生んだ後で死んでしまうのです。ところが、卵を宿して生むために、雄・雌がただ一つになって…。それを見ると、死ぬ日を定められた死刑囚の立場で夫婦が愛し合う愛以上の愛で愛し合うのではないかというのです。雌が卵を生む時になると、雄は地面を掘って卵を保護してくれるのです。まさに理想的なカップルです。そして卵を生むと二匹は死んでしまいます。死んでいく雌・雄たちのさまざまな姿を見たとき、先生は実に大きな衝撃を受けました。その後、雌親の体は稚魚たちのえさになるのです。
創造主がいるとすれば、なぜそのようにつくったのでしょうか? それを見れば子どもがいかに重要か、愛がいかに重要かということがわかります。愛が最高のものであり、子どもが最高のものだということを見せてあげるための、一つの標本としてつくったであろうという理論はきわめて当然だと言えます。生命を捨ててでも、愛と子どものためには行かなければならないというのです。( ? )
皆さん、このサーモンのようなものは実に驚くべき人間の教材なのです。(一九八四・五・二〇、アメリカ)
三 木の教訓
一つの種を植えたら、それが実を結ぶためにはいくつもの段階を経なければならないのです。芽が出てきて、幹が出てきて、枝が出てきて、葉が出てきて、花が咲いてはじめて実がなるのです。その双葉が出てきて幹が出てくることとは別なことです。葉から花が咲くこともまた別なことです。花から実を結ぶこともまた別なことです。しかし、その全体は一つの出来事なのです。
双葉の状態から幹が出る、それが別なことだといってそれを否定する、別なことだと否定する人は葉を見ることができないでしょう。枝から葉が出る、それが別なことだと否定する人は結実を見ることができないでしょう。これは一つの出来事なのです。これは一つのことを完成するための必然的な運命の道なのです。新しい芽から幹が出なければなりません。いくら合わないとしても、出てこなければなりません。枝から葉が出てこなければならないのです。そして、花が咲かなければなりません。花には必ず一つの実がならなければなりません。これが正常な過程なのです。
一つの木が芽から実を結ぶ時まで、このような過程が連結されて一つの望ましい結実を迎えるという事実から推してみるとき、私たち人間一人が完成というものに向かっていくにおいて、あるいは一つの国家が完成を望んで進む道において、あるいは世界が神様の摂理を中心としてひとときの完成を望み進む過程において、いつもよい時ばかり望んでいるとするなら、これは正常でないのです。(一九七二・七・二三、前本部教会)
木を見ても木全体が根だけ必要なのではなく、芽だけ必要なのではありません。四方に伸びている枝と葉自体が完全に一つになり、それが東にあれば西・北・南と合わせようとして、枝々が全部一つの芽に合わせて均衡を取って成長しているのです。そうしてそこで実を結ぶことによってのみ、その木の完全形を成すことができるのです。どこか一方がゆがむと、木がこのように半分ゆがむとそれ自体にも欠如した部類を持った種ができるというのです。それを植えると、やはり同じになるのです。それゆえに均衡というものが絶対に必要なのです。(一九八六・二・二二、本部教会)
きのう、リンゴ畑に行ってみました。ある場合にはそのようにしてはだめだと、素人ですが、私はある枝は全部切ってしまわなくてはならないと考えました。それは理知的に言ってもそうなのです。(板書しながら語られる)このように枝が出たら伸びていかなければなりません。このように見るとき、枝はこのように太くならなければなりません。ところが、これが太かった場合にはここでこれを比較して太い枝を切らなくてはなりません。これが伸びていくのにこちらの枝が太くなると頭の痛いことになります。そっと見ていて、これは私が手を加えてやらなければならないという気にさえなりました。この枝はこのように伸ばして、この枝も同じです。こちらの枝を切ったら、この太い幹はそのままにしておかなければならないのに、この二つを切ってしまえば木は死ぬのです。垂れていく枝、上っていく枝、この水平になる枝はできる限り空気をたくさん受けるように育てながら、(邪魔な枝を)切っていかなければなりません。約三分の二は、今よりもっと切らなければならないだろうと思いました。どう思いますか? いったい、なぜ切らなかったのですか? (つぼみが出てきたので…)。今年の実を願うのではなく、来年この木をどうするのか? 今、木がだめになる段階に入ったとみるのです。木を丸ごと切って捨てることになるのです。今からやり直せというのです。ある枝を見ると虫の巣のようなものがあって、この枝が育ちそうにないのでみな切ってしまわなければなりません。新しい枝を選んで、新しく育てていけるように手入れをしなければなりません。私はそのように思いました。これから、木はできるだけ空気をよく受けるように葉や小枝はみな切るのです。私は専門家ではないですが理屈からして…。きょうから直ちにしなければなりません。(一九七三・三・一七、ベルベディア修練所)
皆さんが六千年の実だとすれば、六千年歴史という木には青い時代もあったことでしょうし、あるいは萎れた時代もあったことでしょう。そこに実がなってだんだん熟していく時にはどうなるでしょうか? 葉は乾いて落ちてしまい、後には実だけ残ることになります。
実が熟せば秋にならなければならないし、秋になれば風が吹かなければなりません。その風は夏の風とは違います。すべての環境から試練を吸収できる、すべてのものを遮ってくれる助けになる風ではなくて、その隠されていた体を磨き上げ、洗い出してくれる風です。吹きつけるその風は全体をマイナスにする風であり、プラスにする風ではありません。そのような風が吹いてこなければならないでしょう。
そのような真理、道理、宗教が現れる時は、悪なる世の中から秋の節気の霜のような打撃を受けなければなりません。先生はそのように考えます。統一教会は霜のような試練を実によく受けてきました。それだけでなく、一冬の寒い風が一遍に吹きつけてやつれた枝だけが残らなければなりません。そのような過程で果物の果肉まで全部落ちていったとしても、その果物の中に隠れている一つの種は残っているのです。
本然の真なる主人は果物を要求するのではなく種を要求するのです。果樹園を相手にする商売人は果物の果肉を要求します。本物の真なる主人はその実の中の真の種を要求するのです。
わが統一教会が数多くの苦難を受けて、周囲の環境から迫害を受けてやつれた枝にぶらさがった実になったとしても、その実の果肉を見て喜ぶのではなく、その実の中に種を持ったのかが問題です。これが来る春三月に再び種まきをするときに、その種が間違いなく統一教会の第一素性の生命力を持った存在として誕生できるかというのです。それがなければ、それは生命力を持たないのです。
それが生命力を持つためには、その木が育つまでに、体験すべきあらゆる風雪の試練を経なければなりません。風雪の歴史を持っていなければならないというのです。その険しい試練過程を通過できる生命力を持ち、未来に対する希望をもってはじめて、新しい春の節気を迎えて新しい生命の芽が出てくることができるのです。そうして、夏が過ぎて秋の節気になると生命力を持った種になるのです。
皆さん、そのような種になっていますか? 種になっているだけでなく、これから無限に発展できる原動力、だれも取っていくことのできない自然な原動力を持っていますか? 新しい時が来れば自体内に刺激を発動させうる生命の原動力を持っているかということが問題です。それがない人は死んだ人です。種のようなもの、実のようなものなど、「ようなもの」たちはすべて肥料の山に入っていくのです。分かりましたか?
先生がこれまで苦労したのは、まさにこのような種をつくるためです。夏の節気の暴風雨が吹きつけ、秋の節気の冷風が吹いてきて、冬の節気の吹雪が一遍に押し寄せるそのような過程を経るとしても、それが問題ではありません。それをすべて過ごしてしまえば、それ以上の生命力を持った種が芽吹かなければならないのです。
先生が今まで闘ってきながら、そのすべての歴史の絶頂の道で神様が背後で協助してくださったのと同じ因縁を、ここで再び誘発させることができますか? 今から統一教会が新しく出発するのと同じ立場で、皆さんをどの天地に追いやっても、そこに暴風雨の降り注ぐ日々が介在するとしても、皆さんは先生の代わりにこのような苛酷な環境をすべて踏み越えて余りある生命体に成長できるかというのです。皆さん、できますか?(一九六七・一二・二四、前本部教会)
第六節 手本を示す先生の家庭
一 先生の家庭の家訓
私は自分の両親に対し今さらながらに有難く思いますが、両親からの家訓があって、家に出たり入ったりする人を決して何もしないで送り返してはならないというものがありました。いつも食べさせてから送り出せといいました。こじきが来たといって迫害するなというのです。おじいさんもそう言いました。伝統がそうなのです。
冬にこじきが食べ物をくれと言って来れば、食事をしていて台所からお母さんとか嫁が直ちに出ていくのですが、準備をしなかったらおじいさんやお父さんは自分の食卓を持っていくのです。ご飯を食べることができません。こじきにご飯をあげて自分は食べられなくてもよいというのです。だから、私が世界の人々のためにそういう行動をするのです。
全羅道地方、慶尚道地方など、八道江山(=現在の韓国各地)のすべての人々が北へ行くときは国道を通って行きます。そうして、私の村に来て一晩寝ていこうと言えば「あそこに行けば文さんの家があるから、そこで寝なさい」と言うのです。だから、私の家は春夏秋冬四季、居間が空くことがありませんでした。部屋が三つでもぎっしり詰まっていました。それで、ご飯を作る私のお母さんは一生涯悩まされていたことを私は知っています。
八道の人々にご飯を食べさせたその家庭は滅びません。八道から歓迎されうる後裔が誕生するというのです。だから、悪口を言われるレバレンド・ムーンのような人が生まれたのかもしれません。私もそうなのです。私も世界の人にご飯を食べさせるのです。ご飯を食べるとき、食べられない人がいると私の箸は動きません。ストップします。そうしてみると、たとえ悪口を言われようとも、悪口を言った人々は皆滅んでいきますが、言われ続けた統一教会人は朝の太陽のように昇っていくのです。(一九八六・一〇・一、本部教会)
だから、先生の家庭を通してもすべてそうです。見てみれば、家訓がなにやら八道江山の人々にご飯を食べさせてやれとなっています。皆そう言ったのです。東拓会社(東洋拓殖株式会社)が出てきて、日本の人たちが土地を皆奪って満州に全部送るので、全羅道の人、慶尚道の人たちが満州へ行くとき、旅費がなくて私の家へ…。私の家は国道からいくらも離れていませんでした。
また、村中はおろか遠くの村々、数十里前後ではこじきが来ると、みな私の家が集合所でした。いつも居間にはこじきが寝ていたもので…。私の村に、牛に引かせて回す臼がありました、大きな臼が。そこには、こじきがいつも集まっていたものです。私はそのこじきの中に友達をたくさんつくりました。家で餅をつくと、かわいそうなので持っていってあげるのです。朝、出てきてどこかへ行ったとして、昼食をだれがくれますか? 昼食をだれもくれる人がいないので、私が昼食も持っていってやったのを思い出します。お母さんに内緒でそのようにして…。それは良いことなのです。お母さんは私に食べさせようとしましたが、私は分けて食べようと思って、お母さんに尋ねる前に持っていって食べさせたのです。今、考えてみても、良いことをしました。それで良かったのです。
ですから、世界のために生きて、そのような考えを持っていたことが、福を受けたこのような基盤になったのです。それゆえ、そのような家門から私たちのような人々が生まれたのです。またそれだから、大韓民国が福を受けることができ、世界の福を引き入れることができる起源になったのではないかと思います。今思えば、先祖たちに対して感謝する気持を持っています。しかし、私はこのような先祖たちに対して責任は一つも果たせなかったのです。(一九八三・五・五、中央修練院)
国民にご飯を食べさせようとする人であってこそ王になるのです。分かりますか? 食べさせ、着せようとするような王にならなければならないのです。同じく、かわいそうな人、おなかのすいた人にご飯を食べさせたといって罰を受けた例はありません。それゆえ、多くの人にご飯を食べさせてあげろというのです。
私のおじいさんやお父さんのような両班たちはですね、冬の朝のような時にこじきが来て、「いやあ、通りがかりの者ですが、朝から寄らせて頂きました」と言えば、既に食卓をさっと持ち上げているのです。女房が動かなければ、自分で持っていくのです。私もそのような教育を受けたので世界の人々にご飯をたくさん食べさせました。(一九八六・一・一九、本部教会)
二 愛の手本を示すお母様
私がお母様から聞いた話があります。お母様は子どもをたくさん産みました。ざっと十の峠を越えて、なお三つの峠を越えましたから何人産みましたか? (十三人です)。十三人生みましたからイエス様の一党派を備えたことになります。十二弟子とイエス様まで合わせると十三人になるのです。そのように十三人を産んだのですが、お母様が言われたことがあります。「世の中であれが楽しい、これが楽しいと言っても、ほかに楽しいことなどありませんでした。子どもを産んでお乳を飲ませて育てる時のそれ以上の楽しみはなかったのです。年を取って子どもを産めないので、万事がつまらなくてたまりません」このように話しました。
お母様の顔をみると、苦労してかさかさになった顔です。数多くの風雪を皆経てきた顔です。しかし、愛らしい子どもを育ててきた苦労の道がよかったというのです。愛は困難で犠牲を伴うものですが、その犠牲を忘れてしまうのです。真の愛で愛すると犠牲になることを忘れてしまうのです。そのような犠牲が肥やし、肥料になるのです。また、自分の肉となり骨となり、そして喜びとなるのです。愛になるというのです。
ところで夫が自分の愛する妻に「あなたの因縁を見ると百の愛の因縁を持っているけれど、私を愛するときには千の愛で愛しなさい」このように言ったらどうなりますか? そのときは愛が成立しないのです。くれと言われてから与える愛は真なる愛ではありません。本物の愛は「私が君を愛する。さあ、始まりだ」と言うのではなく、自然にわれ知らず会いたく思うのです。そうなるのです。来るのか行くのか、知らせもなく始まるのが愛だというのです。命令によって、これから始まるというのではありません。それは愛ではありません。そんな愛はないのです。
それゆえ、妻に「あなたは私に百、千の愛をよこしなさい」と言うのではないというのです。本当に愛するなら「百の愛をもって生まれついても、百の愛を尽くさないで十だけ愛してくれても私は十分です」こう言えば百の愛を与えても、もっと与えたいというのです。
おかしいでしょう? そうなるのです。くれと言う人にはあげたくなくて、くれと言わない人にはあげたいのです。これが愛です。愛を与えるにおいて、暴れ回っている連中には与えたくないのです。しかし礼儀正しくもの静かに、いるのかいないのか分からないようにしている人には愛が訪ねていくのです。愛は人知れずそっと密かに繁殖するものなのです。夫婦同士愛し合うのに、人が見るのはいいですか? 愛というものは人知れず自然に強制もなく、自然に流れていくのです。
それだから、愛を中心として行くにおいて、十の愛の因縁を持っている人が百、千、万の愛を与えたとしても滅びる道理はありません。損害が出る道理がないというのです。(一九七一・五・七、中央修練院)
三 お母様の苦労
それで、聖人たちの妻は悪妻にならなければなりません。分かりますか? なぜそうならなければならないかは皆分からないでしょう? それを皆知らなければ歴史が解けません。いずれにせよ、そうです。いずれにせよ、そうなのです。
それでは、私たちのお母様は素晴らしいお母様ですか? (はい)。素晴らしいお母様だというのは、蕩減復帰したから素晴らしいのでしょう。(一九八九・三・一、本部教会)
さあ、私がお母様の話を一つしましょう。お母様は早朝に起きて、敬礼式が終るとコーヒーを飲みます。私はそれは良くないと、おばあさんが話した、コーヒーを三カ月飲んだ人が胃を悪くして胃腸の手術をしたという話をしながら、コーヒーを飲まないようにと言うと、どうしましょうかと言います。飲まなければ、もうしきりに目が閉じてしまうのですが、子どもたちは皆出かけることができても、私はこの席に座っているので出かけることができません。だから眠気が来ないようにするために仕方なく飲むというのです。そうして見るとかわいそうです。かわいそうだというのです。人と同じように安心して寝て、昼寝もグーグーして、眠くなれば二十四時間でも寝ていられたらよいですが、それができないからかわいそうだというのです。かわいそうです。(一九七七・三・一、ベルベディア修練所)
お母様は子どもたちに対して心配をしますが、私は心配しません。子どもを心配する前に人類を心配しなければならないのです。人類を愛する前に神様を愛することに狂わなければなりません。子どものことは夢にだに、一年に一度さえも考えません。そうすると人類を抱いて膨らんでいく宇宙力が保護し、一つの主体的愛が保護してくれるのです。そうです、すくすくと育ちます。私が干渉をしなくてもすくすく育つのです。私は今、そうしています。(一九八八・一・一、本部教会)
自分を強要して、自分を中心としてこの活動体制を考える前に、全体を強要して先生との上下関係を重要視するような人が必要なのです。新しく整備体制を備えなければならない段階に入ってきたのです。
先生なら先生を中心として見ると、家庭ではお母様をそのような面で教育しようと今まで努力しました。そういう意味で、お母様がお父様よりもっと素晴らしいのです。それで、私がお母様に指示するときに「あなたはこのような立場に立っているので、あなたの内的な面が現れるのが子女たちですが、子女たちの教育はあなたが責任を持ちなさい」こう言いました。先生がそう指示したのです。(一九八三・一・六、イースト・ガーデン)
四 お父様の子女に対する愛
先生は孝進、譽進が十二歳までは、いくら疲れてどこかに行ってきたとしても、寝床で祈祷してやったのです。それはどういうことか分かりますか? 父母の役目を果たすことは容易なことではありません。それによって、お父さんが自分を愛するように自分の息子・娘を愛さなければならないということを自動的に学ぶのです。また、自分のお父さんは世界で一番よい人だということを分からせなければなりません。皆さんもそのようにしなければなりません。分かりますね? (はい)。(一九七八・三・二六、ベルベディア修練所)
先生の息子・娘七人が韓国で待っていました。その子どもたちに対してこんな考えを持ちました。「お前達が今サタン世界で汚されて、飢えに震えるのは本来のみ旨ではないのではないか? 今はやむをえず、そうなっていることを私がよく知っている。しかし、お前たちは困難でも耐えなければならない」と思う度に、一日でも私が一緒にいる日には、休むときに部屋へ入っていって彼らにキスしてあげるのです。なぜでしょうか? そういう条件をもってでも、お前たちに会って私がかわいがる度に、その日を早く成すための刺激を受けて、忘れないぞという決心からそのような行動をしているのです。天国が問題なので…。
それゆえ、何とか彼らを天国で生きるようにしてあげ、天国で結婚できるその日を願って、これをしてあげなければならない責任感があるのです。その子どもたちが父母に対して、父母があまりに苦労するのを見て「私は天国へ行って祈祷と祝福を受けられなくても、ここで祝福を受けたことを天国で祝福を受ける以上の価値として考えます」と言って、父母に対し、残念に思わないでください、と慰めることのできる立場に立つことができなければならないのです。そうでなければ大変なことになるというのです。そうしてその子どもたちがそれを伝統として受け継いで走れるようにしておかなければならないというのです。(一九七三・五・一六、ベルベディア修練所)
私は子どもたちを中心として、今まで十五、六年の間、三人の子、四人の子と対しては十二歳になる時までいくら忙しくとも、毎日のように一日も欠かさずに、行って祈祷してあげるのです。父親の役割を果たすのは簡単ではありません。貴い生命の前にお父さんとお母さんの役割を果たすのは簡単ではありません。「私はお前に何を与えることができるだろうか? お前に負債は負わない。お前が寝ている間に私が福を祈り、お前が寝ている間に必ず抱いてキスをしてやろう。私が時間がなくて、二十四時間お前の手を握って動きまわるわけにはいかないが、私が済まないという気持をもって身の置き所のない罪人のように、お前を抱いてキスをしてやることは永遠であろう」このように生活をしているのです。(一九七六・三・二、清州教会)
五 子女の前ではけんかをしない
統一教会を信じている皆さん、何年になりましたか? 十年、二十年、三十年になっても先生について行きたいのですね。それはなぜですか? そのような本心の道が、天理の正しい目的の道と現在私が行く道が、皆異なったものでないがゆえに、神様がそれを皆保護してくれるのです。脱線したら大変なことになります。そのように思ってこれからは、けんかをしないで、模範的な家庭になって…。
サタン世界に誇れるものが祝福を受けた家庭です。先生から祝福を受けたことがいかに貴いかがよく分かりますか、分かりませんか? (分かります)。分かりますか? (はい)。
そして、息子・娘たちが、「お母さんとお父さんが一生の間けんかをするのを見ることができずに育った」と言わなければなりません。先ほど、ここでお母様の話も出てきましたけれど、生活してみればあらゆる…。そうではないですか? 小言も言わなければならないだろうし、うまくいかないこともあるでしょう? だからといって、けんかするのをしつこくやめないで、手を出して…。そんなときは、話をしていても教育をしていてもですね、子どもたちが入ってきたらピタリとやめなければなりません。元の状態に戻らなければならないのです。いくら、夫に不満が残っても赤い顔をして息子に対するなというのです。これは先生の哲学です。だから、うちの子どもたちはいつも平和で仲むつまじいお母さんとお父さんだと思うのです。お母さんの中で一番であり、お父さんの中で一番だと思うのです。だから、お母さんとお父さんは第二の神様です。「神様を取るか、お母さんとお父さんを取るか?」というとき、お母さんとお父さんを取ると言うのを神様も良く思われるというのです。それが貴いのです。教育の中で一番貴いのです。教育の中で一番貴いものはそれなのです。
人の情緒的な面において…。お母さんとお父さんがけんかをして涙を流して、紛争を起こして、子どもたちが泣きじゃくって…。そんなことがあっても良いですか? 何の話か分かりますか? (はい)。子どもたちに対して恥ずかしいのです。
子どもたちは自分の第一の未来の神様です。未来の神様なのです。それを知らなければなりません。未来の神様です。そうではないですか? 神様の理想をだれが? 未来の後継者たちが相続していかなければなりません。未来の神様にならなければならないのです。未来の神様に。神様の対象の実体にならなければなりません。彼らは未来の神様です。それゆえに、師の中の師なのです、子どもたちが。子どもたちはだませません。だませないのです。絶対にだませません。すでに、お母さんとお父さんがうそをついていることを知っているのです、口に出さなくても。
それゆえ、父母は師の中の師にならなければなりません。父母は第二の神様の立場に立って師の中の師にならなければなりません。
彼らの情緒的な基準が、情緒的な方向がお父さんとお母さんを基準として全部準備されなければなりません。「私もあんなお父さんのような夫になり、あんなお母さんのような妻を迎えるだろう。万一、そうでなければ、育ててでもそのようにするだろう」というような教育をするのです。心情的教育はそこからしなければなりません。だから、けんかをする振る舞いは神様を追い出してしまうことであり、その次は夫と妻を追い出してしまい、父母を追い出してしまうことなのです。その次は子どもまで追い出してしまう振る舞いなのです。破綻が始まるというのです。(一九八七・五・二〇、本部教会)
六 子女の前では涙を見せない
子どもたちの教育というものはお母様のように…。そう、私とお母様は息子・娘の前では絶対に涙を流さないのです。涙を流すのを見せてはいけないのです。その子女たちは神様です。生きてみればだれでも、先生に言わせると、先生がお母様を教育しなければならないことが多いのです。また、訓戒もしなければならないことが多いのです。しかし、お母さんとお父さんは絶対、自分の息子・娘に涙を流すそのようなところを見せてはいけません。分かりますか、何の話か? (はい)。
息子・娘を愛するでしょう? (はい)。愛する幼い心には、お母さんとお父さんが一番です。この世で最も貴いものとして、神様の次に来るものがお母さんとお父さんだと知っているのです。その国の大統領よりも、世界の聖人よりも、先生よりもだれよりも最も貴いと知っているのです。家庭ならば家庭がそのような心情の下に進まなければなりません。(一九八一・一一・一五、本部教会)
七 許可を受けてから出入りする
私の息子・娘も同じです。どこに行くとしても自分勝手には行けません。お父さんの許しをもらって、行かなければなりません。なぜでしょうか? 出掛ければ、全部が鼓を鳴らしてあらゆる振る舞いをしようとするのです。全部が後押ししてあげ擁護しようとする、そのような環境ではないではないですか? そのような環境では、いまだに真の愛を中心とした真なる父母の立場で「私の息子だ。私の妻だ」と言えるような立場には到達できずにいます。
それゆえ、息子・娘は勝手に寝て、勝手に食べて、勝手に行ったり来たりしますが、お母さまもそうかもしれませんが、私は思い通りに行ったり来たりできません。多くの日々を同じ場所で見張りをしなければならない、番人の使命を果たさなければなりません。意識が残っていて、意識がなくなるまではその生活を継続しなければなりません。それが先生です。神様が休むでしょうか? 神様はいまだにレバレンド・ムーンを「わが息子である」と天上天下の万民全体の前に立たせて、王権を伝授させようと言うことができません。いつ変わるか分かりますか? 今でも変わりうるのです。違いますか?(一九八八・一〇・三、一和龍仁工場)
第二章 子女と父母の愛
第一節 息子・娘に対する解説
一 世の中で一番貴い存在
今日、青少年問題が世界的な問題になっています。倫理観を中心として問題になっているのですが、それがなぜ世の中でさかんに展開しているのでしょうか? 真なる父母の愛に陶酔できる立場、また、互いに会わなければ耐えられないという兄弟の愛に陶酔できる立場に立ったなら、そのようになるでしょうか? (そのような立場に立って)問題が起こるなら起これと願ってごらんなさい、(問題が)起こるか起こらないか? こういった根本的な貴い価値の基準に接近できないので、言い換えれば、相対的価値を捜しても見つからないからそうなるのです。それゆえ、人の世において一番貴いのは子女です。その次に夫婦です。その次に父母です。
人の世が悲しみだというのを考えてみれば、それは簡単な問題なのです。物的条件と情的条件以外にはありません。捜してみろというのです。物的条件、その次に情緒的条件以外にはありません。「ああ、私は心が傷ついて生きていけない。ああ、私は貧しくて生きていけない」ということを言えば、それは悲しみの条件に引っかかるのです。私たちもそうです。ある目的を見つめて生活するのは全部皆ここに引っかかるのです。物的条件を中心としては、私たちは生命以上の愛を実践できないのです。それは流動的なのです。人を中心として愛することのできる最後の位置は子女の位置、夫婦の位置、父母の位置以上がないのです。
それでは父母の心には、愛する人としてだれが先にいなければなりませんか? だれが先にいなければなりませんか? 母親を中心として見るとき、子どもが先にいなければなりませんか、夫が先にいなければなりませんか? 世の中ではどうなっていますか? 愛する母親がいれば、その母親の心の中に先にいなければならない人はだれでしょうか? 子どもですか、だれですか? 夫ですか? これが問題になるのです。これをなぜ尋ねてみるのかというと、私が尋ねてみてから、それから話そうと思うのです。
子どもですか、夫ですか? 答えてください。(子どもです)。はっきり答えなさい。このおばさんたちは子どもだと考えるかもしれませんね。そういう人は夫にぞんざいにあしらわれ虐待され、さげすまされる人でしょう。だれが先ですか? 子どもを愛するように夫を愛すべきか、夫を愛するように子どもを愛すべきか? 皆さん、これをすべて決定して越えていかなければならないのです。答えてごらんなさい。分からないでしょう? 子どもを愛するように夫を愛すべきでしょうか、夫を愛するように子どもを愛すべきでしょうか? おばさんたち、一度答えてごらんなさい。それでは子どもが死ねばいいですか、夫が死ねばいいですか?(笑い) 答えてごらんなさい。そうなれば夫が死ぬほうがましでしょう? (笑い)
子どもを中心として見るとき、私が子どもになっていればその上には父母がいます。そうなるのです。そうではありませんか? 私を中心にして話せば父子関係であり夫婦関係ですが、上を考えればだれがいますか? 父母がいます、父母が。こうなるのです。それでは夫婦が先でしょうか、父母が先でしょうか? (父母が先です)。子どもは後です。父母以後です。それでは、父母が先ならどのくらい先でしょうか? 情緒的な起源においては最初の出発です。父母が先です。父母がいて、子どもを産んで育てるようになれば、その次に相対が生まれるのです。
それゆえ、子どもを持つ母親は夫と子どものうちでだれを死の場に送るかと問えば、その母親が本当に子どもを愛していれば、夫を死の場にやるならやっても子どもはそうしないと答えるのです。夫たちが聞けば寂しいかもしれませんね。今の世の中だったら「どうして子どもなんだ。死んだらまた産めばいいじゃないか?」と言いますが、それは付加条件であり、原則を正して突き詰め、順序がどうなっているのかと言えば、夫婦というのは一番最後に生まれるのです。そうですか、そうではないですか? 愛の歴史がそうだというのです。愛の歴史が。(一九七一・九・一九、前本部教会)
二 父母の相対的絶対者
人の世において愛は何から生まれたのかという問題について見るとき、「私たち人類の始祖アダムとエバは夫婦ではないか? それなら夫婦から愛が出発したはずだ」、このように言うのです。人の世においてはそう言えますが、人間と人間理想との関係においてはどうなるでしょうか? それは父子の関係以外にはありえないというのです。そうではないですか? 愛を捜して突き詰めていくと父子の関係のほかにはありません。それゆえ、愛はどこからですか? 両親から始まるのです。
神様は私たち人間を創造されました。創造する場合には遊び半分で創造したのではありません。どういうものとして? 理想的絶対者の前に相対的絶対者、これは難しい言葉です。相対的絶対者として愛せる人、愛を中心として父母の前に相対的な絶対者として立てた存在がだれかというと子どもなのです。それは自分(父母)の生命を受けて現れるのです。
次に神様は人間をどれほど愛したのかという問題が出てきます。神様は人間をどれほど愛したでしょうか? 神様は永遠なる生命の主体ですが、神様の生命を投入しても愛さずにはいられない、神様の生命を絶っても愛すると言えば少し語弊がありますが、神様の愛を投入しても愛さずにはいられない…。それでは神様が子どものために死ななければならない場におかれたら、どうしなければなりませんか? 絶対者があっけなく滅びてもいいですか? その場を通り過ぎるでしょうか、その場で耐えていくでしょうか? 答えてごらんなさい。どうすべきでしょうか? 愛の主体である絶対的な神様が絶対的な息子を見つけたのに、その息子のために死ぬような立場になったら「私は嫌いだ、私はこちらに行こう」と言いますか、死の場に身代わりとして行きますか? (死の場に身代わりとして行きます)。それは何を見てですか? 私たち人間を見てです。人間の愛は神様から出てくるのです。神様が私たち人間のために死ぬというのです。そこまでいくというのです。それゆえ、私たちは神様をどれほど愛さなければならないでしょうか? 自分の体以上に愛さなければなりません。(一九七一・九・一九、前本部教会)
育つ子どもたちは神様です。生きた神様です。彼らは生きておられる神様の愛を父親と母親を通して連結しようとするのです。それゆえ、皆さんがその仕事ができないなら、真の愛を連結する力がないのです。
先生もそんなときがあります。お母様に私が師匠の立場で説明をして忠告と勧告をしてあげるのです。そんなときは言葉も違います。しかし、子どもたちが帰ってくれば本然の状態に戻らなければなりません。一点の曇りもなくすっきりと。その子どもたちにご父母様がけんかをするという意識を与えてはいけません。それゆえ、幼い子どもたちはいつもけんかをしますが、分別がつくようになれば、けんかをしないでご父母様の伝統を引き継がなくてはならないことを自分から悟るようになるというのです。(一九八五・七・二〇、ベルベディア修練所)
愛の神様が人間という傑作品をつくったのに、もう一度つくろうと言って放り出し、ほかの所へ行って相対を捜そうとしますか? ここにいる母親たちも知っているように、子どもたちが生まれてほんの何カ月か過ぎればにこにこ笑うでしょう? 三カ月もたてば笑い始めるというのです。そのように子どもが生まれてはじめて笑うとき、女性はご飯を食べるのも忘れてしまい、必ず夫にうれしいと宣伝するのです。そうですか、そうではないですか? 「あなた、赤ちゃんが笑ったわ」と言って喜ぶのです。そんな話は一番近い人にするのです。そうすればその宣伝を聞いた夫も喜ぶでしょうか、泣くでしょうか? (喜びます)。こうなるのです。
神様もアダムとエバが見れば見るほどかわいかったので、どうしたでしょうか? 喜んだでしょうか、喜ばなかったでしょうか? 喜んだでしょう? もし、神様がアダムとエバを憎んだとして、彼らがそのとき木や石のようにじっとしていれば、彼らがかわいく見えるのですか? アダムとエバが気分の悪い表情をするようになっても、それはまた一層の楽しみがあるというのです。子どもを思う情というのはそうです。アダムとエバが泣きながら嫌いだと言っても、(その様子を見守る)神様は喜ぶというのです。気持ちよさそうに踊りを踊って、それでも足りずに、「よいやよいやさ」と声まで上げるのです。なぜそうでしょうか? 口でいえない素晴らしいことなのです。「うんうん」と言ってうなずけば一緒になってこっくりこっくりとうなずき、手に何かを渡せば(神様も一緒に)受け取ったりして、その様子を見ながら神様は狂ったように喜んだというのです。
世の中のある芸術家の彫刻作品が大統領賞を受賞したと言えば、その作品をかけておいて、これが大統領賞をもらった作品だと言いながら人々が集まって騒ぐでしょう? このように石の塊を加工して作品をつくっても騒がしいのに、もし自分の作った作品が言葉を話し、自分の願いまで語るとしたら、こんな作品を前にしてどこに行けるでしょうか? これを前にしては離れられないのです。その作品にどれほど会いたくて、どれほど興味津々でしょうか?
ここにいるおばさんたち、子どもたちを見つめてみればみるほど不思議でしょう? 不思議ですか、不思議ではないですか? 不思議に思わなければ母親の本分を果たせないのです。寝ていた赤ちゃんが目を覚まして、お乳が欲しいと言って、おぎゃあと泣きちらしたら、母親はその鳴き声を聞いて気分が悪いと言ってかけつけますか、子どもに会いたくてかけつけますか? 会いたくてかけつけるでしょう? そして子どもを抱きかかえて胸元を開き生命のホースをつき出すのです。(笑い)そうではないですか? 子どもがそれをおいしそうに吸って飲むのを見るとき、お母さんは気分がいいですか、悪いですか? いいというのです。
私たち人間がそうなのに神様はアダムとエバを見てどうだったでしょうか? 神様は人間たちが子を育てるときにうれしく思う気持よりも、何百倍、何千倍、何万倍、何億万倍、はるかにうれしかったことでしょう。皆さんが想像できないくらい神様はアダムとエバを愛したというのです。皆さん、そのような内容が分かりますか、分かりませんか? 神様が愛するにおいて、どの程度愛したでしょうか? 神様が一度笑えば天地が皆笑うことでしょう。神様が一度踊りを踊れば天地が皆踊ることでしょう。そのように喜ぶはずでしょう? そのように喜んだからといってだれが怒りますか? 父親がそのように喜ぶのに息子が父親を見て泣きますか、一緒に喜ぶでしょう? (喜びます)。そうであるほど喜ぶようになっているので、いくら踊りを踊っても問題にならないというのです。
このように考えるとき、神様は人間を除いては相対する対象がないという結論が出てきます。分かりますか? 人間を抜きにしては楽しい体験をしようにもできないのです。それゆえ絶対者の前において人間は相対的な絶対者だというのです。そうなるのです。
三 子女は希望の中心
アダムとエバ完成ということ、完成時代とは何でしょうか? 愛を中心として一つになるとき完成だというのです。その言葉を皆さんは理解できますね。アダムとエバ、二人が一つになれば、愛し合える段階に入ればこれは(板書されたものを指して語られる)全部通じるというのです。ここに行って愛してもいいし、ここに行って愛してもいいし、この二人の間にきてもいいのです。
さあ、それでは神様が一番好きで、アダムが一番好きで、エバが一番好きになれるその点は一体どこでしょうか? この創造世界において、創造理想世界において全体的愛を中心として結実体、実のように一度に幸福になれるのは何でしょうか? 神様とアダムとエバが幸福になれて一つになるのがどこかと言えば子女だというのです。
さて、神様の最高の目的はどこにありますか? (子女です)。アダムとエバでしょう? (違います)。何ですか? (子女です)。それはなぜ息子・娘かというのです。
皆さん、なぜ息子・娘を愛するのでしょうか? なぜ息子・娘を愛するようになるかという問題にどう答えますか? お母さんとお父さん二人でけんかをしながらも、息子の前ではとても仲がいいのです。互いに憎らしいところがあったとしても、息子を前にしては愛し合うのです。なぜですか? 夫婦がけんかしながらも息子をなぜ愛するのかというのです。たまにけんかをすれば息子・娘を皆憎くなるはずなのに、なぜ愛するのでしょうか? お母さんとお父さんや神様の願いの中心があるからです。希望峰、希望峰だということを知らなければなりません。何の希望でしょうか? 地上天国、天上天国はここから始まるのです。それゆえ、神様と父母と子どもが幸福な場だというのです、全部が。
だから父母は自分たちのことを忘れて子どもを愛さずにはいられないのです。夫婦二人で暮らしながら、いくら楽しく愛し合っているといっても、子どものない夫婦が幸福な夫婦ですか、子どものいる夫婦が幸福ですか? 子どものない夫婦は未完成品です。未完成夫婦なのです。そうですか、そうではないですか?(一九七七・四・一七、アメリカ)
四 宇宙において最も大きな賞
子どもに対しても同じです。今まで皆さんが子どものために生命を懸けて闘ったことがないからよく分からないかもしれませんが、皆さんの息子・娘は、神様が数千年の歴史を消耗しながら、数多くの先知先烈たちを犠牲にして捜し出された一つの家庭を通して、希望の光のように生まれさせた貴い息子・娘なのです。四位基台の完成という聖なる目標の帰一点を各家庭の息子・娘が持ってくるということを考えるとき、その息子・娘に対しても日がたてばたつほど心より感謝しなければならないというのです。父母がそのような心を持つようになれば、その息子・娘たちは絶対飢えて死ぬことがないのです。(一九七〇・八・一一、トンミョンジャン旅館)
愛する夫と一生の間ともに寝て起きて、働きに働くことができる、これはどれほど幸福なことですか? そのような愛を持って生きれば、一人で生きることになっても困難なことがありません。このような愛は宇宙が侵害しません。ここにおいては宇宙が共同補助する立場にあるために、地上世界でも天上世界でもいつも保護するようになっているのです。それゆえ、この愛を中心としていく人は不幸な人ではないという結論が出るのです、現世でも後世でも。
では、宇宙の中でこのような愛で二人が一つになって生きている人々に賞をあげなくてはなりませんが、その賞として与えたものが何でしょうか? 子女です。分かりますか? 賞の中で、この宇宙において一番大きな賞は何ですか? 大統領になることではありません。学士・博士になることや、何かノーベル賞のようなものをもらうことではありません。愛する妻と夫の間で得られる息子・娘です。それ以上大きな賞はないということを知らなければなりません。したがって、その息子・娘は何よりも貴いのです。自分よりももっと愛したいし、夫よりももっと愛したいのです。そんな力を持っているのです。(一九八三・一〇・一、世界宣教本部)
五 子どもは愛と生命と理想の結実体
何のために愛するのですか? (子女のためにです)。皆さんに一つだけ尋ねてみましょう。神様とアダムとエバと幼い子どもがいるのですが、神様はなぜアダムとエバよりも子女を願ったのでしょうか? そんな話を聞けば「あ、それはおかしい。相対がもっといいだろう。先生はなぜ子女と言うのか?」このようにおかしく思って尋ねる人がいると思ったのですが、訪ねてくる人がいませんね。
さて、この形態も見てみると、これ(父母と子女)は縦的でこれ(夫婦)は横的ですが、これ(子女)がより重要だと言ったのはなぜですか? (板書しながら語られる) もう、分かりました、もう。これ(夫婦)二人が愛を通して結ばれるのですが、何のために結ばれるというのですか? (幼い子女のためにです)。ここで男性と女性が近寄れば、ここから待望の息子・娘が生まれる、またこのときは神様の所願成就になる、こうなるのです。それゆえ、神様もこれ(子女)が目的であり、アダムとエバもこれ(子女)が目的であり、皆これ(子女)が目的なのです。(一九八二・六・二〇、ベルベディア修練所)
それでは私たちのお母さんとお父さんの例を挙げて一度話してみましょう。皆さんがお母さんお父さんを通して生まれるためには、お母さんとお父さんの愛が芽ばえなくてはなりません。互いに相対的関係が成立しなければならないのです。そしてその愛の環境で、生命の一致点で生命が連結されなければならないのです。夫と妻が互いに嫌いだというのではなく、互いが理想的でなければなりません。
こうして夫婦が愛を結び一つになってはじめて、夫婦の愛が成されるのです。夫の愛は私の愛であり、夫の生命は私の生命であり、夫の理想は私の理想になるのです。反対に妻の愛、生命、理想も同じです。そのように一つになった場で生まれるのが、そこで発生するのが、そのような統一的な場で生まれるのが子女だというのです。
それゆえ、その子女は母親と父親の愛の実現体であり、投入体です。母親と父親の生命の延長体です。また、母親と父親の理想の具現体です。皆さんの中で子女を生んで愛したことのある人たちは分かるでしょう。その愛する息子を見て「これは私の愛の実体であり、生命の延長体であり、理想の具現体だ。第二の私だ」と言うのです。
出発から愛と生命と理想的基盤から生まれるので、父母はその子女を見れば見るほど愛らしく、見れば見るほど生命が躍動し、見れば見るほど理想的な相対に思えるのです。( ? )
では、私たちはなぜ神様の愛を必要とするのでしょうか? 神様と私とは神様を中心とした父子関係、すなわち父親と息子の関係にあります。私たちは神様の息子の位置に進まなければなりません。父子の心情が必要です。父子関係の位置は宇宙において最高の秘密の位置です。最高の秘密の位置です。父母の愛が連結されうる最初の出発の基地が子女です。父母の生命が初めて連結されるのが子女です。すなわち、父母の理想が最初の出発の実を結んで出てきたものが子女なのです。
したがって、子女は愛と生命と理想の結実体であり、父母と直結される第二の対象体だというのです。父子関係のほかには夫婦でもだめだし、兄弟でもだめだし、いかなる友人でもだめなのです。宇宙にはこれ一つしかありません。このように見ると、縦的に一番の骨髄、一番の核心的内容をズバリ暴いて引っぱり出したのが神様と私たち、父子関係だということです。これは驚くべきことです。それがもし実践される日には、宇宙には問題がありません。宇宙には問題がないのです。それを知れというのです。(一九七三・一一・一二、中央修練院)
六 子女は父母の喜びの対象
本来私たちの人間始祖は神様を中心として、神様の心情と愛を中心として、神様と完全に一つとならなければなりませんでした。また神様は心情の目的を完結させるために天地を創造されたので、この心情の対象である天地万物を、愛する息子・娘に愛を中心として相続してあげなければなりません。神様が天地万物を創造されたのは神様のためにではなくアダムとエバのためであったので、喜びもまた神様自身によって生じるのではなく、アダムとエバによって生じるのです。皆さん、世の中の父母たちも子どもを見て喜ぶではありませんか? 喜びというのは対象によって生じるのです。(一九六五・一〇・一七、前本部教会)
神様が一番喜ぶ時というのはいつでしょうか? 考えてみなさい。今日この世界を復帰して、復帰完成する時が一番うれしいことでしょう。ここにいる未婚の人たち、結婚して子どもを生んだことのない人たちには分からないですが、父母になった人にはそれがはっきりと分かるのです。たいてい、父母たちは最初の子どもを持つと、すべての精誠を尽くして愛するようになるのです。子どもを抱いている喜びというのは、父母になるまでは分からないというのです。それではその父母たちは子どもを自慢したいですか、したくないですか?
さあ、このように見るとき、この宇宙の中で一番貴いものは何でしょうか? 言い換えれば、アダムとエバや神様にとって何が一番貴いものでしょうか? (子女たちです)。うーん、そうだというのです。アダムとエバ夫婦にとって一番貴いものは何かと言えば、お金でもなく、他の何ものでもないのです。息子・娘です。愛する息子・娘だというのです。(一九七七・四・一七、アメリカ)
今日、堕落した人間世界の母親と父親たちを見ると、「子どもを愛する親は何とかだ」という話もありますが、見た目には、瓦の屋根につるをはわせたかぼちゃのような子どもを背負って座り、よしよしとあやしながら、「こんな顔立ちだから、かえって親しみがあるんだ」と自慢をするというのです。しかし少しも不自然ではありません。ここにいる子どもを持った父母たちもよく分かるはずです。顔はそれこそ鷲と格闘して引っ掻かれたような面構えをした父母であり、息子は父母よりもっとひどい顔をしているにもかかわらず、父母は子を抱きかかえて「おおよしよし、私の愛しい子」と言うのです。
皆さん、世の中で言えば、貴いものの中でも一番貴いものは何ですか? 世の中で見れば、神様はいるのかいないのか分からないので除いておくとして、世の中で一番貴いものは何ですか? 一番貴いものが何なのか捜してみなさい。(子女です)。子女。その次は? 自分の新郎、自分の新婦でしょう。相対ではないですか? その次は何ですか? 父母。それ以上貴いものはないのです。それを貴く思えない人は、世の中の万事がすべて煩わしいのです。(一九七一・九・一九、前本部教会)
七 子女は父母の愛の同参者
人間にとって一番貴いものは愛ですが、果たしてその愛が変わっていいものでしょうか? 変わることはできないのです。永遠であり、絶対的であり、不変でなければなりません。そのような観点で見るとき、どうして父母は子女を愛さずにはいられないのでしょうか? それは愛さずにはいられないのです。自分の生命が共同体として生命を公認できる位置まで行かなければなりません。なぜでしょうか? 考えてみなさい。私たちの息子・娘は父母の愛の同参者だということを知らなければなりません。何の話か分かりますか? 息子・娘はどこから出発するでしょうか? 父母の愛から出発するのです。それゆえに、この存在世界で息子・娘たちは父母の愛が一つになる、そこに同参して存在し始めるのです。分かりますか、何の話か?
「私」の出発はどこか、「私」はどこから生まれたのかと言うとき、「私」は父母の愛が最高に美しく花咲くところから生まれたというのです。花が咲くときには美しく咲き、美しく咲くだけでなく香りが漂い、その香りは父母も喜び神様も喜び万宇宙も喜ぶ理想的な花として咲くことのできる、そんな中で私が生まれたというのです。
それゆえ、宇宙を総合した男性・女性として生まれたその父母が愛の花を咲かせるそういう場で、父母の喜びの場で一つの種として蒔かれたのがだれでしたか? 子女なのです。いくら年老いたおじいさんでも、その父母の、宇宙を代表した父母の愛の花が咲く香りの中に蒔かれた生命力だというのです。それは偉大ですか、偉大ではないですか? (偉大です)。そのような生命の花の中で一つの宇宙の結実として、愛の結実として蒔かれるその場面は、宇宙全体が厳粛に見守っているところではないか、このような論理が成立するのです。
それはどういうことかと言うと、神様の愛があればその愛に同参できる場から出発したのが人生だというのです。また、父母の愛があれば父母の愛、夫婦の愛があれば夫婦の愛の最高の同参者の権威を持って生まれたというのです。それゆえ、共通した内容の因縁を持った、不変と統一的な内容の属性を持った愛を中心として出発した人間として蒔かれたのです。それゆえに、父母と子女の因縁は切っても切れないというのです。切れますか? 「私」の愛と「私」の生命の主体性を持った存在が子女ですから、これを切れば「私」を否定し「私」の生命を否定する位置に立つことになるので、愛の結実を否定できないというのです。それだから父母は子女のために生命を捨てることができるという論理を見いだすことができるのです。それが理解できますか? (はい)。(一九七六・二・八、前本部教会)
皆さんには子女が生まれます。それはどういうことでしょうか? 私たち人間は神様の息子・娘です。息子・娘は父母の愛によって生まれたのです。それが愛です。そうですね? したがって、皆さんに生命の価値があるというのはなぜでしょうか? 父母の愛に同参した立場にあるからです。だから価値があるというのです。価値がそこにあるのです。同参者、愛の同参者です。分かりますか? 皆さんの生命というものは父母の同参者だというのです。それを皆さんの力で切れますか? (切れません)。それゆえ、父母の愛圏内の生命を持った誇らしい存在が息子・娘だということを知らなければならないのです。(一九七九・九・二三、ベルベディア修練所)
子どもというのはどういうものかと言うと、この宇宙公約の接着剤である愛に同参できる権限があるというのです。「お父さんとお母さんの愛を私はすべて知っています」というのです。お父さんの愛の根源に私がいて、お母さんの愛の根源に私がいるので、私の行く道にお母さんとお父さんを引っ張ってくる権限があるのです。そうでしょう? それが息子・娘です。皆さん、そうですか? それゆえ、娘がどうにかなればお母さんとお父さんは「どこへ行ったのか?」と心配し、息子がどこかに行っても「どこへ行ったのやら?」と気をもむのです。なぜでしょうか? このような天理原則の接着剤があるので、その権限はなくならないのです。大きくなる一方です。これを断ち切る者はいないのです。(一九七六・二・八、前本部教会)
第二節 子女が必要な理由
一 神様に似るために
人間が本来堕落せずに備えるべきであった価値の内容が何かを、私たちははっきりと知らなければなりません。本来神様は私たちの心に入ってきて心の中心となり、私たち人間は(神様の)体のようになって、互いに内と外の関係のような立場に立ったというのです。そのように人間が神様のような立場に立ったとしても、また気づいてみれば、神様は天地を創造されたので創造の能力を持っているのです。人間はそれも欲しがるのです。
人間がそのような神様の創造の力を持つためには神様のかたちに似なければなりません。聖書の創世記一章二十七節を見ると「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された…」このようになっています。帰納的に突き詰めていけば、神様は一男一女によってなっているというのです。神様は根本たる存在なので、結果的な存在は根本的なその母体に似て生まれなければならないのです。それですべての種は二つのかけらが一つの皮で覆われているのです。豆の類はこのようになっています。神様の形状に似たのです。豆を蒔けば双葉が出てきて新しい段階に入るのです。
そのようにお一人の中にある二つの性稟が一つになって創造の能力を発したために、私たち人間も男性と女性に分けられたものが完全に一つとなり、縦的に一つとなりうる力が臨むことによって、愛を中心として神様が最高の傑作品である人間を創造したように、そのような傑作品を創造できる立場に立たなければならないのです。これが子女創造であることを皆さんは知らなければなりません。そんな創造の能力を私たち人間に付与すると同時に、神様が天地を創造されて喜ばれた心を感じられるようにするために与えたのが子女の愛なのです。
それゆえ、愛は父母がいなければならないし、相対がいなければならないし、子女がいなければならないのです。したがって、そのような愛を完全に受けた人であってこそ愛の主体である神様の前に立てるのです。これが原則であり天理法度であるので、この原則と天理法度に合格しようと思えばこれを皆備えなければなりません。そうしなければこの宇宙がその人を歓迎しないし、この存在世界から追放されるので、彼には苦痛が訪れ、悲しみが訪れるというのです。これが人間が願う最高のものである神様の愛として、幸福の本郷であり幸福の基点だということを皆さんは知らなければならないというのです。(一九七二・三・九、在米クレアモント・ホテル)
皆さんが朝食を済ませた後、気分がよくて「おい、だれだれちゃん」と子どもを呼ぶときは、世界を代表した子どもとして呼び、子どもを抱えて愛するときは世界を代表した子どもを訪ねる心を持って愛さなければなりません。そういう考え方をするのです。
今も先生はそうです。どこかに行って帰ってきたら、できる限りぐるりと回りながら子どもたちにキスをしてあげます。それが私の生活の習慣になりました。また、私の子どもたちは父親にあいさつをするときも父親とキスをします。どこかに行くときも、父親に話してから行き、良いことがあれば父親のところに来て…。そういう思想を育てなければならないのです。そうすれば神様が喜んでご覧になるのです。
神様のために、世界のために育ててあげなければなりません。自分の息子もその道を行かなければならないのです。子どもを産むのは私のためですか? 神様のためです。子どもを育てるのは? 世界のためです。(一九七一・八・二八、清平修練所)
夫婦になぜ子どもが必要かというのです。神様の愛は三段階ですが、子どもがいなければ三段階になりません。だから中央線の均衡をとってあげるためには、子どもの基準が下に下りて接しなければなりません。そうしてはじめて全体が回ります。これが原則です。原則。分かりますか? そんな中で、息子の前にあって父親は神様の代身です。神様の内的形状、男性格形状を代表した実体が父親なので、父親は息子の神様となるのです。母親は娘の神様とならなければなりません。(一九八八・二・一八、漢南洞公館)
二 縦的愛を体験するために
レバレンド・ムーンという人は宇宙の愛をだれよりも…。そうしながら、そこで生まれ、そこで泳ぎ、そこで生きて生涯を終わろうとする人です。文先生はそのような立場にいるので、ある人をぎゅっとつかめば、その人の肩にのしかかれば、さっと抱きしめて愛の本部に行くことができるというのです。橋を架けて早く行けるので、結局は私を利用するために統一教会員たちが騒ぐのです。当たっていますね。
お父さんとお母さんが好きなのは、なぜ好きなのでしょうか? お父さんとお母さんを利用してより高い次元の愛を捜すためなのです。それはいいことです。お母さんお父さんは自分の息子・娘に対して、父母を愛せと言います。父母を愛せと言うのは何かと言えば、子どもが父母を橋にして世界の愛を捜していくためです。これを知らなかったのです。
男性という動物にはなぜ女性が必要ですか? 女性という動物にはなぜ男性が必要ですか? 愛し合うためにです。愛し合うというのは人類との横的橋を架けようというのです。橋を架けようというのです。兄弟が愛し合うというのは、前後に橋を架けようというのです。その次に父母がなぜ必要で、子どもがなぜ必要でしょうか? 縦的な橋を架けようというのです。そうではないですか? 縦的関係、上下関係、前後関係、左右関係…。
私たちが因縁を結ぶには何を持って因縁を結ぶのでしょうか? 愛を持って因縁を結ぶのです。人間自体が宇宙との関係を結ぶためには固定されたこの一つの場では不可能なので、拡大をしなければなりません。拡大した因縁によって…。ですから、皆さんは世界的な人になりたいのです。ああ私は高い人になりたい、そう思うのです。いくら素晴らしい人でも、下の方にいる悪い息子・娘を持ちたいのではなく、世界で一番優れた息子・娘を持ちたいと思うのです。そうではないですか? (一九八五・一二・二二、本部教会)
彼のために生きるというとき、彼のために生きるのではありません。太初からある神様の本然の理想的な中心としてあった真なる愛の麹の塊を中心として生きるのです。そのような愛を中心として生きるのです。神様の代わりに生きてあげるのです。それはどんなにすてきでしょう。神様と暮らしたいけれども神様が見えないから、神様の代わりに妻と一緒に暮らしてあげるのです。また、夫と一緒に暮らしてあげるのです。夫と妻だけではいけません。男性と女性の愛だけでもだめです。これは横的愛にしかなりません。父母の愛が必要なのです、父母の愛。父母になってみなければなりません。父母になってみなければ縦的愛が分かりません。
横的愛を知った後に、息子・娘をなぜ必要とするのでしょうか? 縦的愛を体験するためにです。息子・娘を産めなかった人々は縦的愛が分かりません。そういう人は理想的人間像においては落第生に該当するので、結婚した夫婦に子どもがなければ不幸だというのです。分かりますか? 何の話か分かりますか? (はい)。
なぜ不幸でしょうか? 父母の位置に、上の位置に上がるようになれば、下と授け受けることのできる愛がなければなりません。それでこそ上下が連結されるのです。それゆえ、夫を愛するように妻を愛するように、ために生きる愛の世界ではそれ以上に愛しても不平がないのです。夫が妻を愛する以上に息子・娘を愛したとしても、ために生きる世界の版図圏内では、その妻曰く「あの老人ときたら、ひたすら息子・娘だけ愛して、私を昼夜いたわることを知らない。なぜああなのかしら」このように不平を言えません。不平を言わないのです。それがもっとうれしくて、ずっとうれしくて「私よりももっと愛するのね、そうよ、そのほうがうれしいわ、ずっといいわ」こう言うのです。(一九八八・二・二一、本部教会)
三 関係の四方性とその拡大のために
父母と子女間の愛は父母から来るのですが、父母の愛とはお父さんとお母さんの愛を意味するのです。私たちは生まれるときから父母の愛を受けます。そして父母が生存している限り少年時代、青年時代、壮年時代、時代を問わず愛を受けます。このように父母の愛を受けて成長すれば、横的な夫婦の愛が各自に起こるようになっています。夫婦の愛が継続するためには子女を産んでその子女を愛さなければなりません。
このように見るとき、人類始祖は神様の愛を受けながら育ち夫婦になるのですが、愛を中心としてはすべてが二数で構成されています。このような観点から見れば、父母の愛を受ける人も受けさせる人も皆兄弟です。
父母は自分の子女がいなければ愛が何なのかを知ることができません。対象がいればこそ真なる愛を感じられるのです。兄弟同士では父母の愛がどのようなものかを知らずに育ちますが、成長して結婚し子女を持つようになれば、父母の愛が分かるようになるのです。言い換えれば、父母から始まって一周回って父母に帰ってみてはじめて分かるのです。ですから子女を産んでみてはじめて成熟した人だと言えるのです。
完全で完成された人の基準をどこで定めるべきかということが問題です。父母自身が成熟した立場にいると見ることができますが、その父母が横的に縦的に成熟できなければ、完成した人だと見ることはできません。アダムとエバが神様の愛を受けて成熟し、神様を中心として横的に一つとなれば、すなわち異性関係において互いに相対的な立場で一つになりうる所に至れば、神様が完成を中心として目的とされた愛が実現されるのです。
アダムとエバが神様を中心として一つになれば、一つの型が備わるのです。しかし平面的な型を成すためには必ず子女を産まなければなりません。これは横的関係となるのです。しかし縦的関係にはなりえないということを知らなければなりません。
夫婦の愛は一つであり、父母の愛は縦的に二つ以上です。それではどんなものが重要かということが問題になりますが、夫婦の愛は相対的な関係を持ちましたが、一つなので縦的なものが中心にならなければなりません。
縦的関係は父母と子女関係の愛を延長するのです。父母、夫婦、子女が縦的関係の原則になるのです。それが完全に合わされば一つの家庭となるのです。夫婦の愛を広げれば、それは父母の愛に連結されます。夫婦の関係を経て父母になれば子女たちも父母の愛と大きさが同じでなければならないし、長さも同じでなければなりません。それでは子女の間の愛はどうでなければならないでしょうか? 何を基準にして愛さなければならないでしょうか? お父さんとお母さんが愛したように兄弟たちも愛し合わなければなりません。(一九七三・四・一八、ベルベディア修練所)
今日、私たち人間はより大きな人、皆さんよりもっと良い人…。女の子たちに「お嬢さんはこれから成長して何になるの?」と尋ねると、「美しい娘になり、気立てが良くてかわいくて価値のある娘になり、より素晴らしい夫を配偶者として迎えることを望む」と答えることでしょう。そのように考えるのです。また男性たち、若い青年たちに「君は何を望むのか」と聞けば「より貴くより価値があり、より美しい男性になって、より素晴らしい女性を配偶者として迎えることを望む」と言うことでしょう。これは避けられない私たちの共通した欲求である、このように見るのです。
このように考えるとき、二人が完全に一つになりうる真なる夫婦となるなら、その夫婦は真なる夫婦であり価値ある夫婦だ、このように言えます。そうすればその価値ある夫婦は、自分たちだけで停止するのでなく、環境的な立場でより良い環境を拡大するための子女を要求するというのです。そうではないですか?
皆さんがよく映画などでも見るでしょうが、愛する妻が子どもを宿したというとき、その夫は自分も知らないうちに喜ぶというのです。なぜ喜ぶのでしょうか? それは自体の拡大を意味するのであり、自体をある大きな範囲と連結しうる一つの基台の拡大を意味するのです。そういうものが必要なのでそのような要求をするのです。息子・娘を産むことによって四方に連結されていくのです。夫婦なら夫婦同士、集中的に二人が愛し合っていたこの圏が拡散的愛圏内にだんだん拡大されていきます。
では、家庭を持てば家庭だけで満足でしょうか? 家庭だけではだめです。より拡大することを望むのです。ここには必ず氏族が必要であり、民族が必要であり、国家が必要であり、世界が必要であり、さらには霊界があるなら霊界までも必要なのです。その次には霊界を越えて神様がおられるなら神様までも必要とするのです。このように拡大されるのです。
拡大されるそのすべてのことが、自体の減少を意味するのではなく自体の拡大を意味するのであり、自体の不完全を意味するのではなく完全を意味するのです。だからそれが非常に高い位置に上がればあがるほど、「私」は平面的価値からより次元の高い立体的価値をもつようになるのです。立体的価値は静止的価値ではなく循環的価値です。これが運動をするときには目的のない運動ではなく内容のある、無目的の運動ではなく目的のある運動をします。どんな方向性を取ってもそれは目的と一致するしかありません。すべてのことは、そのように考えるのです。(一九八〇・一一・九、本部教会)
私たちと神様が、願いと事情において一致し、心情が通じるようになったとき、神様は何をしようとされるでしょうか? 万物を相続させてあげようというのです。そのような実体となって万物を従え、そのような立場で息子・娘を産み、その息子・娘にすべてのものを相続させてあげることを願われていたのです。このような人になってこそ前後、左右、上下を捜し立てる人になるのです。
人はだれでも、父母がなく、夫婦になれず、子女がいなければ悲しいのです。これを中心として天下を抱かなければなりません。「天の父は私の父だ。だから父が創造された天宙は私のものだ」と言えなければなりません。「歴史的な願いの心情も私のものであり、現実的な事情も私のものであり、成そうとされる未来の世界も私のものだ」と言えなければなりません。(一九六三・二・五、前本部教会)
四 宇宙の原則がそうなので
皆さんは男性でも女性でも子どもを必要としますか? (はい)。どうしてですか? 歴史的伝統を残すためにです。そのように行くのが原則なので原則に従って結婚をするのだということを知らなければなりません。
愛もですね、愛も二人が出会って結婚した後は、どんどん小さくなっていくようになっています。それを知らなければなりません。一度大きくなった後で小さくなるのが原則です。小さくなるようになっているのです。
それでは均衡はどうなるでしょうか? この反対の形状を作ろうとするから子女たちは反対に大きくなるのです。夫は嫌いだけれど息子・娘は好きなのです。そうでしょう? お母さんとお父さんが愛でもって子女を産み、子女を中心とするとき「ああ、お母さんだけが好き!」と言いますか? 「お父さんが好き!」と言うのです。お母さんよりも「お父さん! お父さん!」と言うのです。なぜ夫が必要で息子が必要かと言うと、調和するためです。調和してこそ父母を中心に回っていくことができるのです。そのようにして父母が待つところに帰ろうというのです。それゆえ、子どもたちが絶対必要である、このような結論が出てきます。
夫が嫌いで妻が嫌いだけれど、子どもたちは好きなので子どもたちを見て…。子どもたちが好きなお母さんとお父さんを捨てることはできません。「亭主は嫌いだけれど、このかわいい子どもはあの人の子どもだ。だから、あの人がいなければだめだ」こう考えるとき、子供を愛する女性は夫が必要であることが分かるのです。
そして男性の愛がこのようにクライマックスになり、その次には下りていくのです。下りていくようになっています。ここに来ては子どもたちの愛を通して上がっていくのです。だから子どもを産むのです。分かりますか? それゆえ、これはプラスでこれはマイナスです。これがなければここでプラスの愛に向かって「おい、行こう!」と言えないのです。また、ここ、これがなければマイナスを見て「おい、下りていこう!」という力がないというのです。
ここではお母さんも好きですが、お父さんがもっと…。「お父さんが好きだから、ああ! 次はまた下りていってお母さんを好きになろう!」と言うのです。それゆえ、子どもたちはお母さんとお父さんの手をつかんでいてこそ幸せなのです。なぜそれが幸せなのですか? 宇宙の原則がそうなっているからです。(一九八三・一〇・九、ベルベディア修練所)
五 霊界合格のために
五色人種が真の父母を捜し立ててはじめて未来に希望があるのです。それゆえ、結婚もその基準を合わせるためにするのです。これを知らなければなりません。これからは結婚と家庭を誇らなければなりません。結婚と家庭を誇らなければならないのです。それ以上に私たちが願うものがありません。だれもがここに加担しなければなりません。これが千個なら千個、一万個なら一万個、自分の氏族になり民族になり国家となるのです。この原則によって大きくなれば、氏族から民族、国家、世界が形成されるのです。
一番目は何でしたか? 神様を誇らなければならないし、二番目は心を誇り、その次には体を誇り、その次には愛を誇り、その次には家庭を誇らなければなりません。世界にはこれ以上に誇るものがありません。これは世界を与えたとしても取り換えることができないのです。そのようなものを私たちが持ったということを知らなければなりません。
家庭が必要であることを知らなければなりません。家庭において縦横が連結されるのです。家庭で連結されるのです。それゆえ、息子・娘がいなければだめです。父母がいなければだめなのです。相対がいなければなりません。これが原則です。父母が必要であり、子どもが必要であり、夫婦が必要なのです。分かりますか? (はい)。
ですから、私たちはすべて成さなければなりません。これさえ持っていけば霊界に行こうがどこに行こうが皆パスです。どこに行ってもパスするのです。(一九八七・三・二二、ベルベディア修練所)
この道を行こうと思えば男性と女性だけではいけません。息子・娘がいなければなりません。なぜでしょうか? 息子・娘がいなければ天の国に入って、東西南北の門が全部開きません。子女まで連結されることによってはじめて…。アダムとエバを創造された神様のように、皆さん夫婦になって息子・娘を産むことによって実体を創造するのです。(一九八八・八・二八、漢南洞公館)
自分の夫と子どもたちと、自分のお父さんとお母さん、すなわちおじいさんは天国を案内する三天使だということを知らなければなりません。おじいさん、妻、息子・娘なので三天使でしょう。対になっているので三天使の代表者であることを知らなければなりません。だからお母さんとお父さんはおじいさんから学び、息子・娘から学ぶのです。分かりますか? 夫は妻から学び、妻は夫から学ぶのです。これは事実です。これが家庭の伝統です。
息子・娘を産むのは、息子・娘のために生きるのは世界を愛することを学ぶためです。息子・娘は世界と連結され、未来と連結されます。息子・娘がいなければ未来と連結ができないのです。未来の世界と連結できる教育の材料として息子・娘を与えられたということを知らなければなりません。その次には先祖たち、おばあさんとおじいさんは霊界についての教育のためです。おじいさんとおばあさんに孝行をすれば…。霊界にそのシステムができているのです。霊界についての教育を受けるためです。これを知らなければなりません。(一九八五・一〇・四、ベルベディア修練所)
六 子女が多いのは恵みである
聖書を読むと、愛を中心とした話がたくさんあります。(その中に)父母が子どもを深く愛すれば愛するほど、父母と子どもが不幸になるような例があったでしょうか? そうではありません。このような法度があるので、愛のために苦労すればその愛を占領するようになります。それゆえ、神様のために苦労するのは神様の愛を飲むことなのです。(一九七〇・八・二三、中央修練院)
皆さんは感謝する生活をしなければなりません。どのように感謝するのでしょうか? 子どもが多い人を見れば、その人は苦労が多いと思うでしょうが、ある面では、子どものいない人が感じることのできない、そのような幸福を感じるということを知らなければなりません。子どもを育ててみた人はそれが分かるでしょう。子どもを育てたことのある人と子どもを育てたことのない人について見るとき、子どもを育てたことのある人は、自分の子どもがいくら駄々をこねたとしても生きがいを感じますが、子どもがいない人はそういうことを感じられないのです。
子どもたちによって生きがいを感じるのです。その置かれている環境が複雑だからといって不幸なのではありません。そこには明日の希望が接ぎ木されているのです。人が持つことのできない息子・娘が多ければ多いほど、各分野で四方性を備えて新しい希望を持てるので、自分の困難な環境も克服できるという事実を知らなければなりません。(一九七〇・一〇・二五、前本部教会)
愛することは貴いことなので、これが個人から家庭に展開し、氏族に展開し、民族に展開し、世界に展開しながら広がっていきます。何代もかけて、だんだんこれが広くなるのです。そしてこれがどこまで行くでしょうか? 世界まで…。何の話か分かりますか? ですから、息子・娘をたくさん持つことは不幸ではありません。息子・娘をたくさん持ってこそ、その氏族が世界を制覇するというのです。(一九八七・三・二二、ベルベディア修練所)
子女が多いことは恵みだというのです。子女が多いことがなぜ恵みであり、子女を抱える人はなぜ恵みが多いのでしょうか? この心情圏を中心として大きくなるので、それだけ天の国の同位圏基準に近い、高い位置に上がるのです。このくらいの系列ができてくるのです。全部皆公式的です。(一九八七・一二・五、漢南洞公館)
子供が多いほうがいいでしょうか、少ないほうがいいでしょうか? (多いほうがいいです)。なぜ、どうしてですか? どうしてたくさんの子どもを望むのですか? なぜかと言えば、四方にすべての性格を合わせることができ、コントロールできる訓練が可能だからです。また、たくさんいるほうがこの宇宙全体の理想的な型に近くなれるし、近い型に合わせることができるからです。だから子どもが多いことを望むというのです。(一九八三・一〇・九、ベルベディア修練所)
神様に「あなたの願いは何ですか?」と聞いてみれば、「この世界人類を救済することが私の願いだ」と答えられるでしょう。「その救済をして何をするのですか? 万民を食い物にして税金を吸い上げる王様稼業でもするのですか?」と言えば、「そうではない。無限な愛を中心として千年万年感謝する生活をさせるために人類を救済しようというのだ。それが私の願いだ」と言われることでしょう。
息子・娘たちが多ければ多いほど、その父母において愛の心情が広くなります。東西南北三六〇度すべての方向性において、その素性が豊かになるのです。したがって、息子・娘をたくさん産んで育てた人は、善良になりたくなくても善良にならざるをえないという結論が出るのです。
お母様は本当に子どもが多いですから、その子どもたち全員を育てていると、困難なことや数多くの曲折にぶつかります。ですから隣近所に何か問題が起これば、それを他人のことだとは考えません。自分の子どものことを思い出し、近所のことまで手伝ってあげる、このようになるのです。心情的なこのような版図をたくさん感じて生きる人は、それだけ善になるというのです。
皆さんは息子・娘が多いほうがいいですか、少ないほうがいいですか? 一つ聞いてみましょう。息子・娘が多いほうがいいですか、少ないほうがいいですか? (多いほうがいいです)。それでは、どんどん産みましょう。さあ、サタン世界の堕落の後孫も多いほうがいいと言うのに、堕落しないで神様の愛を丸ごと受けられる息子・娘をたくさん産んだらいいですか、悪いですか? (いいです)。どれほどいいですか? 東に行っても踊り西に行っても踊り、座っても踊り、寝ながらもごろごろ転げながら踊るのです。そうではないですか?(一九七六・二・一、前本部教会)
七 統一教会員は産児制限をしてはならない
1 完全な天国は子女から始まる
さあ、神様を中心として見るとき、アダムとエバは縦的な中心に連結されます。このように見ると、ここでまたこれが縦的に連結されるためには必ずアダムとエバがこうならなければならず、その次にはここでとまってはならないのです。ここでこれが連結されなければなりません。ところが息子・娘がいなければこれが連結されないのです。分かりますか? こう見るとき、これはすべて四位基台…。さて、息子がいなければ縦的な基準ができません。これがなくなるのです。縦的な基準が連結されず、横的な基準が連結されません。これがありえないのです。
このように見るとき、この点はアダムの願いにもなり、エバの願いにもなり、神様の願いにもなります。では、エバはどうですか? アダムとエバはそのような位置に立てなかったというのです。縦的な人は神様の愛を受け横的に展開します。横的に展開させるのです。これが父母です。これは神様の愛、これは父母の愛。縦的な父母の愛が神様の愛であり、横的な父母の愛が今日の肉身の父母の愛です。(板書したものを指して語られる)
さて、神様から、アダムとエバから愛が伝授されなければなりません。神様、アダムとエバ、子女と伝授されなければならないのです。三段階を経てここも同じです。父母の愛、次に夫婦の愛、子女の愛、同じなのです。
このように見るとき、天国はどこでしょうか? 天国はどこから始まるかというのです。もちろんアダムとエバから始まりますが、それより完全な天国はアダムとエバの息子・娘から始まるのです。このときには平面的な天国と縦的な天国が二つとも完成します。このように見るのです。
さあ、そのように見るとき、皆さんが今地上に、堕落していない世界で生まれたとするなら、息子として、ある父母の息子として間違いなく生まれるというのです。だから息子の代に行ってはじめて縦横の天国が成されるため、私の代にはじめて、私が実体を持った父母を中心として神様と一つになる私の時代においてはじめて天国が始まるのです。(一九七七・四・一七、アメリカ)
2 男女愛の目的は子女
個人としての願いは何でしょうか? 個人の願いについて考えるとき、そこには男性の願いと女性の願いがあるはずです。その男性と女性が願うのは何でしょうか? 男性なら男性として、女性なら女性として成長し、成熟し、結婚ということを願ってきたのが、男性と女性の願ってきた歴史的な道ではないでしょうか? それが人生で行くことのできる希望の道として、多くの人々がその道に従ったのです。
それでは、二人の男女が出会って愛し合おうとする目的はどこにあるでしょうか? 愛の目的はどこで終わるでしょうか? 夫婦なら夫婦を中心として彼らが愛する目的はどこにあるでしょうか? 自己の前にだけその結果が及んでくることを願って愛するのでしょうか? 愛を自分たちだけのものとして、残そうとして愛するのでしょうか? それはそのようには考えません。愛するときには必ずその結果が全体に因縁を持ちうる、そういう何かを願うのです。それが子女ではないでしょうか? 夫婦自体でいることだけを願うのではなく、必ず愛が結実した何かが残ることを願うのですが、それが子女ではないでしょうか?
子女をなぜ残そうとするのでしょうか? 自分に一番近い相手を中心とし、それだけで満足しないでなぜ子女を残そうとするのでしょうか?
子女を残すにおいて子女が少ないほどいいか、多いほどいいかという問題について見るときに、人の欲心は自分が善なる立場に立ったとか、自分が高貴な立場に立ったとか、自分が価値ある存在だと考えれば考えるほど、その価値的存在を中心としてその後孫をたくさん残したがるものです。それが人間の本性です。
今の時代は産児制限だの何だのとこのような言葉を語る時です。言い換えれば、人倫道徳の根本たる家庭を中心とした血縁が多くなり、その血縁が相対的環境において広く増えていくことを本性では願っているにもかかわらず、これを妨げるのが産児制限だと見ることができます。
それでは、産児制限をするこの時において、子女を制限することは子女を願わなくてそうするのでしょうか? 子女を願わない人はいないのです。子女を願うことにおいては人と同じでなければなりません。息子がいれば娘もいなければなりません。息子・娘を産んだらその産んだことで満足するのではなく、より優れた息子・娘を願うのです。すなわち、他のすべての息子・娘の中心に立つことのできる息子・娘を願うのではないか? それはどのような父母、悪い父母でも子女に対してそう願うのが本心ではないか? それが愛ではないか? このような問題について見るとき、すべての人々に従っていく息子・娘を残したいのではなく、すべての人あるいはあらゆる息子・娘の中で一等になるのを願うのが父母の心ではないかというのです。(一九七二・一一・一、前本部教会)
3 子女は神様がくださる贈り物
私たちの家庭で生まれた子どもたちを見ると、だんだんだんだん頭が良くなるし、天才たちなのです。神様がくれる贈り物があるなら、ふろしきを大きくして贈り物をたくさんもらいましょうか。少しだけもらいましょうか? 贈り物、少しだけもらいますか、たくさんもらいますか? (たくさんもらいます)。
その贈り物が何ですか? (息子・娘です)。お母様はざっと二十人は産むだろう、四十人は産むだろう、こう思うのです。(笑い)神様がそうなのです。百人でも二百人でもあげたいけれどもそうもいかないし、子どもを産む数は何人という限界があるので、やむをえず最後には(優れた性稟を)全部総合して四十人の息子・娘に匹敵するだけの息子・娘を誕生させることでしょう。
もし、神様が与えようとした子どもを急に産むのをやめてしまったら、切ってしまったらどうなりますか? 今世界を治め天地をすべて牛耳ることのできる子どもを送ろうとしたのに、産児制限でプッツリ切ってしまったら…。さあ、だから神様が「レバレンド・ムーン、ミセス・ムーン、こちらに来なさい」と呼んで「私はこれこれこういう祝福をしてあげようと思う」そういうものなのです。そういうことは西洋人たちには理解できないでしょう。(笑い)そのように考える人と、「その程度のものが何だ、あってもいいし、なくてもいい」と考える人のうち、どちらの人を通して神様が愛の基台を広げ、与えるだろうかというのです。(一九八一・一・二五、ベルベディア修練所)
わが統一教会の子どもたちを見ると、願って産んだ子どもであればあるほど、初めての子より二番目が優秀で、三番目が優秀で…。だんだんより優れた子どもが生まれます。間違いありません。心情的により優れた息子・娘が生まれるのです。これからどのような息子・娘を産むと思いますか? 将来世界を統治することができ、世界と神様をテレビジョンを通して見る研究ができるそんな息子を産ませようと神様が準備しておいたのに…。死んで霊界に行ったとき、地上の人間や霊界の人間がレバレンド・ムーンが立派にやったと言いますか、十分にできなかったと言いますか? そんなことを考えると産児制限できますか、できませんか? (できません)。
ですから、サタン世界は産児制限をしても私たちは産児制限をしてはなりません。自分が美人でいい生活のできる立場にいたとしても、神様の愛を受けられる夫がいたら、神様のみ旨に従って心情の谷間について行き、苦労のぼろふろしきを背負い、冷遇されても自分の体を通して天と地を愛し世界を統治できる息子を産めるなら「私はそれに同意します。行きます」と言って志願できなければなりません。(一九七八・三・二六、ベルベディア修練所)
4 産児制限をしてはならない
私たち統一教会の女性たちには産児制限をさせません。「どんどん産みなさい、産みなさい」と言っています。アメリカでは豚にまで麦を食べさせ、とうもろこしの粉を食べさせていますが、それは「たくさん産め」ということです。「どんどん産め!」こう言いましたから、私はアメリカに来て模範を見せなくてはならないので、お母様に「子どもをどんどん産みなさい」と言いました。どうですか?(一九八三・一・二、アメリカ)
崔金順、朴鐘九、来ましたか? 朴鐘九! 来ていませんね。崔金順は息子が何人ですか? (七人です)。娘は? (一人です)。あなたのところは子どもを産まないことにしたそうですね? (もう一人産むつもりです)。なぜあと一人しか産みませんか? なぜ産児制限をするのかというのです。統一教会員たちは産児制限してはいけません。ヤコブの十二人の息子の中でヨセフは十一人目なのです。もしヤコブが産児制限をしていたら、ヨセフは総理大臣になりましたか? (笑い)時が、月日がたてばたつほど、よりよい子女を産むのです。これから時がたてばたつほど統一教会の運勢、統一教会の運に乗った、統一教会の道運に乗った子女が生まれるのです。本当です。あとで霊界に行って「お前の家庭を通して天下を動かせる男、勇士を送ろうとしたのに、お前が首を切った」と言われたら、その時になってどうするつもりですか?
産んでおいたら、皆さんがご飯を食べさせなくても自分で食べて生きるのです。一日に十人産んでも大丈夫です。産みなさい! (笑い)皆さん、三七が二十一(3×7=21)、二十一人まで産めます。毎年産めばですよ。(どうやって皆食べていくのですか?)。食べさせ生かすことなど、神様がしてくださるのです。そんな心配はやめなさい、私が食べさせてあげますから。それだけ、食べさせるだけのお金は私が持っています。そうです。
産児制限をしてはいけません。サタン世界はますます産児制限をして、私たちはますますどんどん産んで…。(笑い)お母様もそうです。ざっと十二人は産まなければと、今それを中心に走っているのです。たくさん産んだでしょう? 今八人の兄弟姉妹を生みましたから、もう十二人に近づきました。娘はやめて息子だけ産むことになれば、十五人でも十六人でも生むかもしれません。そんな課題を与えたところ、お母様がとても心配しているのです。子どもを産む前から(次の子を)妊娠できればいいのにと、こんな話をします。お母様はそうしているのに、皆さんの家庭は何の権利があって産児制限をするのかというのです。
息子七人の兄弟を与えられたら、とてもありがたくて感謝するでしょう。その息子たちが大きくなると、皆活発でしょう? 活発でしょう? 食べるものがなければ、お母さんにせがんで絞り取ってでも生きようとします。それでこそ良いのです。最近、私が報告を聞いたところでは、狭い部屋に…。そんな報告も聞いています。「何と、朴鐘九の家に行ってみると、部屋一つに…。二部屋でしたか、一部屋でしたか? (三部屋です)。三部屋だったら部屋数が多いですね。小さい部屋三つですか? 何ですか、部屋が狭くごみごみして、何だのかんだのと…。そんなふうに暮らす時が一番おもしろいのです。(一九七五・六・二二、前本部教会)
第三節 宇宙の根本―父子関係
一 宇宙の根本は父子の関係
天地の中心と宇宙の根本は何ですか? 先生が神秘的な境地に入って神様に祈祷してみたところ、父親と息子・娘の関係、すなわち父子の関係だとおっしゃいました。知らない人々は肉親の父親、母親、息子・娘との関係だと思うでしょうが、神様と人間との関係を言うのです。(一九六八・一・一、前本部教会)
それで先生が祈祷する中で深い境地に入って身もだえしながら闘い、宇宙の秘密、宇宙の神秘のすべての根本を知りました。宇宙の根本は何ですか? 簡単です。父子の関係であるという答えが出てきたのです。それでは、父子の関係とは何かというのです。それは愛を抜きにしては説明できません。何を? 父子の関係において愛を抜きにして説明してはいけないのです。愛を抜きにしては説明できないというのです。普通の人は世の中の父子関係のように思うでしょうが、先生はそのように考えずにそれを解明してみたところ、この答えがすべて出てきたのです。理論的に。(一九八六・四・二五、水原教会)
皆さんが神秘的な境地に入って祈るとき、人間は被造世界の中心ですが、この宇宙の中心は何かと尋ねれば父子の関係だという答えが得られます。宇宙の中心は何か? 一言でずばりと結論付けて、父子の関係だというのです。
これを普通の人は自分を産んでくれた母親と父親のことだと思っています。父子の関係というものを普通考えるときの自分の母親と父親、すなわち人倫道徳を中心とした父子の因縁をいうものと思っているのです。そうではありません。それを立体的な立場で見ると、神様と人間が父子関係の情を中心として一つになっている、その位置が宇宙の中心だという結論が出てくるのです。(一九七一・九・一九、前本部教会)
宇宙の根本は何ですか? 父母と子どもです。父母と私、父子の関係が宇宙の根本です。神様は父親であり、「私」は息子だというのです。息子・娘です。最後の根本が父子の関係であり、最高の目標もそれです。したがって、私たちはそれを捜し出していかなければなりません。
先生はこれを捜し出そうと、苦難の道もいとわずに歩んできました。サタンの試練に遭っても一瞬に退けることができるのは父子の関係です。サタン世界に入って眠ったとしても忘れてはいけないことは父子の関係です。そういうものを失ってしまったために、無念で悔しいのだという事実を皆さんは知らなければなりません。(一九六三・五・二二、前本部教会)
皆さんは霊界を知りませんが、神秘なる境地に入って天の前に談判をしなければなりません。「この宇宙の真理は何ですか? 神様が、人類をつくってはまた滅ぼすというみ旨で人類をつくったのなら、あなたは暴悪な神様であり残忍な神様です」こう言うときに答えが違ってくるのです。
宇宙の真理は、天理の大道の原則は何かと言うと、父子の関係なのです。その父子の関係は、今日堕落した世界で自分を産んでくれた母親と父親との関係ではありません。横的な夫婦の愛が神様の理想的愛として完全に花咲き、その愛の香りが全天地を振動させると同時に、神様の愛が加わって父と息子・娘の位置が完成されるのです。
息子・娘の幸福を謳い、息子・娘の希望と息子・娘の万事を讃揚することができ、愛を謳うことができるのです。それだけで終わるのではなく、皆さんが持っているその愛の貴い贈り物の上に立体的愛を加えて、この宇宙がプワーンと膨らむようになることでしょう。ゴム風船を知っていますね? ぺちゃんこにくっついているゴム風船を「プー」と吹けば大きくなるように、宇宙が膨らんで存在世界の万物がその中に入ったとしても万民が笑える宇宙になります。すべてを充満させうる愛の力として登場するのです。考えてみれば気分がいいでしょう?(一九七八・一〇・二八、大邱教会)
二 本然の父子関係の基準
この世の中で推測してみるとき、もし神様が父母の位置にあったなら…。人情と天情が連結されうる最高の位置はどのような位置でしょうか? いくら私たちが求めて上がっていってみても、神様は父母なので人間は子女の位置を追求せざるをえません。ですから、キリスト教では天に対して父と言うのです。天は、私たち人間に対して子女と言うのです。父子の関係を言うのです。
その父子関係の基準はどのようなものでしょうか? 堕落線より下なのか堕落線上なのかというとき、これは堕落線上にもなりえないし堕落線の下にもなりえません。それは堕落線以上の位置なのです。
今日、堕落した人間たちについて見てもそうではないでしょうか? これは堕落以下の父子関係の愛ですが、その父子関係の愛を考えてもすごいと私たちが言うほどですから、堕落していない位置にいる父母が親不孝な子どもを迎えたなら、その父母はどれほど胸が詰まるでしょうか? 私たちが日常生活の周辺で父子間の愛という問題を考えてみるとき、その背後を十分に測定できるのです。
神様はそんな堕落線以上の愛をもって子どもを愛そうとするのではないでしょうか? それでは、その愛はどれほど強かったでしょうか? 堕落線以上の位置に立った人がいないので、それが分かる人はいないという結論が出ます。
私たち人間は原理で言えば長成期完成級で堕落しました。完成の位置を引き継ぐことのできない位置で堕落したのではないでしょうか? 神様の理想的な要素にふれることのできる位置と絶縁されているのではないでしょうか? 理想のすべての要件を私たちが自由に受け入れられる位置で堕落しなかったことを考えてみるとき、その理想に立つことのできる神様との関係というものはどれほど次元が高いでしょうか? それは私たちが想像することのできない位置ではないでしょうか?
それでは、世の中でよく口にする孝子孝女、「だれそれの家の息子は孝子だ! だれそれの家の娘は孝女だ!」と言う、そのような孝子孝女の心を持って本然の天の父母の前に、その心情の前に立てる、真の子女の位置に立てる人がいたかと言うとき、歴史以来そういう人はいなかったということを私たちは知っているのです。
それでは、神様が百を愛そうとするのに百の愛を受けられる人がいたでしょうか? いなかったというのです。神様が愛しているその愛を知る人はいたかと言うとき、知る人もいませんでした。それを知る人はいませんでしたが愛さずにいられない神様だというのですから、その方は悲惨なお方ではないかということを私たちは知らなければなりません。(一九七二・九・一〇、前本部教会)
三 父子関係の本質
父子関係は縦的な面を代表します。それゆえ、父子関係の愛は変わりません。私たち人間の歴史上でもそうではありませんか? 夫婦の愛は横的な面の因縁なので四方性を備えたのです。だから父母が子どもを捨てられないし、子どもが父母を捨てられないというのです。(一九八六・五・二五、本部教会)
神様の愛の発掘地はどこでしょうか? 兄弟の間で愛し合うところに神様の愛が出てくるでしょうか? 違います。男女が愛し合うその愛を中心として神様の愛が立てられるのでもありません。その神様の愛は父子関係の愛によって立てられます。血と肉が連結されなければならないのです。伝統として残し、永遠に残すためには血と肉が連結されなければなりません。縦的関係が成立しなければならないのです。
その縦的関係は父母の愛を受けなければならないものなので、父子の関係以外にはないと見るのです。この愛には距離がありません。この縦的関係においては一つの中心が必要です。中心は一つしかありません。中心は第一の位置にあるのです。中心が二つあったら世の中には争いが起こります。(一九七〇・一・一一、前本部教会)
子女にとって父母に対する喜びは、それこそ世界を代表した喜びとならなければならず、父母にとって子どもに対する喜びは、世界を代表した欲望を充足させることのできる喜びとならなければなりません。
このようなことを考えてみるとき、父子の関係はまさしく宇宙の根本であらざるをえないのです。喜びの根本がそこから芽生えるでしょうし、悲しみが始まるならばそれ以上の悲しい立場はないということを、私たちはここで結論づけることができるのです。
世界のほかの外的な問題をすべて失ったとしても、子女に対しながら、幸せに生きることのできる希望の位置というのは、父母の前においてはたった一つしかないのではないか。それだけが第一ではないか。その父子関係が世界に現れうる位置で生きたいのが父母の欲望に違いないのではないか。父母がそうならば子女もそうなのではないか。
こういう人間関係、堕落した私たち人間を通してでもそのような関係を私たちが予想するからには、天と地、あるいは神様と私たち人間との関係も同じではないか。
人倫がある反面、天倫があるということを知っています。人情がある反面、天情がなくてはならないはずです。天は上で地は下だと言うなら、父母は上と同じであり子女は下と同じなので、上下の関係にあるのです。それでは、この地に住む人が子女で天が父母だと言うなら、父母の心と子女の心は方向が相対的になっているのです。父母は愛そうとして子女は愛を受けようとするのです。そうでなければ、父母が愛を受けられる位置に立つか、子女が愛することのできる位置に立つかしなくてはなりません。ここで、与えようとする心と受けようとする心が切れたら愛は成立しないのです。
もし与えようとする気持ちがあるのにこれを妨げる道が生じるときには、受けようとしても受けられないことを私たちの心情生活において、家庭においてよく体恤します。それゆえ、天は上にあり地は下にあります。父母は上にあり子女は下にあると言うなら、神様と人間の関係においてもやはり同じです。神様は父母の立場なので、私たち人間を前にしては上になるのです。それゆえ、神様は人間を愛するようになっているのです。(一九七二・九・一〇、前本部教会)
神様と人間の関係を中心として見るとき、神様が人間の父で人間が神様の息子であるなら、人間に対して「神様より顔立ちがいい」と言えば神様は気分がいいでしょうか、悪いでしょうか? (笑い)気分が悪いようなら神様は人間ほどにも満たないというのです。堕落した人間にさえ及びません。(笑い)間違いなく神様も喜ばずにはいられませんね? だから愛というものが必要だというのです。
皆さんは、神様より優秀になりたいですか、劣っていたいですか? 答えてみなさい。(優秀になりたいです)。(笑い)それではあまりにも失礼になるでしょう。申し訳ないと思いながらも、優秀になりたい気持ちがあるのです。
昔、東洋では毎日朝に晩にお父さんにご機嫌伺いをしていました。ところで息子が「私が一度お父さんになってみて、お父さんが私のようになってみたらいい」と考えたらどうなりますか? 「お父さんはいつも上にいて私はいつも下にいろというのですか?」そう考えることもできるのです。そうではないですか? 上下の関係がいいことはいいけれど、いつもそうなら嫌だというのです。自分もお父さんになれる時があるなら構いませんが。いつもお父さんは上の位置、息子は下の位置では気分が悪いというのです。そんな気がしませんか? そういうこともありうるというのです。
父子関係は格位において上下関係です。したがって息子が父親に「お父さん、位置を私に一度ください。お父さんの位置に一度行ってみたいです」と言うとき、「なんだこいつ、だめだ」と言ってはいけないというのです。神様は絶対者としてそこまで心配しなければならないのです。
ですから、人間をどのような位置に立てておくべきかということが、神様の側からみた場合、問題にならざるをえません。そこで人間をどんな位置に立てようとしたかと言うと、格位においては上下の関係ですが、生きることにおいては前後の関係であり内外の関係として立てておこうとされたのです。このような問題を突き詰めていってはじめて、神様がどこにおられるべきかという問題の回答が出てくるのです。
それでは、内外の関係になるためには神様はどこにおられるべきでしょうか? 神様は無形の神ですが人間とどのような位置にいるべきでしょうか? いつも上にいてはいけないということでしょう? 上にだけいてはいけないがゆえに父子の関係としていなければならないというのです。(一九七一・二・一一、麻浦教会)
父子関係を中心として見ると、父親は上にいて息子は下にいます。すなわち上下関係です。息子が「私は父親の位置に一度上がりたいです」と言うとき、神様が「こらお前、やめろ」と言ったらそれは問題になるのです。ですから神様はそれを踏まえて上下関係のみならず同等な内外関係、心と体のような関係にまで私たちを置こうとするのです。
最初は息子にして、次には一つになって、三番目には神様の創造の能力まで与えたいと思うのです。それで人間は神様が創造しながら喜ばれたものまでも持ちたいと思うのです。ここにいる皆さん、年を取った人やあるいは若い人たちも皆経験があるでしょうが、父母が良いものを持っていれば全部自分が持ちたいと思います。自分のものにしたいのです。こうしてみるとお父さんのものは自分のものだと言えるのです。(一九七二・二・二八、在米アンバサダー・ホテル)
四 父子関係の変化
父母と子どもとの間には厳然と上と下の秩序があるのですが、愛を中心として見るときには縦的秩序が横的秩序に変わるとしても無理がないのです。そうではないですか?
お父さんが息子に命令するのが原則ですが、息子が「お父さん、こっちに来てください」と言う場合、お父さんは行かないわけにはいきません。いくら二歳の娘でも「パパ、こっちに来て」と言えば、お父さんは行かずにはいられないのです。縦的な基準が横的に変化する。食い違う位置だとしても矛盾と衝突が起こるのではなく、かえって価値的な基準を讃揚することができ、かえって幸福を感じられるこの基準は、愛によってのみ成されるのです。(一九七一・一〇・三、前本部教会)
お母さんとお父さんは子どもがすっかり大人になる時までは、子どもを育てることだけに力を注ぎます。子どもは大きくなればなるほど、父母と相対的立場に立つようになります。そうですね? それが正常です。子どもが大きくなっても「ああ、私はお母さんとお父さんの懐でお乳を飲むのが一番だ」と言ってお乳だけ飲みますか? 仕事をしなければなりません。上下関係が相対的関係に移り変わっていくのです。(一九七一・二・二八、前本部教会)
父母が貴いのは子どものために与えるからです。そうして(立場が)入れ代わるのです。年取った父母は全部幼子になるのです。昔は父母が子どもの先生になりましたが、年が七十、八十になったら子どもになるのです。そのときは子どもがお父さんと入れ代わります。子どもが。子どもは父母が自分を育ててくれた代わりに、その父母を愛さなければならないというのです。それが天地の道理です。(一九八五・一二・二四、本部教会)
家庭における父母と子どもの関係も同じです。父母が間違った場合は、子どもが管理しなければならないし、子どもが間違った場合は、父母が管理して共同目的を完成しなければなりません。このような条件があるというのです。(一九八二・五・九、ベルベディア修練所)
幼い時にはお母さんとお父さんが息子・娘を支配しますが、年を取ってくると息子・娘が母親と父親を支配します。そうですか、そうではないですか? (そうです)。それはなぜですか? 天地の道理がそうなのです。(一九八三・一・二、アメリカ)
五 父子間の心情の因縁
皆さんは父母によって生まれました。ですから生まれてすぐ話せる対象はだれでしょうか? 父母です、父母。そうではないですか? 「私」が生まれて一番初めに言うことができたのは何でしょうか? パパとママです。それ以上に何がありますか? 「私」が呼ぶお父さんとお母さんは昔人間が本然の立場で呼んでいたお父さんとお母さんです。おもしろいことです。皆さん、お父さんとお母さんを千回万回呼んでみてください。お父さんとお母さんの味がどんなものかを知ってみてください。その味は無窮無尽なことでしょう。お父さんとお母さんを呼ぶのに、そのお父さんとお母さんが答えないでしょうか? 呼べば答えるようになっています。なぜなら主体と対象がそのようになっているからです。
完全な対象があれば完全な主体が現れるようになっています。これが原則なら、お父さんとお母さんと呼べば必ず答えるようになっているのです。そうなれば互いに喜ぶのです。何度繰り返して呼んでも答えがないのに喜びますか? 神様を訪ねていくにおいても同じです。幼い子どもがお父さんとお母さんと過ごすのと同じ立場で神様とともに生きなければなりません。(一九七〇・二・二六、統一産業寄宿舎講堂)
皆さんが家庭について考えるとき、家が良くその周りの環境が良いからといって良いわけではありません。反対にいくら環境が悪く家がみすぼらしかったとしても、それを安息所として、そこに自分の事情と生涯と生活のすべての基準を因縁づけようとする家庭は良い家庭です。そこには父母と子どもの間で、互いに尽くしてあげる心情があります。これが思い出の本郷でありすべての生活の動機となるために、私たちの生活で幸福を左右する基礎になるのです。
それはなぜでしょうか? 父母と子どもの間の、他のだれも侵すことのできないたった一つの愛の因縁と、父母と子どもの間のたった一回しかない血統的な愛の因縁があるからです。そこでは父母と兄弟の愛が動機になっているため、私たちの生活において慕わしさの対象として連結されるのです。(一九七〇・二・一五、前本部教会)
父母と子どもの間の心情の因縁というものは歴史が変遷していくからといって、あるいは歳月が過ぎて年限が長くなるからといって薄くなるものではありません。歴史が長くなればなるほど、時がたてばたつほど薄くなるのでなく、情が厚くなるのです。結集されるのです。
万一、父母と子どもが離れているときに、息子のいる所から父母に便りが来るとか、あるいは父母が息子に便りをするなら、その便りは今までのすべての願いを充足できる刺激として登場するのです。その便りが第二の出発の要因として現れうるのです。(一九七一・一一・一、南山聖地)
六 父子一身の宿命的関係
この世の中にいくら父母がたくさんいるといっても、「私」の父母は絶対的に歴史時代において私と関係している一人の人だというのです。これは紛れもない事実です。それは世界人類を与えても替えることができません。替えられますか? その次に神様を与えて替えられますか? 神様を与えても替えられないし、また神様が替えろとも言えないのです。(一九七四・一一・一〇、ベルベディア修練所)
父子の関係というのは、何を根拠としていうのですか? これは血統が連結されたものです。血統が。今日、既成教会の人々は漠然と「父なる神よ!」と言います。なぜ父というのかというのです。主人なる神と言わないでです。父というその言葉の中には愛が介在し、血統が介在しているというのです。血統が。そうではないですか? 直系の子女になるためには愛で一つの体にならなければなりません。血統で連結されなければなりません。血は生命を構成するのです。そうではないですか? 父母の伝統を受け継いだ生命をもつのです。何によって? 愛によってです。(一九八六・三・一三、大田教会)
父子の関係はいかなるものによっても壊すことができません。原子爆弾でも壊せません。絶対に壊せない、別れられない、捨てられない関係です。(一九六八・九・九、前本部教会)
夫婦関係は運命だと考えますが、しかし父子関係は運命ではありません。宿命です。宿命。この言葉を理解しなければなりませんが、これは…。運命が何であり宿命が何であるとただいい加減に説明したら大変なことになります。運命は変わります。変えることができます。宿命は変わりません。その父親の息子・娘として生まれたなら、何か問題があったとしても、あらゆる手を使っても変わりえません。それはただただそういうものなのです。変わりえません。
それでは、どれがより縦的でどれがより横的ですか? 父子関係が縦的で夫婦関係は変わることがあるので横的です。したがって、夫婦第一主義を主張する輩は横的な輩であり、父子第一主義を主張する者たちは縦的な輩です。(一九八七・一〇・二五、本部教会)
「天の愛は出発と同時に顕現するのではなく、男性・女性の愛と同様に成熟した時、思春期に入って顕現する、それが夫婦の愛だ」と言うとき、その夫婦の愛というものは(人生の)中間から始まるのです。それでは創造すると同時に出発しえた愛の絶対的価値的基準の相対型は何でしょうか? 別な言葉を借りて言えば、父親と息子の関係、父子関係です。
それでは父子関係とはどんなものでしょうか? 愛を中心として何の関係でしょうか? 父子関係というのは何でしょうか? 父母の愛が原因ならばその子どもは愛の実だ、結実だ。こう見るのです。結実です。その結実と原因はかけ離れたところから出発したのではありません。結実と原因は一つのところから出発したのです。父母の愛が原因ですが、その愛の中から私が結実として現れたというのはどういうことでしょうか? 父母が現在愛し合う場の結果として登場したのが「私」なのです。ですから、愛と一体化した原因と結果の位置を対等に持って生まれたのが、父子の関係において子どもだというのです。こうなるのです。
したがって、「私」とは何者でしょうか? 父母の本然的愛が出発する根源に同参した者であり、父母の愛の結実として登場した者なのです。これは原因と結果が一つのところから出発したため、切っても切れないのです。原因的な父母の愛と結果的な私の生命の愛の根源は一つだというのです。そういう意味で考えるとき、愛を中心として父子一身という言葉が成り立つのです。
愛を抜きにしては一身という言葉、一体という言葉がありえません。愛が原因です。「私」は腹中にいる時から父母の愛を受けます。「私」が愛の本質によって腹中に懐妊されたその時から、父母の愛とすべての関心が集中するようになっています。なぜでしょうか? 愛の結実だからです。ですから愛によって生まれ、愛で生命の因縁を相続し、愛を受けながら大きくなり、相対を迎えられる時になったら結婚するのです。(一九八三・五・一、リトル・エンジェルス芸術会館)
父子一身という言葉はありますか、ありませんか? ありませんか? 父子一身という言葉、ないですか?(あります)。父子一身。その次には? 何、女性から言えば喜ぶから…。夫婦だから逆にしても婦夫(=プブ)だし、正しく言っても夫婦(=プブ)ですね。(笑い)夫婦一身。その次には兄弟も一身です。兄弟も。私たちはそれを知らなければなりません。このごろはたいてい夫婦一身しか知らないでしょう? 堕落した世界ではそれが第一の目的なので、このごろは夫婦一身しか知らないのです。今日、夫婦一身になる前に父子一身が出てきませんでした。そういう言葉は本格的には出てこなかったのです。夫婦一身、父子一身です。その次は何ですか? (兄弟一身)。兄弟一身です。ですから兄弟が死の場にいるなら私が死にます。そういうことがありますか、ありませんか? ありますか、ありませんか? (あります)。自分の腕を切って弟が生きられるなら切るのです。
私たちの教会に通っている人がそうでした。自分の息子がですね。目の病気です。盲人です。有名な眼科医を尋ねていきました。「先生、私の頼みを一つ聞いてください」「何ですか?」「私の目は二つです。私の目はとても良いですが、この目をひとつ取ろうと思うのですがどうでしょうか?」「なぜ取るのですか?」「与えたい人がいるからです」「だれにやろうというのですか?」「うちの息子の目と私の目を取り換えてください」そう言ったというのです。そのように間違いなくお父さんは息子により良いものを与えようとするのです。それが父子一身です。
考えてご覧なさい。皆さん、冷たい部屋で横になって寝たらおなかが痛いでしょう? おなかが先に冷えてくるでしょう? (はい)。では、布団でどこを先にかぶせてあげますか? どこに掛けてあげますか? (まずおなかに掛けてあげます)。まずおなかに掛けてあげるのです、また、足の先が冷えてきたらおなかに掛けていた小さな毛布なり布団を足のほうに掛けてあげる、それが一身です。自分の一つの肢体の中に、少しの不備な基準があれば自分の一つの部分を犠牲にしてそれを保護してやり、それを本来の状態に立てておくために行動するのが一身です。( ? )
七 父子関係が持つ特別な内容
ここに立っている人は神秘的な境地に入って、宇宙の根本は何かと探ったことがありました。神様からの答えは「父子の関係だ。父親と息子だ」でした。結論はそれです。普通の人なら「ああ! うちのお母さんとお父さんと私…」と考えるはずです。言い換えれば、自分を産んでくれたお父さんとお母さんと考えやすいのです。しかし神様と人間との関係を言うのです。
父子の関係が持つ特別な内容とは何でしょうか? 父と息子が出会うことのできる最高の場所はどこでしょうか? 愛が交差するその中心、生命が交差するその中心、理想が交差するその中心で出会うのです。そのように見れば、愛と生命と理想が一つのところにあるというのです。その場所に行けば神様も愛であり私も愛であり、神様も生命であり私も生命であり、神様も理想であり私も理想になるというのです。それを決定づけることのできる最初の因縁と最初の統一の場所は、父子関係がなされるところ以外にはありえなかったというのです。これは間違いのない事実です。(一九七三・一〇・二〇、在米リスナー講堂)
皆さんがお母さんとお父さんから生まれる時は、まずお母さんとお父さんが愛の因縁を結んで主体と対象の関係を互いに誓約しなければなりません。その次には生命が一致しなければなりません。そして思想が一致しなければならないのです。理想が合わなければならないのです。愛の一致点、生命の一致点、理想の一致点はどこで成されますか? 宇宙の世界において、ある被造物と創造主がいるのですが、創造主と被造物が関係を結ぶことのできる、絆を決定できる場所はどこでしょうか? その場所が最高の理想的な基準だとするなら、その理想的基準はどこになるでしょうか? これを見るとき、父子関係のほかにはないというのです。それを見れば東洋思想は驚嘆に値します。驚くべきものなのです。
私が一番貴く思っているのは愛です。その次に何かと言えば生命です。生命。皆さんもそうではないですか? 何が一番いいかと言えば、愛が一番いいのです。その次には何かと言えば生命です。その次には何かと言えば理想です。(一九七三・一一・一二、中央修練院)
み旨の目的は理想を取り戻すことです。理想は何を通して成されるでしょうか? 一日に三食ご飯を食べておなかが一杯になることで理想が成されたとは言えません。それではみ旨が志向する目的は何でしょうか? ご飯を食べておなかがふくれることではありません。また、いくら酒が好きな人でも酒が目的にはなりえません。それではそれよりもっと問題になるのは何でしょうか? 愛です。その愛は一時的な愛ではなく、安売りで買ってくることのできる二束三文の愛ではありません。本質的な愛です。
この本質的な愛を分析してみると、愛には革命がないということを知ることができます。父母が子どもを愛するのは真の愛に該当します。それゆえ人間始祖の時から、当時の人が子どもを愛する心や数千年後の後孫である私たちが子どもを愛する心は全く同じです。また数千年後に私たちの後孫たちが子どもを愛する心も同じはずです。愛には発展もなく終息もありません。革命の要件が必要ない純粋なものが愛です。
それでは神様の愛はどのようなものでしょうか? 神様がある存在を絶対的な基準の位置に立ててその存在性を確認し彼を愛されるなら、その愛はそれ以上革命を必要としない愛です。(一九六七・五・一四、前本部教会)
第四節 父母の愛
一 父母の愛の心
子どもを産んで育ててみた父母たちは分かるはずです。愛情込めて大切に育てた息子・娘を通して福を受けたいし幸福も感じたいことでしょう。また、喜び福を受けることのできる基準があるなら、その息子・娘に永遠に残してあげたいことでしょう。そんな希望の心を持って、その息子・娘が無事に育って万国から尊敬を受け、万世に称賛を受けうる息子・娘になることを、堕落した人間も願っています。夜でも昼でもその息子・娘が傷つくことを案じて保護し、切ない心情で居ても立ってもいられないのが父母の心です。堕落した父母の心もそうだというのです。
懐の中でお乳を飲ませて育てる母親の切実な心、子どもがうんこをしておしっこをしてにおいがしても、愛でその環境を忘れてしまえるのが父母の心です。堕落した父母が子どもを思う心でさえそうなのに、まして愛の主体であられる神様が、本然の心情を通してアダムとエバを愛したかったその心はどれほど切実だったでしょうか? 皆さん一度考えてみてください。
皆さんが赤ん坊を抱いて育てているときに、寝床でも歌を歌ってあげ、独り言で話もしてあげながらその子の将来を祈るその心は、父母ならだれでも持っていることでしょう。子どもに欠陥があれば父母の心は涙でずぶ濡れになるほど最高の苦痛を味わうのであり、これが解ければその苦痛に比例しただけ喜びが伴うのです。堕落した父母の心でさえそうなのに、まして神様の心はどうでしょうか?(一九六八・六・九、前本部教会)
父母は息子が罪を犯して監獄に行けば「こいつ、ざまを見ろ」というのではなく、その子どもを許し涙を流して愛そうとするのです。それが父母の愛です。だから父母の愛が貴いというのです。分かりますか? もしその息子が死刑囚となり死ぬ時間を迎えたら、息子が処刑される時間を父母が知っていれば痛哭することでしょう。この世の中のあらゆる法をすべて変えさせてでも、息子を救うことのできるたった一つの道があるなら、どんな冒険でも生命を捨ててしようとするはずです。そんな変わらない愛を持っているので、父母の愛は貴いというのです。
父母の心に死刑場に引かれていく息子を許す心がありますか、ありませんか? そのお母さんの愛が真のものなら、神様の愛はそれに劣るものですか、それ以上のものですか? 神様の愛がより大きいことを私たちはおのずと認定するのです。それゆえ神様の愛が父母の愛を凌駕するというのは当然な結論だということを知らなければなりません。(一九七七・二・六、ベルベディア修練所)
皆さんの中で子どもを亡くしたことのある父母がいたならば、その痛みがどれほどかということは説明しなくてもよく分かるはずです。堕落した世界の鈍感な私たちの心がそうであるからには、本質的な世界の本然のそれ自体、純粋な神様の心の中の傷はどれほど大きかったことでしょうか?(一九八三・五・一、リトル・エンジェルス芸術会館)
自分の体を打って自分の体を失っていきながら、自分を犠牲にしていきながら子どものためには死までも辞さないのが父母の心情です。(一九七一・一一・八、中央修練院)
父母は愛する子どもに対して尽くしながらも、自ら恥ずかしさを感じるのです。「私がよその子ども並みにしてやれず、父母の責任を果たせなかったことをどうか許してくれ」と言うのです。(一九七三・一一・一二、中央修練院)
子どもを愛する父母は子どもを愛してあげるとき「私はお前にいついつにゴム靴を買ってあげ、服を買ってあげ、お前のために血と汗を流したのだが、その価値は何千何百何十銭だ」と帳簿につけますか? 父母が子どもを愛する場合には、この世の王宮の王子・皇女以上にしてあげたいのだけれど、それ以上にしてあげたい心を感じながら、「私が精誠を尽くしてもこれしかなくてすまない」と言うのです。「それ以上にもっと良いものをやるからね」という心を父母は持っているというのです。分かりますか? だから父母の愛が好きなのです。皆さん、それを知らなければなりません。与えても足らなさを感じ、愛しても不足なところがないかと思い、もっと愛したい心、与えてから物足らなくて満たされない心、こういうものがあるので、これは永遠な愛と通じる本質に属することができるというのです。分かりますか? それが愛の出発の伝統的動機です。(一九七二・八・六、前本部教会)
二 父母の心は時空を超越
世の中の堕落した人間同士の間においても、親と子が離ればなれになった後、何かの巡り合わせによって壮年になってから再会するのを、皆さんは映画のようなもので見たことがあるでしょう。その父親が息子を捜すために苦痛を克服しながら苦労するのが、親たる道理ではないでしょうか? 子どもは(親の苦労を)知らないので、考えもしないでしょう。
このように考えるとき、父母が数十年を越えて五十歳になる息子に会ったとするなら、父母がその息子に会うと同時に「おい、こいつ、五十歳になるまで私のことを一度も考えなかったのか?」こう言いますか? 「おい、お前と私とで一度歴史を話してみよう」こう言いますか? どうですか? 歴史はすべてを忘れさせるのです。歴史を超越させるものは何でしょうか? 心情です。自分の事情を超越させるのが心情です。父親だと分かれば過去はどうであれ、対面もお構いなしに子どもは「お父さん!」と言うのです。面目などはあると言えばあるし、ないと言えばないし、それを気にしないというのです。「お母さん、お父さん!」「お前!」と稲妻のように抱きしめるのです。そうですか、そうではないですか? 「おい、おい、おい、ちょっとストップ、考えてみよう」こう言いますか? 「おい、こいつ、お前が幼い時に私が苦労したことを少し理解してから会おう」そう言いますか? 「私がお前を捜して会うために涙をこのように流したのだから、お前も一度涙を流してから会おう」そう言いますか? そのようなことはすべて超越するのです。これを統一化して帰一化できるのは知識でもなく、事由でもなく、事情でもありません。それはひとえに父母が子どもを愛する心、子どもが父母を愛する心それだけです。この力だけが歴史を超越できるのです。これは否定できないのです。(一九七二・八・二〇、前本部教会)
堕落したこの地上の父母たちを中心として見ても、自分の愛する息子が外国に行っていたら、その父母はいつも外国に行った息子を心にとめていますか、とめていませんか? (心にとめています)。息子が外国に行っているのですが、心にとめていますか? こんな言葉自体が全部宗教的な術語です。息子が外国に行っているのですが、「心にとめている」というのです。それを見れば、心は距離の支配を受けないということがわかります。
それではどのくらい心にとめておきたいですか? 自分の息子を愛するにおいてどのくらい愛したいですか? 自分の息子を愛するのにこのくらい愛したいですか? 「一応、朴氏の姓を持つ女性として私は金某の家に嫁いできたけれど、その金某という夫の人間的器が十両くらいの価値でしかないから、子どもがいくら素晴らしかったとしてもそれより良くなるだろうか? だから九両程度で愛そう」そう考えますか? 父親のだらしない姿は、まるでタコのように骨なしで目も当てられないというのに、子どもはどれほど大きく考えようとしますか? 天地よりもさらに大きく考えようとします。これはすべて矛盾だというのです。突き詰めていけば問題が多いというのです。いくら小さい存在でも、それが心の中にとどめておきたい本当の愛の因縁を結ぶようになるときには、大きな存在として侍りたいのが私たち人間の心です。(一九七一・九・一九、前本部教会)
愛の力はすべてのことを洞察するというのです。愛の力だけが可能だというのです。父母の愛の心は距離を超越します。距離を超越して連絡するのです。皆さんが映画を見れば、子どもが交通事故に遭うとき、父母が夢の中で交通事故の起こるのを見て「あっ!」と驚き、目を覚ます現象が起こるのを見ることができるでしょう。愛の筋を通して反応するのです。愛の縁を通して、実像がそのまま移っていくのです。実像だけでなく実体が交流するのです。それゆえ、地上で愛の縁に乗って神様の実体に接することができるというのです。これは驚くべき事実です。(一九八七・四・一七、本部教会)
三 父母の心の流れ
皆さんは世の中でよく目にして知っているでしょうが、ある父母の息子の中に障害者がいたとして、彼が父母の愛を理解できなかったら、どれほど悲惨だろうかというのです。百愛しても百の愛が分からず、一の愛も分からない立場に立っている子どもに対する父母、そうであっても、子どもを愛すまいとしても愛さずにはいられない父母、いつも与える立場にいるので愛を与えるにもかかわらず、受け止めることのできる立場に立てない息子を見るとき、百の愛を注いだ父母は百以上何倍もの悲しみを感じるのです。たった一つだけの愛を持った子どもを愛そうとするとき、その愛に対することのできる子どもを持てない父母は、それ以上に悲しいことはないというのです。それ以上、胸の詰まることはないのではないでしょうか。
もし、百に相当する愛を与えようとするとき、百以上の愛を受けられる相対者が、もしも息子として娘として現れたとき、その父母はどれほどうれしいことでしょうか? 千を与える以上の喜びをその位置で感じることができるのです。そこから反対の与件が成立することを私たちは知っています。
そのような観点から見るとき、自分が与えるものを受け止められる子どもを持てない父母はかわいそうなのです。それが一度だけでなく、永遠にそのような立場に立つことになるなら、その父母はかわいそうで悲惨なだけでなく、胸が詰まってしまうのではないでしょうか?(一九七二・九・一〇、前本部教会)
愛する父母が見るとき、自分の息子が病人になっていて、障害者になっているときには、高く深い愛の心情がその障害のある子どもに流れるのが原則です。違いますか? そういう身体障害者の心情は渓谷です。父母の心情は山頂の大きな位置です。そのような父母の心情が山頂からその深い谷間に流れていきます。(一九八六・九・七、ベルベディア修練所)
子どもに尽くす父母の心には悪いものがありません。母親の服がぼろぼろであるほど、悲惨であればあるほど、それが涙の深い谷をつくっているというのです。(一九八八・二・二一、本部教会)
愛する子どもに対する父母は、子どもに欠点があってもその欠点を先に指摘しません。自分の良い点だけ似ることを願います。子どもの悪い面を見てほおを引っぱたいても、同情し、後悔するのが父母の心情なのです。それは、そのときの悪い与件を基準にしてなぐったのではないからです。自分に似た小さい部分でもあれば、それを悪い面より大きく見ようとする基準を中心として、理解しようとするのが子どもに対する父母の心情です。(一九六六・三・一三、前本部教会)
一つの家庭で、兄弟が互いに意見の違いで争うとき、父母はどちらを支持するでしょうか? 先に手を出し、自分の欲心のために争う子どものほうを支持する父母はどこにもいません。ですから、今日まで歴史過程において教育と人倫道徳の標準は「善良であれ」ということでした。(一九七〇・六・四、前本部教会)
世の中に二つとない大きな農場を持つお金持ちの家に生まれた子どもがいるとして、その子どもが毎日のように馬に乗って走るからといって、父母がその子どもを愛するでしょうか? そうではないというのです。家の中で何もせずに、ごろごろして遊んでいるけれど、お母さんとお父さんが骨のおれる仕事をするときに手伝ってあげ、父母と心情の因縁を結んでいく子どもを愛するのです。そのような人が知恵ある人です。これはエサウとヤコブのような立場なのです。(一九七〇・八・二三、中央修練院)
神様は私たち自身を見るとき、不足だからといって足らない立場に置きたいとはお思いになりません。子どもは出来が悪くても、父母の心はいつも、より高い位置に立てたいと思うのです。世の中においては友だちや、あるいは師匠が弟子を見るとき、出来が悪ければそれ相応な位置に立てようとするかもしれませんが、神様はより高い立場に、貴い位置に立てようとお思いになるのです。出来の悪い人は、神様が自分たちに対して少ししか気に掛けてくださらないと思うかも知れませんが、神様は出来が悪い人に対してこそ、深く心配されていることを皆さんは知らなければなりません。(一九六九・七・二七、前本部教会)
四 父母の愛は垂直である
父母の愛は垂直です。愛は直短距離(直線からなる最短距離)を通るので、神様と通じることができる垂直線の前に距離は遠く離れていますが、これは平衡線です。今話した父母から子どもを愛するこの線は、平衡線にならなければなりません。これが狂えばすべてだめになってしまうのです。父母の愛はこの宇宙も遮ることができないのです。それゆえ、孝子の道とその次に忠臣の道も同じです。忠臣も垂直を中心として平衡線に立つのです、位置は違いますが。分かりますか?(一九八九・一・二四、一和龍仁工場)
男性と女性の関係を横的に捕らえれば、父子の関係は垂直線で成されるのです。分かりますか? 垂直、垂直線で。だから東洋思想で、父子の関係は変わりえないというのです。それは永遠なるものですが、自分の母親との相対的関係、それは変わりえないのです。垂直線に従って、垂直が東西になれば南北に位置が変わるのです。
しかし、本質的垂直は変わりえないというのです。ですから父子の関係、これは一つしかないので父親と息子の関係は天理の道理です。天宙のすべての存在はこれを否定しようとはしません。認めて肯定するのです。自然に肯定しようとするのです。それゆえ、子どもは父母の言葉に自然に従わなければなりません。
いくら母親と父親が殺人強盗だとしても、子どもに対しては「お前も、殺人強盗をしろ!」と教える父母は絶対にいないというのです。自分はマフィアになったが「お前はマフィアになるな」と言います。だれか人を使ってでも、その街から移して他の所に移動させようとします。私が今回監獄に入って、そのような人たちと一緒にいながら見かけましたが、いくら悪い父母でも子どもに対して「お前、悪い人間に、私のような人間になれ」とは言わないというのです。なぜでしょうか? 天理の本性的基準が、根がそうなっているからです。根から離れられない人間なので、子どもに対して「お前はこれこれこういう私のような人間になるな」と言うようになっています。
さあ、このようなことをすべて…。神様も天地を創造する時、なぜエバからつくらなかったのですか? 易しい問題です。このような観点から見るとき、神様が父親なら縦的な基準である息子を先につくらなければなりません。縦的基準をつくってはじめて、横的基準を定めることができるのです。縦的基準さえしっかり立ててしまえば、横的基準が回りうるのです。そのような観点から「なぜ、男性からつくったのか? それは不公平なことではないか?」と言うでしょうが、違います! 垂直的概念が先です。それは神様が考える理想的目的の概念を立てておいて、創造的概念を投入したのです。
それでは、創造するときの根源がありますが、その根源の基準は何でしょうか? その基準が愛だというのです、愛。それゆえ、人は生まれた時から父母の愛を慕うのです。また父母は子どもの愛を慕うのです。これを離れることができません。これを離れれば苦痛です。
ですから、幼い時はそうではないですか? 母親について行き、父親について行き…。子どもの時代に第一の神様に侍るというのです。現れた神様が父母だというのです。現れた最大の師が母親と父親だというのです。現れた生活のすべての幸福の基地が父母だというのです。そこから幸福を感じるようになるのです。なぜ? 愛を中心とするから。愛を離れるときには破綻が起こるのです。
父母の愛とは何を言うのでしょうか? それは垂直関係において根になるのです、根に。ですから、上下関係は必ず垂直関係です。くねくねではなく直線関係です。くねくねしたら、第三の基準が介在したということです。自然な力ではありません。第三の力が介在してくねくねしたというのです。(一九八六・五・四、本部教会)
五 父母の愛の起源
父母が子どもを愛する、その愛の起源と動機はどこから始まったのでしょうか? 男性と女性を中心とした愛は変わる愛ですが、そこから生まれた息子・娘を中心とした愛はなぜ変わらないのかという問題を見るとき、これは男女を中心とした愛に起源をもったものではなく、横的な夫婦の因縁によってもたらされたものではなく、縦的なある流れの起源を通して関係しているからです。それは間違いないというのです。
では、その縦的な愛の主体はだれでしょうか? そのような主体を私たちは神と言います。変わらない愛の主体として因縁づけられうる関係で、連続的に相対を追求できる、そのような本然の位置に立っている、ある絶対的な主体を必要とするのです。その愛は夫婦が気ままにできる愛ではありません。その愛は自分が愛したければ愛し、愛したくなければ愛さない、そのような愛ではありません。その愛は切っても切れないのです。横的な人間としては、どうにもタッチできないのです。それゆえ、父母が子どもを愛するのは永久不変だというのです。それが変わると思いますか?(一九七一・九・一二、前本部教会)
今日、民主主義の世界で個人主義思想がわき上がっているこの時において、子どもたちは「父母は旧世代だ、私たちの新世代とは次元が違う」と言います。子どもたちはそのように変わりましたが、父母の心は変わるものではありません。子どもたちが旧世代だのと言い張るからといって、「お前はそう考えるのか? 私もそうしよう!」そうなってはいません。父母の愛はそうではないというのです。それは小さな動物も同じです。子どもを愛することにおいては、自分の生命を超越するのです。
それでは、そのような愛はどこから来たのでしょうか? 私自身が第一のある相対的な結果の存在ならば、それは第一のある力の因縁の中から来たのです。それは私たち人間としてはタッチできるものではありません。それゆえ「父母が子どもを愛する愛を革命しよう! 革命の旗手になろう!」という人を見たことがありますか? もしある父母が、進み出たとしましょう。しかし、その父母は子どものへその緒が取れる瞬間、子どもを愛する心が自然に発生することでしょう。
すべての生物は高等下等を問わず、自分の子どもを愛さずにはいられないようになっています。愛することに生命を投入し、生命を支え石のようにしてでも愛したがる作用があるのを見るとき、永遠不変に近いと言えるのが父母の愛です。それは絶対性を捜していくにおいて、「絶対」それ自体にはなれませんが、人間の前に一番近い支え石にはなれます。ただ一つの足掛かりになることができます。二つになってはいけないのです。ただ一つの足掛かりになれるのです。次に、これが人間の世の中においてはそうであっても、歴史を見るときは、永遠な足掛かりになっているのではないかというのです。
そのような父母の愛はどこから来たのでしょうか? それは父親から何かの助言として学んだものでもなく、自分の相対から忠告として学んだものでもなく、自分自身がそうだろうと考えて出てきたものでもありません。自然にそうなるのです。愛というのは自然にそうなるところで成立するのです。(一九七一・九・一二、前本部教会)
六 父母の愛の特性
父母は子どもの前にすべての面で主体となり基準となりますが、愛の前でだけは弱いのです。愛を持ち出してくるとき、父母の権威はないと言えばないのです。かえって父母の権威が逆さまになります。そのように逆さまになったとしても、権威を失ってしまうのでなく、逆さまになった位置から再び本然の姿勢を整えて進んでいける道を持つことができるのです。それゆえ、愛を中心として下りていったとしても、そこで行きづまるのではなく、下りていったその位置から永遠に向かって進むことができると見るのです。
父母が子どもを愛するにおいては、「父母はこうでなくてはならない」という、ある固定した形態をもって、自分を主張する立場で子どもを愛するのではなく、自分を主張しない、自分を否定する、すなわち自分がない立場で子どもを愛するのです。言い換えれば、父母は父母の権限を持っていつも堂々とした立場で子どもを愛するのではなく、父母の権限を忘れ去った立場で、それ以上の立場においてさえ子どもを愛するのです。そのような愛を持って子どもの前に臨むのが父母ではないかというのです。
父母に愛があるというのは父母のためにあるのではなく、子どものためにあるのです。その愛というのは父母の愛だからといって父母だけのためにあるのではなく、父母の相対のためにあるのです。子どもも同じです。子どもが父母を愛するというとき、その愛は子どものためにあるのではなく、父母のためにあるのです。結局愛という言葉は自分を中心として成立するのではなく、相対を自分以上に尊重するところに成立するのです。それゆえ、愛のために生まれたということ自体は、相対のために生まれたということに通じるのです。(一九七二・七・三〇、前本部教会)
家庭を中心としてみるとき、子どもは「お母さんは永遠に私のものだ」と言います。母親は子どもに自分の血肉を分けてあげながらも喜びます。これを見るとき、どんなところが良いですか? 他人のために犠牲になるところです。友達が好きだというのも犠牲になるからです。人に与えながらも喜ぶというのです。喜ぶというのは、人のために犠牲になりながらも、自分が一番大切にしているものを与えても、なお与えたいと思うのです。後で返せと言いながら与えるのではなく、与えながらも足らなさと恥ずかしさを感じるのです。それが父母の愛です。
しかし、子どもの愛はそうではありません。ですから、父母の愛と子どもの愛は違います。父母は与えながらも、もっと良いものを与えられないことを無念に思い、子どもは「私は孝子だ」と言いながら満足に思うというのです。だから父母の愛と子女の愛は違うのです。「私はこのようにしたのに、お母さんとお父さんは何をしましたか?」と言うというのです。子どもの愛には限界があります。自分という限界線を超えられないというのです。けれども父母の愛は自分という限界線を超えるのです。(一九七〇・一二・一三、前本部教会)
父母の立場で子女を愛するとき、あるいは夫婦間や兄弟間において、いつも主体の立場にいる人が先に与えなければなりません。父母が子女を愛するのに、その愛を子女たちが分からないとしても、ただただ喜びの中で自然な愛が流れるのです。(一九七三・四・一八、ベルベディア修練所)
なぜそうでしょうか? 父母は子どもを愛しますが、自分が愛を受けるために愛するのではありません。後孫をさらに愛する元手にしてあげるために愛するのです。未来の愛のために…。(一九八四・二・五、アメリカ)
父子間の因縁もそうです。息子・娘が幼い時には、ひざに座らせてかわいがりながら大事に育てますが、その子どもが年を取ってくるとそうはいきません。しかし、父母の愛は子どもが年を取ったからといって、切れるものではありません。その愛はよりいっそう立体的に現れるのです。自身の生涯とも変えることのできない内容を中心に精誠を込める価値は、日がたてばたつほど現れるようになるというのです。そのような父母の愛の価値を発見できる息子になるなら、孝子という名を持たなくても孝子です。(一九七〇・八・九、トンミョンジャン旅館)
さて、それでは父母が子どもを愛する心は頻繁に変わりうるかというのです。発展がありうるかというのです。愛する人の愛は変わりうるかというのです。発展しえないのです。また、そのような真なる愛が取り戻された立場にあっては変わることも許しませんが、だれかが来て補うことを願いますか? だれかが来て付け加えることを歓迎するかというのです。加えることもできないし、減らすこともできないというのです。皆さんの母親と父親を「ああ、うちのお母さんとお父さんは本当に醜いから、あなたのお母さんとお父さんと取り換える。きょう取り換えるぞ」と言えば、それで交換できるでしょうか? (いいえ)。したがって、加えることもできないし、替えることもできないのです。それだけがよいというのです、それだけが。(一九七三・五・五、ベルベディア修練所)
七 父母の愛の境地と深さ
愛は一人では成されません。生命が投入されずしては愛が成立しないのです。父子関係の愛について見ても、そこには生命の因縁が宿っているのです。このように生命の因縁が残っている限り、生命の因縁の中に望みを持っている限り、そこには必ず愛の因縁が残るのです。生命の因縁を離れては愛の関係を結べないというのです。
ですから、愛には必ず生命の因縁が投入されなければならないというのです。また、生命をどのくらい投入して愛するかによって、より価値があるように感じるか感じないかという問題が決定するのです。
例えば、子どもに対する父母の愛は、ただそのまま生活的な因縁だけを通して愛する愛ではなく、骨髄からにじみ出る愛なのです。忘れようにも忘れられず、切っても切れない愛の心を父母は持っているのです。だから生命の余力が残っている限り、父母は子どもを愛するのです。子どもと生命の因縁が結ばれているということを感じるとき、父母には子どもを愛する心が自然にわき上がってくるのです。あの子は私の息子だから愛するという意識的な心が先立って愛するのではなく、その心よりもその因縁よりも先立つ、自分の生命力が子どもと連結されているので、愛すまいとしても愛さずにはいられないのです。このような事実を、私たちは家庭生活でよく感じていることでしょう。(一九七〇・六・一四、前本部教会)
それでは神様はどのようなお方かと言うとき、千年万年与えてもまた与えたい、そんな心を絶えず持っておられる方です。そのようなお方なので私たちが神様を求めるのであり、与えてから「おい、これは何円何銭だ」と言う商売人の神様だったら、そういう神様は必要ありません。
万民はなぜ神様を愛してついて行かなければなりませんか? 神様をなぜ愛さなければならないのかという問題を見るとき、神様は万民のためにすべてのものを与えてくださり、また与えながらも恥ずかしがられて、「今は、これしかできないが、もう少しだけ待ちなさい。何百倍何千倍もっといいものをあげるから…」と言われながら、きょう現在与えたもので満足するのではなく、与えながらも将来もっと良いものを与えると約束なさり、与えることのできる心の余裕を持っておられる方だからです。そのような方と一緒にいれば、たとえ食べられず、貧しくとも幸福だというのです。食べられない立場に立つなら、未来への希望の刺激が現実圏内で衝撃的に感じられるのです。どういうことかと言うと、かえって新しい決心ができるというのです。
与えながらも恥ずかしがる立場、そのような父母を持った子どもが「お母さん」と言って抱き寄せるなら、体だけ抱き寄せますか? どれだけ有難いでしょうか? その場は未来のために、互いに慰労の涙を流すことのできる場です。絶望がともにあるのではなく、明日の希望を現在の刺激にし、互いに決意して、互いにぶつかり合って激励できる場はそのような愛圏内でのみ成されるのです。それゆえ、その愛圏内に生きる人には、不幸がないという結論が出てくるのです。何の話か分かりますか?(一九七〇・一二・一三、前本部教会)
父母は愛する子どもに対して全体を投入しようとします。神様と同じだというのです。それは何を意味しているでしょうか? 神様は神様のために投入するのではありません。このように、自分のためにいるのではなく、相対のために存在しようという、相対のために神様の立場に立とうというのです。神様が神様のためにいようとするなら、真なる愛ではありません。自分をすべて子どもに投入して、その子どもと一緒にいようとするところで愛が、生命が、希望が成されるのではないかというのです。(一九七三・九・一〇、ロッキー山脈山荘)
父母というのは、子どものことしか考えません。私が興南の監獄にいるとき…。興南から定州に行くには汽車で十四時間かかります。そこに行こうと思い、通行証をもらうために毎月共産党の輩たちの前に…。しかも先生が共産党をぶっつぶすチャンピオンとしてうわさが広まっていたので、私を憎む者たちが意地悪く振る舞い、物を持ってくるのを妨害していたはずです。そんな環境でも先生の母親は千辛万苦して、面会のために、ひと月一回ずつ来るのです。
来るのですが、子どもがおなかをすかせて困っているだろうと、精誠を尽くしてはったい粉のようなものを作ってきます。北韓のどこに食べる物があるでしょうか? それを私はよく知っています。そのような困難な環境であらゆる手を尽くしてはったい粉を作り、息子だからと言って訪ねてきてはぱっと出して見せるのです。面会するとき約三十人が、一つの刑務所の囚人たちが出てきてするのですが、親が訪ねてくる人もいれば、何年たっても訪ねてこない人もいます。自分の故郷からだれかが来るというその知らせを願う心、それはこの世では想像もできません。そこで過ごしてみた人でなければ、どんなに説明しても分かりません。どれほど切実なのか、どれほど慕わしいかしれません。そのような事実を私はよく知っていますが、母親が一カ月に一度ずつ訪ねてきますから、どんなにうれしく慕わしくてよかったでしょうか?
はったい粉をしっかりと渡して言うことには、あなただけ食べて他の人に上げてはいけないというのです。(笑い)母はいい教育ができましたか、できませんでしたか? できましたか、できませんでしたか? (できませんでした)。違います! 母親としてはいい教育をしたのです。けれども息子としてはですね、息子としては立場が違います。そこにいる囚人たちの所から、同僚たちの所から、それをそのまま持って私は部屋の中にはいることはできません。本にもそう書かれています。足を踏み出せません。死ぬなら死ぬで、それを口に入れて一人では食べられないというのです。ですから、どうせ人にあげるのだから、ここでお前たちたっぷり食べなさいと言いながらあげるのです。(一九八八・五・二〇、全州教会)
八 父母の愛の威力
一生の間子どものために愛の絆を結んで生きる父母は、血と汗を流して背が曲がり、外見がいくら悲惨でも、その心の世界に燃え上がる希望はだれもへし折ることができません。打ち寄せる困難がいかに激しいものでも、それをこつこつと踏み越えていける偉大な力がそこにあるのです。そうですか、そうではないですか? (その通りです)。そうなのです。(一九八八・四・一七、本部教会)
自分が滅ぼうがどうなろうが、興亡の要件を超えて責任を負える立場、生死の問題を超越して責任を持つことのできる立場で残されうる愛の階層は、いったい人間社会のどこでしょうか? どこがその起点になるでしょうか? それは男女間の愛でもなく、兄弟間の愛でもありません。国のための愛でもなく、世界のための愛でもありません。その立場を捜しに捜してみても、これは父母が子どもを愛する立場のほかにはない、このようになるのです。
それでは、人の世で父子関係を中心とした愛が絶対的かというときに、そこにも問題があるというのです。それでもその中で一番優位に立てる愛は、父母が子どもを愛する愛です。愛という問題を中心として見れば、その愛が起源です。私たち人間の世の中では、それを無視してはならないのです。人間の喜怒哀楽というのは情緒的な面を中心としてなされるものですが、その起点はそこからなのです。
それでは、その起点は絶対的でしょうか? これが問題です。私たちはどのようにして生まれたでしょうか? 父母によって生まれました。その父母はどのように構成されているでしょうか? 神様の男性と女性で構成されています。その男性と女性の愛によって生まれたのが息子・娘ですが、その息子・娘を愛するその愛は男性と女性が愛するそれと同じかというとき、そうでありうると言うなら、それは論理的に矛盾になります。
では、この愛がどこから来たのかということが問題にならざるをえません。そうではないですか? 父親と母親は一人の男性と女性ですが、彼らが相対的関係の下で愛し合うことによって息子・娘が生まれました。その息子・娘を中心として父母と子どもの関係が結ばれましたが、そこで結ばれた愛が夫婦間で結ばれた愛よりも強い愛として現れたとしたなら、これは弁証法的論理を肯定しなければならないのです。今日、進化論を肯定しなくてはならないという立場になるのです。
子どもは男性の愛と女性の愛が合わさって生まれたものですが、合わさって生まれてきたそれが強い力を持っているので、それが主体でしょうか? 子どもが強い愛を持ったから、それで父母が引かれていくのか、そうでなければ父母が主体となる立場で子どもを引っ張っていくのでしょうか? このような問題を見るとき、その愛が男女間で結ばれる愛だけでできたものだというなら、そのような愛が出てくることはありえないのです。より強くより原則的なものが出てくることはできないというのです。(一九七一・九・一二、前本部教会)
父母が涙を流し「私の愛が不足だからそうなのだ。すべてのことは私がお前をもっと愛せなかったせいだ」と言いながら、その子どもの骨髄が溶けるほど涙を流しながら、より大きな愛をもって子どもの前に出るとき、その子どもがどうなりますか? 振り返りますか、振り返りませんか? 振り返るのです。より大きな愛は、弱い愛を全部消化、統合させうる主動性がないですか、ありますか? (あります)。(一九七一・九・一二、前本部教会)
子どもを愛する父母の心は美しいものです。自分のおなかがすくのを我慢して、子どものために懐にある食べ物を温めて子どもにあげるという、その父母の愛の前には天下が頭を下げるというのです、天下が。その息子・娘を間違いなく宇宙が協助します。天下が頭を下げるのです。子どもが出来がよくて出世すると考えますが、父母の愛が、ために生きる功徳がそこに埋まっているために、それを無視することができないために、その後孫たちは一時に出世するのです。父母が頭もよく顔立ちも良いからといって良いわけではありません。ために生きる愛の前には天下が頭を下げます。神様もそれには頭を下げるのです。(一九八六・一〇・二六、本部教会)
父母が子どもを愛するのを打つ法はありません。打つことができないというのです。宇宙が保護するようになっています。それを知らなければなりません。愛する父母が愛する子どもを抱いて喜ぶその場を、この宇宙の法は攻撃することができません。攻撃がありえないし、保護するようになっていると言うのです。これを知らなかったのです。これを知らずにいるというのです。(一九八四・一・八、アメリカ)
九 父母の愛が貴い理由
皆さん、父母の愛がなぜ貴いのでしょうか? 心から子どもを愛する父母は一生の間…。母親は九十歳を越え、その息子が七十歳を越えておばあさんとおじいさんになっても、おばあさんになった母親は息子に「外に出るときはバスに注意しなさい。道が混むから気をつけて行ってきなさい」と言います。七十年をそのようにして、なお、疲れを知りません。それはどれほど長い期間ですか? あの世、霊界にいって一緒に暮らしても、永遠に疲れを知らない愛だというのです。(一九八六・一・二八、シェラトン・ウォーカーヒル・ホテル)
人間が個人として情緒的な問題を中心として要求するものは何でしょうか? この問いに結論として行きあたる答えは何でしょうか? 父母の愛を要求するのです。父母の愛が現実的に世界に展開できる形成体があるとするなら、それは国家を形成でき、世界を形成できる家庭ではないでしょうか? どんな国家や世界も家庭を基盤にせずには形成されません。家庭が問題です。
それでは家庭は何を基盤にしなければならないでしょうか? 家庭の構成要素である個人の愛を最も必要としますが、それは父母の愛です。父母の愛には父親の愛と母親の愛があります。父母の愛はなぜ貴いのでしょうか? 自分の生命よりも、さらに高いものとなりうるからです。父母の愛は自分の生命も忘れてしまい、自分の幸せと願いさえも投げ出すことのできる愛です。
父母の愛がなければいくら幸福だといっても、それは自分たちだけで喜ぶことにしかなりません。父母の愛を感じられない人たちは何によって喜ぶのでしょうか? きれいな服でも着て、おいしい食べ物を食べることしか考えられないのです。孤児の心情がそうなのです。内心奥深くに染み込む、情緒的な面においての喜びがありえないのです。(一九七一・四・一一、前本部教会)
それゆえ、父母が子どもを愛する場合、体と心が別々に愛するのではありません。一つです、一つ。だから貴いというのです。しかし、子どもが父母を愛する愛は、体と心が一つになったものではありません。体と心が一つになっていません。違うというのです。夫婦だけで愛するのも、やはり自分を擁護し弁明する立場で愛するので、一つにならないのです。しかし、唯一父母が子どもを愛する場合は、生命を超えて愛するのです。これはすでに愛を中心として一つになったということです。それゆえ、この地上において人間世界がたとえ堕落した世界であっても、父母の愛が一つの情緒的な根になっているというのです。(一九七二・九・一、南山聖地)
父母の愛をなぜ尊重視するのでしょうか? 見返りを願わずに克服を追及し、見返りを願わないで犠牲になるからです。そこにおいてはどんな結果も願わないのです。それで満足だというのです。それで十分に幸せだというのです。与えることが幸福だというのです。受けることで幸福なのではありません。だから与えるものが受けるものよりも恵みがあります。なぜ恵みがあるのでしょうか? 神側を代身できるからです。こうなるのです。(一九七一・七・一八、前本部教会)
第五節 父母が子どもを愛する理由
一 神様の創造的権限を引き継ぐために
堕落していない本来のアダムとエバになったとすれば、その位置はどのような位置でしょうか? 結局、その位置は祝福される位置です。恵みを受ける位置、神様が恵みを祈ってくださる位置だというのです。
その恵みの中で一番貴い恵みは何かと言うとき、それは神様の愛です。第一に、神様の愛の恵みを受けるのです。その次には、私たちは何の祝福を受けるでしょうか? 神様の創造の権限を私たちが引き継ぐのです。神様の愛を中心として神様がアダムとエバを創造したのと同様に、私たちは平面的な、横的な基準において、神様がアダムとエバをつくって喜び、アダムとエバをつくって希望を持ったのと同様に、私たち人間にも創造的権限が付与されるというのです。その喜びを付与されるのが子女なのです。
皆さんは子女をなぜ愛するのでしょうか? なぜ愛しますか? なぜ愛さずにいられないのでしょうか? それは神様の創造の偉業を、私たちが横的な実体圏において引き継ぐのと同じだからです。アダムとエバを創造して神様が喜ばれたその喜びを、私たちも感じるのです。神様の愛を引き継ぎ、神様の創造的権限を引き継ぐのです。(一九七五・一・二六、前本部教会)
二 縦的愛圏内にあるので
人は愛ゆえに来て、愛でもって生きて、愛の目的である父親の前に再び帰っていくのです。
父親の種で来たので、愛の種で出発したので、枝を伸ばして世界のすべてのものと関係を結び、愛で種を取り入れなければならないのです。これがこの地上に生きている間にすべきことです。愛の種を取り入れるのです。その愛の種には妻を愛することができ、父母を愛することができ、子供を愛することができ、天を愛することのできるすべての要素がぎっしり詰まっているのです。そのような種のような存在として生きるのです。そのような種のような存在として結実を収めるためにあるのが、神様が地上の人間に付与した生活であることを知らなければなりません。そのような生活であればこそ、神様の前に刈り取られるというのです。
父母はこの地上で、なぜ子女をより深く愛さなければならないのでしょうか? 父母がなぜ子どもを犠牲的に、より深く愛するのかと言えば、縦的愛圏内にあるからです。縦的につながっているからです。鳥や動物もみな自分の子のためには父母が生命を捧げるのが原則です。なぜそうしなければならないのでしょうか? これは縦的愛の因縁の系統を連結させるためです。横的立場である父母が犠牲になってでも縦は立てなければならないからです。そういう歴史的な作用が、今日、被造万物世界、動物世界にもあるという事実を知らなければならないのです。ですから人間はなおさらそうでしょう。
夫婦は横です。この横が九〇度にならなければなりません。これが四五度になったとしても、縦は絶対このように九〇度に合わせてくれません。だれが合わせなければならないのかと言うと、夫婦自体が合わせなければなりません。この横的な愛が合わせなければならないというのです。
だから神様を自分の夫以上に愛せという論理が成り立つのです。なぜ神様を自分の夫より、自分の妻より以上に愛せという論理が成り立ちますか? これを九〇角度にするためです。なぜ? 縦的だからです、縦的愛だからです。夫婦の愛は横的です。それが九〇度にならなければなりません。九〇度を作らなければならないので仕方がないのです。そうしながら自分の相対を愛すれば、これが自然に水平線になるのです。分かりますか?
また、自分の息子・娘を自分の夫より、妻より以上に愛さなければなりません。そうしてこそ垂直線が連結されるのです。もし、息子をこのように愛し、夫や妻をより深く愛したらこうなるのです。それでは垂直線になるはずなのが、そうならないというのです。さあ、これがもし子どもよりも夫のほうをより深く愛し、妻をより深く愛したらこれが歪んでしまうので、このように行けないというのです。だから神様を愛するように自分の息子・娘を愛せというのです。(板書しながら語られる)そうすれば、この父母を中心として家庭、氏族、民族、国家、世界が連結されるというのです。神様を中心として。何の話か分かりますか? (はい)。(一九八四・一・八、アメリカ)
三 より大きな目的基準に一致するために
一つの因縁が成立するためには一人でいてはいけません。因縁という言葉自体は、相対的要件を備えるときに、成立する言葉です。相対的要件というのは必ず主体と対象があって、関係を結べる条件を前提にして言うのです。相対的関係が成立するためには、必ず主体と対象が共通して要求する内容がなければなりません。皆一緒に願うものがなければ相対的因縁を追求できないのです。願うときには、今自分が相対している基準以下のものは願いません。二つが合わさって、より大きなものを願っていくのです。
相対的要件を考えるとき、ここには必ず主体と対象があるのです。そして、それは互いに授け受けるのです。授け受けるときには、ただ授け受けるのではありません。また、授け受けるにおいて、損をするために授け受ける人はいないのです。授け受けるにおいては、受けることより授けることがより価値があるのです。より以上に大きな、ある目的とするところがあるために授け受けるという事実を私たちは知っています。
父母が子どもを愛するのは、その子どもを愛することによって父母の前に帰結する何かを願ってと言うよりも、より高次的で立体的な面で子どもを愛するためになのです。
それでは、父母が子どもを愛する目的はどこにあるでしょうか? 自分に帰ってくることを願って愛するのではなく、より大きな目的の基準に一致できることを願って愛するのです。
それゆえ、父母が子どもを愛する心と合わせていつも考えるのは、自分の子どもが自分にだけ必要な人になるのを願うのではなく、国と世界人類に必要な人、さらには、それよりもっと貴いお方がいればその方に必要な人になってほしいのです。父母はそういう心を持って子どもを愛するのです。その愛は自分に限った愛ではありません。愛しますが、その愛はより次元が高い目的の帰結点に到達することを願っての愛なのです。(一九七一・一〇・一〇、前本部教会)
四 第二の自分であるがゆえに
息子・娘とは何でしょうか? 母親と父親の愛の中に同参した同参者です。それゆえ、母親と父親と一体です、一体。愛を中心として。愛を抜き出せば、父母の生命、皆さんの生命がずうっと引っ張られていくというのです。どうして息子・娘のために父母が犠牲になり、息子・娘を愛さずにいられないのでしょうか? それは自分自身だからです、自分。自分の愛です、自分の愛。母親と父親が結合した愛の実体です。
母親と父親が愛を中心として合わさった実体的証拠として現れた存在が自分の息子・娘だというのです。その子どもを見つめてみれば神様のようでもあり、自分の妻のようでもあり、自分のようでもあり、ただただ見るほどに神秘的なのです。神秘的なのです。愛はそういうものです。皆さんは父母に親不孝ができるかというのです。父母と別れることができますか? 別れることができますか? (できません)。(一九七九・一二・九、ベルベディア修練所)
子どもたちはなぜ父母を恋しがりますか? そこに愛の家庭があるからです。父母たちはなぜ子どもを恋しがりますか? そこには愛の家庭があるからです。このように完全な愛の家庭があるからなのです。(一九八六・一・一、本部教会)
五 存続するために
あらゆる万物世界を見るとき、植物や動物を見るとき全部相対関係になっています。そのような立場から見ると、男性と女性は形態が違います。木を見てもそうです。木を見ても実を結ぶ木があり、実を結ばない木があります。花の中にもそういう花があります。また哺乳類とか鳥類とかいう動物界を見ても、全部が相対関係になっています。人も同じです。
では、なぜそのように相対関係を持たなければならないのでしょうか? なぜ相対関係が必要かというのです。(真の愛を授け受けるためです)。真の愛を授け受けることがなぜ必要かというのです。なぜ相対が必要ですか? 一番簡単なことを知らずにいるというのです。授受作用、原理、調和など、あらゆることを口にしますが一番簡単なことを知らずにいるのです。一番簡単で一番重要なことを知らずにいます。シンプル・ポイント(簡単な要点)は何でしょうか? 存続するためです。生き残るためです。歴史性を連結するためです。
さて、植物世界にそのような関係がなかったなら、すべてなくなっていたでしょうし、動物世界にもそのような関係がなかったなら、すべてなくなっていたはずです。人間世界も同様です。皆さんも存在しないでしょう。すべて存在しません。
種を残さなければなりません。残すには良いものを残さなければなりません。それが理想です。良いものを残さなければなりません。では良いものを残そうと思えば、どうしなければならないでしょうか? 良い相対が必要です。良い種が必要だし、良い相対が必要だという答えが出てくるのです。グッド・フィアンセ(良い相対)。
それで、男性に聞けば何と答えるでしょうか? 皆同じです。「私は良い相対が欲しい」こう答えます。なぜ? なぜですか? 良い種を残すためにです。どうして良い相対が必要でしょうか? 良い種子、より良い種子を残すためにです。結論はそうなるのです。そうではありませんか? 事実ではないかというのです。それは間違っていますか? 皆さんもそのように考えますか? やはり、今までは考えたことがなくて、先生の話を聞いてから考えたのですね?
このように見るとき、「神様がアダムとエバをつくった目的は何か?」と言うと、「アダムとエバをつくって愛するためだ。夫婦をつくるためだ」こう答えるべきですか? 「良い種を残すためだ」こう答えるべきですか? どちらですか?
なぜ愛し合うのでしょうか? 愛の結果は何ですか? (ハッピネス=幸福)。ハッピネスですか? 愛の結果は何ですか? チルドレン(子女)です。チルドレン。チルドレンが何ですか? チルドレンが何ですか? それは残さなければならないものです。存続するための結果的存在だというのです。
それではフィアンセがなぜ必要ですか? 皆さんは愛ゆえだと言うでしょうが、それも合ってはいます。しかし、それよりもっと次元の高い目的は何でしょうか? それが何かと言うとチルドレンなのです。子女だというのです。愛の結果が子女だというのです。
なぜ子女を愛さなければならないのでしょうか? 父母は子女を愛さずにはいられません。なぜ愛さなければならないのでしょうか? 父母がフィアンセを愛するところから得る結果が子女なので、その子女を愛さずにはいられないのです。こういう理論です。(一九八二・六・二〇、ベルベディア修練所)
六 愛が介在しているので
私たち人間が一番好きなものは何でしょうか? これは人類歴史について考える上で最も重要な問題です。最も貴いものは何であり、最も良いものは何でしょうか? ある人は自分を中心として一番良かったらと言います。こういう考え方をする人が大多数です。また、自分の家庭を中心として一番良かったら、さらに自分の国を中心として自分の国が一番良い国になったら、自分の住むこの世界が一番良い世界になったら、こういう考え方をしがちです。
それでは、その中で一番良いものは何でしょうか? これはどこまでも自分が主体となる、自分を中心としたものではなく、相対的概念なのです。相対的関係から逃れられないのです。そのように見るとき、家庭において一番良いものは何でしょうか? ここで結論づけて言えば、父母が一番良いものではないでしょうか? お金もいいし、子どももいいし、権力もいいでしょうが、私自身において最も良いものは、最も貴いのは父母ではないでしょうか? もう一つ質問して、その次は何かと言えば愛する妻であり、愛する夫ではないでしょうか? もう一つ質問して、その次は何かと言えば愛する子女であるという結論を下すしかないのではないか、こう見るのです。
それでは、なぜ父母が良いものであり、夫・妻が良いものであり、子女が良いものでしょうか? そこには愛が介在しているからです。父母の愛、それは子どもにとって絶対必要な愛です。夫婦間の真なる愛、それは夫と妻にとっては絶対に必要な愛です。兄弟愛や父母に対する子女の孝行の心が最も貴いものだと見るのです。(一九八一・四・二五、利川研修院)
磁石で言えば、磁石成分のない鉄よりも磁石成分のある鉄が引き寄せる力がより強いのと同じく、その因縁の強度に従って千態万状に感じ方が違ってくるのです。それゆえ、同族同士で愛したいと思うのは、連綿たる歴史的因縁があるからだというのです。
皆さん、父母はなぜ子どもを愛するのでしょうか? 息子はどこから生まれたかと言えば、父親と母親から生まれました。そして、その父親と母親の性稟を皆除けばその息子の性稟はないのです。そうではありませんか? あるいは娘がいればその娘は父母を通して生まれたのであって、父母がいないところで生まれたのではありません。父母の性稟を土台として生まれたので、それをすべて取り去ることになれば、その娘はいかなる性稟もいかなる因縁もない存在となるのです。(一九七一・一一・八、中央修練院)
七 愛の証し人として生まれたので
私はなぜ生まれたのでしょうか? なぜ生まれましたか? 私はなぜ人間として生まれましたか? なぜ男性として生まれ、なぜ女性として生まれましたか? ご飯を食べるために生まれたでしょう? ご飯、ご飯、ご飯? (いいえ)。それならどんなに哀れな話でしょうか? どんなに哀れな話でしょうか? 次に「私は学校の勉強をするために生まれまた」と言うとき、それはどんなに頭の痛いことでしょう? けれども「私は愛のために生まれた」と言えば、これは当然「ほう!」と感動するのです。
それでは、皆さんはどのように生まれた人かというのです。愛に同参する立場で愛の同参者として生まれたのです。愛の動機によって生まれたのです。愛の動機から愛の結果として生まれたということを知らなければなりません。そうでしょう?
そのように生まれて、さらにお母さんとお父さんの愛を受けます。お母さんとお父さんは私をなぜ愛するのでしょうか? 私をなぜ愛するのかというのです。考えてみましたか? なぜちっぽけな鳥の子やあらゆる動物たちも、なぜ自分の子を愛するのかというのです。それは愛の証し人として生まれたからです、愛の証し人として生まれたから。さらに、愛の根本から生まれたからです。根本と結果を無視することは天下を無視することになるので、人間がそうできないので、人間は愛を尊重視すべき運命にあるために息子・娘を愛さずにはいられないというのです。何の話か分かりますか? (はい)。
それは愛のための愛です。だからお母さんとお父さんが皆愛しながら生きていくのです。お母さんとお父さんが愛に酔って生きるのは良いことです。良いことなのです。父母の愛によって生きる子どもたちは良い子どもです。良い子どもなのです。皆さん、このアメリカの子どもたちはどうですか? お母さんとお父さんは皆必要ない、無用だ、と言うのです。そうなればどうなるでしょうか? 自分たちが社会に出ていくことのできる愛の根拠地が家庭なのですが、その愛の根拠地を失ってしまうのです。(一九七九・三・二五、ベルベディア修練所)
皆さんがなぜ息子・娘を重要視するのか分かりますか? 自分の精力を傾けて死の道を越えながらも、なぜそれほど愛したいと思うのか分かりますか? それだけ偉大な存在だからです。天と地を代身して現れた存在だからです。このように見るとき、果たして天が暮らしたいとお思いになる所、天が慕われる所はどこでしょうか? 天はまさしくこのような息子・娘とともに暮らすことのできる家庭を慕ってこられたというのです。(一九五九・一一・二二、前本部教会)
八 神様ゆえに
人倫は父母を愛し、夫婦同士愛し合い、子女を愛せと教えます。皆さんはだれのために父母を愛さなければならないのか、考えたことがありますか? だれのために夫婦同士が愛し合わなければならず、だれのために子女を愛さなければならないのか、考えたことがありますか?
愛することに責任を持ってくださる主人公を失ってしまった人間です。神様は無限なる愛を語られました。最後に残るものは愛だと言われました。その愛は神様の愛です。皆さんは慕い求める目的を知らなければなりません。愛する目的がなければなりません。だれのために愛しますか? 神様のためにです。神様のために愛さなければなりません。自分のために愛する者、死んでご覧なさい、どこへ行くか。(一九五九・一一・二二、前本部教会)
第三章 子女の成長と指導
第一節 子女の出生と成長
一 生命の根源
本来はアダムとエバが互いに最高の喜びの中で、最高の生命力が発揮され、最高の力が合わさり、全体の理想の力まで合わさる中で愛の花が咲かなければなりません。だから花のように咲いて、その香りが全天下を覆っても余りある、神様がその花を眺め、その花の香りをかぎながら自らそこに酔える、そのような愛を神様は夢見たのです。
そのような理想的な愛の花が咲き香りが漂うような場で、神様と人間が完全に一つとなり、切っても切れない愛の結合体になった場で結実がなされなければなりません、結実が。アダムとエバにおいて、愛の実が結ばれなければならないというのです、実が。
そうなったら、その実はどうなるでしょうか? 実というのは本来の種と同じだというのです、種。皆さん、何の種であっても必ず二つのかけらでなっているというのです、必ず二つのかけらで。胚芽というのがあって、この二つのものを連結させる所に、その中に生命があるというのです。その種の生命力の根源には父母の愛が入り、父母の生命力が入り、神様の生命力と神様の愛が入っていなければならないというのです。その種というのは生命が発展するのに必要なのです。(一九七九・三・二八、アメリカ)
人を構成する本質的な内容要素は、生命に先立って作動して根源となるべきものは、愛であるに違いないというのです。(一九八八・五・二二、本部教会)
愛は創造の先祖です。何の話か分かりますか? 先祖がいるから後孫がいなければならないのです。愛は何かと言えば、先祖にもなり後孫にもなるというのです。愛は息子の父親であり、父親の息子だというのです。ですから、愛においては、父親と息子が同じだというのです。(一九八二・六・二〇、ベルベディア修練所)
二 妊娠とつわり
子どもの種は母親のおなかの中にあります。父親にもありますね? 父親には、骨の中にあります。ですから、父親の骨の中を通して、母親のおなかの中を通して子どもが出てくるのです。
それでは、子どもはどのようにしてつくられますか? 父親と母親を通してつくられます。皆さんは父親の骨の中と母親のおなかの中を通ってつくられたということを知らなければなりません。歴史はおもしろいです。(一九六六・三・二二、前本部教会)
女性として生まれたことは幸福ですか、不幸ですか? 答えてみなさい。不幸ですか、幸福ですか? (幸福です)。本来は最高に幸福でなければならないのですが、今堕落した後に生まれたことは極めて不幸です、不幸なのです。なぜでしょうか? 堕落はだれが動機となりましたか? (女性です)。女性、女性が動機になったのです。それで、なぜ堕落しましたか? (愛ゆえです)。愛、愛ゆえに堕落したというのです。
それゆえ、聖書にもあるではないですか? ソドムとゴモラで淫乱が増え広がるようになる時、これはサタン世界の実を結ぶのです。そういう社会はいつも罰を受けるのです、いつも。ローマが滅びるようになったのも、淫乱のゆえに滅びました。アメリカが滅びるのも、淫乱で滅びることになるのです。
それをなぜ神様が一番嫌うのですか? 本来愛というのは神様が主管できる接触線です。神様が理想的世界を成していくにおいての接触線、鉄で言えばチェーンと同じなのです。それは鎖と同じだというのです。鎖。その接触点ですが、何を中心として接触するのでしょうか? 愛を中心として連結できるチェーンを作って理想的世界を成そうとしたのに、それを台なしにしてしまったというのです、アダムとエバから。
神様の太いチェーンを二つに分けて、男性と女性がここにぶら下がってチェーンになり、その後は全世界が一つの実となり、一つの種を蒔いて、実を千かます万かます収穫して納めるための倉庫が天国です。
女性が重要なのです。女性がなぜ幸福でしょうか? なぜ幸福でしょうか? 女性の体を通して神様が愛しうる人間を育てあげることができるからです。分かりますか? 女性の体を通さずには男性でも女性でも生まれてくる道がないではないですか? 分かりますか? 神様の希望がいくら大きくても、女性がいなくなったら希望の世界まで連結される人が生まれますか? それは不可能なので、男性だけいてもだめで、女性だけいてもだめなのです。女性がいることによって、息子・娘が懐妊されるその瞬間から女性とは完全に関係を結ぶのです。関係を結び、その子どもが生まれるときまで母親の血肉を、母親の骨肉をもらって大きくなるのです。
それゆえ、愛する息子と愛する娘というのはこの上なく貴いというのです。分かりますか? 天と地の最高に貴い宝物です。それはお金をあげても買えないし、世の中をあげても替えられない宝物です。神様にとってもそうであり、母親と父親にとってもそうなのです。息子・娘を取り換えられますか?
それをだれが自分の血肉を分けてあげ、懐の中に抱いて懐の中で保護しながら、このように一つの価値的存在として生まれさせるのでしょうか? 母親のおなかを借りて生まれるのです。父親はただ種を蒔くだけです、種。夫は種を蒔いてあげるのです。そうではないですか? ですから、この世界に生きるすべての人々は母親の功を通して生まれたのです。そのような意味から見るとき、苦労ではありますが、情緒的世界において男性たちは女性たちのその情緒世界、母親の深い愛の谷間に入っていけないというのです。及ばないというのです。いくら説明しても及ばないというのです。(一九八七・五・二〇、本部教会)
女性がお産の苦労をして、また妊娠して十カ月を全部…。何と言いますか? あのつわり…。つわり、「げえげえ」というそれは信号です。なぜそうかと言えば、同情してくれというのです。宇宙が同情してくれと言っている信号なのです。保護しろというのです、保護しろ。その信号なのです。おもしろいでしょう? 宇宙が、保護してくれることを願う信号だというのです。また、ぞんざいに扱うなという警告です、警告。ここ、注意しろ、注意しろ、そういう信号なのです。ですから、つわりは悪いものではありません。
女性たちがつわりをたくさんして産む子どもは、神経が、アンテナが鋭敏な人だというのです。見ていなさい、鋭敏な人です。このような人たちは宗教的な人になるとか、文人になるとか、詩的な面、そういうところに鋭敏な人なのです。牛のように鈍い人を身ごもれば、つわりはそうひどくありません。ですから、女性たちはつわりがひどいと感じるとき、「坊や、なぜなの、なぜこんなひどいの?」と不平を言うなというのです。そうであるほど大きいふろしきを中心にして、母としてですね、これから神経質な子どもをつくってはいけないと意識しながら、胎教のようにですね、その反対の行いを中心として毎日のようにつわりがあっても、「げえっ」といっては笑いなさいというのです。「げえっ、ハハハハ」、「げえっ、ホホホホ」。(笑い)笑いごとではありません! そうすれば神様も、いい見せものがあると…。
神様は宇宙の法則に外れて行動するときは、直ちに分かるというのです。「あっ、これは本来はこうなのに、あの女は、あの女ときたら、あの女はなぜああなのか? 人はみな嫌だといって騒ぐのに、なぜホホホと笑うのか?」と近寄ってきて、どれどれと見るなり神様がにっこり笑いますか、笑いませんか? 神様は「なぜ笑うのか?」と尋ねるはずです。先生だったら、話をするならどのようにするでしょうか? ご褒美をたくさんあげますか? あげませんか? 「おい! お前はやっぱり私の娘だね、私の娘ならそうだろう」といって褒めるのです。そういう道があるのです。つわりは耐え難いですが、女性たちが神様の前に信任され、恵みの山を受けることのできる一つの動機になりうるのではないかというのです。つわりは何だと言いましたか? (恵みを受ける信号です)。信号、信号! 保護の信号です。保護する信号です。(もっと早く教えてくだされば良かったではないですか?)。それは女性たち、教える前にあなたたちが考えていれば、全部分かったはずです。とっくに。考えないから分からなかったのです。
この世の道理がそうなっているのです。その全部が悪いことではありません。保護するために…。それゆえ、女性は本当に貴いというのです。女性の体が貴いのです。ですから、男性の前に愛されて生きなければなりません。人を抱いて情緒を注いだので、抱かれて情緒を受けるべき立場なのです。天地の道理がそうだというのです。それゆえ、子どもを愛する妻には夫がむちを振えないというのです。むち打つことができません。分かりますか? 簡単な真理です。簡単な内容ですが、これは真理です。
骨が溶けてしまうほど息子のために精誠を尽くすなら、夫がどんなに愚鈍で愚直な人でもその妻を殴れないというのです。抱いて愛してあげなければならないというのです。分かりますか? そのように抱いて愛する男性を神様は憎めないので、神様が抱いて愛するようになるとき、宇宙が全部この家庭に固まるのです。
皆さん、豆腐を作ったことがありますか? 豆腐、豆腐を作ったことがありますか? 豆腐の作り方を知っていますか? 大豆を挽いて、こうやって、風呂敷に入れる前ににがりを入れれば固まるでしょう? 固まるのです。固まるというのです。愛というのはにがりのようにすべてのものを凝固させるというのです。分かりますか? それゆえに、女性は子どもを産んでみることで真なる女性になるのです。母親の心を感じてみなければなりません。(一九八七・五・二〇、本部教会)
今に見ていなさい。胎児のために夫婦が精誠を尽くせば尽くすほど良い息子・娘を産むのです。先生の話がうそかどうか見ていなさい。そしてまた、強情だというのです、強情です。ここにいる祝福を受けた家庭、子女たちを見て強情だなと思う人、手を挙げてみなさい。自分が産んで育ててみると、他の家の子どもより強情だという人、手を挙げてみなさい。女性たち、いませんか? 強情だというのです。また、頭がいいのです。皆そのように私が組んであげたのです。サタン世界で結婚するのより何で比べても百倍いいでしょう。(一九七五・六・二二、前本部教会)
男性でも女性でも子どもができたら、なぜこのようにだれもが喜びますか? 女性は「ああ、愛は受けるだけの価値がある。私は愛されよう」と思うのを神様はよく知っているというのです。そのようにつくったというのです。「ちょっと愛してもらわなくちゃ!」というようにつくったのです。なぜ? どうして? 完全に与えようとするので、その訓練をするのです。
子どもができれば、だれが与えますか? 母親が骨と肉を全部与えながらも喜ぶというのですね。おなかが膨らんでも喜びます。寝るとき、こちら側に寝ます。このようには寝られないのです。このように寝そべって寝ながらも、「よしよし」と言いながら、子どもしか頭にありません。(笑い)
その次に、産むのがどんなに大変ですか? さらに、産んでからまたお乳を飲ませます、お乳を。おなかの中で吸って、外で吸うのです、これが。中で吸って、外で吸うというのです。そうなるので、ああ…。それゆえ、女性は愛を一度受けてみたいと考えるのです。ですから、神様は考えるほどに数理的で、本当にすてきな紳士です。「それで女性を一番後につくったのだな」という論理が成立します。だからつくるときには女性を一番後につくったのです。(笑い)それを接ぎ木するのです。そうではありませんか? プラスとマイナスとをくっつけなければならないのです。
さあ、それでそれは何かと言えば、神様がそのような性稟を持っているので全部…。女性もそれによって神様が許諾することのできる立場に立ったので「私を愛せ」と言うことが可能だというのです。分かりますか? 愛を受けようと言うことが可能だというのです。私を愛せばあなたも愛されるということなのです。あなたも愛を受けますね? 分かりますか? これはもう本当に! 何とすてきでしょうか? さあ、それでは、「私は愛されよう」というのは何でしょうか? 愛して愛を帰するために、神様の前に近づこうとするので、仕方なく、こうならざるをえないというのです。さあ、このような真の愛で…。
したがって先日も話をしましたが、宇宙とは何でしょうか? 宇宙とは何でしょうか? この宇宙は第二の母親の腹中です。皆さんが今生きているのは母親の腹中です。宇宙というお母さんの腹中で暮らしています。さて、ですから母親の血肉をもらうのと同じく、宇宙のすべての津液(=体内から滲み出る液)を吸い取って生きるのです。(一九八二・一二・一九、ベルベディア修練所)
三 赤ん坊の出生
1 女性たちの人体の神秘
ドクター姜、来ましたか? 女性たちの子宮はこのくらいですか? このくらいなのに、それがどれくらい膨らむかと言うと、ゴムより生ゴムよりもっとよく膨らむというのです。それは神秘的なのです。生ゴムよりもっとよく膨らみます。帝王切開手術をするときに見ると、膨らんだ子宮の中にいる子どもがすっかり見えるというのです。どうですか! これはなんと神秘的なことでしょうか。(拍手)
その中で赤ん坊はですね、神様が語りかけて「こら、坊や、運動したらだめだ! 静かにしていなさい!」と言ったところで、じっとしてはいません。どうしますか? 赤ん坊はけったり、やりたいほうだいするようになっていて、中からパンクするなどということは考えません。子どもが、危険だということを知っていたら運動をするでしょうか。(笑い)とても危険千万です。神秘的ですね。
ですから、赤ん坊を見ると神秘的なのです。そのようなことを考えると神秘的だというのです。「おい! こいつ、どうやって生まれたんだ」と聞きたいくらいです。どれほど神秘的か考えてみなさい。皆さんはそのように人間をつくるとしたら、どうですか? それは何千年かかってもつくれません。(一九八二・六・二〇、ベルベディア修練所)
人が生まれて逝くとき、天にあいさつしようとし、地にあいさつしようとしなければなりません。(一九八二・一・二、アメリカ)
2 分娩の苦痛
皆さんが生まれるとき、皆さんは母親の腹中から出てくるとき、どれほど大変だったかということを記憶していますか? (いいえ)。それでは、それをどうやって教えてあげますか? 産んでみれば分かるでしょう。(笑い)神様はなぜ子どもを産むとき、このように産むようにしましたか? ただ簡単に、口で言うように簡単に、おいしい食べ物を食べるように簡単に、香水の香りが漂うように簡単に、ただただ気持ちよく、口を開いて「ハハハ」といって子どもを産むようにしたら、どんなによいですか? なぜそのように産まずに、汗を流して死ぬか生きるかの境で産むようにしましたか? なぜそのようにしましたか、どうして? 輝く愛を見るためにです。
電気で言えば、起動電流というのがあるのです、起動電流。これは何でしょうか? スイッチをパチッと入れれば、その時は何十倍の強い電気が、いっぺんにパッと何倍もの力で出るのです。これと同じく、人間においてすべてを断ち切って「何もかも嫌だ、何もない」と言いうるほどの境地にいるときにそれを連結すれば、ものすごい愛の力が爆発するのです。同じ理屈です。分かりますか? (はい)。
その死の境地で目玉が飛び出し、すべてのものがみな壊れ、大変なことになったという境地で子どもが「おぎゃあおぎゃあ」と泣いて出てくれば、目がぱっちり開くのです。痛いのは一瞬にしてなくなるのです。お母様はよく知っていますね。苦労して産んだので、その苦労した以上に愛するというのです。「ああ、アイゴー(=疲れたり、うれしかったり、苦痛を受けたときに言う言葉)」と言うでしょう。その意味が分かりますか? (はい)。
母親が子どもを産む苦痛は幸福ですか、不幸ですか? (幸福です)。父親にはいくら話しても分かりません。父親には母親がどれほど苦労をしたのかが分からないのです。父親は母親以上には分からないというのです。それゆえ、愛の味を本当に知っている人としては母親が最高です。(一九八〇・一・二〇、ベルベディア修練所)
女性の皆さん、子どもを産むのが怖いですか? 子どもを産んだ婦人に聞いてみれば、産むときには死ぬかと思うけれど、産んでしまえば一瞬にして(死ぬような思いが)なくなるというのです。船に乗ると、船酔いした人は死んでしまうとばかりに吐いて大騒ぎですが、陸地に着いて一歩足を下ろせばいっぺんによくなります。ちょうどそれと同じ光景なのです。皆さんも経験してご覧なさい。十カ月間ずっと子どもを腹に宿して過ごすのは大変ですが…。(一九八九・一・六、漢南洞公館)
3 誕生の瞬間はまさに歓喜のとき
それでは、私たち一人ひとりにおいて栄光の日はいつになるでしょうか? (スピリチュアルバースデー=入教日)。(笑い)スピリチュアルバースデーはさておいて、バースデー(誕生日)、自分の生まれた日が栄光の日なのです。(笑い)ところで人が生まれるのを見れば、生まれるときに、だれもが生まれるやいなや泣くのです。「おぎゃあおぎゃあ」と泣くのです。その時間が栄光ではないかというのです。その日は喜びの日ですか? 皆さんは考えてみましたか? それは、なぜ泣くのでしょうか? 喜びが心にしみるから泣くと言えば、実にしゃれた解釈だと思うのです。
なぜそうかというのです。母親の腹中で母親と父親の顔を考えながら「お母さん、お父さんはどんな顔だろうか?」と、母親と父親の顔をいくら見たくても見れませんでしたが、慕わしいすべての願いが成就したのだし、外の世界があってもどうなっているか分からず、その世界を全部いっぺんに見たくてたまらないところへ、ぱっと飛び出していくその瞬間だからです。そして、へそから食べたのが口で食べられるようになるし、それは、何と急速な変化が起こることか。その赤ん坊はつぐんでいた口を開いて食べるというのです。食べ始めるというのです。(笑い)それはどれほど歓喜に満ちた、どれほど希望的な、どれほど願ってきたことだろうかというのです。
その赤ん坊はなぜ泣くのでしょうか? 喜びが身に染みて泣くと考えればすてきです。皆さんもそうではないですか? 本当に喜んでいる人同士が会えば涙が出るのです。皆さんはそれを見たことがありますか? (はい)。うれしいことがあれば、私が生まれる時に泣いたそれ以上にうれしくて、一度泣くことのできる時間があったなら、それこそ栄光の新しい朝ではないか。赤ん坊が泣くその時に一緒になって泣く親がいますか? 喜ぶというのです。泣くのを見て喜ぶというのです。泣かなければ正常でないと言うのです。赤ん坊が生まれるときは皆そうなのです。皆さんは生まれるときに父母を驚かせ、親戚の人々の関心を引き、すべての環境を驚かせて生まれたのではないですか?
皆さんがある国の王子として生まれたとすれば、その国のすべての民が見るでしょうし、その国のすべての万物までもが注目することでしょう。全体が、生まれるその瞬間を見ているのではないか。とすれば、その赤ん坊が泣くその時に知らせは全国に広がり、その広がる知らせと合わせて歓喜の声は、赤ん坊が泣きやんでいないその時間にも続くのではないかというのです。
皆さん、私たち人間が生まれるときに、本然の人間がこの宇宙の中で生まれるときに、その生まれる私たちの先祖である赤ん坊のアダムとエバを見ていた万物があったら、関心を持ったでしょうか、持たなかったでしょうか? (持ったはずです)。
なぜかと言えば、主人だからです、主人。この宇宙のすべての存在が人間と同じように心があって、全部関心を持ったなら、どれほど興味津々だっただろうかというのです。
この地上の世界ももちろんですが、神様がおられ、霊界があるなら、霊界や神様やだれ彼問わず皆神経が集中させられるのです。そうだったはずです。それでは、アダムとエバが生まれるその瞬間にどれだけ緊張し、アダムとエバが生まれたならアダムとエバが生まれたことで、どんな変化が起こったかというのです。神様において、どんな変化が起こったかというのです。
神様においては、父母の愛がこういうものだということを感じる時間となったのです。子どもに対する愛、父母の愛をはじめて持てる時間となったのです。それを考えてみなさい。「父母の愛はどのようなものか?」と考えていた神様もどうだったでしょうか? 皆さんの夫人が腹中に赤ん坊を宿した時に、父母の愛はこうだということを感じられますか? 生まれるわずか数分前と生まれた後では、天地の差ほどの変化が訪れるのです。
それを見るとき、神様の愛の中でつくられた被造万物とアダムとエバ、その息子・娘を愛する心を、見て喜ぶ心を神様しか感じられないのかというのです。(違います)。神様なら、すべての万物も、存在するすべてのもの、自分に所属するすべてのものも、自分がうれしい時を分かるようにつくったことでしょう。(一九七八・一・二二、ベルベディア修練所)
4 頭から出てくる理由
さて、人が生まれるときなぜ頭から出てきますか? 足から出てくればどうですか、足? 地が見るとき、足の裏から見たいでしょうか、頭から見たいでしょうか? 人も地が好きなのでそこに歩調を合わせ、頭から出てきて後には地を踏み締めて暮らすというのです。あいさつするためにそうなのです、あいさつ。一生の間踏んで生きるのであいさつしなければならないでしょう。(笑われる)それもそうですが、父母にしなくていいですか? 父母にあいさつしなくてはいけませんね。良いあいさつをすべきですか、悪いあいさつをすべきですか? 天に対して悪いあいさつをすべきですか、良いあいさつをすべきですか? (良いあいさつです)。
出てくるときには逆さまに出てきましたが、霊人体が出ていくときにはひよめき(=乳児のとき、頭の前頂部で、呼吸のたびに動く骨と骨とのすきま)から出ていきます。霊人体が生まれるときには反対に生まれるというのです。だからひよめきから出ると言うではありませんか? (笑われる)霊人体は母親の下から出てこないのです。霊人体はどこから出てきますか? (笑われる)下から出てきますか、上から出てきますか? 考えてみなさい。霊人体が出てくる所はどこですか? その反対だというのです。反対だというのです。復活して上がっていくのです。上がっていくのにも肉をけって上がっていかなければなりませんね。その時も頭が先にあいさつしなければなりません、生まれる場合にも。あいさつを先にするのです、あいさつを。(一九八二・一・二、アメリカ)
5 「おぎゃあおぎゃあ」の意味
これを考えてご覧なさい。自然な顔とはどんな顔でしょうか? 怒った顔でしょうか、寝ている顔でしょうか? どんな顔かというのです。オリジナルはと言えば、世の中に生まれるときに赤ん坊が「おぎゃあおぎゃあ」と泣く姿がオリジナルです。その泣くのがですね、なぜそのように大きな声で泣きますか? 「ははは」と笑わないでなぜ「おぎゃあおぎゃあ」と泣くのですか? (笑い)その呼吸自体が体全体でするようになります。体全体が動くのはすべて運動しているのです。運動の中で、それ以上の運動はないというのです。最高の運動だと見るのです。「おぎゃあおぎゃあ」というのは運動なのです。生まれてから、それ以上の運動はないとみるのです。宇宙に対する新しい活動の始まりだというのです。これはどれほどすてきなことですか?
そのとき母親も「十カ月間こうしていたので、どんなに大変だったことか? 泣きなさい、泣きなさい。足を伸ばして泣きなさい!」と言うでしょう。それはどんなにすてきなことかというのです。赤ん坊がもしこのようにしていないで、こういうふうにしていたら呼吸ができないというのです。呼吸ができません。呼吸がどのように始まるかと言うと、このようにしていたのが(生まれて)足を伸ばすので「ふっ」ともう空気が入るようになっているのです。さあ、先生の言う通りだと思いますか? 医学書籍にはどう書かれているか知りませんが、それが自然な観点から見るすべての道理の一面と見ることができます。
さあ、そのように考えるとき、赤ん坊が泣くのはまさに歓喜の泣き声であり、生の爆発の泣き声である、このように見るのです。人が泣くときと笑うときは体と心が一緒に運動することができます。笑うとき、口だけ開いて「ははは」と笑ったらどんなに格好悪いですか? このように「ははは」と笑ってごらんなさい。笑うときはすべてのことが作用します。鼻も動いて目も動いて口も動いて耳も動くのです。心も動いて体も動いて全部動きます。分かりますか、何の話か?
そうすれば、笑うときも涙が出て、泣くときも涙が出ます。それは反対だというのに。そしてそれは距離が遠いですか、近いですか? 泣くのは良いことですか、悪いことですか? 皆さん、泣いて暮らすのがいいですか? (嫌です)。ここから見るとき、二つの概念のうち一つは上がっていくのであり、一つは下がっていくのです。そういうものが全部分かれるのです。皆さんはどうですか? どんな顔が一番いいですか? (幸福な顔です)。幸福な顔とはどんな顔ですか? 幸福とは何ですか? すべてのことが円満でなければなりません。円満でなくては幸福ではありえません。円というのはサークルという意味で、満というのはフル(いっぱい)ということです。こういう円があって、ぎっしりいっぱいになったということです。こうでなければ幸福はありえないというのです。そのような観点から見ると、宇宙はこの円を満たすためにすべてのものが運動するというのです。(一九八二・一二・一、アメリカ)
四 お乳を飲ませるとき
1 赤ん坊がお乳を飲むこと
赤ん坊が腹中で十カ月間成長するとき、その水の中で過ごしながら、自由天地ですか、拘束天地ですか? 拘束天地ですか、自由天地ですか? ああ、背を丸めて思うように足げもできないのに・・・。腹中の赤ちゃんはともすれば押し込まれているようですが、それでもその世界が自由天地だというのです。何とまあ、鼻をしっかり塞いで「んが」、口をキュッと結んで「うっぷ!」とやっているのにそれが自由天地ですか?(笑い) 一度そうやってごらんなさい。(笑い)パイプがへそについています。ここで息をするというのです。今考えれば「ああ、全く!」どれほどじれったいですか? どれほどじれったい。そのように考えませんか? 考えただけでもうんざりして気絶するほどなのに。そこでも自由天地だというのです。
地球上に生まれたのもそれと同じことです。母親の腹中では母親の体を通して影響を受けますが、今は宇宙のお母さんの胎内に生きているのと同じだというのです。考えてご覧なさい、先生の話が合っているか合っていないか。へその緒で何を食べて生きるのでしょうか? 私たちが生きる要素は何でしょうか? 私たちが食べるご飯のようなものは、私たちが生きるのに必要な栄養分であって、本質的な生命要素にはなりえません。生命要素は愛です、愛。
豚の子もですね、それは調和なのです。豚の子を見ればですね、十分もたたないうちに出てくるやいなや捜していきますが、お母さん豚のへそを捜しあてるのです。お乳がどこにあるのか、それがどうして分かりますか? お乳があるところに行って、息を切らせて「チュッチュッ」と吸うのです。(笑い)では、これはいつ教育を受けてきたのですか? 自動的です、自動的。神秘的な絆を通して、すべて相対的な関係で授け受けるというのです。お母さん豚の愛のアンテナが、あらかじめ乳首を通してピー、ピッピッピーッと信号を送るというのです。ですから、それがある所へ行くなといっても行くようになっているのです。寝ながらも「ウーン、ブーブーブー」といいながら寝るようになっています。それはどういうことかと言うと、自動的な教育が必要だというのです。
それゆえ、人はへその緒でこの世の中に生まれたのですが、愛から生まれました。私たちはその愛の実です。愛の実なので父母は愛さなければなりません。その実を通して無限の愛が実を結ぶのです。個人的な愛、家庭的愛、民族的愛、世界的愛、宇宙的愛、本質的神様の愛まで連結されうる道がそこにあるというのです。
そこには教育が必要ありません。美女と醜女がいて醜女が息子・娘を産んだところ、その息子・娘が母親を醜い女だと思って、お乳を飲むのを嫌うといって「おい! お前はこのように愛せ」と言って教育するのを見たことがありますか? 醜女であれ何であれ、子どもには母親であることがすべてです。そうでしょう? おなかがすくときは乳房をあてがえば、ばたばたと手足をばたつかせながら、お乳をこぼしながらおいしそうに飲むことに忙しいでしょう、不平を言うのに忙しいですか? これは比類のない調和なのです。その場が神聖なのです、その場が。(一九八三・四・二四、本部教会)
2 お乳を飲ませること
愛は目に見えないのです。愛を中心として神様がおられるのです。それゆえ、愛という概念の下に神様が存在する、このように答えなければなりません。それでこそ理論に合うのです。愛の概念なしでは、神様が存在できないというのです。なぜ? それは人間が愛を環境として生まれたからです。愛を中心として存在し始めたので、神様もそうでなければならないというのです。
さあ、それではこの意識の本源地はどこでしょうか? 同じです。愛から始まったというのです、全部が。目も愛から始まったので、愛で生き、愛に従っていく、皆そうです。愛の目的地に行くようになっています。鼻もそうだし、すべての細胞もそうなのです。皆さんも触るときには愛する人に触ろうとし、愛する人を求めていこうとするのです、それは異常なのではありません。オリジナルがそうなので仕方がないというのです。
愛で始まったので、子どもが生まれたとたんに「おぎゃあ」と泣いてもお母さんとお父さんは「よしよし」と言うのです。愛だというのです。それが泣くからといって「なぜ泣くんだ? こいつ、なぜ泣くんだ? 生まれたとたんになぜ泣くんだ?」そう言いますか?(笑い)(言いません)。おしっこをして、うんちをして、すべてそのようであっても愛を感じます。そうでしょう? それを一日一時間につきいくらずつ、五ドルずつ、七ドルずつとしておいて、すべて手帳に預金通帳の代わりに記録しておきますか? (いいえ)。与えてもまた与えたいし、また与えても、もっともっと与えたい、そうでしょう? そして、どんどん与えればどうなりますか?どんどん与えれば、それは全部受けるようになるというのです。(一九八二・一二・一、アメリカ)
愛は絶対の場に立っているというのです。それゆえ、男性と女性も絶対的な愛を中心として結ばれてはじめて、その愛が完結に向かうのです。夫に妻というものは妻一人しかいないと考える、その立場に立たなければこの位置に到達することができません。永遠なのです。絶対、変わることができないのです。愛の原則通りにしてこそ倒れないのです。
さて、これは何になるでしょうか? そのような立場に立ったものは三六〇度であると同時に零点です。これが神様であり、アルファであり、オメガです。これが何になるでしょうか? すべての種の根源になるのです。種はこのようにできているというのです。種というのは、ぴったりこうなっているのです。結論は何でしょうか? 愛というポケット一つにすべてのものが入っているというのです。(板書しながら語られる)
男性と女性が結婚するのは何のためでしょうか? この種を得ようというのです。このように好きになれば、ここでエンブリオ(芽)、芽が出るようになっています。何を吸って生きるかと言えば、母親と父親の愛を吸って生きるのです。母親と父親の愛を吸って、生命を吸って大きくなるのです。母親と父親の体を吸って大きくなるのです。愛と体を吸って大きくなるというのです。
それゆえ、今日アメリカにいる父母たちが子どもに対して犠牲の愛で愛さないのは、そういう思考方式を持たないのは、宇宙の原則に反するのです。その父母は罰を受けなければなりません。(一九八三・一〇・一、世界宣教本部)
3 お乳を飲ませるときの心の姿勢
皆さん、恵みを受けたいですか? 永生することを願いますか? そう思うなら、公的な人にならなければなりません。子どもを教育するにおいて、私の息子・娘としてだけ愛するなというのです。世界の人々のための祭物的な息子・娘として愛する父母にならなければなりません。そして子どもを懐に抱いてお乳を飲ませるときは、この地球星の人類を代表した母親の立場で、人類を代表した子どもにお乳をあげるという心で飲ませなければなりません。そして自分の子どもだけがかわいいと言ってお乳を飲ませるのではなく、人の子どもも自分の子どものような心情で対する母親になってご覧なさい。そのような母親のお乳を飲んで成長する子どもたちは必ず偉大な人になることでしょう。すぐにはならなくても、一代二代をかけていく間に、必ずその後孫の中で世界を支配することのできる人物が誕生することでしょう。これは公式です。このようになるのです。(一九七〇・五・二四、前本部教会)
今日皆さんが来て息子・娘を産み、懐に抱いてお乳を飲ませるとき、「どんなお乳を飲ませましたか?」と私は聞きたいです。神様の愛で、真の父母の愛で因縁づけられたその愛を中心として祝福を受けた、そのような男女が一つになる愛の中で愛の花として咲かせた息子・娘として抱き、お乳を飲ませているかというのです。(一九八六・六・一、中央修練院)
4 お乳を飲ませる妙味
私は母が言った言葉が忘れられません。私が小さかったとき、叔父はもちろん、だれかれ問わず遠い親戚まで、私の姉がお嫁に行く時にひと所に集まって話をしたのですが、世の中で何といっても赤ん坊を産んで育てるときが一番良いというのです。苦労は一番多いけれど。
なぜでしょうか? 赤ん坊がおなかをすかせば、母親の乳房が張ってくるのです。分かりますか? 百人なら百人が皆、乳房が張って痛くなれば、張っていないところがありません。乳房が一番鋭敏です。ところで、おなかをすかせた赤ん坊をしっかり抱いてお乳を飲ませる味というのは、口では言えないというのです、お乳を飲ませる味は。それは赤ん坊の母親でなければ分かりません。その張った乳房がすっと小さくなればどれだけすっきりして気分がいいでしょう! またチュッチュッと飲みながら触るのを見るとき、母親の愛がそこからにじみ出るというのです。だから、すべての喜怒哀楽の双曲線が全部ぶつかり合うその母親の心というものは、体験しなければ分からないのです。
だからお母さんたちが言うには、八人兄弟をみな結婚させたけれども、みな送り出してみると、世の中にこれほど寂しいことはないというのです。かといって、愛してきた息子・娘の家に思うように行くこともできません。もちろん、行こうと思えば行けないわけではありませんが、遠いところへ行ったので一日に一回ずつ通うこともできず、だからいつも考えるのです。愛してきた、慕わしい愛でもって、息子・娘が元気でいるだろうかと、会いたくても行けなくなれば祈祷をし、幸福を願うというのです。それは貴い心です。それゆえ愛の心が・・・。
そうこうするうちに老いていくのです。だから愛で始まって、愛で一生を終えるのです。それが原理的な、順理的な法度を歩むことになり、地上世界から天上世界までそのまま続いていくのです。(一九八九・一・六、漢南洞公館)
5 母親の犠牲的な愛
父母は子どものおしめを洗いながら、においがしても、赤ん坊のにこやかに笑う姿を思い浮かべながら、ただ喜びます。思っただけで、すぐ目に浮かんでくるのです。子どもを愛する父母の心はそうなのです。うんちを取って味をみる母親がたくさんいるではないですか? 皆さんもそうやってみましたか? それができなかったなら、母親になれないのです。うんちの味をみましたか、みませんでしたか? 私のお母さんが、子どもたちの具合が悪いときに、うんちを取って味をみるところを何度も見ました。そういう意味で、私のお母さんは立派たと思います。ここにいる母親たち、そのようにやってみましたか、やってみませんでしたか? やってみませんでしたか? これからは、一度そのようにしてこ覧なさい。それをやってみようと思っても、今ではもう年をとって、赤ん坊を産めないことにはどうにもなりませんね。(笑い)
皆さんが神様を愛するとしたら、どのくらい愛しますか? 神様を愛していれば、神様のものなら良くないものはなくなります。どんなに困難なことでも、それが困難なことに感じられません。深い谷に埋められた愛の絆が響き出すことのできる一つの動機になるのです。母親が苦労しながら働いていても、子どもをひょいと抱いて乳首が痛くて気が遠くなるほどお乳を飲ます姿は、本当にすてきだというのです。女性たちはそういうおもしろい味が分かるでしょうが、私は女性になれないのでそういう味が分かりません。そのような面では女性が偉大ですから、その面においては私もお母様の前に屈伏します。女性が男性より偉大なのはそれです。
私がいくら赤ん坊が好きだといっても表面的にすぎません。赤ん坊が自分の肉をぐいぐい吸っていくのにどうでしょうか? 赤ん坊がお乳を吸うとき、血が何パーセントずつ混じって出ていき、脂肪が何パーセントずつ混じって出ていくと考えれば、どうして飲ませるのでしょうか? 皆さん、蚊がブーンと飛んできて血を吸うとき気分がいいですか? 災難もいいところでしょう。死にながらも喜べる道は愛の道しかないのです。(一九六九・一〇・五、前本部教会)
赤ん坊は母親の胸をかきわけて食い入るのですが、愛を抜きにしてみれば、そうできますか? そうはできないというのです。それでも赤ん坊に父母の愛を肌で感じさせ、赤ん坊を抱くことによって自分が幸福だというよりも天地がすべて平和の境地に入ることを感じ、全体の雰囲気に良いものが芽ばえるということを感じるようになるときには、その赤ん坊がいくら自分の胸にかき分けて入るとしてもそれを許し、「さあ、飲みなさい、飲みなさい」と言えるおおらかな心が生まれてくるのです。それゆえ、父母たちは子どもを無限に愛することができるのです。
見方によっては、赤ん坊は父母の怨讐なのです。ホースをつけてあてがい、自分の血肉を吸っていく怨讐だというのです。しかし、母親としての新しい希望の刺激、夫に対する新しい刺激など、その赤ん坊によって見いだされるものが実に多いというのです。そのような境地では通じる何かがあるのです。その境地はだれも立ち入ることはできないのです。(一九七一・一〇・三、前本部教会)
本来、母親が子どもを育てるときは、自分の肉を分け与えるものではないか。母親の肉は父親の骨につくべき肉なのです。そうでなければ、その肉はぜい肉になってしまうのです。このような意味から見るとき、女性たちが情緒的な面において一般的な情は男性よりもっと深く高いのです。それゆえ、四方を整えて精誠を尽くすときになれば、涙を流すにしても、男性が一回泣くところを女性は三回泣くのです。(一九七一・五・二、中央修練院)
よく暮らそうという言葉と、愛そうという言葉があります。それでは、よく暮らそうというのは、どのようによく暮らそうというのですか? 互いにけんかしながら、よく暮らそうというのですか? (違います)。それは皆分かっているのです。だから答えは簡単です。愛してよく暮らしながら、神様のために生きなければならないというのです。
それでは愛する場合にはどんな立場で愛するのでしょうか? これが問題です。お母さんとお父さんたちが子どもをよく見つめてみれば、かわいいですか、憎らしいですか? おばさんたち答えてごらんなさい。(かわいいです)。どれほどかわいいでしょうか? 私は一度おばさんになってみたいものです。私はいくら研究しても、どれほどいいのか分かりません。どれほどいいのでしょうか? お乳を飲ませるのを見れば、母親たちはお乳をもっとあげようとして、子どもたちは母親のお乳をもっと吸おうとして・・・。
子どもにお乳をあげるのは、かわいいからあげるのですか、憎いからあげるのですか? さて、それだけでしょうか? おしっこをするし、うんちをするし、夜を徹して世話をやくというのです。私の子どもたちを見ても、何時間もたっていないのに「エーン、ご飯ちょうだい」と言って、夜中の二時でも三時でもお構いなしです。母親は腰が折れ曲がり、背筋が痛くてぐっすり眠っていても、アーンと泣きながら起きろと言わんばかりです。すると、母親は熟睡から覚めても「さあ、飲みなさい」とお乳をあげます。それは好きでそうしますか、嫌でそうしますか? (好きでそうします)。それが愛です。愛は与えながらもさらに与えたくて、与えても満足するのでなく、存分に飲ませてもさらに飲ませたいのです。すべて与えても惜しくないのです。お乳を飲ませるときも、大きく膨らませておいて全部すっかり飲ませてこそ気持ちがいいというのです。おばさんたち、そうでしょう? これは私が聞いた話です。そうですか、そうではないですか? そうなのです。(一九七一・一・八、春川教会)
それでは、神様の愛を受けられる位置はどこにあるのでしょうか? 愛は一つです。それゆえ、その位置もまた一つしかないのです。愛を受けられる位置があって、愛を受けられる道があったなら、皆さん行きますか、行きませんか? (行きます)。それは何かと言うと、父母の前にある子どもの位置です。ある父母に息子四人がいるのですが、その父母がその四人の息子に愛の差をつけますか? 長男だからこのくらいの愛を与え、弟たちは各々このくらいの愛だけ受けなさいと差をつけるかというのです。
お乳を飲ませるときも、子どもたちに差をつけて飲ませる父母はいません。それは息子たちに血と肉を供給してあげることです。ですから、すべての息子に一人ひとり供給してあげるようになっています。母親は乳飲み子がお乳を吸うのを見て喜びます。子どもがお乳を飲みながら母親の喉をつかんだりすることもとても喜びます。母親は子どもに自分のお乳をあげながらも喜ぶのです。お乳をあげるからといって、今日まではいくらで、明日からはいくらだと、お金を請求する母親は世の中にいません。
もう一つ、おもしろいのは何かと言うと、その母親の顔が醜くて、女性らしいところが一つもなく、ただただ、目、鼻、口、ほおは言うまでもなく全部が醜くても、息子・娘を愛する場合は深刻です。お乳を飲む子どもに対して愛するときは、だれよりも深刻だというのです。自分の子どもを愛するにおいてだれに負けると思いますか? 負けないというのです。(一九六九・五・一八、水原教会)
五 新生児のとき
生まれたばかりの赤ん坊は顔を見ている父母が分かりません。しかし、三カ月ぐらい過ぎれば、見て喜ぶ母親の顔にほほえんで応えるようになります。自分が母親であることも知らず、母親である自分の愛も分かりませんが、相対的立場で応えてくれる赤ん坊のほほえみに最高の喜びを感じるのです。それは赤ん坊には分かりませんが、心情的因縁で連結された絆を通して、全体の価値以上の愛を注ぎ込む父母の愛があるからです。(一九六九・一〇・五、前本部教会)
皆さん、赤ん坊がうんちをするのを恥すかしがったらどうなるでしょうか? うんちをし、おしっこをしても恥ずかしがらず、母親がうんちを片付けるのを見て、にこにこ笑っているのです。どれほど無邪気なことでしょうか、どれほど。(笑い)それは愛においてのみ可能です、愛においてのみ。分かりますか? 愛においては汚いものがありません。すべて克服できるのです。(一九八一・一二・二〇、アメリカ)
さて、皆さん、先ほど幼児期から話をしました。小さい子どもも自慢したいのです。それでは腹中から生まれたばかりの赤ん坊は自慢したくないでしょうか? 自慢したいというのです。出てくるなり「アーン、アーン!」と泣くのも、赤ん坊の自慢だというのです。それを誇りをもって抱いてくださる方が、自分を産んでくれた、愛のあるお母さんだった! 違いますか? 必死になって「エーン、エーン」と泣きながら蹴るのです、「エーン、エンエン!」これは赤ちゃんが自慢しているのです、自慢したがるのです。
口のきけない赤ん坊も、そのように自慢したがります。自慢したいというのです。それを見て母親は、「ほら、坊や! 大きくなるのよ。早く大きくなるのよ、そうしたら丈夫になるでしょう」こう言いながらしきりに大きくなれと応援するでしょう? それ、何が応援ですか? 疲れた母親、いくらにもならない月給のために工場へ行って働いて帰った母親が、うんちをし、ぐずって泣いていた子どもをきれいに洗って、抱いてあげれば、ウンウンウンウーンと喜ぶでしょう? 「ああ、いい気持ちだ」と自慢するのです。自慢するときに見てあげる母親がいれば、その赤ん坊は幸福なのです。そうですか、そうではないですか? (そうです)。
全部、すべてのものが・・・。それゆえ、小さな昆虫も自慢したがります。無機物も自慢したがります。宇宙のすべての存在物は、皆この素性に似て生まれたというのです。みな自慢しようとするのです。(一九八八・四・一〇、本部教会)
六 乳児のとき
子どもたちの心はお母さんとお父さんに帰っていこうとします。人間の本心は本郷を慕い、父母を慕うというのです。(一九八七・五・一七、清平修練所)
育てるときにも乳児期があります。ひたすら消え去ってしまうか飛んでいってしまうかと案じ、そっとやさしく育て、それから這いまわるようになり、次には歩きまわるようになるのです。ご飯を食べるときも、大半はスプーンをこんなふうに持ってすくうというのです。
そうして、物心がつくとともに「あ、お母さんだ」と意識して、母親が喜ぶか喜ばないかを見ながら遊ぶのです。国進が生まれて一年しかたっていない時のことです。「さあ、こちらへおいで」といっても来ないときがありました。そこで、そっけなく「プイッ」と顔を背けて、私が気分悪そうにしていると「ヘヘヘー」と笑ったのです。そういうところを見たとき「こいつ、賢いな」と思いました。子どもたちも顔色をうかがって「あ、いけない」と歩調をを合わせるのです。(一九七一・一〇・二四、前本部教会)
皆さん、子どもたちが学校に行く時まで成長する過程を考えてご覧なさい。うんちをして、おしっこをして、それから這うようになって、這い回っていたのが立ち、はにかみながら、よちよち歩きをしながら転んだりもして、その次は兄弟がいれば兄弟とけんかして、いじめられて泣きじゃくったりするのです。それが教育です。そうやって大きくなるのです。(一九八三・四・一九、済州教会)
子どもが言葉を覚えるときに、言葉を覚えるその息子は、父親と知っていて「お父さん」と言うのですか? お父さんという言葉を知らないで「お父さん」と言うとき、その息子は父親を認識しているかというのです。それは習慣化していくうちに「ああ! このようになれば、これがお父さんだな!」と考えるのです。子どもたちが言葉を覚えるのを見ると、本当に不思議なものです。抽象名詞の類いもどのように理解し、納得するようになるかというのです。それを説明して教えてあげようと思えば、百科事典をすべて動員しなければならないにもかかわらず、いとも簡単にそれらの言葉をちゃんと覚えていくのです。(一九七二・六・二五、前本部教会)
子どもたちには父母しかいないのです。生まれた息子において、何か所有する必要がありますか? お金が必要ですか? 権力が必要ですか? 自分というものがありえますか? ただ母親の乳房しかないというのです。そのようなところまで・・・。何もないというのです。私が何かと言えば、私の所有はお母さんの乳房かお父さんしかないというのです。学ぶのもお父さんとお母さんしかないというのです。
もとより、学ぶ所有は言葉の所有です、言葉の所有。言葉から学ぶのです。一番はじめに所有する言葉は「オンマ(お母さん)、マンマ(ご飯)」です。マンマと一つになるのです。また、パパ(お父さん)と一つになるのです。そうなのです。それが自分の最初の所有です。自分の所有であると同時に、愛を中心として一体となるために父母が私のものとなり、私が父母のものとなるのです。そこから始まるのです。それゆえ、そのほかの観念は一切受け入れられないというのです。(一九八四・四・一六、イースト・ガーデン)
子どもたちが成長するとき、一日の間にも成長しながら昨日とは違ってくるのです。どんどん新しくなるのです。どんどん変わるのです。話すことも変わってくるし、全部変わってくるのです。( ? )
子どもたちはおもちゃを持つにしても素早く上がったり下がったりして、ぐるぐる回るものや、ひゅっと上がってひゅっと下りてくるようなものが好きです。そのようにすれば子どもたちはおもしろいと言いますか、つまらないと言いますか? おもしろいと言うのです。そのように回るときには、目も一カ所に精神一カ所に、心も一カ所に、体も一カ所にくぎ付けになります。分かるでしょう?
子どもたちが遊ぶところに行けば、早いもの汽車のようなものを何と言いますか? ローラースケートと言いますか、何と言いますか? これが崖のようなところにピタッとくっついてサーサーッと登っていってこそおもしろいというのです。そうではないですか? (そうです)。同じ理屈なのです。(一九八八・一・一、本部教会)
今日、子どもたちを見ると、昆虫、さるの子、動物の子、魚の子などがとても好きなのです。それはなぜでしょうか? それを見ながら大きくなっていくのです。愛するのです。愛の心が芽生えるというのです。それを見て喜ぶのですから。(一九八五・一二・二〇、漢南洞公館)
幼子のような心を持たなくてはなりません。子どもは主体に対して要求するすべてが、総合的な面だというのです。子どもにとっては母親以外に欲しいものはないというのです。ほかに欲望の対象がないというのです。母親なら母親だけを思うのです。一切のすべての生命が、感覚機関であるとか意識機関がすべて母親に動員されているというのです。お乳を飲んだ後にもお母さん、お乳を飲むためにもお母さん、お母さんのほかは知りません。そのような意味で見るとき、幼子の心情を持たなければならないというのです。そうなれば、皆さんが一人で眠るときも母親の胸に抱かれて、父親の胸に抱かれて眠るのと同じになるのです。そうなのです。(一九七二・六・二五、前本部教会)
七 二十歳までは父母の愛圏
人間は生まれてから二十歳までは父母の愛を受けます。それは愛に対する準備期間です。このように見れば、二十歳までは父母の愛を受けることになります。その次に二十歳を過ぎてからは、父母の愛を離れて夫婦の愛につながります。その夫婦の愛の因縁が情の深いものになればなるほど、そこから再び子女の愛として始まるというのです。このように回るのです。
それゆえ、私たちの人生をよく考えてみるとき、堕落がなかったなら本然の父母から私たちが愛を受け、成長するまで育てられ、一生の準備をするのです。一生の間愛を備えて生きることのできる準備をするのです。(一九八六・五・二五、本部教会)
生まれた時から愛・・・。母親の腹中にいる時からお母さんとお父さんが愛しましたか、愛しませんでしたか? お母さんとお父さんが愛するのです。十カ月間ひたすらなでてあげ、こうして・・・。そして生まれてからまた愛して、学校に入るまで・・・。大学まで何年ですか? 二十年ですか、二十二年ですか? 六年三年三年とすれば十二年で、大学まで足したらどうですか? 十六年と、幼稚園まで合わせれば十八年間、その期間にずっと父母の愛の圏内で育って・・・。
そのお母さんとお父さんは自分の息子・娘を最高に愛するのですが、人並みにしてやれなければ胸が痛くてたまらないのです。そういうことを知らないでしょう、皆さん? これから息子・娘を産んでみてようやく「私の父母もこうだったのか」と分かるのです。それにもかかわらず、自分たちをあのように顧みないで外に出ていくとき、父母はどうして安らかに眠れたはずがあろうか、いつ安らかな時間を持てたであろうか? いつももどかしい心、不安な心を持ったであろう、ということを皆さんは知って、「私たちの父母は立派だ」ということを悟らなければなりません。愛なのです。
だから二十歳を過ぎれば・・・。産んで十六年も経てば皆分別がつくようになります。(一九八九・一・六、漢南洞公館)
私たちが願う立場を復帰していくにおいて、それはいちどきに実現できるでしょうか? いちどきに実現できないので、これを復帰するには盲目的に復帰するのではなく、必ず落ちて下がったのなら落ちて下がったその反対の過程を経て上っていかなければなりません。これは言うまでもない事実です。
さて、それでは本然の人間、本来の人間の立場はどのような立場でしょうか? 人間は神様の直系の子女として生まれなければなりませんでした。もし直系の子女として生まれたなら、神様が私たちを堕落していない人類の本然のその父母、その先祖を中心として愛しながら今日に至ったと考えざるをえません。
それでは少年時代から壮年時代、あるいは老年時代、すなわち一生について見るとき、神様から少年時代は愛されたのかどうかは分かりませんし、青年時代も愛されたのかどうかは分かりませんが、壮年時代と老年時代を神様の愛の保護圏内で生きたことのある人間でしょうか? 堕落したということを私たちが肯定して突き詰めてみるとき、堕落したその年齢以降の期間は神様の保護圏内にいるのではありません。神様の追放圏内、保護圏外にいるのです。神様の理想圏内にいるのではありません。(一九七二・八・六、前本部教会)
皆さんの子女たちが二十歳になる前に教会と関係を結んで信仰の機会をつかんであげなければなりません。言い換えれば、高校三年生になる前まで、中学生の時から高校一、二年生になる時までに機会をつくってあげられなければ、その息子・娘は駄目になるというのです。それは協会で出した今までの統計に現れたものです。十七歳まで家庭において、あるいは教会において機会を作ってあげられなかった息子・娘たちは、社会に流されていってしまうというのです。これは重大な問題です。(一九七〇・六・四、前本部教会)
第二節 家庭教育の必要性
一 子女教育が必要な理由
堕落しなかった家庭とは、男性と女性が完全に神様の息子・娘として愛を受ける人々です。神様と完全に一つになった人々です。そのような男性と女性が愛を中心として完全に一つにならなければなりません。その夫婦は夫婦としての目的だけがあるのではありません。子女のための教育が必要なのです。なぜそうなのかと言えば、四方を備えなければならないからです。( ? )
神様が願われるエデンで暮らせる息子・娘は、字宙性を備えた息子・娘でなければなりません。万物を主管せよとおっしゃったので、主管者としての資格を持った存在でなければならないというのです,( ? )
二 堕落によって教育が必要
人間を救うにおいては教育が必要です、教育を必要とするのです。人間始祖は無知な中で堕落しました。皆さんは原理を知っているので簡略に話します。原理結果主管圏から直接主管圏まで行くべき段階にいたアダムとエバは無知でした。少年時代にありました。幼い時から成長していく中で、神様の摂理の全般的なみ意を知ることができませんでした。それゆえ、堕落とは何でしょうか? 知っている立場においては堕落することはありませんでした。知らない立場で堕落しました。私たちの先祖は行くべき本然の道が分からなくて堕落したので、堕落した以後の人間たちは先祖が知ることのできなかったその基準を越えていくことができないというのです。
したがって、人間の世界にこれまで歴史を通して数多くの偉人たちが現れ、あるいは宗教指導者が現れましたが、私たちの先祖が知ることができずに歩んだ道を悟り、神様が本来願っておられた本然の基準と一致させられる起点を準備できなかったというのです。いかなる宗教、いかなる哲人、いかなる偉人もその内容を明らかにすることができませんでした。
それゆえ、人間の歴史は無知なる私たちの父母から受け継いだ伝統に従って、無知な状態で、神様の本来の理想的基準とは一致できないままに流れてきたというのです。
ですから、この無知なる人間を教育していかなければなりません。これが問題になります。このような教育がうまく行われたなら神様のみ旨通りになったでしょうが、教育を誤って神様のみ旨通りにならなかったので、今まで神様に反対するサタン側の所有物に定められてきた、ということになるのです。(一九八五・一二・二九、本部教会)
堕落したがゆえにメシヤが必要になりました。堕落しなかったなら、メシヤも必要ありません。堕落したがゆえに神様を失いました。堕落したがゆえに人間本然の価値観を失ってしまいました。堕落しなかったなら、人間本然の価値というものは生まれると同時に持つようになっていました。ここでは改めて神様の作用は必要ありません。その必要もありません。それ自体がすでに満たされた立場なのです。さらに補わなければならないものは何もありません。神様を中心にするなら、人間が神様を中心として一つになったなら、知りえないものはありません。私たちにとって、このような根本問題に対する教育というものは必要ありません。
人間に関する根本問題は何ですか? 食べることです。その次は生きることです。そして生きて最後には愛の問題まで行くことになります。
皆さんは生まれてから食べることを習ったことがあるでしょうか? お母さんの腹中から生まれれば、自然現象で食べるようになっています。あるいは吸収しなくてはならないようになっています。そこには教育は必要ありません。その相対物があって、それに口をあてれば自然に食べるのだということが分かるようになっています。
それゆえ、私たちは自然に食べるとか生きるとか愛するとかいう理想を求めるのです。自然の要求に従えば、目的過程を通過して立体的な感覚の世界、立体的な価値観の世界に触れるようになるのが堕落していない本来の存在です。
これが堕落したがゆえに逆さまになりました。逆さまになったので、これを正しく立て直さなければなりません。人間を産むときに、頭は下を向いておしりは逆になっていますが、これを再び反対にさせなければなりません。人間のような形をしていますが人間ではありません。ですから、そのような立場に立っています。堕落したがゆえにこのような運命に引っかかっているのです。
ですから、私たちは堕落観念に徹しなければなりません。それを元通りに転換しようとすれば、まず何を感じなければなりませんか? メシヤを求めることよりも堕落観念をいかにして確実に体恤するかというのです。何としても堕落観念に徹しなければなりません。堕落観念に徹すれば徹するだけその願う力が強くなります。(一九七二・四・二三、東京教会)
個人は歴史的所産です。家庭も歴史的所産であり、国家、世界も歴史的所産です。それでも、その歴史の所産の中で善の所産がどれだけあるかというのです。私という個体において比重を計ってみると、善の所産がどれだけあるでしょうか? 皆さんが暮らしている生活環境の中で善の所産が何パーセントになり、皆さんの個体の人格の中で何パーセントになるかというのが問題です。
悪に接しうる要因をたくさん持っているのか、善に接しうる要因をたくさん持っているのかということを見るときに、全体が悪に接しうる要因によって囲まれています。
悪が行く道においては教育が必要ありません。教育を受けなくても、だれでも行けるのです。悪から始まった歴史なので、教育を受けなくてもだれでも行けるというのです。悪の道を行くように教育する必要性がありますか? ひとりでにそうなるので、今日人倫道徳を中心として良心の基準を中心として分別しながら生きろと教育するのです。
何を中心とした教育でしょうか? 善を中心として、良心を中心として教育したにもかかわらず、その教育の基準に立脚した人がどれだけいるでしょうか? 悪いことは習わなくてもだれでも皆できるのです。だれでも皆満点になれるのです。(一九七〇・一一・一五、前本部教会)
悪に教育の必要がありますか、ありませんか? 悪い人をつくるのには教育が必要ありません。教えてあげる必要がないというのです。そのまま放っておけば、自然に悪い人になります。体がしようとするままにすれば、間違いなく悪い人になります。なりますか、なりませんか? (なります)。そこのおじいさんはどうですか? 体がしようとするままにしてみれば悪い人になりますか、善い人になりますか? (悪い人になります)。善い人になろうとは思うことすらできません。間違いなく悪い人になります。(一九七一・一・八、春川教会)
三 宗教を通した家庭教育
イエスには愛することのできる家族がいたでしょうか? イエスは母親を愛しましたか? 愛することができなかったのです。父親を愛しましたか? 父親は義理の父親だったのです。弟たちを愛しましたか? 弟たちをも愛することができなかったのです。だれを愛しましたか? 愛の主人公として来た張本人であるにもかかわらず、母親と父親をだれよりも愛そうとしたにもかかわらず愛することができなかったというのです。本来のアダムとエバが神様から愛の教育を受けられなかったので、イエスがそのような愛を母親と父親に「このように愛して生きなければなりません」と教えようとしたというのです。しかし、彼の母親と父親はイエスの言葉を聞き入れませんでした。
愛を教育するにおいては、ユダヤ教の礼法を経た立場で、神殿理想を完成した立場で行わなければなりません。イエスは神様の代身として、父親の代身、新郎の代身、兄の代身、愛の主人公として来たので、マリヤ家庭全体は神様の代身としてイエスに侍らなければならなかったのです。イエスはヨセフに対して「おい、ヨセフ!」というようでなければなりませんでした。ヨセフは父親ではないのです。また、マリヤに対しても「マリヤよ!」というようでなければならなかったというのです。彼らが教育を受けなければならなかったのです。
ところが、彼らが教育を受ける状況にあったでしょうか? 人情を通して見るときは父子の関係でしたが、天情を通して見るときはイエスが主体なので、イエスが神様の愛を代身してきたので、その愛の道理に従って、彼の父母から彼の兄弟まで、すべてイエスから教育を受けなければならなかったのです。父母はこのように生きなければならないし、兄弟たちはこう生きなければならない、兄弟の中で私の相対はこのような女性でなければならないと教育しなければならなかったというのです。ところが、イエスはそのように教育をしましたか? 聖書にそのような話がありますか? これは、本物の葉を抜きにして、枯れ葉だけを持って天国へ行こうと騒いでいるのです。(一九七一・一一・二一、前本部教会)
韓国は歴史的に見ればユダヤ民族と似ています。極東のユダヤ民族だと言えます。日清戦争が韓国ゆえに起こったし、日露戦争、大東亜戦争もやはり韓国ゆえに起こりました。アジアで最も難問題となる国も韓国であり、国連ができた後、国際議員たちが最も頻繁に集まって議論した国もまさしく韓国です。不思議でしょう? しかし、これほど数多くの事情の中でもこの民族は滅びませんでした。
韓民族は、一人ひとりを見れば皆とても優秀です。世界のどの民族と比較しても、一対一で見るときには最高に優秀な民族です。ところが、親たちが教育を誤ったのです。ですから実の父親が教育を十分にできなかったため、私たちが義理の父親のような立場で連れてきて、しっかり教育をして素晴らしい人をつくろうというのです。これを統一教会がしようというのです。(一九六七・六・一一、前本部教会)
それでは宗教は何を教えるのでしょうか? 体が願うままに食べて楽しんで踊りを踊れと教えますか? 時代が進むほど、若者たちに教えるのが難しくなっていきます。(一九六七・五・二一、前本部教会)
天国は心情の世界です。教理の天国でもなく、教派の天国でもなく、心情の天国です。神様がこの地上で民と宗教者を捜し出そうとされるのはなぜですか?
息子・娘をつくるためです。どのような息子・娘をつくるためですか? 「私の心はこうなのだよ」と語りながらその心情を吐露できる息子・娘をつくるためです。(一九六〇・六・一ニ、前本部教会)
四 世の中の教育の限界
むやみに信じることも学ぶこともできない世の中です。誤ったことを学んだら大変なことになります。安心して暮らすこともできません。共産主義者といっしょに暮らしたら大変なことになりませんか? けんかもまかり間違えば大変です。むやみにけんかもできません。(一九六二・一二・一〇、前本部教会)
これまで人間たちは、自分の息子・娘を産んで育てる目的を自分の家庭がよくなることにおきました。逆さまになっています。今日は逆さまになった時代です。天が喜び、世界が喜び、国が喜び、社会が喜んだその次に私が喜べるのです。これが本来の原則なのに、堕落して逆さまになりました。「私から喜び、次に私たちの家庭が喜び、その次に私たちの社会が喜ぶようにしよう」という主張です。逆さまにしているというのです。
天はそういう観点からこの地上を見つめられるので、そのような人間たちを強く打って逆になった時代を終結させていくのです。「復帰の道は打つ道だ。おまえの体を打て」と言われます。キリスト教はそのような修道の道を行くので、個人的にも迫害され、家庭的に迫害され、民族的に迫害され、世界的に迫害される路程を経ざるをえないのです。(一九五九・一一・二二、前本部教会)
今日アメリカの教育方法は個人主義的ですが、これは何の役に立ちますか? そっくり枝から切って捨てろというのです。切り捨てろという話です。完全に切り捨てろというのです。(一九七九・一〇・二一、ベルベディア修練所)
アメリカの若者、個人主義、自分の利益を追求する、これは何ですか? プラグマチズム(実用主義)のような、生活利益を中心とした教育を受けた人々が完全に一八〇度ひっくり返らなければなりません。キリスト教思想を持つこの国が、なぜ個人主義になったのですか? これは神様がしたのではありません。サタンのいたずらによって、このような結果になったと見るのです。何の話か分かりますか? (はい)。( ? )
皆さんは現在アメリカの自由主義的な教育を受け、それが習慣となり、生活感情やすべてのものが自己を中心として動く体制内にいるため、困難が多いことをよくよくうかがい知ることができます。(一九七三・三・一七、ベルベディア修練所)
私がアメリカ全域を回りながら感じたことは、絶対アメリカで暮らしたくないということです。また、子女たちを教育するにおいても、絶対アメリカでは駄目だというのです。(一九六九・一〇・三、東九陵)
五 教育の基準―善
人はだれかれを問わず、どんな人になりたいかというとき、良い人にならなければならないと言い、またそうなることを願っています。先生が講堂に立って、小学校の生徒たちに「君たちは将来、大韓民国にとって素晴らしい人にならなければならない」と教えるでしょう? 同じく中学・高校の学生たち、大学生たちにおいて教育の基準になるのは、あくまでも「良い人になれ」と教えることです。(一九七一・二・一七、城北教会)
個人のために生きる人の中には善なる人は少しもいません。今、東洋で、教育や道徳の基準は何でしょうか? 善です。(一九七二・一〇・二九、前本部教会)
「人々は良い心を持ち、犠牲になる人が良くなる」ということは、具体的な内容は分からなくても、漠然とですが、今日人倫道徳を中心として一律的に教育の目標になっており、教養の目標になっていることを私たちは知っているのです。それはなぜでしょうか? 落ちた立場からより高い一点を願っていて、天は不可避にそのことを一対一の場で細密に教えてあげられないので、暗に象徴的にあるいは比喩的に教えてあげるのです。そのように教えてあげるのが今日善を行えという、積善をしろという話だという事実を私たちは知らなければなりません。(一九七二・一一・五、前本部教会)
善なるものとはどのようなものですか? 発展させることのできる原動力です。ですから与えなければなりません。与えるにおいては、何を与えるべきでしょうか? 一番悪いものを与えるのではありません。服の切れはしを与えるのではなく、食べ残しを与えるのでもありません。生命を与えなければなりません。生命だけではなく、一つしかない愛まで与えなければなりません。これが父母の愛です。それゆえ、統一教会では父母の心情を抱き、僕の体を受肉し、汗は地のために、涙は人類のために、血は天のために流しながら愛を与えよと言うのです。そうすれば滅びるはずがありません。絶対に滅びないというのです。(一九七〇・九・一三、前本部教会)
六 一番大きな教育
先生に会って、なぜそんなに皆さんは喜ぶのでしょうか? 本心がそのように喜ぶのです。なぜ? 自分の夫よりも、その国の王よりも、その国のどんな先生よりも、天倫の愛を接ぎ木するのに近い距離にあるため、本心はそちらに行くのです。人間が教えてあげるから行くのではありません。本心がそちらに行くのです。
教育がある前に愛があるのです。最初、創造物が存在する前に、その原則的基盤が愛から始まったために愛があるのです。本質がそうなっています。物質もそうであり、物質を糾合して人体となった人間も、物質の器に込められている愛、神様の最高の愛に帰ろうとする心があります。本心がそうだというのです。(一九八六・一〇・一、本部教会)
皆さんもそうです。皆さんは神様の愛を受けながら死ぬことのできる場で即座に死ぬのと、愛を受けられず死ぬのとどちらがいいですか? 皆さんはどちらがいいですか? (愛を受けて死ぬほうです)。皆さんは神様の愛を受ける死の道を通るのですか、ただ普通に生きるのですか? どうですか? うん? (愛を受ける死の道です)。同じ道理です。皆さんは神様の愛のために死ぬ自信がありますか? (はい)。そうできるという人は手を挙げてみなさい。そうなれば、皆さんが死んだ時のその思想は、骨と肉と同じようにすべての国民の思想に、血・肉となり力となり、エネルギーになることができるというのです。同じ道理だというのです。そうでしょう?
ですから、正しい指尊者は「死ぬ時には愛のために死ね」というのです。教育の中で最大の教育は何でしょうか? 「死ぬなら愛のため死ね」というのが一番大きな教育だということを知らなければなりません。それはハーバード大学に行って学位を十個取ることよりもっと偉大な教育だということを知らなければなりません、分かりますか、何の話か? (はい)。
では、私たち統一教会は何をしようというのですか? 一体何をしようというのですか? 「最高の愛のために死のう。神様と人類と世界のために死のう」というのです。「このような作用も愛のために始まったし、このような方向も愛のために始まったし、このような目的も愛のために始まった。男性と女性も愛のために始まったし、母親と父親も愛のために始まった。息子・娘も愛のために始まったし、宇宙のすべても愛の贈り物のために始まった」ということを教えるとき、これ以上の教育がないということを知らなければなりません。これ以上の教育はありません! このように生きて逝った人は、きっと神様の前に行っても恥ずかしくないことでしょう。何の話か分かりましたか? (はい)。(一九七七・五・二九、ベルベディア修練所)
さて、神様は天国におられます。理想的天国におられます。それでは理想的天国において、神様の近くで侍って暮らせる人はどんな人でしょうか? 神様のような人だとすれば、神様が怨讐を愛する神様なら、怨讐を愛するために努力し、そのためにすべてを投入する人が、神様のおられる高い宝座の近くに行って暮らすことでしょう。どうですか? そうですか? (はい)。皆さんは、そういうことを嫌っているではないですか。どうですか? (笑い)
このように見るとき、教育の中で一番貴い教育とは何でしょうか? 修養の中で一番貴い修養は何でしょうか? どんなに良い教育だ、教養だと言っても、怨讐を愛そうと努力するために学び、そのような努力をするために修養することが一番良いことです。このような結論が出てくるのです。
「耐え忍ぶ」の忍という漢字を見れば、「忍ぶ」という言葉は心に刃を立てるという意味になります。分かりますか? そういう意味があるのです。大きな荷を背負って大きな仕事をしようと思えば、この耐え忍ぶことが何百、何千、何万、何百万、無限でなければならないというのです。(一九八三・二・六、ベルベディア修練所)
七 産むことよりも立派に育てる
男の子を産みたいと待ちこがれてきた夫婦は、男の子を産んだとしても、その子を産んだことだけで満足してはいけません。その男の子がかわいいだけ、どうやって価値のある息子に育てるかという問題を心配しなければなりません。このような心配をしながら息子をかわいがる人であってこそ、天理を知る人なのです。しかし、このような心配もせずに、ただ男の子を産んだことだけを喜んでいるならば、その人は出発から間違っている人です。どうしたらこの息子が国に必要な人として育つか、という心配をするようでなければなりません。そのような息子として育てるために男の子を願ったとすれば、それは出発から国のために出発したという条件になるのです。これは重要な問題です。
皆さんは今、伝統的な内容を持つ神様の息子・娘の立場に立っていますか? そのような伝統を持ったならば、どの方向に行っても大丈夫です。東に行っても大丈夫ですし、西に行っても大丈夫です。それ(伝統)は横に伸びていくものなので、横的に発展できる基盤になるのです。そのような人はどこに行っても目的の世界に向かっていくのです。
そのような人は学校に行ってもいいし、職場に通ってもいいのです。そのような人は大学に行くとしても問題にはなりません。大学に行っても、その中心が完全ならばそこからみ旨に向かっていくことができるのです。また、職場に通いながらもみ旨の方向に行くことができます。(み旨を歩む)形態が少し誤り、方向が違っているように思えますが、み旨に向かっていくことにおいては違っていないのです。直線で行かずに回っていくかのようですが、そうではないというのです。(一九七〇・八・二九、中央修練所)
皆さんは自分の息子一人を教育するのも大変でしょう? その子どもは自分の血肉を引き継いだ息子・娘です。母親が涙を流せば、心が通じて一緒に涙を流せる息子・娘です。父親が涙を流して悲しめば、ともに悲しむことのできる心が自然に生じる息子・娘であるにもかかわらず、彼らを指導して育成しようとすれば、極めて難しいことではないですか? それを見るとき、今日の私たち人間は神様の息子・娘ではありません。神様がどんなに泣いても知らん顔です。神様がどんなに悲しがっても知らん顔をしているのです。これは人間がサタンの血肉を受けて生まれたからです。むしろ神様が悲しむことを見て讃揚します。滅びるのを見れば喜んで笑うというのです。神様はこのような人間を前にして、指導し開拓の方向を教えてあげようとするのですから、どれほどご苦労が多いでしょうか? しかし、一から百、千、万まで他のために尽くされる心、哀れにお思いになる心が神様になかったなら、神様はこれまで摂理歴史を抱えて歩んでくることができただろうかというのです。(一九七一・三・二一、前本部教会)
先生のやり方は滅びるやり方のようですが、歴史の中で一番素晴らしいやり方です。それゆえ、私がひたすら世の中で排斥され追われながらも、このようにしてみると・・・。成功したのはだれでしょうか? 私に反対した人は皆死んでしまい、その整えられた基盤はすべて私のところに転がり込んでくるのです。じっとしていても、遠い海の果てにいても。皆さん、「十戒」の映画を見ると、イスラエル民族が海を割って渡っていくのですが、あのように福が海を渡ってくることは問題ではありません。太平洋を渡ってくることは問題ではありません。自分の主人を捜し求めてころころ転がってくるのです。
このような原則を中心として先生が今まで闘争してきたことを考えるとき、文先生は絶対に滅びることが、できる? (できない)。できないのです。子どもたちにこのような教育をしっかりとしなければなりません。私がなぜこの話をするのでしょうか? 重大なる私たち一家において、今やアベル家庭を中心とした伝統をはっきり教えてあげなければならないがゆえに、この話をするのです。(一九八四・二・一三、アメリカ)
第三節 子女の指導方法
一 子女指導のときの父母の心
1 子どもが父母より優れることを願う
父母の心情について見るとき、おばさんの顔が醜いとしても、そのおばさんが抱いている子どもを見て通りすがりのおじさんが、「おい! その子、お母さんより何千万倍も器量がいいね」と言ったなら、どれほどうれしいですか? うれしくて「えへへ」と笑います。(笑い)それでは、母親は子どもより何千万倍も器量がいいということですか、悪いということですか? 世の中で、どこの母親がこれを聞いて「何ですって? 私より何千万倍見栄えがいい? それなら私は何千万倍も器量が悪いということじゃないの?」と言うでしょうか? そう言って食ってかかる母親がいますか? いますか、いませんか? ただただうれしくて仕方がないのてす。これが母親の心です。そうでしょう? そのような心はだれに似たのでしょうか? 母親は結果的存在であって、動機的存在ではないというのです。
息子が父親よりも劣ることを願う家庭があるとしたら、その家は滅びますか、栄えますか? 滅びるのです。父親は大統領なのに息子は親よりも劣るという場合、そのような形が何代も続いたならば、その家はだんだん落ちぶれていくのです。最後には、恥ずかしくて穴でもあれば入りたいような身の上になることでしょう。
ですから、子どもが父親に「私がお父さんより劣っていて良いものでしょうか?」と言ったら、父親が「何だと、こいつ!」と言いますか、「よしよし、そうだとも」と言いますか? どうしますか? 後者を取るのてす。(一九七一・二・一七、城北教会)
2 子どもが父母より善なることを願う
いくら悪い父母だとしても、子どもたちに「私は殺人強盗だったから、お前たちも殺人強盗になれ」と言う父母がいますか? 自分は悪人であっても子どもに教育するときは、絶対悪い人間になるなと言います。子どもに対して「お前は悪い人間になるな」と言うのは、父母である自分は悪いという話です。「お前はまともな人間になれ」と言うのは、自分はだめだったという話です。
子どものためには、われを忘れて完全に投入することが善であり、そうでなければ残れないことを知っているというのです。それが教育の恒久不変の原則です。これを社会化させ、世界化させればいいのです。そうではないですか? 父母を悪いと言う人がどこにいますか? 少し前に、ある父母が自分の息子を孤児院に送っておいて世界遊覧に出かけたという報道を見たことがありますが、そういうことをするから子どもが悪くなるのであって、どこへ行くにも父母が子どもを同伴しているのに、それでも子どもが悪くなる例を見たことがありますか?(一九七〇・一一・一五、前本部教会)
父母が子どもに教訓を与えるときに、子どもに悪人になれと教えますか? 父母は心を備えられず与えるものがないとしても、自分が持っている善はそのままそっくり譲ってあげたいのです。自分が貴いと思うものはそのままそっくり与えたいし、そこに利子の利子、利息の利息を全部足して与えたいのです。それが父母の心です。そうですか、そうではありませんか?(一九六四・三・二三、大邱教会)
3 子どものためには命懸け
ある人が世の中で誇れるほどの金銀宝物を所有し、血と汗を流して多くの財産を集めましたが、父母が今にも死にそうだというとき、彼が父母を愛するという心を強調し、またそれを重要視する人であれば、父母が生きる道があったなら、そのためには自分が大切にしているすべての財産を投入することでしょう。自分が貴いと思う外的なすべてのものを捨てることができるのではないかというのです。また子どもを愛する父母も、子どもがそのような運命に直面したならば、子どもが生きるためには外的なものは問題にならず、自分の生命を投入してまでも生かしたいと思うことでしょう。(一九七〇・九・六、前本部教会)
私が幼かったころ、カササギのような鳥の巣においてよく見かけました。もう殺されるとばかりに、こんなちっちゃな鳥がこの図体の大きな・・・。私たちのような人間は図体が大きいではないですか? その時、少年時代にも大きかったのです。登っていって巣を見ていると、飛んできて突っ突くのです。突っ突くときは命懸けでしょうか、遊び半分でしょうか。命懸けです。必死です、必死。一回だけではありません。払いのけると、手に当たって飛んでいきながらもまた来ます。ひゃ! 自分の生命を越えて、愛する子を保護しようとする動物世界の力があることを否定できません。それを皆さんも見るでしょう?
人も同じです。愛のために生命を投入することができなければなりません。そのような人が真なる人です。さっき、真と言ったでしょう? 本当に善なる人はどんな人でしょうか? 愛を根として、自分の生命を投げ出しながら愛する人を保護しようとする、そこに主体的善があるのであり、相対的善の論理を立てることができるのです。これは永遠不変です。それを認めますか? 善の真正なる愛・・・。(一九八九・一・二四、一和龍仁工場)
私がダンベリーにいる時、おもしろいものを見ました。斜面をテニスコートにするためにブルドーザーで整える作業をしたのですが、長引いて冬も過ぎ、春になって、それから作業を中断したりもして、また雨期になれば乾期になるまで待つのです。約二~四週間、雨期が過ぎた後に作業をするのですが、そこに水鳥が巣を作ったのです。そこに囚人たちが運動がてらに歩くコースがありますが、そこからほんの三メートル離れたところに水鳥が巣を作りました。その水鳥の色は、ちょっと見ただけでは見分けがつきません。通り過ぎる人には分からないのです。その保護色がなんともうまく出来ていて、卵を産んで孵化するまでは、人が通っても分からなかったのです。毎日のようにその道を歩いたにもかかわらず。うずくまっている様子を横から見ると、こげ茶色のような保護色なので分からなかったわけです。
それから、卵が孵化しました。ひなが出てきて何かえさを与えなければならないので、鳴き声が「チッチッ」と聞こえるようになり、皆が知るところとなりました。囚人たちにすっかり知られてしまいました。意地の悪い連中は巣のあるところへ行って、やりたい放題いたずらをしたのです。
ところで、その水鳥が自分のひなに対してどれほど保護力があるかと言えば、えさを捕ってくわえて来るとき、絶対に自分のひなの近くに飛んではきません。遠く別なところに下りて、ひながいるところまで這うようにして来るのです。ところが、それが毎日方向が違うというのです。なぜかと言うと、鷹がねらうときには、その飛んでくる方向を察知して、ひなをしっかり守ろうとするからです。だから方向を変えるわけです。そのようにして、ひなを育てていくのです。
このひなたちが、だんだん大きくなるではないですか? ですから、人がそばに行っただけで、親鳥が目の前に出てきて大騒ぎするのです。ひなを見るなというわけです。(笑い)そのようなことをだれが教えてあげるのでしょうか。毎回そうなのです。このようにくるりと背を向けて去ろうとすれば静かにしていますが、さっと近づけばまた大騒ぎして。(笑い)だれかがそのように教えたのでしょうか? それは宇宙の力です。父子の関係・・・。神様の愛を軸にして、すべての万物が平面的な位置にあるために、位置は低いですが、その平行線上の基準は変わらないようになっているというのです。分かりますか、何の話か?(一九八五・一二・二〇、漢南洞公館)
ミツバチがそうです。花を探してまわってミツをかぎつけたときには、足を使ってもぐり込み、羽が濡れようがおかまいなく、羽をばたつかせて尻をぐっと突き出して吸っているのです。私は養蜂の仕方をよく知っています。うちでは養蜂をたくさんやりました。ハチについて詳しいのです。ミツを味わっているハチをピンセットでぎゅっとつかんで引っ張ると、お尻がプツンと取れても離れないのです。おや! あのミツがどんなにうまくて、自分の命が絶えても頑張って放さずにいるのだろう!
真の愛はそのような愛だというのです。自分の生命までも忘れてしまいながら、捨てることができないのです。計算、打算していくら利益になるからというものではないのです。生命までも捨てて、忘れて去って行くことができる道が真の愛の道です。父母はその道を行くというのです。子どもを愛する父母は子どもが死地に赴くことになれば、子どものために死の場に行こうとします。愛の前に自分の命を埋葬して行こうとするのが父母の心です。その愛が真の愛です。分かりますか?( ? )
二 子女の指導方法
1 威厳ある家庭での子女教育
皆さんの家庭が、「あの家は相当な家門だ」と言える基準になっているとしても、その家の子どもたちは何をするにも気をつけなければなりません。つまり、立派な家門で育った子どもたちは何につけても注意しなければならないというのです。一歩を踏み出すにも注意しなければならないし、一言言うにも注意しなければならないし、どんな行動をするにも注意しなければなりません。礼法が複雑だというのです。このようなことが好きな人はいますか? このごろは自由が度を越して自堕落的な自由になり、今は飽和状態にまで至ってとても深刻になっています。このごろの若者たちはそのような礼法が好きですか? ですから、ただそのまま放っておいたら、皆滅びるのです。行くところがないという話です。
威厳がある家庭では、子どもを教育できる資料がたくさんあります。目上の人に対する場合、兄弟に対する場合、父母に対する場合はどうしろと、育っていく子どもたちを集めておいて教えるのです。(一九七一・二・一九、西大門教会)
2 精誠を尽くす
私たちは礎石を正しく置かなければなりません。基準点をうまくつかまなければなりません。礎石を正しく据えてこそ全体がしっかり立ちます。ここにこのコーナーストーン(礎石)をどう置くかによって、宇宙の勝利と歴史的勝利が左右されるという事実を考えれば、今日皆さんが、何でもない私たちが、このコーナーストーンを置くにおいて、主役を演じているということは恐るべき事実です。
それゆえ、精誠を尽くしては経過を見て、また直し、経過を見てはまた礎石を据えなければなりません。私たちが未熟なので何百倍何千倍精誠を込めて、直し、また直すという歩みをしてはじめて、完熟した理想の結果を持つことができると考えるのです。
百年後に、三百年後に、千年後に見るとき、このコーナーストーンが間違っていたとなれば大変なことになります。これさえ正しければ、他の礎石がずれてもこれを中心として、いくらでも収拾していけるというのです。(一九七五・一二・三一、ベルベティア修練所)
人々はだれでも素晴らしい子どもを持ちたがります。それでは素晴らしい人として育てるためには、どう教育しなければならないのでしょうか? ある人々は幼稚園から大学まで学校が多いので、そこで教育すればいいと言うかもしれません。しかし、教育は一生の間しなければなりません。精誠を尽くさなければなりません。(一九六九・八・二四、前本部教会)
新しいことを起こしてくれる人が必要です。だから、悪に染まらない人たちをつかんで身もだえする人を、神様はより愛されます。赤ん坊のときから精誠を尽くして育ててくれる親たちがいなければなりません。今は若い人々のために生きる忠臣が必要です。統一教会は今までこのような人々をつくるために、皆さんを引っ張ってきました。
私たちは中以上を見つめながら進みますが、中以下を知って、彼らから歓迎を受けなければなりません。祝福家庭が苦労することも、このような意味で意義があるのてす。
自分の子どもが哀れに思えたら、三千万の子どももまた哀れだということに気がつかなければなりません。そうなれば、その子どもは滅びません。(一九六四・六・二〇、東九陵)
父母は自分の後孫のために精誠を尽くさなければならないのです。自分の後孫たちを皆祝福してあげ、豊かに暮らせるようにしてあげてから、逝こうとしなければなりません。そのような家庭は滅びません。(一九七〇・六・二八、前本部教会)
私たち祝福家庭の人々、祝福家庭の息子・娘たち、その息子・娘の息子・娘たち、すなわち三代が、どうしたら先生とともに生きることができるかということが大きな問題です。分かりますか、何の話か? 三代が功臣になるとすれは、天下にない天上世界の功臣になるということを考えてみましたか? それゆえ、自分の息子・娘を抱いていで立ち、今からそのような思想を入れるために教育し、精誠を尽くさなければなりません。(一九七一・一一・二八、前本部教会)
子どもに正しく教えなければなりません、正しく。皆さんに食べる物がなかったならば、涙を流して神様に祈祷しなければなりません。その祈祷によって、飢えた父母の前に神様が同情して米を持ってきてくれる、そのような事実を、神様が生きておられることを見せてあげろというのです。見せてあげろというのです。お母さんとお父さんを神様が愛しているので、通りすがりの人がお金を持ってきてくれる、そのような事実を教えてあげろというのです。(一九八六・一・二六、本部教会)
3 苦労をさせよ
韓国の格言の中に「愛する人にはむちを与え、憎い人にはご飯を与えろ」という言葉があります。知っていますか? それはまた一理ある言葉なのです。なぜ? 正しい伝統を引き継いでいくためには、父母の愛のむちを通して痛みを感じ、その愛の前に涙を流せる人にならなければなりません。それが理解できますか、何の話か? (はい)。(一九七七・一〇・二三、ベルベティア修練所)
皆さん、甘いものから苦いものが生まれたのでしょうか、苦いものから甘いものが生まれたのでしょうか? どちらが先ですか? (苦いものです)。(笑われる)そうです。世の中の道理がそうなのです。では、夜から光が生まれたのでしょうか、光から夜が生まれたのでしょうか? (夜から光が生まれました)。(笑われる)そうなのです。だから、苦いものを好きになれば、甘いものはいくらでも生まれてくるのです。苦いものをいくらでも持とうとする人は、甘いものをいくらでも創造できるというのです。では、愛とは良いもの、愛とは甘いもの愛とは苦いもの、どのようなものですか? (甘いものてす)。それは西洋の人たちが言う愛で、東洋の人は、愛とは苦いものだと言うのです。(笑い)そうなのです。それゆえ、アジアの人は本当に甘美な味を知ることができますが、甘い味だけを知っていてはこの苦い味は消化できないというのです。
一生の間働きたいという人が多いでしょうか、一生の間働かないで遊んて暮らしたい人が多いでしょうか? どちらですか? 働かないで暮らせるのがいいですか、働いて暮らせるのがいいですか? (働いて暮らすほうです)。さて、皆さん、アリとキリギリスの寓話、童話を知っているでしょう? 皆さんはどちらを尊敬しますか? キリギリスのように、ただ踊りでも踊って露を浴び、朝の日の光を見ながら歌でも歌って暮らすのと、それはもう朝に夕に暑いときも休まず働くアリと・・・。アリはそのまま真っ黒に焼けてしまったのです。真っ黒に焼けて腰がくびれてしまって、このように暮らすアリを見るとき、皆さんはアリになりたいですか、キリギリスになりたいですか? アリはとても働いて黒く焼けました。分かりますか?(笑い) キリギリスは口だけ大きくなったのです、口だけ。
それでは、皆さんは教育する際にキリギリスになれと言いますか、アリになれと言いますか? どちらになれと言いますか? (アリです)。それはなぜでしょうか? では、若い青春時代はキリギリス時代だから遊んで、年を取ってからアリのように暮らせばいいというのは正しい考えですか、若い時代にはアリになって、年を取ってからはキリギリスになるのがいいというのか正しいですか? どちらですか? (若いときにアリのように働くことです)。本当ですか? (はい)。年老いてから歌って遊ぶ体力がありますか? (笑われる)歌うことができず、こうして眺めて笑っているだけでも歌うのよりはましだということを知らなければなりません。(一九七八・八・一、イギリス)
4 ときには強制的に
私たち人間世界では、私たち自体が思うままに生きようとし、思うままに行おうとすれば必ずブレーキが掛かるのです。それはなぜでしょうか? そのまま放っておけば、滅びるからです。真の道であるほど、そこに比例してブレーキが百パーセント掛かるようになります。なぜなら人間が堕落したからです。
神様は人間がしようとすることを百パーセント阻む役事をなさるのですが、そうしなくては堕落した人間を救えないからです。神様と本質的に相反する立場に立った堕落人間を救う方法は、人間自体が模索できないのです。それは神様が模索されるのです。
それでは、神様はどう模索されるのでしょうか? 人間自体をそのままおいてされるのではありません。どこにもいけないように引っ張って城内に閉じ込めて教えなくてはなりません。
悪い人が善なる人を拉致して悪い人をつくればそれは悪です。しかし、善なる人が悪い人を拉致して善なる人をつくるのならばそれは善ですか、悪ですか? 悪なる人を拉致して言うことを聞かなかったら、体を打ってでも、その人が「ああ! 私は善なる人だ」と言えるようになったら、その人は善なる人なのです。反対に拉致してその人を悪くし、その人を滅ぼせばそれは悪です。(一九七一・二・一九、西大門教会)
皆さんの中にも、牛を育てながら飼い葉を食べさせたことのある人がいるでしょう。梅雨のときや天気の悪い日には、牛に飼い葉を食べさせるのは本当に嫌です。私も昔、牛の飼い葉を食べさせるために出かけて、牛にむちを打つこともしました。今笑っている人たちは、そういう経験があって通じるようですね。私だけがそんな体験をしたのではなかったわけです。私の両親が、牛を連れていって草を腹一杯食べさせ、何時までに帰ってこいと言ったのに、平地には草が一つもないのでどうしますか? そんなときは、「えい、知るもんか。裏山にお父さんが一番愛する草原があるから、そこに行って食べさせよう」とその急な山を引っ張って登るのです。ところが、この牛が登らないで、途中にある少しばかりの草を食べようとするのです。そのときは「この牛め!」とむち打って、棒で殴るのです。それでもかわいそうではないのです。そういう気持ちを感じたことがありますか? このように無理矢理に引っ張っていって、川を渡り山を登らせて、いざその場所に行って放してやれば、その牛がどうしますか? 食べるなと言ったところで、食べずにいますか? そのときには、舌はもちろん、唇、耳、目まで皆ありがたいと言いながら、その場を独り占めして食べているのです。
先生はそうすることのできる所を知っているので、今まで皆さんを制裁しながら進んできたのですが、皆さんはそれを知らずにいるというのです。皆さんはそんな所があるということも知らないのです。皆さんがそれをはっきり知ったなら、かえって制裁してもらうことを願うことでしょう。何の話か分かりますか?
また、昔六・二五動乱が起きた当時、避難する途中で私はこれと同じ場面をたくさん見ました。母親が数えで五歳くらいの子どもをおぶって出てきたのですが、まだ幼いために戦争が起こって避難しに行くことも知らずに、ただどこかに行くというので鼻唄を歌いながら喜んでついて来るのです。ところが、おぶって歩くうちに母親が疲れてしまい、子どもをおろして歩かせるのです。すると、子どもが「お母さん嫌だよ、おぶってくれなきゃ行かないよ。おぶって、おぶって」(笑い)というのです。
このようなとき、子どもを愛する父母はどうしたらいいでしょうか? おぶってあげるべきです。それが情意です。しかし、おぶってあげれば二人とも死ぬのです。それではどうすべきですか? 歩いていかせなくてはならないのです。歩かないと言えば、脅してほほをなぐってでも行かせなければなりません。そして避難所まで行かなければならないのです。
皆さんがその父母だったらどうしますか? 捨てて行きますか、殺しますか? あるいは強制的にでも引っ張ってつれて行きますか? どんな方法が一番良いでしょうか? 捨てる方法ですか? 殺す方法ですか? それが嫌ならどうしますか? 何としてでも連れていかなければなりません。耳をつかんで裂けても、鼻輪をつけてでも連れていかなければなりません。
それが本当の愛です。そうして無事に着きさえすれば、自分の友達は皆死んだのに私だけが生き残った、「本当にお母さん、ありがとう」と言うのです。ところで、耳が裂けたために、せっかくの美人が台無しになってお嫁に行けないと不平を言う女がいたなら、雷に打たれて死ななければなりません。その裂けた耳を見れば見るほど「うちのお母さんの愛は偉大だったな、父母の愛は恐ろしいな」ということを感じながら、千年万年自分の父母を尊敬することのできる印にするのです。
皆さん「先生は私たちがご飯さえ食べたら、すぐ苦労させようとする」と言うでしょう? そうです。私は皆さんに情けがありません。仕事をさせるときは情けがありません。しかし、ともに暮らすときは情けがあるというのです。
働かせるときには、無慈悲に鼻に縄を付けてでも連れていかなければなりません。疲れて行けないと言えば足でけって、棒でなぐってでも追い立てなくてはならないのです。これが正当な方法です。
なぜそうしなければならないでしょうか? 神様の最高の愛を受けることのできる圏内に入らせるためです。今までどんな宗教人も越えられなかったその基準を越え、どんな団体もできなかったほど精誠を尽くし、どんな国も備えられなかった形態を備え、神様が今まで愛したくても、どんな団体をも愛することができず、どんな国をも愛することができず、どんな世の中をも愛することができなかったその愛を、そっくり独り占めさせるためです。それゆえ、これは正当な教育方法であり、正当な作戦なのです。 (一九七〇・七・一九、前本部教会)
5 愛のむち
韓国のあらゆる風習もそうではないですか? 名家の子どもたちも、勉強しなければむちで打つのです。日課を、すべて厳命によって一日の過程を経ていかなければなりません。そして、できなければ、脱落するのです。(一九八三・四・一〇、本部教会)
優しい言葉を使ってでは教育になりません。おじいさんが孫を教育しようとむちを手元に置いて、タンタンたたきながら「こいつら、言うことを聞け!」と言うでしょう? それが教育する方法です。( ? )
では皆さん、幼いとき両親にぶたれて、叱られたことは忘れられない・・・。おまけに先生からもですね、私が昔習字を習いに通っていた時、訓長というのかその先生が、訓長がたいてい論語のようなもの、孟子のようなものを何枚か読み上げて講義をし、生徒が次の日の朝に必ず先生の前で暗誦するのです。できなければ体罰を受けました、体罰。とにかく私は体罰を受けたことを思い出します。その時はどうか・・・。先生が振り上げているその手がピタッと張り付いたらいいのに、そんなことを考えるのです。(笑い)訓長がぶるぶる震えだしてむちを放り出したらいいのに、とあらゆる思いをめぐらすのです。(一九七八・一〇・二九、クムソン女子商業高等学校講堂)
皆さんが息子・娘を呼ぶときも「おいっ!」と雷が落ちて天井が吹き飛ぶかのように呼ぶのと、ただ「おい」と呼ぶのと二種類あります。愛で「おいっ!」と呼ぶのと、怒りながら「おいっ!」と呼ぶのと、声は同じでも二つの世界に分かれます。一つは天国に、一つは地獄に。違いますか? むちもそうです。むち打つのにも二つの種類があります。愛のむちがあるというのです。そうですか? 愛のむち。
夫婦が二人で暮らしながら、夫に対して女性たちがしきりにチクチクと突っ突くでしょう? 友達の間でチクチク突っ突けば毎日のようにけんかをするはずです。「こいつ! なぜチクチク突っ突くんだ?」と言いながら。けれども、妻がチクリと突っ突けばくすくす笑うでしょう。(笑い)自分を壊れるようにたたくのは、それだけ深く愛しているからです。違いますか? むちの中にも二種類のむちがあるというのです。(一九八七・一一・八、本部教会)
愛のむちは即座に忘れてしまうのです。子どもたちを見なさい。私は子どもをたくさん育てていく中で、あるときには叱りつけることもあります。私なりに叱るときは大声を上げたりもしますが、それもほんの一日だけ過ぎればすっかり忘れてしまいます。それゆえ、子どもたちが貴いのです。成長してもそれを忘れずにいて、「そうだ、いつか私にこうしたでしょう」とは言いません。愛のむちは忘れてしまうのです。(一九八六・二・一六、本部教会)
愛のむちは福がついてくるというのです。それが理解できますか? (はい)。愛のむちは何がついて来るって? 盗賊がついてきますか? (福がついてきます)。何ですか? (福です)。福が好きなんですね! (はい)。そうだというのです。父母が罪のない子どもをなぐったという場合には、父母の心臓、その大本の財産の根底がすべて溶けていくのです。ぶたれても喜ぶ立場に立てば、そのお母さんとお父さんはその子どもの前にこうべを垂れて痛哭しなければならないというのです。愛を中心としては、権勢のある王がありえず、権威を代表した父母がありえないのです。( ? )
6 愛の涙で治めなければならない
今までの韓国語は偽物の言葉です。心情が備わっていない言葉でした。もう、きょうからは心情が備わっている言葉を使わなければなりません。真の父母の思想、神様の思想を中心とした言葉を使わなければなりません。むやみにけなすことはできません。家で息子・娘に向かって「こいつ!」と言えません。悪口はありえないというのです。むやみに手出しはできません。息子・娘は第二の神様です。また、息子・娘たちは父母に反対できません。父母は第一の神様です。おじいさんとおばあさんは、またその上の神様です。(一九八五・一二・二九、本部教会)
情緒的分野において自分より相手がかわいそうだという心を持って、行く道を直くしていくようにすれば、自然に一つになれる道が生じるのです。父母が子どもに対して腹を立て、手でなぐったならばどうですか? 父母はすぐ悔い改めなければならないというのです。なぐらないで、ただ子どもを哀れんで、お母さんが涙をポロポロ流しながら愛せば、かえって効果があるというのです。皆さん、そうではありませんか? そのようにすれば、母親は屈伏しないで、いつでも勝利者として息子・娘を屈伏させることができるのです。むしろなぐれば効果が少ないというのです。兄が弟たちを最後まで憎んでいたら、兄は逆に屈伏させられます。そうなりうるでしょう? (はい)。それゆえ、統一するには何がなくてはなりませんか? 情緒的分野がなければなりません。( ? )
先生の家庭も同じです。母親が子どもたちに対して手を出すには、先生から許可を得なければなりません。「一度叱ってやらなくてはなりません」と言えば、私が「おやりなさい」と言ってから叱ります。叱らなければならないときは、そのようにして叱るというのです。万一、そのような何かがなく子どもに手出しをした場合は、放っておかないというのです。それではいけないのです。どれだけ愛で対したのかというのです。それが問題になるのです。これらの問題を知らなければなりません。分かりますか? もう皆さんが個人生活をどうするべきか分かったでしょう?(一九七一・五・六、中央修練院)
7 み旨に一致した子女に育てよ
神様のみ言を責任なく語れば、力が抜けるようになるのです。神様のみ言を受けたら、そのみ言を信じなければなりません。語った内容の対象が自分自身であるにもかかわらず、自分がある対象的な内容を成しておかずに感じることを言ってしまえば、そのみ言が出るときにそのまま出ていきません。必ず自分の持った善の量を引っ張っていくというのです。
それゆえ、昔の名家では子どもを教育する際に、朝はできるだけむやみにしゃべるなと教えました。朝は、なるべく先に話さないで聞けと教えたのです。このような態度は信仰生活においても必要だというのです。(一九七一・一・二四、前本部教会)
祝福を受けた食口は神様の主権、神様の民族、神様の領土に対し観念的にではなく実体的につくり上げ、いつも考えなくてはなりません。これに責任を負った立場で活動する時です。だから一歩を踏み出すときも、この目標を成すために踏み出さなければなりません。
子女たちを教育するときにも、どうすればみ旨に対する使命を果たす人に育てることができるかを考え、乳飲み子にお乳を飲ませるときも、このように考えながら飲ませなければなりません。(一九六三・一・二五、前本部教会)
メシヤが必要とする夫婦となり、メシヤが必要とする子どもを産みなさい。「国の伝統を持つ国の息子になれ。主権者の伝統に従え」。それを成すことのできる教育をする父母にならなければなりません。愛するときも「かわいい、かわいい」という一般的なものではだめです。「ああ、神様は数千年間復帰路程を通して愛を受けることのできる男女をどれほど待ち焦がれて来ただろうか?」と思わなければなりません。その心情を持った愛する子女がいて、国があってこそ、世界が生まれると考えなければなりません。
ですから、眠るときも正しく眠りなさい。そう考えて教育するのです。だから死ぬ時に遺言する父母ではなく、生きているときに教える父母にならなければなりません。子どもたちがよく教えてくれたと感謝しながら、死んでいく父母にならなければなりません。遺言する時、あわただしく「あっ、これこれしてはだめだ」と言う父母になってはなりません。秘密をともに分かち合って、ともに成す実績を見つめながら、どうか頑張ってくれと言いつつ、喜びながら逝くのが私たち父母の仕事です。(一九七二・四・二三、東京教会)
三 勉強はなぜしなければならないか
1 勉強するのは簡単でない
勉強したくて学校に行く学生がどこにいますか? 皆初めは仕方なしに通うのです。まして小学校の生徒たちはお母さんとお父さんが恐くて仕方なく通うのであって、勉強したくて通う子どもがいますか? 一番初めは皆そうだというのです。仕方なく通っていると、後になってその味を知り、学ぶために通うというのです。そうなれば、お母さんとお父さんがびっくりさせられるのです。その味を感じることにより、そのような刺激的な内容がそこにあるということを知るときには、勉強することに楽しみを見いだすようになるのです。楽しみということそれ自体をおいてみるときは悪いのです。しかし相対的に勉強してみると、私が思いのままにできる範囲が広がるので、そこに味をしめて勉強するのです。勉強すること自体が好きな人はー人もいません。眠ることが好きな人はいても、初めから勉強するのが好きな人はいないというのです。勉強することで自分の活動できる範囲が広がるので好きなのです。(一九七〇・一一・二二、前本部教会)
学生たち、学校に行くのが好きですか? 学校で勉強するのが好きですか? 実際のところ勉強して何かおもしろいことがありますか? 考えてみなさい。朝早く学校に行って、五時間、六時間辛抱して座りながら先生の話を聞いて何になりますか、すぐさま運が開けるようでもないのに? 勉強すると言いますが、それはおなかがすいたときに食べるご飯のように味が出ますか? それはもどかしいというのです。このような立場で見た場合には、勉強することが皆嫌いになるのです。しかし、勉強しなければならないので仕方なくするのです。(一九七一・二・一九、西大門教会)
学校に行く学生に対して父母は、一生懸命勉強しろと言います。それは楽な道ではありません。苦痛を伴う道です。しかし、それは未来のために準備せよという予告なのです。教授たちが壇上に立って、教え子たちに熱心に教えてあげるのも未来のための準備です。農夫が農地に出て一生懸命働くのも未来のための準備であり、この国に天国を建設するのための準備なのです。(一九八六・九・二一、本部教会)
2 勉強する目的をどこに立ててあげるべきか
統一教会の文先生だからといって、皆さんと何か違うところがあるわけではありません。体は少し太っているかもしれませんが違うところはありません。
それでは何が違うでしょうか? 良心を中心として見る観点が違うというのです。行動してその結果の差が違うというのです。例を挙げて言えば、息子・娘を産んで育てるにおいて、自分たちが老いたので良い暮らしをするために勉強させる父母と、自分の町内を豊かにするために勉強させる父母がいるとするなら、どちらの父母がより善なる父母ですか? 「町内のために勉強させる父母です」それは皆知っているので教育が必要ないのです。
さらに進んで、「町内のために勉強させる父母と国のため勉強させる父母のうち、どちらの父母が善なる父母ですか? 言い換えれば「お前が勉強するのはこの国、この民族の運命に責任を持ち、後代万民の復帰の土台を開拓するための一人の先覚者として立つためである」と言いながら、精誠を尽くして息子・娘の将来を追求する父母と、町内のために尽くす人になることを願って息子・娘の将来を追求する父母のうち、どちらの父母が素晴らしいですか? さあ、答えてご覧なさい。どちらの父母が素晴らしい父母ですか? そちらに座っている男性、一度答えてご覧なさい。(国のために勉強させる人です)。
国のために勉強するのも素晴らしいです。しかし人間は一つの国の主人になるための資格で生まれたのではありません。それだけでなく、万民を主として生まれた世界的な人間だというのです。この地球星は人間のものなので人間はこの世界のために生きるべきです。
それゆえ、子どもに勉強させるにおいても、「お前が勉強するのは大韓民国のためにもするのだが、これからの世界のためにするのだ。だから、民族を越え、氏族と人種を超越する博愛思想と兄弟の心情を持って、お前の体とお前の一生を大切に万民のために犠牲にし、万民の福祉のための開拓者になりなさい」と誓わせ勉強させなくてはなりません。そんな父母と、国のための忠臣の道理を教えながら勉強させる父母のうちどちらの父母がより素晴らしい父母ですか? おばさんたち、話してご覧なさい。そこの顔の丸いおばさん、答えてご覧なさい。どの父母がより素晴らしいですか? (世界のために勉強させる父母です)。みんな知っているのですね。そうだというのです。(一九七一・一・八、議政府教会)
3 「勉強をよくしろ」という催促も必要
父母が子どもに対して「寝たいときには寝なさい、遊びなさい。いつも食べて寝て遊び回っていなさい」というほうがずっといいのに、なぜ「勉強しろ、兄弟げんかをしてはだめだし、父母を愛して、どうしろこうしろ」そういう話ばかりを皆するのかというのです。けんかするなとだけ言いたいのではありません。(一九七七・一〇・二三、ベルベディア修練所)
皆さんは、分かっていても、私が話してあげなければ力が出ないのです。しょっちゅう話さなくてはだめなのです。学校に行く子どもたちに対して、勉強ができても「勉強しろ」というのと同じで、しょっちゅう話さなければだめだというのです。(笑い)ただ放っておいてはだめです。 (一九八四・五・四、イースト・ガーデン)
見なさい。皆さんのお母さんとお父さんが「幼稚園に行って先生の話をよく聞き、勉強をよくやらなければならない」「小学校に行っても勉強をよくしろ」とプッシュして、「中学校に行っても勉強をよくしろ」とプッシュ、「高等学校に行っても勉強しろ」とプッシュして、大学に行ってプッシュするのです。博士学位の勉強をするときもまたプッシュするのです。(一九七九・二・二五、アメリカ)
大部分の子どもたちは皆遊び回ろうとして、近所の子どもたちに会えば「ああ、いいなあ」と思い、近所の犬を見てもいいなあと言って、飛び回って遊ぼうとする子どもに「おい、こいつ! だめだ、こいつ!」と叱って、「エンエン」とこのように涙をポロポロ流しながら勉強するようになれば出世するのです。だれのために勉強しますか? 自分のために勉強するのではありません。国のために、世界のために勉強するのです。何の話か分かりますか? これが正しいことですか、悪いですか? 悪いことですか? (正しいことです)。
皆さんはお母さんとお父さんにぶたれるのは好きですか? (はい)。子どもが勉強しないとそのお母さんが「おい、この子は! 私がお前のお父さんと出会って苦労しながら、ただひたすらお前に勉強させるのは、お前たちに幸福になってほしいからなのに、どうしてしないのか、この子は! 私の気持ちが分からないのか、この子は!」と言ってなぐるのは堕落した歴史ゆえなのです。この歴史を立て直し世界を立て直さなければならないというのは、皆さんと私との約束であることを知らなければなりません。 (一九七八・三・一、アメリカ)
四 父母が教えるべきこと
1 勉強よりもっと重要なこと
さて、ここで私から祝福を受けた人、手を挙げてみなさい。お、おお! それでは君たちは、どこに向かっているのですか? 今先生の言葉を聞く前には、自分の思い通りに暮らしたのです。このごろ祝福家庭の人たちは、自分の二世たちに「勉強しろ、勉強、勉強・・・」と言うのです。自分たちが信仰の道を行くにおいて、本質を失ってしまったばか者たち! これは何というか、気の抜けた者になって・・・。自分の息子・娘に勉強しろと言って息子・娘が孝道をして、忠臣になると思いますか? とんでもないというのです。「統一教会でお母さんとお父さんは苦労をしたけれど、私はそんな道は行かない!」こう言うのです。それを消化させられる愛の道理を教えてあげなければなりません。
それゆえ、母親と父親が息子・娘を連れて回り、引き連れて回りながら、ご飯も食べずに町内を愛し、国のために祈り、涙を流し、このようなことは物心つかないときは悪いことだと思っていたのに、成長したときには「私たちのお母さんとお父さんが一番だ」と言うのです。お母さんとお父さんは自分の子どものために涙を流すのではないことが分かります。自分の子どもを捨ててでも、国を愛そう、神様のみ旨のために生き、人類を救おうとした事実が、成長すれば成長するほど分かるというのです。私はそれを知りました。
孝進について見ると、孝進が物心つかないときには分からなかったけれど、物心がつけばつくほど父親の前に顔を上げられずこうべを深々と垂れるのです。このごろはそうです。私がアメリカを離れるのに、自分の妻の兄弟に当たる人に電話―私に直接電話できるのに―して「おい、お父様が何をするのか日々全部調べておいて、私に報告してくれ」とそう言うのです。
それは父親に聞いてみればいいのに、母親もここに来ているのだから聞いてみればいいのにです。父親に尋ねることが・・・。そう思えば思うほど、顔を上げるのではなく、ただ私さえ見れば・・・。昔、幼いときの父親と今でも変わりない父親なのに・・・。このようなことを見ると、私は逆にすまないと思います。それで私が先に顔を向けることがあります。
気ままに生きてはだめなのです。宇宙がその道に追い込むというのです。皆さんが子どもたちを心配したからといって、その子どもたちが良くなると思いますか? 違います。愛の糧を食べさせて育てなければなりません。愛でもって行くことのできる方向感覚を教えてあげなければなりません。物心がつけばつくほど、年がいけばいくほど、そこに黄金板を発見するとき、一点の金しかない山だと思ったのに、掘り進めば進むほどその山自体が金の固まりになりうるというのです。掘れば掘るほど・・・。それでも疲れるからと掘らないのですか?(一九八六・一・二六、本部教会)
2 愛を中心に教育する
人間の価値基準は何に置かなければならないでしょうか? 理想世界に置くのではありません。理想的な世界に置くのではありません。理想的な人に置かなければなりません。だから、世界を愛そうとすれば、人を愛さなければならないと、このようになるのです。
それでは人を愛するのに、どのように愛すべきでしょうか? 方法を知っていますか? どう愛さなければなりませんか? ただ愛するのではないのです。その愛する方法は何でしょうか? 男性が女性を愛するように、女性が男性を愛するように愛せというのです。
また、私が生まれる時はどのように生まれたでしょうか? 母親と父親を中心として生まれるとき、新郎・新婦として生まれるのではありません。息子・娘として生まれ、愛の教育を受けるのです。そうではありませんか? 愛の教育を受けなければならないのです。その父母は、息子・娘に何の教育をすべきでしょうか? 知識の教育をするのではありません。愛の教育をしなければならないのです。母親と父親が争う愛の教育ですか? 争う愛という言葉はないでしょう。互いが一つになる教育をしなければならないというのです。天が好む母親と父親であり、また母親が好む父親であり、父親が好む母親であり、二人が互いに好むと同時に私が好きな母親と父親であり、母親と父親が私を好み・・・。私が父親だけを好むのではありません。
そのように見れば、神様を中心として見ても、アダムとエバを中心として見ても四位基台でしょう? 全部四位基台だというのです。このように見ても、あのように見ても、皆四位基台だというのです。それゆえ神様の愛を中心として、神様の前に愛の教育を受けなければならないというのです。それでは、その起源はどこでしょうか? 人間から始まるのではありません。神様が父母なので、アダムとエバは神様から愛の教育を受けなければならないのです。そのアダムとエバの価値基準の設定はどこから成されるのでしょうか? 神様の愛の教育からです。それでは、愛の教育を受けるのは、いつまで受けるのでしょうか? 父親が知っているすべての価値基準を察することのできる時まで、言い換えれば、成熟する時までは、父母の愛を受けて育たなければならないのです。ところが、アダムとエバが神様の愛を受けて育ったという記録が聖書にありますか? これを見つけましたか? ありますか、ありませんか? 愛されたという話はなく、気分悪くも堕落したという話から始まったというのです。これは誤ったということです。
それでは、愛の神様を中心として愛の教育を受けるべきであったアダムとエバの愛の教育基準があったでしょうか、なかったでしょうか? なかったとしたら、神様の理想というものがありえないというのです。その愛の教育基準は何かということが問題だというのです。皆さん、天国に行きたいでしょう? しかし、天国に行ってからは、そんな教育を受けられません。この地で教育を受けて生きたのちに行かなければならないのです。この地でその教育をしなければ大変なことになるのです、受けなければ大変だというのです。その教育は何でしょうか? どのようなものが教育ですか? 皆さん、分かりますか?
それでは、アダムとエバが教育を受けようとすれば、どのような姿勢を持たなければならないでしょうか? 父母と子どもの間ですから、父母が行く所にいつでもついて行かなければなりません。父母が行くとなれば、どこまでも、いつでもついて行かなければなりません。父母が山に登れば山について行き、谷に降りていけば谷について行き、穴に入っていけば穴について行かなければなりません。いつでも父母とー緒にいなければならないのです。会えずにいたら会いたいでしょうか、会いたくないでしょうか? もし、神様が息子と離れなければならないとしたら、離れることができるでしょうか? 神様は絶対的な方であるので、絶対的に会いたがるというのです。絶対的な方であるので、かわいがるにも絶対的にかわいがるというのです。「神様、来るなら来てください、来ないなら来ないで、どこかにいるならいて、いないならいないで・・・」それでいいですか? 絶対的でなければならないのです。
それゆえ、神様は子どもたちの生命の母体です。そうではありませんか? 父母は子どもの生命の母体でしょう? 生命を育ててくれるのです。生命の母体であり、愛の母体であり、保護の母体です。生命を保護してくれ、育ててくれ、愛してくれるのです。それゆえ、幸福はどこから生じるのかというのです。保護圏が成立しなければ、生命がおびやかされるのです。
神様自身は一つの体です。二性性相の主体としていまし給うので自体内で愛するといいますが、神様が考えるに「男性的主体の位置だ。女性的対象だ」と言って愛を感じられるように思うかもしれませんが、男性と女性が分立された立場では刺激的な衝撃を感じられないというのです。それゆえ、アダムとエバが神様自身を抜きにして自分たちだけでより衝撃的に愛するのを見ても、愛の主体であられる神様は気を悪くされないというのです。なぜ? その二人が一つになるその場を相対にして、喜びを感じられる主体者であられるので、その相対がより価値的な愛を感じるようになるとき、神様も幸福を感じるようになるというのです。それが神様の人間創造を中心とした愛の第一法度ではないかというのです。ですから、そのような愛の教育を受けずにはその場に出られないのです。
そうなれば統一教会に、私たち統一教会に、エデンの園でアダムとエバが堕落しないで受けるべきだった愛の教育をさせうる心情的内容が宿っているなら、これは世界的宗教になるなと言ってもなることでしょう。そのようになるのです。統一教会に入ってくれば、そのような何かを感じなければなりません。感じるにはどう感じるべきでしょうか? 女性は最高の父親を見つけたという喜びを感じなければなりません。(神様をも)最高の価値の相対にできたらいいという願いの基準を感じなければならないのです。その次には、世界で一番のお兄さんを見つけた喜びを感じなければなりません。(一九七一・一一・二一、前本部教会)
万物の願いは何でしょうか? 神様の愛を完成したアダムとエバの愛を受けると同時に完成したアダムとエバの息子・娘、神様の愛と父母の愛を合わせた愛を受けて生まれた息子・娘の愛を受けようというのが万物の願いです。
それゆえ、私たちの最も貴い遺産は何でしょうか? 神様の愛と真なる父母の愛を子女に相続してあげるのが最も偉大な、この世にない相続物であることを私たちは知らなければなりません。神様をよく紹介しなければなりません。神様の愛はどうであるかということをよく紹介してあげなければならないということを知らなくてはなりません。それが分からないので神様を代身して神様のように愛し、神様を自分の父母を通して捜し出すことのできる、そのような父母にならなければなりません。(一九七七・六・一七、アメリカ)
皆さんは頭がふらついてはいけません。この頭が揺れてはいけないのです。共産党がささやき、あらゆる人が皆ささやくのです。皆さん、統一教会をそのように信じますか? 統一教会員はどのくらい信じますか? 先生くらい信じますか、先生くらい? (はい)。では先生は成功しましたか?
さあ、人格、絶対人格! 絶対人格は愛を中心として、男女問題においても絶対深く入っていかないという基準です。皆さん、昔あらゆることをしたでしょう? 統一教会に入っても「ああ、昔はあのようにしていたのに、またあのように暮らせたらいいな」と考えませんか? (ノー)。何がノーですか? そうして祝福を受ければ大きな事故だというのですよ。それゆえ、統一教会は結婚してから、三年路程を行かなければなりません。三年間を経なければならないのです。夢にも考えるなというのです。分かりますか、何の話か?
絶対愛、絶対愛をだれから行うのでしょうか? だれを愛するのですか? (神様)。その次は? (真のご父母様)。その次は? (真の子女)。知っていることは知っているのですね。それをはっきり知らなければなりません。はっきり知らなければならないのです。これが成立しなくては四位基台になりません。
だれかが皆さんのお母さんとお父さんについて説明し、皆さんのお母さんとお父さんではないと言えますか?(言えません)。それは絶対的です。絶対的です。同じです。夫婦になればそう考えなければならないのです。それは絶対的です。私がお母さんとお父さんを否定できないように、自分の妻を否定できないということを知らなければならないのです。そのような夫婦なので、そのような夫婦の子どもを否定することはできません。子どもを否定できないのです。伝統を立てるべきではないですか、伝統を?(一九七九・一二・九、ベルベディア修練所)
3 先生が教える教訓
父母が子どもたちに孝子になれと言い、勉強しろと言い、未来の伝統を引き継げるようにしなければならないのであって、すべてのことをただ放っておいては父母が責任を果たせないことになるので、嫌だと言ったら殴ってでもそれを引き継げるようにしなければならないのです。
さあ、それではレバレンド・ムーンが教える教訓は何でしょうか? 自分を愛する以上に国を愛し、世界を愛し、天を愛せというのです。(一九七七・一〇・二三、ベルベディア修練所)
愛は左手でこのように打てばどこに行きますか? 右側に行きます。また右手でこのように打てばどこに行きますか? 左側に行きます。それゆえ、善なる人の左側を打って右側に行くようにするというのです。
悪なる人もやはり善なる人と同じです。ところで悪なる人たちはだれが打つのでしょうか? 神様が打つのです。「世の中がやるようにしてはだめだ。お前、そうするつもりか」と異邦の国をしてまでも打つのです。「正しい方に行け」と言うのです。この世の中の善と天の国の善とは違うというのです。
それゆえ、私たちはこの稜線を越えなければなりませんが、そのためには荷物を背負っていてはだめです。食べ物をおなか一杯食べてもだめです。おなかが減ってぺこぺこになって、死が間際に迫っているときに、三十八度線のような分水嶺を越えなければならないというのです。
それはどうしてでしょうか? サタン世界を完全に清算するためにです。それゆえ、サタン世界の何か一つでも持って越えるのでなく、完全に清算して越えろというのです。これが神様が統一世界を成すために最高に愛する子どもに教える教訓です。そのような思想を受けた家庭はそのような立場に立たなければならず、その思想を受けた民族もその立場に立たなければならず、その思想を受けた国家もその立場に立たなければなりません。(一九六七・六・一一、前本部教会)
4 子女に教えるときに言うこと
自分の子どもに教えるとき、「お前、立派な人になれ」と教えるのではなく、「立派な人になるためには、これこれこういう道を経なければならない」と教えなければならないのです。父親なら父親としての責任を果たし、兄なら兄としての責任を果たし、姉なら姉としての責任を果たし、言い換えれば、真なる男性、真なる女性の道を行くことのできる、真の兄、真の兄弟、真の夫婦、真の親族の因縁を見極めていくことができなければなりません。そして、そのような法度に外れない皆さんになってこそ、道理にかなった路程を経て一つの国の民となりうる道が生まれるのです。分かりますか?(一九七三・八・五、前本部教会)
霊的な基準において、真の人類が追求すべき最後の福とは何でしようか? 最後の福とはほかでもありません。父母を早く亡くした孤児のような立場にある息子・娘の願いは何でしょうか? お金ではありません。法でもありません。そのような人の願いは、ただ死んだお父さんとお母さんがまた生き返ることだけです。それと同じように、人類の前に贈り物を与えようとすれば、本当の意味において、最高の贈り物を与えようというのです。また、彼らに紹介してあげる場合には、真なるものを紹介してあげようというのであり、見せてあげる場合には正当なものを見せてあげようというのであり、間違いのないものを教えてあげようというのです。
教えてあげる場合には、何を教えてあげようというのでしょうか? お金もうけを教えてあげようというのではありません。勉強ができて、出世することを教えてあげようというのでもありません。今日のこの時代において、人類万民が願う真の父母と、その真の父母と因縁で結ばれた真の子どもの道理を完全に教えてあげようというのです。それ以上に価値があることはありません。(一九六九・一〇・一八、大邱教会)
子どもをこのような立場で教育しなければなりません。「私が死んでも、お前は私のこの走るリレーバトンをもって走らなければならない。私が貧しくて苦労したのは、すべて世界を生かすためだ。そうしてはじめて、そのような世界が来るのだ。それは神様の願いであり、真の父母の願いであり、お前のお父さんの願いであり、お前のお母さんの願いであり、お前の願いであることに間違いないので、万世に永遠不変、天下の人々が皆讃揚することのできる願いであることに間違いないので、この道を行かなければならない」という、そのような教育ができる真なる母親と父親にならなければなりません。死んでいきながらでも、このことを残して逝かなければならないという事実を知らなければなりません。分かりますか、分かりませんか? (分かりました)。しますか、しませんか? (します)。( ? )
家庭の父母は神様を代身した家庭の父母とならなければなりません。その父母が子女たちに教育して言うのに、「おい、わが子たち! お前たちが私を愛する以上にお前たちの兄弟を愛さなければならないし、お前たちの隣近所と国と世界を愛しなさい!」と言わなければなりません。このように教育する人であればこそ、父母のうちでも真なる父母の資格を持つことができるというのです。それはなぜでしょうか? そうすれば、自分の息子・娘が、自分の家がより大きな善なる立場、善の中心として発展していくからです。これに参席する皆さんの父母はそのような父母ですか? (はい)。それを知らなければなりません。(一九七七・一一・一一、ベルベディア修練所)
父母が息子・娘を呼んでおいて「お前はこんな人になり、またこれこれこういう仕事をしろ」と教えたとしても、「お前は神様を知る人になれ」と教えることには及びません。神様を知る人になれというのは最高の教えです。死ぬ前に「神様!」と言うのは数多くの人々が残すべき遺言です。悲しみが連続する中ででも最後の言葉は「神様を知っている」ということでなければなりません。(一九六二・三・五、前本部教会)
宗教というのは宗(韓国語の宗には峰の意がある)たる教えですが、家庭の宗たる教えだというのはどういうことでしょうか? 父母は子どもに対して「この子はまったく! お前はやりたいように育ったが、一つだけは忘れてはいけない。父母を愛する以上に神様を愛さなければならないし、父母を愛する以上に国を愛さなければならないのだ」と教えてあげなければなりません。また、子どもはそのような父母が本当の父母だということを受け入れなければなりません。(一九八三・五・一五、本部教会)
人間たちは人倫を立てて、自分の一家を中心として父母の前に孝行し、夫婦が互いに尽くし合って子女を愛せと教えています。しかし天倫はそれより範囲が広いのです。人倫は自分を中心として教えますが、天倫は天を中心として教えます。愛することは愛しますが、神様のように愛せと言います。「私(天)が慕わしさの主人公であり、私が慕うこの地でありこの世界なので、このすべてを抱いても余りある心情を持って愛しなさい」と言います。それが天倫です。天倫の帰着点はそこです。人類の帰着点は一介の家庭ですが、天倫の帰着点は終わりの日に現れる宇宙的な家庭です。(一九五九・一一・二二、前本部教会)
正しい父母になり、正しい父母として正しい子女教育をしなければなりません。過去のいかなる人よりも、現在において悲しい苦痛を与えながらでも「お前は未来のために、世界のために生きろ」という思想の下にする教育は正しい教育です。そうするのが社会のためになり、国のためになり、世界のためになるのです。(一九七八・三・一、アメリカ)
5 貴いものは教育を超越
皆さん、父母の愛を受けてきた息子・娘がいたとして、彼らが愛を受けられなかった息子・娘に百日説明してみたところで、それを理解できますか? 千年説明しても・・・。「父母の愛はこうだ。父母が子どもを愛するその愛はこうだ。夫婦が愛するその愛はこうだ」と言う説明でもって通じますか? 何億年説明したところで、それを理解できますか? 知りうる道がありそうですか? ないのです。それは体験してはじめて分かるものであり、子どもを持ってはじめて「ああ、子息の愛はこうなのか」と分かるのであって、それは子どものない人にいくら説明してあげても分かりません。分からないというのです。そのような経験を通さなければ分からないようになっているのです。学んで分かるものではありません。学んで分かりますか? 知識や何かで学んで分かるようなものが愛でしょうか? 違います。これはそうですか、そうではないですか? これは学ぶこと、教育を超越しています。こうなるのです。(一九七二・八・六、前本部教会)
お母さんとお父さんが子どもたちを愛するのは学校で学んで分かるものですか? そんなことを教える学校を見たことがありますか? また、それを学んでみた人がいますか? それは学ばなくても分かるのです。男性と女性が出会って子どもを産む方法は学びませんでした。家庭においても、他人同士が出会って夫婦の因縁を結び、一つの家庭を成せるのも、だれかに学んでするのではありません。愛はだれかが教えてくれて分かるものでもなく、こんなものだと言って持ってきて食べさせてあげて味が分かるものでもありません。実験をしてみて分かるものでもありません。
昔もこんなことを教えてくれる所はなかったし、今から数千万代の後孫においてもこれを教えてくれる学校は現れえません。(一九六九・五・一八、水原教会)
人がおなかの中にいる時から学んで出てきますか? おなかの中で学んでおいて、生まれてからスプーンを使いますか? 箸を使いますか? 生まれてから始めるのです。そうなのです。スプーンを使うことはできなかったでしょう?(一九八八・一・二一、前本部教会)
水も同じです。だれかにもらって水を飲むとき、こうやって飲むものだと学びましたか? 学びましたか、学びませんでしたか? それも学びませんでした。一番貴いことについては学ばなかったというのです。(一九六九・五・一一、前本部教会)
アダムとエバが横的な真の愛の父母の立場に立てば、縦的な基準は自然に現れるのです。縦的な基準が完全に設定されれば、父母の愛する子女たちが存在できるようになっています。皆さんは息子・娘を産んで愛することをだれかに学びましたか? 学んだことがありますか、ありませんか? (ありません)。ないのに愛することを知っていますか、知りませんか? 自分の生命を超えて愛するのです。それはなぜでしょうか? これは天理原則です。根です、根。
皆さんが本然の人間の境地に入るようになればそうです。神様は私の心の中心です。心というのは天の縦的な父母を引き継ぎ生まれたのですが、縦的な父母を通して生まれた心は横的父母を通して生まれた体と一つにならなければなりません。どこでですか? これが九〇度の角度で一つになるとき、この場にさっと入って行けば全部見えます。神様がだれなのか、地獄がどこにあるのか、天地天下が全部見えるのです。教育が必要ないというのです。
動物世界、この小さな昆虫世界も愛するでしょう? 雄・雌のないものはないのです。鉱物世界も同じです。それはだれかが教えてくれるのではありません。自然に分かるようになっています。(一九八九・二・五、本部教会)
皆さん、どの大学を出て、どの大学院を出て・・・。勉強をするのが本当に大変でしょう? もし、神様と内外一つになった立場にいたなら、学ばなくても皆博物君子(物知り)になるというのです。研究して知るのよりもです。天地がどうなっているのか、霊界がどうなっているのか、人生がどうなっているのか? 学ぶだなんて何を学びますか? 生まれるすべての昆虫の子も、生まれれば食べるものを探すのに、生きようとして探していくのに、万物の霊長が何を学んでから食べるものを探しますか? 学んで死ぬこと生きることが皆分かりますか? いざその時になれば、ちゃんと分かるようになっているというのです。そのように素晴らしい人にならなければならなかったにもかかわらず、そのような人になれなかったのは堕落ゆえです。
堕落をしたとはいえ、この二つの間、主体と対象関係において、本性は作用しているというのです。作用するこの間には、今まで積もってきた汚いものがかぶさっているので、これを取ってしまえば次第に作用が強くなるはずです。完全に取り除いたという日には、ぱっと爆発するのです。それができる道を今まで人間たちは追求してきたというのです。分かりますか? これを知らなければなりません。(一九七二・五・一四、水澤里)
6 教える際に心がける点
統一教会の皆さんは鬼神たちですか、霊神ですか? 生霊体ですか、生神体ですか? 生霊体になると言ったでしょう? 霊神たちです。霊神の霊(れい)は零(れい)の字ではありません。神霊の霊の字です、霊神。大宇宙をつくられた神様がどこにおられるかというとき、他のところにいるのではありません。縦的な真の愛の因縁を受けて生まれた後孫、真の愛の父母、縦的な真の愛の父母の因縁で出発して引き継がれた血統に生まれた男性と女性の中にいるだろうというのです。
神様はどこにいますか? 愛の中にいます、愛の中に。真の愛の中にいます。私の心と体が真の愛に立てば神様がそこにおられるのです。神様の家はどこでしょうか? 真の愛が神様の家です。そして本然の堕落していない、人間の堕落がなかったその基準に行くようになれば、人類の父母は何かと言えば、この縦的な父母(神様)です。真の愛を中心とした縦的な父母の前に真の愛を中心とした横的父母はだれですか? (真の父母です)。これがメシヤ思想です。メシヤとは一体何ですか? これを知らなければなりません。(一九八九・二・二六、本部教会)
だから、私がしっかりと教えてあげなければなりません。教えてあげなければ、あの霊界にまで行って「ひどいな、真の父母という言葉を持っているお母さんとお父さんが、なぜ教えてくれなかったんだろう?」と言うのです。お母様が教えてあげないなら、せめて私だけでも教えてあげなければ讒訴条件を免れないではないですか?( ? )
それでは、生きるのに何を中心として生きるのでしょうか? 父母が自分の息子・娘を中心として「お前と私が離れてはいけない」と教育するとしたら、その家庭は滅びるのです。しかし、その社会、国とともに離れられないように教育する家庭は栄えるのです。こうなるのです。「私が屠殺業をしているから、子どものお前も屠殺業をしなければならない」「私が商人だから、お前も商人になれ」とこんな教育をすれば滅びるのです。
父母ならだれでも、子どもに「お前は国のために国の偉大な人物にならなければならない」こう教えるでしょう。しかし、今は世界が私たちの目前に近づく時代です。「お前は国の人物になれ」と教える時代はすでに過ぎ去りました。今は「お前は世界的な人物にならなければならない」とこのように教育しなければなりません。そう教育しますか、しませんか? そうするようになっています。世界とともに生きなさい! 私は皆さんの心理がどうなのかを知っているので、このように結論づけて話すのです。(一九七〇・一・一一、前本部教会)
父母が愛する子どもを育てるのに多くの困難があります。けれども、その困難を耐えて明日の希望だけを心に確かめながら子どもを育てるのです。その父母が国を愛するがゆえに、その子どもを国よりもっと貴く思うなら、それは罪ではありません。未来の国を守らせようという願いを持って、国以上にその子どもを愛するときは罪ではありません。言い換えれば、自分が国に対して忠臣になれなかったので、自分の子どもを代わりに未来の忠臣として育てるために、現在の国よりもその息子をもっと愛するのは罪ではないというのです。
しかし、未来の忠臣をつくろうとするのでなく、自分に孝行することを願ってその息子を国よりもっと愛するようになれば、それは罪になるのです。すべての公式がこうなっています。(一九七〇・八・二三、中央修練院)
皆さん、そして家庭のお母さんはなおさら、心情的な母親にならなければなりません。心情的情意の母親にならなければなりません。子どもに接する際に、自分が言葉を間違ったら悔い改めるべきだというのです。自分が夫に一度文句を言われると、悔しがって子どもに冷たくあたる人がいるでしょう? そんな妻は・・・。
天が好む、愛することのできる、天と地が愛することのできる子どもを送ってくれたなら、それ以上の愛で抱いてあげ、福を願ってあげ、母親も天の心情的因縁を深めてあげることのできる基盤にならなければならないのであって、そうできなければ・・・。母親の立場がどれほど重要なのかをよく知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。(一九八七・五・二〇、本部教会)
皆さんが家庭で子女を育てるのに、その子女たちが私の家庭を中心として私を愛してくれる息子・娘になるだろうと考えないでください。統一教会の食口なら、子どもにお乳を飲ませるときにも、その子どもが天と地のために生きることを願うようでなければなりません。その息子・娘の因縁を突き詰めてみれば、堕落前のアダムとエバを創造しようとされていた神様の心情まで連結されます。だから、皆さんが産んだ息子・娘は歴史的な再創造を代身する存在です。しかし、息子・娘たちを抱いて、ただ私の息子だ、娘だと言っています。
だから、統一教会の食口たちは、子どもを育てる際にもその子どもを高めてあげることができなければなりません。父母だからといって、こいつはああだこうだと言えないようになっているのです。そうできないようになっているのです。皆さんに希望があるというのですが、その希望は彼らを通して継承されるのです。子どもを通してだとか、夫婦を通してだとか、父母を通してだとか、ある道を通して連結されるというのです。人間に残っている希望が天が立ててくれる希望だとするならば、それは天倫の道を通してのみ連絡されるというのです。(一九五九・一一・二二、前本部教会)
子どもを産んだら、子どもに涙を見せてはなりません。けんかする声を聞かせてはなりません。それは恐ろしいことです。(子どもを育てることは)自分の父母を心配することよりも、天よりも、その国よりも、だれよりも心配なのです。そのきれいな道を汚すなというのです。子どもを持つのはいいですが、彼らを正しく育てられなければその父母は落第です。深刻なことなのです。丁重に扱わなければなりません。子どもは第二の神様です。そうでしょう? 皆さんは子どもを抱いて、立派に国の代表として、世界の代身として、天を通して世界に希望を与えられるように育て、立派な父母として、心情を中心として万民を神様の立場で懐に抱くかのように育てろというのです。父母に孝行する息子として、神様を慰める子どもをつくって差し上げます。宇宙に差し上げます、天宙に所属させます、このような偉大な偉業のために、今から二人が背負っていかなければなりません。でこぼこと横についたこぶのように取り扱ってはなりません。(一九八八・一〇・三一、一和龍仁工場)
第四章 父母の責任
第一節 父母が備えるべき基盤
一 先に立てるべき信仰的基盤
皆さんも同じです。皆さんが神様の息子・娘になるためには、神様がサタンを愛したという立場に立ったのと同じく、サタンを愛したという条件を立てなければなりません。個人レベルで、家庭レベルで、世界レベルでこれを立てなければなりません。皆さんがそういうとてつもないどん底に置かれているので、先生はこれを代表的に蕩減してあげるのです、先生が。分かりますか? (はい)。(一九八五・一二・二二、本部教会)
さて、統一教会は霊的子女という言葉を使っているでしょう。霊的子女という言葉を? そんな言葉は辞書にはありません。たぶん、英語の辞書にもないはずです。その霊的子女という言葉はどういう意味かというのです。私たち人間、現在の堕落した世界の人間が神様を捜し求めていくにおいては、先祖が二つになるのです。堕落した世界から復帰してくれた先祖、その次には自分の直系の先祖、このように二つの先祖になります。
今まで、先祖は堕落した先祖しかいませんでした。霊的ではありません。霊的にも肉的にも堕落したというのです。先祖であっても、神様が公認できる先祖にはなれないというのです。だからキリスト教を見れば、霊的救援を言うのです。キリスト教時代は霊的救援時代で再臨時代は肉的救援時代です。来られる主は先祖ですが、霊的先祖と実体先祖を備えなければならない、このようになるのです。そして肉的子女というものは、世の中の人の中から捜すのではありません。自分が直接産んだ子孫です。神様が自分を通して肉的子女を持たなければならない、こうなるのです。(一九八三・三・一四、ベルベディア修練所)
さて、それでは信仰の息子・娘とは何かを知らなければなりません。その意味は三種類あります。一つ目は天使長復帰の必要性であり、二つ目はサタン世界全体復帰であり、三つ目は私が祝福を受けられる息子の位置に進むためです。だから信仰の息子・娘は、信仰の親が直系の息子・娘を産んで接ぎ木しなければなりません。だれに接ぎ木しなければならないのかと言えば、自分の信仰の親が産んだ直系の息子・娘と一緒に接ぎ木しなければならないというのです。分かりますか? さあ、信仰の母親に接ぎ木すべきですか、信仰の父親に接ぎ木すべきですか? 息子だから息子同士で接ぎ木しなければなりません。(一九八三・五・三、仁川教会)
皆さんの信仰の息子・娘も完全に一つとなって皆さんの息子・娘たちを・・・。結婚するとおなかから赤ん坊が生まれますね。信仰の三人の息子・娘が、皆さんの赤ん坊に、おなかにいる時から従順屈伏しなければなりません。今までのカイン・アベル復帰は産んでから復帰しました。しかし、根本においては腹中から復帰しなければなりません。
カインはだれでしょうか? 天使長なのです。アベルはだれでしょうか? アダムなのです。天使長はどうしなければならないかと言うと、アダムを創造する時から仕えていかなければなりません。そうではないですか? それゆえ、皆さんの赤ん坊が腹中から生まれる時から・・・。アダムを創造する時から天使長が協助して屈伏してきたのに、生まれた後、アダムをすっかり創造した後に反対に小突いたのです。
それを蕩減復帰するためには、子どもが腹中にいる時から三人の霊の子がその子に侍り、完全に僕の位置に、僕の立場に立たなければ、霊界にいる三人の天使長がアダムの前に屈伏しないので完全に復帰することができないというのです。原理がそうではありませんか? 皆さんがこれを決定しなくては、絶対サタンの讒訴を完全に逃れることができないというのです。
では先生はいつそのようにしたでしょうか? うちの譽進と孝進が生まれるまでの期間が三年間です。三年間ですね、三年間皆さんは全員地方へ行って闘いました。闘いますが、皆さんは内的な面ではそのことをしたのです。内的な面ではそれを蕩減復帰したのです。赤ん坊が腹中にいる時、その赤ん坊が食べたいものは皆買って食べさせ、したいことは全部できるように、今後自分のすべての生命と財産を相続させようという覚悟の下で侍ることのできる立場に立たなければなりません。その立場に立たなければ霊界の三大天使長がアダムに侍る基準を蕩減復帰することができません。根本的に蕩減復帰できないというのです。
これが私たち統一教会の核心目的基準です。ここ、この現実で、現実の地上でサタンの讒訴条件を完全に逃れることができなければ天国に行けないというのです。(一九六八・八・一一、馬山教会)
二 東洋思想の特徴と統一教会の思想
韓国で毛筆で字を書くときに縦線を引くのを見ると、上のほうが大きいですか、下のほうが大きいですか?(上のほうです)。上のほうが大きくて、だんだん下に行くにつれてすっととがるというのです。どういうことかと言うと、原因的中心は上で結果的中心は下だというのです。下は回転するための一つの起点であり、定着するための起点ではないことを知らなければなりません。私たちの家庭的な愛に父母の愛があるというのは、定着するためのものではなく回転するための一つの焦点です。定着するのは神様に帰らなければならないというのです。
それゆえ、子どもに対する愛より以上に神様に対する愛が大きくなければ、この宇宙の原則的な主流のセンター、愛のセンターに一致することができない、このように見るのです。だから、たとえ妻子を捨てることがあろうとも父母は捨てることができないという、その東洋思想の教えは驚くべきものなのです。今日、西洋式はどうかと言えば、下が太いというのです、下が。てっぺんから始まるのではなく、平面的な私から始まって上に上っていくというのです。全部が「私」を中心とするのです。両親は関係がないというのです。それゆえ、仕方なく神様は東洋と西洋をくっつけるための運動をしました。(一九八三・四・二四、本部教会)
東洋思想には、家庭を犠牲にして国を救わなければならないという教えがあります。国を犠牲にして世界、この宇宙を救わなければならないという教えがあります。ところが皆さんの国アメリカにはこのような思想がないではないですか?( ? )
統一教会の思想は、愛を中心とした一つの世界観を紹介します。個人はこのように行かなければならず、家庭はこのように行かなければならず、氏族はこのように行かなければならないということがはっきりしているというのです。その法度はレバレンド・ムーンの構想ではないというのです。天の国の法度の反映体なのです。そうでなくては、霊界に行って入籍できないのです。
小学校から中学校を経て、高等学校、大学を経て大学院、博士コースに進むのが秩序的発展過程です。霊界で「君、何をして生きたのかね?」と聞かれた場合、「私は夫のだれそれと出会い、息子・娘を何人産んで暮らしました」と言ったところで通用しないのです。
神様は世界を失ってしまいました。「これこれこうして息子・娘を産んで暮らしましたが、神様を愛し、神様のみ旨を成すために人類を愛し、神様と生きるために、そのような精神のゆえに私の家庭は迫害を受けてきました」こう答えなければならないのです。「私のお父さんはそこで生きていく中で飢死しました」と言うことが誇りなのです。恥ではありません。「私のお母さんは伝道に出かけ、打たれて死にました」というのが誇りであり、恥ではないというのです。準備できなかった連中が生きる姿は、死のわなに飛び込む恨みの声であることを知らなければならないというのです。(一九八六・九・二一、本部教会)
三 アブラハムのイサク献祭の教訓
アブラハムじいさんも、カルデヤのウルの自分の故郷の家で豊かに暮らしているのに、神様が引っ張り出して異邦の地に連れてゆき、祭物を棒げなさいと命じて祭物を棒げるのですが、その祭物もアブラハムが捧げると言いましたか? 「神様! 私が祭物を捧げる祭壇を皆準備しましたので、あなたが受けてくださいますか、受けてくださいませんか?」と祈祷したわけでもなかったというのです。願いもしなかったのに神様が来て「おい、お前がこんなに苦労したのだから、私はお前を祝福してやる。お前の後孫が天の星より、地の上の砂より、もっと栄えるように祝福してやるから三大祭物を捧げよ」と言ったので、祭物を捧げたのです。
また、祭事を捧げるために供え物を裂くのですが、小さな鳩の一羽くらい裂かなかったら裂かなかったで、それが大きな問題になるかというのです。違いますか? その小さな鳩を裂こうというのですから、ナイフを入れるところがありますか? それ一つ裂かなかったら裂かなかったで、何をそんなに激怒するのですか? 祝福してあげようという神様が、鳩一羽裂かないからといって、「お前の後孫が四百年間僕の生活をするようになるであろう!」と言われたのですから、その神様を神様だと思ったでしょうか? 「これはサタンでないか?」と考えることもできるというのです。しかし、アブラハムじいさんの素晴らしい点は何でしょうか? それを何よりも恐ろしく思ったというのです。神様がそのような罰を下されるようになったとき、それを自分が死ぬことよりもっと深刻に考えたというのです。だからアブラハムじいさんは偉大だというのです。
そのような失敗を犯してから、何よりも大きな衝撃を受けた立場においても神様を敬う心を持ったので、その息子を捕まえて殺せという命令を受けたとき、自分の息子を捕まえて殺して、衝撃を受けたそれが解消できるならば、直ちに実践しようという決心をしたのです。そのような決心をするまで、内的に神様が命じられる言葉をどれほど慎重に考えただろうかということを私たちは知らなければなりません。それゆえ百歳で一人息子として得た、それも神様が祝福して奇跡的に得た息子を捕まえて供え物として捧げることができたというのです。いつかは与えたと思ったら、今度はまた捕まえて献祭しろだなんて? それを信じられると思いますか? 全部が矛盾です。全部皆人間の頭で人間同士ですることでは絶対にないというのです。
堕落したこの世の父親でも、そのように福を祈ってあげればそうはしないはずなのに、まして神様がなぜそんなことをしなくてはならないのでしょうか? これには私たち人間が知ることのできない複雑な事情があったというのです。たいてい人間は自分以上に愛することができません。自分以上に考えることもできません。だれかを愛するとしても、自分を抜きにしては愛さないというのです。自己をプラスさせて愛そうとするのです。自己を否定しては、何であっても動こうとしないのが人間です。それにもかかわらず、アブラハムは自己を否定する立場で、愛の道を選んだというのです。自分を否定してどんな愛を捜そうとしたのでしょうか? 神様の愛を捜そうとしたというのです。自分を否定し、自分の氏族を否定し、自分の親族を否定し、どんな家庭とどんな氏族を捜したのでしょうか? 世の中が反対しても、神様が喜べる家庭と、神様が喜べる氏族を慕ってきた代表者がアブラハムだということを私たちは知らなければなりません。
自分の子どもを捧げるとしても、神様が喜ぶことのできる一つの氏族を、一つの国を彼は心の奥深く願っていたのです。その願いがどんなに困難な環境よりも大きかったので・・・。アブラハムは数知れないジプシーの行路も無難に突破することができたというのです。それが大きかったので、またそれを愛する心がいつも強かったので、そのために生きようとする自らが確立していたので、困難な環境をすべて押し退けて、ひたすら神様が指示する道だけに従っていくことができたということを、私たちは知らなければならないというのです。(一九七二・六・五、中央修練院)
天国に行ける人はどんな人でしょうか? アブラハムが信仰の先祖になった動機は何でしょうか? アブラハムは神様に自分の息子を献祭の供え物として捧げました。彼が祭事を捧げたのは未来の後孫のために祭事を捧げたのです。これはまさに彼が祭事を捧げるようになった動機なのです。未来の後孫のために自分の子どもを捕らえて祭事を捧げるアブラハムの心はどれほど悲壮だったでしょうか?
現在より未来の世界のために自分の息子・娘を神様に供え物として捧げて、祭事を捧げることのできる人は、未来の勝利の基盤を現在に引っ張り込むことができるのです。アブラハムは自分の息子を未来の世界のために供え物として捧げました。自分の息子・娘を愛するのは、その時代の何よりも、未来の何ものよりも愛しているけれど、万民をその息子よりもっと愛することのできる心があったので、自分の子どもを供え物として捧げることができたのです。(一九七〇・七・一九、前本部教会)
四 国の基準以上を持って息子・娘を愛する
私の息子・娘が重要であり必要ですが、息子・娘の問題よりも全体目的について見る場合、漠然とした生活をしてはいけません。息をするのもそうだし、行き来するのもそうだし、祈祷をするのもそうだし、すべての面を全体的な目的と一致させて生きなければなりません。そうしてはじめて天運に従って越えていけるというのです。統一教会員はこの基準だけ認識すればいいのです。
家庭でやりたいことをすべてやり、あれこれ欲を出して、自分がやりたい放題やってから、み旨だ何だと言うようであっていいものでしょうか? 徹した立場で国家的な、世界的なことをしていかなければ、将来天国が復帰できないのです。天国というのは、皆さんの生活基盤からひとりでに成されるものではありません。皆さんが自ら成していかなければならないのです。(一九六七・六・八、前本部教会)
皆さんは息子・娘を産んで誇らしいといって、ある時には・・・。私が祝福してあげた息子・娘ですが、西洋でもそうです。「先生、私たちの息子・娘の名前をつけてください」と万国から電話するのです。名前をつけてくれとうるさいのです。電話をかけて、またかけて、十分後にまたかけて、ジリリーン・・・。この人たち、あなたたちの赤ん坊の名前つけるのに忙しい! それではダメなのです。皆さんは国を愛する資格を備えてから、息子・娘を愛さなければなりません。神様を愛してから、息子・娘を愛するようになっているでしょう? その神様は万国の神様であり、天宙の中心である神様なので、その方を愛した後には天地も愛したという資格を得るのです。国も愛した、民族も愛した、氏族も愛した、家庭も愛した、個人も愛したというそのような資格を得るのです。大きなものを愛して資格を取れば・・・。分かりますか? 大学に行って修士の学位を取れば、高等学校を卒業しなくても大丈夫です。どうやって取ったかを問わず、それは認定してくれるのです。それと同じだというのです。(一九八三・三・二七、本部教会)
赤ん坊を産んで、かわいいと言って唇を当てて口づけするそのお父さんを見るとき、その唇は神様を愛したという公認を受けてするのですか? 男性として妻を抱いてキスしたり愛するとき、神様の愛の公認を受けて愛するのですか? そういう時はひやっとするのです。この憎い手が、この憎い口が動きかけて、ブレーキが掛かるというのです。ストップ! 急ブレーキがキイッ! 自分がびっくりしてひっくり返りながら「アッ!」と大声を上げうる、そんなブレーキが掛かる時があったかというのです。(一九八三・三・二七、本部教会)
世界を救うためにこのようにするのが先生の責任であり、神様の責任です。はっきりしているでしょう?(はい)。皆さんが「先生はなぜああなのか?」と考えるとき、「世界を消化するのは先生の責任だけど、まだ最後まで来ていないな」ということを知らなければなりません。皆さん、アフリカにいるチンパンジーなどを見ると、しらみも取って食べるのです。(笑い)お母さんとお父さんはチンパンジー以上にしなくてはならないのです。分かりますか? お母さんとお父さんたちは、それ以上にしなければならないというのです。(一九八三・一〇・九、ベルベディア修練所)
五 何よりもみ旨を重要視する
今日、私たちはみ旨のために生き、世界のために生きる人々であるので、後孫のために生きる人々です。(一九七一・七・一、南山聖地)
皆さん自身がどのようにしたら、神様から信じられる人になるでしょうか? そうなるには何を中心にしなければならないでしょうか? これが問題です。み旨の前に、物質の前に自分が模範になる人とならなければなりません。分かりますか? み旨の道を行くにおいて、子どもの前に模範を見せる人とならなければなりません。物質よりもみ旨を重要視しなければ引っかかるのです。子どもよりもみ旨を重要視しなければ引っかかるのです。自分の夫より、自分の妻よりみ旨をもっと重要視しなければ引っかかるのです。(一九七一・二・一三、龍山教会)
子女たちには自分の両親が悪いのか良いのかがすぐ分かります。み旨のために動く態度を粘り強く貫いていけば、その環境で分かってくれる日が来ます。
夫婦は死んでも天道は残していかなければなりません。その家庭は何のためにありますか? 自分の子女のためにあるとしても、まず神様のために、国のために生きなければなりません。それが結局は自分の子女のための道であるのです。そうしてこそ、子女たちが神様の運と世界の運とともにあり、国の運ともともにあることができるからです。ですから、祝福されて産んだ貴い子女たちが苦労をするとしても、その子女たちに拍子を合わせないで、神様と世界と国の運勢に拍子を合わせなければなりません。(一九六八・一一・三、前本部教会)
歴史を引き継ぐ人とはどのような人でしょうか? 後代の人々が引き継ぐのですが、何のために働いた人でしょうか? 世界のために、人類のために、霊界のために生きた人です。この二つの世界のために、より尽くした人々が引き継ぐのが原則です。分かりましたか?(一九七八・三・一九、ベルベディア修練所)
第二節 父母の責任
一 まず手本を示す
皆さんは、いつ先生の家庭にアベル的家庭として侍り、一つになると同時に、皆さんの息子・娘が先生の子女と一つになることができるでしょうか? これが問題とならざるをえないのです。
そのためには天の教育をしなければなりません。教えてあげるには、皆さんがまず手本にならなければなりません。まず孝子にならなければならないというのです。皆さん自身がまず天の法度に従って孝子となり、孝女となってはじめて、そこから天の伝統的な孝の因縁が成立するのです。
皆さんはそうした立場で、天の国のためにみ旨の前に忠臣となることのできる道理を、皆さんの息子・娘に教えてあげなければなりません。大韓民国なら大韓民国のために息子・娘が泣くときには、「お前たちは国のない民だ。お前たちが住んでいるこの大韓民国は、お前たちの本当の国ではない。改めて侍るべきもう一つの国がある」ということを、手を握って涙ぐみながら教えてあげることのできる父母とならなければなりません。懐に抱いた赤ん坊の呼吸を感じるように、天の気遣いを一緒に感じながら涙を流すことのできる立場で教育しなければならないというのです。それでこそ恨を残した父母として、教育の幅が広がるのです。
お父さんが家庭で孝を行うように、お前も孝を行わなければならないし、お父さんがその国のために追われながらも闘争の歴史を編んできたように、お前も忠臣にならなければならないと教えなければなりません。私はこれを皆さんの前にどのように残してあげるかということを、今まで終生の目標としてきました。(一九七〇・三・一七、統一産業寄宿舎講堂)
父母が子どもに孝行しろと教えてあげて孝子をつくるのではありません。自ら孝行しようという心がわき出るようにしなければなりません。それゆえ、このようなことは一朝一夕になるものではありません。長い期間をかけて影響を及ぼさなければならないのです。 ここで影響を及ぼすということは何でしょうか? 父親がする通りに、子どもが従ってくることができるよう、生活で子どもに手本を見せてあげなければならないというのです。このようなことを実践する、み旨に対する専門家にならなければなりません。(一九七〇・二・二五、統一産業寄宿舎講堂)
皆さんは皆さんの息子・娘の前に何を語るのですか? 皆さんは今にあって、過去を回想して公的な面で息子・娘に、夫たる人は妻に、妻たる人は夫に、自分のこのような伝統を受け継ぎうるよう、教えてあげ、見せてあげなければならないのです。そして、自ら進んで子どもたちがお母さんとお父さんの前に・・・。学校に行って教育を受けるのではありません。その伝統を受け継ぐためには、学校に行って教育を受けたものをお母さんとお父さんの前にすべて持ってきて誇り、皆持ってきて捧げなければなりません。何の話か分かりますか? (はい)。そうすれば愛の花が咲くのです。愛の家庭が成るというのです。(一九八一・二・二二、ベルベディア修練所)
父母たちがみ旨の生活において模範とならなければなりません。家庭での祈祷生活や家庭礼拝や、どんな面でも既成教会に負けない信仰生活を子女たちに見せるべきなのです。また、敬礼の時間がどれほど重要なのかということを認識させてあげなければなりません。その時間には、敬礼式だけで済ませるのではなく、み旨を中心に父母として子女たちを教育しなければなりません。
子女を教育するためには父母がまず実践しなければなりません。父母が手本となってみ旨の前に忠誠を尽くさなければなりません。そのようにして父母がどんなことを言っても、子女たちを一言半句も口答えしないで父母を畏敬することのできる立場に立てなければなりません。そうしなくては子女たちが従っていかないというのです。
子女たちが、自分の知っているみ旨と原理を中心として見るとき、教会生活をするにおいて父母たちが本部で指示する原則をなおざりにし、その指示に従って生活をしないくせに、子女にだけ原理原則通り生活しろと言えば鼻で笑うというのです。このような問題について見るとき、実質的な生活の再検討という問題を考えざるをえないのです。(一九七〇・六・四、前本部教会)
私たちはこのような愛を原則として愛し、和合しながら、先に与えて犠牲になることができなければなりません。愛の主体はアベルであるので、主体が対象に先に与えなければなりません。それが愛の手本です。(一九七三・四・一八、ベルベディア修練所)
手本となる生活の基本は何でしょうか? 神様を尋ねていくのに必要な人、私たちの歴史を明らかにするために必要な人、この時代を開拓するために必要な人、未来の基盤を築くために参与する人となることです。そのような現実的基準で、自分が荷を背負って突き進まなければなりません。そうして十年なら十年の間に成し遂げておいたその業績を、歴史時代において自分の所有として残しておくことのできる財産にすることも必要なのです。皆さん、それをはっきり知らなければなりません。(一九六八・一一・二四、前本部教会)
皆さんは、赤ん坊の面倒を見る中で赤ん坊にみ旨のために活動した伝統が教育できるよう、赤ん坊を産む前に良いチャンスをつくらなければなりません。そのためには皆さん、お母さんとお父さんが手本にならなけれぱならないでしょう。皆さんが赤ん坊の手を握って涙を流しながら過ぎた日々を回想するとき、皆さんの赤ん坊もその言葉を聞き分けて納得するのです。そのような思想を植えつけてあげなければなりません。(一九八三・三・一四、ベルベディア修練所)
二 母親の役割
生まれた赤ん坊は何が好きですか? もちろん食べることも好きです。赤ん坊が生まれたら母親のお乳を飲みたがります。しかし、母親のお乳を飲むことだけが好きなのではありません。母親のお乳を飲むことも好きですが、母親を見て喜ぶのです。結局は母親を見て喜ぶためにお乳を飲むというのです。だから母親も赤ん坊が自分を見て喜ぶので、お乳をあげても惜しくないというのです。因縁がそうなっています。
母親としては、無限に与えたから会いたいのです。自己の命と精誠を注いだので、注いだだけ私に従ってくるはずだという絶対的関係でその赤ん坊に対するのです。赤ん坊を中心として見れば物質的な条件で関係が結ばれたかのようですが、母親を中心として見るときには、その反対だというのです。それではどちらが主体ですか? 母親が主体です。物質も与えることのできる位置にいる母親なので母親が主体だというのです。全部そうなっています。それゆえ人間は、二つの作用の欲望の中で、より高い境地にある欲望を中心として人生の道を行かなければなりません。(一九六九・一一・二三、前本部教会)
立派な母親たちは子どもを懐に抱いて、世界を動かせる善なる存在になるためには、どんなに難しい立場でも耐えることができなくてはならないとその子どもに教えます。それは母親たちが、善は滅びないという天理に通じたからです。(一九六四・三・二四、大田教会)
母親がじっとしていても、子どもたちは皆来て母親の懐に無邪気に飛び込むのです。それは愛においてのみ可能なことです。父母がいくら困難で悲痛だとしても、愛する子どもが愛の懐に抱かれれば抱かれるほど力が生じるというのです。もっと困難で悲痛になるはずなのに、反対に力が生じるのです。それゆえ、そこでは喜びが生まれるのです。疲れてへとへとの状態にありますが、愛にぶつかることによって力が出るというのです。力が来てぶつかれば、一つの所を全部破壊するというのです。制圧して、制圧して全部こうなるのです。( ? )
また、息子・娘を見るとき、自分の息子・娘が不幸な息子・娘になってはいけないと、父母の懐から追い出される息子・娘になってはいけないと神様にすがりついて「神様! アダムとエバを失ってしまい、無念であられたあなたの心情をよく知っておりますので、この子どもたちは決してアダムとエバのような人間にならないようにしてください。この子どもたちが天の前に蕩減できず、許しを乞わなければならない立場におりますなら、その子どもの責任までも私が代身して負えるようにしてください」と、涙の祈祷を捧げることのできる母親とならなければなりません。(一九七一・五・五、中央修練院)
三 父親の役割
動員された人は「うちのお母さんは私たちを捨ててどこに行ったのだろう? ご飯はだれがくれるのだろうか? ああ、大変なことになったな」と言っている子どものことだけを考えるそのような母親になるよりも、継ぎはぎの服を着ていても堂々と出かけて責任を果たすために切実な心を持って精誠を尽くしてきたのだと言いながら、息子・娘に向かって教育できる母親とならなければなりません。
夫は子どもに対して、お前たちの母親は歴史的ないかなる偉人の妻よりも素晴らしい妻であり、国を愛し世界を愛することにおいて他の人々の母親たちとは違う。たとえ人より劣る貧しいわらぶきの家に暮らしていても、お前たちのお母さんは世界一のお母さんだ、ということを教育しなければならないというのです。
全家族が母親のために精誠を尽くさなければなりません。子どもたちが、うちのお母さんは一番素晴らしいお母さんだ、国のために出かけていったお母さんが福を受けるようにと言ってお母さんの歌を歌うようでなければなりません。夫も、だれそれちゃんのお母さんが福を受けるようにと言って、妻のために涙を流して祈祷しなければなりません。そのようにする場から新しい歴史的な伝統が生まれるというのです。分かりましたか?(一九七〇・一二・二二、前本部教会)
子どもを愛する妻を持った夫は、それを感謝しなければならないのです。(一九八五・八・一六、イースト・ガーデン)
育ててあげ、守ってあげる責任をだれが負わなければならないでしょうか? 父親が負わなければならないのです。(一九七〇・二・二五、統一産業寄宿舎講堂)
父親が先に息子を愛さなければなりません。父親が子どもに「こいつ、孝行しろ、孝行しろ」と言うだけではいけません。十年だけそうしてみなさい。孝行する子どもがどこにいるでしょうか? 父親は見えない愛の包みを休みなく持ってきては与えてあげなければならないのです。そうしてはじめて、子どもは孝行するのです。そうしてみろというのです。そうしなければ、父子関係は壊れることになるのです。(一九七一・一・三、前本部教会)
四 父母の責任
1 父母は子どものためにある
父母はなぜ生まれたのでしょうか? 子どものために生まれました! これはとてもぴったり合った話だというのです。(一九八三・九・一一、アメリカ)
私たちは個人を犠牲にするとしても家庭を立てなければなりません。父母が犠牲になっても息子・娘を生かさなければなりません。父母は死の道を行くとしても息子・娘を生かそうとします。父母が子どものために犠牲になる場合が多いのであって、子どもが父母のために犠牲になる場合が果たしてたくさんあるでしょうか? これが天法です。父母は子どもを生かさなければなりません。子どもを生かさなければ父母の行く道は塞がります。そして、その家庭の子どもには親戚が必要です。親戚のために犠牲にならなければなりません。そのような家庭は近所の人々から善なる家庭としてあがめられ、大事にされるようになっているのです。(一九七〇・一・一、前本部教会)
さあ、考えてみなさい。お父さんとお母さんはだれのためにいるでしょうか? だれのためにいますか? お父さんとお母さんはお父さんとお母さんのためにいるのですか? お父さんとお母さんという名を持ったなら、すでに子どものためにいるというのです。そうでなければ天理原則に違反します。分かりましたか? それは原則だというのです。お父さんとお母さんはだれのためにいます? (子どものためです)。子どもとは何でしょうか? 愛の弟一対象です。そのほかにはないのです。そのほかには愛がないというのです。愛はそのようになっているというのです。人間世界で愛を見ることができないというのです。
それゆえ、愛の道を捜して出かけていくにおいては、主体がいくら出来がよくても、対象に会えない場合には愛は絶対にないのです。そうでしょう? (はい)。結婚していくら年を取っても、七十になり年老いて死ぬまで息子・娘を産むことができなければ、子どもに対する愛が分かりますか? 子どもに対する愛を知って死にますか、知らずに死にますか? (知らずに死にます)。絶対的に知らずに死にますか、相対的に知らずに死にますか? どのように知らずに死にますか? (絶対的に・・・)。絶対的に分からないのです。説明を千年万年しても、分かります? (分かりません)。千年万年努力して、千年万年勉強しても分からないことを息子・娘を産めば・・・。おなかの中にいるときには分からなかったのに、息子・娘が生まれ落ちる瞬間にはそれが分かるようになるというのです。分かりますか?
牛も子を産んだ後は、足でけ飛ばしても、歩いて(赤ん坊の所に)近づいてくるのです。背を向けてへその緒を(行動をしてみせられながら)こうしてこのようにするのです。そういうのを見たことがあるでしょう?(笑い)見ましたか、見ませんでしたか? (見ました)。はい、ご飯を食べていても、そのしゃぶっているのを見たら、箸を持つ手が上がりますか、上がりませんか? 気持ち悪くて・・・。牛の子を産んで一番初めに、お尻に何かついてるのをぺろぺろとなめて食べるのを見たら「うわっ!」箸が上がりません。それはなぜですか? 横の人たちが見るのには全くつまらないのですが、牛にとっては幸せな時間ですか、不幸な時間ですか? (幸せな時間です)。何がそんなに幸せですか? (笑い)なぜ幸せかというのです。牛の子も、牛というやつも子を産んだので子に対する愛を占有する主人公になりますから、不幸なのですか、幸福なのですか? だから幸福なのです。子どもを産んでみなければ、そんな話は分からないのです。
いいですか、避難民村へ行ってみれば、狭い路地にりんごをちょっとずつ持ってきては売っている母親を見かけます。その横から子どもが「お母さん、お乳をちょうだい!」と言えば、このくらいの乳房を出して口に含ませ、子どもはそれをチュッチュッと吸うのです。(笑い)たとえりんごを売って生活していても、その子どもさえ見れば不幸だとは思わないのです。それが理解できますか? (はい)。
同じく父母という人、父母という名を持った人は、子どものためにいるようになっています。だれのためにいるようになっでいます? (子どものためにです)。父母のためにいるようになっていますか、子どものためにいるようになっていますか? (子どものためです)。もし、父母のためにいるようになっていると言うなら、その人は父母ではありません。もうこれからは、統一教会においての倫理観が形成されるのです。これから原理を中心に倫理観が・・・。父母はどうするべきでしょうか? 子どもを産んで父母は子どものために全力を尽くさなければなりません。これが倫理の第一条です。
なぜでしょうか? なぜそうしなければならないのか、説明は必要ありません。喜んでそうするのです。嫌々ながらそうするのではありません。いくら図体が大きくて、いくら立派でも、またいくら何かの学博士でノーベル賞を何度ももらったとしても、すべて忘れてしまうのです。喜んでその子のためにいようとするその場、そこでこそ・・・。相対のために、息子・娘のために存在しようとする父母の立場は不幸な立場ですか? (幸福な立場です)。幸福なのです。(一九七二・九・二五、中央修練院)
2 子どもを育てるとき
どんな父母でも息子・娘を産めば喜びます。しかし父母が責任を果たせなければ、子どもたちから、なぜ自分を産んだのかと抗議されることになります。父母には子どもを育ててあげるべき責任があり、社会に出て働いて活動することのできるすべての与件を持たせてあげなければならないのです。(一九七〇・六・二一、前本部教会)
子どもを育てる際には、自分以上に愛さなければなりません。父母が子どものために犠牲になって、自分以上に子どもを愛し育てるのは子どもを立派に育てるためです。したがって自分以上に愛したので、子どもがその愛を引き継ぐのは当然のことです。もちろん自分以上の愛の因縁を現すことによって子どもは大きくなるのであり、発展するのです。
木が育つためには、授け受ける作用が徐々に大きく、うまく展開しなければなりません。そうでなければ、より高い木になれないのです。同じように、子どもを育てるときは、自分を愛する以上の愛と心情を持って育てなければなりません。そのように父母の責任を果たせば、その子どもが父母の事情を理解し、彼がまた自分の子どもを持つようになれば、そのように育てることができるのです。そのようになるときに、はじめて彼は父母の悲しみが自分の悲しみであり、父母の喜びが自分の喜びであり、父母のする仕事が自分のすべき仕事であり、父母の責任遂行が自分の責任遂行だと言える子どもになるのです。そうして、父母が命令しなくても、その父母の怨讐に自分の怨讐として対し、父母の仕事を自分の仕事として、父母の責任を自分の責任として、父母の事情を自分の事情としてやり遂げようと進んで取り組むのです。そのような子どもを立てることが創造の原則だったのです。(一九七〇・二・二五、統一産業寄宿舎講堂)
皆さんは家庭を持って、これから息子・娘を育てなければならないし、その次には教育をしなければなりません。それが人生なのです。そのように生きながら、すべての人々に好かれ、すべての人々に尊敬されて死んでいこうというのが、人の一生の中でその人生が指向する念願の道だというのです。皆さんもその道を行かなければならないというのです。いくら優れているとしてもその道を行かなければならないのです。そうでしょう?(はい)。
ですから皆さん、良い夫を得たいでしょう? 良い妻を得たいでしょう? そして息子・娘を産むなら、良い息子・娘を産みたいでしょう? (はい)。そう、良い妻、良い夫、良い子女が何ですか? それはどのような人ですか? 見なさい、経済的に家庭の世話にならず、隣近所の世話にならず、国の世話にならず、世界の世話にならず、世話をしてあげることのできる人であってこそ、良い人間の部類に入ることができます。家庭と国と世界に負債を作らない人にならなければなりません。過ごしてみればそうなのです。考えてみなさい。そうではありませんか? (そうです)。
その次には、何でしょうか? 思想的に影響を与える人です。母親と父親の立場で息子・娘に影響を与え、周囲に影響を与え、国に影響を与え、世界に影響を与える人です。分かりましたか? (はい)。(一九七八・一・二、アメリカ)
3 子どもの生涯に対する父母の責任
私たち人間はだれでも、胎中時代を十カ月間過ごしてから生まれ、物資の供給を十分に受けてもう必要ない、完全に形態を整えたというのです。第一の父母の懐から第二の父母として生まれるのが出生です。
さあ、それではその間ここでは何をするのでしょうか? 父母が引き受けて人間としての勉強、人とならなければならないというのです。人間とはこういうものだと言って供給してあげるのです、すべて。父母が生きる世界で、このような人になれと供給してあげるのです。教育したりするのは、すべて父母を中心とした人によって供給される生涯です。生まれる時なのです。父母が供給してあげるのです。父母の国、父母の世界が供給してあげるのです。父母を通して全部供給してあげるのです。分かりますか? (はい)。世界を代表し、その次には世界の中で国を代表し、国の中で家庭を代表し、家庭の中で父母を代表して全体を供給してあげます、全部。ここに合うように。全部合わなければなりません。合うよう供給するのです。だから皆さんは良いものを供給しろというのです。
これが完成したら何をしなければならないでしょうか? ここで全部供給した後は、次に何をすべきでしょうか? 愛を中心とした横的な基盤を連結させるのです。それが何であるか分かりますか? それが結婚だというのです。父母は結婚するときまで、理想的な結婚をする時までの責任を持つのです。さあ、それでは結婚をして何をするのでしょうか? 結婚とはいったい何でしょうか? お母さんとお父さんが愛してきたものを引き継ぐのです。引き継ぐことなのです。分かりますか、何の話か? (はい)。
また、その次には何を引き継ぐのでしょうか? 自分をどれくらい愛し、どれくらい愛さなければならないのか、ということを引き継ぎます。教訓的なすべてのものを引き継ぎます。父母からの愛を・・・。父母があまりにも深く愛してくれたので、その愛を引き継ぐのです。また、私が愛され、愛されたことを知り、愛することのできる人になるというのです。愛されていることをはっきり知り、愛することのできるしっかりとした人になるのです。自分が愛を完全に受けることができ、完全に与えることのできる人になるのです。それが一人の完全な男性として、女性として成熟することです。(一九八〇・一・二〇、ベルベディア修練所)
皆さん、考えてみなさい。皆さんは、男性あるいは女性として生まれてきましたね。さあ、これからどうなることでしょうか? どうなるのでしょうか? 将来、どうなるでしょうか? 女性は手を広げて何かを一つ求めなければなりません。男性も手を広げて求めなければなりません。相手を捕まえるためにそうするのです。
さあ、それでは男性はなぜ生まれたのでしょうか? 女性と出会うためにです。また女性はなぜ生まれたのでしょうか? 男性と出会うためにです。だから、自分自身についてみれば、父母が私を男性として産んだのは女性に会わせるために・・・。父母が私を産むようになった動機もそこにあるのです。同じなのです。産んでくれたことも、結局は男性と女性が会うようにするために産んだのです。だから父母も自分もだれもが皆願うのです。結婚することを願うというのです。
そうして何をするのでしょうか? 父母になれというのです。お母さんとお父さんになったら何をしろというのでしょうか? なぜ? 何を必要とするからですか? 変わらない愛を実現することができるからです。男性と女性が会うことによってはじめて変わらない父母の愛圏を発見でき、悟ることができるので、父母もそれを願わずにはいられないのです。お母さんとお父さんも、子女が結婚することになれば、結局は自分から去っていくだろうに、それを望むのはなぜでしょうか? より次元の高い父母の深い愛を、そこでまた蘇生させることができるからです。結婚することによって、子女を産むことによって、それができるからです。この愛だけは変わらないというのです。分かりましたか? (はい)。(一九七四・一一・一〇、ベルベディア修練所)
子女が成長したら何をしますか? もし夫と妻が一つになれば、彼らは神様の愛を受けた経験を土台として、家庭に愛の伝統を立てることでしょう。彼らは夫と妻として生きていくようになるでしょうし、それぞれが経験した愛を通して、愛の伝統を立てることでしょう。初段階で、個人は神様から縦的な愛を受けます。それから夫と妻として一つになるようになれば、彼らは互いに横的に愛を授け受けするようになります。その次に、子女を産めば、縦的な愛が注がれるのです。夫婦が子女を産めば、子女に対する神様の愛を体恤するようになります。(一九七一・一二・一四、トロント)
4 愛の教育は父母から
愛というものはどこから来るのでしょうか? 愛が自分から来るという道理はありません。愛とは相対から来るのです。これを知らなければなりません。愛はどこから来るのですか? (相対から来ます)。相対がいなくなる場合には、愛は来ることができません。神様も、私たち人間を中心として見れば相対的でしょう。男性の前の女性も相対的であり、また、父母の前の子どもも相対的です。愛というものは、相対なしには成されないのです。これを統一教会では「三対象の愛」と言います。
三対象の愛を体恤できない者は、完成した神様の愛を代身して体験したという立場に立つことができないのです。そうなるのです。分かりますか? (はい)。神様がアダムとエバを創造して喜ばれたように、自分も息子・娘を産んで同じくらい喜ばうというのが統一教会の原理の教えです。神様がアダムとエバをつくって喜ばれ、「これから世界を主管するようになるぞ。わが家が世界の中心家庭になるぞ。早く大きくなれ、すくすくと大きくなれ」と言いながら、希望を持って保護育成する中で喜びと満足を感じながら、彼らが育って結婚する日を願われたのが神様の願いではなかったでしょうか? これと同じく、お父さんとお母さんは息子・娘を立派に育て、素晴らしい相手を選んで良い夫婦にしてあげなければならないというのです。良い夫婦を結び合わせてあげれば、その家は滅びますか? (栄えます)。栄えるのです。
これと同じだというのです。神様と一つになり「神様がアダムとエバを創造して愛されたように、私たちも神様のその愛を手本にして息子・娘を愛さなければならない」と言いながら、どこにでも連れて行こうとし、いつも抱いて行こうとし、出勤するときも連れていこうとし、ご飯を食べるときも一緒に食べようとするなら、そんなお父さんとお母さんを息子・娘が嫌いますか、好きになりますか? (好きになります)。
友の中の友はだれでしょうか? 隣の町のもじゃもじゃ髪の男の子が自分の息子・娘の友達ではありません。友の中の友はだれかと言うと、まさしくお父さんとお母さんだというのです。このようにならなければなりません。皆さんはこれを知らなければなりません。先生はそのような意味で、なるべく子どもたちを車に一緒に乗せて清平にも連れて行こうとします。それで人々が悪口を言うのです。あの人は朝から晩まで、どこにでも子どもたちを連れて歩こうとすると言ってです。だからこういうことを言うのです。友達よりももっと好かれる父母にならなければなりません。そうでしょう? そのように考えなくてはならないのです。
友の中の友であり、先生の中の先生だ、こうならなければなりません。だれがですか? (お母さんとお父さんです)。お父さんとお母さんがそうならなければなりません。お父さんとお母さんが「おい、おい、お前そんなことをしたらだめだ」と言い、先生が「おい、こいつ、やらなければふくらはぎをたたくぞ。それではだめだ」と言って、エンエン(表情をされる)と泣かせるのは良くありません。愛の教育をしなければならないのです。「おいおい、お前、それでいいのか?」と言われたら、「そうだ、私がこんなことをしたらお母さんとお父さんが悲しむからいけないんだ」というようになっているのです。このように教育しなければならないのです。ですから父母は子どもにとって友の中の友であり、先生の中の先生にならなければなりません。
エデンの園のアダムとエバに友達がいましたか? アダムに友がいたならだれですか? エバしかいません。その次には? 神様しかいません。天使長とは友にならないように願っていたのです。そうではないですか? 天使長は僕なのです。それなのに間違えて友になって滅びたのです。ですから何ですか? 先生の中の先生であり、友の中の友であり、その次には愛の中の愛にならなければなりません。そうではないですか?
愛は神様から始まるのです。だから、結局、相対愛もだれに基づいているかと言えば、父母に基づくのです。それゆえ、父母が「おいおい、お前たちが好むのはお前たちゆえではなく、父母の恩徳によるものだ」と言うとき、子どもたちが「お父さんとお母さんが私をこのように育ててくれて、このような相対をもらってくれなかったら大変なことになっていた」と言うようでなければなりません。それゆえ、恋愛結婚は落第だというのです。分かりますか? (はい)。
その愛の教育はだれから受けなければならないでしょうか? 父母からです。お父さんとお母さんが一つになって、ハトのように楽しく「クククク」と愛し合うのを見て、それを手本にしなければならないのです。「おい、うちのお父さんとお母さんがあんなに仲良くしているのを見ると、僕も一人では寂しい。僕もお母さんとお父さんのように、ククククと愛し合える相対が必要だ」こうならなければならないし、父母はそうなるように教えてあげなければなりません。そうなれば、その息子・娘たちは父母が行ってきた真の愛を反復するようになるので、世界は善なる世界になり、人類歴史は善なる歴史になるのです。そうですか、そうではないですか? 統一教会でこれをやろうというのです。分かりましたか? (はい)。(一九七二・五・二九、中央修練院)
5 信仰指導も父母の責任
皆さんの子女たちもいつかは原理のみ言を聴くでしょう。そうしたら、聴いただけで放っておいてはいけません。彼らが十代の青少年の時に原理のみ言を聴いたなら、聴いてから、原理の範囲と内容を口では認定するかもしれませんが、(彼らが)対社会関係で影響を与えられる水準までは理解できません。そこまで至るためには、必ず時間的過程を経なければなりません。少なくとも二十歳を越えなければならないというのです。ところが、十五、六歳の時に原理のみ言を聴いた子女たちに無関心のままでいて、彼らが二十歳を越えたなら、その中間過程で原理の内容とは掛け離れた生活形態を模索するようになるというのです。
まして、私たちは今、家庭を主として活動するのでなく社会を主として活動しているので、若い子どもたちはそれに対して批判したり軽視しがちな活動体制を持っています。このような実情にあるだけに、父母たる皆さんが子女たちに責任を持たなければなりません。
ですから、子女が十代の時に原理のみ言を聴いたなら、聴いて知ったことだけで放っておかないで、家庭でお父さんとお母さんが息子・娘を友達のように思って討論もしろというのです。一週間なら一週間、ひと月ならひと月に一回ずつ信仰生活における何かの問題を中心として、息子・娘は父母に父母は息子・娘に、質問し合い答えながら討論をしろというのです。そうすれば家庭で十代の青少年時期に聴いたその言葉が、それで終わるのではなく、二十代に入ってからは、その原理のみ言を生活環境に適用できるのです。そうなるように皆さんが面倒を見て、足場を整えてあげなければならないというのです。
ところが皆さんはこれができずにいます。教会に出てくることだけで終わるのではなく、家庭の中でも普遍化しなければならないのに、これをなおざりにすることによって・・・。教会に来てはああだこうだと言うのに、家庭の中ではああだこうだと言わないというのです。それでは、私たちの家庭が他の家庭の模範にならなければなりませんが、そのような刺激を与えることのできる動機はだれがつくらなければならないでしょうか? 息子・娘はつくることができません。父母がつくらなければなりません。(一九七〇・六・四、前本部教会)
6 息子・娘を神様の前に
たとえサタン世界で生きるとしても、天に対する気概と志操は守らなければならないというのです。自分が育てている息子・娘をお父様の子どもだと思ってきましたか? またさらに、自分と相対がお父様のものだと考えてみましたか? 私の父母、私の先祖、私の民族、私の国をそのように考えてみましたか? 無知なこの地上の人間たちは、天がこのような基準に向けて動くという事実を知らずにいます。静かに考えてみなさい。うそか本当か。よく考えてみれば、本当だというのです。(一九五九・一一・八、前本部教会)
それゆえ、皆さんが持っている物をだれのものとして考えなさいって? 天のお父様のものだと考えなければなりません。息子・娘はだれに捧げなければなりませんか? お父様に捧げなければなりません。イエス様を代身して、天のために忠誠を尽くせる息子・娘に育てなければなりません。
父母になったら、どういうことをしてでも、息子・娘が統一教会の正道を行くようにしなければなりません。そうしなければいけません。(一九六九・六・八、前本部教会)
カインの家庭を早く復帰しなければなりません。それは、カインの世界において孝行するのでなければ、将来ここに帰ってきてはなりません。地方に行って、日本全国に行って孝行する者を捜し、伝道をしなければなりません。時がくればそのような人は動いてきます。また、兄弟がともに互いに愛し合う人を捜しなさい。そのような人を選び出しなさい。このように考えると、皆さんも家族を連れてこなければならないはずです。妻は夫を、夫は妻を。
父母同士、本当に死んでもこの道を行かざるをえないということを知ったとすれば、子どもを神様の側に連れて行かなければなりません。父母の使命を果たせないのは、分からないからであり、知ったなら祭物としてでも連れて行かなければなりません。それはむちで打っても善なのです。(一九六五・一〇・九、東京教会)
皆さんの財産と皆さんと皆さんの息子・娘すべてを神様の前にお返ししなければなりません。お返ししてまた神様の名で・・・。今までこれはサタンの名で汚されたものなのです。全部きれいにしてお返しして、もう一度伝受されなければ、皆さんは地上で天国生活したという基盤がないのです。そのようにしたならば、皆さんの地上天国が始まるのです。分かりますか、何の話か? 皆さん自身の地上天国基地がそうして生まれるのです。神様の所有権を中心として。サタンの所有を復帰する復帰的条件ではないですか? それが何の話か分かりますか? 今までそれができなかったのです。それがまだ清算できていません。清算できなかったというのです。
王は旧約を意味し、息子は新約を意味し、父母は成約を意味するのです。この三つが一つになれば、本然の神様の位置に進むというのです。そうすることによって、自分の所有が始まるというのです。(一九八四・四・二九、イースト・ガーデン)
愛を持って生きる人も最後には死にます。愛の実を結んで、必ず死ななければならないのです。そうせずしては、その愛が自分のところに帰ってこないのです。
例を挙げて言えば、二つの実を考えてみることができます。その種をまけば、このごろ春になって畑を耕してその種をまけば、芽が出てきてすくすく成長するでしょう? 今の季節は葉がたくさん出ます。いろいろな葉が出てきます。自分の種別に該当する葉と枝が伸びていきながら、その間から花が咲くのです。花が咲いて実を結ぶのです。その実を結んではじめて主人の喜びとなるのです。
同じことです。農業をする人の実が何かと言えば、収穫することではないですか? 神様も同じです。私たち人類という種をまいたとき、その種をまくとき男性だけまいたでしょうか、男性と女性合わせてまいたでしょうか? (合わせてです)。男性と女性合わせてまいてみたら、そこから赤ん坊たちが芽のように出てきて木になり、文氏なら文氏、朴氏なら朴氏、すくすく幹を伸ばしながら東西南北に枝を伸ばし、春夏秋冬の季節に合わせて葉が出て花が咲くのです。うまくいく家もあるし、だめな家もあるし、うまくいかないと夏でも葉がやせています。葉が生い茂っている時は夏で、その時はうまくいっているようですが、秋になったら散ってしまうのです。葉が散っていくからと言って悪いことではありません。葉が散っていくことによって、そこに隠れていた実が熟する時には、葉が落ちることが喜びになりうるというのです。何の話か分かりますか?
その実を取った主人は、いくらその木が雪に埋もれて死んだようになっても希望があるのです。「お前一つからこのような実を取って、さらに千万倍わが園を緑で包むことができ、実を取り入れることのできる果樹園を作ることができるであろう」と言うのです。堂々たるものです。
それと同じく、愛の道には必ず実がなければなりません。その実は何ですか、人間にとっては? (子女です)。子女、その子女をどうしなければなりませんか? 自然に返さなければなりません。自分の息子・娘ではありません。人間たちは宇宙の主人の前に実を取り入れ、それ自体を繁殖させることのできる共通の責任を背負ったのです。
それゆえ、その子女を国の倉庫に納めなければなりません。自分の倉庫に入れ、自分だけ食べて消耗させながら喜ぶのではなく、その中で一番良いものを国の倉庫に運んで納め、国の園の種になってほしいという考えを持たなければなりません。それがいわゆる、子どもが国の重要な人になってほしいという父母たちの心なのです。そうですか、そうではないですか? (そうです)。(一九八八・五・一七、釜山教会)
統一教会に入ることで何をしようというのでしょうか? 神様の形状に似ようというのです。それが栄光の日です。その次にはアダムとエバの形状に似ようというのです。これが希望です。だから皆さんは「先生に似よう」という話をしているのです。それゆえ、似てくるにつれて神様は、アダムを愛したように自動的にそのよく似た孫を愛するようになっているというのです。愛されようとする必要はないというのです。ここからは帰っていけません。アダム一代だけからは帰って行けません。必ず三代を経て帰るのです。なぜ? 天地の道理が三段階だからです。分かりましたか? (はい)。
人はいつ死ぬべきでしょうか? 息子・娘を皆結婚させて、その次には孫までも結婚させてから逝く人が栄光を受けて逝く人です。何の話か分かりますか? それゆえ、三代を愛そうというのです。三代を愛することができなければならないというのです。また、人は父母の立場にも立ってみて、息子・娘の立場にも立ってみて、その次には神様の立場にも立ってみなければなりません。神様の立場に立とうとすれば、孫がいなければならないのです。なぜですか? 神様とアダムとエバが縦的な関係なら、ここの横的な関係から生まれた息子・娘は何でしょうか? 孫です。そうではないですか? 神様とアダムが一つになるなら、横的だというのは、左右では息子・娘です。アダムとエバが一つになれば息子・娘が生まれるのです。三代でこのようになるのです。
だから孫の時から四方に送られるのです。そうではないですか? 四方に・・・。三代からそうなのです。(一九七八・一・二二、ベルベディア修練所)
7 父母の責任は重い
さあ、夫として夫の責任を果たしましたか? 家庭の夫たち、あなたたちは責任を果たしたのかというのです。教会や何かの責任はさておき、妻に対する責任、子どもに対する責任、自分の一族に対する責任を果たしましたか? 恥ずかしさを感じなければなりません。恥ずかしさを感じなければならないのです。みっともない面構えになって、落第してお母さんとお父さんが近所に来てとがめるのは嫌だという連中は滅びなければなりません。犬や豚にも劣るというのです。そのとがめを聞かなければならないのです。それを甘受する人は希望があるのです。それを忌避する人は滅びるのです。ぽろぞうきんでさえ腐れば肥やしになるでしょう。(一九八三・四・一〇、本部教会)
今、皆さん自身もそうですが、これから祝福を受けた家庭は息子・娘たちをしっかり育てなければなりません。しっかり育てなければならないのです。元来はこの世の中に対して完全に垣根を作り、接触できないようにして育てなければならないのです。ですから父母の責任はいかに重要でしょうか? 父母がそれについては頭を使わなければならないというのです。
私たちの時代はきれいな血統、きれいな血統、きれいな血統を・・・。それが理想的です。それが理想ではないですか? 皆さんの息子・娘が頭がいいのは、その夫婦がどれだけ愛し合ったか、どれだけ希望を持って愛して産んだかによって聡明な子が生まれるのです。深い美の性稟を持って生まれるというのです。皆さんの息子・娘は皆さんより優秀でなければいけないでしょう? それではどうやって、より優秀な子に産みますか? どのようにしてより優秀な子を産むことができますか? さっき先生が話したこと、その動機は愛ですが、純粋な愛であるほど純粋な子どもを産めると言ったでしょう?(一九七三・五・一二、ベルベディア修練所)
皆さんは今、交替時代にいるだけに、皆さんの方向性をはっきりとつかまなければならないのです。私はどこに行かなければならないか? 実になって、実になったら種になって、このように芽が出てこのように育ち、このような幹と枝になり、そこから根が伸びて花が咲く、そのような公式路程があるのと同様に、統一教会の皆さんもこのように過去・現在・未来の公式路程の軌道を経ずしては、永存できる心情圏に到達できないという事実をはっきり知らなければなりません。分かりますか? (はい)。
そのようになろうと思えば、皆さんは先生を慕ってきたその心を中心として、祝福を受けた夫婦が互いに先生を慕う以上に慕い合わなければならないし、その次に、父母は子どもに対して先生以上に・・・。先生はそれを接ぎ木してあげなければならない責任があります。人間がそのような愛の因縁を失ってしまったので、先生はそのみ旨を中心として、皆さんの体と心を中心として関連した愛圏をつくってあげるべき使命を持って来ました。それゆえ、このような活動をするのです。(一九八六・二・一六、本部教会)
五 父母が残すべきもの
1 何を残すのか
そのような意味で、自分はどのような生涯を残すのかということが問題です。今日、皆さんの生涯についてみるとき、ある者は六十歳に近い人もいるでしょうし、あるいは四十歳を越えた人もいるでしょうし、あるいはとても若い人もいることでしょう。
このような立場で皆さん自身はどんな生涯を残すのですか? 皆さんは、この民族の行く道を心配する心を持たなければならないでしょうし、自分たちが果たすべき使命を自ら感じなければならないでしょう。年取った人は、自分の過去を振り返ってみたとき、自分の過去の生涯には何の結実もなかったことに気がつくでしょうし、今どんなに努力し身もだえしたとしても、自分が考えるその限界点までは至ることができないのを感じることでしょう。しかし、そのようなことを知れば知るほど、感じれば感じるほど、そこで落胆せずに、自分の残りの短い生涯によりいっそう自分のすべての精力を投入し、最後の決着をつけようと決意を固めなければなりません。
年を取ったからと心配するのではなく、残った人生をすべて集約させ、この民族と歴史の前にどのように投入するかという問題をめぐって新たに決意を固めなければならないのです。(一九七〇・九・二七、前本部教会)
自己の一生について見るとき、何を残すべきでしょうか? 何を残しますか? これが大きな問題です。皆さんがこの土台を踏んで立ったとき、堂々としていられるでしょうか? 皆さんが一つの行動でもうまくやったなら堂々とできるでしょう? 一生を生きて、終わりの瞬間に善か悪かと言うとき、「お父様、私はお父様の前に善なる息子です」と言えなければなりません。そのような資格を持った人とならなければなりません。そのような人は、この地上で百勝将軍の栄光を持った、国家と世界の歴史を変革させた英雄よりもっと偉大なのです。(一九七一・七・四、前本部教会)
永遠に残るものは何でしょうか? 善たりうる基準を残しておくことです。統一教会に従う人はそうしろというのです。しかし、それができるかできないかという問題が後に残ります。疲れて昼寝をしてしまったなら、悔い改める人になろうとしなければなりません。間違った心を持ちながらも幸福な人はいないはずです。皆さんはそれを知らなければなりません。(一九六九・六・二二、前本部教会)
よいものを食べ、いい暮らしをする人は世界にたくさんいます。頭のいい人、美男・美女はたくさんいます。あちこちに、あらゆる若者たちが夢として望みうる人はたくさんいましたが、その多くの人々は世界に影響を及ぼせないのです。よいものを食べていい暮らしをしようとするこの世の中で、(私たちは)よいものは食べずにいい暮らしをしようというのです。分かりますか? ひもじく貧しく暮らしながら、いい暮らしをしようというのです。それはどういうことかと言うと、人間と言えば自分の家庭のためであるとか、国のためであるとか、世界のために生きるようになっているのです。
人が生まれた目的は、人生の行く道で必ず何かを残さなければなりませんね? 残すにおいて白頭山のてっぺん、一番高い所に登って精誠を尽くしたと言って残すのではありません。残すことのできる記念物というのは、国民全体が敬うことのできる精神的な面を残さなけれぱならないというのです。
例を挙げて言えば、愛国者がある戦いをして死んだとしましょう。その時、その死んだ所が悲惨であるほど、地形も悪く山が険しいほど、深い洞窟であるほど価値があるというのです。何の話か分かりますか? 価値は反比例するのです。歴史を動かすものは目に見えるものではありません。目に見えないものが歴史を動かしているのです。そうではないですか?(一九八八・八・二八、漢南洞公館)
だから、統一教会員たちは・・・。私は化け物のような人です。人々は私を素晴らしいと言いますが、行き当たりばったりの暮らしが好きで、虚飾が好きではありません。自然そのものが好きなのです。洋服を着てどこかに出かけても、座るときにはふうっとほこりをはらったりしません。糞があるならあるで、よく見もしないで座ってしまうのです。ほこりをはらうなんて、まったく・・・。人が生きることは自然と同じくらい純朴ですか? 虚偽がどれほど多いですか? 分かりますか? (はい)。
統一教会はこのような観点から、真なる愛の道、真なる神様の愛圏内に行くためには、自分を主張してはならないということを知らなければなりません。これは私が実験を通してすべてテストしたのです。
世の中でお金を持っている人は自分の息子・娘たちに残してあげようと包みを包んで待っていますが、世界のために残してあげうるものから先に残しておいてから、自分の息子・娘のために残しておかなければなりません、それが順序だというのです。こんな話は初めて聞いたでしょう? それでこそ連結されるのです。(一九八三・一二・一一、本部教会)
皆さんはこれから成長する子どもたちの前に何を残すべきでしょうか? 「私は民族のために、世界のために生きたことしか残してあげるものがない」と言うとき、これが一番偉大なる遺業です。物質や学博士の看板が問題ではありません。「世界のため生きよ」と、そのような遺言を子どもに残さなければなりません。「お前は大韓民国で生まれたが大韓民国人ではない。お前は世界人だから、世界のため生きなければならない。それだけでなく、天地のために生きなければならない」と言わなければなりません。これは宇宙主義です。このようなとてつもない理念を持っていて、また聞いて分かったという人が、つまらないものであってはいけません。(一九七〇・二、統一産業寄宿舎講堂)
2 残すべき生涯路程
自分はどのような道を行くべきか、ということが問題です。皆さんはこれをよく知らなければなりません。皆さんが祈祷するにおいて、ある者は外的環境を恋しがりながら祈祷することでしょう。そのような人は外的世界に流れていくことでしょう。自己の利益を追求してきた人々は、統一教会から皆離れていきました。国と民族と人類のために、未来世界の一人の開拓者としての使命を完結させ、神の真なる因縁を連結させようという皆さんにならなければなりません。
そこでは、だれかが見ていてくれるところに価値があるのではありません。見えない中で、深い内的な心情の骨髄において神様と因縁が結ばれることを思うとき、だれかが見ていても見ていなくても、神様と因縁を結ぶために自分一人で血と汗を流し、責任を持って苦労の道を行くことのできる人とならなければならないのです。そのような人々によって、新しい天的な摂理の因縁が結ばれるのであり、歴史的な勝利の基台が築かれるのです。皆さんはそのような立場に立ってはじめて残されうるのです。
それゆえ、祈祷するにも、人知れずしなければなりません。精誠を尽くすときも人知れず尽くさなければなりません。終わりの日になれば、頭に油をぬって密室に入って祈祷しろというのです。世の中に、風が吹いて揺れが起こり、すべてのものが崩れ落ちるとしても、私自身がはっきり残されるそのような歴史的因縁でも残してから死ななければならないはずです。これがまさに統一教会員たちが生きるべき生涯であり、残すべき生涯路程なのです。
皆さん、残してあげるものは何ですか? 愛する息子・娘に遺物として残してあげるにおいて、すっかり使い古した、捨てるしかないぞうきんの切れ端を残してあげる父母はいないというのです。自分が精誠を尽くして培った物、お母さんとお父さんだけが知っている宝物、そのような宝物を残してあげるのです。良い物をすべて選んで売りはらい、使い道のないような物を残すのではなく、すべて売ったとしてもこれだけは最後まで残しておき、それまで売った全体よりもっと価値があるように思う、そのような宝物を残してあげるというのです。
それが何でしょうか? 宝物として残したものが何でしょうか? 宝物それ自体が問題ではありません。その宝物に宿っている父母の愛、鉄石のように精誠を尽くしたその父母の心と一つになって、その心が自分の父母だけでなく、世界と天地を感動させ、歴史的人物たちを屈伏させられる精誠を尽くした心が宿っているとき、これが歴史上にない偉大な宝物なのです。(一九七〇・九・二七、前本部教会)
3 真なる息子・娘を残して逝かなければならない
人間の生涯の精力をすべて注いで息絶えるとしても、その燃えて残った愛の津液(生物体内から染み出る液)を一つの実として残して逝こうと言わなければなりません。そうやって生まれた息子・娘を残して逝かなければならないのです。そのような息子・娘が生まれましたか? 駄犬の子、駄犬の子が生まれました。それを連れてきて先生に見せてあげようと、プープー・・・。恥を知らなくてはなりません。勝手に生まれ出たものたち・・・。(一九八六・六・一、中央修練所)
4 愛の墓を残していこう
皆さん、ひたすら心に残さなければならないのは本然の理想圏の愛です。その愛を中心とした真なる血統的基準、真なる愛の一念による理想的家庭、理想的社会、理想的世界、理想的天国理念が、私たちが本来の心の基から千年万年歴史の悲運を経てきながら呻吟し屈折を経てきたそのすべてのものの解怨、解放のかなめです。(一九八六・六・一、水澤里)
皆さんが何かを残したいとき、何か仕事をよくして、大学をつくって学校を残すことも皆良いですが、何を残すべきでしょうか? 愛を通した実績と基盤を残せというのです。そのほかにはないのです。( ? )
私の生涯で何をすべきでしょうか? 愛の墓を残して逝こうというのです。それが結論です。愛の墓を残して逝こう! 今、愛の墓の中で生きても恨みがないというのです。墓のようなところでいくら悲惨な暮らしをしても、愛の中で生きるなら恨みはないというのです。分かりますか? 生きているときに愛の墓を残して逝こう! そうすれば人生は、永遠の成功を収めるのです。皆さんがそのように生きて死ぬときは、神様が祝福してくれるでしょうし、神様が息子・娘を連れてきて歓迎することでしょう。そのときには、指輪をはめたことのない手なら、天の国のダイヤモンドをはめてくれるでしょうし、良い服を着られなかったなら天の国の皇族たちが着る最高の服を着せてくれることでしょう。
世界中の人々もこれを知ったなら、だれもがこの愛の墓の中で暮らそうと、塀をも越えて入ってこようとすることでしょう。悲劇のようなことが頻繁に起こります。極めて悲劇のような所から、極めて幸福な位置に入るようになることでしょう。そのようなことを知っているので、先生は今までこのような活動をしてきたのです。分かりますか、何の話か? (はい)。
自分の一生で何を残すのですか? (愛の墓です)。そのように心得て、忘れないようにしなさい。さあ、一度そのように生きてみようという人は手を挙げてみましょう。皆挙げましたね。神様の祝福が皆さんとともにあることでしょう。(一九七八・三・一二、アメリカ)
以上 み旨にかなった子女指導 2004.02.03 裏道